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遺伝子プール gene pool



■引用

中川米造, 19750501, 『医療的認識の探究――増補改題』医療図書出版社.
(pp202-203)
 ブロディがとくに重視するのは、右にのべた、各レベル間の内での機能的独自性である。それぞれのレベルは、独自の環境をもつこととともに上・下位のレベルが環境的に働く。そこで、各レベルは機能の自己維持が、おこなわれるが、同レベルの環境との間で、その限度を越すと、上・下へと影響をあたえて、変化をおこす。それが時間的階層性において設計されている場合は、生理的な変化(発達・成長・進化)として現象するであろうし、どのレベルの自己維持系によっても阻止できぬ変化ならば死、その中間段階として病気がおこると考える。ブロディは、病気の場合の破綻の拡散は、下方への方が速やかで上方にはおこりにくいという。しかしおこらないのではない。
 たとえば、素粒子レベルに放射線があてられれば、原子レベルで電子励起と電子脱出がおこり、分子レベルでDNA鋳型の変化をおこし、細胞内器管のレベルで遺伝子の突然変異が、細胞レベルで分化方向の撹乱が、組織・器管・系統レベルに発育障害が、個人レベルでは、複合的協同的肉体・精神の活動性の抵下が、家族レベルには感情的外傷が、公共体レベルでは、病人への資源ふりむけが、文化・亜文化レベルでは伝統的価値への挑戦、社会―国家レベルでは資源への挑戦(再配分と福祉)、人類レベルでは、遣伝子プールからの個人の喪失(再適応)、生物圏では資源流失がおこるといった工合である。[p203>
 このような階層性は、最近かなり再認識されつつある。とくにシステム的な認識は、部分と全体との中間構造を特に注意するので、システム論者のなかに階層性をとりあげるものが多い。しかし、単にレベルを分けてみただけでは、生命自体の特質は明らかにならないし、レベルそのものが右にのべたように、これも明確にとらえ難い。とすれば、階層的認識とは、階層を判明に区分するより前に階層的性格自体が、検討されねばならないであろう。


中川米造, 19770215, 『医の倫理』玉川大学出版部.
(pp50-51)
 人間が、予想もつかないような将来の環境変化に対して、人類としての種を存続させるためには、現在は「望ましからざる」因子を含めて、できるだけ多様な遺伝子を人類として保っておくことが必要だという考え方もある。細菌では、突然変異が多く、環境の変化があるとそれに耐える個体が残り、種の存続が保障せられるが、高等動物では、突然変異はごく稀なので、多様な遺伝子を全体として保存することが必要なのだという。S・H・ホールデンや、T・ドブザンスキーなどが、そのような意見である。
 例えば、アメリカで排除の対象とされた、鎌状赤血球貧血症も、たしかに現在では、貧血という望ましからざる面が注目されているが、地方においてこの遺伝子をもつ個体は、マラリアにはかかりにくいという特性をもつことが知られている。かつて、マラリアは人類の最大の脅威であった。そのような時代の場所では、鎌状赤血球貧血症の因子をもつのは、むしろ望ましい。他にも、二、三事例が[p51>あるが、単純に自然的過程に手を加えてよいという論理にはつながらない。
 そうした高遠な理論的考察よりは、現実の社会資源を考えるべきだという意見もある。遺伝子プールの重要性を指摘したドブザンスキーも、別の場所では「人間の生命は神聖視さるべきである。しかし、ある種の遺伝的変異に対する社会的費用はあまりにも大きく、彼らの社会的貢献はあまりにも少ない。彼らの出生を回避することは倫理的にも容認できるし、また、もっとも賢明な衛生法である」と言い、ベントリー・グラスは「突然変異や染色体の事故、先天的に外傷やビールスによる遺伝的不祥事による障害を、社会は大きな費用をはらって、支援しなければならないが、さらに不幸が増大することから自分自身を守る権利は全くないのか、重症の欠陥をもつ胎児を流産させることを義務的にすべきではないのか」という。遺伝学者の多くは、社会防衛的な立場から、遺伝相談の立法化を勧告してきた。世界保健機構も、すこし前までは、そのような原則にたって、研究にとりくんできた。しかしながら、最近は、社会防衛論は控え、個人的な問題への助言として、すすめるように勧告している。「遺伝相談員は、決して将来の世代の利益のためにつくられた計画の実施者ではなく、直接患者の利益に関するものである……。」しかし、利益とは何なのか。これも単純には解釈できない。


◆Singer, Peter ; Walters, William A. W. eds. 1982 Test-Tube Babies: A Guide to Moral Questions, Present Techniques, and Future Possibilities, Oxford University Press(=19831024, 坂元正一・多賀理吉訳『試験管ベビー』岩波書店).
(pp167-169)
 受胎の過程に技術の介入を許せば、自らの子孫を思いどおりにデザインしていく道を開き、ひいては次の世代の体格(文字どおり)や性格を設計できる道を開くものであろう。アメリカのプロテスタントの神学者、ポール・ラムゼイは、生殖過程への介入はすべて、人間性を奪うものであると主張している。[p168>
 彼は、「人類の将来の世代が、生物学の技術や新しい型の生殖法によって作り直さなくてはならない患者であるとみなされた場合」には、医学倫理および倫理全般に対して一体どのようなことが起こるであろうか、となかなか詳しく論じてきた(*1)。このような技術的介入は、一九三〇年代に、人類の望ましい特質の存続を保証するために精子銀行を提唱した、ヘルマン・J・ミューラーの優生学的政策に一部通じるところがあると、彼は考えている。技術が確立されたいま、選ばれた男性の精子を用いて選ばれた女性の卵子を受精させ、それから得られる胚を第三の女性の子宮に移植したり、人工胎盤を利用しようと試みることは技術的には不可能ではないと思われる。精子、卵子、受精卵を凍結保存し、将来それを利用することもできるだろう。
 同様な可能性は、もちろん、現在生殖過程への最も極端な形での技術的介入を代表しているとみられるクローニングによってもおこる。一九七八年にマスコミによって人間のクローニングと報道されたものはまだフィクションの段階に留まっているから、クローニングは、人間のレベルでは、単なる可能性でしかない。クローニングでは、遺伝物質は一人の人間からのみ採取され、結果は遺伝的な生きうつしであるから、精子の注入や受精はまったく欠けている。クローニングの目的は、自らの遺伝的構成を継続させたい人間によって、あるいは優生学的な政策の一環としてその遺伝子プールの改善をはかる社会によって、望ましいと考えられる特質を継続させることであろう。[p169>
 このような過程の結果として受胎し誕生する人びとは、ある意味では、「創造された」人間であろう。しかし、この種の創造行為は、避妊から、奇形児や望まない性の胎児を中絶するための、羊水穿刺のあとの中絶にいたるまで、現在利用できるさまざまな技術を用いて、多くの夫婦が行なっているネガティヴな創造行為と、どのように違うのか、誰しも疑問に思うだろう。その根底にある目的が、自分の子孫を設計するという意味で創造することであるのなら、われわれは、場合によっては、もうそれに近いことをしている。しかし、いま述べたような種類の方法と体外受精・胚再移植の利用との間には、明らかに実質的な違いがある。現在、これらの過程が臨床に応用される場合、求められていることは、せいぜい出生を積極的に促進することくらいであろう。確かに、人間の技術的介入なしには起こりえないようなことが起こってはいる。しかし、結果として生まれる子供はその程度までしか「創造される」にすぎない。このレベルでの体外受精利用への反対は、論証できる根拠に基づくというよりは直観的な感じでものをいっているように思える。われわれが、生殖力の範囲を広めたり、生殖活動を抑制したりするのに何らかの技術の使用を認めるとした場合、しかもそれがすでに使われているとすると、どのあたりに線をひくべきなのだろうか。
(pp209-211)
 他のすべての人工的な生殖方法と同じく、クローニングも人間の生命の神聖や尊厳に対する敬意を失わせるだろうということも、これまで考えられてきた(*9)。これは、おそらくそれに関係した技術者たちの[p210>間で特にそうであったろう。この考えは「慣れすぎは、悔りのもと」という古い諺に基づいているかもしれない。しかし、これと似た条件は、医療の実際の場においてはいくらでもみられることであり、また医者がそのような条件があるからといって、自分の患者をないがしろにするという証拠はない。
 有性生殖では遺伝的な適応が保証されているが、クローン人間は、有性生殖から生まれた仲間に比べて、変化する環境に時の経過の中でうまく適応できないのではないかという危険性がある。さらに、クローン人間が何世代かのクローニングの後で有性生殖に戻ろうとした場合、多くの有害な劣性遺伝子や突然変異を人間の遺伝子プールにもちこみ、さまざまな病気や奇形を増加させる危険性がある。結局のところ、クローニングは、この方法を実行に移している現世代の人たちに、将来の環境がどのようなものかを予測できないにもかかわらず、将来の世代の遺伝形質を決定する多大な力を与えることになる。したがって将来期待されるにふさわしくない人びとが、クローン化される可能性もあるわけである。これだけではなく、さらに、人類の遺伝的将来に対してこのような力を与えられる人びとの選択に関しても、多くの社会的、政治的問題が生ずるであろう。
 クローニングは、ある状況では、不妊症に対して、一つの解決策を与えるものである。たとえば、排卵がないとか、卵子がないといった女性や、精子のない男性に、彼ら自身の子供を作らせるために[p211>用いることができる(*10)。無精子症の男性は、自分の体細胞からとった核を、妻の卵細胞の核と置きかえることができるし、同様に、卵子の無い女性では、彼女自身の体細胞の核を別の女性から提供された卵細胞の核と置きかえることができるだろう。こうして得られた胚を、さらに成長、発育させるために、核提供者あるいは卵提供者の適切に準備された子宮に移すことができるだろう。
 もし、夫婦の一方が重大な遺伝的欠陥をもっている場合、もう一方の親の遺伝物質を使うクローニングによって、この遺伝的欠陥が子孫に伝えられるのを避けることができるだろう。実際、クローニングは、人類の遺伝子プールの悪化を防ぐことを目的とした計画の一部として、有性生殖を補うために将来必要となるかもしれない。


Singer, Peter ; Wells, Deane 1984 The Reproduction Revolution : New Ways of Making Babies, Oxford Univ. Press(=19881120, 加茂直樹訳『生殖革命──子供の新しい作り方』晃洋書房).
(pp247-250)
 もう一つのよく連想されるイメージは、狂気の科学者が新しい種類のスーパーマンやスーパーウーマンを作り出しているというものである。これはクローンが原型のコピーであって、改良ではないという事実を見過ごしている。だから、クローニングによっては普通の性的生殖によって作り出される個体よりもすぐれたものを作り出すことはできない。もちろん、狂気の科学者が1,2のすぐれた個人をとりあげ、これを大量に複製する、という恐れはある。しかし、その個人はどのような点ですぐれているのであろうか。現代の世界においては専門化が極度に進んでいるので、個人があらゆる点ですぐれていることはありえない。最もすぐれた走者をクローンした国は、金メダルを得るまでに約20年も待たねば[p248>ならないであろう。そして、その時までには、もっと異なる体格の方がすぐれていることがわかるかもしれない。最善の場合には、クローンされた選手たちはしばらくの間は、もちろんリレー競技を含めて、彼らの原型である選手が勝利をおさめたであろうすべてのトラック競技で勝利するであろう。彼らは栄光の瞬間あるいは栄光の年月を享受し、ある日、敗れるであろう。おそかれ早かれ、性的生殖の偶然の過程がクローニングの原型になった人よりも関連する点においてすぐれた身体的構造を持つ人を作り出すであろう。
 ある国家が最もすぐれた科学者や思想家をクローンすると決定したとしても、状況は似たようなものであろう。クローニングができたとしても、まだ成功したとはいえない。遺伝情報は天才を形成する要素の少なくとも一部であることは想定できるから、クローンされた知性が立派な学術的業績をあげる見込みは十分にあるであろう。しかし、アインシュタインやバートランド・ラッセルのような知性を再生産するには、国家はまず天才が、開花することを可能にするような文化的、教育的環境を再生産する必要があろう。時間の経過と個々の状況の独自性とを考慮するならば、これは不可能であるかもしれない。どちらにしても、遺伝子プールの偶然の変異と不規則な知的生活がおそかれ早かれクローン人間よりも偉大な天才を作り出すであろう。
 クローン人間を大量生産するのは賢明なやり方ではないであろう。クローニングでは遺伝的改良はできない。それの原則は複製であって、変化ではないからである。もちろん、クローン人間を訓練して、[p249>その原型ができなかったような離れ技をさせることはできる。彼らはそういう訓練に適した対象であるかもしれない。しかし、性的生殖の偶然の過程がいずれもっと適した対象を作り出すであろう。そういうわけで、クローニングはヒトの遺伝子プールの自然な多様性にとって代わることはできないのである。遺伝子プールがいったんすぐれた個体を作り出すならば、限定的なクローニングによって、自然の偶発事が一人の個人に与えた資産をおそらく10倍、20倍にも役立つように増やすことはできるであろう。しかし、すぐれた個人を作り出すためにクローニングだけに頼っている国家は結局は二流に落ちるであろう。他の国家では、もっとすぐれた個体が時間がはじまって以来繰り返されてきたような予告できない仕方で作り出されるであろうからである。進化に関する限り、異性生殖に代わるべきものはないのである。
 これまでわれわれは、クローン人間はやはり個人であることを特に強調してきた。多数のクローンたちは身体的には一卵性双生児のように似ているであろうが、人格の類似性は彼らの育ちや環境が類似しているか否かによって影響されるであろう。だから、クローン人間の大量生産の行なわれる世界は、女性たちが五つ子、六つ子などを次々に生みその兄弟たちが引き離されて別々の家庭に養子にもらわれていく世界に似ている。そこで問題になるのは、そのような世界が今われわれが生きている世界よりよいか悪いかである。その答えは部分的にはこのような大量の出産が文明に何を貢献するかにかかっている。しかし、この貢献は、クローンされた個人が人格、才能、性質等において似ている程度に応じてどの社[p250>会にもある多様性のプールを減少させる、という事実と比較考量されなければならない。多数のクローンがいく組かあっても、多様性の減少は取るに足りない程度であろう。この取るに足りない損失と彼らの貢献とを比較考量しなければならない。しかし、社会の多様性が実質的に侵害されるならば、まったく望ましくない結果が生ずるであろう。
(pp260-261)
 クローンされた個人を作ることを正当化するための残された理由は、自分をクローンしたいと願う個人の欲望にではなく、稀少な価値ある能力を持つ人々の数を増大させることによりわれわれすべてが受ける利益に根拠をおく。これは単一のクローニングよりも多数のクローニングを指向する。特別の能力を持つ個人が一度だけしかクローンされないのであれば、期待される利益はかなり減るからである。例外的な才能を持つ人のクローンを20人、50人、あるいは100人だけ「限定コピー」し、国中に広く配分するならば、遺伝子プールの不可欠の多数性を深刻なほど減少させることなしに、利益を最大にすることができるであろう。
 クローニングのこの形態は多数のクローンの産出をともなうので、オーストラリアおよび英国のガイドラインの認める範囲外にある。このことは驚くべきことではない。クローニングそのものにまつわる心配に加えて、それは人類の遺伝的構造を改善する試みという非常に微妙な問題を提起するからである。この試みが望ましいという合意が得られた場合にのみ、クローニングがそれに取り組むための正しい方[p261>法であるか否かを考察することが適切になるであろう。
(pp290-291)
 ここで一度立ち止まって次のことを確認しておくのがよいであろう。それは、われわれが論じていることはだれもがおなじみである人間の行動と程度においてのみ異なるが、種類においては異ならない、ということである。人類の遺伝的構造はわれわれが認めようとするよりずっと大きく個人の選択によって決定されている。個人が他の人ではなくある人を結婚相手として選ぶ時、その個人は未来の遺伝子プールに影響を及ぼしている。背の高い人が背の高い人を、特に魅力的な人がやはり天賦の才能に恵まれた人を、スポーツの得意な人がスポーツの得意な人を、芸術家が芸術家をしばしば選ぶということを否定するのは愚かなことであろう。われわれは時に遺伝的影響のことをきわめて慎重に考える。結婚相手の選択をする時、われわれはしばしば、ある特性を持つ人が子供たちにとってのよい母親あるいはよい父親になる、という考えを心の奥深くにひそませている。しかし、これが配偶者を選ぶ時にわれわれが心に浮かべる最後のことであるとしても、われわれの選択はやはり次の世代の遺伝的構造を決定するであろう。
 新しいのは遺伝工学が可能にするであろう介入の程度である。歴史がはじまって以来、個人の慎重な考慮の影響を受けてきた遺伝的な選択は、ずっと危険の少ないゲームになるであろう。以前にはるかにまさる程度まで、生殖にあたる世代はその後継者の遺伝的構造を決定することができるであろう。問題[p291>は、だれが次の世代の遺伝的構造を決定すべきか、にある。
 遺伝工学の個々の形態が望ましいか否かについての意見の不一致を取り扱うのに、中央立案型のアプローチと自由放任型のアプローチがある。
(pp294-295)
 前章において後まわしにした問題、つまり特別の能力を持つ人々の選択的クローニングも同じ仕方で取り扱うことができる。クローンされた個人の適応の問題に目配りをすることに加えて、委員会はまた[p295>一個から作られるクローンの数とクローニング一般の範囲を厳密に制限する。こうして、ヒトの遺伝子プールの多様性が有害なほど減らされるという危険を回避することができる。
 このような委員会は、それが許可する遺伝工学の方法とクローニングが認められた個人とに関して、どのような具体的な決定をするだろうか。委員会はおそらく知性を増大する申請を許可し(しかし、慎重に少しずつ)、知性を減少させるような申請―あればの話であるが―は拒否するであろう。委員会はおそらく社会の未来の構成員の健康を増進する申請には賛成し、この健康を危険にさらすような申請はしりぞけるであろう。委員会はある肯定的な特性(たとえば身体的な力)を作り出すための遺伝工学の利用でさえも、それが否定的な特性(たとえば心臓発作を起こしやすい体質)をともなっていると考えられる場合には、許可しないであろう。科学者が利他心あるいは悪意と結びついている遺伝子をたまたま発見したとしたら、委員会は前者のための申請を許可し、後者のための申請は許可しないであろう。しかし、委員会が決してすべきでないのは、何をなすべきかについての積極的方向づけである。委員会の機能は拒否権の行使に限定されるべきである。われわれの見解では、遺伝子プールの積極的内容の選択は、これまでいつもそれを行なってきた人たち、つまり親たちの領分に依然として属するべきなのである。


Glover, Jonathan 1984 What Sort of People should There be ?: Genetic Engineering, Brain Control and Their Impact on Our Future World, Penguin Books(=19960108, 加藤尚武・飯田隆訳『未来世界の倫理――遺伝子工学とブレイン・コントロール』産業図書).
(pp23-24)
 未来の世代の遺伝子構造を変えるには、基本的に三つの方法がある。まず第1の方法は、環境的変化による方法である。医学上の発見、国民健庚保険の設立、政府の貧民救済計画、農業の変化、あるいは子供の多い家庭の税率変更など、これらはみな、遺伝子が淘汰される割合を変えている(1)。(略)
 第2の方法は優生学的政策によって、子供を生むパターン、あるいは生き残る人々のパターンを違う遺伝子によって変えてしまおうとすることである。優生学的方法は環境的方法でもある。違いは遺伝的影響が意図されているということだけである。(略)[p24>
 第3の方法は遺伝子操作である。一続きのDNAを加えたり取り除いたりする酵素を使用することである。
 環境の変化による副作用の一つとして、遺伝子プールに変化が生じるということについては、少なくともその変化が悪化でなければたいていの人は心配したりしない。そして環境要因によって遺伝子プールに望ましくない遺伝子の割合が増える場合ですら、しばしばそれを受け入れる。国民健康保険の設立が、そのままでは死んでしまっていただろう遺伝子的欠陥をもったある人たちに、生き延び、子供を生むことを可能にする治療を与えたということを意味していても、この保険に反対する人はほとんどいない。おおよそでわれわれは自分たちが行うことの多くが遺伝子に影響を与えるということを不安なく受け容れる。意見の対立は、われわれが優性学や遺伝子操作によって意図的に遺伝子を変化させようということを考えるときに始まる。私は、遺伝子操作との関連で最もよく検討されるのは意図的介入であるということを示す前に、優性学的政策に関して簡単な所見を述べておきたいと思う。


加藤尚武, 1986, 『バイオエシックスとは何か』未来社.
(pp133-135)
 中川 いまの鎌型赤血球でいえば、あれは酸素の吸収が悪いために、病気に対して抵抗力が少ないんですよね。しかしただ一つ、マラリアに対してだけは、絶対的に強いんです。
 加藤 一度マラリアの大流行があって、何とか生き残った人々が、その鎌型血清の遺伝子を濃縮したんでしょうね。[p134>中川 そうです。そのためにやはり黒人に多いわけです。地中海沿岸とかアフリカとかね。結局、人間というのは突然変異を非常にしにくい動物なんですね。昆虫などですと、環境に応じてどんどん突然変異をしては、その環境に適応できる状況をつくっていく。ところが高等動物、とくに人間というのは、突然変異が殆んどできない。だからいろんな遺伝子をプールしてもっているんだという考え方もあるわけです。
 そう考えますと、確かに今は鎌型貧血症の人たちは飛行機にも乗れないとか、高山に登ったらひっくり返っちゃうといったことはあるけれど、またマラリアの大流行があったとしたら、その人たちを通じて遺伝子を分け持っている人が助かっていくわけですから、人類全体を温存していくためには、そういういろんな遺伝子をもっておく必要があるわけです。そういう考え方というのは、人は皆平等である、差別はないんだという考え方に立った哲学なんですね。功利主義になっちゃうと、どんどん弱い人間を切り捨てていくことになる。[p135>加藤 遺伝学者の本庶佑さんなども、そういう遺伝子の情報をプールしておかなくてはならないとおっしゃってますね。それから変な話ですが、"恋は盲目"というように、恋をする人間は、功利的・打算的でない判断をしてしまう。それは人類にとっては良いことであるともいえます。皆がすべて功利的・打算的な配偶者の選択をしていったら、人類は非常に偏った遺伝形質の方向にだけ濃縮されてしまう。恋が盲目であるためにバランスがとれているのであって、これは神様の知恵であるという説もあるんです(笑)。


米本昌平, 19870630, 「遺伝病スクリーニングと優生学の狭間」長尾龍一・米本昌平編『メタ・バイオエシックス――生命科学と法哲学の対話』日本評論社:20-40.
(pp37-38)
 遺伝病スクリーニング技術の発達、なかでも胎児診断とその結果にしたがって選択的中[p38>絶を積極的に行なうことは、"優生学的な社会"へつながる危険な選択であるという指摘は繰り返しなされてきた。ここで議論をはっきりさせるために、"優生学的社会"という言葉であらわそうとしているものを三つのタイプに集約して考えてみたい。
 まず最も狭い意味で、優生学を、人間の遺伝子プールにおける病的遺伝子の頻度が増大することをおさえたり、これを積極的に排除することを指すものとすると、これまでみてきた遺伝病スクリーニングは、病気の発現をおさえるのには効果があるものの、遺伝子頻度の増減には、計算上ほとんど何も効果を及ぼさないことがわかっている。
 第二に、優生学をいま少し広義にとらえ、先天異常の患者の医療費を社会的負担として経済計算にのせることまでの意味を含むとすると、政策としてのスクリーニングの一部は優生学と判定されてもやむをえない側面が出てくる。とくにアメリカでは、政策選択の評価基準に、先天異常のスクリーニングの費用とこれを行なわなかった場合に生じる患者にかかる医療費の比較計算を行なうという、功利主義的な前提で議論を行なっている。
 第三に、優生学的社会の意味が、このような政策選択によって、遺伝決定論的な人間観がいっそう蔓延し、人種主義的社会やナチズムのような強権政治へ結びつくという主張だとすると、ここには明らかに論理の飛躍がある。たしかにこのような社会の再来は断固阻止しなければならないし、このような警句を発する旧世代的な感覚を健全なものと認めるにはやぶさかではないが、遺伝病スクリーニングを容認することがこのような強権政治への引き金になるという指摘は、欧米におけるこれまでの体験を例にあげることで簡単に反撃されてしまう。


森村進, 19870630, 「生物技術・自由主義・逆ユートピア」長尾龍一・米本昌平編『メタ・バイオエシックス――生命科学と法哲学の対話』日本評論社:113-138.
(pp119-120)
 遺伝病への対策は、これまで考えてきたようなスクリーニングによる妊娠の回避や中絶によるものだけではない。直接に遺伝子を操作することによって遺伝病を治療するという方法も、理論上は考えられる。もっとも、遺伝子治療が近い将来実用化される可能性は乏しいといわれる(米本A=二九-一四〇頁。なおWSOP,pp.28f.も参照)。だが、かりにそれが可能になったならば排斥する理由があるだろうか。グラヴァーは、それは他の医療の方法と同様に、本人の同意を条件とすれば差しつかえないと考える(WSOP,pp.29,31)。
 それどころか欧州会議が一九八二年一月二六日に採択した「遺伝子工学について」という勧告は、強度の遺伝病に対しては本人の同意がなくても遺伝子治療を行なってよいという考え方さえ示している(米本A一四三、二二一頁)。これは一見、本人の自律を軽視しているように見えるかもしれない。しかし、遺伝病は単に当人だけでなく将来の子孫にも伝えられるものだから、子孫が受ける重大な害を避けるために強制的に治療するのは、自由主義と両立しないパターナリスティックな考慮にもとづくわけではない。[p120>
 【積極的遺伝子工学】
 グラヴァーはさらに進んで、いっそう議論の余地のある、それゆえに根本的ともいえる問題をとりあげる。それはたんに遺伝病の阻止や治療という消極的な目的でなく、望ましい遺伝的形質を持つ人間を積極的に生み出すための遺伝子工学の是非である(*8)。
 遺伝子工学が遺伝子型の変更によって遺伝子形質を選択し、あるいは変えることを可能にした暁には、それを用いて、われわれの子孫に望ましい形質を与えることは許されるのではないか?この考え方に反対する人々は多いかもしれない。その反対の理由をグラヴァーは、一つ一つ批判的に検討している。
(p127)
 (*8)本節の以下の議論では、WSOP以外には、積極的遺伝子工学に懐疑的なブロディ・前掲書第一五章「遺伝工学」がたいへん参考になった。ただし後者では、積極的遺伝子工学は「積極的優生学」とよばれているが、ブロディの「優生学」とは、遺伝子プールの改善ではなく、個体レベルで、秀れた個体を作り出しあるいは劣った発生を回避する遺伝子工学の実践面である(同書二四八頁)から、米本C三七-三八頁の「優生学」の三つの特徴づけのいずれにも、ぴったりとはあてはまらない。


◆Pence, Gregory E. 1990,1995,2000 Classic Cases in Medical Ethics: Accouts of Cases that Have Shaped Medical Ethics, with Philosophical, Legal, and Historical Backgrounds McGraw-Hill Companies, Inc., Ney York, 3rd Edition 2000(=20000323, 宮坂道夫・長岡成夫訳『医療倫理1――よりよい決定のための事例分析』みすず書房).
(pp257-259)
 「健全な遺伝学」とは、ホームズ判事や彼と同時代の人々が理解していたものよりはるかに複雑である。遺伝学についての重要な情報のうち、当時はまだ知られていなかったものや、正しく理解されていなかったものがある。そのためいくつかの誤った考え方が生じた。
 知識が欠けていた一つの領域は、劣性遺伝についてである。ある特質が劣性の場合、それが発現するのは、ホモ接合体だけ、つまりその異常の原因となる遺伝子を対として持っている人だけである。(略)[p258>
 知識の欠けていた第二の領域は、遺伝の複雑さについてである。一九二七年、優生学者をはじめとする多くの人たちは、一つの遺伝子が一つの形質を決定すると仮定していた(その見解では、三七八の形質を持つ人は、三七八の異なる遺伝子を持っているはずである)。これが誤りであることは現在でははっきりしている。(略)
 知識の欠けていた第三の領域は、突然変異と染色体の切断・再統合についてである。優生学者も含めて当時の人々には、遺伝学のこれらの側面はまだ知られていなかった。そのため、精神遅滞の人たちに生殖行為を禁止するなら、精神遅滞を人間の遺伝子プールから除去できると考えたのだが、これもまた現在から見れば誤った考え方である。 
 知識の欠けていた第四の領域は、正確にどの形質が遺伝するのかを決定する問題に関わる。どれが遺伝しどれが遺伝しないのかについてほとんど何も知られておらず、このこともまた誤った仮定を生み出すもととなった。(略)今日でさえ多くの場合、遺伝形質と獲得形質を区別することは難しい。(略)
 知識の欠けていた第五の領域は、集団遺伝学に関わるものである。優生思想の目的は、選択的繁殖によって人類を完全なものにすることだった。しかしそれ以降の集団遺伝学の成果が示しているのは、平均への回帰が生ずるということである。〈平均への回帰〉とは、集団が安定しているとき、その構成員の性質が時がたつに連れて平均値へと戻っていくという、集団固有の傾向を意味する。集団遺伝学においては、この傾向のために、ある集団において平均値を生み出す原動力が逸脱値を最終的には正常化するとされている。(この現象[p259>は、野球のデータ、株式市場、連続した幸運、多くの子供のいる家族での子供の身長、さらには人間のクローン化によって人類を改良しようという試みに特によくあてはまる。)
 最後に、優生学者やその同時代の人たちは、ある欠損を取り除くのにどれくらいの世代を経過しなければならないのかを知らなかった。彼らには、発現していない遺伝子を持つことと現実にある形質を持つことの区別がわかっていなかったので、ある欠損の発生率を一パーセントから○・一パーセントにまで下げるのに二二世代が必要であり、さらに皿○○万分の一の発生率にまで下げるには何百世代も必要だということを、計算することができなかった。


Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books and New York: Routledge(=20000725, 高橋さきの訳『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』青土社).
(pp118-119)
 包括適応度に関連した諸概念――血縁淘汰、性淘汰、親の投資――は、古くからの議論に改めてスポットを当てる結果をもたらした。選択が生じうるのは、いったいどのレベルなのだろうか?(Wynne-Edwards, 1962; Trivers, 1971, 1972)そしてとりわけ、社会集団は選択の場になりうるのか? なりうるとすれば、その集団は、遺伝的、生理学的に個体と類似したある種の超個体(スーパー・オーガニズム)ということになるのだろうか? ――といった議論が再浮上したのである。社会生物学の答えはノーであった。というより、そうした問題提起の仕方自体が、もはや意味をなさなかったというべきだろう。遺伝に関しての社会生物学の計算は、遺伝子、そして遺伝子の組み合わせにとっての最大化戦略をめぐってのものである。現象のオーダーを問わずとり扱いが可能で、性を持たない個体から、繁殖ペアが一組しかいないカスト構造の昆虫社会や、多数の繁殖個体がいる役割分化の進んだ社会まで、一つ一つがどのオーダーの現象なのかは、さしあたって重要ではない。本体たる対象は、遺伝子――リチャード・ドーキンスが「複製子」と称したもの――であり、この遺伝子が、遺伝子プール内に存在しているのであった。社会生物学は、あらゆる行動の分析を、究極の説明レベルとしての遺伝子の市場という観点から行った。
 身体も社会も、結局のところ、自己の再生産上の利益を最大化するための複製子の戦略にすぎない。見[p119>かけ上、個体間の協調と見える行動も、遺伝子レベルで長期の費用便益分析を行ってみれば、完璧に合理的な戦略であるかもしれない。こうした分析には、政治経済に直接結びついた数学ツールの開発や応用が必要とされ、そうした科学が必要とする工学的需要も呼び起こされる。二〇世紀後期の政治経済と自然経済の新たな様相は、これらの分野が、高度に錯綜したさまざまな組み合わせ形態を理解するという共通の課題に直面していることであり、こうした錯綜した形態が、多国籍企業の利他行動やリベラルな共同責任といった現象とともに、資本主義に内在する競争の基盤を見えにくくしている。


◆佐倉統, 19920525, 『現代思想としての環境問題』中央公論社.
(pp42-43)
 環境というのは、この各階層について想定できるものである。遺伝子には遺伝子の環境がある。〈自分〉と同じ遺伝子座を占めている対立遺伝子はどんな遺伝子か? 隣の遺伝子座は何の遺伝子か? 同じ染色体の上に重要な遺伝子があるか?……、これら全部、遺伝子にとっての環境である。マラリアに対抗性のある鎌型赤血球の遺伝子は、劣性ホモだから、自分と同じ遺伝子と遺伝子型をつくるときのみ、鎌型赤血球の遺伝子は表現型効果をもつ。その遺伝子にとっては、個体の周辺にマラリア原虫が多いかどうかという個体の環境だけでなく、ヘテロ接合かホモ接合かという遺伝子の環境も重要なのである。
 同様に、細胞にとっても器官にとっても、そのレベルでの環境は、それらの振舞いに大きな影響を与えている。個体発生の段階で体内環境が変わっていれば、以後、異なった発生過程を通ることになるだろう。私たちの体、生命体というものは、遺伝子や細胞の環境をパックして運んでいることになる。[p43>よりマクロのレベルでは、個体群にとっての環境や、遺伝子プールにとっての環境というものも考えられる。マラリア原虫の個体群や遺伝子プールにとっては、鎌型赤血球をもった人間(の個体群や遺伝子プール)が多いか少ないかというのが重要な環境である。
 こうして、生態学においては、環境は空間的に連続した大きさの次元をもつ。そして、細胞は遺伝子にとっての環境であり、同時に器官を構成する要素でもあるというように、環境であり構成要素でもあるというホロンの関係として環境はとらえられる。
(pp48-49)
 生物学において、多様性と要素間関係の時間軸に沿った変遷を扱う分野は進化生物学である。進化生物学と生態学は密接な関係にあって、現在、進化生態学という分野すらあるほどだが、進化論と環境問題複合体はあまり交流が盛んではない。今のところ両者の接点は、生物種の保全に関するものだけである。つまり、どの程度の遺伝子プールがあれば絶滅しないのか、という問題について、進化生物学者が分析を行なっているにとどまる。[p49>
 環境問題複合体が進化生物学的な視点を十分採用していない理由の一端は、環境問題複合体の側に、時間軸を視野にいれた論議が少ないことである。また、進化生物学の側にも、現在のような環境問題複合体を扱うための理論装置を積極的には開発してこなかった、という責任がある。
(pp124-126)
 どうやら、ミームのプールと遺伝子プールの間には、微妙なフィードバック・ループがあるようだ。つまりミームは、遺伝子の制約からはある程度の自由度を保ちながら、その頻度変化には一定の制限が加えられている。逆に、文化が遺伝子の変化に影響を与えることもある。残念ながら、この過程はまだ十分には解明されていない。
 人間の文化が動物の文化と著しく異なるのは、遺伝的な適応からの独立性の高さにある。人間以外の動物の文化に関する現在までの研究によれば、遺伝子プールとミーム・プールの独立性は、[p126>人間において圧倒的に大きいのだ。たとえば、北アメリカにすむスズメの仲間のさえずりの方言を研究したエヴァン・バラバンは、方言の違いが遺伝的な変異とよく一致することを明らかにした。鳥の方言による文化的な適応度は、遺伝的な適応度とよく一致するのである。一般的に、動物の文化は図14の(a)か(b)のパターンが多いと考えられる。
 ではなぜ、人間の文化は遺伝子のくびきを断ち切ることができたのか。それは人間が二本足で立って歩くからである。人間の独自性は、すべて直立二足歩行から始まった。
(pp131-134)
 さて、文化が拡大し、肥大し、超越したのはいいとして、なぜ遺伝的な適応と反対の現象が多いのか。文化的適応と遺伝的適応が、一致したり中立関係を保ったまま文化が拡大してもよかったのではないか2実はそれは不可能だったのだ。
 遺伝子は、進化するのに時間がかかる[図18]。長い世代を経なければ遺伝子頻度が変化することは不可能だ。人間の場合には、数千年から万年単位の時間が必要である。それに対して文化は、進化の速度が速い。つまり、遺伝子の時間尺度[p132>と脳の時間尺度は大きく異なっている。したがってもし脳が、遺伝子にとっては不利な形質を獲得し、拡散させたとしても、遺伝子プールがそれを察知して排除するまでには、とてつもなく長い時間。がかかる。
 誘蛾灯は、蛾の脳ではなく人間の脳が発明した物だが、蛾の遺伝子プールは、まだ誘蛾灯に対抗する有力な戦略を開発していない。あれは、平行光線である太陽光や月光に対して一定の角度で飛ぶ、という蛾の方向定位の性質を利用した物である[図19]。蛾のほうは、誘蛾灯に捕捉されないように方向定位のパターンを変化させればいいのだが、しかし、誘蛾灯が出現したのは、蛾の遺伝子プールにとってはあまりにも最近の出来事なのである。
 これと同じことが、人間の文化でも起こっている。人間の行動の中から、遺伝的には非適応的なものを探し出すのは容易である。避妊法、有害な添加物、麻薬といわずとも酒にタバコ……。遺伝的な繁殖と個体の生存を妨げるものは、あまりに多い。これらはすべて、人間の脳が短い時間で生み出した変化に、人間の遺伝的組成が追いついていないことから生じている。人間は、自らの誘蛾灯を次々に発明しているのだ。
 人間の病気にも、そのようなギャップの産物と考えられるものがある。たとえばアレルギー。アレルギー反応は、通常、免疫系の機能異常と解釈されるが、カリフォルニア大学バークレー校の生化学者マージー・プロフィットによれば、外界の毒物(とくに植物の二次生産物や寄生虫)に[p133>対する防御手段の最終線とみなせる。アレルギーは、大昔には適応的な形質だったのである。しかし人間は、脳の産物である文化によって、アレルギー反応に適さない〈環境〉を作りだしてしまった。
 ニューヨーク州立大学ストーニー・ブルック校の進化生物学者ジョージ・ウィリアムスとミシガン大学医学校の病理学者ランドルフ・ネスは、このように解釈できる例をいろいろな文献から探し出してまとめている。たとえば妊婦のつわりは、食欲を落として毒物摂取の可能性を低める機能があり、ある種の発熱には菌やウイルスを殺す作用がある。つまり、病気が異常で健康が正[p134>常なのではない。少なくともいくつかの〈病気〉は、石器時代の環境に適応した人間の遺伝子プールと、脳の産みだした現代の環境とのギャップ現象なのである。〈異常〉なのは、現在の〈環境〉なのである。人間が作った〈環境〉が、病気を病気たらしめているのだ。


ましこ ひでのり, 1996, 「『聾文化宣言』の知識社会学的意義」『現代思想・臨時増刊ろう文化総特集』24(5):78-81.
(pp78-79)
 「デフ・コミュニティ」の特異性は「コミュニスト」も自覚しているとおり、家族/地域共同体を自明の前提にしない特殊な再生産システムにある。周囲をとりまくマジョリティ言語=音声言語とは別個の言語体系を共有し、それに付随する独自の文化/歴史に帰属意識をもつ点では世界中のマイノリティ音声言語と共通するが、大半がおやの言語知識をひきつがず家庭のそとのネットワーク(聾学校その他)に依存穿る点では、あきらかに異質な性格をもつ。クレオールと同様、これは音声共同体を自明としてきた社会諸学科の基盤(たとえば「母語」概念など)を根底からゆるがすのてある。先天性聾者[p79>が突出した確率で出現した孤島で、コミュニティの住人のほとんどが、聴力の有無にかかわらず手話でむすばれていたというケースが実在した(グロース『みんなが手話で話した島』)。しかし先天性聾のおおくが劣性遺伝で、特定遺伝子をもった両親がそろわないかぎり出現しない性質のものである以上、遺伝子プールが隔離されないかぎりしりあいのなかに聾がいるケースは少数派といってさしつかえない(聾者同士のこどもも聾とはかぎらない)。くだんのしまも一九世紀以降の急速な社会変動もあいまって手話共同体であることをやめてしまった(先天性聾の出現率が他地域なみにおちこみ、聾がマレな存在に転落した)。現代社会において、そういったコミュニティが自然発生/復活するみこみは皆無といってよい。「デフ・コミュニスト」たちが危惧するように、普通児/障害児統合こそ民主的といった、一見ラディカルな姿勢が聾学校廃止に利用されたら、最大の再生産装置をうしなうことだろう。
 つまり、「おとのある世界」から突然きりはなされてうまれでてくる(両親もおおくは最大の理解者とはならない)という意味で、いわば「えらばれた民」であり、またその運命的なであいのばとして学校という「結節点」を必要としている点は、マイノリティ出身のインテリゲンツィアにちかいものがある(教師の大半が独自文化の抑圧者だった点でもにている)。しかも聾者は、リテラシーを自明の前提としている現代社会のなかで、みずからの手話だけではたちいかず、マジョリティ言語、とりわけかきことばもみにつけるバイリンガルになるしかないという点でも、インテリゲンツィアと共通点がある(盲人とことなって、イリテラシーはマジョリティ社会からの致命的疎外をひきおこすからだ)。
 しかし、それほど重要なリテラシーにもかかわらず、それが「外国語」であるという点は強調しすぎることはないだろう。手話がマジョリティ言語から「外来語」として借用してきているとはいえ、別個の体系であることにはちがいはないからだ。じまえのモジ体系はない(手話の実用レベルでのモジ化に成功したケースはないはずだ)。音声言語とちがってゲリラ放送をじまえでやることもむずかしい(コンピュータで動画をおくることは大変)。手話ビデオ交換のラグをかんがえれば、マジョリティのモジを借用して、ファクシミリ/電子メイルというのが実用的というものだ。「デフ・コミュニスト」のうったえは、大衆的には直接的な対面コミュニケーションにかぎられることになり、マス・メディアを実現しようにも、パソコン通信はモジにたよらないわけにはいかない。「デフ・コミュニスト」がインテリゲンツィアとして、「民衆」から遊離するおそれ=ジレンマをいつもはらむのは、この点である。


Silver, Lee M. 1997 Remaking Eden, Sanford J. Greenburger Associates Inc(=19980530, 東江一紀・渡会圭子・真喜志順子訳『複製されるヒト』翔泳社).
(pp264-266)
 初期胚を人間と同等とみなしていない人々が、胚の選択に反対する理由はいろいろ考えられるが、どれも、優生学の枠のなかで分類することができる。優生学。なんとも恐ろしい言葉だ。だが、そもそも優生学とはなんだろうか?なぜ、これほどまでに忌み嫌われているのだろうか?議論を続ける前に、この問いに答えておかなければならない。
 残念ながら、その答えはそう簡単に出せるものではない。社会学者のダイアン・ポールはこう述べている。「『優生学』という言葉には不快な響きがあるが、言葉自体の意味は漠然としている。事実、この言葉は、使い手の政策や、策略や、意図や、その結果を示すよりも、使い手の姿勢を示す度合いが強いことがしばしばある。優生学に関する公の場での議論がうわすべりになるのは、ひとつには、多様で、ときに矛盾をも含む語義のせいであり、結果として、議論そのものがかみ合わなくなりがちなのだ」
 もともとの意味としては、優生学は、社会が市民の生殖活動を管理することによって遺伝子プールを改良しうるという考えを指している。アメリカでは二十世紀初頭にこれを実践しようとする動きがあったが、その結果、知能が低い(と思われた)とか、体が不自由だとか、犯罪を犯す素質がある(と思われた)とかの理由で、遺伝的に劣っていると判断された人々が、不妊手術を強制されることになった。そして、望ましくない遺伝子を持つ寄生虫のような人種であると考えられていた東欧や南欧からの移民(本書の著者の四人の祖父母もそのなかに含まれている)の制限を目的としたきびしい移民政策の立法化によって、さらなる「アメリカ人の遺伝子プールの保護」が実践された。その二十年後、ナチス・ドイツが、望ましくない遺伝子を持つ人々の抹殺(一世代において)を企てたときに、[p265>これよりさらに思い切った手段に出た。第二次世界大戦後、優生学の実践を図的としたこの種の誤った試みは、差別的であり、凶悪であり、人間が生まれながらに持つ生殖の自由に関する権利を侵害するものであるとして、全面的に否定された。現在では、「優生学」は、明らかにけがらわしい言葉になっている。
 優生学は、元来、すばらしい「結果」(社会全体の遺伝子プールの改良)という見地から定義された言葉だが、現在の用法は、「過程」の段階にとどまっている。この現在の用法では、優生学は、それにもとづいた行為そのものが遺伝子プールに影響を与えるにせよ、社会全体、あるいはその構成家族が遺伝子の支配権を行使するにせよ、世代から世代に受け継がれる遺伝子を人間が支配するという概念になっている。この定義に従えば、スクリーニングの実施は、明らかに優生学的な行為である。優生学がいまわしいというのなら、当然、スクリーニングもいまわしいということになる。
 この論理が誤りであることは明白であるにもかかわらず、現代の評論家たちが、生殖遺伝技術を批評するとき、この論理を頻繁に使っているのは注目すべき点だ。さきごろ出版された『理想の探究/人種改良への道』(The Quest for perfection: The Drive to Breed Better Beings)では、さまざまな生殖技術の実用化を批判するために、このテーマが幾度となく使われている。だが、単に何かに優生学のラベルを貼りつけるだけなら、問題にはならない。ナチスの優生学計画が誤りであるのは、それが大量殺人であったとからいうだけでなく、ある人種の断種を目的とした計画的な大虐殺だったためだ。アメリカでの断種法の施行が誤りであるのは、それが、罪のない人々の生殖の自由を制限するものだったためだ。そして、ある特定の国々を対象にした移民制限政策が誤りであるのは、それが、ある特定の民族を直接的に差別することをねらいとしているためだ。今挙げたなかで、将来の親による自発的な受精卵診断の実施に当てはまる誤りはひとつもない。[p266>いったん、この優生学のからくりから離れてみれば、不安をかきたてるラベルをはがしたうえで、胚スクリーニングをめぐる倫理的な問題を考えることができる。私が意図しているのは、通常の体外受精での任意の胚の処分ではなく、遺伝的選択に関する問題の議論であることをもう一度強調しておきたい。
(pp269-271)
 胚の選別が世界中で利用可能になり、その利用が一般的に認められるようになれば、遺伝子プールは急速にその影響を受けるだろう。まず最初に、テイ・サックス病や、鎌状赤血球性貧血や、嚢胞性線維症といった命にかかわる病気に共通する対立遺伝子の受容細胞全体がほぼ完全に排除される。
 このような対立遺伝子、あるいはそれ以外の対立遺伝子は、「遺伝子プールにとっての隠れた利点」を提供する可能性があるので、排除するのは誤りだと主張する人がいる。これは、「自然律」に関する議論の別の見解であり、これらの対立遺伝子は、ある一部の人々に害を及ぼすものであっても、人類全体にはなんらかの利益をもたらすからこそ存在しているという考えにもとつくものだ。彼らは、一つの種に属するすべての個体は遺伝子レベルで共存していると信じている。
 この見解に、現実的な根拠はない。これは、遺伝子プールとは何なのか、そして、なぜ私たちはそれに留意すべきなのか、あるいはすべきでないのか、ということへの誤解から生じたものだ。遺伝子プールという概念は、動物や植物の個体数を研究する生物学者が、数学的モデルを開発するための道具として考案したものだ。これは、ある特別な遺伝子の特別な対立遺伝子が、交配するすべての個体のなかに現れる頻度として算出される。
 健康な人間のほとんどは、テイ・サックス病や嚢胞性線維症の保因者ではない。そして、もし選択権を与えられれば、誰も、その保因者になるように自分のゲノムを変えようとは思わないはずだ。[p270>従って、私たちは、いったい何を根拠に、自分が拒否した遺伝子型を他人に押しつけることができるだろうか?そんな根拠はどこにもない。遺伝子は、人間の個体群のなかで機能するのではなく(生物学者が考える仮想的な意味を除いて)、それぞれの個人のなかで機能する。将来の世代のために使われる全人類共通の知識や、特別な対立遺伝子の蓄積は存在しない。
 実際には、ある種がみずからを保存する傾向や根拠さえ、どこにもないのである。私たちの祖先が、進化の各段階(警歯目の哺乳類から類人猿のような霊長類、アゥストラロピテクス、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、そして最後のホモ・サピエンスに至るまで)で、それぞれの種の絶滅に関与していたにもかかわらず、一部の個体は、生き延びることができる有利な遺伝子を得ているのだ。生存と進化は、種のレベルではなく、それぞれの個体レベルで作用している。
 なかには、遺伝子プールや進化といった抽象的な概念について関心を示さない人がいるのと同様に、精神病(好ましくない素因)の遺伝子の排除が、将来のアーネスト・ヘミングウェイやエドガー・アラン・ボーの誕生を妨げることを懸念する人がいる。この懸念は、躁鬱病(別名、双極性障害)と創造的な才能の相関関係に根ざしている。
 たしかに、それは将来の社会的損失になりうる。だが、もう一度くり返すが、すばらしい芸術作品の誕生を期待して、他人に精神病の素質を押しつけることができるだろうか?ある異常な精神状態が社会の利益になると考えられるとすれば、それと同じ効果を与える幻覚剤や精神活性剤を使用(定期的な服用)するほうが、突然変異遺伝子を持つよりはましかもしれない。将来の社会からの狂気の遺伝子の消滅は、あくまでも想像上のことであって現実ではない、ということを指摘しておくべきだろう。躁鬱病の作家エドガー・アラン・ボーがもしこの世に生まれていなかったら、私たちは『大がらす』という作品を読みたいと思うこともなかっただろう。同様に、もし、モーツァルトが三十四歳[p271>で死んでいなければおそらく作曲したはずのピアノ協奏曲の数々を、聴けないからといって悲しく思ったりもしない。
(p.注釈 43)
 269ページ「遺伝子プールにとっての隠れた利点」有害な対立遺伝子が良い結果をもたらすこともある、という考えは、しばしば誤解を生む。この原則の科学的根拠は、鎌状赤血球性貧血を引き起こすヘモグロビンの遺伝子(SC対立遺伝子)に起こる突然変異に注目することによって、わかりやすく説明できる。アフリカの一部の地域では、SC対立遺伝子を持つ人が人口の10%以上を占めている。頻度がこれほど高いのは、鎌状赤血球性貧血の保因者(発症はしない)が、マラリアに対する抵抗力を持っていることに原因がある。マラリアが流行する環境では、鎌状赤血球性貧血の保因者は成人するまで生き延び、子どもにSC対立遺伝子を受け継がせる可能性がより高くなっている。これは、鎌状赤血球性貧血(SC対立遺伝子の2個のコピーによって引き起こされる)に冒された子どもの誕生によって相殺され、SC対立遺伝子を持つ人の全人口に占める割合が高くなるにつれて、鎌状赤血球性貧血の子どもの数も増える。そして最後には、SC対立遺伝子を持つ人の割合は、ある程度まで落ちつく。
 だが、ある個人について考える場合、重要なポイントが見逃されることがある。SC対立遺伝子は、マラリアをもたらす蚊と1度も遭遇していない人には、何の利益ももたらさない。これは(マラリアとはまったくといっていいほど無縁な)北アメリカに住む鎌状赤血球性貧血の保因者が、この対立遺伝子を持たない人より有利な立場にはないことを意味する。反対に、鎌状赤血球性貧血の保因者同士が結婚して、それによって鎌状赤血球性貧血の子どもが生まれる危険を背負う確率はこの保因者が蚊に噛まれてマラリアに感染する確率よりも高くなる。
 個体群遺伝学者は、特定の民族や特定の地域の住民に頻発する多数の遺伝性疾患(嚢胞性線維症、テイ・サックス病、フェニルケトン尿病など)の原因となる突然変異遺伝子が、かつて、保因者にある種の利点を与えていたことを、数学的なモデルによって突き止めたPだが、どんな環境的要因によってこのような突然変異が継続したにしても、これらの利点はもはや存在しない。従って、何世代か後の子孫が、保因者になることを希望する理由も、保因者の地位を望む(これまで確認された数千の疾患の対立遺伝子を持つことによって)理由もないのである。
(p286)
 遺伝子工学は、胚の選択が非難されたときと同じ理由で非難を受けてきた。遺伝子工学は「優生学的な潜在性」のある危険な着想であり、それを利用すれば、人間の自由と尊厳が踏みにじられることになる、という声がよく聞かれる。遺伝子工学は、遺伝子プールに危害を与え、ある世代が選択したものを将来の子孫に強制する可能性があると警告されている。また、それは医療の誤用であり、社会財産の不公平な流出であると言われている。さらに、それは障害者への差別であり、経済的な理由からそれを利用できない人たちにとって不公平だとも、わが子を商品や日用品扱いする冷酷非情な親が使うものだとも言われている。
 新しい生殖技術が出現するたびによく見られることだが、本当の意味での反論は、科学そのものではなく、精神世界のなかにひそんでいる。簡単にいえば、遺伝子工学は「神の領域」を侵すものだという意識が一般の人々のなかにあるのである。そして、私たちが常に言いきかされているように、神の領域は、侵してはならないのだ。


立岩真也, 19970905, 『私的所有論』勁草書房.
「第6章3節1項「環境・遺伝への注目と介入」」
 第2節に述べた場面に来て、個体の改変の契機が──自己制御機構の埋め込みという形で──現れた。だがそれは個体への介入を構成する全体の一部分である。一六世紀以来、社会の状態、秩序と無秩序に関わりを持ち、個人の精神の変容をもたらそうとする動きはあった。だが、例えば怠惰は予めある種の人々に想定される性質であり、そしてそうした想定はしばしば既存の社会の階層的な布置に対応するものであった。それが、一八世紀末から一九世紀、新しい知、新しい技術に支えられ、新しい展開をみせる。現われるのは、生産の源泉としての個体、その総体としての「人口」という把握であり、社会全体の生産についての関心である。そして、なされるのは実際に行為を調べることであり、その者の来歴を知ることであり、また社会的な環境を調査することであり、身体の形状を、また身体の内部を測定することである。人間の行い、それを規定する諸要因についての実証的な科学が生まれる。それは、個々人間の違い、集団間の差異を、個々人の背後にあり、同時に個人に内在する要因によって説明しようとする。単にある行為を問題にするのではなく、行為を派生させる中心へと向かうのである。
 まず貧困に関わる場面では、公的な扶助が私的な利害関心を抑止しないように、あるいはそれを促すように、個々人に対して、その状態を調べ、やむをえない原因による貧困なのか、そうでなく、公的扶助はかえって有害なのか、調べることが主張され、実行される。さらに、個体の性質に起因するとされる貧困、また単に意志・判断能力の有無が問題になるのではなく性向にその原因の求められる犯罪については、様々の悪習がそれを助長しているとされ、さらにそれを助長している環境が指示される。それが調査され、立証され、それに応じた政策的な介入が試みられる。ここに社会調査が誕生する。
 それとほぼ同時期に、少し遅れて、個々人の性質・能力の測定、家系を辿る調査が始まり、性質が生得的に決定されているという言説が現れる。能力に、能力の差異に言及する言説でありつつ、その生得性を主張し、さらに遺伝によって差異を説明する言説が現われる。「社会進化論(Social Evolutionism)」、「社会ダーウィニズム(Social Darwinism)」、「優生学(Eugenics)」、またドイツにおける「民族衛生学(Rassenhygiene)」と呼ばれるものがそれである。スペンサー(H. Spencer, 1820〜1903)らが唱えた社会進化論は、ダーウィンの説を受け、それを人間の世界に「応用」しようとする、社会ダーウィニズムと呼ばれる主張に連続していく。スペンサーの社会進化論、社会ダーウィニズムは一九世紀後半以降の米国等で支持を受ける。また、優生学 eugenics という言葉は、ダーウィンの甥でもあるゴルトン(Francis Galton, 1822〜1911)によって一八八三年に初めて用いられ、特に二〇世紀初頭以降、各国で影響力をもつ思想的・実践的潮流となる。また、ドイツでも、一九世紀末以降、民族衛生学と呼ばれる流れが形成される。
 これらの各々は同じではないし、また、同じ「学派」の中でも、時代によって論者によってその主張内容にはかなりの相違がある。またそこにはもちろんダーウィン(Charles Darwin, 1809〜1882)の進化論──一八五九年に『種の起源』初版が発行される──の影響があるのだが、関係はそう単純ではない。ダーウィン以後の進化論の進展はその主張を支えるものとして利用されたのだが、他方で、ダーウィンの進化論がなければ始まらなかったものでもなかった。その相互の差異、相互の関係を詳しく追うことがここでの目的ではない。ここでは、第一に、人間の生物としての性質、特に遺伝的な性質に着目し、それに関する知見に基づいて、第二に、人そして/あるいは人の集団をよくしようとする、あるいは悪くすることを防ごうとする営みの中に、これらが含まれることを確認しておく。これらの総体をひとまず優生(学)(*24)と呼ぶ。このように広くとることの意味は後に述べる。

 (*24) 現実に起こったことは、学、思想だけであったのではなく、運動であり、実践であり、政策だったから、「優生学」「優生思想」は最適ではない。藤野豊[1993]は「優生主義」の語を用いている。ゴルトンの定義(注21)の他、次のような規定がある。「優生思想は種の利益の思想であり、生命の質は個の利益の思想である。…/種という概念を利益評価の主体として設定しない場合においても、個体の排除をその個体以外の存在者の利益のために正当化する主張を、拡張された優生主義とよんでも良い。」(加藤尚武[1987b:208-209])。「最も狭い意味で、優生学を、人間の遺伝子プールにおける病的遺伝子の頻度が増大することをおさえたり、これを積極的に排除することを指すものとする」(米本[1987b:38]、注43、第7章注08・312頁も参照のこと)。私自身の見方は本節と第9章(4節4)に記した。


◆Julian, Robinson 1998 The Quest for Human Beauty,W. W. Norton & Company. Inc(=20051031, 伴田良輔訳『肉体美大全』東洋書林).<
(pp274-276)
 性と美しさの相関関係の存在についてはますます支持者が多くなっており、いずれはわれわれのDNAが解析されて立証されることになるだろう。いわゆる美を考えるとき、それは単一の考えではなく、必ずセックスの快楽と密接に結びついた考えであり、何かを生み[p275>出すという衝動であると広く認められている。セックスは死に値する罪どころか、自然の摂理によって種が遺伝子プールを再混合させるプロセスに過ぎない、と思われている。
 わたしは、遺伝子が再混合を続けることは、多様な生物学的な攻撃から守ってくれるものであると思う。このことについては、多くの研究者が動物の「美」の形態とその効果が子孫を繁殖させ、生き延びることと密接な関係があると指摘しているからもわかる。これは人間が互いに異なった美の理想とともに生き延びることについても当てはまる。つまりそうすることによって遺伝子の混合を後押しし、混合することは永遠の変化につながることであり、生き延びるチャンスを保証するからである。
 ターナーはこのような考え方をさらに敷衍し、その著書『美価値の中の価値』(Beauty : The Value of Values)の中で、子孫を産み、育てることが成功裏に行なわれることこそ、彼が言うところの「儀式の違い」を強調する、重要なものであると言う。
  見事な儀式を飾る彩り、鳥のすばらしい羽、生殖に好都合な器官、歌やダンス、さらには雌を争う戦いで誇示する立派な角、こういったものは結局は子孫を残すために他ならない。それゆえこのような特性を持つ遺伝子は、他の種から抜きん出るために遺伝子プールに急速に広まる。[p276>
 自然界はこのような儀式的なマーキング、あるいは(こちらのほうがわたしとしては好きなのだが)美の相違点の例に溢れている。それが性の成功に必要とされるからである。またこのようなマーキングと相違点を積極的に認めることによって、われわれは科学の報酬を得ることができる。このことは、脳から血液に直接送り込まれる純粋アヘンのようなもので、科学という名の「ドラッグ」には摂取しても副作用はないという報酬がある。このような報酬は、たとえばA・T・マン、ジェーン・ライル共著『聖なるセックス』(Sacred Sexuality 一九九五)の中で詳説されたクンダリニやタントラといった儀式化された性行為にあずかることでも受け取ることができる。こうした性行為は健康を改善し、セックスを繰り返すことで美しくなることができ、遺伝子プールの再混合を助けることになるのだ。


松原洋子, 2001, 「先端医療技術と優生学--優生学史の視角から」《人間関係学部紀要》(シンポジウム 科学技術は私たちの生命をどこへ誘うのか?)
 上の整理においては「集団本位」か「個人本位」かが、それぞれの段階を特徴づけるポイントとなっている。集団本位とは、1)集団(国家、「民族」、人類、遺伝子プール等)の利益を個人の利益に優先させ、2)原則として自主性を尊重するが、生殖は私的というより公的なものと見なし、3)政策的強制を容認する。一方、個人本位は、1)個人の利益を集団の利益に優先させ、2)生殖を原則として私的なものとみなして、「生殖の自律性」(reproductive autonomy)、親になる者の自己決定を最優先し、3)政策的強制を否定するものである。例えば「科学的優生学」は、「遺伝子プール」の劣化防止や人口資質の低下防止といった集団の利益を念頭におきつつも、古典的優生学とは違い、人種差別や階級差別への警戒や、強制的方法に慎重といった傾向をそなえていた。しかし、集団の利益が基本にあるので強制的方法を採用することを全面的に否定するわけではない。一方、「新優生学」では、個人の利益が優先される。ただし、体細胞クローン人間の産出の是非論にみられるように、個人の要望を追求することが倫理に抵触するという危惧も強まっており、遺伝医療と生殖技術の急速な進展が、かつての優生学とは別の形で公共の利益への配慮と「生殖の自律性」の拡大的適用の制限の必要を要請している状況である。しかし、「生殖の自律性」は生殖の規範を個人に押し付けてきた優生学を克服するための重要な足場として機能してきており、安易に否定すべきものではなく慎重に検討する必要がある。


◆Lock, Margaret 2002 Utopias of health, eugenics, and germline engineering, in New horizons in medical anthropology;essays in honour of Charles Leslie Routledge(=20041101, 押小路忠昭訳「優生学と遺伝子工学のユートピア」『現代思想 特集:生存の争い』32-14(2004-11):190-210).
(pp193-194)
 ここで留意しなけれぱならないのは、科学技術が人類にもたらす自由というユートピアの未来像が、今日まで常に指導権を握ってきたわけではないということである。例えば「暗黒郷(dystopia)」と言った全く正反対の議論によって科学技術は常に批判にさらされてもきた。(略)[p194>
 生物学者ルネ・デュボスは1950年代後半の著作において、「管理統制」の問題についてはあまり関心を示さなかったが、19世紀のユートピアの物語に対し辛辣な批判を展開している。彼は「神も科学も健康の神話の時代を再興することは適わない」(1959)と主張した。そして「健康とは妄想にすぎず、心穏やかな人生を維持することは不可能である」と考えたのである。彼は「健康も幸福も永続的な状況とはなりえない。なぜならば生物学的適合には、常に変化するあらゆる環境へ適応という終点のない取り組みを必要とするからである」と主張している。20世紀以前であったならば既に幼年期に死亡していたであろう多くの人々が今日出産可能年齢まで生き延びている。デュボスはこの事実に関心を示し、これには科学技術の発展が寄与していると考えたのである。彼は道徳的判断を介在させず、純粋に生物学者として、このことが長期的に遺伝子プールに対しどのような影響を与えるかに思いを巡らしている。遺伝子工学に関する現在の議論においては、この懸念には明白な解答が示されている。過激な立場をとる人々は「人類は未来の世代の遺伝子プールから不適当な遺伝子を排除するために積極的な取り組みをする必要がある」と主張している。メイナード・スミス(1988:75)は直ちに「そのような政策に伴う困難さは、実際に全ての人間が次の世代へ伝えるには不適切であると見なされる遺伝子を持っていると言う事実にある」と主張した。「遺伝子プールの新優生学に対してどのように対処すべきか。またこの決定を行う責任を誰が負うべきであるか」、この問いは考えることさえ恐ろしくもある。ファフェンバーガー(1992:495)は世間一般の意見を要約する形で次のように述べている。現代人の眼鏡を通してみた科学技術は、ヒンズーの図像のシバ神のように「創造主でありかつ破壊主であり、未来を約束し、そして同時に文化を破壊する主体」でもある。「我々は自分自身を人間としているものをゆっくりと破壊し、そのことで結果として多くの人々の自由を否定しているのか」、「それとも過去において自分たちの制御の範囲を越えていた自然の力を含む強大な力から実際に自分らを開放しているのだろうか」。この問いに対し今もって根本的な意見の対立が続いている。
(pp195-197)
 優生学が確固とした形で確立したのはアメリカであった。ケヴルズ(1984b:92)が記しているように優生学はイギリスで生み出され、アメリカで法的に確立したのである。当時、科学に造詣が深かった生物学者チャールズ・ダベンボートは、家系図の作成と収集に生涯を捧げている。特に彼の考えでは、貧困・犯罪・とりわけ精神薄弱は遺伝によって伝えられるものであった。彼はこれらの家系の研究に基づいて、問題ある原形質を遺伝子プールから除去するために、それらの特徴を持った人々が子供を産むことを禁ずるべきであると唱えたのであった。ダベンボートの著作は好評を博し、多くのアメリカ人は、彼が理事を務めるコールド・スプリング・ハーバーの「優生学記録局(Eugenics Record Office)」の活動に財政的援助を行っている。優生学は20世紀初期にゴールトンと彼の同僚によって着手された不透明な科学から、急速に重要な政治的運動に変質したのであった。
 優生学運動を積極的に支持したのは主に白人の中間層および中流上層、とりわけ科学者と他の専門職たちであった。同じ時期に日本と中国においては知識人たちが率先して同様な計画を展開すべく運動を展開している(Otsubo and Bartholomew 1998)。初期の優生学者たちの多くが進歩的な社会主義者であったことは、今日考えてみれぱ不可解なことかもしれない。著名な人々の名を上げれば、エマ・ゴールドマン、ジョージ・バーナード・ショー、H・G・ウェールズ、マーガレット・サンガーらがいる。これらの文筆家や活動家にとって優生学とは社会改革の根本原理をなすものであった。(略)[p196>
 20世紀前半を通じて、優生学を支持する科学者たちは「社会的衰退の原因を探り出すこと、そして国庫の負担を強調すること」に関心を示してきた。(略)20世紀初期の優生学に対し用いられたレトリックとヒト・ゲノム計画のそれの間に連続性が存在すると考えて差し支えないであろう。(略)[p197)示した政治家たちの賛同を得て推進されている(Kevles 1992:72)だが1930年代とは対照的に、現代の予知医学の目論見は激しい反対を受けることになった。そのような状況においてドイツ緑の党、カソリック活動団体、英国の保守派たちは以前なら夢想だにされなかったことであろう同盟を取り結ぶことになった。最終的に、ヨーロッパ共同体のヒト・ゲノム計画に資金が供されたとき、予知医学に対する計画はそこから除外されることになった。そしてヒトの胚と生殖細胞への遺伝子操作の禁止が決定したのである。
 フォックス・ケラー(1992:295)やその他の研究者が指摘したように、「遺伝子プールの質の改善」という問題設定はこれらの報告によって公にされたものである。その言説はもはや社会政策、種または集合的な遺伝子プールの利益に焦点を当てたものではない。今日、健康と病気についての意思決定に関わる個人の選択といった概念が重要視されている。遺伝情報は将来的に「「健康への不可譲の権利」を理解するために個々人が必要とする不可欠の情報」を人々に提供することになるであろう。「自由放任的優生学(Laisser-fair eugenics)」(すなわち「ユートピア優生学(utopian eugenics)」)(Kitcher1996)は既に現実のものである。それは個人と家族が行わなければならない決定(それは一般的に遺伝子検査とスクリーニング・プログラムに基づいた人工妊娠中絶に関するものである)に依拠するものである。フーコーの「微視的権力の鉄の支配力」(1980)が作用している。
(pp203-204)
 フレンチ・アンダーソンは著作(2000:47)において再び以下のような警告を発している。
 「……生殖細胞系列移入を行う前に社会の承認をとりつける必要がある。ほとんど全ての医学的決定は患者と患者の主治医との間でなされている。これに対する我々の論拠は「自分の身体は自分のものである」ということである。しかし我々の遺伝子は自分自身のものではないのである。遺伝子プールの所有権は社会全体にある。」
 シンポジウムの参加者たちは簡潔に「遺伝子プールの聖域」について疑問を提起した。ジェームス・ワトソンは次のような意見を表明している。「もし仮に我々が遺伝子を付け加える術を開発し、それによって人間をより優れた存在にすることが可能としよう。だがなぜ我々はそうしようとはしないのであろうか」(2000:79)。これは「何が実際に正常であるか」というあまり意味のない質問への回答である。「人類の進化を管理下におくこと」に関する引続いた議論は、「ヒトの遺伝子プールの神聖さに対する議論を維持することがいかに困難か」という見解においてクライマックスに達したのであった。ワトソンはこの論評に対し意見を差し挟んでいる。
 「それこそヒト遺伝子プールの神聖さであると考えることがいかに馬鹿げているかは言うまでもない。私は次のように述べたい。我々は人類に対し大いなる敬意を抱いている……しかし……進化とは残酷なものである(100年前フランシス・ゴールトンは同じよ[p204>うな意見を示している)……我々は人類の共通の利益を最大化させる方法で人々を治療すべきである(Watson 2000:85)。」


◆Fukuyama, Francis 2002 Our Posthuman Future: Consequences of the Biotechnology Revolution, Farrar. Straus and Giroux, New York.(=20020927, 鈴木淑美訳『人間の終わり――バイオテクノロジーはなぜ危険か』ダイヤモンド社).
(pp92-94)
 人間を遺伝学によってこのように換える前に、克服すべき障害は多い。最初の障害は、問題がとにかく複雑であることだ。そのため、知能や性格などを遺伝子工学で操作することはとにかく不可能だ、と思う人もいる。
 多くの病気は複数の遺伝子の相互作用によって引き起こされる、と前述したが、単一遺伝子が複数の効果を持つこともある。(略)
 たとえば、鎌状赤血球貧血の責任遺伝子は、マラリアに対する抵抗力を与える。そういうわけで、マラリアの発症が多いアフリカ出身の先祖を持つ黒人に、この遺伝子がよくみられる。したがって、鎌状赤血球貧血の遺伝子を補修すると、マラリア―北米の人にはあまり重要でなくても、アフリカでは新遺伝子保有者に有害となる―にかかりやすくなる。(略)[p93>
 ヒト遺伝子工学に対する第二の大きな障害は、人体実験をめぐる倫理学の問題である。(略)
 遺伝子とその表現型での発現の間に複数の因果関係があることを考えると、クローンにつきものの危険は、遺伝子工学の場合、かなり大きくなるだろう。(16)意図されない結果が起こるという法則は、ここでもずばり当てはまる。(略)
 将来、人間の本質を変える可能性に最終的な制限を与えるのは、人口の問題である。ヒト遺伝子工学が、仮にはじめの二つの障害を克服でき、デザイナー・ベビーの誕生に成功したとしても、人口全体にとって統計学的に重要な意味を持つほどの大変化が起こらなければ、「人間の性質」は変わるまい。ヨーロッパでは、「人間の遺伝的遺産」に影響するという根拠により、生殖細胞系工学を禁止するよう勧告している。多くの批評家たちが指摘していることだが、これは多少的外れである。「人間の遺伝的遺産」とは遺伝子の巨大なプールのようなもので、多くのさまざまな対立遺伝子が含まれているのだ。これらの対立遺伝子の一部を変え、除いたり加えたりしたところで、個人の遺産は変わる[p94>かもしれないが、人類の遺産には変わりがない。ひと握りの金持ちが遺伝子を操作して、子どもの背を高くしたり利口にしたりしても、人類に典型的な身長やIQには影響しない。フレッド・アイクルは、将来、人類の優生学的改良を試みても、自然の人口増加によってたちまちならされてしまうだろう、と論じている。(17)
(pp101-103)
 初期の優生政策に対して向けられる反論の中で、少なくとも西洋で今後進められる優生学には当てはまらない、と思われるものが二つある。(8)まず、「この時点で利用できるテクノロジーを考えれば、優生学計画は目的を達成できない」という反論である。優生学者が、強制的に不妊処置をして避けようとする欠陥と異常の多くは、劣性遺伝子によるもので、すなわち両親がともに遺伝子を持っていないと発現しない。見たところ正常な人々も、たいていはこうした劣性遺伝子のキャリアなのだ。劣性だと認められて中絶されない限り、こうした形質は遺伝子プールに伝わる。他の「欠陥」の多くは、欠陥でない(たとえば、知能が低い)か、あるいは優生学以外の要因によるから、公衆衛生を改善することで解決できる。たとえば、中国のある村では、IQの低い子どもが多いが、これは遺伝でなく食事にヨードが少ないことによる。(9)
 従来型優生学に対する第二の反論は、これが国家に支援された、強制的な計画だということである。(略)[p102>
 遺伝子工学によって優生学は俎上に戻ったが、しかしこれからの優生学は、少なくとも西洋先進諸国では、従来型優生学とは違うアプローチとなることは疑いない。というのは、上に述べた二つの反論がいずれも当てはまらず、優生学という言葉から伝統的に連想されてきた恐怖感が取り除けるような、より人に優しく穏健な優生学が可能になるだろうから。「優生学は技術的に実行不可能」という第一の反論は、二〇世紀初めに行われていた、強制的不妊などにしか当てはまらない。遺伝的スクリーニングの進歩のおかげで、今日では、子どもを産むことを決める前に、医師が劣性形質のキャリアを確認できる。将来は、両親から劣性遺伝子を伝えられて異常を持つリスクが高い胎児を識別できるだろう。たとえば、二つのテイ・サックス病の劣性遺伝子を持つ可能性が高いアシュケナージ派ユダヤ人の場合、この種の情報は既に使われている。つまり、この遺伝子を持つ人どうし結婚しない、あるいは結婚しても子どもをつくらないようにするわけだ。将来、生殖細胞系工学によって、こうした劣性遺伝子をキャリアの子孫から一切除くという可能性が提示される。治療が安く簡単になれば、ある遺伝子を全人口から完全に駆逐することも考えられる。
 国家が支援した優生学に対する第二の反論は、将来は重要ではないだろう。なぜならば、現代世界[p103>でかつての優生学ゲームを再開したがる国はほとんどないからだ。第二次世界大戦以来、西洋諸国の大半は、個人の権利を手厚く保護しようとしてきた。これらの権利の中でも上位にくるのが、生殖に関する決定を下す権利である。国民の遺伝子プールの健康を守るなどして、国家が合法的に集団の健康維持に努めるべきだ、という発想にまともに取り合うことは、もはやあるまい。時代遅れの人種主義者やエリート主義者のたわごととして、片づけられるだろう。
(pp133-134)
 「人権=自然」主義は誤りとする二つめの議論は、仮に「すべし」が「である」から引き出せるとしても、「である」はしばしば醜く、道徳から外れたもの、あるいは不道徳である、とみる。人類学者ロビン・フォックスに言わせれば、生物学者は近年人間性についてさまざまな知識を得てきたが、これはあまり愉快なものではないし、政治的権利の基盤としてもろくに役に立たない。(10)たとえば進化生物学による「血縁選択の理論」とは、自分とどれだけ多くの遺伝子を共有しているかに応じて血縁者を優遇することだ。人間は自分の生殖の適応性を高め、自然淘汰に有利になろうとする、という。フォックスは以下のように述べている。
 「基本的な血縁選択の理論を用いて、復讐する自然権を主張できる。誰かに姪や孫を殺されたら、包括的適応性を一部奪われたことになる、つまり、私の個人的な遺伝子プールの力を奪われたわけだ。この不釣合いを回復するために、相手を同じような目に遭わせる権利がある、ということになる。…この復讐のシステムよりも[p134>効果的なのは、補償のシステム、つまり加室暑の娘を孕(はら)ませ、私の遺伝子を持つ子を育てさせることだろう。」


松原洋子, 20021020, 「優生学の歴史」広野喜幸・市野川容孝・林真理編『生命科学の近現代史』勁草書房:199-226.
(pp218-219)
 「精神薄弱」とみなされた人々に対する生殖規制の考え方は根強く残った。たとえば、一九〇八年に発表された集団遺伝学のハーディーワインバーグの法則は、優生学的理由による断種の無意味.さを示すものとしてしばしば言及される。この法則によれば、遺伝性疾患はほとんどが常染色体劣性形質で頻度もまれなので、その病気が出た人に子どもを作らせないようにしたところで、劣性遺伝子をヘテロでもつ、病気が現れない人の方が断然多い。したがって、集団中の劣性遺伝子の頻度はほとんど減少しないことになる。しかし、優生学史研究者のポールによれば一九一〇〜三〇年代の遺伝学者たちの多くは、ハーディ-ワインバーグの法則の意味を承知のうえで、断種法を支持していたという。
 当時は、「精神薄弱」は劣性遺伝だが頻度が非常に高いとみられていたため、一般の遺伝性疾患よりは断種の効果が期待できると考える遺伝学者もいた。また、「精神薄弱者」の断種が遺伝子プール中の劣性遺伝子の頻度を下げる効果がほとんどなくとも、わずかでも下げられれば断種の意義があるとか、頻度ではわずかでも人数にすれば何万人にも相当するから意味がある、といった理由で「精神薄弱者」に対する断種を支持する遺伝学者もいた。当時の遣伝学者たちの科学的データの[p219>解釈には、「精神薄弱」が他の障害や病気と違う特別な問題であるという認識、つまり、犯罪との関連や施設収容者の増加による財政負担の大きさなど、生物学的理由以外の判断が、含みこまれていたのである。
 このように遺伝にもとづく判断と杜会的理由による判断の境界が曖昧になる傾向が、優生学には存在する。新ラマルク主義的な優生学の存在も含めて、優生学を単なる遺伝決定論として片づけるのは危険である。


◆McKibben, Bill 2003 Enough : Staying Human in an EngineeredAge, Watkins Loomis Agency Inc(=20050830, 山下篤子訳『人間の終焉――テクノロジーは、もう十分だ!』河出書房新社).
(pp54-55)
 一部の批評家は、生殖系列操作がもっと微妙な道筋で有害となりうることを指摘している。たとえば全人類が共有する遺伝子プールを変化させる、などである。欧州評議会議員総会は、個人は変更されていない遺伝的継承に対する権利をもつという決議をした(注120)。しかし実際は、治療をしなければ生殖年齢に達する前に死んでしまうような病気をもっている人を助けるたびに、遺伝子プールは「変化」する(注121)。それに毎月一〇〇〇万人以上も赤ちゃんが生まれる世界では、遺伝子操作が人類の[p55>遺伝的継承に相当の影響をおよぼすまでに、かなりの時間がかかるだろう(注122)。
 したがって実際の議論の中心になるのは、まったくちがう問いである。すべてが順調にいったら世界はどうなるのだろうか? 何もかも遺伝子工学者の想像どおりにうまくいって、親がカタログから選んだとおりに育つデザイナー・ベビーをつくれるようになったとしたら?


霜田求<, 200310, 「生命の設計と新優生学」『医学哲学 医学倫理』(日本医学哲学・倫理学会)21
 生殖における遺伝子増強を伴う生命の設計が優生学的実践であることを認め、かつその正当性を唱道する新優生学の言説群の中で、とくに二つの論拠に注目してみたい。それは、「市場における消費者=クライアントという主体像」と「遺伝子改造を通じた人類の自己進化というビジョン」である。何れも、技術的な操作可能性が拡がることにより設計する側の欲望がさらに前面に出てくるのに応じて、設計される個体が「思い通りにコントロール(支配・制御・管理)できる対象」として位置づけられていくという事態を映し出している。それぞれのポイントをまとめておこう。
(ア)先端医療技術を利用した生命への介入は「優良な質」を選び取る優生学的実践であり、それが国家の政策による集団への介入としてではなく個人の自発的選択として行われる限り、そのサービス利用者である消費者=クライアントの幸福追求権の行使であって倫理的に正当化可能な優生学である。
(イ)個人の自発的選択による生命への増強的介入は、人類の遺伝子プールの質の改善として集団(未来世代)の生物学的かつ人間的質にも及ぶものであり、従ってそれは人類の新たな進化の歩みという文明論的意義を有するものである。
 こうした立論は、同じく個人の自発的選択により行われている、選別(生存/消去)、改変(治療)、そして作製といった生命の設計の他の形態にも当てはまる。そのことも踏まえて新優生学を定義すると、「原則として個人の自発的選択に基づき、先端医療技術を用いて他者をコントロール可能な対象として眼差しかつその生の質に介入することにより、個人/集団(未来世代)における遺伝的質の改善を図る思想および実践」ということになるだろう。以下ではその思想が構想する人間像と社会像をやや詳細に検討してみたい。
(略)
 生殖細胞系列への遺伝子操作を人類の「自己改造=自己進化」への積極的な方向づけと見なす上記(イ)のタイプの新優生学を、ここでは「人間改造未来優生学」と呼ぶことにする。それは、「優生学」という語の生みの親であるF・ゴルトンが提唱した、国家の政策による集団レヴェルでの生殖への介入によりその遺伝的質の改善/劣悪化防止を図るという古典的優生学の理念の正当性を承認し、先端医療技術の利用によるその一層効果的な実現を目指すものと見てよい。国家による強制的な断種や特定集団の抹殺などというような非人道的な優生政策は、現代の民主主義社会ではもはやありえないのであり、問題はむしろ「正しい遺伝学の知識」の教育や啓蒙に力を注ぎ、個々人の自発的な優生学的選択を促すことだ(とりわけ日本で根強い「遺伝」にまつわる差別や偏見を取り払うことが重要だ)、というわけである[9]。
 そこで企図されるのは、たんなるヒトの生物学的な「人体改造」にとどまらず、特定の人間観・社会観へのコミットメントを内包する「人間改造」である。その前提にあるのは、近代文明を形づくる保健政策(公衆衛生の改善)、福祉政策(社会的弱者の救済)、医療技術の進歩(死すべき者の延命)、戦争(身体的優秀者の大量死)などにより、人類の遺伝子プールの退化(degeneration)が引き起こされたという「劣生学(dysgenics)」の認識であり、優生学はその方向転換のために不可欠なのであった[10]。具体的には、遺伝子への介入により遺伝性疾患の除去やがん発生リスクの低減が技術的に可能となったときに、それを行うことは未来世代に対する責務だと見なされる。個体としての自分に与えられた遺伝子組成を甘受せねばならない理由はないし、人類の現在の遺伝子構成を進化の「最終段階」と見なす根拠もない。今や人類はそのような「生物学的運命論」を克服し、自らの手で「進化(evolution)」と「変容(transformation)」を推し進める新たな「運命」の創造の歩みに踏み込みつつあるのだ、と唱えられる[11]。
 こうしたやや大仰な「文明論」の背後には、社会全体の効率性(コスト‐ベネフィット計算)への考量を伴う政策的要請があることも見逃されてはならないだろう。


山崎喜代子, 20040330, 「生物学の展開と生命倫理」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:29-52.
(p46)
 運動性のない丸形精子の多くは精子形成に関わる遺伝子突然変異であるとされている。突然変異型遺伝子は、生殖補助医療のひとつである顕微受精技術の普及によって、遺伝子プール内に拡散浸透することになる。丸形精子遺伝子は不妊医科学の発達によって、適応度を上げることのできる最たる遺伝子であると言える。また、肥満遺伝子のように、過去の飢餓が襲う時代には適応的な有意な遺伝子であったが、飽食の時代の現在は肥満による病気の頻度をあげる有害遺伝子として、評価を変えつつある遺伝子でもある。マラリア抵抗性のある鎌形赤血球貧血症突然変異遺伝子は、少なくとも熱帯からマラリア原虫のいない温帯に移住した人々には、有利な遺伝子ではなくなった。遠くにある危険や獲物を瞬時に見分け、強い筋力が要求される肉体が適応的であった時代と、パソコンの前で目と指を使う現代の労働環境との間では当然遺伝子の適応度評価は変北するのである。遺伝子の評価は絶対的なものとはかぎらない。ヒトの大脳の生み出すミームは、遺伝子の環境変化を起こし、遺伝子の評価を変動させている。遺伝子ジーンの配列の変異はなくても、ミームの生み出す環境が淘汰圧を変え、遺伝子の適応度を変えていくのである。
 このような遺伝子の役割や評価の変動を考えると、その時代の価値や制約のもとに、遺伝子の価値を評価し人類遺伝子プールを操作することは、変動する未来の遺伝子の可能性を、時代の拘束や限界の中に閉ざすことになりかねない。二〇世紀初頭の優生学は、医療や食糧の普及による「劣悪遺伝子」の広がりが人類への大きな脅威であるとして人為淘汰を進めたが、二一世紀の遺伝子観からはそのような結論は出され得ない。
 現在の遺伝学は遺伝子プールの多様性の確保を大きな問題にしている。
(pp49-50)
 すでに見てきたように、環境問題、ゲノム操作に関しては、自然存在としての人間という視点、つまり生物的自然的論理が生命倫理の基礎的要素として不可欠であることが明らかである。一九九七年ユネスコ総会で採択された「ヒトゲノムと人権に関する宣言」、「未来の世代に対する現世代の責任に関する宣言」は、いずれも人間の生物学的な基礎にも立脚している。また、環境倫理の中で生まれた未来世代への配慮、「世代間倫理」という概念は、いうまでもなく次世代やあるいは子々孫々の権利主張である。この主張は種固有の遺伝子DNAセット、すなわちゲノムは生殖細胞を介して、次世代、次々世代へと、遺伝子の組合せは天文学的数字ほどに多様だが、個々の遺伝子は正確に複製されて受け渡されるという二〇世紀の生物学的事実をその基礎としている。この「世代間倫理」は、遺伝子操作の生命倫理にもっとも必要とされる規範であり、生物学的側面の保障から、この倫理規範なくしては各世代の人権の保障はあり得ないことが自明である。「世代間倫理」は、自己決定権や権利概念を時間軸に沿って、普遍化し、子々孫々の人権主体としての自己決定権を保全するものでもあるが、そこにはやはり二〇世紀生物学の明らかにした、遺伝や生殖の科学によってはじめて成立する倫理規範がある。
 人権や権利という概念は人類社会の中での依然として重要な概念ではあるが、限界のある概念であることが、認識されはじめている。(略)生命操作の時代においては同時代に生きる人同士の「自己決定権」では済まされない倫理対象の時間的空間的広がりが出現してきたのである。
 遺伝子操作の自己決定権という権利主張からだけでは、遺伝子のコピーを担い、次代、次々世代へと「遺伝子の川」の流れを担う子々孫々や、遺伝子の組合せセットは異なるが、ヒト種として遺伝子プールを共有していること[p50>からくる、遺伝子のもつ生物性、あるいは生物性にもとづいた公共性は語ることができない。
 しかし、共同体主義的生命倫理は、しばしば共同体構成員の自由の拘束になる。共同体主義的・公共的倫理規範は個人の自由、すなわち自己決定権の最大限の保障が重要であることはいうまでもない。共同体を縛る倫理規範が、個人の自由の束縛とならないかどうかは、共同体が共有できる倫理規範を持ちうるかどうかにかかっている。それは、社会やその構成員が遺伝子や自己の個体性についての現代生命科学に裏打ちされた生命観・人間観が共有できるかどうかという問題である。遺伝子操作を始めとした生命操作の時代には、生命や遺伝子の治療や選択が、その個体の時代に終わる場合とそうでない場合とを区別することが必要である。たとえ自分の遺伝子のように見えても、それは他者の遺伝子のコピーでもあり、ヒトの遺伝子プールの複製として共有しているものであること、つまり、自分の人権の及ぶ、自己裁量が完全に及ぶ範囲を超えていることを知るべきである。自己とは受精卵のクローンである自分の個体、つまり体細胞集団までであるという生物的論理を納得することが必要である。


霜田求粟屋剛, 20040708, 「問題集 近未来想定問答 あなたならどうする?」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:189-202.
(p196)
 AやBに見られるような容認論において掲げられるベネフィットは、医学の進歩につながることの他に、遺伝性疾患保因者に「生殖の権利」を認めること、「有害遺伝子」の人類遺伝子プールからの除去、障害者の減少による福祉予算の削減(または現存する障害者への配分増)といったことである。これらと比較すると、実証されていない「未知の将来(生物学的)リスク」など取るに足らないし、技術の進展によっていずれは解消されるものであるにすぎないとされる。仮にリスクという壁にぶつかってもそれを克服する人類の英知こそ文明の推進力となってきたのだ。この考えによれば、「人間の生産物化」「謙虚さの喪失」「人間の尊厳への侵害」といった、いわば「道徳的リスク」を理由とする規制強化論は、科学技術の輝かしい進歩に背を向ける頑迷な保守的態度を示すものに他ならない。さらに、明白な他者への危害や公共の秩序への悪影響が認められない限り、新技術の開発やその利用は当事者の自己決定と自己責任に委ねられるべきだという新自由主義のイデオロギーも、このような積極的推進論を後押しする。こうした技術が普及した場合、あえてそれを利用せずに遺伝性疾患のある子を生み育てるという選択をしたカップルは、「自己責任だから公的福祉援助をあてにするな」といった周囲の差別や偏見の視線にさらされるかもしれないし、教育や雇用、保険加入などで差別的処遇を受ける可能性もある。こういった「社会的リスク」を訴える声には、立法を含む社会的政策による対応で十分だ、と応答されるだろう。
 「未知の将来リスク」をどのように評価するかは、「障害」と「差別」をめぐる歴史についての知識、同時代状況への関心、そして未来への想豫力いかんにかかっているのではないか。


◆Naam, Ramez 2005 More than Human: Embracing The Promise ofBiological Enhancement, Random House, Inc(=20061130, 西尾香苗訳『超人類へ!――バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』河出書房新社).
(p147)
 一九七八年七月二五日、レズリー・ブラウンは青い目で金髪の健康な女の子、ルイーズ・ジョイ・ブラウンを出産した。世界初の「試験管ベビー」の誕生である。IVFという科学の力によって、私たちは実験室で生命をつくり出せる、いや少なくとも受胎させられるようになったのだ。
 IVFに対する人々の最初の反応は芳しいものではなかった。ジェレミー・リフキンなど、バイオテクノロジーに批判的な入々(大統領生命倫理評議会議長であるレオン・カスも含めて)は、この処置を批判した。エドワーズとステプトーに対して「神を演じ」たとして糾弾する声があがった。IVFによる二例目の出産が成功すると世論の抗議が高まり、そのためステプトーとエドワーズは二年間作業を中止せざるを得なくなった。
(p.註 19)
 147頁 リフキンとカスのIVFへの反対:リフキンは、The Biotech Century: Harnessing the Gene and Remaking the World (San Francisco: Tarcher/Putnam,1998),のなかで、「この新しい時代において、どれが遺伝子プールに付け加えるべきよい遺伝子で、どれが遺伝子プールから排除すべき悪い遺伝子なのか、いったいだれを専門家として信頼すればよいというのだろうか?」と述べている。このほか、以下を参照。Chris Mooney, "Irrationalist in Chief," The American Prospect, September 24, 2001,以下のサイトで入手可能。http://www.prospect.org/print/V12/17/mooney-c.html;LeonKass,"Babies by Means of in Vitro Fertilization: Unethical Experiments on the Unborn?" New England Journal of Medicine 285 (1971): 1174-79.


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp9-12)
 一般に、新優生学を称揚しようとする論者たちは、強制不妊や移民制限、異人種間結婚の制限などという形で大々的に展開された二〇世紀前半の優生学と、自分たちが混同されることを心外だとする。優生学史を研究すれば、誰もが、それがもちうる危険性に気づかないではいられない。ナチス時代の所業をそのままの形で擁護する人は誰もいない。だからこそそれと、現在進行中の優生学的志向との間の質的差異を強調しようとする。たとえばカプラン(Arthur Caplan)は代表的な論者の一人だが(18)、彼もまた、過去がどれほどおぞましいものではあっても、そのことがただちにその現在や未来を破壊するだけの根拠にはならない、と論じる。では、新優生学が倫理的にみてなんらかの許容可能性(permissibility)をもちうると見なされるとき、より具体的には、どのようなことが考えられているのだろうか。[p10>
 (A)
 たとえばこういうことである。先にも触れておいたように、出生前診断や着床前診断などの生殖医療技術、そしてそれに意味づけを与える遺伝学的知見という総体があるとき、その結果として一部で否応なくでてくる選択的中絶は、長い目で見るなら優生学的介入と同じ効果をもたらすというのは、火を見るよりも明らかである。だが、それが否定的倍音のなかで嫌悪感をもって省みられる従来の優生学と大きく違うのは、「遺伝子プールの質的改善」を国家が制度的、強制的に上から押しつけるのではなく、各個人が半ば自発的かつ散発的に個別的判断を下す結果、それが総体として見たときに、結果的にあたかも優生学的介入をしたのと同じような結果に収斂するようになる、という点にある。たとえばもし自分の体内にいる胚が、テイ・サックス病に冒されているということがあらかじめ分かるのなら、それがどれほど苦しく悲しい病気かということを斟酌すれば中絶するのもやむを得ない、と或る妊婦が考えたとして、それを非難することは誰にもできない。もちろんその場合、妊婦の判断は周囲の医師やカウンセラーからいかなる間接的強制も受けないような形でなされるのでなければならない。さもなければ、それは従来の優生学と大差なくなる。そしてその種の個別的判断が集積されたとき、何十年という時間がたっていくうちにテイ・サックス病の因子をもつ人間の比率は少なくなっているはずである。それは結果的に優生学的処置と同様の効果をもたらすことになる。だが繰り返すなら、それは政府や医療機関などの強制によるものではなく、個人の自発性に基づくものだということが重要である。しかもその個人さえもが、何も総体的効果として或る種の遺伝子の存在比率を変えようなどとは思っていないということがある。[p11>
 (a) それに対する代表的な反論は、いわゆる「滑り坂理論」である。(略)
 (b) さらに、次のような反論もある。そもそも上記の推進派の議論は、ナチス的な優生学と新優生学とを区別する最大の根拠を〈個人の自発性〉に求めている。だが仮に医療機関や政府が最善の配慮[p12>を払ってできる限りバイアスのない姿勢をとろうとしたとしても、個人が本当の意味で十全な自発性を発揮できるなどというのは幻想ではないのか。(略)
 こう見ていくと、どちらかというと、どうやら反論側の方に分がありそうだ。特に、〈個人の自発性〉なるものが、事実上は理念的性格しかもたないという反論は、ほとんど決定的な重みをもつ。管見による限り、まだいまのところ、新優生学推進派でこの議論に完璧な反批判を展開した人はいない。この文脈での新優生学が、本当に一種の社会的論理としてそれなりの影響力をもちたいと思うのであれば、この反論にしっかりと対抗できるような議論を組み立てる必要があるだろう。
(p227)
 (e)山崎喜代子の論文「生物学の展開と生命倫理(89)」(二〇〇四)。山崎氏は、遺伝子操作をするということは、遺伝子によって生みだされたミームが、今度は反対に遺伝子に作用して変異させるということだとして、文化がもつ或る塑性的な性格に目を向ける。そして、生命倫理がもつ課題の一つは、ミームがもつ反自然性の危険を回避して、環境や遺伝子が抱える自然性との矛盾の回避をすることにある、とする。そして現代遺伝学の目標は遺伝子プールの多様性確保にあるとしたうえで、遺伝子操作の自己決定性を重視するだけでは、多様性確保に即した公共性を語ることはできないと考える。仮に自分の遺伝子に帰属するように見えても、それは他者の遺伝子のコピーであり、ヒトの遺伝子プールの複製として共有しているものなのだ。だから自分の生殖系列遺伝子をいじるということは、自分の人権の及ぶ範囲、自己裁量が及ぶ範囲を超えていることを認識すべきだ、と主張する。これは、新優生学の基盤としての自己決定権を生物学的に限定しょうとしたものだといえる。


米本昌平, 20060625, 『バイオポリティクス――人体を管理するとはどういうことか』中公新書.
(pp86-88)
 ヒトゲノム宣言の第一条は、前述の文章の後に「象徴的な意味において、ヒトゲノムは人類の共通遺産である」という文章が続いている。ヒトゲノムを「人類の共通遺産」とする考え方は、一九九四年九月にIBCに提出された最初の要綱以来、この宣言を象徴する一節として、常に宣言案の冒頭に置かれてきた。法務委員会に出されたある意見書が、ユネスコという国際機関から見たヒトゲノムの特微をこう整理している。
 「ヒトゲノムは、自然科学的には個々人のユニークさを構成する要素であり、かつ遺産として伝達しうるものである。この意味では民法の管轄のもとに入る。他方、ヒトゲノムは、個人の遺伝的アイデンティティを越え、人間全体の遺伝子プールの一部を成すものとして人類の共通遺産でもあるから国際法のもとにも入る。人類の共通遺産という概念は、一九六六年の「国際文化協力の原理の宣言」第一条三項で、世界の文化の多様性を指すものとして用いられている。」
 国際法上の「人類の共通遣産」という考え方は、一九五九年の南極条約に出発点があるとされる。この条約機構は、六大陸の一つである南極大陸を各国がその領有権主張を棚上げし、[p87>平和利用、非軍事化、自由な科学研究を保障する目的で、南緯六〇度以南の全域を科学委員会の管理下に置いた画期的な体制である。科学委員会が巨大自然を管理する国際機構は、地球環境問題のモデルになりうるものである。
 この南極条約前文にある「全人類の利益」という表現が、その後、一九六七年の宇宙条約(月その他の天体を含む宇宙空間の探査及び利用における国家活動を律する原則に関する条約)、七〇年の深海底を律する原則宣言(国家の管轄権の範囲をこえた海底及びその地下を律する原則宣言)、および七九年の月協定(月その他の天体における国家活動を律する協定)へと継承されてきた。こうして、月、宇宙空間、深海底資源は、国際法上は人類の共通遺産とする共通認識が確立したのである。
 一見、ヒトゲノムもこれらと同類のものとして扱っても不都合はないようにみえる。だが、これら国際法上の人類の共通遺産とされるものは、それまでは物理的に人類の手が及ばなかった自然が、科学技術の発達によって到達可能になるか、到達可能になりそうになった時点で、一部の先進国だけがその自然を独占することに他の国々が疑義をとなえ、その結果として人類の共通遺産とみなされるようになった対象である。ところがヒトゲノムの場合は、たしかに近年まで人類はその全体には到達不可能ではあったが、いったんヒトゲノムが解読され、これへのアクセスの方法を知ってしまえば、誰もが接近可能な自然である。しかも個々[p88>人が、それぞれに保有するものでもある。国際法が人類の共通遺産と考えてきたものとは、かなり様相が違う。宣言の草案における「人類の共通遺産」が、ユネスコ総会直前の政府専門家委員会で、急遽(きゅうきょ)「象徴的な意味で人類の共通遺産」という表現に変更されたのはそのためである。適切な字句の変更であった。


山崎喜代子, 20080425, 「米国優生学の開拓者 ダヴェンポートと遺伝学」山崎喜代子編『生命の倫理 2――優生学の時代を越えて』九州大学出版会:35-74.
(p67)
 ワトソンもまたマラーを引き継ぐヒトの遺伝子改良主義者であると言われる。しかし、遺伝学や進化学の現状では、ヒト遺伝子改変による人類遺伝子プールへの科学的安全性基準を形成できる学問レベルにはない。個人の遺伝子は他人の遺伝子のコピーである。改変遺伝子は遺伝子複製を介して子々孫々、つまり他人の遺伝子改変をも強要することになる。遺伝子改変によるメリットもデメリットも、自己責任では収まらない。場合によっては人類の存亡のリスクになるのである(75)。


*作成:植村 要
UP:20090418 REV:
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