HOME >

『ガタカ Gattaca』




監督:アンドリュー・ニコル
出演者:イーサン・ホーク
配給:コロムビア映画
公開:1997年10月24日 アメリカ


■言及

Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武 監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店).
(p65)
 遺伝子スクリーニングが普及するだけでも社会に対する影響は大きく,その大きさは遺伝子強化が行われる場合をはるかに凌駕するだろうということは言っておかなければならない。スクリーニングで見つけ出すことのできるような遺伝病を持って生まれてくるほど「不運な者」は,どのように育つかに関わりなく,初めから差別される可能性が非常に高い。科学的な正確性に欠けるところがあるかもしれないが,よく考えぬかれている映画「ガタカ」は,子どもの遺伝子スクリーニングがノルマとなった未来社会の冷え冷えとした状況を描き出している。現在の営みを注意深く観察すれば,「ガタカ」に描かれているような差別的なにおいの危険性がすでにはっきりと現れていることが分かるのである [4]。


渋谷望, 20031110, 『魂の労働――ネオリベラリズムの権力論』青土社.
(pp175-178)
 アラン・ピーターセンとデボラ・ラプトンは、現在、個人への医療的、臨床的な介入モデルは、復活した人口レベルでの公衆衛生的な介入モデル―ニュー・パブリック・ヘルス(新しい公衆衛生)―によって、取って代わられつつあると指摘する(Petersen and Lupton 1996)。一九世紀に力をもっていた(旧)公衆衛生的―生政治的―介入は、危険が顕在化する前に、予防すること、つまりリスク回避のロジックをもっていた(重田 一九九七)。このロジックは忌まわしき優生学の系譜にもつきまとっていたことは重要である。というのは、優生学はある意味で究極的な「予防」を目指すからである。だが、一九三〇年代から始まる医療技術の急速な進展にともなう治療的、臨床的―規律訓練的―介入の増大によって、予防のロジックはそれ以降、相対的に見えにくいものとなっていたといえよう。予防が保健医療の領域で再び評価され始めたのは、パブリック・ヘルスによる予防的介入やプライマリ・ケアによる早期発見治療への注目によってである。その背景には、すでに指摘したように、福祉国家の危機とともに顕在化する財政難と、事後的な治療の経済的非効率性に対するネオリベラルの側からの批判があった。このような経緯で、対面的な場面で具体的な個人に治療的に介入する規律訓練権力の作用は相対化され、全人口を対象とする生権力の生政治的側面が再浮上するにいたったのだといえよう。
 逆説的にも見えるが、福祉国家の解体にともない、人口の福祉 well-being への配慮はむしろ普遍化する―ただしあくまで「予防」という観点からであるが。もはや、病んでいる者や特別なニーズを有する者だけが、集中的に―「特権的に」―保健医療の対象となるのではない。全人口がヘルス・チェックの対象となるのである。予防の任務とは、〈具体的な〉個人に照準を合わせるのではなく、〈抽象的な〉リスク・ファクターをアイデンティファイすることによって、それが特定の主体へと顕在化/具現化することを予め回避することだからである。
 ナイジェル・パートンは、福祉の領域、とくに児童福祉の領域において、この転換を報告している。イギリスのソーシャル・ワークの一九八九年の制度改革によって、ソーシャル・ワーカーはいわば「リスクに取り付かれる」ことになった(Parton 1996 p.98)。イギリスにおける児童福祉のソーシャル・ワークの実践は、八〇年代に入り、家族への国家介入の批判や、財政とリソースの欠如を理由に改革を迫られていたが、決定的な契機となったのは、報道された一連の幼児虐待事件を予測できなかったことにある。財政を切り詰め、あからさまな国家介入のイメージを払拭し、なおかつ、より効果的に児童を保護すること。国家介入なき国家介入。この難問はこの場合もやはり予防テクノロジーによって解決したのである。それを契機にソーシャル・ワーカーの仕事はリスクを早期に発見し、これを防止することへと変化しつつあるという。「主要な関心がリスクである場合、焦点は正しい決定をすることではなく、防衛的な(ディフェンシヴ)決定をすることになる」(Parton 1999 p.124)。これにより、特定のハイリスク集団がターゲットとなる。パートンは、われわれが向かいつつある状況をこう記述する。「危機にある児童のリスクを予見するための一般的システムが、一連の抽象的で統計的ファクター―母親の年齢、生活史、家計の消費、雇用上の地位など―が詰め込まれた公式」になり、そして「この公式が一定の数値を出した場合、サービスが差し向けられたり、児童保護機関が介入する(*4)」(Parton 1999 ibid.)。
 合州国のいくつかの州では、すでにヒトゲノム・プロジェクトにおける遺伝子地図の解読による治療が、パブリック・ヘルスに結びつきながら、発達障害児の早期発見のための予防のテクノロジーに転用されつつある(Trottier 1996, Lupton 1995 pp.99-104)。これこそリスク計算による予防の純粋形態といえるかもしれない。なぜなら、主体性と呼びならわされているものはこれによって文字どおり解体され、諸要素の組み合わせへと脱構築されるからである。個人 individual はいまや分割可能 dividual である(ドゥルーズ)。ラルフ・トロッティエはこう問うている。「将来、すべての文化におけるヘルス・ケア改革プランは、出生時、あるいは出生以前にスキャンされた究極的なパーソナル・バーコードによって決定されることになるのだろうか?(*5)」(Trottier 1996 p.218)
(p254)
 (*5)映画『ガタカ』(アンドリュー・ニコル監督)や『マイノリティ・レポート』(スティーヴン・スピルバーグ監督)は、遺伝子解析や犯罪捜査における予防テクノロジーの行き着く先の悪夢的な近未来を戯画的に描いている。興味深いのは、こうしたテクノロジーによって、ひとは自分の宿命があらかじめ定まっている古代ギリシアの悲劇のような状況に投げ出されることである。ここにおいてはもはや主体の能動性は解体し、そのすべてが予測可能な諸々のファクターへと還元される。もちろんこのような限界状態において主人公たちが予言と格闘し、主体性の回復の可能性を示すことが映画のメッセージである。しかしわれわれとしては、予防テクノロジーの全面化という事態において、すでに検討した宿命論の回帰の条件を見出すことができる点を指摘しておきたい。


粟屋剛, 20040423, 「人間は翼を持ち始めるのか?――近未来的人間改造に関する覚書」西日本生命倫理研究会編『生命倫理の再生に向けて――展望と課題』青弓社:149-193.
(pp162-163)
 ところで、以上のような、優れた遺伝的資質をもつ子供を生み出すIGM技術は、シルバー教授の言うように本当に広く行われ始めるのだろうか。この点に関して、東京大学の金森修教授(現代科学論・科学史)は、「遺伝子改良は基本的には両親の胸に秘められたものとして、社会空間のなかにはあまり伝播しないままに留まるに違いない(22)」と述べている。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。アメリカや日本で美容整形が堂々と行われ始めている(もちろん、それに対する反発・反感もあるが)ように、IGM技術も堂々と行われるようになるかもしれない(タイムスパンの問題はおくとして)。なお、SF映画『ガタカ』(一九九八年)はIGM技術による能力等の強化が当たり前になった時代を描いていた。


松田純, 20050215, 『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』知泉書館.
(pp96-97)
 遺伝子検査が雇用の場面で利用されることにより就職差別が拡がり、職業選択の自由が侵されるのではないかという懸念が強まっている。先にあげたように、遺伝子検査結果は通常の個人情報に比べて特別な意味を含んでいるため、「遺伝病」ないしは「遺伝病因子のキャリア」という確認は、一生とりのぞけない「烙印(スティグマ)」となる恐れがある。その未来イメージは映画「ガタカGattaca」(米、一九九七年)の世界となろう。雇用者は労働者が病気休暇になり、その代理を雇ったりするためのコストを回避するために、遺伝子検査を実施したがるかも知れない。労働者または求職者に「リスク有り」というレッテルを貼り、特定の職場から締め出すことに使う可能性がある。「リスクが有る者」を最初から排除することで、職場における健康保持のための努力を初めから怠るかも知れない。
 では、雇用場面や職場から遺伝子検査を一切排除すべきだろうか? 事はそう単純ではない。遺伝子検査の結果は例えば職業性喘息など労働者の職業性アレルギーを事前にチェックし、労働安全衛生と適切な人員配置に役立つ可能性もある。例えば、作業に用いる有毒ないしは有害な物質に対する労働者の抵抗力やアレルギー体質、または職場に特有な環境に対する個人の抵抗力のなさを知る手立てになることがありうる(20)。こうした確認は労働者にとってもメリットになる。日本の労働安全衛生法(第六六条)でも「事業者は労働者に対して、医師による健康診断」を行い、医師の意見を勘案し、必要がある場合には「就業場所の変更、作業の転換」等の措置を講ずることが義務づけられている。
(pp124-127)
 一九六一年生まれの原告は低身長に悩み、一五歳から低身長の治療に詳しいさまざまな医師を紹介してもらった。一九歳で一五四pに達した。ある大学病院で、間脳下垂体腺が小さいことによる骨の成長遅滞と診断され、四年間にわたって、ホルモン治療を受け、一六四pの身長に達した。青年はにもかかわらず自分の外見上の姿にいっそう悩むようになり、一九八四年冬学期に健康上の理由で医学部前期試験の受験を拒否したのち学業を中断した。当時エアフルト医科大学病院整形外科で行われていた伸長手術(いわゆるイリザロフ法(4))を望むようになった。この手術を担当する教授は青年に手術を思いとどまるよう忠告した。幾人かの専門医はこう証言した。彼は当時自殺する危険があり、慢性的な、心身障害に苦しんでいた。それは、彼の病気とそこから来る病的状況を適切に解決できないことに起因していた。たしかに心理療法が有効ではあったが、当時は実行不可能だった。それゆえ骨端伸長手術が成功を約束する唯一の代案であり、ぜひとも手術がなされるべきであった、と。
 これに対して、州保険庁の社会福祉担当医は次のような所見を示した。この青年の場合、成長不全が問題なのではなく、基準値内の一特殊例にすぎない。彼にとって、身長と並んで若者としての容姿も重要であったため、有意義な治療は心身医学的な(psychosomatic)治療である、と。州の委託医も、伸長手術は心理的な不調を克服するのにはふさわしくないと診た。地域健康保険組合は伸長手術費用の支払いを拒否した。それにもかかわらず青年は伸長手術を受け、それによって身長は一六四pから一七八pにまで伸びた。青年の父親は手術費用を保険から支払うよう社会裁判所に訴えたが、裁判所はこれを却下。父親は州社会裁判所(社会高等裁判所)に控訴して勝訴したが、健康保険組合も連邦社会裁判所にこの判決の修正を求めて控訴した。連邦裁判所は州社会裁判所とは異なって、青年になされた措置は必要な病気治療ではなかったと判定した。すなわち保険法で意味する病気とは、通常とは異なる身体的・精神的状態であって、医師による治療を要し同時に労働不能を結果する状態、あるいはもっぱら労働不能を結果する状態のことである。その際、通常と異なる状態とみなされるのは、健康な人間の基準ないしは典型からはずれた状態である。身長一六四pの青年は、この前提を満たしていない。(州社会裁判所も彼の身長が正常な大きさであることを認めていた。)連邦社会裁判所は青年の心理的不調について次のように認定した。青年は自分は小さすぎるという考えに病的に固執し、伸長手術によってしか自分は救われないと思いつめた。そのような誤った考えと異常な精神状態を取り除くには精神医学的治療または心理療法を必要としていたのであり、そうした治療に対しては健康保険もその費用を保障する用意があったはずである、と。
 州裁判所は、青年が精神医学的または心理療法的治療を拒否したため、自殺の危険をはらんだ精神的病いを除去する唯一の可能性は伸長手術だったと論じた。連邦裁判所の見解によれば、これを認めれば、保険による支払い義務が帝国保険条例に反する形で拡大してしまう。当人が身体状態を変えたいと心理的に固執しているからといって、正常範囲内にある身体状態を変容させるために、保険負担によって手術を受けられるようになったら、容姿が標準からはずれてはいないけれども、当人が自分の容姿に悩んでいる場合、費用のかさむ美容整形手術に対しても保険を適用しなければならなくなる。それゆえ保険の支払い義務があるのは、治療が本来の病気に直接向けられた場合のみである。
 この事例では、低身長に伴う社会的な不利(職業選択上の不利や世間からの蔑視など)を社会がどう補償するか? それへの医学的対処(成長ホルモン治療や伸長手術や心理療法など)はどうあるべきか? といったことが問われている。
(p17)
 (*4)整形外科の領域で実施されている骨延長術。骨折が治るときに、接続した骨の間に「仮骨」と呼ばれる柔らかい骨が作られる仕組みを利用して、接続部分を少しずつ引き離しながら、仮骨を伸ばしていって最適の長さで固定すると、その部分が骨になる。初めに「人工的な骨折」を起こす「治療」なので、大きな侵襲を伴う。映画「ガタカ」(Gattaca 米、1997)の主人公もこの手術を受けた。
(pp132-134)
 またプリンストン大学の分子生物学者、銭卓(Joe Z. Tsien)は遺伝子操作技術で記憶と学習の能力を高めたマウスを作ることに一九九九年に成功している。脳神経細胞間(シナプス)でシグナル伝達物質を受け止めるNMDA受容体を構成するたんぱく分子NR2Bを前脳(特に皮質と海馬)に過剰発現させられたマウスは「ドギー」と名付けられた。"天才マウス"ドギーは学習・記憶試験において、いずれの能力も野生型マウスに比べ増強していた。記憶形成過程の中心となる特定の分子の役割が明らかになったことで、将来アルツハイマー病のような脳疾患の治療薬が開発される可能性が出てきた。さらに、健康な人の学習記憶能力を高める薬の有力候補にもなりうると期待されている(*14)。
 このような技術発展の先に、リー・シルヴァーの Remaking Eden (*15)や映画「ガタカ」(Gattaca 米、一九九七)のなかで描かれているような、パソコン画面に向かって「わが子を設計する」デザイナー・チャイルドの時代がやってくるという予想もある。このような人間改造の企図がどこまで成功し実現するかは予断を許さないが、遺伝子操作による人間改造の試みがすでに始まっていることも事実である。わたしが問いたいのは、こうした人間改造技術がはたしてどこまで成功するかについては議論の余地があるにしても、この種の試みが人間のあり方、生き方をどう変えるか? 人間社会とその基盤にある倫理的規範にどのような影響を与えるか? ということである。


大谷いづみ, 20050225, 「「問い」を育む――「生と死」の授業から」松原洋子・小泉義之編『生命の臨界――争点としての生命』人文書院:128-155.
 1997年のアメリカ映画『ガタカ』は,遺伝子操作での出産が当たり前になった近未来の物語です。遺伝子増強はまだまだ夢物語だとしても,受精卵診断段階でのデザイナー・ベビーは既成事実です。出生前診断や選択的中絶を考えれば,すでに裾野は広がっている。その現実があるからこそ,「デザイナー・ベビー」やら新優生学という言説が一気に広がったのだと考えるべきでしょう。
 『ガタカ』という映画は,通常,自然に生まれたハンディをはね除けて宇宙への夢を実現する主人公ヴィンセントに焦点を当てて見られています。私は,彼の夢の実現の影で自死を選んだ,堕ちた遺伝的エリート,ユージーンの死の物語として見るべきだと思う。これが,批判に対する反論の,第三段階でもあります。

 ―――『ガタカ』は、アンダークラスよりもアンダーな員数外というより、アンダークラスが会員になるべく公民化しようとする物語とは見れないでしょうか。ですから、優生批判にしても、二重の課題があるわけで…。
 『ガタカ』ではアンダークラス(「不適正者」=遺伝子増強せずに生まれた人々)が全員白人に設定されていたのがアイロニカルでしたよね。ヴィンセントに焦点をあてると,不適正者に生まれたヴィンセントが自らの運命に抗いクラスの壁を克服して夢を実現する,『ガタカ』は,まさしくアメリカンドリームの成就の物語です。しかもヴィンセントは,身分詐称という一点を除けば,たとえ教科書の丸暗記であっても宇宙開発会社ガタカの入社試験をパスし,タイプミスひとつない書類をつくる有能なエリート社員というおまけの設定つき。彼は準会員でしかないアンダークラスの不適正者でありながら,生まれながらのハンディを克服して能力を磨き,正会員になって公民化するわけなんです。
 しかし,ユージーンに焦点を当てるとどうでしょうか。ガタカの社会が描いているのは,たとえ遺伝的超エリートとして生まれようと,いったん五体満足な肉体を失うや「かたわ者」と侮蔑され,遺伝的アイデンティティを不法に売らざるをえないほど生活に逼迫する,遺伝子決定社会でありながら同時に徹底した能力第一主義の社会のありようです。その状況でのユージーンは,確かにアンダークラスではないんだけれど,じゃあ,肥大したプライドをもてあましながら酒におぼれて自暴自棄になっている,やさぐれた適正者なのか,といえば,それだけでは留まらず,下半身不随になったことによって,適正者でありながら見えない形で員数外におかれて打ち捨てられているわけです。
 そのユージーンが,ヴィンセントが夢を実現して宇宙に飛び立ったその瞬間,かつて一流水泳選手として得た銀メダルを胸に焼身自殺を遂げる。ユージーンのこの行為をどう解釈するか。今まで,中学・高校・大学の授業で『ガタカ』を使って来ましたが,必ず出るのは,「ヴィンセントの夢の成就のための犠牲となって死に赴くユージーンに感動した」というリアクションです。「ユージーンに成り代わって宇宙へ飛び立ったヴィンセントが再び地球に帰還するためには,本物のユージーンは死ななくてはならなかった」というものも出てきます。つまり,アンダークラスのヴィンセントが公民化されるために,ユージーンは犠牲の死を死ぬわけですが,そこには,遺伝的なエリートではあってもQOLが低くなったために生きながら員数外に置かれていたユージーンが,自らを死に廃棄して正真正銘の員数外になることによって,正会員としての存在証明を倒錯的に図ろうとする欲望が働いている。それは,「尊厳ある死」を欲望させる尊厳死言説の表象そのものです。
 ここで確認しておくべきは,ユージーンが下半身不随になった事故が,自ら車に飛び込んだものであるということを告白するワンシーンです。ユージーンが遺伝的超エリートとして常に一番になることを運命づけられながら,その運命の重荷に倦いていた姿は映画に繰り返し示唆されている。最高の遺伝子をもって生まれ最高の幸福を約束されながら,最高の勝ち組になれなかったエリートの傷ついた自尊心が,自らの生命を供物として捧げることによって,つまり「他者のための犠牲の死」という物語を選ぶことによって自らを癒やす──ユージーンの自死は,意地悪く見れば,そう読めるし,しかも映画を見るオーディエンスもユージーンの自死に癒されてしまう。さて,そこに作動する力は何なのか。いわずもがなですが,ここで作動している「力」は『ガタカ』のようなフィクションや,滑り坂に定位されるナチスに限定される話ではなく,今現在,作動している力です。
 私は,脅かされる員数外も,正会員にはい上がろうとするアンダークラスも,会員資格にしがみついて員数外や準会員を脅かす正会員も,共通して「何か」に怯えているのだと思う。ひとつには,役に立つ人間でなければならないという強迫観念です。私の中にも確かにその怯えと強迫観念が存在していることを自覚していますから。でも,それだけではないんだろうとも思うし,何より,その怯えと強迫観念はいったいどこから来るのか,その正体を探ってみたい。なぜなら,役に立つ人間でなければならないという強迫観念は,役に立たないと見なせる人間への憤怒や憎悪と表裏一体のはずです。その憤怒と憎悪を,妬みや嫉妬と連動させて正当化したのが,まさにナチズムだったのではないかと思うのですけれど,その片鱗は現在のフリー・ライダー論にいくらでも見いだせるんじゃないでしょうか。
(略)
 私は,映画『ガタカ』が描き得なかったヴィンセントとユージーンの関係の物語,ヴィンセントとアイリーンの関係の物語を見たいと本気で考えているし,ヴィンセントが身分を偽らずに地球に帰還し,ユージーンがヴィンセントの夢の成就のために犠牲の死を死なずに済む,もうひとつのガタカの物語を紡げるか否かに,生命倫理学と生命倫理教育の存在価値が試されるだろうと思っています。


大谷 いづみ, 20050825, 「生と死の語り方――「生と死の教育」を組み替えるために」川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』有斐閣:333-366.
(pp342-343)
  映画『ガタカ』が描いた物語
 1997年制作のアメリカ映画『ガタカ』では、出生前診断どころか、生殖細胞への遺伝子操作で「優秀な」子どもをつくることが当たり前になった近未来の社会、いわば、新優生学の思想を顕現した社会が描かれている。
 「自然に」生まれ、出生時に推定寿命30.2歳と診断された主人公ヴィンセントは、「不適正者(IN-VALID)」として最下層の仕事を余儀なくされる。しかし、幼少時からの宇宙飛行士の夢を断切れない彼は、遺伝子ブローカーを通じて、遺伝子操作で生まれた「適正者(VALID)」から遺伝的アイデンティティを借りて他人になりすまし、様々な障害や事件をくぐり抜け乗り越えて、ついに宇宙に飛び立つ。
 『ガタカ』は、一瞥すると、遺伝子決定社会で遺伝的ハンディを負いながら、自らの道を切り開いて宇宙への夢を実現するヴィンセントの、アメリカン・ドリームの成就の物語のようにみえる。そこには生命が質によって序列化された社会で、遺伝子の定めにあらがい強い意志と努力で道を切り開く主人公の、希望のメッセージが読みとれる。
 しかし、作品のメイン・メッセージとは裏腹に、『ガタカ』がある種の陰影を投げかけているのは、ヴィンセントに遺伝的アイデンティティを貸し、彼が望み通り宇宙に飛び立つその朝、スター、水泳選手であった時代に獲得した銀メダルを手に、自宅の焼却炉に身を投じて焼身自殺する、下半身不随の「適正者」、ユージーンのサブ・ストーリーに因る。
 最高の遺伝子をもって生まれ、最高の幸福を手に入れることが約束されながら、最高の勝ち組にエリートなれなかった、いわば、「適正者」の傷つけられた自尊心に起因するユージーンの自死は、「完壁さが用意されてしまうこと」の危うさを物語っているだけでなく、「できないこと、あるいはできなくなること」を恐れ、完壁な人生の延長線上に完壁な死の選択を用意する、安楽死・尊厳死の思想を顕現している。
(pp345-346)
  生き難さを感じる「良い子」たち
 「自殺」をテーマにしたあるセミナーでの経験を思い出す。それは医学や看護・福祉を学ぶ学生たちが主催して、高名な精神科医や宗教者を招いたセミナーであったが、公式プログラムを終えた夕食後、フリーディスカッションの時間のことである。セミナーの裏方を担ったり、参加したりしていた若者たちが、口々に、死への強い誘惑を語りだした。それは、決して抽象化された論理の遊びではない。そうではなく、おそらくはこれまで「良い子」であったに違いない若者たちの、親からの期待を重荷に感じ、期待に添えないことに罪悪感を抱き、それゆえに自己受容できず、自己否定の究極のかたちとしての「死」を考えずにはいられない姿である。
 ある若者は言葉にならない言葉を探しながら、懸命にこう語った。
 僕は一生懸命、良い人間になろうとしてきた。だけど結局評価されたのは成績だった。〈良い人間であろう〉なんていう目標は適当にやり過ごさないと、現代では上手に生きていくことができない。親たちは子どもに〈良い子〉であることを求めるが、それが子どもにとってどれほど重荷になっているか、考えてほしい。

 『ガタカ』のユージーンを見て想起するのは、こういった「良い子」たちの生き難さであり、「普通」の子どもたちの反乱である。「最高の遺伝子」をもちながら銀メダルしか取れなかった(2番目にしかなれなかった)ユージーンは、いわば「最高の勝ち組」になることを約束されながら、そうはなれなかった「不幸」を具現している。予定調和の綻びは遺伝子の測り間違いだと、遺伝子決定論者ならば答えそうな話である。しかし、若者たちが当たり前のように恋人の遺伝子を調査し、その将来性を値踏みするカット、遺伝的超(スーパー)エリートだけが入所を許された宇宙開発公社ガタカの所長が、普通の「適正者(エリート)」を見下すシーン。たとえ元スター水泳選手であろうと超エリート「適正者」であろうと、車椅子の身(身体障害者)となったユージーンに対する、人々の侮蔑のまなざしは、質により人間が序列化された「ガタカ」の社会の「幸福」のあり様を、残酷なまでに描いている。
 それらのシーンと、現代の社会に生きる、例えば肥大したプライドを抱えて社会から引きこもる若者たち、親の愛情を確かめるかのように拒食過食やリストカットを繰り返す少女たち、世間を震撼させることで自己確認するかのように爆発する少年たちとを重ね合わせて考えることは、決して飛躍ではあるまい。
(pp347-348)
  『ガタカ』が描けなかった「関係」の物語
 「ぼくが宇宙にいる1年間、ひとりでどうする?」「友達ぐらいいるさ」と答えるユージーンに、「どうせプロの女だろ」と答えるヴィンセントの残酷な無神経。
 ユージーンはヴィンセントに遺伝的アイデンティティを貸すことで彼の夢の実現を保証した。しかし、ヴィンセントはユージーンに何を与え得ただろうか。
 「酔ってなかった。車にぶつかったとき」
 「車?」
 「車の前に飛び出したんだ。完璧に素面でね。死に損ねてこのざまだ。あきらめずに続ければ、いつか成功するかな」
 「もう寝ろ」
 「お前は偉いよ。ヴィンセント」
 「そう呼ぶなんて、酔ってる証拠だ」
 酔いにまかせてユージーンが一人語りに過去を独白するシーンがある。とはいえ、これは明らかにヴィンセントに向けられた語りだ、しかも、その内容は、下半身不随になった事故が自殺末遂によるものであったことを示唆するものである。適性者(エリート)のプライドで固めた仮面を、自暴自棄を装って一瞬はずし、ヴィンセントに晒けだした傷の深さ。― しかしその傷を、ヴィンセントは「酔っぱらいの戯れ言」とかわして終わる。
 「お前には感謝している。身体を貸す代わりに夢をもらった」
 ヴィンセントが宇宙(タイタン)に飛び立つ朝、感謝の言葉とともに、旅に出るから、と、帰還後のヴィンセントのため「ガタカ」の社会で一生続く遺伝子チェックに備えて貯蔵庫に保存した膨大な組織を見せ、「宇宙で読め」とカードを手渡すユージーンに、自死の覚悟を読みとることは容易だったはずだ。それともハンディを負いながら宇宙への夢を今やついに実現しようとするヴィンセントに、挫折したエリートの屈折など、顧みる余裕がないのは当然、といえるだろうか。
 だが、私は想像する。自殺未遂を酔いにまかせて独白したユージーンの言葉をそらさず、彼が語る物語にヴィンセントが耳を傾けている情景を。「予定調和の恵まれた人生にどこかで疲れた、頽廃を滲ませたけだるいユージーンのまなざし」(石原、1998)を、正面から受け止めてそらさないヴィンセントの姿を。― それは映画『ガタカ』には見出し得なかった情景である。『ガタカ』では決して描かれることのなかった、ヴィンセントとユージーンの「関係」の物語、あるいはユージーンを「死への廃棄」に導かずにすんだかもしれない物語である。
(pp350-351)
 他者に向けるまなざしは、同時に自己旨身に向けるまなざしである。弱さの中の強さ、強さに転化する弱さ。そこに気づいた星野はまた、自分のおかれた状況の、どうしようもない弱さを徹底的に自覚した人間でもある。「できること」「美しくあること」の対極、「弱さ」の極みにある人間である。星野自身の傷つきやすさ(ヴァルネラビリティ)に応答(レスポンス)せずにはいられない、母親の弱さを、星野は発見したのである。
 被傷性(ヴァルネラビリティ)に呼応して共鳴し合う星野と母。― そこには弱さを許容して労わり合うような、美しさに満ちた光景だけがあるのではない。互いの中に傷を見、反発し、傷つけ合う。何より、傷つけることによって、さらに自らが傷つく。― その果てについに受容し合うに至る、非対称な中に紡ぎ出された濃密な受容の関係。― 私がもう一つの『ガタカ』にみようとするのは、このような「関係」の物語、ヴィンセントの夢の実現がユージーンの犠牲の死の上に成就するのではなく、ユージーンもまたヴィンセントに自らの傷を癒されて生き延びる、そのような「関係」の物語である。
(pp351-352)
  「私」の中にヴィンセント/ユージーンを見出す
 私は私自身の中にヴィンセントを見出す。夢を追い、あきらめきれず、必死に夢のかけらをつなぎあわせようとするヴィンセントを。表層的な属性で決めつけ判断する人々に対し、何ができて何ができないか僕に指図するな!と抗議するヴィンセントを。「不適正者(できそこない)」と蔑まれ、身分詐称の露見に怯え、生き延びるために、だまし、ごまかし、踏みにじり、利用するその醜さを。
 私はまた、私自身の中にユージーンを見出す。肥大した自尊心にふりまわされ、他者を見下すことでかろうじて自分を救おうとするユージーンを。予定調和の道に飽き、物憂い日々に溺れるユージーンを。栄光の時に追従の讃辞、悲惨の時に侮蔑のまなざし、その双方に嫉妬とねたみを嗅ぎ取まとり、絡め取られまいと尊大さの鎧を纏う小心な弱さを。
 それは苦痛を伴う困難な作業である。獲得したアイデンティティを引き裂いて、私の中にそのような醜さ、弱さを確認すること、「不気味な私」の存在と出会うことは。だが、私の中のヴィンセントが生き延びるために、ユージーンは死ななければならないのだとしたら、否定された私の半身(殺されたユージーンン)にないまま、私(ヴィンセント)は宇宙からの帰還後、どうやって生きていくのだろうか。私の中の複数の私(他者たち)に応答せぬまま、私は私を抑圧し続けていくのだろうか。


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp229-231)
 あまりに有名すぎるので、いまさらという感もあるが、本書の主題を論じるなかで、例の『ガタカ』(一九九七)に一言も触れないままでいるのは難しい。両親の〈自然な欲望〉のままに車の後部座席で受胎した主人公のヴィンセントは、すでに遺伝的設計が常識になっている社会では、劣等者だ。〈通常分娩〉の弟アントンに比べても、やはり所与の質に違いがあり、なかなか思い通りにはならない。だが、そんな彼は、遺伝的エリートのみに許された宇宙飛行士になりたいという夢を捨てきれない。本当ならとうてい無理なところなのだが、事故によって下半身不随になり〈堕落した〉遺伝的エリート、ジェロームの助けを借りて〈身分詐称〉をすることに成功する。体の組織や体液をジェロームのものを使うことで、なんとかごまかし続けるのだ。そして、一連の気遣いと苦労の果てに、ついには自分の夢だった宇宙飛行に飛び立っていく。しかも最後の方では、検査医師に正体を見破られながらも、黙認されるという話になっている。
 遺伝的設計が陳腐化し、多少とも〈優れた〉遺伝子をもって生まれてくる人々。だが、あまりに当然のことながら、彼らとて、人生の危険から完全に保護されているわけではなく、不可測の事故や偶然までは制御できない(ジェローム)。一方、仮に遺伝的劣等性をもっていたとしても、〈夢〉を実現させようと、個人のレベルで体力や知力を鍛え上げることはできる〈ヴィンセント〉。確かに『ガタカ』的世界では、個人の努力も、身分詐称のような〈犯罪〉を通してでなければ、完全には報われない。ただ、厳しいチェックで遺伝的優劣を保護しようとする社会制度のなかでも、やはり個人が働いて生きていくわけだから、顔なじみになり、相手の努力や心情が理解できるようになった検査医師から見逃してもらえるというような〈僥倖〉は、いつかどこかで顔を出す。要するに、どれほど設計企図が行き渡り、社会的合理性を補強した社会でも、偶然や不可測性から遮断され尽くすということはありえない。まずは物の関係がもたらす偶然という裂け目。そして、人間の関係がもたらす裏切り、見逃し、見落とし、うっかりミスなどという生物学的事実性の裂け目。――だから、『ガタカ』の与えるメッセージは、実はかなり〈保守的〉なものだ。どれほど合理化された社会でも、われわれが自由と呼ぶものは完全に消滅するわけではなく、自分の夢を実現させようとする熱意は報われる可能性があること、そして未来もまた、完全に見通せることなどはない、ということなのだから……。
 もっとも、これを〈保守的〉と呼んだ私は、別にこれに異議があるわけではない。私自身、たぶん、このメッセージは、根本のところで正しいのだと直感するところがある。だから、『ガタカ』のような世界のなかでも、この事実は本質的成分として残り続けるだろう、とごく自然に思える。そしてこれは、「何も遺伝子だけですべてが決まるわけではない」という、あまりに当然で平凡な判断に繋がっていく。私としては、この正しい、だが退屈な判断に、必要以上のコメントを付け加える気はない。


◆高橋透, 20060601, 『サイボーグ・エシックス』水声社.
(pp121-125)
 デザイナー・ベビーの問題にかんして、前述のリー・シルヴァーは、「ジーン・リッチ」と「ナチュラル」という階級概念を導入している(37)。ジーン・リッチとは遺伝子改変を受けた人間の階級のことであり、ナチュラルとは自然生殖によって誕生した人間の階級のことである。デザイナー・ベビー化が進めば、これらの階級の間に極めて大きな差異が生まれるというのである。ワーウィクは、サイボーグから見て、将来の人間はサルかウシの類だ、と豪語していたが、シルヴァーも同様の階級対立を指摘しているわけだ。
 映画『ガタカ(38)』は、このような階級対立をテーマにしたSF映画である。「ガタカ」とは、宇宙開発のための企業の名前だ。ここに就職するには、優秀な遺伝子をもったエリートであることが要求される。主人公のヴィンセントは、自然生殖によって生まれた。彼の夢はガタカに就職し、宇宙飛行士になることだった。ヴィンセントは、ある不正をおこないガタカの適正試験にパスし、この不正を暴かれそうになりながらも、かろうじて宇宙への旅に出ることに成功した。これがあらすじであるが、ここで注目したいのは、ヴィンセントがおこなった「不正」である。この不正とは、替え玉を使ったことである。遺伝子改変を受けて生まれたジェロームは、当然のことながら、有能なアスリートであった。しかし彼はある日、事故に遭い、両脚の運動機能を喪失。以後、車椅子生活を強いられた。ヴィンセントは、このジェロームと替え玉の契約を結び、ガタカに侵入することに成功したのだった。
 ここで、着目すべきは、まず、遺伝子がすべてを決定するわけではないという点である。遺伝子をいくら改変しても、偶然の事故といった、運命を掻き乱す環境要因を完全に排除することはできない。ジェネシスでもそうであったが、遺伝子改変という計算は、つねに環境因子という、そうした計算を狂わせる要因に憑きまとわれている。それを払いのけることはできない。したがって、同じジーン・リッチ階級においてさえも、個人の生については、様々なパターンが存在せざるをえない。また、遺伝子伝達機構においても、解釈が存在し、個体差が生み出されざるをえないかぎり、計算どおりに事が運ぶとは限らないだろう。さらには、ジーン・リッチとナチュラルが交雑しないとも限らないであろう。ジーン・リッチは、たえず、こうした計算外の要因に脅かされざるをえない。ジーン・リッチにしても、様々な人生が考えられるのだ。そうだとすれば、階級対立は除去しえないであろうが、しかし、社会は、もっと多様化した形態をとることになるのではないだろうか。要するに、デザイナー・ベビーにおいても、それが遺伝子改変技術であるかぎりは、やはり、環境要因、そしてさらにはもちろん遺伝子のコピーミスによる影響を排除しえないのだ。
 しかしながら、デザイナー・ベビーのテクノロジーは、人間にもっと深刻な問題を突きつける。『ガタカ』では、ジーン・リッチの能力増強は、人間の遺伝子間での組換えだけが念頭に置かれているようであるが、しかし、上で述べたように、デザイナー・ベビーのテクノロジーでは、動物由来の遺伝子を組み込むことで能力増強を図ることも考えられる。そして実際、人間の能力に限りがあることを考えれば、こうしたことを試みる者が出て来ても不思議はない。この場合、計算どおり遺伝子改変がおこなわれることもあるだろうし、遺伝子のコピーミスによって突然変異が生じることもあるだろう。しかし、いずれの場合であれ、デザイナー・ベビーのテクノロジーは両刃の剣となる。このテクノロジーを推し進める意図は、もちろん、「優秀な」子供を産み出すことにあるし、こうした謳い文句で、このテクノロジーが私たちに歩み寄ってくるのは論を待たない。しかし、このテクノロジーは、人間と動物のキマイラを作出することによって人間の能力の増強を図る技術でもありうるのだから、キマイラという、半分人間で半分動物である生命体が産み出されることは避けえない。そうした場合、人間は人間であり続けることができるのであろうか。ジーン・リッチにとって、能力増強があくまでも人間の能力の増強を意味するのであれば、ジーン・リッチは、ここで自分たちの意図の裏をかかれることになる。デザイナー・ベビーのテクノロジーによって産み出された生命体は、「優秀な」人間なのか、それとももはや人間とは確言できないキマイラなのだろうか。


◆椎野信雄, 20070328, 『エスノメソドロジーの可能性――社会学者の足跡をたどる』,春風社.
 次の段階つまり第三段階は、遺伝子改良、遺伝子改造の段階である。これは「ポストゲノム革命期」の社会(*4)であり、遺伝病の遺伝子の置換だけでなく、「通常」の遺伝子も操作や改変の対象になる社会だという。よりよい価値を求めて個人が遺伝子改変に走るとき、社会はどうすればよいのか(*5)。もちろん科学者は科学者でその立場からその危険性や正当性について発言するだろうが。これが金森氏の問題設定である。

 (*5)『ガタカ』(アンドリュー・ニコル監督/イーサン・ホーク、ユマ・サーマン一九九七年アメリカ映画)、『A.I.』(スティーヴン・スピルバーグ監督/二〇〇一年アメリカ映画(ワーナー・ブラザース))も参照。


粟屋剛, 20070920, 「エンハンスメントに関する小論 ――能力不平等はテクノ・エンハンスメントの正当化根拠になるか」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』,新曜社:76-89.
(pp81-82)
 さて、そのようなテクノ・エンハンスメントが実際に行なわれ始めるとどうなるか。これまで高い能力は一部の優れた人々の独占物――究極の独占物――であった(独占禁止法違反ではない)が、その「能力」という武器を多くの人が獲得するなら、何が起こるであろうか。
 まず第一に、個人レベルでは、その能力を駆使して自己実現のチャンスをつかむ人が増えるだろう。(略)
 第二に、個人のレベルで行なわれる(かつての軍備拡張競争のような)際限なき能力強化競争の結果、社会のレベルでは、能力主義社会という名の競争社会がますます加速(激化)するであろう。
 第三に、同様に社会のレベルで、社会における人々の役割分担に関する秩序――職業階層――が崩壊する。(略)
 第一の点はメリットである。しかし、第三の点はおくとしても第二の点は明らかな弊害である(*16)。では、そのような弊害があるがゆえにテクノ・エンハンスメントをやめるべきであろうか。優れた能力のない人々がそのような能力の獲得に乗り出すのを禁止すべきであろうか。
 私は次のように考える。個人のレベルで、かなりの程度に、遺伝的に知的能力や運動能力が決定されているのであれば、それらが低い(ないし高くない)人に、せっかくテクノロジーがあるのにそれを利用せずにそのまま低い能力に甘んじろとはいいにくいだろう(*17)。私も、現にそのようなテクノロジーを利用するかどうかは別にして、そのようにはいって欲しくない。
(pp87-88)
 (*16)弊害に関して、フランシス・フクヤマは次のように述べている。「遺伝子増強を認めてしまえば、人類は『増強された者』と『増強されない者』とに分裂し、人々および国家はいやおうなく『遺伝子競争』に巻き込まれ、自由で民主的な社会を支える『普遍的な人間の平等の原則』が危機に陥るおそれがある」(Francis Fukuyama,“Nietzschean Endgame:Self−enhancement and‘immense wars of the spirit’”[http://urielw.com/refs/020323.htm またはhttp://www.reason.com/news/show/32078.html,2002])。訳は霜田求「バイオテクノロジーをめぐる倫理と政治――G・ストックとF・フクヤマの論争を手がかりに」(http://www.med.osaka-u.ac.jp/pub/eth/mspaper/paper18.pdf)による。
 ここで、「遺伝子増強を認めると人類が増強された者と増強されない者とに分裂する(してしまう)」という主張は、リー・シルヴァーの「将来、人類はジーンリッチ[ジェンリッチ]階級とナチュラル階級に二極化する」という未来予測(リー・シルヴァー『複製されるヒト』東江一紀ほか訳、翔泳社、一九九八年)と軌を一にするものである。私には、増強された者とされない者とに分裂するとかジーン・リッチ階級とナチュラル階級に二極化するとかという言い方は、いかにもアメリカ的発想に基づくもののように思われる。そのような分裂ないし二極化が起こるとは私には思えない。確かに、遺伝子操作やサイボーグ化のテクノロジーは当初は高価で一部の富裕層しか手が出せないかもしれないが、あらゆるテクノロジー(といっても、核兵器や生物・化学兵器などの製造技術は別だが)がそうであるように、遺伝子操作やサイボーグ化のテクノロジーも、やがて市場経済のレール上で半ば必然的に「人々」(大衆)に行き渡るようになるのではないか(『ガタカ』というSF映画〔一九九八年〕はそのような時代を描いていた)。これは、次の例とパラレルに考えることができそうである。かつて日本では(日本でも)自動車を持つ者と持たざる者がいた(その差は大きかった――自動車の所有はステータス・シンボルだった)が、現在では日本全体が豊かになり、多くの人が自動車を持つようになった。ただし、ベンツ(メルツェデス)を持つ者とカローラ(トヨタ)を持つ者の差はあるが。
 「人々および国家がいやおうなく遺伝子競争に巻き込まれる」という点は、その程度は別にして、確かにそうであろう。そして、その結果、前述のように、競争社会の加速という弊害が現われるだろう。
 では、「遺伝子増強を認めると普遍的な人間の平等の原則が危機に陥る」という点はどうか。ここで、「人間の平等」が人間の法的、社会的取扱いの平等を意味するとして、私は、人間の平等の原則は遺伝子増強を認めても危機に陥ることはない、と言いたい。なぜなら、現在でもすでに、優れた能力を持つ者もいればそうでない者もおり、それにもかかわらず、そのような意味での平等原則は立派に妥当しているからである。


松田純, 200710, 「訳者あとがき」 Wissenschaftliche Abteilung des DRZE[生命環境倫理ドイツ情報センター] 2002 drze-Sachstandsbericht.Nr.1. Enhancement. Die ethische Diskussion uber biomedizinische Verbesserungen des Menschen,New York: Dana Press(=20071108, 松田純・小椋宗一郎訳『エンハンスメント――バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』知泉書館:167-174.
(p170)
 エンハンスメントが高度な先端技術として提供された場合、かかる技術を利用できる人とそうでない人との間で格差が広がり固定化するという見方がある(遺伝子操作を利用できる「ジーンリッチ階級」の出現。映画「ガタカ」の世界)。反対に、初めは高額な先端技術も普及すればコストが低下し、誰もが利用可能となり、障害を負ったり最も困窮している人々に福音となって、真の平等社会が実現するという期待もある(一四―一五頁)。エンハンスメント問題は「わたしたちはどんな社会に生きることを望むのか?」という社会選択をも問いかけている。
 このようにエンハンスメント問題の射程は深い。その範囲も広く、本書ではII―VI章で五分野にわたって考察されているが、今後の技術発展によって、さらにその範囲を広げて行くであろう。


*作成:植村 要
UP:20081123 REV: