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フォーディズム/ポスト・フォーディズム



■本

◆Hounshell, David A. 1984 From the American System to Mass Production, 1800-1932 : The Development of Manufacturing Technology in the United States, Baltimore and London: Johns Hopkins University Press.=19981110 和田 一夫・金井 光太朗・藤原 道夫 訳 『アメリカン・システムから大量生産へ 1800〜1932』,名古屋大学出版会,498p. ISBN-10: 4815803501 ISBN-13: 978-4815803506 \6825 [amazon]
◆Coriat, Benjamin 1991 PENSER A L'ENVERS, Christian Bourgois Editeur.=19920320 花田 昌宣・斉藤 悦則 訳,『逆転の思考――日本企業の労働と組織』,藤原書店,274p. ISBN-10: 4938661454 ISBN-13: 978-4938661458 \2940 [amazon]
◆加藤 哲郎 & ロブ・スティーヴン 19931001 『国際論争・日本型経営はポスト・フォーディズムか?』,窓社,165p. ISBN-10: 4943983715 ISBN-13: 978-4943983712 \1880 [amazon]
◆入江 公康 20080310 『眠られぬ労働者たち――新しきサンディカの思考』,青土社,228p. ISBN-10:4791763971 ISBN-13:978-4791763979 \1995 [amazon][kinokuniya] ※ bi g03 f05 n05
◆Lazzarato, Maurizio 2004 La polotica dell'evento,Rubbettino Editore.=20080625 村澤 真保呂・中倉 智徳訳 『出来事のポリティクス――知‐政治と新たな協働』,洛北出版,382p. ISBN-10: 4903127079 ISBN-13: 978-4-903127-07-1 \2800 [amazon][kinokuniya] ※ autonomia f05 sd-sc1

■引用など(未整理)
=2001 片桐薫訳 『グラムシ・セレクション』 平凡社.

「フォード型のアメリカ工業家たちが……、勤労者の「人間性」や「精神性」を気にかけていないのは確かである。この「人間性と精神性」というものは、生産や労働の世界および生産的「創造活動」においてしか、実現されえない。……新しい工業主義が闘うのは、まさにこの「人間主義」なのである。……アメリカの工業家たちが気にかけているのは、勤労者の肉体的効率とその筋肉的・神経的効率性の持続性を維持することである。安定した労働者群、つねに協力的な労働者総体を保持することが、彼らの関心事なのだ。……というのも、企業における人間複合体 (集合的労働者) もまた一つの機械であって、それがあまりにも頻繁に分解したり、部品を交換することは、彼らにとって大きな損失になるからである。
(一九三四年――「生産と労働の合理化」「ノート」22, §11)」 (Gramsci 1934=2001 : 125)

「今日、「アメリカニズム」とよばれているものの大部分は、興りつつある新しい秩序によってまさに粉砕されてしまう旧い諸階層、そしてすでに社会的パニック・解体・絶望の荒波の餌食となっている旧い諸階層の予防的な批判であり、再建の能力もないまま変革の否定的側面にしがみついている者たちの無意識な反動の試みである。再建を期待しうるのは、新しい秩序によって「断罪」される社会集団ではなく、強制という特有の苦難に耐えながら、この新しい秩序の物質的土台を創出しつつある社会集団によってである。この社会集団は、今日では「必然」であるものを「自由」に転化させるために、アメリカのマークのつかない「オリジナル」な生活体系を見いださなければならない。
(一九三四年――「アメリカの文明とヨーロッパの文明」「ノート」22, §15)」 (Gramsci 1934=2001 : 126-127)


=[1972] 1978 山崎功監訳 「アメリカニズムとフォード主義」『グラムシ選集 3』 改装版 合同出版 15-65.
「一見したところ前面にでてはいないようだが、本質的にはもっとも重要な、または興味ある諸問題をあげておこう。 (1) 現在の金権支配層【ルビ:チェート・プルトクラーティコ】と、工業生産を直接土台とする金融資本の新しい蓄積および流通機構との交替。 (2) 性問題。 (3) アメリカニズムは歴史的「画期」を形成しうるかどうか、つまり、他の諸国で検証された、前世紀特有の「受動的革命」型の漸進的発展と規定できるものか、または「爆発」をひきおこすべき諸要因の分子的蓄積、すなわちフランス型の変革をもっぱら表現するものか、という問題。 (4) ヨーロッパ人口構成の「合理化」の問題。 (5) 発展は産業と生産の世界の内部に出発点をもたねばならないか、またはその外部から生じうるか (生産装置の必要な発展を外部からみちびく形式的法律的立場を、慎重、堅固にきずくことによって) 、という問題。 (6) フォード・システム化され、合理化された産業が支払ういわゆる「高賃金」の問題。 (7) 利潤率の傾向的低落の法則を克服すべく、産業がおこなうあいつぐ努力の過程の極点としてのフォード主義。 (8) 国家的社会的装置による個々人への道徳的強制の増大の表現、およびこの種の強制が規定する病的危機の表現としての精神分析学 (その戦後の大流行) 。 (9) ロータリー・クラブとフリーメーソン。」(Gramsci 1934=1978 : 16)

「労働者の地位の不安定がしめしているのは、労働者間の競争 (賃金格差) の正常な諸条件は、ことフォード産業にかんするかぎり、一定の限界内でしか作用しないこと、各平均賃金間の水準の差異や、失業者の予備軍の圧力は作用しないことである。このことはフォード産業においては、上記の諸現象 (不安定性など) 以外に、「高賃金」の真の原因にあたる、なんらかの新しい要因がもとめられなくてはならないことを意味する。この要因は、つぎの点にもとめられるほかはあるまい。すなわち、フォード産業がその労働者たちに要求するのは、他の諸産業がまだ要求していない特色、適性であり、新しい種類の型の適性である。それは、他産業よりも過重な、消耗的な――賃金では一般につぐえないとともに、当該社会的条件では再生産できないような労働力の消費形態、およびおなじ平均時間内に消費される労働力の量である。これが原因だとすると、問題はつぎのようになる。フォード特有の産業の型、労働と生産の組織の型が「合理的」であるならば、すなわち、それは一般化できるし、またすべきである。その逆であるならば、それは労働組合の力と立法をもってたたかわなくてはならない、不健全な現象である。すなわち、社会および国家の物質的・道徳的圧力をもちいて、フォード労働者の平均的な型が近代的労働者のそれとなりうるよう、集団としての労働者を精神的肉体的改造の全過程に耐えぬかせることが可能であるか? それとも、このことは労働力をことごとく破壊して、肉体的退化と種族的衰滅にみちびくから、不可能であるか? 答えは可能であろう。フォードの方法は「合理的」であり、すなわち一般化されなくてはならない。だが、このためには、社会的諸条件の変化と個人の道徳、習慣の変化の場として、長期の過程が必要である。この変化は、たんなる「強制」によっては生じえない。変化が生じうるのは高賃金、すなわち生活水準向上の可能性のもとでも、またはおそらく、いっそう正確にいって、筋肉・神経エネルギーの特殊な支出を要する生産と労働の新しい諸方法に適合した生活水準実現の可能性のもとでも、もっぱら強制 (自律) と説得との併用によってである。」 (Gramsci 1934=1978 : 56-57)

「工場労働者のよく編成された有機的な従業員集団、または専門作業班を組織することは、けっして簡単なことではなかった。現在でも、いったん従業員集団または班が組織されると、その構成分子またはその一部は、しばしば独占賃金の恩恵にあずかるようになるだけではなく、生産の一時的停止のばあいも解雇されない。…これは、予備軍および失業者によって規定される競争の法則にたいする、一つの限界である。この限界は、特権的労働貴族の形成にあたって、つねにその源泉となっている。…ちょっとした製作上、仕事上の秘密、そのものとしてはどうでもよいもののようであるが、いつまでもくりかえされる「こつ【こつに傍点】」が莫大な経済的意義をになうことができる。その特殊なばあいは、港湾労働組織において、とくに集荷、揚荷間の不均衡が存在し、労働の季節的な繁忙と休閑があらわれるところにおいて、研究することができる。そこでは、季節または職種をつうじての最小限の労働のため、常時使用される (仕事の口を失わない) 従業員集団をもつこと、したがって、高賃金その他の特権をあたえられて、「臨時雇」の大衆と対立する、限定された労働者名簿を作成することが、必要とされる。このようなことは、農業での小作農民と日雇農業労働者との関係においても生ずる。また、衣服工業のように、産業自体に固有の諸原因のため、または、生産の回転期間と噛みあわない、それ自体の回転期間にしたがって仕入れをおこなう卸商業組織の欠陥のために、「休閑期」が存在する多くの産業においても生ずる。」(Gramsci 1934=1978 : 57-58)


資本論草稿集翻訳委員会訳 『マルクス資本論草稿集 2――1857-58年の経済学草稿 第二分冊』 大月書店.
「固定資本と社会の生産諸力の発展」(=「機械についての断章」)
(引用はMarx〜か、M〜)

「資本による生きた労働の取得は、機械装置においては、次の側面から直接的な実在性を受け取る。すなわち、一方では、科学から直接に生じる分析と力学的および化学的諸法則の応用が、以前に労働者が行っていたのと同じ労働を遂行する能力を機械に与える。しかしながら、機械装置がこの道を通って発展し始めるのは、大工業がすでに高度の段階に到達し、そしてすべての科学が、資本に奉仕するようにとりこにされてからのことである。他方では、現存する機械装置それ自体がすでに、大量の資源を供与する。そこで、発明がひとつの商売となり、また直接的生産への科学の応用それ自体が、科学にとって規定的な、またこれに刺激を与える視点となる。」(Marx 488)

「生きた労働の対象化された労働との公刊は、すなわち社会的労働を資本と賃労働との対立という形態で措定することは、価値関係 【価値関係に傍点】 と価値に立脚する生産との究極の発展である。この生産の前提は、富の生産の決定的な要因としての、直接的労働時間の大量、充用される労働の量であり、またどこまでもそうである。ところが、大工業が発展するのにつれて、現実的富の創造は、労働時間と充用された労働の量とに依存することがますます少なくなり、むしろ労働時間のあいだに運動させられる諸作用の力に依存するようになる。そして、これらの作用因……それ自体がこれまた、それらの生産に要する労働時間には比例せず、むしろ科学の一般的状態と技術学の進歩とに、あるいはこの科学の生産への応用に依存している。……もはや、労働が生産過程のなかに内包されたものとして現れるというよりは、むしろ人間が生産過程それ自体にたいして監視者ならびに規制者として関わるようになる。 (機械装置について妥当することは、同様に、人間の活動の結合と人間の交通の発展とについても妥当する。) ……労働者は、生産過程の主要因であることをやめ、生産過程と並んで現れる。この変換のなかで、生産と富の大黒柱として現われるのは、人間自身が行う直接的労働でも、彼が労働する時間でもなくて、彼自身の一般的生産力の取得、自然に対する彼の理解、そして社会体としての彼の定住を通じての自然の支配、一言で言えば社会的個人の発展である。現在の富が立脚する、他人の労働時間の盗み 【現在の〜盗みまで傍点】 は、大工業それ自身によって創造されたこの基礎に比べれば、みすぼらしい基礎に見える。直接的形態における労働が富の偉大な源泉であることをやめてしまえば、労働時間は富の尺度であることを、だからまた交換価値は使用価値の [尺度:訳者] であることを、やめるし、またやめざるをえない。大衆の剰余労働 【大衆の剰余労働に傍点】 はすでに一般的と身の発展のための条件であることをやめてしまったし、同様にまた、少数者の非労働 【少数者の非労働に傍点】 は人間の頭脳の一般的諸力の発展のための条件であることをやめてしまった。」 (Marx 489-490)

「剰余労働を生み出すために必要労働時間を縮減することではなくて、そもそも社会の必要労働の最小限への縮減。そのばあい、この縮減には、すべての個人のために自由になった時間と創造された手段とによる、諸個人の芸術的、化学的、等々の発達開花が対応する。資本は、それ自身が、家庭を進行しつつある矛盾である。すなわちそれは、[一方では:訳者] 労働時間を最小限に縮減しようと努めながら、他方では労働時間を富の唯一の尺度かつ源泉として措定する、という矛盾である。……だから、一面からみれば資本は、富の創造をそれに充用された労働時間から独立した (相対的に) ものにするために、科学と自然との、また社会的結合と社会的交通との、いっさいの力を呼び起こす。他面からみれば資本は、すでに創造されたこれらの巨大な社会力を労働時間で測って、これらの力を、必要とされる限界のうちに封じ込めようとする。生産諸力と社秋的諸連関とは――どちらも社会的個人の発展の異なった側面であるが――、資本にとってはたんに手段として現われるにすぎず、また資本にとってはたんにその極限された基礎から発して生産を行うための手段にすぎない。ところがじつは、それらは、この極限された基礎を爆破するための物質的諸条件なのである。」(Marx 490-491)

「自然は機械をつくらないし、機関車、鉄道、電信、ミュール自動精紡機、等々をつくらない。それらは人間の勤労 [industrie] の産物であり、天然の材料が、自然を支配するに人間の意志の器官に、あるいは自然における人間の意志の実証の器官に転化されたものである。それらは、人間の手で創造された、人間の頭脳の器官 【人間の手〜器官まで傍点】 であり、対象化された知力である。固定資本の発展は、どの程度まで一般的社会的知能、知識が、直接的な生産力になっているか、また、どの程度まで社会的生活家庭の諸条件それ自体が、一般的知性の制御のもとにはいり、この知性にもとづいて改造されているかを示している。[それは:訳者] どの程度まで社会的生産力が、知識という形態においてのみではなく、社会的実践の、実在的生活過程の直接的器官として生産されているか [を示している:訳者] 。」(M 492)

「このことの一部をなすのは、社会は待機することができるということ、社会は、すでに創造された富の大きい一部分を、直接的享受からも、直接的享受にむけて生産からも取り上げて、この部分を直接的には生産的でない労働のために用いることができる (物質的生産過程それ自体の内部で) ということである。」(M 492-493)

「{社会一般と社会のすべての構成員とにとっての必要労働時間以外の多くの自由に処分できる時間【多くの〜時間まで傍点】 (すなわち個々人の生産諸力を、それゆえにまた社会の生産諸力を十分に発展させるための余地) の創造 【の創造に傍点】、――こうした、非労働時間の創造は、資本の立場のうえでは、少数者にとっての非労働時間、自由時間として現われるのであって、それは以前のすべての段階の立場のうえでもそうであったのと同様である。資本が付け加えるのは、それが大衆の剰余労働時間を、技能と科学とのあらゆる手段によって増加させるということである。なぜなら、資本の富は直接に剰余労働時間の取得にあるからであり、それというのも、資本の目的は直接に価値【目的〜価値に傍点】であって、使用価値ではないのだからである。資本はこのように、図らずも、社会の自由に処分できる時間という手段を創造することに、すなわち、社会全体のための労働時間を、減少していく最小限に縮減し、こうして万人の時間を彼ら自身の発展のために解放する手段を創造することに役立つのである。だが、資本の傾向はつねに、一方では、自由に処分できる時間を創造すること【自由〜ことまで傍点】であるが、他方では、それを剰余労働に転化すること【他方〜ことまで傍点】である。資本は、前者の点でうまく成功し過ぎると、剰余生産に苦しむことになるのであり、その場合、剰余労働が資本によって【剰余〜よってに傍点】価値実現されえない【ないに傍点】ので、必要労働が中断される。この矛盾が発展すればするほど、ますますはっきりしてくるのは、生産諸力の増大はもはや他人の剰余労働の取得に縛りつけられたままでいることができないということ、労働者大衆自身が自分たちの剰余労働を取得しなければならないということである。彼らがそれをやりとげたならば、――そしてそれとともに、自由に処分できる時間【自由〜時間に傍点】が対立的な【対立的なに傍点】存在をもつことをやめるならば――、一方では、必要労働時間が社会的個人の諸欲求をその尺度とすることになるであろうし、他方では、社会的生産力の発展がきわめて急速に増大し、その結果として、生産はいまや万人の富を考量したものであるにもかかわらず、万人の自由に処分できる時間【自由〜時間に傍点】が増大するであろう。というのも、現実の富とはすべての個人の発展した生産力だからである。そうなれば、富の尺度は、もはや労働時間ではけっしてなくて、自由に処分できる時間である。富の尺度としての労働時間【富の〜時間に傍点】は、富そのものを、窮乏にもとづくものとして措定し、また自由に処分できる時間を、ただ剰余労働との対立【剰余〜対立に傍点】――言い換えれば、個人の全時間を労働時間として措定すること、それゆえ個人をたんなる労働者に格下げし、労働のもとに包摂すること――のなかでのみまたそれを通じてのみ【のなか〜てのみに傍点】存在するものとして措定する。だからこそ、いまや、最も発展した機械装置が労働者に、未開人よりも長く、すなわち労働者自身が最も簡単で最も粗野な道具をもってやっていたのよりも長く労働することを強いるのである【だからこそ〜であるに傍点】。」(M 494-495)

「大工業の発展とともに、直接的労働は生産のそのような土台として存在することをやめる。なぜなら、直接的労働【直接的労働に傍点】は一面から見ればますます監視と制御の活動に転化されるからであるが、さらにまた、生産物がばらばらな直接的労働の生産物であることをやめて、むしろ社会的活動の結合【結合に傍点】が生産者として現われるからでもある。「分業が発展すると、個々の個人の労働はほとんどすべて全体のうちの一部分なのであって、それ自身としては価値または効用をもたない。労働者が手にとって、これは私の生産物である、これを私は自分のものにとっておこう、と言うことのできるものは、なんら存在しないのである【それ自身〜のであるに傍点】。」 (『労働擁護論』、ノートXI、一、二ページ。) 」(M 496)

「大工業の生産過程では、一方で、自動的過程にまで発展した労働手段の生産力においては、自然諸力を社会的理性に従わせることが前提なのであり、また他方で、直接的定住における個々人の労働は、止揚された個別的労働として、すなわち社会的労働として措定されているのである。こうしてこの生産様式の他方の土台[すなわち、他人の労働の取得という一方の土台にたいする、直接的労働という他方の土台:訳者] がなくなるのである【また〜土台、がなくなるのであるに傍点】。」(M 496)

「真実の経済――節約――は労働時間の節約 (生産費用の最小限 (と最小限への縮減) ) にある。だが、この節約は生産力の発展と一致している。だからそれは、享受を断念すること【享受〜することに傍点】ではけっしてなく、生産のための力、能力を発展させること、だからまた享受の能力をもその手段をも発展させることである。享受の能力は享受のための条件、したがって享受の第一の手段であり、またこの能力は個人の素質の発展であり、生産力である。労働時間の節約は、自由な時間の増大、つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく、またこの発展はそれ自身がこれまた最大の生産力として、労働の生産力に反作用を及ぼす。労働時間の節約は、直接的生産過程の視点から、固定資本【固定資本に傍点】の生産とみなすことができる。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。ちなみに、直接的な労働時間そのものが、自由な時間と抽象的に対立したまま――ブルジョア経済の視点からはそのようにみえる――ではありえない、ということは自明である。労働は、フリエが望んでいるのとは違って、遊びとはなりえないが、そのフリエが、分配ではなく生産様式それ自体をより高度の形態のなかに止揚することこそ究極の目的だ、と明言したことは、どこまでも彼の偉大な功績である。余暇時間でもあれば、高度な活動のための時間でもある、自由な時間は、もちろんそれの持ち手を、これまでとは違った主体に転化してしまうのであって、それからは彼は直接的生産過程にも、このような新たな主体としてはいっていくのである。この直接的生産過程こそ、成長中の人間については訓育 [Disciplin] であり、成長した人間については、練磨であり、実験科学であり、物質的には創造的で、かつ自己を対象化する科学であって、この成長した人間の頭脳のなかに、社会の蓄積された知識が存在するのである。この両者にとって、労働が農業でのように実際に手を下すことと自由な運動を必要とするかぎりでは、労働は同時に体育でもある。」(M 499-500)
Liepiz, Alain, 1989, Choisir l'audace, Paris : La Decouvert?. (=1990 若森章孝訳 『勇気ある選択――ポストフォーディズム・民主主義・エコロジー』 藤原書店).

「ある発展モデルが、それが支配的な諸国の国民的レベルで実現している場合、この発展モデルは相異なる三つの側面から分析することができる。それは次の三つの概念装置に立脚している。
 ・労働編成モデル (やや異なる視覚からの用語として、「技術的パラダイム」または「産業化モデル」がある) /重要なのは、労働編成とその展開を支配する一般的原理であって、この支配はモデルが優位を占める時期をつうじて妥当する。これらの原理のうちには、企業内の労働編成形態だけではなく、企業間分業の諸形態が含まれる。もちろん、セクター全体ないしいくつかの地域が、このモデルから離れたままであることもありうる。しかし、ある労働編成がモデルであるのは、これらの原理にしたがって、もっとも「進んでいる」とみなされるセクターが他のセクターの進展を方向づけるという意味においてである。

 ・蓄積体制/これは、長期における生産諸条件 (労働生産性、機械化の程度、愛顧となる産業所部門の相対的重要性) と生産物を社会的に利用するうえでの諸条件 (家計の消費、投資、政府支出、外国貿易) とが、長期にわたって連動して変化することを表現する論理であり、マクロ経済的な諸法則である。
 ・調整様式/これは、諸個人の相互に矛盾した対立的な諸行動を蓄積体制の全体的論理に適合させるように作用するさまざまなメカニズムの組み合わせである。簡単に言えば、この調節諸形態は、第一に、企業者や賃労働者がこの全体的原理に自らを適応させていくような習慣や順応性である。というのは、彼らは全体的原理を (嫌々であっても) 、有効なものないし必然的なものとして承認するからである。そして第二に、とりわけ、市場のルール、労働・社会立法、貨幣、金融ネットワークといった制度化された諸形態がある。これらの制度化された諸形態には、国家的形態 (法律、通達、国家予算) 、私的形態 (労使の労働協約) 、準公共的形態 (フランス的な社会保障制度) がある。
 したがって、蓄積体制は、労働編成モデルの基礎上で、調整様式が機能するマクロ経済的効果として現れる。そして、これら三つの概念的装置の全体【全体に傍点】が「発展モデル」を構成する。」(Liepiz 1989=1990 : 20-21 )

「フォード主義的労働編成モデルは、さまざまな職能部門からなる大企業内部でのテーラー主義と機械化との結合である。大企業は一部の課業を、同じ原理に従う企業に下請けさせる。現在の危機を理解するためには、何よりも、テーラー主義に注目すべきである。
 テーラー主義は、生産の「構想者や組織者」 (生産管理部のエンジニア [上級技術者:訳者] や彼を補佐する技能者 [中級・下級技術者:訳者] と実行者 (肉体労働者、反復的な課業をおこなう単純労働者) とのあいだの分離――この分離はますます徹底されてゆく――にもとづいて、生産を合理化する運動として現れる。しかしこのことは (科学的管理法の創始者であるテーラーが語ったことや、その後ながらく繰り返して言われてきたこととは逆に) 、「実行者がもはや考える必要がなくなる」とか、労働の知的側面と肉体的側面とが完全に分離するとかを意味するのではない。実際、もっともロボット化が進んだ繊維産業の労働者といえども、けがをしないためにとか、糸が飛ぶのを避けるためにといったことにすぎないにせよ、自分の労働のことを考えなければならない 【なければならないに傍点】 。だが、この「参加」 (この言葉は本書のなかでしばしば用いられる!) は、「公式には否定され」「押し隠された」ままであり、「 [テーラー主義の常識からみれば:訳者] 逆説的でさえある。エンジニアや職長は、労働者が考えることを否定し、労働者に指示に従うように厳命する。しかし彼らは、すべてが順調にいくためには、労働者の残された自発性を当てにしているのである。」(Liepiz 1989=1990 : 23 )

「このフォード的妥協は、ある蓄積体制とある調整様式のなかで実現された。
 この蓄積様式は、つぎのように要約できる。
――熟練した構想者と熟練を剥奪された実行者との徹底的な両極化や機械化の進行にもとづく大量生産様式。これによって生産性 (一人当たり生産物) の急上昇と労働者によって使用される設備財の量的拡大とがもたらされる。
――付加価値の規則的な配分。すなわち、労働生産性上昇に比例する、賃労働者の購買力の増加。
――したがって、機械のフル操業と労働者の完全雇用が実現され、企業の利潤率は安定している。
 言い換えれば、「フォード的妥協」は、大量生産の進行と大量消費の進行との適合関係を実現したのである。フォード的妥協は第二次世界大戦後の世界全体で、アメリカ的生活様式として受け入れられた。アメリカ的生活様式は、生産至上主義と「快楽主義」を旨とするモデル、つまり、すべての人が商品の消費の増加をとおして幸福を追求するモデルである。」(Liepiz 1989=1990 : 26 )

「国によって変化するとはいえ、[フォード的妥協のこと:引用者] の調整様式は、つぎの構成要素をさまざまな割合で含んでいた。
――最低賃金の保障と労働協約の全産業部門への普及についての労働・社会立法。労働協約の普及によって、すべての経営者は賃労働者に一国の生産性上昇に比例する購買力の増加を毎年保障するように誘導される。
――「福祉国家」と社会保障制度の発達。これによって賃労働者 (事実上、すべての国民) は、疾病、退職、失業等々のように、「生活費を稼ぐ」ことのできない場合でさえも、消費者としてとどまることができる。
――信用貨幣 (すなわち、純粋の貨幣) 。信用貨幣は、経済の必要に応じて民間銀行によって (つまり、もはや金保有高に比例してではなく) 発行され、中央銀行のコントロール下に置かれる。
 これらすべての制度が新しい枠組みを、すなわち、新しい「ゲームのルール」を提供した。これらの制度はまた、経済変動を調節するうえでの積極的な責任を国家にあたえた。赤字予算や財政支出をつうじて、国家は経済成長を刺激することができた。銀行制度の保護者としての役割をつうじて、国家は新しい信用貨幣の発行を促進したり制限したりしながら、企業や個人の投資活動を加速したり抑制したりすることができる。このような「操作手段」の利用は「ケインズ主義政策」と名づけられた。」(Liepiz 1989=1990 : 27-8)

「フォード的パラダイムの基礎は何であったであろうか? それは次のように要約される。――生産編成は、「実行者」の労働編成への知的参加を否認するようなテーラー主義的産業モデルの拡大と応用に従って、支配的集団 (経営者や技術者集団) に任せるのが効率的である。
――法ないし契約にもとづく一連の調整諸形態をつうじて、賃労働者とすべての住民に、生産性上昇の一部分が返還されるべきである。そのねらいは、生産性に比例して購買力が上昇し、準完全雇用が保障されることである。
――この返還は、直接賃金および福祉国家をつうじておこなわれるが、どちらの場合も、その返還は商品形態をとった生産物の入手手段である貨幣で行われる。
――完全雇用とすべての人の消費の拡大が、技術進歩と経済成長の目的であり、それに留意するのが国家の役割である。
 言い換えれば、フォード的パラダイムは、三本足にもとづく進歩の観念を提供する。三本足とは、(「技術者集団」によって無条件に押し進められるテクノロジーの進歩として理解された) 技術進歩、(購買力の上昇、商品支配の拡大として理解された) 社会進歩、(個人的利害による「侵害」に反対し、一般的利害の擁護者として理解された) 国家である。このような進歩観は市場よりも「ヒエラルキー」を優先する。そしてそれは、原理的には何人も「進歩の成果の配分」から排除しないという意味で (実際には、明らかにつねに排除されるものがあるのだが) 、「有機的に [社会関係を組織する器官として:訳者] 機能する」。その代わりにこの進歩観は、不熟練労働者を彼らの活動の制御から、市民を彼らが進歩として受け入れなければならない (消費、公共サービス、都市計画についての、より広くいえば、「進歩」がもたらす環境破壊についての) 決定から徹底的に排除する。したがって、福祉国家によって組織された連帯自体はまさしく管理主義的形態を帯びるのである。」(Liepiz 1989=1990 : 33-34)

「知らず知らずのうちに、フォード的な妥協の奇跡的な均衡が問い直されていたのだ。実質利潤率は低下し、投資率も低下していた。さらにどの新投資も、 (人間労働を機械によって置き換えるために) 従来よりも少ない雇用しか生みださなかった。 (利潤率の低下を補償するために) 実質賃金の上昇が鈍化し、これが市場を収縮させた。これらすべての結果として、失業が増大した。しかし、フォーディズムの論理 (長期的妥協) は、失業手当の増加や社会保障給付の増大を含んでいた。一九七〇年代前半には、こういった手当てが大幅に増加した。このように広げられた「安全弁」のおかげで、主要資本主義諸国の国内需要の急落が阻止された。 (この点が、一九三〇年代の危機との根本的な相違である!) しかしまもなく、税金や拠出金によって調達されねばならないこのような社会的移転が重圧となって、経済活動の生産部門を、つまり生産部門の賃金や利潤を圧迫しはじめた。このことはさらに、投資利潤率を低下させ、問題をいっそう悪化させた。そして最後に、福祉国家と社会的移転の正統性そのものが非難された。要するに、福祉国家の正統性とともに、フォード的妥協のすべてが攻撃されていたのである。」(Liepiz 1989=1990 : 40)

「さらに、別の連鎖がまったく逆効果をもたらしたので、フォード主義的成長の好循環が解体していった。それは国際化の連鎖である。六〇年代の末以降、日本と欧州の競争力は (当時の対ドル為替レートで) 合衆国をとらえただけでなく、それを追い越した。アメリカの貿易収支は構造的に赤字になった。一九七一年、アメリカは金とドルとの (まったく理論上の) リンクを放棄した [ニクソン・ショック] 。これは、日本や欧州の競争力と闘うための最初のドル切り下げだった。こうして貿易戦争が布告されたのである。
 貿易戦争は激化し続けた。一九七三年末のオイル・ショックはまず、フォーディズムにもとづく先進資本主義諸国の所得から石油代金を天引きすることによって、収益率の落ち込みを悪化させた。だがそのもっとも明白な結果は、石油代金を (分割払いで) 支払うために、先進諸国は輸出増加を余儀なくされたことである。
……現在までは確かに、フォード主義諸国における購買力の上昇はすべて、おおまかに言えば、その国の企業にたいする需要増加につながった。国際化とともに、もはやそういうことは通用しなくなった。外国の供給者が侵入したのである。購買力の上昇/消費と投資の上昇/それゆえ輸入の増加、という新しい連鎖が生まれた。もちろん、輸出を増やすことによって、反撃にでることができる。だがそのためには、販売価格を下げなければならない。生産性の伸び以下に賃金の上昇を抑える以外に、やり方があるだろうか? それゆえ、輸入と輸出の両面において貿易収支を改善するためには、各国は国内需要を「冷却し」、増加した自国の生産物の販路を外国に求めるように強制される。残念なことに、隣国もちょうど同じことをおこなう。ここに、フォード的調整様式が一九四五年以降、国民的枠組みのなかで排除することに成功していた需要の側の危機が、再現したのである!
さまざまな国の相異なる成長を調和させるための多角的協定があったなら、需要の側の危機は再現しなかったであろう! 国際的な労働協約、超国家的な福祉国家、労働時間にかんする国家の枠を越えた取決めなどがあったなら! だが、これらはどれも存在していなかった。フォーディズムの国内的危機に、つまり、供給の側の危機に、国際的な危機、つまり、需要の側の危機が加わったのだ!」(Liepiz 1989=1990 : 43)

「三〇年代と同じく、危機からの脱出は根本的には政治的な問題である。もはや重要なのは、既成のゲームのルールに適合した「旧来の」経済政策を決定することではない。重要なのは新しいルールを、すなわち、新しい労働編成原理、生産物の開発と社会的利用の新しい基準、新しい習慣、新しい調整様式を選ぶことである。新しい約束についての合意や新しい未来設計についての合意を形成することが肝要である。新しい「長期的妥協」を作り出すことが賭けられているのだ。」(Liepiz 1989=1990 : 50)

「一〇年間つづいたマネタリズムと新自由主義の原理はその威信を失った。だが、この原理の政治的評判は依然として下落していない。」(Liepiz 1989=1990 : 51)

「わたしは七〇年代末の大きな方向転換を導いた世界観 (またはソシエタル・パラダイム) を、自由主義的生産第一主義と名づける。この世界観は、イギリスのマーガレット・サッチャー、合衆国のロナルド・レーガンを権力の座に就かせ、この時期に国際経済に関するすべての勧告・調整機関 (OECD・IMF・世界銀行) を支配しただけでなく、欧州の社会主義者のあいだでも次第に幅をきかすようになった。つまりこの世界観をつうじて、八〇年代の紛れもなく新しい発展モデルが出現したのである。」

Stiegler, Bernard, 2004, De la mis?re symbolique : 1. L'?poque hyperindustrielle, ?ditions Gail?e (=2006 ガブリエル・メランベルジェ・メランベルジェ眞紀訳 『象徴の貧困――1. ハイパーインダストリアル時代』 新評論).

「また、マーケティングのオーディオビジュアル的な手法によって徐々に、私が生きた過去は、私が目にした映像や耳にした音を通じて、隣人の過去と同じものになっていこうとしている。そしてチャンネルの多様化もまた、客層の絞込みでしかない。だからどのチャンネルも結局同じことをやろうとしているのだ。私の過去がますます他者の過去と同じようなものになるのは、私の過去がますます、メディアが私の意識の中に垂れ流す映像や音によって構成されるようになっているからである。そしてそれらの映像は私を消費に駆り立て、そうやって私が消費する物において、またその物と私の関わりにおいて、私の過去が構成されるからでもある。こうして私の過去はその特異性を失い、すなわち私は唯一の存在としての自分を失うのである。」(stiegler 2004=2006 : 30)

「厳密な意味でのムネモテクニック [文字:訳者] は新石器時代以降に出現し、すぐに権力を配置する装置となった。しかしギリシャの都市国家、次いでキリスト教会の設立以降、それらの装置――私はこれを過去把持的な装置と呼んだのだが――は字が書ける知識人 (法律、宗教、政治、思想の専門家) の手に渡り、彼らがその選別 (教会法、正当な言葉、正しい所作、正しいおこない、品行、政治の専門家) の基準を定義するようになる。それらの装置は個体化のプロセスと考えられ、知識人の権力のもとでありながらも、「一」を形成するために「多」が参加するということを前提としていた。
さて、十九世紀には、記憶のテクノロジー mn?motechnologies が初めて登場した。もはや単なるテクニックではなくテクノロジーとして、工業製品や機会がオーディオビジュアル (写真、蓄音機、映画、ラジオ、テレビ) の時代を開き、次いで二〇世紀には計算のテクノロジー (ホレリスの事務機器による処理を継承して) が誕生した。こうしてムネモ‐テクノ‐ロジックなものはインダストリアルな生のサポートそのものとなり、労働と富と役割を世界規模で機械的に分配するという至上命令に全面的に従うことになる。ましてデジタル化の普及によって、情報・コミュニケーション技術も加わればなおさらである。これが今日「文化資本主義」「認識資本主義」とも呼ばれるものの背景なのである。
ところで、産業革命によってあらたに分割された社会的役割の中から、それまで全く未知であった要請が出現する。それは大量生産された工業製品を流通させなければならないということである。工業製品はまず熱力学による機械化、次いでエレクトリック、さらにエレクトロニクス技術によって、ますます大量生産され、ますます多様化していくのである。しかし、同時にますます規格統一化も進むので、多様性ということの定義が変わっていくのだが。
商品をさばくというこうした役割を担うのはマーケティングなのだが、マーケティングは十九世紀にはムネモテクノロジーに飛びつき (たとえマーケティングがそのように定義されるのは二〇世紀になってからだとしても) 、システムの機能を確保するようになった。すなわち、システムを構成するエネルギーが常により加速しながら、(そしてエントロピー化しながら――そこが問題なのだが) 循環するようにしたのである。」(stiegler 2004=2006 : 34-36)

「われわれのほうは、それらの歌 [懐メロ] に特別の興味を抱いたことはおそらく一度もなかったはずです。しかし実は自分たちもそれらの歌に気にとめていたのだと、われわれは突然気付くのです。歌は想像をはるかに越えてわれわれに作用し、この上なくひそかに、かつ親密に、意識とその過去の流れに絡み付いていて、要するにわれわれはそれらの歌が好きなのです。それどころか、われわれはそれらの歌が好きだったのかもしれません。…結局のところこれらの歌が全部すきなのだと。以前はそれらの大半を何てくだらない歌だと思っていたのですが…。
映画が歌を供し、また歌がほとんど奇跡のように映画を盛り上げるといった、なんとも巧みに構成されたコンテキストで歌がよみがえるやいなや、これまでどうにも陳腐だと思っていた懐メロの歌詞が、もう何も信じられずくたびれてしまっているわれわれに、まさにこうでしかあり得ない詩のようなものとして響くのです。」 (stiegler 2004=2006 : 82-83)

「「原料よりもむしろ消費者の注意力 capacit? d'attention こそが、希少な資源となっていく」とリフキンは書いていました。それは私が先に述べたハイパーインダストリアル時代の特徴を示しています。ところで、注-意 at-tention [緊張 tension が何かに (?〜) 向かうこと] は単にキャッチされているだけではなく、時間的商品という間接的手段による過去‐把持 r?-tention [緊張が後ろ (過去) に向かう] と未来‐予持 pro-tention [緊張が前 (未来) に向かう] のコントロールによってまさに生産されるのです。
 このように注意をキャッチするというコントロールは、『千のプラトー』の意味での「捕獲 capture 」 (実際はシモンドンの意味での「形質導入(トランスダクション)」なのですが) です。」(stiegler 2004=2006 : 151-152)
Stiegler, Bernard, 2006, 「〈インタビュー〉「象徴的貧困」というポピュリズムの土壌――「意識の市場化」からの脱却を」『世界』 752: 176-184.

「スティグレール ところが二〇世紀には資本主義の中心がアメリカ、特にカリフォルニアに移ります。二〇世紀冒頭に、アメリカ型資本主義は利潤率の逓減に対する解決法を見いだしました。それは三つの次元から成り立っています。
 第一はフォーディズムの登場です。生産者は同時に消費者であり、生産性を高めることでこの消費者としての生産者の収入を改善しなければならないという考えに基づいたものです。このモデルによれば、全ての人が勝ち組となります。プロレタリアは消費者となるのです。有名なフォードのT型は、それを生産する労働者をターゲットにしたものです。
 これは全く新しい考えで、ヨーロッパ型資本主義に対するアメリカ型資本主義による革命でした。こうすることで二〇世紀のアメリカ型資本主義は、十九世紀に目標とされた生産性の向上とは異なる課題に、取り組むことになります。資本主義の発展を保証するのは市場の拡大であるとされ、アメリカ型資本主義は広大な市場の獲得を目指すことになります。当初は国内市場、続いて世界市場を、二〇世紀初頭以来、アメリカ型資本主義は、世界規模の市場拡大のヴィジョンを持っていたということです。これは新しい帝国主義ともいえるでしょう。
 これと連動して、第二のとても重要な次元があります。それは、アメリカ映画の登場であり、アメリカ型「文化産業」の誕生なのです。一九〇五年から一九〇七年にはアメリカ映画は産業モデルに基づいて発達を始め、一九一二年には映画の戦略的重要性が政治おいてすでに議論されていました。これはもちろん映画によって利益を上げることにも関わりますが、特に重要なのは、大量消費へと消費者の申請を条件付けて準備することにあったのです。映画産業の発達を通して、一九三〇年代には「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」と呼ばれることになった行動様式を、アメリカ国内および世界規模でプロモートしていくということが起こった。
 この点が極めて重要なのは、それがフォーディズムを補完するものだからです。フォードがT型を生産することで目指したような広大な市場を手に入れるためには、産業製品を人々に取り込ませるための行動様式を同時に発達させなければなりません。一般的に言って、社会は産業製品を自ら進んで採り入れようとはしませんから、条件付けをおこなう必要がある。その条件付けの主役が映画の映像なのです。
 映画は、文学、音楽などの伝統的な象徴表現よりずっと大きな模倣喚起力を持っています。それはレコードという音楽的産業品とともに更に発達し、続いてラジオ、そして第二次世界大戦前後にはいよいよテレビの登場によって具現化されるに至ります。これらは私が「産業的時間対象」と呼ぶものによる社会のコントロールです。さらに、今日では、携帯電話などにより、人びとの生活の隙間の時間までがこうした社会的コントロールの対象となっているのです。
 第三の次元として、エドワード・バーネーズという人物によって代表されるマーケティングの登場があります。精神分析の父フロイトの甥であるこの人物は、当時は「PR (public relation) 」と呼ばれ、後に「マーケティング」となるものを発明した人ですが、彼は一九一七年以来、資本主義の問題とはオピニオンを操作することにある、アメリカの、あるいはさらに世界中の消費者の個人および集団レベルでのリビドーを、制御し方向付け、補足することにあると主張したのです。資本主義の真の問題は生産ではなく販売にあるという考えに基づいて、販売するためには大衆の欲望、すなわちリビドー・エネルギーを、親や恋人、宗教や政治といった理想的な「昇華」の対象から、消費の対象へと振り向け、固定しなければならないというわけです。全ての欲望は、マルクスの言い方を借りれば (もっともマルクスとは違う意味ですが) 、商品のフェチシズムにもとづくのでなければならないというわけです。」 (Stiegler 2006 : 178-179)

Lazzarato, Maurizio, 1992, Le concept de travail immateriel : la grand entreprise,
(http://multitudes.samizdat.net/Le-concept-de-travail-immateriel.html)

p1
…le travail immateriel etant le travail qui produit le contenu informationnel et culturel de la marchandise.
「今後は、新たな労働の組織形態に基づいた研究と、問題についての豊かな理論的考察を、いかにして新たな労働の概念とそこに含まれる新たな権力関係の概念から解き放つのか、が重要な性質となる。これらの結果の第一の綜合は、特定の観点 (労働者階級の技術的かつ主観的‐政治的構成の定義という観点) に従って導かれており、非物質的労働の概念によって説明されうる。ここでの非物質的労働とは、商品の情報コンテンツや文化コンテンツを生産する労働のことであるだろう。この概念は、労働の二つの異なる現象を参照している。一つには、商品の「情報コンテンツ」に関わるものとして、直接的に提示されている。それは、産業やサーヴィス業において大企業に勤める労働者の労働の変容であり、そこでは非間接的な労働のタスクは、ますます情報を扱う能力と水平的・垂直的コミュニケーション能力に従わされていくのである。もう一つには、商品の「文化コンテンツ」の生産活動に関わるものとして、通常、労働としてはコード化されない一連の活動なのだと提示されている。」

「大企業における「労働」の形態の変遷についていくつか指摘するだけに留めよう。」

「実際、大企業の労働者は「状況を分析」し、「意思決定」し、予見不可能な出来事を飼いならすことができなければならないし、同時に、コミュニケーション能力とチームで労働する能力を持っていなければならない。というのも、労働者が命じられるタスクはもはや前もって規定された操作ではもはやなく、流れの連続性に関わっており、実際、いずれにせよ「絶えず変化し続ける」技術体系に関わっている。」

「労働は今や、生産的な協同を活発に行い、管理する能力として定義されうるだろう。」



*作成:橋口 昌治中倉 智徳
UP:20071229 REV:20081020 1021, 20120331
労働 
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