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不老不死 eternal youth and immortality



■引用

Foucault, Michel 1976 La volonte de savoir (Histoire de la sexualite I),Gallimard(=1986, 渡辺守章訳『知への意志――性の歴史I』新潮社).
(pp74-75)
 一方には、性愛の術(アルス・エロチカ)を備えた社会があり、しかも、中国、日本、インド、ローマ、回教圏アラブ社会など、その数は多かった。性愛の術においては、真理は、人が実践として知り、経験として取り集めた快楽そのものから引き出される。快楽が問題にされるのは、許可と禁止の絶対的掟との関係においてではないし、実用性の基準に基づくものでもない。そこでは快楽は、第一に、そして何よりもまず、快楽自体との関係において、快楽として識られるべきものであり、従って、その強度、その特別な質、その持続、肉体と魂とにおけるその反映に従って識られるべきものである。そればかりではない。この知は、性の実践をあたかも内側から育てるようにして育て、その効果を増大させるために、節度を以て性の実践そのものへと再び注入されなければならぬ。こうして、秘密として留まるべき一つの知が成立するが、それが秘せられねばならぬのは、その対象が汚らわしいものだと見なされることを恐れるからではいささかもなく、伝統的に、その知は、口外されればその効能と力とを失うと考えられているが故に、最も慎重に隠しておく必要があるからである。秘密を保有している師への関係は、従って、この知の根本をなす。師だけが、この知を、秘教特有の直接的な形で、しかも、彼が弟子の歩みを隙のない知と厳格さで導いてやる秘儀伝授の儀式の果てに、伝えることができるのだ。師によって与えられるこの術の効能は,その具体的な秘法の無味乾燥から予想されるよりも遥かに豊かなものであり、この術が特権を許し与えた者を変容させるはずのものである。すなわち、肉体の完全な統御、快楽の類い稀な享受、時間と限界の忘却、不老不死の霊薬、死とその脅威の追放がそれである。


◆増子忠道, 19790615, 「正常と異常」川上武・増子忠道編『思想としての医学――ライフサイエンスの光と影』青木書店.
(pp48-49)
 これまで正常と異常は画然と区別されるものとされ、また区別できるものとされ、区別されなければならないものと考えられてきた。たしかに急性感染症の場合は、正常と異常の区別は明瞭であったし、そこでの成功が他の疾患でも基本的にはくりかえされるものと期待されてきたのである。これまで近代医学の偉大な成果は、回復可能な異常の範囲をひろげつつ、細菌学・抗生物質・諸器械・諸検査方法などの進歩を武器に、市民にも医師医学者にも大きな信頼を育ててきた。
 ところが急性感染症克服のあとにまっていたのは、不死不老無病ではなく、癌、慢性病、脳卒中後遺症、外傷後遺症であり、完全な回復は不可能な「異常」であった。
 こうした事態に当面して従来の医学は当惑の極に陥ったといってもいいすぎではない。従来の医学が、回復可能な異常を固有の対象としてきたため、回復不可能な異常については医学の対象外とする思考が強かった。だから故意に無視するか、反対に無力感にうちひしがれて「安楽死」に心情的に同調してし

◆Parfit, Derek 1984 Reasons and Persons, Oxford University Press(=19980620, 森村進訳『理由と人格――非人格性の倫理へ』勁草書房).
(pp398-399)
 ネーゲルはシリーズ―人格(series-person)という概念を記述する。ネーゲルの見解によれば、本質的に人格とは身体を持った特定の脳だが、シリーズ―人格は、身体を持った複数の脳の、R関係を持ったシリーズとして存在しうる。現在のわれわれは、われわれの身体が老化し崩壊するという問題を解決することができない。ネーゲルはテクノロジーがこの問題を解決している共同体を想像する。この共同体では、三十歳を超える人は誰でも毎年一回〈スキャニング・レプリケーター〉にはいる。この機械は人の脳と身体を破壊して〈レプリカ〉を作り出すが、それはこの人物とR関係があり、その身体は老化も崩壊もしていないという点を除くとそっくりである。ネーゲルは、この共同体の中のシリーズ―人格にとってこの〈スキャニング・レプリケーター〉を使うことは不合理ではないと主張する。彼らの同一性の基準によれば、これらのシリーズ―人格のそれぞれは存在し続けており、毎年新しい脳と身体に動いていく。個々のシリーズ―人格は、三十歳の時の脳と身体の若さと外見と力を有する脳と身体をいつでも持っているのである。
 これらのシリーズ―人格は致命的な事故に遭うかもしれない。そこで私は細部をつけ加えて、用心として個々人が毎日青写真を作らせることにする。このようにつけ加えると、これらのシリーズ―人格は不老不死でありうる。今日受け入れられているほとんどの理論によれば、〈宇宙〉は無限に膨張するか、あるいは崩壊して〈ビッグ・バン〉の逆転に戻る。ほとんどの物理学者は、いずれの場合でもあらゆる形態の生命が不可能になると想定している。もしこれが真でないと、これらのシリーズ―人格は永遠に生きられることになる(57)。


◆西谷修, 20000901, 「不死の時代」 Nancy, Jean-Luc(ジャン=リュック・ナンシー) 2000 L'intrus, Editions Galilee=20000901 西谷修訳『侵入者――いま〈生命〉はどこに?』以文社:97-115.
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db2000/0000jln1.htm
(pp101-104)
 人間は長い歴史を経て、自然や宗教や暴力を克服し、しだいに自由を獲得して人間と呼ぶにふさわしい人間となった。それが少なくともヨーロッパ的な文明における近代の人間の基本的な考え方である。この理念がたとえヨーロッパという一地域に発した文明のものであるとしても、あるときから世界がこの文明を受け入れ(あるいはそれに征服され)、現代がこの文明の世界化の上に築かれているとするなら、現代文明を享受するところではどこでも、この文明とその論理を自分たちの世界の足元にあるものとして考慮しないわけにはいかない。
 その近代世界の成立期に、ヘーゲル(Hegel, G. W.F.)はこの世界の生成の論理を、自然の人間化をとおしての「人間」そのものの生成、という形で描き出した。人間は自分以外のものに働きかけ、それを自分の領分に取り込み、利用できる道具や資材とし、そのことで自分の領域を拡張して「人間の世界」を築き上げたというのだ。そしてヘーゲルは、くまなく人間化された世界に「理性の王国」の完成を見た。それは、世界が人間のためにあり人間が世界の主人であるという、近代の人間中心的な世界観の表明でもあった。ところでヘーゲルは、この人間化の過程を導いたものを「否定性」という言葉で規定する。「否定」とは単に対象を破壊することではない。人間は森を切り開いて家を建て居住する空間を作るように、在りのままの存在を否定してそれを人間にとってのものに変える。その働きを「否定性」という。そしてその「否定性」は、対象を否定することで人間に役立つものを生み出すばかりでなく、「人間」そのものを実現するから、人間の本質なのである。
 ところでこのヘーゲルの考えは、スピノザの理性がなぜ死を問題にしなかったのかを教えてくれる。ヘーゲルの示すところによれば「否定性」そのものが「死の威力」なのである。死は、生きていた者を動かない「もの」に変える。死が通過するとき、生きていた者は倒れ、そこにいるのにすでにそこにいない。死はそのような見えない変化を生み出すが、その死を前に立ち止まり、その威力をわがものとすることによって精神は、在りのままの存在を実在「人間にとってのもの」に転化する「魔力」を得た、とヘーゲルは言っている。つまり、人間の[否定」の力とは事象に死を与える力であり、その力をもって人間は世界を征服し、「人間」とその世界を作り上げてきた。だから「死」はすでに人間の内に本質化しており、理性としての人間は、ちょうど手が自分自身をつかむことがないように、死を問題にしないのだ。
 そのヘーゲルは、世界の人間化の完了によって、否定性は消滅すると考えた。なぜなら否定性は、他なるものの否定を通して自己自身を成就し、作り出された実在の内に揚棄されることになるからだ。たしかにそのようにして近代の人間中心主義的世界はできあがった。だがそれでも人間が「否定」をやめてしまったわけではない。ところが、「否定」の完了した世界にはもはや新たに否定すべきもの(ありのままの自然)は何も残っていない。そこでこの剰余の否定性は、今度は今しがた成立したばかりの「人間的」世界を否定することになる。それがヘーゲルの予見しなかった世界戦争だったとしたらどうだろう。世界戦争がそのような「否定」の全面化だったことは、たとえばこの戦争が生み出した核兵器が象微している。ブランショ(Blanchot, M.)は核兵器の意義を、これによって「人類は自殺の能力を獲得した」と表現しているが、それは「入間」が理念としてではなく現実的に一つの「全体」になったこと、そして、これまで他を否定することで自己を形成する主体だった人間が、ついに自分自身を否定の対象としうるようになったことを意味している。否定性が人間的世界の完成でひとつのサイクルを終えたとするなら、このときからそれは「リサイクル」の段階に入ったとも言えるだろう。
(pp111-115)
 しばらく前「人間は死んだ」ということがよく言われた。それは旧来の「人間」概念に対応する現実がもはやどこにもないということだ。人間はテクノロジーによって世界を変えながら、世界を変える自分だけは『人間」であり続けていると思っている。それはヘーゲルが歴史の終焉を告げたことに対応する、近代の人間中心主義の陥穽だった。だがおそらく現代は、人間が世界で自律した主体として振舞い続けることが、「人間」であることを否定してしまうような、ある臨界点を超えた時代なのだろう。それが{否定のリサイクル」の意味することだ。まさしく人間の臓器を不用品のリサイクルとして活用する臓器移植もその端的な現れのひとつだと言える。だが「人間」の自明性にあぐらをかく思考は、自分の足場を払うこの事態の本質を見ることができず、ほころびたヒューマニズムと現実主義をベースに、人間主義がとうの昔にお払い箱にしたはずの観念論的二元論まで持ち出して、便宜的に対処することしかしない。それが「脱-人間化」する世界にますますアイロニーに満ちた様相を与える結果になっている。自分が今も世界の中心におり、世界を自分のために改変していると思っている「人間」は、実はそのことによって自分が変えられていることに気、つこうとしない。だが求められているのは、その新たな現実の前に自分が変わるのを拒むことではなく、自分も含めて変わってゆく事態を確実に認識し、その現実をいかなるアイロニーも含まない肯定的なものへと転化してゆくことである。そのとき新しい事態は「人間」にとってひとつの脱皮となるかもしれない。
 それはなにも突飛な要請ではない。ヘーゲル以後、すでにそのための多くの努力があった。近代に理性の秩序が支配するようになって以来、その秩序から排除され「無」の領域にさまよってきた「身体性」が、あちこちでその存在を主張してきたのだ。ニーチェは(Nietzsche, F.)は、理性とは身体という大きな理性の玩具だと語り、フロイト(Frued, M.)は、身体に直結して意識を左右する無意識を明るみに出し、ハイデガー(Heideggar, M.)は実在的世界から排除された「存在する」という出来事への注意を促した。それ以来、意識や精神には限定されない「実存」としての人間が語られるようになるが、「実存」を語った大きな思潮の深いモチーフのひとつは身体性の復権だったと言うこともできる。そしてその周辺にはブランショやレヴィナス(Levinas, E.)のように、人格性の死を超えたところに身体性の露出する「僅少の実存」、人格的生を奪われて生きる世界から締め出され、まさにそのことによって「死ぬことのできない」境涯に遺棄された生存の在りように着目し、そこから「人間」をとらえなおそうとした一群の思想家たちもいた。
 彼らにとって「死は不可能だ」ということ、死が誰にも属さない非人称的なものだということ、死によって個人は完結せず、固有の生はありえないということ、したがって人格性のない無意味な生存という状況があることは、解決すべき問題ではなく、そこから人間についての思考を始めるべき出発点だった。その出発点は、生きる世界が崩壊し個が全体に融解した「世界戦争」の時代の条件や、人間が自由な意志や人格性を完全に奪われ、死の大量生産の原料と化した「アウシュヴィッツ」の体験と結びついている。彼らは、人間の「否定」が徹底的に実現された「否定の後」の世界でものを考えるのだ。そういう思考にとっては、人間はすでに非人称化の次元にあり、人称性や主体性はあらかじめあるのではなく、そこから作り出すべきものとみなされている。限りなく生から遠い非人格的な中間的生存を見据えるそのような思考が示唆しているのは、死に委ねられるこの生存を他の生によって代償するのではなく、他の生のうちに復活させる論理である。
 いわゆる「脳死」を弔人間の死しとみなそうとする論理が胡乱なのは、人間の死を脳の機能停止に還元して、ある意味では「生きている」と言わざるをえない身体を「死んだ」とみなし、そのあげくに「生き」させて「もの」として利用する、その便宜的合理化のためである。移植技術が臓器とその受け手とを脳生かす」ものであるならば、この臓器は「生きている」と言うべきだし、身体を「生かす」技術が人間の生の可能性を変えてゆくのならば、まず人間は身体的生存だということを肯定しなければならない。そして個はもはや単独で完結するものではなく、人間が基本的に複合存在であって、個的な人間の同一性とは単一不変の本質として保証されたものではなく、むしろ複合性によって可変なものとしていつでも組織し直されるということを肯定しなければならない。「私」とは誰でもない、その誰でもないことにおいて初めてこの「私」の複合の生があるのだ、とさえ言う必要があるだろう。そのとき死の非人称性も生存の非人称性も、ただ理念としての「人間」に回収されるばかりでなく、その「人間」の概念と現実に新しい内実を与えてゆく積極的な条件となるだろう。そうなると「不死」は、不老長寿の夢が思い描くように個的な生の延長としてではなく、一人では「死ぬことのできない」
個のリレーの内に、身体的な複合性の内に、不断の「復活」として形を変えて現れることになる。あのスピノザの唯物論的命題がなんの留保もためらいもなく、全幅の意味をもって蘇るのは、そんな「不死性」への覚悟においてなのではないだろうか。


◆寺園慎一, 20010125, 『人体改造――あくなき人類の欲望』(NHKスペシャルセレクション)日本放送出版協会.
(p24)
 ボストン郊外にあるバイオ企業、アドバンスド・セル・テクノロジー社の社長マイケル・ウエスト氏の夢は、不老不死の実現である。
 「故障した車を修理に出して、古くなった部品を交換するように、人間の体の組織も新品と交換できるような時代がやってきます。人間の寿命は大幅に延びるでしょう。私は、人間の寿命に本質的な限界があるとは思いません。それは、科学がどれだけ進むのかによるのです。今後、百年間のうちに、人間の寿命は、いまの二倍ぐらいになるでしょう」
 医療の歴史は、命の限界を広げようとする歴史であった。二十世紀の後半に登場したバイオ・テクノロジーは、その命の限界点を一挙に突破しようとしている。しかし一方で、生命を操作しながら突き進むこのテクノロジーは、「自らの命をながらえるために、他の命を利用してもいいのか」という問いを私たちに突きつけている。
(pp108-110)
 ウエスト氏の夢は不老不死の実現である。その決め手となるのがES細胞だと考えている。
 「人間の寿命には本質的な限界はない」とウエスト氏はいう。今後のES細胞の研究次第では、人間の寿命は二倍になることもあり得ると断言する。
 「私の関心はただひとつ、老化をどうすれば防ぐことができるかということです。毎日、それだけを考えているといってもいいでしょう。いま、このシャーレのなかにあるのは、八十五歳になる老人の皮膚細胞です。細胞のなかのDNAを見ると、老化しており、それはろうそくの火が燃え尽き、ヒューズが焼き切れようとしているかのようです。しかし、この細胞を卵細胞のなかへ入れると、時計はリセットされ、細胞が再び若返るのです。老人の細胞が生命の始まりへ逆戻りするのです。時間を逆戻りさせるのがES細胞です。ES細胞があれば、その人のどんな組織でも作り直すことが可能となります。例えば、エイズの患者が新しい免疫システムを必要としていれば、数週間のうちにその人の細胞からエイズに汚染されていない新しい免疫システムを作り出すことができます。心臓疾患があれば、新しい心臓の細胞で心臓を補強することができます。こういった技術は、いままで人類が持つことのできなかったものでした。そして現在、それが可能になったのです。故障した車を修理に出して、タイヤやキャブレターを新品に取り替えるのと同じように、老人の体の組織を新しいものに交換できるようになるのです。ES細胞は、ギリシア神話のパンドラの箱のようなものです。パンドラには、ギリシア語で『贈り物』という意味があります。神話では、ご存知のようにパンドラの箱からはたくさんの災いがこの世に出てきました。しかし、人類のためにこの箱を開ければ、つまり倫理的に正しい使い方をすれば、悪ではなく、より多くの善が出てくることになるでしょう」(略)
 しかしウエスト氏は、老化を食い止める切り札になるES細胞開発競争で、カリフォルニアのジニロン社に先を越されてしまった。実はジェロン社は、そもそもウエスト氏が一九九〇年、大学在学中に設立した企業である。会社名を古代ギリシア語の「老人」という言葉から取ったのも、ウエスト氏である。ジェロン社はそもそも、ウエスト氏が不老不死という自らの夢を叶えるために作った会社だったのである。
 後にES細胞を発見することになるトムソン博士、ギアハート博士をいち早く見つけ出し、資金提供を申し出、代わりに特許を得るという契約を結んだのも、ジェロン社に在籍していたウエスト氏であった。老化を食い止めるには、体の組織を交換しでいくしかない。交換するための組織の供給源は、生命の起源である受精卵に求められるのではないか、という奇想天外なアイデアを思いつき、それを実現するために世界有数の研究者たちを口説き落としたのである。


Kass, Leon R. 2002 Life, Liberty and the Defense of Dignity: The Challenge for Bioethics, Encounter Books, San Francisco(=20050415, 堤理華訳『生命操作は人を幸せにするのか――蝕まれる人間の未来』,日本教文社).
「栄えある生命とその限界――生命に終わりがある理由」:348-374.
(pp353-355)
 医学の発展と同時に、新しい倫理観も、死すべき運命と科学の聖なる戦いを後押しするようになった。命を救い、病気を治し、死を阻止するものなら何でも認められるようになったのである。それゆえ、老化をストップさせる療法を求める声は切迫していようとも、私たちがそれにのっとって進んできた前提を再検討することはもっとも大切なのである。すなわち、健康を維持し、寿命を延ばすために可能なかぎりあらゆる手をつくそう――健康と活力と長寿をつかさどる生命医学の神の前では、そのほかの価値など取るに足らないという考えのことだ。
 しかし、老化と死を克服すべしという昨今の命題はまた、批判とも無縁ではなかった。その内容は二つある。社会的結果に与える有害性と、公平な配分という意味での不満である。前者は、人口数と年齢分布に与える影響を懸念するものだ。一〇〇歳を超える人間がどんどん増え、人口における割合が増していったら、たとえば、就職の機会、引退後のプラン、雇用と昇進、文化的態度や信念、家庭生活の構造、世代間の関係、政府の形態と機能の中心地、ビジネスと職業、などにはどう影響してくるのだろうか? おおまかに考えてみても、「より長くより活動的な人生」を求めていくつもの解決方法を試した結果が、かなり、破壊的で望ましからぬものになることは想像にたやすい。おそらく、多くの人々が一生のほとんどを経済的に困窮して過ごすことになり、いよいよ人生を終えるころには健康であることによって享受した利益も相殺されてしまっていることだろう。老化の阻止は明らかに「庶民の悲劇」の典型的な例になるだろう、と予測する人もいる。つまり、今まで純粋に個人単位で追求していたものが万人に与えられるという社会的結果によって意味をなさなくなる、あるいはもっと悪い結果をまねくこともありうるということだ。
 だがこれとは別に、長寿あるいは不死の命という技術の恩恵は、すべての人間に与えられるわけではないと指摘する批判もある。その理由の一つは、これは容易に想像できることだが、治療にかかる費用が高額なものになることだ。死とは無縁の命を得られるのはひとにぎりの人間だけだとしたら、これほどの不公平があるだろうか? ただでさえ富める者と貧しい者に分けられている世界に、死ぬ人間と死なない人間という区別が加わるのだから。
(pp357-358)
 これは大いに共感できるところだ。老い衰え、身体の節々が痛み、耳が不自由になって、口には入れ歯をはめ、他人の手を借りなければ生きていけないような老人に喜んでなりたいと思う人間がいるだろうか? だがもし、こういった老化現象がなかったとしても、それでもまだ長く生きることを拒絶するだろうか? そうなると、退場したくないとは思わないだろうか? 死はより侮辱的なものに変わってしまわないだろうか? 前兆のない死のために恐怖や嫌悪感は増さないだろうか? 夫に先立たれた女性に、ご主人は苦しみから解放されたのだからという慰めももはや通用しなくなるかもしれない。死はいつも時期尚早で、予告なしにやってくる、ショッキングなものとなる。(略)
 そうであれば、活力を失わずにほんの少し長生きすること、あるいは長寿は望まなくても若さを保とうとすることは、死に対する拒絶反応を強め、なんとしても死を排除したいという思いを増幅させることも考えられる――そうやって得た生が必ずしも満足のいくものでないことが、なんらかの形で証明されないかぎりは。
(pp361-364)
 では、人間の有限性は私たちにとってどのように有益となるのだろうか? 四つの点をあげよう。その第一は「興味と活動期間」である。人間の寿命がたとえば二〇年だけのびたとしよう。人生の楽しみもそれと同じだけ増えるのだろうか? (略)楽しいことやつらいことをたびたび繰り返し、いちばん末の子供がやっと大学を卒業したあと、さらにまだ一〇年同じことを繰りかえせと言われたら親は喜ぶのだろうか? (略)たいていの人間はさほど楽しくもやりたくもない事柄に非常に多くの時間を費やしているが、その後も同じような繰り返しから新たな幸せを得ることができるのかどうか、それすらわからない。こんなことを言った詩人がいた。「私たちは同じ事柄の繰りかえしのなかで行動し、人生を送る。寿命が延びたところで、新しい喜びが生まれるわけではない」
 二番目は「真摯さと情熱」である。死という制約がなくても人生は真摯にとらえられ、意味をもつものであるだろうか? 人生を真摯にとらえ、情熱を抱けるのは、生きる時間に制限があるからなのではないだろうか? この世に生きられるのはたった一度かぎりで、期限が目の前に見えていることを自覚し感じることは、多くの人間にとって、価値のあることを行うための欠かせない刺激となるのではないだろうか?(略)
 三番目は「美と愛」である。死は美の母だと、ある詩人は言っている。その真意はさだかではないが、死すべき運命をもつ存在だけが、自分がいつかは死ぬこと、世の無常、自然界にあるものの儚(はかな)さを知っているがゆえに、美しいものを創りたいという衝動にかられる、という意味に受けとることもできよう。永遠に残るもの、作り手のように衰えることが決してないもの、美を必要とする世界に美をちりばめる美しいものを。自分自身では作り出せないにせよ、おそらく滅びの醜さを知っているからこそ美を正しく評価できる審美眼をもった、やはり死すべき運命の下にあるほかの人々のための、美しいものを。(略)
 四番目は、とくに人間の性格の美しさにかかわるもので、「徳と道徳的な気高さ」である。死すべき運命をもつということは、たとえば戦場での一瞬に命を投げ打つだけでなく、多くのさまざまな場面で、生への執着を顧みない行動におのれの命を捧げられるということである。道徳的な勇気、忍耐力、魂の崇高さ、寛容、正義を守る心――行動の大小はともあれそういったものをとおして、私たちは、ちっぽけな被造物という自分の存在を超える――高貴で善なるもの、神聖なるもののために人生の貴重な時間を費やしているそのときに。恐怖を忘れ、肉体的な喜びも捨て、富への執着も振りはらい――これらはどれも生きることと密接なかかわりがある――高潔な行動にいそしむなかで、人は自らの貧しさという重荷を乗りこえる。だがこの崇高さのためには、傷つきやすく死すべき運命を背負っているということが、必要不可欠な条件となる。不死の存在は崇高にはなりえない。
(pp365-368)
 しかし、当然こんな反論も出てくるはずだ。死すべき運命が恩恵であるなら、そうとらえる文化が極端に少ないのはなぜか?(略)不死へのこだわりが意味するものはなんだろう?(略)
 不死や不朽の約束は、人間の魂についての深い真理に対する答えである。人間の魂は、それをめざしながらも、生きているあいだには決して得ることのできないある状態、ある目標を切望し追い求めている。魂は、私たちの理解を超えるところにあるものを求めているのだ。魂が求めるものは自らの存続ではない。私たちの手の届かないもの、多くの場合において私たちの脇をすり抜けていってしまうものである。死すべき運命への嘆きとは、切なる魂の願いと、自らのあまりにもかぎられた力や肉体の煩悩との相克のあらわれなのだ。(略)
 ここから推論されることは明らかだ。すなわち、右に述べてきたような人間の切望は寿命を延ばしてもかなえられない。ただ年齢だけが増え、はてしなく「同じこと」を繰り返すばかりで、もっとも深い望みを満足させることは不可能なのである。
 この推論が正しいなら、必然的に、死との戦いに関してもある明白な結論を導きだすことができる。不死や不滅、永遠といったものにあこがれる人間の気持ちは、たとえ死を「生命医学的に」克服したとしても、きっと満足させることはできないだろう。そうなったとしても、私たちは不完全な存在のままだろうし、知恵に欠け、神の存在や救いに乏しいままであるだろう。やみくもに寿命をひき延ばしても、充足は得られない。それどころか、寿命の延長を追求することは、人間の魂が本来めざしているはずの目標から私たちの歩みをそらすことになり、人間の幸福を脅かすことになる――いや、もうすでに脅かしているといえる。目的がわきにそれ、多くの人々や社会的エネルギーが、肉体の不死をめざすことが最終目標であるというあやまった方向に導かれることにより、よりよい生を生きるチャンスや、たとえ不完全であっても、最善なるものを望む深い切望を(ある程度であっても)満足させるチャンスを失ってしまうことになるのだ。人間の生に隠された意味は、決して虚無的なものではない。人間の有限性を知り、それを受け入れることができれば、私たちはよい生を生きることに専念でき、魂の安寧(あんねい)を最優先に考えるようになり、存在だけにこだわることはなくなるだろう。
(pp370-371)
 若さを持続させることを望む人々は、たいがい子供に敵意を抱く。子供たちはあとからやってきて、自分たちの場所にとってかわってしまうからだ。子供は、死すべき運命に対する生の答えであり、家庭における子供の存在は、もはや自分は最も新しい世代ではないのだと指摘され認識することを意味する。おのれの老化をストップさせ、そのうえ、魂や永続化の意味に忠実であり続けることはできないのだ。
 永続化というのは、肉体の種を蒔くことだけではない。それは希望、真理、伝統といったものの担い手を次の世に送りだすことでもある。私たちの子供たちが栄えるためには、私たちはまずきちんと種を蒔き、栄養を与え、豊かで健全な土壌で育て、きちんとした適正な判断力や道徳観を身につけさせ、まっすぐ高く伸びるためにいちばん高い光をめざすよう導かなければならない――かつて私たちの種を蒔き、道をゆずった先達たちの場所に私たちがとってかわったように、今度は私たちの子供たちが私たちの場所にとってかわるのだ。そして彼らもまた、やがて次の世代の種を蒔き、道をゆずっていく。だが、花を咲かせるためには、まず種を蒔かなくてはならない。枯れなければ種はできないし、場所をどかなければ種を蒔くことはできない。
 すると、利口ぶる連中は次のように反論してくる。死を克服したら、もう子孫など無用のはずだと。だが、それは、自己中心的で浅はかな、生や老化をただ単に肉体的な面からしか見ていない考え方だ。時間の経過とともに現れる心理的な影響――経験や物事のとらえ方がどう変わっていくかという点をまったく無視している。健康面でまったく問題がなく、社会的に尊重され、よい地位にあったとしても、時がたてばたいていの人間は、世界を新鮮な目で見ることができなくなる。何を見ても驚かなくなり、何を聞いても衝撃をうけず、不正に対して当然起こるべき義憤は絶えはてる。まわりにあるのは見慣れたものばかり――何もかも見尽くしてしまったから。他人にだまされ、自ら過ちを犯すことを繰り返す。多くの人間が狭量となり、肉体的な衰えや、愛する者との別れに落胆することがなくなるかわりに、生そのものに失望していく。野心もしぼんでいくだろう――とくに、もっとも気高い野心が薄れていく。年をとるにつれ、アリストテレスが言ったように、私たちは「優れたもの、高貴なものを強く求めようとはしなくなり、必要なものだけや存在の慰めとなるものばかりを欲しがるようになるだろう」。そしていつしか親しい友人に、「これだけしかないの?」と問い返すような人間ばかりになるかもしれない。私たちは居直り、おかれた状況を受け入れることになる――受け入れられるほど好運な状況であればだが。多くの――おそらく非常に深遠な――かたちで、人間は死期が近づくと長い眠りにおちいることが多い――だから、もし、この世で何者かになろうとする刺激を人間に与える死というものがなくなったら、生きているうちからその長い眠りにつくことも起こりかねないだろう。
 一方、大志や希望、溌溂さ、大胆さ、開放性といったものは、若さから新しく湧きでるものだ――そしてそれは、私たちがこれまで築き上げてきたものをくつがえすという形をとって現れることもある。子供をとおして自身の不滅を願うのは幻想といえるかもしれないが、子供をとおして人間の可能性が自然に、永久に再生されていくだろうと考えるのは決して幻想ではない――この現代においてもだ。


Kass, Leon R., 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press(=200510, 倉持武監訳『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店).
「不老の身体」:187-241.
(pp188-189)
 我われはみな、少なくとも、年をとるのがどういうことであるか知っている。しかし、おそらくこれまでは、人間の経験における老化の役割については十分に考えてこなかったし、老化を遅らせ、老化を止めようとする、ほとんど誰もが持っている欲望の重要性についても十分には考えてこなかった。我われは自分たちが生きてきた年数によって自分たちの年齢を数えており、その意味では年をとるのを止めることはできない。時間は絶え間なく進み、そして、我われはいつも時間に引きずられている。しかし、経験するのは時間の経過として年をとることだけではなく、我われ、つまり、我われの身体、精神、魂、生活への時間の経過が生み出した結果としての老化をも経験するのである。この点で、老化には相矛盾する2つの面がある。一般的に言えば、身体的能力も精神的能力も年をとるにつれて衰えていく。しかし、理解力と判断力が向上することもしばしばある。身体は長年の苦労でもろくなっている。しかし、そう望みたいのだが、知恵は経験の蓄積が増すにつれて、さらにすばらしいものになっていく可能性を持っているかもしれないのである。
 老化に関して我われが抵抗し、押し退けようと思うのは、これらのうちの前者のみである。我われはいまだにもっと賢くなりたいと思っているし、少なくとも、年とともに愚かにはなりたくないと思っており、本当は弱くならずにそれができたらよいのにと願っているのである。
(p190)
 老化のプロセスを遅らせる科学的探求は、もっぱら死の克服を目指しているわけではない。しかし、身体の老化そのものを治療すべき一種の不調と見なすことで、人間の死ぬという条件を医学の対象として扱い、あたかも死を実に特異的で致命的な病気の1つであるかのように扱うのである。不老の身体の探求には明確な終点というものがない。つまり、どんなに長い寿命でも、結局それで十分という長さではないのである。それがどんなものであっても、老化を遅らせる探求には原則的に本来の終点を指示するものが欠けており、それゆえに、極端な場合には、老化を遅らせる探求と永遠の生の探求には、ほとんど区別がなくなってしまう。老化を遅らせる探求は人間の身体の短命という性質を克服すること、そして短命という性質を永遠の活動能力と終わりなき若さに置き換えようする試みなのである。
(pp194-196)
 生を延長するには大きく分けて次の3つの方法が考えられる。つまり、(1)青年期と中年期までの死亡の原因と闘うことによって、より多くの人を老年まで生きられるようにするという方法。(2)病気の発生率、重症度、そして筋肉や記憶の損失をも含めた高齢化による障害を減らすこと、あるいは、時の経過に伴って損傷した細胞や組織、器官を置き換えることによって、もうすでにかなりの年齢まで生きてきた人々の生をさらに延ばすという方法。そして、(3)老化の一般的な過程あるいは諸過程に手をつけることによって、より一般的に老化の結果を和らげあるいは遅らせ、できるならば平均寿命ばかりではなく、最長寿命をも延ばすという方法である。(略)成功した場合に、身体的・社会的・道徳的な意味と影響の点で最も重要になるのが、他ならぬ第3の方法、今や多方面から活発に追求されている直接的かつ一般的な老化遅延という方法である。もしそれがうまくいけば、老化遅延は平均寿命を延ばし、一般的な老化を遅らせるばかりではなく、おそらくかなり最長寿命を延ばすこともできるだろう。成功すれば、それは人間のライフサイクル全体に空前の変化を引き起こすかもしれない。
(p200)
 現在研究されている老化遅延技術の中で最も注目すべきものは以下の4つの一般的なカテゴリーに分類される。つまり、カロリー制限、遺伝子操作、酸化による損傷の防止、そして老化遅延に影響する可能性がある老人病の治療である。
(pp211-
老化遅延の結果がどのようなものになるかは、どの技術が利用可能になり、それが生のかたちにどのような結果をもたらすかによってほとんど決まるだろう。技術が違えば、老化過程の変わり方も違うし、ライフサイクルへの影響も異なることになるのである。おおまかに言って3つの可能性が考えられると思う。(1)ライフサイクルがゴムのように伸びて、年をとる速さが人生のすべての段階でほぼ同等に遅くなり、成長期、中年期そして老年期がそれぞれ大幅に伸びていく。(2)身体の衰えが食い止められ、成長期と老年期の両方はほぼ現在のままなのだが、その中間期、つまり人生の健康な全盛期が大幅に伸びていく。(3)老年期のかたちが変わり、たとえば、能力のゆっくりした段階的な喪失というのではなく、むしろ身体が非常に急激に変質し、長年の健康で元気な暮らしの後に突然の死がやってくる、という可能性である。これからこれらの可能性を3者とも説明してゆこうと思うが、今から予想され、またそれぞれによって異なる倫理的な意味と影響は、必要に応じてそのつど指摘することにしよう。
 上で3つの可能性を数え上げたとき、生の延長を多くの人が魅力的だと思うような結果だけに注目する楽観論者の立場に立っていた。意図的にそうしたのだが、それには2つ理由がある。第1の理由は、そのような魅力的な結果だけが広く受け容れられているように見えるということである。第2は、人々は自分たちが望んでいるものを手に入れるのだということを明記しておきたいということである。そうすれば後で、手に入れたものが実際に望んだ通りのものになっているかどうか検討できるからである(ミダス王 [3]問題)。だが、倫理的問題に入る前に少し注意を書いておかなければならない。老化遅延技術は、医療的介入の多くがそうであるように、その効果が一様でないことがあり、ある人にはよく効くが、他の人には効かず、別の人には深刻な副作用を引き起こすということもありうるのである。たとえば、非常に高齢な人がその技術を施された場合、その結果には老いの衰えと病による衰弱の長期化が含まれることになるかもしれない。実際、衰弱の長期化は、伸ばされたゴムモデルの場合のように絶対的なものであることもあるし、寿命全体の中で相対的にということもあるが、いずれにしろ、すでに80歳あるいは90歳を超えた人ならほとんど誰でも、極度に能力の減少した10年から15年を期待するということになるだろう。生の延長を《幸せなもの》にするための筋書きはいずれも、身体の諸システムを《すべて》ほぼ同一期間働かせ、その後ほぼ同一時点で停止させる技術にかかっている。多くの人々が経験することになるのが、それとは違って、関節は丈夫だが記憶は衰え、性欲は旺盛だが能力はさっぱりといった、活力の部分的でバラバラな増進だということが分かったら、どういうことになるのだろうか。老化遅延があれこれの臓器や組織を変化させるだけでなく、最も複雑な有機体の調節機構を担う、推定上の、生物時計を丸ごと身体の諸システムが同調するように変えてしまうようなことも考えられる。しかしそれが実現した場合にも、より長い人生への愛がこの世でのよりすばらしい時間という誤った希望に変わるにはほとんど何の刺激もいらないのだから、この技術に熱中するのが当然なのかもしれないが、注意しながらささやかに期待するというくらいが適切な態度ということになるのだろう。
 倫理的問題を個人に対する影響を扱う節と、社会とその制度に対する影響を扱う節の2つに分けて議論する。しかし、いずれ明らかになると思うが、その区別が常に明確に保たれるとは限らない。
(pp213-221)
 個人の人生に対する老化遅延の影響という問題は、年をとるということが個人の人生で持っている意味の探求から始められなければならない。
 第1に、年をとることは高齢者だけに関わるものではないということを忘れてはならない。高齢者になり、人生の終わりに達するまでのほぼ全生涯にわたる過程で、それは決定的な役割を担っているのである。したがって、年をとることから生まれるのは高齢化や死というよりも、むしろライフサイクルそれ自体であり、時間の中で経験する我われの生の形式と節目である。奇妙に思われるかもしれないが、人生のそれぞれの段階はいずれも他の段階や人生全体との関係で定義されるのだから、個人的経験という観点から見れば、年をとるということは年寄りであることを定義しているのとほとんど同じ程度に若者であることも定義しているのである。それゆえ、老化遅延は晩年ばかりでなく、年がいくつであっても生涯にわたって、直接的かつ間接的に我われに影響を与えることになる。一例を挙げると、もし幼いときに成長過程を遅らせる薬を投与するならば、若い期間をまったく直接的に延ばすことができるかもしれないのである。(略)
 2番目に検討する観察は、年をとることと死ぬことの関係、そして老化遅延と死に対する態度の関係に関わっている。人間の寿命の真夜中にあたる時間を動かせば、我われの死すべき運命や生の全体に対する態度や構えも変わってしまうだろう。不死の実現など科学的にありえないという以外には何の理由もないのだが、生の延長と不死とでは間違いなく意味するところが違う。しかし、生を縮めるひとつひとつの病気や慢性疾患と闘おうと思うのではなく、命一般を延ばしたいと思う衝動は、死そのものに対する1つの反対宣言である。年をとることに対して治癒すべき病気であるかのような態度をとることで、原理的に、そして少なくとも暗黙のうちに、我われは決して年をとりたくもなければ死にたくもないという欲望、一言で言えば、永遠に生きたいという欲望を表現しているのである。たとえば、控えめに140、160、あるいは180歳まで人間の寿命を延ばすことができれば生の延長の研究は終わるだろう、と考える理由は何もない。なぜそういうことになるのか? 今の人生では長さが足りない、と宣言したのである。ある程度長くなった別のもので満足する理由がどこにあるだろうか? はじめから老化遅延技術の影響下にある生は、死ぬ運命の強制に対する反対意見を表明しながら生きる生である。老化遅延研究の根源的な推進力になっている衝動は、それが極端まで進むと、少なくとも暗々裡には、限界をなくし、不死への欲望と同じものになってしまうのである。
 ライフサイクルが持つ境界と系統立った配列が、形式と生きるに値する意味を死すべき生に対して与えているのだから、これらの2つの観察は、もちろん緊密に結びついているのである。死すべき生のよいところは、誰にも死が訪れるという事実にあるのではなく、まさにその本性上、我われがいつかは死ぬのだということ、そして、それが現実だと心に留めて生きなければならないということを気づかせてくれることにある。もし全盛期、働き盛りが何十年、いや何百年も続くとしたら、我われの態度や行動の性格は大幅に変わってしまう可能性が高い。これらの変化には、少なくとも、主なものだけで6つのかたちがあると思う。
 1)時間の拘束が外されてより大きくなる自由(略)
 2)関与と取り組み(略)
 3)願望と切迫(略)
 4)世代交代と子どもたち(略)
 5)死と死の運命に対する態度(略)
 6)ライフサイクルの意味
(p224)
 いっそう完全な絵を描くために、老化遅延が社会に対して持つ潜在的な意味と影響を3つの分野に分けて考察しよう。その3つの領域とは、「世代と家族」、「革新、変化と再生」そして「社会の老化」である。
(pp228-233)
 効果的で大幅な老化遅延、これは最初は誰もが大歓迎するような目標だが、その先行きにはきわめて簡単に予測できるものが非常に多い。膨大な数の人間による空前の長寿社会が実際にどのようなものなのか分かっていると断言できる者は誰もいないだろうが、これまで考えられる結果を、肯定的なものも否定的なものも、いくつか示そうと試みてきた。
 表面的には、そうした世界について考えられるいくつかの懸念を表明しようとする取り組みは、我われがこの今の世界を「すべての可能世界のうちでの最善のもの」と考えているという非難を招く可能性がある。実際、ただ我われがこの世界について何らかの疑問を提起するだけであり、この世界を知られているうちで最善の世界だとは考えていないと言って、誤って、咎める者が出てくることもあるのである。もちろん実際にはいなかったのだが、もし100年前に、誕生時の平均余命を1900年以来実際に実現された分だけ、つまり48年から78年への30年、増加させようと提案する者がいたならば、将来の最長寿命の延長から生じる社会的意味と影響に関して我われが提起した問題のいくつかは、そのときに提起されていたかもしれないのである。理由は明らかだと思うが、前世紀の大幅な増加がもたらした影響などに関する実証的な研究は存在しないし、今となってはこの広く歓迎された変化にかけられた社会的全費用を計算するなど事実上不可能なことだろう。しかし、その目的のことは一切無視した上での話だが、あまりにも長すぎる人生はその価値を減らしてしまうという示唆に何か意義があるのならば、我われはもうすでに寿命を延ばしすぎているのではないかと疑う者がいてもおかしくはないだろう。もしそうであるなら、さらに1歩進んで、平均寿命は過去数世紀にわたって延びてきたが、少なくともこの延びた分のいくらかは、できるなら押し戻すべきだろうと主張することもできるかもしれない。
 このようなことを考えていると大きな問題が浮かび上がってくる。人間の寿命には最適な長さがあり、人生には理想的なかたちがあるのだろうか。もし、それがあると言うなら、それは、自然の限界によって枠にはめられ動かすことのできないもので、過去に存在した寿命のどれかに近いものなのだろうか。それとも、人間の最適寿命は、何かその発展がまだこれからであるような生命延長技術によって達成されること、つまり、将来起こることなのだろうか。このような興味深くまた重要でもある問題への答えとしてどのようなものが出てこようとも、我々には、現在の平均寿命がそのままで理想的なものだなどと主張するつもりはまったくない。現在を、そしてまた過去のある特定の時期を「あらゆる可能世界の中で最善なもの」と考えているわけではないし、それが可能だとしても、平均寿命を押し戻そうという考えに近い立場にいるわけでもない。寿命が大幅に延びた場合に生じる問題点をいくつか示唆したからといって、現在の標準的な寿命より短い寿命に対する希望を表明したわけではないし、それを表明することになるわけでもないと思う。それとは反対に、我われ全員が、より多くの人たちが前世紀に生み出された寿命の延長を享受できるようになれたらよいのにと考えているのである。(略)
 今や我われの仲間はその大多数が80歳近くまで生きるようになっているが、このような成果をもたらした前世紀の平均寿命の前進は、主に、人間的な知性と人間的な力によって形作られた自然的世界という範囲内での理解しやすい仕事を通して実現されたものである。このような長さの寿命は概念的にも掴みやすいものであり、ひとりひとりが子ども時代、親としてすごす時代ばかりでなく、自分の孫の顔を見ることができるほどに十分な長さを持った寿命であるし、祖父母、親、子どもとしてそれぞれの立場から相互に持つ関係の意味合いをすべて味わうことができる長さを持った寿命である。それは、家系が遺伝的に見ても個人の体験から見ても直接に結びついており、年があまりにも離れすぎて親族同士の関係が弱められてしまうというようなことがない世界である。世代と養育、依存と互恵にある種の均衡がとれ、人生の旅には定まった歩調があり、誕生、頂上、衰退の周期的な繰り返しのうちには拍子とリズムの調和と統一がある。すなわち、死は、いかに辛いものであっても、人間の経験が持つ意味とよさの可能性を約束するものであるが、そこにはこの死に対する解答となる愛と再生の均衡と美が存在するのである。これらすべてが、我われの果てしない欲望と野望の傾きに沿うにすぎない技術的な計画を実現しようと急ぐあまりに、投げ棄てられ、忘れ去られてしまうかもしれないのである。
 人間のライフサイクルが変わってしまうとどのようなことになるのだろうかと考えていると、非常に重要な問題に直面する。人生には、非常に根本的であるために、科学的観点では掴まえきれないほどに広く、我われの自然的な欲望のほしいままの要求では測りきれないほどに深い、よさと意味があるのだろうかという問題である。欲求の赴くままに身を任せて、果てしなく長寿と不老の身体を追い求めたとしても、よくなるのは部分的で刹那的なものばかりで、秩序と統一を持った全体の調和は失われてしまうのではないだろうか。弱さと有限性を持つ我われの自然な命は、人生の全体に調和と生きぬくだけの意義を与えるより大きな視野を得るためのレンズの役割を果たしているが、我われはこの自然の命の輪郭と束縛から目を逸らせて、自分自身を偽っているのではないのだろうか。逆に、誕生し、成長し、年をとり、死んでいくという順次的な展開をよしとするとき、何か永遠なるもの、何かこの「時間のドラマ」を超えたもの、何かこの世での生を超えると同時にその生に目的を与えるもの、不調や衰弱、そして死を超越する品位ある存在へと我われを高めてくれるものに近づく道を、我われは発見するのではないだろうか。こうした問題を提起するのは、すぐに解答を出すためではなく、ただ、解決しなければならない桁外れに重大な問題があることを指摘するためなのである。(略)
 今や人間の経験のある種の部分は医学の力によって変更したり、操作したりすることが可能になったが、こうした技術的に変更可能になった部分の意味に関する大きな問題が存在する。老化遅延が可能になると、人生における老化の意味が問われることになり、老化をどう考えたら最もよいのかその考え方が問われることになる。つまり、老化は病気なのか。老化は治療され、処置を受けるべき状態なのか。これは、我われより前の世代に属する人たちの人生はすべて、決して訪れることのない治癒を待ち続けた受難の人生、あるいは自分たちにかけられた呪いをまさに姿を変えた祝福だと愚かにも確信した受難の人生だったということを意味するのか。我われの先祖が経験し、我われの信仰や哲学が悟れと教える人間の生の有限性、これは本当に何はともあれ解消されなければならない問題なのだろうか。近い将来の実現が期待されている反老化医学は、これまで健全で健康な人間の人生と考えられてきたものを、治療が必要な状態だと見なすようにするのだろうか。つまり、十全な人間性とは何か、そして医学本来の目的とは何か、我われにはこの両者に対する問い直しが求められているということなのである。
 老化克服を試みるには、病気やケガの治療という範囲を超えてバイオテクノロジーを使おうという大規模な研究について、その主要な部分の輪郭を明確にしておくことが必要不可欠であることに疑いはない。我われを完璧にするのが医療の目的なのか、あるいは我われを健全にするのが医療の目的なのか。そして、医療の目的からは離れるが、もし我われがより完璧になり、不老の身体を持つことができるようになったら、本当に、個人としてより幸福な、より満たされた人生を送ることができるようになり、社会がより洗練され、より完成され、より公正なものになるのだろうか。自然的な全体性という観点から見れば、人間は誰しも完璧な存在ではないが、まさにこの不完全であることによって、人間は決して世界とは十分に満たされた関係を持つことができないということにもなり、最も深い憧れを持つことができることにもなり、最も偉大な業績を達成することができることにもなるのである。その不完全性こそが、人間は単なる化学的な機械や部分の集積以上のものではあるが、しかし同時に、人間の完全な支配下にある世界に隙間なくはめ込まれ、完全に満足している無時間的な存在というほどのものではないことを分からせてくれる。不完全性は、我われが自分たち自身について最も大切だと考えているいくつかのものの源泉なのである。


中山茂樹, 20040330, 「共に生きるということ――生命倫理政策と立憲主義」山崎喜代子編『生命の倫理――その規範を動かすもの』九州大学出版会:139-164.
(pp148-149)
 ただ、「禁じることができないことすべてが『善い』ことではないだろう」し、「適正な規制という成果を出すことが目的化されることによって、本来充実すべき議論がかえって空洞化してしまうという恐れがある(17)」かもしれない。「適正な規制」をめぐる議論とは別の議論として、林真理は、「高度な医療の開発も、バイオテクノロジーの振興も一般によいことだと思われているようだが、本当にそうなのだろうか。これからも次々にテクノロジーの開発は進むだろう。難病の治療だけでなく、スペア臓器も、人工子宮も、そして不老不死さえ、原理的に実現不可能ではないだろう。しかし、そういったことが実現されるという事態は、人間にとって好ましいことなのだろうか」と問い、「ポジティブに『あるべきもの』が何であるのかを主張することもできるはずである。その『あるべきもの』がテクノロジーを含むのかどうか、含むとすればどのようなテクノロジーなのか。そういったことまで含めて問題は考察されるべきであり、それが本来の『公共性』という視点なのではないだろうか(18)」という。また、森下直貴は、「死生観一般が生成してくるプロセスを明示しながら、死と生の意味、時間と人生の意味について、異なる立場から論じ合えるような場を設定することは必要だし、少なくとも可能ではないか(19)」と述べる。
 「個人の生き方」と「社会のあり方」とを分けてしまうのが近代立憲主義の考え方なのだが、これらの議論はそれに対する批判を含むものであると理解することができるだろう。コミュニタリアニズムの問題提起と似ているようにも思われる。林が、著書の冒頭で、松本零士『銀河鉄道999』の鉄郎が、機械の体をもつのではなく「人間として生きることをみずから決断し選ぶことになる」ことを引き合いに出すのは、個人の生き方と社会のあり方を結びつけてこの問いを語っているように見える。もちろん、林が個人の生き方の自由を否定するとは思われず、「さまざまな価値や意見の相違(20)」の重要性は認識されている。


森下直貴, 200406, 「健康と生命倫理――欲望論の視点から」『生命倫理』14(1):12-19.
(pp12-13)
 ここで「健康への欲望」とは、「苦痛から逃れたい」「病気になりたくない」「健康でいたい」「若々しくありたい」「死にたくない」といった願望を指している。これらはJ.S.ミル流にいえば「自己配慮的な」欲望にあたる(『自由論』第1章)。つまり、他者に危害を与えないかぎり、その追求は個人の自由の領域に属しており、その充足感としての幸福は道徳的価値ではなく、美的価値にかかわる。ところが、このきわめて個人的な欲望が、ライフサイエンスとバイオテクノロジーによって刺激されることで、欲望の全体を巻き込みながら、倫理と政治の表舞台に躍り出ているのが今日の特徴なのである。「健康への欲望」は「より健康へ」と向かう際限のない膨張運動である。技術や市場の振りまく夢によって前方からは引っ張られ、後方からは現代社会の内部に組み込まれた不安によって突き動かされつつ、欲望は「健康」へと向かう。このとき、目標としての「健康」が明瞭であれば運動はいずれ停止するだろう。しかしそれが不明瞭であるなら、結果として「より健康へ」の際限のない膨張運動が続くことになろう。実際、身体への欲望においては無痛から健康、美容、若さ、身体的・精神能力の改善、不老不死にまで連続していて、それらの間のどこかに線を引くことは困難になっている3)。同様に、生活の質の面での手軽さ・便利さ・清潔さといった快適さの追求は、生殖・産育や老いと臨終のような人生の重要な局面での安楽さの願いに連続している(拙著序章2〜4)。
 このように「健康への欲望」の本性は「果てしのなさ」にある。そしてその正体は目標としての「健康」の曖昧さである。この曖昧さの根源の一つは社会の近代化に求められる。詳しくは拙著に譲ることにし(拙著序章5、6)、粗筋だけ述べればこうなる。個々人の身体感覚に密着していた「養生」の世界は、明治以降、医学と国家のまなざしにからめ取られて「健康」の世界へと変容する。その過程で身体が正常・異常の枠組みに回収され、管理の対象とされることで、「健康であること」は個々人の身体感覚から切り離される。この点ではWHOが提唱する主体的な健康観の影響も大きく、健康が自己実現や幸福に結びつけられることで、ますます漠然としたものになる。


池田清彦, 20040708, 「生きとし生けるものの倫理――生物学の視点から」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:67-85.
(pp76-77)
 ほとんどの真核生物は多細胞生物であり、2nの細胞の集合である個体は、老化とそれに引き続く死を免れることはできない。原則死なないのはnの生殖系列だけである。進化の途中で、自然はなぜ死すべき個体を作ったのだろうか。これに答えることは難しいが、恐らく、進化は繁殖して生物の系列が生き延びる能力には加担したが、個体がただ生き延びる能力には加担しなかったのだろう。ある種の植物は極めて長寿であることが知られているが、ほとんどの動物は植物ほど長生きしない。それに大半の動物は寿命まで生きることはまれである。不老不死を願うのは、病気や事故では滅多に死ななくなった人間のぜいたくなのかもしれない。
 生物は他の生物に食われて死ぬか、さもなくば、老化か病気で野垂れ死ぬ。野垂れ死んだ生物は必ず他の生物のエサになって分解されてしまう。死んだ生物が分解されなければ、この世界は死体の山になり、他の生物が利用できる資源が減少してしまう。これはよく知られる生態系の物質循環である。植物は他の生物を食べることなく、自分で栄養を作っている。生態学の用語ではこれを独立栄養という(それに対し、他の生物に依存して生きている場合を従属栄養という)。他の生物の命をなるべく奪わないで生きる方が、より倫理的と考える人間的見地からは、植物は極めて倫理的な生物かもしれない。


粟屋剛, 20040708, 「人間改造」中岡成文編『岩波 応用倫理学講義1 生命』岩波書店:203-223.
「永遠の生命」220-223.
(pp222-223)
より長く生きたい、永遠に生きたいなどという欲望は、人間のあらゆる欲望の中で根元的である。それは、人間が高度に大脳の発達した生命体である以上、当然かもしれない。しかしながら、単なる「長寿」を超えて「永遠に生きる」ことは、確かに自然の摂理に反するといえるかもしれない。ただ、そのようにいうならば、「人間はもともと不自然な動物であり、そもそも人間の営みの多くは自然の摂理に反する」という反論も可能である。なお、一般論として、生命体が「生命への欲望」に忠実であることは「生命体という自然」の摂理である、などともいえよう。
 「諦観」についていえば、生命に対する場合だけでなく、およそ、望みがかなわぬ時にもてばよいものであって、かなう時にまで持つ必要はない、ともいえる。
 「欲望」に関しては、確かに現代人は「欲望の奴隷」かもしれない。しかしながら、そもそも、現代は徹底的な欲望追求社会である。そして、もともと、文明自体が欲望の充足システム、正確には、欲望の火を点け、それを充たして消す、そしてそれを繰り返す、というマッチポンプ式の欲望の拡大再生産および充足システムなのである。したがって、欲望充足の手段であるテクノロジーを手中にした現代人が欲望の奴隷であるのも、少しは、無理もないことなのかもしれない。
 死は平等か、という問題についていえば、せっかくテクノロジーがあるのに、なぜ平等に死ななければならないのかという反論もありえる。また、万人に、永遠に生きる権利が保障されればいいのであって、その権利を行使するかどうかはまさに個人の自由、自己決定である、という反論もなされうる。
 なお、ある新しいテクノロジーが開発されるとき、それを許すならさまざまな社会的、倫理的な問題が発生することが予測されるという場合、選択肢は、それを許容しないというもののみではない。そのテクノロジーのメリットゆえにそれを許容し、その上で、発生するであろう問題に対処する、という選択肢もありうる(例えば、極端な例だが、人類が永遠の生命を得たことによって人口が増えすぎるならばテラ・フォーミング〔他の天体の地球化〕を行うなど)。


◆Naam, Ramez 2005 More than Human: Embracing The Promise ofBiological Enhancement, Random House, Inc(=20061130, 西尾香苗訳『超人類へ!――バイオとサイボーグ技術がひらく衝撃の近未来社会』河出書房新社).
第4章 メトセラの遺伝子
(pp92-93)
 人間は平均的には以前より長生きするようになっている。しかし、老化と闘って寿命を延ばせるようになったのは最近のことで、それまでは、若年での死亡減少に努めた結果、平均寿命が延びたにすぎない。医学は老年層の余命延長については、ほとんど貢献していないのだ。一九〇〇年においては七〇歳のアメリカ人男性は平均七九歳までは生きると予想された。いま七〇歳のアメリカ人男性は平均八二歳まで生きると予想できる。一世紀間に延びた平均余命は、この年代ではわずか三年。新生児に比べれば、たいして増えてはいない(略)。このように、高齢者の平均余命にはわずかの進歩しか見られない。これは、医学が力を注ぐ対象はまず第一に病気であり、老化過程そのものについてはあまり注目していないからだ。(略)人間が年をとるにしたがって衰え、健康に問題が生じてくるという根本的な問題については、これまで何も手を打たなかったのだ。たとえ長生きしているとしても、ふつうは《老いぼれて》いるだけ。私たちの望みは言うまでもなく《若さを保つ》ことなのに。
(p95)
 このように、年をとったら体は弱り、なにかしら病気にとりつかれることを考えると、自分の晩年はどうなるのかという恐れが膨らんでくる。生命維持装置につながれて、何ダースもの病気に苦しみ、ぼんやりした頭ではものも考えられず、つねに介護の目が離せないような状態になってしまったら? だれだって生きていたいとは思う。だがこんなふうにはなりたくない。
 人間が技術を用いて寿命延長に努めるのを批判する人々は、ストラルドブラッグ人のありさまを未来像に描いてみせる。そのシナリオにしたがえば、膨れあがった高年齢層を生かすために途方もなく高価な医学技術が使われ、その費用を払うのは若者たちというわけだ。事実、現在の健康管理状態や平均寿命から予想するなら、そういったシナリオは正しいようにも思われる。先進国で高齢化が進めば、年金制度に負担がかかって医療費はうなぎのぼり。一方、身体も精神もちゃんとしていて、年金や医療費を肩代わりできそうな若者たちの割合はどんどん低下していくのだ。それこそ、肝心要の問題なのである。もし幸せに長生きしたいと思えば、老年期に現れる症状だけではなく、老化現象自体にも取り組まなければならない。
 実際に老化を遅らせる、つまり若さを引き延ばすことができれば、社会にも少なからぬ利得がもたらされる。現在の総死亡例のおよそ半分を占める、加齢にともなう疾患の発生を減少させることができるだろうし、世界全体では、医療費を何千億ドルも削減できるだろう。若年層の医療費は老年層のそれに比べて少なくてすむからだ。また、精神的にも身体的にも良好な状態が長く続き、若い世代の稼いだ分を使い尽くすようなこともなく、自分で自分の身を処するに足る分を稼ぐことが可能だろう。要するに、若さを引き延ばすことができれば、寿命延長で引き起こされる問題が解決できると考えられるのだ。
第5章 寿命を選ぶ
(pp112-113)
 遺伝子操作技術で不老長寿を実現しようという研究とは別に、簡単で確実に寿命を延ばす方法が、すでに見つかっている。動物の餌は減らすが、ビタミンなど必須の栄養素は十分与えるというもので、カロリー制限(Caloric Restriction・CR)と呼ばれる方法だ。そのしくみはまだ解明され始めたばかりだが、マウスにラット、線虫、ショウジョウバエ、クモ、グッピー、イヌ、ニワトリ、ほかにも多くの種の動物が、実際にCRで長生きしている。人間でもうまくいくだろうという予備的な証拠も得られている。幼少期からCRで飼育した動物は、三〇〜四〇%ほど長生きするのが普通だ。(略)カロリー制限は適度なダイエットに比べて効果も大きいのだが、厳しさもまたひとしおだ。ダブルベーコン・チーズバーガーなんてもってのほか、注文するのは決まってサラダで、デザートは絶対に食べない……、そういう生活を《この先ずっと》、死ぬまで続けられるだろうか? さらに、厳しく自制しさえすればそれでいいというわけではなく、綿密詳細な食事計画をたてる必要もある。摂取するカロリーと栄養素に十分注意しなくてはならない。カロリー制限を自分からやろうという意思や時間のある人は、まずいないだろう。
 CRの研究をしている科学者は皆、大多数の人々がそんな養生法にわざわざ身を投じようとはしないのはよく知っている。人間は食べるのを愉しみにしている。科学者は人間の意思の力について幻想を抱いてはいない。ただし科学者には、ほかにもわかっていることがある。若さを保ったり《スリムな体型を維持する》ための製品があれば、人はお金を払うということだ。カロリー制限研究に携わる高名な一流科学者のなかには、カロリー制限《模倣薬》(食事制限しなくても、CRと同じ効果を身体にもたらす薬)を研究している面々もいる。
(p118)
 もしもCRが人間でうまくいき、さらに副作用を多少なりとも軽減できたとしても、それでもこの方法が広まることはなさそうだ。あり余るほどの食べ物に囲まれていながら、一生がまんして、手を出さないでいられる人はほとんどいないだろうから、人間にCRの恩恵をもたらすためには、好きなだけ食べていても、CR制限に似た効果を示すような薬を開発する必要がある。また、副作用があっては困る。単一の薬でこの療法を実現するのは難しい。
第6章 メトセラの世界
(pp130-132)
 人間の老化を遅らせる薬や遺伝子治療法が開発されたら、だれがその恩恵を受けられるだろうか?バイオテクノロジーによる能力増強については、ほかの技術と同様、最初のうちは高価であっても、そのうちにだんだん安価になっていくことが考えられる、これはすでに述べた通りだ。
 寿命延長技術もまた、庶民の手に届くものになる。そう確信する根拠はほかにもある。歴史記録という具体的な証拠である。(略)公衆衛生技術が発展途上国にも定着するようになり、その平均寿命は革命的に上昇し始めた。それ以来、豊かな国々と貧しい国々の平均寿命には、相変わらず開きがあるものの、それはほとんど時間の差という状況になっている。
 豊かな人々は一八〇〇年代から寿命を延ばし始めた。一歩先んじたわけだが、新しいバイオテクノロジーによる能力増強でも同様のことが起きるかもしれない。(略)
 こういったきわめて具体的なデータからわかるように、豊かな国々と貧しい国々との物質的福祉の差は、過去一世紀のあいだに縮小してきた。その上、今後五〇年間にその差はさらに縮まっていくだろうと考えられる。(略)
 情報商品の価格は急速に低下するという証拠と考え合わせるなら、過去の平均寿命の推移からすれば、貧困世界の人々も、バイオテクノロジーによる能力増強法、特に老化を遅らせる技術の恩恵を、やがては受けるようになることを示唆している。もちろん市場に出てすぐには手が届かないだろうが、利用できるようになれば、その後の平均寿命は豊かな人々よりもずっと急激に増大し、ときが経つうちに差をどんどん埋めていくかもしれない。
(pp133-136)
 もしも、老化遅延技術が多くの人々に利用できるものになったならば、高齢化社会にまつわる緒問題の回避に役立つかもしれない。(略)
 ベビーブーム世代が定年になると、社会に対して経済的に貢献してきた集団だったのが、経済を消耗する集団へと変貌してしまう。
 社会保障制度やそのほかの公的年金制度は、すでに社会の高齢化がもたらす危機に直面している。(略)
 人間の老化を遅らせることは、高齢化する人口が直面するストラルドブラッグ人のジレンマ(第4章を参照)に対する、一つの解決方法である。もしジョンソンやケニヨン、ド・グレイ、そのほかの科学者たちの予測が正しければ、不老長寿技術の影響が現れるのは、公的年金制度が大きく変化するのとほぼ同じ時期ということになるだろう。一定の割合の高齢者に、生物学的な若さを保たせることができれば、高齢社会における医療費の増加に歯止めをかけ、さらに、連邦議会予算事務局が予測したように出費が大きく増加するのを食い止められるかもしれない。
 いいことはほかにもある。寿命の延びた動物では《病的状態の短縮》が見られる。最後の日まで元気に活動していて、ぽっくり死ぬという例がきわめて多いのだ。はっきりした死因のないこともよくある。カロリー制限を受けていたマウスの死後、解剖してみると、三分の一には、これといって悪いところはどこにもなかったのだ。もしも、人間が高齢になってから健康なうちに死ぬとすれば、晩年にかかる出費の多くが節約できる。なによりも苦しまずにすむ。
 老化を遅らせることができれば、出費を削減できるだけではなく、経済的な効果も上がるだろう。寿命延長技術によって、精神的にも肉体的にも十分現役でやっていける高齢者の数が増えれば、経済の活性化につながる。ただ、皮肉なことに、よい遺伝子を持ち、健康にも気を使い、老化を遅らせる治療法を受ける賢明さを兼ね備えた元気な高齢者が、その見返りとして得るのは、ずっと労働し続けること、という事態にはなるが。政府の給付金で退職後の長い年月をすごせるはずだったのに、それができないとは、あまり愉快なことではない。だとしても、病気を抱えて社会保障の世話になりながら生きていくよりも、仕事を続けなくてはならないにせよ健康であるほうが望ましい、と思う人が大部分なのではないだろうか。
 先進国の多くでは、現在の年金制度に関して問題が持ち上がっている。(略)老化のペースを遅らせることは、この人口統計的な危機を遅らせる一つの方法なのだ。
(pp137-140)
 寿命が延びたら、世界の人口構成にはどのような影響が現れるだろうか?皆が長生きするようになれば、人口が増加するのは確かだ。しかし、実際に人口がどのように増加してきたのか、統計データをたどってみると、いささか直感に反した現象が見られる。まず、現在、平均寿命の高い国では、人口は安定しているか、あるいは減少さえしているのをご存じだろうか。たとえば、国連経済社会局人口課の予測によれば、日本の人口は、平均寿命が大国のなかで最も高いというのに、今後五〇年で減少するという。平均寿命でそれほどひけをとらないイタリア、ドイツ、スペインも同様。まさに正反対のパターンを示すのが、インド、中国、パキスタン、ナイジェリアで、平均寿命は低いのに、人口は急激に増加しつつある。(略)
 最近数十年のあいだに、出生率は大幅に低下した。特に豊かな先進国でその傾向が著しい。国が豊かになって、教育が行きわたり、特に女性が権利を獲得するようになると、子どもを多く産むよりは教育やキャリアアップに多くの資産が費やされるようになる。(略)
 出生率は死亡率の二倍なので、同程度の影響がある場合、出生率に影響を与える現象のほうが、死亡率に対するものよりも、はるかに大きな変化を引き起こすことになる。たとえば、二〇〇〇年から二〇五〇年のあいだに、地球全体で三七億人が死亡し六六億人が生まれる、というのが国連の予測である。死亡率が半分になれば、人口は一九億人ほど増加する。出生率が半分になれば、二〇五〇年には人口は三三億人減少する。このように、出生率のほうが人口におよぼす力が大きいのだ。(略)
 ひとつ、簡単な計算をしてみよう。寿命を延ばす技術がいつ使えるようになり、それが広まるのにどのくらいかかるのか、正確な予測はできないが、そのへんは推測に頼る。寿命延長技術が市場に初めて現れるのが二〇一五年だとしよう。その結果、次の年の二〇一六年には、世界全体で死亡率が一%低下するとする。さらに、毎年、死亡率が一%ずつ余分に低下していくと考えてみる。つまり二〇一七年には、寿命延長技術のために世界全体の死亡率は二%低下し、二〇五〇年には、死亡率は三五%低下するというわけだ。これはまったく楽観的なシナリオだが、この結果から考えると、二〇五〇年には、先進国の平均寿命は一二〇歳くらいに、発展途上国では一一三歳くらいにまで延びていることになる。過去二世紀のあいだに平均寿命はかなり延びたが、これはそれ以上の延び率で、過去にこれだけ急速に寿命が長くなった例はない。
 仮に、このきわめて楽観的な平均寿命の延びが実現した場合、世界人口にはどれほどの影響が現れるだろうか? 国連が予測する死亡率の減少幅に単純に足し算していくと(二〇一六年には死亡率は一%減少、二〇五〇年には三五%減少)、二〇五〇年の人口は九四億人という結果が出る。国連のもともとの予測では八九億人である。
 余分に増えるのが五億人、これはばかにならない数字ではある。しかし、国連の予測した二〇五〇年の人口に比べれば、六%弱の増加にすぎない。人口増加の歴史と比較するなら、一九七〇年から一九七三年にかけての世界人口の増加率よりも少ないことになる。もちろんそれなりに大きな変化ではあるが、かといって、破滅的なものだとは言えない。
(pp141-143)
 医療関連支出や退職、人口については、いずれもがひじょうに明快な問題であり、変化傾向を数学的に分析することができる。しかし、老化克服の見通しによって、これとは別の「微妙(ソフト)な」諸問題、とりわけ、寿命が延びることによって、社会はどのように変化し、また発展するだろうか?といった問題が発生する。人間のつくる組織にはヒエラルキーがあるものが多い。みな争ってトップにのぼりつめようとするのは、そこまで行けば権力を奮うことができるからで、いったんのぼりつめたならば、そこからなかなか降りたがらない。会社の重役や現職の政治家、大学の学長や学部長など、そういう例には事欠かない。(略)
 社会、政治、そして学問の分野で、停滞や世代間の争いが起こる危険性がある、というのはもっともらしく聞こえる。しかし、高齢者の停滞を防ぐ強力な手段がある。寿命延長技術がそれで、これはたんに長生きさせるだけのものではなく、脳や身体を若く保ってくれもするからだ。若々しい脳はのみこみが速く、新しい状況に簡単に順応できる。二一世紀の中頃には、六五歳の人間が、二五歳の人間と同じぐらい柔軟な考え方ができるようになっているかもしれない。しかもその柔軟さに加えて、六五年間の人生で得た経験にも支えられているのだ。
 もう一つ考慮すべきは、人間は、これから自分自身の知力に手を加え、学習や記憶能力を高めたり、性格のある面を変革したりできるようになっていく、という点だ。長寿者たちは、人との競争に勝つために、知力変革技術を受けるようになるだろう。会社の重役や社長などが自らの作法に固執することと、一つの会社や大学が丸ごと停滞することとは、まったく別のことである。もしも組織が停滞したならば、より柔軟な競争者がとびかかって、分け前をさらっていくだけのことだ。組織レベルで、一種の自然淘汰が働くのだ。変化の遅い鈍重な組織は死に絶えるだけのこと。融通の利く組織とは、おそらく融通の利く人たちのいる組織だろう。
 人口高齢化が社会におよぼす影響はまだほかにもある。たとえば、高齢者は選挙で投票する割合が高い。(略)また、高齢者が暴力犯罪を起こす例はきわめて少ない。(略)結局、高齢化が進めば、市民生活への関与を深め、暴力の使用を控えるようになると言える。長い目で見たときに、これが社会にどのような変化を引き起こすことになるのかは難しいところだが、いずれにしても、寿命延長のあるなしにかかわらず、人口高齢化が進んでいけば明らかになるだろう。
 最後に、寿命延長の実際的な利益は、それによって起こる危険性を上回ると考えられる。もし老化を遅らせられるなら、さまざまな種類の疾患に対して、もっと効果的に闘えるだろうし、社会の老齢化による経済的な打撃を和らげてもくれるだろう。また、寿命が延長したとしても、世界人口に対する影響は驚くほど小さいのだ。これらの具体的なデータからすれば、寿命延長が社会におよぼす二番目の影響はどのようなものか、静観する姿勢をとるのが最も賢明だと思われる。とはいえ、寿命延長によって、予測できない問題が生じることも確実だろう。社会の一員として、私たちは協力してその問題を解決しなくてはならない。過去にも、社会に新規の事物がもたらされると、それにともなって問題が生じてきた。私たちはこれまでにもそういった問題を解決してきたのだ。


松田純, 20050215, 『遺伝子技術の進展と人間の未来――ドイツ生命環境倫理学に学ぶ』知泉書館.
(pv)
 ヒトゲノム解読以降、遺伝子研究と遺伝子技術の進展は細胞工学の発達とともにますます加速してきている。この新しい知と技術はわたしたちをどこへ連れて行くのであろうか? なかでも、幹細胞研究に関わる倫理的な問いは特別な意義をもっている。もしも細胞分化のメカニズムが解明され、神経細胞や筋肉細胞などさまざまな種類の組織へねらいどおりに分化・増殖させる方法が確立すれば、移植医療・再生医療は飛躍的に発展する。脳死者からの臓器提供に頼る移植医療の状況は一変するであろう。この技術は病気の治療に用いられるだけではなく、加齢によって衰えた筋肉や神経細胞を新鮮な細胞で置き換えることによって「不老」を実現する技術に発展する可能性をも秘めている。加齢以前に用いれば、「若返り」、人体改造、遺伝子ドーピングといった増殖的介入(エンハンスメント)(「二一頁以下参照)へと通じる。まさに生命操作時代の本格的な幕開けと言っていい。これは人間の未来に大きな影響をおよぼすと考えられる。


金森修, 20051020, 『遺伝子改造』勁草書房.
(pp160-161)
 ドリーを作ったのは、クローン人間を作るという目的のためではない、とウィルマット(Ian Wilmut)たちがどれほど力説しようと(4)、また、クローン人間は、誰かの〈ゼロックス人間〉などではない、と多くの科学者が何度も声を荒げようと、それらの声は、「非科学的反応」をする多くの人々の心にまでは届かないことが多かった。その理由の一つは、クローン人間という言葉を聞いた途端に、どれほどそれが非科学的だといわれようが、クローンのことを自分自身の特殊な延命、または不死への道程だと考えるということが、多くの人々の心の奥底に眠っている深い願望に触れるものだったからだ。不老不死の秘技としてのクローン。本当は、そうではなく、いわば「世代違いの一卵性双生児」のようなものだといくら言われても、その科学的理性の声は、なかなか行き渡らない。


◆瀧井宏臣, 20051020, 『人体ビジネス――臓器製造・新薬開発の近未来(フォーラム 共通知をひらく)』岩波書店.
(pp53-55)
 推進派を引っ張っている西川副センター長が実際にどのような考えを持っているのか、本人に質してみることにした。(略)
 ――寿命を延ばすことも目標のひとつなのですか?
 西川「単細胞生物は、細胞が死ねば個体も死ぬわけですが、多細胞生物は、細胞が死んでも個体は死なないのです。幹細胞のシステムは、細胞を新陳代謝させて生体を維持するしくみで、個体の死と細胞の死が乖離している。であれば、新しい細胞を置き換えてやれば、寿命の限界を超えられる可能性がある。つまり、幹細胞の研究は、究極の目標として不老不死を志向している。確かにこれまでの生命観とは相反しているかもしれません」
 ――そうすると、医療の役割とは?
 西川「どうせ死ぬのなら、安らかに死にたいという主張が受け入れられていますが、私は死が滅びなら闘ったらええ、と考えています。そもそも、医療とは本来、死へのチャレンジではなかったか。それは、絶対に勝利しえないという意味でタブーかもしれませんが、タブーを破ることで新しい文化が生まれるなら、やる価値がある。重要なのは、物語を語れるかどうか、意味を付与できるかどうか、でしょう」

 西川副センター長は再生医療による生命観、世界観の転換を示唆する。それは、細胞を入れ替えることで不老不死をめざす、死へのチャレンジなのである。
 西川副センター長の話を聞いて思い出したのは、テレビ番組で聴いたラエルとシードの演説だ。ラエルは、クローン人間の実現をめざしたラエルの会の代表。シードは、クローン人間を造ると豪語していたアメリカのリチャード・シード博士である。

 ラエル「クローン製造の技術は、我々が永遠の生命を得ることをまもなく可能にするでしょう」
 シード博士「私はキリスト教徒です。神を信じ、天国と地獄の存在も信じます。しかし、矛盾するようですが、どうかお許しください。私は死にたくないんです」
 ラエル「死なないっていうのは、すばらしいことですよね」

 会場は歓声と拍手の渦となった。
 私は寿命が尽きて死ぬのは当たり前だと思ってきたが、今や死に対する考え方についても価値観の違いがはっきりと浮かび上がってきた。死の在りようも、「神々の闘争(価値観の対立)の場」に持ち込まれたようだ。

(p161)
 胎盤には、東西を問わず古くから珍重されてきた歴史がある。
 東洋では不老長寿の薬として用いられ、中国では約四千年前、秦の始皇帝の時代に紫河車(しかしや)という名で、日本では加賀の国(石川県)で混元丹(こんげんたん)という名で使用された記録がある。一方、西洋では若返りや美容の妙薬として、クレオパトラやマリーアントワネットらが使用したと言われるが、出典は定かでない。


森岡正博, 200603, 「人間の生命操作に対する批判的見解に関する予備的考察(1)――大統領評議会報告書の場合」『疑似法的な倫理からプロセスの倫理へ−「生命倫理」の臨床哲学的変換の試み』(大阪大学文学部):63-75.
 http://www.lifestudies.org/jp/handai01.htm
 報告書はさらにいくつかの大テーマについて質の高い議論をしているのだが、ここでは「不老の身体」についての議論を見てみよう。これは人間の遺伝子操作のみに関わる論点ではないが、報告書の哲学的スタンスを検討するために避けては通れない部分である。まず、報告書は、今後の医療技術が、人間の老化遅延と不死を目指して進んでいくであろうと述べる。老化遅延と不死は、おそらくすべての人間が望むことであるだろうから、そこに何の問題があるのだと思われるかもしれない。だが報告書は、テクノロジーによって、老いと死を限りなく先延ばししていくことがはらむ問題点をさらに検討していく。
  まず、我々の時間には限りがあるという認識があるからこそ、我々は大切なもののために命の限りを尽くそうとするのである。この「命を費やすspend our lives」という経験、そしてそうすることによって自分の「命が費やされるbecoming spent」という経験、これがまさに老いるという経験である。この経験が達成感と充実感をもたらし、我々の生に意味があるのだと教えてくれる。そして「使い尽くされるbeing "used up"」ことによって、この世で「十全に生きているという手応え」が強まる(21)。そして人間があげる最も偉大な成果の多くは、「我々の有限性に拍車をかけられ、限られた時間しかないという感覚によって押し進められる」のである(22)。このような、いわば限りがあるからこそ命が輝くという人間の真実が、これらの技術の追求によって摩耗してしまうというわけなのである。また、これらの技術によって、「時間が経過するという感覚」や「我々自身が成熟するという感覚」から、我々が切り離されてしまうことになる。このような生き方は「深くもなく、豊かでもないless serious or rich」人生となると報告書は指摘する(23)。
  報告書はさらに続ける。これらの技術を追い求めることによって、逆説的に、死はますます耐えがたいものとなり、我々はいっそう死を畏れ、死に悩まされることになるかもしれない。死と老いから意識的に逃げ続けようとする我々は、その意味で、ずっと死と老いにとらわれ続けるのである。そのようなとらわれから生まれるのは、「不安、自己耽溺、身体的不運やすべての新しい反老化対策へのこだわり」といったものになるだろう(24)。すなわち、死と老化の忌避にこだわり続けることによって、我々はますます多くの時間を、死と老化に対する不安や、怖れや、いらだちのために割くことになり、延長された我々の人生はいっそう死や老化の観念に覆われるようになり、そうやって結局我々は死と老化の悪夢から逃れることはできなくなるのである。老化遅延と不死を目指すテクノロジーのもとで、ちょうど我々はヨーロッパ中世のように、逃げ去ることのない死の観念にどっぷりと浸りながら、延長された人生を生き続けなくてはならなくなるのかもしれないのである。
  報告書のこの箇所は、とくに編者であるカスの思想の影響を強く受けている。カスの単著『生命操作は人を幸せにするか』では、さらに直接的に論点が展開されているのでそちらを見てみよう。カスは言う。「正直にいうなら、人間の命にかぎりがあることは、すべての人間にとって、自覚があろうとなかろうと、天恵であるblessingと私は考えている」(25)。「さらにいえば、不死である他の存在とは、私が思うに、死という宿命を負った今の人間ほど幸福well offではないはずだ。私たちは、死という運命に感謝すべきなのである」(26)。
  このように指摘したうえで、カスは以下のように述べる。人間は、不死や不滅、永遠といったものを求めるものなのだが、そこで切望されているものは、実はこの世で無限に生き続けることによって達成できるような種類のものではないのである。このような「人間の切望はこの世での生earthly lifeをいくら引き延ばしてもかなえられない。ただ年齢だけが増え、はてしなく「同じことmore of the same」を繰り返すばかりで、もっとも深い望みを満足させることは不可能なのである」(27)。すなわち、この世での不死が仮に達成されたとしても、そこで獲得されるのは、無限に反復される「同じこと」の集積でしかないのであり、それは当初我々が切望していたものとは、まったくかけ離れたものでしかないのである。「不死や不滅、永遠といったものにあこがれる人間の気持ちは、たとえ死を「生命医学的に」克服したとしても、きっと満足させることはできないであろう」。「それどころか、寿命の延長を追求することは、人間の魂が本来めざしているはずの目標から私たちの歩みをそらすことになり、人間の幸福を脅かすことになる」のである(28)。では、我々が当初切望していたものとは何かと言えば、カスはそれを「他者における完成completion in another person」(29)と呼んでいる。それは「神の愛」へと通じるものであるが、カスはこれ以上宗教的な世界に入って説明することを自粛する。カスの提出するこの論点は、ユダヤ=キリスト教の文脈によらなくても、把握可能な哲学的論点のように私には思われる。我々が「永遠」を求めるときに、そこで切望されているものは、この世での不死によっては達成できないはずの何ものかだったのであるという命題は、充分に神学の外部での考察に値するし、また医療があきらかに老化遅延と不死に向かって邁進している現在、どうしても問うておかねばならない論点だと考えられる。
  私は『無痛文明論』において、同様の論点を考察したのち、以下のように述べた。「われわれは、生の延長、所有の拡大、願望の実現によって「永遠」に近づくのではなく、まったく逆に、手にしていたものを手放し、自己を解体し、残されたものを真摯に味わうことによって「永遠」に出会うのである。無痛文明は、持続の果てに「永遠」を求めようと希求するがゆえに、けっして「永遠」に出会うことがない」(30)。この文章の「無痛文明」を、テクノロジーによって不死を追い求める我々の文明というふうに置き換えてみれば、カスの言おうとすることと響き合うことが分かるであろう。ポイントは、「永遠」をどう捉えるのか、という点に存するのである。
  すなわち、いつまでもできるだけ長く生き続けていたいという「欲望」の中身と、永遠がほしい・永遠の一部になりたいという「切望」の中身は、同じなのか違うのか、もし違うとすればどのように違うのか、について哲学的に考えていくことが必要なのである。これは、時間論、救済論などへと越境する大問題であるが、不老不死を目指す今日の医学的欲望をどう考えればよいのかというときに、避けては通れない論点のように思われるのである。これなどは、従来の生命倫理学では手に負えない種類の問題だ。どうしても、哲学・人間学へのシフトが要請されることになろう。


森岡正博, 200703, 「生延長(life extension)の哲学と生命倫理学――主要文献の論点整理および検討」『人間科学:大阪府立大学紀要』2:65-95.
 http://www.lifestudies.org/jp/lifeextension01.htm
 最初にも述べたが、この議論が大きく盛り上がったのは、保守派の生命倫理学者であるレオン・キャスが2003年の大統領レポートで、「生延長と老化遅延によって人間はかならずしも幸福にならないのではないか」と問いかけたからである(大統領レポートの基本思想はレオン・キャスのものであり、とくに第4章の執筆者はほぼ間違いなくキャスであるから、以下、キャスを大統領レポートの執筆者とみなすことにしたい)。キャスは、欲望に駆られて生を延長するよりも、与えられた命を十全に生き尽くすことのほうが人間にとって大事であるという見解を、大統領レポートのなかで繰り広げた。ところが、大統領レポートという性格上、キャスの物言いは、「国家」は生延長と老化遅延を規制すべきである、というメッセージとして専門家たちに受け取られたのである。それに反発するようにして、国家による規制は正当化できないという声が、続々と上がりはじめたのである。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、そもそも先端生命医療技術に対して否定的であり、2006年7月には、ヒトES細胞研究の規制緩和を求める法案に対して拒否権を行使している。大統領レポートは、このブッシュ大統領に対して提出されたものであるから、その影響力の大きさに推進派が敏感になるのも無理はない。生延長や老化遅延の研究に規制がかけられるようなことにでもなれば、たいへんだからである。もちろん、大統領レポートを慎重に読めば、研究規制については一言も触れられていないことが分かる。ただ、レポートのトーンは、あきらかに、研究推進の方向ではない。
 以上のような事情も相俟って、生延長と老化遅延についての現在の議論はかなり錯綜している。大きな枠組みとしては、推進派と慎重派が対立しているのだが、そもそも何を論点にするのかという次元で、両派のあいだにかなりの議論のすれ違いが見られるのである。また、生延長というときに、いったいどのくらいの長さの生延長を想定しているのかによっても話は異なってくる。大統領レポートでは、20年から200年の延長を想定しているが、推進派の論文には、過去の自分と未来の自分のあいだに自己同一性が保てないくらい長期間の延長を想定しているものもある。生延長の期間が、10年単位なのか、100年単位なのか、それとも数世紀以上にわたる単位なのか、あるいは事故が起きないかぎり死なない不死の状態なのかによって、議論の中身も変わってこざるを得ない。
(略)
 以上見てきたように、保守派の論者たちは、生延長と老化遅延を社会的に食い止めるだけの論理構築をなし得ていない。しかしながら、推進派がそろって口を噤もうとしている「時間との和解」「みずからの死との和解」というテーマを、彼らが生延長と老化遅延の問題の中心に据えていることだけは確かである。生命倫理の最先端に、古来からの哲学のスタートラインが現われたのである。


◆町田宗鳳, 20070920, 「生命倫理の文明論的展望」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』,新曜社:17-54.
(pp32-33)
 先端的生命科学といえども、その思想的根拠は、所詮、八世紀の仏教僧である空海が指摘した迷妄から一歩も抜け出ていないのではないか。ブッダは、肉体をもつ自分が「老・病・死・憂い・汚れ」を不可避なものとして保有しつつも、その問題の在りかを自覚するがゆえに、「不老・不病・不死・不汚なる無上安穏の涅槃」を樹立したいと願っているのである。そのような境地に至ることが解脱であるが、ブッダは肉体生命が直面する困難な問題に妨げられず、ひたすら精神の自由を獲得することを説いているのである。


鎌田東二, 20070920, 「クローンと不老不死」町田宗鳳・島薗進編『人間改造論――生命操作は幸福をもたらすのか?』,新曜社:55-75.
(pp57-
 さて、問題は「命の木」である。そしてその木の実を取って食べると神のような「永遠の生命」を手に入れることができる。しかし、神はそのことを怖れて人間を追放し、二度とこの地に戻ってこられないように、天使ケルビムに「道」を守らせた。「そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた」(同、三―二三)。
 この聖書の物語は、人間が根源的に善悪を知る叡智と永遠の生命を求めてやまない存在であることを印象づける。神とは「善悪を知る」叡智と「永遠の生命」を持つ存在であるが、人間はある意味で神になり損ねた半端な存在である。悪魔とされる蛇は人間の始祖に「神のようになる」とそそ  これを、別の側面からいえば、神は人間に神のようになることを禁じたということである。そして、人間が知恵と永遠の生命を手に入れることを制限したということである。ということは、さらにそれを言い換えると、人間が何よりも手に入れたいと望んだものこそ、神のような叡智と永遠の生命(=不死)であったということであろう。
 神は永遠の生命という、「不老不死」なる最高存在である。最古の叙事詩の主人公とされるギルガメッシュ王や秦の始皇帝に典型的に現われるように、人間はそのような「不老長寿」や「不老不死」を追い求めてきたといえる。不可能性の追求に身を投じてきたのである。
 そして、アダムとイブの時代から長い長い時を経て、現代の生命科学は神の禁止した禁断の領域に分け入っていこうとしている。そのことを告げる著作がプリンストン大学教授の分子生物学者リー・シルヴァーの『複製されたヒト』(Remaking Eden)である(註:1)。リー・シルヴァーはそこではっきりと人間の再挑戦の意図を”Remaking Eden”と命名している。 「ふたたびエデンを作る」、「リメイクする」とは、言うまでもなく、もう一本の木(「命の木」)の実を取って食べるということを意味している。つまり「永遠の生命」を手に入れるということ。それがクローニングの技術を通して達成されようとしている〈現代の神話〉である。
 とすれば、クローン人間の創造というのは、単に「永遠の生命」を手に入れようとする行為であるだけでなく、人間という存在の再創造と再定義を行なおうとする〈新しい創世記〉の創造という、神話学的人間学的次元の問題でもあるということであろう。
(pp70-
 日本神話を紐解くと、神々も永遠の生命を持っているわけではないことが表現されている。もちろん、神々といっても「八百万(やおよろず)」であるので、自然神や人格神など、さまざまな神がいるわけだが、日本列島の島々を「国産み」し、石の神や海山の神や風の神を産んだイザナミノミコトは、火の神カグツチを産んだことがもとでホト(女陰)を焼き、病み衰えてついに黄泉(よみ)の国にみまかったと記載される。夫のイザナギノミコトは妻の「死」を悼み、嘆き悲しんで、剣を振るって「死」の原因となった火の神カグツチの首を切り、その首から飛び散った血潮や死体からまたさまざまな神々が化成したと伝えている。
 とすれば、ここでは少なくとも神の特性として「永遠の生命」は想定されていないといえよう。これは聖書の神観とは大きな違いがあり、それは神観のみならず、生命観や人間観の違いにもつながっていく。
 興味深いのは、日本神話の神々の記述のなかに、神の死体からさらなる神々が化成したり(カグツチ神話)、五穀が化成したり(オホゲツヒメ神話)することだ。さらには、イザナギの禊祓いの場面では脱ぎ捨てた衣服や、投げ捨てた杖や冠からも神々が化成し、ついには左右の目や鼻を洗った時に貴い三人の神々(三貴子=アマテラス・ツキヨミ・スサノヲの三神)が化成したと記されている。実に奇想天外な記述であり、発想ではないか。
 日本神話においては、神々は場所からも物からも生まれ出る。そして、死ぬこともある。とすれば、神々は不変にして「永遠の生命」を持つわけではなく、絶えざる変容のなかにあって、死と再生を繰り返し変化し続けているということになる。
 このような神観や生命観を伝承してきた文化のなかでは、死と再生を希求することはあっても、「不老不死」などの「永遠の生命」を希求する強い欲望は生まれにくいのではないだろうか。「無常」とか「もののあはれ」という言葉や情感が感覚的に共有されてきた文化のなかでは、脳死・臓器移植という生命の部分化・部品化には少なからぬ抵抗が生まれるのであろう。
 日本に「不老不死」の観念が入ってきたのは、徐福によるものと伝えられている。史実かどうかは不明であるが、紀元前二一九年、秦の始皇帝の命により、徐福は「不老不死」の薬を求めて山東省を出発し、日本に渡ってきたという。熊野の新宮には徐福上陸伝承や墓と伝えられるところがある。その徐福の日本渡海は『史記』にも記されている。
 徐福が「不老不死」の薬として伝えたのはクスノキ科の常緑低木「天台烏薬」であるという。その根にはリンデランやリンデレン、ボルネオールなどのテルぺン系の成分が含まれるので、芳しい香りがし、健胃剤や強壮剤となったという。だが、このような話は古事記や日本書紀には一切記載されていないのである。日本では「不老不死」はそれほど強く求められなかったということなのだろうか。
(pp73-74)
 老化とは、加齢により臓器の機能が低下してホメオスタシスを維持することが困難となって死に至る過程をいう。その老化の原因については、遺伝子にプログラムされ、寿命も遺伝子により制御されているというプログラム説や、DNAやタンパク質の突然変異によって遺伝子の配列が変化するというエラー説や、コラーゲンなどの物質が複数の高分子と結合して細胞障害を起こす新しい高分子を作るというクロスリンキング説、タンパク質や核酸や脂肪などと化学反応を起こして障害を起こす不対電子を持つ分子のフリーラジカルによるというフリーラジカル説、加齢による免疫機能の低下で自己の体の成分に対して抗体を形成するという免疫異常説、細胞の代謝速度が老化や寿命を支配するという代謝調節説などがあるという(註:4)。
 これら老化の原因とそのメカニズムを探ることにより、老化を防ぐ技術を開発し、それを市場に提供する競争が進行しているのである。ジェロン社を始め、バイオ系のベンチャー企業は「不老不死」に近づくさまざまな「商品」を開発している。そのなかには、カロリー制限模倣剤とか活性酸素抑制剤とかテロメラーゼ酵素とかマン・マシーン化(サイボーグ化)とかES細胞を使った臓器交換とかも含まれている。
 また、将来どんな科学技術が発達してより精妙な「不老不死」法ができるかわからないので、それまで遺体を液体窒素のなかに入れてマイナスニ○○度で冷凍保存する人たちもいるという。
 「脳死・臓器移植の比較宗教学的研究」のメンバーの町田宗鳳氏と上田紀行氏と私は、二〇〇三年三月にアメリカ合衆国のカリフォルニア州にあるいくつかのバイオ産業を見学・取材し、SFかファンタジーかと見紛うような「不老不死」をめぐる「人体商品」開発・提供が行なわれている様子の一端をかい間見た。
 すべての人間は「死」という未知なる現象に対する不安や恐怖を抱えている。その不安や恐怖が強ければ強いほど、その逆に、「不老長寿」や「不老長生」や「不老不死」という「永遠の生命」に対する憧れと希求を抱く。であれば、死への不安や恐怖がある限り、「永遠の生命」に対する探究は止むことはなく、それゆえ真の安心がもたらされることはない。「不老長寿」や「不老長生」や「不老不死」を求めるよりも、むしろ死を見つめ、死ぬ覚悟を深くすることが問題解決の本質に近づく道であると私は思っている。つまり、「生老病死」の自覚あるいは諦念である。
 生とは何か、生きるとは何かとは、死ぬことを問い、覚悟し、ただただ生きものとしてたんたんと死んでいくこと、それこそが人生の「一大事」ではないだろうか。


◆阿形清和, 20080501, 「〈幹細胞〉とは何か――何を意味して、何をもたらすのか」『現代思想 特集:万能細胞――人は再生できるか』36(8):76-81.
(p81)
 iPS細胞を使って再生医療を実現させるためには、全能性幹細胞の制御システムの理解が不可欠であり、制御システムの理解によっては無性生殖が可能になることを示唆している。ヒトがプラナリア化することは遠いことではないかもしれない。そうなった時、人類は真剣に不老不死問題を考え直さなくてはならない。なぜなら、"プラナリアには老化はあるのですか"という同じ問いをヒトにしなくてはいけなくなるからだ。


ニキリンコ, 20080825, 『スルーできない脳――自閉は情報の便秘です』生活書院.
 音楽は一曲分の長さがあるだけになかなか大変だが、もう少し簡単なものだと、上空で鳴いたカラスの声というのもあった。われながら変なくせだとは思うが、私はカラスの鳴き声が聞こえてしまうと、くり返さずにはいられないのだ。こういうのもエコラリアっていうんですかね。それも、そっくりに物まねできるまで、どうしても落ちつかない。頭の中に音声ファイルが残っていて、それとユニゾンになるまで強迫的に練習させられることになる。ところが、完璧にコピーできたとたん、どうでもよくなってしまう。興味がなくなるばかりか、どんな鳴き声だったか思い出すことさえできなくなる。
 本当は、プリンタやスキャナなどの作動音も再現できたらさぞ楽しかろうと思うのだが、これは人間の声帯では再現が難しいようで、もうあきらめてしまった。大富豪でもなく不老長寿でもないのが悲しいのはこういうときだ。「生まれ変わっても自閉っ子に生まれたい」という発言の陰には、これもある。五回くらい転生できるんなら、そのうち一生くらいは機械音のエコラリアに割り当ててもいいのになあと思ったのだ。まあこの夢はせっかく封印したのだし、思い出すと悲しくなるのでここでおしまい。


*作成:植村 要
UP:20090208 REV:20090215
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