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尊厳死と医療を考えるシンポジウム「尊厳死、ってなに?」



   *以下告知

尊厳死と医療を考えるシンポジウム「尊厳死、ってなに?」

日時:平成19年3月3日(土)13:00〜17:00
受付12:15〜
場所:大宮ソニックシティ 906研修室
締め切り:平成19年2月10日   定員:80名

お問い合わせ・申し込み方法:電話またはFAX・メールにて
NPO自立生活センターくれぱす 
電話048-840-0318 FAX048-857-5161 
メールyukkoあっとkurepasu.org
担当:小林・見形信子
(定員になり次第締め切らせていただきます)
参加費:500円(介助者は無料)
*介助者で資料が必要な方は500円頂きます。

シンポジスト:
荒川迪生氏(日本尊厳死協会副理事長)
立岩真也氏(立命館大学大学院教授) 
橋本操氏(日本ALS協会会長・当事者)
山本創氏(難病者の人の地域自立生活を確立する会)
吉澤明孝氏(要町病院 副院長)

主催:NPO自立生活センターくれぱす http://www.kurepasu.org/
共催:NPO法人ALS/MNDサポートセンターさくら会 
後援:さいたま市社会福祉協議会・さいたま市教育委員会


 *以下全記録 再録:杉田俊介 (【 】内は杉田)

■上野 本日はお忙しい中、尊厳死と医療を考えるシンポジウムにお集まりいただき、ありがとうございます。くれぱすは立ち上げて6年目ですが、こんな大きなシンポジウムを開くのははじめてのことです。また今回、リーダーシップをとっていた【?、名前、聞き取れず】が体調不良でダウンして、皆さんにはご迷惑をおかけしましたけれども、たくさんの方にお集まりいただいて、嬉しく思います。
 2年ほど前に、尊厳死が法案化されるかもしれないというメールが私たちの手元に届きました。尊厳死という言葉は以前から知っていましたが、自分たちの問題として考えたのは、今回がはじめてです。私自身が、進行性の筋肉の疾患をもっており、またまわりに障害をもったたくさんの仲間たちがいます。そういう私たちをとりまく環境、生きる環境というものが、残念ながらまだまだよいとはいえない、と思っています。優生思想、着床前診断や出生前診断、そういうことがあって、障害を持って生きることさえまだまだ否定的にみられる社会の中で、尊厳死という言葉は、私たち障害を持つ者にとっては大きな衝撃です。これまで一生懸命生きることについて議論してきましたが、尊厳死という言葉を前に、今度は、死についても考えることになりました。しかし、尊厳死といいましても、考え方の違い、立場の違いなどから、色々な捉え方があるとは思います。私も新聞やメディアで尊厳死について聞きますが、まだわからないことがたくさんあります。障害を持つ立場からも、もっと身近に考えなければいけないことだと思います。
 皆さんにもそれぞれの立場があると思うのですが、今回のシンポジウムは、尊厳死の賛否を問うものではなくて、まずあくまでも、尊厳死とは何なのか、そのことを考えるきっかけとして開催するもので、その辺の趣旨をご了解いただいて、皆さんにとって有意義なシンポジウムになればいいと思います。
 最後になりましたが、今回の準備を助けていただいたさくら会の橋本操さんと川口有美子さん、コーディネーターを引き受けていただいた立岩さん、それからシンポジストの吉澤先生、荒川さん、山本さんに心から感謝いたします。

■立岩 今日はコーディネーター兼シンポジストを務める立岩です。シンポジストの方には、まず五十音順でお話していただこうと思っています。尊厳死をどう捉えるか、自分の立場を、まずは手短にお話していただく。その中で、論点を整理しつつ、互いのやりとりにうつっていければいいな、と思っています。五十音順ということで、荒川さんがまず第一番目、ということになります。

■荒川 ご紹介にあずかりました荒川です。今日はお招きいただきありがとうございます。主催の趣旨が、まず尊厳死とは何かを知ろう、ということだとお聞きしましたが、私ども尊厳死協会の考える尊厳死と、皆さんの考える尊厳死、それから諸外国でいわれる尊厳死、それらは若干違うのではないかと思います。
 私どもの考える尊厳死とは、なにも尊厳をもって死ぬことではありません。治療義務がなくなる、治療の限界を超えている、そういうときには、たんに死の時期を延長するにすぎない延命措置はやめてください、こういうことをお願いしています。医師側にとっては治療義務を超えているし、患者側にとっては、自分の自己決定をもってリビングウィルで示した「単なる延命措置はやめてください」という希望をかなえてもらう。患者側と医師側が、互いに尊重しあっていく。そういうことになります。医療側も本人の自己決定の意志を尊重する、そういう意味でこれを尊厳死と考えております。したがいまして、単純にいえば、尊厳死とは自然死でありまして、自然に死にゆく過程を自然のままにさせて下さい、と申し上げているわけです。
 本人の希望や明確な意志によって、たとえば医師に注射を打ってくれと、意図的な生命の短縮を行う行為は「安楽死」と呼ばれています。私たちはそういう安楽死のことは全然考えてはおりません。それは私どもの協会の精神とは、何の関係もないことです。
 資料に、日本尊厳死協会のリビングウィルの抜粋が載っています。「私は、私の傷病が不治であり、かつ、死が迫っている場合に備えて、私の家族・縁者ならびに私の医療に携わっている方々に次の要望を宣言いたします」【資料読み上げ?】。すなわち、自己決定ができなくなった状態のときには、事前のリビングウィルで判断してくださいと、ということです。「私の傷病が、現在の医学では不治の状態であり、すでに死期が迫っていると診断された場合には、いたずらに死期をひきのばすための措置は一切お断りします」【資料読み上げ?】。生命を回復する治療はもう無理だと。そういう事態に陥りつつある時には、死期をひきのばすためだけの延命措置なら、それはやめてくださいと。もちろん、もし可能性があれば、治療はどんどん行っていただくことになります。
 もうひとつ、「私が数ヶ月以上にわたっていわゆる植物状態に陥った時は一切の生命維持措置を取りやめて下さい」【資料読み上げ?】。外国では、植物状態に陥って長い時間が経過した人をめぐる裁判から、死の自己決定が認められていきました。そういう経緯がありまして、諸外国では、すべて法律的には認められている内容ではあります。
 この二つを私たちは明確に区別しています。
 すでに死期が迫っている時に、たんに死期を引き延ばすにしか役立たない治療は、延命治療です。そのことと、健康や生命を回復するための通常治療、あるいは生命維持を行うための維持治療とは、異なるものです【このあたり、資料読み上げ?】。疾患の回復が不可能なまでに進行した病理、疾患末期で、しかも、回復の見込みがなく、死期の迫っている末期状態【資料読み上げ?】、これを「臨死期」と呼びます。この臨死期までいかないと、私は、リビングウィルは働かないし、延命措置の中止はできない、と考えております。あるいは、持続的植物状態であること。
 その上で、本人の死の決定についての自己意志と、医師の治療義務の限界とが、合致するという合理的な条件が必要であると。いくら自己決定の意志をご本人から表明していただいてもですね、社会慣行上、公共の福祉に反するものや、自己破壊的なこと、あるいは他人の権利を侵害するようなものであってはなりません。わかりやすく申しますと、患者の側からとにかく治療をやめてほしいといえば、医師の側の治療の専門性を越えて、なにがなんでもやめられるかはわからないと。それを合理的な判断として、自己決定として認められるかはわからないと。本人の意志、それだけでは、合理的な自己決定として判断することは難しいかと思います。いずれにしても、患者の自己決定と医師団の合理的な判断、その二つが調和しないことには、無理だと思います。
 意識が回復しない持続的植物状態などでは、自発的に生きることも死ぬこともかないません。水準の高い現代医療を、十分に受けたにも関わらず、回復しない場合は、もはや回復しないとされています。医学的経験的には、この時点から、改善目的治療、あるいは生命維持治療は、たんなる延命措置となります。こういう意味での延命措置の中止を要望することを、私たちは妥当と考えています。
 米国では1995年に、植物状態の診断基準を変更しています。持続的植物状態とは、植物状態が1ヶ月継続した場合。永続的植物状態とは、外傷性脳障害の場合は、脳障害後12ヶ月を経過した場合。非外傷性脳障害の場合は、脳障害後3ヶ月を経過した場合。と、このように一応定義しております。この期間以後では、意識が回復する可能性はきわめて低く、回復してもほとんど必ず重度の障害を残す、とされています。ただ、私たちは、この手前の基準によって、植物状態を定義しています【?、意味やや不明瞭】。医学的な基準というものは柔軟に変えていかなければなりませんが、一つの文言を変えるにも、相当のディスカッションが必要ですので、あえてこのまま記載しているところです。治療としては、かなり柔軟に、はばひろく認めることも必要かと思います。
 尊厳死には本人の意志表示がなければいけません。本人の意志表示がないときに、本人のことを思ってまわりの人間が治療を停止するということは、今のところ、生命倫理的にもできません。できないことはないですが、難しい。ですから、本人の意思表示を明確にするためには、どうしてもご家族、支援者のあたたかい支援が必要です。そういうものを充実することが必要であると私たちは考えております。
 本人が臨死期になって自己意識が明確でなくなった場合は、ご本人をケアしているご家族が、本人の意志がそれまでどうであったかを推定して、それを医療者側に伝えて、本人の意志を代行することは、これは裁判の判例でも合理的である、と言われています。何にしましても本人の意志、あるいは本人に意志を最も強く支援しているご家族の意志、がない限り、尊厳死はできないことになります。
 死の迎え方に対する自己決定の多様性の尊重、これが大事です。【以下、資料の読み上げ→(どこまでが引用?不明)】人の生命限界を確実に予測することは困難です。医学の不確実性に鑑みても、一生懸命生きることは大切です。現代医学では回復の可能性が低く、たとえ回復したとしても極めて重度の障害を残すという医学的経験的事実がある場合に、本人が要望する場合には、本人の要望を尊重することが大切です。本人の人生観、死生観に従った自己決定もこれまた尊重されなければならない。したがって死の迎え入れ方に関しては、死の自己決定権をひろく捉えて、色々な選択を可能とするものがよい、と考えます。たとえば、死の時期をたんに延長するにすぎない延命措置を拒否する自己決定。医師の勧める場合だけ回復目的の治療を受け、回復が不可能ならそれは延命措置となりますから、それを中止するという自己決定。あるいは、最後まで延命措置・生命維持治療の継続を求める自己決定。これらすべてが選択行使できる、あたたかな社会を望んでいるものであります。
 以上です。

■立岩 ありがとうございます。二番目ですが、橋本さんと川口さん、どういうスタイルでやるかはお任せします。よろしくお願いします。

■橋本の介助者 橋本は口の形と目の動きで会話するので、若干お話をするときにタイムラグが生じるかと思いますが、ご了承下さい。

■橋本 皆さんどうもこんにちは。現代医学が生んだモンスター橋本操です(会場・笑)。機械につながれて、公費を食べまくるあたりは、モンスターかもしれません。今以上に食べることはできるんですけどね。さてここからはまじめな話をしたいと思います。橋本のような市井に生きる人間には、お話が今のように伝わってはおりません。なぜかというと、日本には、「尊厳殺」というものが起こる土壌があるからです。
……続きは、川口さんの方にお願いしたいと思います。

■川口 川口です。さくら会で橋本さんといろんな活動をしています。今日は咳が出るので、代わりに橋本さんが少し長くしゃべってくれました。
 私の母もALS患者で、呼吸器をつけて在宅生活12年目ですが、まだ頑張って生きております。眼球運動も止まって、いわゆるロックトインという状態。外からみると完全に植物状態です。脳波を計ってみると、覚醒する時もあるんですが、やはり植物状態に近いので、尊厳死法が成立すると、まっさきに尊厳死の対象になるんじゃないか、と心配しています。
 母が病院でALSと診断された時、私は当時ロンドンにいたんですが、国際電話で相談されました。その時私は、がんとかじゃなくて、生きていける病気なら、なんでもいいからよかった、ってまずは思ったんですね。呼吸器でもなんでもつけて一緒に生きていきましょうと。そう言いました。そしたら、母が、呼吸器を使ったら家族介護が24時間必要だって医師から言われた、あなたたちの人生を狂わせてしまう、って泣き崩れたんですね。私は当時三〇歳くらいだったんで、体力的には自信がありましたし、でもなんとかなるわよって、母の介護を引き受けたんです。
 人工呼吸器に対する皆さんのイメージが今、非常に悪いですよね。私もその当時は悪く思っていたんですね。人工的な機械に母が繋がれてしまうと考えると、心が痛みましたし。ただ、10年もたちますと、患者さんはよく呼吸器は家族だって言いますけれども、呼吸器もだんだん普通の電化製品の一つのようになっていきます。今は大変感謝しています。私たち人間の体がもし昆虫のように堅い殻に覆われていたら、呼吸器を繋ぐのももっと大変だったはずで、人間の体だからすっと機械が中に入る。そう思うと呼吸器はもっともっと使われていいはずです。苦しいなら機械や人工的なものを身体に繋いで、人生を拡張していくことは、不自然なことではないということです。そういうイメージの転換を図っていかないと、私たちは長生きできなくなるんじゃないかと。これが1点目です。
 2点目は、家族の意志代理のことですね。私の場合は、すっと、24時間私たちが面倒みるから、と母に言いましたけれども、冷静に考えると、家族は自分の人生と患者の人生を秤にかけて、多くの方がそうは言わないかもしれませんね。ケアし切れない、ということがやっぱりあります。24時間介護で就労できなくなる。結婚も維持できなくなる。子どもは進学ができなくなる。そういうふうに本当に縛り付けられますので、自分にはそんな介護はできないと思ったら、断ってくる。すべての家族が、患者の生をぎりぎりまで支援しているわけではない。自分の生やQОLと患者のそれを秤にかけざるをえない状況があります。その中で、家族に選ばせる、ということは非常に危険だと思います。
 論点はもっといっぱいありますが、とりあえず以上です。

■立岩 ありがとうございました。次は山本さん、よろしくお願いします。

■山本 「難病者の人の地域自立生活を確立する会」の山本創です。私自身が、重症無筋力症という難病の当事者です。治りません。不治の病です。クリーゼという重症の発作も起こりうる難病です。そうすると呼吸が出来なくなるんですね。そうしますと今私は一人暮らしですから、呼吸が止まった状態で病院に運ばれたらどうなるんだろうなあ、と考えながら、尊厳死のことも色々考えてみました。
 まず「死の基準」を考える時、どうしても、いくら考えても、自分には考えきれませんでした。死について考え出すと思考が停止してしまう。ただ、死の基準ということは、裏返すと「生の基準」ということでもあるわけですね。
 治療停止の場合も、治療停止する人としない人の間に、ある程度基準が出来てくるってことですよね。そのことを一人ひとりがどう考えるか、それは個人の自由だと思うんですが、それが皆が共有する一律の基準ができてくるとなると、ちょっと空恐ろしく感じます。
 今日はわからないことがたくさんあってやって来たんですが、お聞きしたいことの一点目は、「死の基準」は「生の基準」でもあるんだろうか、ってことです。
 ふだん様々な障害当事者団体と交流しながら活動している立場からいうと、1970年代に横浜で、お母さんと重度の障害を持つお子さんが暮らしていて、介護に疲弊したお母さんが、お子さんを殺してしまった。その当時、介助保障も十分にないわけですから、裁判の時に、情状酌量の余地があるだろうと、市民が減刑活動をはじめたんですね。それにたいして私たちの先輩たちは、母親の刑の軽減を認めることは私たち障害者の生を否定することだ、殺されても構わないと認めることだ、そういった軽減活動は容認できない、と主張した。それはすごく共感できることでした。昨今、自立支援法など介護の問題が各地で起こっていまして、ほんとに頻発していますよね。実際に手を下して殺してしまっているケースがいくつもある。やっぱり裁判を見ていると、あいかわらず軽減されている。環境の整っていない家族のことを思うのはよく分かるんですが、では本当に障害者は殺されていいのか。基準をもって生が評価されていいんだろうか。疑問を持っています。
 2点目です。事前に死を自己決定することについて。その時、当事者と家族の思いが食い違うのは、よくあるんですね。自立生活センターに勤めていた時、これは尊厳死ではなくて自立生活のことですが、本人の気持に家族が反対するケースはよくありました。危ないから、とか、あなたには自立はできない、とか。その時、当事者の側に立って権利擁護していくことが大事になる。そうした権利擁護を考えていったとき、尊厳死では、はじめ決めていたことが途中でひるがえったときですね、当事者は思い悩むわけですから、やっぱり生きたいんだと思い直したときに、本当に権利擁護がちゃんとされるんだろうか。それを非常に危惧しております。その時はもう意志の表示が出来ないわけですから。そのときに事前の判断をもって今現在の判断としてしまうことは、本当に自己決定の尊重なんだろうか。
 私には重度心身障害者の方も友だちにいまして、身体的にも知的にも重度の障害があって、顔がひきつるくらいしか反応がない方なんですよね。じゃあその人には自己決定や思いがないのかというと、全然そんなわけがない。思いはちゃんとある。それを私たちがちゃんと確認できないだけです。コミュニケーションの手段がないだけ。いっしょに歌を歌ったりしていると、ちょっとだけ顔がひきつったりする。いっしょにいると、喜んでいるんだなあってわかる。コミュニケーションが取れないといわれている人は、本当にコミュニケーションが取れないのか。本人の思いはあるのに、周りがそれを勝手に決めて判断していいのか、と思います。
 3点目なんですが、自己決定というとき、自分の自己決定を否定できる自己決定じゃないとダメだと思います。失敗してもいい、だから自己決定ができるんです。失敗しても取り返しのつく自己決定じゃないと、本当の自己決定じゃないんじゃないかな。死の自己決定のときは、失敗がゆるされるのか。疑問に思うわけです。
 よくわからないんです。死のことを考えると、本当に頭の中がごちゃごちゃしてきて。わからないんですけれども、いま疑問に思う点が3点ありましたので、もしこうした集会を通じてそうしたことについて何かがわかるのであれば、ぜひ教えていただきたい。ちょっと短めですが、この程度で。

■立岩 ありがとうございました。山本さんでした。では4人目ということになりますけれども、吉澤さん、お願いします。

■吉澤 東京の要町(かなめちょう)病院から来ました。吉澤です。
 私が扱っている患者さんは、がんの末期患者さんがほとんどです。患者さんはよく尊厳死協会のリビングウィルを持っています。これに沿ってやってくださいと。初診のときにそれを見せられるケースが最近増えている。
 ある意味では、すべての死において、これは尊厳死なんだと。つまり亡くなるとき、すべての人が尊厳をもって、死を迎えなければいけないんです。ただ、その仕方がどうかということには疑問がある。尊厳死がいいか悪いか、という問題ではない、と思います。すべての死は尊厳をもってむかえられるべき。そう思います。
 特に私が迎える患者さんたちは、苦痛とともに病院に来ます。息苦しさ。痛み。激痛です。痛みをとってほしいと。痛みを取るために、鎮痛剤を投与します。鎮痛剤で死が早まることがありますか、と家族の方に聞かれます。あるかもしれませんが、それを目的に使うのではありません、と私は言います。あくまでも痛みを取って、苦痛を緩和する。それで患者さんに、にこやかな時間を少しでも持っていただく。
 先日、肺がんの患者さんがぼくのところにやってきました。心臓のまわりに水がたまる心タンポナーゼです。心嚢(しんのう)という袋の中に心臓が入っています。その袋の中に水がたまる。心臓が動かせなくなる。その状態で息苦しくて、がん専門病院では診てもらえないので、救急車で運ばれてきた。心臓のまわりの水が1リットル近くたまっていた。死ぬ直前です。すごく苦しい。ぼくが水をぬきました。肺がんですから、呼吸器も必要です。装着しました。すると、先生、呼吸器を取って下さい、とその人はいう。その方もリビングウィルを持っていました。これを提示するから、先生ぜひお願いしますと。ぼくは言いました。そんなものは必要ないですよ、ちゃんと苦しくないようにしますから、と。水をぬいて、モルヒネを投与しましたら、夜にはずいぶん楽になって、翌朝、その患者さんがこう言いました。久しぶりにちゃんと眠れました、先生ありがとう、と。その方はその二日後になくなりました。ご家族はとても感謝していましたし、本人も感謝されていました。楽になった、とおっしゃって、最後天に召されました。
 緩和ケアの世界では、これが尊厳死ということです。
 本人が尊厳をもって死を迎えること、これは緩和ケアの世界でもありえます。べつに薬で安楽死させるわけではありません。疾患や疾病の内容によって、尊厳死の考え方は当然変わってきます。尊厳死が法案化されて、神経難病の方がレスピレーターを外される、そんなことは絶対にありえません。やはり本当は、すべての人において、尊厳死がなされるべきなんです。
 たとえば、特別擁護老人ホームに入っているほとんど寝たきりのおじいちゃんおばあちゃんで、本人もそこを終の棲家にしたいと言っておられた。だけども現状では、体調が急変して呼吸が止まりかけたとき、夜間、ホームには看護師さんもいませんので、協力病院へすぐに運ばれて、人工呼吸器をつけられて――となるわけです。しかし本当に本人がそれを望んでいるのか。老人医療の中ではそういうことが多々あります。こういう面についても考えなければいけない。
 ぼくが言いたいのは、疾患ごとに考え方が違って当然だろうと。ぼくも神経難病で呼吸器をつけて在宅生活を送っている人を二人、みさせてもらっています。3年以上経ちます。生活は順調です。その方々の人工呼吸器をとめる理由なんてさらさらないです。家族ととても楽しく暮らされています。そういうふうに生きていることが、その方の尊厳なんです。ですから尊厳をもって人生を生きてもらう。先ほど山本さんから、生の基準と死の基準は同じなのか、という話がありましたが、ぼくはイコールだと思います。
 ただ、医者の法的な義務は、患者さんを延命することです。がん末期の方にも、むりやり延命をさせる。それがいいことなのか。苦痛をいたずらに延長させているだけではないのか。そういう問題はやはりあります。ぼくたちは、治療をやめることはしません。ただ、抗がん剤や放射線治療といった積極的な治療はしていないかもしれない。それが緩和ケア病棟の現状です。ただ、本人の症状や苦痛を緩和する、ということは、しっかりやっています。ですから、治療をやめているわけではありません。
 そういう立場から今日は参加させてもらいました。よろしくお願いします。

■立岩 皆さんどうもありがとうございました。さて、これから、どんな感じにしようかなと思うんですけれども。
 これまで、尊厳死の法案化について賛成する人、反対する人、中立の人、そのいずれかの人々がそれぞれに集まって共感を確認する、そういった場はたくさんあったと思うんですね。それはそれで意味があります。しかし今回は、必ずしもそういう集まりではない。なんだかよくわからない、という部分もふくめて、必ずしも一つにはくくれない人々が、同じ会場にいるわけです。このことは、おそらくは意味のあることだと思うんですね。ですから、できるだけそういう特性を生かして議論を進めたい、というのが一つです。
 それから、今回、日本尊厳死協会から荒川さんに来ていただいて、これも得難い機会だと思います。すでに質問もいただいているので、それを一つずつ確認しながら、尊厳死にかんする論点をまずははっきりさせていく、ということを小一時間やってみようと思います。そのあとの時間のことは、またのちのち考えていくということで。
 論点はけっこう多岐にわたったと思います。どこから始めてもいいのですが、荒川さんのお話が立場としては明快に論じられていて、あとのお二人がそれに抗するような立場からお話しされていましたから、前半はその辺をテーマにすることになるかな、と思います。荒川さんが準備して下さった資料は6〜7ページ目にありますが、山本さんの方から、死に対するよい/悪い、尊厳のある/ない、という基準について、それは生に対して価値をつけてしまっているんじゃないか、そこのところをどう考えるのか、ということが示されたと思います。
 私や、あるいは会場の皆さんが、荒川さんに聞いてみたいんじゃないかという論点がいくつかあります。
 大まかにいって、末期、死期が迫っている状態、これが尊厳死を行う条件の一つですね。もう一つは、植物状態、遷延性意識障害の状態。これら二つの条件のいずれかがあり、プラス、本人の決定。これが、基本的な論理構成というか、基本的な主張になっています。
 この場合、問題は少なくとも三つあります。
 一つ目。山本さんの最初の問題提起に関わります。荒川さんの資料によると、すでに死期が迫っているときには、たんに死期をひきのばすにしか役立たない治療は延命措置であると。それは生命を維持するための生命維持治療とは異なるものだと。つまり、延命措置と生命維持治療は異なると。前者は、たんに死期を引き延ばすにしか役立たない。後者は生命を維持するための行いである。たんに死期を引き延ばすことと、生命を維持するということ、これらは違う、というのが、ここでの積極的な主張ということになるかと思うんです。ここら辺の含意をもう少し説明していただけると、よいのかなと思います。その点いかがでしょうか。

■荒川 延命措置と生命維持治療の違いにつきましては、外国では同じような意味で言われたりもするのですが、延命措置とは、たんに死の時期を延ばすにすぎない措置、すでに死が迫っていて、人工的に心臓を動かすことはできるけれども、もう医学的に回復できないと。そういう状態に陥っていれば、医療者団体と患者・ご家族の側との了解のもとに、やっぱりそういう【?】ステージにあると。そういうことがわかれば、これは延命措置、たんに死にゆく過程を引き延ばしているにすぎない措置ですから――、と私たちは整理しています。
 もう一つの、生命維持治療の方ですが、これはひょっとしたらわからない【何が?】と。たとえば、わかりやすく申し上げれば、ここでは持続的植物状態という言葉で表現してありますけれども、植物状態が1年たったら、まずもう戻らないだろうと。それが学会【どこの?】の検討結果なんですね。そうなったら生きることもできない、死ぬこともできない。もしそうなったら、自分の事前の自己決定で、自分の生をもう終わらせてほしいと。そう考えることは合理的であろうと。そこから先の治療は、私たちは延命措置と考えるわけですね。それについてはやめてほしい、とお願いしている。
 もちろん、そうでない考え方の方もいらっしゃいますでしょうし、またご本人の意志がまったくわからないときには、これは治療の可能性があるかもしれないので、せめて生命維持治療はやらなければならない。回復する希望があれば普通の治療もまたやることになります。そういうことがありますので、あえて、延命措置と生命維持治療ということを、分けています。

■立岩 あの、ちょっとしつこいようですけれども、今のお話は、一つは死の時期が迫っているという要件、それから回復が見込めないという要件、それらについてのお話だったと思います。たとえばいわゆる「障害」というものは、ある意味回復はしないわけですよね。その状態のままにずっと生きていくことになる。そうすると、回復できるかできないかということが、どれほど大きなポイントになるのかな、という疑問がある気がするんですけれども。その辺はいかがでしょうか。

■荒川 私たちが「回復」と申し上げているのは、死の過程からの回復のことです。障害を持った方は、たとえば人口腎を使っている方はずっと透析にディペンドしているわけですけれども、それは障害があるかもしれないが、普通の生活を送っている。ですから、そういう意味での回復とは言っていません。死からの回復が不可能で、かつ、死期が迫っている、というダブルの意味で私たちは定義しています。

■立岩 わかりました。まあ、ある意味では、あらゆる人間は死に向う過程から回復はできないわけですけれども――、しかしながら、死期がすぐに迫っていて、その経過からはもう押し戻されることがないと。そういうことだと了解してよろしいんですね。

■荒川 概念的にはそうですね。

■立岩 そうすると、ここでは、急激に、すぐに死が迫っている、ということが尊厳死の条件になるかと思うんですけれども、この「急激に」っていうのが一体どのくらいの期間のことなのか、ということがあると思うんですね。よく懸念されるのが、たとえば橋本さんとか、難病の人もその場合は対象になるんですかと。そう問われると、もちろん、あなたは末期ではないから尊厳死の対象にはならない、とお答えになるとは思うんです。ただ、実際には、そのような状態が「末期」と名指されてきた、という歴史があります。「末期」のイメージが人によって違うと思うんですね。それは数時間のことなのか、数日なのか。
 それが短い期間だとすると、そのごくごく短い末期の時間に、わざわざあれこれああする、こうする、死なせる、ということを、あらためて行うことに、どれほどの意味があるのか。もちろん、吉澤さんがおっしゃったように、苦痛を出来るだけ取り除く、それは当然のこととして行いながら、どうせ数時間後、数日後に死が迫っているなら、生命維持の治療を行っても別にいいんじゃないか、という疑問も持つんですが、その辺はどうなんでしょう。

■荒川 ちょっと話が難しくなっておりますけれども、私たちは明確にできることは明確にしておかなければならないということで、きわめて狭義のことを考えております。
 死が間近に迫っている。その「間近」とはどのくらいなのか。それは色々あるわけですが、もともとカリフォルニア州で、自然死法が最初に出来て、そこから全米にひろがって法律ができている。そこでも、死が切迫している状態が具体的にはどの程度の時間なのか、それは書いていない、書けないわけですね。書けないけれども、ジャーナル【何ジャーナル?】によると、それは約2週間と考えると。それがカリフォルニアの法律の背景【?】だと。私たちは、大体死が予測されて、ご本人が、そういう事態になったら呼吸器は入れないでくれとか、そういうことが働きつつあると【?】、そういう状態というのは1〜2週間から1〜2ヶ月、つまり厚生労働省のいう「死亡直前期」ですね、それはこのくらいにあたるんじゃないかと。死亡直前期の範囲を決定するのは大変難しいので、再三医療団も検討しなければならないし、ご本人も意識はない、あるいはあっても判断が難しいと思われるので、ご家族を意志の代行人として、再三議論を繰り返して、合意点に達する、ということになりますね。
 ですから、たとえば尊厳死法が出来たとしても、明らかに死期が迫っていず、本人の自己決定もなされていないなら、それは尊厳死の対象外になっております。

■山本 一点だけ確認させてもらっていいですか。急激に死に向かっている状態に陥ったとされる人々、それらの人々が、実際にはどれくらいの割合で本当に亡くなられているのか、知りたいんですね。聞くところによると、脳死状態でも甦って、また普通に暮らされている方々がいられるとか。その辺はどうなんでしょう。

■荒川 具体的な確率の数字は知りません。ただ、死の判定をするからには、何回も繰り返して検査しますし、かなり厳密に脳波を取るなどしますから――、99%カバーできて、1%はカバーできないということはあるかと思いますが――、ちょっとそれは知りません。私たちが申し上げているのは、死に向いつつある、という経過ですね。これはやはり主治医や医療チームが詳細に検討しながら、現代医療でもって、どこまでこれをやることが出来るか、という検討ですから。――ちょっと難しい問題になります。いずれにしましても、自己決定をしていない場合に、普通の治療はやらざるをえませんし、医師や家族が決めることはできません。かなり難しい事態を招いているとは思います。

■立岩 論点を確認して先に進めたいと思います。
 私はとある病院の倫理委員会を不承不承務めていて、お医者さんたちと話すことがあるのですが、これも何がどうして、と言われると困るけれども、という留保付きで、患者さんがあと半日、もって1日程度、それを見極めるのはかなり自信がある。そういう末期は、われわれはかなり判断ができる。ただ、それが2週間、あるいは数ヶ月となると、それはわからないと。私が話を聞いた医師たちは、そういうことを言うんですね。
 尊厳死法案の条文に「死期が迫っている」と書かれているのをみたとき、これは私が思い込んでいただけかもしれませんが、かなり短い時間、1日とか、せいぜい数日、そういうふうに思っていました。でも今の荒川さんのお話を聞いた限りでは、必ずしもそうではない。数週間、場合によっては数ヶ月というのも「末期」にあたると。同じ言葉をめぐっても、かなり懸隔があるなあという感想を持ちました。
 これは医師の吉澤さんにお聞きしたいんですけれども、「末期」の範囲、死期の予測については、どういった考えをお持ちですか。

■吉澤 死期の予測、余命予測ですよね。これはぼくはがん患者さんを扱っていて、厚生労働省の緩和ケアの研究班に入っていますので、末期がんの患者さんのことでお話させていただきます。医者がいう予後予測と、患者さんが実際に亡くなられた時期と、カルテベースで、どれくらい相関があるか。研究班として研究しました。四国がんセンターの兵頭【一之介?】先生が中心になって、研究結果を去年、緩和ケア学会で発表しています。医者はよく患者さんに「余命はあと3ヶ月くらい」ということをお話しますけれども、その研究によると、医者の予後予測が患者様の寿命と、若干の相関があったのは、せいぜい1ヶ月以内なんです。1ヶ月以上の場合については相関するデータは何もなかった。それが結論です。ですからぼくが、患者さんからあとどれくらいですかと聞かれたときに答えるのは、それは神様とあなたにしかわからないから、「もうそろそろこっちにおいで」と言われたらぼくに教えてね、と言います。
 それを感じさせられたのは、髄膜腫(脳をとりまくくも膜から生じる腫瘍)で、在宅で生活していた患者さん。10年近く前ですね。毎日ぼくが行っていまして。いつもならちょっとお菓子や食事なんかを用意してくれて、ぼくと一緒に食べるのを楽しみにしていました。それが、最後の日でしたけれども、ぼくが帰ろうとしたときに、先生、長い間ありがとうと。先生に来てもらって楽しかったよ、と急に言われたんです。急な話なんで、ぼくも奥さんも何いってんの、とそのときは言い返しました。しかし実際その夜、10時過ぎに奥さんから電話があって、主人は天国にめされました、と。それを経験して以来、やっぱり本人の寿命は本人がいちばんよくわかっている、と思うようになりました。その状態でその方に人工呼吸器をつけるべきだったのか、といえば、それは違うとぼくは思います。――ご本人が呼吸器も点滴も拒否し、在宅で、いっさい自然なかたちで、ぼくに診てほしい、そう言って下さった患者さんがいます【?この辺、やや文脈不明瞭】。ですから、余命というのは医者にはわからない、という答えになってしまいます。

■荒川 今のは余命の話でございますから、たとえば緩和ケアで余命6ヶ月と言われた方の、死を迎えるまでの期間の予測は、なかなかあてにならないと、そういう話だったと思います。ただ、私たちの申しあげていますのは、その6ヶ月に、リビングウィルが働くということはありません。通常は皆さん元気に生きていらっしゃいます。自分で自己決定して、普通に食事して、普通に生活されています。多くの人は1週間くらい前に悪化して、病院に運ばれて、急性期を迎えて、これはもう治せないと。そういうところでの、たんなる延命措置については拒否していい、ということ。これはインフォームドコンセントの話で、その人の人生観や医療への信頼度などの違いもありますから、それは患者と医師が話し合ってもらうと【?この辺やや文脈不明瞭】。リビングウィルというのは自分ではもう自己決定ができない状態のことです。その時にはこういうふうにしてほしい、私の意志を尊重してほしいと。これは必ずしも急性期の話ではないと思います。

■立岩 ずっとこの論点にかかわってばかりもいられないので、次の論点に移りたいと思います。
 その前に私の素朴な疑問を言いますと、はじめに、死が迫っているというとすべての人に当てはまってしまうので、死が「差し迫っている」ということ、「末期」ですね、ここに尊厳死をめぐる定義のポイントがある。それは具体的な「期間」と考えられるのだろうかと思い、お尋ねしてみた。私の感覚でいえば、「死が迫っている」というと、半日や1日という感じがする。それに対しては、それほど短いわけではなくて、数週間、場合によっては数ヶ月ということもある、と荒川さんはおっしゃった。しかし、死の予測として、数週間後、数ヵ月後を予測することはまあ無理であると。吉澤さんもそうおっしゃった。それを受けて、いま荒川さんにはお答えいただいたわけですが、荒川さんの場合は、そうすると、死の時期、ではなくて、むしろその「状態」のことをおっしゃっているわけですよね、――呼吸不全とか血液循環とか、――その辺をもう少しだけ確認して、次に進みたいと思うのですが、――死が迫っているというのが具体的な期間のことではないとすると、そうすると本人の「状態」がポイントなわけですよね。ではそれがどういうことなのか。

■荒川 諸外国のことも参考にしますと、末期状態というのは、ターミナルイルネスの、緩和ケアの6ヶ月の、さらにターミナルフェイス、ターミナルコンディションであって、ターミナルイルネスと6ヶ月ということは全然関係がないと【?この辺、不明瞭】。いまご質問をうけたターミナルフェイスは、ではどこから始まるのかというと、これはやはり、概念的には外国の法律なんかには、それは早期に死が訪れる状態であると、漠然と書いてあります。私たちはこれを「死が切迫している」と書かないと、無用な混乱を招くこともありますので、あくまででも「切迫」していると書いております。切迫というと5〜6時間のことだから意味はない、と立岩さんはおっしゃしましたが、そういうことではなくて――。もう確実に死が迫りつつあると。

■立岩 シンポジストの方で、今の一連の議論について何か。

■橋本 先日出席した研究会でそういう話があったので最近は私は自分のことを「モンスター」と呼んでいるんですけれども、先ほどからの荒川さんのお話は、とても説得力がありますし、とてもよくわかるんですけど、私は治らないという点、死期が迫っているという点、それらがあてはまる状態ですでに15年経過していますが、私のような人間はどういう立場になるんでしょう。呼吸器を着けていますので、見る人が見たら間違いなく終末期なんですけれども。終末期15年もやってたらそれもう「終末」じゃないじゃんと。
 それと、別の場所で同じ尊厳死協会の人から話を伺ったのですが、荒川さんの仰ることとはまた違う話をしていましたが、ご存知ですか。

■荒川 いえ。それは知りません。

■川口 尊厳死協会の方でも、やはり一人ひとり意見が違うようで、橋本さんもそれを聞きたかったんだと思います。尊厳死協会のある偉い方のお話だったんですが、その方の友だちがALS患者だったと。丸太んぼうのように寝かされて、何もできず、とても気の毒に思っていたら、その友だちががんを「授かった」と、それでぶじに死ねてとてもよかった、その尊厳死協会の方はそういうふうにおっしゃっていました。文章でもそう書かれています。でも、それは違うんじゃないか、と私たちはずっと思ってきたんですね。もちろん、ALS協会でも考え方は一枚岩ではありません。患者さんの中にも尊厳死の権利がほしいと言う人もいるし、逆に尊厳死の法制化に反対して、尊厳死ではなくて尊厳のある生しか現実にはないんだ、という人もいます。尊厳死協会の中にも色々な意見の違いがあるのではないでしょうか。

■荒川 ALSという病気は不治かもしれませんが、私たちの言っているのは「不治かつ末期」ということです。たとえば腎不全の末期という言い方もしますけれど、人工透析を行えば普通の生活に戻りますので、それは全然末期ではありません。ですから、人工呼吸器を装着した生活が末期である、という定義は私たちは全然しておりません。私たちのいう末期は、死期が迫っているというターミナルケースに限定しています。

■川口 それは荒川さん個人の……。

■荒川 いえいえ、私は副理事長の立場として多少はしゃべっていますし、国会の勉強会でもそういうふうには言っておりますので……。ただ、そうでない【?】意見もあるかもしれません。

■川口 でも、荒川さんの意見は協会を代表する意見として……。

■荒川 今日はですね、協会を代表した意見としてではなくて、私の考えをいれた自由な意見、ということで聞いておいていただきたいと。

■川口 たとえば呼吸器を事前にはつけたくなかったのに、いざとなったらつけてしまった、という人もいます。それはがん患者でもALSでもそうだと思うんですが、そうなったときに、直後に本人が呼吸器を外してほしいと言われた場合は、今の荒川さんのお話だと、外さない?

■荒川 本人が死にたいと言っていても、医師がその状態を末期ではないと判断しているのであれば、尊厳死協会の会員であろうとなかろうと、呼吸器を外すことはできない、と私は考えています。

■川口 たとえば事前にリビングウィルを書いていたとしても、一回呼吸器をつけて呼吸管理が正常化した場合には、もう末期ではないので、呼吸器を外すことはできないと……。

■荒川 それは外すべきではなくて、通常の治療で大丈夫だし、意志表示もできるわけだし、一生懸命生きていただいて……。

■川口 本当にそうですよね。呼吸器をつけた直後に「外してくれ」という患者さんが本当に多いんですが、3ヶ月4ヶ月経って、医療職や家族や介護者が励ましながらケアしていくと、本人は呼吸がとても楽になってくるし、機械の使い勝手がわかってくると考え方そのものが変わってくるんですね。私たちそういう事例をいっぱいみてきているので、事前に決めてしまうリビングウィルっていうのはちょっと危ないんじゃないか、って思っているわけです。

■荒川 今では人工呼吸器は多くの方が日常のものとしてつけていらっしゃいます。人口腎は昭和45年から保険適用になったのですが、その頃は利用者の抵抗が非常に強かった。しかし今は末期になったらほとんどの方が人口腎をつけられます。それはもう普通のことですよね。ペースメーカーもそうです。人工呼吸器もそうで、機械を着けることの感じ方は年代とともに変わってくると思います。

■川口 荒川さんの口から今日はその言葉を聞きたい、と思っていたので、よく記憶しておきます。というのも、尊厳死協会の一部に、呼吸器を外す権利を非常に強く主張する一派があって、私たちはとても困っているんですよ。橋本なんかも時々すごく怒るんですけれども。やっぱり、呼吸器って、使ってみなければ分からないんですね。使い勝手がわからないから、皆さんぎりぎりまでいやだいやだって言うんですね。でも使っているうちに、ほとんどの方が体の一部として感じてくるので、呼吸器という機械がそういう面を持っていることを荒川さんがご存知で、ちょっと安心しました。

■立岩 今回荒川さんが準備してくださった文章の中に、「自然死」という言葉が何回か出てくるわけですけれども、それは今の話の流れでいえば、明らかに人工呼吸器やペースメーカーを使わない生のこと、であるとも思うのですが、そうではないと。機械を装着していてもそれはいいと。
 とすると、「自然死」というのは、どう定義づけられるのか。
 2年前に、ある集会で、いま尊厳死協会の理事長を務めておられる井形昭弘さんが来てくれたことがあって、その時井形さんは、呼吸器を外すことについて、それは尊厳死の範囲である、と言っておられた。いくつかの文章でもそう書いておられますね。井形さんや荒川さんの間で意見の相違があるのは、これは個人の信条でありましょうから、それはそれでありかなとは思うんですけれども、尊厳死協会の公式な見解としては、どうなんでしょうか。末期とは何か、自然な死とは何か。その辺の素朴な疑問は残るという気はしますけれども。
 これらのことは皆さんにも覚えておいていただいて、時間の関係もありますし、次の論点に進みたいと思います。
 いわゆる「植物状態」については、また別個に考える必要があります。吉澤さんがおっしゃったように、疾患や状態ごとに考えるべきことは違うだろうと。植物状態、遷延性意識障害をどう考えるのか。山本さんもおっしゃっていたと思いますが、われわれはどれくらい、植物状態という状態について、あるいはそこから意識が回復するということについて、確かなことを知っているだろうか。わかりうるのだろうか。これは皆さんも気になるところだと思うんですね。脳死の状態についても、複雑な設定や規定がなされて、その上でそれがどうなんだ、こうなんだと、様々に議論がされてきた経緯がありました。植物状態、遷延性意識状態は、脳死よりもさらに生のほうに近い状態と言えるわけです。それをどういうふうに判断できるか。
 もう一つ、コミュニケーションに関しては、外側に全然発信できないとされるわけですよね。けれども、そういう状態のとき、果たしてその人は本当に何も考えていなかったり、感覚がなかったりするんだろうか。そういう素朴な疑問があるんですね。それはいかがでしょうか。

■荒川 植物状態の定義は、1970年に★【?聞き取れず】が書かれていまして、その後変更されていないようなので、40年も前の診断基準でそれはどうだろうと思っているわけですね。1995年にアメリカの脳神経外科学会で発表された論文【?】を、資料として、今回紹介させていただいているわけです。外傷性脳障害の場合は、脳障害後12ヶ月を経過したとき。非外傷性脳障害というのは、たとえば脳卒中ですね、この場合は3ヶ月を経過したら、もう意識は回復しないだろうと。植物状態の定義も変わってきている。しかし私たちは、伝統的なそのままの定義でいっているわけです。そのつど変えると混乱を来すだろうということで。
 今問題になりました植物状態ということは、意志はあるんだろうけれども、それを表示できないだけなんじゃないかと。そういうことはもちろんあるかと思います。ロックトインとかですね。その辺りはわかりませんけれども、とりあえず、諸外国で、人工呼吸器や経管栄養を全部外して、裁判になったりしていますね。この間亡くなったテリ・シャイボのケースですとかね。問題は、ご本人の意志表示がわからない場合。その場合は家族もわからないだろうと。アメリカには家族が本人の意志を代行するという別の法律があるんですけれども、それにも反対意見はあって。そうしますと、少なくとも、今の現代医療で、難しいと。1年間みてもらって、もう何もできないと。自分では死ぬことも生きることもできない状態で生かされているような状態にある場合には、そういう状態になったならば、私としては、そういう【?】人工的なものは延命措置であるので、治療はそこでやめてくれないかと事前に申し込むことは、自己決定として合理的ではないか。医学の限界に達していることと、自己決定していること。両方ですね。自己決定していない人に対しては、これは他人が決めるわけにはいきません。【この辺、不明瞭】
 尊厳死法が法制化されるとすれば、すべての国民の皆さんに納得してもらう必要がありますから、植物状態になって1年以上が経過し、治療の効果がないとわかったら、尊厳死を選択するか選択しないか、自分で決めてもらうと。各人で決めてもらう。そうすれば、問題がないのではないか。
 ただ、もちろん、医学的には大きな責任が伴いますので、そこに至るには高度な議論が必要だと思います。ちょうど脳死移植の意志カードのようなものですね。選択肢を準備しないと、議論が平行してしまうのではないか。

■立岩 荒川さんのお話を私なりに整理しますと、医療的な診断なり判断なりをなるべく正確に判断する。回復可能性を判断する。しかし、それでも不確定な部分はある程度は残るだろう。しかし、植物状態になったら、あるいはそういう状態だと判断されたら、どうするかということを、あらかじめ本人がそれを決めておくのであれば、その問題はクリアされるのではないかと。大体そういうふうでよろしいでしょうか。
 そうしますと、一つには、まずは技術的な困難さが残る。それをそのままにしていいのか、ということは依然として残るでしょう。しかしそれはそれとして、自分や家族がどう決めるのか、という決定の問題に移っていくのですが――。
 今拝見している文章でちょっと不思議なのは、意識が回復しない持続的植物状態の場合は自発的に生きることも死ぬこともかなわない、とお書きになっていますよね。これはわかるようでわからない部分もある。つまり植物状態というのは、定義上、意識はない、意識は存在しない状態なわけですから、その人は生きたいとも思っていないし、死にたいとも思っていないかもしれない。しかし、この文章は、そういう状態になったら、本人は死にたいかもしれないのに死ねないじゃないかと。そう述べているように思われるのですが、そういうことは、原理的にはないはずですよね。

■荒川 その時点での意思表示はわからない、というのはそうかもしれませんが、継続的に毎年同じような意思表示をしていれば、それは本人の継続意志として、そのような(植物)状態になったらそれ(尊厳死の意志)は有効であると。そう言っていいと思うんですね。

■立岩 脳死状態の回復については、脳死の判定がそもそも間違っていた、というケースはずっとありますよね。それから、植物状態と診断された方で、5年後10年度に回復したという例も具体的にたくさんありますよね。

■荒川 たくさんかどうかはしらないですけどね、たしかにそういう例は報告されておりますので、医学的処置はすべきです。ですからアメリカでは1年は待つべきだと言っておりますね。世界のリビングウィルでは安全性を考えて2年待つと。期間を伸ばしています。どこまで診たら医学的限界がわかるのか、というのはなかなか難しいですね。

■立岩 そういう状態になったら――

■荒川 そういう(植物)状態になったら、私たちの人生観、死生観として、安らかに眠らせてくれないかと。それは合理的だと思うんです、社会的な価値観からいっても。それはいかん、納得できない、と考える方ももちろんいらっしゃいますので、その方たちはリビングウィルで、植物状態になってもケアをしてくれと意思表示をする。そういうふうにどちらも選びうるシステムでないと、お互いが共存できる法律はできないんじゃないかと思うんです。

■立岩 植物状態と俗に言われている状態に、意識があるかないか。意識が「ある」としたら、たとえばそこで栄養補給をとめられたら、それはかなりつらいことだろうと。意識が「ない」なら、なければないと。いいも悪いもないと。
 そう考えてみると、植物状態にある本人にとっては、死を望むことが、あるとはすぐには言えない。ありえる、とは思いますけれどもね。荒川さんがおっしゃるさまざまな価値観、と言ってしまえばそれで済むようなことなんでしょうけれども、じゃあそれを具体的に考えるとどうなんだろうと。
 一つには、全体の何%かはわかりませんけれども、そういう(植物)状態から回復する、戻る、あるいはそういう状態でもなんらかの感覚がある、そうであるならば、多くの人は生きることを望むかもしれませんね。他方、そういう状態になったら「もういいや」と考える人がいる。その「もういいや」はどこから来ているんだろう、と考えるときに、そうなったら自分の面倒をみていくのは誰だろうと、ってなことに考えが及んでいくわけですよね。プラスとマイナスを天秤にかけて、やっぱりもういいかな、と。というようなことが結構頻繁にあると思うんです。これはご本人の価値観であり、いろいろな価値観がある、という話に本当に持っていっていいのかどうかが、一つの論点だと思います。これは自己決定、あるいは代理決定という問題と関わると思います。
 今の植物状態、遷延性意識障害にかかわる尊厳死について、シンポジストの方から、いかがでしょうか。

■川口 私も在宅の介護事業をやっていますので、吉澤先生にお聞きしたいのですが。経管栄養や人工呼吸器をつけて在宅生活している方の往診もされているということですが、ケアの状況はどんなふうで、誰が行っているんでしょう。ALSについてはたとえば地域格差が深刻だったりするんですが、がん患者さんの場合で在宅生活の場合、ケアの状況はどうなんでしょうか。

■吉澤 経管栄養または人工呼吸器、がんの末期の方、今はすべて在宅で生活できる状態になっています。ケアの中心はご家族ですが、一人暮らしの方でも可能な状況です。介護保険を十分に利用すること、それと、ALSや頚椎損傷、がん末期患者については、医療保険で対応するように、と国から言われていますので、介護保険・医療保険を併用して、訪問看護、病院、それと介護保険、これらをすべてうまく利用することで在宅介護はできるかたちに今はなっています。

■川口 私の興味があるのはケアの方です。本人の尊厳を守るケアを考えたときに、医学的な視点からいえば、何かをしたときに効果があることで結果がわかるのでしょうけれども、私たちの考えるケアというのは、たとえばかゆいところを好きなときにかける、とか、お尻が痛いときにずらしてもらえるとか、そういうくりかえしによって、自分の尊厳が守れるという意味ですね。たぶん障害の方からみればそういうことの繰り返しだと思うんです。在宅医療は十分に受けていても、ケアが十分になされていない場合、本人が死にたくなる、とは思われませんか。

■吉澤 まず在宅には本人が帰りたくても帰れるものではないんですね。キーパーソンがどちらを選ばれるか。ぼくが中心で扱っているのはがんの方なので、特にご家族がどういうふうに希望されるか、まずはキーパーソンに判断してもらう。まわりの人が本人が帰りたいなら帰してあげなさいよと言うこと、これは余計なお世話なんですね。あくまでも主たる介護者、その人が自宅でみてあげたいか。そのために訪問看護や介護がどう使えるかをシミュレーションして、トライします。介護をはじめて最初の2週間は、キーパーソンはとても不安なんですね。ですからその2週間はほぼ毎日、訪問するか連絡を取る形でケア体制を整えていく。がん患者の在宅での緩和ケアはそういう形が多いと思います。訪問看護ステーションや在宅療養支援診療所が24時間対応しています。昨日ぼくも深夜2回往診にいっていますが、医者は24時間働けという国からのお達しなんで、ぼくも24時間体制で働いています。そういうかたちをとればご家族の不安は取れてくる。しかしご家族は当然疲れてきます。
ご家族が燃え尽きないために、病院のショートステイを利用していただきます。

■立岩 自己決定のことでいえば、家族が決めないと始まらない、というのが在宅ケアの現状、実態ではあると思うんですね。これは後半の議論にもつながる論点だと思います。本日4時間ある中の2時間ほどが過ぎましたので、ここらで休みを入れたいと思います。

【休憩】15分

■立岩 前半はシンポジストの方にお話をいただいて、その中で狭義の尊厳死の適応範囲について、さらにいろいろな細部について、議論が進みました。
 一つ目として、「末期」の状態をどう考えるか、ということがあり、二つ目としては、植物状態、遷延性意識障害をどう考えるか、この状態に尊厳死を適応することはどうなのか、ということがありました。それと同時に、そのどちらともいえない状態、末期でもないし植物状態でもないような人がいて、従来、そういう人が尊厳死の適応範囲として語られてしまうということがありましたが、それはどうなのか、尊厳死協会の意見も聞きつつ、一つひとつ、考えていかなきゃならないだろうと。最後の点、末期でも植物状態でもない人に関していえば、少なくとも荒川さん個人の見解では、尊厳死の適応の対象にはならないだろうと。そういう発言があったように思います。
 それから三つ目として、ある状態がある、つまり不透明な、不分明な、確定しがたい状態があるとして、それをふくめて、本人が何かを自分の意志で選びたいというのであれば、それでいいのではないかと。そのことをどう考えるのかと。状態と決定をかけあわせて、それがどうなのかと。
 後半は、決定についての話になっていくかと思います。これにかんして、シンポジストの方からこれまでに提起された問題が大まかに二つありました。
 一つは代理決定のこと。本人が今の状態では自分の決定を表明できない場合ですね。その場合の特に家族の位置について、問題提起がありました。たとえば荒川さんの資料の7ページには、本人の意志が明確でない場合は、家族による推定の意志代行が社会の慣行です、本人の意志を推測し、本人の意志を代行できるのは、普遍的に家族であると考えます【引用】、とあります。これは尊厳死協会の見解なのか、荒川さんの見解なのか、それものちほど確認できればと思います。それに対して、他のシンポジストの方から、家族の決定という位置づけに対する疑問が示されていたと思います。
 もう一点。本人による事前の決定について。リビングウィルなどで事前に表明される意志、それの位置づけについてですね。
 決定のことについては代理決定と事前の決定と、これら二つの問題があると思うんですが、まずは家族の決定について、皆さんからもう一度ご意見を。どなたかいかがでしょう。

■山本 家族の決定の話に行く前に、前半の議論の感想なんですけれども、死に直面した状態、ターミナルフェイスの解釈についても、まだまだ人によってかなり差異があるんだなと感じました。個人もそうですし、各団体についてもまだ整理されていないんだなあ、それがはっきりしたというか、確認できました。そういう状態の中で、強引に一律の規定を設けて、死を判定していくということは、やはりかなり問題があるんだなあとあらためて強く感じました。
 で、代理決定のことですが、本人の意志を家族が代理決定する、という言葉自体に、すでにひっかかりがあります。本人が事前に決めていたことを、本人のそれまでの状態を家族が推定しつつ決めていく、というのは、自己決定というよりは他律に近いのではないか。それは植物状態の場合に限る、という話でしたが、最初に述べましたように、そもそも植物状態では本当に本人の意志がないのかどうかもはっきりしない。はっきりしないのであれば、まずはとことん、本人には意志があるのだ、ということを前提にしながら、本人がそのときどう思っているのかとまずは確認していくこと、それが先決ではないか。すごくそう思いました。それを抜きに、安易に、本人はもう意志がなくて自己決定できないから、家族や医師が推測のもとに決定していく、ということですが、そういうふうに生死のことを決めていいのだろうか。払拭されない疑問を持ちました。

■川口 一つ皆さんに考えていただきたい実例があります。おとといアメリカからALSの本を取り寄せたんですが、ALS患者の50歳の男性の話です。息子さんが結婚式を半年後にひかえていたんですが、そこまでは自力呼吸は持たないだろうと。彼は呼吸器をつければ息子の結婚式に出られるということで、装着を自己決定します。ただ、そのとき、息子の結婚式が終わったら呼吸器を外す、という約束も同時にしちゃっているんですよ。皆さんがそのことをどう思うかなんですね。アメリカには在宅の呼吸療法をやるようなところはあまりないですから【?あまり聞き取れず】、その場合、医療費もほとんど自費で、日本の自立支援法のような障害者制度も使えません。負担が家族に来るわけです。家族がどう思うかは別にして、本人が息子の結婚式が終わったら呼吸器を外す、と堅く自己決定して、その通りにしたんですね。それをその本の著者が、素晴らしいストーリーだと褒め称えているんですよ。在宅生活を続けていたら経済的負担もものすごくて、家族も介護地獄だったろう、お陰
で家族は救われた、というふうに書いてあって。そういう事例がいくつか並べられていて。著者はアメリカでリーダーシップを取っているような有名な神経内科医で、私もよく知っている方で、素晴らしい方なんですが、そういうことを何の疑問も持たずに書いているわけですよ。
 日本もこんなになっちゃったらどうしよう、と思って。日本だったら、息子の結婚式を終えたら、「次は孫の誕生までは」って言うんですよ。じゃあ次は孫の誕生までお父さんがんばろう、という感じでだらだら続いて、次は次は、という感じで継続していけて。10年20年と生きていける患者さんがいっぱいいます。私はそっちのほうがむしろ自然だし、家族の自然な自己決定だと思うんですね。
 イギリスの状況はまたアメリカとも違って、呼吸器をできるだけ着けないように指導するそうです。緩和ケア医が先日イギリスから来られたときに、がんの患者とまったく同じようにALS患者の緩和ケアができる、とおっしゃられたので、すごいびっくりしたんですけれども。政策的に呼吸器を着けない方向に進めていくので、そうするとがんのようにやっていけると。それは安楽死ではなくて緩和ケアだって言うんですけれども。
 だから家族の決定と言いますけれども、かなり政治的な背景ですとか、医療資源の分配ん問題があります。家族の外の事情ですよね。日本はまだアメリカやイギリスのようにはなっていませんが、尊厳死協会のことで一つお聞きしたいのは、そういう海外の事情をどういうふうに日本に取り入れようとされているのか。それとも日本独自のものを考えていこうとされているのか。まずそれをお聞きしたいと思います。

■立岩 若干これまでの話の流れとずれましたけれども、まあいつものことなので(笑)。これは大切なポイントなので皆さんにご意見をお聞きしたいのですが、実際、日本ではこれまで、障害者福祉政策にしても、北欧だとかアメリカのそれをモデルとして、それに近づこうとしつつ成果を挙げてきた、とは思います。尊厳死の場合、アメリカの裁判の流れ、判例、それはこういうものであると。われわれはそれをいってみれば権威付けというか、主張の根拠として、しばしば採用してきたんだけれども、今後も、あるいは尊厳死というテーマにかんして、そういうことでいいんだろうか。そういう投げかけが川口さんからありましたが、それについては、どなたか。

■橋本 家族の意思決定にゆだねるということについては、とんでもございません。橋本のいのちは橋本のものですので。
 さきほどの話に戻りますが、尊厳死協会というのは、ご本人たちが思っておられるよりも発言力が大きい団体であると橋本は考えておりますので、できるかぎり早い段階で、協会としての見解をクリアにしていただきたい。統一した見解をあるていど固めてもらえればと思います。つい先月も、患者と家族の意志が決まっていない場合は、医師が勝手に医療行為等の中止を決めてよい、という見解を日本救命医療学会が出して、その影響力が大きかったので。尊厳死協会の人もがんばって意見を固めていただければと思います。
 先ほどから荒川さんのお話をきいていて、今までいだいていた尊厳死協会のイメージとずいぶん違うので、荒川さんのご意見を尊厳死協会の中にもっとひろめていただければ、と思います。

■川口 ちょっと補足していいですか。先日、日本救命医療学会で、本人の意識がなくて、しかし家族も代理決定ができなくて迷っているというときに、医療職が代理的に尊厳死を決めると、そう言っていたんですね。それは非常に危険な考え方だと、私たちも新聞・報道の方の取材に答えてお話したんですけれども。

■立岩 ちょっと整理させてもらいます。いまお二方のお話を聞いて、少なくとも三つくらい論点があったかなと。
 一つは、会員の中にも個々で色々な意見があるようで、尊厳死協会というのがどういうポジションに立っているのか、外から見ていると見えづらい。かなり違った見解が要職にある方から出される。そこをはっきりさせてもらわないと、良し悪しをふくめて判断ができない、という提起がありました。
 二つ目として、外国の流れですね。いろいろな立場を多様に認めていこう、というのが、グローバルスタンダードというか、障害者・患者団体以外の部分では、世界的な動きがあるところだと思うんですね。それをどう評定するのか。それに乗りつつ日本も動いていくのか。それはそれとして、独自に動いていくのか。
 三つ目として、誰が決めるのか。一つに家族の位置づけ。これに関しては、橋本さんがはっきりとそれはよしてくれ、というお考えでした。山本さんもおおむねそういった立場からのご発言だったと思います。それに対して、優先順位としては本人が先なんだけれども、しかしそれが得られない場合には、家族の代行もありうる、というのが荒川さんのお立場でしたでしょうか。

■荒川 まず家族の代理決定ができるかにつきまして、尊厳死協会は自己決定がなされていることが大事だと。自己決定がない場合は代行は認めない。そういうふうに言っています。しかしながら、横浜地裁の判決がでましたように、実際には90%の人がリビングウィルをもっていない現状においては、それは、家族が、本人の意志を忖度して決めると。家族が決めるんじゃなくて、家族が、そういう状態に陥る前の本人の意志はどうだったかと、それを医師に伝える。本人の意志を家族が代行して伝えるのであって、家族が勝手に決めることは協会は認めていない。そういう立場です。
 しかしながら、実際は、インフォームドコンセントの段階で、ご家族が治療の内容をどんどん決めていくわけですよね。本人の意識がもうろうとしている状態で、手術をしますよ、呼吸器をつけますよ、移植手術をしますよ、云々については、本人は自己決定ができないわけです。ですから、現状として、本人は家族の誰かに、自分の意志を代理人としてあずけている現状があるわけです。私は代理人というものの現状を認めなければならないと思います。しかしながら、死の場合には、それができるのは、日々をともにしているご家族であって、そのご家族が、日頃の本人の行動や意志を忖度して、どうかということを医師に伝える。本人が意思決定できるとすればこうであろう、ということを伝えて、それをあとは医療団が妥当かどうか判断する、ということです。
 まったく本人に意志がない場合には、すでにアメリカにおいては法律がありまして、家族が決めてよいということになっているわけです。これをすぐに、そのまま日本に持ってくるということは、性急かもしれませんけれども。
 代理人が決める場合には、順位があります。まず配偶者です。配偶者で決まらなければ、子どもたちの過半数。それで決まらなければ、両親。というふうに順番が決まっております。これは全米の法律でありますので、これも一つ参考にしなきゃいけない。それ【?】を日本が持っていないために、【家族ではなく?】医師団が【本人の意志を代理して?】決めるということは、妥当かどうか、議論していただきたいと思います。
 家族が決定できないときに医師が決定するということは、これは誰かが決定しなきゃいけないので、やむをえない。特に緊急の場合ですね。死の決定の話ではなくて、たとえば手術をしなきゃいけないときに、家族がどうしていいかわからないときには、医療団がもっともよい治療法を考え、決定しなければならない。やはり死の決定については慎重であらなければならないかもしれませんが、緊急の場合は、医師の裁量で決めるというのが外国では決められているところですので。これもある程度、外国の流れも見ていただきたいと思います。
 家族が決めるということは、確かにいろいろ矛盾がありますけれども、現実的には、それほど悪い慣行ではないのではないか、と思います。もちろん自己決定ができるなら、それを全部やるんですけれども。ただそれをやるといっても、あいまいというか、生死を決める決定を自分で全部やれるほど強くないのもわれわれだとも思います。
 協会内の意見の統一に関しましてはですね、国民による法制化の流れをみるときに、私たちが協会として伝統的に守ってきた考えでは追いつかないところがあるわけですね。社会が進んでいて。でも、日本尊厳死協会の考えを、ぶれないようにするために、あえてこうしている【?】のでありますので。法制化については、現代の判例もどんどん取り入れて、流動的で、しかも進歩している。
 まだちょっと明確でないところは、具体的にお答えします。

■吉澤 自己決定のことなんですけれども、たしか去年の緩和医療学会だったと思いますが、DNR(Do
Not
Resuscitate、蘇生処置禁止)ですね、最後の蘇生をするかしないか、その決定を、実際に患者さんに求めます。ぼくはほとんどの方に病院に来たときに聞いています。学会でいわれていたのは、やはり本人の意志があるときには本人。本人の意識がない場合の決定については、本人の意識があるときに、本人に誰に決めてほしいか聞いてほしいと。これは弁護士側が言っていました。次に、本人が代理人と決めた人がいなければ、荒川先生がおっしゃった順位の家族が決めるだと。家族も決定できない、あるいは家族がいない場合は、3人以上の医師団が決めると。これは医師と弁護士の側から言われていました。
 じゃあ現場はどうか。本人とご家族に同時に確認をしています。厳しいようですけれども、緩和医療では、私はほとんど前面告知をしています。大学病院などではまだまだ前面的な説明はされていない。最初に言いましたように、余命はわかりませんが、今の現状を受け止めてもらうことをします。その中で、こうなったらどうしたいか、色々な面を聞きます。がんの緩和ケアを受ける方は、ほとんどの方が、ほとんど100%、先生とにかく苦しくないように、今まで自分はがんとたたかってきた、最後は苦しくないようにしてほしい、この痛みをどうにかしてほしい、と言います。急変したときに、人工呼吸器をつけたり心臓マッサージをうけたりはしないと。そういうことはカルテに明記し、サインをいただいているのが現状です。
 前にも言いましたが疾患によってかなり変わってくると思います。
 ぼくの病院も尊厳死協会の協力病院になっていますので、尊厳死協会の方の言っていること、これはあくまでも、それを望まれる方に対してお答えしたいと。それが現状なんです。ですから、法律がどうなろうと、本人の希望、本人の望みが第一。救命医学会がどうでようと、それは変わらないと思います。

■立岩 吉澤さん、確認一点なんですけれども、現実がそうであることは大体皆さん分かったと思うんですけれども、そういう手順で大体妥当であるとお考えなのか、妥当だとしてその根拠はどうお考えなのか、あるいは今、疾患別に事情が変わってくるだろうとおっしゃいましたけれども、ご専門のがんの場合と、それ以外とでどういうふうに変わりうるのか。

■吉澤 がんのターミナルの場合、とにかくすべては本人とのインフォームドコンセントに尽きると思います。まず本人が第一です。本人と話をする。少なくとも本人と話していない患者さんはぼくの病院にはいない、と断言できます。第二に、ご家族にもお話します。苦しくなったらモルヒネを使って呼吸苦を取るとか、自力呼吸が厳しくなったら、今は挿管しない人工呼吸器もありますので、一時的な持続の陽圧換気のマスク型の呼吸器を使いますとか、まず方法論としてはすべてお話します。ただ、病状によって、それでも足りなくなります。そのときどうするかと。これもすべて患者さんにお話します。まず患者さんとコミュニケーションをとることが第一で、うちのやり方は妥当だとぼくは思っています。

■立岩 二番目の、家族の代理決定については……。

■吉澤 そこにはたとえば次のような問題が出てきます。内縁の奥さんがケアをしていると。子どももいる。そういう場合、どちらを家族とし、どちらをキーパーソンと取るのか。これは当然、お子さんの方がキーパーソンとなるわけです。お子さんに、いつもケアをしている内縁の奥さんにも意見を聞いていいか、と聞かなければならない。ただ、実際はじめに来たとき、そこまで深く家族背景を知りませんから。こちらに来てから、家族背景を色々聞きますし、家族ケアもしなければならない。

■立岩 先ほどの荒川さんのご発言を確認すると、本人が意志決定できない場合には、家族が本人に代わって決定する、のではなくて、あくまで本人の意志を忖度して家族が代弁するのだと。つまり、本人の意志をもっとも忖度しやすい立場にいるのが家族であると。そういう意味での、本人の自己決定の次善の策として、家族が本人の意志を忖度してそれを述べると。そういう趣旨だったと思います。
 このあたりのことについて、ほかに……。

■川口 がんの末期については、本当におっしゃる通りだと思うんですが、やっぱり障害者やALSの場合と、明らかに違うので、はっきり分けて考えるべきだと思います。なんか、わざと混同しているように見えるときがあるんですよ。

■立岩 その「違う」というところを、もう少し具体的に……。

■川口 たとえばALSの場合、本人と話すと、生きてよいのか本当に迷っているというのがわかるんです。本当は、心の中では、呼吸器を着けたらこんな楽しい生活ができるよって他人から励ましてもらいたいと思っている。それをきっかけに、前向きになりたいと思っている人が、すごく多いんですね。でも、面倒をみたくないから、家族は自分からそれを言えないわけですよ。心情的にはもちろん生きていてほしいけど、じゃあ自分が24時間全面的に介護できるかといえば、できないから、黙っちゃうんですね。一番身近な家族が黙っちゃうんですよ。ALSという病気は。それで迷ったまま状況が進んで、いざというときに、これまでだと、お医者さんの倫理が働いて、呼吸器を着けてくれたんですね。そしたら家族も諦めがつくし、本人もああよかったって思えるんですよ。初めて本音がそこで出ると。それが典型だったんです。ところがそれが家族の代理決定、あるいはリビングウィルとなると、そういう人々は別の道筋をつけられていきます。ALS以外の他の障害者の方も、同じような感じだと思
います。家族に迷惑をかけると思うと、言いたいことも言えないから、本当ならちゃんと治療してほしいけど、もういいよ、って言ってしまう。家族に介護をさせたくない主婦、女性は特にそうだと思います。ただ、がん末期の患者さんについては、本人や家族と相談しながら治療方針をすすめるのはとてもいいことだと思うんですが。そういう意味で、分けて語っていただきたいと思っています。

■吉澤 確かにALSの方で、先ほどおっしゃったような状況で、医師が人工呼吸器を着けるのは、これは当たり前だと思います。着けるべきだと思います。本人が十分に話した上で拒否したのでない限りは。
 ただ、家族が意志を決定するのは、あくまでも本人の意志が取れないときです。そうならない限りは、がんの場合でも、本人の意志決定が尊重されます。あくまで本人が第一。それができないとき、ご家族の話が出てくる。
 神経難病とがん患者で分けるべきと。ぼくも同意見です。そこをしっかり分けて、それぞれの疾患についてどう考えていくのか、各論的にこういう会を続けていかなければならない、と思います。

■山本 難病の場合だと国から指定された特定疾患が181ありますが、疾患ごとにくくれないということはおうおうにしてあるんですね。ただ、疾患ごとにきっちりわけられる、というのはどうなんだろう、とも感じました。

■立岩 疾患ごと、とまでは言わないまでも、状態ごと、あるいは個別性に即して考えなければならない、というのは一般論としてその通りだと思います。ではじゃあどうするんだ、という話になるかと思います。
 家族が本人の意志を代理して、という話だったと思うんですが、今お話を聞いていると、家族が本人の意志を忖度して、というのではなく、むしろ、本人が家族の意志を忖度して、こうなったら家族が困るだろうから、私の意志としてそうならないような方向で決めると。そういう形で事前の決定をする。これは現実にはずいぶんあることだろう、と思うんですよね。介護の話、お金の話がからむわけで。意識があるにせよないにせよ、末期であるにせよないにせよ、自分が長く生きるということは、お金にしても介護の人手にしてもかかる。今の現状では家族に大きな負担がかかる。それらを勘案して、まさに自己決定として、それを行う。現実にはずいぶんな割合で、そうなると思うんですね。その場合に、それもご本人がお決めになったことだから、それはそれで受け止めるべきだ、と考えるのか、家族の介護やお金の負担が変われば本人の決定も変わるのだから、と考えるのか。その点について考えることが残るのかな、と思うんです。
 2年前に、井形さんをお迎えしたときに、尊厳死ということには国の財政難とか医療費とかそういうものは関係ないんだ、あくまでも本人の意志によってなされることが大切なんであって、われわれは介護負担が減るとかお金がかかるとか、そんなケチなことのために尊厳死について述べているのではない、とおっしゃっていました。ただ、現実には、本人の意志決定の中に、人手やお金の問題が現にからんでいるわけです。とすると、それを本人の決定した通り、ということにしていいんだろうか、という問題は、井形さんのお話をうかがったときも残るな、と思いました。

■荒川 うちの井形が、どのような会合でどのような発言をしたのかは分かりませんけれども――。まあ、つねづねそういうことは協会の中でも話していますから、それは間違いないと思います。
 ただ、気兼ねをしないで済む社会、平気で迷惑をかけられる社会、こういう社会をわれわれはつくっていかなければならないと、そういうふうに私も考えております。
 ですから、私たちは臨死期のことを考えているわけですけれど、皆さんが死を迎えるときに、ああよかったと、いい人生だったと思えるようになるために、いろいろ考えているわけです。今日の皆さんのご意見と同じように、死を迎えるときに本人がいちばん納得できるように、それを願っていろいろ要求しているということで、ご理解いただきたいと。

■山本 迷惑を気軽にかけられるように、と言いますけれども、じゃあ迷惑を誰が判断しているのか。それがすごく気になります。まわりがぜんぜん迷惑と感じていないことを、本人がまわりは迷惑だと思っているんだろうなと勝手に判断することのこわさ、といいますか。そこの検証はしっかりしていかないと。まわりが迷惑だと思っているだろうな、という認識で本人の自己決定はずいぶん変わるんですね。まわりが全然迷惑と思わないでいられるような環境、法的整備、ヘルパー制度などがあるかどうかによって、本人の気持はかなり変わってくる。気持が変わることもちゃんと認めた自己決定がなされることが大事だと思うんです。一度決めたことが変わる、ああやっぱりこれで生きようと変わりうることがふくまれた自己決定なのか、ということが大事だと思うんです。

■川口 あまりにも世の中では病気や障害がネガティヴにとらえられる傾向があって。でも私は、母の介護を通じて、障害をもった方ともたくさんお友達になって、そこから学んだことがほんとに多いんですね。病気や障害をあんまりネガティブにとらえる風潮にはなってほしくないな、というのが一つあります。
 それから、私が先ほど家族介護について否定的に言ったかのような印象を受けるかもしれないんですけれども、そうではなくて、母に対して介護させてくれてありがとう、という気持は素直にあって。育ててくれた恩と、介護させてくれた恩、というのがあります。母のおしめを取りかえながら、今の私は母より強い、今の母はケアしてあげないと生きていけないというところで、ようやく母と娘で対等になれた、大人になれたような気持になれたんですね。最近は、家族に介護させることは迷惑だ、いけないことだ、という社会的な風潮があって、それはすごくよくないと思います。ただ、自分の人生を犠牲にした、と思うような介護はさせないことですね。ほどほどに親に対して介護もして、でも自分の人生もまっとうできる。そういうふうに共存というか共生していけるようにしていければ、そういう社会になれば、いわゆる尊厳死なんて言葉をくっつける必要はなくなっていくと思うんですよ。平等に治療も受けられるし、自分はここまでで治療してほしくないということも心から言えるようになるので。
だから、病気やケアという言葉をあんまりネガティヴにひろげてほしくないな、と尊厳死協会の皆さんにもお願いしたいと思います。

■立岩 一言つけくわえさせていただきますと、尊厳死協会なら尊厳死協会が、自分たちの立ち位置を明確にするということが、おそらく必要なことだと思うんですね。社会から求められていると思うんです。そのときに、今荒川さんからおうかがいしたお話とは、トーンがかなり違う、というかときには正反対の議論が出てくることもある。日本尊厳死協会の前身は日本安楽死協会で、1983年から今の団体に名前が変わるんですけれども、安楽死協会がのべていたことと、荒川さんが述べられたことのあいだには、かなり距離がある。それらもふくめて、尊厳死協会の立ち位置をはっきりさせることが、むしろ協会にとっても意味のあることではないのかな、と少し思った次第です。

【質疑応答】

■発言者1 全日本青い芝の会副会長の大橋です。ぼくは障害者で48歳年生きてきて、この子は一ヶ月で死ぬと言われたけれど、こうやって生きている。だから医者のいうことを、信じていない。障害者がいちばん信じていないと思う。ぼくは風邪引いたら医者にいくけれど、言語障害があるから、医者がどこが悪いか、分からない。そういうことが現実にある。だから、医者の判断で、尊厳死とかを、選ぶなんて【この辺やや不明瞭】、勝手な意見だと思う。それから、親や家族は、障害者をめんどくさいと思っている。家族が、その障害者の言葉だと言っていることが多い。家族が、障害者を殺す。殺す。殺す。

■発言者2 自立生活センターステップ【?】の【?】(聞き取れず)と申します。尊厳死協会さんのことをあまり知らなかったので、安楽死を認めさせていく会だと思っていたのですが、今日の荒川さんのお話を聞いていて、そうじゃないんだと知って、少し安心したこともあるんですが、法制化を進めていくというときに、私のように、一般の人は安楽死の法制化を進めていくと思っている人が多いんじゃないかと思います。
 死の方を選ぶ、ということではなく、生きるという選択をしたときに、介護保険や自立支援法などはありますけれども、生きることがよいことなんだ、という価値観がまだ十分に生れていないなかで、尊厳死という法案が認められていくことのこわさがあると思うんですね。橋本さんが尊厳死を尊厳殺とおっしゃっていましたが、法律が整備される中で、荒川さんの意図を超えて、なんであんたそんなになっても生きているの、なんで死を選択しないのと、死を選ぶことが美化されていく。法律でも認められているのになぜあなたは死を選ばなかったのかと、生きる選択をしたことを悪くいわれる土壌がまだまだあるんじゃないかと思うんです。

■荒川 介護を受ける人が生きる権利をもっているということ、これは当然社会がそうしていると思います。そういうことを明確にした法律をつくると。それは当然そうだろうと思います。ただ、私たちの言っているのは、末期の時の権利法でして、末期のことだけに限定しております。
 それから、尊厳死を選ばないと不届きではないかと言われるおそれがあるとのことでしたが、それはまったくありませんので。たとえば脳死の移植法でも、私もあれには反対でした。いわゆる意思表示をするかしないかと。意思表示をする人が立派にみえて、しない人がダメなんじゃないかと。実際は30%くらいしか【誰が?】いないみたいで、世間でもそんなに立派とかいわなくなりましたね。今では自分の意志でやっていますよね。
 協会が安楽死推進ではないということが何となくわかった、とおっしゃいましたが、明確に安楽死ではありませんので。述べましたように、死期が迫ったときに、死期をひきのばすにすぎない延命措置はやめてくれ、ということだけをお願いしている団体でして、これは昔から変わっておりません。それ以外の要求に発展していく団体ではない、ということはご理解いただきたいと思います。

■立岩 一点だけ補足しますと、死の権利にかかわる法律の中に、たとえば介護の話であるとか、そういう生きるための条文を入れるということになると不整合になると思うんですね。それはない、と思うんです。質問者の方が述べたのは、生かすための法律と、死の権利をめぐる法律と、少なくとも同時に進めるべきであると、むしろ生きることの法律を整備することが先決ではないかと。順序が逆ではないかと。そういうことだと思うんですが。

■荒川 私のレジュメの2ページ目に、「もっと死の捉え方に関しては自己決定権をひろく捉えて、いろいろな選択をできるようにするのが望ましいと考えています。死の時期をたんに延長するにすぎない延命措置を拒否する自己決定、これが私たちの求める自己決定である」【引用】とあります。また、医者が治療可能というのであれば治療を続けるという自己決定、あるいは、維持治療の継続を求める自己決定、こういう三つを選択できるようにするのが、現代風のリビングウィルのあり方ではないかと。そういうふうに協会内では考え、今検討しているところです。
 勉強すればするほど、新しく法律があることがわかります。今度はイスラエルで法律ができました。イスラエルでは尊厳死・尊厳生協会といって、生きることに尊厳があると言っています。これは今度会報にも書きました。世界はどういうふうに変わっているか。私たちはそれを取り入れて、よりよい法律をつくっていかなきゃならない。私たちも過去にとらわれずに、大胆に、新しい解釈でやっていくべきだと思います。

■立岩 会報は会員でないと読めないものなんですか?

■荒川 会員でないと一応ダメです。

■発言者3 全国青い芝の会会長の金子です。ぼくは荒川さんに質問をしたいと思う。安楽死と尊厳死がどう違うのか、よくわからなかった。本人の意志なのか、それとも周りの、家族の意志なのか、医者のことなのか、よくわからない。尊厳という限りは、そのひとの、尊厳だと思う。ところが、荒川さんの、あやふやなところがあるんです。ぼくなんかは、やっぱ、こわいなと、思う。もう一つは、青い芝は、今日の、レジュメありますけども、【聞き取れず】、ぼくら、障害者が、【聞き取れず】、ぼくらが、生きていこうと、【聞き取れず】、その、延長が、【聞き取れず】…。

■立岩 一つ目はわかったんですけれども、二つ目がよくわからなかったので、申し訳ないが、短く、もう一度言ってもらえませんか。

■発言者3 ぼくらは、家族があるわけですよ。ぼくらが、こう生きようかああ生きようかと思うときに、すごく、じゃまになっているところがあるんですよ。そのときに、喧嘩することもできない、障害者もいる。それなのに、尊厳死法になったときには、何もいえなくなる。いのちが、奪われる、可能性がある、ぼくはこわいことだと思っている。

■立岩 はい。私が聞いた限りでは一つ目の話と二つ目の話はつながっていて、安楽死と尊厳死、まだわからないところがあると。それは本人、家族、医師、それぞれの意志というものがどういうかたちで関係しているのか、というところで、2点目の話になると思うんだけれども。結果的に、家族の意志が自分たちの意志に反することが多いと。それについて、荒川さんに聞きたい、ということだと思います。

■発言者3 生命力ある限り、生かしてくれというのが、社会の責任だと思う。

■荒川 今日は朝から同じような話ばかりしてきて、踏み込んで発言したところもあるかと思うんですけれども――。
 私たちは決して安楽死は認めておりません。私がお話した中には、生き続けたいのに生かさないようにする、ということは出てこないと思います。これは死期が迫っているときの話であって。死はどの病気でも来るんです。医学的に死が迫っている。本人が意志の決定ができなくなったことを事前に想定して、そのときは家族が代行することを納得して合意する、ということはあるかと思いますけれども――。その辺ちょっと、ご理解いただけていないところではないか、と思うんですが。明確に私たちは、いよいよダメだとわかったときには延命措置をやめてくれ、と言っているだけであります。
 一歩踏み込みますと、外国の例にならって、たとえば植物状態でも治療をぜんぶ最後まで続けてくれというリビングウィルも必要ではないか、と今考えているところです。法律というのはどんどん変わっていくものですので、5年前に私たちが出したものと変わっているのはやむをえないと思います。

■発言者3 【聞き取れず】わからないところがあっても、まわりの考え、【聞き取れず】。

■川口 植物状態になっても延命措置してほしい、とリビングウィルに書く人はあまりいないと思うので、そういう書き方をされても困ると思うんですよね。生きる死ぬ云々じゃなくって、意志決定したあと身体がらくになる、呼吸ができなくなったら呼吸を楽にさせて下さいとか、ご飯が食べられなくなったらご飯を食べられるようにして下さいとか、そういう別の書き方をしないと。植物状態になったら延命しますか、どうしますか、と聞かれたって、元気なうちに延命しますと書く人は、ALS患者だってあんまりいないと思うんで。ちょっとそれはあんまり現実的じゃないかなと思うんですけれども。

■山本 最初から通して感じたことなんですけれども、1%でも、0.01%の確率でも、本人が生きたいと思っている人が、殺されるようなことがあってはならないと思うんですよね。それは事前指示書を書いて、あとから気持が変わった人もふくめて。その可能性が本当にないのか。先ほどから、自己決定というのも本人の自己決定かどうかわからないものもありましたし、死の直前という基準って本当に何なの、とか、もろもろはっきりしていない条件がある中で、安易に1%でも0・01%でも確率があるようなことが、法として求められていくことに関しては、あらためて危惧を感じた次第でした。

■発言者4 二つあります。一つは、植物状態あるいは脳死状態というときに、その状態のことをぼくらは正確に知っていない。ということは、尊厳死協会のようなリビングウィルのかたちだと、十分なインフォームドコンセントになっていないんじゃないか、と思いました。
 もう一つは、介護の負担が非常に大きく関与している。それについては、当然、介護があれば生きられる人については、死なせない、と何度も荒川さんはおっしゃっているんですけれども、そうであるならば、日本尊厳死協会として、医療や介護における公的支出を拡充せよ、ということをきちんとした政治要求として掲げる可能性があるのではないか。あるいは、障害児を親が殺してしまう、というような事件において、減刑嘆願がある、そしてたとえば青い芝の会から減刑嘆願に対する批判がある、といったときに、尊厳死協会としては、どちらの立場に立つのか。尊厳死についての協会であるならば、この件について発言しないのはぼくはおかしいと思うんですね。
 この二つが質問です。

■荒川 意志決定できない年齢の15歳未満、それから、自己決定できない無能力者の状態については、私たちのいうような意味での尊厳死はできません。自己決定している、という前提が必要だからです。
 それから、親が新生児に対してどうするか、ということに関する法的解釈については、私たちはやっていませんので。それは申し上げることはできません。

■立岩 狭義の尊厳死に関する解釈としてはそうで、それ以外のことは対象外だというのは、それはそうだと思うんですが、しかし尊厳死の問題と医療・福祉の問題が密接に関わっているんだとすれば、そのことは荒川さんもお認めになったと思うんですけれども、そういった部分に対しての見解や態度を尊厳死協会は示すべきなんではないかと。そういう趣旨の質問だったと思うんですが。

■荒川 それはできません。私たちの協会の中で検討したこともないし、検討する能力もないので。これだけ朝から同じ論点を繰り返しても、まだ色々な立場からの疑問が出てきて、私の頭の中では、なぜそうした疑問点が出てくるのか、というところもあるわけですけれども。私たちが今理解していることは、安らかな死を迎えるために死の決定権を、という一点だけで精一杯でございますので。それでご理解いただきたいと思います。

■発言者5 法制化に対して、荒川先生のご発言で、自己決定を尊重するときに、【聞き取れず】、理解できないのですが、これまで、多々ある事件事故なんかをみてますと、世の中の風潮の、私がこわいのは、何もできないやつは、生きるんじゃないよって言っているときに、それでも、【聞き取れず】、橋本さんの発言で、最後の方に、尊厳殺という言葉があったんですが、そのことについて、もうちょっと、そっち方面も、聞きたかったです。

■橋本 尊厳死という言葉は、耳障りがよくて美しすぎるのよね。となりの人はころりと死んだのになんであんたは生きているのよ、と言われるよね。日本には恥の文化がまだ残っているので、家族も当然、そういうことを対象者には言うであろうし、今こそ、私たち障害者は、自立をして、まわりに振り回されないようにしようね。

■立岩 先ほどの方のご質問ですが、前半のご質問は、正直マイクの調子もあってあまりよく聞き取れなかったんですが、ほんとうに自己決定ということで障害者は生きられるの、荒川さん、というようなご質問でよろしかったのでしょうか。

■荒川 今日は色々厳しいご質問もいただきました。私自身もこのような場で説明させてもらって本望な部分もあるわけですが。
 ただ、協会の統一意見はどうかと聞かれたときに、世界のリビングウィルというものがありまして、全世界のリビングウィルに英文をつけて解説をつけたものです。2005年の11月に出ております。2003年からそれをつくるための作業をやっているわけです。世界のリビングウィルを訳して解説をつける作業の中で、私たち協会のリビングウィルというのが伝統的すぎるんじゃないかという気もしてきました。今日私が述べたようなこともふくんで、法制局に出しているので【?】、くんでくれているはずだと思います。臓器移植法における遺族・家族の範囲は決まっていて、移植については家族の承諾を得ることが必要、となっています。日本では家族の許可がないと移植手術はできないわけですね。
 では私たちの尊厳死はどうなのか。本人が死を選択しても家族が反対するとどうなのか。これは難しい論点をふくんでおりますが、これは、私たちは、本人の自己決定の意志が優先されるべきだ、と申し上げております。
 けれども、この辺についても色々ご意見のあることがわかりましたので、諸外国の文献なども取り入れながら、いろいろ発言していこうと思っています。また機会があってもう少し突っ込んだお話ができれば、私たちも進展しますし、また皆さま方と、こういう国民的に広い議論が行われて、自由闊達に意見交換ができればと、望む次第です。とりあえず今日は、私の感想をふくめまして、ありがとうございました。

■立岩 主催者からはもう終りにしてくれ、といわれているんですが、もう一つ。

■発言者1 二度目の発言ですが。法制化を進めていると言いますが、誰のために進めているのかをお聞きしたいんですが。今日の荒川さんの言っていることもその通りであればいいなと思うんですが、もともとは本人が望んだ死を迎えるため、であったはずのものが、法制化するときに、政府や財務省のためになっていくことがある。結局お金にいく。最初に橋本さんがおっしゃったように、尊厳死協会の皆さんはご自身が思っているより影響力が強いと思うんですね。認識してほしいのはそのことで。

■立岩 えー。司会の権限で。もう一人いいかな。主催者からは圧力かかっていますけれども。短くして下さい。

■発言者6 荒川さんにおうかがいしたいんですけれども、尊厳死を望む気持を確認したいんですが。私は尊厳死は反対しませんけれども、賛同もできないんですね。法案化には反対なんですけれども。尊厳死を望む気持っていうのは否定されるべきものではない、と私は思っています。いずれにせよ、どんな選択をするにせよ、それを選ぶ目的や気持というのは重要だと思っています。治療を拒否する気持、生命維持を拒否する気持、その2点聞きたいんですけれども。時間があれば、逆にフロアーから、生命維持を拒否しないで生きたいとか、そういう意見やお考えもあればお聞きしたかったんですけれども。

■立岩 これをもって本当に最後にします。

■荒川 資料にも書いてありますし、朝からご説明してきたこととも思いますけれども、死の決定において自己決定を取り入れること。これは自立ですね。かつては過剰な延命措置が行われていて、そのときに出てきた話で、そのときは人工呼吸器はやめてくれと。しかし、今は、すべての延命措置をやめてくれと。ということは、死期がきたら、医師も医師団も、合理的な範囲でそれがわかるのであれば、それは、たんに死期をひきのばすにすぎない延命措置はやめてもらっていいと。医師の治療義務の限界と、自己決定権のマッチングですね。これがマッチしたならば、ということです。ですから自己決定していない方は、尊厳死はありません。法律が通っても、リビングウィルを書いていない人には、そういうふうにはなりません。それは諸外国もそうです。

■立岩 それでは、ごく短めに、パネリストの皆さんから最後に一言いただいて。もう時間も30分近く延長されようとしていますので。

■橋本 橋本は、尊厳は誰にでもあるものだと思っているので、それをわざわざ法制化するセンスがわかりません。今日はお疲れ様でした。

■川口 今日はありがとうございました。ぜひ継続的に、このような会を開いていきたいと思いますし、また尊厳死協会の方からも、これに懲りずにですね(笑)、議論を継続していただきたいと思います。

■吉澤 橋本さんが言った通り、尊厳はすべての人にあるんです。ですから尊厳死とは尊厳生であると。尊厳をもって生きることの終着が尊厳死なんですよ。人間は必ず死ぬんです。それも必ず尊厳を持たせよう、尊厳をもった死を迎えさせましょうと。誰でも尊厳死なんですよ。そういう死に方をさせないといけない。ただ、その仕方をどうするか。これを論じるべきで、尊厳とはすべての人にあるものです。ですから尊厳死協会の尊厳死とは、尊厳生の終着点のこと。一応ぼくの病院も尊厳死協会の協力病院になっていますので、それだけは付け加えさせていただきたい、と思います。

■山本 あらためて、尊厳ある生が基準をもって選別されることはあってはならないな、と確信しました。望んでいない人が殺されることがあってはならないな、そのためには議論がかなりいるぞ、という感覚を持ちました。今日はありがとうございました。

■荒川 もう一度私が書いたレジュメを読み上げておきますけれども、死期が迫っていて、死期をたんに引き延ばすにすぎない延命措置、たとえば人工呼吸器を使えばあと1週間は伸びるかもしれないから着ける、というのが延命措置です。そういう延命措置を断り、自然な死を迎えたい、という要望を事前に指示する自己決定と、その自己決定の意志が医療者側から尊重されて自然な死を迎えられること、これがあってはじめて尊厳死なんです。ですからそれを自然死、と私たちは言っているわけです。くりかえしますけれども、尊厳とは、自己決定していること、それを医療者側が尊重してくれること、この二つのことです。それが尊厳死だと。そういうふうにずっと言っておりました。
 しかし、今は、これは私個人の意見かもしれませんが、どの生き方も、死に方も、尊厳あるというか、立派な自己決定です。ですから、人工呼吸器を着けて最後に死を迎えてもそれが尊厳ある死ではない、ということにはなりません。そういうふうに考えております。でもそこまで言ってしまうと少し逸脱しますので、尊厳死とは自然死であって、それ以外には何もありません、と述べておきます。
 また機会がありましたら、厳しいですけれども(笑)、ご意見をたまわったり交換したりしたいと思います。ありがとうございました。

■立岩 こういう集会はもっとあってもいいし、とくにこういうテーマに関してはこういう形態が必要なんだろうと思います。そういう意味では意義があったかなと思います。ただ、もうすでに明らかになっていることが、色んな意思疎通のまずさによってうまく伝わらない、啓蒙の不備ですね、そういうこともあるんですが、しかし問題はそれだけではない、と思います。ある人にとって自明の当たり前だと思われていることが、いくつか考えていくと、自明でも当たり前でもない。そういう論点が多少は浮き彫りになった気がいたしました。それを詰めていく中で、ああだろう、こうだろう、ということがまた言っていけると思います。今日得たものはたくさんあると思います。何よりも今日は荒川さんがたくさんしゃべらされて(笑)、大変だったと思います。どうもご苦労さまでした。というわけで、今日は皆さん、長い時間ありがとうございました。


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/p1/2004t.htm

UP:20070517 REV:
安楽死・尊厳死:2007  ◇安楽死・尊厳死 
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