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「「尊厳死」法制化を問う」

『新宗教新聞』2006年4月25日(第954号)1面掲載 新宗教新聞社発行

安楽死・尊厳死 2006


◆新日本宗教団体連合会→尊厳死法制化を考える議員連盟 2006/03/29 「「尊厳死の法制化」に関する意見書」(↓)
 『新宗教新聞』2006年4月25日(第954号)掲載


◆2006/04/25 「「尊厳死」法制化を問う」
 『新宗教新聞』2006年4月25日(第954号)1面掲載 新宗教新聞社発行
 
 ※新宗教新聞社 http://www.shinshukyo.com/


■「死生観に大きく影響 人工的な死、法律で認めるか」
  「人間の「生と死」にかかわる問題が国会で論議されようとしている。超党派の国会議員で構成される「尊厳死の法制化を考える国会議員連盟」(会長・中山太郎衆議院議員)は、昨年11月、「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」を公表し、法制化への準備を進めている。「尊厳死」の法制化は、「末期の状態」になった末期がん患者などに延命措置の停止を法律で認めようとするもの。しかし、人間が介在する「人工的な死」を法律で認めようとする動きに対して、医学界、法曹界、宗教界、研究者の間から疑問と反対の声があがっている。「要綱骨子案」のなかで重要な要件となっている「末期の状態」の判断基準や「苦痛緩和の措置」の具体的な内容は、専門家の間でも見解が分かれたままだ。生命維持にかかわる医科学技術の進歩は著しい。だが、生命維持治療の放棄について倫理的、法律駅、社会的な問題は未解決のままである。国民の死生観に大きな影響を及ぼす問題だけに、幅広い議論をふまえた慎重な検討が求められている。「尊厳死」法制化について識者2人に問題点を提起してもらった。」


■「人権や優生思想からの問題点」【光石忠敬・弁護士(日弁連人権擁護委員会医療部会特別委嘱委員)】

 「1.はじめに――患者本人の視点に立って考える
 「両親の付き添いや医療費の負担を考え『そんな姿でもいいから生きていて欲しいと言って』とねだることができなかった」、「高度医療の助けを借りようとも『生きている』こと自体が尊厳を持つのではないか」。
 これは、自発呼吸が停止し人工呼吸器を付けた重篤状態を経て生存し、今はわずかな後遺症を残すのみで元気に働いている、当時17歳の患者本人の、貴重な、重い言葉である。
 生命維持治療の拒否の意思を表明するリビング・ウィル(生前の意志)とこれに従った医師を免責する「尊厳死」法制化の要綱案、骨子案について、患者本人の視点に立ち、人間の尊厳およびこれに由来する人権のプリズムを通して、考えてみたい。

 2.法制化案を自己決定権によって根拠付けることができるか
 リビング・ウィルは、表示する段階では、病状も療法もまったく未来的・仮定的・想像的で、「主治医と患者間の対話性、同時性に欠ける意思表明である。」(唄孝一)。意識のない状態になる前に、そうなったとき本人の内面に何が起こるかは分からない。実際にそうなったとき死生観が変わる人もいる。そういう状態から回復する人もいる。個々の患者の病状および治療法が個別的、特定的でなければ判断できない自己決定権ないしはインフォームド・コンセント(説明と同意)原則によって、法制化案を根拠付けることは困難である。

 3.法制化案は錯誤に基づく自己決定を人々に促すのではないか
 「尊厳死」の語自体、多くの死にゆく患者の現実を極端に美化したもので人々を錯覚させる。人々が「尊厳死」に関心を持つ理由の一つは「激痛に苦しむ」点であるのに、法制化案にこの要件は見当たらない。要件となっている「末期」の意義は、末期がんを除くと曖昧である。「死期が切迫し」ている状態と定義していながら、「末期」でない遷延性意識障害の患者にも適用範囲を拡大させている点で、法制化案の本音がわかる。「植物状態」の語は、人間扱いしないとのイメージ操作の一環であり、人々を誤解させる。「末期」を要件にしないことになれば、ALS(筋萎縮性側索硬化症)はどうか、認知症はどうか、滑りやすい坂道を転げ落ちることになる。「延命」の語は、救命との区別が容易でない上、「措置」の語は医療プロパーでないことを暗示するから、不必要で医療とはいえない「延命措置」は不要だと、人々をミスリードする。法制化案が人々の誤解ないし錯覚に基づく自己決定を促す要因になり得る。

 4.法制化案は「死ぬ権利」に根拠を求めることができるか
 「死ぬ権利」は、自殺関与・同意殺人が犯罪であることと整合するか疑問である。権利の主体であることを否定するのに権利と言い得るのか。「死ぬ権利」は「死を迎えさせる権利」すなわち「死なせる権利」に転化してしまうおそれがある。

 5.法制化案は生命権を侵害するおそれがないか
 「スパゲッティ状態」を他者が惨めな状態と感じたとしても、その時点で本人にとってどうかは分からない。例え本人が惨めだと感じたとしても、それを、他者が惨めと断定するならば、「生きるに値しない生命」として他者が本人の「生命の質」を評価することになり、本人の生命権を侵害するおそれがある。
 「延命措置」の一部である栄養補給を中止してもよいとの考え方は、患者の生命権をないがしろにするおそれがある。
 一旦サインしたリビング・ウィルの撤回に厳格な要件を求めるか、または撤回を規定しない法制化案は、どのような状態であれ生きたいと願う患者の意思を軽視するもので、患者の生命権を侵害するおそれがある。

 6.法制化案は人間の尊厳を侵すおそれがないか
 法制化案は、問題になる患者本人のためではなく、経済的要因、近親者の負担要因、医師の免責要因という本音によって企画されているのではないか。患者本人を社会や他者の利益のための単なる手段化するものかどうか、患者本人の人間の尊厳が侵されるおそれがないかどうかについても十分な検討が必要である。

 7.法制化案には優生思想が内在していないか
 法制化によって、医学的に回復する見込みがない患者に対する心理的圧力は増大するだろう。また、そのような病状にある患者に対する周囲の人々や社会の差別・偏見を国家が法律によって基礎付け助長することにもなりかねない。法制化案の背後には、消極的優生思想が内在しているように思われる。


■「国家が政策で「死に方」を推奨」【小松美彦・東京海洋大学教授(生命倫理学)】

 「尊厳死の法制化とは、末期がん患者や植物状態の人からの人工呼吸器の取りはずしなど、特定の傷病者の特定の死に方だけを国家が認めることに他ならない。しかも、後述するように、そうした死を国家が政策的に推奨しているとも見なせる。その意味で、尊厳死法制化は絶対にあってはならないと考える。
 そもそも人間の尊厳とは何であろうか。尊厳死をめぐって肝腎なこの根本がほとんど議論されてこなかったことがまず問題だろう。どんなに無惨で変わりはてた姿であっても、「あなた」と指さし呼ばされてしまうところに、そのつど人間の尊厳が立ち現れるのだと私は思う。

 ○「ただ生きているだけ」人間の尊厳の究極が
 
 つまり、人間の尊厳とは、個々人が存在すること自体をいうのではないか。したがって、尊厳死の発想そのものがむしろ人間の尊厳を否定するものであろう。
 しかも、「ただ生きているだけ」、「何の役にも立たない」などが尊厳死を支える論理である以上、そこでは尊厳の意味がかかる存在の価値から社会的価値にすり替わってしまっているのだ。だが、たとえ「ただ生きているだけ」ではあっても、「ただ生きているだけ」にこそ人間の尊厳の究極があるのではないか。
 さらに、優生思想の本質が医学の視点から人間を社会的価値で分別することにある点を鑑みるなら、尊厳死法制化は優生思想の合法化とさえ捉えられよう。
 さて、従来の日本でも尊厳死は相当数なされてきた。では、なぜいまその法制化なのか。この眞相を理解するためには、一連の社会保障改革の流れを振り返る必要がある。
 主な事態としては、まず九六年に、保険診療費二割負担、薬剤費の二重負担、老人医療の自己負担増などが実施された。また、この頃から「成人病」が「生活習慣病」へと呼び換えられ、成人病はいわば「自己責任病」と規定されてゆく。
 さらに、〇二年に保険診療の自己負担は三割に上がり、〇三年には「健康増進法」が施行されて、憲法第二五条で国民の「権利」として保障されてきた健康は、国民の「責務」に反転した。
 こうした社会保障の縮減動向は、〇五年秋以降、勢いを増す。一〇月には「障害者自立支援法」が成立し、もともと所得が少ない場合が多い障害者の医療や福祉に関する個人負担は、所得に応じた負担から定率負担(一割)となった。さらに厚労省は介護入院を二〇一二年までに全廃する方針を立てた。在宅介護が不可能だった人々が、家へと戻らなければならないのだ。あまつさえ、医療入院のベッド数も現在の二五万床から一五万床に削減するという。
  以上のような不健康を自己責任へと帰着させる反社会保障政策の中に、尊厳死法制化計画があるだろう。すなわち、“重傷病者、障害者、老人は、自分たちで責任をとってください、それが無理なら尊厳死が法律で保障されていますよ”というわけだ。法によって認められるようになれば、“延命装置”の取りはずしに対する医師の抵抗感も救命への熱情も、次第に薄れていくのではないか。本年二月には、日本医師会までもが尊厳死を支持する文書を公表したが、それは万人の命を救うという医師の使命を医師自身が放棄したことに他ならないだろう。こうした死生を取り巻く状況にあって、宗教者の真価が問われているように思われてならない。」


■「神社とキリスト教は法制化に「反対」表明、議員連盟に問題点を指摘」

  「尊厳死法制化を考える議員連盟(会長・中山太郎衆議院議員)は、2005(平成17)年11月に「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」を公表したあと、関係団体からのヒアリングを行っている。
 これまで日本医師会、日本弁護士連合会、法務省、厚生労働省がヒアリングに出席。宗教界からは、3月29日に新日本宗教団体連合会(新宗連)が、翌30日は神社本庁、4月4日には日本キリスト教連合会が出席、また全日本仏教会は近々ヒアリングに応じる予定だ。
 新宗連からは、企画委員会生命倫理部会の吉津隆史委員と斎藤謙次本部事務局長が出席。新宗連の「『尊厳死の法制化』に関する意見書」をもとに、短期間での拙速な結論を出すことがないよう求めた。
 神社本庁からは、園田稔秩父神社宮司(同庁理事)が出席。神道の視点から「尊厳死」法制化の問題点を指摘し、反対を表明した。日本基督教連合会からは、関正勝聖公会神学院校長が出席。「尊厳死」に関する議論が不足している現状を指摘したあと、法制化に反対を表明した。
 同議員連盟では、今後、生命倫理研究者などの専門家からのヒアリングを予定している。」


◆「尊厳生」の検討が必要 新宗教連、議員連盟に意見書」
 『新宗教新聞』2006年4月25日(第954号)1面
 http://www.shinshukyo.com/webup/back06/backframe03.31.htm
 
 「新宗連企画委員会(宮本けいし委員長)は3月29日、「『尊厳死の法制化』に関する意見書」を、尊厳死法制化を考える議員連盟の中山太郎会長に提出した。
  意見書では、尊厳死問題は日本人の死生観に深くかかわることから、国民の声を十分に汲み取り、短期間で拙速な結論を出すことがないよう求めている。
  2005年11月に同議員連盟が公表した「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」では、「自己決定権」が前面に打ち出され、憲法第13条を立法根拠とすることが検討されている。
  これについて意見書は、憲法第13条は「生きることへの自己決定権」を謳ったものであり、「死への自己決定権」ではないとの見解を表明。
  また、「安楽死」と「尊厳死」の区分さえ十分に理解されていない現状のなかで法制化が進められることは、「医療現場のみならず、社会生活のあらゆる場で生と死をめぐる諸問題に混乱を引き起こすものと言わざるをえない」と述べている。
  さらに、「尊厳死の法制化」以前に、国民一人ひとりが「尊厳ある生」を享受できることを推し進める「尊厳生」の検討の必要性を指摘。最後に、「尊厳死の法制化はわが国にはなじまない」と述べている。」


 
 
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◆《「尊厳死の法制化」に関する意見書》
 (『新宗教新聞』2006年4月25日(第954号)掲載)

                       平成18年3月29日
尊厳死法制化を考える議員連盟
会長 中山 太郎 殿
                     新日本宗教団体連合会

 新日本宗教団体連合会は、「尊厳死の法制化」をめぐる諸問題に対し、国民の人生観、死生観の形成に寄与してきた宗教者の立場から、以下のとおり意見を表明するとともに、法制化に際しては国民の声を十分に汲み取り、慎重に審議されますよう要望いたします。
 日本では、ここ数年、末期がん患者、長期療養生活を送る高齢者などに「尊厳死」を認めようとの議論がなされておりますが、「尊厳死」問題は、日本人が長年にわたり保持してきた死生観と深くかかわることから、短時間での拙速な結論に至ることがありませんよう重ねて要望いたします。  さて、2005年11月に「尊厳死法制化を考える議員連盟」が公表した「尊厳死の法制化に関する要綱骨子案」では、「自己決定権」が前面に打ち出され、憲法第13条を立法根拠とすることが検討されております。しかし、同条が規定する「個人の尊重、生命、自由及び幸福追求の権利」は、「生きることへの自己決定権」を謳ったものであり、「死への自己決定権」ではないと思量いたします。
 現在、尊厳死をめぐる議論のなかで重要な案件となっている「末期の状態」の判断基準や「苦痛緩和の措置」の具体的内容などは、専門家の間でも見解が分かれたままであり、また、多くの国民にとって「安楽死」と「尊厳死」の区分さえ十分に理解されていないなかで法制化が進められることは、医療現場のみならず、社会生活のあらゆる場で生と死をめぐる諸問題に混乱を引き起こすものと言わざるを得ません。
 宗教者は、一人ひとりが自らのいのちを活かしながら生きていくことを、また、死に直面する人には最後まで希望をいだき続けることを説いてきました。この世に生を受けた一人ひとりのいのちは、かけがえのないものであり、そのいのちを尊び、死ぬる瞬間までよりよい生き方を説いていくのが宗教者の働きでもあります。  私たちは、末期がん患者や長期療養生活の高齢者などがかかえる問題を考えるとき、わが国が取り組まなければならないのは、他国を模しての「尊厳死の法制化」ではなく、経済的に豊かになった日本社会の中で国民一人ひとりが「尊厳ある生」を享受できることを推し進める「尊厳生」の検討であると考えます。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」と謳った日本国憲法前文を尊重するとき、「尊厳死の法制化」はわが国にはなじまないものと思量いたします。
 私たち宗教者は、それぞれの教化活動を通じて生や死の問題について深く考え、より一層生命尊重の精神を喚起していくことを決意するものであります。


*作成:大谷いづみ/記事全文引用についての責任:立岩
*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)のための資料の一部でもあります。
UP: 20060601 REV:
安楽死・尊厳死 2006  ◇安楽死・尊厳死
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