Assisted Dying for the Terminally Ill Bill - Written Evidence, 3 March 2005
“Memorandum by Helga Kuhse”
翻訳・紹介・分析:堀田義太郎
■ “Memorandum by Helga Kuhse”
*イギリス議会が、"Assited Dying for the Terminally Ill Bill"「終末期疾患患者に対する幇助死法案」を審議する段階で、「資料」として、審査委員会が公刊しているレポートの第三部、Written Evidenceに寄せられた識者の意見の一つ。
http://www.publications.parliament.uk/pa/ld200405/ldselect/ldasdy/86/86we01.htm
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http://www.publications.parliament.uk/pa/ld200405/ldselect/ldasdy/86/86we15.htm
終末期疾患患者に対する幇助死法案に賛成する理由。
(1)狭義の倫理的理由 ―― 終末期疾患患者や苦しんでいる患者が援助されて死ぬのを否定することは、〔倫理的に〕間違っている。決定能力があり情報を得た患者の権利を否定することは、その人々を人格として扱わないことであり、自律的で道徳的行為者として扱わないことである。
原文:(1) The first reason is an ethical reason, in the narrow sense of the term. With many others, I take the view that it is wrong to deny a terminally ill and suffering patient direct help in dying. To deny this right to competent, well-informed patients is to fail to treat them as persons and as autonomous moral agents. It shows lack of moral respect for persons as persons.
(2)広義の倫理的理由 ―― 正義と公正の問題、そして制御と規制という、公共政策の問題に関わる。
原文:(2) The second cluster of reasons encompasses ethical grounds in the wider sense of the term. It relates to issues of public policy, to questions of justice and fairness, and to control and regulation.
My attached submission will focus on Point 2. My reason for focusing on the second, rather than the first, point is this:
多文化主義的かつ多元主義的な社会で、自発的安楽死等々が道徳的に正しいか間違っているかをめぐる問題に対して、人々はきわめて異なる解答を与える。それは人びとがそれぞれ異なる価値体系を有していることに起因する。それぞれの価値体系の真偽は問えない。それが適切な社会的応答の問題を惹起する。ある実践の道徳性に関する根本的な不一致が存在する場合、いかにして、近代の多元主義的でリベラルな社会はそれに応ずるのか。社会はその実践を認めるべきかあるいは禁止すべきか、いかなる根拠に基づいてそうするのか?
原文:In multicultural and pluralist societies, such as Britain or Australia, people give very different answers to questions such as whether voluntary euthanasia, stem-cell research, or organ donation (to give just three examples) are morally right or wrong. Because these different answers have their source in different value systems, they cannot be shown to be true or false, in the ordinary sense of those terms.
This raises the question of an appropriate social response. Given that there is fundamental disagreement about the morality of a practice, how should modern pluralistic and liberal societies respond to it: Should they allow or prohibit the practice, and on what grounds?
個人の自律と自由が非常に重要な価値であるということ、そして、成熟した市民に対するパターナリスティックなスタンスを取ることや、特定の道徳的な観点からの強制を通してその自由を制約することが不適切であるということは、広く受け入れられている。
原文:It is now widely accepted that personal autonomy or liberty is a very important value and that it is inappropriate for the state to either adopt a paternalistic stance towards its mature citizens, or to restrict their freedom through the enforcement of a particular moral point of view. Only if one person's actions cause harm to others is it legitimate for the state to step in, and to bring in laws that restrict individual liberty. As John Stuart Mill put it in his famous essay On Liberty: "The only purpose for which power can be rightfully exercised over any member of a civilised community, against his will, is to prevent harm to others . . . Over himself, over his own body and mind, the individual is sovereign."
問題は、終末期疾患患者に対する幇助死法案は、直接死ぬことを助けることが本質的に道徳的に正しいか間違っているかという問題ではなく、公共政策の問題である。つまり問題は、それを望む終末期疾患患者が死ぬことを直接援助することの禁止し続けることに対する、よい根拠は存在するか否か、である。
原文:If this standpoint is accepted, it follows that the House of Lords, in its deliberation on the Assisted Dying for the Terminally Ill Bill, should not so much concern itself with the question of whether or not it is intrinsically morally right or wrong to ever render direct help in dying, but with rather the issue of Public Policy: whether there are good grounds for retaining the prohibition on direct help in dying for terminally ill patients who request such help.
1. 線引き問題(消極的/積極的)
法は、意図的に生命を終わらせるという決定を禁じ、治療をしないという決定や緩和ケアの決定を認めている。⇒ この線引きは妥当か。
多くの死に先立って、医学的に「生命を終わらせる決定(end-of-life decision)」がなされている。行為を行うという決定であれ、差し控える(omission)という決定であれ。医師は、その決定がなされない場合よりも、決定が下された場合の方が、患者の死は早まることを知っている。
苦痛をコントロールするための生命維持治療の差し控えや取り止めは、しばしば「二重結果」によって認められるとされている。だがそれには問題がある。
○ 差別
治療しないという決定――ある患者にだけ、苦しむ期間を死によって短縮するコントロールを認めている。だが、別の人々にはその権利も機会も認められていないことになる。
○ 緩和
緩和ケアは多くの患者を助けることが出来るが、全ての患者を助けることは残念ながらできない。耐えられない苦痛を被る患者も存在する。緩和ケアは終末期鎮静を行なう場合がある。だがそれは、「緩慢な安楽死」だと指摘する医師もいる。
(a)もし終末期鎮静が患者の死を助ける合法的手段として認められないならば、苦痛を被っている患者のうち数パーセントは、医学的ケアによって助かることはありえないということになる。
(b)もし終末期鎮静が合法的に受け入れ可能ならば、医師が患者の生命を「緩慢に」意図的に終わらせることが認められるだろう。多くの場合、終末期鎮静は安楽死とみなされる。鎮静された患者は、医師によって二つの意図的行為の組み合わせの結果として死ぬのである。こん睡状態や意識不明の状態に導入することそして栄養と水を差し控えること。
○ 「意図」に伴う問題
―― 意図は人間の内的状態であり、本当のところは本人にしか分からない。苦痛緩和を意図した鎮静を行ったところ、その副次的結果として死が速まったという議論は、医師の意図に依拠している。「生命を終わらせる決定を行ったとき、医師は本当に何を意図していたのか?」⇒ 不明である。
オーストラリアの例―― 意図的に生命を終わらせることを禁止する法=遵守されていない。
2. 禁止に伴う問題
患者は全体として禁止によって保護される、と主張されている。⇒ だが、逆ではないか。
○ 禁止は有効に機能しない
「意図的に生命を終わらせることを禁止する法」…… この「意図」が広く客観的な意味で理解されているならば、医学的に生命を終わらせる決定から帰結する死も、意図された結果であると言うべき。
「何を医師は意図することが許されていないのか」が明確ではない。
○透明性と同意の欠如
禁止する法は、医師/患者関係における誠実さと開放性ではなく、むしろ、自己欺瞞と偽善を推奨しており、医師を患者の同意なき行為に導くように思われる。
○ 滑り坂論批判
Keownの議論――経験的に妥当ではない。⇔ むしろ、「安楽死を禁止する法」があるがゆえに、医師たちは「医学的に生命を終わらせる決定」に関して議論することを避けており、それが非/反自発的安楽死を増加させている。
結論
意図的に生命を終わらせることを禁止しつつ、治療の差し控えと中止を許容し、また生命を短縮する緩和ケアを行うことを認める法は、意思が一部の患者の生命を意図的に終わらせることを防いではいない。
われわれは、死が行為の結果なのか不作為の結果なのかにかかわらず、また、遅く効く治療的薬物を投与した結果なのか即効性のある治療的薬物を投与した結果なのかにかかわらず、医師が死を「意図している」のか単にそれを「予見している」のかを問題にすることをやめるべきである。
必要なのは、医師の知られざる意図に依拠した枠組みではなく、手続き的に要請される同意のなかで明確に表現される、患者の自律性の尊重という実質的な観念に依拠して、決定能力のある患者のために医学的に生命を終わらせる決定を規制する単一の枠組みである。
■ クーゼの主張のまとめとコメント
○ 妥当な点: 行為と不作為の区別がどの場合に妥当するのか――医師が何らかの行為によって患者を「生かし続けることができる」場合に、それを止めることを意図するのは、意図的に生命を終わらせる決定である。差し控えと中止を認めつつ、定義的に不明瞭にならざるをえない「意図」に依拠した法がむしろ患者にとって有害である。
○ 妥当ではない点: だから積極的安楽死を認めて、「医学的に生命を終わらせる決定」を患者の同意という明快な基準でのみ許容し、「意図的に生命を終わらせる決定」の許容条件をめぐる議論を活発に行うべきである。
⇔ だが、差し控えや中止も許容すべきでない、という結論も可能。また非治療的薬物の用法に一定のカテゴリーで規制することも可能。