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安楽死・尊厳死:1990's


安楽死・尊厳死 -1970's 1980's 1990's 2000- 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009

   *以下とりあえず。未整理。共同作業者を求めています。
   *関連書籍のリストは死 death/dyingをご覧ください。ここに掲載されているのはごく一部です。

■1990〜 (言説・1990年代)
■1997〜 『「福祉のターミナルケア」に関する調査研究事業報告書』(1997)〜

◆19900604 米国:ジャック・キヴォキアン(Jack Kivorkian)自殺幇助始める
◆19900625 米国:連邦最高裁判所1990年6月25日判決(クルーザン事件)
◆Guibert, Herve 1990 A l'ami qui ne m'a pas aauve la vie, Gallimard=19920425 佐宗 鈴夫 訳,『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』,集英社,271p. ISBN:4-08-773145-6 1600 [boople] ※ ** d01 et

◆199104  東海大学安楽死事件 →安楽死・日本
◆199111  米国:ワシントン州、世界初の「医師に安楽死を要求する権利法案」法制化見送り
◆199112  米国:患者の自己決定法施行
◆Rothman, David J. 1991 Strangers at the Bedside: A History of How Law and Bioehtics Transformed, Basic Books=20000310 酒井忠昭監訳,『医療倫理の夜明け――臓器移植・延命治療・死ぬ権利をめぐって』,晶文社,371+46p. ISBN:4-7949-6432-3 [boople][bk1] ※ *d01 et
 cf.立岩 2001/01/25 「米国における生命倫理の登場」(医療と社会ブックガイド・1),『看護教育』42-1(2001-1):102-103
◆Humphry, Derek 1991 Final Exit=19920229 田口 俊樹訳,『FINAL EXIT――安楽死の方法』,徳間書店,262p. 1500(19920620:第3刷,200102に確認:品切)
 「…あるメンバーは次のように語っている。「死という問題を真剣に考え、自分の考えをみんなのまえで正直に言うことで、ひとりひとりが精神的に高められるんですよ」すでに死の床にある人も、そのような話し合いによって、残された生をふたたび自らの支配下に置くことの喜び安堵を覚えるのである。」(p.120)
 「アルツハイマー病は末期疾患と言えるのかどうか? 言えない、という人もいる。一方、不治(p.200)の病であることに変わりなく、体力の弱まったところへほかの病気に襲われ、必ず死に至る以上、”末期疾患”としか言いようがないという人もいる。が、いずれにしろ、アルツハイマー病が人々に恐れられている一番の理由は、この病気にかかっても通常五年から十年は生きつづけ、その間、家族の者に大変な負担をかけることが、一般に知られているからである。アルツハイマー病は”心の死”及び”脳の部分的な死”という形態を取るのである。」(pp.200-201)
 星野一正「安楽死について――わが国の場合」
 「デレック・ハンフリー氏の著作『FINAL EXIT』の英文原著を拝読し、安楽死推進者ではない私でも、基本的にハンフリー氏の考え方に反発も反感も抱くことはなかった。それどころか、肉体的に精神的に苦痛にさいなまれながら死にきれずに葛藤している患者への温かい思いやりとコンパッション(compassion)に溢れた著者の人柄がにじみ出ている本書にむしろ共感さえ覚えたのであった」(p.251)
 「ヘムロック協会」のファイルでも同じ箇所を引用

◆日本医師会第III次生命倫理懇談会 19920309 「「末期医療に臨む医師の在り方」についての報告」
 「[…]他方において、安楽死の立法を促進する要因としては、自然死の進展に見られるような自己決定の尊重ということがある。自己決定という点からすれば、生命維持装置の取り外しという、いわゆる消極的安楽死と、積極的行為による積極的安楽死との違いは、質的なものではなくなり、量的な差にすぎなくなるとも考えられる。リビング・ウイルによる自然死を認めるならば、本人の意思に基づく安楽死を認めない理由はない、ということにもなりそうである。
 このように、安楽死を認めるか否かについては、新しい要因が生じており、状況が変化していることを考えなければならない。しかし、それらを含めた現在の状況の下では、安楽死の立法をすることは、やはり不適当であり、特別の事情がある場合に個別的に例外として安楽死を認めるという現状を維持するほかはない、といわなければならない。」

◆199205  読売新聞社「がんと尊厳死に対する世論調査」
 全国の有権者3000人対象 質問:「尊厳死とは回復の見込みがない末期患者に、ただ生命を延ばすためだけの医療を続けるよりも、寿命のまま人間らしい死に方を願うという考え方だが、あなたはこの尊厳死の考え方を認めますか、認めませんか」→「認める」54%、「どちらかと言えば認める」32%

◆1993   オランダ:「改正埋葬法」
◆1993   「「日本尊厳死協会」で1993年から「痴呆症の尊厳死」を協会のリビング・ウィルの条項に加えようという議論が始まった。それが報道され、96年には「呆け老人をかかえる家族の会」から申し入れもあり、結局「時期尚早」としたものの、協会とその役員はあくまで自分たちの主張が正しいとした。筆者はこの経緯を簡単にではあるが辿り、その上で、協会の主張が延命措置停止についての判例の規準からも、協会の尊厳死の定義からも逸脱していることを記している(第7章)。」(立岩 2003/08/25 「その後の本たち・1」(医療と社会ブックガイド・30),『看護教育』44-08(2003-08・09):682-683 紹介している本:斎藤 義彦 20021225 『死は誰のものか――高齢者の安楽死とターミナルケア』,ミネルヴァ書房,240p. ISBN:4-623-03658-8 2000 ※ [boople][bk1] ※)
◆古賀 順子 19930920 『覚えていてくれよ―父・健太郎の尊厳死』,健友館,206p. ISBN-10:4773703016 ISBN-13: 978-4773703016 \1529 [amazon][kinokuniya]※ et et-1990

◆1994   オランダ:改正埋葬法施行
松本 茂 19940515 「ALS患者と人工呼吸器の問題――患者の本音」,ベンさんの事例に学ぶ会編[1994]*
*ベンさんの事例に学ぶ会 編 19940515 『最高のQOLへの挑戦――難病患者ベンさんの事例に学ぶ』,医学書院,141p. ISBN: 4260341499 [boople] ※
 患者はだれしも生きたいと願っている。それなのに、家族や病院の都合で人工呼吸器を着けずに、「自然死」ということで殺している現実を私は数多く知っている。
 命は地球より重いと言われるのに、ALSの命は何と軽いことか。軽んじられることか。ペースメーカーや、臓器移植が宣伝される時世に、なぜALS患者に人工呼吸器を着けてはいけないのか。
 ある患者は、『家族や医師の都合で殺されてたまるか!』と悲痛な叫びを上げている。自然死という言葉の殺人ではないか。」(松本[1994]、立岩[1998]**に引用)
 cf.立岩 2005/01/25 「ALSの本・2」(医療と社会ブックガイド・45),『看護教育』46-01:(医学書院)
 **立岩 1998/01/20 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」,『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学)→立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録
◆日本学術会議 死と医療特別委員会 19940526 「尊厳死について」
 町野朔他編[1997:146-152]* *
*町野 朔・西村 秀二・山本 輝之・秋葉 悦子・丸山 雅夫・安村 勉・清水 一成・臼木 豊 編 19970420 『安楽死・尊厳死・末期医療――資料・生命倫理と法II』,信山社,333p. ISBN:4-7972-5506-4 3150 [boople][bk1] ※ b ** *d01
 尊厳死:「助かる見込みがない患者に延命医療を実施することを止め、人間としての尊厳を保ちつつ死を迎えさせることをいう」
 「末期医療においても、医療の原点であるインフォームド・コンセントの原理に立脚して患者の自己決定権ないし治療拒否の意思を尊重し、患者が選択した生き方ないし人生最後の迎え方を尊重すべきであるということが、尊厳死問題の本質であると考える」
 「4.延命医療中止の条件」より
 「第一に、医学的に見て、患者が回復不能の状態(助かる見込みがない状態)に陥っていることを要する。単に植物状態にあることだけでは足りないと解すべきである。」(→報告全文
◆19940916 「人は死を選択できるか」NHK「海外ドキュメンタリー」
 CBC 1994年 カナダ cf.スー・ロドリゲス(Sue Rodriguez)事件
 「一九九四年の九月一六日、NHK教育TVは、医師による自殺幇助の合法化を求めて裁判に訴えたカナダのALSの女性スー・ロドリゲス(Sue Rodriguez)を取材したカナダCBC製作の番組を、海外ドキュメンタリー『スーが闘った一八か月――人は死を選択できるか2』として放映した(この事件について立山[1998][2002:95] でふれられ、伊藤[1996:45]で「その実態は棄怨死(見捨てられ世を儚んでの死)である」というより立ち入った言及がなされている。また前の週の九月九日の番組は『自殺装置を作った医師――人は死を選択できるか1』、cf. Kivorkian[1991=1999])。
 私はこれを何年か学部での講義で使った。以下は講義について書いた文章からその番組にふれた部分。[…]」(立岩『ALS――不動の身体と息する機械』
◆199411  米国:オレゴン州、安楽死法制化、後に反対派から連邦地裁へ提訴
◆1994/11/16 TBS「スペースJ」でオランダのドキュメンタリー番組「依頼された死」放映
 「一九九四年、一一月一六日と二三日に、TBSテレビの番組〈スペースJ〉で、ALSと診断された六三歳の男性の死への決定と死が映されたオランダのドキュメンタリー番組『依頼された死』が放映された。
【475】 《自分の誕生日にアムステルダムの自宅で妻が見守る中、ホームドクターの手により、睡眠剤で眠りについた彼に、筋肉弛緩剤が注射される……。静かに訪れる死。/[…]/安楽死の日取りが決定してから、彼はタイプに向かい、やっと動く手で妻に長い手紙を書く。「この病気になってから、ずっと死のことを考えてきた。これしかない。長い間ありがとう。》(『JALSA』34★01)。
 最初の放映直後から抗議のファックスが八〇〇件以上寄せられ、翌週の番組でTBSは報道に偏りがあったことを陳謝するとともに、ファックスの一部と、安楽死に対して賛否両方のインタビューを紹介した(伊藤[1997:44])。翌九五年二月二日、『朝日新聞』に番組の内容に対する日本ALS協会の異議と、放送局の対応が報道される。四月に出た協会の機関誌には番組の概要の紹介と『朝日新聞』の記事と何人かの患者・家族の文章が掲載された。いずれも短い文章だが、この組織の機関誌にこの主題についての文章がまとめて掲載されたのは初めてのことだった(知る限りではその後もない)。」(立岩『ALS――不動の身体と息する機械』、【476】〜【482】に機関誌に掲載された文章から引用)

◆1995/02/02 『朝日新聞』に番組の内容に対する異議掲載
 「日本ALS協会は「この病気が死を待つしかないという一面的な見方を世の中に広めた」「ALSがどんな病気で、患者がどういう病気で、患者がいまどのように生き、闘っているか、適切なコメントもないまま放送された」等と指摘、抗議し、放映したTBSはその指摘を認め謝罪した(『朝日新聞』一九九五年二月二日)。」(立岩『ALS――不動の身体と息する機械』
◆加賀乙彦「オランダ安楽死ドキュメンタリーへの疑問」,『婦人公論』1995-02:214-217
星野 一正 19950228 「テレビ放映されたオランダ安楽死に対する異議を質す」(民主化の法理=医療の場合),『時の法令』1492:55-60(全文↓)
 http://cellbank.nihs.go.jp/information/ethics/refhoshino/hoshino0018.htm
  「[…]なおこの番組については加賀乙彦の文章がある(加賀[1995])。またしばしば「日本生命倫理学会初代会長」とその肩書を記す星野一正は、この番組とそれへの批判に論評を加える(星野[1995])。星野がこの番組について述べる一つは、オランダの制度の紹介がまちがっているということである。それは当たっている。ただ、星野も記しているように、精神的苦痛を理由とする場合を含む安楽死について罰せられなくなったのは事実である。彼の立場は、日本では「時期尚早」、つまり基本的にはよいことだというものである。比較して加賀は慎重であり、後にこの二人は安楽死をめぐり、NHKの番組で対談し、対立しもする。
  私は、その加賀の論(加賀乙彦[1997:28])についても立岩[2000c]で批判的に言及しているが、星野との考えの違いはさらに大きい。日本人がもっと成熟し、「主体性」をしっかりとさせ、医療の機構が改善されるなら、オランダのように五人に一人が安楽死・自殺幇助で死んでいくのはよいことか。私はそうは言えないと考える。今のところ新書で生命倫理の主題を扱ったものは少なく、それで星野[1991]といった本も読まれているが、別の立場からの本が出され読まれるべきだと思う。」(立岩『ALS』p.327)
◆1995   東海大学付属病院事件判決 →安楽死・日本
◆19950401 松本 茂「安楽死 反対」,『JALSA』34:13
「オランダの安楽死/あんなに元気なのに早まった/エーエルエスもきっとなおる日がくる/安楽死 大いに反対 反対」(松本[1995a:3],立岩『ALS』【483】に引用)
◆199508  米国:連邦地裁94年のオレゴン州安楽死法案の差し止め命令を出す。

◆199604  京都・京北病院安楽死事件 →安楽死・日本
清水 昭美 19950510 『看護婦が倫理を問われるとき』,日本看護協会出版会,ナーシング・トゥデイコレクション5,189p. ISBN:4-8180-0478-2 2039 [boople][bk1] ※ ** *d01
 cf.立岩 2001/06/25 「死の決定について・3」(医療と社会ブックガイド・6),『看護教育』42-6(2001-6):454-455
小松 美彦 19960620 『死は共鳴する――脳死・臓器移植の深みへ』,勁草書房,296+18p. 3000 ※ [bk1][boople] b ** *d01
 cf.立岩 2000/10/10 「死の決定について」,大庭健・鷲田清一編『所有のエチカ』,ナカニシヤ出版:149-171
 cf.立岩 2004/08/25 「小松美彦の本」(医療と社会ブックガイド・41),『看護教育』45-08:

◆199710  米国:オレゴン州安楽死法案、違憲差し止め命令撤回

◆町野 朔・西村 秀二・山本 輝之・秋葉 悦子・丸山 雅夫・安村 勉・清水 一成・臼木 豊 編 19970420 『安楽死・尊厳死・末期医療――資料・生命倫理と法II』,信山社,333p. ISBN:4-7972-5506-4 3150 [boople][bk1] ※ b ** *d01
 cf.立岩 2001/04/25 「死の決定について・1」(医療と社会ブックガイド・4),『看護教育』42-4(2001-4):302-303(医学書院)
松田 道雄 19970424 『安楽に死にたい』,岩波書店,133p. 1200 ※ ** *d01
 cf.立岩 2001/07/25 「死の決定について・4――松田道雄のこと」(医療と社会ブックガイド・7),『看護教育』42-7(2001-7):548-549
◆川渕 孝一 19971028 『生と死の選択――延命治療は患者にとって幸せなのか』,経営書院,219p. ISBN-10: 4879136425 ISBN-13: 978-4879136428 [amazon][kinokuniya] et
◆五十子(いらこ) 敬子 19971130 『死をめぐる自己決定について』,批評社,319p. ISBN: 4826502400 3675 [boople] ※ b ** *d01
 cf.立岩 2001/04/25 「死の決定について・1」(医療と社会ブックガイド・4),『看護教育』42-4(2001-4):302-303(医学書院)
◇立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,465+66p.,6300  →『私的所有論』における言及

◆石井 暎禧 19980201 「老人への医療は無意味か――痴呆老人の生存権を否定する「竹中・広井報告書」」,『社会保険旬報』1973号(1998.2.1)
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc01.htm
◆1998   厚生省「末期医療についての意識調査」(1998年1〜3月)
  医師1577人、一般市民2422人対象
  医師:回復の見込みがないうえに死期が半年以内に迫っている患者に「延命医療はやめたほうが良い」62.1%、「やめるべきだ」15.3% 計約8割、そのうち88%:延命医療を中止した後に行う措置として「患者の命が短くなる可能性があっても、痛みなどの緩和に重点をおく」
  一般市民:治る見込みのない病気で自分に死期が迫った場合に医師が行う治療について「延命治療はやめた方がよい」51.7%、「延命治療は続けられるべき」16.0%。
  「末期医療に関心がある」一般市民80.9%、医師93.9%
  「安楽になるために積極的な方法で生命を短縮させる」一般市民13.3%、医師1.9%
  「持続的植物状態における延命治療をやめたほうがよい、やめるべき」一般市民78.8%、医師86.2%
  「リビング・ウィルについて賛成」一般市民47.6%、医師69.5%
  「リビング・ウィルについて取り扱い方の法制化をすべき」一般市民47.8%、医師55.2%
◇立岩 真也 1998/01/20 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」
 『仏教』42:85-93(特集:生老病死の哲学) 25枚
 →立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録

◆山口 研一郎 編 19980320 『操られる生と死――生命の誕生から終焉まで』 小学館,287p. ISBN:4-09-386018-1 1900 [boople][bk1] ※ *d01
 清水 昭美  19980320 「「安楽死」「尊厳死」に隠されたもの」
 山口研一郎編[1998:079-108]
 小松 美彦 19980320 「「死の自己決定権」を考える」
 山口研一郎編[1998:109-152]
cf.立岩 2001/06/25 「死の決定について・3」(医療と社会ブックガイド・6),『看護教育』42-6(2001-6):454-455
◆石井 暎禧 19980501 「みなし末期という現実――広井氏への回答」,『社会保険旬報』1983(1998.5.1),1984(1998.5.11),1985(1998.5.21)
 http://www.sekishinkai.or.jp/ishii/opinion_tc02.htm
◆『ヒポクラテス』 19980801 特集:死の自己決定 『ヒポクラテス』02-05 980
 立岩 真也 1998/08/01「「そんなので決めないでくれ」と言う――死の自己決定、代理決定について」(インタヴュー)
 『ヒポクラテス』2-5(1998-8):26-31
 →立岩『弱くある自由へ』(青土社,2000)に収録
◆立山 龍彦 19980920 『自己決定権と死ぬ権利』 東海大学出版会,153p. 2200 b ** *d01
◆鶴田 博之 19980920 「「安楽死」「尊厳死」に潜むもの――何か変ではないですか?」,生命操作を考える市民の会編[1998:98-111]*
*生命操作を考える市民の会 編 19980920 『生と死の先端医療――いのちが破壊される時代』,部落解放・人権研究所,211p. ISBN:4-7592-6043-9 2310 [boople][BK1] ※ b ** *d01

生井 久美子 199903 『人間らしい死をもとめて――ホスピス・「安楽死」・在宅死』,岩波書店,289p.,ISBN:4-00-001750-0 2310 [boople][bk1] ※ b ** *d01
 cf.立岩 2001/05/25 「死の決定について・2」(医療と社会ブックガイド・5),『看護教育』42-5(2001-5):378-379


 
 
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『私的所有論』における言及

 「[…]男によって決められてきた。これに対する抵抗としてフェミニズムがある。また、今まで障害を持つ人、病を得た人は、施設の中で、医療・理療の現場で、職員、専門家、等々によって自分達の生き方を決められてきた。つまり自己決定を剥奪されてきた。これは不当だ。それで自己決定権を獲得しようというのである。だが他方で、自己決定と言って全てを済ませられない、肯定しきれないという感覚も確かにある。例えば、死に対する自己決定として主張される「安楽死」「尊厳死」に対して早くから疑念を発してきたのも障害を持つ人達だった◇05。ここには矛盾があるように見える。私自身、かなりの部分は「自由主義者」だと思う。生命に対する自己決定が肯定されるべきだと思う。ここからは、ほとんど全てが許容されることになるのだが、ではそれに全面的に賛成かというとそうでもない。ここにも矛盾がある。少なくともあるように思える。これは場合によって言うことをたがえる虫のよい御都合主義ではないか。しかし、私は肯定と疑問のどちらも本当のことだと感じている。[…]」

 「◇05 かなり早くになされた批判としてしののめ編集部[1973]がある。安楽死について本書は主題的にとりあげることをしないが、障害新生児の治療停止(第5章注06・179頁〜)、ナチスドイツにおける安楽死(むしろ大量虐殺、第6章3節)に触れることにも関係し、第4章、第7章で死についての自己決定について少し述べる(cf.第4章注12、第7章注22)。資料集として中山・石原編[1993]。」

 第7章 「「自己決定」の危うさはこのようなところからきている。例えば「死への自由」を認めうるか。実際には自殺を認める認めない以前に人は自ら死んでしまうのだから、私達はこのことを考えずにすんでいる。ところが一人で死ねないがしかし死にたい人がいた時にどうするか。勝手に死んでいく者がいるのだから、同じくその権利を認めなければならないということになるかもしれない。とすれば「死の介助」もまた認めざるをえないことになるのかもしれない◇21。しかし、そのような場にいる人はどんな人か。彼は病にかかり、自らの非力を自覚し、そのために自ら死を選ぼうとする。もしその人がそのような主体であるなら、その決定は、まわりにいて負担する側にいる私達にとって危険なものではない。むしろ、負担する側にとっては好都合なことだと言える。そして決定や決定の結果は自分で負うことになっているのだから、まわりの者には精神的な負担もない。(第4章3節2)◇22」

 「◇21 「「お前は人間には自殺する権利があると思うか?」/「権利はあるかも知れないが賛成はしない。」/「安楽死と尊厳死については反対なんだろ?」/「個人的な決断の問題と、法律として国家によって強制されたり、奨励されたりする事とは別だよ。子供を生むかどうかとか死を選ぶかどうかなんて事は、個人の問題としてはそれぞれの決断には重みがある。しかし、法律で強制される事は別だ。断固反対すべきだ。」/「それはよくわかる。だけど自分で死ぬ事のできる人間の権利は認めるが、死を選ぶのに、言わば介護を必要とする人間の権利は認めないというのは一種の障害者差別じゃないか?…」」(宮昭夫[1996:3])」

 「◇22 フーコーは、そのいくつかの著作で、第6章に記した装置の一部を記述した。もちろん、行為の結果を個人に送付すると同時に個人の内面には立ち入らないことを建て前とする制度があることを彼は知っていて、その上で、それに収まりきらないものがあることを彼は述べたのであり、前者がこの社会に存在しないといったこと、あるいは前者より後者の方がこの社会にあって優勢であるといったことを彼が主張しているわけではない。また、前者の側に加担し、その位置から後者を批判するといった立場をとったのでもない。ただ、時に、彼自身が、前者から後者を批判するという立場にいるように思われることがある。
 周知のように、フーコーは、生に関与し、増殖させ、生産される権力、「生・権力 (bio-pouvoir)」について述べた。そして、死への「自己決定」について語ったことがある(Foucault・渡辺[1978:165](来日時の講演)、Foucault[1988:176](1983年のインタヴュー))。この自己決定が「生・権力」に対置されるものとしてあったという解釈も可能である。市野川([1993b])は、ドイツ医療政策史を辿って、次のように指摘している。「生−権力の存在理由は、死に通じた斜面の上で、人間の生命を無限に押し上げることにある。だから「不治であるという考えそのもの」は、生−権力をその根底から付き崩していることになる。生−権力が、それに対処しうる唯一の方法は、死という開始点にその生命を投げ返す(=廃棄する)こと以外にない。しかも、それは19世紀以降、主体の権利という回路を経由し、さらに今日的に言えば「自然死」という名称をともなって。だが、それは本当に権利なのだろうか。…/…一つだけ言わなければならないことがあるとすれば、それは、生−権力という道具箱から、尊厳死や安楽死を実践として擁護してはならないということである。尊厳死や安楽死を正当化する根拠が、どこかにあるのかもしれない。しかし、それは決して生−権力論ではない。この点でフーコーは間違っている。少なくとも軽率である。…われわれの時代においてますます困難になっているのは、死への自由ということではない。障害をもつ者、不治の病にある者、死にゆく者、そういった人々との関係性こそが、ますます不可能になってきているのだ。そうした関係性に身を開いていく自由、それがわれわれの時代にとって最も困難な、だが最も重要な自由なのである。」(市野川[1993b:175]、中略した部分では本書第6章でも少し触れたナチスに言及し、木畑和子[1987][1989][1992]の参照が求められている。)」


REV:20050115(ファイル分離),16,17,18 20061129,1206, 20090213,20100627
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