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エンハンスメント Enhancement:立岩からの引用

エンハンスメント Enhancement


■立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,465+66p.

◆第9章「正しい優生学とつきあう」6節「積極的優生について」

 「□1 積極的優生
 「積極的優生」について。ゴルトンの目指した方向に反して、選んで産む(産ませる)ことによって質の改善をはかるこの方法が政策として採用されたことは少ない(第6章注30・259頁)。そして、消極的優生に比しても、その有効性は明らかに疑わしい。しかし、現実に可能であろうとなかろうと、これをどう考えるか。
 能力を高めることは能力の低い人を「差別」することだろうか。差別だとするなら、多くのものが差別である。例えば、オリンピックは運動が得意でない人に対する差別であるということになる。そこまでは言わないのだとすれば、少なくとも能力を高め、能力を示すことの全てがいけないということにはならない。だったら、あるのは手段の違いであって、みんなよいということにならないか。第一点。私が私をよくする。私があなたをよくする。両者の間にある違いはこの主語の違いだけである。しかも後者の場合に、私はあなたの「最善の利益」(だけ)を考慮してよくするのだとしよう。ならば同じではないか。第二点。また、生まれた後、私はあなたをしつける、学校に行かせる等々、いくらでも行うことがあるではないか。こうやって生まれた後に何かさせるのと、積極的優生によって生まれる前に与えることと、違いは、生まれた後、生まれる前、それだけではないか。第三点。しかも、消極的優生とは異なり、積極的優生は生きさせる行いであるから、存在の消去が絡む消極的優生の場面とは異なり、より「倫理的」な問題は少ないはずだ。以上について、考え、答える。

  □2 積極的優生は不愉快だから禁止される
 人々が新しい環境で生きていかなくてはならない時、あるいは現在とまったく違った環境で生きていくことを決意する時、そのために必要な能力を身につけようとし、それが仮に可能だとして、それを遺伝子の改変によって行うことがあるかもしれない。例えば今の陸地が海中に沈む時、水中で暮らすためにはえらが必要だから、えらをつけることがあるかもしれない。これらのことを否定しようと思わない◇28。だから、すべてを否定しようとするのではない。しかし、何か私達にとって「よい」ものを遺伝に関する知識と技術に基づいて他者に与えようとする行いは否定されうると私は考える。以下、先にあげた第一点から第三点について答え、このことを述べる。
 第一点について。優生はある属性・能力をもつ/もたない存在を存在させること/存在させないことであり、必ずその存在の外側にいる者が行う行いである。この点は重要である。あなたはあなた自身を変えることができる。それを認める。それは、変えることが何かよいことであるからではない。それを引き受けるのはあなたであり、そのように思い、行うあなたを、私が凌駕することができないから、凌駕しようとしないからである。このような意味で、私はあなたの「自己決定」を認めるだろう(第4章)。これに対して、積極的優生においては、それを行う時、その人はまだいない。私がそれを行おうとする時、それは、私の、私でないものに対する行いである。
 それは何に発しているか。対象となるその人はまだいないのだから、当然、その人がよいと言っているから行うのではない。そうではあっても、私はその行いを、いまだ存在しないあなたの「最善の利益」を考えて行うかもしれない。しかしそのような場合でも、そのあなたの最善の利益とは、あなたが私達の社会に生きていく時に、有用・有益とされるものをより多く有することによる利益である。たしかに私が最善の利益を考慮したことによってあなたは利益を受け取るかもしれない。けれども、この場合でも、あなたに対する行いは、結局のところ、私達の価値によって(それがあることを前提にしたあなたの「最善の利益」によって)行われている。このような意味で私(達)が変えるのである。だからこれは、私の価値に発する行い、時には私個人のではないにせよ私達の価値に発する行いだ。他者であるあなたは私の(欲望の、希望の)模像として存在を始める。その時に私にとってあなたは他者として存在すると言えるだろうか。その存在は、制御しようとする私の欲望のもとに置かれている。同時に(失敗した場合には)私の失望のもとにおかれる。あなたが他者であるという性格は失われている。その時に私は、私にとってあなたがあることの基本的な意味を消し去っている。あなた自身においても、あなたが私にとって他者であることができるというあなたのあり方が侵害されている。そのようにして生まれてきたあなたは、その決定の内容に関わらず、私によって決定されること、私の私性が自らに侵入してくることに不快である。
 多くの子が、何かしらの期待はされて生まれてくるだろう。しかし、「父親」の知能指数が記載されているカタログを見て、精子銀行から取り寄せられた精子によって生まれてきたあなたは、それがあなたに対する親の真実の思いに発しているとしても、――その実際の「効果」のほどはきわめて疑わしいのだが、その効果の実際などとは関係なく――あまりに直截にそこに私(達)の欲望が刻印されていることに対して――不愉快なのである。
 このように考える時、積極的優生学が否定されるのは、それが人間の尊厳を構成する「大切なもの」を奪うからではない。例えば「背の高さ」は「人間の尊厳」に関わるだろうか。関わるものではないと言うこともできるだろう。単に生きていくのに便利である、格好がよいというぐらいものであるかもしれない。であれば、たかだかそういうものでしかないのだから、その方向に向けて変えることには問題がないだろうと反問されるかもしれない。これに対して、変えられるもの、作られるものが、たかだか手段であるものであろうとそうでなかろうと、あるものをよしとし、あるものを便利だとする、そういう私達の価値によって、作られることに対する抵抗があるのだと、だから些細であろうとなかろうとそれは駄目なのだと言う。
 第二点について。いつも私達は「教育」する。ここでもなされているのはそれと同じことではないか。ならば、問題はないはずである、あるいは教育全般が否定されるべきだということになる、そのいずれかではないか。しかし違いは、その違いはわずかではあるが、ある。あるいは、ありうる。すべてが当の子供の意向を尊重してなされるべきだといった呑気なことを言うつもりはない。私達は、人を殺すなとか、友達をいじめるな、といったことを、いろいろな理屈をつけることもあるにせよ、結局は有無を言わさず、押し付ける。しかしそれ以外で、私達は、何が生きていく上で便利であるかを知らせ、その手段を提供するが、そこから離脱することを認めている。あるいは認めていないとしても、現実に、その場には既にその者がいて、その者の抵抗に会うことができる。私達は様々なことをその者に押し付けようとするのだが、それは完全には成功しない。しかし積極的優生においてはそのような可能性は想定されていない。現場にその存在はいないのだからその可能性は封じられている。両者はこのように異なる。このことは同時に、出生前だけが特権的に問題になるのではなく、ある種の早期教育といったものもまた、否定の対象になりうるということを意味する。私達に都合のよいように他者があるべきでない。そのように考えている、そのように考えているとする時にだけ、私達は、積極的優生を否定する。奇異な言い方のように思われるかもしれない。しかし、「よい優生」に抵抗するとすれば、それは、結局、このような態度からしか導かれない◇29。そして、このように言うのは実はそんなに奇抜なことでもない。例えば、私は身長の高い人の方が好きだけれども、身長の高い人間を生産することはすべきでないと思うとすれば、その人は既に述べてきた場にいるのである。
 第三点について。この行いを制限したり禁止したりすることはできるのか。できる、と考える。まず、今述べたようなことは、あなたがそう主張しているだけであって、私がそれに従う必要はない、という反論があるかもしれない。しかしそれは違う。私とあなたは子という他者に対して同じ位置にあるのだ。国家によって行うことは認められないとしよう。他方で、親がそれを行うなら認められるだろうか。こう考えるなら誰もが特権的な存在ではありえないのである。第8章で、能力が手段として用いられる場にあっては能力によって選抜することを認めたけれども、それ以外の部分を評価することが禁じられると述べた。そこでは、義務を課しているし、義務を履行しないことを禁止している。それと同様に積極的優生も、同じ理由で、すなわち他者が他者であることを奪ってはならないという理由で、禁ずることができる。選択的中絶について結局のところ禁止すべきだとは言わなかったのに比して、積極的優生を禁止してよいと主張するのは奇妙のように思われるかもしれない。何にせよ、こちらは生まれるくるのであるから、よいではないか、問題は少ないではないか。しかし逆である。生まれる者があるからこそ、その者に不快が生じうるのであり、だから積極的優生は否定される。◇30」

「◇28 安部公房[1959](加藤秀一[1991b→1996]、森村進[1987]に言及がある)。
◇29 「優生学や遺伝学の介入は、原理的には表現次元という日常性や関係性を超えた遺伝子次元へとなされる。そこは主体が主体的に自身で働きかけが不可能な次元である。日常的な表現的主体は遺伝子次元に直接・間接に主体的調整という関わりは持てず、そこへは医師や遺伝学者が主体から見ると不条理な形で、しかしながら学的に正当化された形で侵入する。具体的には身体への加害、能力の剥奪がなされ、論理的には日常性や関係性の無視や主体性の解体がなされる。それをなす力は、そもそもそういう場を設定してしまう優生学・遺伝学の論理を基軸として内蔵されており、それを…「加害性」、あるいはその一部と考えている。…「加害性」には歴史的に優生学がなした具体的「加害性」と、優生学の理論に内在的である「加害性」の二つがあり、前者は後者ゆえに現象したとここでは考えている。」(斎藤光[1991:308]、第6章注44・265−266頁での引用も参照のこと)
◇30 積極的優生を支持するグラヴァーの主張を検討する(Glover[1984]、他の著書としてGlover[1977]、Glover et al.[1989]等。以下は森村進[1987]の紹介による)。
 @「性格とか高い知性といったものは遺伝ではなく育った環境の産物なのだから、積極的遺伝子工学は無意味だという人がいる。しかしこの批判は論点をそらしている。」
 A「関連した批判として、「良い遺伝子とか悪い遺伝子などは存在せず、遺伝子は環境によって具合が良かったり悪かったりする」というものもあるが、人間はけっして環境の真空地帯に発生するのではなく、特定の環境の中に生きるのだから、人間が生活するものとして現実上問題になる環境の中での良し悪しを考えれば足りる」
 B「遺伝形質の多くは、単一の遺伝子ではなしに多数の遺伝子の間の複雑な相互作用によって決まるから、遺伝子工学は実用的でないといわれるかもしれない。だが」単純な組合せに形質が依存している部分もあるかもしれないし、技術の発展もありうる。
 C「積極的遺伝子工学は親と似ない子を作りだすために、…親子や家族についての見方を根本的に変えてしまうかもしれないという不安もある。だが、これも十分な反論たりえない。第一に、親子の間の相違は育った場所と時、受けた教育などの環境の産物でもあるが、それだからといって世代の断絶を防ぐために環境を固定せよとは主張されない…。第二に、親子観や家族観は時代とともに変化し、われわれの慣れ親しんでいるものも別に絶対のものではないから、その変化を阻止するためにはなにか強い理由が必要がある」
 D「不自然」「神を演ずるもの」という批判に対して、「放っておけば死んでしまう病人を救う医療は「不自然ではないののか? 自然さや神意に訴える議論は、あまりにも漠然としていてとらえ所がない。そのうえ、神を持ち出す議論は、神の存在を信じている人にしか意味を持たない。」
 E政策的統制に対する危惧については、「子供にいかなる遺伝子を与えるかは、親となるべき者が決めればよい。…遺伝子操作の自由化は、人々が恐れるような人間性の画一化とは逆にその多様化へと向かうだろう。」
 F「現在の人類はこれ以上、改善の余地がなく、その遺伝子は進化の究極というわけではない…から、遺伝子工学は進化に逆らっているわけでもない。」
 G「その環境において通常よりも著しく不利益な状態に子供を故意におくことが許されてよいとは思えない。/しかしながら、そのような危害を子供に与えないとしたら、親が子の遺伝子を操作するのはなぜ悪いのだろうか。親は、子供が成長さえすればよいと考えて育てたりはしない。ある種のタイプの人に育てようとするのである。…それは、特定の方向づけと、逆の方向の可能性の排除とを意味している。子供を正直な人間に育てるということは、子供が率直であるように動機づけ、子供が不正直になる可能性をつみとることである。親が子の成長にこのようにして影響を与えるのは不当だ、とは考えられていない。私的家族という制度を是認する以上、親が子の育成について圧倒的な権限を持つことは認められねばならない…。/もっとも…子の基本な生理的・精神的能力や身体の完全性を損うような操作は禁止されねばならない。」
 H「子孫や第三者に対して重大な危害を与える危険が大きい」という理由は、十分な重みをもつ。しかし「危険性は遺伝子操作の慎重さの問題であって、全面的禁止の問題ではない」(以上、森村[1987:120-127])
 @ABCDHを認めよう。Eについて、多様化に向かうかどうかは疑問だが、少なくとも、積極的優生が、国家管理的なものであるとは限らないという論点は認めうる(第7節2)。Fについて、何が人類の進化なのか私にはわからないが、一応認めておくとしよう。残るのはGだけである。これについて本文で答えた。
 なお次の引用文中のグローバーはグラヴァーと同一人物であり、ノージックについては第2章2節、第4章注19、第5章3節で触れた。「グローバーは、一つの選択肢として、”遺伝子のスーパーマーケット”というアイディアを提案している。/グローバーが哲学者のロバート・ノジックのアイディアからヒントを得たという計画によると、これから親になろうという人たちが、遺伝に関する選択リストから、自分たちの子供のためにどんな特徴をとり、どんな欠点を矯正するかを、あたかもスーパーで買い物をするときのように、自由に選ぶことができるというものだ。/ある夫婦は自分の子供のために、音楽の才能とガンにかかりにくい体質という二つの遺伝子を選ぶかもしれない。別の夫婦は、彼らなりに考えた別の遺伝子を選ぶだろう。コントロール板によってすべての人間を統轄するような中央の管理方式さえなければ、遺伝子の多様性は減るどころか、むしろ増えるはずである。」(Shapiro[1991=1993:339-340])
 また永田えり子は次のように言う。「そもそも、個人に命の質を選ばせない、というのは恐ろしいことだ。それを優生学だといって批判するなら、まずは自由恋愛を禁止すべきだということになるからだ。/われわれは日常的に命の質を選んでいる。才能があるからといって仕事を依頼する。性格がよいからといって友だちに選ぶ。そして配偶者選択においては、この社会で評価されている特性をもつ人を選ぼうとする。…そして自由恋愛を通じて、結果的に個人は自分の未来の子供の質を選んでいる。例えば頭のよい子が欲しいから頭のよい人と結婚しよう、などというのがそれだ。/われわれはどうしようもなく社会から影響を受けている。そもそもどんな人に性的魅力を感じるかということでさえ、社会の影響を無視しては語れない。被差別者の結婚難問題はそもそもここに起因する。/だが、だからといって個人の自由恋愛を禁止すべきだろうか。特定の人を愛することは差別であり偏見であるからやめることにして、例えば配偶者選択は無作為抽出によって「かけあわせる」ことにする、といったことが可能だろうか。/遠い将来にはそうした「かけあわせ」が正しい、とみんなが考える社会も到来するかもしれない。だが現時点では無理である。自由は大切であり、とくに恋愛や生殖が、個人の自由の中でもっとも守られるべきプライベートな領域であるとわれわれが考えている以上は、恋愛や生殖を通じて個々人が「命の質を選んで」ゆくことは避けられないであろうし、また避けるべきでない。」(永田[1995a:140-141])このような主張についても、第8章および本章で答えた。

 「まず私が私に属する何かを改変するという場面を考えよう。例えば、私は整形手術――今のところその技術はそうたいしたものでないにせよ――によって私の顔その他の外見を変えることができる◇17。また新たな機能をつけ加えたり、機能を高めたりできる。こうして操作される当のものが次々に生産され、過剰生産が引き起こされることになる。希少性に価値があったのだとすれば、その希少性が失われることによって価値が下落することになるかもしれない。性能向上のインフレーションを招き、そのものの価値が低下する。その結果、そこそこのところで技術の利用が止まってしまう可能性もないではない。ただ他方で、操作が行われることによって全体的な水準が上昇するなら、そのままでいては相対的な価値は低落することになるとも考えられるから、それでは何かしなければというわけで、ますます多くの人が自らの性能の向上にいそしむということも考えられる。」([146])
◇17 美容整形等、広く身体に対する変形行為については近年多くの文献がある(Glassner[1988=1992]、山下柚実[1991]、『別冊宝島』162(1992)、『imago』1996ー2、等)が、少し前まではあまり論じられなかった。例外的に三橋修[1982]。三島由紀夫[1965]もある。

 「だが、私のもとにあるものを私達は自らの制御の対象としないことを選ぶことがある。これはここで主題としている問題が、帰属ではなく処分権を巡って現われることも説明する。そこに確かにあるのだが、誰かがそれを処分すること、移動することに対する懐疑がある。実際、自己決定を擁護するとしてなされる批判には、この語の一般的な用法から逸脱する部分がある。身体、身体的な過程そのものを大切なものとし、譲渡の対象とすべきでないと主張される。身体を決定に従属し、制御されるものとするところからはこうした主張は出てこない。けれど、身体、性、出産…を大切にするのは「私」ではないか。そう、全てが私のことだと言えば言える。ただ、私が制御すること、制御できるものを私が取得しようというのではない。身体に起こっていることを受容しようというのである。扇動のないところではそう格別のことではない。例えば私自身を整形しようとしないのは、私が私の容貌等々を気にいっているからだろうか。あるいは私の容貌が愛しいからだろうか。そういう人がいないではないだろう。しかし、それ以上に、何かしらの美醜の基準によって自らを形成することを馬鹿げたことだと考えるからではないか。
 だが、現実にあるのは、身体に対する侵襲、身体の操作への扇動だ。この時、それに抗しようとして、身体に、積極的な、肯定的な価値が付与される。これは当然である。しかし、私達が受け取るべきは、状況が強いたゆえの裏返しの言葉ではなく、ある属性、「身体」「女性性」「障害」を取り出しそれに正の評価を与えること、特権化することではなく、そこに向かわせる力を解除しようとする作業である(第8章・第9章)。それは、範疇を必要としない、個別の、受動としての快楽があることを否定しない。それが囲われることに抵抗するのである。」

立岩真也 19980221 「遺伝子治療の現状を離れて少し考えてみる」,遺伝子医療を考える市民の会議・専門家パネル2 於:大阪科学技術センター

 なぜ、遺伝子治療が、また特に生殖細胞の遺伝子治療が問題とされるのか、議論の対象になるのかである。
 例えば外科手術はあくまで「事後」的な措置であって限界がありそうだけれども、それゆえの、結局は部品の(不完全な)修理でしかないという安心感のようなものもある。それに比して遺伝子治療についてどこか不安な感じをもつとすれば、遺伝子治療にそうと言いきれない部分があるように思っているからではないか。
 1)「神を演じている」「自然の摂理に反する」という批判がある。しかし、これに対しては(「私は神様を信じません」という揚げ足とりはおくとしても)、治療をする時に私達は既に人為的な手段を講じている、その意味では「自然」に反したことを既にやっているのだという指摘がある。この指摘はとりあえず当たっていると言わざるをえない。「人間改造」という言い方もある。しかしどんな治療にしても何かは変えているのだから、どこまでが(よからぬ)「改造」であって、どこからがそうでないのかという問題はやはり残る。だから以上はそのままでは使えない。あるいはもう少し上手に言わないといけない。
 2)「普通」の状態、「標準」の状態にすること、戻すことはかまわないが、それ以上を狙うのはよくない、「治療」と言えないという主張があるのかしれない。しかしそうすると、例えば生まれてくる子を平均的な身長はある子にすること、肥満とは言えない体重の子にすることには、それを「治療」と呼ぶかどうは別として、問題がないということにならないだろうか。
 3)人間の「本質」的な部分については手をふれてはならないという言い方があるかもしれない。しかし、背の高さは人間の「本質」だろうか。そうではないと考えるとすると、背の高さを変えることには問題がないということにもなるが、それでよいか。
 4)遺伝子は人間を規定する「プログラム」であるという意識があり、それを書き換えてしまうことの恐さのようなものがあるのだろうか。しかしこれにしても十分ではないと思う。遺伝病の原因になるものもまたある種のプログラムであるには違いないからである。これに対して、それは普通の正常なプログラムとは異なると言うことはできるかもしれない。しかし、上記したのと同じ問題が生じるだろう。つまり、どんなプログラムを書き換えてはならないのか、あるいは書き換えてよいのかという問いが残っているのである。
 5)生殖細胞の遺伝子治療の場合に特に言えることして、本人の意向がそこには存在しないということがある。ただ、医療全般においても、本人の意向をうかがえない場合にはまず治療を行う。治療を行わないなら、むしろ義務を怠ったということになるだろう。だから、本人の意志を確認しないで行なわれるのは生殖細胞の遺伝子治療の場合だけではない。
 しかしこれらはみな、重要なポイントではあると思う。例えば5)。本人の意志がない場合に行なわれる治療にしても、それは通常、苦痛を取り除くために行なわれている。そして2)を別様に考えてみる。あるべき状態、あるいは標準的な状態を設定しているのは誰かと言えば、それは私達である。5)の条件を介して、そして対症療法ではなくプログラムの書き換えであることに関連して、私達の価値とか都合のよさのようなものがより大きく入ってきやすいし、少なくとも理論上、実現されやすい。1)の指摘もこのことを言っているのかもしれない。
 つまり、特に生殖細胞に関連する遺伝子「治療」について、それが本人がいない間に行われることであり、その上で、私達の「欲求」「都合」「価値」に発して行なわれうること、そしてそれが遺伝子への関与によって実現しうることに私達は危惧をいだいているのではないか。別言すれば、私達は、私達の欲求が「他者」において実現してしまってはならないと、私達の価値が及ばないところに「他者」は現われてくる(べき)ものだと――奇妙に思われるかもしれないが、しかしやはりどこかでは――考えているのではないか。そこで、その本人の身体的な苦痛を除去する以外には技術を使うべきではないと考えているのではないか。(この社会では、例えば「太り過ぎている」こともまた苦痛であるかもしれない。しかしその苦痛を与えているのは私達であるとすれば、それを個人の改造によって実現すべきではない、ということになるかもしれない。)
 とすると、いくつかの病や障害についても、同じように考え直した方がよいかもしれないと思う。例えば(遺伝子治療ではなく、選択的中絶の対象になっているのだが)ダウン症という障害がある。主に「知的障害」として現われる。だが、それは本人にとって苦痛なものなのだろうか。その症状は様々だからいちがいに言えないとしても、私にはそう思えないところがある。とすると、私達は選択的中絶を何のために行なっているのか。
 「生殖細胞」の治療は原則禁止という方針がこの先もずっと貫かれるか、私は疑問に思っている。そのためにも、「先走って」ということになるかもしれないが、考えておいた方がよいと思う。本人の身体的な苦痛以外を「治療」の根拠とすべきでない、とひとまず言ってみた。ただこれ自体そう確かな基準と言えるのか、その根拠は明確か、また、では「寿命」や「老化」のことはどう考えたらよいのか、等、たくさんのことが残されている。すぐにここで述べたような遺伝子治療が実現するといったものではない。だからゆっくりと考えることができるだろうと思う。


UP:20080825 REV:
エンハンスメント  ◇立岩 真也
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