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>HOME ■引用 ◆Nozick, Robert 1974 Anarchy, State, and Utopia, Basic Books.(=1985,1989, 嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア』(上、下)木鐸社 →1992, 嶋津格訳『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社). ◆Glover, Jonathan 1984 WHAT SORT OF PEOPLE SHOULD THERE BE? : GENETIC ENGINEERING, BRAIN CONTROL AND THEIR IMPACT ON OUR FUTURE WORLD, PENGUIN BOOKS LTD. Harmondsworth, Middlesex, England.(=19960108, 加藤尚武・飯田隆監訳『未来世界の倫理――遺伝子工学とブレイン・コントロール』産業図書. ◆Parfit, Derek 1984 Reasons and Persons, Oxford University Press(=1998, 森村進訳『理由と人格――非人格性の倫理へ』勁草書房). ◆加藤尚武, 19861215, 『バイオエシックスとは何か』未來社. (pp51-55) ドイツではかつてナチスが刑法学者と精神医学者をまきこんで、組織的な「安楽死」を行った。秘密のプロジェクトが組まれて二十七万人が、もちろん当人の承諾を経ないで殺されたという。そのために現代ドイツの刑法学者には安楽死について「当人の同意を不可欠の条件とする」という立場をとるものが多い。問題は当人に判断力が欠けている場合が多いということである。新生児や胎児の場合にも同じことがいえる。安楽死を当人の同意に基づく自殺幇助の場合に限って認めるべきであり、「新生児への安楽死は本質的にナチズムの場合と変わらない」という主張もある。[p52> そうなると、今度は当人の同意がありさえすれば是認されるのかという問題がでてくる。当人の安楽死への正しい動機は何であるかという議論になる。 安楽死が一種の自殺幇助であるという観点に立って、社会学者のウォレスS. E. Wallece は「正当化されない自殺」の三つの型を提示する。他人への敵意に基づく「他殺的」 murderous自殺、自罰のための「被虐的」masochistic自殺と「自堕落による自殺」suicide surrenderとである。そこから逆に「回復の合理的見通しを欠く末期患者で、苦痛の内におかれ、停止surceaseを求める者」の場合を是認する(4)。 これに対する伝統的反論は、苦痛回避のための死は、患者を人格としてではなく、物件として扱うことになるというものである。カトリシズム(宮川俊行『安楽死の論理と倫理』東京大学出版会)からも、カント主義の立場からも語られている。尊厳死death-with-dignityを認める立場では、ある条件では死を許容することこそが患者を人格として扱うことになると考える。基本的な論点はカイザーリンク E.[p53>W. Keyserlingk の論文「生の不可侵性と生の質」が示している。彼は「生の不可侵性」sanctity of life をSOL、「生の質」quality of life をQOLと略記し、この用語を広く普及させた(5)。SOLが求めるのは治療(cure)であり、QOLにとって望ましいのは看護(care)である。この両極の両立性を追求することが正しい医療であって、従来の医療はSOL一辺倒におちいっていたと指摘する。 カイザーリンクの論文は、治療と延命をすることだけが医師と治療機関の役割なのではない、患者をその最後の瞬間まで人間らしいケアであつかい、生の質を保証すべきであるという観点を確立した。「生命の尊重」という言葉ではおおい隠されてしまう生の意味を明確に提示したのである。「生きること」と「善く生きること」を区別したソクラテス以来の伝統を示したといってもいい。生命の質とはその当人にとっての良さ、すなわち「内的な視点」からみた良さである。この意味での良さは功利主義の世界では直接的な快不快によって決定されるものとみなされやすい。功利主義においてはしばしば快不快と善悪とが連続、近似したもの、極端な場合に[p54>は同一のものとみなされる。カイザーリンク論文は生命の意味を人格的な価値に拡張すると当時に、人格的な価値を快不快に還元する傾向をも生み出している。 内的な視点での快楽を極端な形で考えるための思考実験に、「経験機械(6)」という想定がある。現実の私はプールに浮いて、頭に電極を差し込まれているだけであるかもしれない。しかしその私は完全な幸福を経験しているのである。下積みの生活を永年強いられた男が、ある日、蒸発して経験機械に出家して、以後の人生を映画プロデューサーの成功物語を「経験」して過ごす。幸福過ぎて退屈するなどということのないように、危険や変化も組み込まれている。夢、映画に似ているが、経験の実感は現実経験そのものなのである。 ノジックやグローヴァーはこの経験機械に対する健全な人生観の示す反感は何に基づくのかという問題を提起している。いや、実はプラトンがすでに『ピレボス篇』で快楽は幻想によっても、現実によっても得られると指摘している。自我の同一性、他者との交流、現実への能動的関わりが、人間には必要なのだという主張が出され[p55>る。人間の生きる意味が、ある種の功利主義者が信じ込んでいるように快楽に還元されるものではないという主張が出される。だがしかし、この経験機械が完全であるなら、そのなかヘトリップしたいという志願者は跡を絶たないだろう。安楽死は一種の経験機械ではないかと疑うこともできる。ポックリ願望にも似たことがいえる。癌の宣告をするかしないかにも、同種の問題がある。事実を事実として知ること、すなわち真理への要求が生そのものにあるとすれば、ここにも価値と事実との接点があることになる。 死に代えてでも避けたいと思われるほどの苦痛が存在することは、価値一般を快不快に還元する功利主義者でなくても、認めることができる。人格の尊厳をよりどころにして苦痛の回避を正当化する可能性があるであろう。 生の尊厳にふさわしくない苦痛を回避する権利があると主張することは、カイザーリンクの本来の狙いに一致するのではないだろうか。QOLとSOLの両立可能性をぎりぎり一杯追求することが、彼の狙いであったと思われるからだ。 ◆立岩真也, 19970905, 『私的所有論』勁草書房. (第4章4節3項「私が私を作為することに対する他者の感覚」) 作られたものとそうでないもの、にせものとほんもの、両者の区別が曖昧になり、そして、オリジナルなものとそれが派生させるものという区別のもとに成り立っていた時代が終焉を迎えるといった類いの言説がある。本当だろうか。Aが作為していないことをBが想定し、また当のAも、そのBの予期・期待を受け入れている(受け入れざるを得ない)場合に、そのAは作為し、そして作為したことを偽ろうとするかもしれない。その見分けがつかないことはいくらもある。しかしこのことは区別に意味がないことを意味しない。作ったという事実は事実として存在する。少なくとも作った人はそれを知っている。そうでない人も、時にだまされることはあるにせよ、作ったこと、作らなかったことの二つのうち、事実はいずれかであることを知っている。だから、作られたものの精度があがることによって、区別がなくなり、それはリアルなものとリアルでないものとを区画して成立してきた世界を崩壊させる、云々という論の立て方には限界がある(*19)。 (*19) 関連して、Nozick[1974=1992:67-72]、Glover[1984=1986:199-205]の「経験機械」についての記述を参照のこと。「あなたが望むどんな経験でも与えてくれる」(Nozick[1974=1992:67])この機械をなぜ人は望まないのかについて論じられている。彼らのこの問いに対する回答は本文に私が述べたことと同じではないが、近い部分がある。この種の議論から、つまり経験機械を望まないというノージックも認める前提から、ノージック達の議論を覆すことが可能だと私は考えている。 ◆立岩真也, 20000405, 「正しい制度とは,どのような制度か?」大澤真幸編『社会学の知33』新書館. 「原則」について。三〇年前からの人たちにしても、たんなる「自然」の信奉者ではなく、あるいは無政府主義者(を装う者)たちではない。たんに今ないものがよいと言ったのではない。むしろ、「自由」だとか「平等」だとか、あるいは「快」であるとか、それなりの原理原則があったのかもしれない。しかし例えば「自由」だが、AとBと二人いる時に、xについてAが自由であることがすなわち、Bがxについて自由でないことがある。こんな時、自由の配分について語らねばならず、ただ自由を言っても仕方がない。他方で、「平等」を立てる場合には、平等に分配することがためらわれるものもまたあることについて何か言わねばならない。 そして「幸福」。それにつながれると経験したいことを経験でき、気持ちがよい「経験機械」はいかがだろう。これでよいではないか。嫌だと言う人はなぜそう言うか。自分の気持ちのよさは自分で決めたいのか。しかし、気持ちよさ一般を自分で決めているだろうか。また、経験機械を自分であやつれるなら、それでよいのだろうか。 そして、前提・原則・目的でもあるのだが、懐疑と批判の対象となったものについて。例えば「生産」「教育」「健康」。これらが疑われた。例えば(近代)医療批判として医療社会学がある。しかし批判が不徹底だったのかもしれない。つまり、何が気にいらないのか、それをはっきり言うことができているだろうか。教育や医療をすることから抜けられないとした上で、受容と拒絶がどこのあたりで分かれるのかを考えること。そんな綱の上を渡るような仕事の方がおもしろいと思う。 そうやって考えて、とりあえず例えば「みんな気持ちのよい状態で暮らせる社会」がよいのだとして、それがどういうものか、基本的には決まったとしよう。さてそれからどうしようという問いもある。これもけっしてつまらない、先の見えた問いではなく、実際いろいろと考えるべきことのある問いだと思う。少なくとも私はそう思うから、これからしばらく、「退屈な福祉国家あるいは分配する最小国家へ」とか、「停滞する資本主義のために」といった文章を書いていくつもりだ。「近頃の若い者」は身近なところにしか関心が行かないと言われる。しかし、どうしたら景気がよくなるかといった選択の水準で、つまりはつまらなく、天下国家が論じられてしまっているからつまらないと思ってしまうのであって、もっとおもしろく論じればよいのだと思う。 ◆立岩真也, 200401, 『自由の平等』岩波書店. (第4章2節2項「慎ましやかな人について」) もう一つ、本人による拒絶が可能だということがある。人が死のうとするのを止めるのはよけいなお世話であるかもしれない。ただ、たいていの場合、その人は日をあらためて死になおすこともできる。他方で、止められてみれば死ぬほどのことはないと思うこともある。だからまずはよけいかもしれないことをしてみる。まずは分配してしまう。そしてそんなにいらないと言うのなら捨ててもらえばよく、それではもったいないなら、返してもらうことにすればよい。聞くこと自体が、とりあえずでも間に入ること自体が、相手に影響を与えることは否定できないが、それでも本人による否定の可能性は残されている。介入のあり方に慎重であれば、介入の後でもよいものであれば残るだろう、よい方が残るだろうという楽観がある★19。 慎ましい人がそのままになってしまうのはよくない。だから分配の基準を設定するときにその言葉をその通りに受けるべきではない。センの言うように、当人の報告によらずに分配の基準を設定すべきことがあるだろう。ただ、たんにそれだけであれば、価値のあり方、価値の与えられ方自体は不問に付されることになってしまう。与えられないことが当然であると思ってしまっていることが、分配すること、分配されることに影響を与えないはずはない。当然だと思っている人がいて、思わせている人がいることは、分配自体に対する支持を弱くするし、また分配されることに対する引け目やためらいを生じさせる。身分制や性差別に関わってそうしたことが起こることがある。それだけでなく、できない人は得られなくて当然だと思われている場合、当人が思う場合にも同じことは起こる。それは、望みのないことを望むのは無駄だからやめようという一般的にはもっともな処世術ではなく、この社会の所有の体制とそれに関わる教義が与えたものである。それを解除した上でないと、実際には分配が当然のこととされず、受け取ることも給付することも自然には行われないだろう。だからまず現実を変更しようとする。それが実現しない限り、本人の選択をそのまま受け取れず、介入せざるをえないことがある★20。 選好に、選好の中身に、リベラルな分配派は踏み込まない。むしろそこに生ずる「安価な嗜好」といった問題のゆえに、それを排除して考えようとする。分配の基準の設定という場面ではその方針を受け入れてもよいとしても、しかしこの領域について考えることを回避するべきではないことを述べてきた。ノージックの著書に「経験機械」の話が出てくる(Nozick[1974=1992:67])その人は満足が与えられる機械につながれて満足している。満足しているならよいではないかと言われるが、そんなことはないと思うとしよう。ならば満足や幸福感に意味がないということになるか。そのようには答えないだろう。現実に快を得ることと機械によって快が与えられるのとどこが異なるのかを考えるだろう([1997:170])。このように考えるのと同じである。 踏み込まないのは、与えることが越権行為であり、大切な自律を侵すと考えるからだろうか。しかし与えない状態と与えられた状態があるのではない。何かが常に与えられるのだから、何を与えるかという問題しかないのである。選択のために今あるものと別の選択肢を示すこと、選択肢の束を示すことが、既に人を別の世界に引き入れている。選ぶのは本人だとして、選択肢を示すのは本人でない。選択肢を示すかどうか、それも本人に聞くとして、それを聞くことは自体は本人に聞かずになされるしかない。ここで先取は避けられない。リベラリズムもまた人のあり方に対して中立ではない。自分で決めることを教えること、選択の自由を価値とすることもそうである。そのことを非難しているのではない。そこから出発して考えるべきだということだ。 ◆安藤馨, 20070525, 『統治と功利――功利主義リベラリズムの擁護』勁草書房. (pp153-156) 5.2.2.6 経験機械 「偽りの快楽」を検討したので、次に我々はロバート・ノージック(Robert Nozick)の空想になる『経験機械(experience machine)」に触れることにしよう(*46)。狭義の快楽説に対しては「快楽機械(pleasure machine)」を、広義の快楽説に対しては経験機械を割り当てるのが通常であるが、態度的快楽説に於いては経験機械が議論のために必要であるから、以下では経験機械のみを検討することにしよう「偽りの快楽」とは別に経験機械を扱うのは、経験機械によって作り出される「経験」がもたらす快楽がそもそも「偽り」であるのかどうかが大問題だからである現実世界でのある経験と、その経験と現象学的に等価な心的状態をもたらす機械に繋がれることの間には差がある、とノージックは主張する。しかし、心的状態のみが内在的価値の担い手であると考えている快楽説はこの二つの差を正しく捉えられていない、というわけである。幻想の世界で如何なる快楽を得ようと、それが現実のものでない限り空しく、現にそのような機械に据え付けられることを我々は嫌悪するであろう、と。ここで、歓楽的快楽説は既に世界の客観的な自体の成立を要件としているので経験機械によって反駁を受けない、ということに注意しておこう。そのうえで、態度的快楽説を擁護する議論を考えることにする。 まず、経験機械に取り付けられた人間は自分が経験機械に取り付けられていることを知らない。もし知っていれば、取り付けられていないときと同じ経験をしているということはありえないから恐らく記憶を一端消去されているのだろう。更に、その人が経験機械内の世界で「経験機械」の議論を思いつき「自分は経験機械に取り付けられているのではないだろうか」と考えても無駄である。それは、現実の世界の我々が「もしかしたら私は今既に経験機械に取り付けられているのではないだろうか」という類の懐疑論を馬鹿げたものとして退けることにためらいを覚えないのと同様に、彼にとってもそのような考えは馬鹿げたものであるはずだから。再びこのような人の状況に自分の身を置いてみよう。あなたがもし、そ[p153>の状況に問題があると考えるのだとしたら、今この世界にいるあなたは自分自身の状況が「経験機械」によるものだと疑うことになるはずである。そして、この現実世界が実は空しいものであるかも知れない、という疑いをあなたが抱くのだとすれば(これはカルト集団によくある心理状態だといってよいかもしれない)、話は福利の問題ではなくなる。この世界ではない「真の」世界に於ける幸福はこの現世の福利概念の中に取り込まれるべきものではない。福利論は宗教的信念の砂場ではないのである。 問題はほぼ明らかである。経験機械に取り付けられた人の心的状態に於いて、そのイメージ世界で彼が態度的快楽=厚生を得るだろう事は間違いがない。しかし、そのイメージ世界での「厚生」は我々の世界での「厚生」を指示しないであろう。ヒラリー・パトナムはかつて「水槽の脳(我々は邪悪な科学者によって幻想を見させられている水槽の中の脳であるという懐疑論)」に対して「犠牲者が『水槽』といったとき、その『水槽』は決して彼の脳が入れられている水槽を指示することができない」と反論した。「我々は水槽の中の脳である」という言明は必然的に偽となる。その「水槽」は我々のこの世界の外部の何も指示することはできないから。そのような犠牲者が『樹木』といったとき、その『樹木』は決して現実の樹木を指示せず、犠牲者の持つ樹木のイメージか、それを引き起こす電気刺激を指示するに過ぎない。同様に、経験機械の被験者の『個人的な非道徳的価値』は現実の我々の個人的な非道徳的価値を指示しない。ある現実の経験Eと態度的快楽という心的状態は、Eと現象学的に等価なE'なる心的状態とは異なったものとなる。それゆえ外在主義(心的状態は外部との関係と独立には同定し得ない)を採る哲学者の多くは、「経験機械」を原理的に一貫し得ないものとして退けることになるだろう(*47)。 だが、次のような批判が可能であろう。EとE'が決して心的状態として同じものではありえない、というとしても被験者が彼の世界の「厚生」を得つつ、我々の言うところの「厚生」をも得ていると考えることを妨げるものは何もないではないか、と。よろしい、その可能性を認めよう。そうだとして、被験者が我々が指[p154>示するところの態度的快楽を得ているとどうやって知ることができるのだろうか経験機械が真に経験機械である(それゆえ快楽機械でもある)と誠実に主張することがどのようにして可能なのかが私にはわからない。それを知る方法がない限り、経験機械の製作者はこれを態度的快楽説の反駁に用いることができないであろう。「もし被験者にその時の態度的快楽について尋ねたらどう答えるか」という反事実的条件法に訴えても無駄であろう。反事実的に尋ねたときに被験者がどう返答するかを有意味に考えるためには、その瞬間に被験者は経験機械に繋がれていてはならない。快楽機械から外した後に、それまでの時点での態度的快楽の有無を尋ねればよいだろうか。これも無理である。彼にとってその時点での『態度的快楽』は経験機械内のそれしか指示しておらず我々が『態度的快楽』によって指示していたものと違うものだから、有意味にこれを問うことはできない。経験機械から外した後に、経験機械による「経験」についての現在の態度的快楽を問うことはできるが、それに肯定的な問いが帰ってくるのだとすれば快楽説は全く論駁されてはいないだろう。それはSF映画に出てくるような仮想現実機で娯楽を提供したのと何も変わらない。また、例えば「快楽機械」ならぬ「苦痛機械」に据え付けられるときに、快楽説への反対者は「それらは現実の経験と結びついておらず我々の厚生に影響を与えない」と主張するだろうか。或いは、「快楽機械」と「苦痛機械」のどちらに繋がれたいかと尋ねれば、どちらでも変わるところがないというものも殆どいないだろう。つまり、たとえ外部の世界の事態−経験機械に接続されている−が等しかろうとも、その心的経験の内在的価値・反価値の差は言えることになる。であるとすれば、被験者の信念と対応する世界の客観的事態の成立そのものがなくとも内在的価値は存在しうるのであって、世界の客観的事態の成立はせいぜい内在的価値を強化するに留まり、その基盤となるものではないことになるはずである。更に付言しておけば、卓越主義者ですらこのことに異論を挟む必要はないのである。経験機械内の経験によって陶冶された人格はまさしく陶冶された人格であって、それは外界との接続の有無によって断たれるようなものではない。 しかし、これらの反対者が訴えている「直観」を説明する、という作業が快楽説には残されている。その直観の成立根拠を説明した上で、その根拠が疑わしいと論じることができれば、態度的快楽説は更に良く維持されるだろう。それを次[p155>に論じよう。 5.2.2.7 それは「誰」の快楽なのか これまでの議論が仮に成功しておらず、経験機械なる空想が有意味に語られうるものだとしよう。その上で、経験機械で『マトリックス』ばりの経験をしている最中に経験機械の副作用で死亡するのと、経験を楽しんだ後に経験機械を外されるのとどちらがよいかを考えるとしよう。恐らく快楽説に反対する多くの論者は後者をよしとするだろう。後者ならば経験機械は一種の娯楽として直観的に位置づけられ、前者は忌避されるのだとすればその違いは何か。「自律」の問題でないことは確かである。というのも、経験機械によって経験する内容が自律的でないことは双方に共通しているのだから。ここで我々はこの問題を「私」の問題として考えることができるだろう。 つまり、経験機械に繋がれている間の意識主体が「私」ではないのだとすれば、その間の快楽は「私」の個人的非道徳的価値には算入され得ない。機械から離れた後でその「私」が回顧的にその間の経験機械の経験に対して、経験機械を離れた後の時点で態度的快楽を抱くならば、それは「私」の個人的非道徳的価値に算入されるだろう。それゆえ、経験機械に繋がれることを一種の娯楽として判断できるだろう。つまり、件の直観の持ち主は経験機械に繋がれた「私」を自分だとは思わないというだけのことではないのか。経験機械につながれその後ずっと解放されないならば、それは今のこの私の「死」であることになるかもしれない(もっとも、それが問題ならば定期的に経験機械から解放し、継続を望むかどうか聞いてみればよいだけであるとも思われる)。快楽説は私が、経験機械に繋がれている意識主体を「私」でないと考えることを妨げるものではない。「私」の厚生は現在の態度的快楽に尽きるのである。その中には安全な経験機械を短期間経験して復帰するという娯楽に対する事前の態度的快楽も含まれていることだろう。快楽説は、経験機械に繋がれている意識主体の快楽が私の福利(well-being)であるなどとは主張しない。態度的快楽もその他の快楽も常に現在形で生じる。私が将来のある一時点で「私」であると考える何らかの意識主体の快楽を現在に割り引くのだとしても、割り引かれた快楽それ自体は常に現在の私の快楽なのである(*48)。[p156>であるとすれば、快楽説それ自体が経験機械によって打撃を受けることはそもそもありえなかった、ということになるだろう。快楽機械の事例が反直観的に思えるとすれば、それは功利主義に対してであって、快楽主義に対してではない。 (p152) (*46)[cf.Nozick l974 pp.42-45] (p153) (*47)ノージックの議論に対するこのような外在主義的応答はウェンディ・ドナー(Wendy Donner)による[Donner 1991 p.78]。だが、経験機械論法に対応するために我々は必ずしもこうした外在主義に与さなければならないわけではない。 (pp155-156) (*48)ここには私にとっての個人的価値とは何かという厄介な問題が現れている。例えば、現在あな[p156>たが大学の運動部員だとしよう。このまま卒業してキャリアを継続すれば優れた運動選手として人生を送り、未来のあなたは大きな厚生を享受するだろう。運動部員としてあなたは大学などというところに引きこもってどうでもいいような細かい議論をネチネチとひがな一日考え続けるような生を極めて不健全で厭わしいものだと思っている。しかし、運動家としてのキャリアを諦めてしぶしぶでも大学に残るならば、自分自身の学問的才能によって極めて優れた研究者となり、しかも適応によってそうした陰気な生活をこそ素晴らしいものと感じるようになり、結果として運動選手のキャリアを続けるよりもはるかに大きな厚生を享受するとわかっているとしよう。ここでの経験機械の事例と違い、あなたはどちらの人生の将来の「あなた」も自分自身のことだと考えて配慮するとしよう。どちらの選択がもたらす帰結があなたにとって価値あるものだろうか(この問いが、現在のあなたにとってどちらの人生を送ろうとすることが合理的であるかについてのものでは必ずしもないことに注意しよう。あなたが学究生活を厭わしく思っている以上は主観的合理性に関する限りキャリアを継続することが現在に於いて合理的であるかもしれない)。この問題の異個人間アナロジーをとってみよう。あなたが愛する人がおり、運動選手でそこそこの快楽を享受している場合と、学者で素晴らしい快楽を享受している場合を考えよう。あなたは学究生活を嫌悪しているので、相手が学究生活に快楽を感じる人であることに一定の苦痛を覚え、相手が学究生活を送っていること自体についても一定の苦痛を覚える。すると、あなたが、愛する人が運動選手であったり研究者であったりすることで享受している価値は、相手が享受している厚生にあなたの愛情の強度(すなわち相手の厚生をどれだけわがこととして考えられるか)を掛け合わせたものに、最後の二つの快苦を足し合わせたものとなるだろう。但し、相手がどちらの人生を送っているかによって愛情の強度も影響を受けるかもしれないことに注意しよう。さて、アナロジーをもとに戻そう。あなたにとってのそれぞれの選択がもたらす価値は、あなたが将来のあなたに抱く愛着の強度と将来のあなたが享受する厚生を掛け合わせて現在に畳み込んだものに、現在のあなたが持つ快苦で修正を施したものとなるだろう。自己(と選好・快楽のプロファイル)の変化を巡るこうした問題については[Bykvist 2006]を見よ(但しそこでは選好主義が採られている)。ここで提示した見解はクリスタ・ビュクヴィストの枠組みだと概ね「現在主義(presentism)」に相当する。 ◆加藤秀一, 20070930, 『〈個〉からはじめる生命論』日本放送出版協会. (pp156-162) 経験機械 けれども、問題の根はより深い。捏造されたのは過去の記憶だけではないかもしれない。私がまさにいま現在経験している世界、いま目の前にいて言葉を交わしているはずの相手さえも、実は世[p157>界そのものとは無縁に捏造され、脳にインプットされたデータにすぎないかもしれないのだ。この種の懐疑を広く知らしめたのは映画『マトリックス』(一九九九年)だったが、哲学者たちはずっと前からそれを問いつづけてきた。ここでは再びロバート・ノージックの助けを借りて、その「経験機械」をめぐる思考実験を参照してみよう。 「あなたが望むどんな経験でも与えてくれるような、経験機械があると仮定してみよう。超詐術師の神経心理学者たちがあなたの脳を刺戟して、偉大な小説を書いている、友人をつくっている、興味深い本を読んでいるなどとあなたが考えたり感じたりするようにさせることができるとしよう。その間中ずっとあなたは、脳に電極を取りつけられたまま、タンクの中で漂っている。あなたの人生の様々な経験を予めプログラムした上で、あなたはこの機械に一生繋がれているだろうか。(中略)我々の人生が内側からどう感じられるかという以外に、一体何が我々にとって問題なのか。(ノージック[一九九五:六七―六八])。」 そのような経験機械につながれることをわれわれの大部分は欲しないであろうとノージックはいう。そのためには、われわれが何を真に欲しているかをみればよい。第一に、われわれは何かを実際に行ないたいのであって、それをしているという経験がほしいだけではない。第二に、われわれは「特定の形で存在し、特定の形の人格でありたい」と願っている。第三に、人工的な経験が与え[p158>てくれる仮想現実は、真の現実に匹敵する深さや重要性をもたないだろう。 第一の理由に対して、何かを実際に行なうことと単にそれをしているという経験(この文脈では「錯覚」と呼ぶのがふさわしいが)とをどうやって区別できるのかという反問は有効ではない。格好だけの懐疑主義者ではなく、そのような区別は無意味だと心の底から感じている人なら、たしかに経験機械につながれることを厭わないかもしれない。だがノージックの議論は、実際に私たちはそのような機械につながれることを望まないという事実からスタートしているのである。あなたはどうだろうか。そんな機械があるなら、ぜひつながれたいと思う人もいるかもしれない。諸星大二郎のグロテスクな傑作「夢みる機械」では、現実世界に倦んだ人たちが我先にと経験機械めいた装置につながれてゆく。かれらのみる「夢=経験」は、金持ちになって遊び呆けたり、ジャングルのなかをターザンのように駆け回ったりといった単純なものだが、それぞれの人にとって現実のなかでは満たすことのできなかった夢であり、したがって誰もが満足している。 だが、かれらが経験機械を求めたのは、単に現実に不満だったからだろうか。現実の生活が何もかも思い通りになる人などほとんどいないだろう。何の不満もない家庭環境に育ち、欲しい商品はすべて買え、住みたい家に住み、進学も恋愛も結婚もすべて思い通りにかなうなどということはありえない。誰もがいくつもの思い通りにいかなかったことを述べ立てることができるはずである。けれども、それらの人々がみな経験機械につながれることを本気で望むとは思えない。それでは、何がかれらを引き留めるのだろうか。[p159> 私の経験の外にいる他者 その問いに普遍的な解答を与えることはできないが、たとえば次のような状況について考えてみることがヒントにはなるだろう。あなたには、自分にとって大切だと思える他者がいる。話を簡単にするために、それは恋人であるとしよう。あなたはその人と頻繁に会い(一緒に暮らしているかもしれない)、言葉を交わし、笑いあい、セックスをする。さてここに経験機械があって、あなたと恋人は何らかの理由で、別々の経験機械に入らねばならないとしよう。それは二人にとって別れを意味する。ただし救いがあるとすれば、あなたは経験機械のなかであなたの恋人との生活を「経験」し、恋人の方もあなたとの生活を「経験」するように、それぞれの機械がプログラムされているということである。つまり経験機械につながれた瞬間から、あなたと恋人はこれまでとまったく同じ生活をそれぞれに「経験」しつづけるのである。 だがそれは本当に「救い」になるだろうか。経験機械のなかで出会う恋人は、現実世界の恋人と本当に等価だろうか。少なくとも私にはそうは思えない。逆に、いま私が経験している他者との関係が、実は知らないあいだにつながれた経験機械の見せる夢なのだと知ったら、私はその夢の外へ脱出したいと願うだろう。だが、たぶんそうは考えない人もいるだろうし、私にもそうする理由を十全に説明することはできない。ただいえるのは、私にとって他者とは私の経験に回収されるものではないということである。私の内側からとらえられた経験からはみ出す可能性、むしろそれこそ[p160>が、私にとっての他者の定義であるといってよい。経験機械は、そのような他者との真のかかわりを、私たちから奪うのである。 ノージックの挙げるあと二つの根拠も、根源的には他者との関係という問題にかかわっているように思われる。長期間、経験機械のタンクのなかで漂っていた人は「形の定まらない塊」であって、その人がどんな人なのか、勇敢か、親切か、知的か、機知に富むか、愛情豊かかといったことには答えようがない。ノージックはこの点について、いかに自分の時間が充足されるかということには還元されない、「自分が何であるか」という認識の重要性という観点から説明しているが、人にとって「自分が何であるか」は、タンクのなかで孤独に浮遊することで見出されることではなく、現実の他者とかかわるなかで、次第にかたちをなしていく事柄なのである。人はつねに誰かに対して「勇敢」であったり「親切」であったり「知的」であったりするのである。そのような、自分の経験に先立つ他者との複雑で予測不可能な関係性こそが、ノージックの挙げる第三の要素である「現実の深さ」の大部分をつくりだすことはいうまでもないだろう。 絶対的な孤独 このようにみれば、「存在の〈根拠〉をめぐる不安」とは、いわゆるアイデンティティにかかわる不安である以上に、実は「(真の意味での)他者がいない」という事態にかかわる不安であるということがわかる。自分の見ているものや聞いていること、経験している世界のすべてが「夢」で[p161>あるならば、そのとき私たちが奪われているのは自分自身の経験ではなくて、むしろ現実に生きる、生身の他者なのである。 それは、ある特殊な意味における「孤独」であるといってよい。私たちは一方で、あらゆる物事を自分の思い通りにしたいという欲望を抱えている。物事だけでなく、他者がすべて自分に都合よくふるまってくれたらどんなにいいだろう。それは私にとってすべてが自分の期待通りに進行する世界であるだろう。 けれども、そのような世界を具体的に思い描くことは、実は難しい。誰かを自分の命令に従わせることに快楽を感じていたあなたも、いずれはそれに飽きるかもしれない。あるいはそんなことに虚しくなるかもしれない。そこであなたは、相手が時には自分に反抗することを欲望する。その結果、あなたが右を向けといったときに、相手は左を向くようになる。だがそれもすべてあなたの想定内の出来事である以上、あなたの退屈は解消されない。あなたは次第に、もっと思いがけない出来事を望むようになる。しかしそれは不可能である。なぜなら、定義上、この世界はあなたの思い通りになる――思い通りにしかならない――ように出来ているのだから。 それは、ある意味で絶対的な孤独である。なぜなら、そこには真の意味での他者がいないからである。あなたの思い通りになる世界の内部にいる者たちは、実は他者ではなく、あなたの欲望の鏡でしかない。あなたは、あなたの外なる者たちとかかわりあうことはできない。それはまるで、他に誰もいない世界の隅々までも、肥大化したあなた自身が埋め尽くしているようなものだ。そのよ[p162>うな世界にわずかでも嫌悪を抱くなら、あなたはただ単純に自分に都合のよい経験を望んでいるわけではないのだろう。あなたは、そしてたぶん私たちの多くは、現実の他者と、現実のなかでかかわりあうことを、どこかで痛切に望んでいるのである。たしかに私たちは、しばしば他者との関係において傷つき、病むことがあるけれども、そのこと自体が、「経験機械」の外部を思い焦がれる人間の欲望の在処を示唆している。 このように、自分の記憶や経験のすべてが、実は他者によって捏造され、あてがわれたものであるという可能性が、私たちの多く――であると私は信じたいのだが――にとって(どれほど微かにであれ)不安の感触を呼び起こすのは、単に他人から騙されるからではなく、それが私たちから〔本物〕の他者との、〔本物〕の関係を奪ってしまうからではないだろうか。やや強引に図式化すれば、先に論じた存在の「意味」をめぐる不安が私たちの「自己」をめぐるよるべなさを直接に指し示すのに対して、存在の「根拠」をめぐる不安は、私たちから自分の経験に回収しきれない「他者」を抹消することによって、私たちを逆説的な孤独に追い落とすのである。 *作成:植村 要 UP:20090416 REV: ◇エンハンスメント ◇科学技術 [p align="RIGHT">TOP HOME(http://www.arsvi.com)◇ |