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『季刊クライシス』

社会評論社 1979年10月~1990年1月
http://www.shahyo.com/catalogue/mokuroku12.html


    第3号 文化を読解す
    第4号 科学技術批判と現代文明
    第5号 現代史としての光州・パレスチナ・イスラーム
    第6号 資本主義の現在──経済・社会・人間
    第7号 生活を変える・もう一つのテクノロジー
    第8号 いま第三世界とは何か
    第9号 次は何か[昭和]の総括
    第10号 農を否定できるか
    第11号 危機管理としての総合安保
    第12号 社会主義の再生
    第13号 教育管理はイヤだ
    第14号 マルクス死後百年
    第15号 核文明に明日はない
    第16号 なぜ「農・食・身体」か
    第17号 テクノ・ナショナリズム
    第18号 [1984 年]がやってきた
    第19号 世界は燃えている
    第20号 女の鎖は世界をつなぐ
    臨増号 けっとばせ!「臨教審」
    第21号 ニューメディアはいらない!?
    臨増号 中曽根行革を総決算する

    第22号 生活のオルタナティブ
    第23号 [85 年体制] に風穴をあける
    臨増号 つくばEXPO読本
    第24号 アジア・太平洋圏
    臨増号 エコロジー・フェミニズム・社会主義
    第25号 [ハッピー・ニッポン]のウラおもて
    臨増号 天皇ヒロヒトよ!
    第26号 現代思想──差異と主体
    第27号 日本学解体事始
    第28号 パープル:女たちのゆくえ
    第29号 労働はどこへ
    第30号 戦後社会科学の総決算
    第31号 天皇を拒否する沖縄
    第32号 現代史としての〈解放〉の意味
    第33号 学習社会からの脱出
    臨増号 さよならヒロヒト<
    第34号 都市とは逆に都市へ
    第35号 世界経済──メタゆらぎ中
    第36号 [農]のオルタナティヴ
    第37号 韓国・朝鮮民衆との共生へ
    第38号 フランス大革命=クナシリ・メナシ蜂起200 年
    第39号 消費社会のインターフェイス
    第40号 21 世紀へ──主体の構想力(終刊号)

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■創刊号= 20 世紀──人類史の現在
  7|人類史において<近代>とは何であったか―――沖浦和光
 23|[対談]人類史のクライシスとしての現在―――野間宏+いいだもも 司会・津村喬
 
                               3|[アンケート]二十世紀の十大事件―――
                                |●新里金福●内田弘●江口幹●小田切秀雄●菊地昌典
                                |●金達寿●栗本信一郎●高峻石●国分一太郎●吾郷健二
                                |●斉藤孝●佐伯陽介●篠田浩一郎●杉浦明平●竹内芳郎
                                |●中島誠●中村雄二郎●新島淳良●廣松渉●富士正晴
                                |●降旗節雄●松岡信夫●山口竹秀●山田坂仁●横山好夫
                                       
 61|世界恐慌・スターリン体制・南北問題―――渡辺寛
 75|現代資本主義論の展開―――伊藤誠
 91|社会主義理論のクライシス―――ポール・スウィージー 訳・本間直行
107|イギリスのマルクス経済学―――アンドルー・グリン 訳・清水敦
122|三大経済学派の限界と揚棄―――エル・アルバード
133|”現実の社会主義”批判と人類文化の危機―――ロベルト・ハーベマン 訳・篠原正瑛
1??|十四年目のハーベマン教授―――篠原正瑛
144|二つのカイ放のもつ矛盾―中国社会瞥見―――大内力
150|中国の「社会主義的近代化」は何をもたらすか―――いいだもも
169|中国社会主義と日本経済―――新田俊三
174|社会主義の理念と現実―二十世紀の教訓―――寺尾五郎
182|ヤマトと向き合う島社会―琉球弧通信(1)―――新崎盛暉
185|[対談]近代の構造原理と二十世紀的現代―――森田桐郎+竹内良知 司会・いいだもも
216|わたしにとって科学とは何か―――柴谷篤弘
231|変革におけるマクロとミクロ―――馬場宏二
237|マルクスと預言者イザヤ―――鄭敬謨

                                |[座標]    
                              22|小説の主人公の運命―――針生一郎
                              59|戦後史と植民地解放―――北沢洋子
                              60|二十世紀―確実性の時代―――金学鉉
                              88|鬼太郎と寅次郎―――斉藤孝
                              90|どこに躓きの石があったのか―――山川暁夫
                             142|世紀の中頃から中頃まで―――井汲卓一
                             143|中心と周辺―――山田坂仁
                             184|百年という単位に意義あり―――宇沢弘文
                             214|科学技術革命とバナール路線―――中山茂
                             215|権威の崩壊から文明史的考察へ―――佐藤進
                                    
   |リトグラフ―――富山妙子
   |モンタージュ―――木村恒久
  1|『季刊クライシス』を創刊するにあたって
242|編集にあたって
244|編集後記・投稿規定


>TOP >創刊号
◆[座標]「百年という単位に異議あり」―――宇沢弘文

 「二十世紀をどう考えるか」という設問にどうこたえてよいか

…「二十世紀」という言葉自体が概念的実体性を欠く、無内容なものである…。なぜ、人間の生活とは無関係な、恣意的、偶然的に定められた暦を基礎にして、しかも百年という不便な時間単位を取って考えなければならないのか。
…もともと、百年というのは、人類が偶然採用した10進法とあう数の数え方との関係からだけしか、その意味をもたない。数え方の単位という点からは、12進法とか60進法の方がずっと合理的でもあり、人間の生活と密接な関わりをもち、生き生きとした概念を提起するように思われる。


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■第2号= 生き方・死に方を変える
 53|食い方を変えなければならない―――津村喬      |[座標]
    身土不二の文化の現代的再生へ                49|労働を排除する"文化"意識―――丸山友岐子
 83|料理屋文化と学校給食―――江原恵         50|「ロマン・ポルノ」考―――深江誠子
 97|死者との共存―――野本三吉             51|抑圧を見えなくする文化―――佐伯洋子
 99|葬式をする動物―――いいだもも          104|文字と文化支配―――中山茂
110|開発主義文明と水―――玉城哲           105|人民中国の変貌―――山田坂仁
118|河川独裁を民衆管理へ―――高杉晋吾      107|日本のイデオロギー脱落状況―――柴谷篤弘
179|私版「三大規律・八項注意」覚書―――北沢恒彦 175|仮面のない文化―――篠田浩一郎
189|労働者と文化 労働者の文化―――中島誠     176|文化の日と勲章―――斉藤孝
199|<生>のドキュメンタリー―――西嶋憲生     177|虎とランラン―――西村孝次
    コミュニケーションとコミューン
215|戦後近代主義論争の周辺―――中浦和光 |モンタージュ―――木村恒久
     『近代文学』荒正人のことなど            |リトグラフ―――富山妙子
   |韓国:
  6|民衆の力を見落とすな!朴暗殺の背景―――鄭敬謨
 15|朝鮮再統一への障碍を直視して―――ジョン・ハリディ 訳・野口真
 24|[鼎立書評]李恢成『見果てぬ夢』―――望月清司・磯貝治良・山川暁夫
   |インドシナ:
 35|[座談会]インドシナショックとわれわれ―――ペギー・ダフ+ピエル・ルッセ+北沢洋子
   |琉球弧
128|[座談会]沖縄文化の可能性を探る―――新川明+幸喜良秀+喜納昌吉+新崎盛暉

                                           231|[創刊号批評]
                                              |①「人類史の現在」の問題状況―――伊藤誠
  1|[水がめ座]読者の境界領域                         |②合評会における問題提起
   |響き合い団結する人民の「協働作業」―――協働社編集部      |多国籍企業と社会主義―平川均
   |ケニャッタはマウマウ団の指導者ではなかった―――土井茂則    |民衆の闘いが突き出している思想性―――秋川麦
   |金芝河氏らを殺すな!―――湘南・金芝河氏を救う会         |南無マルクス大明神―――府川充男
   |「変革におけるマクロとミクロ」を読んで―――M・M            |「理性」が孕む陥穽―――高橋順一
   |創刊号によせられた「読者カード」から                   |一人ひとりの顔は見えているか―――内海伸彦
                                              |③読者会と編集委員会―――いいだもも
109|第3号(特集=文化を読解する)予告
246|編集後記


>TOP >第2号
◆食い方を変えなければならない―――津村喬(pp.53-82)
 身土不二の文化の現代的再生へ

はじめに なぜ<食>か
1 日常生活の批判的認識

「どうやって食べている人?」というききかたは、ほとんど「彼は誰か」というにひとし言葉としてつかわれます。
 乱暴にいうと、戦後の労働運動は、とくに春闘体制下ではずっと、生活をまもるとは賃金を上昇させることだと考えてきたように思います。「食える賃金を」というところから、「生活の質」、その内容が問題となってきたのは、ほんのここ数年のことです。そう言うと、衣食足ってクオリティ・ライフなのか、といわれそうですが、それはむしろ逆で、賃金をいくらもらってもまともなものを食えないという状態がだんだん見えてきて、八〇年代にはますます、より決定的な姿でそうなりそうで、そこから量を問うているだけではすまないことになったわけです。
…「どうやって食べている人」かということの中味が、自分のからだに対してどういう態度をとる人であるか、からだの中の自然と外の(~p.53)自然をどう結びつけようとしている人であるか、夫婦の間でどんな質の結びつきをつくろうとしている人であるか、自分のしごとが生態系にとってもつ意味をどうとらえる人であるか、生産者との間にどんな関係を結んでいる人か、生活のどれくらいを商品に依存せずに築いていける人かといったことの全部を含むものとして考えられねばならないものと思うのです。
 …こういうことはマルクス主義からは出てきません。産業社会の生活者がどれほど全面的に商品の論理につきうごかされているかを解明してくれましたが、商品に依存しない生活をどうつくれるのか、食いものについてはどうか、着るものについてはどうかということは、マルクスは書きませんでした。
…食べものの質を考える論理はもともとマルクス主義にはない…石油タンパクや原子力を安全性が確立すればとか、社会主義的に管理すれば、とかの相対的条件によってではなく、絶対的に拒否する論理はマルクスの中にあるのか、識者にたずねてみたく思います。
 食べるという最もありふれた日常的行為が最もグロテスクな、異常な文脈に置かれるのは食人という主題においてでしょう。(ex:武田秦淳『ひかりごけ』, 大岡昇平『野火』)
 マルサスが食糧生産は人口増加にいつかないといういまや切実な説をたてたキッカケは、アイルランドの飢餓にあったそうですが、(~p.54)…ブリテンの侵略がアイルランドの飢餓をひきおこしたのであって、このことを抜きにしたマルサスの分析はナンセンスです。そして肝心なことは、今日の世界にあっても、たしかに人口のかつてない爆発が進行していますが、やはり人口-食料の量的比率において飢えが生みだされているのではなく、依然として続いている帝国主義的関係が、一日一万人、八・六秒に一人の飢餓者または栄養失調が原因の病死者を生み出しているのだということです。
 …ひとつの単純な数字を挙げます。四〇億人の人間が生きていくために必要な穀物の量は年に約八億トン(無水状態で)といわれています。今世界では約十億トンの穀物が生産されています。二億トンの余剰にもかかわらず、なぜ毎日一万人、年に七〇〇万人あまりが餓死しなければならないかというと、家畜に実に四億トンもの穀物を食わしているからです。(~p.55)
…私たちが牛や豚を喰うというのは、まぎれもなく人肉を喰っていることになります。今夜ビフテキを食べるとしたら、その「原料」は、バングラディッシュやカンボジアやニジェールの子供たちの肉なのです。…食卓の上はドラマにみちみちています。何百種もの毒性のはかり知れぬ食品添加物が渦をまき、その背後に企業と完了の癒着の長い物語があり、アフリカ沖から来た鯛の刺身や韓国の浅草ノリやアメリカ大豆の醤油がそれぞれもの問いたげにしています。
 だからこそ、あらためてたずねたい。どうやって食べていますか。あなたは何を食べる人なのですか。

2 革命の根本問題は「吃飯問題」である(~p.56)

…毛沢東のごく若い時の著作に、「民衆の大連合」というのがあります。一九一九年の五・四運動の中で、その熱気が渦巻いているような文章です。プロレタリア文化大革命の中での「大連合」―――自分の領分、自分にとってなれ親しんだセクト・組織・流派・階層・地域を超えた連合―――は遠く五〇年前のこの提起にさかのぼって由来するように思うのですが、その連合をよびかける根拠は何だったのでしょうか。それは、「人生の根本問題はなにか。それは〝吃飯問題〟(チーファンウェンティ、飯を食うという問題)である」という一節にあるように私には思えます。単に「吃飯了??」(ご飯食べた?)というのが「こんにちは」にあたらう挨拶になっていた現実の飢饉のことだけではないはずです。
 彼はあの文章の中で、「革命の根本問題は飯を食う問題である」と書いてもよかった。たずねられればそう言ったと思います。「革命の根本問題は権力の問題である」といったレーニンが結局農業問題でつまづき、ミール共同体の潜勢力を生かせないばかりか農民から食料を強奪し、それを償うために国家資本主義の道を歩むしかなかったことを思うと、毛のこれは「正解」です。
 …中国は二重の「吃飯問題」をかかえていました。ひとつは、農民自身が地主と軍閥の支配のもとで、食うに食えない状態に追いつめられ、日本やアメリカの資本が入ってきてそれがますます加速されていったということ。もうひとつは、膨大な国内難民=流民層の存在です。あとでひそかに訂正されるのですが、最初に書かれた時の「中国社会各階層の分析」では、こうした流浪するルンペンプロレタリアートこそが革命の主力軍だと書いている。この主力軍が自分で食えるようになることで、定着農耕民の負担もずいぶん減ります。その部分がさらに地主を打倒し、軍閥を打倒するなら、「吃飯問題」は二つながら解決します。国内難民が食えるようになる。これが中国開放のカギでした。だからこそ組織された流民である中国人民解放軍は、「耕す軍隊」としてまず登場し、今日にまで至るのです。
 こうしてみると、彼が「吃飯問題」といったことが、単に食べものの量的保証をするということでないことははっきりします。海外の資本を導入して「近代化」をおし進め、工業をおこしてアメリカなどの余剰農産物を買う方向へ行った方が、食を充たすというだけのことでいえば近道だったかもしれません。(~p.57)そうした「近代化」をもとめる論理は党内にずっとありましたが、毛沢東が生きている間は主流になりませんでした。…実際そのやりかたで彼は戦争に勝ったばかりでなく、あの広い貧しい土地でともかくも一人の餓死者も出ない社会をつくることに成功したのです…。
 …毛沢東のやったこの巨大な実験は、すべての第三世界の民衆にとって手本であると私は思います。それは、自力更生ということであり、自主管理ということです。
 第三世界の飢えは、長い帝国主義支配によって、…モノカルチュア化して来た結果です。そのために、膨大な量の小麦や乳製品などを北米、欧から輸入しなければなりません。「援助」とよばれるものも、結局第三世界が「自前で食える」生産体系を生み出すことを阻害しています。
 六〇年代の半ばだったと思いますが、…キューバの食糧援助要請を中国が拒否して、国際分業に頼るのでなく、砂糖だけをつくっている状態を脱して自力更生をめざすべきだと主張し、キューバがこれに激しく抗議する事件がありました。…今から考えてみると大変本質的な提起を当時の中国はしていた。国際分業の結果が今や「世界の憲兵キューバ」になってしまったわけです。その中国もいまや「自力更生」を放棄しているようです。
 日本も、今は大量の食料を海外から買える状態ですが、問題の性質は、植民地的単作化のために薄氷をふむ想いで外から買い食いをしなければならない旧植民地諸国と同じです。すでに、一貫して、「吃飯問題」があるのですが、それが目先の物質の豊かさのために気づかれていません。しかし、それがむき出しに問題として現れてくる時機は、そう遠くないように思います。
「吃飯問題」もまた結局のところ、権力の問題であり、主権の問題です。国家権力をつくりかえただけでは解決しない。民衆ひとりひとりが、自分の食いかたについて主権を打ちたて、侵さず、侵されない食生活を打ちたてるということなのです。
 自力更生という言葉は中国の専売特許ではなく、日本の高橋是清蔵相のもともと言ったことです。昭和農業恐慌の中で農民たちにむかって、政府はお前らを救う能力がない、よろしく自力更生すべし、と率直というか、露骨に言ったわけです。農民団体は憤激しましたが、石川三四郎は、「結構じゃないか、それでこそわれわれの理想であり目標だ。国家に頼らず耕す者が自力で主権をうちたてよう」とよびかけます。この思想は三四郎が親しかった章炳麟や宋教仁のものでもありましたから、この肯定的な意味の自力更生が中国に入り、それを半世紀近くたって毛沢東が使ったと、これは私の勝手な推測です。
 国家の力で「自力更生」することはできません。それはポルポトの実験の無残な結果でも明らかです。(~p.58)
「プロレタリアートは全人類を解放することなしに自らを解放しえない」というのをもじれば、「すべての生物、いや無生物を含む地球の全体の解放なしに、わが身の解放はない」というのがエコロジストの原則といえましょう。このわが身と地球とが、<身>と<土>とか対話をすることが「食」であり、「吃飯問題」にほかなりません。

I 八〇年代の焦点としての食料・農業問題
3 日本資本主義の最弱の環

…基本食料をどう管理するかというところで政治権力の成り立ちはありました。いわゆる共同幻想の領域についていっても、天皇の即位式である大嘗祭も、稲作儀礼を様式化したものです。皇太子が儀礼としていったん死に、神と床を共にし、神人共食して、稲霊としてよみがえる、天皇になるわけです。(~p.59)
…古代の天皇制成立以後、政治的メディアの根幹をなして来たのは、穀物流通、とくにコメの流通でした。アジア的とよばれる二重の共同体の体制を支えたのもコメを中心とした貢納制でしたし、徳川のコメ本位制下で政治力のいっさいがコメの石高で表現されたこともその延長上のことでした。このことはある面では今日の食管体制にまで続いています。
…日本の資本主義的近代化は、この穀物生産体系をどうひきついだでしょうか。(~p.60)…三つの点だけ、視点を出しておきたいと思います。
 ひとつは、近代化の中でこの国内植民地的穀物生産は解体されずに、さらに拡大再生産されたということです。コメが飢餓輸出されたこと、つまり生糸と並ぶ輸出商品として、国内需要をみたしえないのに輸出されたことはその端的なあらわれです。農民には重税がかけられ、農家の子女は紡績女工に象徴される姿で徹底的に搾取されました。農民の犠牲において日本は言っての「富国強兵」をなしとげ、それによってアジアに出ていく力をもったわけです。
 第二に、都市化の波と白米食文化とが対応したということです。…ごく一部の武家と商家で、それも毎日のこととしてではなく食べていた白米が、中央集権的都市化とともに市民の常食になっていきます。雑穀によって補える農民はいざ知らず、白米を中心にすればビタミンが不足した脚気などが出てくる。それと近代化=西洋かの風潮が結びついて、伝統的食生活が遅れており、西欧を規範としなければならないという「栄養学」がまかり通っていきます。…白米の欠陥が出てきた時に、一方で石塚左弦などは、玄米雑穀にかえれ、と誤れる集権的都市化を批判したのですが、森鴎外は『兵食論』を書いて中途半端な都市化近代化でなくヨーロッパ並みにつきぬけるべきだと主張しました。都市化に対して、地方を再認識して「山林に自由存す」となるのと、欧米なみになれというのと、それが明治知識人の二類型といえますが、食生活についてもその二つがはっきりと見られました。いずれにせよ結果としては、白米常食という中間的都市文化が、「洋風化」の衝動を生んだということです。
 それが三番目の問題につながっていきます。日本経済調査協議会のレポート『総合食料政策の樹立』(1967年)の中に面白い表現がありました。「第二次世界大戦にかけて、日本の食生活は量的にも、質的に著しい改善をみせたのであるが、今日の日本の領土を前提とすれば、当時の日本の食生活の改善は、自給率の低下によって達成されたのである」―――これはどういうことかといいますが、台湾・朝鮮でのコメの開発、台湾の砂糖、満州の大豆の開発輸入、さらに捕鯨を含む遠洋漁業の拡大によって、食えるようになったということです。…「この自給率の低下のために、戦時中、終戦直後に日本は非常な食糧危機になやまされるのである」とレポートはつづけます。はっきりしているのは、自給率が低いということは、他に依存するということで、他を侵すか、他に屈するか、どちらかなのです。敗戦にさいしても、農地改革によっても、日本は本当に自前で食える農業をつくれなかった。他を侵す「食生活向上」から、今度はアメリカの余剰小麦を買わされるMSA体制下の「食生活向(~p.61)上」へと切り替わっただけで、まさに自給率の一貫した低下、食料にかんする主権の喪失が「食生活向上」と呼ばれ続けてきたわけです。
 この食糧生産の寄生的構造と、エネルギー資源におけるそれとは対応しあっています。工業社会はもともと、その内部から食料とエネルギーを生み出せない―――化石燃料もいうまでもなく「外部」である―――という生活をもっていますが、そのことに日本の資本主義は無責任であった例はないのでしょうか。
 日本資本主義はこの問題を解決できなかったし、まだ解決の方向を見出していない。それどころか、ますます決定的な矛盾におちいりつつある。
 簡単にいいますと、いま政府と財界は、ますます農業をなくしていこうとしている。…農務省はさらに、農家の八割にあたる兼業農家をつぶしていこうとする方針をだしている。…専業農家だけ残って、そこに土地を集めて高度利用したほうがいいというわけです。そして…農協が、八〇万ヘクタール、28%減反という驚くべき「自主規制」方針をうちだしました。
 赤字財政の元凶は食管だという声がだんだん強まってくる。企業の方も…海外進出して、…その分モノを買わなければならない、その買う分だけ、国内の不採算部門を切り捨てていかざるをえないわけで、そうなってくると、国際的に一番不採算なのは農業ですから、農業全廃論がでてくる…労働運動もそうです。71年以来同盟は、農産物前面自由化をとなえて農民に敵対している。79年には松下労組などの音頭とりで財界人と労組指導者の農業問題懇談会ができ、農産物保護が労働者の生活を圧迫しているから自由化せよという世論づくりをあらためてはじめている。労時一体で、自給率を下げることによる食生活「向上」をとなえているわけです。農協までがこの方針に迎合したのは、農協が農民を離れた商社、金融機関でしかなくなった現れです。
 しかし、それでは困る、という声は当然あります。農林官僚の中にも自給率を上げねばという危機意識をもった人はいて、白書に言葉として出てくるが、具体的な政策体系としては出てこない。
…玉城哲氏は、日本の食糧自給率が低いのは平和の保障である、と冗談を言ったことがあります。食料が自給できるなら日本の軍国主義者がなにをするかわからないというのは確かにそうです。逆に、防衛当局者の側からいうと、食いものがないと戦争できない、これは問題だということになる。
 77年に、坂田防衛庁長官が安全保障調査会の会長になって最初の仕事として、『食糧安全保障に関する提言』をまとめました。それによると、戦争状態などで輸入が前面ストップすると、一人一日一四〇〇カロリーになるという計算をしている。寝たきり老人で最低(~p.62)一六〇〇カロリーといわれますから、これはやって生きているというだけで、戦争をするどころではありません。そこで、冬であれは西日本に小麦の緊急作付をするとか、それ自体が工業製品のように注文すれば出てくると思い込んでいては甘いわけで実現しそうにありませんが、ともかくいろいろの措置をとって一人一日一八〇〇カロリーをもって基盤防衛力とする、というのです。
 76年に三菱総研が『日本経済のセキュリティについて』というレポートを出してから、安保というものを軍事は軍事、通貨は通貨、エネルギーはエネルギーと考えてきた戦後の抽象的「戦略」思想に反省が出てきました。野村総研の「クライシス・マネジメント」もそういう意味での研究ですし、大平が就任と同時にうちだした「総合安保」もこうした文脈をもっています。…
 しかし決定的なことは、さきにふれた減反なり農産物自由化ということと、この食糧安保とがそれぞれさしせまったこととしてあって、ま正面から矛盾するということです。
 これは日本資本主義が百年のあいだに、出発のところでの矛盾をずっとひきのばしてきたことに由来します。条里制崩壊のところだもう一度くりかえされようとしていると私がいうのはそのためです。ただあの時には、関東・中部の大河川の上流に次々にできていった武装せる農業コミューンが次の時代を準備していったのですが、今度はそういう新しい〝農〟のにない手が見えているでしょうか。それを見出さないと、現体制の矛盾を解決しえないまま、私たち自身の食生活が、ということは社会全体が崩壊していくことになります。

4 危機の諸相

 ではどのように崩壊がおきるか、それをもう少し具体的に考えてみましょう。
 日本はいま、世界の貿易にまわされる食料の実に12.2%を独占的に輸入しています。78年度の金額にして134億ドルです。とくに多いのは小麦、大麦、トウモロコシ、こうりゃん、ダイズでこの5つを合計すると2700万トンになります。これを生産するのにはおよそ820万ヘクタール、北海道の全面積にあたる耕地が必要です。…日本が農業増産の余力があるにもかかわらずそれをおこたり、金にまかせて買いまくっているのはいっそう犯罪的です。飼料穀物に限れば、15%を日本は独占しています。
 このことは、現に餓死者が大量に出ている世界の現状にたいして非道であるだけでなく、日本人にとっては、いつ糧道を断たれるこ(~p.63)とになるかわからないという問題です。
 73年の大豆危機の時に、国内生産がわずか数%になっており、しかも輸入の87%以上がアメリカに集中していることが反省されたにもかかわらず、現在でも国内生産はふえず、アメリカダイズが95%にまでふえています。この大豆が入ってこなくなると、豆腐納豆はおろか、日本の味の基本をなしているミソ、醤油までがつくれないことになります。…
 …考えておきたいことが二つありま(~p.64)す。ひとつは「異常気象」の問題、もうひとつは「戦略兵器としての食糧」という問題です。
「異常気象」の問題というのはもともと30年以上に一度しかおこらないような気象の平均値からのズレをいうのですが、…「異常」といっても誰もおどらかないというふうになってしまいましたが、どうも地球が新たな小氷河期にむかって寒冷化していきそうだということは、気象学者の大部分の間で合意ができつつあるようです。ただどれくらいのテンポでそれが進むかについてはずいぶん違いがありますが、根本順吉氏などはごく近い将来に決定的な変化がおきとる言っているし、食生態学の西丸震哉氏も、それにもとづいて警告を発している。…(~p.65)
 …気象条件から、日本の食糧事情は悪くなっても良くはならない。世界的に見ても、今より収量のあがる地域というのは少なくて、冷害と早害がおおうと予測されていますから、輸入が全面ストップといかなくても、徐々に減る、貿易量全体が減ることが考えられます。…
 ではこれは自然現象でどうにもならないのかというと、自然条件が悪化してくると、今日の構造的矛盾がさらに極点な形で出てくるわけですから、今の条件下でその事態を予測して改善すれば、かなりの程度破産を避けることができるはずです。…
 食糧戦略についてはひとことですませましょう。
 今日では、大国と多国籍企業とは、食糧を戦略兵器とみなしています。アメリカはOPECの石油戦略に対抗して食糧を使ってきましたし、これからも食糧で第三世界をしめあげようとしています。
 カーギル、コンティネンタルグレイン、クック、ブンゲ、ルイスドレフュスの五大穀物メジャーは、世界の食糧貿易の90%を独占しています。世界の石油の半分が中東で中東石油の80%を「セブンシスターズ」がわけあっているのよりも、はるかに高い寡占度です。クック以外は株式も公開されず、その活動はまったく謎につつまれています。自給力のない日本をこれらのメジャーがしめあげ、場合によっては政治の方向まで決定していくのもわけないことになります。…
 1972年に、シベリア、中国からインドまで、ユーラシア全域をおおう冷害がありました。中国が食糧備蓄を大きく掲げるのはこの時からですが、ソ連はまだアメリカに情報がもれないうちに五大メジャーのそれぞれから極秘で莫大な小麦を買いつけ、欧米穀物市場を大混乱におとしいれました。アメリカが戦略兵器として「核」(~p.66)よりも「食」を重視しはじめたといわれるのはこの時以降で、74年のCIAレポートで、「米国は輸出用穀物の管理者として、第二次大戦直後のような世界における優位を再び手に入れられるかもしれない」と野心を表明しています。…
…80年代に、自然的・人為的な食糧危機が生じる場合、穀物メジャーとアメリカ政府は、フリーハンドで日本を「再占領」しうるだろうとういうことです。そしてさらに、アメリカにとって都合の悪いタイプの政府が日本にできたとしても、食料自給の展望をもてないとしてら、一夜にしてひっくりかえられるでしょう。

5 工業中心社会の限界

 もと通産官僚の小説家堺屋太一氏は、『油断』の中で「石油にうかぶ産業」としての農業のことを書いています。
「日本の田畑の95%は石油燃料で動く耕運機で耕され、日本の農作物のすべては石油から作られる農薬と化学肥料で育てられている。(中略)一人の人間が、人力だけで耕せる水田はせいぜい一反半(約15アール)程度にすぎない。(中略)最良の天候に恵まれたとしても、化学肥料なしで得られる米の収穫は、平年策の三分の一以下、せいぜい一反当り300キロから350キロだろう、といわれる。つまり一人の人間が精一杯働いて耕せるのが一反半であれは、それから得られる米は最大限500キロ内外である。
 一方、人間は他の副食物が普通程度にあったとしても、主食として年間160-170キロ程度の米は必要だ。したがって、一人の熱心な農耕者が養いうる人口は、ようやく三人である。つまり一億一千万人の日本人にただ米だけを供給するために、四千四百万人の農耕者が必要だが、これは平時における日本の全集業者数の九割にあたる。…」
 境屋氏は奇妙にも、石油なしには農業は不可能だということを言いたいらしく、したがって石油がとまれば日本は破滅だと人をおどしつけることだだけに興味があるようです。石油が将来枯渇するものであることは議論をまちません。…(~p.67)
 ではどうすればエネルギーを外に依存しなければならない産業のありかたを変えていけるかと考えるはずです。原発はむろん問題外です。ウラン市場は石油市場より不安定だし、原発から得るエネルギーよりその建設と維持のために投入される石油エネルギーの方が大きいし、だいいち安全に運転する技術がないし、廃棄物の処理もできない。石油のかかえている矛盾をもっと極端な形に拡大してしまうのが原発です。さまざまな「代替エネルギー」がさわがれていますが、これも、莫大な石油エネルギーを投入しなければ大規模なものはできません。むしろ、このようなエネルギーのつかいかた、資源浪費型の産業構造が問題なのです。(~p.68)
 食糧の生産における石油依存の問題は、(1)農業機械の問題、(2)農薬・化肥の問題、(3)ハウス栽培の問題といえましょう。農業機械は農民の仕事を楽にして、腰をやられたりする「職業病」から解放しましたが、反面、農民の経済的負担を増し、農協への金融的依存を増し、新しい貧困をつくりだしています。(~p.69)
 漁業の石油依存というのも同じく深刻で、魚の値段の65%は石油代であるともいわれます。…海洋汚染によって沿岸漁業が日ましに破壊され、遠洋の大企業漁業の比率が大きくなってきた。もともとの漁民のくらしというのは自然と一体になったもので、海によって生かされているという感覚がつよい。…ところが、企業漁業は日露戦争で沿海州の漁業権をうばって日魯漁業ができたころからはじまるわけで、文字通り侵略的なものです。…日本の漁業はどこへいっても生態系をぶちこわす略奪漁業になる。…
 しかもこのところ養殖の比率がふえている。…大規模に産業化されたものだけでもタイからタコ、帆立まで二十数種にものぼります。ハマチの場合でいうと、体重の十倍のイワシ、サンマをエサにします。…実際には必要量をはるかに上回るエサをやりますから、それがムダだというばかりでなく、食べかすが底に沈んで腐敗し、ハマチが病気になる。このためにまた大量の抗生物質を投与する。掃除をするより、薬づけにして生かしておいた方が安くつくわけです。「沿岸漁業の再建」を叫んでも、それ自体が乱獲の論理の上に成り立ち、しかも公害源になっている。…
 もうひとついうと、魚の流通における石油、液化天然ガス依存という点でもまた考えられないほどのバカなことをしている。いま魚屋でナマものの顔をしている魚のほぼすべてが、解凍ものです。…数年前に液化ガスを使っての超低温急速冷凍技術が実用化したためで、これだと解凍したてはプロも見分けがつかないといいます。それ以来、三菱、丸紅などの大手商社が大冷蔵庫の倉庫会社をつくって、魚を投機に使いはじめた。78年から、初ガツオというのもなくなって、通年、冷凍ものが出される体制になりました。
 食糧の流通における石油依存は、第一に長距離輸送ということ、第二に冷凍ということの二重の不合理をもたらしています。どうも農業・畜産・漁業と、大変な虚構の上に成り立っているわけで、食べもの一般がフィクションになってしまった…
 工業社会がどうも限界に来た、というのが私の結論です。工業生産は、すでに日本の社会を維持しh、人びとが幸福にくらすため(~p.70)の阻害物になっています。このままでは現実に食えなくなる、食えば毒物であるということになります。もういちど、いかにすれば食えるか、というところから、工業のありかたを含めて問い直さねばなりません。豊かさの構造転換が必要なのです。

II 食と文化の革命
6「人口問題」と文明の退廃

 食糧問題というのは要するに人口問題であって、人口がふえない工夫をすることが問題なのだと思っている人がけっこう多いようです。…そういう単純な、人口増加による食糧不足という量の問題でないことはすでに明らかと思いますが、ひとことだけここで人口そのもののことにふれておきましょう。
 …ローマ・クラブの最初のレポート『成長の限界』は、西暦2000年に世界人口は70億人になる、という見通しを出しています。さらにその30年後にはその倍の140億人になる。死亡率が下がり、出生率が今のままであるとそういう爆発状態が来るのは事実と見なすしかありません。それに対して食糧はどうか。地球上の農耕適地は最大限で32億ヘクタールといわれますが、そのうち約半分はすでに開拓されています。残りのすべて開拓したとしても、だいたい2000年の人口で満員になる。土地あたり生産力を倍に上げたとしても、もう30年しかのびません。(~p.71)
(~p.72)
7 「身土不二」の原則

「身土不二」つまり土地と身体が切り離されてはならないということを言ったのは、明治の石塚左弦という人です。左舷は1850年生まれ、福井藩医学校御雇から陸軍軍医となり、少将・薬剤監にまでなった人で、そのかん自分自身体質的な慢性的皮膚病と肝臓病に悩み、西洋医学を研究して治せず、伝統的食療法にたちかえってこれを新たな体系に再編していく中で、自ら治癒をしていきます。そこから「食養」ということが出てくる。
 左弦と同じころ軍医をしていた森?外は、カロリー学説を紹介して、積極的に西洋の栄養学を普及し、食生活を向上させようとした。…伝統的食生活は遅れていて西洋流がいいのだという観念にみなとりつかれていたのが文明開化でした。…その風潮に乗りつつ、合理的食生活をうちたてようとしたのが?外です。(~p.73)
 左弦の主張には、人間穀食動物論(臼歯の構造から、人間は草食でも肉食でもなく穀食である)、一物全体食論(野菜も魚も、部分ではなく全体を食べることでバランスがとれる)などいろいろ今日から学べることがあります。(~p.74)(~p.75)
…一人ひとりが、自分のからだと自然の関係を変える、「食い改める」ことが必要です。人の生き死にの根本問題として、いかなる質の食生活をおくるかが考えぬかれ、実践されねばなりません。

8 食生活変革をどう展望するか

 私の原則は二つあって、ひとつは「味の素文化を排除し、工業食品を排除し、食における商品依存を制限する」ということです。もうひとつは、「穀物と乾物を基本色として備蓄し、魚・蓄肉は節度をもって食い、野菜・野草は季節にしたがう」ということです。
 味の素については注釈を要しないでしょう。一日3g以上とりつづけると危険だということは企業自体がみとめていながら加工食品に莫大な量が使われています。そのことよりも私が重視したにのは、味の素によって味覚音痴になることです。あの下品な、無機的な味を「うま味」と感ずるように強いられた舌は、決して「身土不二」に由来する本来のうま味を回復することができません。
 工業食品を排除するといっても、カップめんや菓子類を排除する(~p.76)ことはやさしいが、小麦粉とか醤油とかまで買わないで作るということはむずかしいでしょう。みそは容易につくれますが、醤油はいまのところ工業的につくられたものを買うしかない。酒もそうです。ただ、不要な加工食品をできるだけ削っていく。それは大きくいえば、「食における商品依存を制限する」ことにつながるでしょう。商品社会に生きているので、家庭菜園で育てるとか、ニワトリを飼うとかしないと制限などありえないと思いますが、そしてたしかにそういうこともあるのであるが、加工サービスを工業的に代行してもらうことをやめる(保存食も自分でつくるとか、レトルト食品を買わずに自分でつくるといったこと)ことがひとつ、もうひとつは毎日買わなくては食えないのではなく、備蓄をふやすということです。
 備蓄は国家や自治体、あるいは協同組合的に処理する場合などさまざまに考えられますが、個人の家庭でもできるし、すべきです。昔の農家はそう富農でなくとも、まったく孤立状態で一年食えるだけのものは備蓄してありました。こういう底力を各家庭がもたねばならない。一年分貯めこむのは不可能にしても、一ヶ月備蓄をたえず補っていくやりかたで、なにかのさいに混乱を防ぐこともでき、食生活そのものの有機的構成を高めることができます。(~p.77)(~p.78)(~p.79)
 農漁業生産の問題、流通の問題があり、土地利用の問題、地下の制限、興行の専制の制限の問題があり、食品加工業への民衆的監視の問題があり、肝心の生産主体の再建「むら」の新たな再生と農業経営革命の関連という問題があります。
 農山漁村文化協会が石油文明を批判しながら、農民の自覚をうな(~p.80)がして本来の自立協働的生活をとりもどすよう訴えてきたのに、私は100%同意できます。しかし、私の立場としては、まさにわが身のありようをふりかえりながら、都市住民に何ができるかをとりあえず提起しておきたい。ここに書いたのはその前提となる考え方と、食生活革命のほんの入り口です。
 生協や消費組合的な運動も、商品社会に埋没してしまいがちな現状を反省して、この危機の原点に立ち返ってほしいと思います。
 労働運動がこうしたことをとりあげにくいのはよくわかりますが、それでも、自分の課題としていくべきことです。首を切られそうになったら、その分賃金を保証させつつ全員の仕事をへらし、極端にいえば週休四日制にしてでも、農業をやっていくというようなことはありえるし、そういう必要も出てくるでしょう。それぞれの立場に応じて形は多彩でしょうが、「一億皆農」でなければダメだと私は思います。労働運動が農業問題をとりあげられないとすると――農民の八割は土地もち労働者であって、仲間の問題ではありませんか――それは企業社会が農村漁民や下層労働者を切り捨てて生きていくための、既得権擁護・体制護持運動になってしまうでしょう。
 80年代には、大量の失業者が出かねません。中国がかつてかかえていたような大量の「国内難民」が出現するかもしれません。そして他方に食糧危機が見えてくれば、国家は強健をもってその労働力を農業にむけようとするかもしれません。…敗戦時の「国内難民」は農村がうけいれることができましたが、今の農村はとてもそれほどふところ深くない。自覚的、自立的な組織化によってしかその解決は不可能です。…私たちの革命は、まさに生命をあらためることであるという、それができなければ滅びていくという、そういう時代にいま入りつつあるのではないのでしょうか。(~p.81)

 


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◆開発主義文明と水―――玉城哲(pp.110-7)

 …渡良瀬川のいちばん下のところ、谷中村の南側になります埼玉県の北川辺という村でした。利根川の北にある埼玉県というのはここしかないんです。この村は北と東を渡良瀬川にかこまれまして、西側が利根川のひとつの跡ですけれども谷田川という川がある。まわりを堤防でかこまれた輪中の村です。ここにいきましてはじめて水と農村がどういうかかわりにあるのかということを理屈ではなく実感いたしました。
…私が20何年かの研究の結果考えておりますことを、いくつか申し上げます。ひとつは、日本の社会がひとつの水社会的な要素をもっているということ、…水社会であるということ、その水社会のオモテとウラ、タテマエとホンネというようなことを申し上げたいと思います。これは農村だけではなくて、日本の社会全体の中に、いわば体質化しているような問題だと(~p.110)考えております。
 もうひとつは、近代以後、日本人は水社会に住みながら水からものすごくへだてられてきた、現代人においてはまったく水からへだてられている、その状況、原因をお話します。
 それから三番目に、現代の都市用水、これは上下水上、工業用水をふくめて、それがいかに反自然的にできているか、を申し上げたい。そして最後に、水にかかわるその反自然を克服するということがどういう問題につながっているかを、すこし大ブロシキになりますがお話しいたします。

1 水社会としての日本

 水社会のオモテとウラということでありますけれども、みなさんいま水が大変貴重なものだということをアタマではわかってらっしゃると思うんです。からだでわかってるかどうかは非常に疑問だと思います。じつは日本はいまさら水が貴重になったわけではない。…17世紀のおわりから18世紀のはじめ、江戸時代の元禄・享保のころから、日本では水は貴重なものになっている。統計等の処理はできませんけれども、私が文献や地域の調査をいたしましたら、この時期に水論、つまり水利紛争、…それが全国的に多発しております。…それが全国的に多発してくるというのは、使える水が非常に少なくなったということを意味する。使える水というのは渇水で、渇水というのは建設省の約束用語によりますと、365日のうち355日流れる水をいう。これが「使える水」なんです。使う方は毎日必要なわけで、…夏には余計使うということはありますが、おおむね使う方はコンスタントでないと具合がわるい。しかし川の方はそう流れてくれない。雨が降ればいっぺんに流れまして、洪水になる。これは使えない水です。使える水を渇水という。
 その渇水にたいしまして、この時期までに水田をつくりすぎちゃったわけです。…日本社会の稲作の伝統はふるいですが、稲作がひろがったのはそう古いことではない。水田がめちゃくちゃにひろがったのは戦国時代から江戸時代の前半期なんです。これは当時の封建経済は、貨幣経済がどんどん発達しているにもかかわらずとくに徳川幕府がそれをひきもどしまして、コメ経済的なところへもっていっちゃった。大名どもはコメへの強迫観念にとりつかれまして、なにがなんでもコメをたくさんつくらないといけない、年貢をとりたてないといけない、という構造がつくられてしまった。その大名経済を安定させるゆえんはまず水田をひろげてコメをとることだというふうになりました。実はこれは明治以後もつづいて、地主も農政官僚もそうでした。最近になって風向きが変わって、コメが過剰だから減反せよというようになりましたけれども、過去何百年とコメの強迫観念による支配構造でやってきたのですから、そう簡単には変わらんと私は思っています。
 元禄・享保で水が足りなくなっていた。その結果なにがおこったかというと、いつまでもケンカだけしているのでは共倒れになるとい(~p.111)うことで、ひとつの秩序をつくろうということになりました。非常に重要なのは、それが必ずしも領主の強制した秩序でないということです。幕府も領主も水論の裁定をいやがった。上から裁定しますと、かならず欲求不満がのこり、それが権力にむけられていくわけです。そうなってはかなわないから、裁定をしない。そこで、村どうしがいがみあいケンカしあいながら次第につくった秩序が用水慣行なわけです。
…この用水慣行というのは、二つの違う機能をもっていた。それは、団結する側面と対立する側面とをもっていたということなんです。団結するというのはどういうことかといいますと、川から水をとって、用水路をつくります。この水路、水門や堰、こういうものはその地域で団結して、全体でまもらなければならない。洪水で流されたり、あるいは下の用水堰の連中が来て、これを切ってしまうかもしれない。そういうときにはすぐ復旧しなければならない。団結しなければいけない。同じ川から水をとっているほかの用水システムとの争いはたえずあるので、団結しなければいけない。
 ところがこの水路の中にも、対立があります。水は上から下に流れるのがふつうで、水を配分するとき、上の方が有利です。…そこで上流と下流の対立というのが必ず発生します。…例外的に下流の方が有利な用水慣行もありますがそれはたまたま下流の村が天領、徳川幕府の直轄領だというような権力の力の不均衡があったためにできたもので非常に不自然な関係です。…ふつうは…下流の方が…弱いけれど、下流も権利を確立しないとやっていけないので、下流から上流にいろいろ贈り物をします。一種の贈与儀礼です。私が見た範囲ですと、お金をとどける。いまはありませんけれども米をとどける。それからお酒です。お酒と水とは切っても切れない縁があることはむろんで、水について決めてくばあいにおみきをとどけるのがふつうです。…たとえば水門がありまして、上流側が…それを閉める。そのとき下流からお酒をもって水門をあけてくれとくると、村じゅうあつまって水門のところで酒をのんでいる間だけ水門をあけてやる。お酒の量で水門をあける時間がきまる。
 そういうふうに、用水慣行というのは、一見平和なように見えますけれども、いつもものすごい緊張関係、対立関係を維持しているわけです。これが日本という社会が東南アジアやヨーロッパと非常に違う特徴をもつにいたった所以ではなかろうかと私は思います。
 私が健全にムラ主義者でもなく、またムラ否定論者でもないのは、このムラ社会の特徴が二面性をもっているからです。ムラには相互扶助的なものがあり、自治的です。これは高く評価いたします。ところがそのムラの中にも相互牽制があります。…農村だけでなく町内会にもありますけれども、こいつはなかなかやっかいなものです。私はムラの相互扶助だけを美化していたのではだめで、相互牽制ということの批判もしておかないとダメだと思います。(~p.112)
 特に隣接したムラどうしはひどく仲が悪い。…どうもこういうのは、水というとぼしい資源をとりあう社会ということから来た特徴ではないかと思われます。

2 人間と水をひき離してしまう構造

 次に水を人間からへだてる力ということなんですが、これは封建時代にもあったことだと思いますけれども、日本が…近代国家を形成する過程でそれがはっきり出てきた。明治維新が1860年ですがそれから30年たった1890年代に河川法という法律ができます。それができてはじめて、明治政府は寡占をいかに管理するか、治水事業をいかに政府の責任で進めるかという原則を確立したわけですけれども、この河川法はついこのあいだまで、1964年まで生きておりました。これはものすごく権威主義的・権力主義的な河の管理をやろうとして法律です。河川はこれは私権の対象たりぜとはっきり書いてある。公水とはまだ書いてませんが、私の件林お対象にはならない。公共的に管理するものだということをはっきり打ちだした。そこで内務省がこの河川を管理し治水事業にあたるということになります。そして河川を利用するときには河川管理者の許可を受けなければいけませんよということを定めたわけです。これにより水の国家支配は確立したといっていいと思います。
 ですから田中正造の谷中村事件はまさにおこるべくしておきたといえます。私が当時田中正造の本なり記録をよんでの感想は、田中正造はすばらしい、すばらしい闘いをした、だけどこれは負けるに決まっている、というふうなことでした。「公共」というものにたいする日本の農民の弱さ、水を制するものに対する農民の弱さということからいって、国家、明治政府そのものを否定することなしにこの闘いは勝てない。そこに私は、田中正造のたいへんな悲劇があったと思います。だがそれゆえにこそ、これは偉大な、日本的民主主義の先駆者の戦いとして高く評価しなければならないと私は理解したわけです。
 そこからはじめた治水事業というのは、連続高堤防方式、とにかく河を高い堤防でかこって洪水がないようにしましょう、できるだけはやく洪水を海に出してしまおう、ということです。これがどういう結果をもたらしたらか、…見えるのは堤防だけで、川は見えません。(~p.113)
 日常生活で、眼に見えないというのはおそろしいもんですね。肉体感覚としては存在しないにひとしい。…川と人間はへだてられます。
 伝染病の流行がきっかけになって水道法というのができます。これは自治体の責任で、市民にたいしてきれいな水を、いわば無限に供給するという義務を自治体に負わせたのが水道法です。
…その結果生まれた水道はどういうものかというと、これは現代に通ずる問題でありますが、蛇口の水であります。どこの河のどういう水か、どういう水質の水かということは全然ご存知ない。蛇口の水というのは、固有名詞を完全に失った、無機的な、ひねれば出る水なんです。これはやはり自然と人間の中で生まれてきた水とのかかわりとは、大変ちがうんですね。料金を払えばいくらでも使えるというのが水道の水です。ですから、市民は水道の水をふんだんに与えられているんだから別に水から切り離されていないんじゃないかという反論があるかもしれませんが、それはそうではない。まさにこういう構造が、人間と水をひき離してしまう構造なんだということです。そうしてそこから出てくるのが、水にたいする恐るべき無関心です。それは近代化とともにはじまり、現代において極点に達した。

3 文明の基盤を破壊する都市用水

 そこで次に、都市用水がいかに反自然であるが。2つの点だけ申し上げます。
 ひとつはこの水の都市的利用というものは、実は大きな地球上の自然の水の循環に破壊的な影響を与える、ということなんです。…都市排水は、…少なくともそのままでは使えない水である…。(~p.114)
 この循環できない水にしてしまうことは、地球上の水の循環が生命にとってもっとも基礎的な要素であるということを考えますと、生態系にたいしてはかり知れない破壊的な影響を及ぼすことになります。
 その次は、巨大消費にもとづく巨大開発ということがどうしてもおこってくる。
 ダムをつくるということは、まず川を変えます。水の流出を変えてしまう。
 ですから、水の循環系統の破壊ということと、巨大消費にともなう巨大開発ということは、水の世界にとっては、おそるべき事態が進行することであるわけです。

4 管理社会の「共犯者」

 いままで、最近は少しちがってまいりましたけれども、特に高度成長期の思想というものは開発万能思想であります。開発万能思想の前提には、水を使うことはいいことだという考えかたがあったわけです。…水の消費が増えるのはあたりまえのことである。それに行政はこたえて、水の供給をふやしていかなければいけないし、そのために巨大開発をやっていかなければならんという論理がつながってしまっていたわけです。
 水を人間からへだてたのは、まさに権力の力なんですね。権力が自然を管理することによって、それから人間の方をも管理する、そういう意味での管理社会をつくることによって人間と水とを引き離しておる、この引き離されている状態をどう克服するか、それが水に集中的にあらわれていることなのだと、私は理解いたします。
 今年のはじめ福岡にまいりまして、…福岡市民に昨年の渇水のナマの経験というものをきくことができました。…サラリーマンは勤め先から夕方になると家に電話をして、今日の炊事の水は確保できたかどうかをきいてから家に帰る。なければ何か食べられるものを買って帰らねばならないわけですね。ちょっとした雨でも降ると、市の水源の貯水池に出かけていってたまりぐあいを見る人もいた。いく分なりとも、水の固有名詞を回復したわけですね。どこの水だ、ということを意識する。まだまだホンモノになっているとはいえないかもしれませんが、そういうきざしは出てきた。(~p.116)
 市民が自覚的な生活態度の変革をすすめることによって、はじめて水の管理者、大口の消費者にたいする告発ができるようになる。

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◆河川独裁を民衆管理へ―――高杉晋吾(pp.118-27)
 農業破壊の尖兵としての多目的ダム

1 都市住民のドラキュラのごとき存在

 私の家は、川越の西側、狭山市に隣接した旧福原村の今福というところにある。
 常にこの地域が、降雪、ひょう、豪雨、早ばつ、洪水に悩まされつづけた記憶は多く残っている。狭山茶の発想は、当初、関東ローム層の赤土による風害防止のためでもある。
…旧福原村の台地の一角は、つい最近まで雑木林に囲ま(~p.118)れ、私の家の周辺に4、5軒の家があったにすぎない。そこはもともと人の住まぬ入会地である。開拓に当った人々も、そこには住まなかった。住むのは、洪水対策に改修した不老(としとらず)川周辺の平坦地を面前にした台地の斜面である。
 しかし、最近ではたちまち雑木林は切り拓かれ、わが家の周辺は建売住宅群で埋めつくされた。かつて人々が住まなかったこの台地の雑木林に、なぜ人々が住むようになったのか?…口径数センチの水道管のパイプがどこでも人の住む家の建設を可能にしたから……というのが主要な原因であり、首都30キロ圏の通勤圏であり、そこに住環境の諸条件、通路等の条件が整備され、建売り業者たちが建てれば売れる条件をそなえた、ということである。
「ヒネルとジャー」という子どもらのざれ言葉は、水を〝制御〟した人間の無感覚を象徴しているが、かつて水が多すぎて人々が死に、水がなさすげて人々が死んだ水の歴史性と社会性―――政治性を、口径数センチの水道のパイプが一挙に消し去り、われわれは、かつて絶対に人が住まなかったところに、わが物顔に安住している。それが都市の肥大化の現象の中身の一面である。そして原子の水の制御を人類の勝利ででもあるかのようにうたいあげた故事にならえば、水の制御こそ、近代の自然克服への勝利の基礎であったはずだろう。「水を治めること」こそ権力を手中にし、人を治める要諦であった。
 しかし、「ヒネルとジャー」と流れ出る歴史性、社会性を喪失した水の水道管のその先を訪れ、その無性格な水のルーツをたどってみる作業を行うとき、無条件に〝居住〟している大都市の中の市民としての存在が、あらためて山と河川と農山村に対して口径数センチの吸血管を突き刺して生きるドラキュラのごとき存在であることに気づかざるを得ない。

2 日本文化の発祥地にダムがくる

 五木村は…球磨川水系の一番大きな支流川辺川の水源にあり、人々は川辺川をその生活の支えとして生きて来た。そこからは早期縄文文化、中・後期縄文文化、弥生の遺跡など、川辺川文化圏ともいうべき様々な文化遺跡が発掘されてい(~p.119)る。そしてそれは南方文化(照葉樹林文化)が日本文化の源流であることの現代的証である焼畑農耕=こばさくの伝統が、ごく最近まで伝承されていた。日本文化のふるさとといわれるゆえんだ。
 この五木村に1966年、建設省から災害防止の治水を名目に多目的ダム建設の計画が出された。
 球摩川は熊本県南部の宮崎県境の一房山のあたりを水源とし、湯前―人吉平―球摩村―八代市(八代海)を河口とする急流だ。そひて人吉市で川辺川と合流する。川辺川は熊本県中部の宮崎県境国見岳のあたりを水源として、五木村―相良村―人吉市から球摩川に注ぐ。この球摩川の水源のあたりに、一房ダム(多目的)があり、下流の球摩村のあたりに瀬戸石(電力)ダム、坂本村のあたりに荒瀬ダム(電力)がある。

 
UP:20071120; REV:20071130,1203,07, 17, 21, 24, 20100525

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森下直紀(保全・公共政策論・環境政策史)