障害学生支援(障害者と高等教育・大学)―70年代
last update:20220219
■本頁について
本ページは1970年代に大学において起きた障害者の学習権を保障しようとする運動・闘争のアーカイブを行うためのものである。
■闘争の記録
「障害者」入学差別反対闘争 於:大阪学芸大学
◇楠 敏雄 19820715 『「障害者」解放とは何か――「障害者」として生きることと解放運動』,柘植書房,222p.
「そして、具体的な課題として、東京の荒木裁判闘争とちょうど七十一年4月に起こった大阪学芸大学の「障害者」入学差別問題、S君支援闘争の二つを設定し」(p.27)
教員による差別発言糾弾闘争 於:大阪市立大学
◇大阪青い芝の会[内部リンク]
19751018 大阪市立大学障害者解放研究会結成(学内での差別事件糾弾闘争きっかけに)
「74年3月に理学部院生Yに指導教官Sが、@ペースが遅いからペースを上げるか、留年するかの選択を迫った。さらに、A女性で足が悪いから就職は絶望的なので、留年して大学に残ることをすすめた。B就職先として、愛知県の身障者コロニーの付属研究所なら、拒否されないだろうという理由ですすめた。すなわち、身障者であるあなたのいける所は身障者関係ぐらいしかないといっているのと同じで、障害者を一般社会から排除し、隔離していくものである。以上の3点は障害者差別であるという理由で、大阪市立大学の学内で糾弾闘争が行われた」
作成:定藤 邦子
視覚障害者入学差別反対闘争 於:龍谷大学
◇涌嶋 克己 20200408 「学生時代に自問したこと――もらった種とまいた種(1)」 ,『神戸新聞』20200408.
「ボクは今、70歳になる絵かきです。
ボクは若い頃、京都の龍谷大学法学部に籍を置いていました。
3回生になって親族、相続法概論というゼミを受けていたある日、突然、講義中に数人の学生が乱入してきたのでした。
彼らは「本学は視覚障害のある人に入学試験の門戸を開いている大学なのに、来年度以降、その門戸を閉ざすといわれている。本学の開学の精神からしたら、それが正しいのか? 基本的人権のことを学んでいる法学部の諸君とディスカッションをした上で、共に門戸を開くよう、声をあげたいのだ」と訴えてきた。
教授が冷静に「それなら、このゼミの諸君に挙手で賛否を問うてもよいか?」と提案すると、乱入してきた学生たちはうなずいた。
「ゼミの時間を討論会にチェンジしたい人!」の声に、手を挙げたのは13人中、ボク1人だけだった。
「よし、多数決で決まったので、約束どおり教室から出ていってくれたまえ!」の教授の声に、一番アジっていた学生は、目に涙をいっぱいためながら声をふりしぼり、「この瞬間にも、視覚障害のあるボクの友人は、今、そこに座っている、あなた方の五十倍、百倍の努力をし時間をかけながら法学を勉強しているのだ。心にかすかな希望をもち努力している彼らのことを、あなた方は、どう思っているのだ」と叫んだ。
ボクはうつむいたまま、彼らの顔を直視できなかった。
彼らが部屋を出てゆき、やがてゼミがはじまったが、何も頭にはいらなかった…。
京都から神戸に帰ったボクは家で朝まで一睡もできなかった。[…]」」
京大難聴問題研究会による聴覚障害者支援の試み 於:京都大学
◇解説:
京都大学難聴問題研究会は1970年代中ごろに京都大学において作られた組織で、難聴学生に対して組織的支援を行った。具体的には手話サークルの立ち上げ、文字通訳支援、集団討論、FMによる補聴システムの設置などを行った。
解説作成:山口和紀
*作成:山口 和紀