搾取|Exploitation
■文献
◆Cohen, Gerald Allan 1978 Karl Marx's Theory of History: A Defence, Oxford University Press.→ 2000 Expanded edition, Princeton University Press. <114>
・増補版(2000) の内容を見てみる amazon [1978年版は11章まで。2000年版には12〜15章が増補]
◆橋爪 大三郎 1990c 「『資本論』てここがヘン!」,『オルガン』9→橋爪[1991] <119>
◆――――― 1991 『現代思想はいま何を考えればよいのか』,勁草書房,242p.
◆――――― 20101130 『労働者の味方マルクス――歴史に最も影響を与えた男マルクス』(FOR BEGINNERSシリーズ 日本オリジナル版 107),現代書館,174p. ISBN-10:4768401074 ISBN-13:978-4768401071 1260 [amazon]/[kinokuniya] ※ mk17 is07 w01
◆稲葉 振一郎・立岩 真也 20060830 『所有と国家のゆくえ』,日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. ISBN-10: 414091064X ISBN-13: 978-4140910641 1176 →gumroad経由:1000円
◆Morishima, Michio(森嶋 通夫) 1973 Marx's Economics: A Dual Theory of Growth, Cambridge University Press=1974 高須賀義博訳,『マルクスの経済学――価値と成長の二重の理論』,東洋経済新報社,263p. <119>
◆立岩 真也 2013/01/01 「素朴唯物論を支持する――連載 85」,『現代思想』41-1(2013-1):14-26 cf.前の本
◆立岩 真也 2013/**/** 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon]/[kinokuniya] ※ w02,f04
◆Yoshihara, Naoki (吉原 直毅) 2008 Preface of Public Welfare Theories of Labor Exploitation(『労働搾取の厚生理論序説』), Iwanami Shoten (岩波書店), 298p. <114>
◇吉原 直毅 20080228 『労働搾取の厚生理論序説』, 岩波書店, 298p. ISBN:4000099140 5460 [amazon]/[kinokuniya] ※ e05.
◆中倉 智徳 20110331 『ガブリエル・タルド――贈与とアソシアシオンの体制へ』,洛北出版,448p. ISBN-10: 4903127133 ISBN-13: 978-4903127132 \3200 [amazon]/[kinokuniya] ※
※< >内の数字は『私的所有論 第2版』(On Private Property)での頁数を示す。
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◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p. ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 (『私的所有論 第2版』)
「まず、私的所有は体制の問題として語られてきた。資本主義や市場経済を正当化する主張があり、それを批判する主張が起こり、両者は長い間対立してきた。その対立は、ひどく乱暴に言ってしまえば、「取り分」を巡る対立だった。よく働いているが「搾取」▽045されている、資本主義のもとではそれが避けられない以上、別の生産と分配の体制が必要だと言う。「貢献に応じた分配」とは別の未来が構想されなかったわけではないのだが、貧困が圧倒的な現実だった時、このような主張が現実には主導的なものだった。このような問題設定の中での私的所有という主題は、それだけの歴史を有しているのだが、それは同時に、生産→所有という結びつき自体は問われないということでもあった。本書にはこうした主題が現われない。それは、妥当な価格−実際の価格=搾取分、という計算の妥当性に疑問があるからでもあるが、それだけでなく、本書で考えようとするのは、仮に正しい計算が行われても、それで片がつく問題ではないからである☆11。」(→第2版pp.44-45)
◆稲葉 振一郎・立岩 真也 20060830 『所有と国家のゆくえ』,日本放送出版協会,NHKブックス1064,301p. ISBN-10: 414091064X ISBN-13: 978-4140910641 1176 →gumroad経由:1000円
「分配的正義と搾取論
立岩 稲葉さんと松尾匡さん(1)と吉原直毅さん(2)の『マルクスの使いみち』という本が出て、まだちょっとしか読んでいないんですが、なかなか面白そうです。まだ読んでないので、面白そうですくらいな感じですけれども。
分配的正義ってことを考えるときに、どこから話を進めていくか、いく通りかはあって、一つは今日その話を少ししてみたいと思います。ここにおられる皆さんがどんな年代でどういう時代を生きてこられたかでずいぶん違うのかもしれませんけれども、搾取(3)という観点から何かを言っていこうという時期がそこそこ長い間あって、それに対してどう言うかってことがこの本の中で三人によって論じられているんだろうと思います。
話をしだすと長くなるので簡単にしますけど、ワリをくってるとか、単に損してるんじゃなくて不当に損してるとか、そういうことってあると思う。それは否定できないし、否定すべきではないと思います。ただ、搾取という言い方については、当初からぼくは疑問があって、読んでもよくわかんないし、誰かわかるように言ってくれたらそのときに勉強しましょうくらいな感じで、気にはなっていたけど、二〇何年ほっといたような話であったんです。なぜこの話にさしあたって乗らないでやってきたか。搾取って、ごくごく単純な話としては、俺はこんなにやってんのに、上前ハネ▽128られて、その分よそにもってかれて、その分が搾取の分だ、っていう話ですよ。そんな感じがすることはわからないではないんだけれども。
一つは寄与・貢献という問題です。ぼくの本でもわりと単純なモデルになってて、ロビンソン・クルーソーみたいな話で、自分一人で働いて、できたものがそこにある、その場合には労働とその成果物はわりと単純に対応してるけれども、実際の現実の社会の中では、いろんな人がいろんなかたちで資材を提供したり、働くにしても分業して働いてる。そういった場合には、ある生産物に対して、労働というかたちで、あるいはお金の提供というかたちで、資材の提供というかたちで、どの人がどれだけの割合で貢献したのかっていう話がいったいどういうふうにちゃんとできるんだろう。ちゃんとやればできるのかもしれないけれども、ぼくなんかにはよくわかんないぞってところがあって。そのへんから、この話ってけっこう難しいんじゃないのってことは一つありました。
それからもう一つは、仮に、ある生産物に対する個々の人の貢献というか寄与分みたいなものが明らかになったとしても、そのことと、その全部を、あるいはそれに応じた分を本来取得すべきであるという話は別の話のはずですよ。私の書いたものをごらんになってくれた方はわかるかと思いますけれども、私にとって、そもそも生産したもの、あるいは生産に寄与した分について、それが生産者に帰属すべきであるという話自体が疑いの対象、吟味の対象だったわけで、そこから考えると、のっけからこの話に乗らない、乗らないところからものを考えていくしかなかったし、そういうふうに考えようとしてきたというところはあります。
▽129ただ、その後というか、それ以前から、さまざまな人が頭を悩ましつついろんなことを考えてきたはずで、その成果というか現状がこの本の中で論じられてると思うんだけれども、そのような営みが、ぼくの気になるところについてどう言っているかを含めて、どうなってるのかなということは、気にはなるし、稲葉さんに教えてもらいたい部分もあったりします。ただ繰り返すと、今の単純素朴な意味での搾取という話を最初にもってこないでおこうとは思っていて、そうすると、じゃあ、あんた何を言うのさ、ということになりますよね。もともとこの話は最初から、どういう社会状態がよいのか、それともよくないのかっていう話です。すると、ではどこのところでものを考えていくのか。どういう原理・基準でものを考えていくのかって話になり、そういう意味では、何が良いとか悪いとかってことを考えて、きちんと言うっていう話にしかならないだろうと思ってきたわけです。」
「立岩 ぼくも一個くらいしゃべりましょうか(笑)。三つくらいあるんですけど。
一点め。異論のないところから言うと、いわゆる中央指令型の統制経済というアイディアというか実際があって、それはうまくいかない。そこにも、ワークするかっていう話と、それを正当化できるかっていう話と二つありますけれども、いずれからもそれを採らないという話ですよね。それはそうだと言えると思います。
今日の最初の話に戻ると、今の統制経済がうまくいかないという話と、理論的にマルキシズムに▽157おける搾取という概念がうまい具合にいかないという話があって、その二つを否定することによって、左派はダメであるということになった。ぼくの上の世代の人たちは、どっちかあるいは両方で、そう思うことにした。理論志向が強い人はマルクス(11)の理論をやっていっても搾取はうまく位置づかない、どうもダメらしいと。それからもうちょっと現実の社会のありよう、体制のありようを見てきた人もどうもうまくいかないと。そのいずれか、あるいはその二つでペケだとなった、じゃあ、っていうふうにいったんだけれども、ぼくは、もう少し後に遅れてきた世代みたいなところがあって、それは当たり前だろう、そんなことどうだっていいだろうと考えた上で、次に何が言えるのかを考えればいいというスタンスでものを考えようとしてきたし、しているところがあります。もっともな指摘を受けた上でなおかつ、では今と違う何が可能なのかってことを考える道筋は依然として当然あるだろうと。それが一点めですね。」
「稲葉 今の第三点、第四点の話をうまく料理すると、なぜ格差、不平等がいかんのか、あるいはな▽173ぜいかんと思われてきたのかとの話ともつながるなあと、聞きながら思ってたんで、しゃべりながら考えてみます。
革命論、変革主体形成論という議論が何で出てくるか。なぜ「資本主義と呼ばれてきた社会体制をひっくり返し、社会主義にいきたい/いかねば」という議論が成り立ったのかということを考えると、それは当然、「資本主義のもとでワリを食う人たちが一定量、というかむしろ多数派として社会の中にいるからですよ」ということになるんですけれども、これでは「たくさんの人たちがワリを食うような社会はよくないので、変革しなければ」という外側からの変革の必要性を言う議論にはなっても、「できますよ」という可能性を言う議論にはただちにはいかないわけです。マルクス主義がそこで、「できますよ、変革主体は形成されます」と、「ワリを食ってる人たちは立ち上がって社会をひっくり返せます」と言えた根拠というのは、細かく言えば非常に複雑だし、結果的にはそんな根拠なんてなかったんじゃないかと後知恵で言えそうなんですが、とりあえず論拠というよりは気分ですね。気分的な根拠を指摘するならば、これは非常に単純な話で、「奪われてる」「搾取されてる」、という感覚にほかならない。いわゆる資本主義的な「搾取」っていうのは、形式的にはフェアな取引を通じて、奪われることにならないかたちで実質的には奪われてるという話ですよね。
「奪われる」ってどういうことか。そもそも奪うに足る何かをもっていなければ、何も奪われっこないわけですよ。本来ならばたくさんのものをもっているはずなのに、上前を掠められて、無力▽174にされる。もとから無力なんじゃなくて、力があるんだけど、その力が奪われている、横取りされている、横領されているのであると。だから、本来的にこの社会を支えて動かしている力というものは、労働者の方にあるのだと。それは歴史を貫通していて、資本主義以前の時代まで遡って言えば、一般的な生産労働に従事する大衆にこそ真の力はあるんだけれど、上前をはねられてきましたよと。でも、本当は社会を動かし作り上げていく根底的な力は、根っこのワリを食ってる人たちにこそあるのだから、そのことにみんなが気が付いて自分で自分のことをコントロールするノウハウさえちょっとした工夫で獲得していけば、上にある建物なんか土台が揺らいだらガラガラッといくと。マルクス主義が伝えていたこういう理屈……というより気分ですね、マルクス主義的な体制変革論、変革主体形成論の気分的な基盤はここにあると思う。搾取されてるということは奪われてるということ、奪われてるということは本来力をもっているということ、そのもてる力をふりしぼればひっくり返せるはずだということで、これは理屈というより気分のレベルにおいてつながっていたんだと思うんですけど、いかがですか。
立岩 そういうのはあったでしょう。
搾取理論の問題点
稲葉 じゃ、次にいきます。搾取理論というものに、しかし重大な問題があったんではないかという問題意識が第二次世界大戦後のマルクス主義にある時期、とくに数理マルクス経済学というマイ▽175ナーな分野ができあがっていく中で徐々に蓄積されてきて、「何だか変だな」とみんなが思いはじめた。その中で活躍した代表選手の一人がもちろんローマーですが、先駆者としては二人の日本人――もう亡くなってしまいましたけど――置塩信雄(19)と森嶋通夫(20)といった人たちが、メインストリームの数理経済学の土俵上でマルクスの『資本論』の理論をリコンストラクトする作業に手をつけた。その上にローマーなんかが乗っかっていったわけですけれども、彼らによれば、搾取という概念は厳密に数理的に定式化できます、というわけですね。要するに、「搾取」を厳密に定義すること――厳密に定義するから適用範囲は限られますけど、これは可能だ、と。たとえば労働者がたくさん労働したとして、その対価として賃金を受け取る。ところがその賃金で購入できる財を生産するのに必要な総労働量は、労働者が賃金の対価として行った労働量より絶対に少ない、というように。そして資本主義が利潤というものを生み出して、資本家が利潤をいただくことができて、総体としての資本主義、市場経済がどんどん回って存続していくためには、右のような意味において、賃金労働者の労働が搾取されていなければいけない、というところまで、きっちり論証されるわけですね。
ところが、そこから先に進むところで大きな問題が生じてくる。一つは「一般化された商品の搾取定理」というようなことを、七〇年代、八〇年代あたりにいろんな人が言いはじめる。先に述べたような意味で「労働の搾取」ということを言うんだったら、それはすべての商品一般について一般化できるテーゼであって、たとえば石油を一リットル生産するために必要な労力に込められた石油の総量が一リットル以下でなかったとしたら、そもそも石油の再生産って不可能じゃないですか、▽176とかそういう話ですね。ありとあらゆる財に関して、人間に使用可能にするためにもたらされたコストの中に込められた財の投入っていうのは、必ず産出を上回ってなきゃいけない、そうでなきゃ経済は、少なくとも長期的には存続できないわけです。投入が産出を上回るってことは赤字ってことですね。それは長いこと繰り返してたらやがてゼロにいくわけです。成り立たない。成り立つためには厳密に収支がバランスして、いや単にバランスするだけじゃなくて、プラスにしなきゃいけない。「一般化された商品の搾取定理」によれば、搾取されなければ資本主義が回らないというのは、労働だけじゃない、すべての財がそうだ、という議論ができあがってくる。これが一つ。
もう一つは、ローマーの仕事の重要な部分っていうのはここにあるわけなんですけれど、そういうふうに一般化されるならば、搾取されるのは労働者だけじゃなくて、たとえば地主と契約する小作人もそうだとかね、銀行と取引する中小企業なんかも当然そうだとかね。いろんなところで議論が一般化されるわけですけれども、それプラス重要なことは搾取が起こる取引とは何なのかと。ここでローマーがやったことというのは、ゲーム理論の道具立てを使うんだったら、搾取が実現する取引をナッシュ均衡(21)として描けるし、さらに古典的な経済学のフレームワークで言えば、まさに市場経済におけるパレート最適な一般均衡の結果として描ける。
どういうことかと言うと、つまり労働者は好きこのんで資本家と取引されて搾取されてると。なぜ好きこのんで搾取されるかというと、自前でやるよりも資本家と取引して搾取される方が結果的にはよいからだ、と。自分一人で自家営業でがんばってやっていてもたいしてからないから、▽177しょうがねえって人に雇われる。雇われたら当然搾取されるんだけれども、その方がいいから、つまり自営の利益より、雇われてもらう賃金の方が多いから、すすんで搾取される、というふうにオーソドックスな経済学のセッティングの中でモデルが作れるわけですね。そのようなものとして搾取を表現できる。これは現実の市場経済がこうだと言ってることにはなりませんけれども、こういうかたちで搾取の可能性、つまりまさに合意における取引を通じてみんなが得している結果として、その中にも搾取を見出すことができるということになったわけです。だから、搾取それ自体は記述的な概念になってしまった。そこに規範的な意味合いを込めることがどんどん困難になっていくとローマーは考えたわけです。
不平等こそ問題である
稲葉 さらに、ローマー独自の貢献というのは、「階級・富・搾取の対応原理」ってことをうまく定式化しまして、金持ちは搾取する側に回るし、金を持ってないものは搾取される側に回るように市場経済はできてますと言ったわけです。ただそこでローマーが言ったのは、つまり「搾取」という概念はリダンダントだ、余分なんだということです。議論を混乱させると。正面から「不平等がいかん」と言えばいいのに、「不平等がなぜいかんか、その背後に搾取があるからだ」っていう議論を可能にする余地があるとしたら、これは問題だ、と。「オッカムの剃刀」の考え方ですよね。よけいなものはそぎ落とした方がいい。要するに少ない手持ちの道具立てで複雑なものをきちんと表現▽178できるものが美しいし、役に立つわけですから。
そこで、資本主義は不公平だと言うためには、富の配分が不公平ならば、不公平な格差っていうのは資本主義の中で温存される可能性が非常に高いですよと言えばしまいであって、搾取っていう説明要因を入れる必要がないと。要するに金持ちの家に生まれた子が幸せなのは悪いことじゃないけど、貧乏人の家に生まれた子どもが金持ちの家にたまたま生まれた子どもよりディスアドバンテージ(不利益)を食らってるっていうのは、なんか気分悪くないですかと言えばすむじゃないかと。そこに「搾取」ということばを入れる必要があるのかと。ローマーが提起した問題はだいたいこういうものだと思うんですね。「搾取」という概念は無意味ではない。きちんと定義できるし、ちゃんと使いどころを間違えずにある特定の目的で使うのには問題ないんだけれど、それほど頼りにならない。とくにわれわれが資本主義社会におけるある種の不正な構造を問題にしようとしたときに、昔のマルクス主義者はこれを第一の手がかりにしてきたけど、そんなにありがたいものではないと彼は考えたんだと思います。
これはなかなか説得力のある議論ですけれども、そこからもう少し話を進めてみると、古典的なマルクス主義の考え方では、貧乏人というのは本来一番がんばっているし、一番力があるはずなのに、怠け者で無能な資本家どもに上前をはねられてヒドいというのが支配的な気分だとするならば、それは十九世紀的時代状況を考える上でけっこうそれなりの根拠があったとしても、決して万能、普遍的ではない。実際にディスアドバンテージを食らってるというか、不利益な立場に置かれてる▽179人たち、貧しい人たち、力をもたない人たちがいたとして、その人たちが本当は力をもっていて、搾取されていたんだとしても、もし少数であれば、それだけで立場が弱くなる。もう一つ問題は、本当に貧しい人たちとか力をもたない人たちっていうのは搾取されてるのかという問題が出てきます。要するに、「搾取」ということばが意味をもつためには、奪われるだけのものがもともと備わっている、本来備わっているものそのもの、ないしその成果を掠めとられているからこそ搾取ということばを使う意味があるのであって、そうではないんだと。搾取されるほどのものも持たない人たちの置かれてる状況というものを、それはやっぱりよくないよ、こんな現状っていうのは変えなきゃいけないよ、というための道具立てには「搾取」ってことばの使いどころはないわけです。
で、このような搾取されるほどのものを持たないまま世の中にほうりだされてしまっている人たちをどうしましょう、その人たちの権利をどうやって守りましょう、その人たちの置かれてる不利益な状況をどうやって改善しましょうという議論として、不平等とか格差の是正ってことを言うんだったら、その観点からしても、搾取理論っていうのは役に立たないのではないかと疑問が出てくるわけです。一国内レベルで考えてるとわかりにくいところがあるかもしれないけれど、世界大のスケールで考えるならば、けっこうはっきり見えてくると思うんですね。
たとえば途上国における開発において、人的投資が重要だってよく言われます。人的投資、つまり教育が大事だってことは、生産性が低くて、搾取さえしてもらえないままにほっとかれてる人たちがたくさんいる、ということですね。格差、不平等の問題においても、それがすべてだとは言い▽180ませんけど、わりとそれは重要な部分であるんではないか。マルクス主義の議論でさえも、ローマー流にリコンストラクションするんだったら、そういう議論として見えてくる。つまりアセット(資産)をもたない、身体一つが自分のアセットであるような状況にほうり出されてる人たちとして、奪われるほどのものもたいしてない、労働しか奪われるものがないような存在としての労働者というものが見えてくるわけですね。
このようにして搾取論的な不平等論がちょっとリアリティを失ってくる。そこから先どうしたらいいかということは、自明には見えてはこない。自明には見えてはこないんですけれども、少なくとも奪われたものをとりかえす主役として、たとえば労働者階級がいて、変革主体がそうやって被搾取者として指差されて、変革主体には奪われるに足るだけの力がもともとあって、来るべき社会を設計していく力がありますよ、というふうに話がスパスパと進んでいくというマルクス主義を支えていた気分は根こそぎ取り払われてしまった。いろんなものが欠けてる、欠けてるものを何とかして埋めていきたいんだけれど、どこからどうやって埋めるものをもってきたらいいのかよくわからない、安易にもってこれる便利な何かがわれわれの社会の中に眠ってるかというとそうでもありませんねという気分が、分析的マルクス主義者にも再分配型のリベラリストにも、共有されてるという気がしますね。」(稲葉・立岩[2006])
「立岩 稲葉さんたちの本がいわゆるアナリティカル・マルキシズムについての本で、それを一つの参照点にして今日の話が進んでいるので、珍しくマルキシズムということばがたくさん出てきたか▽183と思います。その件に関して、ぼくはほとんど書いたことがないのだけれど、いくつか列挙します。
一つ、搾取の議論に関しては最初の方でも少し言いましたし、先ほど稲葉さんの解説にもあったし、これをそのままで使わないというか使えないというのはぼくとしては出発点にあったんですね。そういう意味では同じと言ったら同じところがある。加えると、ぼくがそういうふうに考え始めた後で、たとえばローマーが、それ以前に森嶋さんであるとか置塩さんという人がいたというのは聞いてはいた。特殊な条件で搾取が成り立つ、逆に言えばかなり一般的には成り立たないとも読めるわけですけれども、そういった議論があるのは知っていて、先ほどの話に戻すと、その類いの思想全般がペケだということにもならないでしょう。と同時にそれを立脚点として議論を立てていくということはすべきでないとぼくは論を立ててきたところがあって、そういう意味で言えば、そういう話をされて、まあそうだったよね、わかってました、と。若干傲慢ですがそんなところがぼくにはある。
二つめですが、ではマルクスという人が面白くないかといえば、そんなことはなくて、ぼくは『資本論』とかその類いのものをきちんと読んだ記憶がないのだけれども、いろんな政治文章とか、あるいは歴史物と言ったらいいのかな、において、まずイデオローグとして、そして文筆家として、鋭意の分析家としてマルクスというのは魅力的で面白い人間だなとは前から思っていました。
と同時に、何がどれだけ人を引きつけたのかっていえば、今のシステムはどういうシステムかっていう分析もさることながら、やっぱりこれがいいんじゃないのっていうことを言ったからだと思▽184います。未来を具体的に語らないっていうある種の禁欲というか、ある種のズルさがあったと同時に、ぽろっとというか漠然とというか、言っている部分もある。ぼくは今までたぶん二〇年くらい文章を書いてきていると思いますが、マルクスに言及しているのは一回だけかもしれなくて、『自由の平等』で有名なところを引いてて、それは「ゴータ綱領批判」の「働ける人は働き、必要な人はとる」という、まあ簡単と言えば簡単な、しかし詰めていけばいろいろ面白い論点がたくさん出てくるアイディアです。それは基本的にぼくはオッケーだと思っていて、共感する部分はあったし、今でもある。これが三つめ。」
「もう一つ言えば、これももう話したけど、国家という話の手前で、搾取という話をどう扱ってよいのかわからなかった。当たっているのかはずれているのかがわからず、そのときにこれいけるのかなというのが見極めがつかなかったというのも一つですけど、ぼくの場合はそれ以前に、それを規範的な理論のベースに置くのがよいのかについて、わりと最初からネガティヴだったんです。労働者の生産物を労働者が取得できるはずなのに、その一部分というかいいところがはねられているというのは、基本的には、生産者による生産物の取得という図式に乗っかった話になっているから、ぼくはその根っこのところを共有した上でその先に進むという議論じゃ嫌だなと思ったんです。妥当性と別に、それを基に立てるというのは乗れないというのが最初にあったわけ。」
稲葉 ところで、不平等とか格差という現象の主要な発生原因の一つは当然、搾取・収奪、もっていたものを奪われる、横取りされるということ。これは非常に基本的な形態としてあって、実際国家っていうのは略奪者として出現してもいる。だからマルクス主義的な国家論やリベラルな契約論に見られるように、略奪者としての国家を解除して、だからといって共同体も嫌なんで、共同委員会としての国家を作ろう、という国家論がリアリティをもつわけです。
他方、もちろん秩序を創始するだけではなくて、肉体的な生き物としての人をも生み出しつつ機構としての国家もあるし、国家じゃなくたって市場とか市民社会などの社会秩序もあるが、実はそ▽240の中でも不平等は生じる。つまり人からそのもてるものを奪うことによってではなくて、人を半端なかたちで、もたざる者としてこの世にもたらす。要するに、十分育てられもしないのに子どもを大量に作っちゃって、職も与えられないのに若い衆を大量に教育しちゃって、とかいうかたちでも不平等は発生する。
で、どちらが根本的な原因かというのはしょうもない話なんだけど、法と秩序が守られて私的所有権が尊重されて、非常に経済がちゃんと回っている世界においても発生する不平等は後者だと思います。泥棒も詐欺師もいない、国家も重税でもって取り立てるんじゃなくて、むしろ法と秩序と福祉を提供してくれて、というところにおける不平等の主たる原因というのはそうだろうと。物理的、フィジカルな意味で、十分な準備なしに、世の中に増やされる人々というのをシステマティックに作ってしまう社会機構があるとするならば、それは不平等を生み出す。
そういうときに、放り出されて生み出されてきた人々は、「奪われた」っていう感覚をもつわけですよね。与えられて当然なものを奪われたっていうときの「奪われる」とは比的な剥奪であって、厳密にいうと剥奪は別の事態です。だから、搾取論的なかたちでそういう不平等を批判する、批判して解除しようとする議論は効力が低いというか、ほとんど無効でしょう。そういうタイプの不平等を適切に批判して、その批判の裏返しにじゃあどうあるべきかという規範理論を作るという課題が残るだろうと思うんです。ぼくは立岩さんの『私的所有論』は、そういう議論の踏み台になるんではないかという気がするんです。
▽241たとえば前回の対談でお話しした「基準的な他者として将来世代を考える」という点にからめて言えば、不平等の批判においては、搾取理論、つまり「過去において他者から奪われたものは、将来において返されねばならない」という論法ではなく、「他者としての将来世代をこの世に到来させることを肯定するからには、その他者がきちんとこの世に存在することが可能であるような環境を整えておくことは、現在世代の義務である。その義務を怠るならば、世代間の不平等が発生してしまう」といった論法を中軸に据えることができるわけです。
立岩 正確に重なるかどうかはわからないけれども、ぼくもおおむねそんな感じはもっている。搾取の話に付言していうと、搾取っていうことばはぼくは使わないって言ったけれども、それのもっているリアリティみたいなものはきちんとすくっておかなくてはならないと思う。それは何かって考えたときに、やっぱりこんなに汗水垂らして働いて苦労して頑張ったのに、そうじゃないやつに掠め取られちゃうっていうのはないよなっていう感じは、ぼくは正当でもっともな感覚だと思う。それはそれとして、いわゆる搾取理論、マルクス系の理論うんぬんの妥当性とかと別に言えるという意味でのラフな概念というか感覚というか、それはやっぱり今でも、あるいは今だからこそ、大切なものであるということは付言しておきたいんです。」(稲葉・立岩[2006])
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p. ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon]/[kinokuniya] ※ w02,f04
第1章とした「家族・性・資本――素描」に新しく加えた部分(〔〕内)
「〔「搾取」について。私は生産者による取得という図式を前提にした上で、その(不当な)横取り分として搾取を言うという立場には立たない。けれども、この言葉が人々に訴えたのにはもっともな理由・事情があるとも考えており、それには応ずるべきであるとも考えている。このことは『人間の条件』[2010→2011:212-218]等で記している。
労働価値説が非常に厳しい条件のもとでしか成立しないことを示した森嶋[1973=1974]の証明が橋爪[2010]で紹介されている。ただ、このことはマルクス主義(経済学)の退潮には関係しているとしても(立岩・天田[2011:45-46, 51-52]でもこのことを述べた)、私は基本的に「規範」を問題にしているからこのことは私の議論に直接には関わらない。搾取の概念の立て直しを図る試みとして吉原[2008]〕」(p.50)
◆立岩 真也 2013/01/01 「素朴唯物論を支持する――連載 85」,『現代思想』41-1(2013-1):14-26 cf.前の本
◆立岩 真也 2013/**/** 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版
「ごく単純な基本・確かに不確かな境界――第2版補章・1」より
「◇05 マルクス自身の所有論についてはここでは取り上げない。第2節4で少し関連したことを述べるが、それはマルクスについての言及ではない。【なぜとりあげていないかは、次段落の引用を読んでもらっても、まずは明らかである。その上で、なお使えるかもしれないと思うようになったことについて、第2版補章1で少し述べた。また『現代思想』連載の第85回「素朴唯物論を支持する」(立岩[2013a])に概略を述べたことにその前後に書いたことを加え、書けたら本を一冊青土社から出してもらう(立岩[2014a])。】
▽114川本隆史が、ノージックの議論に刺激を受け「『カール・マルクスの歴史理論』(Cohen[1978])によって「分析派マルクス主義」運動の中心人物に躍り出たジェラルド・A・コーエン」を紹介している。コーエンは「各個人は、自分自身の身体とその諸力を道徳的に正当な仕方で所有する主体であり、したがって彼らが自らの力を他者に対する攻撃に振り向けない限り、各人は自分の望みどおりにその諸力を行使する自由を有する」という「自己所有権(self-ownership)テーゼ」(Cohen[1986:77])の「直観的説得力を認め、かつそれが標準的なマルクス主義の搾取理論や共産主義社会のヴィジョンにおいても暗に前提されている点を明るみに出した」(川本[1995a:52-53])
【「分析的マルクス主義」「アナリティカル・マルクシズム」に関する書籍として日本語で読めるものとして高増・松井編[1999]、Roemer[1994=1997][1996=2001]、Cohen[1995=2005][2000=2006]。「搾取」の捉えなおしの試みとして吉原直毅[2006]。コーエンの論等にも言及しつつ私的所有、摘搾、社会主義を論じたものに松井暁[2012]。他に稲葉・松尾・吉原[2006]が議論の布置を知る上で参考になる。】」(pp.113-114,【】内が第2版で加えられた部分)
「◇22 「公正価格」についての議論は古くからあるという。ガブリエル・タルドの論の紹介を中心に、より以前にあった議論も紹介しているものとして中倉智徳[2011:282-285]。例えば――研究動向を紹介する渡辺恵一[2011]等を読んでみても、当然ながら――誰もそんなことは言っていないようなのだが、「労働価値説」の元祖ということにされる『国富論』(Smith[1776=1959])の基本的に幸福な感じは、価格決定の仕組み――そこには複数の計算の仕方があって、そのことをどう考えるかといった議論があるのだが――が正当な価格であるというその本の著者が思っていたからであるかもしれない。とすると、それは現実の説明というよりは、今ふうにいえば、規範論として読むこともできなくはないように思われる。」(p.813,第2版で加えられた部分)
※は生存学書庫所蔵