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事項
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ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業
広げよう愛の輪基金
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■ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業
https://www.ainowa.jp/jigyou/haken/
■本頁内
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一覧
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解説・言及
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文献
→◇
障害者(の運動)史のための資料・人
研究者:◆
権藤 眞由美
◇
http://www.yuki-enishi.com/challenger-d/challenger-d04.html
◇石地かおる i2020
インタビュー・2
2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用
◇奥平 真砂子 i2018
インタビュー――半生のこと
2018/06/30 聞き手:立岩真也・
権藤眞由美
於:東京・戸山サンライズ
◇奥平 真砂子 i2018
インタビュー――研修の仕事
2018/06/30 聞き手:立岩真也・
権藤眞由美
於:東京・戸山サンライズ
◇佐藤 聡 i2018
インタビュー
2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ
■1981(第01期)
◆
奥平 真砂子
◇奥平 真砂子 i2018
インタビュー――半生のこと
2018/06/30 聞き手:立岩真也・
権藤眞由美
於:東京・戸山サンライズ
「奥平 え、それで1年目に、もう、何だ、ダスキンの…、に、え…、があるって言われて(笑)。ミーハーな私はすぐに応募し、「ただでアメリカに行けるじゃん。」とか思って、応募したら選ばれたから、1年ぐらいしてすぐにもうアメリカに行っちゃったの。
立岩 もう何だ、入社した年ぐらいに…、
奥平 もう選ばれて…、
立岩 募集っていうかあって。
奥平 あ、そうそう。
立岩 1年のうちに、もう…、
奥平 選ば…、っていうか、募集かけてからちょっと時間があったから、結局は82年の1月にアメリカに行った。だから、在職は1年ちょっと。
立岩 そっか。多分僕が学部っていうのを出たのが83だから、それから3引くと80。80年に大学卒業した?
奥平 あ、そうそうそうそう。
立岩 80年の3月に出て、80年の4月に、そのガット・リハビリィっていうところに入って、80年、81年、で、82年か。
奥平 うん。…の、1月7日だったかな、6日だったかな、そこらへん。
立岩 この間もその、北山の店で聞いた時、それは結構やっぱり転機、転機的な…、
奥平 ああそりゃそうだよ。
立岩 今まではなかったよ、っていう。
奥平 大学に入ったのも転機だよね。初めての一般社会だから。施設、だって4歳からずっと…、
立岩 4歳から18までおんなじとこだったら、そりゃあ、なかなかのもんだよね。
奥平 そう、そう。今思うとよくやったよね。買い物すらできなかったと思う、最初。何か郵便局とか行ったことなかったし、銀行で口座開くなんてこともしたこともなかったし。まあ普通の高校生もあんまりないか。ま、とにかく初めてだった。
立岩 で、行くでしょ。戻ってくるでしょ。で、もう、戻って来た時はそこ高島屋は辞めた?
奥平 ああ、それで、1年間お礼奉公しなくっちゃと思って、1年働いて。
立岩 戻って来てから1年働いた?
奥平 そうそうそう。で、83年に辞めて、それで83年のまた7月に、今度は一人でアメリカに。ちょうど桑名敦子※も…、あの、あ、まず何だっけ、研修、これ私のあれになっちゃうけど、
◆
山口 和彦
◆吉浦 美和
◆桑名 敦子
◇桑名 敦子 i2019
インタビュー
2018/11/12 聞き手:立岩真也 於:立命館大学衣笠キャンパス創思館4階・書庫
「桑名:あとはやっぱり年代からいったら、80年に入ったら今度はアメリカからIL運動がちょうど入ったきた頃じゃないですか。だからその年代の人たちがもうちょっと大人というかね、もうちょっと丸くなった。それまでこう悪者ですからね。ほんとに私はインタビューにも答えましたし、青い芝の会なんてほんとにこうなんて言うか言っちゃいけない。私はね、59年ですから、あの人たちの流れの中の一番端っこに、やっとこう入ったかな、入らないかなぐらいで。しかもアメリカとか行っちゃったから、そこでね。行かなかったらそのまま普通に。しかもアメリカで会った人が、アメリカのラディカルなね、障害者の中のジュディとか、エド・ロバーツ〔
Roberts, Edward V.
(-1995)〕とかマイケル・ウィンターとか、その界隈ですよね。だから、そんでもってこっちもちょっと柔らかくなりました、青い芝の会がね。そこにアメリカの自立支援センターの障害者、そこにやっぱりこのミスタードーナツ★ね。これもね、やっぱりね、
立岩:大きいですよ。
桑名:大きいですよね。自分で言うのもなんなんですけども。やっぱだってそれがなかったら私は今こうしていられないというのもありますし、あそこから出てきた人たちがたくさんいるじゃないですか。遊歩さんだってそこに入って。
立岩:二桁ですもんね。
桑名:絹江さんだってあそこでねえ、絹江さんは住んではいないけども短いプログラムの中に入ってるし。結局あの中でいろんな意味で恩恵を受けてというかね、いるわけですよね。それで、でもってなおかつ、アメリカの自立生活センターがバッとそこで繋がったんですよね、80年代のね。
立岩:そうですね、70年代のパワーみたいなもの。でも現実に社会の中で運営していかなきゃいけないわけじゃないですか。そうした時のある種の仕掛けとかシステムみたいなものは、やっぱりアメリカのIL運動っていうものがある程度提供したわけだし、それに乗ったっていう部分が大きいですよ。
桑名:そうそう、だから日本ってね、日本人が言っても聞かない、日本の国はね、日本人が言っても聞かないのが、ほんとのIL運動見てて私は一緒に見てたけども、腹立ちながらも、まあまあ、アメリカ人を使えばいいんだっていうかね、アメリカ人の話は日本人は聞くんですよ。
立岩:そうなんですよ(笑)。
桑名:ほんとに腹立つんですよ。ほんとに腹立つんですけども、でもだから日本人は、あれ使った
立岩:使ったんですよ。
桑名:使ったんですよ、使ってよかったんですよ、ほんと使ってくださいみたいな。
立岩:特に国際障害者年、あの時81年だよね、あのあたりにアメリカの人いっぱい来たでしょ。ああいう時に、ほんと僕も腹立ちましたけど、腹立ちますけど、70年代の青い芝の話は聞かないけど、80年代から黒船に乗ってきた人たちの話は聞くわけじゃないですか。
桑名:そうですよ。同じこと言ってるんですよ。
立岩:そういうのは現にありましたよね。
桑名:うん。なおかつ、やっぱり私が思ったのは、障害にしたって青い芝の会っていうのは基本的にはCP、CPっていうのは特に言語障害があって。で、どんなに知的に高くても言語障害があるってことは、それがなかなか思いの丈が表に出ていかない。そうすると障害者の中でもヒエラルキーがあって、障害者のトップの中では私の中では脊損が、自分で言うのもなんですけども、なぜかっていうと口が達者ですからね、頭だって悪いわけじゃない。体もそれなりになんとか頑張れば行けちゃうんですよ。その中の一番底辺がCPなんですよね。ところがアメリカの障害者は、結局だからそうすると頭がどんなに良くたっても知的レベルという、学歴ね、学歴にしたってもやっぱりCPの人、その当時は学歴も。で、しかも養護学校に行ったか行かないかみたいなね、そういう義務化の前とかなんかだと。
立岩:そうですね。
桑名:でも逆にこっちへ来ると、アメリカ人ていうのの、ジュディみたって、マイケルみたって、ロバートみたってみんな大学とか大学院とか普通に行けちゃって。とにかくアメリカの中であと白人、白人ていうのは強いね、これね。アジア人じゃなかった、黒人でもなかった、ヒスパニックでもなかった、白人。でもって口はとにかく達者。これはね、やっぱりね、うーん…、これですわ。これですわって、頭に来んだけども。特にアメリカって口が達者でなんぼですからね。内容なんかどうでもいいんですよ。口でガンガンガンガン言って。だってジュディなんか涙まで出せますからね、本当に。そんで、私なんかほんとに、「え、涙も出しちゃって」、周りのアメリカ人にしたら「また始まった」みたいなね。ほんと使い分けた、ほんとジュディはそういう意味では役者っちゅうかね。
立岩:うん、なるほど。
桑名:はい。
立岩:一回ロンドンで、一回だけお会いしたなあ。
桑名:口も達者だし、うーん。それが、まあそういう人たちが。自立生活運動のトップの中にはCPはいない、口は達者、学歴も高いっていう人たちがやって。で、そういう人たちが日本に来ても、日本でもガンガン言った。で、しかもアメリカ人だから上は聞くみたいなね。腹は立つんだけども、まあ、うん、それは強く、それは、
立岩:いや、そうだっただろうと思います。確実にそういうことだったと思います。それを使ったっちゃ使った、日本の80年代はね。
桑名:うん。
立岩:そこん中に呼んだっていうこともあるけれども、行ったっていうね。ミスタードーナツのやつって、あれ研究してもいいことだと思ってて、もう何十年も経ってるじゃないですか、ずーっとやってるわけじゃないですか。
桑名:そうですよね。
立岩:どういう人がどういうシステムで派遣されて、その人たちのその後の人生ってどうだったのかみたいな。これってけっこう面白い本とかね、論文とか書けそうと思ってて。僕だと
奥平〔真砂子〕
さんて、
桑名:はいはい、真砂子さんね
立岩:真砂子さんに。彼女大学京都だったんですけど、その後高島屋に勤めてみたいな。そういう話聞いてると面白いですよ。
桑名:そうですね、そうそう。同期だったんですよ。第1期のね、同じとこに住んで。
立岩:それがアメリカ行って、ああなって、こうなってったって話★をさ、前、聞いて。やっぱりすごい面白かったですよ。だから、そういう人っていっぱいいるわけじゃないですか。時々ね、うちの院生とかにもさ、そういうこと言ってんだけどね。まだそういう研究出てないですけど、僕はやったほうがいいと思うんですよ。だからその友達、ドーナツの。
桑名:ドーナツね、ドーナツは、ほんとに。
立岩:全部じゃなくてもいいですよ。最初の10年とかでもいいと思うんです。そこん中の人はかなりもう、
桑名:しかも、やっぱりドーナツっていうのは、障害っていっても様々な障害じゃないですか。その、身体障害、身体障害の中でも様々だし。あと盲人、ろうあ者、まあ知的だってね入ってるわけだし、てんかんの人もいたし。だから様々な障害、やっぱりそういうのも非常にその当時は珍しいっていうか、障害を別にね、障害を別に区分けされたりしてたのが、あの中ではみんな、だから私だってこう、私第1期生でして。だけど身体障害っていうのはもちろん養護学校で入ったけども、盲人とかろうあ者とか、そういった内部障害の人は同じ障害ていったって初めて会いましたとか、初めて接しましたみたいな、全くわからない。うん。そういう感じでしたもんね。同じ第1期生とかいっても様々な障害者がいて、様々な地域から来て、年齢も様々だったし。
立岩:一回、その、各年のね、その同窓生たちがいるじゃないですか。あれをまずリストアップしてね、っていう。この第1期生とこの人っていうのをいっぺん作ろうっていうかね★、それは途中で止まってんだけど。でも改めてね、もう誰か今のうちにっていうかそのへんのこと調べて、あれが何だった、何だったってかね、終わってるわけじゃないですけど。特に初めの頃っていうか1期生から10期ぐらいまででもいいや、うん。それは改めて今日、しばらくちょっと忘れてましたけど、それをちょっとそれを呼びかけてみようかなと思います。もしそういうやつが現れたら、またそのへんの、その当時の話を伺ったりするかもしれませんね。
桑名:だから、あれによって、私はもちろんだけども、真砂子さんにしたってそうだし、やっぱり多くの人はドーナツで人生を変えられたというか。あたしなんかは目を覚めさせられてしまったというかね。あれがなかったら、たぶん普通にというか、まあ悶々とはしてたけども、そのまんま郡山の中で、なんかうん、おとなしくしてたかもしれないけども、バークレーみたいなあんなとこにボーンって行かされて、別に自分が行きたいって言ったわけでもないのに行かされたら、バークレーで、ね、なんかすごいこう、とんでもないもの見せられたり、聞かされたりして。」
■1982(第02期)
◆
勝矢 光信
◇勝矢 光信 19821001〜 「バークレー便り」,『リハビリテーション』247(82-10):32-33,248(82-11):34-35,249(82-12):42-43,250(83-1):40-41,251(83-2・3):42-43
◆谷口 明広
■1983(第03期)
◆
安積 遊歩(純子)
◇安積純子 19901025 「<私>へ――三〇年について」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:19-56]
「バークレーに行く(1983)
そのころ友人が、ミスタードーナッツ(15)の申込用紙を、私の名前でとりよせてくれたんだよね。友達が代わりにとってくれたなんて思わないから、私はむじゃきに喜んじゃって。全国的に私のやっていることが認められたのかもしれないって思ったんだよね。あることないこと書いて出したら通ってね。それでバークレー(16)に行ってきたわけ。橋本さんはもしかすると行くかもしれないと思ったんだって。私はだめに決まってると思ったけど。
行ったのが八三年一〇月三日から、八四年の四月三日までちょうど半年。バークレーは、いちおう希望したよね。丸山さんの『われら人間』に載った文章(17)をみて知ってたから。
▽038▽住んだのはアルバニーっていうバークレーの隣町で、アジア人が多いコミュニティなのね。それでハワードっていう介助人とルーっていう重度の障害者のいるアパートに間借りしてたの。ルーは軍関係のエンジニアだったんだけど、ものすごいストレスのたまる仕事で、毎晩毎晩深酒して、ある日立てないくらい飲んで転んで首から下が全く動かなくなっちゃったんだ。自分で呼吸ができなくてギッコンバッタンいう特殊なベッドに三か月寝て呼吸したんだって。退院した時には呼吸機をつけられるような状態まで回復して、電動車椅子(18)を持って、リフトつきの車も持って、住み込みの介助人を一人雇ってアパートに住んでたの。障害者になったとたんに離婚しちゃったのね。扶養者がいると保険があまりおりないけど、いなくなると介助人を雇うためにどっさり出るっていうことで。でも奥さんともつきあっていたけどね。私はそれはすべて計算されたことで奥さんとの関係は変わらないと思っていたんだけど、でも障害をもったから別れるって言った時にはかなりいろいろ葛藤があったみたい。それはあとになって気づいたけど、娘は毎週訪ねてきてたけど、奥さんは月」回くらいしか訪ねて来なかったから。
夜中にゴーゴーゴーっていう彼の呼吸機の音が聞こえてきてさ、ときどき口から呼吸機が外れると、「ハワード、ハワード」って彼が呼ぶんだよね。う一ん、あれがなつかしい。彼は一年くらいして亡くなったんだって。こないだ行った時にはもう彼のところは訪ねられなかった。自分の住んでたアパート見てきただけ。
ハワードっていう人は、アメリカ・インディアンの血が四分の一入っているんだって。その彼と、CILでドライバーをやってたジェフっていう人からアメリカの人種差別っていうものをどんどん聞いてあまりのひどさにびっくりした。変わった人で、でもやさしいんだよね。毎日私がCILから帰ってくると、新しい花が机の上に置いてあるの。でも私の介助者っていう人はいなかった。買物とかはハワードと電動車椅子で。
CILのリフトバスが毎朝やって来て、週四日CILに通った。郡山にいた時は寝たり起きたりしながら動きまわってたけど、急に九時から五時まで働けって言われて、脊髄がうんと痛くなつちゃったのね。それで、ほんとは▽039▽五日なんだけど、四日にしてもらったの、水曜日にはうちで英語の勉強をしていた。土日は遊びに行ってたよ。サンフランシスコに行ったり。友達ができたりしてたから。公共のリフト付きバスってしょっちゅうリフトが故障しててさ、二時間待ったりしたもんね。でも月にこ、三回はうちにいた。あと、ルーの奥さんの家に招かれて食事をしたりとか、日本人の友達ができて遊びに来たりとか。
最初、あんまり要求を出しちゃ悪いって思ってたんだ。出すためにも情報を知らなきゃなんないんだけど、英語もよくわかんないし。そうすると、この子はやる気がないとかなんとかみんなに言われるわけじゃない。だからってさ、こんどは勝手にグループホーム(19)とかに行ったりしたら、黙って行ったって怒られて。スーパーバイザー(20)の人と気があわなかったり、最初は大変だった。
でもだんだん慣れてきて。何をしてたかっていうと、一つは介助派遣部門で手伝えることを手伝ったりしてたの。介助人のところに全部電話をかけまくって、あなたは今こういうところで働いていると思うけど、今後もアテンダント(21)として登録されたいかとか、働いてない人には働く気があるのかないのかを聞いたりとか、利用者に条件は変わってないかとか、あの人はよかったかとか、聞いたりして。あの介助者はやめさせた方がいいとかみんなすきなことを言ったりしてたよね。電話かけろって言われて泣きそうだった。アテンダントをやってる人にも英語よくわ
からない人なんかもいたりして、さっぱり二人で通じなかったりして、もうだめ。CILの介助者は質が悪いって言われてたんだよね。UCバークレー校の中にも介助者を派遣する事業があって、それは質がいいって言われてん▽040▽だけど(22)。学生にはお金のある人もいるみたいで、時給もニドルくらい高かったんじゃないの。CILはその時三・三五ドルぐらいだったか、今は五ドルで、七ドルとかにしてくれって運動してるって言ってたよ。
おもしろい人がいるの。インタヴューするのね、介助人になりたいつていう人が来た時に。どっからみても男なのに女だって言い張ったりさ、いろんな人がいるもんだ。あと、ものみの塔とか、宗教関係の人もいた。それからここで、すごい重度の言語障害の人がボランティア、前は給料もらってたんだけどレーガンがどんどんそれをガットしてその時はボランティアしてたの。何するかっていうと、言語障害の人に対してどういう態度をするかっていうことを試すわけ。そのナンシーっていう人が話しかけて、きちんと応対すればまあいいっていうふうにみられて。
それからハウジング・サービスにもいた。いろいろやったんだげど、覚えてるのはモーテルとホテルの調査。バークレーのモーテルとホテルに全部行って、スロープやエレベーターと障害者に対する特別なサービスとして何をしてるか、本職のスタッフについて聞いてまわったわけ。それからもう一つ、自立生活プログラムのクラスで、カウンセリングを見学したり、カウンセラーのアシスタントみたいなことをしたり。あと私はそこの研修はしなかったんだけど、CILで何が一番大きな事業かって言ったら、お金集めね。プログラム(23)に対して州とかからお金がくるようになっているから、プログラムを書いて、三年とか五年とかもらって、その後のためにまたプログラムを考えていくっていう方式でお金を集める。そういうことができる障害者っていうのはすごく高く評価されるのね。
CIL自体はほとんどサービス機関だよね。あの時は、地下鉄のエレベーターの呼び出し用の電話機が頚髄損傷(24)の人なんかが取れないようになってるってことで、裁判闘争が起きてたり、アクセス(交通機関・建造物への接近)とかいろんな問題で運動するじゃない、そういう交渉は個々人がやってる。CILの人達がそこに支援しに行くって時も、すべて個々人が、行きたい人が行くっていう感じで、行かなければならないっていうことでは全然ないわけ。障害者の運動団体っていうのは別にいっぱいあってね。女性障害者団体もあるし、ポリオ(25)の人達や筋ジストロ▽041▽フィーの人達のダループもあるし、骨形成不全の人達のグループもあるし、それぞれの利益のためにそれぞれ活動してる集団はいっぱいあるよ。もちろん、全米障害者市民連合(27)みたいな大きな団体もある。
自立生活運動が始まる前ってどういう具合いになってたんだろう。施設もあったよね、家にもいたはずだし。あとレイクタホってスキー場にみんなで行った時、そこの路上のおみやげ物屋みたいなとこで、脳性マヒの人が造花を売ってたわけ。牧師さんに引き取られて教会にいる障害者の人が、働かなきゃいけないって言われて、牧師婦人が作った造花の花輪を売ってるんだよ。私がバークレーでは障害者はみんな自立して生活してるんだよってしゃべったら、自分もそういうとこに行きたいみたいなこと言ったんだけど、なんとその牧師婦人が五〇メートルくらい▽042▽のところで、車の中でずっと見張ってたんだよね。しゃべってたら、近づいてきて、私はこういうかわいそうな人達、五、六人の人達を面倒みてるんですよなんてうれしそうに言っちゃったりしてさ。そういうふうにアドプトっていうの、養子縁組とか、そういうことも多いみたいだなって思った。私の友達が赤ちゃん産んだらものすごい重度の障害者で、育てるって言ってたんだけども、結局育てきれなくなって、引き取られて養子縁組して行ったとか、あと、エイズの子供を引き取ろうっていう人が何人もいるんだってね。
里子をとりたいつていう気分は何なんだろうな。ある種の罪責感はあるんじゃないの。アルコールにしても、アメリカ人は、飲んじゃいけないとか、自分は気の弱い人間だとか思いながら飲んでいるでしょ。うちの兄ちゃんとかお父さんとか見てて、これは救われないなって思うもの。ちっとも罪意識がないからさ。アメリカ行つた時は、どのお酒飲みの友達と一緒になっても、悪いなっていう顔して飲んでるもんね。でもだから日本人がそういうことしなくてもいいっていうことにはならないよね。もっとバイオロジカル・マザー、産みの親だけじゃなくて、いろんな子がいろんなように引き取られるといいなって思ってる。私も自分がバイオロジカル・マザーになるつもりはないけど、子どもは育ててみたい。今はそういうことできないけど、いっかは。そういう時に養子縁組の締め付けってすごくきびしいでしょ。二人そろってるとか、健康じゃなきゃいけないとか、ものすごいどっさりした規則があるんだよ。あと日本は、異人種や異文化というものに対するアレルギーがあまりにも強すぎるわね。アフリカの子とアジアの子と白人の子とインディアンの子と一人ずつ引き取って一緒に生きられたら楽しいだろうな。だけどこれは夢のまた夢のまた夢ですね。ああ、夢はなんですかって聞かれて思いつかなかったけどこれだ。
生活の仕方っていうのに驚いたよね。あと女性がすごいパワフルだった。日本だと結婚するまで親元にいて、親元から出る時は結婚する時で、それ以外の選択権がないような感じでしょ、特に女性に対しては。でもバークレーっていうのは、女の人を一〇人無作為に選んできたら、三人くらいがレズビアンで、三人は一人暮しして、三人は▽043▽女の人や男の人とセクシュアルな関係抜きで共同生活、一人くらいが真面目に結婚してたりとか,生活のバラエティにはほんとうにびっくり仰天したわよね。学生町だからつていうのはあるけど、だけど東京で二〇代、三〇代の人を選んできたってそんなことないじゃない。とにかく普通に結婚して、普通に子どもを産んでっていう価値観がもののみごとに崩れてるっていうふうに私の目には映ったんだよね、ホモセクシュアルの人たちがどさっといたしさ。
もちろんアメリカ全体ではないよ。八八年の九月、二度目に三週間アメリカに行ったんだけど、ごく普通のことで悩んでいるっていうか、姑の問題で悩んだりしてる人もいたりして、逆にびっくりしちゃう。バークレーって特殊だなって、ますますアメリカを知るほど思うけど、でも最初に行った時には、福島からポンって行ったわけだから、もうこれがアメリカって映っちゃったわけじゃない。だから、その時にはんとにいろんなことでびっくりしたね。生活の形態にもびっくりしたし愚人と違うっていうことがこれほどにも生き生きというか、これほどにも当り前に人と違っていいんだというか、人と違うことに誇りを感じてるみたいなところっていうのは、今までの人生のなかにはなかったことだから、人と違わないようにして生きよう生きようっていうのが日本っていうか福島の感じでしょ。ほんとに小さな差異にこだわって。
二度目に行ってびっくりしたのは、バークレーでドメスティック・パートナーに対しても、結婚してる人と同じように、権利を保障しろっていう法律が、アメリカで最初に可決されたんだって。ドメスティック・パートナーっていうのは、同居してる人。性別が関係ないっていうことが、すごいことなんだ。ホモセクシュアルで結婚式なんかあげちゃった場合、自分のパートナーはこの人ですって言えば、市の行政の中のそのまた狭い範囲に限られるんだけど、それなりの扱いを受けることができるみたい。日本の知合いの一人は、いいかげんな申請がいくらでもできるから、そんな法律はよくないって言ってる。どんどん別れたりくっついたり、別れたりくっついたりさ。でも、私のレズビアンの友達は当り前の法律、いい法律だって。愛し合っていて、かたやヘテロセクシュアルだから認め▽044▽られて、かたやホモセクシュアルだからつて認められないっていうのは許せないってわけでしょ。確かにカップルだと判断する上で難しい問題はあるんだけど、栃木で同棲してた時とか、日本でシングル・マザーやってる友達とかのことを考えるとそういうのを許容するっていうことは気分的にすごく暮しやすいと思うわけね。昔からあのへんに住んでいるいいコミュニティ(28)の人達からみれば、あまりに寛容すぎるっていうか、それでストリート・ピープルっていうか、そういう人達がいっぱい来てしまっていやだっていうことになるんだろうけど。
それで思い出すけど、UCバークレー校に行った時、トイレの手洗うとことかに、ストリート・ピープルの人達がいっぱい寝てるんだ。いやびっくりした、あれも。だってたいてい二〇代の若い女の子だよ。日本の女性のストリート・ピープルってほとんど考えられないじゃない。目がとろーんとしてたから、麻薬やってたのかな。どっちにしても、日本じゃ考えられないよね。家族が崩壊してるんだ。それ自体は悪いことじゃないんだよ。崩壊するならした方がいいってことだね。でもなんていうか自由ってきびしいなって思ったな。レストランの残飯とかはもちろんあさるだろうし、お金ももらうだろうし。インテグレーション(29)に名を借りたレーガンの無策でどんどん精神病院が閉鎖されて、精神病患者が出てきて、それでストリート・ピープルになってるでしょう。マイケル(30)なんかも身体障害者にはなんとかしようっていう気になるけど、精神障害者までは多くてまわれないって言ってた。やっぱり麻薬中毒とかアルコー・ル中毒とかっていう人が多いのかな。でもなんか気候もあるよね。別にぶんばってしゃかりきに生きなくてもいいような気になっちゃうね。オーストラリアとかカリフォルニアにいると。ぼやっとしてても、なんとなく食べていけるような気になるよね。ボストンとかニューヨークとか行くと違うんだろうけど。
私もお金ちょうだいって声かけられたよ。それもすごいなって思うね。日本の障害者の女の子に一〇セントちょうだいとかさ。三回声かけられて一回だけあげたの。囲りに誰もいなかったし、もしあげなかったらなんかされるんじゃないかって思っちゃって。それに、あまりにもあどけなく、あまりにも当り前みたいに、電車に乗るのにお▽045▽金かないんだって無邪気に言うからね・がわいくなったの。だいたい日本だと障害者に道すら聞かないのにさ、道を聞くのは当り前、お金までもらおうっていう。彼らは私達を平等に見てるわ、対等に。無邪気に喜んだよね、お金ちょうだいって初めて言われた時は。お金ちょうだいって言って歩いてばかりいたのにさ、街頭カンパとかね。
でもほんとに行ってよかった。あまりにもみんないろいろ違うっていうことにね、新鮮な感動だよ。だから自分も徹底的に違っていいっていうふうに意識的には思わなかったけど、無意識的には思って帰ってきただろうね。だからみんなと仲良くやっていこうだとか、義理とか人情だとかっていう世界も、なんかどうでもよくなってしまって、もう自分のすきなように生きるぞ、そういうふうに思えた。人と違っていいんだっていうか、私は私なんだっていうふうに、開眼したからね。家族のためにがまんして施設にいるとか、親を泣かせないために家にいるとか、日本ってそういうのが強いよね。でもアメリカなんてそんなこと言ったら、馬鹿じゃないのっていう雰囲気だもんね。家族だって、母親は母親のこと、父親は父親のこと、それぞれ考えているから、子供のためにって思うの、せいぜい一〇代くらいじゃないの。アメリカじゃ自立しなきゃいけないのよ、日本では自立しなくていい。
その八八年、二度めにアメリカに行った時、一番仲のいい友達の友達が亡くなったのね。彼女はものすごい落ち込んでてさみしくて、私は一日半一緒にいて泣いたり笑ったりして慰めていたけど。それもきびしいよね。母親と▽046▽か父親とか家族との関係ってほとんど切れてるから。東京ってだんだん似てきてる。でも私、今は家族とかって大事にしたいって逆に思っている。家族とか友達とか自分の関係作った人、関係できた人。ほんとに人との間でだけだよね、さみしさとかそういうもの超えられるのは。アメリカってそういうことを教えてくれた。自立した当時は反発して、母親にも父親にも一年間くらい会わなかった。あんなのいなくっていい、私は新しい社会を作るんだなんて思っていたけどさ、やっぱり、両親も家族も友達も、みんな大事だよ。だから、自分だけの時間も大事だよね。
人間関係を作るためにいろんなことをしていかなきやなんない。だから自分を一人で自分をみつめる時間も大事なんだ。今のいろんな人と関係しながら一人で暮らしてる生活はとても気に入ってる。
それから福島では常に「反差別」じゃなきゃいけなかっだでしょ。人間としてあたりまえに生きるというんじゃなくて、差別があるから反差別があるという感じで。反差別の視点があるからやるみたいなところがあって。すごく緊張していた。かまえていないといけなかった。行政は障害者を同じ人間とは見ていないわけよね。行政闘争をずっと繰り返して、言語障害の人の話を、そっぽを向いて聴いてもいないのを、こっちを向かせて聴かせるのに、目と目を合わせるのに三年もかかる。それでことが足りてるという。消耗だよね。なんで一々こんなことを言わなきゃならないんだって思って。疲れるよね。バークレーの状況はまったく違った。保障するのは当り前とされていたから。一々差別を言う必要がなかったの。権利を主張すればいい。楽だった。がくっときたよ。足りないところは補わなきゃならないとアメリカではみんな思っているわけ、こっちではそんなのは権利として認められていないもの。自分達がやってることが社会的に認知されないっていうのがあったわけ。半端者って感じだからね。それがアメリカでは評価されてる。私達がずっとやってきたことも考えてみればカウンセリングだって言えるんだけど、それが社会的な職業として成り立ってるわけだよね。
あと、プライベートな時間と仕事を彼らは分けていたよね。時間外では何もしないし、それを悪いとも思ってい▽047▽ないのね。私達には個人の時間なんかなかったもの。彼といっしょにいてもだれかが来れば常にウエルカムしなくちゃいけない。そう思っていたから。しょっちゅう私達を頼って人が来てた。私達には運動しかなかった。自分のことを考えるのはエゴだと思ってた。自分達の時間なんかは全然なかった。ところが、CILでは五時以後は完全に自分の時間。私達なんかほっておいて。じゃあさよならっていう感じ、私はアメリカでは運動の欠如にものたらなさを感じたんだよね。ジュディ(31)にも、もっと重度の人のことも考えるべきだと言ったりしてね。そのときは批判も感じたけど、帰ってくるとああいうのもいいなと思ったね。
結局郡山にいた時はいつもすごい緊張してたわけ。日本というか福島というかこういう状況だから仕方がないとも言えるんだけど、自分の生活なんかなくて、苦しくなってたところがあるし、すごく疲れてしまってたわけだ。そこで、一人一人好きなようにしていいっていう考え方っていうのは私をすごく楽にさせてくれた。もちろん言ってきたこと自体は正しいんだけど、それでどんどんやってくとまず自分、自分の生活が苦しくなっていくっていうことだよね。自分を楽にしてやろうって。行ってた時にそう思ったわけじゃないけど、帰ってきて思えたきたのね。
八四年四月にアメリカから帰ってきたでしょ。帰って、あっちこっちで報告会を開いたけど、ギャップが大きくていらいらした。なんでこうも違うのかって思って。極端から極端だったから。してあげているんだって言われれば、して当然だと言い返すことになる。そういうことが消耗だった。こんな当り前のことさえまともに通らないのが腹立たしかった。有料介助者もいないしね。人のためにまた介護者を探さなきゃいけなくなって。大変。自分でやればいいと思いながら、つい、がんばってリクルートしてきちゃうんだ。後でそれがたまって。矛盾だよね。
▽048▽その頃やってきた人とつきあうようになって、結局、九月にその彼の住んでるところに移った。そこに行ったことも、国立にやってきたこともみんな福島でのことを置き去りにしてっていうことになる。けれども、それはそれで仕方がないって思い切るしかないって思って。もちろん気になるんだけども。彼は介助にやってきた健常者で、その時は結婚ってことを考えた。けれども、親って人が、たたりだとか、悪魔が来たとか、ほんとに言うんだよ。それで今から考えても私自身あの頃は随分荒れてた。でも彼は私を全面的に受容してくれた。ようやく障害者だとか健常者だとか関係なく自分の身体を示すってことに抵抗がなくなった、自分をほんとに受け入れることができるようになったのはそれからだと思う。とにかく障害者の性に対してほどタブーなことはない。私の養護学校の校長がなんて言ったかっていうと、安積さん、障害者の女性でも子供産めるのかしらって。それが養護学校の校長やってるんだよ。逆に、というか、インターコース(交接)至上主義っていうのもある。もちろん障害者に限らないわけだけども、例えば下半身不随の人達も含めた多様な性のあり方っていうのを認められないんだよ(32)。」
「(16) バークレーCIL(Center for Independent Living=自立生活センター)等、合衆国の運動については第2章。
(17) 丸山[77B]。
(18) 電動車いす。バッテリーに充電した電気で走る。日本では時速六キロの速度制限あり。重量約六〇キロ。これに関する文献としては新宿身障明るい街づくりの会・自立生活ネットワーク委員会[87]がすぐれている。
(19) 少数の障害者が集まって居住する場。ケア付住宅(→第8章)とほぼ同義にも用いられる。
(29) supervisor援助者=ワーカーを援助し、指導する人を指す。
(21) attendant=介助者。この場合はCILに登録している有給の介助者を指す。
(22) 合衆国の自立生活運動はここから始まったと言われる。第2章参照。日本の運動の経緯とは全く異なっている。
(23) 事業計画。これを作成し提出して、自治体や民間団体輝それを有意義なものとして受け入れた場合に資金が提供される。日本でも民間の財団等からの援助はほとんど設備費か特定の事業に対してなされる。もちろん本当は日々の運営資金の方が重要なのだ。ここの折り合いをどうつけるかに運営者は頭を悩ますことになる。
(24) 脊髄損傷:脊髄の脱臼や骨折の直接損傷あるいは外傷による二次的な出血、浮腫のための圧迫による脊髄マヒ。原因としては交通事故等による外傷、脊髄腫瘍、脊髄炎。脊髄上部の頚髄の損傷(これを特に頚髄損傷と呼ぶ)の場合は四肢マヒ、胸・腰髄損傷の場合は両下肢マヒになる。在宅の脊髄損傷者の生活について松井[88]、及びそこにあげられている諸文献を参照。
(25) 脊髄性小児マヒ(ポリオ)は、正式には「急性灰白髄炎」と呼ばれ、ポリオウイルス菌が脊髄の細胞を破壊した結果、四肢、特に下肢に弛緩性マヒを生じたもので、時には体幹のマヒ、呼吸のマヒを起こすこともある。特に子どもに罹患率が高かった葦、六一〜六二年頃からワクチンが積極的に用いられるようになった結果、急速に罹患率は減少し、現在は新患はほとんどみられない。
(26) 進行性筋萎縮症は、筋肉自体に病気が起こる「進行性筋ジストロフィー症」と、それを動かす神経に病気があってその筋肉が萎縮する場合があり、前者の原因はまだ明らかになっていない(以上諸障害の概略的な説明として手塚[81:28-29]他)。
(27) 略称ACCD。七六年発足。障害者が運営・指導する団体を構成メンバーとし、偶人会員を含め障害者を援助する健常者の団体を准会員とする。代表者会議には加盟団体の代表者が出席。個人会員の場合は州を単位に代表者が参加。八〇年には九十余団体雌加盟し障害者推定三千六百万人(合衆国で.は全国的な調査は行われていない)のうち七百万人を会員とする。
(28) 経済的な格差、特に人種間の激しい格差はそのまま居住地域の違いになり、比較的高所得の白人の住む地域は犯罪も少なく「よいコミュニティ」ということになる。低賃金での介助者の雇用は、かなりの程度こういつた格差に支えられている。
(29) integration統合と訳される。障害のある人でも施設等に隔離することなく、一般社会で生活を送るべきだという理念、その実現を目指す実践の方向を指す。他に障害者が社会の本流に位置すべきだというメイン・ストリーミングmain-streaming、ノーマライゼーションnormalizationといった言葉も用いられる。ノーマライゼーションについては第7章。
(30) Micael Winter 先天性の骨の障害を持ち、イリノイ大学時代から障害者運動のりーダーとして活躍。現在、バークレーCILで研修した後、ハワイCIL所長、現在バークレーCIL所長。数度来日している。
(31) Judith E. Heumannポリオの女性で、七五年にバークレーCILの副所長になる、七七年のリハビリテーション法の早期実施を要求する運動(→第2章)で指導的役割を果たす。数度来日。自身が寄せた文章としてヒューマン[88]、インタヴューとして『そよ風のように街に出よう』8号(81年):33-37、15号(83年):10-13。
(32) エンビィ[72=83]、聞き取り・手記を収録したものとして牧口・河野編[83]と岸田・全編[84]。雑誌でほ『福祉労働』12号(81年 特集・障害者の結婚と性)の他、時々特集が組まれるようになった。また、子宮摘出手術について「障害者」が地域で生きる会[81]八九年十一月の「朝日新聞」報道、同年末以降の『全障連』等。他に第2章注(13)も参照。また安積の書いたものとして[82][84][88][89]。」
◇
安積 遊歩
19931120
『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』
,太郎次郎社,230p.
第5章「車椅子で体験したアメリカ」
◇安積 遊歩 i2017
インタビュー
2017/10/30 聞き手:白杉眞
◆阿部 司(あべ・つかさ)
・東京都国分寺市
・日本興業銀行に勤務,障害者リーダー米国留学研修派遣事業第3期生 (83.9〜84.3主にバークレー) 妹と同居 国分寺ハンディキャブ運営委員会・副委員長, ヒューマンケア協会 恋ケ窪・国分寺・西国分寺駅の改善をすすめる会・代表
◆
石川 准
◇石川 准・河村 宏・立岩 真也 20140322
「視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏――その1970年代から21世紀へ」
<立岩> 77年入学でしょ。ということは81年に学部卒、83年に修士卒。
<石川> 1年間アメリカ行って。ミスタードーナツでね。
<河村> 昨日広島で雑談していて、石川さんがアメリカ行く前に高橋徹とけんかした話を久しぶりに話しして。
<石川> けんかしたの僕じゃないよ。この男だよ。
<河村> 立岩先生がけんかしたの?
<石川> そうだよ。だって僕の送別会の日におおげんかして、酔っ払って、まあ高橋徹が悪いんだよ。でも普通みんな我慢して。僕もどんだけ理不尽な目にあったか。ここ来てからでさえ、なんて理不尽なと思う。これ録音していてもいいですよ。亡くなって、いや生きていてもいいんだけどさ、本当理不尽な人間だった。一方で情みたいなのを持ち合わせてはいたんだけど、でもそれを割り引いてあまりある理不尽さだったね。で、一応ゼミの指導教官ではない立岩は、なんだっけ、けんかになったんだよね飲み屋で。おおげんかに。
<立岩> なんかよく覚えていない。
<石川> いやまあどっちかというと高橋徹が自分を中心とした話じゃないことに怒ってなんか言ったんだよね。だと思った。
<立岩> 僕はなんかお前は差別者だというようなことを高橋さんに言った記憶はある。
<青木> わあ80年って感じですね。
<立岩> まあいいや。でもまあどっちも酔っ払っているから、高橋さんも次の日には忘れていて。
<石川> 本当かよ。
<立岩> そうみたいだ。忘れている感じだったよ。
<石川> いや、忘れたことにしたんじゃない。
<立岩> したのかな。あの後僕静岡県の某短大の。
<石川> それで悪いことしたなと思ったんじゃないの。
<立岩> そうかな。高橋さんが僕の就職の斡旋というか。それは結局消えたんですけど、どっかで間違ってなければ静岡の某女子短大が振り出しだったかもしれないですね。それは高橋さんとりもってくれた。だからすごい勝手な人情家というかさ。そういう感じの人だよね。
<石川> あのね、なんというんですか。
<立岩> 酒癖めっちゃ悪いという感じ。
<石川> まあ性格すぎて。
<立岩> 奥さんいい人だけど。
<石川> 奥さんいい人だけど、まあいいや高橋さん、別にここ高橋さんのことを言うためのあれじゃない。しかしいまだかつてああいう人に、あれと同じような人に会ったことがない。
<立岩> 暴君なんだよな。僕はそういう直接被害あんまり受けてないんですけど、ゼミじゃないし、だけど高橋ゼミだと京大の社会学の落合〔恵美子〕さんとか。
<石川> でも女の子には優しかった。まあいいや。でもまだ覚えているということはトラウマになっているのかな。
<立岩> 留学はニューヨーク市立大学でしたっけ?
<石川> ニューヨーク州立大学のストーニーブルック。ステイト・ユニバーシティ・アット・ストーニーブルックって言うんです。
<立岩> そこD1のときに1年間。
<石川> D1で行った。向こうのPh.Dのプログラムに正式に入った。だから向こうでも単位取ったよ。
<立岩> 単位取れるようなタイプの?
<石川> だって一応普通に入学したんだもん。
<立岩> そうかそうか。
<石川> お金も払ったし。授業に普通に出たから。試験も受けたし。当時アメリカでどういう試験だったかと言われると、レポートだったんだけど。電動の普通のタイプライターでレポート書いていたもん。
<青木> 受験するときもレポートだったんですか?
<石川> 受験するときは、そこで勉強させてくださいとテープ送りつけてそれで合格したというだけの話で。まあいいんじゃない、これだけ英語できればみたいな。
<青木> テープって、録音したものを?
<石川> 僕はそこで勉強したいんですというテープを送っただけ。
<立岩> 郵送か何かしたわけ?
<石川> そうそう。
<立岩> 日本からアメリカにメッセージを送ったわけね?
<石川> そこにハナン・セルビンっていう全盲の教授がいたわけ。だからそのセルビンさんに僕はそこで勉強したいんですって言って、そのセルビンさんは学部長に、こういうふうに言ってきてんだけど、これだけきれいな英語話せるんだったら大丈夫じゃないみたいな、まあいいんじゃないみたいな感じで入ったわけ。その後、GRE受けなきゃいけなかったんだけど、なんだかんだ言って受けなかったんじゃないかな。受けた記憶がない。
<立岩> 先端研の入試もそんな感じあるかな。やりたいことはっきりしていればどうぞみたいな。
<石川> GREというのは、僕、受けなきゃいけないと言われていたんだけど、なんだかんだ言いながら結局受けなかったような気がするな。ただし行く前にTOEICか、当時はTOEICが中心だったよね、受けましたよ。それでその勉強はしていた、入学する前に。それこそ東大のラボで一生懸命勉強していて。そのときもテストは。中国系マレーシア人の女性の人に英語習っていたのね。その人が英語がほぼネイティブに近かったね。TOEICはICUで試験受けて問題読み上げて、それに答えるという、そういう形式だった。だから対面朗読式の試験だった。
<立岩> 英語で聞いて英語で答える?
<石川> そうそう。直接にその場で僕が答える。
<立岩> 試験官に対して?
<石川> そうそうそう。一問一問。
<立岩> ああそういうことね。
<石川> うん。そういうやり方。
<立岩> どうやって問題読む人を?
<石川> いやいや僕が連れて来た人だから。だって。僕が頼んだ人だから。多分TOEICの方はお金出してくれてないと思う。TOEICは会社でしょ。
<立岩> TOEICのところにその人連れて行って、問題文を石川さんが連れて行った人が読んでそれに対して答えて、答えたのをその人が記入するみたいな? 記入はしない?
<石川> いや記入はその人はしなかった。誰がしたかちょっと記憶にないんだけど、その人は読み上げる担当だったんじゃないかな。ちょっとはっきり覚えてないんだけどね。
<立岩> とにかく自分で答えて、それが採点されて。
<石川> そうそう。それで何点となってなんか640点ぐらい採ってまあまあ良かったんじゃない。当時。TOEIC620か40かだったと思うんだけど。まあそれだけ、だから向こうへ送ったデータそれだけ。TOEICのデータだけ点数だけで、あとはそのテープで大学で勉強したいんですというテープをハナン・セルビンに送りつけたら、なんか学部長に見せて、きれいな英語だから大丈夫じゃない、じゃあオーケーみたいな。で、正式にPh.Dプログラムの学生になった。単位も取ってきた。僕は2年間、一応なんだかんだ言って、そうはいったって一応修士やっているから、向こうの大学院生もスーニー〔SUNY:ニューヨーク州立大学〕はそんなにレベル低くないけど、そんなにめちゃくちゃ高いというわけでもないから、学生の感じも、いろんな年齢層の学生たちがいて、その中では、僕はちょっとアドバンテージがあった。
<立岩> 言葉さえなんとかなれば別にね。知識的に足りないということはなかったんでしょ?
<石川> そんなにはね。
■1984(第04期)
◆今福 義明(いまふく・よしあき)
・京都市 障害者リーダー米国留学研修派遣事業第4期生
・きょうと障害者行動センター 〔聞 87.8.24〕
◆
樋口 恵子
(町田ヒューマンネットワーク)
◇樋口 恵子 19980205
『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』
,現代書館,198p. 4-88233-045-8 1575
[amazon]
/
[kinokuniya]
※
◇樋口 恵子 1985 「アメリカ,見て歩き」,『リハビリテーション』274−285(連載)
■1985(第05期)
◆
松兼 功
※
◇松兼 功 1987 『あめりかガラガラ異邦人』,日本YMCA同盟出版部,253p.,1200
■1990(第10期)
◆井内 ちひろ(メインストリーム協会)
◇井内 ちひろ 19810320 「自立生活運動発祥の地バークレー」,『われら人間』056:15-16
◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのT ピア・カウンセリング集中講座を通して思うこと」,『めいんすとりいむ通信』005:57-59
◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのU」,『めいんすとりいむ通信』005:59-60
◇井内 ちひろ 19901101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その1」,『めいんすとりいむ通信』006
◇井内 ちひろ 19910101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その2」,『めいんすとりいむ通信』007
◇井内 ちひろ 19910401 「CHIHIRO NOW バークレーだより その3」,『めいんすとりいむ通信』008
◇石地かおる i2020
インタビュー・2
2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用
「石地:そうですね。「ここはなんとも暮らしにくいなあ」と思って。でその、「こうやってもし人生終わっていくんだとしたら、何のために生まれてきたんやろう?」って思ったし。まあうち従業員の人も何人かいたんですけど、その中で「障害をもつかわいそうなかおるちゃん」として、そういう役割でずーっとそこに閉じこもっていたというか、閉じ込められていたというか、そういうままでいて。20歳がきても25歳になっても、「ああ、もうすぐ30歳になるのに、私はいつになったらこう大人として扱われて、一人前の人間として見られるんやろうか」っていうことを、だいたい25、6ぐらいから考え始めるんですよね。
そう言えば25ぐらいのときにほんとに病んでしまって、本当の、本当にうつ病になっちゃったんです。こう自分の、その行く先がわからないというか。どういう、何を糧に生きていくのかとか、まあ私を誰が一人前の人として、私を認める人はどこにいるんだろうかとか。この障害があるっていうことを、ずーっとマイナスに捉えている自分のその気持ちというものとどう折り合いをつけたらいいかっていうことがわからなくなってしまうんですね。うん。
で、そういうことがあって、で、そうこうしていたときに、中尾もまあおんなじようなことを思っていて。「どうなるんだろう」っていうようなこと、まあ本当にそういうこと、2人でよく電話で話(はなし)したんですよ。で、26か27ぐらいのときに、中尾が
メインストリーム協会
の機関紙を「これを手に入れた」って言ってそれを送ってきてたんです、うちに。それがまあ自立生活センターを初めて知ったときなんですけど。あの、井内ちひろさんっていらっしゃるじゃないですか。
立岩:はいはい、最初の代表の方ですよね?
石地:そうです。で、ちひろさんがね、ちょうどバークレー、ダスキンでバークレー行ってて、で帰ってきて、で、バークレーでの様子っていうのをエッセイにして、
立岩:あ、連載してらっしゃいましたよね※。
石地:そうです、そうです。あれを読んだんです。
立岩:ああ、はいはいはい。それ覚えてます、井内さんの連載エッセイ。はい、ありました。
石地:そうなんですよ。で、それをまあ読んで、私はすごい★***(01:44:42)っていう物語としてそれを読ん…、「ああ、こんな世界があるのかあ」と思って。で、あのすごく、今でもすごく心に残ってる一文があって。あの、彼女がアメリカで暮らしてるときに、アテンダントはアメリカ人が来るんだけれども、でも、「アメリカ人に私が指示を出して料理を作ってもらったら、私の味の肉じゃがができた」っていうふうに書いてあったんです。それがすごく印象に残っていて。で、今まで介助っていうのは、養護学校でも「何かしてもらったらありがとうって言いなさい」とか、「かわいくにこにこしてないと、あんたの介助は誰もしたくないんですよ」っていうことを教えられたりとかしてきたので。私の親もそうなんでね。「あ、ここ、この考え方で、私もこれでやっていけるのならば、他人に介助をやってもらうってことをやってもらって、もっと自分がやりたいこととか、もっとこう自分が考えていることとかを表現してもいいような、そういう生活をしたい」っていうふうに思ったんです、それを読んで。で、中尾さんといろいろ自立生活センターに関係するいろんなものを2人でお金出し合って取り寄せて、で交換して一緒に読んで、自立生活センターの考え方とかそういうものを学んでいったんですね。
立岩:ということはですよ、中尾さんがメインストリームのを持ってくるまでは、そういうのってまあだいたい80年代の半ばぐらいにはぼちぼちとはじまってるというか、もっとたどればもっと前からありますけど、そういうのがそれまではほぼ何も知らんかった、いう感じですか?
石地:知らなかったんです。なんと私は青い芝の存在も知らなかったですから。
立岩:そうか。まったくに近いほど情報入ってなかったというか、
石地:入ってなかったです。まあ自分からもアクセスしようとしてないですし、知らせられるっていうこともなかったですし。あの機関紙がなかったら知らなかったかもしれないんですよね。
立岩:へえ。中尾さんは、『めいんすとりいむ通信』だと思いますけど、それどっから持ってきたんやろうね?
石地:たぶんね、私も一緒に行ってたんですけど、あの、まあ卒業して何にもやることないので、ボランティアグループみたいなのですか、ひまわり号とかは行ってて。中尾さん、そこで機関紙を作ったりチラシを作ったりっていうようなことを、あの、やってたんですよ。
立岩:ひまわり号のね?
石地:私ひまわり号しか行ってなかったんですけど、中尾さんはマップを作る会とか、外出する会とか、そういうところにも属してたみたいで、たぶんその中から、障害者からもらってきたんやと思います。
立岩:そうなんや。そういうことってあるんですね。
石地:あるんですね。機関紙は出さないとだめですね。みんな今はインターネットの時代ですけど。
立岩:で、そうなってああなって。まあ90年代の初めですよね?
石地:そうです。
立岩:そうやって「姫路まで遠いし」っていうんで、「もうここを離れよう」ってなっていくわけですか?」
◆
平野 みどり
■1993(13期)
◆
佐藤 聡
「91年にメインストリームに入って、朝日新聞の厚生文化事業団が助成をしてくれて、日本の車いすをリサイクルしてアジアに送るって事業を93年に始めたんですよ。メインストリームもみんなで車いすいらないのを集めて、綺麗に磨いて、送ったんです。全国で10団体ぐらいが入っていて、そこで送った団体は一人一緒にアジアに行けたんですよ。93年の春だったと思うんですけど、2月か3月ぐらいにタイに行ったんです、車いすを一緒に持って。
その時の副団長がAJU自立の家の山田昭義さんだったんです。僕は初めて会ったんですが、廉田はよく知っていて。廉田が山田さんに「佐藤っていうのが行きます。」って言っていてくれた。山田さんと一緒に1週間ぐらい行っていたのかな。最後、帰る日の晩ぐらいに「佐藤、お前アメリカ行くか?」って言われたんですよ。「行ってみたいです。」って言ったら、「じゃあお前ダスキン応募しろ。」って。「今年俺が団長だから、お前通す。」って言われたんですよ(笑)。「えぇー!そうなんですか。」って、「じゃ応募します」。その時は奥平さんとかは1年間行くような長いものだったんですけど。僕が受けた時は、100人ぐらいかな、1グループ10〜20人ぐらいのグループを4グループぐらい作って、それで行く形に変わっていた。期間は2週間と短くなっていましたが、英語喋れなくて行けたのです。
それに応募していけるようになりました。私のグループは10人ぐらいいたのですが、今も活動をしてる人が結構います。埼玉の見形さん、IL文京の関根さん、新潟の遁所さん、米子の光岡さんもいて、今も活動続けている人たちが、同じグループだったんです。AJUのスタッフのみなさんが一緒に行ってくれて、そのグループはすごく楽しかったんですよ。通訳は斎藤明子さんでした。[01:04:21]
それでね、【2週間だ】、最初バークレーで、エド・ロバーツ※の講演聞いたんですよ。「ああ、この人がエド・ロバーツか!」と思った。それで、生きている...、死ぬ何年か前だったんですけど、会えて、嬉しいじゃないですか!すごい楽しみにして講演聞いていたら、エド・ロバーツが、「僕は空手ができます。みなさん日本人だから空手できる人一人ぐらいいるでしょ。」って言うんです。一人、脊損の元気な人が「僕、空手やっていました。」って出てきたんです。エド・ロバーツが電動で、呼吸器のホースくわえて、身体ぜんぜん動かないんですけど、「僕は空手できるから、じゃああなたは僕にかかってきなさい。」って言うんですよ。それで、「どうすんだろう?」と思って見ていたら、その人がかかってきた時に、その人に向かって電動車いすを動かして足を向け続けるという。その人が動いたら自分も動いて足を向け続ける。「ほら、できたでしょ。」って言うんですよ。僕はそのときに、、こいつ完全に終わってるな。俺こいつから学ぶことねぇなと思ったんですよ(笑)。すごく自由なんですよね。別に何もやってないけど、身体の向きを動かして攻撃できないようにした。だから自分は空手ができるんだって言っていました(笑)。そこでちょっとエド・ロバーツに興味なくなったんですよ(笑)。でも振り返って、色んな人に聞くと、やっぱり独特で、オリジナリティあって、自由な人だったってみんな言うんです。それはちょっと分かるな、と思いました。それでエド・ロバーツの話聞いて、ヒューストンに行きペグ・ノゼックの話を聞いて、それでセントルイス行って、最後にニューヨークに行って、4都市回ったんです。[01:06:28]
セントルイスの時に、二人一部屋で泊るんですけど、山田さんとおんなじ部屋になったんですよ。みんな順番に街ごとで組み合わせが変わるんですけど。山田さん頚損なのに、一人でいましたね、その時は。同じ部屋になった山田さんから夜中に、「佐藤、お前これからどうすんだ。帰ってもメインストリームやるのか?」って聞かれて。「メインストリームお金がないから、今、週3日しか行ってないんです」。「お前はフルタイムで働きたいのか?」って言われて、「僕はアメリカに来て、IL運動は素晴らしくて、ILセンターいいなと思ったから、自分も帰ってこれからやりたいなと思っている。でもメインストリームにお金がないのわかるから、フルタイムはちょっと言えないんですよ。」って言ったら、「あほぉ!」って。「今この場で、お前そこの電話で廉田に電話しろ。電話して、『帰ったら自分をフルタイムで雇ってくれ。』って今言え。」って言われたんですよ(笑)。それで夜中に俺、電話かけさせられて。事務所にかけたらちょうど廉田が出て、「おぉ、佐藤君、どないしたん?」って言われて(笑)。「俺、帰ったらフルタイムで働きたいんだけど、いいかな?」って聞いたら、「ええよ。」って言われたんですよ(笑)。それで電話切ったら、山田さんが、「な!」って言って、「じゃあお前はこれからメインストリームでがんばれよ。」ってそう言われたんです。」
◆
見形 信子
■1995(15期)
◆貝谷 嘉洋
◇貝谷 嘉洋 19991012
『魚になれた日――筋ジストロフィー青年のバークレイ留学記』
,講談社,229p.
■1996(16期)
◆中王子 みのり 20120212
『Hi!みのり――ニューヨークシティ・マラソンとその後』
,これから出版,192p. ISBN-10: 4903988031 ISBN-13: 978-4903988030 1500+ [amazon]/[kinokuniya]
■2000(20期)
◆吉田知栄美(ダスキン障害者リーダー育成研修第20期生)
http://www.arsvi.com/o/thc2001.htm
※以下順不同 (※:転載済)
◇
川内 美彦
◆松江美季
◆相良啓子
◇
竹林 弥生
◇
白杉 眞
◇
安田 真之
◇
http://www.arsvi.com/0s/2000ns02.htm
◇
入部 香代子
19920625 「バークレーにて」,『ノーマライゼーション研究』1992年年報:116-129
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■一覧 ※は本サイトに情報がある人たち:29人(20210730)
下記URLをもとにした一覧
https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/other/z00/z00026/z0002609.html
〇の部分は、名前表記が紙媒体の名簿と異なるものを記載。
ミスタードーナッツ障害者リーダー米国留学研修派遣生名簿
氏名 出身地 所属 米国での研修先
■1981年(昭和56)年 第1期生
市瀬 由紀子 東京 (株)東京録音タイプ社 インダストリアル・ホーム・フォー・ブラインド及びニューヨーク・ライトハウス
芝田 幸子 京都 京都ライトハウス点字図書館 インダストリアル・ホーム・フォー・ブラインド
山口 和彦
東京 東京都失明者更生館 インダストリアル・ホーム・フォー・ブラインド
土屋 健造 神奈川 神奈川県立ゆうかり養護学校 バークレーCIL
奥平 真砂子
※ 富山 バークレーCIL
国井 澄枝 東京 日建工業株式会社 バークレーCIL
桑名 敦子
桑名 敦子※ 福島 英語塾経営 バークレーCIL
堤 美和 福岡 日本IBM福岡事業所 ウィスコンシン大学スタウト職業リハビリテーション研究所
河村 ちひろ 東京 日本てんかん協会 米国てんかん財団
加納 洋 東京 ニューヨーク・ライトハウス音楽学校
■1982(昭和57)年 第2期生
佐藤 幸江 新潟 国立身体障害者リハビリテーションセンター カリフォルニア州立ろう学校リバーサイド校
福井 恵理子 青森 青森明の星高等学校(学生) カリフォルニア州立ろう学校リバーサイド校
望月 優 静岡 麓沢高校(教諭) インダストリアル・ホーム・フォー・ザ・ブラインド
尾形 潔 神奈川 保坂診療所 インダストリアル・ホーム・フォー・ザ・ブラインド
谷口 明広※ 石川 同志社大学大学院 バークレーCIL
勝矢 光信
東京 江戸川区役所 バークレーCIL
小柴 一貫〇 兵庫 白陵高等学校(教諭) バークレーCIL
森山 幸恵 福岡 北九州市社全福祉協議会 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
飯塚 房枝 東京 荒川区立心身障害者福祉センター ランチョ・ロス・アミーゴス病院
宮田 初枝 山口 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
〇→小紫一貴(紙媒体の名簿に記載)
■1983(昭和58)年 第3期生
佐藤 宏治 福島 ー ランチョ・ロス・アミーゴス病院
八木 三郎 奈良 天理教協会本部 福祉課 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
柏木 稚枝〇※ 神奈川 富士フィルム生活共同組合 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
阿部 司※ 東京 日本興業銀行 バークレーCIL
安積 純子
※ 福島 バークレーCIL
栗原 勝美 茨城 筑波大学理療科教育養成施設 インダストリアル・ホーム・フォー・ザ・ブラインド
乙川 利夫 東京 国立神戸視力障害センター インダストリアル・ホーム・フォー・ザ・ブラインド
石川 准
※ 富山 東京大学大学院 ニューヨーク州立大学
山科 崇 京都 京都府立向日が丘養護学校 オークランド地区精神薄弱者育成会
山科 和喜子 京都 大阪市立淀商業学校 オークランド地区精神薄弱者育成会
〇→柏木 雅枝(紙媒体の名簿に記載)
■1984(昭和59)年 第4期生
山本 一裕 東京 町田市役所 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
今福 義明※ 京都 きょうと障害者行動センター バークレーCIL
芳賀 喜子 福岡 フリージャーナリスト ランチョ・ロス・アミーゴス病院
田坪 直 兵庫 兵庫県心身障害者福祉協会 バークレーCIL
樋口 恵子
※ 東京 ヒューマンケア協会 バークレーCIL
中沢 理恵子 埼玉 共栄学園短期大学 カリフォルニア州サンタモニカ高校
伊藤 道夫 東京 日本盲人職能開発センター嘱託研究員 クリーブランド盲人福祉協会他
高瀬 礼子 東京 ファミリーホームろばの家 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
須賀 美由紀 東京 都立武蔵野福祉作業所 バークレー・オークランド地区精神薄弱者育成会
須賀 善子 東京 自宅で活躍中 バークレー・オークランド地区精神薄弱者育成会
■1985(昭和60)年 第5期生
鈴木 真由美 兵庫 自宅で活躍中 ニューヨークCIL
中野 寿子 山口 自宅で活躍中 バークレーCIL
木下 香 三重 会社員 カリフォルニア大学ノースリッジ校
森口 広恵 大阪 日本てんかん協会 米てんかん財団
望月 千稚子〇 静岡 米・ジョージア大学へ留学予定 ジェームズ・マディソン・メモリアル高校
清家 一雄※ 福岡 福岡県脊椎損傷者連合会 バークレーCIL
森川 忠彦 愛知 英語塾経営 ニューヨークIHB
松兼 功
※ 1987 『あめりかガラガラ異邦人』 東京 フリーライター バークレーCIL
松谷 詩子 東京 引統きペンシルバニア州立大学へ留学 ペンシルバニア州立大学
〇→望月 千雅子(紙媒体の名簿に記載)
■1986(昭和61)年 第6期生
吉原 登 新潟 米国ギャロデット大学留学中 カリフォルニア州立ろう学校リバーサイド校
吉村 伸 東京 (財)日本障害者リハビリテーション協会 カリフォルニア州立大学ノースリッジ校
片山 一夫 東京 筑波大学理療科教員養成施設 ニューヨークIHB
高野 弘美 東京 会社員 ニューヨークIHB
小島 律子 熊本 主婦 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
河南 恵美子 兵庫 ー ランチョ・ロス・アミーゴス病院
篠原 真由美 鹿児島 ー バークレーCIL
塚本 哲夫 東京 地方公務員 バークレーCIL
■1987(昭和62)年 第7期生
堀川 純吉 栃木 芳賀福祉事務所 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
青山 しのぶ 東京 筑波大学付属盲学校 ミシガン盲学校
石田 眞理 神奈川 慶応義塾大学学生 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
渡部 ゆかり 東京 ー バークレーCIL
星山 知之 新潟 新潟県立高田盲学校 ウェスタンミシガン大学
前田 耕治 千葉 日本IBM(株) バークレーCIL
岩井 菜穂美 福岡 ー バークレーCIL
松方 文 東京 桜美林大学 学生 オーストラリア、アデレード市ドーバー高校
渡辺 正志 東京 (紙媒体の名簿に記載)
■1988(昭和63)年 第8期生
門川 紳一郎 大阪 ギャロデット大学留学中 ヘレンケラー・ナショナル・センター
小林 聡 神奈川 日本電気ソフトウェア バークレーCIL
天野 博之 愛知 栗林病院 バークレーCIL
山下 裕司 京都 同志社大学学生 バークレーCIL
佐藤 映子 東京 ー ペンシルバニアカレッジ・オブ・オブトメトリーウエスタン・ブラインド・リハビリテーションセンター
羽根 裕之 佐賀 ー カリフォルニア州立大学ノースリッジ校
中村 佳代 京都 乙訓若竹苑 ハワイ ラナキラ・リハビリテーションセンター
中村 千賀子 京都 主婦 ハワイ ラナキラ・リハビリテーションセンター
■1989(平成元)年 第9期生
尾崎 由利子 愛知 わだちコンピューターハウス モビリティ・インターナショナルCILコンピューター・トレーニング・プログラム
佐々木 克巳 愛知 自立の家車いすセンター バークレーCIL
川内 美彦
※ 広島 すばる設計事務所 バークレーCIL
馬屋原 昭代 広島 広島YMCA モビリティ・インターナショナルランチョ・ロス・アミーゴス病院
新井 恵二 東京 東京都心身障害者福祉センター ダラス・ライトハウス
岩本 光弘 熊本 サンフランシスコ大学留学中 サンフランシスコ州立大学
関 由紀夫 北海道 国立函館視力障害センター サンフランシスコ州立大学
■1990(平成2)年 第10期生
天野 善仁 徳島 バークレーCIL
井内 ちひろ※ 兵庫 メインストリーム協会 バークレーCIL
石田 百合 千葉 日本女子大学在学中 バークレーCIL
大杉 豊 愛知 名古屋文化学園言語訓練専門職養成学校 シアトル・セントラル・コミュニティ・カレッジ
小野 三恵 長野 辰野町立小野図書館 バークレーCIL ランチョ・ロス・アミーゴス病院
香西 和則 北海道 釧路市社会福祉協議会 バークレーCIL
佐竹 保宏 埼玉 埼玉大学大学院在学中 バークレーCIL
鈴木 ミナ 東京 筑波大学付属盲学校在学中 サン・ドメニコ高校
田上 みどり(
平野 みどり
)※ 熊本 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
本河 純子 神奈川 日本航空株式会社 ランチョ・ロス・アミーゴス病院
下記からは「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣生報告書「自立へのはばたき」に記載
■1991年第11期生(Aグループ)
新井 栄子
岩隈 美穂※
高橋 由和
田村 和久
西田 順次
馬場 良一
堀川 京子
村山 美和
山川 由起子
山田 宣久
行武 厚子
渡辺 正志
石川志津子(介助者)
(Bグループ)
油谷 英俊
小沢 恒二
菊地 智明
井上英子(介助者)
森 厚子(平成3年度メンバー)
■1992年第12期生(Aグループ)
佐々木 朋子
石山 ふみ子
田中 綾乃
玉上 栄一
島田 猛
岡 裕二
月田 龍一
山本 達也
八木 史久
スタッフ・パートナー
松友 了
*
柴田 洋弥*
八木 史久
河東田 博
*
石川 志津子
小畑 真美
三田 早苗
小林 俊一
宗田 一成
高橋 幸三郎
武居 光
田辺 義明
(Bグループ)
宮内 博子
常松 タキ
鍛治倉 陽子
武田 睦
高野 仁
橋本 長雄
片桐 満津子
三原 毅
井村 茂樹
遠山 昌宏
祖父江 泰志
吉田 成宏
平野 亜共
伊丹 裕子
空 美江
庄司 正
木下 淳子
寺澤 昭子
中西 厚美
占部 好一
(Bグループ・介助者)
丹羽 勇
市川 明臣
亀和田 香
山本 多賀子
谷 千春
(Cグループ)
井上 博徳
君野 明子
安達 麗子
立花 明彦
佐藤 正美
斎藤 恵子
斎藤 由美子
山田 智直
池田 純
井口 信明
熊野 伸一
品川 博之
竹谷 明子
橘高 則行
舞野 英二
和泉 芳
(Cグループ・介助者)
川越 利信
織田 千尋
阪本 彰
加野 晶子
後藤 健市
本谷 守
斯波 千秋
東野 洋子
牧田 寿美子
(Dグループ)
斎藤 紀昭
熱田 嘉津子
菊地 洋子
鈴木 清之
両角 哲男
木村 直美
茂木 清美
瀬出井 洋子
松井 美智子
紫藤 幹子
高木 和典
谷 純子
植田 裕康
宮本 弥恵
仲根 建作
(Dグループ・介助者)
八木 三郎
渡部 君江
高崎 光枝
西浦 由浩
柳 幸宏
住田 恵一
原 教子
小林 美穂子
辻本 晶子
高木 敦子
植田 裕子
松内 宝子
久原 くみ
■1993年第13期生
肢体不自由チーム2チーム
てんかんチーム他
合計6チーム(介助者含む100名)
佐藤 聡
※
見形 信子
※
……
■1994年第14期(グループ研修)
倉本 正巳
橋本 一久
雨宮 加代子
渡部 修平
松田 悦子
スタッフ
佐藤 進(団長)
沼田 千、子
佐藤 理恵子
北岡 賢剛
鳥居 尚之
八巻 純
■1995年第15期
奥平 文雄
川田 隆一
廣瀬 浩二郎
相良 啓子
秋山 奈巳
茂木 清美
貝谷 嘉洋※
合田 吉行
藤井 和信
塚田 典久
■1996年第16期
定家 陽子
内田 智也
中王子 みのり※
中野 聡子
山本 和幸
堀谷 留美
内田 充彦
清野 桂子
児玉 良介
岡本 やよい
■1997年第17期
岩下 恭士
南村 千里
草地 美穂子
永井 留美子
長谷川 英里
高林 昭子
田中 暢子
山崎 守
■1998年第18期
今村 彩子
青柳 まゆみ
塚越 加枝
蛭川 涼子
松江 美季
長岡 由希子
坂野 尚美
■1999年第19期
竹林 晃代
※
後藤 啓二
中尾 悦子
中田 忠勝
林 早苗
横田 恒一
神保 康広
八木 順子
川上 直孝
■2000年第20期
吉田 知栄美※
中根 雅文
杉本 泰平
金丸 理恵子
金村 和美
岸田 昌子
喜田村 朋子
古田 誠
■2001年第21期
吉本 浩二
溝上 佳孝
秋島 康範
五位渕 真美
永瀬 充
折口 祐子
陣内 剛
谷中 亜里香
川村 敬
桑村治美(支援者)
■2002年第22期
工藤 咲良
山田 奈々子
山本 宗平
菊地 真理
上村 知佳
小島 直子
加山 美佐
森 祐美子
木島 英登
■2003年第23期
山本美保子
田門 浩
山本 真也
高橋 しのぶ
dream makersグループ
長神 文野
白井 千恵
有井 良枝
山地 希美恵
吉田 稔(通訳)
村井 晃子(通訳)
八木 三郎(アドバイザー)
須藤 正彦(支援者)
NEXT generationグループ
堀内 万起子
昆 順一
鮎川 太一
寺尾 三郎(通訳)
上山 直子(介助者)
秋山 豊記(介助者)
■2004年第24期
佐藤 裕司
光岡 芳宏
下湯川 智恵
山岸 寛弥
武井 恒(支援者)
北部自立生活センター希輝々
幸喜 美佐代
新垣 正樹
我那覇 忍
仲宗根 早苗
玉城 良太
大城さと子(通訳)
高良 裕行(介助者)
福井 芳男(介助者)
上原 栄(介助者)
酒井 初海(介助者)
樋口 恵子
(アドバイザー)*
NEOグループ
石川 亜紗美
辻 直哉
土肥 克也
中山 雅恵(介助者)
林 早苗(通訳)
丸山 一郎(アドバイザー)
■2005年第25期
福地 健太郎
脇水 哲郎
石川 亜紗美
柴田 昌彦
蟹谷 真子
グループ研修生
小泉 渉
鈴木 聖也
慶 かな未
小沼 一弥
大井川 雅一郎
安 紘子
■2006年第26期
吉武 陽子
広瀬 芽里
常 瑠里子
アチューロ エ スピナッチ(もみじとほうれん草)グループ
島田 豊
海老 康裕
木下 大嗣
障害者生活支援TIJグループ
大久保 健一
佐藤 奈美
菊地 恵美子
デフプラス(Deaf+)グループ
赤松 あゆみ
山岸 枝里子
内山 あゆみ
■2007年第27期
広瀬 有紀
小島 淳
竹内 かおり
千葉 俊之
ドリームファイブグループ
藤川 孝弘
小林 和樹
大塚 麻美
川上 泰司
後藤 佳子
AYako(アヤコ)グループ
綱川 泰典
坂巻 明子
服部 浩二
■2008年第28期
白井 美由紀
森山 由美
松本 めぐみ
ビアレック絵麻
上津原 沙知
グループ研修
Active girls(アクティブ ガールズ)グループ
青山 裕香子
立花 督子
越智 英恵
WWS(ダブエス)グループ
安原 美佐子
小坪 琢平
鈴木 千春
畑 俊彦
白杉 真
※
Post Normal(ポスト ノーマル)
佐藤 祐
竹澤 正光
光岡 芳宏
ハワイじまグループ
佐藤 隆之
荒俣 悦子
西村 治美
粟田 康弘
鯉沼 和寛
宮ア 美加
ジュニアリーダー育成グループ
清水 由起
山田 雄介
石田 淳
高柳 来未
加藤 あすみ
木ア 綾乃
清水 優子
末清 弘聖
■2009年第29期
大山 歩美
高田 朋枝
あぜ本 彩美
吉田 沙矢香
廣川 麻子
大門 麻夕
松嶺 貴幸
浅野 高弘
AHAKI(あはき)グループ
石井 秀明
荒川 つくし
岩瀬 康典
アロハ5グループ
定谷 愛海
太田 航
南川 紗希
矢野 麻由
辻 浩一郎
■2010年第30期
片岡 亮太
安田 真之
※
安達 さや佳
室園 晶子
小川 晃生
織田 友理子
Revolution(れぼりゅーしょん)グループ
杉森 千絵子
木村 敬一
矢部 隆之
チャーリーエンジェルグループ
内海 千恵子
小泉 沙耶香
井川 潤子
ミッションマスターズグループ
吉田 由香
市川 由貴
横山 恵
河村 宗広
下屋 政仁
ジュニアリーダー育成グループ研修生
チーム・ハッピー・スマイルDE KIZUNA
田村 勇輝
伊藤 一樹
永井 のぞみ
高橋 麻美
河辺 弘祥
川添 雄太
大和 なゆた
広瀬 未姫
中尾 咲
永吉 結
■2011年第31期
中村 文信
石田 由香理
吉岡 久美
井上 幸子
田澤 龍太郎
岩崎 佐智子
ダスキンリュックスグループ
佐藤 真和
勝又 義正
向山 真未
加藤 羊裕
田口 房枝
ジュニアリーダー育成グループ
山田 茉侑
前川 心
鹿森 優香
外薗 猛
濱畑 未希
山本 未季
山本 綾乃
■2012年第32期
中村 馨章
三浦 香織
小森 智子
ハイビスカスグループ
高橋 鉄也
宮崎 英雄
裄Vみづほ
山本 まゆみ
新名 さや香
ジュニアリーダー育成グループ
岩田 直樹
大石 奏絵
大濱 天
谷澤 舞香
辻 悠佳
■2013年第33期
不明
下記からはhttps://www.ainowa.jp/activities/haken/から記載
ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業
■2014年第34期
前田 健成
川端 舞
蔵本 沙希
木戸 奏江
グループ研修
鳥井 孝平
山崎 慶子
岡野 麻美
大石 翔平
ジュニアリーダー育成グループ研修
執印 優莉亜
伊山 功起
藤原 なるみ
道原 佳歩
野澤 幸男
佐川 慧
■2015年第35期
北原 新之助
平井 望
勝山 みづき
吉田 祐太
東川 結
■2016年第36期
橋 菜美子
大藪 光俊
※
重田 竜佳
ジュニアリーダー育成グループ研修
横山 政輝
今岡 称
菅田 利佳
青木 悠弥
■2017年第37期
森 雄大
宮城 千恵子
齋藤 智子
林田 光来
大塚 里奈
ミドルグループ研修
鈴木 仁美
生井 祐介
斉藤 新吾※
■2018年第38期
大下 歩※
上田 大貴
大橋 グレース愛喜恵※
大城 亮
ミドルグループ研修
英国Football文化視察団
角谷 佳祐
岩田 朋之
丸山 哲生
大平 英一郎
■2019年第39期
畠山 幸子
木崎 浩一
癘{ 友里
ミドル研修グループ
STEっ子視察団
工藤 登志子
田中 鈴音
曽田 夏記※
ジュニアリーダーグループ研修生
視覚障がい者ユースグループプログラム
近藤 悠斗
坂本 奈々美
野呂 美遥
廣田 成美
■2020年第40期
木 沙祐里
笠柳 大輔
福島 愛未
小貫 怜央
ミドルグループ研修
メインストリームインクルーシブ部
真名野 枝里子
鍛治 克哉※
数矢 雄
>TOP
■解説・言及
◇立岩真也 1990 「出て暮らす」生活
1 どのように暮らしているのか 58
2 「欧米」の、特に合衆国の自立生活運動 70
「(18) 合衆国の自立生活運動・自立生活センターの活動については、紹介の文章が数多くある。小島訳・解説[80]、奥野[81]、NHK取材班[82:34-60]、調・野村[84:100-104]、ノゼック[88]、久保[88]。また、日本での紹介・研究論文と翻訳を集めた障害者自立生活セミナー実行委員会編[83B]、他に自立生活プログラムを紹介したものとして障害者自立生活問題研究会編[86]、石渡[88]。バークレーCILの紹介として、『自立へのはばたき』(→第1章注(16)、三ツ木編[88]に多くの報告がある他、ゼンコロ[80:68-74]児玉[81A→83][82B]、森[81]、高橋孝文[81]、勝矢〔82-83]、土屋健造[83]、樋口恵子[85-86][88]、志村[86-]、谷口明弘[84][88B]、福嶋[87:115-127]、松兼[87]、清家[87A]〔87B][87C]、ヒューマンケア協会編[88C]。以上のうち土屋・勝矢・樋口・谷口・松兼・清家が先に述べた海外研修制度(→第1章注(15)、駒井[86])による研修生である。またボストンCILについては三ツ木[82]、ロング[83]、福嶋[87:137-150]、Long・Anderson・小島[83]、ハワイCILについて高嶺[83][84]、ワシントンCILについて共同作業所全国連絡会編[88:110-113]。」
◇瀬山 紀子 1999
「<語り>と<コミュニティ>の生成――障害を持つ人々の語りを通して」
,お茶の水女子大学人間文化研究科発達社会科学専攻応用社会学コース1998年度修士論文
「1981年の国際障害者年を契機に,ミスタードーナッツという企業の助成による「障害者リーダー米国留学研修(正式名称は「財団法人:広げよう愛の輪基金」)」が始まり,1981年から91年までの10年間,年に10組障害を持つ奨学生を米国に派遣する試みが始まった.その後の自立生活センターの担い手たちの多くが,アメリカのCIL(自立生活センター=Center for Independent Living)での研修などを受けてきている.」
◇楠 敏雄 i2000
インタビュー
聞き手:尾上浩二
「1980年代に入って、中央の省庁との直接的な対決だけでは不十分であるということで、地域に根の張った草の根の運動を展開するということになってきますと、全障連というスタイルだけでは運動の広がりが弱いということで、障害者の作業所とか自立を求める運動が各地ででてくる時代に入ってきるとともに、ノーマライゼーションというか考え方がマスコミを通して広がってくる。それから、いまのJILの中心メンバーの人たちですが、ミスタードーナツの支援によるアメリカ留学で自立生活運動を学んできた人たちが草の根の活動をはじめた。
そういうのがあちこちで起きてくるようになってくると、全障連のような反差別とか強烈な主張や政治性というのを持った団体には加入しないが、個別的には一緒にやれるというような集まりがあちこちで出来てくるです。
そんな中、全障連よりももう一段ゆるやかな組識として、1981年にシンガポールで結成された障害者インターナショナル(DPI)が日本にも作られました。」
◇立岩
http://www.arsvi.com/ts/20150725.htm
「日本の場合で知っているところだと、もう30年以上前からダスキン、ミスター・ドーナツが日本のリーダー育成みたいな形で、アメリカとかそういうところに障害者を派遣するということが始まって〔公益財団法人ダスキン愛の輪基金により1981年に開始、当初の名称は「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学派遣」〕、今でも続いています。我々の院生にもその研修をしてきたのが何人かおりますし、僕と一緒に本を書いた安積純子であったり、それから障害学会という学会の最初の会長やった石川准もそうです。そういう意味で、なかなか成果は上がったとはいえる。ただ日本のリーダー派遣も最初は身の回りのことは自分でできる人みたいな条件があったんです。今はそれはとっぱらわれていて、かなり重い人もそういったなんか援助する。まず簡単なところというか、できそうなところというか、そういうところから始まりました。そして、やがて日本への受け入れも始める。そういう海外からの受けいれは他の団体もやるようになりっています。
すると、どこからどこに、何を伝えていくかということになります。国際的な目標、アフリカこれからどうしていくか、障害者のことは、まず教育と労働という話になって、これは大変よくわかる話なんです。勉強して学歴をつけて、働けるようになる。これはまさに普通の意味での社会開発につながっていく。大変よくわかる話でありながら、でも、これって、日本も辿ってきて、その後、どうなの?ということになった話でもある。学校に行けるようにするというあたりが一段落ついた時に、それだけでよかったのかということを考えて、それでもって、そこの中にとりこぼされている人っている、重度の障害者っている、働ける、勉強できるって方向のことだけとはなにか違うんじゃないのっていうことを、日本の場合は45年ぐらい前に体験した。そういうものを、今いわゆる国際支援だとか、開発援助であるとか、そういうものにどうつなげていくのかという、そういうことも考えどころというか、おもしろいところなんじゃないかなというふうに私は今斉藤さんの話を聞いておりました。
◇白杉
http://www.arsvi.com/2000/0909ss.htm
「全国のCILにおいて、その運営を支えており、権利擁護活動の中心となっているのは、「ヒューマンケア協会」設立以降、多くの障害者が先輩又は、「ダスキン障害者リーダー育成海外研修事業」によって、自ら海外に渡り自立生活理念を学び、わが国でCILを設立していった設立当初からの職員である障害者である。「ダスキン障害者リーダー育成海外研修事業」には、個人研修・グループ研修を含め、毎年10名から15名の障害者が全国から選ばれ、CILの発祥地であるアメリカや、社会保障制度が世界一充実しているといわれるスウェーデンなど、世界各国で研修を行い、研修で体験した内容をもとに、各分野で障害者リーダーとして活躍している。対象となる人には、毎年「11月30日において満35歳未満」という年齢制限が設定されており、若者の人材育成という意味で大きな役割を果たしている。しかし、研修から帰国した若い障害者が必ずしもCILの職員として携わる訳ではなく、研究者や公官庁職員など、様々な分野に渡っている。よって、障害者職員、健常者職員ともに人材育成の点で課題がある。こうした全国的な流れは、地方においてとくに顕著に見られる。従来、若い障害者を自立させ、人材育成が行われていたが、現在、施設からの自立という事情は少し異なりつつある。」
◇立岩 真也 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
「「国際障害者年」の八一年前後から米国の「自立生活運動」「自立生活センター(CIL)」の活動の紹介がはじまり、米国の運動家を招いた講演会等も開催される。そしてこの八一年、ダスキンが障害者の米国での支援する事業――現在の名称は「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」――が始まり、多くの人がバークレーCIL他に詣でることになる(ICYEによってという人は他に知らない)★15。」(草稿)
「★15 ダスキンの社会貢献活動。当初の名称は「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学派遣」。ダスキンはミスタードーナツの日本国内における運営会社。派遣は一九八一年が第一期で、以後ずっと継続されていく。それで留学した多くの人が雑誌に渡米の記録を残している。その一部についてはこちらのサイトの「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」にいくつか挙げている。例えば第三期・八三年に安積遊歩(純子)と石川准。安積[1990][1993]にその時のことが書かれて(話されて)いる。また安積たちと作った『生の技法』自体が安積と石川がこの研修で出会ったことに一つのきっかけがあった。八四年・第四期に樋口恵子(町田ヒューマンネットワーク、樋口[1998])。書籍としては他に『あめりかガラガラ異邦人』(松兼功[1987])、筋ジストロフィー者のものでは九五年・一五期の貝谷嘉洋の本に『魚になれた日――筋ジストロフィー青年のバークレイ留学記』(貝谷[1999])。この時期、そうした動きを取材して出された本として『あすに挑む――障害者と欧米社会』(NHK取材班[1982])。他にその時期に出された米国の運動家の講演記録などがいくつかあって、『生の技法』で紹介している。」(草稿)
■■ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業
◇陳盈如
http://www.arsvi.com/a/20090414.htm
◇立岩 真也 2013/12/20 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える」
ダスキン・アジア太平洋障害者リーダー育成事業 於:東京・戸山サンライズ
◇立岩 真也 2013/10/29 「家族介助から他人介助へ、ボランティアから有償介助へ」(与えられた題)
JICA主催「障害者のリーダーシップ育成とネットワーキング」,於:東京・JICA東京
◇立岩 真也 2014/10/18 「家族介助から他人介助へ、ボランティアから有償介助へ」(与えられた題)
JICA研修「障害者リーダーシップ育成とネットワーキング」 於:JICA東京国際センター
>TOP
■文献表 ※作成始めたばかり ○:権藤[2022]草稿より
◇安積純子 19901025 「<私>へ――三〇年について」,安積・岡原・尾中・立岩[1990:19-56]
○安積純子他,1990,『生の技法 家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店.
◇
安積 遊歩
19931120
『癒しのセクシー・トリップ――わたしは車イスの私が好き!』
,太郎次郎社,230p.
◇樋口 恵子 19980205
『エンジョイ自立生活――障害を最高の恵みとして』
,現代書館,198p. 4-88233-045-8 1575
[amazon]
/
[kinokuniya]
※
◇樋口 恵子 1985 「アメリカ,見て歩き」,『リハビリテーション』274−285(連載)
◇石地かおる i2020
インタビュー・2
2020/12/18 聞き手:立岩真也 神戸・石地さん宅との間 Skype for Business使用
◇石川 准・河村 宏・立岩 真也 20140322
「視覚障害学生石川准と東大図書館員河村宏――その1970年代から21世紀へ」
◇
入部 香代子
19920625 「バークレーにて」,『ノーマライゼーション研究』1992年年報:116-129
◇井内 ちひろ 19810320 「自立生活運動発祥の地バークレー」,『われら人間』056:15-16
◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのT ピア・カウンセリング集中講座を通して思うこと」,『めいんすとりいむ通信』005:57-59
◇井内 ちひろ 19900901 「CHIHIRO NOW そのU」,『めいんすとりいむ通信』005:59-60
◇井内 ちひろ 19901101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その1」,『めいんすとりいむ通信』006
◇井内 ちひろ 19910101 「CHIHIRO NOW バークレーだより その2」,『めいんすとりいむ通信』007
◇井内 ちひろ 19910401 「CHIHIRO NOW バークレーだより その3」,『めいんすとりいむ通信』008
○岩山 誠,2017,「聴覚障害者がコミュニケーション面で支障なく働ける支援制度のモデルを求めて」『リハビリテーション』(590).
◇貝谷 嘉洋 19991012
『魚になれた日――筋ジストロフィー青年のバークレイ留学記』
,講談社,229p.
◇楠 敏雄 i2000
インタビュー
聞き手:尾上浩二
○神渡良平,2011,『敗れざる者--ダスキン創業者鈴木清一の不屈の精神』,株式会社PHP研究所.
○片岡 亮太 2017 「ニューヨークまで挫折しに――転んでもがいて開けた世界--」『リハビリテーション』590
◇勝矢 光信 19821001〜 「バークレー便り」,『リハビリテーション』247(82-10):32-33,248(82-11):34-35,249(82-12):42-43,250(83-1):40-41,251(83-2・3):42-43
○川内美彦,2017,「権利としての社会参加を求めて」『リハビリテーション』(590).
○河村ちひろ,2017,「出会いに感謝する日々」『リハビリテーション』(590).
○桑原聡子,1998,『人を愛し、人がいきる心の経営 ミスタードーナツ物語』,株式会社オフィス2020.
○中西正司,2014,『自立生活運動史--社会変革の戦略と戦術』,現代書館:52.
◇中王子 みのり 20120212
『Hi!みのり――ニューヨークシティ・マラソンとその後』
,これから出版,192p. ISBN-10: 4903988031 ISBN-13: 978-4903988030 1500+ [amazon]/[kinokuniya]
○奥平真砂子,2016,「「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」が与えてくれたチャンス」『リハビリテーション』(589):25-28.
◇―――― i2018
インタビュー――半生のこと
2018/06/30 聞き手:立岩真也・
権藤眞由美
於:東京・戸山サンライズ
○大塚健志,2004,「「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」と自立生活運動」,ゆき.えにしネット 福祉と医療、現場と政策をつなぐホームページ.http://www.yuki-enishi.com/thesis/04.k.ohtsuka-00.html
◇佐藤 聡 i2018
インタビュー
2018/06/30 聞き手:立岩真也・権藤真由美 於:東京・戸山サンライズ
◇瀬山 紀子 1999
「<語り>と<コミュニティ>の生成――障害を持つ人々の語りを通して」
,お茶の水女子大学人間文化研究科発達社会科学専攻応用社会学コース1998年度修士論文
○島本翔平 2021 「ダスキンの事業多角化とフランチャイズ経営戦略の優位性基盤の考察」,デジタルゲーム学科 なわてん ONLINE2020年度大阪電気通信大学.https://www.nawaten.online/project/4238
○下中ノボル,2006,「ケーススタディ 創業者、鈴木清一イズムが生きるダスキンの社会貢献事業「愛の輪運動」--26年間も続いている障害者リーダー育成の海外留学」『2020Value creator』(254),株式会社オフィス2020新社:60-62.
○徐(Hsu) みづき 2017 「平等な障害者雇用の未来を目指して」,『リハビリテーション』590.
○鈴木清一,1973,『われ損の道をゆく--人間立ち直りの記』,日本実業出版社.
○鈴木清一,1997,『ダスキン 祈りの経営--鈴木清一のことば』,到知出版社.
◇立岩 真也 1990 「「出て暮らす」生活」,安積他[1990]
◇―――― 2018
『病者障害者の戦後――生政治史点描』
,青土社
○山本好男,2001,「特集1 派遣から招聘まで広がった愛の輪運動--ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業の20年」『視覚障害』(175):1-9.
○山下幸子,2006,「介護と介助,そして障害問題の捉え方」『淑徳大学総合福祉学部研究紀要40 21-38』:30.
○山下幸子,2014,「自立生活運動は介護資格制度についてどのように考えていたのか」『淑徳大学研究紀要 総合福祉学部・コミュニティ政策学部48 239-250』:241.
○財団法人広げよう愛の輪運動基金,1992,『自立へのはばたき--1991年ダスキン障害者海外研修派遣報告』.
○財団法人広げよう愛の輪運動基金,1993,『わたしたちにもできる「本人参加と自己決定」--自分たちでつくるスウェーデンの旅--1992年ダスキン障害者海外研修派遣報告Aチーム(知的障害)』.
○全国自立センター協議会,2001「日本の自立生活運動史」『自立生活運動と障害文化--当事者からの福祉論』,現代書館:14.
■研究について
◆
―― 僕、1回ね…、毎回、毎期、あの人たちがどういう人たちで、その後どうしたのかみたいな。
奥平 毎期?
―― 第1期、第2期、第3期ってさ。あれを…、
奥平 日本人?
―― リストアップして。それも一つ論文ぐらい書けるなって思って。
奥平 ああ、それはすごいよ、うん。
―― 今度聞いてみます。
奥平 有名っていうか、安積遊歩とか石川准とかすごいでしょ。佐藤聡とか。
―― いますよね、とにかくね。
奥平 五百何十人も出してればね。
―― あそこに行けば毎年の報告書みたいなものは、貸してくれたり…、
奥平 …は、あります、あります、愛の輪で。うん、絶対それはある。
―― それがねえ、僕1回ちょっとやんきゃなと思ったんで…、それが時間ないんで、誰かやってもらおうかなと。
作成:
権藤 眞由美
・
立岩 真也
UP:20170608 REV:20170610, 11, 20180714, 20201210, 20210730, 20211110, 0103
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生を辿り道を探る――身体×社会アーカイブの構築
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障害者(の運動)史のための資料・人
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