1 近代医療における医師
医療には、患者の生(=生命・生活・人生)が賭けられている。治療は、患者の心身の望ましい変化を促す、または望ましくない変化を抑えることを意図して行われる。しかしあらゆる人間の行為がそうであるように、医療においても、意図した結果が得られないことや、意図しない望ましくない結果、つまり失敗が生じることがある。実際、外科手術が原因で亡くなる人もいる。このような失敗の可能性を完全になくすことは、おそらく不可能である。人間の体または心の仕組みはあまりに複雑であり、人間の知は不完全である。医療は、T・パーソンズのいう「不確実性(uncertainty)」から逃れられない(Parsons 1951=1974:449)。その意味で医療は賭けである。
誰が、この賭けを行うのか。患者は自らの生を賭けるが、その賭けを代行する(=治療をする)のは医師である。近代医療は、そのように制度化されている。E・ヒューズの表現を借りるなら、医師には、他者の身体に「メスを入れ、投薬する(cut and dose)」という「免許と権限(licence and mandate)」(Hughes 1958:82)が与えられている。医師だけが、医療の名において他者を危険に晒すことが許されているのである。看護師などの医療スタッフの一部は治療に部分的に関与できるが、そのときは医師の指示に従わなければならない。医師には、そうした権限がある。 (25-26)
なるほど治療を始めるには、原則として患者の同意が必要である。インフォームド・コンセントやインフォームド・チョイスが制度化されている場合、患者は、医師の提案する治療の大まかな方針について説明を受けた上で、それを受け入れるか否か、複数提案がある場合はどの提案を受け入れるのかを選べる。しかし治療の方針を考えるのは、医師である。R・ヴィーチが強調するように、そうした提案には提案者である医師の意向が濃厚に反映されている(Veatch 1995:10-11)。また患者が選べるのは、あくまで大まかな治療の方針であり、どのような処置をどのように行うのかを事細かに選べるわけではない。例えば手術では、刻一刻と変わる患者の状態に応じて何が必要な処置なのかを判断しなければならないが、そうした判断は医師が行う。そこに患者の意思または判断が介在する余地はほとんどない。医師には、臨床において、こうした意思決定をする「免許と権限」、つまり裁量がある。 (26)
医師の資格制度は、医師以外の治療者が、医学を修得しなければ適切に扱えないとされる医学の技術的成果を扱うことを禁じる。この禁止の作用について、E・フリードソンは次のように述べる。医学の技術(例えば外科手術を受けること、医師だけが処方できる医薬品を使うこと)を必要としている患者は、医師を治療者としなければならない。この仕組みにより、医師は、治療者の労働市場において非医師治療者との競合から守られる。医師以外の治療者は、少なくとも医学の技術を「売り」にできないという大きなハンディキャップを負う。医師の需要に対して供給が少ない場合、医師は他の医師との競合からも守られる。相対的に供給が少なければ少ないほど、各医師は希望する職に就ける可能性が高まる。このような競合からの保護は、患者や雇用者の医師に対する干渉からの保護としても機能する。こうし保護がある場合、医師は、自らの意に沿わない患者を断り、条件の悪い職場から去ることが容易である。仮にあるクライアント(=患者または雇用主)を失っても、別のクライアントを比較的容易に見つけられるからである(Freidson 1970-1992: 106-114)。 (28)
[……] 医学の知の大半は「理論と抽象概念で組織されている」 (Freidson 2001:3)が、実際の治療は個別・具体的な状況で行われる。医学の知と臨床状況にはギャップがあるため、 医学的に正当化できる処置には幅がある。ここに臨床における医師の裁量が成立する。 (29)
R・バチャーとA・ストラウスの表現を借りるなら、医師集団は「セグメントの融合体(amalgamation of segments)」 (Bucher and Strauss 1961:331)である。一口に医師といっても、従事している仕事は様々である。 [……] 医師たちは、こうした差異を意識することがあるが、それは裏を返せば一部の医師との類似性の意識でもある。この類似性の意識は「仲間意識(brotherhood)」を生みだす契機となり、ここに医師内部に仲間意識で結ばれた一群の医師、つまり「セグメント」が成立する。各セグメントの内部では「クライアントや社会に対する固有の使命感や共通の態度」が発達する(Bucher and Strauss 1961:333)。各セグメントは他のセグメントと異なる意識や態度を発達させるのである。 (33)
医療保険は、医師の「免許と権限」を支える制度の一つである。それは通常、患者の受診時の負担を減らすため、医療に対する需要を、それがないときに比べて大きくする。前節で述べたように、医師の供給に対して需要が大きければ大きいほど、医師は、患者や雇用者との関係で自らの意思を貫きやすくなる。それだけ臨床上の裁量または「免許と権限」が確固たるものになる。 他方、医療保険は給付の対象や方法によって、医師を制約する。例えば保険診療(=保険給付の対象となる診療)を行う場合、給付対象外の処置を行いにくいといった制約である。 (35)
理論的には「ある診療行為の〔診療報酬〕点数がコストよりも高くて利益が出るようであれば、医療機関はその医療行為を提供する経済的インセンティブがあり、反対にコストのほうが大きければ制約されることになる」。したがって「もっと提供してほしいような診療行為の点数を高く設定し、反対に提供を抑えたいような診療行為の点数を低くすれば、各医療機関を法規制で取り締まらなくても政策目標を達成することができる」と考えられる。そしてこうした「診療報酬を介しての政策誘導」は一九八一年以降「強まっている」(池上・キャンベル 1996:162-163〔〕内は引用者による補足)。 (36)
ここで「医局制度」(または「医局」)は、大学医局、すなわち大学の講座(教室・研究室)とその講座と一体のものとし管理・運営されている大学病院の診療科と、人事面でその影響下にある(大学病院以外の)医療施設の診療科のネットワークを指す。医師の世界では、このネットワークは一体のものと見なされている。大学医局に所属する医師だけではなく、ネットワーク内の大学病院以外の)医療施設の診療科で働いている医師も、同じ医局のメンバーとして認知されている(猪飼 2010:274-275)。 (38)
新人の医師は、医局というセグメントに加入することで医師らしくなっていく。多くの医師は、キャリアの比較的初期の段階で、長期にわたって同じ医局の医師と相互作用をすることで、医師の規範と医局固有の規範を習得していく。 [……] オーベンは、ネーベンに「医局の運営や「しきたり」、そして内部の人間関係」のような「部外者にはよくわからない」ことを教える(池田・佐藤 1992a:228-229) (41-42)