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災厄に向かう

―阪神淡路の時、そして福島から白石清春氏を招いて―

2011/10/01 16:00〜17:00 障害学会第8回大会・ 特別企画トークセッション 於:愛知大学
http://www.jsds.org/jsds2011/jsds2011-home.html
災害と障害者・病者:東日本大震災


白石 清春JDF被災地障がい者支援センターふくしま)×野崎 泰伸 (立命館大学)

司会:立岩 真也(立命館大学)

■企画趣旨

 2011年3月11日に東日本大震災がおきた。直後より、立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学創成拠点」は、東日本大震災と原発事故で影響を受けている障害者や病気の人たちの現状や支援情報をホームページ(http://www.arsvi.com/d/d10.htm)に集約する活動を始めた。掲載されている情報は、例えば、人工呼吸器や人工透析を利用して暮らす人々が電気や薬剤が不足する状況においてどのように生き延びるのか、また避難を余儀なくされた病者・障害者たちの避難所での生活について、そして原子力発電と障害者の関係についてかつて何が語られたかといった事柄である。
 発災後半年が経過しようとしているが、被災地はまだまだ混乱の最中にある。今回のトークセッションでは、「被災地障がい者支援センターふくしま」代表の白石 清春氏をお迎えし、被災地の現状をお話いただく。また、1995年に起きた阪神淡路大震災の際の障害者の経験について野崎 泰伸氏にお話しいただく。時と場所を隔てる2つの激甚災害における障害者の経験を照らし合わせることで、障害者運動や障害学に携わる者が今何をすべきなのか、考える機会としたい。

■発言趣旨(白石 清春

@JDF被災地障がい者支援センターふくしまを立ち上げる
 3月19日に福島県内の障害者団体などが集まり、JDF被災地障がい者支援センターふくしま(以下、支援センターと略す)が立ち上がる。福島県の支援センターの特徴は以前からの付き合いから、自立生活センター系ときょうされん(小規模作業所系)が運動を連携して行ってきた経緯があって、支援センターにおいても仲良く連携した支援活動を行っている。これが特徴であろう。現在、支援センターの構成団体は32。障害者自立支援法に反対した団体や賛成した団体が、右から左まで加盟している。

A東日本大震災においても教訓は生かされず
 野崎泰伸さんの発言趣旨にあるように、阪神淡路大震災や中越地震などわが国では度重なる大震災が襲っているにも関わらず、その教訓を全く取り入れていない政府や東北各県の地方自治体の姿があった。避難所・仮設住宅などは障がい者にはとうてい生活を維持することが出来ないものであった。

B障がい者の所在が全く分からない状況がある
 支援センターでは、4月から5月にかけて福島県内の避難所を回って障がい者の所在把握をしてきたが、避難所2か所に一人の障がい者の所在がある程度であった。8月初めからは仮設住宅回りを行ってきている。スロープの付いている仮設住宅の住人に声をかけているが、障がい者ではなく、一般の避難者が入居していることが多い。
 郡山市のビックパレットという建物に多い時では、3000人の避難者が入っていた。その避難所のドクターと支援センターの関係者(大阪から応援に来ていた方)が話をする機会があり、それにによると、ビックパレットには原発事故の避難区域から来た大勢の障がい者や高齢者が避難してきたが、このような避難所では生活に支障をきたすという理由から県外の入所施設や高齢者の施設に強制的に避難させたという。
 その後、支援センターでは県内の入所施設を回って避難している障がい者がいないかを把握してきたが、避難している障がい者の数は少ないものであった。重度身体障害者はやはり県外の入所施設に避難しているのであろうか?
 障がい者の所在確認をする上で、行政の協力による障がい手帳所持者の名簿提出があれば、迅速に支援の手を差し伸べることが出来たであろうが、個人情報保護法の厚い壁があり障がい者の情報を行政が提供することはなかった。唯一南相馬市だけが市長の英断によって名簿提出がなされて、支援センターに関わるきょうされんのボランティアによる南相馬市の在宅障がい者の訪問調査が可能となった。それ以外の避難区域では障がい者の所在が全く分からない状況が続いている。

C原発事故による放射線の影響
 福島県は地震・津波もさることながら原発事故による放射線被害の影響は甚大なものがある。その影響として、
@県外避難者は約6万人。その中には障がい者もいるだろうが、把握が出来ない状況である。支援の手をどのように差し伸べたらいいのか見当がつかない。
A避難区域や警戒区域よりも、放射線の高い地域が福島県内にはたくさんある。伊達市、福島市、二本松市、本宮市、郡山市などである。そのような地域にいる子供たちや若い人達、または抵抗力のない障がい者や高齢者などはにとっては、5,6年から10年後に健康被害が出てくる恐れがある。しかし多くの福島県民はそのような地域から避難することを考えていない。福島県産の農作物を平気で食べている。内部被ばく予防のマスクも今では多くの県民がしていない。
B風評被害と障がい者差別
 福島県民が他県に車で行った際、その車に「福島県は出ていけ」と殴り書きをされたということを聞く。このような風評被害が多く表れてきている。また、避難する若い女性が住所を移す時に福島県民でないようにできればよいとの話を聞いた。その発言の裏には、放射線による被害でその女性が結婚し妊娠した際、変形した子供が生まれてくる恐れがあるので、結婚を拒まれる可能性が大きいという判断があるのではないか。これはとりもなおさず障がい者差別を具現化したものではないだろうか。
 私は若い時分、青い芝の会で優生保護法を廃案にしていく運動に関わったことがある。誰もが持っている優生思想に対して問題提起を行ってきた。
 この福島県の原発事故によって、優生思想が大きな影となって立ちはだかってくるのではないだろうか。

D今後の支援センターの活動
@仮設住宅を回って、作成した支援センターのパンフレットを全戸に配布していき、仮設住宅に住んでいる障がい者との関係を密にしていく活動を行っていく。
A被災障がい者交流サロンを開設して、仮設住宅等に住む障がい者をサロンに招いて交流を図っていく。なお福島県の子供を守るネットワークと連携して障がい者や子供たち等を県外に避難させていく働きかけを行っていく。
Bサテライト自立生活センター(長期避難拠点)を開設していき、出来るだけ多くの若い障がい者たちを避難させていく活動を行っていく。神奈川県相模原市に旧ケア付き住宅を借り受けて避難障がい者が一時的に生活の出来る場所を10月から利用できることに決まっている。


■発言趣旨(野崎 泰伸

◎被災障害者の実態から――語られない問題点/語られないという問題点
 阪神淡路大震災において、障害者の声は聞かれなかったという一点に尽きる。知り合いが「ここは障害者が避難することができない」と言ったように、小学校などが避難所となった場合、障害者はそこで「避難」すらできないことが知られていなかった。今回の東日本大震災においても、まったく同じことが起きていた。肢体・視覚・聴覚に障害がある人たちは避難所の設備がアクセスしづらいものであったし、知的に障害のある人やその家族は、奇異ととられる言動への周囲からの偏見に悩まされた。また、精神に障害のある人たちは、避難所のような人が多い、雑然としたところで到底休まることもなかった。このような理由から、半壊あるいは全壊に近いような状況でさえ、余震の恐怖に身を震わせながら、自宅で過ごさざるを得ない障害者が多く存在した。すなわち、一般の避難所が、障害者にとってはそもそも避難所ですらなかったわけである。また、せっかく当たった仮設住宅が障害者にとっては不便であることも大きな問題となった。そのような結果、障害者たちはより不可視化され、必要な支援について多く語られることはなくなった。  ここで、語られないということの意味について考えてみたい。「平時」においても社会の周縁に追いやられている障害者の存在が、「有事」になるとより不可視化される。つまり、常に「社会にいないとされている」「社会にいてはいけないとされる」障害者の存在について、普段から意識されることは少ない。教育という場において、就労という場において、そしてそれらを含むあらゆる社会生活の場において、果たして障害者が排除されていないと言えるだろうか。

◎阪神淡路における障害者(1)――障害者による復活・救援活動
 しかし、そのような「語られない存在」を掘り起こし、避難所や倒壊寸前の自宅に救援に入り、必要な支援をし、場合によっては行政交渉に赴いたのは、現地で被災した障害当事者であった。彼らが大阪や神戸に、あるいは全国にもっていたネットワークを活かし、また新たに被災地に入ったボランティアを組織したのである。神戸や西宮などでは、震災当日から現地の被災障害者、彼らに関わっていた近隣の人々が救援活動を行った。やがて、大阪に被災障害者の一時的な避難所を設け、「兵庫県南部地震障害者救援本部」が設置された。現地神戸においては、1995年2月2日に、全国から駆けつけたボランティアを組織し、兵庫区の須佐野公園にプレハブ拠点を建て、「被災地障害者センター」を立ち上げた。
 その際、貴重な資料となったのが、姫路在住の大賀重太郎が震災直後から出し続けたFAX通信である。大賀自身が鉄道網の寸断により現地入りが不可能だったため、非常につながりにくい固定電話や、当時普及し始めていた携帯電話を駆使し、現地の情報を仕入れ、被災障害者の状況等を全国にFAXを送信したのである。この大賀の情報が、被災地においては被災障害者の把握や救援に非常に役立った。またそれとは別に神戸市内の自立生活センターにおいては、これまた当時広まりを見せていたパソコン通信のボランティア情報にアクセスし、さまざまな情報を得た。
 震災を経験してわかったことは、ふだんより社会から捨て置かれている障害者たちは、震災のような「有事」において、より一層適切な介助がなされないということであった。  そのことは、被災地障害者センターの活動経緯を見てもわかる。当初は、「被災障害者、高齢者の家庭訪問」からはじまり、「ガレキの撤去、引越しの手伝い、避難所での障害者・高齢者の介助、被災障害者家庭の緊急避難所確保など」(野崎・三上 [1997:26])を行っていたが、その活動は日を追うごとに変容する。もとから住みづらいのなら、震災前に戻したところで意味がないのだ。

◎阪神淡路における障害者(2)――震災以前の運動の存在
 阪神・淡路大震災後における障害者による力強い救援活動は、震災直後に突然湧いて出たものではない。それを可能とした背景があったからこそ、震災後継続して障害者たちは仲間への救援や、地域での炊き出し活動ができたと言っても過言ではない。
 関西、とりわけ震災が襲った神戸や、近隣の姫路、西宮、それに大阪においては、1960年代後半から障害当事者の粘り強い運動があった。とくに、1966年から兵庫県が行った「不幸な子どもの生まれない運動」に対して、兵庫青い芝の会を中心とした障害当事者運動は猛然と批判した(野崎 [2011:38-39])。  兵庫県内の障害者運動の特徴はいくつかある。互いに別処から発生した運動が、緩く連携し合っていることが、大きな特色として挙げられる。障害のある人の兄弟姉妹の団体である「神戸きょうだい会」の松村敏明は、教員の立場から、障害児の就学支援――基本的に統合教育(インクルーシブ教育)を推進している――のための電話相談をはじめた。それが現在の社会福祉法人「えんぴつの家」の原型となっている。松村はえんぴつの家に従事し、きょうだい会は長田区にある「くららベーカリー」を中心に活動がなされている。中央区にあるえんぴつの家には、本部、パン工場、知的障害者のデイケアセンターがあり、神戸大学の学生などとも交流を深めている。また、えんぴつの家は、兵庫青い芝の会の澤田隆司の昼間の介助体制の確立を当初の目的として、東灘区に身体障害者のデイサービスセンター「六甲デイケアセンター」を開所する。このように、親・きょうだいによる運動、当事者による運動、そして教員だった松村をも巻き込みながら、神戸における当事者主体の運動を作り上げてきたと言える。兵庫県や神戸市内の障害者運動の歴史的経緯や、行政交渉の経緯は、今後より詳細に描かれる必要が大いにある。



無事終了しました!

■当日の様子 (トークセッションの内容は『障害学研究』8号に掲載されています)

トークセッション登壇者会場の様子


□関連報告(ポスター発表)


有松 玲 「東日本大震災と障害者政策――不公平の公平性」
 http://www.jsds.org/jsds2011/jsds2011/pos10.doc

青木 千帆子・権藤 眞由美 「「福祉避難所」成立の経緯」
 http://www.jsds.org/jsds2011/jsds2011/pos16.doc


UP:20110809 REV:0914, 30, 1018, 20120619
災害と障害者・病者:東日本大震災  ◇東日本大震災:本拠点の活動関連  ◇病・障害  ◇生存・生活 

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