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災害と障害者・病者:東日本大震災
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東日本大震災 障害者関連報道 2012年3月
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災害と障害者・病者:東日本大震災
last update:20120618
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新聞記事見出し
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新聞記事本文
◇震災弱者:苦難の1年 知的障害の39歳、避難所生活に支障 施設再開、心ほぐれ
(2012.03.29 毎日新聞 東京朝刊 31頁 社会面)
◎絵本に「意思」 <やまこえ たにこえ げんきいっぱい><きゅうなさかもへっちゃらさ>
「足を上げてみましょうか」。2月14日午前、福島県南相馬市の障害者支援施設「デイさぽーとぴーなっつ」。体操の時間、スタッフの呼びかけで利用者14人と体を動かす渡辺英二さん(39)に施設長の郡(こおり)信子さん(50)は目を見張った。「震災前より溶け込んでいる」。英二さんは自閉症で重い知的障害があり、会話ができない。
東日本大震災から間もない昨年4月初旬。「何とか施設を再開してもらえませんか」。英二さんの母美奈子さん(67)は、新地町の自宅近くにある避難先を訪れた郡さんに、たびたび訴えた。一般避難所の中で英二さんは、みんなで見るテレビのチャンネルを突然変え、子供向けの本を取ってきてしまう。美奈子さんは目が離せなくなっていた。
何度も家に戻ろうとする英二さんに美奈子さんは「もうないんだよ」と告げ、流された自宅跡に連れて行き風呂場のタイル片を見せた。夫重喜さん(64)と英二さん、妹2人の5人家族は配慮され避難所の個室に入ったが、大声を出す英二さんを部屋から出さないようにするしかなかった。
英二さんは中学まで養護学校に通った。生活訓練のおかげでバスに1人で乗り、買い物もできた。祖父が亡くなり美奈子さんも働きに出たことから卒業後は知的障害者の入所施設へ。そこではなじめず、月1度の帰省時には眉毛をそられたり、耳が腫れ上がっていたこともあった。8年間の入所の末、普段は出ない涙を振り絞り、施設に帰ることを嫌がった。家に戻るとバスの乗車も買い物もできず、騒ぐようになっていた。案じた家族が自宅から通える居場所を探し、「ぴーなっつ」に通うようになると、徐々に落ち着き始めた。
毎日新聞 東京電力福島第1原発から約24キロの「ぴーなっつ」は原発事故後、郡さんらスタッフが利用者を訪ね、安否確認を続けた。再開を望む声は少なくなかった。「30キロ圏内(当時の緊急時避難準備区域)に障害者を集めていいのか」。県と市に難色を示されながらも4月11日、「障害者がそんなに大変ならやむを得ない」との行政判断を受け、再開した。
英二さんは被災当初、「ぴーなっつ」に持参していたかばんを手に毎朝迎えを待っていた。だが、再び通い始めた時は表情がなくなっていた。5月に仮設住宅へ移ってからも大声を上げた。最も近くに住む「ぴーなっつ」のスタッフが片道25キロを送迎した。「そっと閉めましょう」。ドアの大きな開閉音もたしなめず、音を立てなければ「ありがとう」と繰り返した。英二さんの心は少しずつほぐれていった。
11月9日朝。英二さんは美奈子さんに絵本をみるようしきりに促した。英二さんは絵本に色付きのテープをベタベタ貼るのが好きで、その絵本にも新幹線の写真にちぎり絵のようにテープが貼られていたが、隙間(すきま)に絵本の字が残っていた。それを見て、美奈子さんは息をのんだ。
<やまこえ たにこえ げんきいっぱい>
<きゅうなさかもへっちゃらさ>
字を読めないはずの英二さんが意思表示していると思った。「家族全員がつらい思いをしているからこそ『みんなで頑張ろう』ってことかな」。美奈子さんはもう一つ、気づいた。その新幹線は、下の妹と同じ名前だった。【野倉恵、写真も】
◇(震災 あの日から)季刊誌で障害者応援 町田の社会福祉法人 /東京都
(2012年03月22日 朝日新聞朝刊 東京都心・1地方 029)
復興に取り組む被災地の障害者を応援したい。こんな思いから、町田市の社会福祉法人・ウィズ町田が、年4回発行の季刊誌「コトノネ」を創刊した。仕事に光を当て、生産品のPRを重視。障害者施設の立て直しだけではなく、その先の自立を見据えた誌面を展開している。
1月末に出した創刊号で取り上げた施設の一つが、知的障害者らが通う福島県南相馬市の福祉作業所「えんどう豆」。「福島が好き」「福島応援隊」。作業場には、こんな言葉が記された色とりどりの缶バッジが並ぶ。作業を担ったのは、門馬千恵さん(27)、安達香樹さん(41)ら。1ページのカラー写真で取り上げられた「コトノネ」を見て、笑顔がはじけた。
施設は福島第一原発から30キロ圏内にあり、10人余りの通所者は震災後、市外に避難した。6月に再開したが、仕事の柱の一つだった野菜づくりは放射能の影響で取り組めず、それまで1人月1万円ほどだった工賃は半減した。
そこで、地域の同様の施設と協力して夏から始めたのが缶バッジづくりだった。デザインは通所者や職員が考え、「100個入り1万2500円」といった単位で通信販売を開始。ブログや口コミで話が広がり、これまでに10万個以上を販売した。
ただ、佐藤定広所長(49)は「被災地への関心自体は徐々に薄まっていると感じます」。それだけに、「コトノネ」による情報発信に期待を寄せているという。
ウィズ町田は、震災後、被災地の障害者施設の物産展を都内で開き、「さらに継続的な支援を」と考えて「コトノネ」の発行に至った。誌名は「『出来事』に目をそむけず、『異(こと)』だった人と『言葉』を交わし、新たな音色を紡ぐ」という意味を込めたという。天野貴彦理事長は「障害者がいきいきと働けば、全ての人の暮らしが元気になります」と話す。
誌面ではほかにも、食品、雑貨……と障害者施設の商品を紹介し、購入する際の連絡先を記した。豆腐や油揚げ、缶詰といった社会福祉法人・はらから福祉会(宮城県柴田町)の商品も多く取り上げている。
創刊号は、公的な助成金を受けたこともあり、1万部を無料で配布。4月に出す第2号からは、有料で1冊680円の価格設定になる見通しだ。問い合わせは、「ウィズ町田」内の「就労支援センターらいむ」にファクス(042・721・2460)かメール(s−raimu@nifty.com)で。
24日午前10時からは、イベント施設・ぽっぽ町田(町田市原町田4丁目)で、ウィズ町田のコトノネ事業部が「東北復興支援大物産展」を開く。はらから福祉会の商品などを販売し、掲載写真を撮影したカメラマンの作品を集めた写真展も開かれる。(金子元希)
◇講演会:東日本大震災と障がいテーマに−−あす新宿で /東京
(2012.03.22 毎日新聞 地方版/東京 26頁)
心の病を持つ人たちが支え合う墨田区のNPO法人「こらーる・たいとう」(加藤真規子代表)は23日午後1時半から、新宿区戸山1の戸山サンライズで、「東日本大震災と障がい」をテーマに講演会を開く。
重い身体障害を抱えながら福島県内で他の障害者のサポート活動に取り組んでいる当事者2人が講師。福島第1原発事故の後、2人がそれぞれの仲間と県外に避難した体験や、福島の障害者福祉の再建を目指す思いを語ってもらう。資料代300円が必要。問い合わせは、こらーる・たいとう(03・5819・3651)。【江刺正嘉】
◇いま、できること:震災1年・佐賀から/4 難病 /佐賀
(2012.03.20 毎日新聞 地方版/佐賀 19頁)
◇要援護者へ目配りを
武雄市で暮らす永石日香莉ちゃん(3)の母恵美子さん(39)は、東日本大震災後、不安を募らせている。「もし大規模災害が起こったら、私たちに行き場はあるのだろうか」
日香莉ちゃんは人工呼吸器を使用しており、生きるために電気が不可欠だ。自家発電機を購入し、外出用の酸素ボンベも一定の備蓄はあるが限りはある。「何かあったら来てください」というかかりつけの病院は、車で1時間は必要な佐賀市内。緊急時の移動手段はあるのか。電源を確保した避難先は――。
難病患者や障害者らは大規模災害時、取り残されたり、逃げ遅れたりするリスクが高くなる。迅速な安否確認はもちろん、避難や支援の方法について周囲が認識を共有することが必要だ。
このため、県内でもほとんどの自治体が「災害時要援護者名簿」を作っている。ただ、掲載しているのは登録に同意した人に限定されるケースがほとんどで、実態を把握できているとは言えない。
実際に活用できるのかという課題も残る。特に行政が機能しなくなった時はどうなるか。東日本大震災で被害の大きかった東北3県でも、民間団体にリストを開示した市町村は福島県南相馬市だけだった。「個人情報保護法」の壁を破り活用できるかどうか不透明だ。
多機能トイレや非常用電源を確保するなど要援護者の受け入れ先になる「福祉避難所」の整備も進んでいない。20市町のうち指定済みは10市町のみ。震災前の10年3月末から3自治体しか増えていない。このため県は県立学校45校の体育館を福祉避難所として整備する方針を打ち出す。
一方、当事者も動き始めている。昨年11月、NPO法人県難病支援ネットワークと嬉野市が共催した避難訓練もその一つ。当事者団体と行政が共同して実施するのは全国的にも珍しい。当日は約20人の障害者、難病患者を含む約280人が参加した。倒壊の恐れがある建物など、危険箇所を確認しながら、避難経路を歩いた。
同ネットワークは、本人の病気や、必要な薬などを記載できる「緊急医療・災害手帳」も作製。「公的な力を頼るには限界がある。自助、共助の力を高めることも必要」と強調する。
訓練に参加した県立塩田工高3年の小林宜輝さん(18)の言葉が印象的だ。「実際の災害時は、誰がどう手助けするかという説明も役割分担する時間もない。地域ぐるみの訓練をし、助けを必要とする人が暮らしていることを共通認識として持つことが大事です」【蒔田備憲】
◇災害時の障害者支援 安否確認 個人情報の壁
(2012.03.19 読売新聞 東京朝刊 安心C 19頁)
◇社会保障・安心
東日本大震災では、自治体による安否確認が遅れ、多くの障害者が孤立した。民間の障害者団体も安否確認に乗り出したが、個人情報保護が壁になり、ほとんど実を結ばなかった。災害時に素早く障害者を支援するための課題を検証した。(社会保障部 梅崎正直)
◎開示に消極的
「後ろを見るな!」。祖父の言葉を聞かず、男性(26)は振り向いた。一家5人を乗せて逃げる車の窓から見えたのは、我が家が大津波にのみ込まれる瞬間だった。福島県南相馬市で漁業を手伝っていた男性はその日から誰とも話さず、布団の上で座ったままになった。
避難所を転々とした後、新潟県で3か月過ごした。子供の頃、学習に遅れがあったものの、社会生活に問題はなかった。しかし、被災のダメージは深刻で、精神科を受診しても状態は変わらなかった。南相馬の仮設住宅に入居した昨年7月以降も部屋にこもった。そんな状態の男性を見つけたのは、市と障害者団体による安否確認チームだった。
震災後、南相馬市は、障害者団体「日本障害フォーラム」(東京)の協力で、障害がある市民825人の安否確認を行っていた。男性の病状を知った市は、同フォーラムに生活支援を依頼。男性は11月から市内の作業所に週5日通いはじめた。仲間と缶バッジ作りをし、最近は大きな声であいさつができるようになった。
震災後、被災市町村では行政機能も被災し、障害者の安否確認は難航。それに協力しようと、障害者団体が障害者手帳などを持つ住民の個人情報の開示を求めた。しかし、読売新聞が6月に行った調査では、津波を受けた沿岸や福島第一原発からの避難をした地域で開示の要望を受けた8市町村のうち、応じたのは南相馬市のみ。多くは、個人情報保護を理由に開示を拒んだ。
岩手県宮古市もその一つ。支援活動をする「ゆめ風基金」(大阪)は昨夏、市街地に遠い仮設住宅で、通院手段に困る人工透析患者3人を見つけた。震災から半年後、ようやく3人は送迎の支援を受けられるようになった。同基金の八幡隆司理事は「今も新たに支援を求める人が多く、安否確認は十分ではない」とする。
◎9市町「把握できず」
孤立が生命の危機にもつながる障害者の安否確認を早く行えば、適切な支援が可能になる。福島県三春町の山あいに立つ仮設住宅。身体、知的障害がある葛尾村の松本雄太さん(21)が入居したのは昨年7月だ。同村は、避難所にいた障害者が仮設住宅に入居する際、もとの地域住民のつながりを保つよう配慮した。顔を見れば声をかけ、家を訪ねる人も多い。
1000戸以上の応急仮設住宅を設ける20市町を対象に、読売新聞が2月末に実施した調査では、身体、知的、精神障害の合計で、応急仮設住宅には3041人、借り上げのみなし仮設には1061人の障害者がいた。しかし、岩手県陸前高田市、山田町、宮城県仙台市、石巻市、女川町、山元町、亘理町、福島県南相馬市、大熊町の9市町は、仮設住宅などに住む障害者を十分に把握できていないと回答した。うち4市町はすべての人数が不明だった。5市町が人手不足を、調査が行き届かない理由にあげた。女川町は「コミュニティーができていない地区が多く、見守りができていない」とする。
◎体制作りへ
教訓を生かすには、災害時の安否確認に障害者団体などが速やかに協力できる新しい仕組みが必要となる。今年2月には、日本障害フォーラムが体制整備を国に要望した。
まず必要なのが個人情報開示のルール作りだ。自治体の個人情報保護条例は、情報を本来の目的以外に利用することを禁じているが、公共目的の場合は例外で、災害時はこれにあたると考えられる。さらに、障害者団体と行政の協力関係も欠かせない。岩手県の担当者は「名刺1枚では開示の決断はしにくい」と話す。遠方から来た見ず知らずの団体に、すぐには開示しにくい。自治体と団体の協定など事前の体制作りも重要だ。
国も動き始めた。内閣府は来年度、開示のルール、民間団体との協力のあり方を議論し、「災害時要援護者の避難支援ガイドライン」に盛り込む意向だ。東京都も、災害時には本人の同意がなくても、個人情報を利用できることを示したパンフレットを作成している。障害者支援とプライバシー保護のはざまで、市町村独自の判断が難しい問題だけに、国や都道府県が明確な方向性を示す必要がある。
◎ルール決めて備えを
個人情報保護に詳しい一橋大学の堀部政男名誉教授の話「今はどの自治体でも個人情報保護条例が作られているが、保護にこだわるあまり、個人情報が有効に利用できなくなる傾向がある。災害時の障害者支援などに利用することは、むしろ法の趣旨に沿っている。条例などを設けて開示のルールを決め、他の目的に利用しないよう歯止めを設けたうえで、緊急時に素早く対応できるようにすべきだ」
◇明日へ一歩ずつ 東日本大震災1年、県民の思い /群馬県
(2012年03月12日 朝日新聞朝刊 群馬全県・1地方 037)
11日、東日本大震災から1年を迎えた。被災地とともに新たな一歩を踏み出したい。昨日から明日へ。県民の思いを聞いた。
<ボランティア組織「片品むらんてぃあ」元事務局、笠松亮さん(66)> 片品村が受け入れた福島県南相馬市民は938人。延べ93軒の宿泊施設に分かれて滞在したことが、大規模施設に集まった他自治体と違う。人口約5千人の村。ボランティアばかり注目されたが、宿泊施設の経営者や村健康管理センターの保健師らをはじめ、村中がフル回転だった。
昨年9月で活動に区切りをつけ、講演や写真展を通じて体験を語り継いでいる。後世に生かすため記録を残すことが必要だ。
<前橋市、春から大学生、近藤美紗妃さん(19)> 被災地に行ったことはない。でも家族がそばにいて、普通に過ごしていることが幸せだと実感する。
3月に共愛学園高校を卒業した。在学中は新聞委員だった。震災に伴う物資不足の影響で学校新聞づくりを中断した。
先日、卒業に合わせ今年度初めての新聞を作り、編集長を務めた。テーマは「震災」に。「忘れてはいけない」と一字一字に思いをこめた。震災と向き合う大切さを、まずは共愛生に伝えられたかな。
<避難先の片品村で暮らす南相馬市の田中一夫さん(71)> 初めて片品村で本格的な積雪期を過ごした。会津を思わせる深い雪で、妻や3男と毎朝、家の前を雪かきして、勤め先の沼田市のラーメン店に通った。
1月、南相馬に一時帰宅し、自宅兼飲食店の建物を売った。借地なので地代の負担が重い。7年前まで住んだ家に家財道具を移した。しかし除染が始まっておらず家の内外とも基準値を超える放射線量。古里に戻れない。補償がないと生活できない。
<相模原市(伊勢崎市出身)、大学生、設楽高史さん(19)> 昨年6月、宮城県に1泊2日(車中泊)でボランティアに行った。側溝のヘドロかきに住民は喜び、休憩のためのシートを敷くなど歓迎してくれた。被災地に寄り添うことの大切さを実感した。
震災から1年たち、少しずつ復興は進んでいるのかもしれない。でも、最近はボランティアの数が減っているという話も聞く。まだ、被災地には支えが必要だと思っている。
<伊香保温泉観光協会長の大森隆博さん(56)> 震災直後の2週間で3万人を超す宿泊客がキャンセルした。「商売敵ではなく、商売仲間になろう」と旅館52軒や飲食店など力を合わせてきた。これまでも10回の大火にあい、先人は力を合わせて温泉街を復興してきた。今回も青年部や婦人部、各旅館が自分たちが何ができるのか、自ら考えて行動した。
お客さんは戻り始めている。草津温泉などと温泉地を越えた連携を図りたい。海外からの誘客にも力を入れたい。
<南相馬市から片品村に移住した川村雪絵さん(37)> 70代の父は原発事故後も避難せずに残っている。直前に母が亡くなったので離れたくないみたい。
こっちで暮らそうと決めたのは小学6年の枢(くるる)、3年の英(えい)の二人の子どもの存在が大きい。「こっちにいてもいいよ」と言ってくれた。たくさんの友達もでき、経験のなかったスキーにはまっている。片品は空気がきれいで、私も3カ月に1度はあったぜんそくの発作がなくなった。11日は南相馬に帰って墓参りをします。
<社会福祉法人「友愛会」事務局長、寺島利文さん(58)> 昨年4月、福島県富岡町の知的障害者施設から高崎市の「国立のぞみの園」に避難し、利用者69人、職員32人で暮らしている。利用者には福島のことを思い出させないようにと思っている。昨年秋、7、8社から内職をいただいた。4月からは加工みそも作りたい。
利用者は福島を映すテレビを見て「戻りたい」と言う。元に戻れると思っているのだと思う。私も富岡に帰りたい。それをかなえるため、今を大事にしたい。
<コニファーいわびつ(東吾妻町)のフロント係、今井隆子さん(56)> 南相馬市の被災者を半年間受け入れた。最初は「お客さん」という意識で接していたが、すぐに被災者の自治組織が生まれ、お互いにアイデアを出し合いながら運営するようになった。
本当の家族のよう。1月、「家族」を訪ねに南相馬市へ出かけた。喜んでもらえた。帰郷した人も「近くに来たから」とコニファーに立ち寄ってくれる。これからも、もう一つの家と思ってほしい。
<高崎市の群馬整肢療護園園長の清水信三さん(64)> 震災直後から約3カ月間、福島の重度心身障害児を受け入れた。当時11歳と12歳の女児。福島の施設長はよく知る仲だったのですぐに動けた。
いざという時に、助け合うことの大切さを実感した。スタッフともども良い勉強をさせてもらったと思っている。
震災を機に、インターネットを使って通話できるスカイプを導入した。今後何かあったときに互いの顔を見てやりとりできる環境が整った。
<川場村、尾瀬学校ガイド、黒田まり子さん(58)> 群馬の山や森が大好きで、21年前に神奈川県から転居した。それが今では、放射能が心配で、深呼吸することができないなんて。
南相馬市から川場村の「ホテルSL」で避難生活を送る子ども13人を集めて、「SL塾」を開いた。一生懸命、笑顔の自分を描く姿を見て、「子どもの命を中心に考えたら、もっと世の中は良くなる」と思った。現在、利根沼田地区のお母さんたちと放射能について情報交換している。
<桐生市、織物参考館紫(ゆかり)館長、森島純男さん(66)> ノコギリ屋根の工場を利用した展示場がやられ、一時は閉館も考えた。最後の勝負と銀行から3千万円借り、3カ月かけて修復した。この間に体重が5キロも減っちゃった。
ありがたいことに秋から客が増えた。群馬DCやテレビの特集のおかげ。これからは本町1、2丁目の重要伝統的建造物群保存地区指定などいい材料が目白押し。もう閉館は考えない。でも思う。3・11がなかったらもっと楽だったろうな、って。
<桐生市、cafe PENNY RAIN店長、小林麻美さん(26)> 開店の3月17日が目前で、4日連続の開店レセプションの2日目だった。揺れたときは準備中だった。外に出ると空まで揺れていた。
店の被害はほとんどなかったけれど、「これからスタートなのに」って落ち込んだ。だから、開店後、お客さんに「こんなときに開店してくれてありがとう」と言われたときはうれしくて。あれからもう1年。店は順調。でも、あんな思いは二度としたくない。
<東毛酪農業協同組合長、大久保克美さん(63)> 組合は20年以上にわたって利根川河川敷の芝草をウシの無農薬飼料として利用し、牛乳をつくってきた。原発事故後、自然に近い状態で育てた牧草ほど被害を受け一時は多くを外国産飼料に頼った。
飼料から牛乳まで、できるだけ自然に近い形で自分たちで手作りし、消費者にその過程を見える形にする。それが安全につながる、という考えは崩したくない。自主検査結果など情報をすべて開示して消費者に理解してもらうしかないと思っている。
◎被災地で「KIZUNA」
被災地を1万4千個のLEDライトで照らすイルミネーションが、宮城県気仙沼市で飾られている。16日まで。
沼田市で板金会社を営む桑原敏彦さん(46)は、地元の山などを光で飾る「星の絆」活動を続けてきた。今年は被災地を支援しようと、気仙沼市に打診し、実現した。「星の絆は人の絆。支援を続けたい」
◇そのとき・これから:3・11東日本大震災から1年/2 山田清司・府危機管理監 /京都
(2012.03.13 毎日新聞 地方版/京都 27頁)
◇災害弱者避難に仕組み必要−−山田清司・府危機管理監(57)
◇府県超えた連携も
――被災地に対する現在の府の支援状況は?
行政が関与しているだけで府内への避難者の受け入れは、9日現在で810人。関西広域連合の割り当てで福島にはこれまでに延べ8600人の職員が応援に入りました。
――避難者の住宅問題は、どう対応していく?
原発という不安が払拭(ふっしょく)されないと現地には戻れません。この1年で劇的に福島の放射線の除染状況が好転するのは難しい。公営住宅に特例でそのまま入るか、安い民間住宅へあっせんという話になる。それぞれのニーズに応じて考えないといけないでしょう。
――府内での防災面への教訓は?
応援に行った職員の意見などを基に「応援・受援マニュアル」を作っていくことが一つ。新年度予算に広域防災拠点を府内3カ所に整備する事業費を盛り込みました。知事の発案で新規採用の職員を被災地支援に行かせた。足手まといになるかもしれないが、今後の行政に生かすことができると思ったからです。
――隣接する福井県に原発が立地しているが、対応は?
国の4月の法改正ではシミュレーションの後、6カ月以内に地域防災計画を見直すことになっているが、取り組むことができる部分は、その前にやりたい。月内にも防災会議を開き、暫定的に見直すことができればいいと考えています。
――府民がやるべきことは?
耐震対応はできる範囲でやって3日分の水・食糧は用意してほしい。地域の連携もしっかりやってほしい。訓練では危機意識を持つことが経験の差につながります。
――それを踏まえて府の役割は?
まず(高齢者や障害者など)要配慮者の避難の仕組みづくりが必要です。移動が1市町村域に納まらないことが多く、府が調整しないといけない。万単位の避難人数では府県を超えた連携も必要だ。
――原発事故で住民は不安を抱えているが。
国、電力会社が事故防止にどれだけのことをやるのか、しっかり意見していきたい。
――1年を振り返ってみて感想は?
現地の状況を見るといろんな対策がまだまだ必要です。府としてどのような支援ができるか、改めて考えたい。復興が一日も早く進んでほしいと思うが、道は遠いと思います。【聞き手・入江直樹】=つづく
◇東日本大震災1年 「東海」想定、高台へ急げ 6万人が津波避難訓練=静岡
(2012.03.12 読売新聞 東京朝刊 静岡 33頁)
◇東日本大震災1年
東日本大震災から1年となる11日、震災被害を踏まえた県の津波避難訓練が行われた。午前10時に東海地震が発生し、3分後に津波警報が発令されたとの想定で実施され、沿岸部の住民ら約6万人が高台や津波避難ビルを目指し、東海地震への備えを確認していた。追悼式典も各地で行われ、震災発生の午後2時46分に合わせて多くの県民が犠牲者の冥福を祈った。
静岡市駿河区では11日、下川原5丁目自治会の住民約400人が、東名高速道路の「のり面」上部(高さ6メートル、海抜13メートル)を目指し、自治会が設置したロープをつたって急斜面を登った。
2〜9歳の子ども4人と参加した鷲巣実香さん(35)は「土が滑りやすくて怖かった。子どもたちは訓練に参加したことで、親がいない時もここに避難してくれると思う」と話した。下川原5丁目自治会長の青山孝さん(67)は「行政に頼り切りにならず、のり面への階段設置など、出来る対策は自治会がする」と述べた。
静岡市は津波被害を想定し、高台の東名高速のり面を避難場所として使う協定を中日本高速道路と結んでいる。現在、避難場所ののり面区間(計4・6キロ)に26か所ある入り口を、「100メートルに1か所」を目安に22か所程度増設する方針だ。
視察した小林佐登志・県危機管理監は「実際に体験することが重要だ。対策を工夫すべき点もあり、必要な費用は県が積極的に支援していきたい」と語った。
掛川市大坂地区の訓練には、自治会役員ら約100人が参加。体の不自由な人をリヤカーに乗せて高台にある老人福祉センターなどに避難した。マッサージ業の吉田悦朗さん(71)は「今回はスムーズに避難できたが、夜間に地震が起きた場合の不安はある。訓練を重ねることが大事だ」と話していた。
県の第3次被害想定で、東海地震により県内最大級の津波が予想される沼津市は11日、市庁舎に災害対策の司令塔となる危機管理センターを開設した。駿河湾を震源とするマグニチュード8の大地震が発生したとの想定で、防災担当の56人の職員が参集して訓練も行った。栗原裕康市長は「あらゆる事態を想定し、不断の訓練をしてほしい」と職員を鼓舞した。
◎浜松で車使い模擬訓練 要援護者向け有効性検証
浜松市は11日、高齢者や身体障害者などの要援護者が津波から避難する際に車を使うことの有効性を検証しようと、模擬訓練を初めて行った。東海地震が起きた場合の避難は原則徒歩とされているが、市の津波対策委員会で、徒歩での素早い避難が困難な要援護者については車を使った避難を検討するよう意見が出されたため、今回実施した。
訓練は、沿岸から約1キロ・メートルの江之島町公民館(市南区江之島町)で行われた。市危機管理課の職員2人が、片足が不自由な障害者にふんした職員を車に乗せて、約600メートル先の南区役所へ避難させた。
途中で渋滞に巻き込まれたという想定で下車し、4階の高さにあたる屋上まで計約6分15秒でたどりついた。職員たちは訓練終了後、「付き添いが1人では階段を上るのが大変」「障害の度合いによって避難方法を考えないと」などと課題を指摘していた。
松永直志危機管理課長は「実際の地震では、家の中で家具が倒れたり、倒れた電柱が道をふさいだりするなど、スムーズに避難するのは難しい。今後、様々な状況を想定し、対策をとっていきたい」と話していた。
◎静鉄で列車緊急停止訓練
静岡鉄道は11日、大規模地震発生を想定した列車緊急停止訓練を実施した。同社は2006年、沿線で震度4以上の緊急地震速報が発表された場合、列車に緊急停止信号が自動的に流れるシステムを導入した。この日は午後2時46分に緊急地震速報が発表されたとの想定で、新静岡―新清水駅間の上下計8本が緊急停止するなどした。原田翼運輸課副課長は「震災を記憶にとどめ、被害を低減させるために今後も訓練を続けたい」と話した。
◎消防団員 追悼のラッパ
震災で犠牲になった消防団員を追悼しようと、静岡市清水区の清水マリンパークでは11日、震災発生の午後2時46分に合わせて、県内の消防団員ら約100人が被災地に向かってラッパを演奏した。
清水区の消防団でラッパ隊に所属する栗田知昌さん(47)が、「絆のラッパ吹奏会」の開催を仲間に呼びかけて実現した。
この日は、静岡市のほか伊豆市や菊川市などからも消防団員が参加。殉職者への黙とう曲として知られる「国の鎮め」を演奏した。会場には消防団員の家族らも駆けつけ、犠牲者に黙とうをささげた。
栗田さんは「亡くなった消防団員は、自らを犠牲にしようとしたわけではなく、一人でも多くの住民を助けて一緒に生きようとしたんだと思う。そんな彼らの気持ちを忘れないでほしい」と話していた。
◎東伊豆で避難住民参加し一周忌法要
東伊豆町稲取の済広寺で11日、東日本大震災殉難者追善一周忌法要が営まれた。福島県葛尾村から同町内に避難している土橋行雄さん(77)夫妻や住民など約50人が参加。震災の起きた午後2時46分には、同町出身で福島県南相馬市で被災した内山テルミさん(58)がつく鐘の音に合わせて黙とうをささげ、犠牲者の冥福と被災地の一日も早い復興を祈った。
法要は、岩手県などでボランティア活動に参加した清光院(東伊豆町稲取)の住職菅原大道さん(38)ら若手の僧侶が「寺として被災地のために出来ることを」と呼びかけ、東伊豆、河津両町にある寺の住職20人が賛同して実現した。土橋さんは「福島県浪江町で亡くなった知人が多かったので、法要を開いてもらえてありがたい」と話していた。
◇命を守る教育:3・11から1年/下 障害がある子供たち、種別や程度で変わる支援 /宮崎
(2012.03.11 毎日新聞 地方版/宮崎 25頁)
「『困っています』『助けてください』と自分から声をかけるように」。目が不自由な児童生徒35人が通う県立明星視覚支援学校(宮崎市)の別府宗光教頭は、東日本大震災後、子供たちにそう指導している。地震時に津波が迫るのに気付かず、逃げ遅れる危険性があるからだ。同校は海岸から3キロにあり、別府教頭は東日本大震災で被害が大きかった福島、宮城、岩手の視覚支援学校(盲学校)3校に電話して震災時の状況を尋ねた。
震災が発生した午後2時46分は下校時間帯で、一人で帰宅途中に震災に遭遇した子供たちもいた。そんな中「白杖(はくじょう)を持っている子の場合、周囲が視覚障害者だと気付いて声をかけられることが多かった」という。福島県相馬市では、目が不自由な生徒が電車で帰宅中に地震が発生。白杖に気付いた隣の乗客が声をかけ、電車が津波にのまれる前に避難できたという。自分から「何が起こったんですか?」と尋ねて避難した子供もいたという。
校内で災害が発生すれば、避難経路内の障害物の有無、煙を避けるための風向きなど、教職員が校内放送で伝える。しかし「知らない場所で災害に遭遇したら一人で情報を集めないといけない。まず自分には障害があると周囲に気付いてもらうことが大切」と別府教頭。気後れせず周囲に声をかけられるよう、同校では普段の授業でも自分の意見を発表したり、地域住民らと交流する機会を増やしたという。
思春期の子供たちにとって障害を周囲に伝えることは、周りが思うより葛藤が深い。自分の障害に気付き、受け入れていく心の成長過程にあるからだ。県立延岡ととろ聴覚支援学校(延岡市、17人)の松田朝子校長は「誰だって自分の弱みは明かしたくない。障害があってもできることはたくさんあるけれど、できないことがあることも認めて相手に伝えていくのは大変なこと」と話す。
災害について考えてもらおうと、同校は昨年5月の避難訓練で、台の上に子供たちを乗せて職員が交代で揺らし、地震を疑似体験させた。さらに2月、聴覚障害があるドキュメンタリー映画監督、今村彩子さんを招き、被災地で生きる聴覚障害者について講演してもらった。「みんな自分のことに置き換えて重く受け止めたと思う。聴覚障害は情報障害で、子供たちが周囲から必要な支援を得られるように導くのは教育の大切な役目」と話す。
毎日新聞の昨年10月の調査によると、東北3県の沿岸部自治体で、身体、知的、精神の各障害者手帳所持者に占める犠牲者の割合は約2%に上り、住民全体の死亡率に比べ2倍以上高かった。県特別支援教育室は、各特別支援学校に、登下校の経路を把握し、保護者との緊急連絡網を整備することなどを通達しており、松田律子指導主事は「障害の種別や程度によって必要な支援は変わる。マンツーマンに近いきめ細かな対応を求めたい」と話す。【川上珠実】
◇災害時避難方法、障害児の目線で 舞鶴で勉強会 /京都府
(2012年03月11日 朝刊 丹後・1地方 034)
災害時の障害児支援について考えようと、舞鶴市の西駅交流センターで10日、福祉施設の代表者らを集めた勉強会が開かれた。市内外から障害がある子の親ら約40人が参加した。
阪神大震災の経験を報告したNPO法人「ウィズアス」の鞍本長利(くらもとながとし)代表は、障害者は、食事や入浴などの面で避難所での集団生活が難しくなると指摘。遠くに避難できないことも想定し、「ふだんから近くの学校など地域と関係をつくり、トイレなどの設備も確認する必要がある」と話した。
昨年4月から今年2月にかけて福島県南相馬市に支援に訪れた「まいづる作業所」の新谷篤則(あつのり)所長は、作業所の製品が風評被害のために売れず、利用者の給料が激減している現状を報告した。震災直後、救援を必要とする人のリストに漏れが多く、安否確認が進まなかったことも指摘した。舞鶴市の森地区などで要救援者リストを作成している「あんしんネットワーク」の村尾幸作代表は「災害時に一人も見逃さないよう、市全域にネットワークを広げたい」と語った。(平畑玄洋)
◇つなごう希望:東日本大震災 聴覚障害者を支援、補聴器用電池など贈ろう! 県中途失聴・難聴者協会、募金呼びかけ /山口
(2012.03.10 毎日新聞 地方版/山口 20頁)
東日本大震災の被災地に住む聴覚障害者を支援しようと、県内の聴覚障害者でつくる「県中途失聴・難聴者協会」が、補聴器用電池などを贈るための募金を呼びかけている。聴覚障害者は補聴器がなければ災害時に防災無線が聞こえないなど固有の問題を抱えており、「支援が必要な状況は今も続いている」と訴えている。
協会(会員数36人)の名和田光事務局長(50)によると、聴覚障害者の全国組織「全日本難聴者・中途失聴者団体連合会」が震災直後に呼びかけ、県内でも会員や市民に募金や電池の寄付を求めた。これまで約1万3000円分の募金と電池約500個を連合会を通じて寄付。だが人工内耳を使う人は最短で3日ごとに電池を交換する必要があるものの、被災地では店舗が震災で壊れて電池の入手が難しい人や、津波で補聴器が流されたりする人もいるなど、震災から1年近く経ても支援が必要な人は多いという。
聴覚障害者は一見、障害の有無が分からないため、避難所などで必要な情報が伝わらない場合もある。また昨年の全国障害者スポーツ大会でも被災地から訪れた選手から「聴覚障害者にとって東京電力福島第1原発事故の補償交渉を自治体や東電とスムーズにできるか不安」との声があったという。
名和田事務局長は「聴覚障害者は原発の補償交渉などでも電話でのやり取りができず、長い支援が必要。今後も募金活動などを呼びかけたい」と話している。
同協会では現在も募金を呼びかけている。問い合わせは、名和田事務局長にファクス(0836・41・8703)か電子メール(yamanankyo.sgnawata@gmail.com)まで。【吉川雄策】
◇(備える 3・11から1年:中)県の防災計画 要援護者に福祉避難所 /佐賀県
(2012年03月09日 朝日新聞朝刊 佐賀全県・1地方 029)
災害が起きた際の行動指針となる県の地域防災計画が今年2月、改定された。東日本大震災や東京電力福島第一原発事故の教訓を踏まえた内容で、地震や風水害、原発事故の際の住民の避難誘導方法などを示した。県は避難に手助けが必要な高齢者や障害者向けの福祉避難所の整備も始めるが、収容人数や運営方法などで課題が山積している。
県の計画では、災害発生時の避難に手助けが必要な人(要援護者)は、あらかじめ決めておいた家族や近所の人らが移動を支援。移動手段として市町は車両や船などを準備するよう定めている。
しかし実際には、県内の介護タクシー事業者が所有する福祉車両は約190台。寝たきりの人を運べるストレッチャー付き車両はわずか15台。高齢者・福祉施設分を合わせても災害時に足りないのは確実だ。
「市町でやっているから十分ということか」。7日の県議会文教厚生常任委員会では議員の激しい声が飛んだ。県内の要援護者約1万6千人のうち、寝たきりの人が何人いるかを質問したが、県側が把握していなかった。対象者の避難計画は、市町が個別に作ることになっているためだ。
「広域移動の場合、単一市町での対応は難しい。バス・タクシーの協会や自衛隊に協力を要請したい」と県側は応じたが、協会や自衛隊がどれだけ対応出来るかも把握していなかった。
要援護者の避難を巡っては、受け入れる避難所についても課題が残る。
昨年11月に実施された原子力防災訓練で、自治体などから要援護者も避難できる福祉避難所の整備が必要との声が上がった。これを受けて、県は5年をかけて県立学校全45校の体育館に、障害者らが使えるトイレなどを整備する。
福祉避難所とは、バリアフリー化され、要援護者を一時受け入れてケアする施設。災害救助法で、自治体は福祉施設などと事前に協定を結ぶことを求めている。県によると、1月現在で養護老人ホームなど3市8町に74カ所が指定、約7千人の受け入れが可能という。
県立学校も福祉避難所として利用できるようになると、最大で約1万人を受け入れられると県は試算するが、それでも要援護者を含む災害弱者のすべては収容しきれない。
石橋正彦・県統括本部長は2日の県議会本会議で「市町にも福祉避難所の設置を促し、十分な収容能力を確保したい」と話す。
福祉避難所の運営は各自治体に委ねられる。施設の管理運営には県と自治体との事前の連携が必要だ。
佐賀市には約1700人の対象者がおり、53カ所が福祉避難所に指定されている。市内の県立学校12校を含めて災害時にすべてが避難所として開設された場合、対応にあたる人的余裕がないのが現状という。
市福祉総務課の担当者は「大勢の職員の配置が必要で、果たして大丈夫なのか。避難所をさらに増やせるのかも疑問だ」と戸惑う。唐津市の担当者も「整備自体はありがたいが、具体的にはまだ何も決まっていない。県の方針を確かめる」と話している。
(上山崎雅泰、岩田正洋)
◇東日本大震災:「みんな一緒でうれしい」 救護施設「浪江ひまわり荘」、避難の西郷に仮施設完成−−きょう開所式 /福島
(2012.03.08 毎日新聞 地方版/福島 25頁)
福島第1原発事故で避難区域に指定された浪江町から西郷村に避難している救護施設「浪江ひまわり荘」の仮施設が完成し、ばらばらだった入所者らが1年ぶりに同居できるようになった。8日に開所式が開かれ、自宅で津波で亡くなった女性職員(43)にみんなで黙とうをささげ、再出発を誓う。【山下貴史】
救護施設は生活保護を受けている人のうち、自宅での生活が困難な知的、精神、身体障害者らが入所。同荘は県内6救護施設のうち唯一、警戒区域内にあり、第1原発から10・5キロに位置していた。
同村に避難するまでの4日間は困難を極めた。地震発生時、出勤していた職員21人と給食業者4人の計25人が入所者110人の入浴介助など世話をしていた。施設は倒壊せず全員無事だったが、停電、断水し、外部に連絡できず、非常食を分け合って夜を明かした。
同荘を運営する県社会福祉事業団(西郷村)が、最初に同荘と連絡が取れたのは12日午後8時過ぎ。すぐに県災害対策本部に救出を要請したが、民間バスは規制が厳しく到着が大幅に遅れた。13日午後9時には近くで山火事も発生したため、同荘職員はマイカーで入所者を約800メートル先の国道まで緊急避難させる事態になった。その後、着いたバスに乗り、南相馬市で放射線検査を受け、同村に着いたのは14日午後3時半だった。
入所者らは同事業団が運営する9施設に分散して避難生活を送った。一般向け施設では身障者トイレが一つしかなかった。同行した職員たちも自宅が警戒区域にあり、被災者だった。県の借り上げ住宅に入居する8月までアパート4部屋に職員約30人が集団で住み込み、働き続けた。
仮施設は、同村の県有地の一部を借りて速やかに着工、2月29日に完成した。同荘の福尾絹子園長(55)は「利用者の表情にも明るさが戻った。家族のような暮らしをしてきたので前を向いて一歩を踏み出したい」と感慨深げ。71年の開設当初から利用する女性(61)は「廊下もトイレも広い。みんなと一緒で楽しい」と話した。同事業団の高阪泰二経営改善部長(57)は「利用者は何が起きたか分からず、ばらばらになった。破壊されたコミュニティーの復活はうれしい。早く浪江に帰りたい」と話した。
◇[その日に備え・東海地震](5)障害者の避難 配慮不足(連載)=静岡
(2012.03.07 読売新聞 東京朝刊 静岡 31頁)
東日本大震災では、障害を持つ多くの人も犠牲になった。
津波で大きな被害を受けた宮城、岩手、福島県の沿岸市町村に住む障害者手帳の所有者は約15万人。犠牲者数の全容はわかっていないが、内閣府による関係団体への調査では、約9000人のうち、2%以上の200人以上が死亡または行方不明になった。住民全体に占める犠牲者は約1%で、内閣府防災担当は「障害のある人が、一般の人に比べ高い確率で犠牲になった可能性が高い」とみている。
◇
障害のある人が、外出先で被災したらどうなるのか。2月12日、静岡市清水区で障害者向けの津波避難訓練が行われた。
訓練は、JR清水駅で東海地震に遭遇し、津波到達時間の5分以内に高い建物に避難するという内容。車いすの山本忠広さん(47)(静岡市清水区)は「震災の大津波を見て、自分が助かるのか不安に思った」と、初めての参加を決めた。
目指すのは同駅近くの9階建てホテル。内階段の幅は約90センチで、車いすとのすき間はわずか約30センチしかない。山本さんと車いすを合わせた重さは計70キロ・グラム。介助の男性2人がかりで持ち上げ、8分弱かかってようやく4階にたどり着いた。「もっと早く大津波が来たら駄目だ」。2人は息を切らしながら話した。
実際の東海地震では、階段は逃げ込む人たちであふれ、車いすで上がることはできないかもしれない。「1人で被災したら、協力者を探せるでしょうか」。山本さんの顔色はさえない。
見た目ですぐに障害者とわからない場合には、協力はさらに望みにくい。
訓練に介助人として参加した佐野可代子さん(58)には自閉症の長男(30)がいる。感情の浮き沈みが激しいため、状態の悪いときに1人で被災した場合を佐野さんは心配する。「多分、その場に立ち尽くして動かないと思う。周囲も気づかず、自ら助けを求められず……アウトです」
◇
震災後、県内の沿岸市町では津波避難ビルの整備が進んでいる。だが、障害のある人や高齢者の避難までは配慮が行き届いていない。県危機管理部も「高い建物への災害弱者の避難は大きな課題」としている。
ただ、対策は皆無ではない。例えば、和歌山県田辺市では高齢者や障害のある人を優先的に収容する津波避難ビルを指定している。
解決策は簡単ではないが、訓練に参加した山本さんは言う。「避難ビルさえあれば安心ということではない。どこに問題があるかわかったことが対策の第一歩になります」
◇大震災1年 「音のない3・11」映像に ろう者・今村さん=中部
(2012.03.04 中部朝刊 中社会 39頁)
◎苦労、情報格差伝えたい
耳が聞こえないろう者の生活をテーマにした映像作品を発表している名古屋市緑区の今村彩子(あやこ)さん(32)が、東日本大震災で被災したろう者を取り上げたドキュメンタリー映画の制作を進めている。自らもろう者の今村さんは「被災地のろう者が抱える問題や苦労などを伝えたい」。発生から1年を迎える11日も、被災地でカメラを構える。
今村さんは、母校の愛知教育大(愛知県刈谷市)で講演会の打ち合わせ中、これまでに経験したことのない揺れを感じた。しばらくすると、テレビに被災地の惨状が次々映し出された。「たくさんのろう者がいるはずだ」。発生から11日後には、宮城県へ向かった。
最初に訪れたのは、仙台市から南へ約20キロの岩沼市だった。海岸近くの住宅約2000棟が津波で流され、死者・行方不明者は約180人に上った。宮城県ろうあ協会の案内で、被災した5人のろう者を訪ね、避難所などを回った。
70歳代の女性は津波で家を流され、姉夫婦を亡くした。土台だけが残ったわが家を見つめながら涙ぐむ女性の姿を撮影するかどうか迷ったが、了解を得たうえでカメラに収めた。昨年12月に再び訪れると、女性は「夫も入院しており、一人で寂しい」。ゆっくりと手を動かし、自分の気持ちを話してくれた。この女性とはその後もメールや手紙で連絡を取り合っている。
岩沼市を始め、その後何度も被災地へ足を運んだ。福島県いわき市で出会った80歳代の女性は、「原発事故を伝えるテレビのニュースには、ほとんど字幕や手話通訳がなく、内容を理解できなかった」と振り返った。宮城県内の仮設住宅で暮らす女性は「行商が来ても聞こえないから、魚が欲しいと思っても買えない」と不満げな表情を見せた。
ろう者の置かれた状況を収めた映像は、聴覚障害者向けのCS(通信衛星)放送「目で聴くテレビ」で放映してきた。撮りためた映像は約20時間分ある。さらに1年を迎えた被災者の思いを取材し、1本のドキュメンタリー映画に編集する。
今村さんは生まれつき耳が聞こえない。音のない世界で過ごしてきたが、小学生の時、父親が借りた映画「E.T.」のビデオを見て感動した。音が聞こえない人も感動させることができる映像の魅力にとりつかれ、映画監督を志し、米カリフォルニア州立大ノースリッジ校で映画制作を学んだ。
「同じろう者の立場から、ろう者が困っていること、求めていることを、映像を通して社会に伝えたい」。今村さんが映像作家を目指したもう一つの理由だ。東日本大震災では、ろう者と健常者の間に情報格差があることを改めて知った。「避難所に手話が出来る人を配置したり、テレビ放送には必ず手話通訳や字幕を付けたりしてほしいと思っているろう者は多い。行政や関係団体などに働きかけていきたい」
ドキュメンタリー映画の完成時期や公開時期は未定だが、タイトルは「音のない3・11」と決めている。
◇田村で新たな一歩 障害者福祉施設「東洋育成園」=福島
(2012.03.03 読売新聞 東京朝刊 福島 33頁)
◎富岡から千葉・鴨川など転々後
東京電力福島第一原発事故で、千葉県などに避難した富岡町大菅の障害者福祉施設「東洋育成園」が2日、田村市船引町北鹿又で新たな施設の開所式を行った。原発事故後は避難先を転々としたがようやく福島に戻り、新たな一歩を踏み出した。(佐藤雄一)
県福祉事業協会が運営する同園は1979年に開園。現在は25〜62歳の男女51人の知的障害者が入居している。元の建物は同原発から約7キロ南にあった。
原発事故で、避難を余儀なくされ、隣の川内村や田村市の系列施設や小学校体育館を転々とした。環境の変化が続き、てんかんを起こす入居者もいた。
昨年4月、千葉県鴨川市の宿泊研修施設「県立鴨川青年の家」に避難。ようやく落ち着くことができた。同園施設長の石黒修市さん(56)は「受け入れる態勢を作ってもらい、命をつなぐことができた」と振り返る。
しかし、福島県内や栃木県、山形県で避難生活を送る入居者の家族らからは、「千葉県まで通うのは大変」と、福島県内に、新施設建設を望む声が上がっていた。
新施設は、日本財団(東京)からの補助を得て約1億6000万円で建設。延べ床面積は1125平方メートルで、障害者に配慮したトイレや浴槽などが設置された。
開所式で、長男が入居する同園保護者会長の遠藤税さん(75)は「入居者は環境の変化に敏感で、対応する職員の苦労も並大抵でなかったが、(施設の完成で)落ち着いて対応できるようになる」と述べた。
◇[逃れる](4)障害者 自宅で孤立(連載)
(2012.03.03 読売新聞 大阪朝刊 2社 38頁)
◇逃(のが)れる 災後を生きる 第2部
◎「避難所、他人に迷惑かける」
「明朝、バスを出します。避難するか、とどまるか、決めてください」
原則、立ち入り禁止となった福島第一原発20キロ圏内の警戒区域に隣接する福島県南相馬市原町区。原発事故から7日目、市が開いた住民説明会で、全盲の鍼灸(しんきゅう)師・古小高(こおたか)忠さん(63)は耳を澄ませた。
「障害があるから、避難所で他人に迷惑をかける」。その夜、弱視の妻、美紀子さん(61)と一緒に自宅に残ると決めた。周囲の住民たちは街を離れた。
外を行き交う車の音も、人の話し声も消えた。だれも訪ねてこない。放射能が怖くて、外に出られない。米とわずかな冷凍食品を残して食料は底をつきかけた。「飢え死にするかもしれない……」
関西から来たボランティアたちがインターホンを鳴らしたのは1か月後。カップラーメンや缶詰といった救援物資を届けてくれた。「やっと外の世界とつながった。光が差したようだった」と、忠さんは話した。
孤立していた2人を救ったのは、市が地元の障害者支援団体に提供した市内約1100人の障害者リストだ。全国から集まったボランティアら延べ約300人が名簿を基に1軒ずつ安否を確かめた。市人口約7万人の9割が避難したなかで、訪問した障害者の半数近くが自宅にとどまっていた。
「避難所に障害者を受け入れる環境を整えない限り、障害者は逃げられないまま、自宅に残る。その先に待ち受けるのは災害関連死だ」と、障害者支援団体代表・青田由幸さん(57)は訴える。「命を守るために、行政は障害者の所在情報を開示すべきだ」
しかし、福島、宮城、岩手3県の被災市町村で、民間団体に障害者名簿を提供したのは南相馬市だけだ。大半は「個人情報保護法」を理由に拒む。
障害者や高齢者といった「災害弱者」の逃げ遅れ対策も課題だ。
昨年9月の紀伊水害。和歌山県那智勝浦町で独り暮らしだった全盲の楠本益美さん(当時66歳)が家ごと濁流にのまれ亡くなった。
「雨の音がしてないから大丈夫」。楠本さんは被災前日、県外にいた姉の戸石恭子さん(71)に電話でこう答えていた。戸石さんは「雨の状況が分からなかったのだろう。誰かが早く避難させてくれていれば……」と言う。
内閣府が定めた災害時のガイドラインは、災害弱者の名簿づくりや、一人一人をだれがどこに避難させるかを事前に定めた個別計画の作成を市町村に求めているが、整備済みの市町村はわずか2割。しかも、豪雨災害を想定しているため、津波被害の東日本大震災では機能せず、避難誘導を担うはずの民生委員56人が犠牲になった。
「恥ずかしいことですが、ガイドラインを知らなかった」。1月下旬、内閣府の会議で、参考人として出席した南相馬市幹部が明かした。「大災害時、個別計画は机上の空論になる」「安否確認を被災自治体に任せること自体が無理」。会議では、参加者が3・11の苦い教訓を次々に口にした。内閣府は来年度、ガイドラインを大幅に見直す。
自力避難が難しい災害弱者はどう逃れればいいのか。
新潟大危機管理室の田村圭子教授(災害福祉学)は言う。「最も犠牲になりやすい災害弱者を救う仕組みは、社会全体を救う。備えの段階から地域社会が災害弱者と一緒に考え、災害弱者も自身の意識を高めてもらうことが必要だ」
◇東日本大震災:重度障害者に新施設 「東洋育成園」田村で開所式、避難の千葉から入所 /福島
(2012.03.03 毎日新聞 地方版/福島 25頁)
福島第1原発事故で千葉県へ避難していた富岡町の重度知的障害者が入所する施設「日本財団ホーム 東洋育成園」が田村市船引町沼の下に完成し、2日、開所式が開かれた。避難した51人のうち、既に入所している29人を含め、月内にも全員が入所する見込み。
入所者は、社会福祉法人「福島県福祉事業協会」(山田荘一郎理事長)が富岡町蛇谷須で運営していた施設の利用者。福島第1原発事故で、川内村の小学校や協会が所有する田村市の別の施設などを転々とした。29人は昨年4月から千葉県鴨川市の「鴨川青年の家」で避難生活を送り、症状が重い19人は同県の別の福祉施設などに入所、3人は福島県で家族と生活していた。
協会は、利用者の故郷に近い場所で施設を再開したいとして、日本財団に助成を申請。事業費2億633万円のうち、建設費1億5962万円が助成された。施設は木造平屋建て1125平方メートル。作業室や機能訓練室を備え、全館バリアフリー仕様になっている。
開所式で、協会の山田理事長は「我々にとって復興の核になる施設」とあいさつ。長男(50)が入所する南相馬市原町区の遠藤税・保護者会会長(75)は、「千葉県には1泊して会いに行ったが、ここなら1時間半くらいで会えるのでありがたい」と話す。
県障がい福祉課によると、知的障害者の入所施設は県内に20カ所あり、うち5施設約140人は、今もいわき市の「いわき海浜自然の家」などで避難生活を続けている。県は全員が入居できるよう、新たに仮設施設の建設を検討している。【太田穣、仙石恭】
◇東日本大震災:楢葉の障害者に仮設ホーム完成 いわきで開所式 /福島
(2012.03.03 毎日新聞 地方版/福島 25頁)
いわき市上荒川に楢葉町の障害者が入所する仮設グループホーム「憩いの家」が完成し、2日、開所式があった。福島第1原発事故で、それまで町内のグループホームに入所していた利用者5人が市内に避難。事故後約1年を経てようやく一緒に生活できる。
憩いの家は社会福祉法人「希望の杜」(加藤秀男理事長)が運営し、定員9人。同市上荒川の楢葉町の応急仮設住宅に隣接し、木造平屋建て約300平方メートル。
開所式で加藤理事長は「入所者をしっかりサポートして、みんなで一緒に戻れるまで頑張りたい」とあいさつ。楢葉町では事故前、希望の杜が、障害者らの4施設を運営、約90人が利用していたが、全員各地に避難した。【和泉清充】
*作成:
UP:20120618 REV:20120618,
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