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分配/贈与


last update: 20100122
所得保障(income security)/贈与(gift)/

ベーシック・インカム (Basic Income)
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/b003.htm
貧困 (Poverty)
生活保護
年金/年金保険/ ◆障害者と年金
医療保険/医療経済
公的介護保険

非優越的多様性(Undominated Diversity)
選別主義・普遍主義(Selectivism / Universalism)
福祉多元主義(Welfare Pluralism)

◆Stanford 大学が作っている on-line 版哲学事典の中から。
・Distributive Justice
 http://plato.stanford.edu/entries/justice-distributive/
・Equality
 http://plato.stanford.edu/entries/equality/
◆The Equality Exchange という、平等論に関するsite.
 http://aran.univ-pau.fr/ee/
 (文献表と、manuscript が手に入ります)


 
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■所謂(再)分配

 ◆ベーシック・インカム(basic income)

■生産財の分配

 「5 生産・生産財の分配
 繰り返すが、分配は消費における分配だけに限られない。いま労働の分配・分割について述べたのだが、これに関連して、生産への関わり方、生産財の所有の編成を考える必要がある。
 なぜ生産の場における決定の形態、生産のための財の所有の形態が問題にされてきたのか。一つに生産・労働における自律が目指された。ただ、私たちは(政治の主体であるべきこととともに)経済の主体であるべきことを相対化する視点をもっておいてよい。ともかく消費される財が行き渡るのであればそれでかまわないのかもしれないと、ひとたびは考えてもよいのだ。労働にせよ、生産にせよ、政治にせよ、それらを特別に価値のあるものにせねばならない理由は考えてみればとくにない。それでもなお生産について自らが考え決めたいことはあるだろう。そうした場から生産の運営のあり方、その権限のあり方を考える必要がある★10。
 次に、前項に述べた市場と政治的分配の並存という方法を使うときの問題がある。さらに市場における価格をいったんは認めることに関わる厄介さがある。財を分配したとしても、生活に必須なものについて誰かに独占的な権利が認められているから、その独占者はその供給と引き換えに世界の大方を所有することもできるかもしれない。これはとくに技術を考えるときそう極端な仮定ではない。生産財の独占をそのままに所得の分配を行っても限界のある場合がある。
 いわゆる知的所有権の問題は、その保護の側面だけがもっぱら論じられ主張されるが、動機づけのための手段として権利の付与、保護を一定認めつつ、生産財、とりわけ規則の設定によっては独占が可能になる技術については、独占されてはならず、その共有が支持される。私たちの立場からは、開発者・生産者による独占的な技術の所有は認められない。例えば薬をうまく使えばエイズはいま亡くなる病気ではないのだが、世界で一日約八〇〇〇人が死んでいる。問題は薬、薬に関わる技術の所有のあり方である。生産財としての技術の所有のあり方を考えざるをえない。開発者による利益の取得の部分的な許容すなわち部分的な制限を行ってよいし、行った方がよい★11。
 例えばこれらのことを考えなければならない。これは生産点の編成、生産財の所有のあり方として何が望ましいのかというまったく古典的な問題である。しかし、ここしばらくはともかく、かつては膨大な量の言説がこの領域についてあったはずであるにもかかわらず、議論が尽くされているように思われない。私たちの世代が三十年ほど怠ってきた経済体制の問題を、もう一度、ただいくらかは以前と異なった視座からも、考えるとよいのだし、その必要を多くの人は感じている★12。」(立岩[2004])

◇立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※

■労働の分配

 ◆労働
 ◆ワークシェアリング

 「4 労働の分割
 ここしばらく分配は消費点での分配としてもっぱら考えられてきた。これまでの議論もまたそのように受け取られたかもしれない。しかしそのようでしかありえないのではない。どの場所を問題にするのかは開かれている。この主題についても満足な議論が行われてきたように思えない。
 人の配置原理としての能力主義と市場での労働の価格差を否定しないとしても、それは雇用・労働の場をそのままにし、その上での租税の徴収とその「再」分配だけが唯一の分配の手段であること、それが最善の方法であることを意味しない。労働市場への介入の正当性について考え、そのあり方を考える必要がある。例えば労働の分割、ワークシェアリングというアイディアはずっと前からあったのだが、見向きもされない時期が長く続き、それがこの状況でどうもこれしか残らないようだという消極的な理由で導入が検討されるのだが、私たちは、消費の場面での分配と別に、同時に、労働の分割・分配が正当化されるかを考え、次に具体的にその機構について考えるべきである。
 雇用政策が正当化されるのは、働こうとする側にとっては、第一に分配だけで暮らす人が得られるものの水準が最低限になってしまうからである。第二に、労働・生産の場に参画することのその当人にとっての意義がある。第三に、再分配とその具体的内容は政治的決定に依存することになる。私たちはそれが機械的に作動する機構であるべきことを主張するのではあるが、それでも根本的な不安定性から逃れることはできない。関連して第四に、これまでの論からはその人が市場で得た所得に対する所有権は本来その人にあるのではないのだが、しかし「再」分配の機構からそのように思わせてしまう要素を払拭できないとするなら、利害が対立し分配のための徴収が困難になりうる。ならば生産の場面での所有を分散した方がよく、そこから労働とその対価のあり方も考える必要がある★08。そして最後に、働かせる側にとっては、労働に就かない(就けない)人に所得の保障だけで対応するより、労働を分割し、分配した方が適切である。
 この社会は生産・消費の総量を増加させることによって雇用を確保しようとしてきた。しかし、とくにこの社会にあってこの方法はよい方法ではない。生産物が全体として不足しているのではない社会においては、失業があることは、その水準の暮らしのためにすべての人が働かなくてよい状態にあるということであり、それは基本的にはまったく喜ばしい状態である。しかしもちろん、失業で暮しが成り立たないのは困る。そこで、労働市場自体はそのままにして対応を別に行うという答が一つある。つまり失業者には所得保障で対応する。もう一つ、労働の分割、分配がある。前者を肯定するその前提となる分配派の立場に立つなら後者もまた肯定され、その上で右記した理由から政策としてそれを行う正当性が得られる。
 こうして労働の分配・労働の分割もおもしろい主題としてある。しばらく私たちは消費社会を語ってきたのだが、とくにこれから何十年かは労働がもっとも大きな主題の一つとなるだろう★09。」(立岩[2004])

■所得保障と社会サービス

◆立岩 真也 20080905 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya] ※ d01. et.

 「本来は自分のための備えとして等しく負担するものだという枠組のもとでは、標準的な人よりも著しく多く使う人がいたりすると、せいぜい、仕方のないことだ(が、本当はいてほしくない)といった受け止め方になってしまう。そしてそうやって集められる――例えば介護保険の月三〇〇〇円などといった――額程度が限界だということになり、それが「限界」であるかのように言われてしまうことにもなる。そしてたしかに、それではまったく不足してしまうことになる。それはよくない。だから別の提案をしている。
 所得保障によって同じ所得が得られた上で、一律に例えば介護保険料を負担するというやり方は可能ではある。ただこれにしても、みかけ上のことである。どれほどの意味があるか。
 するとそれは「所得保障」(所得の再分配)の問題であり、「社会サービス」はまた別のものであって、などと言う人が出てくるかもしれない。しかしそれはおかしい。分けて分けられないことはないが、別のことだと考える必要はない。一人の人は自分の一つの生を生きている。そのためには必要なことが様々あって、それらに必要なものというその限りで区別はない。ただひとまず「平均的」な――実質的には「手間」のかかりようがすくない――人間を想定し、その人にかかる「普通」の費用を考えるのが「所得保障」である。他方、身体の状況その他に関わって、人によって必要の度合の違いが大きいものがある。一人の必要から所得保障でまかなえる分を差し引いてなお残る部分がある。所得保障に追加して必要の違いに応じた給付を行なうのが「社会サービス」と呼ばれるものということになる。
 必要の種別に分けて括って、別の仕組みで行なうことにしたというだけのことである。介助や医療はそうしたものの一部である。<0289<
 今のようにしつらえられている社会・市場において多く稼げてしまっている人が、そこではうまいぐあいに生活を維持できない部分に、政府という集金・分配機構を介して渡すという一連の流れとしてこれを捉えることができる。多く受け取ってしまうのも、必要なものが受け取れないのも、同じ仕組みのもとで生ずるできごとである。それに対する対応が一元的であってわるいことはない。
 であるのに、それ以外の、いわゆる衣食住としての生活のための費用については累進的な税体系を用いてよいが、それ以外についてはよくないという話は成り立たない。社会サービスの部分については、自分で払った分が戻ってくるというだけなら、あるいは自分の掛け金に応じた支払いがなされるということであれば、銀行に貯金するか民間の保険に入ればよい。そこでは果たされない機能があって、それが政治に求められている。多くあるところからは多く、少ないところからは少なくもってきて、必要なところに使えばよい。」(立岩[20080905:289-290])

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■引用

◆Titmuss 1970

 「社会がその諸機関――とりわけ、保健や福祉システム――を組織し、構築する方法は、人びとの利他主義を促しもするし、逆に妨げもする。そうしたシステムは人びとを統合しもするし、逆に疎外しもする。それは「贈与のテーマ」……見知らぬ者への寛大さからする……を社会集団や世代間に拡大させるであろう。このことは、物質的要求にもとづく消費者の選択を強調することに比較して十分に認識されてはいないが、20世紀における自由の重要な一側面である。」(Titmuss[1970:225],Johnson[1987=1993:170]に引用)

 「ティトマスも論じたことだが、われわれは次のことを痛感する。すなわち、「見しらぬ人びとの必要」をみたすには、ある種の特別な道徳的資質が要求されるため、そうした福祉サービスは、匿名性が確保される国家機構を通じたほうが、もっとも効果的に達成できるように思われる。」(Pearson[1991=1996:403]、言及されているのはTitmuss[1970])

◇Titmuss, Richard 1970 The Gift Relationship : From Human Blood to Social Policy, Allen and Unwin, 1972: Vintage Books

◆Freedman

 「わたしは自由主義者として、もっぱら所得を再分配するための累進課税については、いかなる正当化の理由をも認めることがむずかしいと考える。これは他の人びとにあたえるために強権を用いてある人びとから取り上げるという明瞭な事例であり、したがって個人の自由と真正面から衝突するように思われる。」(Freedman[1962=1975:196])

 「わたしは貧困を目にすることによって悩まされ、貧困の軽減によって利益を受ける。けれども、その軽減の費用を払うのがわたしであろうと他の人であろうと同じように私は利益を受ける。」(Freedman[1962=1975:214-215])

◆分析的マルクス主義派

 「……分析的マルクス主義派のR・ヌーアソンが、資源の平等に対して、選好形成には本人の責任を越える社会的要因が関わっており、選好も保障の対象に含めねばならないと批判し、自らは「効用の機会の平等」を提唱している。効用の機会の平等とは、誰もが複数の選択肢からなる決定樹について、選択の期待値が等しいという意味での等価な決定樹に直面している事態である。コーエンは、アーヌソンによる選好形成の社会的要因の指摘を高く評価しつつも、自らは「利益(advantage)へのアクセスの平等」を唱えている。効用や資源ではなく利益とされるのは、それが効用と資源の対象領域を包括しているからである。また機会ではなく(p.113)アクセスとされるのは、機会はもっているが能力が欠如している場合を、機会の平等では扱えないからである。現実的になにかをもっていることがアクセスである。」(松井[2000:113-114])

◆八代 尚宏 19800321 『現代日本の病理解明――教育・差別・医療・福祉の経済学』,東洋経済新報社,251p.

序章 現代日本の病理とは何か
 第1章 「受験地獄」はなぜ生じるか
 第2章 男女差別と日本の労働市場
 第3章 公的年金制度効率化への道
 「…何故貧困世帯のなかで身障者世帯や母子世帯と比べて老人世帯だけが優遇されなければならないかという批判が当然生じよう。現行のミーンズ・テストのやり方には種々の問題点があるとしても,公的に保障すべき最低所得水準を設定し,それ以下の所得階層の人々に対してのみ,拠出にもとづかない直接的な所得再分配を行なうという原則を無視することは,必ず何からの形で福祉政策の非効率性に結びつくものといえよう。(17)」(135)
 「(17) 現行のミーンズ・テストの方式を改善するためには,社会福祉事務所による保護指導を廃止し,生活保護の認定を形式的なものに近づけることが一つの方向として考えられる。また,労働意欲に対するマイナスの影響が少ないとみられる高齢者世帯についてはミーンズ・テストの基準を大幅に緩和することも必要とされるかも知れない。さらに「負の所得税」構想ではすべての人が所得を申告することになるので,この面の弊害が少ないことも一つの利点として挙げられている。」(157)

◆野口悠紀雄 1982

 「所得分配の正統的手段は直接的移転であるにもかかわらず,現実には価格政策が多用されているのは,いかなる理由によるのであろうか。1つの理由は,受益者の心理的抵抗が少ないことにある。これについては,すでに第3章で述べた(3.2を参照)。いま1つの,おそらくより大きな理由は,比較的少額の財政支出で,所得再分配に関する政府の積極的な配慮にあると思われる。たとえば,消費者の関心が最も強い公共サービスをいくつかとりあげて価格抑制を行えば,少額の財政支出で消費者を心理的に満足させることかできるであろう。また,農産物の価格支持のように特定のグループを対象に政策がなされる場合には,当該グループから強い政治的支持がえられる。」(野口悠紀雄[1982:99])

立岩 真也 2000
 「もう一つ、すごくベーシックなことで言うと、社会があるということの一番ベースというのは、僕はむしろ贈与的な部分だと思っているんです。自発的なもの、あるいは自発的なものに期待できず義務化するしかない部分をふくめて贈与である、贈与的なものであると。つまり「支えあう」のではなくて「支える」、というのか、互酬ではなくて、一方的な贈与が、社会が社会であることのベースにあると思うんです。
 そういう意味では、アンペイドワークの方がベースにあるはずなんです。……」
 姜尚中・井上泰夫・立岩真也・中村陽一・川崎賢子(座談会) 200002 「アンペイドワーク――現状と展望」
 中村陽一・川崎賢子編『アンペイドワークとは何か』,藤原書店
 http://www.fujiwara-shoten.co.jp

◆立岩 真也 20000305
 「分配においてなされること、なされるべきこと、その少なくとも一部は――それに見合った反対給付が見込めないという点において、純粋に生存のためにのみ消費され次の生産に結びつかないという点で――いわば純粋な贈与なのだが★25、…」
 「★25 庄司興吉が福祉社会を論じる中で「根源的贈与」という語を用いている(『地球社会と市民連携――激成期の国際社会学へ』、有斐閣、一九九九年、一五七−一五八頁)――このことを語るのにポトラッチその他をもってくるのがよいかについては、私はそう考えないけれども。」
  「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」,『思想』909(2000-03):122-149 関連資料
  *『思想』のホームページ(各号の目次) http://www.iwanami.co.jp/shiso/

◆立岩 真也 2001/12/15 「贈り物の憂鬱」
 『読売新聞』2001-12-15夕刊:17(土曜文化)

◆立岩 真也 2001/12/00 「おくりもの、というもの――知ってることは力になる・20」
 『こちら”ちくま”』25


 
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■保険の正当化/保険という正当化

◆橘木 俊詔 20000125 『セーフティ・ネットの経済学』,日本経済新聞社,248p. 1800 ※

 「第一の自助努の方法[…]第二の家族支援型ないし世代間扶助型の方法[…]」(p.82)
 「第一ないし第二の方法が完璧に機能すれば、引退者の所得保障を年金で行う必要はない。しかし、完璧に機能しないので、公的年金が必要とされるようになった。
 第一の自助型の方法に関していえば、人によっては必ずマイオピック(近視眼的)な人がいて、自分の老後保障に関心を示さず、現役世代中の所得を消費に使い切って、貯蓄をしない人が存在する。このような所得のない引退者を、社会全体の負担である税収をあてて、生活保護費支給制度に依存した所得保障を行えば、フリーライダー(ただ乗り者)を社会的に容認することにつながる。これでは貯蓄に励んだまじめな人々のなかに、不公平感が残るだけである。[…]
 第二の世代間扶助型の方法に関していえば、人によっては結婚しない人(生涯独身者)や、子供のいない人もいるので、家族の範囲内で、世代間私的保障を行えない人もいる。[…]」(p.84)

◆橘木 俊詔 20020314 『安心の経済学――ライフサイクルのリスクにどう対処するか』,岩波書店,285p. ※

 「なぜ公的年金制度か
 […]
 なぜ公的部門が強制力を発揮して、貯蓄を国民に求めるようになったのであろうか。当然のことながら、国民がそれを望んだことが最も重要な理由なので、国民の選好による結果と判断する必要(p.145)がある。
 第一に、成人した子供が老親を経済保障する制度は、西欧でも一九世紀まではごく自然であったし、アジアでは多くの国で現在まで続いている伝統である。しかし[…]
 第二に、家族間の所得保障を可能にした要因として、次の二つの要因を指摘しておきたい。一つは、産業の中心が農業・商業だったので、親子間で職業継承が普通であった。ししたがって[…]
もう一つは、人の寿命が短かったので[…]
 ここで述べた二つの要因が、産業革命を経て工業化に成功した先進諸国において崩れてきた。すなわち[…](p.146)
 […]公的年金制度は法律によって、個人に「ライフサイクル貯蓄」の実行を強制するものであるから、なぜ公的部門が登場してきたかを説明する必要がある。それをこれまで述べたきた二つの要因に加えて論じてみよう。
 第三に、人々は様々な趣向や性質をもっている。人によっては自分の将来のことなど気にかけず、老後の消費に備えた貯蓄行動をしない場合がある。[…]
 第四に、人の寿命は不確実性が高い。[…](p.147)  第五に、貯蓄するということは、資産を蓄積することを意味する。[…]
 第六に、公的部門が年金を運営することによって、一国経済の資源配分や所得再分配という課題に直接取り組むことができる。[…]」(p.148)


 
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■犠牲 →犠牲

 「★19 迷惑をかけないことは、翻って他者を尊重することでもあると言いうる。だから、これは「自己犠牲」という社会が美徳としているものを否定する行ないだと言えるかもしれない。犠牲になることはたぶんうるわしいことである。ただ言えるのは、犠牲にさせることは、犠牲を肯定するその価値自体を裏切ることでもあるということである。犠牲を教えた者は生き残るだろう。ならば、犠牲になることを教えてはならない。少なくともここで犠牲となるとは、いずれかが倒れるという状況ではないのに、少なくともそのような現実を構築することが不可能でないのにもかかわらず、私達にとって好都合(でしかない)こと、このことを教えるべきだということである。〔cf.本書第5章注4・195頁〕」 (立岩『弱くある自由へ』p.49)


 
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■「贈与」

◆春日直樹 2009 「モースに敬意を表するとき」『現代思想』37(10)pp.212-22

「『贈与論』の結論は、三部構成の大演説だ。モースによれば、経済人は私たちの現在ではなく未来にあり、近代の生活は市場価値だけに塗り尽くされたわけではない。いまだに贈与の伝統が残っており、私たちはこれを国家、組合、職業団体などの水準において集団と個人の二つの次元で新しく復活させることができる。いわゆる「文明化された」私たちはその知恵をもって戦闘をやめ、贈与の精神によって共同生活を構築しなおさなければならない。モースのこうした結論に対しては、折衷型で軟弱だとか、ナイーブ過ぎるとかの批判が寄せられてきた。…『贈与論』の執筆時、モースは新生ソビエトのボルシェビズムに対する批判を展開していた。暴力による統制、市場の抹殺と私有財産の没収による経済の破壊、社会的生活への信頼の喪失を指摘した彼は、市場での自由と共同的な管理とが共存するような第3の道がありえると強調する。…ナイーヴすぎるという批判は、『贈与論』の核心にさえふれていない。モースのいう贈与は、自己利益の計算や敵対の緊張を含んで成り立つからこそ「全体的」である」(215‐216)

「『贈与論』を固い頭でしか読めない者には、…「人々が彼ら自身と他者に対する状況を多感的に意識する束の間の瞬間、そして社会が手に入れる束の間の瞬間」を認識できたという、モースの歓びを決して読みとることはできないだろう」216

「贈与は個々人や集団を、政治的、経済的、宗教的、道徳的、審美的な諸レベルで結びつけて社会生活を構成する。『贈与論』はこの贈与の授受がいかに義務の観念によって支えてられているかについて明らかにするが、贈与の授受が保証されていると述べているわけではない。それどころか、義務は自主の感覚と同居しており、贈与のかもしだす親密さは敵対の緊張と表裏一体のままである。もしも贈与が失敗に終われば、祭礼と同盟はすぐにも戦闘と敵対へ転じてしまう。…要するに、贈与が成り立たせる社会生活とは、不確定な状況下で「束の間の瞬間」の連続として現れるしかないのである。こうした不確定性をいかに乗り越えるかに関しては、『贈与論』の結論部が本質的な示唆を与えてくれる。モースは国家や中間集団を基礎にしつつ、市場経済と贈与を併存させることを指針に掲げる。」218

「モースの『贈与論』をつうじて、有用な経済学とは何かがみえてくる。商品交換に焦点をあてるだけではなく、贈与および社会といかに接合しているのかを明らかにし、商品交換が成り立つ具体の状況を提示しなければならない。次に表品交換の調整がこの状況下でどこまで、どのように可能なのかを抜本的に検討すべきである。そこから、限界はどこにあり、どこに潜在的な可能性が開かれていのかが探求できる」222

 
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■文献(出版年順)

◆Titmuss, Richard 1970 The Gift Relationship : From Human Blood to Social Policy, Allen and Unwin, 1972: Vintage Books
Boulding, Kenneth Ewart 1973 The Economy of Love and Fear : A Preface to Grants Economics Wadsworth Publishing Co., Ltd.=19750901 公文俊平訳,『愛と恐怖の経済――贈与の経済学序説』 佑学社,240p. 1100 *
Walzer, Michael 1983 Spheres of Justice: A Defense of Pluralism and Equality, New York: Basic Books.=1999 山口晃訳,『正義の領分』,而立書房
◆Johnson, Norman 1987 Welfare State in Transition : The Theory and Practice of Welfare Pluralism, Harvester Wheatsheaf=1993 青木郁夫・山本隆訳,福祉国家のゆくえ――福祉多元主義の諸問題』,法律文化社
◆井上 章一・森岡 正博 1990 「売春と臓器移植における交換と贈与」 『日本研究』2:97-106→井上・森岡[1995:39-58]
Young, Iris Marion  1990 Justice and the politics of difference,Princeton University Press,286p. ISBN-10: 0691078327 $39,50 [amazon][kinokuniya] ※
◆Nagel, Thomas 1991 Equality and Partiality, Oxford: Oxford University Press.
◆Pearson, Christopher 1991 Beyond the Welfare State ?, Basil Blackwell=1996 田中浩・神谷直樹訳,『曲がり角にきた福祉国家』,未来社
◆藤井 良治 19930120 「年金と女性の自立」 社会保障研究所編[19930120:183-202]
◆山本 泰・山本 真鳥 19960229 『儀礼としての経済――サモア社会の贈与・権力・セクシュアリティ』 弘文堂,352p. 5631 ※
◆松井 暁 20000320 「社会主義――基本理念からの再構築にむけて」,有賀・伊藤・松井編[2000:105-125]
*◆有賀 誠・伊藤 恭彦・松井 暁 編 20000320 『ポスト・リベラリズム――社会的規範理論への招待』,ナカニシヤ出版,267p. 2000
 http://www.nakanishiya.co.jp/
◆立岩 真也 200010 『弱くある自由へ』,青土社
◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※
◆Davis,Natalie 〔ナタリー・デーヴィス〕2000 Gift in Sixteenth-Century France,The University Wisconsin Press=20070629 宮下 志郎 訳,『贈与の文化史――16世紀フランスにおける』,みすず書房,276p ISBN-10:4622073072 \3800 [amazon][kinokuniya] ※ d08 f04 
◆松村 圭一郎,20080229,『所有と分配の人類学――エチオピア農村社会の土地と富をめぐる力学』世界思想社,324p. ISBN-10:479071294X \4830 [amazon][kinokuniya] ※ d08 (新規)

○所得保障関連文献
◆日本社会保障法学会 編  『所得保障法』(講座社会保障法2) 法律文化社 3700 
◆日本社会保障法学会 編  『住居保障法・公的扶助法』(講座社会保障法5) 法律文化社 3800 
◆統計研究会 編 197708 『福祉社会における所得保障――理論と実証』 統計研究会,137p.  
◆丸尾 直美 19860331 「所得保障研究」 社会保障研究所編[1986:3-31](『社会保障研究の課題』) NOTE
◆Ozawa, Martha N.・木村 尚三郎・伊部 英男 編 19890125 『女性のライフサイクル――所得保障の日米比較』☆ 東京大学出版会,360p. 4600 ※

 
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■立岩

 ……
◆2001/12/15 「贈り物の憂鬱」
 『読売新聞』2001-12-15夕刊:17(土曜文化)
◆2001/12/00 「おくりもの、というもの――知ってることは力になる・20」
 『こちら”ちくま”』25
◆2002/10/00 「労働の分配が正解な理由」,『グラフィケーション』123(富士ゼロックス)特集:働くことの意味→
◆2002/11/20 「たんに割ること」
 『京都新聞』2002-11-20夕刊(知の新潮流・第5部)
 http://www.kyoto-np.co.jp/
◆2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』,岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※
 ……
◆2005/09/30 「自由はリバタリアニズムを支持しない」
 日本法哲学会 編 20050930 『リバタリアニズムと法理論 法哲学年報2004』,pp.43-55 有斐閣,206p. ISBN: 464112504X 3990 [boople][amazon] ※
◆2005/10/01〜「家族・性・市場」
 『現代思想』33-11(2005-10):008-019〜 資料
◆2005/12/26 「限界まで楽しむ」
 『クォータリー あっと』02:050-059
◆2006/07/10 『希望について』
 青土社,309+23p. ISBN:4791762797 2310
◆2006/08/** 『市場と国家のゆくえ』
 稲場 振一郎・立岩 真也(対談) 日本放送出版協会
◆2006/10/30 「人口の問題ではない」
 『環』[了:20060612]
◆2006/09/00 「だからこそはっきりさせたほうがよい」
 『グラフィケーション』146:17-19,富士ゼロックス 特集:企業社会はいま
 http://www.fujixerox.co.jp/company/fxbooks/graphication/backnumber/146/index.html

 *北本潮さんの協力に感謝いたします。


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究(基盤(B)・課題番号16330111 2004.4〜2008.3)の成果/のための資料の一部でもあります。
UP:20030810 REV:0811,1016 20060802,04 20090727,0823, 1210, 20100122, 0226, 20120508, 11
経済(学)  ◇生存・生活
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