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抗うつ剤関連



■文献

◆Kramer, Peter D. 1993 Listening to Prozac: A Psychiatrist Explores Antidepressant Drugs and the Remaking of the Self
=19970630 谷垣 暁美 訳, 田島 治 監修,『驚異の脳内薬――鬱に勝つ「超」特効薬』,同朋舎,333p. ISBN-10:4622071495 ISBN-13: 978-4622071495 [amazon]
◆Kass, Leon R, ed. 2003 Beyond Therapy: Biotechnology and the Pursuit of Happiness: A Report of The President's Council on Bioethics,New York: Dana Press=200510 倉持 武 監訳 『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求:大統領生命倫理評議会報告書』,青木書店,407p. ISBN-10: 4250205339 ISBN-13: 978-4250205330 \6825 [amazon][kinokuniya] ※ be.en.
◆Healy, David 2000 Let Them Eat Prozac =20050803 谷垣 暁美 翻訳, 田島 治 監修,『抗うつ薬の功罪―SSRI論争と訴訟』みすず書房,396+lip. ISBN-10:4622071495 ISBN-13: 978-4622071495 \4410 [amazon]

高岡 健 20031020 『新しいうつ病論――絶望の中に見える希望』,雲母書房,243p. ISBN-10: 4876721491 ISBN-13: 978-4876721498 1890 [amazon][kinokuniya] ※ m.
 第7章 ブロザックネーションへの道程:希望の中の絶望
◆Metzl, Jonathan M & Joni Angel 2004 "Assessing the Impact of SSRI Antidepressants on Popular Notions of Women's Depressive Illness," Social Science & Medicine, 57(3): 577-584
 ([外部リンク]機関リポジトリで全文閲覧可.PDFファイル)
島薗 進 20050919 「増進的介入と生命の価値――気分操作を例として」『生命倫理』15(1)[通号16]: 19-27.
金森 修 20070130 「装甲するビオス」石川 准『脈打つ身体――身体をめぐるレッスン 3』岩波書店,3-26.ISBN-10: 4000267299 ISBN-13: 978-4000267298 \2835 [amazon][kinokuniya] ※
高岡 健 20070130 「身体はなぜ抗うつ薬を食べ続けるのか」石川 准『脈打つ身体――身体をめぐるレッスン 3』岩波書店,49-74.ISBN-10: 4000267299 ISBN-13: 978-4000267298 \2835 [amazon][kinokuniya] ※
◆鈴木 貴之 200706** 「神経薬理学的方法を用いた知的能力の増強――その倫理的諸問題」『アカデミア』85: 125-51.
美馬 達哉,20071201 「リスク社会と偽装」『現代思想』35(14):71-83.
美馬 達哉 20101220 『脳のエシックス――脳神経倫理学入門』,人文書院,251p. ISBN-10: 4409041010 ISBN-13: 978-4409041017 \2730 [amazon][kinokuniya] ※ be d07d2 en ne

■年表(抗うつ剤)

◆風祭元,2006,「日本近代向精神薬療法史(5) 三環系抗うつ薬とMAO阻害剤」『臨床精神医学』35(5):545-549.より

三環系(および類縁)化合物の抗うつ薬一覧
一般名(認可年)    代表的商品名(製薬会社★)
Imipramine(1959)  トフラニール(藤沢)
Amitriptyline(1961) トリプタノール(メルク万有)
Desipramine(1964)  パートフラン*(藤沢)
Trimipramine(1965) スルモンチール(塩野義)
Meritracene(1968)  チメオール*(武田)
Nortriptyline(1971) ノリトレン*(大日本)
Clomipramine(1973) アナフラニール(藤沢)
Dibenzepine(1961)  ノベリル*(森下)
Dimethacrine(1975) イストニール*(日本ケミファー)
Amoxapine(1980)  アモキサン(日本レダリー)
Maprotyline(1981)  ルジオミール(チバカイギー)
Lofepramine(1981)  アンプリット(第一)
Myanserin(1982)   テトラミド(三共)
Dosulepin(1961)   プロチアデン(科研)
Setiptiline(1961)   テシプール(持田)
Trazodone(1961)   レスリン(日本オルガノン)
(*:現在発売中止、★:製薬会社名は発売当時)

わが国で発売されたMAO阻害剤
(現在はすべて発売中止)
一般名(認可年)    主要商品名(製薬会社)
Pheniprazine(1960)  カトロン(中外)
Phenelzine(1960)   ナルディール(小野)
Nialamide(1961)   ナイアマイド(台糖ファイザー)
Isocarboxide(1961)  エナーザー(武田)
Safrazine(1964)   サフラ(小野)

■引用

◆島薗進,20050919,「増進的介入と生命の価値――気分操作を例として」『生命倫理』15(1)[通号16]: 19-27.

「従来の抗鬱剤との違いは、副作用が少ないことである。抗鬱剤は1950年代から使用されるようになり、イプロニアジド(マルシリド)やイミプラミン(トフラニル)が初期のものである。だが、これらの薬品は鬱状態を改善する一方で、さまざまな副作用をもたらす。ところがプロザックは神経伝達物質の再生アミンのうち、セロトニンだけに作用し、軽い鬱状態の気分調整に限定的に機能する薬剤として開発作成された。副作用が少なく医師にも本人にも効果が読みやすいのが特徴である。一方、この薬は重い鬱病にはあまり効果を現さない。むしろ鬱病に陥るかもしれない前駆的状態の人、病的とは言えないが気後れしたり、落ち込んだりして社会生活上のロスをこうむっている人の気分を変え、元気にする効果がある。」p.22

  「精神分析やその他の心理療法のように、クライエントの生い立ちや経験を聞いて悩みを理解し、考え方の転換を導き出して好転させるのが本来の立ち直りで、薬物はそれを手助けする程度にとどめるべきものと考えられてきた。だが、プロザックを用いれば、クライエント自らが、自律的な機能をもつ生理作用を薬物で調整し、気分を好ましい状態にもっていくことができる。これは複雑な心理療法の問題ではなく、化学反応による生理作用の統御、調整の問題として理解できるだろう。」p.22

  「この薬は「気分明朗剤(mood brighteners)」ともよべる。(中略)飲み続けていけば、その人は罪意識や不安や孤独感によるへこみ、落ち込みから何ほどか解放されるだろう。使用者は「情動耐性(affect tolerance)」が増す。つまりストレスに耐えることができるパーソナリティに変わっていく。現代社会ではこのような性格が有利である。」pp.22‐23

「自己主張的で陽気で活発であり、罪意識や不安や孤独感に悩まされないような性格を薬物で引き寄せることができる。病的とまでは言えないような人にとくに効果がある。副作用がないとまで言えないが、それほどの悪い副作用はまだ出ていない(ここは論議のあるところだが、クレイマーの見解はこうだ)。「安全性」という点での問題は少ない。だが、治療と言えるだろうか。「治療を超えた」医療、増進的介入の性格が強い医療と言わなければならない。このことに何か倫理的にマイナスの意義があるだろうか。医師はこのような「気分明朗剤」を処方することに良心の痛みを感じないだろうか。
 クレイマーは自らこの問題に悩んだと述べている。美容精神薬理学(cosmetic psychopharmacology)、あるいは薬理学的自己実現とよべるようなものが、医師として許されるのかという問いだ。しかし、長い間、心理療法では別に病気ではない人を治療することが認められて来た。それによって性格が変わるクライエントもいるだろう。薬理学的ということで、とくにとがめられる理由が生ずるのだろうか。また、薬物がもたらす「気分高揚(hyperthimia)」が現代の競争社会にうまく合った特定の性格特徴だという最近の科学的知見もある。それは確かに倫理的問題でもある。「気分高揚」の人は楽天的で、決断力があり、考えが素早く、カリスマ的で、エネルギッシュで自信にあふれている。プロザックの使用はこういう性格を増やすことにつながるが、そのことに問題はないか。だが、クレイマーにとってもっとも重要なのは、そもそもある人物が自ら自身であるという意識(personhood)を変えてしまう医療は妥当なのかという問いだった。その人の人生を通して苦しめてきた精神的問題が生物学的に解決したとすれば、責任とか自由意志とか社会の中で形作られた「その人らしさ」といった、私たちの人間観や道徳観の根幹が変わってしまうのではないか。(中略)そのもっとも重要な根拠は、新しい精神薬理学により私たちの自己理解が生物学的決定論に近づかざるをえないという点に求められる。「プロザックに耳を傾ける」経験を通して、私たちの人間観道徳観が大きく変容せざるをえない。その新たな人間観道徳観に基づいて判断するなら、精神薬理学的な増進的介入は容認できるものではないか。これがクレイマーの結論である。」p.23

「 増進的介入は、(1)その人が何者であるかというアイデンティティを危うくさせるとともに、(2)その人を人生の真実から切り離してしまい十全な人格形成を困難にしてしまう。これが「幸福な魂」の増進的介入に反対する『治療を超えて』の主張の要点である。(中略)
 このように『治療を超えて』は、気分明朗剤による増進的介入の倫理的問題につき、多面的に論じており、今後の議論のための多くのヒントを提供しており豊かである。だが、そこでの強調点は、自律的な自己が弱められるのではないか、個々人の主体性が失われるのではないかという点に集約される。つまりは、真の現実から離れて薬で作られた自己に安住しようとすること、そして、自由社会に求められる責任ある主体的自己が見失われてしまうこと――ここにこそ気分明朗剤による増進的介入の倫理問題の核心があると主張されている。」pp.24‐25

「 自律(autonomy)や主体性(agency)や自己一貫性(integrity)の価値はアメリカ主導の生命倫理の議論においては、常に主要な判断基準の一つとして重んじられてきた。だが、この論点が増進的介入の限界を見定めようとする際の、主調となるべきものであるかどうかについては大いに問題がある。増進的介入の中にはその受益者の主体性を増進させようとするものが少なくないからだ。プロザックのようなSSRIはまさにそうした薬物の代表的なものである。」p.25

「 ところが、プロザックのような薬物は心理療法が果たしてきた機能のかなりの部分を、薬物療法で代替できることを示した。クレイマーはそう主張している。プロザックが自意識的、心理的な次元での自己や主体性の拡充という目標にかなっているという評価には、それなりの妥当性があるのではなかろうか。(中略)増進的介入の倫理的問題のかなりの部分は、自己や主体性の弱体化ではなく、むしろ強い自己や主体性の過剰な追求に見るべきではないか。」p.25

◆金森修,20070130,「装甲するビオス」石川准編著『身体をめぐるレッスン 3:脈打つ身体』岩波書店,3-26.

「B精神薬理学的な自己補強

八七年に発売されたプロザックは、次第に本来の抗うつ剤としての使用法から、かれが「美容精神薬理学」と呼ぶ使用法への横滑り的な拡張を示す。逆説的ながら、プロザックが最もそれらしい姿を露わにするのは、本来の限定的使用から離れたときなのだ。明らかにうつ病で抗うつ剤が必要だと思われる患者以外にも、ある種の性格特性をもち、そのために十分な社会活動ができないと思う多くの人々がこの薬を飲み始めた。たとえば自分を卑下しがちで嫉妬心が強く、人付き合いが下手で引っ込み思案などというような性格の持ち主が、プロザックを飲み続けると、より華やかで積極的、社交的な人格に変身できる。」p.17

「前向きになったことを喜んだ彼女(引用者、テス)ではあったが、こんなふうに薬によって人格を変えるというのは、たとえそれが<良い方向>に変えるものだとしても適切なのかと自問した彼女は、服用をやめてしまう。それから八カ月ほどしてから、またクレイマーに連絡をとってきた彼女は、電話口で「自分が自分でないみたい」とこぼす。その言葉に衝撃を受ける彼。プロザックを飲む前の長い人生の間、彼女は本当の自分ではなかったとでもいうのだろうか。美容精神薬理学は、人格そのものの内奥にまで及ぶ、ある重大な効果をもたらす。人格の内奥に薬剤が効果をもたらしうるという事実自体がきわめて唯物論的なものだが、そもそも生物精神病理学自体が、学問として、その種の思想を含意するのは見やすい道理ではあった。この学問自体が伝統的な人間観に一つの重大な挑戦をするものなのだということは、確認されておいてよい。患者たちは、人格の薬剤的調整という行為の中で、当の人格そのものの同一性の基盤を見失う。そこには、社会性増大という恩恵の影で、個人の際どさと儚さが一層目立つという皮肉な構図が見て取れる。」pp.18‐19

「 性格の調整は、人間性がもつ振幅の広さ、奥行きの深さを、社会性というある意味では表面的で一元的な位相に揃えることで平板化してしまうという問題を抱えている。」p.19

「 上記のように、社会的、哲学的、医学的な問題群を抱えた上でなお、今でも多くの人々がこの種の薬剤による人格改変をやめようとしないという事実の射程を見極める必要がある。アメリカの大統領生命倫理評議会報告書『治療を超えて』(カス 二〇〇五)の標題が端的に示唆しているように、現代医学は、本来の治療的介入だけでは終わらずに、本当なら非本来的で逸脱的であるはずなのだが治療とあまりに深い連続性をもつために一概に排除できない多様なレベルでの<治療上の介入>に手を染め始めている。その意味で、抗うつ剤の本来的使用から、美容精神薬理学への展開は、ほぼ必然的な成り行きだと言っても過言ではない。(中略)
 身体にフィットする仕立ての良い服や美しい宝石で身を飾る。身体がもつ若干の瑕瑾に外科的処置を施し、たとえばより形の良い鼻を手に入れる。身体を動かす中枢部としての脳が、自分自身の能力に不足を感じ、それを精神的鍛錬によってではなく、薬剤によって改良しようとする。――これらの間に存在する差異は、それらを各時点で可能にしてきた技術的限界や知識分節の差異に基づくと言った方が正確で、それらを統べる精神的傾性に大きな飛躍はない。その意味で、美容精神薬理学もまた、人間のこれまでの技術的介入の伝統を延長し、敷衍こうするものなのだ。」pp.20−21

◆高岡健,20070130,「身体はなぜ抗うつ薬を食べ続けるのか」石川准編著『身体をめぐるレッスン 3:脈打つ身体』岩波書店,49-74.

「 しかし、そうであるにしても、人々が新しい抗うつ薬を求めるには、個人の側に引き寄せた、より根底的な理由があるはずだ。そうでなければ、「プロザックを名指しで、求める患者が列をなした」という現象が、生じるわけがない。
 その理由を探求するためには、迂回路を経由しなければならない。そして、その迂回路には、回答されるべき三つの問いが待ち受けている。
 第一は、新しい抗うつ薬を服用することと、五輪選手がリスクを知りながら筋肉増強剤を用いることは本質的に同じだろうか、という問いである。美容のために有効と信じて、ビタミンCのサプリメントを摂取することと、比較してかまわない。これは、脳は他の身体部位と同じかと問うことでもあり、狭義の身体論に通底する。
 第二は、自らの脳内セロトニンが減少しているという「神話」が崩れたなら、人は新しい抗うつ薬を求めなくなるのだろうか、という問いである。あるいは、別の物質が減少しているという新たな「神話」が生まれたなら、人はその減少しているはずの物質を新たに追い求めるのだろうか。これは、脳が臓器としての脳について思考するという意味では、広義の身体論に属する。
 第三は、新しい抗うつ薬を求める行動と、アルコールや他の薬物を求める行動との間に、何らかの違いがあるのか、という問いである。もっと広く、恋人を求める行動と同じかと、言い換えてもいい。このことは、さまざまな依存の問題を問うことでもある(中略)。  これら三つの問いに対する回答を終えた時、私たちは、人々が新しい抗うつ薬を求める、より根底的な理由を、個人の側に引き寄せて語ることができるようになるだろう。換言するなら、人間の身体はなぜ新しい抗うつ薬を食べ続けようとするのか、という問いへの回答を掌中にすることができるはずだ。」pp.54−55

「 それでは、SSRIなどの新しい抗うつ薬を捜し求める行為は、上記のどれに相当するのか。
 ある人が不安や抑うつを感じたために薬物を服用する場合、それは<自体識知>を介していると、考えることができるかもしれない。だが、不安や抑うつ自体は知覚ではなく、他者との関わりによって生じる精神現象だ。そして、その原因を脳という座に求めるとき、人が自らの脳を<対象化識知>によって把握していることは疑いない。つまり、「かくあるべき」脳という<対象化識知>を介して、普遍的な臓器としての脳に働きかけようとしているのだ。
 その限りでは、不安や抑うつを自覚した人間が新しい抗うつ薬を服用することと、五輪選手が筋肉増強剤を使用するのとは、本質的に同じだといいうる。なぜなら、不安や抑うつを感じているのは、優勝の可能性について思い悩んでいる五輪選手も同様だからだ。違いは、薬物を脳に対して用いるか、それとも足の筋肉に対して用いるかにあるに過ぎない。
 しかし、そのように断言するには、脳という臓器に対する識知が、内臓や筋肉や皮膚という臓器(中略)に対する識知と同じであることを、前提にする必要がある。換言するなら、私たちは、脳が臓器としての自らの脳について思考することに関しての、考察に移らざるをえないことになる。」p.61

「 繰り返すなら、ある人が自らの脳内セロトニンが減少していると感じることは、実際にその人の脳内セロトニンが減少しているか否かという事実とは無関係に生じる、思惟にほかならない。
このように、ある脳内物質の増加や減少を思い浮かべることは、その人の脳内物質活動とは独立した、任意の思惟活動であるというほかない。だから、脳内セロトニン減少説という「神話」が崩れたなら、人はSSRIを捨て、新たな物質を求める方向へと転じるであろう。迂回路に待ち受けていた、第二の問いへの回答がこれだ。」p.65

「 もし、ある人が<対象化識知>により、臓器としての自らの脳に対して物質的変化を引き起こそうと試みるなら、それは思惟作用すなわち悟性を通じた方法を採用していることになる。4‐aの女子高校生の場合がそうだ。この方法は、永遠にも見える悲しみを、必然のようにもたらすことになる。たとえ、自らの脳における物質的変化が多少の改善をもたらしたとしてもだ。なぜなら、そのとき人は、個体としての統一性を失い「諸要素にバラバラに」された臓器の一つである脳にSSRIが作用する姿を、思惟しているに過ぎないからだ。女子高校生が「勉強がはかどるように」と考え臓器である脳に働きかけても、「勉強」は彼女の一部を構成するに過ぎず、およそ統一性と無縁であることは明らかだといいうる。」p.69

「 こうして、SSRIなどの抗うつ剤(および「神話」として流通するあらゆる依存対象)と、アルコール・麻薬・食物・性愛(およびその他もろもろの経験的依存対象)との共通点および差異が、明らかになった。繰り返しをいとわず記すなら、対象への依存によって気分の改善を目指そうとする試みが、両者の共通点だ。ただし、SSRIなどの抗うつ薬は、個体としての統一性を断念させる力に悟性が永遠に従属する方法であり、アルコール・麻薬・食物・性愛は、その力に対して感性が一瞬においてだけ抗争する方法だということになる。
以上が、迂回路に待ち受けていた、第三の問いに対する回答にほかならない。」p.70

「 それにもかかわらず現在においては、うつ病は臓器としての脳の内部に生じた、物質変化に起因する疾患だと誤解される趨勢にある。そのような解剖―政治学の立場によるなら、上記の男性はたえず脳内物質を「正常」化させ、気分と思考を自ら統制せねばならなくなる。(中略)
加えて、疫学の統計数値は、うつ病者の人口をはじきだし、その保護因子と危険因子を列挙するだろう。そのような生―政治学によって、上記男性は、列挙された保護因子を強化し危険因子を除去するために、あたうかぎりの努力を払わざるをえない。この男性が現在の社会の外部で暮らそうとする場合を除いて、彼は疫学の統計数値が示すガイドラインを金科玉条のように抱かなければ、自己責任としての健康管理を放棄した者として指弾されるだろうからだ。ガイドラインには、SSRIの服用を続けることが保護因子であり、中断することは危険因子だと記されている。こうして彼は、強いられた自発性に基づいて、SSRIを服用することになる。
すると、現在において軽症うつ病を有する上記男性の身体とは、臓器としての脳の別名であり、それは生―権力によって統制される運命をたどるしかないのだろうか。それ以外の道筋はないと彼が考え従うとき、彼がSSRIを「ばりばり」と齧る音が聞こえてくる。この彼の考えの中には、身体が抗うつ薬を食べ続ける理由としての諦念がある。
しかし、この音は、生―権力に対するかすかな抵抗かもしれない。なぜなら、その音を彼自身や彼の近しい他者が細心の注意を払って聴き、受け止めることによって、彼という存在の全体が浮かび上がってくるからだ。たとえ口腔の筋群と歯牙によって生じる音であっても、その音は臓器に分解された筋肉や歯を超えた、彼の存在が直面する苦悩の全体を指示している。」pp.72−73

◆美馬達哉,2007b,「リスク社会と偽装」『現代思想』35(14):71‐83.

「うつに対しての薬物治療は、一九五〇年代後半から行われはじめ、一九八〇年代までは三環系抗うつ薬が主流だった。ただ、このタイプはうつ治療に効果があったものの副作用が強く、しかも(自殺目的や事故で)大量に服用すると死亡することまであった。これに対して、一九八〇年代後半から一九九〇年代前半に使われ始めた「セロトニン再取り込み阻害薬(SSRI)」と総称されるフルボキサミン、フルオキセチン、パロキセチンなどの抗うつ薬は、副作用も少なくて安全性が高いという特質を生かして、広く使われるようになった、とされる。だが、実際には、副作用のない医薬品はあり得ず、重大な副作用の問題が後に明らかになる。」

「SSRIと総称される抗うつ剤が話題となったのは、まずは、副作用もなく人間の気分を幸福にする夢の医薬品としてであった。とくに、プロザックはその代表例として、たんに気分が落ち込んだうつ状態を正常に治すだけではなく、内気や引っ込み思案な性格を積極的で活動的な性格に変化させることで人生に成功をもたらす働きがあるかのようにマスメディアで取り上げられた。その結果、米国を中心に、一時期は、仕事で成功したいビジネスマンなども含めて二〇〇〇万人以上の人々が服用していたとも言われる。こうした使用法は(中略)、病気というマイナス面への対策としての「治療」ではなく健常人をプラスの方向に変化させる「増強(エンハンスメント)」になるだろう。このことを一つのきっかけに、治療ではなく増強を目的として医薬品や医療技術が使用されることの倫理的諸問題についての議論(ニューロエシックス、脳神経倫理学などと呼ばれる)が始められている(後略)。」

「しかし、リスクには、将来の未知で不確定な事象が含まれる以上、すべてがを事前に予測するということはありえない。リスクが意図的に偽装されることは問題だが、副作用報告制度というリスクマネジメントによって、すべてのリスクがカバーできるかのような幻想が生み出されることの方もまた問題だ。ここで例として取り上げた抗うつ剤の副作用の場合では、雑多な副作用の洪水のなかに、当初は恐らく未知であったが重大な副作用である自殺行動というイベントは埋もれていたのだから。パワーが「何でもリスクマネジメント」として批判しているのは、まさに、未知のリスクを隠蔽しかねないリスクマネジメントの万能性という幻想のことだ。」

「偽装と風評の不安定なスパイラルに陥ることなく、不確実性やリスクを社会的に取り扱うと技法が求められている。とはいえ、リスクについての「真実」と偽装の二つの方法を区別する賢さが必要だと結論づけることはできない。製造業者とマスコミュニケーション産業のどちらがより「真実」かは、ある意味で決定不可能にとどまる。そのとき、真実と偽装に共通しているのは、社会的コミュニケーションに対するある種の信頼、すなわち、どんなに不確実な事象であっても真偽を「知っていると想定された主体」がどこかに実在するという信念だと言うこともできよう。偽装の時代とは、その信念が揺らぎつつある時代のことだ。真偽とは関係なく現代社会を席巻する風評リスクとは、「真実が偽装のように構造化されている」ことに気づきつつある不安な意識のはらむ過敏さなのだ。」


*作成:松枝 亜希子
UP:20080716 REV:20080825, 20090502(近藤 宏), 20110209, 20110728(藤原 信行)
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