last update:20160105
■目次
◇生存学関係者の成果
◇definition of discrimination|差別の定義
◇taste for discrimination|好み・嗜好
◇人的資本論
◇統計的差別|statistical discrimination
◇二重労働市場
◇逆差別
◇法律等
◇全文掲載 ◇組織
◇引用 ◇文献
■生存学関係者の成果
■著書
◆北村 健太郎 2014/09/30 『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』,生活書院,304p. ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税 [amazon]/[kinokuniya]/[Space96]/[Junkudo]/[Honyaclub]/[honto]/[Rakuten]/[Yahoo!] ※
◆大野 光明 20140930 『沖縄闘争の時代1960/70――分断を乗り越える思想と実践』,人文書院,342p.
ISBN-10: 4409240986 ISBN-13: 978-4-409-24098-4 2000+税 [amazon]
/[kinokuniya] ※
◆天田 城介・村上 潔・山本 崇記 編 20120310
『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』,ハーベスト社,x+299p. ISBN-10: 4863390348 ISBN-13: 9784863390348 2700+税
[amazon]
/[kinokuniya] ※ d04
◆立岩 真也・堀田 義太郎 20120610 『差異と平等――障害とケア/有償と無償』, 青土社,342+17p. 2400+ ISBN-10: 4791766458 ISBN-13: 978-4791766451 [amazon]/[kinokuniya] ※
◆立岩 真也・村上 潔 20111205 『家族性分業論前哨』,生活書院,360p.
ISBN-10: 4903690865 ISBN-13: 978-4903690865 2200+110 [amazon]/[kinokuniya] ※
■論文
◆山本 崇記 2009/03/31 「差別の社会理論における課題――A.メンミとI.ヤングの検討を通して」『コア・エシックス』5:181-191.
[PDF]
◆山本 崇記 2008/03/31 「差別論の現代史――社会運動との関係から考える」『コア・エシックス』4:359-370.
[PDF]
◆北村 健太郎 2005/03/31 「「錆びた炎」問題の論点とその今日的意義」『コア・エシックス』1:01-13.
[PDF]
cf.現代医療史研究とアメリカン・フレイムワーク - History of Medicine and Modern Japan
http://akihitosuzuki.blog.fc2.com/blog-entry-2564.html
■「差別」(discrimination)の定義
◆部落解放・人権研究所 19860901 『部落問題・人権事典』解放出版社
[差別](pp.386-387)
<差別の定義>
個人の特性を無視し、所属している集団や社会的カテゴリーに基づいて、合理的に説明できないような異なった(不利益)取り扱いをすること。
差別には本来、明確に区分するという意味が含まれているが、ここで取り上げるのは、本来平等であるべきものを不平等に取り扱うという社会的差別である。
そのような社会的差別にしても、何を差別ととらえるのかについては万人が納得するような基準はない。
<本来平等であるべきもの>という認識自体が、社会や時代とともに変化するからである。
つまり、人権意識の深まりとともに、今まで差別ととらえられなかったものが差別と認識されるようになる。
たとえば、セクシュアル・ハラスメント(性的嫌がらせ)や定住外国人問題における国籍条項をめぐって、最近10年間ほどの短期間で社会一般の認識は大きく変化した。
認識の変化をもたらすうえで、被差別者側からの異議申し立てや解放運動がきわめて大きな役割を果たしてきた。
<差別と社会規範>
差別を社会規範との関係でみると、@合法的<差別>、A社会的差別、B個人的差別の三つに分けられる。
@は、異なった取り扱いをすることが社会規範となっているもので、大多数の人が差別と考えないものである。
たとえば、封建社会では、<分をわきまえろ>という規範が確立し、身分制度を支えていた。
<分をわきまえない>行動、すなわち身分によって<差別しない>ことは、秩序を乱すものとして非難され、さまざまな社会的制裁が加えられた。
Aは、差別に対する異議申し立てが行われることによって差別と認識されるようになる。
しかし、まだ一部には差別と認識しない人々が存在し、差別を奨励・黙認する集団規範と差別を許さない社会規範との葛藤状態にある。
しかし、社会的差別は力関係における不平等を基盤に、ある特定の社会状況によって生み出されたものであり、時代や状況に依存しているものであるから、
社会関係のあり方を変えることによってなくすことができる。Bは、差別を支持する集団・社会階層は消滅したが、
個人レベルで好き嫌いといった程度で残存している状態のものをいう。たとえば、教師が、個人的な好みによって生徒をえこひいきするような行為である。
差別は人間社会からなくすことができないという見方があるが、個人的差別のレベルでは、そういうこともいえる。
差別の対象となるシンボルによって分類すると、生得的なものと、後天的なものに二分される。
人種、民族、カースト、性別、出身国、宗教、身体的なハンディキャップなど、さまざまな差異が差別の対象とされる。
これらの多くは、生得的属性であり、生まれたときすでに決まっており、個人の努力で変えることのできない属性である。部落出身であることによる差別はその典型である。
他方、学歴や職業、従業上の地位、思想など、後天的に獲得した属性に基づく差別もある。
<差別行為>
差別は、行為、態度、意識、文化、精度、あるいは差別の結果現象など、さまざまなレベルのものも含めて使われるが、基本的に行為レベルのものも指す。
差別行為には、集団的抹殺、暴行、財産の略奪といった身体的暴力という激烈なものから、差別扇動、侮辱、差別表現など、
言語的攻撃ないし直接侮辱する意図はないがネガティブな意味づけを含んだ慣用的表現、さらには排除、忌避、無視などの隠微な行為まで含まれる。
部落差別の場合は、かつては<解放令>反対一揆に代表されるような部落の焼き打ち、虐殺、暴行がみられたことがあった。
また現代では、就職差別、結婚差別、そのための身元調査、同和地区の隣接地域での居住を避けることなどが、その顕著なものである。
最近では部落落書き・差別表現が多発している。
行為以外のものは、態度レベルでは偏見、意識レベルでは差別意識、差別観念、文化イデオロギーのレベルでは人種主義、反ユダヤ主義、貴賎観、浄穢観など、
制度レベルでは<制度化された差別>などがある。
同和対策審議会答申では、部落差別を実態的差別と心理的差別との二つに整理している。前者は、同和地区住民の生活実態に具現された差別であり、劣悪な生活環境、
高率の生活保護率、際立って低い教育文化水準などを指している。これは長年にわたる差別の結果生じた現象ともいうべきものである。
また後者は、意識、観念だけでなく行為をも含ませており、厳密な概念ではない。
<差別の機能>
なぜ差別が存続するのか。その原因については、@偏見、A利害・搾取、B分断支配、C秩序維持、D文化・イデオロギーなど、さまざまな考え方がある。
偏見説は、差別は非合理的な偏見が生み出したものであり、外集団への恐れや敵意に動機づけられたものとみる。この考え方は、アメリカでは1960年代まで主流を占めていた。
利害・搾取説は、差別は自己の利益をはかるものであるとする。O.コックスは、資本家が動力やその他の資源を勝って気ままに搾取するために人種差別を作り出したと考えた。
また、A.メンミは、<人種主義とは、現実の、あるいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをすることであり、この価値づけは、
告発者が自己の攻撃を正当化するためには被害者を犠牲にして、自己の利益のために行うものである>と定義している。
さらに、分断支配説は、被支配的な諸集団・階層を互いに分断し、支配階層・集団の地位を安定化させ、特権を保持するために差別が利用されたとみる。
部落差別では、とくにこの機能が大きかったとされた。
すなわち、封建社会にあっては百姓の過酷な年貢収奪のために<上みて暮らすな、下みて暮らせ>と不満を鎮めるために差別が利用され、近代社会にあっては、
部落の人々を慢性的失業状態に押しとどめることにより、労働者一般の低賃金の鎮め石としての役割として部落差別が使われたとする考え方である。
差別の搾取機能や民衆分断機能は、いずれも支配的階級(資本家階級)の階級的利益の追求のためのものである。一方、E.ボナセッチは「分断された労働市場論」で、
資本家と労働者の階級対立という図式からではなく、労働者階級内部にみられる人種的ないしはエスニックな対立という現実から差別を説明した。
すなわち差別は組織労働者(白人労働者)が潜在的な競争相手(黒人労働者)を排除し、自らを有利な立場におくために、人種的な障壁を維持させているとし、
必ずしも差別は資本家の利益になるとは限らないとみた。さらに、差別には秩序維持機能がある。異質なもの(と見なされたもの)を排除・攻撃することによって、
内部対立や葛藤から目をそらせ、フラストレーションを解消し、支配的な価値を確認し、社会への同調・統合をはかるのである。
また、文化・イデオロギーが差別を存続させるという側面もある。部落差別は、貴賎観念や家柄・血筋といった伝統的な観念、
浄穢観などの非合理的な価値観や感情によって支えられている。非合理的態度という点では偏見と似ているが、偏見は対象集団に対する硬直化した感情的態度であり、
一種の<異常な>人が差別を行うが、文化が差別を産むという見方からすれば、
逆に、その社会の支配的価値観や秩序意識を身につけた<優等生タイプ>の人が差別を行うことになる。いずれの見方をとるにせよ、
社会的差別は、力関係のアンバランスから生み出されたものであり、個人レベルではなく、社会関係や社会システムの問題としてとらえる視点が重要である。(野口道彦)
◆見田宗介・栗原彬・田中義久編19880210『社会学事典』弘文堂
[差別]〔英〕social discrimination(pp.337-338)
ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること。
その集団の区分規準は、人種、民族、生活様式、国籍、血統、性別、言語、宗教、思想、財産、家門、職業、学歴、心身障害、ある種の病など多種におよび、
被差別集団は、これらの内の単一あるいは複数の要因のからまりで形成される。差別のあらわれ方と激しさは、その社会の文化と歴史によって異なるが、
差別される側の就業機会はせまく、他集団成員との自由な通婚が阻害され(性差別を除く)、しばしば居住地域まで限定されるという共通性がある。
身分序列によって社会が構成されていた封建制社会ではその相互関係はきわめて差別的であったが、差別が社会現象として特に考察の対象になるのは、
封建的身分序列に原則的には頼らないで構成される資本制社会になってなお存在するからである。
かつ近代国民国家の成立は、かえって内に含んだ異質な民族文化をもつ少数者集団への差別を強めるとともに、植民地支配は、あらたな人種、民族差別を生み出して来た。
したがって封建制社会内において差別の対象とされた集団が近代以降同じように取り扱われてもそれを封建遺制として片づけるわけにはいかない。
この意味でカースト間関係と現在の差別、あるいは階級間関係(局面によっては十分階級差別といういい方はできるが)と他の差別は、
強く関係しつつも区別して考察される必要がある。
差別が法律や規定によって合理化されている場合も多かったが、第二次大戦時のナチス・ドイツの人種主義、健常者主義への批判と反省から、
国際連合を中心として世界的に法制上の差別は取り除かれる努力がはかられている(例:世界人権宣言、国際人権規約A,B、女性差別撤廃条約など)。
それだけに、日本の部落差別のように、法制上の規定がなく、なお厳然と制度として存続し続ける差別のあり方の研究が、今日要請されている。
従来、史的唯物論では差別を階級関係の一形態として解明しようとした。社会学、社会心理学では制度的な行為としての差別と、
心理的要因としての偏見の二つをセットにして考察して来た。前者は法制的差別の撤廃や住居隔離(segregation)の撤廃などの実践的課題に対応し、
後者は良好な関係を求める教育活動と対応している。近年の文化人類学は人間が文化をもつ限り文化の中心部に対して周辺部に、
否定的な価値をもつものをつくり出すのは文化の必然的なあり方であるという理論枠組を提起している。多角的視点による新たな現代の差別の研究がまたれている。
いずれにせよ、差別する側が自らのアイデンティティの強化をはかることと差別することが深く関係していることは動かし難い。(三橋修)
◆森岡清美ほか編 1993 『新社会学辞典』有斐閣 p.512
生活者が、あるカテゴリーの人々に対して、忌避・排除する行為の総体をいう。
この場合、@行為主体が意識的か無意識的かは問わない、Aカテゴリーが実在のものか架空のものかは問わない、B行為客体が個人か集団かは問わない。(江嶋修作)
◆マギー・ハム/木本喜美子・高橋準監訳 19990730 『フェミニズム理論事典』明石書店
Discrimination 差別
女性が好ましくない属性を有するという家父長制的な信条にもとづく女性への不当な取り扱いを指す。
統計的差別とは、女性が就労を拒否されるのは女性が女性であるということからではなく、「統計的に」、
男性以上に家族の世話をしなくてはならないと思われているからだとする説明のことである。また、女性の優遇政策は積極的差別として知られている。
これは、既存制度のなかで、女性の有利なように差別を行なう理論の一形態である。
ハイジ・ハートマンは、差別が家父長制と資本主義との相互作用の長い過程から生み出されとする。
また、差別は性別分業の根絶なしにはなくらないとも主張する[Hartmann1976]。(山田和代)
◆猪口孝・大澤真幸・岡沢憲芙・山本吉宣・スティーブン.R.リード編 20001115 『政治学事典』弘文堂
[差別]〔英〕discrimination
もともとは差異づけする能力を意味する用語であるが、実際は批判的意味が加味され、
ある集団(人種、民族、生活様式、国籍、性別、言語、宗教、思想など)を犠牲にしながら社会生活の中で行われる差別待遇を指す。
具体的には、差別される側が差別する側からの蔑視や加虐などにより、不平等、不利益な取扱いを受け、人権を侵害されることを言う。
本来対等な人間として当然持ちうる社会的な権利を、多数派集団や権力集団が非合法に、時としては法的な根拠を作り上げて剥奪することで差別が行われる。
分野によって差別の捉え方には違いがある。社会学的には、差別を制度的行為と捉え、近世封建制度における身分制度に始まり、
それに基づく身分秩序や法的差別、人種差別などを差別としている。社会心理学では、偏見をもとにした民族、
集団あるいはそれに属する個人に対する差別的概念や行為を差別としている。
差別は次のような過程を経て発生する。交通や通信手段の発達につれ、人間が異質な文化に直面する機会が増える。異質な集団が接触すれば、
そこには当然、言語や宗教、習慣の違いによるコミュニケーションの困難さ、妨害、緊張などが生まれることになろう。
人間は多くの場合、これらの困難や苦痛の原因を自分たちではなく、他者のせいにしがちである。これがいわゆる異文化コミュニケーションにおける責任転嫁であり、
差別や偏見の原因となる。
差別の基準は社会と時代によって変化する。封建制の下では、社会が身分による序列で構成されていたため、序列間での相互関係はきわめて差別的であった。
しかし、近代民主国家が成立した後も異質な少数集団への差別は依然として存在する。ただし、差別されている集団が同じであっても、
近代以前と現代とでは社会的意味は異なるといえよう。たとえば、近代インドではカースト制度は法的に廃止されている。
しかし現実には、旧不可触賎民は、過去からの習俗や秩序のもとに差別されている。異なる文化的背景を持つ人々が生活する場においては、
具体的な経済的格差や、社会的差別が生まれる。そうした利害をともなう差別は、対立を生み出す。文化人類学では、人間が文化を持つ限り、
その周辺に否定的な価値を持つものをつくるのは必然であり、それに対する差別もなくならないという説すらある。
具体的な差別には人種差別、民族的差別、部落差別、障害者に対する差別、などが挙げられるが、このような差異化は、社会の規範と法的な平等原則に反するために、
たとえいくつかの下位集団によって正当化されても、多数派かはあ受け入れ難いと判断されてきた。
しかし、差別が法律や規定によって合理化されているような場合もある。アメリカでは1960年代に公民権運動が活発化するまで黒人に対する法的な差別が存在した。
南アフリカでもアパルトヘイトによる人種差別が政策として行われていた。日本においても、近代まで性別や収入によって参政権が制限されるなどの差別があったが、
戦後の普通選挙の実現によってこのような差別はなくなった。このような傾向は1948年の世界人権宣言や、国際人権規約、
女性差別撤廃条約などで除かれるようになってきているものの、依然として、各種の差別はさまざまな社会に残っており、多くの問題を提起している。(オフェル・フェルドマン)
◇H.ビクター・コンデ/竹澤千恵子・村島雄一郎訳20010920『人権用語辞典』明石書店
[Discrimination(principle)差別(原則)]
人権論におけるdiscriminationには、二通りの意味がある。
@個人や集団に対し、人種・宗教・民族・皮膚の色・信条・政治的意見などを理由に異なる処遇をすること。
国連の人種差別撤廃条約の1条は、人種差別を次のように定義している。「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身にもとづくあらゆる区別、
排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、
享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するものをいう」。
A武力紛争法におけるdiscriminationは人道法の一原則で、戦闘員は常に敵の戦闘員と文民とを区別し、文民を攻撃してはならないとする。
「無差別攻撃」は禁止されている。これは、武力紛争法における「差別の原則」といわれる。
◆秋元美世・大島巌・芝野松次郎・藤村正之・森本佳樹・山縣文治編 20031110 『現代社会福祉事典』有斐閣
◆庄司洋子ほか編 1999『福祉社会辞典』弘文堂、p.356
差別とは、人々が他の個人や人々にある社会的カテゴリーをあてはめることで、個人や人々の個別具体的な生それ自体を理解する道を遮断し、
他の個人や人々を忌避・排除する具体的な行為の総体をいう。(好井裕明)
◆好井裕明 2007『差別原論』平凡社、pp.60-61
確信犯的な強烈な差別行為から、同情、哀れみに内包されるなかば無意識的なゆるやかな排除まで、現象として差別は多様であるが、
「歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること」が差別につながる私たちの根本的な日常的実践といえる。
そして、この実践と向き合い詳細に解読し、解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践なのである。(好井2007:60−61)(傍点は引用者)
◆類似概念との比較
M嶋朗・竹内郁郎・石川晃弘 20050510 『社会学小事典〔新版増補版〕』有斐閣
[差別]discrimination
特定の個人や集団に対して、彼らに付随する固有な特徴を考慮するとしないとにかかわらず、彼らを異質な者として扱い、彼らが望んでいる平等待遇を拒否する行動。
すなわち差別は、自然的ないしは社会的カテゴリーに根拠をおく区別を前提としてなされる一切の行為である。差別には、公然たる公式的侮辱(法律での不平等承認など)と、
私的個人によって行われる侮辱的行為の形態がある。たとえば、黒人に対する居住地域、交通機関などでの隔離(凝離)は差別形態の典型。(p.211)
[偏見]prejudice
このことばの由来からすれば、prejudice、フprejuge、ドVorurteil、ポpreconceitoと呼ばれ、これはすべて確かな証拠や経験をもたず、不確かな想像や証拠にもとづいて、
あらかじめ判断してしまう(prejudgment)か、先入観(preconception)をもってしまうことを意味する。包括的にいえば、偏見とは、ある集団に所属しているある人が、
たんにその集団に所属しているとか、それゆえにまた、その集団にもっている嫌な性質をもっていると思われるという理由だけで、
嫌悪の態度ないし敵意ある態度を向けられるといった、不当な範疇化(overcategorization)であり、ある側面ではステレオタイプに支えられている。(pp.558-559)
[排除(社会的排除)]social exclusion
「異常」や「逸脱」とみなされている個人や集団を、それらがそもそも所属していた社会集団や場の外部へと排斥し、あるいは囲い込むこと。
排除は一定の規範にもとづき「正常−異常」の範疇や領域を徴(しるし)づけ、構造化する社会的操作であり、
この規範や操作に先立って「異常者」や「逸脱者」がア・プリオリに存在するのではない。
『狂気の歴史』(1961)や『監獄の誕生』(1975)でフーコーが明らかにしたように、追放や監禁等の排除の操作が実践される諸形態により、
社会における「狂気」や「犯罪者」といった「異常」や「逸脱」の範疇だけでなく、「正気」や「一般市民」のような「正常」の範疇の定義や範囲、
それらに属する個人や社会のなかで取りうる位置も変化する。(pp.266-267)
[抑圧]repression ドVerdraengung
S.フロイトの用語。精神分析の基本概念の一つ。意識にとって不快で受け入れがたいことを無意識のなかに閉じ込めておこうとする心的機制をいう。
この機制は自動的・無意識的に働く。それは、罪悪感・不安・自責感などの発生を回避する自我の自己防衛のメカニズムであり、
主として性的および攻撃的な衝動・観念・記憶などが抑圧の対象となる。しかし抑圧されたものは、消滅してしまうのではなく、
無意識の領域に存続して人間の行動にさまざまの影響を与え、しばしば夢やノイローゼ症状として現れてくる。(pp.607-608)
[支配]domination ドHerrschaft
個人ないしは複数の人間が、優越的な地位に立つことによって、他の人間の行動を系統的かつ効果的に規定し、そこに従属関係を成り立たせる場合、支配(関係)が生まれる。
しかし優越性によって生み出される影響力や、独占的な地位からもたらされる力がすべて支配を生むわけではなく、支配が成り立つためには、
一定最小限の服従意欲を不可欠の要件とする。したがってその意味では、支配はつねにその対極に服従をともなうことになる。
「支配とは、特定の(またはすべての)命令に対して、挙示しうる一群の人びとのもとで、服従を見出しうるチャンスをいう」というM.ウェーバーの定義はこのことをさす。
その場合、服従の動機は多様であり、慣れや情緒的な好みに基礎づけられたものもあれば、利害得失の目的合理的な考量によって生み出されるものもあるが、
いずれにせよ支配を継続していくためには、その正当性に対する信念を喚起し、これを育成しなければならず、いかなる種類の正当性が要求されるかに応じて、
服従の類型や支配行使の性格も異なったものとなる。(p.240)
[搾取]exploitation ドAusbeutung, Exploitation
階級社会で、生産手段を私的に所有する階級が、直接的生産者の階級に彼らの生活維持に必要な労働時間以上の労働(剰余労働)をさせ、その成果を自分のものとして領有すること。
搾取の様式は、生産手段と直接的生産者がいかにして結合されるか、生産手段をいかなる諸個人がいかにして領有し再生産するか、という生産関係によって規定される。
生産手段の私的所有がなくなり、階級が消滅すれば、定義上は搾取もなくなる。(p.209)
■好み・嗜好(taste)
◆立岩『私的所有論』
"To begin with I will lay out some of the explanations offered by the field of (modern) economics as they relate to the topics discussed in this chapter (see Kuwahara [1978] [1980], Yashiro [1980] [1983], Sasazuka [1982] and Horne and Kawashima [1985]). What explanation(s) can be found for discrimination based on ability (which is not likely to be viewed as discrimination in the field of economics) and other sorts of discrimination (which likely cannot be explained using economics)? There is in fact a field of research called "discrimination economics." Explanations have been proposed involving "predilection (prejudice)" and "a taste for discrimination." For example, a white employer will not hire black employees because he doesn't like black people. This is such an obvious idea anyone might come up with it, and it doesn't really matter who published it first but it is generally attributed to Becker (Becker [1957]). Kenneth Arrow (Arrow [1974]) also produced a model that incorporates cases of discrimination on the part of other employees, and others such as Kruger (Kruger [1963]) have offered explanations for discrimination involving "optimal tariffs" used by groups of white or male workers to claim a larger share of earnings for their own group. These are explanations that go beyond economic rationality, but when preferences exist amongst those who are not employers (consumers and laborers), employers cannot help but include these preferences in their economic calculations."(Tateiwa[1997→2012:609→2016]
「まず(近代)経済学による説明を本章の関心に添って整理する(桑原靖夫[1978][1980]、八代尚宏[1980][1983]、篠塚英子[1982]、ホーン・川嶋瑶子[1985]等を参照)。能力差別(そもそも経済学はこれを差別としないだろう)以外の差別(これは経済学にとって説明しにくい事象である)をどう説明するか。「差別の経済学」と呼ばれるものがある。まず持ち出されたのが「嗜向(偏見)」、「差別嗜向」(taste for discrimination)である。例えば白人の雇用主は黒人が嫌いだから雇用しないという、誰が最初に言ったかなどどちらでもよい、誰でも考えつくようなことだが、ベッカー(Becker[1957])により提出されたものとされる。さらに、アロー(Arrow[1974])が他の労働者による偏見を取り入れた場合のモデルを、クルーガー(Kruger[1963])等が白人や男子労働者が自らの集団全体としての所得分配を有利にするための「最適関税」として差別を行うという説明を提出した。これは経済合理性以外のものによる説明だが、好みが雇用主以外の者(消費者・労働者)にある場合には雇用主はその好みを経済的な計算に繰り入れざるをえない。」(立岩[1997→2012:609]
◆篠塚 英子 19821104 『女子労働の経済学』東洋経済新報社,252p. 1500
「この種の議論の欠点は、すべての労働の質は等しいという条件に立って、にもかかわらず、企業が差別行為を行なう場合を考えている点にある。だが、現実の企業はもっと賢明である。……。もう一つ、ベッカーの理論が現実と矛盾する点は、このような安い賃金の労働者を雇用しないという非合理的な企業は消滅するはずだと説くが、いっこうに現実の社会では消滅する兆しがみられないことである。」[142-143]
◆八代
「差別の原因を雇用主の偏見として取り扱うことは、一見最も常識的ではあるが、すべての雇用主が同一程度の「偏見」を持っているのでない限り、より偏見の少ない雇用主が賃金コストの安い黒人や女性労働者を多く雇うことによって生産費用を引き下げ、長期的な企業間競争のなかで有利な立場に立つことを見逃している。」(八代[1980:67])
◆古郡
「競争的諸力が労働市場に存在すれば、差別の嗜好をもたないか、またはその程度の弱い企業は安価な労働力を使うことによって心理的効用の損失を受けずに利益を拡大することができるはずである。したがって、ベッカーの理論は長期的には低コストの企業が高コストの企業を排除する形で差別は時間とともに減少することを含意する。」(古郡[1997:34])
「経済的諸力が働けば、長期的には低費用の企業が高費用の企業を駆逐する形で差別は時間とともになくなるはずである。しかし、現実には賃金差別は現在として存続している。」(古郡[1998:144])
◇Ashenfelter, Orey ; Rees, Albert eds. 1973 Discrimination in Labour Markets, Princeton Univ. Press
◇Becker, Gary 1957 The Economics of Discrimination, Univ. of Chicago Press <367>
◇――――― 1971
◇――――― 1981 A Treatise on the Family, Harvard University Press
◇古郡 鞆子 19800407 「男女差別の経済分析」,『季刊現代経済』38:020-032
◇――――― 19970109 『非正規労働の経済分析』,東洋経済新報社,268p. 3300 ※
◇――――― 1998 『働くことの経済学』、有斐閣 ※
◆Kruger, A. 1963 "The Economics of Discrimination", Journal of Political Economy October 1963 <367>
◆Kuwabara, Yasuo(桑原 靖夫) 1978 "Ecnomic Analysis of Discrimination"(「差別の経済分析」), The Monthly journal of the Japan Institute of Labour(『日本労働協会雑誌』) 1978-10・11 <609>
◇桑原 靖夫 197810 「差別の経済分析」,『日本労働協会雑誌』1978-10・11 <609>
◆Kuwabara, Yasuo(桑原 靖夫) 1980 "The Perspective of Economic Analysis of Gender Disscrimination"(「性差別経済理論の展望」), Contemporary Economics(『季刊現代経済』) 38:84-99 <609>
◇――――― 19800407 「性差別経済理論の展望」,『季刊現代経済』38:084-099 <609>
※< >内の数字は『私的所有論 第2版』(On Private Property)での頁数を示す。
■人的資本論
◆篠塚
◆「人的資本論を学問として発展させたのは、女性の社会進出が進んでいるアメリカに住むG・ベッカー・シカゴ大学教授である。彼はこれを含めた一連の研究業績により、
1992年度のノーベル経済学賞を受賞した。この研究が人種問題の解決にも応用されたということは重要である。差別されていた黒人に対する教育投資が強力な効果をあげた結果、
人種的偏見を是正した。黒人の働く機会がほとんどなかった時代に、教育投資によって彼および彼女たちの知的能力がレベル・アップし、
白人と同等の職に就けるようになったのである。」(篠塚[1996:121])
■統計的差別|statistical discrimination
◆https://en.wikipedia.org/wiki/Statistical_discrimination_(economics)
◆立岩 1997 『私的所有論』第8章注2
*上掲「……繰り入れざるをえない。」の直後
「他に「人的資本論」(human capital theory)と呼ばれるものがある(Becker[1964][1975=1976])。各人の有する「資源」の差異によって説明する。
だが能力は違わなかったはずではないか。資源の意味を少し広くとるのである。労働者の教育水準、職場経験、職場研修等が違うから労働生産性に差が生じ、
それが賃金格差を生じさせると説明する。例えばベッカーの「特殊訓練仮説」。訓練が企業内の「業務上の訓練」=OJT(On-the-Job Training)
として行われる場合にはOJTを行えるかどうかが重要になり、そのため企業への定着率、勤続年数が問題になる。女性は離職率が高く、企業内訓練が困難で、そこで差別される。
しかし全ての女性が早く離職するとは限らない。
こうした場面に「統計的差別」(Phelps[1972]、Thurow[1975=1984:204-211])という議論が入ってくる。新古典派の完全情報の仮説が妥当しない(ここでは労働力という商品についての完全な知識を予め得られない)場合に、商品の購入者は範疇別の確率的な計算を行うだろうというのである。例えば女性の離職率が高いから女性を(しかるべきポストには)採用しない。これはもちろん不幸な悪循環を招く。また少なくとも仕事を続けるつもりの女性にとっては不当な差別だと言う以外にない。そこでどうするか。一つは、個別化、選別を行うことである(コース別採用もその一種と捉えられる)。遺伝子検査等の場合にも、範疇・確率による診断がなされることによって実際には問題のない人が排除されるといった同様の問題が起こる。
だが同時に、その精度が上がり、個別に確定的なことがわかればそれでよいのか、わかるようにするのがよいのかという問題も生ずる(→第5節)。」
◆篠塚 英子 19821104 『女子労働の経済学』東洋経済新報社,252p. 1500
2.統計的差別「……これは個々非との労働の質は同一ではないことを知っている企業が、しかし個々非とについて識別が不可能であるため、
平均値でみた統計的資料から差別グループを選びだすことによって生じている。」[143]
3.二重構造論 ドーリンジャー&ピオル[143-144]
↑
A・ルイス:デュアル・エコノミー
篠原は2.3.を採用[144-145]
◆小池 和男 19910620 『仕事の経済学』,東洋経済新報社,275p. ISBN: 4492260420 3700
[amazon] ※,
*現在出版されているのは第3版のよう。未見。
第9章「高年労働者と女性労働者」 2「女性労働者」
労働力率の国際比較/男女間賃金格差/統計的差別の理論/昇格テスト方式/パートタイム労働者
「統計的差別の理論
男女間差別については、すでにきわめてすぐれた理論が存在している。いうまでもなく統計的差別の理論(Theory of statistical doscrimination)であり、女性の働く能力になんの偏見もなくとも、企業が効率をもとめて行動すれば男女差別が生じる、という理論である10)。しかも、ふつう考えられているより、はるかに現実的基盤があり、ぜひとも吟味しなければならない。もともとは1960年代アメリカ社会をゆるがせた白人と黒人の差別を説明する理論として構想されたが、男女差にも十分適用できる見事な理論である。この理論をよくわきまえないと、すぐさま日本の特殊性やおくれといった、まったく不生産的な議論に終始し、差別のいちじるしい合理性をふまえて始めて(ママ)みえてくる対策が、まったくわからない。
男女差別について展開すれば、統計的差別の理論とは、つぎの3条件を前提する。第1、平均して女性は男性より勤続がみじかく、それは統計的に明白だ。第
2、女性のなかにも長くつとめる人はもちろんいるが、それを事前に見分けるのはむずかしく、かなりコストがかかる。
第3、必要とされる熟練がたかく、その形成に企業内での中長期のOJTを要する。ときに企業特殊熟練という条件を強調する見解もあるが、
うえの条件さえあれば十分成立する。
第3の条件、中長期のOJTからはじめよう。そのもとでは、労働者が途中でやめては、それまでのOJTが損失となる。それをさけるため、
経営側は定着の見込みのたかいひとを選ばざるをえない。ところが、第2の条件によって、個人別に定着の可能性を調べるコストがたかい。コストのかからない方法として、
みやすい特徴をもつグループごとにえらぶ。みやすいとは、統計的に歴然としていることで、白人黒人の別、男女別、出身校別などである。
第1の条件によって男性の方が定着的だから、中長期のOJTコースに男性をつける。当然男女間に技能差が、したがって賃金差が生じる。
企業が合理的に効率をもとめて行動するかぎりそうなる。そうしないと競争に生き残れない。
重要なのは、この3条件が、ふつう考えられているより、はるかに広く存在していることだ。まず第1条件は、出産、子育てがある以上、どの国にも存在する。
とくに先進国ほど妥当する。家事手伝いがえられず、えられてもその賃金がたかい、学歴別賃金格差が小さいからである。第2条件、質にかかわる情報がわかりにくいのも、
これまた一般的である。とりわけ第3条件が、先進国途上国をとわずひろく存在している点は、すでに、そしてこれからも、くりかえし見るところである。
これほど3条件がひろく存在していては、男女の雇用均等等は容易ならざる困難に逢着する。第1条件は、家事手伝いの得られる途上国の中層以上がまぬかれるにすぎず、
第3誌条件を無視すれば企業があぶない。第2条件をいかに変えるかが、差別問題の鍵となろう。それを日本はいかにおこなっているか。
昇格テスト方式」(小池[1991:144-145])
「10)Phelps[1972]、またPhelps[1972]。さらにStiglitz[1973]。」(小池[1991:149]、表記の方法は変更してある。)
◆中馬・樋口[1997]
「採用側にとっては、「どの女性の人的資本への投資意欲が強いか」を事前にはなかなか知りえない。そうすると、採用段階で、グループとしての女性の特性から推し量り、
「同じような潜在能力を持っているなら、女性より男性を選択したい」とする傾向が強まる。つまり、統計的差別16)が発生してくる。」(中馬・樋口[1997:138]、
注にあげられているのはPhelps[1987])
◆立岩 2001/11/10 「常識と脱・非常識の社会学」
安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房
「□8 「確率」による差別
[…]たとえばよく言われるように、学歴が実際の仕事には役に立たないものだとしよう。しかし、ならばそんなあてにならないものによって人を選んでも仕方がないではないか。もし会社が求められている能力とその人の属性とが関係がないなら、なぜその関係のない属性によって採用したりしなかったりするのか。たとえば男と女の力が同じだとして、
なぜ女は雇用の時に不利なのか。実はこのあたりについてもあまり社会学ははっきりしたことを言わない。現実は複雑だからそううかつなことを言えないということもあるのかもしれない。ただ、複雑なのはたしかだとしても、この前提からはこう言えるということを言うことはできるし、それにはそれなりの意義もあるだろう。
一つは「確率」の介在である。学校を出たからといって、またどの学校を出たからといって、仕事で使えるかどうかはわからないのだが、しかし、
新卒者についてわかることといえばどの学校を出たとかそんなことしかなく、そして両者の間にまったく関係がないとは言えないなら、つまり少しばかりは相関があるとすれば、
他にないのだから、それを採用のための基準(の一つ)として使うしかなく、そうした消極的な理由で学歴によって人を選ぶことがあるかもしれない。
またたとえば、出産・育児で早くに退職してしまう「確率」が高いから、一定期間以上職場にいることで仕事を覚えていくような仕事には女性を採用しない。
もちろんあなた個人はそういう人ではないかもしれない。しかしそれは外から見ただけではわからないし、面接して聞いてもわからない。だから男性の方が採用され、
女性が排除される。
さらにたとえば犯罪。どこかの知事が外国人は危険だと言ったとしよう。露骨な敵意からそんなことを言っているのかもしれないが、それが「確率的には」当たっている、
数%か犯罪を行なう確率が高いことはありうる。悪気や悪意はないが、しかしどちらか一人をとるとなったら安全な方を採用するということはあるかもしれない。
□9 悪循環の形成
こうして、近代社会が業績原理の社会だからといって、人がたまたま背負っている属性に関わる差別がなくなることにはならない。確率的にでしかないにせよ、
その属性と業績(犯罪等は負の業績とも言える)とが関連するなら、差別は生ずる(「統計的差別」)。これは単に偏見の問題ではない。あるいは、じつは偏見や悪意、
敵意に基づくものでしかないとしても、また自らが属する集団の既得権を守り自らの有利を維持しようとする――このことについては後に述べる――ものでしかないとしても、
排除に一定の根拠を与えてしまうことになる。
そしてその経路は組み合わされることがある。たとえば、どんな合理的な理由もなくある人たちが排除されることがあるとしよう。
その結果、生活に困る人が出てきて犯罪の率が高くなる。その結果、今度は犯罪を起こす可能性が相対的に高いからという「合理的」な理由で排除される。
その結果、排除にともなう犯罪等が増え、さらに排除が行われる。こうして悪循環が形成される。こうした循環の中で、どこに問題があるのか、
誰に責任があるのか特定することも難しくなる。単なる言い逃れなのかもしれないがそうでないかもしれない。そしてその中で筋を通そうとすると割をくう可能性がないではない。
他が排除している中で受け入れると、受け入れが高い水準になり、問題が起こる確率がより高くなるといった具合にである。
そして、ここでは排除され差別される側の人たちの内部に分裂、対立が起こる可能性もある。自分たちがせっかくおとなしくしているのに、一部の連中がぶちこわしにしているとか、
たんなる腰掛けで仕事をしている女がいるせいで女だとみんなそう見られてしまってポストが与えられないとか。
「確率」による差別は「ゆえある」差別と言えるかもしれない。しかしこれを仕方がないと言ったらなんでも仕方がないことになってしまう。それは排除の理由を与え、
そして排除する側に利得を与えることになる。たとえば女性の離職率が仮に高いとして、そのことについてある一人の女性はなんの責任もないのに、不利に扱われる。
これは基本的にあってならないことである。しかし、そういう人たちを排除するそれなりの理由もあることも見てきた。
排除された人たちを受け入れるとわりを食うことがあるということである。寛容なところが不利益を被る。排除で対応することは、
基本的には問題を他に押しつけてしまうことでしかない。それはまずいならどうしたらよいか。
□10 属性を無視すること
(確率上の)違いに応じて対応しているのだという主張への反論として一つあるのは、違いがあるとされるものには実はそんなに違わないという主張である。
たとえば精神障害者は他の人たちと比べて犯罪を起こす率が高いなどど言われるが、実際にはそうでないことを主張する。実際そんなに違わない。あるいはまったく違わない。
だからそういう主張の仕方でよい場合、その主張が有効な場合もあるだろう。しかし多少なりとも違うこともないわけではない。
このときになお何が言えるのかを考えておいた方がよい。
まず、市場で起こることはそのままにしておいて、それで起こる問題については政府による所得保障制度で対応するといったやり方がある。
ただそれでは依然として雇用の場への対等な参入はかなわない。
また、確率などという大雑把なものでなくもっと一人一人が個別にわかるようにするというのも一つの案である。ただそれが難しいから確率が使われた。
また、一人一人が個別に立ち入ったところまで知られるということはそう望ましいことではない。
次に、環境をさらに整備し、差をそろえるという方法がある。これも必要で有効な場合があるだろう。
たとえば出産・育児に関わる負担が性別に関わる差を作っている部分があるなら、その負担を軽減することは効果があるだろう。しかしそうしても、
微小な差を捉えて選別するというシステムが同じく残っている限り、かえって微妙なところまで気をつかわなくてはならないことになるかもしれない。
問題は再生産、悪循環の過程に入ってしまっている。それを自然の過程に委ねても解決の見込みはない。だからどこかで切らなくてはならない。言うだけなら簡単な方法は、
確率によって扱いを違えることを禁ずることである。あるいはより積極的な措置(「アファーマティブ・アクション」)を行う、
さらに「割り当て」で対応することである――たとえば男・女の割合が全体で1対1ならその割合に応じて配置するものとする。どこまでそれを行えるか。難しいところはあるだろう。
しかし一律に規制され、全ての企業がその規則に従うなら、その間に競争力等の差はでないから、雇う側にとっても損失はない。
だから、これはじつは合理的な方法である。」
◆立岩 2003/01/01 「生存の争い――医療の現代史のために・9」,『現代思想』2003年1月号
□裏切ることについて
□様々な場での争い
□争いを誘発するもの
□危険/確率
[…]
この度の法案に反対する人たちは、しばしば、権利ばかりを言い犯罪の被害者のことを見ることのない輩である、と言われる。しかし、そもそもそんなことはないというだけでなく、
そう言われれば、ときに脅迫的に言われれば、そのように言われることをどう考えるかを、またそう言われることと自分との距離を考えざるをえない。
政策を批判する側が言ってきたのは、なされるのが「社会防衛」だということだ。もちろんそれはそのとおりだ。しかし残るのは、「社会防衛」はいけないのかという問いである。
社会を害から守る、それだけの意味であれば、それはよいと言うしかないではないか。とした場合にどんなことがさらに言えるのかだ。
例えば、池田小学校の子どもたちが殺されたのはお前(たち)のせいだといった非難が精神障害の人の権利のために活動している人に対してなされるし、
また、日頃「社会運動」にすこしも関わりをもたない人にも、つまりは同類がそうした非道なことを行なったのであり、
おとなしく病院にいればよいのだという類いの非難が投げかけられる。これはこれで十分につらいことだ。それはさすがに卑怯なことだと大方の人は言うとしよう。
しかしその卑怯さを差し引けば、被害を減らそうとすることに理はあるのではないか。そしてその人たちは、大きく「社会」とは言わないかもしれない――以前と比べると、
この部分にいささかの変化が見られるかもしれない。常に被害者はどうなるのかという問いが出される。放置しておけばさらに被害が出るではないかと言う。
かつての政治と異なり、この時代の政治は人々の生を目標にし、人の状態を気づかうものとしてあると、その安全と健康と幸福の増殖をはかろうとすると言われる。
これもそれだけを取り出せば、よいことではないか。安全であることはよいことではないか。このことについて何を言えばよいのか。自由を侵害されることの危険性だろうか。
ただ、いささかの自分の自由を犠牲にしても安全を優先しようと、少なからぬ人は思い、そのことを口にしてもいる。
そのとき、その臆病さをただ指摘すればよいというものでもない。
だから、という順序ではないにせよ、犯罪と精神病者・障害者あるいは知的障害という問題の設定において、病者・障害者の側に立つ側は、
そこで名指しされる人たちととそうでない人の犯罪を犯す可能性について、その差がないことを言ってきた。
実際、多くの場合このことについて多くの人が思い間違いをしているのは事実であり、その間違いを正すこと、正し続けることはまったく大切なことだ。
同様に、ハンセン病は実は危険な病気ではなかったのに患者は隔離された、エイズの患者は危険ではないのに差別された。
しかし、そのようにだけ言えばよいのだろうかとも、誰もが思ったことがあるはずだ。危険だったらどうなのだろう。むろん、これはたいていの場合に愚問でもある。
危険とはまったく存在しないか現実の危害として発現するかではなく、なにか策を講ずれば、人間そのものを隔離するといったことをする必要はないのだ。
隔離は不要であり、また問題の解決にもならない、つまり社会防衛の手段としても有効でない。この点はこの度の法案についても大切である。
それにしても、この問いは消えてなくなるわけではない。
仮にいくらかその確率が高いとしよう。そうした場合には、単にいわれのない差別ではないとされ、合理的な行動だとされるかもしれない。強制的な隔離は問題であるとしても、
それが「私人」の自由の範囲内で、例えば賃貸住宅への入居を拒絶したり、雇用しないというぐらいであればそれは当然の行ないではないか。
たしかにそれが単なる悪意、偏見によるのではない可能性を認めよう。しかしだからそれに発する排除を認められるだろうか。
認めれば、例えば女性はいくらかでも仕事をやめる可能性が高いから女性であるあなたは雇わないことも当然だということになる。たまたまある範疇に属していることによって、
そして実際に自分が行なったことではないことによって判断されることになる。それは受け入れられないのではないか。
しかし、その可能性が1%と2%との違いではなくもっと大きな違いであったらどう考えたらよいのだろう。
範疇を区分けし、より危険なのかそうではないのかという問題を設定すること自体の作為性を問題にするという言い方はある。
なぜ分割し、それぞれを測るのか、しかも確率として問題にするのかと言うのだ。しかし、ともかく分けてみれば有為な差が見出される、あるいは見出される可能性が高い限りは、
その設定は有効なはずだという反論はなされるだろう。そして私たちは毎日確率を使っているではないか、天気予報を見ているではないかと言うだろう。
その種の実証主義・現実主義を無視するという言論の自由は、この争いの中では保護されない。土俵に上がって何か言うか、上がらないからその理由を言わなくてはならない。
だがこの場面で「社会的構築」を言うことがその理由として認められるかと言えば、それは難しい。
そして本人たちや本人たちに関わっている人たちは、確率の高い低いはともかく、周りに自傷、他害を起こした人、起こしそうな人が身近にいて、
ときにはその中に自分がいることを知っていて、それをどうしようかと悩んでいたりもする。
他者について、その存在が不可解であってもなんでも、しかし自分が無傷であることができれば、その存在を受け入れることに、
あるいは受け入れるべきだという言説を受け入れることに人々は吝かではない。それがどうやら流行であるとなればなおさらだ。
そしてその存在とはむろん単独の存在であるからには、それを範疇において、確率において捉えることがよくはないことも言うだろう。
範疇を括り出し排除している、その声が聞かれることはない、その声にならない声を聞かなければならないと言う。そのとおりではあろう。
ただそれも自らが無事であればのことではないか。そして「甘い対応」をしたら、他で排除された人たちも含め、問題を抱えた人たちがそこに集中してしまい、結果、
問題が起こるかもしれない。そんなことが精神障害者が通う小さな作業所の問題なのであり、そして移民や難民を巡って国境に起こるできごとなのだ。
だから考えるべきことは、捏造に対しては捏造を指摘し続けながら、それだけでない部分について、それだけでないとされる部分について、何を言うかのはずである★04。
□適度な距離にある無知と歪曲
だから大切なことは争われていることの中にある。しかしそれを知らない。[…]
□この年と近過去」
◆立岩 2005/09/20 20:21
[jsds:11487] Re: 説明していただきたいことがあります
◆立岩 2005/09/21 08:28
[jsds:11492] Re: [member:144] 説明していただきたいことがあります
◇Phelps, E. S. 1972 "The Statistical Theory of Racism and Sexism", American Economical Review Sept.1972:659-661 <368>
◇Phelps, E. S. 1972 Inflation Policy and Unemployment Policy, Macmillan
◇Stiglitz, J. E. 1973 "Approaches to the Economics of Discrimination", American Economic Review, May 1973
■二重労働市場
◆篠塚
「非現実的なベッカー流の理論より、実態をより説明するのは統計的差別の理論である。しかし、労働市場は完全に流動的になってはないないという現実に近づけて考えるならば、
第一次労働市場内だけで統計的差別が説明されるにすぎないというのもおかしな現象である。第二次労働市場では、第一次労働市場と同じ生産性を上げている人々がたくさんいる。
これら二つに分断された労働者の差別の問題は、“デュアル・エコノミー”すなわち二重構造としてしか把握できないのである。」(篠塚[1982:144ー145])
篠塚は「ドーリンジャーとピオレの理論として有名であるが、むしろ、A・ルイスの”デュアル・エコノミー”の概念に包括されたものとみた方がよい」
(篠塚[1982:143])としている。挙げられているのはLewis[1954][1979]
◆ホーン・川島 瑶子 19851220 『女子労働と労働市場構造の分析』,日本経済評論社,151p. ISBN: 4818800805 2000
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「「労働市場分断論」(Labour market segmentation theory)は、労働市場は全労働者に統一的包括的なものとして存在するのでなく、複数異質の労働市場に分断されており、
それぞれが仕事の性質、労働[4]条件、賃金構造、昇進制度あるいは雇用関係の安定性の面で異なった体系をもつ下部労働市場を構成しており、
相互間の労働移動が限られた封鎖的な分断であると主張する。労働者は自由意思によって自らの所属する市場を選ぶのでなく、経済的社会的機構の力によって配置される。
賃金格差は、人的資本論者が説くように労働者個人の生産性の差に帰因(ママ)するのでなく、むしろ団体的な性格のものであり、社会経済寄稿に根ざしている。
労働市場分断論によると、女子の低賃金は、賃金水準が低い労働市場に大部分の女子が配置されているからであると説明される。」(ホーン・川嶋[1985:4-5])
「教育とか職場経験とかの労働者の個人的属性が生産性を高めることに役立ち、したがって賃金も上昇するという点では人的資源論者の主張に同意するが、
労働者の属性が同じであったら賃金は誰にも同一であるという考えには疑問を投げざるをえない。それに代わって、労働者の属性は、
労働者がどの市場に属するかによって異なった待遇を受けるという仮説をたてよう。[労働者の属性の差][傍点]および[属性の待遇の差][傍点]の両者が、
賃金格差の原因であると考えるからである。この意味で、本書は人的資源論と労働市場分断論を併用した理論構成を用いるといえよう。」(ホーン・川島[1985:6])
「労働生産性と賃金の間の直接の関係を否定し、賃金は労働者個人の属性によってではなく、資本主義社会の社会経済的、政治的構造によって決定される。
したがって、賃金格差の分析および格差是正のための政策論の焦点は、労働力を供給する労働者側の要因ではなく、労働力を需要する企業の側の要因におかれることになる。」
(ホーン・川嶋[1985:16])
◆古郡 鞆子 19970109 『非正規労働の経済分析』,東洋経済新報社,268p. 3465
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「制度派理論の流れとしてはDoeringer and Piore[1971]の二重労働市場論がある。これに従えば、女性は入職時において差別され、
第二次労働市場に限定される傾向があるうえ、1度に入ると第一次労働市場へきの移動はむずかしく、長期間にわたって経済的に上向的移動のない仕事に従事することになる。
この理論は現実の労働市場のメカニズムをうまく描写し、とくにわが国の雇用慣行の特殊性を示唆している。
しかし、労働市場が構造的に分分割される理由および差別が行われる原因については、十分に理論的な説明を加えていない難点がある。」([36])
◆新井 美佐子 20020329 「労働市場の分断と女性労働――二重労働市場論・SSAアプローチ・レギュラシオン理論を中心にして」、久場編[2002:97-120]
「女性は、男性よりも勤続年数が短いという統計データを根拠として行列の下位に置かれやすく、企業内内部労働市場へのアクセスを制限されている。
結果、女性は第2次市場に多く集まることとなり、それが性別労働条件格差の一因になっているという。そして、女性の勤続年数が短い理由として、女性、
わけても子をもつ既婚女性が、賃金取得よりも家族のケアを優先するためだと論じている。
すなわち、彼女たちは「家族に緊急事態が生じた際は遅刻や欠勤が許されるような職を求めて」3)おり、また出産を計画したり、ある程度家計が潤ったら、
仕事をやめることを希望しているというのだ。そしてそのような労働スタイルは、
女性が自らの賃金を家計の主たる稼得者である夫の賃金の足しとして位置づけているからだと説明されている。」(新井[2002:99])
3):Doeringer & Piore[2002:170]
◇新井 美佐子 20020329 「労働市場の分断と女性労働――二重労働市場論・SSAアプローチ・レギュラシオン理論を中心にして」、久場編[2002:97-120]
◇Doeringer, P. B. & Piore, M. J. 1971 Internal Labor Market and Manpower Analysis, D. C. Heath
◇ホーン・川島 瑶子 19851220 『女子労働と労働市場構造の分析』,日本経済評論社,151p. ISBN: 4818800805 2000
[amazon] ※
◇久場 嬉子 編 20020329 『経済学とジェンダー』(叢書現代の経済・社会とジェンダー 1),明石書店,257p. 4-7503-1554-0 3800
[amazon] ※
■逆差別
◆石山 文彦 1987 「「逆差別論争」と平等の概念」,森際・桂木編[1987:291-326] *
*森際 康友・桂木 隆夫 編 19870920 『人間的秩序――法における個と普遍』 木鐸社,326p. 3000 ※
■法律等
◆スウェーデン・国際婚姻法
http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/rex28.htm
◆スウェーデン・人種差別禁止法(Lag (1994:134) om etnisk diskriminering)
http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/rex29.htm
◆スウェーデン・機能障害者差別禁止法
http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/hinder.html
◆スウェーデン・性的傾向を理由とする差別禁止法
http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/sexuell.html
◆スウェーデン・人種差別防止オムブーズマンに関する法律
http://www.senshu-u.ac.jp/~thj0090/ombudsman.html
■全文掲載
◆灘本 昌久 「本の紹介:上農正剛 著
『たったひとりのクレオール―聴覚障害児教育における言語論と障害認識』」 2003/11/04 『京都部落問題研究資料センターメールマガジン』vol.038
■組織
◆日本解放社会学会
■引用
◆2001/11/10「常識と脱・非常識の社会学」
安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房
■■1 「専門職」を外側から見ること
■1 社会学は冷たい
■2 いる場所が違えば違う
■3 専門性・資格
■4 自己決定とパターナリズム
■■2 よくすること?
■1 社会「問題」?
■2 まず実際のところを記述すること
■3 「説明」について
■4 社会的要因/生得的要因
■5 何が問題なのか?
■■3 業績・属性
■1 属性→業績の社会へ
■2 業績主義・能力主義そのものをどう考えるか
■3 市場と再分配
■4 働きが人を示すという価値
■5 消費も人を示す
■6 価値を信じないこと
■7 階層の固定化
■8 「確率」による差別
■9 悪循環の形成
■10 属性を無視すること
「次に、環境をさらに整備し、差をそろえるという方法がある。これも必要で有効な場合があるだろう。
たとえば出産・育児に関わる負担が性別に関わる差を作っている部分があるなら、その負担を軽減することは効果があるだろう。
しかしそうしても、微小な差を捉えて選別するというシステムが同じく残っている限り、かえって微妙なところまで気をつかわなくてはならないことになるかもしれない。
問題は再生産、悪循環の過程に入ってしまっている。それを自然の過程に委ねても解決の見込みはない。だからどこかで切らなくてはならない。
言うだけなら簡単な方法は、確率によって扱いを違えることを禁ずることである。
あるいはより積極的な措置(「アファーマティブ・アクション」)を行う、
さらに「割り当て」で対応することである――たとえば男・女の割合が全体で1対1ならその割合に応じて配置するものとする。どこまでそれを行えるか。難しいところはあるだろう。
しかし一律に規制され、全ての企業がその規則に従うなら、その間に競争力等の差はでないから、雇う側にとっても損失はない。だから、これはじつは合理的な方法である。」
■■4 帰属と帰依
■1 帰属と帰依はなくならない
■2 帰属についての神話
■3 寛容と不干渉という戦略の限界?
「[…]もちろん社会はこうした現象に対処してこなかったのではない。むしろ、近代社会の成立そのものがそれに対する対応の歴史だったとも言える。
熾烈な宗教戦争を経て、「思想信条の自由」「政教分離」といった方法が編み出されてきた。どんな思想・信条・信仰を持とうと他を害さない限りかまわない。
しかし他を害してはならない、なにが「よい」ことかについては、人それぞれ考えはあるだろうが、他人がそれぞれよしとするものには干渉しないというのである。
これはなかなか賢明な方法だった。しかし問題はそれですむのかである。
これは、公の場面では思想信条、好みで人を遇してはならないが、私的な場面ではかまわないという解決法でもある。
しかしそれは、私的な場とされるところでは仕方がないということで、それで泣き寝入りになってきたことがたくさんあるのではないか。
好みには口をさしはさまないとし、それを私事としておく限り、支配的な価値観によって不利益を被る人は救済されないのではないか。
たとえば雇用を、雇用主と雇用者との間の契約によって成立する基本的に私的な関係と考えるのか、それともそれだけのことではないと捉えるのか。
前者とし、自分たちの流儀で人を選ぶと、結果として他の集団を排除することになることがある。
そうやって排除されることに抗議する少数派は、それは勝手に決めてはならず、差別が禁じられなくてはならないと主張するかもしれない。
逆に、そうした主張は、私的な場への政治権力の介入を招き自由を束縛するものだという反論もあるだろう。
また、同じように扱われるだけだったら、不利なところにいる人は結局不利なまま、あるいはもっとわるくなることだってあるのではないか。
たとえばある言葉を話す少数派に別の言葉を話す多数派と同じだけの一人当たりの教育の経費をかけるのでは、不利になるかもしれない。
だから、同じ結果が得られるように、一つには不利な立場にいる人たち、少数派の人たちに特別の措置を求めるという主張がある。
しかし特別扱いをするのはよくないという意見があるかもしれない。あるいは多数派の方が、「この国固有の文化を守る」などと言って、
少数派の言葉や文化をとりいれるのに反対する、許容はするとしても「特別扱い」には反対するかもしれない。どう考えたらよいか。
あるいはまた、分離・独立という方向がある。互いに隔離されることで摩擦を避けようというのである。
それももっともな案かもしれず、それでうまくいくことがあるだろう。しかしそれ(だけ)でよいのか。
たとえばその土地はたまたま天然資源に恵まれているなら、そこが切り離されることは資源のない地域にとっては損失だろう。
こんな場合にどう考えたらよいのか。また、たとえば民族や宗教という特性で引かれた境界の中にもいろいろな人がいるだろう。
民族と言われてもぴんとこない人や信心のない人もいるだろう。その内部にさまざまな抑圧が生ずる可能性がある。だからその集団で決めてくれとただ言うこともできない。
とすると、多様性を尊重などとそう簡単には言えない。
こんなことを考える必要が出てくる。この章を書いている筆者はこのようなテーマについて考えようと思うし、答を出したいと思っている。
けれどここで答を出すことはできない。ただ一つのことだけをここでは記しておくことにする。」
■4 境界に関わる利害
「問題は、たんに生の様式の違いというより、利害に関わっているのではないか。第3節で男性が採用され女性が採用されないという事態をとりあげた。
そこで述べたこと以外にもう一つ考えられる。「同類」の利益が守られ、自分の利益が守られることがあるという要因である。
自分たち以外の人たちを排除できれば自分たちは利益を独占できる、少なくともより大きな利益を手にできる。これは都合のよいことだ。
女を職場から排除できれば男は少なくともその職場では確実に得をする。
また外国人を職場から排除できればそれ以外の人たちは就労の機会が増え、労働供給の総量が減るから賃金が上がるかもしれない。
そしてそうして分け、格差をつけるもっとも大きな境界は国境である。誰もがいちおうは知っているように、一方には貧しさがある。
それはほとんど絶対的な貧しさだとも言えるのだが、しかし、世界全体にはそこそこの富があり、そこそこ以上の暮らしをしている人が相当いる以上、
それは、絶対にどうにもならないわけではない貧困である。本来は軽減できるはずなのだが、国境を超えた分配のシステムはないにひとしい。
貧しさは囲われた中に生ずる。
むろんそれから逃れようとする人たちがいて、人が流出し流入する。ただ流入は先に述べたような意味で囲いの中の豊かな人たちの既得権益を脅かしうる。
そして法律上は不法滞在者とされたりもするから、現実に「確率的に」問題を起こすことも多いかもしれない。そこで今度は「合理的な理由」で排除される。
このような循環が生じてしまう。
そうして排除する方の「豊かな国」は、その行いによって自らの既得権益を守っているが、しかし、そうしても利益の維持は保証されているわけではなく、
その優位は、技術力、そして人的資源と呼ばれるもの、その相対的な優位によって維持されているものであり、常に競争の圧力にさらされてもいる。
そこで、「国内市場の自由化」をいっそう進めなくてはならないということになったり、技術開発に「国家をあげて」取り組んだりすることになる。
年功序列や終身雇用制が望ましいものだったというのではないが、しかし、こうした自由化、競争の激化もまたそれなりにつらそうではある。
他方で、とくに女が不利な現実はなくなってはいない。このことを当人たちは知っている。その中で仕事でやっていくにはかなり才能がないとだめだと思っている。
そこではやばや降りてしまう。どうせたいしたことにはならないと見限ることにする。それで当座は気楽にやっていけるかもしれず、その後のことは考えないことにする。
刹那主義はそれ自体としてわるいことではない。「いまを生きる」ことはきっとよいことだ。
ただ、そう展望がない中での、というかきちんと居直ってしまえない中でのそれは、自分自身にとってもそう楽しくはないものかもしれない。
他方で男は、明らかに反則をおかして自らを守りつつ、しかし、より直接に実力主義の社会にさらされることになる。そして仕事の場から女を排除している以上は、
なんとか妻子を養わなくてはならない。この人たちにとって、
いいわけはよりききにくい。
ほんとうにものが足りないのであれば、がんばって生産するしかない。それはそれで仕方がない。それなりに苦労のしがいもある。
しかしそういう状況ではなく、その意味ではたしかに楽にはちがいないのだが、しかしそのわりには苦労が多い。それはかつての貧しい時代にあったものと比べて、
また貧しい地域にある悩みと比べて、贅沢な悩みだとは言えないかもしれない。このようにいくつものことが組みあわさっていて、面倒な状況になっている。どうしたものか。」
■5 その権益を排すること
「多分、出身地の野球チームを応援してしまったりすること、同類がつるんでしまうこと自体はなくならない。
ただそうやって群れをなしている各々が互いに本格的に内在的にどうしようもなく敵対的であることは実はそんなにないのかもしれない。
帰依、帰属の意識自体を否定するのではなくて、それが排除の方向に向かうことを警戒し抑止する方向を考えていくということになるだろう。
もっと互いに理解しなくてはならない、偏見をもってはならないという主張はその通りだろう。ただそれだけが言われるだけだと、
かえってその状態にとどめてしまうことさえある。自分より損してくれる人がいるのは自分にとっては得なことであり、こうした力学で動いている部分がある。とりあいの状況で、
自分たちだけを囲い込んで利益を確保しようとすることがある。これをなんとかしてみることである。
つまり、一つには第3節の終わりに述べたのと同じこと、ものがどのように人に行き渡っているか、行き渡っていないか、そのシステムそのものがやはり大切だということであり、
世界にあるもの、生産されたものの分配のあり方を変えることにより、差異が利害を巡る対立となり、対立や争いが大きくなってしまう事態を防ぐことである。
もちろん、いま現に様々に引かれている境界自体がそれを難しくしているし、それを変えようというこの行い自体が、対立や衝突を引き起こすことがある。
けれども、基本的にはこの方向に向かうしかないだろう。」
■6 おわりに
「「共生」は言うだけなら簡単だ。しかしそれを現実のものとして考えるとき、まずそれは具体的にどんなものかもはっきりしない。
そしてそれを実際にどのように実現していくのか。考えるべきことは多い。
価値観はいろいろ、すべては等価という立場に立たないなら、どういう理由で何を採用し何を捨てるかを議論するしかない。
そしてそれを実現するためにどんな手立てあるかを考えるしかない。もともと社会科学にはそういうところがあったのだが、社会学はしばらくの間こうした議論をしてこなかった。
しかしこれからはそうではないだろう。
ただ、繰り返しになるが、世の中はこうだと決まったものではないかもしれないという「相対化」は大切である。このところで社会学がやってきたことは重要である。
それは発想を自由にし、発想を変えるために役に立つ。目先のことをどうしたらよいかを考えると、その発想の幅はともすれば狭くなりがちなところがある。
どうするのかを考え、その根拠を提示し、手段を考えようとする方向と、それをさらに疑い、相対化しようとする方向、両方が同時に必要なのだ。」
■文献
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・内容説明[bk1]
今日の日本の人権状況はどういったものか。何故日本は人種差別撤廃条約を批准しないのか。近代日本の犯罪に対する反省・謝罪・補償はどうなっているか。
部落制度から戸籍まで、今日の状況を解説する。95年刊に次ぐ第4版。
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◆柴谷 篤弘・池田 清彦 編・コメンテーター:田中 克彦・竹田 青嗣 19920915
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◆佐々木 てる 20060925 『日本の国籍制度とコリア系日本人』,明石書店,190p. ISBN-10: 4750324116 ISBN-13: 978-4750324111 \2520
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ISBN-13: 978-4641281165 \1995 [amazon]
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◆串田 秀也・好井 裕明 編 20100420 『エスノメソドロジーを学ぶ人のために』,世界思想社,315+vp.
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◆ことばと女を考える会 19851215 『国語辞典にみる女性差別』,三一書房,三一新書700,241p. 700 ※
◆生瀬 克己 編 19861120 『障害者と差別語』,明石書店,230p. 2400 ※
◆柴谷 篤弘 19891030 『反差別論――無根拠性の逆説』,明石書店,282p. 2060
◆内野 正幸 19900520 『差別的表現』,有斐閣,250p. 1648
◆柴谷 篤弘・池田 清彦 編・コメンテーター:田中 克彦・竹田 青嗣 19920915
『差別ということば』,明石書店,301p. ISBN:4750304522 2345
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◆筒井 康隆 19931025 『断筆宣言への軌跡』,光文社,185p. 930 ※
◆生瀬 克己 19940430 『障害者と差別表現』 明石書店,223p. 2350 ※
◆『週刊文春』特別取材班 19940210 「徹底検証「言葉狩り」と差別――タブーに挑む大型キャンペーン・1」,『週刊文春』36-06:034-043 COPY
◆『週刊文春』特別取材班 19940217 「「白雪姫」「浦島太郎」は差別童話か――徹底検証「言葉狩り」と差別・2」,『週刊文春』36-07:044-053 COPY
◆『週刊文春』特別取材班 19940303 「部落解放同盟と誌上対決――徹底検証「言葉狩り」と差別・4」,『週刊文春』36-09:050-057 COPY
◆井上 ひさし 19940324 「差別語のための私家版憲法十一箇条――特集「言葉狩り」と差別」,『週刊文春』36-12:204-207 COPY
◆安岡 章太郎 19940324 「「差別」から目をそむければ文学は死ぬ――徹底検証「言葉狩り」と差別・7」,『週刊文春』36-12:050-055 COPY
◆湯浅 俊彦 19940531 『「言葉狩り」と出版の自由』 明石書店 2500 千葉社4945
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◆大山 正夫 19940831 『ことばと差別』,明石書店,243p. 2600 ※
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『仏教』50 特集:差別の構造,法藏舘
http://www.hozokan.co.jp/hozo/bookd/bukkyo/i_0250.html(目次)
◆2001/11/10「常識と脱・非常識の社会学」
安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房
*作成:山本 崇記 *増補:北村 健太郎
REV:....20030327,0520,20040815,20,24,28,1101,20050218,0709,1014,20061013,20071230,20081019, 1101, 20090622,0823, 20100122,0502,
20110323, 0330, 20120317, 20130223,20151126,20160105
◇
業績原理/属性原理
◇
人種・民族
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アファーマティブ・アクション
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優生学
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障害者の権利
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知的障害者の権利
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事項