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障害者と性、についてのメモ

*作成:1997.06.13 c:立岩 真也



 ※ この文書の扱いについては文末を参照のこと

 cf. 障害者と性・関連文献

 とりあえず3〜5つの側面があると思う。
 愛(とひとまず言っておく)/性/産 以下逆の順序で

 1)子を生む/子が生まれることにかかわること
   ……知的障害 身体障害 遺伝がかかわる障害
   〜優生(学) 〜断種手術・優生手術・不妊手術 子宮摘出
   〜子をもつ権利 …
   〜妊娠・出産・育児に関わる能力…のこと(例えば知的障害がある場合に…)
   これまでなされてきたことがとんでもないことであった(ある)のはたしか
  なことであって、このことはおおいに強調されるべきことである。
   ただ、100%この主張で押していけるかという問題は残る。
   立岩『私的所有論』第6章・第9章で「優生(学)」「出生前診断」について
   検討している。第3章の注で「子をもつ権利」にも触れている。

 2)性という領域が通常は私(秘)的なものであることにかかわること
   ……身体障害
  自分1人で あるいは相手と2人で、2人以上で… という分には問題はな
  いのだが、これが自分1人、2人じゃできない…となった場合に…
  (各種機械を開発するとか、工夫をしてうまく1人、2人…でできるようにす
  るのはよいとして、(→エンビィp. )それでも足りないとすると)
  手伝いが必要だ
  手伝えばいいではないか それはそうなのだが、そんなにすぐにはすっきりと
  いかない。
  私(秘)的なものとしてある
  人間の場合?、なぜ性が通常公開されないのか、そんなことはわからないわけ
  なのだが 考えられることの一つに「伝染してしまう」ということがあるよう
  な気がする。そこらで始まってしまうと、単なる傍観者でいられないというか、
  無視しうるものとして無視しきれない(「人間ができている人」はそうでない
  はない…?)。もちろん、そこに(社会学者が大好きな)社会間の差異、文化
  的な相違というものがあるのはたしかなのだが(日本社会にしても、ここまで
  だったら気にしない、気にするべきではない基準は変動している)、それにし
  ても。ポルノの(禁止というよりは)制限する理由にも関係してくると思う。
  (子供や「青少年」のためとかいう理由が付されて、それはそれであると思う
  が、仮に大人ばかりの場であっても、その気になる予定がないのに、そういう
  ものが氾濫していたりしたら困る…。「性教育」ってものに難しいところがあ
  るとすると、それもこういうことに関係している、と考えるのは間違っている
  のでしょうか。)
  さて、性(的関係)というものがそういうものだとすると、それを「お手伝い」
  するということはなかなか難しいように思われる。
  手伝う側にも、手伝われる側にも…気まずさみたいなものはある
  「発想の転換」、「気にしないようにする」ということが必要十分にできれば
  よいのだが… 実際のところはどんなものなのだろうか?
   cf.引用◆A
  多分これは、手伝いなさいと言われて、(少なくとも個人のレベルでは)こと
  わってはならないというような仕事ではない
  妥協案は、双方がよいと言っている場合にはそれを止めるべきではないという
  ようなことだが(クローさんp.66→文献

  ※排泄や入浴等にしてもそういうことはあるかもしれない。
   ただ、そういうことを気にしたらやってられないということはあるわけで
   これに性(別)が関わってくるとどうなるか
   府中療育センター闘争にあったのが男性による女性の入浴介助だった
   (『生の技法』第7章)
   自立生活センターは同性による介助を基本としている。
   ただ(高齢者等に関して一般に)、男性は女性による介助を好み、女性はや
   はり女性による介助を好むとされる
   では性的関係の介助というのはどういうことになる(なればよい)のだろう

 3)何が性的な行為、性的な関係であるのかというようなこと
  ……身体障害(脊髄損傷、等)
  たとえば関連文献の終わりの方の映画を紹介する宮淑子の文章
   言われていることはその通りだと思う。ただ、こういう方向にどんどん話を
  進めていくと(かなりどんどん進めていかないとならないが)、「性欲をスポ
  ーツで「昇華」させる」といった話にならないでもない。…揚げ足とりがすぎ
  るか。

 4)最期に残る差別ってものがあるとすると、それは「ふられる」ということでは
  ないだろうか。(もちろん、障害があろうがなかろうが、もてたりもてなかっ
  たりということはあるにせよ→エンヴィp. 、あるにしても…)
   cf.引用◆B
  部落差別〜結婚差別については、「これは差別じゃない」という言い逃れをさ
  せないことは、少なくとも非差別部落の出身者であることがわかる前は結婚す
  ることになっていたのだが、わかった途端に破談になったというような事例の
  場合には、できると思う。
  ただ、障害の場合、またたんに好かれないという場合
  ひとつは性的な関係自体を別のルートで調達すること…
  その有力な一つの手段が 商品として購入すること(cf.エンヴィ、クロー…)
  これはひとまずかなりすっきりしている。※
  つまり4)のレベルから2)のレベルに移行させること、あるいははじめから性を
  2)のレベルに置くこと
  (これは性的行為・関係を手助けするというよりは、それを提供するというこ
  とでもある。前者の場合、手助けする人はその存在を希薄にしていくことが求
  められるのだが、後者の場合は…? 自慰の介助なんかでは、介助者はどうい
  う位置にいることになるのか…?)

  (※「それでいいじゃないの」と言う方が、主張としてはずっと簡単なのであ
  る。「何が性の商品化に抵抗するのか」(「何が性の商品化に抵抗するのか」
  江原由美子編『性の商品化』、勁草書房、pp.203-231 19950520)という文章
  を書いた。これは私が書いた文章の中でもっとも後味の悪い文章であって、そ
  れには、性に対する「アクセシビリティ」のことが相当前から気にはなってい
  たことも関係がなくはない。)

  ※「情緒財」(のあるもの)の供給というものがなかなか困難であるというこ
  と。家事援助…のホームヘルプを供給するのは(金さえあれば)簡単。なのだ
  が、こういうものになると…

  これらのいくつの問いに対して、共通する答のようなものがないではない。そ
 れはとってもいいかげんな答で、それをいいかげんに言うと、もっとルースにな
 ればいい、というものだ。なんといっても、今でも、性というのは希少な財なの
 であって…。

 5)性的暴力の被害者となることが多いこと
  ……知的障害・精神障害
  eg. 水戸事件
  1)にもかかわる

 …以下引用…

◆A
 立岩1997「私が決めることの難しさ ―空疎でない自己決定論のために―」より

 「…決定するのはその人だとして、あるいはその人であるべきだとして、実際に
その決定に基づくなり基づかないなりしてそれを行なうのは別の人だということで
ある。もちろん、他人にやらせることはこの領域に限ったことではない。たとえば
市場で購入の対象になるものはすべてそういうものである。消費者である私と別に
物やサービスの生産者・提供者がいる★06。」

 「★06 ただ、福祉サービスの一部について少し事情が異なるのは、通常は自分
自身で行なってきたこと、行うものとされてきたことを他人に委ねることになると
いうことである。子供が成長するにしたがって、自分でできること、自分ですべき
ことと教わり、実際行うことになる部分が他人によって行われる。また、その一部
は身体にかかわり、私秘的とされる部分にかかる。たとえば性的な行為、関係につ
いて他人から援助を受ける等。これまで正面きって問題にされることがなかったこ
とが語られ始めている。」

◆B
 立岩『私的所有論』
 (1997年9月、勁草書房)より

「 ■54 他者が他者であるがゆえの差別
 次に、以上で述べたことは、行為に非手段的な快、意味があるという事実を否定
しないし、この事実を認めることはこれまでの議論を覆さない。両立しうる。ただ、
このような行為の領域の中で、他者における私のあり方そのものが私にとっての価
値である時、差別を考える時のもう一つの困難な主題が見えることは指摘しておこ
う。
 例えば、贈与とは、自らによる相手の制御不可能性において初めて成立する行為
である。反応は基本的に相手に委ねられている。しかもその他者の反応は、他者自
身にとっても操作可能なものでないとされる。それがこの関係の条件になっている。
それは最初から、他者による拒否の可能性を孕んでおり、そのことなしには成立し
えないような行為である。この関係は、相手を、そして相手の私への関わりを私が
制御しないことによって、初めて私の相手に対するあり方が成立しうるような関係
である(もちろん私はいくらでもその者を制御したいのだが、それが可能になった
とたんその関係の意味は失われる)。ゆえに、この場面で相手に拒絶されたとして
も、その拒絶を拒絶することはことの本性上できない。この関係において、その相
手のあり方、その相手のあり方の一部をなす相手における私への個別的なあり方を
認めないということはありえないのである。
 ここでもAは、ゆえなく、Aの側になんらとがめられるべきことがないのに、B
に受け入れられない可能性がある。例えば理不尽にもAはBに愛されない。これは
Aにとって十分に不幸なことだ。これは世界に十分な量の不幸を生じさせる。そし
てこれも差別だと言いうる。これは悪いことではないか。そう考えたってよい。で
はそれは除去されなければならないのか。しかし、これはよい悪いの問題ではない。
それが十分な、何によっても正当化されない(AがBに気にいられないことについ
てAは何の責任もない)不幸を生じさせる、だから悪い、だからそういうことを生
じさせないようにしようと思い、そのような恣意的なAのあり方を禁じようとした
瞬間に、BのAに対するあり方が消滅してしまうからである。他者が私を拒絶しう
る存在であることを認めることは、自らの欲求・利害と離れて他者があることを承
認することである。これは基本的な価値としたものである。ゆえに、このような関
係の場面において(のみ)、Bに対するAの、Bの個別的なあり方に対する恣意が
認められる、というより認めざるをえないことになる。
 だがここに、むしろこういう場所でこそ、排除は起こる。実際にはありとあらゆ
る好みがあり、あるいは自分の好みを越えた部分でものごとは動き、そして人は同
時に、結局のところそう愚かではないから、あるいは愚かだから、背の高さである
とか何とか様々な希少な属性が選択を決するなどと言われてはいても、現実のとこ
ろはさほどでもない、というぐらいのことはとりあえず言えるだろうが――これに
対する解決は基本的にない。
 ただ、一つだけ、ここに生じうることと生活のために必要な他の資源に対する接
近の権利の問題とが切り放されなければならないということは言える。私があなた
に好意をもつ(あなたが私に好意をもたれるような存在である)ことによって、私
があなたに何かを与えるということがあるだろう。このような関係が、生存を危う
くし、生存のあり方を危うくすることがあるなら、これは否定される。私達の社会
における贈与(私的な贈与)という関係はこのような事態をもたらすだろう。先に
「贈与でないことの利点」と述べたのはこのことでもある。★19」
 (第8章「能力主義を否定する能力主義の肯定」第5節4 pp.365-366、「ゆえ
 なく」に傍点)

「★19 これは個々人の恣意に委ねるべき領域、委ねるしかない領域をどう考える
のかという主題である(第5章注04、フェミニズムが例えば「ミス・コンテスト」
を問題にする時に現われる「困難」を指摘し、「個人的なものの領域」を論ずる吉
澤夏子[1992][1993][1997]、cf.加藤秀一[1993d])。差別に対する批判で
行われることの一つは、場所のずれを指摘することである。何かの必要上誰かを選
ぶことがあってよいにせよその必要と関わりのない属性をもってくるとはどういう
ことかと言うのである。これは多くの場合にかなり有効である。問題になるのは、
まず、客(最終的な消費者)自身が、例えばスーパーの店員に有色人種がいるのが
不愉快だと感じており、売上げが減るのを恐れる経営者がその雇用を控えるといっ
た場合だが、これは以上述べてきたことから否定される。そして差別の禁止が実効
的であれば、個々の企業間に競争力の差異も生じない。次には、当該の仕事そのも
のにその人の属性が関わってくる場合である。もちろんそれ以前に、本当に関わる
のかどうかが問われる(接客業の要件は何か、等)。本文の場合にはどうか。当の
性質が選好そのものに関わっているようだから、この論法を用いるのは困難に思わ
れる。ただ、容貌等々は例えば「愛」にとって「本質」ではないといった言い方が
なされる時には、この論法が用いられているのだとも言える。その通りかもしれな
いが、少し苦しい。第二に、感情の社会性をもってくる議論がある(「感情の社会
学」について岡原正幸[1987]、岡原他[1997]等)。現代では細面・痩身が重宝
されているが、こうした好みは近代特有のものであって、云々。こうした言明が示
そうとするのは、つまりそれは規範だということ、規範だから変えられるはずだと
いうことである。すでに何度もみたように、社会科学は「社会性」「歴史性」「相
対性」を述べる。かなりの程度当たっているかもしれない。「文化の恣意性」を指
摘するだけでも相当の意味はあるだろうと思う。しかし、「社会性」が論証できた
としてもそれだけではその「社会的」なものを変更すべきことが導けるわけではな
い。また、現実的な変更可能性、その手段を示すものではない。これで検討すべき
論点が尽きるのではないのが、本文で述べたのは別の観点からの検討の必要性であ
る。すなわち、感情の本性や起源というより、感情の位置・用法、感情によって形
成される関係の位置を問うことである。例えば愛情と行為の義務とが結びつけられ
てしまうことの倒錯をはっきりさせること。私達の恣意が他者の生存を脅かしうる
ような関係を問題にすること(私的な贈与はその可能性を内在させている)(以上
について立岩[1991b][1996e])。これを問題にし、変え、相手の反応、相手と
の関係を全くの恣意性に委ねることによって、好きなものは単に好き、嫌いなもの
は単に嫌いという関係を確保し、後は個々人の恣意の多様性をあてにさえすればよ
いなら、そんなに変なことにはならないのかもしれない。」(p.372)

「 と同時に、私、私の身体は感受されるものであり、私が私のものとして制御す
る私ではなく、私があることと切り離し難くあり、あることの一部をなしていなが
ら、他者にとってもまた私自身にとっても他者であるような私があり、私の身体が
ある◆02。「生命」「生命一般」が尊いということではなく、個別の他者が、さら
に私のもとにあるものが他者として私に現われることが肯定される。私からそうし
た他者性を消去してしまうことの否定が「私の肯定」と呼ばれるものではないか。
もちろん、そんなことを気にせず、いつも私が私の身体を道具として使えるのなら、
それはそれでかまわない――同じことをこれから何度か述べるが、そこでは問題と
されるべき問題は既に消失してしまっている。だがそうはできない時、侵襲される
時、身体の受動性が受動的であることによって否定される時、それをさらに否定し
きれずになお切り抜けようとなされることは、(例えば性的な)関係を断つこと、
その関係を特殊なものとして他の関係から切り離すこと、私自身が能動者として振
る舞うこと、他者によってではなく私によって私を制御することによって劣位を否
定すること、あるいは私を、私の身体を私の本体から切り放すことである。これら
は論理的な可能性を網羅した対応であり、例えばフェミニズムは厳密に論理的にこ
れらの一つ一つを試みていった◆03。それらの戦術の少なくともいくつかは実際に
有効であり、有効であり続けるだろう。しかし、単に否定を否定することの可能性
も残されてはいる。本書は、間接的にではあるが、その可能性を考える試みでもあ
る。」(第4章1節3 p.110)

「◆02 「私はつねに、自分は身体を有していることをあたりまえだと思っていま
した。(けれども)私が研究した(一八世紀のドイツの)女性の誰も、所有代名詞
を使って自分を語るということがありませんでした。」(Duden[1985:127]、( 
)内は引用者、cf.第5章注22)
◆03 cf.A.Dworkin[1983][1987=1989]、松浦理英子[1992]、吉澤夏子[19
93]、村瀬ひろみ[1996]、等。」(p.165)

■文献

Duden, Barbara 1985 
  「身体を歴史的に読み解く――<健康(ヘルス)>という名のイデオロギー批判」
  『思想』736:127-135 玉野井麻利子訳
  (1985年5月28日にAmerican Association of Advanced Sciences のシンポジ
  ウム「医療科学:もうひとつの洞察と接近方法」で発表) <165>
Dworkin, Andrea 1983 Right-Wing Women, Perigee Books <165>
―――――  1987 Intercourse, Free Press=1989 寺沢みずほ訳、
  『インターコース――性的行為の政治学』、青土社、337+13p. <165>
早川 聞多・森岡 正博 編 1996 『現代生命論研究――生命と現代文明』、
  国際日本文化研究センター、日文研叢書、339p.
井上 輝子・上野 千鶴子・江原 由美子 編 1995b
  『セクシュアリティ』、岩波書店、日本のフェミニズム6、256p.
松浦 理英子 1992 「嘲笑せよ、強姦者は女を侮辱できない――レイプ再考」、
  『朝日ジャーナル』1992-4-17
  →1995 井上輝子他編[1995b:140-144](一部省略) <165>
村瀬 ひろみ 1996 「仕組まれた<セクシュアリティ>――黒木香論の地平から」
  早川・森岡編[1996:217-232] <165>
吉澤 夏子  1992 
  「「美しいもの」における平等――フェミニズムの現代的困難」、
  江原編[1992:92-132] <372>
―――――  1993 『フェミニズムの困難――どういう社会が平等な社会か』、
  勁草書房、249p. <165,371,372>
―――――  1997 
  『女であることの希望――ラディカル・フェミニズムの向こう側』、
  勁草書房、209+9p. <259,372>

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