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キリスト教 (Christianity)




◆小原克博・野本真也 『よくわかるキリスト教@インターネット』,教文館、1575円
 http://tinyurl.com/ad98k

◆立岩 真也『私的所有論』第6章注01より(249-250)→『私的所有論 第2版』

 「多くの宗教は外的な行為の形を指示し、また、そのことによって自らの同一性を保持する。つまり、なすべき行為となすべきでない行為を指示し、その遵守を求めることで例えば来世での幸福を約束する。キリスト教が当初その一分派であったところのユダヤ教はそうだった。キリスト教はそういった空間から離脱する、とは言えないとしても、それを屈曲させ、別の空間を提示する。キリスト教は罪が構成される場所を個体の内部に移行させ、内部(の罪)の発見を促す(吉本隆明[1978]、橋爪大三郎[1982])。ここに罪の主体としての人間が現われ、このことによって人はこの宗教の下に捉えられる。問うことによって内部という領域が現れるが、それはそれ自体としては当人にも不可視であり、それだけに内部にあると名指されるものを否定し難い。そこで、この場所が問題になるや、そこに諸個体はひきこまれてしまう。共通の主題へと導かれていく。
 キリスト教はこのことによって普遍性を獲得した。第一に(発見されようとする限りでの)内部の存在の普遍性と、(同様に在るのではと疑われる限りでの)内面の罪の否定不可能性によって、あらゆる人間に対して効力を持つ(可能性を有する)という意味での普遍性。第二に、各人の身体を具体的に拘束する諸規範を必ずしも否定することなく、別の準位、しかも具体的な行為に対してメタの位置に立つ抽象的な準位としての内面に教義を定位させることにおいて獲得される、個別規範の具体性に対する普遍性。そしてこの逃れがたい罪を赦す神をここに置くことによって、キリスト教は普遍宗教たりえた。しかもこの教義は、(内面が個体の内面である限りにおいて)人間を集団として捉えるのではなく、個別の存在として取り出し、さらに――救いへの導きにおいて――個々別々に作用するものである。以上の二つの意味での「普遍性」と二つの意味での「個別性」は矛盾しない。あらゆる人間に作用し、また個別の規範に対して上位の位置に立つ、そして個々の人間を別々の存在として取り出し、またその個別の存在に作用する規範、の可能性が開かれたのである。
 ただ、右記した構制は、パウロ(Paulo)、アウグスティヌス(Augustinus)といった人々の言説の水準においてはともかく、西欧世界に当初より存在していたわけではない。例えば刑罰の領域では、行為=統一体の損傷、制裁=その回復、といった観念が根強く存在する。ここからの転位は一二世紀後半から一三世紀前半にかけて現れる。行為の外形における違背→秩序回復の儀式としての制裁という観念が失われ始め、行為者が倫理的に非難されるようになる。この時期は、諸集団の並立、そして集団内での制裁、と集団間での争い、より上位の権力体が存在する場合でもその調停としての裁判、という状態からの変容期にあたる。すなわち、一二世紀後半以降、貨幣経済の進展・商業の発展によって諸権力体間に格差が生じ、既存の権力秩序が変容するとともに、より広範囲・高次の平和領域が要求され、既存の諸集団の解体、統合を通しての、より広域に及ぶ中心を持った権力圏が徐々に成立していくのである。ここで、個人の内部への遡及は、行為が集団の中で意味づけられる状態を除去し、背後を持たない個人を取り出し、その個人を個人として中央権力の下に引き出すことを可能にした点で、この変動の方向に適合する、あるいはそれを可能にするものであった。それは、民事と刑事、刑罰と損害賠償の分離、権力者による報復と威嚇という姿をとり、実刑を主とする「刑罰」の誕生として、また、糾問手続き、すなわち被害者の告訴をまたずに裁判権力者が犯人を職権的に追及・逮捕し、立証・裁判する手続きの登場として現実のものとなる。(塙浩[1960][1972]他)この時期はまたキリスト教会において「告解」が最終的に制度化された時期でもある。先にみたキリスト教の教義が実定的なものとして存在し始める。行為、内部を反省として取り出すことが促される。罪は常に私の内部の罪、内部の罪に起因するものであるとされる。(Foucault[1976=1980]、告白について他にHepworth ; Turner[1983]。cf.Morris[1972=1983])(以上、より詳しくは立岩[1985][1986a][1986b])」

杉山 博昭 1997 「キリスト教社会事業家と優生思想」
◆杉山 博昭 199907 「キリスト教と障害者」,アファーマティブやまぐち21編集委員会編『アファーマティブやまぐち21』,アファーマティブやまぐち21刊行委員会,pp.3-20

◆イエズス会社会司牧センター
 http://www.kiwi-us.com/~selasj/
◆イグナチオ教会
 http://www.ignatius.gr.jp/


■カルヴィニズム Calvinism・二重予定説 Double predestination

 https://en.wikipedia.org/wiki/Predestination_in_Calvinism

 周知のように,Calvin(1509〜64)の教義は、Lutherのそれとは――もちろん多くの部分で共通点を持つのではあるが――大きく異なっている。★17
 Calvinは、神と人との直接的な関係、神の意図を直接に知りうることを信じない★18。救いは既に神によって予定されており、人はそれを決して知ることができない(二重予定説)。ここで人は救われていること、「救いの確かさ(certitudo salutis)」を知りたいと願う。彼によれば、あらゆる存在は「ただ神の栄光(Solir、Deo gloria)」のために在り、この究極目的の実現のために奉仕すべく選ばれた神の道具として自らを認識することが、その「確証」と考えられる。具体的には、職業労働がその奉仕にあたる。そしてその労働による利益は自らのために消費されてはならず、より大きな神への奉仕の実現のために、すなわち生産の拡大のために用いられ、その結果資本の蓄積、増大が推進される。
ここでLutherにおいて専ら内面を巡っていた動きは、外面的な行為に及んでいる。なされていることは、一見応報の観念におけるそれと近いように見えるが、実は全く異なったものである。応報の観念においては、外的な行為は主体の内面を通過することなく、その結果に達するものとされる。だが、カルヴィニズムの教義では、外的な行為(善行)は、主体の特性のあらわれ、精確には主体に刻まれた救いという特性の外的な表出、証拠、「救いの表象」(Weber[1904/05=1955/62:(下)56])である。これを逆に辿れば行為にによって主体の性質が知られるのである。

 「……カルヴァン派の信徒は自分で自分の救いを――正確には救いの確信を、と いわねばなるまい――「造り出す」のであり、しかもそれはカトリックのように 個々の功績を徐々に積み上げることによっでではありえず、どんな瞬間にも撰ば れているか、捨てられているか、という二者択一のまえにたつ組織的な自己審査 によって造り出すのである。」(Weber[1904/05=1955/62:(下)56])

行為は、自らの行為として、自らの価値を示す行為として、自らによって把握され、反省される。とともに他者の行為も、他者の行為、他者の価値を示す行為として把握されるだろう。しかもそれは常に「どんな瞬間にも」反省され、「自己審査」される。これらのことは、Weber が述べたように、カトリックにも、またLutherの教義にも起こらないことである。『マルコ伝』の検討の終わりのところで、外的な行為が個々人の内面に、内部に分かち難く繋げられること、繋げられることの可能性を述べたが、カルヴィニズムにおいて、この構制は、予定説の教義のなかで救いの確証をうるという意図のもとに、もっとも強力に、社会における行為の積み重ねという積極的な形で、実現される。ここで行為が回付される場所は、意志や意識といったものではないが、個々の主体、主体の有する規定、性質なのであり、その外の、その他の何かではない。確かにこの規定・性質を与えたのは神であるけれども、この神は人間達から隔絶した超越神であって、神の定めたことを知ることも、定めに対して何かを言うことも、まして何かを為すことも出来ぬ以上、「自発的」に――行為は神に定められてある以上、本来の意味で自発的ではありえないが、おのずと湧き出てくるような行為こそが、神が私を救いに定めたことの証しである――行為を為し、その「自発的」な行為を常に反省し、新たな行為へと投企していく、そういう主体の構制がここに現れる。

★17 Calvin、というよりカルヴィニズムについては、M. Weberにより、ここで述べられるべきことの多くが詳細に語られているから、ここでの記述は最小限のものである。以下で依拠するのももちろんWeber[1904/05=1955/62] である。その他上掲書への批判についての反批判の論文としてWeber[1910=1980]、またE. Troeltsch[1925=1959]、大塚久雄[1969]――以上はむろんCalvin、カルヴィニズムだけを扱っているいるわけではない。
 この他Calvinの思想について橋本・春名(編)[1978]、Calvinがジュネーブで行った多くの施策についてE. M. Monter[1967=1978]、両者について久米あつみ[1979]。
★18 「改革派では、人間の霊魂の中に直接に神性が入り込むというようなことは、全被造物に対する神の絶対的超越性からしてありうべからざることとされた。すなわち》finitum- non est capax infini《(有限は無限を包容せず)である。」
(Weber[1904/05=1955/62:(下)54])

 ※立岩『主体の系譜』第2章より

◆Weber, Max 1904/1905 Die protestantische Ethik und der 》Geist《 des Kapitalismus=梶山力・大塚久雄訳、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、岩波文庫


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