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中央集権/地方分権

centralization/decentralization


◆熊本日日新聞社取材班 20100210 『「脱ダム」のゆくえ――川辺川ダムは問う』,角川学芸出版,272p. ISBN-10: 4046214481 ISBN-13: 978-4046214485 \1575 [amazon][kinokuniya] ※ c05 c14

◆神野 直彦・金子 勝 編 19980611 『地方に税源を』,東洋経済新報社,234p. ISBN-10: 4492610367 ISBN-13: 978-4492610367 1700+ [amazon][kinokuniya] ※ t07. t07b(増補)
◆金子 勝 19980611 「どのような新地方税が必要か」、神野・金子編[1998:135-194]

◇言及:立岩 真也 2009/09/10 「軸を速く直す――分配のために税を使う」,立岩・村上・橋口[2009:11-218]*
*立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07, English

 「そしてもう一つ、分権されて小さくなったその単位の中でなされることは「互助」でよいとされる。第2章第9節(94−96・107−109頁)で和田八束の言論(の変容)を紹介した。さらに、やはり政権に批判的な立場を取りながら、より具体的に積極的に政策を論じ、政府関係の審議会等でも発言を行なってきた人たちに即して見ていくのがよいだろう。例えば神野直彦は、再分配機能については国税の累進課税を維持しつつ、地方税については所得比例税とするのがよいと主張する。その主張に特段の異論があるわけではないことをまず言っておく。以下は、その上でのことである。
 例えば神野・金子編[1998]では、新古典派経済学における地方税理論が検討され、それは破綻したとされる。その理論で正当化されるのは、物税では不動産課税、人税では人頭税(poll tax、一人当たりの税額の等しい税)で、英国ではその理論通りのことがなされたのだが、それは失敗したとされる。つまり英国では不動産の賃貸価格にかかる財産課税としてのレイトがあったのだが問題が多かった。サッチャー政権はそれを廃止し、代替税源としてコミュニティ・チャージと名づけられた人頭税を採用した。しかしそれはより大きな問題を引き起こしたとする。しかし日本では依然として新古典派的な地方税論が繰り返されていて嘆かわしいとされる。そして

 さらに問題なのは、英米諸国をモデルにして日本の官僚自治的体質を批判してきた進歩的学者達も、一九八〇年代以降の新保守主義的な地方分権論(あるいは自治体間競争に基づく効率化論)について、きちんと批判的に総括する枠組みを失ってしまっていることである。[…]戦後一貫して、進歩的学者によって地方分権化は主張され続け、貴重な成果も残してきた。しかし一九八〇年代以降、進歩対反動の対抗図式はひっくり返ってしまっている。それでも、過去の延長上で同じ主張を繰り返してもいいものだろうか。(金子[1998:160])

 具体的にどんな人たちを指しているのか私にはわからないが、ただ地方自治、分権をよいものと主張すればよいということではないという理解は共有できる。ただ、その上で提起されるのは所得比例税である。他の制度との関係を考えた場合の整合性、実現可能性などがあげられるが、さらに次のように言われる。

 地域社会は、社会を維持するために、介護を含む高齢者扶養や育児・子供の教育などを共同で行わなければならないと考える。歴史的に見れば、これらの「準私的財」は、家庭あるいは地域社会の共同作業や相互扶助によって供給されてきたが、都市化や核家族化にともなって、次第に地方自治体の供給する対人社会サービスに置き換えられてきた。それが急速な高齢化社会をもたらし、地域社会の維持を困難にしている。それゆえ地域社会における構成員のすべてが、その社会を維持するために共同して貢献しなければならなくなっていると考える。それを積極的に「共生」と呼びたい場合は、それでも構わない。(金子[1998:183])

 なぜそれが所得比例税なのか。続けていくつかのことが言われ、その個々はわかるが、なぜ所得比例なのか、むしろ定額負担でもよいのではないか、そうはっきりしない。ただ、基本的な考えは右のようである。同じ本のもう一人の編者は、別の本で次のように言う。」(立岩[2009:●])

◆大島 通義・神野 直彦・金子 勝 編 19990428 『日本が直面する財政問題――財政社会学的アプローチの視点から』,八千代出版,285p. ISBN-10: 4842911085 ISBN-13: 978-4842911083 2835 [amazon][kinokuniya] ※ t07. c05.
神野 直彦金子 勝 19990428 「グローバル化と財政の役割」,大島・神野・金子編[1999:71-104]

 4 分権型社会をめざして 27-30
 「サブ・システム間のインバランスを回復するには、経済システムによって縮小を余儀なくされている社会システムに対して、政治システムが財政を通じてサポートする機能を強化していく必要がある。もっとも、財政を通じて社会システムをサポートする機能といっても、現金給付によるサポート機能は動揺している。
 そこで、現金給付によるサポートを、現物給付つまりサービス給付によるサポート機能に転換する必要が生じる。現金給付による社会システムへのサポート機能は、ボーダー(国境)という壁を前提にしている。前述のように、資本がボーダーを越えて自由に移動するようになると困難になるからである。そのため現金給付によるサポート給付は、ボーダーを管理する中央政府が主導して担ってきたのである。
 ところが、中央政府もボーダーを管理できなくなっている。そこで中央政府が主導してきた現金給付によるサポート機能を、地方政府が主導する現物<0027<給付に転換する動きが登場してくる。地方政府は、もともとボーダーを管理しないオープン・システムの政府である。したがって、地方政府も現金給付によるサポート機能を担うことはできない。
 ところが、地方政府は現物給付によるサポート機能を果たすことができる。というよりも、現物給付は住民の生活実態に密着して供給する必要があるために、住民に身近な地方政府にしか供給できない。そのため現物給付による社会システムへのサポート機能の担い手として、地方政府が積極的に位置づけられることになる。」(神野・金子[1999:27-28])

◆神野 直彦・金子 勝 編 19991222 『「福祉政府」への提言――社会保障の新体系を構想する』,岩波書店,319p. ISBN-10: 400024602X ISBN-13: 978-4000246026 2300 [amazon][kinokuniya] ※ t07.

◆神野 直彦 編 20001225 『分権型税財政制度を創る――使え!!自主財原』,ぎょうせい,分権型社会を創る5,376p. ISBN-10: 4324060193 ISBN-13: 978-4324060193 3150 [amazon][kinokuniya] ※ t07. t07b.
◆神野 直彦 2000 「集権的分散システムから分権的分散システムへ」,神野編[2000:1-24]

 「現在から未来に向かって、地方財政に期待されている公共サービスは、社会福祉、医療、教育などの準私的財と呼ばれる対人サービスである。そうした対人サーヒスは本来、地域社会が住民相互間の共同作業や相互扶助によっても供給できる性格をもっている。そうした地域社会の住民生活をサポートする対人サービスは、不動産税よりも、住民の共同作業や相互扶助の代替として比例的所得税の型が整合的であると考えられる。あるいは比例的所得税の代替として付加価値税(消費税)の方が望ましいということができる。」(神野[2000:19])

◆森 裕之 20030315 『公共事業改革論――長野県モデルの検証』,有斐閣,310p. ISBN-10: 4641199914 ISBN-13: 978-4641199910 ¥6000 [amazon] [kinokuniya] c05 c14

◆神野 直彦・池上 岳彦 編 20030731『地方交付税 何が問題か――財政調整制度の歴史と国際比較』,東洋経済新報社,265p. ISBN-10: 4492610480 ISBN-13: 978-4492610480 3150 [amazon][kinokuniya] ※ t07.
◆池上 岳彦 20030731 「財政調整の理論と制度」,神野・池上編[2003:3-30]

 1 財政調整は不要か?  「地方政府が教育、保育、介護、保健医療、環境衛生等の対人社会サービスを中心に公共サービスを展開していくためには、自主財源を拡充する自己決定権を認めなければならない。これにより、団体自治と住民自治とを兼ね備えた真の地方自治が可能になる。そこで、所得税と消費税における国税から地方税への税源移譲、事業税の外形標準課税などによって地方の基幹税を整備し、それに個別消費税の地方移譲や課税自主権の拡充と実践によって、自主財源主義を確立することが必要である。
 ただし、地方政府に課税権を認めるだけでは、たんなる「自己決定」にすぎず、地方自治を支える自己決定権は確保できない。自己決定権を実現するためには、財政調整制度が必要である。これが本書全体を貫く立場であるが、ここで財政調整は不要であるとする議論に触れておきたい。」(池上[2003:3])
 2 財政調整の必要性
 2.4 財政調整の必要性
 「以上の議論を総括し、あらためて財政調整の必要性を確認しておきたい。
 地方自治を支える財政的な地方分権の観点からは、地方税を中心とする自主財源が最も重要である。しかし同時に、国民としての一体感が存在することも事実である。特に対人社会サービスに関しては、標準的なサービスを行うのに必要な一般財源を保障することが求められる。また、人間が一生の間に居住地を移動する権利を有することおよび水・森林・農地などの国土利用・保全を思慮すれば、都市と農村漁村は相互依存関係にあるといえる。
 そして、すべての地方政府が同じ税制を持っていたとしても、供給できるサービスの水準は団体によって異なるのである。その理由としては、団体間で住民の所得水準に格差があるために人口1人当たりの地方税収入が異なること、自然条件によって公共サービスの供給コストや税外収入が異なることなどがあげられる。
 このように財政力格差の存在を認める場合、同額の地方税を負担した者が同じ水準の地方政府サービスを受けられることを保障する水平的公平の観点からみても、また財政力の違う地方政府にそれぞれ適切な取り扱いをすることで地<0009<域間の所得再分配を行う垂直的公平の観点からみても、財政調整の必要性が導き出される。さらに、財政力の格差が過密・過疎問題や企業の集中を促進することを避けることも課題である。
 したがって、財政調整は、市場主義的な想定を大きく超えて、地域社会の安定を図る制度である。その目的は、国民生活に不可欠な分野で標準的サービスを実現できるだけの財源を確保すること、そして同程度の公共サービスを行うことができるように、地域間の経済力格差およびサービスのニーズと提供コスト、つまり必要度の相違に基づく地方政府間の財政力格差を是正することである。これによって国土・地域社会の相互依存関係を維持することができる。ただし、この「公平な分配」をめざす制度は特定補助金によって画一的なサービスを行う「結果の平等」政策ではなく、あくまでも「機会の平等」を実質化するために必要な制度である。」(池上[2003:9-10])

◆古谷・矢野[2004]

 「いまは国税も地方税も累進税率構造を持っていますが、今進めている三位一体改革の税源移譲を行う場合に、住民税をフラット化しようという議論があります。住民税は、いわばコミュニティーチャージであるという発想から比例税率でよい。所得税のほうは国の所得再分配機能の発揮の一環として、累進構造を維持すべきである。住民税と所得税の役割の分担を明確にする方向で税源移譲をしようというわけです。仮に三兆円を地方に税源移譲する場合、個人住民税を一〇%でフラット化して、その分所得税の税率や控除で調整をするという考え方で作業が行われています。住民税を一〇%でフラット化しますと、低所得層は五%から一〇%に住民税が増税になり、高所得層が一三%から一〇%に減税になります。この辺をどのように所得税サイドで調整をしていくかが、今後の課題になります。」(古谷・矢野[2004]、古谷(財務省主税局総務課長)の発言、立岩[2009:●]に引用)

◆池上 岳彦 20040625 『分権化と地方財政』 ,岩波書店,シリーズ・現代経済の課題,249p. ISBN-10: 4000270451 ISBN-13: 978-4000270458 2730 [amazon][kinokuniya] ※ t07.

第1章 分権化への圧力――グローバル化、市場化、そして少子・高齢化

 「グローバル化と分権化はどのような関係にあるのか。
 第一に、グローバル化が進行することは、国際的企業の活動と人間生活の「ズレ」を拡大させている。国際的な労働力の移動は資本の移動ほど自由ではないし、個々の人間はどこかの地域に居住して生活している。むしろ、人々が地域で生活しながら人間形成や世代間協力を推し進めることが従来にも増して重要視されるようになってきた。<0008<
 そこで、財政的な所得・富の再分配のなかで、公的扶助・年金などの現金給付による所得保障は社会保障基金もしくは中央政府の役割だとしても、政策の重点は福祉・医療サービス等の現物給付を重視する方向へシフトしてきている。そこで、教育、保育、介護、保健・医療、環境等、広義の対人社会サービスを担う地方政府の役割が拡大しているのである。とくに教育については、IT化は始めとする技術革新や国際競争に対応する高度職業人育成や再教育、生涯学習といった要求に応えるために、従来の教育に加えて、教育と職業訓練の結合という動きが加速されている。そこで、需要サイドのみならず供給サイドの経済・社会政策においても、地方政府の役割は拡大する。
 これらの条件、とくに前者は、地域により密着した地方政府が権限と財源を持ち、サービスを展開する分権的政府システムを促進する大きな要因になっている。対人社会サービスと生活基盤整備、環境保全等は、地方政府が地域の視点に基づいて分権的に政策展開するほうがよい、という積極的な分権論もある。たとえば、北欧諸国やカナダと員た分権的政府システムをとる国家でも社会保障システムは根付いているのである。」(池上[2004:8-9])

 「基本的な公共サービスは住民に最も身近な基礎的地方政府が優先的に遂行し、それでは不十分なものについて広域的地方政府、中央政府と担当可能な政府の規模を順次拡大していく「補完性原理」(principle of subsidiarity)が、分権的政府システムの基本である。分権的政府システムの下では、サービスの充実に対する地方政府の責任及び大勢3を確立して、地方税を中心とする財政調整制度がそれを補完する。
 これらの動きを総括したものを、本書では「分権的福祉政府」と呼ぶ。この場合、狭義の社会保障制度のみならず、人間形成に密接に関わる教育や生活基盤としての環境衛生等も含めた広義の対人社会サービスを「福祉政府」の役割としてとらえる。つまり、「文展的福祉政府」とは、中央政府の「縦割り行政」を超えて対人社会サービスを拡充するシステムである。」(池上[2004:8-9])

◆神野 直彦・井手 英策 編 20061107  『希望の構想――分権・社会保障・財政改革のトータルプラン』 ,岩波書店,261p. ISBN-10: 4000225537 ISBN-13: 978-4000225533 2100 [amazon][kinokuniya] ※ t07. c05.
◆神野 直彦 20061107 「絶望の構想から希望の構想へ」,神野・井手編[2006:1-40]

 9「三つの政府」体系の確立 26-33
 「民主主義の活性化とは、国民に社会や生活を形成する機能を、エンパワーメントすることにほかならない。そうだとすれば、財政民主主義を活性化しようとすれば、財政を運営する公共空間を、国民参加が可能になるように、手の届く距離に設立することが必要となる。
 そのためには、政府をメゾ・レベルで再編し、参加可能な「三つの政府」体系を確立することである。政府をメゾ・レベルで「三つの政府」体系に再編するとは、生活の「場」で自発的協力に基礎づけられた地方政府、政府の「場」で自発的協力に基礎づけられた社会保障基金政府、そさにこの二つの政府に対してミニマムの保障を負う中央政府という「三つの政府」に、変革することを意味している。」(神野[2006:27])

◆山秋 真 20070530 『ためされた地方自治――原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠州市の13年』,出版元,ページ数. ISBN-10:4903351300 ISBN-13:9784903351308 \1800 [amazon][kinokuniya] ※ 

 
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◆立岩 真也 2009/09/10 「軸を速く直す――分配のために税を使う」,立岩・村上・橋口[2009:11-218]*
*立岩 真也・村上 慎司・橋口 昌治 2009/09/10 『税を直す』,青土社,350p. ISBN-10: 4791764935 ISBN-13: 978-4791764938 2310 [amazon][kinokuniya] ※ t07, English

 「税は「公益」「公共善」のために使われる。現状はそうでないとしても、そうあるべきだと言えば、多くの人は反対はしない。すると、そのためには、多く得ている人は多く出すことは認めるとして、少ない人もまた応分に負担するのが当然ではないか。そのように考えられ、言われる。それは、「市民としての義務」といった言葉にもよく馴染むし、「共助」とか「連帯」といった考え方からも受け入れられるように思われる。例えば「地方分権」がなされ、そこそこに顔が見えるようなった人々の集合において、皆が皆のために、「応分に」貢献することはよいことであると思われる(→第4章10節)。  そのような流れに乗って、与党・政府の動向に批判的な人たちの中にも主張を変える人たちがいる。「国民税制調査会」(一九七三年設立◇13)にも属し、多数の著作がある和田八束◇14は一九七四年の著作では次のように述べる。[…]」(立岩[2009:●])

「10 分権について
 ある域から別の域への移動がなされ、かつその域内の税が内部で決定される場合、徴収がうまくいかない可能性がある。そのことを認めた上で、私(たち)は、うまくいくようにするべきだと述べた。私(たち)の場合、この答しかありえない。
 ただ、これも幾度も述べてきたことだが、必要なものは集めねばならないという点では、私(たち)の立場とそう異ならないのではないかと思える人たちまでも、「分権」がもたらしうる事態について十分に注意を払っていないように思えるのは不思議なことだ。
 気がつかれていないわけではない。既に具体的に生じている問題であるからである。例えば企業を誘致しようとして、税の減免など企業に有利な条件を提示した方がよいということになり、そうせざるをえないとか、財政基盤その他において不利な地域はさらに不利な状態に置かれてしまうといったことが起こる。国と国の間に起こりうることがここでも起こりうる◆05。実際に起こる。格差は広がり続ける。そのこと自体は例えば国会でもとりあげられることがある。それはそれで対処がなされるべきであるともされる。しかしそのことと、「分権」の主張がどのように整合するのか、それは結局のところよくわからない。これが一つである。
 そしてもう一つ、分権されて小さくなったその単位の中でなされることは「互助」でよいとされる。第2章第9節(94─96・107─109頁)で和田八束の言論(の変容)を紹介した。さらに、やはり政権に批判的な立場を取りながら、より具体的に積極的に政策を論じ、政府関係の審議会等でも発言を行なってきた人たちに即して見ていくのがよいだろう。例えば神野直彦は、再分配機能については国税の累進課税を維持しつつ、地方税については所得比例税とするのがよいと主張する。その主張に特段の異論があるわけではないことをまず言っておく。以下は、その上でのことである。
 例えば神野・金子編[1998]では[…]」(立岩[2009:●])

 「[…]もちろん、ここに言われているように、所得税の方で調整するのであれば、住民税を定率の税率としても、望みの累進性を確保することはできる。国税の側だけを見ると累進性が実際より強いものに見えるといったことが起こるが、だからといって反対はしないとしよう。ただそれ以前に、ここに表明されているのは、小さな範囲においてなされるべきは、各自が必要とするものについて相互に支え合おう、定率(あるいは定額で)出し合って必要なものを購入しようといった発想である。その上で、ある人は、定額を否定し、定率を主張している。そこに争点があるとされる。
 しかし第一に、所得分配においては累進的な税制が認められるのに対して、ここにあげられる福祉や医療についてはなぜそうでないのか。これもこれまで幾度も述べてきたことだが([2008a:289-290]、本書第2章100頁以下、等)、所得保障と社会サービスという区分は便宜的なものであり、便宜的なものでしかない。同じような水準の生活ができるために必要なものが様々あるが、その必要なものは、人の身体の形状や様相によっても変わってくる。その差をさしあたり考慮せずに給付水準を決定し、それ以外の部分を別途支給するということは技術的にありうるし、その方が合理的な場合もある。しかし、飲食の必要と(飲食のための)介護の必要と、基本的な違いはどこにもない。ところが、それが分けられ、後者については「相互扶助」でよいとされるのである。
 そして第二に、やはりもちろん、「共同体」を肯定することが、等分の負担あるいは収入に応じた負担を支持することになるとは限らない。むしろ、みなが働き出したものを全員で等しく分け合うといった形態を考えることもできる。(いったん市場において等しくなく分けられたものを、この状態に近づけようとすれば、その時の徴収とは当然に累進的なものになる。)むしろ、そのようなものとしてかつて共同体は表象されたこともあったはずである。しかし現在、「コミュニティ」などと呼ばれる場合には、そのように考えられることがない。そして問題は、このような論調、感覚が、この間の流れに批判的であり、実際に的確な批判をし、そして現状をまともにしようとする側にあるということである。  こうして、一つ、世界という大きさの中で国と国とが引き下げ競争をしてしまうことがありうるのだが、それと構図としてはまったく同じことが、分権の結果生ずる小さい単位と単位の間で起こるはずなのに、あまりそのことは主題的に論じられず解法が示されない◆06。一つ、小さい単位の中においてなされることは「互助」でよいとされ、せいぜいが定率の負担でよかろうということにされる。
 こんな具合にことが運んできた。よいことではない。すくなくとも、どうなってしまっているのか、どんなことになりうるのか、わかっておく必要があるし、ものごとを論じている人には、その上でものごとを論じてもらわないと困る。」(立岩[2009:●])

◆立岩 真也 2007/08/03 「削減?・分権?」
 『京都新聞』2007-8-3夕刊:2 現代のことば

◆立岩 真也 2005/08/00 「共同連のやろうとしていることはなぜ難しいのか、をすこし含む広告」
 『共同連』100

◆立岩 真也 2004/01/14 『自由の平等――簡単で別な姿の世界』
 岩波書店,349+41p.,3100 [amazon][kinokuniya] ※

  「一つに、国境を移動することにより一方では負担を逃れられること、また一方では分配を求める者がより条件のよい場に移動することが、むろん多くの要因が絡むからことは単純に推移しないのではあるが、分配を困難にする。その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。そして、私たちが論じてきたことの中に分配が国境内に限られることを正当化するものは何もない。現実には内側にいる者たちの労働と分配とを維持するために流入を制限することがなされてきた。だが、とくに貧窮にある人たちのよりよい生活を求める流入についてそれを拒んでよい理由はない。
  このように考えるなら「地域」を対置すればよいということにならないのは明らかである。「地方分権」をただ肯定し推進すればよいなどということにならないのは明らかである。採るべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。むろんそれは困難だが、財の流れをしかるべく整序すれば同様の効果をもたらすことはできる。明らかなのは、一国的な解決に限界があり、世界同時決定的な動きが要されることである。それはすぐに思うほど荒唐無稽なことではなく、普通に考えれば議論はそこに落ち着くしかないのだし、そこから見たとき、その当然の方向に事態を進めようとしている動き、それに加担しようとする動きはそこここに見出される。
  所有のシステムを前提とし、国境を前提とすれば、毎日いたるところで語られている暗く慌ただしい話になる事情はわかる。だが、前提を所与として受け入れるしかないのかを考えればよい。受け入れない方向を基本的には採るべきだと考える☆14。」

  「☆14国家という単位が不十分、という以上に抑圧的であることについては[2000a:(下)][2001b:(2)]で述べた。分配が国家の単位を越えてなされるべきとだいう主張(Beitz[1979]、Pogge[1989][1994]、等)に対しRawls[1999b]が否定的であることを伊藤[2002:233]が紹介しているが、もろちん本書から支持されるのは前者である。関連する議論の紹介としてBrown[1998=2002]。分配の範域を広げることの可能性に人と人の関係の近さ・遠さがどう関わるかという主題がある。第3章3節1で考える。外部者の立ち入りを遮断し他の地域のために税金を払うことを拒絶する米国のゲーティド・コミュニティ、地域の「疑似政府」、共同体主義によるその肯定について酒井[2001:259ff.]、Bickford[2000=2001]。たんに「地方分権」を肯定することはそれを是認することでありうる。そのことに鈍感であるべきでないと[2001c]で述べた。それはまた「干渉(権)」について考えようということでもある――例えばバリバールが「絶滅的な生−政治あるいは生−経済の現実」としての「全面的な非介入」にふれている(Balibar[2002:22])。そんなことを考えていって主張しようとするのはHardt & Negri[2000=2003]の最後に記される、道具立てのわりには平凡なと評される(Zizek[2001=2003])方向とそう違わないかもしれない。ただそれをさらに平凡に、順序通りに考えて言おうと思う。」

◆立岩 真也 2000/03/05 「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」
 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料

□4 国境が強迫する

 □1 逆選択による越境による分配の抑圧
 そのもう一つ、現に存在し問題にしなければならないのは、別の限界、国家が存在することによる限界、福祉国家が「国家」であることに起因する問題である。★29
 まず、言うまでもなく、国境が存在する。国家が国境を接して分立し、諸国家が並存しており、その各々の内部で分配が行われてしまっている。次に、存在するのは閉鎖という事態だけではない。国境が完全に閉じられているわけではなく、国家間の人や物の行き来がある。国境に閉じられているという前者の条件だけによっても格差は生じ存続する。ただ、閉鎖と移動の二つの条件が組み合わさる場合に事態はより複雑になる。仮に一定の分配の水準を達成・維持しようとしても、単独の決定によってだけでは、維持することができなくなるのである。このことを説明する。
 まず第一に、国境が閉鎖されており、国家相互の間に交通がないとしよう。この場合、その各々における分配のあり方は、一つに各々に存在する物的・人的資源、一つに分配に対する人々の態度によって決定される。それぞれの条件が様々であるなら、分配のあり方もまた様々だろう。分配のあり方を含む人々の生活の水準は、互いに影響を与えることはなく、その限りで独立に決定されている。この状態では、その場の自然と人の条件に左右され、例えば資源が枯渇している国では人々は十分に生きていくことが難しいだろう。だから望ましくはない。
 第二に、諸国家が分立しつつ財や人の移動が存在する場合がある。様々な規制があり、それが守られたり破られたりして様々な度合いの移動と定在とが存在するのが現状である。ここでは第一の場合と異なったことが起こりうる。
 まずこのことは徴収と分配に影響を与えうる。第2節で、社会的分配とは負担することであり、贈与することであり、分配する国家は、それを強制力を媒介させて達成しようとする機構だと述べた。ところが国境という半透膜の存在によって、それが機能不全に陥るのである。人が移ることが許されている場合には、分配を積極的に行う国家には相対的に貧しい人たちが流入するだろう。他方、その国にあって多く徴収される人たちは、より少ない供出ですむ国家に移っていく。つまり、分配を積極的に行わない国に豊かな人たちが流出していくはずである。
 福祉国家は国境の内側で負担から逃れることを禁ずることによって分配を成立させている。だが、国境を越えての逃亡を抑止する装置はなく、逃亡の発生を止めることができない。これが制約条件となって分配の機能を十分に作動しないようにしている。これが、例えば累進課税を十分に行うことができない理由、行うべきでないことの理由とされる。以上はもちろん個人についても言えることだが、移動が容易な組織、企業の場合にはより大きく、より容易にこの要因は働く。企業への国外への流出を防ぎ国際競争力を低下させないために法人税を押さえる必要があるといった主張がなされる。もちろんこれは課税を逃れようとする口実でもあるのだが、まったく現実性のないことでもない。☆30
 つまりここで起こるのは私的な保険の限界として指摘したことと同じである。選択可能な国家は民間の保険会社なのであり、国境を介して「逆選択」が起こり、それによって分配がうまく働かなくなるのである。だから、民間の保険を否定して強制保険――私の考えではすでに保険の原理を離れた分配――を支持する人は、その論を一貫させるなら、分立している国家を否定しなければならない。
 他方、稲葉振一郎は国家の複数性を支持する☆31。今述べたことと反対のことが主張されているのだろろうか。少し検討して、ここに述べたことの意味を確認しよう。
 何かを利用・消費しようとする時、利用者は、複数の選択肢の中から好きなものを、本当に実質的に選べるなら、選べた方がよい。自分の好みにあったものを見つけられるかもしれない。また、利用者から選ばれることは、それで利用者が増え、利益を増やすことができるから、供給者にとってよいことであり、ここで供給主体が複数あるなら、そこには競争が働くことになる。それが利用者に利益をもたらすことがある。ところで、国家もまた供給者である、少なくとも供給者としての側面をもつ。例えば警察にしても、一定の費用を支払ってもらって、安全を供給していると捉えることもできる。ならば、利用者=国民はよりましな国家を選び、その国家に移動できた方がよく、その前提として国家は複数あることが望ましい。稲葉はこのような場面を見ている。そこで国家の複数性を正当化しうるとする。
 まず、後にも述べるように、選べる人、逃げられる人がどれだけおり、どうしても耐えられないほどの状況にいない時に自らの暮らしている場から離れたい人がどれだけいるか、つまり選択の可能性がどれだけの効力をもつかが問われるだろう。しかしそれでも、複数あること、移動できることが一定の意味をもちうることは否定しない。例えば圧政の場から逃亡することの自由が存在することは時に決定的な意味をもつだろう。ここで問題にしたいのはこのことではない。
 いまの話は、誰かがなにかをもっており、それは既にその人のものとして固定されており、それを有効に使ってなにかを購入しようという時にはその通りだ。現に国家によってなされていることが、競争が働かないことによって非効率であるという指摘もある程度当たっている。詳しくは別の論文で述べる私の提案は、この部分に向けられたものである。すなわち、国家が分配する資源の利用について、その利用者による選択が実質的に可能な機構があるべきだと主張する。しかし、ここでは各人が使える資源を徴収し分配する機構のあり方を問題にしている。それは別の条件に規定される。よりよい分配を行う方に人は流れ、その結果分配がより充実するだろうか。そうはならない。分配は、誰がどれだけ拠出するか、誰がどれだけを必要とし受けとるかによって決定される。先に利用、利用者が多い方が供給者にとっても利益になると述べたが、しかしここでは利用者が多ければ負担が大きくなる。この点で事情がまったく異なる。となると、国境の存在はマイナスに作用する。

 □2 分配率の調整
 ここまで述べてきたことの中にこの状態を正当化するどんな理由もない。対応策の一つは先述した第一の局面に戻ること、つまり国境の閉鎖、閉鎖の強化である。また全面的な鎖国が受け入れ難いなら、人の流出・流入の禁止をおこなう。あるいは流入だけでも制限する。
 しかしこれは支持されない。第一に、それはまったく現実的でない。制限しても流出し流入する人はいる。第二に、移動や居住の自由を認めるべきだと考えるなら、この立場から支持されない。第三に、それは、格差がある中でその格差を、その状態で固定してしまうということにほかならない。一国内での抑圧が継続されやすい。だから閉鎖という策はとれないし、とるべきではない。
 流入の拒絶は正しくないから認められない。けれど述べたのは、その正しくないものの方が、優位にあり利益を得ている者たちから支持を受けやすいから通りやすいことである。とくにその域内での労働・生産がすでに十分な水準に達しており、また新たな参入者が労働に従事し生産に貢献するまでのコストの支払いを含めたときにはそうである。他方、正しさを受け入れ、十分な分配を維持しようとし、よりよい生活、より多い分配を求める人たちを受け入れる場は、他から締め出されてきた人をも受け入れることになり、結果として、分配の困難がもたらされることになりうる。現実的な解を作らないと、結局やっていけなくなる可能性がある。
 だから、もう一つの、一番単純な解法、筋の通った、しかし実現がそう簡単でない方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うことである。国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。
 もちろん、これはまったく現実的でない、ように思われる。けれども、国家を超えた単一の域・主体があることが必須の条件として要請されるのではない。さしあたり国家という単位が保存されたままでも、なんらかの取り決めはできるかもしれない。分配率等についての一定の取り決めが実現し、財の流れがしかるべきかたちに整序されれば、ここで見てきた問題への対処に限れば、世界大の徴収・分配域が形成されるのと同様の効果をもたらすことはできる。もちろん、人は現状から発想するのが常だから、現状から相対的に利益を得ている者たちは、それを剥奪だと考え、既得権益を守ろうとするから、やはりその実現は困難なことではあるのだが。
 これは、医療費をまかなう強制的・公的な制度がない時、民間の保険会社各社が設定する保険加入に関する条件を規制し、例えばHIVの保因者であるなしによって、また遺伝子伝検査の結果によって保険加入を拒絶することを一律に禁ずるといった対応に似ている☆32。単位の大きさ自体が問題なのではなく、閉鎖と競争の並存が問題なのであり、それによる格差の拡大と低水準での均衡にどう対処するかが課題だと考えるのである。
 誤解はないだろうと思うが、以上述べたことは、そして次項に述べることも、小さな人の集まりが果たす機能を低く評価することを意味しない。前項でも少し述べ、また詳しくは別の文章で述べようと思うが、財の供給について民間の活動、小さな組織の活動は許容され、むしろ積極的に評価される(第一節5にあげた論点4)。しかし、徴収し分配する単位としては、むしろ大きくとるべきだとする。そしてその範域内で、どのような集まりが形成されていくのか、供給主体として何が適しているのか、それを一人一人の発意と意志にまかせ、それらがさまざまに重なることを認める。行政区域としての地方自治体、例えば都道府県や市町村を設定するのは、それ自体が供給主体を特定し限定することでしかない。小さくとも一つしか選ぶことができず、選ぶためには移らなくてはならないのである。それより、徴収と分配の単位を大きくとった上で、分配された資源を使用する時の選択権を一人一人に与え、その一人一人が供給主体を選べた方がよい。☆33
 それにしても述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。

 「☆33 例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。
 徴収と分配は(さしあたり、というのは本節に述べたように国境に関わる構造的な限界があるからだが)国家に、それを用いた生活はその当人が選んだ供給者による供給を受ける、という機構については、註(7)であげた「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える」、註(5)であげた「分配する最小国家の可能性について」等で述べている。註(39)もこのことに関連する。
 このように拡張し、大きな単位をとってしまったら、負担・贈与の動機を調達するのが困難になるのではないかという疑問があるだろう。人は遠いところにいる人、自分と無縁だと思う人に対する分配に応ずるのか、その気になれるのかという問題である。この「距離」をめぐる問題については、註(18)に記した『現代思想』掲載の論文でも少し考えてみる。またローティ(Richard Rorty)*の講演「人権、理性、感情」(『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』、みすず書房、一九九八年、原著の出版は一九九三年)等も、考えるための材料を与えてくれる。」


UP:20070805 REV:20090805, 20100410,0922, 20110512
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