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centralization/decentralization ◆立岩 真也 2007/08/03 「削減?・分権?」 『京都新聞』2007-8-3夕刊:2 現代のことば ◆立岩 真也 2000/03/05 「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料 ◆立岩 真也 2004/01/14『自由の平等――簡単で別な姿の世界』 岩波書店,349+41p.,3100 [amazon]/[boople] ■立岩真也 2000/03/05 「選好・生産・国境――分配の制約について(下)」 『思想』909(2000-03):122-149 関連資料 □4 国境が強迫する □1 逆選択による越境による分配の抑圧 そのもう一つ、現に存在し問題にしなければならないのは、別の限界、国家が存在することによる限界、福祉国家が「国家」であることに起因する問題である。★29 まず、言うまでもなく、国境が存在する。国家が国境を接して分立し、諸国家が並存しており、その各々の内部で分配が行われてしまっている。次に、存在するのは閉鎖という事態だけではない。国境が完全に閉じられているわけではなく、国家間の人や物の行き来がある。国境に閉じられているという前者の条件だけによっても格差は生じ存続する。ただ、閉鎖と移動の二つの条件が組み合わさる場合に事態はより複雑になる。仮に一定の分配の水準を達成・維持しようとしても、単独の決定によってだけでは、維持することができなくなるのである。このことを説明する。 まず第一に、国境が閉鎖されており、国家相互の間に交通がないとしよう。この場合、その各々における分配のあり方は、一つに各々に存在する物的・人的資源、一つに分配に対する人々の態度によって決定される。それぞれの条件が様々であるなら、分配のあり方もまた様々だろう。分配のあり方を含む人々の生活の水準は、互いに影響を与えることはなく、その限りで独立に決定されている。この状態では、その場の自然と人の条件に左右され、例えば資源が枯渇している国では人々は十分に生きていくことが難しいだろう。だから望ましくはない。 第二に、諸国家が分立しつつ財や人の移動が存在する場合がある。様々な規制があり、それが守られたり破られたりして様々な度合いの移動と定在とが存在するのが現状である。ここでは第一の場合と異なったことが起こりうる。 まずこのことは徴収と分配に影響を与えうる。第2節で、社会的分配とは負担することであり、贈与することであり、分配する国家は、それを強制力を媒介させて達成しようとする機構だと述べた。ところが国境という半透膜の存在によって、それが機能不全に陥るのである。人が移ることが許されている場合には、分配を積極的に行う国家には相対的に貧しい人たちが流入するだろう。他方、その国にあって多く徴収される人たちは、より少ない供出ですむ国家に移っていく。つまり、分配を積極的に行わない国に豊かな人たちが流出していくはずである。 福祉国家は国境の内側で負担から逃れることを禁ずることによって分配を成立させている。だが、国境を越えての逃亡を抑止する装置はなく、逃亡の発生を止めることができない。これが制約条件となって分配の機能を十分に作動しないようにしている。これが、例えば累進課税を十分に行うことができない理由、行うべきでないことの理由とされる。以上はもちろん個人についても言えることだが、移動が容易な組織、企業の場合にはより大きく、より容易にこの要因は働く。企業への国外への流出を防ぎ国際競争力を低下させないために法人税を押さえる必要があるといった主張がなされる。もちろんこれは課税を逃れようとする口実でもあるのだが、まったく現実性のないことでもない。☆30 つまりここで起こるのは私的な保険の限界として指摘したことと同じである。選択可能な国家は民間の保険会社なのであり、国境を介して「逆選択」が起こり、それによって分配がうまく働かなくなるのである。だから、民間の保険を否定して強制保険――私の考えではすでに保険の原理を離れた分配――を支持する人は、その論を一貫させるなら、分立している国家を否定しなければならない。 他方、稲葉振一郎は国家の複数性を支持する☆31。今述べたことと反対のことが主張されているのだろろうか。少し検討して、ここに述べたことの意味を確認しよう。 何かを利用・消費しようとする時、利用者は、複数の選択肢の中から好きなものを、本当に実質的に選べるなら、選べた方がよい。自分の好みにあったものを見つけられるかもしれない。また、利用者から選ばれることは、それで利用者が増え、利益を増やすことができるから、供給者にとってよいことであり、ここで供給主体が複数あるなら、そこには競争が働くことになる。それが利用者に利益をもたらすことがある。ところで、国家もまた供給者である、少なくとも供給者としての側面をもつ。例えば警察にしても、一定の費用を支払ってもらって、安全を供給していると捉えることもできる。ならば、利用者=国民はよりましな国家を選び、その国家に移動できた方がよく、その前提として国家は複数あることが望ましい。稲葉はこのような場面を見ている。そこで国家の複数性を正当化しうるとする。 まず、後にも述べるように、選べる人、逃げられる人がどれだけおり、どうしても耐えられないほどの状況にいない時に自らの暮らしている場から離れたい人がどれだけいるか、つまり選択の可能性がどれだけの効力をもつかが問われるだろう。しかしそれでも、複数あること、移動できることが一定の意味をもちうることは否定しない。例えば圧政の場から逃亡することの自由が存在することは時に決定的な意味をもつだろう。ここで問題にしたいのはこのことではない。 いまの話は、誰かがなにかをもっており、それは既にその人のものとして固定されており、それを有効に使ってなにかを購入しようという時にはその通りだ。現に国家によってなされていることが、競争が働かないことによって非効率であるという指摘もある程度当たっている。詳しくは別の論文で述べる私の提案は、この部分に向けられたものである。すなわち、国家が分配する資源の利用について、その利用者による選択が実質的に可能な機構があるべきだと主張する。しかし、ここでは各人が使える資源を徴収し分配する機構のあり方を問題にしている。それは別の条件に規定される。よりよい分配を行う方に人は流れ、その結果分配がより充実するだろうか。そうはならない。分配は、誰がどれだけ拠出するか、誰がどれだけを必要とし受けとるかによって決定される。先に利用、利用者が多い方が供給者にとっても利益になると述べたが、しかしここでは利用者が多ければ負担が大きくなる。この点で事情がまったく異なる。となると、国境の存在はマイナスに作用する。 □2 分配率の調整 ここまで述べてきたことの中にこの状態を正当化するどんな理由もない。対応策の一つは先述した第一の局面に戻ること、つまり国境の閉鎖、閉鎖の強化である。また全面的な鎖国が受け入れ難いなら、人の流出・流入の禁止をおこなう。あるいは流入だけでも制限する。 しかしこれは支持されない。第一に、それはまったく現実的でない。制限しても流出し流入する人はいる。第二に、移動や居住の自由を認めるべきだと考えるなら、この立場から支持されない。第三に、それは、格差がある中でその格差を、その状態で固定してしまうということにほかならない。一国内での抑圧が継続されやすい。だから閉鎖という策はとれないし、とるべきではない。 流入の拒絶は正しくないから認められない。けれど述べたのは、その正しくないものの方が、優位にあり利益を得ている者たちから支持を受けやすいから通りやすいことである。とくにその域内での労働・生産がすでに十分な水準に達しており、また新たな参入者が労働に従事し生産に貢献するまでのコストの支払いを含めたときにはそうである。他方、正しさを受け入れ、十分な分配を維持しようとし、よりよい生活、より多い分配を求める人たちを受け入れる場は、他から締め出されてきた人をも受け入れることになり、結果として、分配の困難がもたらされることになりうる。現実的な解を作らないと、結局やっていけなくなる可能性がある。 だから、もう一つの、一番単純な解法、筋の通った、しかし実現がそう簡単でない方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うことである。国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。 もちろん、これはまったく現実的でない、ように思われる。けれども、国家を超えた単一の域・主体があることが必須の条件として要請されるのではない。さしあたり国家という単位が保存されたままでも、なんらかの取り決めはできるかもしれない。分配率等についての一定の取り決めが実現し、財の流れがしかるべきかたちに整序されれば、ここで見てきた問題への対処に限れば、世界大の徴収・分配域が形成されるのと同様の効果をもたらすことはできる。もちろん、人は現状から発想するのが常だから、現状から相対的に利益を得ている者たちは、それを剥奪だと考え、既得権益を守ろうとするから、やはりその実現は困難なことではあるのだが。 これは、医療費をまかなう強制的・公的な制度がない時、民間の保険会社各社が設定する保険加入に関する条件を規制し、例えばHIVの保因者であるなしによって、また遺伝子伝検査の結果によって保険加入を拒絶することを一律に禁ずるといった対応に似ている☆32。単位の大きさ自体が問題なのではなく、閉鎖と競争の並存が問題なのであり、それによる格差の拡大と低水準での均衡にどう対処するかが課題だと考えるのである。 誤解はないだろうと思うが、以上述べたことは、そして次項に述べることも、小さな人の集まりが果たす機能を低く評価することを意味しない。前項でも少し述べ、また詳しくは別の文章で述べようと思うが、財の供給について民間の活動、小さな組織の活動は許容され、むしろ積極的に評価される(第一節5にあげた論点4)。しかし、徴収し分配する単位としては、むしろ大きくとるべきだとする。そしてその範域内で、どのような集まりが形成されていくのか、供給主体として何が適しているのか、それを一人一人の発意と意志にまかせ、それらがさまざまに重なることを認める。行政区域としての地方自治体、例えば都道府県や市町村を設定するのは、それ自体が供給主体を特定し限定することでしかない。小さくとも一つしか選ぶことができず、選ぶためには移らなくてはならないのである。それより、徴収と分配の単位を大きくとった上で、分配された資源を使用する時の選択権を一人一人に与え、その一人一人が供給主体を選べた方がよい。☆33 それにしても述べたのは、「地域」や「コミュニティ」へという方向とは異なる。その「自由」をどこまでも許容するなら、例えば裕福な地域が「自治」を主張し、より貧困な層を抱える国あるいはより広域の地方自治体に税を払うことを拒むといったことが起こる。現に米国のいくつかの地域では起こっていることである。地域主義者たちは、自分たちが思い描いているのはそんな地域やコミュニティではないと言うだろうし、その思いはきっと本当であるに違いない。しかし、人は常によく行動するだろうという楽観主義に立てないなら、その思いが実現すると限らないこと、むしろ思いに反した結果になる可能性をみておかなくてはならない。よい共同体は適切な分配を行うだろう。そして来る者を拒まず去る者を追わないだろう。とすると、今述べたことが起こるのである。 「☆33 例えば明らかに財政について構造的な格差がある場合に、財政面での独立も含めた「地方分権」がどのように好ましいのか、私にはわからない。 徴収と分配は(さしあたり、というのは本節に述べたように国境に関わる構造的な限界があるからだが)国家に、それを用いた生活はその当人が選んだ供給者による供給を受ける、という機構については、註(7)であげた「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える」、註(5)であげた「分配する最小国家の可能性について」等で述べている。註(39)もこのことに関連する。 このように拡張し、大きな単位をとってしまったら、負担・贈与の動機を調達するのが困難になるのではないかという疑問があるだろう。人は遠いところにいる人、自分と無縁だと思う人に対する分配に応ずるのか、その気になれるのかという問題である。この「距離」をめぐる問題については、註(18)に記した『現代思想』掲載の論文でも少し考えてみる。またローティ(Richard Rorty)*の講演「人権、理性、感情」(『人権について――オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』、みすず書房、一九九八年、原著の出版は一九九三年)等も、考えるための材料を与えてくれる。」 ■立岩真也 2004/01/14『自由の平等――簡単で別な姿の世界』 岩波書店,349+41p.,3100 [amazon]/[boople] 「一つに、国境を移動することにより一方では負担を逃れられること、また一方では分配を求める者がより条件のよい場に移動することが、むろん多くの要因が絡むからことは単純に推移しないのではあるが、分配を困難にする。その意味で、福祉「国家」には本質的な限界がある。そして、私たちが論じてきたことの中に分配が国境内に限られることを正当化するものは何もない。現実には内側にいる者たちの労働と分配とを維持するために流入を制限することがなされてきた。だが、とくに貧窮にある人たちのよりよい生活を求める流入についてそれを拒んでよい理由はない。 このように考えるなら「地域」を対置すればよいということにならないのは明らかである。「地方分権」をただ肯定し推進すればよいなどということにならないのは明らかである。採るべき一番単純で筋の通った方法は、徴収と分配の単位の拡大であり、徴収と分配の機構が国家を越えて全域を覆うこと、国境の解除あるいはそれに近い方向を目指すことである。むろんそれは困難だが、財の流れをしかるべく整序すれば同様の効果をもたらすことはできる。明らかなのは、一国的な解決に限界があり、世界同時決定的な動きが要されることである。それはすぐに思うほど荒唐無稽なことではなく、普通に考えれば議論はそこに落ち着くしかないのだし、そこから見たとき、その当然の方向に事態を進めようとしている動き、それに加担しようとする動きはそこここに見出される。 所有のシステムを前提とし、国境を前提とすれば、毎日いたるところで語られている暗く慌ただしい話になる事情はわかる。だが、前提を所与として受け入れるしかないのかを考えればよい。受け入れない方向を基本的には採るべきだと考える☆14。」 「☆14国家という単位が不十分、という以上に抑圧的であることについては[2000a:(下)][2001b:(2)]で述べた。分配が国家の単位を越えてなされるべきとだいう主張(Beitz[1979]、Pogge[1989][1994]、等)に対しRawls[1999b]が否定的であることを伊藤[2002:233]が紹介しているが、もろちん本書から支持されるのは前者である。関連する議論の紹介としてBrown[1998=2002]。分配の範域を広げることの可能性に人と人の関係の近さ・遠さがどう関わるかという主題がある。第3章3節1で考える。外部者の立ち入りを遮断し他の地域のために税金を払うことを拒絶する米国のゲーティド・コミュニティ、地域の「疑似政府」、共同体主義によるその肯定について酒井[2001:259ff.]、Bickford[2000=2001]。たんに「地方分権」を肯定することはそれを是認することでありうる。そのことに鈍感であるべきでないと[2001c]で述べた。それはまた「干渉(権)」について考えようということでもある――例えばバリバールが「絶滅的な生−政治あるいは生−経済の現実」としての「全面的な非介入」にふれている(Balibar[2002:22])。そんなことを考えていって主張しようとするのはHardt & Negri[2000=2003]の最後に記される、道具立てのわりには平凡なと評される(Zizek[2001=2003])方向とそう違わないかもしれない。ただそれをさらに平凡に、順序通りに考えて言おうと思う。」 UP:20070805 REV: |