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ケア care:立岩の書きものより

ケア


■2007掲載

◆2007/06/01「人の数と生産の嵩について――家族・性・市場 21」
 『現代思想』35-6(2007-5):8-19 資料[了:20070513]
 註4

 「☆04 思うに、「ケアの倫理」といったものについて考えられることがもし仮にあるとすれば、例えばこんなことについて考えることではないだろうか。何も言わない人もいるが、饒舌な人もおり頑固な人もいる。その人に何を言うか、どう対したらよいのかである。本文に記したこと、つまり事実の認識についてそれは間違いだと言うのは、一つであり、一つでしかない。そして、はたして国家財政は困ったことになっているのか、それともそうではないのか、これはたんに事実認識の問題ではない。
 私はこれまで、人の価値観には介入しないという対し方が正しいとは考えないことを(幾度も)述べてきた。正しい情報に基づいて本人が決定(「インフォームド・コンセント」「インフォームド・ディシジョン」)という図式を常には支持しないことを述べてきた。そのことはここでは繰り返さない。その上で、その次に、様々考えるべきことがある。例えば、そのように相手に対することが、その人に加害的に作用することがある。(ただしこのことは、ではそのようにしないこと、手をふれないでおくこと、相手が言う通りにすることが相手を害さないことを意味しない。だから事態はやっかいなのでもある)。害するとまでは言えないとしても、そうそう受け入れてはもらえないことがある。で、どうするかである。
 一つ、間違いをこちらで引き受けることがある。実際、こちらが間違っているのであれば、そうすべきである。
 「私たちの社会は人に間違った価値を教えてしまっている。もしそう言えるのであれば――私は言えると思っている――人は私たちの間違いによって死ぬのだということである。[…]
 今からではもう遅すぎるのかもしれないけれど、申しわけないけれど、私たちの間違いによって死んでもらいたくない、と言うしかない。」(立岩[1998→2000b:60])
 加えれば、私たちはここでその人自身の「達成主義」を否定する必要はないし、否定するべきではない。なににせよなにごとかを成し遂げてきたこと、成し遂げようとしてきたことを否定してよいわけはない。問題はその価値が位置する場所である。働けること、働けたことを認め、賞賛しつつ、しかし別種のことも肯定することはむろん可能である。
 そして、変容、乗り換えを安易に肯定することである。
 「支持する規則を乗り換えるに際しての動機についてとやかく言う人がいるかもしれない。「都合がわるくなってから宗旨替えするのはずるい、あなたは自分ができなくなったから自分ができなくてもよいという規則を支持することにしたのではないか」と言うのだ。[…]たしかに自分にとって都合のよい方に都合よく乗り換えるというのはあまりほめられたことではないかもしれない。しかし、これまである規則や価値に乗ってやってきたのだが、考えてみるとそちらの方が間違っていたとなれば、それに乗りつづける必要はない。そして考えてみれば、たしかに間違っている。ならばその動機はなんであれ、乗り換えればよい。」(立岩[2004b:409])
 また、その人の言うことを受け入れて、そして従わないことがある。例えば、その人が「遠慮」することについて、立岩[2005-2007(16)](「得失と犠牲について・続」)で少し述べた。
 「立派なことを言う人に対して、まず、その気持ちはありがたく頂戴するけれども、その気持ちだけいただく、だから、ここはこちらの思いを汲んでいただき、その申し出は取り下げてもらいたいと言うことになり、それに対して、言い出した人は、いやいやそんなことはできない、と返すのだが、いやそれではこちらが困る、と言うことになっていて、そしてまたその人は実は生きていたくもあるから、結局は取り下げる。そんな過程があったりしてきたのではないか。」
 もちろん取り下げてもらえるとは限らない。そんなことの方が多いかもしれない。しかし最後に、何も決着しないまま時間が過ぎること、それは悪いことだと決まっているだろうか。
 「代わりにどうするか。[…]それはなにかものごとを「解決」することではない。おばあさんは花を盗るのをやめず、その花を育てている元校長先生は怒るのをやめない。」(立岩[2007])」

立岩 真也 1998 「都合のよい死・屈辱による死――「安楽死」について」、『仏教』42:85-93→立岩[2000:51-63]
――――― 2000b 『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』、青土社
――――― 2004b 『ALS――不動の身体と息する機械』、医学書院
――――― 2005-2007 「よい死」,『Webちくま』連載 http://www.chikumashobo.co.jp/w_chikuma.html
――――― 2007 「書評:村瀬孝生『おばあちゃんが、ぼけた。』」、『北海道新聞』2007-4-15朝刊




◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1990/10/25 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』,藤原書店
◆1990/10/25 「はやく・ゆっくり――自立生活運動の生成と展開」,安積他[1990:267-321]→1995 安積他[1995:267-321]
◆安積 純子・尾中 文哉・岡原 正幸・立岩 真也 1995/05/15 『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学 増補改訂版』,藤原書店
◆1995/05/15 「自立生活センターの挑戦」,安積他『生の技法 増補改訂版』第9章,pp.267-321 120枚
◆1995/05/15 「私が決め、社会が支える、のを当事者が支える――介助システム論」,安積他『生の技法 増補改訂版』第8章,pp.227-265 80枚
◆1996 「だれがケアを語っているのか」,『RSW研究会 研究会誌』19号,pp.3-27 (19961110) 100枚
◆1997 「「ケア」をどこに位置させるか」,『家族問題研究』22:2-14 (19970531) 40枚
◆1997 「ケア・マネジメントはうまくいかない――ロンドンにいってきました」,『こちら”ちくま”』5(199711)
◆1998 「ケア・マネジメントはイギリスでどう機能しているか」,『ノーマライゼーション』1998-01 (19880101)
◆1998/01/00 「ケアコンサルタント・モデルの提案――ケアマネジメントへの対案として」(中西正司との共著),ヒューマンケア協会ケアマネジメント研究委員会『障害者当事者が提案する地域ケアシステム――英国コミュニティケアへの当事者の挑戦』ヒューマンケア協会・日本財団,131p.
◆1999/03/31 「自己決定する自立――なにより、でないが、とても、大切なもの」,石川准・長瀬修編『障害学への招待』,明石書店,pp.79-107 60枚
◆1999/08/31 「子どもと自己決定・自律――パターナリズムも自己決定と同郷でありうる,けれども」,後藤弘子編『少年非行と子どもたち』,明石書店,子どもの人権双書51 264p.,pp.21-44 (1800円+税)[了:19990205] [目次+α]
◆1999/10/30 「資格職と専門性」,進藤雄三・黒田浩一郎編『医療社会学を学ぶ人のために』,世界思想社,pp.139-156
 http://www.sekaishisosha.co.jp
◆2000/02/05 「選好・生産・国境――分配の制約について」(上・下),『思想』908(2000-2):65-88,909(2000-3):122-149→立岩[2006:137-150](抄)
◆2000/03/01 「遠離・遭遇――介助について」,『現代思想』28-4(2000-3):155-179,28-5(2000-4):28-38,28-6(2000-5):231-243,28-7(2000-6):252-277→[2000:221-354] 関連資料
◆2000 「過剰と空白――世話することを巡る言説について」,副田義也・樽川典子編『現代社会と家族政策』,ミネルヴァ書房
◆2000/10/23『弱くある自由へ――自己決定・介護・生死の技術』,青土社,357+25p. 2940 [amazon]
◆2000/11/20 「多元性という曖昧なもの」,『社会政策研究』1:118-139(『社会政策研究』編集委員会,発売:東信堂)
◆2001/05/01 「高橋修――引けないな。引いたら、自分は何のために、一九八一年から」,全国自立生活センター協議会編[2001:249-262]
◆2001/12/15 「贈り物の憂鬱」,『読売新聞』2001-12-15夕刊:17(土曜文化)
◆2002/01/** 「二兎を追う――問題「介護保障について論ぜよ」に」,『われら自身の声』(DPI日本会議)
◆2002/06/02 「じつはいまも、未耕の沃野、かもしれない」,関東社会学会 「ケアの社会学」部会 於:法政大学多摩キャンパス
◆2003/05/15「介護保険的なもの・対・障害者の運動 1」,『月刊総合ケア』13-05:(医歯薬出版)
◆2003/07/15 「介護保険的なもの・対・障害者の運動 2」,『月刊総合ケア』13-07:46-51(医歯薬出版)
◆2003/03/00 「障害者運動・対・介護保険――2000〜2002」,平岡公一(研究代表者)『高齢者福祉における自治体行政と公私関係の変容に関する社会学的研究』,文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書(研究課題番号12410050):79-88
◆2003/11/05 「家族・性・資本――素描」『思想』955(2003-11):196-215 資料
◆2004/11/30 (「ケア」についてコメント),『朝日新聞』2004/11/30夕刊
◆2005/06/24 「書評:三井さよ『ケアの社会学――臨床現場との対話』」,『季刊社会保障研究』41-1(Summer 1995):64-67[了:20050519]
◆2005/07/10 「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」,『精神医療』39:26-33(批評社)[了:20050509] http://www.hihyosya.co.jp
◆2005/08/25 「学校で話したこと――1995〜2002」,川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』,有斐閣,pp.307-332 [了:20030716 校正:20050124]
◆立岩 真也・小林 勇人 編 200509 『<障害者自立支援法案>関連資料』,<分配と支援の未来>刊行委員会,134p. 1000円+送料
◆2005/10/01- 「家族・性・市場」,『現代思想』33-11(2005-10):008-019 から毎月連載資料
◆2005/11/26 「(報告+)」,公開シンポジウム「ケアと自己決定」 於:東京大学・本郷 東京大学大学院人文社会系研究科 21世紀COE研究拠点形成プログラム 生命の文化・価値をめぐる「死生学」の構築
 →2006/**/** 「 」,報告書
◆2006/02/10 「障害者自立支援法、やり直すべし――にあたり、遠回りで即効性のないこと幾つか」(再録),岡崎 伸郎+岩尾 俊一郎 編 20060210 『「障害者自立支援法」時代を生き抜くために』,批評社,メンタルヘルス・ライブラリー15,176p. 1900+ ISBN4-8265-0436-5 C3047 pp.43-54 [amazon][boople] ※,
◆2006/11/10 「位置取りについて――障害者運動の」,東京大学大学院人文社会系研究科21世紀COE研究拠点形成プログラム「生命の文化・価値をめぐる<死生学>の構築」『ケアと自己決定――シンポジウム報告論集』,東京大学大学院人文社会系研究科,pp.15-23 et al. [報告:20051126 校正了:20060812]
◆2006/12/25 「ケアとジェンダー」,江原由美子・山崎敬一編,『ジェンダーと社会理論』,有斐閣,pp.210-221 第12章本論1
◆2006- 「人間の条件――わけがわからない。だから考える。」,理論社・ウェブマガジン http://www.rironsha.co.jp/special/ningen/index.html
◆2007/04/15 「書評:村瀬孝生『おばあちゃんが、ぼけた。』」,『北海道新聞』2007-04-15朝刊
◆2008/**/** 「人命の特別を言わず/言う」,武川 正吾・西平 直 編『死とライフサイクル』(シリーズ死生学・3),東京大学出版会 [了:20071022]
◆2008/**/** 「楽観してよいはずだ」,上野千鶴子・中西正司編『(題名未定)』,医学書院 [了:20071022]
◆2008/**/** 「位置取りについて」,『ケアという思想』(シリーズ ケア――その思想と実践・1),岩波書店 [了:20071022]


『私的所有論』 ケアの倫理学について

 「……「ケアの倫理学」についてGilligan[1982=1986]、cf.掛川典子[1993]、川本隆史[1993]。本書で考えようとすることの一つは、個別の関係に委ねるということ(今紹介した文献はこれに関わる)と一律に扱うということとの境界についてである。本章の全体がこの主題を巡る考察でもあり、第8章(356-357頁)で「正義」について少し述べたこと、また同章5節4(365頁−)で「他者が他者であるがゆえの差別」について述べたこともこのことに関わる。」
 (立岩『私的所有論』第5章注04・pp.205-206)

 「女性にとっての出生前診断について……NIH女性健康局と国立看護研究所が中心となり1991年に開催されたワークショップ「出生前遺伝検査――女性への衝撃」の講演(全員女性)を元に刊行されたRothenberg ; Thomson eds.[1994=1996]が重要。……ただ、各論者の立場は一様ではないし、その根拠も時に定かでない。Faden[1994=1996]は伝統的な「悪行回避の原則」「善行の原理」そしてフェミニストの「ケアの倫理」(→第5章注04)から出生前検査が正当化されるとする。……」
 (立岩『私的所有論』第9章注04・p.433)

◆立岩真也「なおすことについて」*注2より
 *野口裕二・大村英昭編『臨床社会学の実践』,有斐閣 pp.171-196

 「この国の風土においては、「ケア」とか「癒し」とか、そういうものの方が受け入れられやすいのかもしれない。しかしその危険性をきちんとみておく必要はあると思う。その危険性とはひとつに、その相手は(少なくとも常には)そんなものを求めていないかもしれないということである。私は、とにかく「消費者主権」「利用者主体」を掲げ、押し通すという、なにかしら趣きに欠けた社会運動のことを調べたり、考えたりしてきた。それはまったくみもふたもないことを主張する(ように見える。実際にはもう少し複雑である。)ただ、私はそれに理があると思った。cf.立岩[1990][1995]を含む安積他[1990→1995]、立岩[2000b]([2000f]に収録)。
 ところで冷たいこと、相対化を指向することは、臨床的であることと対極にあるのだろうか。そうでもないだろう。社会学がやってきたことは舞台裏を明かすことである。だが舞台裏を明かすことは幻滅だけをもらたすのではない。それを信じなくてもよいことを知ることで楽になれることはある。脱魔術的であることによって治療的であることもある。」(pp.191-192)

◆2005/08/25「学校で話したこと――1995〜2002」
 川本隆史編『ケアの社会倫理学――医療・看護・介護・教育をつなぐ』,有斐閣,pp.307-332 [了:20030716 校正:20050124]

 「☆02 学問・教育の位置の前に「ケア」そのものの位置がまず気になる。とくにこの主題については位置や距離に注意した方がよい。にもかかわらず、真面目で、優しくて、鈍感な言説があって、それが気になって、「だれがケアを語っているのか」、「「ケア」をどこに位置させるか」、「危険な言葉たちについて――ケア・QOL・その他」、「過剰と空白――世話することを巡る言説について」、「遠離・遭遇――介助について」(これは[2000b]に収録)といった文章を書いたり話をしてきたりした。それにも幾多の要素がある。一つは、(優しい)心がそこに現れることが常に望ましいのか。このことについては既に幾度も述べてきた。ここではそれと少し異なることをあげる。[…]」


★04 思うに、「ケアの倫理」といったものについて考えられることがもし仮にあるとすれば、例えばこんなことについて考えることではないだろうか。何も言わない人もいるが、饒舌な人もおり頑固な人もいる。その人に何を言うか、どう対したらよいのかである。本文に記したこと、つまり事実の認識についてそれは間違いだと言うのは、一つであり、一つでしかない。そして、はたして国家財政は困ったことになっているのか、それともそうではないのか、これはたんに事実認識の問題ではない。
 私はこれまで、人の価値観には介入しないという対し方が正しいとは考えないことを(幾度も)述べてきた。正しい情報に基づいて本人が決定(「インフォームド・コンセント」「インフォームド・ディシジョン」)という図式を常には支持しないことを述べてきた。そのことはここでは繰り返さない。その上で、その次に、様々考えるべきことがある。例えば、そのように相手に対することが、その人に加害的に作用することがある。(ただしこのことは、ではそのようにしないこと、手をふれないでおくこと、相手が言う通りにすることが相手を害さないことを意味しない。だから事態はやっかいなのでもある)。害するとまでは言えないとしても、そうそう受け入れてはもらえないことがある。で、どうするかである。
 一つ、間違いをこちらで引き受けることがある。実際、こちらが間違っているのであれば、そうすべきである。
 「私たちの社会は人に間違った価値を教えてしまっている。もしそう言えるのであれば――私は言えると思っている――人は私たちの間違いによって死ぬのだということである。[…]
 今からではもう遅すぎるのかもしれないけれど、申しわけないけれど、私たちの間違いによって死んでもらいたくない、と言うしかない。」(立岩[1998→2000b:60])
 加えれば、私たちはここでその人自身の「達成主義」を否定する必要はないし、否定するべきではない。なににせよなにごとかを成し遂げてきたこと、成し遂げようとしてきたことを否定してよいわけはない。問題はその価値が位置する場所である。働けること、働けたことを認め、賞賛しつつ、しかし別種のことも肯定することはむろん可能である。
 そして、変容、乗り換えを安易に肯定することである。
 「支持する規則を乗り換えるに際しての動機についてとやかく言う人がいるかもしれない。「都合がわるくなってから宗旨替えするのはずるい、あなたは自分ができなくなったから自分ができなくてもよいという規則を支持することにしたのではないか」と言うのだ。[…]たしかに自分にとって都合のよい方に都合よく乗り換えるというのはあまりほめられたことではないかもしれない。しかし、これまである規則や価値に乗ってやってきたのだが、考えてみるとそちらの方が間違っていたとなれば、それに乗りつづける必要はない。そして考えてみれば、たしかに間違っている。ならばその動機はなんであれ、乗り換えればよい。」(立岩[2004b:409])
 また、その人の言うことを受け入れて、そして従わないことがある。例えば、その人が「遠慮」することについて、立岩[2005-2007(16)](「得失と犠牲について・続」)で少し述べた。
 「立派なことを言う人に対して、まず、その気持ちはありがたく頂戴するけれども、その気持ちだけいただく、だから、ここはこちらの思いを汲んでいただき、その申し出は取り下げてもらいたいと言うことになり、それに対して、言い出した人は、いやいやそんなことはできない、と返すのだが、いやそれではこちらが困る、と言うことになっていて、そしてまたその人は実は生きていたくもあるから、結局は取り下げる。そんな過程があったりしてきたのではないか。」
 もちろん取り下げてもらえるとは限らない。そんなことの方が多いかもしれない。しかし最後に、何も決着しないまま時間が過ぎること、それは悪いことだと決まっているだろうか。
 「代わりにどうするか。[…]それはなにかものごとを「解決」することではない。おばあさんは花を盗るのをやめず、その花を育てている元校長先生は怒るのをやめない。」(立岩[2007])


REV:20070513(ファイル分離), 1020
ケア  ◇立岩真也 

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