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サイボーグ|cyborg


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last update:20160626

自然|nature / 自然な|natural
人工物|artifact / 人工|nartificial

■目次

生存学関係者の成果
関連文献表
関連項目
言及・引用


■生存学関係者の成果

北村 健太郎 20140930  『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』,生活書院,304p.  ISBN-10: 4865000305 ISBN-13: 978-4-86500-030-6 3000+税  [amazon][kinokuniya][Space96][Junkudo][Honyaclub][honto][Rakuten][Yahoo!] ※
『日本の血友病者の歴史――他者歓待・社会参加・抗議運動』

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■関連文献表

サイボーグ関連文献表:発行年順
サイボーグ関連文献表

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■関連項目

身体
改造
人工臓器
人工呼吸器
人工透析
スパゲッティ症候群/スパゲティ症候群

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■言及・引用

◆立岩 真也 2008/09/05 『良い死』,筑摩書房,374p. ISBN-10: 4480867198 ISBN-13: 978-4480867193 2940 [amazon][kinokuniya] ※ d01.et.,

 第2章 自然な死、の代わりの自然の受領としての生 1 人工/自然
 1 「自然な死」という語/2 すべてが自然の中にある/3 サイボーグは肯定される/4 無限の欲望という説/5 単純に苦痛を感じる身体という自然

 3 サイボーグは肯定される
 「[…]それだけのことだとまず言える。身体への機械の接合をはなから否定する必要はない。 当人の感覚としては、機械に一体感を感じる人もいるし、そのようには感じない人もいる。そしてどちらでもよいはずである。 ただすくなくとも、機械をはなから拒絶する必要はないということだ☆04。
 けれどもなお否定する人がいる。どうしてだろう。」
 「☆04 自らの身体、あるいはその身体に接続したりその周辺にある様々について、またそれらの様々の働きについて、 それらにどのような意味・重みが付与されているのか、それを調べてみるのもよいだろう。ただ、ここで、どこまでが自分かという問いの立て方はどれほど大切か。
 装着されている器具や機械に最初は違和感があるが、だんだんと慣れていって、意識することがなくなるといったことはあるだろう。 そのことについて様々な感情があったり、あるいはなかったりする。 そこで聞いてみると、その機械は自分の一部であると言う人もいるだろうし、一部のようなものだと言う人もいるだろう。そうは言わない人もいるだろう。 それは自分なのかと問われたら、問われる人も困るかもしれない。 自分の身体とはもって生まれた身体のことだという了解があるだろう。また、しっくりした感じがする、親しい感じがするといった意味合いも含まれているだろう。 その言葉自体に幾つも意味がある。そして、自分の/自分のでないという区分自体にさほどの意味がないことがある。  そして、このことは、個体の固有性や私の私性が大切でないということを意味しない。次に、固有性や私性は連続性や一貫性と同じではない。」

 5 単純に苦痛を感じる身体という自然
 「サイボーグについても、あるいは他の名称のものについても、同じことだ。 機械を埋め込むことにしても、あるいは細胞の水準になにごとかを行なうことも、様々なことが「原理的には」可能なのではあるだろう。 ただ、人体は脆弱だから、そううまくはいかないことが多いということだ。 それは、しかじかの理論によれば時間を遡ったり、空間を瞬時に移動することができるとして、そしてさらにそんな機械を作れないことはないとして、 しかし、やはりこの身体はそれに耐えることがどうしてもできないということと同様のことでもある。」

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◆立岩 真也 1997/09/05 『私的所有論』,勁草書房,445+66p.  ISBN-10: 4326601175 ISBN-13: 978-4326601172 6300 [amazon][kinokuniya] ※
◆立岩 真也 2013/05/20 『私的所有論 第2版』,生活書院・文庫版,973p. ISBN-10: 4865000062 ISBN-13: 978-4865000061 1800+  [amazon][kinokuniya] ※
Tateiwa, Shinya(立岩 真也) 2016  On Private Property, English Version, Kyoto Books

A part of what had been considered particular to the self is taken away, but this in itself is not a problem. On the contrary, criticism of it is based on an overemphasis on these characteristics that are lost. People may try to become cyborgs or to grow wings, but this in itself should not trouble us. When it comes to what is related to me, it is a question of my interests and tastes. Let us for the moment say that it is not a problem for people to change themselves in any way they like, or even to destroy themselves.

In most cases this kind of technology does not in fact require that something be attached to the body itself. And in practice there are already many substitutes for physical and intellectual abilities. It might be said that it is indeed because of this fact that there has been a focus on abilities that cannot be augmented or replaced by machines, like higher reasoning and intellectual functions, for example, and a tendency to use these kinds of abilities in conducting evaluation. But this can only be said after assuming that I must be evaluated based on something already belonging to me or part of me, and that I must be evaluated in regard to something in the first place (see Chapter 6 Section 2); if these assumptions are rejected there is no problem. If we strip away all of the abilities of an individual, a self comprised of a core subject possessing interests and tastes remains, but it then becomes clear that there is nothing more to the self than these particular likes and dislikes. There is nothing wrong with those so inclined following this road all the way to the core emptiness of the self, but it is also not wrong to forego this approach from the start. The development of technology may undermine the special status of the self as producer, but this in itself is neither problematic nor necessarily something that must await the development of technology to be realized.


 「固有に自己のものとされていたもののある部分は奪われるのだが、それはそれでかまわない。 むしろ、これへの批判はかえってその属性へのこだわりに基づいている。サイボーグになろうが、羽根をはやそうが、それはそれでかまわない。 私に関わる部分については、それは利益と趣味の問題なのであって、別段かまわない。自身をどのように変形させても、滅ぼしても、それはそれでよいとしよう。
 そして、多くのものは、実は身体に付着させる必要のないものだ。そして実際、既に、多くの身体的な機能、知的機能は、既に代替されている。 このことによってかえって、機械で(今のところは)担えない部分、例えば高度に知的な能力等々が注目され、その部分で評価が行われるようになると言われるかもしれない。 しかしそれは、何かが常に私の側にあるものとして評価されなければならない、 私が何かによって評価されなければならないという前提(第6章2節)の上ではじめて言えることであり、この前提は外▽261 してしまってかまわない。 私達の側にあった機能が外されていき、中心に趣味・好みの主体としての私が残るが、しかし、それはそれだけのものでしかないことがわかる。 わざわざそういう道を辿って中心の空虚に行き着こうとする人は行けばよいが、最初からその道を行くのをやめてしまってもよい。 技術の進展は生産する私の特権性を奪うかもしれないが、それはそれでかまわず、そしてまたそれは、技術の進展を待たなければ実現されないものでもないのである。」

◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940  [amazon][kinokuniya] ※, b

 「2 機械の肯定
 問題なのは、「管(カニューレ)が外れ呼吸ができなくなる呼吸器」といった出来のわるい機械であり、出来のわるい機械を作り、使いつづけさせている人たちであり、 危険を減らそうとしない人たちである。 はっきりしているのは、起こっていることが、「機械」に対する「自然」、「機械による延命」に対する「自然な死」といった抽象的な図式のもとにあるのではないということである。 機械は機械だから問題にされているのではない。信じがたく出来のわるい機械があるから、それをもっとよい機械にしようというのである。  同時に、人間と機械の新しい関係、といったようなことを語ってしまう人たちのように、ただ抽象的に機械との接合を賞揚しようとする必要もまたない。 機械、人工のものと身体との関係はまずまったく具体的な関係であり、その問題とは身体とさしあたり身体でないものとの接続の場、接合面に生ずる具体的な不都合や不快である。 身体と身体に接続するものとの間のインターフェイスの問題があり、苦痛の問題があって、人間と機械との接合は実際にはしばしばうまくいかない。 サイボーグもなかなか大変なのだ。治療や、治療と称せられるもののための身体の管理に伴う不快も同様の不快である。 例えば「不妊治療」についてそれを問題にしたのがフェミニズムだ。
 そのようなことは「倫理」の主題にとっては次元の低いことだと思われたのだろうか、生命倫理学、医療倫理学ではあまり問題にされない。 しかし単純な痛みやつらさを軽く考えること、軽く位置づけてしまうことこそが問題である。自分のために自分が大切にしているものを譲渡しなければならない。 その支払いが低く見積もられることに敏感であるべきであり、得られるかもしれないものと支払うだろうものと、両者の天秤のかけられ方を問題にしてよく、問題にすべきである。 そして自分のためならまだ仕方がないが、とくに他人にとって(も)有益なもの(例えば子どもを産むこと)のために、自らが時間を費やし、空間を狭められ、 身体の不快や苦痛を得なければならない場合がある。体外受精(+胚移植)の是非についての議論はとうに終わったことにされてしまっている。 しかしその苦痛、負担は終わっていないのだから、依然としてその技術はほめられたものではない(このことを立岩[1997b:156-158]で述べ、[2004e]で繰り返して述べた)。
 つまり、得られる代わりに引き換えになるものがあるということだ。もちろん、どんなものを得るにしてもその代わりに何がしかを払うということはあり、 それは仕方がないことだとも言えるのだが、問題は何と何が引き換えになるかであり、その支払いはどうしても支払わなければならないものなのかである。 いらなければ使わなければよいし、使うしかなければ、不具合が少なく苦痛が少ない方がよい
。  ALSの人たちはALSがなおるようになることを切実に求めている。それはまったく当然のことなのだが、別の障害の場合には、なおすこと、 なおされることへの疑義もまた示されてきた。 それはなおすために、(なおらないのに)支払うものが多すぎるからだった。多くの場合には、すんなりとなおるのであればなおすことの方がよいだろう。 しかしそのために多くを支払わねばならないのであれば、それはやめて機械や人によって補ってもらった方がよいということになる。 ここではなおすことと補うことのいずれがよいのか、あらかじめの順位はついていない。このことを第2章4節に記した。 そして次に、補う方法しかない場合には、あるいはその方法の方がよい場合には、それはうまく補われた方がよい。ALSの場合もうまく機械が合わない時の苦痛は大きい。 その苦痛はない方がよく、なくせないとしても少ない方がよい。
 以上の当たり前なこと、当たり前にすぎることを確認した上で、機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」 というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。 私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。さらに、自らの生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。 技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。 それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。
 この意味で機械は肯定され、技術は肯定される。 この本の冒頭に――「サイボーグ・フェミニズム」というものを提唱したということになっている――ダナ・ハラウェイの著書からの引用を置いた。 次のような文章もある。
【405】 《なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか》(Haraway[1991=2000:341]) 《機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。》 (Haraway[1991=2000:345])」
◇Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books & New York: Routledge  =20000725 高橋さきの訳,『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』,青土社,560p. ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241  3600 [amazon] ※ c01 c02

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◆立岩 真也 2002/10/31 「ないにこしたことはない、か・1」,石川准・倉本智明編『障害学の主張』,明石書店,294p. 2730  ISBN:4-7503-1635-0 [amazon][kinokuniya] pp.47-87

 「9 補足1・「社会モデル」の意味
 このように考えてくると、「医療モデル」「個人モデル」と「社会モデル」とをどのように解することができるか、おおよそのことが言える。
 社会モデルの主張が意味のある主張であるのは、それがその人が被っている不便や不利益の「原因」をその人にでなく社会に求めたから、ではない。 少なくともその言い方は不正確である。医療モデル・個人モデルが「足がないからそこに行けない」と主張するのに対し、 社会モデルは「車椅子が通れる道がないからそこに行けない」と主張するという対置は、わかりやすそうだが、正確ではなく、かえってわかりにくい。 目的地に着くことが可能になる条件としてはどちらもそれなりに当たっている。問題は因果関係ではない☆22。
 次に、なにかを実現する(たとえば目的地まで行く)ためにどのような手段を用いるか、それ自体にも問題の中心はないと考えるべきである。 第3節でも述べたように、身体をなおすのと身体の機能をおぎなうのとは連続的であり、当の人にとってどちらがよいかもいちがいに言えない。 なおすこととおぎなうことはどこが違うのか。 身体にあるものに物理的に加えるものなく機能が獲得されればそれはなおったということになり、何かが加わったらそれはおぎなうことになるのか。 しかし入れ歯もあるし、眼鏡もある。あるいは人工内耳で聞こえるようになる。脳のどこかと機械を直結させ、それで「視覚」を得られるようにしようという試みもある。 これまでSFには描かれても現実的にはあまり問題にならなかったのだが、考えられなくはないし、今のところの技術では冗談のようなものしかできてはいないのだが、 実際にないわけではない。
 この状態は障害が「おぎわれた」状態なのか、あるいは障害が「解消された」状態なのか。その境界はどこにあるのか。人工内耳は耳の中にある。 しかし、少し不細工な機械なら身体からはみ出るだろうし、そしてはみ出たからといってまったく別ものだと言えない。大きさとか身体への近さとかが規定しているのではない。 少なくとも両者は連続的だ。よく言われるように、使い慣れた道具は自らに一体化したものと感じられることがある。 手段としては、自分の身体を使おうが、機械を使おうが、電子回路を頭にくっつけようが、 基本的には――素朴な意味で言うのだが――物理的な身体とその外界との境界に格別の意味はない。同じなら同じであるかもしれない。
 「おぎなえばよい」という障害者側の主張を一つの方向に進めていけばそうなる。 「なおした方がよい」あるいは「もともと身体がうまく動いた方がよい」と「なにか別のもの(人や機械)でおぎなえばよい」とは接近する。 だから障害者運動の主張は、人によって補うことにとくにこだわらなければ、テクノ派からそう距離が遠いわけではない☆23。
 社会モデルの主張をまちがって受け取ってしまうと、環境によって対応することはよいが、なおすことはよくないことだという主張だということになってしまう。 そう主張しなくてならないことはなく、むしろ別の言い方をしなくてはならない。 それぞれの選択肢について、なにを支払わなければならないのか、なにが得られるかを考えるべきだと第4節で述べた。
 核心的な問題、大きな分岐点は、どこかまで行けるという状態がどのように達成されるべきかにある。 二つのモデルの有意味な違いは、誰が義務を負うのか、負担するのかという点にある。つまり対立は「私有派」と「分配派」(立岩[2001-2002])との対立としてある。 社会モデルはそれは個人が克服するべきことではないとする。 問題は個人、個人の身体ではなく社会だという主張は、責任・負担がもっぱら本人にかかっていること、そのことが自明とされていることを批判する。」
「☆22 では障害であると規定されること、「原因」がわかることはどのような意味をもつのか。 まず一つに、なにが起こっているのか、なぜそうなっているのかわからなかったものが、説明され、それでなにやら納得してしまうことはある。それは多分大切なことだ。
 一つには、心がけによってとか努力してとか、そんなことではどうにもなるものではないことがわかり、自分の側に向けられてきた圧力から逃れることができる。 そしてこの場面でその原因は「社会的な要因」である必要はない。むしろ例えば脳生理学的な理由であることがわかった方がすっきりするということもある。 社会要因説については、とくに精神分裂病や自閉症などについて家族にその要因が帰せられ、家族がその責任を負い、 努力しなくてはならないということにさせられてきたことがあった。そしてこのことは「社会モデル」の主張と対立するものではない。 立岩[2002b(2)(3)]で原因帰属についてすこし考えてみた。
☆23 こだわった部分はたしかにあった。
 「八一年三月、広島の会員が、電動車椅子でふみきりを横断中動けなくなって、電車にひかれ死亡するという事故がおこり、 それをきっかけに兵庫・広島・福岡の青い芝の会が、電動車椅子は本質的には介助者の手を抜く健全者の御都合主義だと主張して、 電動車椅子を否定する方針を八一年一二月の第五回全国代表者大会に議案書修正案として提案し、受け入れられる。」(立岩[1990:212→1995:212])
 人に行わせることと機械を使うこととの二者がある時に、前者を主張する仕方にもいくつかある。そもそもそれは人が行うべきことだと言われることもあるが、 この時にはなぜそもそもなのかを聞かれるだろう。人が行う方が当人にとってよい――気持ちがよい、安全である、…――ことが主張されることがある。 また、人手を使わないことを手抜きだとする批判がある――ただ無害な省力化自体は否定すべきでないとすれば、 ここでは単に省力化が問題にされているのではないと考えられているのか、それとも、無害であっても省力化は問題だとされているのか。 障害者運動の主張とテクノロジーとの関係についての論考として石川[1999]。サイボーグについてHaraway[1991=2000]。」

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*作成:北村 健太郎
UP:20070405 REV:0406, 20080920, 20100122, 20160111, 0626
血友病  ◇身体  ◇改造  ◇人工透析  ◇事項
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