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サイボーグ ◆サイボーグ関連文献表:発行年順 ◆サイボーグ関連文献表 ◆身体 ◆人工臓器 ◆人工呼吸器 ◆人工透析 ◆スパゲッティ症候群/スパゲティ症候群 ■言及 ◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4-260-33377-1 2940 [amazon]/[boople] ※, b 「2 機械の肯定 問題なのは、「管(カニューレ)が外れ呼吸ができなくなる呼吸器」といった出来のわるい機械であり、出来のわるい機械を作り、使いつづけさせている人たちであり、危険を減らそうとしない人たちである。はっきりしているのは、起こっていることが、「機械」に対する「自然」、「機械による延命」に対する「自然な死」といった抽象的な図式のもとにあるのではないということである。機械は機械だから問題にされているのではない。信じがたく出来のわるい機械があるから、それをもっとよい機械にしようというのである。 同時に、人間と機械の新しい関係、といったようなことを語ってしまう人たちのように、ただ抽象的に機械との接合を賞揚しようとする必要もまたない。機械、人工のものと身体との関係はまずまったく具体的な関係であり、その問題とは身体とさしあたり身体でないものとの接続の場、接合面に生ずる具体的な不都合や不快である。身体と身体に接続するものとの間のインターフェイスの問題があり、苦痛の問題があって、人間と機械との接合は実際にはしばしばうまくいかない。サイボーグもなかなか大変なのだ。治療や、治療と称せられるもののための身体の管理に伴う不快も同様の不快である。例えば「不妊治療」についてそれを問題にしたのがフェミニズムだ。 そのようなことは「倫理」の主題にとっては次元の低いことだと思われたのだろうか、生命倫理学、医療倫理学ではあまり問題にされない。しかし単純な痛みやつらさを軽く考えること、軽く位置づけてしまうことこそが問題である。自分のために自分が大切にしているものを譲渡しなければならない。その支払いが低く見積もられることに敏感であるべきであり、得られるかもしれないものと支払うだろうものと、両者の天秤のかけられ方を問題にしてよく、問題にすべきである。そして自分のためならまだ仕方がないが、とくに他人にとって(も)有益なもの(例えば子どもを産むこと)のために、自らが時間を費やし、空間を狭められ、身体の不快や苦痛を得なければならない場合がある。体外受精(+胚移植)の是非についての議論はとうに終わったことにされてしまっている。しかしその苦痛、負担は終わっていないのだから、依然としてその技術はほめられたものではない(このことを立岩[1997b:156-158]で述べ、[2004e]で繰り返して述べた)。 つまり、得られる代わりに引き換えになるものがあるということだ。もちろん、どんなものを得るにしてもその代わりに何がしかを払うということはあり、それは仕方がないことだとも言えるのだが、問題は何と何が引き換えになるかであり、その支払いはどうしても支払わなければならないものなのかである。いらなければ使わなければよいし、使うしかなければ、不具合が少なく苦痛が少ない方がよい 。 ALSの人たちはALSがなおるようになることを切実に求めている。それはまったく当然のことなのだが、別の障害の場合には、なおすこと、なおされることへの疑義もまた示されてきた。それはなおすために、(なおらないのに)支払うものが多すぎるからだった。多くの場合には、すんなりとなおるのであればなおすことの方がよいだろう。しかしそのために多くを支払わねばならないのであれば、それはやめて機械や人によって補ってもらった方がよいということになる。ここではなおすことと補うことのいずれがよいのか、あらかじめの順位はついていない。このことを第2章4節に記した。そして次に、補う方法しかない場合には、あるいはその方法の方がよい場合には、それはうまく補われた方がよい。ALSの場合もうまく機械が合わない時の苦痛は大きい。その苦痛はない方がよく、なくせないとしても少ない方がよい。 以上の当たり前なこと、当たり前にすぎることを確認した上で、機械と身体との関係を「ただ機械につながれた状態」とか「スパゲッティ症候群」というようにたんに抽象的に否定的に語る必要はなく、語るべきでない。不要な管が不要であることはまったく当然のことだが、必要なものは必要だというだけのことである。私たちは、そのままに与えられたものとしての身体が保存されるべきことを主張する必要はない。さらに、自らの生存を断念するという不自然な自然に回帰することもない。技術を、痛いから拒否することはあるが、否定しない。触手を伸ばして栄養を摂取する動物がいるように、その自然の過程の延長に機械はあるだろう。それもまた自然の営みなのだと、自然が好きな人に対しては言ってよい。なんならそれを進化と、進化が何よりも好きな人に対しては、言ってもよい。 この意味で機械は肯定され、技術は肯定される。この本の冒頭に――「サイボーグ・フェミニズム」というものを提唱したということになっている――ダナ・ハラウェイの著書からの引用を置いた。次のような文章もある。 【405】 《なぜ、我々の身体は、皮膚で終わらねばならず、せいぜいのところ、皮膚で封じこめられた異物までしか包含しないのだろうか》(Haraway[1991=2000:341]) 《機械は、息を吹きこまれ、崇められ、そして支配される何物か(it)ではない。機械は、我々、我々の過程、我々が具体的なかたちをとる際の一つの側面である。》(Haraway[1991=2000:345])」 ◇Haraway, Donna J. 1991 Simians, Cyborgs, and Women: The Reinvention of Nature, London: Free Association Books & New York: Routledge=20000725 高橋さきの訳,『猿と女とサイボーグ:自然の再発明』,青土社,560p. ISBN-10: 4791758242 ISBN-13: 978-4791758241 3600 [amazon] ※ c01 c02 UP:20070405 REV:0406 ◇身体×世界:関連書籍 |