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立岩の文章からの引用




■立岩真也 2001/11/10 「常識と脱・非常識の社会学」
 安立清史・杉岡直人編『社会学』(社会福祉士養成講座),ミネルヴァ書房 目次等 [了:20001224]

 8 「確率」による差別
 […]
 さらにたとえば犯罪。どこかの知事が外国人は危険だと言ったとしよう。露骨な敵意からそんなことを言っているのかもしれないが、それが「確率的には」当たっている、数%か犯罪を行なう確率が高いことはありうる。悪気や悪意はないが、しかしどちらか一人をとるとなったら安全な方を採用するということはあるかもしれない。
 9 悪循環の形成
 こうして、近代社会が業績原理の社会だからといって、人がたまたま背負っている属性に関わる差別がなくなることにはならない。確率的にでしかないにせよ、その属性と業績(犯罪等は負の業績とも言える)とが関連するなら、差別は生ずる(「統計的差別」)。これは単に偏見の問題ではない。あるいは、じつは偏見や悪意、敵意に基づくものでしかないとしても、また自らが属する集団の既得権を守り自らの有利を維持しようとする――このことについては後に述べる――ものでしかないとしても、排除に一定の根拠を与えてしまうことになる。
 そしてその経路は組み合わされることがある。たとえば、どんな合理的な理由もなくある人たちが排除されることがあるとしよう。その結果、生活に困る人が出てきて犯罪の率が高くなる。その結果、今度は犯罪を起こす可能性が相対的に高いからという「合理的」な理由で排除される。その結果、排除にともなう犯罪等が増え、さらに排除が行われる。こうして悪循環が形成される。こうした循環の中で、どこに問題があるのか、誰に責任があるのか特定することも難しくなる。単なる言い逃れなのかもしれないがそうでないかもしれない。そしてその中で筋を通そうとすると割をくう可能性がないではない。他が排除している中で受け入れると、受け入れが高い水準になり、問題が起こる確率がより高くなるといった具合にである。そして、ここでは排除され差別される側の人たちの内部に分裂、対立が起こる可能性もある。自分たちがせっかくおとなしくしているのに、一部の連中がぶちこわしにしているとか、たんなる腰掛けで仕事をしている女がいるせいで女だとみんなそう見られてしまってポストが与えられないとか。
 「確率」による差別は「ゆえある」差別と言えるかもしれない。しかしこれを仕方がないと言ったらなんでも仕方がないことになってしまう。それは排除の理由を与え、そして排除する側に利得を与えることになる。たとえば女性の離職率が仮に高いとして、そのことについてある一人の女性はなんの責任もないのに、不利に扱われる。これは基本的にあってならないことである。しかし、そういう人たちを排除するそれなりの理由もあることも見てきた。排除された人たちを受け入れるとわりを食うことがあるということである。寛容なところが不利益を被る。排除で対応することは、基本的には問題を他に押しつけてしまうことでしかない。それはまずいならどうしたらよいか。」


■立岩真也 2003/01/01 「生存の争い――医療の現代史のために・9」
 『現代思想』2003年1月号

「□危険/確率
 […]
 この度の法案に反対する人たちは、しばしば、権利ばかりを言い犯罪の被害者のことを見ることのない輩である、と言われる。しかし、そもそもそんなことはないというだけでなく、そう言われれば、ときに脅迫的に言われれば、そのように言われることをどう考えるかを、またそう言われることと自分との距離を考えざるをえない。
 政策を批判する側が言ってきたのは、なされるのが「社会防衛」だということだ。もちろんそれはそのとおりだ。しかし残るのは、「社会防衛」はいけないのかという問いである。社会を害から守る、それだけの意味であれば、それはよいと言うしかないではないか。とした場合にどんなことがさらに言えるのかだ。
 例えば、池田小学校の子どもたちが殺されたのはお前(たち)のせいだといった非難が精神障害の人の権利のために活動している人に対してなされるし、また、日頃「社会運動」にすこしも関わりをもたない人にも、つまりは同類がそうした非道なことを行なったのであり、おとなしく病院にいればよいのだという類いの非難が投げかけられる。これはこれで十分につらいことだ。それはさすがに卑怯なことだと大方の人は言うとしよう。しかしその卑怯さを差し引けば、被害を減らそうとすることに理はあるのではないか。そしてその人たちは、大きく「社会」とは言わないかもしれない――以前と比べると、この部分にいささかの変化が見られるかもしれない。常に被害者はどうなるのかという問いが出される。放置しておけばさらに被害が出るではないかと言う。
 かつての政治と異なり、この時代の政治は人々の生を目標にし、人の状態を気づかうものとしてあると、その安全と健康と幸福の増殖をはかろうとすると言われる。これもそれだけを取り出せば、よいことではないか。安全であることはよいことではないか。このことについて何を言えばよいのか。自由を侵害されることの危険性だろうか。ただ、いささかの自分の自由を犠牲にしても安全を優先しようと、少なからぬ人は思い、そのことを口にしてもいる。そのとき、その臆病さをただ指摘すればよいというものでもない。
 だから、という順序ではないにせよ、犯罪と精神病者・障害者あるいは知的障害という問題の設定において、病者・障害者の側に立つ側は、そこで名指しされる人たちととそうでない人の犯罪を犯す可能性について、その差がないことを言ってきた。実際、多くの場合このことについて多くの人が思い間違いをしているのは事実であり、その間違いを正すこと、正し続けることはまったく大切なことだ。同様に、ハンセン病は実は危険な病気ではなかったのに患者は隔離された、エイズの患者は危険ではないのに差別された。しかし、そのようにだけ言えばよいのだろうかとも、誰もが思ったことがあるはずだ。危険だったらどうなのだろう。むろん、これはたいていの場合に愚問でもある。危険とはまったく存在しないか現実の危害として発現するかではなく、なにか策を講ずれば、人間そのものを隔離するといったことをする必要はないのだ。隔離は不要であり、また問題の解決にもならない、つまり社会防衛の手段としても有効でない。この点はこの度の法案についても大切である。それにしても、この問いは消えてなくなるわけではない。
 仮にいくらかその確率が高いとしよう。そうした場合には、単にいわれのない差別ではないとされ、合理的な行動だとされるかもしれない。強制的な隔離は問題であるとしても、それが「私人」の自由の範囲内で、例えば賃貸住宅への入居を拒絶したり、雇用しないというぐらいであればそれは当然の行ないではないか。たしかにそれが単なる悪意、偏見によるのではない可能性を認めよう。しかしだからそれに発する排除を認められるだろうか。認めれば、例えば女性はいくらかでも仕事をやめる可能性が高いから女性であるあなたは雇わないことも当然だということになる。たまたまある範疇に属していることによって、そして実際に自分が行なったことではないことによって判断されることになる。それは受け入れられないのではないか。しかし、その可能性が1%と2%との違いではなくもっと大きな違いであったらどう考えたらよいのだろう。
 範疇を区分けし、より危険なのかそうではないのかという問題を設定すること自体の作為性を問題にするという言い方はある。なぜ分割し、それぞれを測るのか、しかも確率として問題にするのかと言うのだ。しかし、ともかく分けてみれば有為な差が見出される、あるいは見出される可能性が高い限りは、その設定は有効なはずだという反論はなされるだろう。そして私たちは毎日確率を使っているではないか、天気予報を見ているではないかと言うだろう。その種の実証主義・現実主義を無視するという言論の自由は、この争いの中では保護されない。土俵に上がって何か言うか、上がらないからその理由を言わなくてはならない。だがこの場面で「社会的構築」を言うことがその理由として認められるかと言えば、それは難しい。
 そして本人たちや本人たちに関わっている人たちは、確率の高い低いはともかく、周りに自傷、他害を起こした人、起こしそうな人が身近にいて、ときにはその中に自分がいることを知っていて、それをどうしようかと悩んでいたりもする。
 他者について、その存在が不可解であってもなんでも、しかし自分が無傷であることができれば、その存在を受け入れることに、あるいは受け入れるべきだという言説を受け入れることに人々は吝かではない。それがどうやら流行であるとなればなおさらだ。そしてその存在とはむろん単独の存在であるからには、それを範疇において、確率において捉えることがよくはないことも言うだろう。範疇を括り出し排除している、その声が聞かれることはない、その声にならない声を聞かなければならないと言う。そのとおりではあろう。ただそれも自らが無事であればのことではないか。そして「甘い対応」をしたら、他で排除された人たちも含め、問題を抱えた人たちがそこに集中してしまい、結果、問題が起こるかもしれない。そんなことが精神障害者が通う小さな作業所の問題なのであり、そして移民や難民を巡って国境に起こるできごとなのだ。だから考えるべきことは、捏造に対しては捏造を指摘し続けながら、それだけでない部分について、それだけでないとされる部分について、何を言うかのはずである★04。」


 
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■『自由の平等』序章第8節「分配されないものの/ための分配」より

 「分配を基本的に否定する立場と別に、問題を分配の問題として語ることに懐疑的な立場がある。問題を分配の問題として語ることが楽観的であると、あるいは現実とその問題を看過していると感じられる。それは一つに、分配だけで問題が解決されると考えているように受け取られることから来るのだろうか。たしかに私はいま、右から左、下から上、上から下に行き渡るもの、AからとってきてBに渡せるもの、渡すべきものについて考えている。それは分配的正義をめぐる議論だ。簡単な問題と難しい問題があって、私は簡単な問題、考えれば解けそうな問題について、分配可能なものをいかに分配するかについて考えようとしている。しかしそんなものしか世の中にはないと言うのではない。分配したり交換したりできないもの、あるいはすべきでないものがある。
 例えば、取り返しのつかない危害を加えてしまうこと、それに関わる責任の問題をどう考えるか。やはり徴収し分配することができないとされる関係やその関係の中にあるもの、また帰依や帰属をめぐる事々をどう考えるか。これは別の経路から同時に考えるべき大きな主題群として残される。私も、ここまで述べてきた簡単な方の仕事を一〇年か二〇年して、それがいったんひとまとまりつくのなら、考えてみたいと思う。
 ただそれにしても、一つにまったく素朴に利害について考え、そこから何が言えるかをまず言ってみることだろう。例えば差別という行いにはたいてい「いわれのない」という言葉が前に被せられ、それはその通りなのだが、同時にそこに生じているのは一方の側の利益、そして不当な利益の取得であったりもする。また起こっているのは、範疇の区分けに関わって見出された微細な差異に由来する、あるいはそれを理由に発動される、ある「合理性」を有する差別の増幅過程であったりもする。とすればまず、考えるに簡単な側から考えられるだけのことを考えておいてもよいと思う。
 そして一番基本的なところに立ち返れば、譲渡したくないものを譲渡せずにすむように、分配が要請される。存在は代替されないし交換されない。存在のための分配、譲渡されないもののための譲渡、交換されない存在のための交換が求められる。だから、両者は独立してもいるが、つながってもいる。楽な方から考えていっても考えていくときっと別のところに出ることになる★15。」
「★15 本書はまったく単純に分配について考える。分配の問題として社会を語ることへの批判は数あるが、それにどう応えるか。論点は多岐に渡り、ここでも個々の論点がはっきりさせられていないのが問題なのだが、まずおおまかには次のように言える。第一に、分配について考える仕事はすこしも終わっていないのだから、考える必要がある。第二に、いくつかの批判は本書で行い今後続ける議論には当たらないと考える。第三に、分配の問題として考えられない部分、考えるべきでない部分があることを認めるが、それをどう考えるかを考えるためにも、私としては、本書で行う作業を進めていこうと思う。
 […]
  一つに悪、責任という主題がある。岡野は、正義から矯正的正義の側面が落とされ分配的正義として語られてしまっていることをShklar[1989=2001][1990]等を引きながら批判する。正義を分配の問題として把握すると落ちてしまう部分を考えたいのだと言う。財一般に対する好悪の感情についてもこのことは言えるのだが、それがいま記したように人に向かうときには、人に対する好悪とは感ずる人にもその感情が向けられる人にも制御できないものだとされることになる。むろん、実際には様々に可変的でもありまた操作されることがあるにせよ、それはいま記してきたことを全面的に否定するものではない。美醜を巡る感情、人に対する好悪はそんな場に置かれている。cf.[1991][1997:365-367](第8章5節4「他者が他者であるがゆえの差別」)、本書第2章注9。(存在の承認、承認の要求もまた同じ位置に置かれているだろうか。私はそれは少し異なると考える。このことは第3章で述べる。また例えば感情/利害といった境界を、単純に、社会の領域の境界に対応させるべきではない。cf.第3章注14、愛情について[1990]、家族について[1991])」


 
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■2004/12/31「社会的――言葉の誤用について」
 『社会学評論』55-3(219):331-347

  「例えば責任について。既に加害がなされた後でその責任をとる、とらせるとはいったいどういうことなのか。これは大きな問題だが、どう考えてよいのか私たちはよくわかっていないと思う。」


 
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■2006/**/**「むしろ困難と怪しさを晒すこと」
 後藤弘子『ベーシック少年法』,法律文化社 [了:20040202]


UP:20050730 REV:20060306
犯罪・刑罰
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