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刑罰・知・主体 3
犯罪/刑罰


last update: 20131011


 * 以下は立岩真也が1985年頃に作成したものです。
 cf.立岩真也 1987/12/** 「FOUCAULTの場所へ――『監視と処罰:監獄の誕生』を読む」,『社会心理学評論』6, pp.91-108. (1987年12月) 70枚


第1節 司法・行刑装置の改革(18−19世紀)

■ 違法・黙許範囲の移動・犯罪の変化

  近代以前、所謂アンシャン・レジームの刑法・刑罰の制度から近代のそれへの移行は、例えば次のように述べられる。

「アンシャン・レジームの刑法制度は、法と宗教・道徳との不可分性、身分による不平等性、罪刑専断主義、刑罰の苛酷性を特色としていたが、その基礎には王権神授説と結びつく贖罪応報思想と絶対王制の権威を示す一般威嚇思想があった。これに対して、啓蒙主義刑法思想は刑法制度を宗教と王権の権威から解放し、人間の合理的理性によって基礎づけようとした。刑罰権の根拠と限界を社会契約説によって基礎づけることから出発した。罪刑法定主義、罪刑均衡主義、苛酷な刑の廃止、合理的、目的論的刑罰観を主張したのである。」(内藤謙[1977:122])

  さらにまた、例えばフランスの刑法について、それが注目を惹くのは「暗黒の絶対主義時代から理性と人間性を旗印とする啓蒙運動を原動力として展開されたフランス革命を経て、近代刑法へと進んでいった人類の刑法の歴史だからだ」(中村義孝[1970:398])と、この移行は「解放」の観念のもとに捉えられる。
  確かに、私達は以下で、恣意的な刑罰の賦課・罪刑専断主義から罪刑法定主義への移行、確かに時として残酷であった身体刑から自由刑への移行を認めることができよう。けれどもそれは、合理性や理性や人間性へと向かう進歩、解放の歴史として捉えられるものなのか、あるいは確かにそこでは合理性や理性や人間性が主張されたとして、それはどのようなものだったのか。この節では、まず違法の範域と犯罪現象の変化、それと相関するものとしての司法機構の整備について、次に、公開の身体刑の消失とそれに代わる刑としての監禁の波及について検討しよう。
  犯罪の質・量の変化を、そして何を犯罪とみなすかという規定の変化をみることができる。後者から概観していく。
  最も顕著なのは、所有権の侵害に関する法の増加であり、その規定する違法行為の範囲の拡大である。また、違法行為の黙許から追及へという変化である。例えば、慣習的に認められていた森林への立ち入り、たき木の採取などが禁じられる。あるいは、狩猟法の制定により、私有地に立ち入って狩猟することが禁じられる。また問屋制家内工業において慣習的に黙許されていた、原料・製品の横流し等が取り締まられる。
  こういった変化は、それ自体、逸脱行為を産み出すわけだが、また、この適法/違法、黙許/追及の境界の変更は、変更前に営まれていた生活の途を絶ち、あるいは狭めることになる。このことが――少なくとも一つの主要な――原因になって、多くの人は土地を離れ、都市で、またその土地で、資本体に下属する。それとともに、定職を持てず、浮浪――このこと自体犯罪とされたのであるが――する人々が増加し、犯罪をしばしば起こすことになる。この両者の区別はさほどはっきりしたものではない。
  概ね以上のように言えるにしても、実際はより複雑である。
  Foucault は、フランスについて、「図式的に言いうるとすれば、旧体制下においては各種の社会層のそれぞれは違法行為に対する黙許の余地が与えられていたが、それは規則の不履行、数知れぬ勅令や王令への違反が、社会の政治的ならびに経済的な営みの一条件であったからである」と述べ、以下のことを記している(以下Foucault[1975=1977:85-88])。
  下層の人々は、原則的には特権をもたなかったが、「法と慣行が課す彼らの義務の周辺部で、力によるか不屈さによるかして獲得した黙認の余地を活用していた。しかもその余地たるや、彼らにとってまったく不可欠な生活条件だったから、彼らはそれを守るため蜂起の構えを見せる場合もしばしば起こった」。こういった中で、一方では、「犯罪行為は、民衆層がいわば生活条件として重視していた、より広範な違法行為に基盤をもっていた」。すなわち、犯罪者の行為は「とりわけ密輸入とか、主人の不当な取立てのせいで土地を追い出された百姓とかの場合には」、「過去の戦いとの一直線なつながりがあると考えられたのである」。だが他方では、人々が容認していた違法行為者、例えば放浪者が彼らに犯罪を行った場合には憎悪の対象になった。それは「もっとも不遇な下層民たちにむかって彼らは、彼らの生活条件に組み入れられているとはいえ違法行為をやってしまったからである」。つまりは「犯罪行為をめぐって賛辞と侮辱が結び合わさっていたわけで、この不安定な人間にたいしては、実際上の援助と恐怖が交互に差し向けられていた。なぜならば人々は、自分が彼らと近接した人間であるのが分かっている一方では、彼らが犯罪をおこしかねないのを明確に感じていたからだ。民衆の違法行為は、それの極端な形式であると同時にそれの内在的な危険である犯罪行為の中核をすっぽり包んでいたのである」。
  そしてまた、「一般的にいえば、各社会集団に独特な各種の違法行為は相互にさまざまな関係を、敵対と競合と相互対立と相互的な支えと共犯を同時に合わせもつ関係を結んでいた」。相互的な支え、共犯的な関係としては、「たとえば、国や社会が課す、ある種類の租税の支払いの、農民による拒否は、地主が必ずしも悪意をいだいて見ていた事態ではない。また、製造所規則の、職人による不履行は、新しい企業家によってしばしば奨励されていた。密輸入もきわめて広く支持された[…]。極端な例では十七世紀に、相互にひどい隔たりのあるいくつかの社会層の激しい抵抗をとおして、各種の徴税拒否の動きが連携するという事態が見られたのである」。さらにいえば、「いくつかの変貌(たとえば、コルベールのつくった諸規則の廃止、王国内における税関による種々の拘束にたいする不履行、同業者組合の実務の崩壊)は、民衆の違法行為によって日常的に[社会の]割れ目が大きくなるなかで行われたのであった。ところが、こうした変貌を必要としたのはブルジョワジーであったし、それを基礎にして彼らは経済的繁栄を部分的には樹立したのであった。したがって[違法行為の]黙許は奨励になっていた」。
  18世紀後半にこの過程が逆転する。違法行為の重点は財産に移行する。「たとえばかっぱらいや盗みが、密輸入ならびに徴税官との武闘と入れ替わる傾向にある。しかもその限りにおいては農民と小作人と職人がしばしば、この事態の主要な犠牲者である」。地主・農民の関係においても、「集約農業への移行にともない、慣行上の諸権利や黙認事項や容認されていた小さい違法行為にたいして、ますます拘束力の強い圧迫が加えられる。その上、土地の所有権は、ブルジョアジーがそれを部分的に入手し、それにのしかかっていた封建的な賦課から解き放たれると、今度は絶対的な所有権になってしまう」。
  また商業および工業においても、「港の発達、商品があつめられる大きな倉庫の出現、大規模な工場の設立(それには原料と道具と製品が多量に関係してくるが、それはすべて企業家の所有であり、しかも管理が困難である)にともなって、違法行為のきびしい取締りが必要になる」。例えば、船舶のまわりに落ちている屑鉄や網の切れ端を拾う、あるいは、ごみの混ざった砂糖を掃き集めて転売する、といった既得権、黙認事項の存在によって、また略奪と黙認される密輸入とが類似しているように思われその重大さが感じられないことによって、盗みが助長されることが言われ、黙認事項の取締りが主張される。
  18世紀あるいは17世紀末より犯罪現象に変化がみられる。
  それは互いに関連している3つの移行、と捉えることができる。まず、身体に加えられる危害から所有権の侵害への移行。ついで、「偶発的だが、しばしば起こる、赤貧の階級の広範な犯罪に、限定された、「巧妙な」犯罪が取って替わる[…]。十七世紀の犯罪者は「疲れきり、食べ物に窮し、その場かぎりの、かっと腹を立てる人々、収穫期に先立つ夏場の犯罪者」であるが、十八世紀の犯罪者は「計算のうえで立ち廻る、ずるく、悪賢く、狡猾な連中」であって、「社会の周辺部の人々の」犯罪行為となる。最後に、「大規模な徒党をくむ悪人(武装した小単位からなる強盗団、徴税吏に発砲する密輸団、群をなして放浪する、解雇されるか脱走するかした兵卒たち)は解散する傾向」にあり、追及の手をのがれる、ごく小さな集団あるいは個人による犯罪が主流となる。そしてこの集団は「派手に暴力をふるったり虐殺の危険をおかしたりが少なくなって、人の目を忍んで悪事を働くことに甘んじるようになるのである」(Foucault [1975=1977:79])(1)。
  所有にかかわる犯罪の増加については、富の一般的な増大、所有に対する価値付与の高まり(2)――それは犯罪の増加と、またそれの抑止への要求の2つの方向に働く――がまずあげられよう(Foucault [同:80]etc.)を参照)。
  以上に加え、Foucault は2つあげる。1つは、「十八世紀全体にわたる、司法面の一定の重圧化」――重罪化と取締りの強化――であり、それにより「かつては司法によって安易に放置されていたすべての軽度な非行は取締りの対象」となる傾向にあり、また「組織的で公然たる犯罪行為の発展は妨げられ、その種の行為はいっそう慎重な形式のものへ変わる」。もう1つは、大きな徒党の減少という今日の歴史家の確認事項に反して、とり わけ田舎における「重罪の危険有害で絶え間ない増大についての、かなり一般に受けいれられている確信」の存在、すなわち犯罪に対する情報・反応の増大である([同:80])。

「一つの循環的な過程にもとづいて、狂暴な犯罪に対する処置は一層厳しくなり、経済的な違法に対する厳重な処置は増加し、当局側の統制はいっそう密になり、刑罰による関与は、一段と早手回しなものとなると同時に一段と回数がふえている。」([同:81])

そして、むろん、先に述べた違法/適法、追及/黙許の境界の変更、具体的には所有を巡る領域における違法化、追及の拡大がとりわけ重要である。先に紹介した黙許から追及への移動についての記述に続いて、次のように述べられている。

「これまでは、ひっそりした、日常的な、黙認された姿で、あるいは暴力的な姿で、権利にかんする違法行為に属していた、民衆によるすべての実際行動は、資本の蓄積と生産関係と所有権の法的位置とが新しい形式をおびてきたので、止むをえず向きを変えて財産にかんする違法行為へ集まってきている。法律上および財産上の天引を旨とする社会から、労働手段と製品との獲得を旨とする社会へ人々を移し替えるこうした動きのなかでは、盗みが、法の大がかりな巧みな抜け道の最たるものになる傾向をもっている。」[同:89]

■ 中世〜絶対王制の司法制度

  このような犯罪の布置、犯罪の布置についての認識、そしてそれを取り締まろうとする意図のもとで、司法機構の不備が指摘され、その改革が志向される。
  では、当時の、あるいはより以前の司法制度はどのようなものであり、それはどのように変化してきたのだろうう。塙浩の簡潔な記述を引用する。(3)

「権力が極度に分散されているときは、類型的にいえば、何らかの違法行為がなされた場合、集団全体に対する直接的加害行為と意識される場合を別とすればその解決は当事者である権力者間の実力的解決に委ねられているにすぎず、何らかの意味での中央機関はその違法行為およびその解決手続に対しては何ら関与するところはない。即ち、国内「平和」を維持する担当者はなく、そもそも「(一般)平和の観念」自体が、従ってまた、「国家法益」ないしはそれに類する観念もあるはずはなく、直接の被害者とは別にその集団の中央機関が自らの利害において制裁を科することもない。紛争解決のために、復讎が避けられ和解がなされる場合にも被害者にたいする賠償金支払で事は決着する。また多少他より強い権力者の登場により彼を裁判官として訴訟の形での和解が試みられるときですら、仲裁々定的性格が強く維持されており、また裁判は被害者側の告訴をまって始めて機能するにすぎない、このように権力の分散は、西欧社会では、フェーデ(私戦)ないし賠償金制度および親告手続と関連する。」(塙[1960:434])

もちろん集団内の問題はその内で(氏族であれば族長により)解決される。集団間の争いが私戦(Fehde)を始めとする方法によって解決されるわけである。

「しかし物理的実力=権力の剥奪と集中が一円的な地域的規模で何らかの程度において進行した段階になると、始めて権力の集中者・裁判権者は治安担当者たる自身と公けの利害において積極的に動き始める。即ち、民事と刑事との、刑罰と損害賠償との分離が、従って、「刑罰」が実刑を先頭にして、権力者による復讎と威嚇という姿をとって、誕生し、また訴訟手続面では、糾問手続が即ち、被害者の告訴をまたずに裁判権者が犯人を職権的に追及・逮捕し、立証・判決するほどの手続が誕生し始める。」([同:434])

  フランスにおけるその開始の時期については、論者により見解が異なるようだが、塙はV.Achter に従い、12世紀後半としている([同:447-449])。なお、私戦・血讎はなかなかなくならないが、制度としてフランスでそれが消滅したのは、15世紀末とされる([同:434])。

「他方、より高範囲の平和と権力集中との要請は局地的平和領域の支配者をも従属せしめうる、より高次の支配者の出現によって満たされていくのであって、フランスでは「集権的集権」策により絶対王制末についに国王は権力の独占をほぼ完成するに近い状態となる。」([同:434])

ここで要請とは12世紀以後の貨幣経済による要請である([同:449])。階層化、中央集権化の進展は複雑なものであって、その全容を要約して提示するのは困難であり、またさしあたってその必要もないが、フランスについて最低限のことを、この論文より記しておく。12世紀(中頃)以降、独立的な城主支配権の併存の崩壊、すなわち、城主層の上下への分化、大諸侯と小権力者の分離のなかで、大諸侯はより広い領域の平和維持の担当者となるとともに小権力者の保有するバンはかっての自己完結性を喪失して、大諸侯による大きな平和維持機構の一機関となっていく([同:449ff])。13世紀前半に、国王領、大諸侯領内の権力集中の基礎および王の大諸侯にたいする封主権は一応確立し、ここで成立した領主裁判秩序は大革命まで国家的裁判組織の基底として存続する([同:465])。そして、王と大諸侯の、とりわけ王の領主裁判権にたいする圧迫・侵害・支配が、上訴制度の拡充、国王裁判専取事件の拡大、そして国王専決事件への移行、その拡大といった過程を通じて強化されつづける([同:465ff])。
  しかし、アンシャン・レジームにおいては王権による中央集権化の不徹底によって、またその中央集権化の質によって、近代の司法体系にみられるような統一的なピラミッドはついに構成されない。
  福井憲彦が、P. Gouvertなどに拠りつつまとめているところでは、「第一に、三権分立でないから、立法と行政とが複雑に絡み、すべての管理行政部門が裁判権をもつか、あるいはもつと主張する」。「第二に、売官制による国家収入のためにも、旧来の制度を廃止しないまま、新しい官職をつくり、新制度を積み重ね、後者によって前者を事実上骨ぬきにするというやり方がとられる。したがって、古い制度が新しい制度と現実に併存するという現象が一般的となる」。「第三に新旧制度の管轄区分や地域は、一致しない。県単位を基礎とするフランス革命後と異なり、町村の区分、教会管理区分、旧来の封土関係、地域慣習法圏、司法管区、徴税管区、軍事管区など、これらの単位が同一の基礎をもたず複雑に入り組んでいた」(福井[1982:254-255])。
  このような機構の中にあっても、一般の人々は、「基本的にそれらの仕組が日常生活に関与してくる限りで対応していたのであって、さしあたり全体の機構の錯雑さを念頭におく必要はなかった」。しかも、「伝統性の強い社会では、非日常的状況がない限り、そうした対応の必要は小さかった」([同:255])。共同体内の制裁が十分に機能している限り、その中での問題はそこで解決される。だが、それはまた、国家の法に対する黙許の領域でもあった。この領域を規制しようとする勢力にとっては、その存在はかえって有害であることになる。(4)

■ 司法機構の改革

  先に述べてきたような犯罪現象の拡がりに対して、そしてそれらを取締まろうとする意図において、これらの司法機構は不適格なものとして批判され、改革が志向される。
  「裁判の審級が、連続的で単一的なピラミッドを構成せず、多種多様」であること、それにより、多様な裁判審級は「それらの過剰によって互いに、弱めあい、社会の総体を全面的に覆いつくす力を失ってしまっている。[…]刑事司法を逆説的に欠落の多いものにしている」。すなわち「慣行ならびに訴訟手続きの多様さにもとづく欠落、それぞれの裁判審級が守らねばならぬ特定の――政治的あるいは経済的な――利害関係による欠落、最後に特赦・減刑・[国王]顧問会議への裁判の移送・法官にたいする直接的な圧力によって、司法の峻厳かつ正規の進行を妨げる場合が起こる王権の介入にもとづく欠落」。 (Foucault [1975=1977:82])
  下級の裁判権のなかに過大な権力が存在するため、上訴を不問に付したり、自由裁量による判決を勝手に執行することができる。また告訴側に過大な権力が存在し、被告が無力なため、判決は過度に峻厳であるか、過度に放任的であるかである。そして、裁判の中断、判決の変更、司法官の官職の剥奪、解任、追放、代わりの裁判官の任命、を行うことのできる国王の過大な権力が存在する。
  そして、この権力の機能不全は、極端な権力集中、「君主の《超権力》」に関与するものとみなされる。すなわち、国王が裁判官官職を売る権利を有することによって、無能で私利私欲に夢中な裁判官が生まれることになる。絶えず新たな官職を創設することにより権力と権限上の軋轢を強める。自由裁量に近い権力を裁判官に許容することにより、司法界における各種の軋轢を強める。一般の司法を、過度に多くの性急な訴訟手段(即決裁判所裁判官や治安代官がもつ裁判権)、行政上の措置と競合させたことにより、正規の司法を麻痺させ、時には放任的で不確かなもの、時にはあわただしく峻厳なものにしている。([同:82-83])

「司法の諸特権、それの専断、それの古くさい尊大さ、それの無統制な権利などは、それほど批判されているわけではないし、そうした点だけが批判されているわけではない。むしろ批判の対象は、司法の弱体と欠落との混合であり、とくに、この混合状態の根本たる、君主制の超権力である。改革の真の目標は、しかも改革のもっとも一般的な文言の表明当初からのその目標は、新しい処罰権を、より公正な原則にもとづいて樹立する点にはそれほど存しているわけではない。懲罰権の新しい《経済策》を樹立すること、懲罰権のより良い配分を確保すること、懲罰権が特権的ないくつかの地点に過度に集中したり、相対立する裁判審級のあいだに過度に分割されたりしないようにすること、したがって、懲罰権が、いたる所で連続的に、しかも社会体の最少単位にまで行使されるような、同質的な回路のなかに、懲罰権が割り合てられるようにすること、以上の諸点に存している。」(Foucault [1975=1977:83-84])

例えば、官職の売買、また罰金を裁判官が受け取るといった判決の売買の制度の廃止、裁判の王権の専断からの分離、司法と立法との分離が主張される。そしてFoucault によればそういった主張は、例えばVoltaire のような専制政治に反対する人々、司法装置の外側にいてそれに反抗する人々によって、それらの人々によってだけなされたというより、様々の利害、関心のもとにある人々によって、司法装置の内部にある人々、きわめて多数の司法官によってなされた。確かに彼らの大多数が改革者でなかったにせよ、改革の一般原則をあらまし提示したのは法律家である。([同:84])

「一八世紀のあいだずっと、司法装置の内でも外でも、刑罰の日常的な実務においても諸制度への批判においても、懲罰権の行使のための新しい戦略が形づくられているのが認められる。しかも法律理論のなかで表明されたり、あるいは改革計画のなかで図式化されているたぐいの、いわゆる《改革》は、そうした戦略の、そうした根本的な目標を含めての、政治的もしくは哲学的な繰り返しである。つまり違法行為にたいする抑制と処罰を、社会と共通の外延をもつ、正常な機能にすること、より少なく罰するのではなく、より良く罰すること、苛酷さを和らげたかたちで処罰することにになろうが、しかし一層多くの普遍性と必然性による処罰であること。処罰する権力を社会体のいっそう奥深く組み込むこと。」([同:85])

  大革命期に、そしてナポレオン体制において、またそこに制定された諸法典において、それ以前より追求されてきた中央集権化は、専断を排し、幾重にも重なりあい互いを弱めあっていた諸機構を統一し、官僚制的な単一のピラミッドを形成して、ひとまず完成し、国民の一人一人を確実に法の拘束下におくことが可能となる。
  次に刑罰の改革について検討するが、そのためにはまず、改革前の刑罰の様相をみることから始めなくてはならない。

■ 公開刑・その両義性

  近代以前の刑罰においては自由刑はまったく重要な位置を与えられていない。刑は死刑、笞刑、晒刑、などであり、死刑、笞刑、そして当然晒刑は、公開の場で行われた。(フランスについてFoucault [1975=1977]、Deyon[1975=1982]、イギリスについてM.Ignatieff[1978]等々を参照。)Foucault は、公開の身体刑を、(国王の)権力が自己を表明する際の儀式であると捉える。
「公開される処刑というものは、蝕まれたのちに回復する権力がいとなむ一連の大掛りな祭式全体[…]のなかに組み込まれるのであって、君主を軽んじた犯罪にたいして万人の面前で無敵の力をふるうわけである。処罰の儀式の目的は、あえて法を侵そうとした臣下と、自己の力を強調する全能の君主とのあいだの力の不均衡を最大限にうかびあがらせることが主であって、釣合を回復させることは従なのだ。軽罪によって起きた個人的な損害の賠償は、その損害と正確に釣合が取れていなければならないし、その判決は公平でなければならないが、しかし[重罪への]刑罰の執行は、適度を旨とする見世物をではなく、不均衡と過度を主眼にしたそれを行うためのものである。したがってこの刑罰の典礼のなかには、権力への、それの本質的な優越性への誇張された肯定が存在する必要があるのだ。しかもその優越性たるや、単に法のそれにとどまらない。さらに、敵対者の身体に襲いかかりそれを支配する君主の物理的な力の優越性でもある。すなわち、法を侵すことで犯罪者[=法律違反者]は君主の人格そのものを傷つけたわけであり、その人格こそが――あるいはすくなくとも、犯罪者が君主の力に侵害を加えた、当の相手の人々こそが――被処刑者の身体につかみかかって、烙印を押しつけ、打負かし、痛めつけたその身体を見せつけるのである。」(Foucault [1975=1977:52])
  公開の処刑は18世紀末から19世紀にかけて消えていくことになるが、そこにはどのような事情があったのか。Foucault 、そしてIgnatieffは公開の刑がある両義性をもっていたことを指摘している。
  処刑は民衆の面前で行われる、というより行われねばならない。民衆に参与してもらわねばならない。またその立ち合い、参与は民衆の権利でもある。処罰への参与は、時に統治者が、犯罪者を民衆から「保護」せねばならないほどである。「ところでその点においてこそ、民衆は、彼らを戦慄させようとして考え出された処刑の見世物におびきよせられながらも大急ぎで処罰権力にたいする拒否を、時として反抗をもやってのけることがあるのだ」(Foucault [同:62])。民衆が囚人の処刑を不当と考える時には、処刑される囚人に励ましが与えられる。あるいは、時には暴動が起こることもある(Foucault [同: 62-67]、イギリスの事例についてIgnatieff[同:20-24])。
  民衆だけでなく、囚人もまたその処刑の場である種の権利・義務を与えられていた。例えば、死刑囚は刑の執行時に発言の機会を与えられた。そこでは、自らの罪と死刑宣告の正しさを認める発言が期待されていたのだが、囚人はしばしばそれを裏切り、民衆から期待された役を演じ、その「戯れ」の死(・game"death)を人々の記憶に刻み、時には、判決の正しさに異議を唱えた(Ignatieff[同:223]、死刑囚の執行時における発言を書きとった(とされる)記録、その両義性についてはFoucault [同:67-71])。
  このような処刑の場における反抗がしばしばおこるようになる。このことは、すでに民衆を一つの儀式の中に収めることができなくなったことを示す。18世紀、19世紀の改革者達は公開刑の非道徳性、残虐さを強調し、やがて人はそれを信ずるようになる。しかし公開の刑は、民衆にとっては、囚人の権利を守るためのものでもあった。彼らは、処刑が正しく行われることを監視する義務があると考えていた。また秘密の刑に――例えば賄賂によって替え玉が処刑されるのではないかといった――恐れをいだいていた(Ignatieff[同:24])。身体刑の消滅は、人道主義の発展によるものと考えることはできない。それは、まず公開刑の引き起こす無秩序への恐れによる。あるいは公開刑の不道徳性――とは、この無秩序のことである、ともいえよう。
  上述のことと無関係ではないのだが、(残酷な)身体刑へのためらいは、また、なされた犯罪とそれに課される刑罰との不釣合いの感覚に結びついているだろう。このような時初めて、残酷は残酷として映るといってもよい。

「[…]処罰が、もはや、流された血や、神や王に対する犯罪を課すのではなく、飢えからやむなくやった場合ですらありうる単なる盗みを罰する時、それらの処罰はもはや耐えられるものではなくなったのである。それらの処罰の繰り返しは、場合によっては、滑稽で刺激的な、一種のサブ・カルチャーの台頭をひき起こす危険性があった。」(Deyon[1980:93])

ここまで(残酷な)身体刑であることと、それが公開であることを一緒にして述べてきた。Foucault の述べるように、君主の権力の誇示として刑がある時には、両者は必然的に結びつくだろう。しかし両者は分離して存在しえないものではない。
  刑が公開のものとしてあることは、刑の残酷さが軽減されようとする時にも存続しよう、というより存続が主張されよう――むろんそれは王の権力の身体への刻印としての刑ではもはやないとしても。公開性の消失については、上述したように、処刑の場で、処刑を支持しない者達が反抗の行動を起こすという事情、従ってそれが隠された場に移行するならば、犯罪者と他の者達を分断することが可能になるという事情とともに、その隔離された閉域のなかでの犯罪者に対する関与の試み、それがなされる場としての閉域=監獄の誕生あるいは改革について考察せねばならないだろう。この節の後半でそれを行う。
  また残酷さに対する非難についてはさらに次項においても検討しよう。

■ 表象としての刑罰

  先に司法装置の改革を主張した改革者たちは、どのような刑罰を望むのか。それは私達の時代の自由刑と同じでものではない。
  Foucault は、改革者の戦略が、まず「契約の一般理論」のなかに表明されている、と言う(以下Foucault [1975=1977:92ff])。犯罪者は契約を破った者であり、社会体の敵とされることになる。
  では、彼らの主張する刑の軽減――社会体の敵とされるなら、その処罰権は君主の敵であった時より強大ではないか――はどのように導かれるのか。Foucault は「《人間らしさ》を尊重せねばならないとの原理の表明」は、「心情披瀝の言説」として、「一人称のかたち」で、「話をする当人の感受性がじかに表現されているような調子」で行われていると、けれども、この《感受性》への依存は理論化の不可能性を意味しないと、述べる。すなわち、こうした依存には、一種の計算の原則が含まれているのである。

「顧慮すべき身体、想像力、苦痛、心情とは、実は、処罰すべき犯罪者のそれらなのではなく、契約に同意することによって、犯罪者に対して結合権を行使する権利を有する人々のそれらなのである。刑罰の緩和によって除去されるべき苦痛とは、裁判官や見物人のそれであり、しかもそれには、結果的に生じるかもしれないところの精神的無感覚、慣れによって起こる残忍さや、反対に不都合な憐れみ、根拠のとぼしい寛大さも含まれている。今や法は、《自然本性にそむく》人間を《人間的に》取扱わなければならないのだが(過去の司法は《無法者》を非人間的なやり方で取扱っていたけれども)、その理由は、犯罪人が内部に隠しているかもしれぬ奥底の人間性に存するのではなく、権力のみちびく諸結果の必然的な適性化に存している。この《経済的》合理性こそが、刑罰の尺度となるべきであり、それの整備された技術を定めるべきだというのである。《人間性》とは、この[刑罰の]経済策に、またそれによる綿密な計算結果につけられた敬称である。」([同:94])

私達はここに言われていることを2つに分け、また先に触れた「苛酷な」身体刑の消失との関連において次のように考えることができる。
  第1には――この論文では主題的に扱っていないが――統治権力の編成の変換である。王の権力は、日常に対して過剰であることによってその超越性を受けとろうとするのだが、またそれは、そのことに対する帰依なくしては存立しえない。この帰依が失われようとするとき、また同時に、それに対する対抗が意図されるときに、刑罰の苛酷さが浮かびあがり、また非難されることになる。代わりに打ち立てられようとするのは、人々の意志の結合によって構成される社会であって、そこでは、刑罰権は最終的には個々人に帰せられるがゆえに、刑罰に対する個々人の感情といったものが固有に問題になってくる。
  第2には、犯罪の取締り、刑罰の効果である。王権は、苛酷な刑罰を規定する。またそれをみずからの権限において、具体的な各々の場合に軽減する。そしてこれらのことによって自らの超越性を維持しようとする。けれどもこのような機構は、先に概観してきた犯罪現象の布置に対して、それを取締するためには、十分な効力を持たない。刑罰は、犯罪を抑止するために適性な度合のもの――抑止の効果がないほど軽いものではなく、またその法の犯罪に対する優位を疑わせるほど、あるいはかえって残忍性を助長するほど、苛酷なものでもないそういった度合いのもの――でなくてはならない。処罰は「効果にかんする技術になろうとしている」(Foucault [同:95])のである。

「[…]かつては懲罰ならびにその華々しさの――したがって、その法外さの――一つの成果として期待されていた予防が、今や懲罰の経済策の原理、そして懲罰の正当な釣合をはかる尺度に変わろうとする傾向を持っている[…]。防止するために、まさに充分なだけ処罰しなければならないのである。」([同:95-96])

Foucault は、ここで用いられる記号=技術論(semio-tecnique)の主要な規則をあげている。1.「最少限の量の規則」。犯罪による利益より刑罰のもたらす不利益がやや大きい、そうした措置をとること。2.「充分なる観念性の規則」。最大限であるべきは刑罰にかんする人々の表象――それが犯罪を思いとどまらせる――であって身体に加えられる刑罰の実態ではない。3.「側面上の効果の規則」。刑罰が与える最も強い効果は、悪事を働かなかった人々から得られるものでなければならない。4.「完璧な確実さの規則」。個々の犯罪とそれに期待される利益の観念には、所定の懲罰とそこから生じる不都合の観念が、必然的に、またいかなるものによってもうち破れぬものとして、結びつけられねばならない(法を万人の知りうるものとすること、特赦権の放棄、司法機関にたいする監視・)5.「万人に共通な真実の規則」。まったく明瞭に、しかも万人に有効な手段にもとづいて、犯行の現実を確証すること(拷問の廃止・)。6.「最も望ましい種別化の規則」。犯罪を定義し、刑罰を規定する、あますところのない明白な記号体系(code)が作られること([同:92-101])。
  Foucault は、この「種別化」、「記号体系化」の試みそのものの中に、というよりその意図の中に、それを逸出する部分が現れることを指摘している。(以下で「個人化」、次に2方向の「客観化」が語られるが、それは後の監獄における犯罪者への関与、そこで形成される知の位置を明らかにするための伏線としてあるとともに、この項で扱われる改革の中に含まれるその萌芽(少なくとも意図における)、両者の間の差異、この時期に未だ不在のもの、を指示している。)同じ刑罰についての観念が、すべての人に同じ影響を及ぼすわけではない(例えば金持にとっての罰金刑)。犯罪の有害性と人を誘惑する力は犯罪者の身分によって異なる(貴族の犯罪は社会にとりより有害である)。犯罪者の根本的な性格、邪悪さの程度、意志の性質等が、刑罰が再犯を防止するものである以上、考慮される必要がある。「個々の犯罪者の個別的な性格に合致した、刑罰の個人化の必要性が出てくるのが認められる」のである。法理論との関連では、また刑罰の日常的な実務の要請にもとづくと、この「犯罪者=処罰の対を変調する作業」すなわち「個人化」は、「犯罪=懲罰という仕組の記号体系化」と根本的に対立する。けれども、権力の経済策、権力を無駄なく社会体のすみずまで行き渡らせようとする技術という観点に立つなら、両者は互いに相手を呼び求める」のだということが判明する。「この個人化は、正確に当てはめられた場合の記号体系[=準則]の、いわば最終的な狙いという姿で現われる」。この個人化は、過去の法解釈学による刑罰の変調作業(行為自体の性格を定めうる《情況》と《意向》の二系列の変化する項が用いられる広義の《決疑論》――それはキリスト教的な贖罪の実務と合致する――とは非常に異なっている。「今輪郭を見せはじめているのは、犯罪者自身に、彼の性質に、彼の生活・思考の様式に、もはや彼の意志の《意向》にではなくそれの《質》に関連する、そうした変調作業なのである」。この場は、いずれ心理学的な知により占められることになろうが、18世紀末にはまだ虚ろなままの場なのであり、記号体系化と個人化の相互連関は、当時の科学的モデルに求められる。おそらく博物学が最も適切な図式を提供している(分類法、リンネ的な体系――)。これとは別に、人間学的な個人化の若干の形式が、まだごく粗雑なやり方で、組み立てられつつある。第1には再犯の概念について、第2には《情痴》犯罪という概念の形式において([同:100-103]]。

「[…]出発点に位置づけることができるのは、違法行為にこまかく警戒網をはり、処罰の機能を一般化し、処罰する権力を制御するためにそれを制限しようとする、そうした政治的計画である。ところが、そこから犯罪ならびに犯罪者の二つの客観化の流れが出てくる。一面では犯罪者は、万人が追跡したいと願う、万人の敵として示されるので、社会契約からはずれ、市民としての資格を喪失し、本格的ないわば野蛮さの断片を保持しつつ突如として現われる。[…]他方、処罰する権力の効果を内部から調整する必要上、規定されているのが、現実のであれ可能性としてのであれ、すべての犯罪者にたいする介入の戦術である。つまり、犯罪防止の場の組織化であり、利害関心の計算であり、表象と表徴の普及であり、確実さと真実とを中心とする地平の設定であり、ますます精緻となる、さまざまな変化する項への刑罰の順応である。」([同:103])

そして、第1の客観化のためには「犯罪人が認識の一領域のなかで限定された一つの客体となるためには、長い間さらに待つ必要があるだろう。それに反して、もう一つの客観化は、処罰する権力の再編成といっそうじかに結びついていただけに、より速やかで決定的ないくつかの成果をあげた」([同:104])と言われる。
  第1の客観化は、先の「個人化」についての知の形成、とともに、すなわち「非行者(delinquant)」の観念の形成によって確立することになる(第3節で検討する)。そして、第2の客観化、あるいは個人に対する攻囲の形態も、また、すぐさま変化を見せることになろう。だが、まずこの時代の改革者によって構想された刑罰とはどのようなものだったのか、検討すべきである。次のように言われる。

「ある犯罪にかんして、適切な懲罰を見つけるということは、不利益の観念がいちじるしいので犯行の観念が最終的には魅力を失ってしまう、そうした不利益をみつけることである。」([同:109])

刑罰は犯罪へ駆りたてる感情を圧する、「表象=妨害」となる。
  それが機能するための条件をFoucault はいくつかあげる。
[1]できるだけ恣意的でないこと。犯罪に対してその処罰をすぐさま想起できるように、犯罪と処罰の結びつきが――類比・類似・近接により――無媒介なものであること(例えば殺人に対しては死刑、放火に対しては火あぶり)。「懲罰は犯罪を基とすべきであり、法は事態の必然的な成りゆきであるかのように見えるべきであり、権力は自然のおだやかな力のなかに姿を隠して作用すべきである」。
[2]犯罪を魅力的にする欲望を減少させ、刑罰を恐ろしいものとする利害関心を増大させること。犯罪を産み出した利害関心を無力にする(放浪の罪の背後にある怠惰を働かせることにより直す)、また利用する(虚栄心を利用した加辱刑)、有用さや美徳をめざす関心をよみがえらせる(自由の剥奪により、自由を尊重する感情をおこさせ、他人の自由を尊重させるようにしむける)。
[3](刑罰の)時間上の変調作業による効用。表象を変容し、変更し、確立し、[犯罪への]妨害を作り出す刑罰により有徳の人にもどった人が、その拘束の効用を活用できるための刑期の設定。懲罰の時間、権利剥奪状態は、罪人に影響を及ぼし、またそれを目撃する民衆に法の思い出を新たにさせ、効力をもった恐怖をよみがえらせる。そして、刑罰による成果があがるに応じて緩和される刑罰。
[4]人々の見るところ、自然であるのみならず関心をそそる、そこに自分自身の利益を読みとれるような懲罰。すべての市民に損害を与えた犯罪にかんして、ひとりひとりの市民に支払う代償であるとともに、万人の精神のなかに犯罪=懲罰という表象を忍びこませるような刑罰、例えば共同土木事業。
[5]刑罰のなかに法じたいが読み取られる、そうした刑罰。犯罪を語り、述べ、法を思い出させ、処罰の穏当さを証明する公開刑、氏名と犯罪と判決の書かれた牢への市民の訪れ・、「一つの儀式であるより一つのいつも開かれている書物」としての懲罰。
[6]処罰についての再記号体系化。人物名鑑や刷り物や民話がほめ歌っている大悪党の雄々しい行為を沈黙させ、かわりに、懲罰への、計算に基く懸念によって犯罪意欲を抑える、表象=妨害としての言説を流布させること・。こうして処罰の都市が構想される。様々の場所に懲罰教示の小舞台が多数もうけられて、そこでは、掲示、帽子、貼り紙、プラカード、人々が読んだり印刷される文章など、これら一切が、「刑法典」にもられる内容を倦まずたゆまず伝える([同:109-118])。
  個々人によって構成される社会、そしてそこに作られる法、その法が誰にとっても明らかであり、その法によって個々人は行動を規制する――。そうしたユートピアの中の、法を指示する表象としてまず罪人が存在する。刑罰・受刑者は、刑罰を知り、受刑者を観ることによって、犯罪を差し控える、そのためにある。後にそれは刑法学(史)において、刑罰の「一般予防」の機能と呼ばれ、今検討している時期の思潮(「古典学派(旧派)」あるいは「前期古典学派(前期旧派)」と呼ばれる――その代表者としてまずあげられるC. Beccaria をFoucault は頻繁に引用している)は、これを重視し、犯罪と刑罰の損得を計算できる「合理的」な人間観をもっていた、などと言われるだろう。だが、そこでは刑罰、刑罰を課せられる人を観ることについての言及(があったことについての言明)はなされていないようだ。けれども、Beccaria は、公開の処刑を確かに主張している([1764=1959: 113])。予め、そこには監獄しかない、とされているのだ、と言うこともできよう。次に、この刑罰=表象の観念とともに、犯罪者の「矯正」の観念もまたみることができる([2][3])。ただ、それは後の監獄におけるそれとは異なっている。Foucault によれば――監獄について論点を先取する形になるが――、両者は、再発防止の機能、矯正のための処置、刑罰の個別化、という点で一致しているが、刑罰の技術論において相違する。刑罰の適用地点は、前者において「表象」、後者において「身体、時間、毎日の動作と行動、(習慣の座にある範囲)での精神」であり、その道具は、前者において「表象」、後者において「強制・訓練」であり、再構成しようとするものは、前者において「法主体としての個人」、後者において「服従する主体」である([同:129-134])。この相違については別途検討を要するが、ともかく,,矯正における「個別化」「個人化」が、犯罪・刑罰の「記号体系化」と背馳するものであることは確認できよう。
  こういった諸言説の中に、投獄は規定されてはいるが、それは、個人の自由の侵害にかんする犯罪(誘拐・)、自由の乱用から生ずる犯罪(乱行、暴力)といった、ある種の軽罪に対する、他の種々の刑罰のなかの一つとしてである。また、それはある種の刑罰(例えば懲役刑)の執行のための条件としても規定されている。けれどもそれは、刑罰の全領域を覆っているわけではないし、もっと明確に言えば、刑罰としての閉じこめは多数の改革者達によってはっきりと批判されている。なぜなら、それはさまざまの犯罪の種別性に応じることができず、一般大衆への効果を欠くから、また費用がかかり、受刑者を無為にすごさせ、彼らの悪徳をつのらせる点で、社会にとり無益であり、有害であるからである。またこうした刑罰の執行はその取締りが困難であり、被拘禁者を看守の専横にさらすおそれがあるからであり、人間の自由を奪い監獄に入れて監視する仕事は圧政的権力の仕事だからである。「要するに監獄は、刑罰=効果、刑罰=表象、刑罰=一般的機能、刑罰=記号および言説にかんする例の技術全体と両立しないのである」。([同:118-119])
  ところが、例えば1810年の刑法典をみればわかるように、監獄はまたたくまに懲罰の本質的形態になった。それはフランスだけに限られない。法律家たちは監獄を刑罰とみなさなかったにもかかわらず、少なくともフランスでは、監獄は、少なくとも実務面では王権の専横、君主の越権行為とじかに結びつけられていたにもかかわらず、いかにして、監禁は、法律上の懲罰の最も一般的な形式の一つとなりえたのだろうか。([同:119-124])
  Foucault はそれに答えを見出している。また私達もそれを考えてみることにしよう。だが、その前に、18世紀における自由刑の漸次的な拡大と、18世紀末に改革が志向される以前の監獄・矯正所の状態を、主にイギリスについて眺めてみることにする。

■ 自由刑の漸次的拡大と監獄の現状

  Ignatieffが18世紀のイギリスにおいて次第に自由刑が刑罰としての位置を占めるに至る事情を述べている。その概略は以下のようなものだ([1978:16-29])。
  Black Act、Bloody Codeと通称される刑法典は、犯罪範囲の拡大(特に所有に関わる犯罪について)と重罰化(特に死刑の拡大)をもって特徴づけられるが、実際には、特に新しく規定された犯罪、刑罰に関して、裁判官により、また聖職者の介入により、より緩やかな刑罰が課された。この傾向は急激な流刑の増大に寄与する。1717年他の法律は、軽窃盗、強盗、小額紙幣の偽造、盗品の受け取りに対し、笞刑に替え流刑を規定する。これは重罪化とも解されようが、裁判官の側をみるなら軽微な犯罪に対する死刑適用に対する疑念の増大を示す(例えば、盗品の価値を低く見積り、死刑の適用される重窃盗でなく、流刑の適用される軽窃盗を言い渡す)。また18世紀には、不起訴、罪状を軽くした起訴の増加がみられる。議会、裁判官、陪審が、笞刑、死刑に替わるものとしての流刑の拡大において協調したことが明らかである。(1769年末までに、流刑はオールド・ベィリー(Old Baily)の判決の70%を占め、死刑からの減刑を含めればさらに高い比率になろう。)
  1717年の法は軽窃盗に対し流刑を規定したが、場合に応じて短期の投獄を伴う、公開の笞刑を宣告した。この判断の基準は定かでないが、犯罪の重さの他に、初犯である場合、主人に対する召使い、使用人の窃盗の場合に、流刑のかわりに笞刑が宣告されたようである。法は、召使いの窃盗を雇用に含意された信用の侵害のゆえにより重くみなしたが、実際には主人が裁判官に、再び雇用することを申し出、寛大な処置を嘆願したようである。多分、1760・70年代の労働力不足がこのことに影響している(1770・74年のオールド・ベィリーでの場合に応じて投獄を伴う笞刑は14.2%)。
  すなわち、まず死刑から流刑への移しかえが存在する。Ignatieffはそれを死刑(の適用拡大)への公衆の不満に帰す見解を紹介しつつ、それだけを言うのは――他の要因は不明だが――危険であるとしている。また流刑から(特に短期の投獄を伴う)笞刑への移しかえが存在する。ここには雇用の維持という要因が介在していると述べられた。この後にIgnatieffは、公開刑の両義性、危険性、事実しばしば危険であったことを述べている(先述)。次に彼は治安判事の即決裁判(summary justice)の拡大について述べる。以下、私達が既にみた領域を含むが、具体的な事例を補う意味で、Ignatieffの記述にそって紹介する。
  1775年以前は、重大な犯罪については流刑、笞刑、死刑、晒刑が課せられ、投獄は地方の治安判事の即決裁判に付される軽微な違反に対して用いられた。治安判事の権限は18世紀中拡大していく。1755年までに彼らは、放浪、家族を捨てること、私生児を産むこと、殆どの取引きにおける違反・横領、私有の森林からのたき木の採取・倒れた木の密集、狩猟法の軽微な違反、について投獄の権限を有していた。
  1744年の浮浪法は、行政官に、乞食、旅芸人、賭博師、ジプシー、行商人、その他「通常の、普通の賃金のために働くことを拒むすべての人々」に対し、笞刑、投獄の権限を与えるだけでなく、放浪する狂人、その他「戸外を流浪し、醸造所、納屋、家屋、戸外に泊り、自ら生計を営むことをしないすべての者」に対し、投獄の権限を付与した。
  さらに、1604年の職人に関する諸法により、行政官は、契約の期限が切れる前に労働を離れた、3か月前に解約の通告をしない、主人を殴った、あるいは何らかの形で服従しなかった召使い、使用人に対する笞打ちあるいは投獄の権限を与えられていた。
  狩猟法もまた、地方における賃金の規律の強化のため(狩猟の取締りはそれによる生計の途を絶つことになる)、行政官に投獄の権限を与えた。18世紀、狩猟法違反の多くは、安上がりで期間が短くてすむため、即決裁判――投獄、笞刑のいずれかが課される、いずれを選ぶかの基準は明らかでない――にかけられた。
  横領についての諸法は、原料を受けとり自宅で働く労働者――例えば、商品に油を引いたり長さを引き伸ばしたりする絹、綿の紡ぎ・織り職人――の統制を意図する。18世紀に、経営者達は、原料と製品の販売、処理の独占を脅かすこうした行為に敏感になる。一方、労働者は、例えば労働の過程ででた屑を自分のものとすることを権利とみなしていた、こういった慣習に対する攻撃のための後ろ楯として、経営者は法に頼る。1725年から1800年に、それ以前のすべてより多い11の法が制定され、刑が重くなる(1741年には通常矯正所で14日であったものが、1774年には3か月)。これらの諸法のほとんどは即決裁判において適用された。
  これらの法がどの程度厳格に適用されたのかは明らかではない。経営者自身による懲罰との使いわけ、笞刑と投獄についての基準、またどの程度放浪者は精力的に捕まえられていたのか・。これまでの研究はそれに結論を与えていない。だが、散在するいくつかの証拠より、1775年前には、法の実施は選択的なものであったことがうかがわれる。治安判事の多忙、教区の役員・警官が放浪者を捉える誘因がない(1751、ロンドン)といった事情が存在する。1752年、議会は治安判事に放浪者の逮捕に際し報酬を与える権能を付与するが、少なくとも1772・75年の間は、放浪者を地方の出費により監禁するより、笞打ちを与え教区に帰すことの方がより一般的であった。他の軽犯罪者についても、裁判官は彼らを重犯罪人に比し無視しており、18世紀の改革者の批判はこの点にもっとも頻繁に向けられる。J. Howard の1776年の調査は、イングランドとウェールズで 653人の軽犯罪者しか監禁されておらず、治安判事が新たな監禁の行使に必要な警察を欠いていることを示している(被拘禁者の15.9%に過ぎない――59.7%は債務者、24.3%は重犯罪者(公判を待つ者、死刑・流刑の執行を待つ囚人、監禁刑をうけているわずかの者よりなる)である)。またこのことは、経営者、地主が――仕事場、農場の小規模なこと、家族的な経営が恐らく関係しているだろうが――軽微な犯罪について治安判事に訴えるより自ら制裁を与えることを選んだことを意味するだろう。また、多分、ほとんどの地方の矯正所の悪い評判、投獄は堕落をもたらすだけだという信念のために、使用主達は法に訴えることを好まなかった。では、この悪評の高い監獄・矯正所の当時の状態はどのようなものだったのか。
  監獄の歴史は、刑罰の場所としてというよりも、前章で採り上げた、ヨーロッパ各地に16世紀以降設立される「矯正所」に始まると考られる。
  後にみるように18世紀の改革者の意図は矯正所の理念の延長上にあるとも言えるのであり、実際、その改革は当時正常に機能していたいくつかの施設の影響を受けている。だが、改革がなされようとする18世紀末、多くの矯正所の、また当時、刑罰機構の例外的な部分として存在していた監獄の状態は、監獄が新しい刑罰の装置として使用されるためには全く適切でない状態にある。その様相をフランスとイギリスについてみてみよう。
  フランスの旧刑法において、監獄は、待機中の被告人、身体障害のある、ないしは病弱な犯罪者、心神喪失者、国事犯、債務支払い不能の負債者のための場である(以下Deyon[1975=1982:35-38])。
  大部分の監獄の管理は請負契約をもって私企業家に託されている。看守の基本的動機は利益の追及であり、金のある者とない者に対する差別的待遇、すなわち一方での優遇、家族の自由な訪問、そして容易な脱走と、一方での放置、虐待が、国務顧問会議や高等法院による数多くの裁決と規則、そして王令――このこと自体こういった状態の遍在を証明しているのだが――にもかかわらず行われる。すべての支給物は現金払いで、支払いのできない者は私的、公的な慈善に頼ることになる。
  イギリスの状態についてはIgnatieffのかなり詳細な記述がある([1978:29-43])。  18世紀後半までの監獄は3つの種類に分けられる。第1は負債者のための監獄、第2は刑務所、第3は矯正所(house of correction あるいはbridewell と呼ばれる)である。 債務者の監獄では、彼らは家族とともに債権者が満足するまで、または法による破産宣告で釈放されるまで監禁され、債権者の出費で養われた。彼らは鎖をつけられず、労働を強制されず、家族とともに住むことや面会他の外界との交渉をさまたげられなかった。富んだ者は管理人から独立の部屋を借り、貧しい者は共同の部屋に住んだ。管理人は、部屋の貸与、コーヒー・ショップ、酒場の経営といったことで収入を得ていた。債務者は8ギニーで監獄の 2.5マイル内に住むこと、それよりは少ない額で、日中外出することができた。例えばキングス・ベンチ(King's Bench)では、400 人以上に対し3人の看守、4人の監視人しかおらず、管理人は債務者に彼ら自身のコミュニティの管理をまかせた。その結果、その社会生活は規制されなかった(外部者との交流、ビール、ワインのクラブ、音楽のソサイティー・)。
  第2の、地方、自治都市の刑務所は、形も規模も様々であった(中世の城の土牢から商店、旅館の上の部屋・、200 人・ら50人またはそれ以下・)。収容された人の種類も様々であり、各々異なった特権を有していた。債務者(前述)。公判を待つ重犯罪人は、通常鉄かせをかけられたが、監獄内での移動を許され、面会の制限はなく、労働を免除されていた。公判を待つ軽犯罪人はほとんど鉄かせをかけられず、公判前の諸特権を許されていた。執行、赦免を待つ死刑囚は通常「囚人房」で鉄かせをかけられていた。他に、わずかの投獄の刑に服する重罪人と、移送を待つ流刑囚がいた。理論上はこれらの諸クラスは分離された区画で互いに隔離されることになっていたが、実際には混合され、互いの諸特権を行使していた、公判を待つ者は、罪によってというより謝礼の少なさにより鉄枷をかけられた。釈放に際しての看守への謝礼を払えないため刑務所にとめ置かれる者もいた。
  第3の矯正所は、監獄の建物の一部であったり、隣接していたり、独立のものであったりしたが、Howard の改革(後述)の時期には凋落しつつあった。それは、名目上は貧民を労働に従事させ産業上の訓練を行うところであり、織物、縄作りなどの様々な作業場外の仕事の取引きを行う経営者が地方の法廷と契約を結んでいた。彼らは拡大された分業の経営について非常に価値ある教訓を得た――多くの点でこれらの施設は工場の最初期の原型であった――が、そのほとんどは消極的な形での教訓だった。収容者の入れ替りの速さと強制労働の非生産性により収益をあげることが困難になり、ほとんどの契約者は手を引き、彼らは自由な労働を搾取するための彼ら自身の施設、工場を発展させていく。この、契約者がほとんど利益をあげられないという理由のため、労働がしっかりと課せられている矯正所はほとんどなかった。他方男女のつきあいは自由で、彼らは監獄の酒場で一緒に酒を飲み、庭で遊んでいた(クラーケンウェル矯正所、1757年)。とはいえ、非服従者は鎖につながれたり、笞打たれたりもした。また、管理人や看守に金をまきあげられることもあった。衰弱した流浪者はしばしば獄の中で死んだ。食料は、重労働による収益の一部で自治体が購入することになっていたが、多くは契約者を見つけることができず、裁判官達はいくらかの食料(たいてい1日に1つのパンの塊)を供給することを強いられた。だが、全く供給されないところもあった。
  第2の類型、刑務所においても、理論上は自治都市、自治体の行政官が食料を与えることになっていたが、管理人の着服、また着服がなくとも不十分であったため、在監者達は自分で工面しなくてはならなかった。多くは家族や友人に頼っていたが、自費で調達するよりない者もいた。いくつかの監獄では鉄格子(begging grates)越しに物乞いをすることが認められた、また私的な寄付(遺産を貧しい囚人のため、金のない債務者の釈放のために残す・)も存在した。
  とはいえ、彼らは家族・友人により依存しており、囚人の面会権はほとんど制限されなかった。食事を持ってきた妻は朝方から施錠の時間まで(賄賂を使えば夜も)監獄の敷地の中にいられたから、性的な交渉は盛んだった。外との交流の容易さは公判を待つ重犯罪者、債務者――彼らは弁償、債務の履行のため自由な面会を許されていた――の監禁をも施設がまかせられていたということによっても説明される。また管理者は、規律を課す権限、面会権を制限する権限を持たず、様々な種類の在監者の拘禁の保持と公判のため移送する責任しかもたなかった。そのもっとも安上がりで効果的な手段は鎖をかけることで、それは多数の職員、高い塀、堅固な建物を要せずにすんだが、またそれは外の者が立ち入ることを容易にし、塀をなくし、破損にまかせ、また低いものにしておくことができたため、かえって外界との交流を容易にした。
  食や性に関する交流では監獄は外部との共生的な依存関係にあったが、権力と財政においてはそれは国家の中の国家であった。名目的には、監獄は視察されることになっていたが、それは1791年まで法によって定められたものではなく、また謝礼による収入のため、国家に財政的に依存する必要がなかったことによっても、行政の統制から自由でいられたため、監獄の管理は管理者とその使用人の恣意にゆだねられた。
  様々な謝礼を管理者、看守は受け取った。貧しい者には行政官が費用を払ったが、それは謝礼による収入に比べれば少なかった。謝礼の多寡に応じて異なった待遇がなされた。もう一つの収入源は監獄内の酒場であった。彼らは俸給を受け取る役人というより、個人的な契約者であって、生涯その地位を守り、それはしばしば息子、時には寡婦に引き継がれた。
  とはいえ、管理者の自由裁量は無制限であったわけではなく、彼らは、様々な収容者のコミュニティに権力を分け与えねば、少なくともそれらとの調整を計らねばならなかった。とりわけ債務者に対しては外部との交流を制限したり諸特権を侵害することは禁じられていたため、彼らは広範囲の自治を享受していた。公判を待機中の重犯罪人もまた、労働・規律を課せられなかったので、管理者は彼らが自ら治安を維持することを許す傾向があった。管理人は看守を自ら雇ったので、このことは彼の利害にも一致した。総じて看守の数は少なく(80-100人に1人)、権限も、朝夕に錠をあけ、かけること、訪問者の許可、門番、鉄具をかけること、裁判所への行き帰りの警備――といったものに限られていた。こうした中で内部の秩序は主に収容者の下位文化自身によって維持されることになる。
  下位文化は、(イングランド、ウェールズの収容者の25%を収容した)ロンドンの大きな諸監獄にとりわけ繁茂する。ニューゲイト監獄の建物は、監視や統制が容易にできず、それが下位文化を増長させた。新しく入ってくる者は金を取り立てられ、払えない者は服をはがれ、様々なものを購入するために使われた。規則は監督――管理者または囚人自身が選んだ囚人――によって維持され、時に彼は擬似的な裁判(mock trials)を統括した。またボクシングの試合も裁定のための儀式として用いられた――。博愛主義者、改革者の古い監獄のイメージを与えたのはニューゲイトだった。内部の権威の弱さとともに、それ以上に、監獄の下位文化の自律が彼らにとって不安の種となったのである。

■ 矯正装置としての監獄の改革あるいは誕生

  18世紀末以降、自由刑が刑罰の主流となるに至る過程では、それを促すいくつかの要因があると考えられる。今まで述べてきたことも含め、いくつかの点をあげておく。
  かつて、刑罰の主要な部分を構成していた公開の身体刑への批判が高まる。残虐さに対する批判、人間性の主張、そして公開刑の問題化については既に述べたから繰り返さない。ただ、公開刑から自由刑、監禁への移行は、一つの分離の戦略、監獄の中にいる犯罪者とその外にいる者との分離の戦略としてあることを再確認しておく。この分離については、確かに監獄内の恣意的な権力の行使の危険性が指摘され、表象としての刑罰の効果がなくなることが批判されたのであるが、にもかかわらず、それは達成された。公開刑を主張した先の改革者は、専ら刑罰=教訓――そのためには刑は過度に残虐であってはならない――を主張したのだが、彼らが想定する公民と、事実存在する民衆との間にはやはり懸隔があったのだとも言えよう。刑の残虐さに良心の痛みを感じるかもしれない各主権者に、適度に法を読みとれる刑罰が用意されようとするのだが、それは処刑の場で反抗を企てる民衆にとっても適度なものであるかどうかはわからないのだ。分離において――教訓は可視的に読みとれなくなるが――、なお良心に痛みを感じるかもしれない主権者は、囚人に対して(可視的な範囲では)無縁であることができようし、また、囚人とかつては繋がっていた人々は、その繋がりを断たれることになろう。(とはいえ、公開の刑罰と監獄の間は全く不連続ではないのであり、市民が監獄を訪れることがしばしば推奨されよう――例えばBentham、彼は表象と規律の中間に位置する――、だがここではその建造物が確実に分離を保障している。)
  そして――これは今まで述べてこなかったことだが――、流刑が次第に困難になるという事情が――少なくとも英国では――存在する。戦争とその敗戦による合衆国の独立によって、英国はアメリカの植民地への流刑が不可能になり、投獄は、あらゆる軽財産犯に対する第一の手段となった(オールド・ベイリー監獄における投獄の割合は1760-64、65-69、70-74、75-79、80-84、85-89、90-94 年において、1,2 %、0.8 %、2.3 %、28.6%、34.6%、13.3%、28.3%と増加している)(Ignatieff[1978:80-82])。フランスで浮者者の植民地への移送から矯正施設への監禁という移行があったように(→第4章第2節))、国外への排除が不可能になると、内側にとどめておく他なくなるのである。
  さらに、自由刑は、万人に平等に分配された自由の剥奪であるという意味で、近代(刑)法の理念に合致するという、今日自由刑について一般に言われていることを加えておいてもよいだろう。
  これらに加えて、また他にも存在しよう様々の要因に加えて、私達は、監獄の制度にさらに積極的な意図を認めることができるはずだ。確かに分離は、分離であることにおいて、その内側と外側に、すでに積極的な効果を与えるが、その内側において何がなされようとしているのかを検討すべきだ。そのために、18世紀末の監獄の改革者――彼らは先にFoucault がそう呼んだ人々とは必ずしも重ならない、その人々は監禁をかならずしも支持しなかったのである――が何を監獄という装置に求めたのか、それはどのように実現されていったのかを眺めてみることにする。彼らは、先に確認されたような、監獄の私企業的な運営、管理者の圧政、と同時に存在する下位文化の増殖、衛生状態の悪さ、等を批判し、それを改善し、不完全であった監獄と外界との分離を完全なものにし、専制の象徴、悪徳の温床という監獄についての観念、監獄についての批判を――彼らもまた同じ批判をするのだが、それを改善することによって――払拭し、新たなものを加えることよって、監獄を行刑の最も重要な装置に仕立てあげるのである。(5)
  監獄の改革者として最もよく知られているのは英国人John Howard(1726-1790)である。彼はベッドフォードの執行官となり、英国内の監獄及び、1775年から83年にかけての5回の外国旅行によりドイツ、フランス、スペイン、イタリア、デンマーク、オランダなどの外国の監獄を視察し、その実情――その多くは、先に英国についてみたように悲惨、無秩序の状態にあったが、またHoward はオランダ、イタリアの監獄の良好な状態には感銘を受けている――とその改善案について著書[1784=1972]( 初版は1777年、第2版1780年)を出版し、Beccaria [1764=1959]とともに多くの人々に影響を与え、また自らも監獄の改善のための活動を行った。(6)
  彼の告発の新しさ――彼以前にも監獄の現状を批判した者がいないわけではない――は――監獄についての詳細な記録に窺われる――「科学的」性格に求められる(Ignatieff[1978:52])にしても、また彼が当時の博愛主義の影響を受けていた([同:48etc.])にしても、彼の基本的な思考、監獄についての批判・改革の展望はキリスト教者のものであった。(彼自身は、組合協会主義者(Independent Congregationalist)であり、また、クェーカー教徒と親交があり、その生活もクェーカー教徒のものだったと言われる。彼の支持者、また後の改革者にもクェーカー教徒が多い。彼が監獄の改革を志したのも、2度の妻との死別の後の自己嫌悪・絶望・空虚の感情の中でそれを招命として受け入れたことにあるとされる(Ignatieff[同:49-52]))。人間は罪にすみずみまで覆われているが、そのような人間にも神は語りかけるのであり、どのような犯罪人であっても回心を体験することができると、(Howard の場合には彼自身の体験に基づいて)考えられる。(ただしその回心の可能性については見解が一致しているわけではなく、例えば改革者の一人でメソジストのJ. Wesley は犯罪人は死に臨む場合にのみそれが可能であると考える。)  (Ignatieff[同:55-57])この意味において犯罪者を矯正することが可能である。監獄はこの矯正、すなわち罪の自覚、反省と改悛のための装置としてとらえられることになる。  上述のようなキリスト教的な観念とともにIgnatieffはこの時期、唯物論(materialism)が――キリスト教的な観念との相違にもかかわらず――囚人の矯正についての観念に影響を与えたことを指摘している。
  D. Hartley、J. Lockeは、生得的な観念(innates ideas)を否定するが、それは原罪の観念を、囚人が矯正不可能であるという認識を否定し、犯罪性を生来的な傾向ではなく、誤った社会化とみることを可能にした。Benthamの言うように、囚人は「ひねくれた子供なのであり、不健全な精神を持つ者達」であり、理性の指示に依って激情を統制する自己・規律を欠いた者達なのである。彼らは、矯正不可能な怪物ではなく、子供じみた欲望に押し流され短期間の充足のために長期間の損失を無視してしまう欠陥のある存在にすぎない。犯罪は、それゆえ、罪ではなく誤った計算なのだ。
  こうして、改革者達――監獄の改革者達だけでなく、工場主、医者、病院・精神病院の改革者達――は、人を「修繕されるべき、改良されるべき機械」とみなすことになり、身体の規律化がめざされることになる([同:66-71])。
  とともに、――Ignatieffはさらに記述を続けている、まず紹介してその後に整理してみることにしよう――Lockeそして改革者達は、先の見解とは相反するのだが、逸脱者を「善を選び、罪悪を悔いることのできる、自由な行為者」(J. Hanway、1775  )とみなす。この矛盾は、悪い環境によって阻害されなければ、人はその自然な道徳的感情により、徳に達することができる、というように解釈されることになる。こうして、一方では身体の規律化、一方では良心への直接の働きかけ、という相異なったまた相反する逸脱者の矯正の方法が正当化される。後者においては、刑罰の目的は罪の感情を喚起することである。Lockeは、教育に関する考察において、笞を濫用することは罰せられることに対する恥の感覚を失わせることになるとして、それを戒めている(Locke[1693=1967])。ただ犯罪人に対してはLockeはこのように考えなかった。1780年代の改革者(例えばHoward )は犯罪者についてもこのように考えるだろう。不服従、法に対する違反への恥の感覚、自発的な法の遵守が形成されねばならず、そのために刑罰は、道徳的な正統性を保持せねばならないとされる。彼らは、刑罰の恣意性、(不要な)苛酷さを非難することになる。
  それは当時の、市民とりわけ貧民の法体系への正統性の付与ということに対する関心の深さに対応している。とりわけ1770年代の議会改革についてのホイッグ党の急進的な唱導に、法への市民の尊敬を強化するために改革を用いようという関心の高さをみてとることができる。そこでは共和制と君主制が対比される。マサチューセッツでは、法を作るのに人が手をとりあっているゆえに、絞首刑は稀であるのに対し、英国では市民の内的な義務感が民主制的な参加によって強化されていないがゆえに、絞首刑は日常茶飯事である(R.Price、17??)。君主制においては、君主は神聖な権利により、その権威を保持していると信じているので、彼らは「人命を奪う神聖な力」を持つものと考え「人が牛や羊を扱うように無情に」人の血を流せしめる。それに対し共和制の政府は「全く異なった言葉を語る」のであり、それは「人の生活・生命を尊重し、それを維持するための公的、私的な義務(感)を増大させる」(B. Rush,1787)。無産者に、――彼らは投票権を持たないのではあるが――統治者は公共善を追及しているのであり、単に私腹をこやしているのではないことを得心させねばならない(J. Burgh、1775)。
  こういった観念は、犯罪者を疎外することなしに苦痛を与える方法を見出さねばならないという監獄の改革者の主張を説明する助けとなる。ではそれはどのように現実化されたのか。Howard は「緩やかな規律は一般に厳しさよりも効果がある」と述べる。またJ. Brewster は、鉄枷とともに「愛の絆」があると言う。愛の絆の観念は、刑罰の矯正的、功利主義的な正当化――それは犯罪者に、苦痛を受け入れ、彼自身の罪に向き合うことを説く――を意味する。また矯正の理論は刑罰が社会の必要による公平なものであるべきことを主張する。そこで改革者は、応報の理論を拒否し、刑罰から怒りを取り除くことを主張する。Benthamによれば、刑罰はもはや「怒りや復讐の行為」であってはならず、社会の利益と犯罪者の必要を勘案して規定された慎重な考慮によるものでなくてはならない。監獄の教戒師は愛の絆によって囚人を拘束する役目を果たす。彼らは囚人に、苦痛を公平で慈悲深い懲罰として受け入れることを説くのである。だが説教だけでなく、施設の規律自体が法体系の慈悲深さと公平さを確証するものでなくてはならない。刑罰をそれ自体明らかに合理的なものとせねばならない。Benthamは、笞打ちの厳しさは、それを行う人とそれを見る人の感情に依存するゆえに非合理的であると、刑の厳しさは、犯罪の重大さだけに従わなければならないと考える(彼は笞打ちの機械を考案している)。だから彼の考えでは、合理的なものは非個人的(imperspnal)であり、非個人的なものは人間的(human)である。刑罰は科学にならなければならない。苦痛の科学、こういった考えはBenthamだけにみられるものではない。かつての農村的な家父長主義に代わり、「政治的人間性」「科学的人間性」といった言葉が用いられる。科学的な権威の観念は、工場においては効率的な労働の搾取と道徳の保持の間の、監獄では抑止と更生の、刑罰と矯正との間の調停の試みを含意する。実際にどのようにして「人間性」と「恐怖」が、「利益」と「慈悲」が調停されたのか。それは、規則の権威によってである。「不規則な自由裁量」に「規則による緩やかな統治」が代替される。まず職員が規則に服さねばならない。謝礼をとることが禁じられ、私企業的な運営が批判される。また囚人に対しても日課を定め、孤独の恐怖に単調さを加え、何より下位文化を沈黙させることが企図される。Benthamの「一望監視施設」においては、囚人も、また看守も監視されるのことになる。従って諸規則は、改革者にとって、収監者からの剥奪の明細表であり、また彼らの諸権利の憲章でもある。同様に独房監禁も恐怖と人間性を調停する。それは、Hanway によれば、社会の課しうる「最も恐ろしい罰」であるが、荒々しく野蛮な手が及ばないのだから「最も人間的」である(Ignatieff[同:72-79])。
  以上紹介してきたIgnatieffの記述を、次のように解することが出来よう。
  まずキリスト教的な、そして「唯物論的」な矯正についての観念。それらは相反しもするが、いくつかの点において一致する。矯正の「技術論」については、この後、もう少し詳しく検討する。
  後者において、とりわけ身体への働きかけによる精神の改善が主張されること、修繕される機械のように人間がみなされることをIgnatieffは紹介するとともに、それと異なった方向がみられることを、すなわち良心への直接的な働きかけがみられることを述べている。それはキリスト教的な矯正、主体化の観念とも通じるものであり、私は主に独房の装置においてそれをみようと思うが、彼が語っているのはそれとはそれと少し異なる――彼もまた独房拘禁について触れているのだが。彼が述べているのは、主要には、法・刑罰を人々が、あるいは犯罪者がどのように受けとめるのかということ、彼らによる法・刑罰に対する正当性の付与――それはまた法・刑罰の有効性に結びつくのだが――、について改革者が思いめぐらしたということである。そして確かにこの場面では、人間を単に規律によって動かし、改善させられる機械とみなすことはできない。そしてここでIgnatieffが語っているのは、この配慮のことなのであり、それは、紹介してきたように、君主の権力、あるいは監獄内での恣意的な権力との対比において捉えられる。すなわち、かえって反抗心を高めるような、恣意的な過大な権力行使ではなく、公平で、「科学的」な権力の行使が求められているのであり、そして反抗心、あるいは法・刑罰からの「疎外」を生じせしめないことによって、法・統治権力への帰依を調達することが問題になっているのである。Foucault は、これと並行する記述を、君主の身体刑から表象としての刑罰(の主張)への移行の場面で行った。私達は、監獄への移行においてもこれらのことが語られたことを確認しよう。それは、恣意性を廃した平等な近代的刑罰としての自由刑への移行、という一般的な把握にも対応しよう。けれども、――まずそこで目指されていたのが、法・統治の正統性を(参政権を認められない者からも)調達しそれにより秩序を維持することであるという点はさておくとしても――単に法・刑罰の正当性を保証する例えば公平化が行われたというのではなく、その正当性を認めさせようとする個人への例えば教戒師による関与がなされているということを看過すべきでない。また、何より、確かにここで確立されようとしている権力は「非個人的」なものであろうけれども、それは個人に照準するものであって、それが「非個人的」であることは、その権力をより強固にするものであることを看過すべきではない。繰り返せば、ここで公平と呼ばれたものは、まず恣意的でない――君主の恣意であれ、管理者、看守の恣意であれ、またBenthamの笞刑についての言及にみられたように観衆の恣意であれ――ということなのであり、それは確かに正統性の調達に寄与するとししても、また囚人を専横から守るとしても、権力の確実で有効な――専横は有効であるどころか有害である――行き渡りを保証するものなのである。また、法がいったん公平を規定しようと、矯正が問題になる限り、その原則は常に危ういものになろうし、なにより行刑装置は、司法の届かない部分で、矯正と施設の秩序の維持、権力機構の護持――ただこれらは容易に分離できないのだが――のために、この原則を曖昧なものとしよう。
  次に、この個人に関与する監獄の装置のいくつかを、検討してみることにしよう――それがここでの第一の主題である。
  改革者は、犯罪者の中に、反省の円環を作ること――反省はおのずと改悛に向かうものとされる――を望む。それは独房への監禁によって、孤独・沈黙によって実現されるはずである。外界から隔離されるなら、彼らは自らを顧みるよりなく、彼らは罪を見出すに違いない。そして反省し、改悛に向かうだろう。

  「私は総ての犯罪者を夜間独居させるために、監房すなわち夜間独居房を沢山に造るが  よいと思う。(――)たとえ彼等の昼間雑居が防止し難いとしても、夜間だけは是非独  居せしむべきである。孤独と沈黙とはよく人を反省に導くものであって、これにより犯 罪人はよく悔悟せしめられるであろう。独房と思索の時間とは、やがてこの世を去って  行かなければならぬ者達にとって必要である。(――)こうした設備は、社会に復帰す  る者のためにも却々必要である。それは更に必要だ。「蓋し世俗的な見地からと同様に  宗教的見地からしても、人間が如何に生きるかということは如何に死ぬかということよ  り遥かに重要であると考えるべきであるから」とバトラー僧正は述べている。」
  (Howard [1784=1972:35-36]) 

  独房拘禁は17世紀に始まっている。スペルダルまたはカサピアの孤児院として知られていたフロレンスの孤児院の管理者、司祭F. Franci は1677年、非行化して手に負えぬ息子たちもあずかって欲しいという親たちの願いを受け入れ、施設の中に「矯正の秘密の場所」として、8つの単房からなる特別区を作り、少年たちを昼夜拘禁した。彼らは訓戒を受け、また、自分の房を出るときは、互いに誰だかわからないようにするために、顔をフードで覆わされたという。
  またベネデイクト派の修道僧M. J. Mabillon は、独房、労働、沈黙、祈りという禁欲生活のためのに自らが掲げた4つの行為基準が犯罪者にも適用可能であると考え、1690・95年の間に、犯罪者の改善更生のための施設計画を起草している。
  1703年には、法王Clement\が非行少年、犯罪少年用の独房監獄を設計させ、翌年、サンミカエル少年矯正所が開設される。
  1771年のフランダース州議会の浮浪者、乞食をなくすための対策をたてるようにという要請によりJ. J. P. VillainXIV の立案した監獄がガン市近郊に1775年開設された。その施設では、囚人は分類収容され、労働が課されるとともに、男子の犯罪者は通廊を見通す窓のついた独房に夜間拘禁された。この施設は、上のイタリアの施設の影響を受けていると言われる。(T. Erikson[1976=1980:36],cf.Ignatieff[1978:53])
  Howard はサン・ミカエルの施設、ガンの監獄を訪問し、感銘を受けている(Howard [1784=1972:120ff,141-146]、Ignatieff[同:53])。だが、英国で独房拘禁を主張したのは彼が初めてではなく、1691年に匿名のパンフレットにおいて、1702年にBray が、1725年にB. Mandeville が、40、50年代にはH. Fielding、 J. Iliveが、1775年には影響力のあった博愛主義者Hanway がそれが主張している。(Howard は、ロンドンの博愛主義、カトリックの修道院の伝統、プロテスタントの禁欲主義から、行刑の構想を形成した、とIgnatieffが述べている([同:54])。)
  以上述べたことにつけ加えなけれはならないのは、ます、先に紹介したように、独房拘禁が苦痛を与えるもの、懲罰であること――それは「人間的」な懲罰であるとされたのだが――、そしてなにより囚人たちの間の交流、その他あらゆる「不要な」外部からの影響を排そうとする最も徹底的な分離、孤立化の戦略であり、また行刑の側からの囚人への関与が――それが残された唯一の一方的な、関係である――最も純粋に作用する装置だということである。
  次の要素は労働である。

「(――)囚人は断じて作業に従事させねばならぬ。(――)囚人作業は必要欠く可からざるものである。囚人は病気でないかぎり遊ばしておいてはならない。」(Howard [1784=1972:47])

  ロンドンのブライドウェルを初めとして、16世紀以降ヨーロッパ各地に建設された矯正所が、労働による収容者の矯正を意図していたことについては第4章第2節で述べた。監獄の改革者達もそれを重視する。矯正所での労働強制の試みは先にIgnatieffが記述していたように多く失敗に帰していたが、アムステルダム及びロッテルダムの「木挽き場」はHoward が訪問した時にも円滑に機能しており、彼はそれを賞讃し、他の監獄に採り入れるべきことを主張しているのである([同:65-84])。独房拘禁と同様、労働もまた懲罰の意味を付与される――1779年英国で定められた法はそれを示すだろう(後述)。
  そして、細部に至る身体への働きかけ、それによる矯正がめざされる。先に述べたように労働・規律はまた、唯物主義者によっても支持されていた。

  「Howard の思考は、メカニズムの言語ではなく、より古い宗教的な言語で、型どられており、HartleyよりもむしろWesley に近いものだった。彼にとって罪人達は、欠陥のある機械ではなく、神から遠ざけられた失われた魂であった。にもかかわらず、1770年代に改革者のサークルにおけるHartley的な風潮は、Howard の規律=訓練の観念を受け入れるような素地を与えた。唯物主義の心理学は、心・身の区別を打ち壊すことによって、人の道徳的行動は、その身体を規律化することによって変えることができるのだというHoward の主張に科学的な説明を与えた。唯物主義の心理学によれば、権威者の外的な力によって身体に適用される規制(養生法、衛生法)は、まず最初に習慣となり、そして次第に道徳的な性向になるだろう。習慣化と反復を通して、規律=訓練の規制は、道徳的な義務として内面化されるだろう。」(Ignatieff[1978:67])

  孤立化・沈黙・労働・規律による矯正。Howard が感動した、サン・ミカエル救貧院の一部をなす少年監獄(前出)に掲げられたいくつかの標語を紹介しておくのがよいだろう。まず少年監獄の扉には次のように書かれてある。
    
  「「不良少年の矯正感化のために――怠惰なる時は国家に有害なる少年も感化さるるときは国家に有為の人とならん 法皇クレメンス十一世  1704年」
監獄の中には、犯罪者に対する総ゆる文化政策の大目的を表明する次の如き驚嘆すべき文字が記してある。
  規律的訓育により 不良者を改善するに非ざれば 刑罰によりこれを拘禁するとも    その甲斐なし
此の所では五十人の少年が糸紡ぎをやっていた。そしてその部屋の中央には
  沈 黙 という文字が掲げてあった。」(Howard [1784=1972:120])

  次に18世紀末以降の監獄の改革の実際について、主にT. Erikson[1976=1980:50-99]に依り、概観する。
  1779年、エセックス州ホーシャムに英国で最初の独房監獄が開設された。そして同年、Howard、 W. Eden 卿、W. Blackstone 卿  の起草になる懲治監法が――原案より縮小されて――成立した。この法は、男性用(600人)女性用(200人)の2つの監獄の建設を定め、刑期の限度を2年とし、夜は独房、昼は共同作業――石を切る、大理石を磨く、麻を打つ、木をやすりで磨く、ぼろを切り刻むといった「最も重くて屈従的な種類」の作業――を課すこと、食料と制服を支給することを定めた。ここに定められた監獄は結局建設されなかったものの、いくつかの独房制の監獄が各地に建設された(Ignatieff[1978:93-95]、Erikson[1976=1980:50-51])。
  合衆国では、クェーカー教徒R. Wister が1776年に収容者慈善協会を創立し、1年後にに解散したが、1787年「公立監獄の悲惨さを軽減するためのフィラデルフィア協会」として復活し、1788年、収容者処遇の実際ならびに理論に関する長期間にわたる綿密な研究に基づき、独房拘禁下での重労働及び絶対禁酒が、囚人改善の最も有効な手段となるだろう、と結論された建白書を提出する。
  1790年の法により独房拘禁の原則が定められ、1792年フィラデルフィア市ウォルナット街に独房区画が設けられた。1818年建設が決定されたペンシルヴァニア州のウェスタン懲治監は、Benthamの円形監獄の考えを採り入れ、完全隔離と不就労の処遇がめざされたが、壁・管を使った囚人同士の連絡が行われ、また房が小さく暗いため、1833年には改善の必要性が明らかになる。ニューヨーク州のオーバン監獄でも1821年に最も改善の困難な囚人に不就労独房拘禁制度が採用されたが、不備な施設と収容者の肉体・精神の悪化が批判されこの方法は廃止される。
  1723年、オーバン監獄は、昼間の厳重な監視下での小班編成の作業、夜間の独房監禁、昼夜の完全な沈黙、という方法を採用する。この方法は1725年にニューヨーク州シンシン監獄に採り入れられた他、合衆国のいくつかの監獄でも採用された。
  他方、1729年、ペンシルヴァニア州議会はイースタン懲治監(チェリー・ヒルとも呼ばれる)に(独房内での)作業を伴う独房拘禁制度を適用することを定め、実施された。(7)
  この両方の監獄には、18世紀末から19世紀初めにかけてヨーロッパ各地から多数の訪問者が訪れ、多くの監獄にこれらの方式が採用されることになるが、そこでペンシルヴァニア制かオーバン制かの論争が起こった。ペンシルヴァニア制の長所としては、反省のための時間がある、悪との接触を断つという点で道徳的見地からすぐれていること、管理が簡単であることが、オーバン制の長所としては施設のための費用がかからないことがあげられた。ペンシルヴァニア制の短所としては、独居によって心・身の健康が害されることがあげられ、これに対してはそのようなことはないといった反論がなされる。
  結果としては19世紀中頃から20世紀初めまでペンシルヴァニア制が主流となり、各地に建設される。(8)(9)
  とりわけ独房拘禁は、過剰収容によってその原則がしばしば崩れるとともに、当初より批判がなされる。けれども、この時期に確立された矯正目的の監禁、矯正のための様々の手段、は今日においても基本的には維持されているとみることができよう。この後の様々のさらなる改革の試みについては第3節で検討する。

第2節 刑罰の言説・矯正の知

■ 刑法学の諸学派

  法学史では、刑法論は大きく2つ、あるいは3つの学派に分けることができるとされる。すなわち、古典学派(あるいは旧派)――これは前期古典学派・後期古典学派に分けられることがある――と近代学派(あるいは新派)である。ここでは3つの区分をとることにする。(10)
  前期古典学派の刑法理論は18世紀後半から19世紀初頭にかけて形成され、その源流はアンシャン・レジームの刑法制度に対する強い批判として展開された啓蒙主義思想にあるとされる。代表的な論者としてはC. Beccaria(1738-1774)、A.v. Feurbach(1775-1833)があげられる。彼らは「刑罰権の根拠と限界を社会契約によって基礎づけることができることから出発して、罪刑法定主義、罪刑均衡主義、苛酷な刑罰の廃止、合理的・目的論的刑罰観を採用した」(内藤謙[1979:122])。また彼らは、犯罪による利得と刑罰による損失を比較考量できる合理主義的な人間観に基づき、刑罰の機能を一般予防、すなわち刑罰の存在によって社会の成員に犯罪を思いとどまらせることに求めた。
  「前期・古典学派の刑法理論は、とくにドイツにおいて、1840年以後、[…]後期・古典学派の刑法理論へと変容を示しはじめる。注目に値するのは、形而上学的な応報思想が強調されるようになったことである。そこには、啓蒙思想の合理的個人主義に対して超個人的民族精神の本源性・創造性を強調したロマン主義、法を民族精神の所産とみてその歴史的研究を重視した歴史法学派、ことに形而上学的自由意志論を基礎に絶対的応報刑論を主張したカント、ヘーゲルの観念論哲学があったといえよう」(内藤[同:124-125])。後期古典学派は1870年代、近代学派との理論的対立の過程で確立される。K. Binding(1841-1920)、K. v.Birkmeyer(1847-1920),E. Beling(1866-1932)らが代表者であり、彼らの理論内容は一様ではないものの、「形而上学的な自由意志の存在を肯定し、自由意志によって犯罪行為をなしたことについて道義的責任を認め、その道義的責任のある犯罪行為に対する応報として刑罰を加えるとする点では、ほぼ一致していた」(内藤[同:120])。
  近代学派は、「19世紀後半、資本主義の発達がもたらした社会変動にともなう犯罪の激増、ことに累犯や少年犯罪の増加に対する対策として、後期・古典学派が犯罪と刑罰を法律現象としてみるだけで応報刑を主張するのは無策であるとして批判して生まれた」([同:120])。代表的な論者としてC. Rombroso(1836-1909)、E. Ferry(1856-1909),F. v.List(1851-1919)があげられる。彼らは犯罪を生理学的要因(特にRombroso)・社会的要因によって生起するものと考え(11)、――自由意志が否定される――刑罰を社会のための防衛手段として考える。排除・隔離とともに、犯罪者の改善、社会復帰のための刑(特別予防主義)を主張する。
  ドイツの、また日本の論争は、この近代学派と後期古典学派の立場の間でなされることになる。両派の差異は次のようにまとめられる。

「後期・古典学派は形而上学的な自由意志を前提とする応報刑論を中核として、応報としての刑罰が法秩序の維持機能ないし一般予防機能を果すとし、犯罪理論においては個々の犯罪行為とその結果を重視する点で客観主義をとった[…]。これに対して、近代学派は、形而上学的な自由意志を否定する立場から、教育刑ないし社会復帰刑を中心とする刑罰の特別予防機能を強調し、犯罪理論においては行為者の危険性、反社会的性格を問題とする意味で主観主義と結びつく可能性をもっていた。」(内藤[同:134])

  このように述べられる刑法論の歴史、学派の対立、刑法学における「公認」の刑法学の歴史・諸学派の布置と、私達がみてきた刑罰、刑罰についての言説の歴史との対応関係をとることができる。
  前期古典学派と呼ばれるものは、司法の改革者の言説に対応している。その背景、その意図をどのように考えるのかについては既述したので繰り返さない。この学派の代表者としてあげられる数人の人々についてはともかく、この時期に既に矯正が主張されていたことを再確認しておく。
  刑法学の言説は、それが刑「法」学の言説であるために、監獄を問題にすることをしない。それは、既に近代刑法の誕生からそこにあったかのように前提されている。司法の改革者において監禁が必ずしも支持されなかったものであることは見逃されている。そして監獄という装置に当初より存在していた矯正の理念については語らず、矯正(特別予防)の観念の誕生を19世紀にみる。それを誤りだと言えないとすれば、刑法理念・理論の対立の片方として矯正の理念が顕在化するのが、この時期なのだということだろう。そして、この近代学派の成立についても、監獄、監獄の場で形成される知の存在を無視するわけにはいかないばずである。(Rombroso が、犯罪者の頭蓋骨の測定をしたのは――このことにより彼は犯罪の性向が遺伝的なものであることを「実証」したのである――監獄においてであった(cf。団藤重光[1952:259-265]))。
  後期古典学派と呼ばれる言説が、なぜ、19世紀の後半に、ドイツを中心として、登場してくるのかについてはよくわからない。近代学派に対抗、と言われるとき、それが後期古典学派に属するとされる論者においてどのようなものであったのかということを、読むことのできた文献からは、知ることができなかったからである。ただ自由意志による帰責という観念そのものは、この時期に初めて登場したわけではなく、例えば中世神学において既に存在し、近代においてはとりわけ法理論の中で、それが主張されていることは既に確認している。そして、そこにKant そしてHegelの存在があり、後期古典学派に属するとされる論者が、とりわけHegelの影響を受けていること、このことは確かめられる。(12)一般的に言えば、この帰責の言説が存在し、それに破壊的に作用する刑法論の言説との対抗において――対抗によって19世紀に顕在化したのかどうかはわからないけれども――その主張を護持することになるのである。その意図については例えば次のように述べられる。

「「古典学派」理論の中核にあった「道義的責任論」は、責任の基礎を個別的な行為に求め(行為主義、行為責任論)、意思の自由によって違法な行為に出たことについて行為者に道義的非難を加える点に責任の本質があるとした。このような「道義的責任論」を前提とする「古典学派」は、「道義的責任」のある行為に対する応報として刑罰を科すこと自体に意義を認め、責任判断の主体であり、かつ右の刑罰を科す権能をもつ国家の道義的優越性を国家と刑法の権威として示そうとしたとき(たとえば、ビンディング),ドイツ第二帝制の国家主義的・権威主義的側面をあらわしていた。しかし、他方、「古典学派」は、刑罰を、「道義的責任」のある行為に対応する応報に限定して犯罪と刑罰との均衡を要請し、かつ、自由意思の外部的・現実的実現として犯罪行為とその結果とを重視して、犯罪理論を客観主義的に構成しようとしたとき(たとえば、ベーリング)、無限定な犯罪予防目的の追及による国家的刑罰権の介入に対し刑罰権制約の意味をもつ理論として、自由主義的側面を示していたのである。「古典学派」のこのような両極面は、ドイツ第二帝国が「官憲国家と法治国家との一種独特な混合態」であったことる反映であった。」(内藤[1984:306-307])

■ 自由意志の問題

  刑法学における自由意志の肯定・否定をめぐる論争(13)においてのこのどちらをとるかは、既に少し述べたように、その双方の前提による帰結のいかんによっているようだ。
  例えば、自由意志否定論をとり目的刑論に立つなら、とりわけ特別予防を主張するならば、犯罪者への積極的な関与によって人権が侵害される。例えば、人に応じた処遇ということで不定期刑の導入が望ましいことになり、罪刑法定主義が守れなくなる、また責任能力のない者にも刑を課すことが許容される、等。
  ただしそれは必然的ではないとも言いうる。すなわち、行為にある原因を求めることができ、その原因の除去・軽減が可能であるとしても、それは除去・軽減がなされるべき、無制限になされるべきことを帰結せず、例えば人権の保護といった原理を導入することで制限を加えることはできる。
  これに対しては、他者の人格を手段として扱うべきではないといった原則が固守される、あるいは、人に対する過度の介入をなす危険性があるといった批判が繰り返されるだろう。もちろん前者に対しては、刑罰の有用性を全く認めないのか、と言う反批判が、後者に対しては、これを認めつつ、双方の原理の調停――この2つの原理は結局のところ市民の幸福の増大に寄与するとも言われよう――考えるよりないのだという弁解がなされる。
  逆に自由意志の存在を肯定し、応報刑を主張する理論に対しては、目的刑を唱える論者から批判がなされる。
  犯罪の現実的な抑止について、例えば累犯者に対する特別な処置を講ずることができないと言われる。
  さらに、目的刑――犯罪抑止という目的に対する手段としての刑罰ということであり、刑自体が目的であるということではない――一般が不可能になるとされる。何故ならば、もし犯罪が他の何によっても規定・影響されることのない自由意志によってなされるのであるとすれば、それを事前に予防することも(一般予防)、犯罪者を矯正することも(特別予防)、不可能になるというのである。Kant 的な応報刑論では、目的刑は排除されたが、むしろ、自由意志の肯定は目的刑を不可能にするといえる。
  この自由意志の肯定/否定すなわち応報刑/目的刑という多くの場合に自明視されている結びつきを明確にするため、この肯定・否定がどのような刑を可能にするのかを確認しておく。
  自由意志を否定した場合。1.応報刑は、自由意志に基づく行為を自由意志に基づくゆえに非難するものとすれば、当然成立しない。だが、このように応報刑を定義しなければ、非難可能性についての根拠をこのように定立するのでなければ別である――この場合は当然、後期古典学派的な応報の観念によれば応報刑とは言えないことになるわけだが――とも言える。例えば、報復行為において、当事者が相手の自由意志なるものを認めているのかは疑わしい。確かにこの場合では、相手の「悪意」の存在は思念されようが、この悪意を悪をなす自由意志と解さなくてはならない、とはいえない。2.一般予防は、例えば完全な生物学的決定論といった立場をとれば別であるが、成立する。3.特別予防は成立する。
  他方、自由意志を肯定した場合。1.応報刑は、後期古典学派の意味では、当然成立する。2.一般予防は、先に述べたように、犯罪の原因のすべてを自由意志によるとすれば、何をしても犯罪を防ぐためには無意味ということになるから成立しない。3.特別予防についても同様である。
  上でみてきたのは、刑罰の――刑法で言われている――目的・機能をたてた場合に、自由意志の肯定・否定という契機がどのように働くのか、その目的・機能を達成する可能性を持つか否かということであった。それは刑法論における論争の中心が、ここに、つまり自由意志の肯定・否定による、刑罰の性質の規定、その肯・否というところにおかれていた、いるということによるからである。
  けれども問題は単にそこにだけあるのではない。より重要なことは、少なくとも自由意志を肯定する論者においては、自由意志の存在は、ある行為を行った当人を罰することができるという、刑罰を課しうる可能性、刑罰を課しうることの正当性を保証するための前提であることである。すなわち、ある人がある行為を行った場合に、その原因が彼以外の何か――他者による強制、全くの偶然、だけでなく、動機の背後にある生物学的要因、社会的要因――に求められる限り、それは彼自身の行為ではないのだから、彼にその責任を負わすことはできず、彼がそれを自ら意志して行った時にのみ、――それはつきつめて行けば、何によっても規定されない最初の原因を彼が持った場合、ということになる――彼に責任を帰すことができるとされる。従って、もし、この自由意志なるものが否定されるとすれば、自由意志により行為を行った者に対してのみ責任を問うことができるという観念のもとでは、当然、彼を罰することはできず、およそ刑罰を課すことが不可能にならざるをえないのである。
  自由意志の存否による諸帰結を巡っての論議ではなく、自由意志の存否そのものについての論議に一歩足を踏み入れるなら、そして「実証」という種類の言説の中に身をおくなら、次のように言えよう。
  まず、決定論と非決定論はどちらも証明不可能である。なぜならばある条件のもとでAという状態も非Aという状態も生起できたとすれば、非決定論が証明されたことになるが、現実にはAか非Aという状態しか起こらない。とすれば、同じ状態を2度(以上)設定しその結果をみればよいが、――一度互いにくい違った状態が生起すれば非決定論が証明される――現実には(正確に)同じ状態を設定することは不可能である。ゆえに、決定論と非決定論のどちらも証明不可能である。
  ただ自然科学とりわけ物理学においては――時・空の差異に関わりなく――同一の条件のもとで同一の帰結が生ずるということが、Newton の体系において言われたため、決定論が優勢を占めたが、後に相対性理論、量子論の登場によって、Newton 的な決定論がその優位を失うという経緯がある。(ただし、相対性理論がそのまま非決定論と結びつかないことはもちろんである。また「観測者」の問題、などがあるがここでそれを紹介する必要はないだろう。)しかし、いうまでもなく、このことと自由意志の有無とは別のことと考えなければならない。こういった議論が自由意志の有無に関わるのは、決定論が正しいとされれば自由意志もまた否定されるということだけであって、仮に決定論が誤りで、非決定論が正しいとされたとしても――このことの原理的な証明が不可能であることは述べた――、決定されない部分が自由意志に起因すると考えることはできない。自由意志を証明することは不可能である。
  以上は、実証科学の中にとどまる限り、異論の余地のないものである。では自由意志肯定論――日本で出された論文の数としてはこちらが多いだろう――は、どのような自由意志の証明を、証明でないとすれば弁護を行っているのか。

「われわれは実践的な人間である。実践はコントロールを要素とする。[…]コントロールとは因果関係を支配することであり、コントロールの主体は、その限度では因果関係を超えるものでなければならない。かようにして、コントロールということをみとめる以上、当然に自由と必然の両者を肯定しなければならない。」(団藤[1963b:22])

  たしかに、「コントロールとは因果関係を支配すること」だと、「その限度では因果関係をこえる」とも言えるかもしれないが、それはコントロール自体が自由意志によってなされているということを決して意味せず、「以上、当然に」といった言明は無意味である(cf.平野[1965a →1966:71-72])。(14)
  また大野平吉[1977]は、物理学者M. Planck の「客観科学的立場から考察すれば、人間の意思は決定されているが、自意識という主観的立場から見ると、人間の意思は自由である。如上の命題は[…]完全に同等の資格で対立し、一方の価値を他方より軽視することはできないのである」という主張を紹介し、後者の立場はむしろ「一回的具体的な歴史的現実の立場」(大野[1977:44])として捉えられるべきだとし、科学の立場は、「実際には再現不可能な世界を再現可能という見方の下に、各種の概念の分析と総合をする立場であって、その考え方の基調に再現可能ということを無条件にとり入れていればこそ、その立場からは、人間の意思も決定されているのではないか」と述べ、次のように結論する。

「[…]プランクのいう「一切を予見する理想的精神」は、科学の立場、従ってまた理性の不当な理想化に外ならず、それゆえ行為者の自由意思の観念を除去せんとする意思決定論の不当もまた、自ら明らかであるといってもよいだろう。だが、勿論わたくしも、分析的因果法則的な犯罪学の価値を、決して否認するものではないのである。ただ、それによって、意思の自由を「純粋な幻想」にすぎないとし、すべてが決定されているとする世界観を実証しうると思うのは誤りだというだけのことである。
  ところで、わたくしは、さきに「決定論か非決定論か」についてのプランクの両立論における二つの立場を、それぞれ科学の立場と歴史の立場であるとしたが、今やそれは、人間の理性と歴史の現実との二つの立場にまで普遍化して考えることができるように思われる。そして、理性の立場に立つ限り、すべてが必然と考えられるのである。だが、歴史的現実の世界は、単に決定されたものではない。それは考えられたものであって、真の現実ではない。とはいえ、わたくしは、歴史的現実の世界が一面どこまでも必然的と考えられる世界であることを決して否定するのでもないのである。」(大野[1977:45-46])

決定論の主張に対する批判としてはこれでよいだろう。しかし歴史の一回性をもって非決定論を主張することはできない。何より、ここで述べられた事によって、自由意志を否定する見解がある特殊な立場であるとはいえても、自由意志を肯定する見解を導くことが出来ないのは明らかである。(15)
  吉田常太郎[1960]は、本能と知性・情意を区別し、後者により人間は「外部刺激のまま行動することなく、合目的・社会的有意義に自己を決定し、もって共同生活を営んでいるという事実は、社会的規範を理解し、その理解に従って自己決定をなし得る能力があることの証拠であると考える」と述べて、次のように続ける。

「かようにして、わたくしは人間には自己決定能力を認めるのであるが、その自己決定をするには行為者の素質と環境とが協働することを否定するのではない。素質と環境に影響されることは大であるが、ただそれらにおいて直ちに意志決定がされないで、自らが有する能力により、自己立法的に意志を決定するのである。すなわち、わたくしは制限的意志の自由を認める立場を正当と考える。」(吉田[1966:10])

ここに言う「自己決定能力」を自由意志であると解しているとすればそれは誤っていると言わざるをえないし、また「自己決定能力」の一部分は自由意志によると考えているとすれば、――そう読めるが――「自己決定能力」について述べてきたことは自由意志肯定の言明とは関わりなく、またこの言明自体は一つの見解以上のものではない。(16)
  他にも、自由意志の「論証」を意図する、その存在を支持する議論はあるが(eg.沢登佳人[1966]、久保田益喜[1965→1976])、それらは当然、成功しない。(17)

■ 功利主義による刑罰の正当化

  では決定論をとる、あるいは自由意志を認めない、あるいは自由意志の観念を刑法(論)の構成の中に入れるのを認めない論者は、どのように刑罰を考えるのか、考えることができるのか。
  それは結局のところ、刑罰を加えることについての根拠づけを放棄し、功利主義に向かう、と言うことができよう。
  もちろんここでの決定論、というよりは自由意志不要論は、刑罰の有無に関わらず人は刑罰を犯してしまうとか、教育刑の試みにも関わらず犯罪者が矯正されることがありえない、といった宿命論とは異なる。人は刑罰を予期することによって犯罪をなさないかもしれないし、適切な処置は犯罪への性向を改善するかもしれない。このことの有効性によって、刑罰の存在が正当化されることになる。
  ここでは、違法な行為を行った者に刑罰が課せられることの正当性は、もちろん自由意志・帰責という観念によって調達されることはなく、行為者と刑罰との結びつきは、目的に関する有効性において支持されることになる。すなわち、違法行為を行う者に対して刑罰が課されるということが当事者達において認識されているならば、彼らは、刑罰を結果するような行為を行わないであろう(一般予防)。このことからして違法行為者に対して刑罰を課すことは有益である。また強制、偶然などによってなされた行為について刑罰を規定することは、結果(刑罰)の予期による行為の自制に繋がらないがゆえに無駄である。
  特別予防については次のように言える。ある犯罪をなした者に、犯罪への性向を認めることができるとするなら、その当人のその性向を減少・消滅させることは犯罪の抑止に有効である。犯罪をなさせないというより、なす可能性のない者にそういった処遇を課すのは無駄である。ただしこの場合には、――近代学派に対する古典学派からの批判としてしばしば言われることだが、――犯罪者にのみ刑罰を課すという原則が、犯罪を犯す危険性が高いとされる者に対して刑罰、とは呼ばれなくともそれに類するものを課すことにより崩される可能性が出てくる。これは、別の原理(単なる可能性によって人に干渉するのは人権の侵害となる、といった、また可能性による判断は恣意的な解釈を許すことになるといった)を併置することによって解決が計られることになるだろう。
  自由意志・自己原因・帰責という方向をとらず、また何らかの目的のための刑罰という観念を採用し、刑罰論に言われる刑罰の機能に沿って、人と刑罰を結びつけようという言説は、いきつくところこうなるはずである。(応報刑についても、行為者に対する応報感情といったものの事実性を認め、それによって刑罰を課すとすれば、行為者に対する刑罰という結びつけは可能である、ということもできる。)
  平野龍一の刑法論を、このような趣旨のもの、少なくともこういった部分を含むものとして理解することができる。(平野[1966][1972/75]etc.)。
  平野は、決定論においても自由、責任を言うことができると述べる。これは、ここまでみてきたことと背反するようだが、そうではない。彼は、自らの立場を「やわらかな決定論」であるとする。その含意は、自由意志をいくらかは許容するということではない。「やわらかな決定論」に対する「かたい決定論」とは宿命論、あるいはphysicalism であるとされ、これに対し「やわらかな決定論」は、人間が「自らの規範意識に従って行動する」ことができる――そのことは自由意志を肯定するものではなく、それもまた法則に従っているはずだとされる――ことを認めている点で「やわらかい」のである(平野[1963a →1966:21-23])。
  そこで自由の意識とは、「他人や生理的なものによって決定され行動するのではなく、自らの規範意識に従って行動するのだという意識」([同:22])であるとされる。
  また責任については、「外からの強制によってこの行為をしたのではなく、「自分が原因である」ということが責任であり、これを自覚することが責任感であるといってよい」([同:59])と述べる。ここで「自分が原因である」とは、自由意志の存在をさすのではなく、ある規範意識を自らのものとして感じているということであり、そのことに対して非難することができるということをさしている。(18)
  このように言われた後に、何を語ることができるだろうか、何を語るべきだろうか。既に述べたように、ひとたび規範的命題を私達も語ろうとすれば、それは個々人の「幸福」の観念――それがいかなるものであれ――から抜け出ることはできないだろう。だから、刑罰の目的について、いくつかの「要件」の調停について語るべきだろうか。先の言説は、私達をその方向に向けさせるだろう。刑罰は必要だ、必要であることによって行為をなした当の者を罰することは正当化された、さて、例えば――犯罪者の人権を考えに入れれば――どの程度必要なのか――。
  むろん、犯罪を生み出している原因、環境を無視すべきではないと言われよう。しかし、先の説明は、犯罪が消失してしまうような社会についてはともかく、その有効性を失うことはない。確かに、現にある社会構造なりが犯罪を生産している以上、それを言うことは、その構造的な要因を隠蔽するものである、といった批判はなされようし、それは、少なくともいくらかは正しいだろう。
  だが、そのように言う前に――それと無関係ではないのだが――2つの主体を巡る言説の対峙によって、主体が消去されてしまったかのように思われもした、そのことが事実なのかを考えてみるべきだろう。存在するのは、むしろ、相矛盾しているかもしれぬ言説、観念の複綜、結合としてあるような主体ではないだろうか。すなわち、行為を規定するとされる生得的なあるいは環境的な要因は、刑法論におけるように、責任を解除させる、主体を消去するのではなく、むしろ、ある種の主体を形成、存在させているのではないか。

■ 「非行者」

  Foucault は、監禁が単なる自由の剥奪としての拘禁をはみ出す部分として、「孤立化」「労働」「刑罰の軽重の調整」の3つをあげ(→注8)、とりわけ刑罰の軽重の調整、すなわち、刑期、拘禁の内容や質が、獄内の管理者によって決定されることを指摘して次のように続ける。
  この行刑上の追加部分を巡る論議は、刑罰は自由の剥奪以外のものではあってはならず、また法は囚人から目を離すべきでない、すなわち法をもって囚人を保護しなくてはならないといった原則に関わる論議から、急速に「《補足部分》への規制を誰が占有するかという論戦に化していこうし、裁判官たちは監禁機構を監督する権利を要求するだろう」。「この時期(一八五○年前後)以降、行刑の秩序次元は充分に強固になってしまうので、それを打破しようと努力するまでになっている」(Foucault [1975=1977:246])

「ところが行刑施設は拘禁[の役目]にくらべて《過度》である点からして、実際には幅をきかせ、しかも刑事司法のすべてを補足して裁判官自身を閉じ込めることができたが、その理由は行刑施設が犯罪司法を、今やその果てしない迷路に化した知の諸関連のなかへ導き入れることができたからである」([同])。

刑罰施行の場である監獄は同時に個人を観察する場である。それは一つには監視の場という意味においてだが、より重要なのは「受刑者にかんする臨床的な知が形成される場」でもあることである。Benthamの<一望監視施設>はそれを可能にする装置である([同:246-247])。ここである置換が行われる。

「[…]行刑装置は確かに司直の手中から受刑者を受取りはするが、その装置が対象とすべき当の相手は、もちろん法律違反者ではなく正確には法律違反者でさえもなく、いささか異なる客体であり、しかも単に矯正技術論にとってのみ関与的であったという意味では少なくとも当初、判決のなかで考慮されていなかった様々の変数によって規定される、そうした客体である。宣告の下された法律違反者に置換えて行刑装置が対象とする別の人物とは、非行[=在監]者delinquantである」( [同:248])。

非行[=在監]者は法律違反者とどのような点で区別されるか。まず第1に非行者は犯行よりもその生活態度によって特徴づけられる。刑罰制度の歴史の中に《生活史的なもの》が導入される。このことは重要である。なぜなら、

「この《生活史的なもの》こそが《犯罪者》をその犯罪以前に、しかも極端な場合にはそれとは別個に実在せしめているからである。しかもそれを元にして心理的な因果関係が[犯罪の]責任事実の法律上の限定を裏打ちしつつ、その諸結果を複雑にするからである。こうしてわれわれは《犯罪学》という迷宮に入りこむわけであるが、今日われわれはそこから脱出しているどころではない。つまり[犯罪の]あらゆる原因は[責任の]限定がそうなのと同時に、単に責任を軽減するしかできないが、他面では法律違反の当人を、なおさら恐るべき犯罪性、しかもなおさら厳重な行刑措置を求める犯罪性によって特色づけるわけである。刑罰上の実務面で犯罪者の生活史が情状の分析の裏打ちになるに応じて、罪の確定にさいして、刑罰上の言説と精神医学上の言説が両者の境界領域を混ぜ合わせるのが見られ、しかもその点において、両者の接合点において、《危険有害な》個人という概念が形づくられるのであって、その概念が、或る人間の全生活史のひろがりで或る網目状の因果関係を定めることを、しかも処罰=矯正という或る裁定を下すことを可能にするのである。」([同:249]) 

第2の点は次のように言われる。

「非行[=在監]者と法律違反者が区別されるもう一つの点は、前者が犯行の当人(自由で自覚的な意志の若干の基準との関連で責任ある当人)であるにとどまらず、さらにさまざまな複合的所産(本能、衝動、傾向、性格)の一つの束全体によって自分の犯罪に結びついている、という事柄に存する。行刑技術の対象は当の犯人をめぐる関連ではなくて、犯罪者の自分の犯罪への類縁関係である。」([同:250]) 

以前からの《風俗本位な》記述、《古い人種誌》であった犯罪者の分類でなく、「自然および偏差を重視した類型論に犯罪者が属する、そうした新しい構成作業」が現われはじめる。「人の病理学的な逸脱たる非行性は、病的症候群やひどい畸形の場合と同様に分析が可能になる」。G- M. A. Ferrus の知能の程度などによる分類とそれに応じた処遇の提示(1850)はその転回点に位置する。

「[…]非行[=在監]者およびその形質についての《積極的》(実証的でもある)な認識[…]は犯罪とその情状にかんする法律上の規定とはきわめて異なっているし、さらには、個人の狂気を強調し、したがって犯罪的性格を消しさることを可能にする医学上の認識とも区別される[…]この新しい知においては、犯罪としての行為を、とりわけ、非行[=在監]者としての個人を「学問的に」規定することが重要になる。一つの犯罪学の存立可能性が与えられたのである。」([同:251])  

「行刑技術と非行的人間はいわば双生児である」。両者は「双方同時に、しかもその一方は他方の延長というかたちで現われ、いわば一つの技術論の総体、自らの手段が適用される客体を形づくって切り取るそうした総体として現われたわけである」。
  判決を下す際に、刑法典に修正変更を加える際に、この非行性を考慮に入れる必要がでてくる。「非行性とは裁判に対する監獄側の復讐である」。監獄と司法の間の「異種性にもかかわらず、監獄の機構と影響が近代の犯罪司法にそって何もかも普及させてきたのであり、非行性および非行者はこの犯罪司法全体に寄生してしまった」([同:252])。
  その根拠が問題だが、念頭においてもよい一つの事実として、次のことがあげられる。

「一八世紀に改革者たちが規定していた刑事司法は、犯罪者について成立可能な二筋の、ただし別々の二筋の客体化を記述していて、一つは社会契約の外にはみ出てしまった道徳上もしくは政治上の《怪物》の系列であり、他方は処罰によって再規定される法的主体の系列であった。ところが例の《非行者》の概念を用いるならば、これら二系列を結びつけて医学や心理学や犯罪学とによる保証のもと或る個人を、つまりそこでは法律違反者と学識に富む技術の客体とが――ほぼ――重なり合うそうした一個人を組み立てることが可能になるわけである。」([同:252-253])  

  「[…]非行性というものをつくりあげつつ監獄が犯罪司法に或る客体の場を、若干の《科学》によって確認される統一的な場を提供し[…]こうした監獄のおかげで犯罪司法は《真実》の一般的地平のうえで機能をはたすことが可能になった[…]。」([同:253])

  先に記述してきた刑法論における対立の問題を含めて次のように言おう。実証科学の知は、自由意志・帰責という構制に対して破壊的に作用した。しかし、それはすぐさま、功利主義によって代捕される。あるいは、「実証科学的には証明不可能だが・」と言うことにより(知の水準を分離することにより)、また、自由意志の存在を認めた方が、何らかの目的にとり都合がよいからという理由で、この構制が維持される。この論議、対立の間、行為者――「正常な判断力」を持つ行為者――を罰するというそのことに変化があったわけではない。そして、実証科学の知は、Foucault が記した意味において、「非行性」を犯罪者に与えることになる。原因を探し出し、そのまた原因を探し出すという所作の論理的な帰結においては、古典的な帰責の構制においては、空虚であるかもしれぬ主体に、原因や性向やが回付され、最終的な原因・根拠としてではないにせよ、ある主体が形成されることになる。それは行刑の場においてはもとより、裁定の場にも、さらには立法の場にも影響を与えずにはおかない。刑法学において、相変わらず、帰責の根拠についての論議が戦わされていようと、確実に現実はこの方向に進んだのであり、また学派の対立の緩和などと言われることはそれを示すものに他ならない。また自由意志を高唱することが、例えば、刑罰の目的刑化による個人への「過剰」な関与を抑制する方向に働くと言われたとしても――ただこのことを自由意志に基づいて主張する必要は必ずしもないことを述べた、自由意志を主張する者はそれでは相対的な2原理の調停に陥り、関与についての歯止めがなくなると言うかもしれないが、現在では自由意志を強調する者でも絶対的な応報刑を主張することはないのである――、またこの主張は「道義的責任」の主張にも結びつくのであり、それは、他方の対立しもするが、またいつのまにか調停されてもいる実証知、実証知において構成される個人、「非行者」と、奇妙に並行、あるいは混淆することになる(累犯者の処遇に関わるのだが、団藤は、ある人格を自由意志によって形成したことに 対する責任、「人格形成責任」なる概念を提示している([1979]etc.))。
  もちろん、実証科学は、その出自は、ある歴史性に規定されている、と述べることが、そのままそれ以上の何かを語っているかのように、まして批判的な何かを語っているかのように考えることはできない。知が従属する目的についてその正当性が判断されるべきことももちろんだが、その目的・装置の中に、とともにある知の――そういった位置にあることと無関係ではないはずの――質について、時にはその知と同じ平面において検証してみなければならないし、またその知が、目標や目標の前提となる事実認定に対して果たしている作用を観察すべきなのである――むろんFoucault が「非行者」と言うときには、そういった意味が含まれている。それは、例えば犯罪学の諸理論、諸成果を検証することとしてなされねばならず、その具体的な作業をここで行うことはできないが、とりあえず以下のことを記しておく。
  犯罪学が、その出自によって、犯罪の原因を探し出すそういった知であることは、そのことによって、原因の「過剰」を生み出していないだろうか。また原因の措定――因果連鎖のある地点での閉じ込み――はどのようになされているのか。
  例えば、犯罪者についての知において、主体の内部に――それは自由意志といった形而上学的な存在の措定とは別のものとしても――原因が求められるとき、生得的な要素についてはさておくとしても、何らかの要因の主体への沈澱、内在化の、その普遍性への信憑を認めることができるかもしれない。つまり、ある行為の原因が見出せたとして、それが主体に内在化されており、またその後もその当の者に持続して存在するといった観念がそこに認められないか。もちろん、犯罪学、近代学派の刑法学は、それをその言説の中で対自化されない暗黙の前提として、というより、厳然とした事実として受けとったのである。機会犯と常習犯という分割は既にその言説の当初より存在する、というよりも、常習犯、累犯の問題はこういった言説の登場の一つの主要な契機である。そして、教育刑は、この主体に内在化された、沈澱しているとされる部分に対するものとして――精確には、改善可能犯と改善不能犯というさらなる分割における前者に対して、それは悪に染まっているが染まりきってはいないといった中間的な範疇である――存在するのである。だが、そういった部分の措定を疑うことができる。例えば環境とよばれるものの恒常性によって、また、それを構成する一つの部分である、監獄の存在によって、人々の「みなし」によって、そしてその「みなし」が既に、一貫性・連続性を個人に措定していることによって、犯罪性向の内在性、沈澱とされているものを、置き換えることができるのではないかと言うことができる。一貫性の認識が、そもそもそれを妥当なものと確信せしめるような事実に基づいているのだという主張がなされるかもしれない。けれども、それがたとえいくらかは真実であったとしても、上述のことが否定されるわけではないし、まず、それはどれほど真実なのか明らかではないのである。(19)(20)
  さらに、例えば、措定され、改革が志向されく環境が、どのように区切られるのか、つまりどこまでが問題化され、改革の対象となるのか、といったこともまた問われうる。その具体的な作業を行うことは出来ないのが、この章の終わりに、もちろん犯罪学の知に限られるわけではないこの措定・分割の所作について、検証されるべきことをいくつか提出してみよう。


第3節 行刑装置の改革(19−20世紀)

■ 市場・家庭・民主制の模倣

  この節では、第1節で紹介した、行刑装置そして行刑装置に関わる言説のその後の展開のいくつかを概観する。ただし、十分な検討はできず、むしろ本節は諸課題を提示することを目的とする。
  まず、T. Eriksonがオーバン制、ペンシルヴァニア制の後に、あるいはこれらを批判しつつ、現れてきた諸改革としてあげるもののなかから、「課題刑」・「累進処遇」・「家庭に代わる施設」・「施設における自治制」、この3つを取りあげる。
  1840年、オーストラリアのノーフォーク島で、A. Machonochieが、点数制(Mark Sys- tem)、これと結びついた累進処遇制(Progressive System)を導入する。1948年に出版された議会への提言で彼は次のように述べる。作業と通常の善行・規則遵守の両方により点数がつけられる。囚人は供与されるものに点数をもって支払いをする。一定の点数が達成されるまで刑期は終わらない。刑期は3段階に分けられ、第1期では短期間の厳格な拘禁と道徳的・宗教的な教化が行われる。第2期は作業が課され、一定の点数を獲得した者は第3期に移る。この段階では共同作業が行われ、チームとしての点数がつけられ、メンバーは全員について責任を負う。時間の経過とともに制限は少なくなり、刑期の終末にはできるだけ釈放後の状態に近いものになる――。このような方策がノーフォ−ク島の流刑地に適用され、それは成功した――監獄の治安の維持、再犯率の低さ――が、費用に対する、そして囚人への処遇(厚遇)に対する批判により1844年彼は解任される。
  だが累進処遇制の試みはもちろんこれで終わったのではなく、1853年英国で、アイルランドでは1854年により精緻なものが、採用される。W. E. Craton 卿が導入したアイルランドの制度は4段階に分かれる。第1段階は8、9か月で、最初の3か月は減食のうえ、労働を許さず、その後――3か月もたてばどんな者も何かしたいと思うだろうから――十分な食事を与え、労働させる。その他宗教教育、読み方などの実用的技術が授けられる。第2段階では集団作業に入いる。この段階は4級に分かれ各級の進級は累積点数によってなされる。第3段階は解放施設での処遇。第4段階は仮釈放の期間であり、職員が職場の開拓を行った。このようなCraton の試みは独房拘禁制度、沈黙雑居制度の批判のなかで支持を受けるようになる。
  1870年の米国刑務協会第1回会議で、Machonochie、Craton の試みが注目され、その議長も務めたZ. R. Brockway は1876年ニューヨーク州エルマイラ刑務所の所長となり、改革を実施する。その理念はMachonochie、Craton のものであったが、作業が収容者の社会適応に役立つように実施されたこと、賃金制度が導入されたことが新しかった。この試みに対しては、規律を緩やかにすると犯罪防止効果がないという批判、反対に、規律が抑圧的なものであるという批判が、また監獄内での作業に対し「善良な労働者からパンを奪う」という批判がなされた。これに影響を受けた特別若年刑務所が、イギリスで1902年に作られ、ヨーロッパ大陸に広がった(Erikson[1976=1980:100-121])。
  次に、施設の「家庭」への接近を見出すことができる。
  少年の犯罪行動が家庭環境に起因するという考えから、父母の適切な指導・保護を得られなかった少年達に対し、家庭に代わるものを与えようという考え方が生まれる。
  文献に現れる最初の施設はスイス、アーガウのホフウィルに1801年、J. J. Wehrli によって作られた施設である。収容された少年達は定められた時間割に従って生活し、そこには労働、学課が含まれた。Wehrli は少年達とともに生活し、彼らの意見を聞き、施設の規律・予算についてのあらゆる討議に彼らを参加させた。
  この施設はヨーロッパ各地を影響を与えたが、なかでも、J. H. Wicher がケルンに創設したラウエス・ハウス(Rauhes Haus 粗末な家)が注目される。この施設は解放施設であり、祈りと労働と学習の日課が課された。
  1840年には、フランスで法学者Dommet によりメトレー矯正院が開設される。この施設は、家長、副家長および最大限40名の子供によって家族が作られ、各々の家族は互いに独立したものとされた。キリスト教の精神による教育、及び作業が課された。(ただし、この施設は今世紀までには――善行を示す「袖章」と報酬の制度にみられるように――非常に軍隊に近いものになっていく。)
  同じくフランスで、1847年にヴァル・ディエーブル矯正農園コロニーが開設された。7・19歳の少年が、年長・年少の二つのグループに分けられ、それがさらに16の小グループに編成され――成員は連帯責任を負った――、監督教官のもとに指導生(生活態度の良好な生徒が選ばれた)がおかれ、農耕とその関連作業が課された。
  ラウエス・ハウスのような小グループ・システムは費用がかかりすぎるため、上記のフランスの施設が多く模倣されたが、それらは家庭に代わるものという理念からは遠ざかったものだった。これらの施設は社会の批判を受け、閉鎖されるに至る。その最後のものがメトレーの1937年の閉鎖である。ラウエス・ハウスの考え方をうけついだ施設として合衆国オハイオ州のベルフェイル・ホールがあげられる(Erikson[同:132-162])。
  そして自治制度の、最初は少年の施設、後には一般の刑務所への、導入が試みられる。
  1826年のマサチチューセッツ州議会の決定によって建設されたボストン矯正所では、収容者は6つの各々制限の範囲の異なる級に分けられたが、その進級は生徒会議における投票によって決定された。また、同様に月1回の選挙により、裁判所の12人の構成員、1人の警察署長と何人かの副署長が収容者の中から選ばれた。
  また1895年、ニューヨーク州にジョージ少年少女共和国を創立したW. R. George は、高率の逃走事故に区切りをつけるために共和国の全責任を少年少女にほとんど委任し、彼自身は主任助言者となった。共和国政府は立法・司法・行政の3部門を持ち、また経済的には施設は、独自のパン屋、日刊新聞、木工店、印刷所、百貨店を営むまでになった。彼らの住む家の各々は寮母1人を含む職員に委託され、男女共学が実施された。
  この試みは広く注目され、1908年には多くの類似の施設が、国立少年共和国協会を作りこれに加入した。そういった施設の1つデトロイトの少年共和国についての1949年のある参加者の記録によれば、その基本的なテーマは「更生への道は、市民であることの訓練によって達せられる」ということであり、そこでは、自治活動のプログラムと、会計訓練(学業、作業、経理業務による収入から必要経費を払い、あるいは預金する・)、善行点制、が行われる。
  1913年には、ジョージ少年少女共和国の評議会議長を務めたT. M. Osborn が、ニューヨーク州行刑制度改革委員会議長に任命され、一般の刑務所に自治を導入する試みを行った。彼はオーバン制を、それが沈黙の強制による緊張感、偽善、制度の裏をかこうとする企みを産み、その単調さは囚人を過敏にし意志の力を無能にするとして批判し、過剰拘禁による不品行(同性愛、等)、非組織的、非生産的な作業計画によって作業意欲を盛りたてるに足る支払いができなくなっていること、収容者をスパイに使う監視が不信感を生むことを指摘、批判した。彼はオーバンに、相互福祉連盟を作り、49人の代表者を選ばせ、苦情処理委員会、後に苦情裁判所を作らせる。また、1914年には、シンシンにおいても同様の試み(黄金律組合、そのための委員会の設置)を行った(Erikson[同:163-179])。(Eriksonはこの後、ソビエト連邦における1920年以降の孤児、少年犯罪者の施設における自治制の導入について紹介している[同:179-182]。)
  確かに、上にあげたいくつかの試みの従来の行刑・矯正装置との分離はそれ程明らかなものではない。例えば、Foucault が「監禁制度の形成が完了するその時期をもしも決定しなければならない場合」、指定するのは「メトレーの少年施設の正式の開設の日付である、1880年1月20日[…]多分もっと適切なのは、メトレーの或る少年が臨終の苦しみのなかで「こんなにも早々とこの集落施設に別れなければならないのはなんと悲しい」と言ったという、日付ぬきの栄光のその日」である。その施設は「規律=訓練の最も強度な状態における形態であり、人間の行動にかんする強制権中心のすべての技術論が集約される見本である」。「被拘禁者たちがそこへ配分される、きわめて階層秩序化されたいくつかの小集団は、[…]五つのモデル(家族モデル、軍隊モデル、仕事場モデル、学校モデル、裁判モデル・引用者記)に同時に準拠している」(Foucault [1975=1977:294])。とはいえ、これらの試みは、従来の孤独・労働・規律の装置とは――とりわけ第1のものとは――異なる、というよりは、それにつけ加えを行うのであり、つけ加えが成功した分だけ、従来の装置が差し引かれるのである。
  これらの改革が、市場経済・家庭・民主制という、恐らく近代社会の最も主要な3つの構成要素の模倣として存在することを指摘しておかなくてはならない。閉域の中に、外界の――多くの場合不完全な、しかし時には外界より純粋で好ましいものであるかもしれない――模型が作られる。それは、報酬・愛情・合意、これらによる自己拘束によって、収容者が更生――この自己拘束を受け入れられるならそれは更生されたことになる――することを、そしてまた施設内の秩序が維持されることを目指す。確かにその背後には、制裁の装置が控えている。許容された枠の中でしか例えば「自治」は許されない。ただ、それは、「外界」においてもさして変わらないのだ。この外界=社会の内部にある装置が有効に働かない時に、制裁装置が用意される。ところでその制裁装置は、社会を模倣した小社会である。それがまた有効に機能しない場合には、またその内における制裁装置が要請される――。

■ 「医療モデル」

  次に、行刑装置の医療装置への接近をみることができる。医学、精神医学は、裁判における責任能力の有無の判断の場面に(21)、また――主要には精神障害によって――刑事責任を阻却された者に対する処遇の場面(22)にも関わってくるのだが、ここでは、責任能力を認められた「普通」の犯罪者に対する医学的な介入について紹介する。
  まず、責任能力者として扱われるが、精神的な障害、問題を持つ者に対する処遇がある。ここでは処遇自体よりも、この範疇の犯罪者の規定を眺めてみることにしよう。
  この犯罪者の範疇は精神病質犯罪者(Psychopathic offender)と呼ばれる。精神病質人格は、「異常性格、病的性格、性格異常、変質者などと類似の概念で[…]ドイツのK. Schneiderの精神病質概念によれば、「精神病質とは人格の異常のために自分が悩むか、あるいは社会が悩まされる」ものである。また、アメリカ合衆国では精神病質にかわって社会病質(Sociopath)なる用語がもちいられ[…]「精神病質者は、反社会的、攻撃的で非常に衝動的な人間で、罪の意識の希薄な、他人との永続的なきずなを保つことができない者である」などと定義されている」(加藤久雄[1984:184])。例えばSchneiderはそれに「発揚、抑うつ、自信欠乏、狂信、自己顕示、気分易変、爆発、情性欠如(無情性),意志薄弱、無力」の10種類をあげるが、とりわけそのいくつかが、あるいはそのいくつかの複合が、いくつかの犯罪に関連が深いとされる。累犯者、常習犯罪者の中には一般に精神病質者の占める割合が高く、累犯者の約40%を占めると、あるいは常習犯罪者の過半数を占めると言われる([同:184-185])。彼らに対する特別の処遇が試みられる([同:185ff])。
  この範疇は、Foucault の言う、刑罰上の言説と精神医学上の言説の境界上に、しかも法律上の規定とも、責任を阻却する医学上の認識とも区別されて存在する知において形成される「非行者」に相応する(→第2節)。                      さらに、犯罪者、刑務所への収容者一般が一種の医療(医学、精神医学にとどまらず、心理学、社会学といった諸科学が動員されるそういったものとしての医療)の対象として認識され、関与されるようになる――というよりは、精神病質者と一般の犯罪者の区別は曖昧なものであり、犯罪者がいくらかは精神病質者であるという把握のもとで、この関与が行われるのである。それは行刑上の「医療モデル(Medical Model)」と呼ばれる。藤本哲也はそれを次のようにまとめている。

「「医療モデル」は医学モデル、病人モデル、治療モデル、処遇モデル、改善モデル、社会復帰モデルとも呼ばれているが、これは犯罪者の処遇を病人の治療とパラレルに考えるものであり、犯罪者の取り扱いのプロセスを説明するために、医療分野における専門用語やその概念を用いて説明を試みるものである。従って、まず医療モデルの思考のフレームワークの中では、犯罪者はその人格構造や社会化の過程でなんらかの欠陥により犯罪を犯すという意味で「病人」であると考えられる。刑務所の手続は診断と分類により始まるが、この「診断」(diagnosis)と「分類」(classification)という言葉も、もちろん医学用語から借用したものである。診断をする際には、犯罪が個人的な不適応や欠陥の徴候であり、犯罪者は身体的・精神的・社会的にみて、いわば病気にかかっているのであるから、彼の犯した犯罪はその病気の現われであるとみなされるのである。従って、犯罪を防止しかつ犯罪者の改善更生をはかるためには、犯罪者を処罰するよりも、犯罪の原因を科学的に探求し、原因を除去するための適切な治療をほどこすことが必要であるということになる。
  こうした考え方に立てば、犯罪原因の早期発見のための科学的技術の採用や正確な犯罪者の分類のための判決前調査制度が重要な意味をもつことになるし、受刑者の収容期間(刑期)は、治療するまでの期間という意味では不定期刑が有用であるということになろう。そしてまた、治癒したかどうか、更に入院治療を続ける必要があるかどうか、外来患者として通院すればよいのかどうか等の判断をするためには、一時、様子を見るために仮退院(仮釈放)を試みることも必要であろうし、退院者や仮退院者にはアフター・ケアとしての環境調査、援護、監督(保護観察)を試みることも必要となるであろう。
  このような医療モデルは、現在のアメリカの行刑制度のそのほとんどのものを生み出す母体となったものであり、その初期の段階においては、犯罪者を治療することが可能であるという信念とまたそれを実現可能とする行動科学的知見に対する信頼とによって大きく支えられていたのである。」(藤本[1984a:264-265])
矯正一般とこの医療モデルとを区別することができるとすれば、それは後者がより「科学的」な、というよりはより「個人」に注目した矯正装置だということである。合衆国に限られるわけではない、この「処遇」の具体的な形態について、とりわけ、様々の試みとしてあるだろう「診断」や「治療」の内実について、概観してみることはここではできないが、例えば20世紀初頭に既に犯罪者処遇への取り入れが開始されたという精神分析的な治療法には、――それは精神分析的な治療一般にということだが――「主体化」、かつては、修道院での生活やプロテスタントの生活との類比において、独房の孤独のもとでなされると信じられた「主体化」の作用、権力の行使、ただし今度は、告解との類似においても捉えられよう、発話者と聞き手、助言者の間でなされる饒舌な「主体化」の作用、権力の行使を認めることはできないか。
  1929年、フロイト派の犯罪原因の見解が示されたF. AlexanderとH. Staubの『犯罪者者と裁判官』(Der Verbrecher und seine Richter)がウィーンで出版される。また、ほぼ同時期、1918年から1922年の間に、ウィーンで、A. Aichhor  ら訓練された精神分析家  による施設収容非行少年の研究、処遇実験が開始され、その処遇法は『手に負えぬ子どもたち』(Ver-wahrloste Jugend、1925)の内に記された。この書物は数か国語に翻訳され、その後の犯罪者処遇に強い影響を及ぼした。英国ではクェーカー教徒たちが資金を調達して治療的実践を行った。
  これらは個人療法の原理に基づいているが、治療家の数、費用の問題により、精神分析療法を何人かの者に同時に行う集団療法への移行がなされる。合衆国では、1907年にJ. H. Pratt  がこの主題について、医学会誌に論文を発表しているが、集団療法が大規模に用いられるようになったのは第二次大戦以後である。戦争の苛酷な条件に適応出来ない将兵、抗命や訓練不足によって戦友たちを危機に曝すような将兵がケンタッキー州ホートノックスの更生センターに送られ、医師と心理学者のチームにより処遇を受けた。その心理学者の一人L. W. Mckorkle の最初の訓練は社会学に基礎を置いていた(Erikson[1976=1980:273-274])。
  ニュージャージー州の矯正局長となった社会学者のF. L. BixbyはMckorkle を招き、1950年、ハイフィールズに建てられた刑務所で集団療法が実施される。そこで「指導された集団相互作用(guided group interaction)」と呼ばれたプログラムは、心理学者、社会学者によって担当され、彼らが自ら働きかけるのを留保して、グループを自己の管理下に置きつつ、できるだけ直接に手を下さない、といった方針のものだったが、1950年代の終わりに、大多数の受刑者に集団療法を受けさせる決定を下したカリフォルニア州において、カリフォルニア矯正局の心理学者N. Fenton は、臨床的訓練を受けたことのないリーダーによって方向づけられた集団カウンセリングを導入する。これらの試みの内容については、Eriksonの記述([同:274-283])――これに基づきここまでの紹介を行っている――に詳しいが、ここではFenton が集団カウンセリングの目標として要約している7つの点の4番目のものを引用しておく。

「収容者が強盗、住居侵入、文書偽造、その他のさまざまな犯罪の底にある情緒的葛藤の重要な意味を、悟るように援助してやること。以前には自己の犯行の持つ情緒的問題に無関心で、犯行原因となった自分の感情を認めたがらなかった収容者も、集団内で他の受刑者を観察することによって、自己洞察を得るようになる。また、彼らは自分が刑務所に入れられるに至ったいいわけの一つとして、両親や雇主や法執行官のような権威層に対し抱いていた障害的な抑圧感情を、正しく評価できるようになる。そうした自分自身の情緒障害や他人とのかかわりを吟味することが、犯行のより一層の理解へと導くことになろう。収容者は自分自身を、感情に大きな障害を受けた人間として受け入れねばならない。集団カウンセリングを何週間か続けていくうちに、彼らは自己の内面的感情を集団内で打ち明けて吟味することが、これから先うまくやって、社会で幸せになるのに役立つかも知れないという上述した信念に向って、少なくとも心を開くようになる。」(Fenton,・An Introduction to Group Counseling in State Correctional Service" 1957、引用はErikson[同:279])

■ 「社会内処遇」

  「犯罪者の処遇ニーズに応じて、処遇領域が閉鎖された施設内から解放された社会内へ拡大されていくとともに「中間処遇(Intermediate Treatment)」、「社会内処遇(Com- munity Treatment)」、「地域内処遇(Community Treatment)」などという新しい「処遇」形態が生じてきた。
  「中間処遇」とは、閉鎖施設から徐々に戒護状態や行動の自由の制限などが緩和された施設で社会内処遇の準備をする段階における取り扱いを意味する。たとえば、解放施設における処遇や外部通勤者のための特別施設における処遇、或いは、帰休制なとによる特別な処遇などがある。
  「社会内処遇」とは、犯罪者を一般社会の中で、通常の社会生活をさせながら、行動の自由に一定の制限を加える遵守事項を課し、定期的なコントロールを加え、犯罪を起こさない生活を導くものである。従って、「社会内処遇」を「保護的処遇」と称することもある。[…]保護観察は、仮釈放者、仮出所者、仮退院者などの仮に矯正処遇・治療を終了した者だけではなく、執行猶予や宣告猶予[…]に際して言い渡されるものや独立処分として言い渡されるもの(少年法第24条第1項1号)等司法的決定後、直ちに実施されるものもある(23)。また、最近、イギリスや西ドイツなどで実施されている「社会奉仕命令(Community Service Order)」なども、新しい社会内処遇の一形態である。  
  「地域社会内処遇」とは「一定の地域社会内(これは、地理的には通勤・通学できる範囲であり、社会機関との交流が可能であり、一般市民との社会的接触が容易にできる範囲を言う)にあって、犯罪者に直接向けられたプログラムであり、その者が順法的な市民となるように援助するすべての活動を含む」ものである、と定義される。これには、アメリカ合衆国で1960年以後、「社会への再統合モデル」の具体的プログラムとして、実施されている連邦社会内処遇センター(Federal Community Treatment Center)などの例がある。」(加藤[1984:8-9])

  「処遇ニーズ」については「犯罪の原因は、なにも犯罪者個人のみに帰せられるだけではなく、犯罪者を取り巻いている様々な社会的な環境要因も大きく作用している、という見方が承認されはじめたり、また、犯罪者を科学的に分類したり、それに基づいて適切に処遇したりする技術がどんどん開発されることにより犯罪者「処遇」を科学化、多様化、社会化し、それぞれの「犯罪者のニーズに応じた『処遇』」(Differential Treatment)」が要請されるようになってきた」と、加藤は述べている([同:8])。
  他方藤本は、「確かに、社会内処遇が主張されるようになった背景には、人道的な刑事政策の提唱、人権保障思想に基づく受刑者の法的地位の確認、社会的再統合理論に裏打ちされた犯罪者の再社会化・社会復帰刑の唱導、ラベリング理論に基づく烙印押しの除去やダイヴァージョン(23)等の提言に代表されるような不介入主義の刑事政策の主張等があったことは事実である。しかし、その真のねらいは、社会内処遇こそは過剰拘禁を解消するための施策として、最も経済的でかつ有効な手段であるという信念であったといっても過言ではないであろう」(藤本[1984a:248-249])と述べている。
  確かに、いくつもの意図がそこに認められるのだろうし、それは「社会内処遇」として、あるいは先の3つの「処遇」としてまとめられたその各々について、検証せねばならないことだが、ひとまず以下の点を記しておく。
  まず、ここに述べられる処遇は、この節で述べてきた処遇の方式と別のものではない。先の引用にもあったように、それは「医療モデル」すなわち診断・治療の反復の中に組み込まれている。また、「中間処遇」と言われるものは、施設の社会への接近――それによる社会適応――を意図するものである。またそれが不定期刑、「累進処遇」の一部分としてある限りにおいては、拘禁と一組のものとしてある。すなわち、収容者の行状に応じて例えば仮釈放が言い渡されるという仕組みの中で、それは、施設内でのより強度の自己拘束を強いることになる。
  これらの部分をとりさって「監獄内」ではなく「社会内」「地域社会内」と呼ばれることに注目すべきだろうか。社会の内にいることと、社会内「処遇」であることの間にどのような距離があるのか。浮浪者・貧民に対する監禁政策は、18世紀末に解かれたが、その後に――少なくともフランスにおいては――例えば家庭訪問が残った。より広域への監視・矯正の網が広げられることの可能性について検討すべきかもしれない。

■ 諸批判

  上述の行刑上の諸装置は、矯正を目的とする点で一致する。またそこに介在する科学もそれに指針を与えるものとしてある。だが、主要には1960年代より、科学に対する批判、そして矯正の理念に対する批判、矯正のための刑罰からの撤退の主張が現われる。
  まず犯罪学の変化、あるいは犯罪学批判について。19世紀に始まった(実証的)犯罪学は――ここでも1世紀半あまりの推移を省略することになるが――生得的・環境的な犯罪の原因を見つけ出し、(それを個人の内に内在化されたものとみなし)、行刑との関係においては、今までみてきたような、個人の矯正を誘導するものとしてある。
  これと異なった、これと対立的な動向が、主要には1960年代より現われる。それらは、従来の犯罪学と合わせ、様々な分類、位置づけがなされているようだが(25)、ひとまず、マルクス主義的な方向と、レイベリング理論の方向――これらが対立して存在するというわけではないが――と、まとめることができよう。
  マルクス主義的と呼べる、資本制社会における刑罰機構の把握、その批判は、言うまでもなくそれほど新しいものではない。それが新しいと言えるとすれば、例えば合衆国においてそうであったということである。このアプローチを紹介した、私が読むことのできた文章(藤本[1984a][1984b])から、もっとも簡潔な要約を取り出すなら、「急進的犯罪学のマルクス主義的パースペクティブよりすれば、資本主義的経済は、搾取を本質とし、刑事司法の諸制度は、この搾取の維持に貢献し、研究分野としての刑事司法学は、これら抑圧制度に対して、テクノクラティックな知識を供給すると考えるのである」(藤本[1984b:17])という部分である。
  まず確認できるのは、このアプローチが全体社会における機能要件から導かれる刑罰の正当化という理路を批判していることである。ただし、この全体社会の分割・解体は、(経済的に)搾取する側と搾取されている側という分割以外にもありうる。どのような水準において「搾取の維持に貢献する」と主張するのか、二つの部分への分割のうちに見失われているものはないのか、また、刑事司法学・犯罪学に対する批判がどのような形でなされているのか――私達はこういった科学を単に「テクノクラティックな知識を供給する」ものとだけとらえるべきではないと考えるのだが――等々のことを検討する必要がある。  レイベリング理論は、この章ではほとんど唯一社会学においてある程度の了解の得られている理論であるから、詳しい説明は不要である。1つだけ確認しておくなら、この理論は、犯罪を、少なくとも「非行歴」の初期になされた犯罪を、生得的あるいは環境的な要因が個人に内在化された結果なされたものとはみず、むしろ偶然的なものと考える。そして、それが「常習化」するとすれば、他者によるレイベリングによるのであり、施設収容は、その内において、また施設に収容されたというそのことによって、むしろそれを促進する場合さえあると考える。また、性格の改善という意味での矯正は積極的な評価を受けないことになる。ここまでのそしてこれからの記述は、この理論、というよりは視角に捉えられていようことと重なる部分があるはずだ。犯罪・刑罰の場面を具体的にどのように分析するのか、レイベリングの「質」がどのように論定されるのが。先に、かなり一般的な水準で(のみ)捉えているのではないかと指摘した(注20)が、より詳細には今後検討せねばならない。
  そしてこういった動向(とりわけレイベリング理論)は、従来の犯罪学・行刑理論にも一定の影響を与えているようだが、それがどのような形で吸収されていくのかについても確かめる必要がある。
  こういった理論面での批判とともに、1960年代後半から1970年代の初めにかけて、各国で囚人による監獄の告発、「囚人暴動」が起こった。(26)これらの運動が何を主張したのかについても、ここでは紹介できず、今後の課題としなければならない。
  そして1960年代、とりわけ1970年代に入ってから、欧米、スカンディナビア諸国――これらの国は「医療モデル」の「先進国」であったわけだが――において、刑罰・刑罰理念の転換、すなわち「医療モデル」から「公正モデル(Justice Model)」への転換が志向されていると言われる。それは「転換」と言えるものなのか、また上述の批判・告発とはどのような関係にあるのか。
  まず、正義モデル、法治モデル、応報モデル、刑罰モデルとも訳される、公正モデルとはどのようなものなのか。その主唱者とされるD. Fogelは、1975年に・We are Living Proof ・:The Justice Model for Correctionsと題する著書を出版し、「犯罪者は法的にかつ公平に扱われるべきだと[…]すなわち、[…]犯罪者を改善させるためには、彼らを法律で定められた適性な手段に基づいて処遇することが必要であり、そのためには、実質的な刑の量刑が司法機関にではなく行刑機関にある現行の不定期刑やパロール制度をまず廃止すべきであると主張した」と、藤本は述べ([1984a:273-274,引用は274])、次のように続ける。

「[…]フォーゲルの「公正モデル」における基本的立場は、受刑者は改善や社会復帰の処遇を受けるために刑務所に送致されたのではなく、刑罰の執行を受けるために送られたものであると理解し、拘禁の目的を送致された後の国の処理責任の態勢とは別個のものであると理解するところにある。そして拘禁刑の目的を応報威嚇と理解しながらも、その内容は特定期間の自由の剥奪のみを意味するものであり、刑事司法の全プログラムは法治的環境で行われなければならず、公平なる法治主義は、刑事司法各分野の最高の指導原理でなければならないのである。ここでいう公平に行われていること以上のものを矯正に期待してはならず、それがおこなわれていないことは職務怠慢として責められなければならないと主張するものである。
  このフォーゲルの主張内容からも明らかなごとく、公平モデルの根底にあるものは、犯罪者を刑務所の中で改善更生させることはできないという信念であり、刑務所が犯罪者の処罰のみに役立つものであることを率直に認め、公平の確保を何にもまして重視しようとする応報的・悲観的行刑観であるといえる。フォーゲル自身が述べているごとく、公正モデルそのものは、犯罪者の更生というよりも、刑務所制度そのものの更生を目的とした構想であったということを考えれば、このことはより一層明確なものとなるであろう。」(藤本[1984a:274-275])

そしてこのモデルにおいて、具体的には、(Fogelの公正モデルにおいてはというわけではない)「@定期刑への復帰、Aパロールボードの廃止、B裁判官の裁量権の制限、C善時制の採用、D未決拘留期間の刑期算入、E受刑者の自治の拡大と処遇への自主的・任意的参加、F受刑者に対する法的援助の規定、G第三者委員会の設定あるいはオンブズマン方式の採用、H犯罪者による被害者の損害賠償、I刑務所処遇の公開性、J大刑務所から小刑務所への転換等の諸方策が考えられている」([同:176])とされる。
  医療モデルへの批判、公正モデルの主張がなぜ生じたのか。合衆国について藤本は4つをあげている。
  第1に、犯罪の増加とそれにともなう市民の不安の増大。犯罪とくに累犯の増加現象をみるなら、医療モデルに基づく行刑は失敗であり、現行の犯罪対策はなまぬるいとして、「法と秩序(Law and Order)」を守るために、犯罪者に対して厳罰主義をもって臨むべきであると人々が主張し始めた。
  第2に、処遇プログラムに関する各種リサーチの報告とその評価に伴う医療モデルの処遇効果に対する疑問。医療モデルによる処遇が効果をあげていないという報告がなされた。  第3に、受刑者の改善更生を標榜する社会復帰理念が、かえって、受刑者の人権を侵害するおそれがあるということが認識されるようになったこと。
  第4に、オイル・ショック以降の深刻な不況下において、医療モデルによる諸方策に、経済的コストの問題から、消極的な運営方針が打ち出されたこと。([同:268-271])
  だから、ここには複数の、大きく言えば2つの方向が認められる。柳本正春は次のように述べている。

「犯罪者への理解を示すリベラル派は裁判官とパロールボードの裁量権を、犯罪者に対する法の前の平等の実現をはばむ最大の障害物であるとし、その根源である不定期刑とパロール制度を廃止すること、すなわち改善モデルからの撤退を要求したのである。そして市民の安全と被害者の感情を重視する保守派は、受刑者を甘やかすかに見える改善モデルを排斥し、犯罪者が受刑後、すぐに出所することを可能にする不定期刑とパロールボードの組合せを廃止し、受刑者を確実に拘禁させる定期刑の導入を主張したのである。」(柳本[1982:25]、藤本[1984a:271-272]に引用)

また、P. P. Lejins の指摘するように、「かつては、インテリの間では、刑罰は残酷なものであり、大衆的な感情の表現にすぎないとし、これに代える処遇をもってすることが、リベラルな考え方とされた。処遇は反体制的、批判的な主張であったともいえる。ところが今やその立ち場が逆転した。インテリは刑罰を主張し、処遇を排斥する。処遇が体制的主張であり、刑罰が反体制的主張だということになった」(平野[1979:85-86]、藤本[1984a:273]に引用)ということにもなる。
  ここに言われる「リベラル派」は、むろんマルクス主義的な刑罰の把握(の主要な帰結)とも異なるし、またレイベリング理論からも直接的に導かれない。また、囚人による告発からも帰結されるものではない――むろんこれらが「医療モデル」からの撤退の主張、そして「公正モデル」のいくつかの部分に影響を与えなかったというのではないが。
  まず、医療モデルは囚人を甘やかしている、より厳格な処置が必要であるという主張と、現に行われている処遇が囚人に対して抑圧的であるという主張とは、当然のことながら、重ならない。
  そしてまた、刑罰の装置がかえって逸脱者を作り出している、再生産しているという主張をする理論は、医療モデルをのみ問題にしているのではない。例えば(単なる)拘禁は処罰・逸脱の円環から無縁であると主張するのではない。
  また、囚人の抑圧に対する告発、そしてまた、逸脱の再生産過程についての分析は、それ自体、行刑装置について積極的な代替案を提示するわけではない。むろんそれは現実に何の影響も与えない、与えようとしない、ということとは異なる。告発は様々な場で働く具体的な抑圧装置の解除を求める。また、分析は従来の理論を疑い、その理論とともにある装置を疑い、例えば、その装置の非有効性、あるいは反有効性が確認されるなら、その解除の正当性が得られよう。けれども、その理論自体は、「処遇」のかわりに「刑罰」を主張するわけではない。
  むしろ先の引用に言われている限りで捉えれば、公正モデルの主張あるいは矯正モデルの否定の主張は、刑法における古典学派に存在する2つの方向――道義的な責任を問い非難・苦痛としての刑罰を主張する方向と、犯罪者の人格に対する介入を否定あるいは抑制すべきことを主張する方向――なのだと、そこに回帰したものだと言えよう。
  そして、私達が認めることができるのは、現実になされる「建設的」な批判、改革が、結局のところ、処罰の主張と矯正の主張との対立の後、両者の調停、妥協の方向に収斂してしまうということである。Foucault は「監獄の存在、その《失敗》、多少の差はあれ、熱心な改革、それらを三つの次々と起こった時期と考えてはならない」([同:269])と述べる。「矯正技術の計画が処罰としての拘禁という原則に付随したのと同様に、監獄およびその諸政策にたいする批判はごく初めから、この同じ時代一八二○年から一八四五年にかけて現われるのであり、さらにその批判はいくつかの定式にまとめあげられるが、それらは今日でもほとんどどんな差異もなく――数字は別として――繰返される定式である」([同:264])。そして、そういった批判は2つの方向、1つは「監獄が実際には矯正的ではなく、そこでは行刑技術が依然として幼稚な状態にとどまっている事態に対して」、1つは「矯正的たらんと欲すれば監獄はその処罰の力を失い、真の行刑技術とは厳格さであり、しかも監獄は経済的には二重の過ちをおかしていて、直接にはその機構の内的な経費の点で、間接には非行にまつわる出費の点で抑制力を持たない、という事態に対して」である。「ところがこうしたさまざまな批判に応ずる回答もやはりあい変わらず同じで、行刑技術のあい変わらぬ原則をくり返し主張するにとどまった。ここ一世紀半のあいだ、監獄はつねに自分自身の救済策として示されてきた。行刑技術の再活性化は、それらの果てしない失敗をつぐなうための唯一の手段として示されたし、矯正計画の実現は、その計画を実施に移せないその不可能さを克服するための唯一の方法としてしめされたのである」。例えば、1974年8月、フランス各地で起こった暴動は「1945年に定められた行刑制度改革が現実にはまったく効果をあげず、したがってその基本原則にたち戻らねばならなかったという事実に帰せられた」が、それは過去150 年間の間立てられてきた原則の逐語的な繰り返しなのである([同:267])。[1]矯正の原則、[2]分類の原則、[3]刑罰調整の原則、[4]義務として、また権利としての労働の原則、[5]行刑上の教育の原則、[6]拘禁の技術的規制の原則(専門家の監督、――)、[7]補足的な制度の原則(社会復帰のための、服役中、服役後の救済措置)――([同:267-269])。このようにフランスにおいては、矯正の原則が維持される。合衆国や北欧諸国では、先の紹介によれば、より矯正の色合いを薄める方向への転換がはかられたようだ。けれども、一方では矯正の理念が維持・主張されてもいる。そして、矯正の方策の失敗、犯罪の増加への懸念は、刑罰の強化、懲罰としての拘禁に向かうが、それがどれほどの効果をもたらすかは疑わしい。こうして刑罰・行刑の水準で犯罪の抑止が計られる限り、そして自由刑・監獄が維持される限り、懲罰と矯正の間を行きつ戻りつすることになる。

■ さらに知と諸装置の効果を問うべきこと……

  刑罰に関わる諸個人に関わる諸個人への作用は、法によって規定されるものだけではなく、裁定、行刑、そしてそれらに関わる知――といった様々の装置を介して働くのであり、それらの多くは、自明性のなかで、あるいは気づかれぬまま、自らを存在させ、増殖させていってしまうようなものだということである。そういった微細な諸力の作用を無視すべきではない。
  またこうした諸装置は、事実を作り出してしまう、あるいは事実の流通過程に影響を与える。裁定の場で事実が判断され、解釈される。また、行刑の場を一つの出生地ともする犯罪学の知は、また、行刑・裁定、等の場に影響を与える。そして、近代においては監獄として与えられる行刑の装置は、社会に一つの閉域を形成することにおいて、また、その内部でなされる様々な関与によって、事実を遮断し、あるいは作り出す。それは、「ではどうするのか」と言われる時に、そこで思念されていることに影響を与えないということはない。
  そして、それらは――犯罪の抑止という場所からみるなら――側面的、付随的な、しかし積極的な効果を産み出していないか。逸脱者を指定することは、「境界維持」の機能を果たすといった一般的な言明をなすだけにとどまるのでなかったら、さらに具体的な検討がなされる必要がある。第1節において、公開刑から監獄への移行、監獄の改革を、収容者とそれ以外の者との分離の戦略として捉えられることを示した。この分離は確かに、外界からの「悪い」影響を排し、直接に行刑装置と向かい合わせるためのものであった。この閉域の内では、第1節、第3節で紹介してきた様々な矯正の試みがなされた。それはいくらかは成功することがあったのかもしれないが、また、常に失敗が指摘され、批判がなされてきたのでもあった。だが、この分離は、さらに単に物理的な隔離というだけでなく、「非行者」として印づけることによる分離は、その分離そのものにおいて何かを産み出してこなかったか。Foucault はこの点についても語っている。

「仕組としての監獄がこんなにも長い間、こうんにも不動の状態で存続してきたのは、しかも刑罰としての拘禁の原理がけっして真剣に問題視されてこなかったのは、おそらくこの監禁制度が深い箇所に根づいていて、明確な機能をはたしてしたからにちがいない。」(Foucault [1975=1977:270])

監獄は失敗にもかかわらず、失敗と併行して存在してきた。

「だが多分、この問題を裏返しにして、いったい監獄はどんな役に立っているかと問う必要があるに違いない。」([同:270])
「[…]次のように想定する必要があろう。監獄は、しかも一般的には多分、懲罰というものは法律違反を除去する役目ではなく、むしろそれらを区別し配分し活用する役目を与えられていると。しかも法律に違反するおそれのある者を従順にすることをそれほど目標にするわけではなく、服従強制の一般的な戦術のなかに法律への違反を計画的に配置しようと企てているのだと。だとすれば刑罰制度とは、違法行為を管理し、不法行為の黙許の限界を示し、ある者には自由な行動の余地を与え、他の者には圧力をかけ、一部の人間を役立たせ、一部の人間を無力にし、別の人々から利益を引き出す、そうした方法だといえるだろう。要約すれば刑罰制度はただ単純に違法行為を《抑制する》わけではなく、それらを《差異化し》、それでもって一般的な《経済策》を確保しようとするといえるだろう。しかも司法について語ることができるのは、単に法それじたいや法を適用する方法がある階級の利益に奉仕するからだけでなく、刑罰制度の媒介による違法行為の差異中心の管理全体がこうした支配機構に所属するからである。」([同:270-271])

18世紀から19世紀への転回点に、民衆的な違法行為が新しい規模で展開する。第1に民衆的な違法行為の政治的規模での展開。1つには、局部的・限定的な実践活動(課税・徴兵・の拒否、買占められた産物の強奪・)が政治的な闘争に開かれる。1つには、既存の違法行為の形式を拠り所にする政治運動(新たな法律に対する農民層の拒否につけこんだ王党派の反乱・)。第2に法を自分の利益のために制定する者(雇用主・)への戦い。第3に、規制の強化に伴って、多数の者が法の反対側に移り、そこで(18世紀には相互に分離される傾向にあった)違法行為が互いに結合し新たな脅威を作り出す([同:271-273])。「過去二世紀における民衆的な違法行為を三重に一般化すれば[…]一般的な政治地平へのその行為の組込み、ついで、社会的闘争の場でのそれの明瞭な輪郭設定、法律違反の各種の形式ならびに水準のつながりが問題になる。」([同:273])
  こうした事態において、「監獄は一見《失敗しつつ》も自分の目標を逸してはいない」([同:274])。

「監獄は犯罪の減少に失敗しているという確認のかわりに、多分つぎの仮説をもちこむべきだろう。違法行為のなかの種別的な型、政治的もしくは経済的に危険がいっそう少ない――極端な場合には活用可能な――形式たる非行性を生みだすことに監獄は成功した。つまり表面的には周辺部に置かれているが中心部で規制される媒体たる非行性を生みだし、病理学的に扱われる主体として非行者を生みだすことに成功した、という仮説を。監獄の成功、それは法および各種の違法行為をめぐる戦いのなかで《非行性》を種別的に扱うことに存する。」([同:275])

  Foucault は、非行性を設定することによる利点をいくつかあげている。1.個々人(=非行者)に標識をつけ、その集団に中核的分子をつくり、相互的な密告を組織化することで取締りが可能になる。2.規制の圧力により非行者たちを社会の辺境に固定し、人をひきつける力のない、政治的な危険、経済的な影響のない、限られた犯罪の方に彼らをさしむけられる。3.統御される違法行為たる非行性は、支配権をもつ集団の違法行為にとっては一種の代行者である(売春・武器・酒・麻薬の密売)。4.権力の行使そのものが自分のまわりに呼び寄せる違法行為の一つの道具としての非行性(密偵、密告者、おとり、ストライキ・暴動の抑止、治安警察の手下)、「権力の地下予備軍」、「監視の[…]客体の一つでありながらもその特権的な道具の一つ」――この監視が機能できたのは、監獄のおかげ、監獄が原因の社会的不適合(失業、居住制限・)のおかげであり、司法はそれを手伝う、そのための手段となる([同:275-276])。

  具体的にあげられたこれらの諸点を、現代の社会にどれほど強く見出せるかは別として、私達は、刑罰の装置における分割、意味づけの作用を軽視すべきでない。
  何が原因・背景であり何がそうでないのか、という判断。このことの機能あるいは効果として、閉じられた因果の外が不問に付されることにならないか。
  また原因・背景が名指され、またその改善が目指されること自体の問題。何が目指されているのか、いかなる(派生的であるとしても、重要かもしれない)効果を生むのか。
  主体の位置について。ある場合には、主体のものとそうでないものという分割がなされよう。ある場合には、この主体の項を不問に付して、主体の行為として実現されたものの原因・背景の追求が目指されようが、それは、例えば「内在化」されたものとして主体に回付される。この回付の所作、またそこに見込まれる原因・背景はどのようなものか。そして、この「内在化」によって正当化される矯正はどのような効果をもたらすか。
  また、所謂「環境」について。まず、専ら主体に止目されることによってそれが不問に付されることにならないか。また環境が措定され、その改善が目指される時に何が行われるのか、また環境が措定される時、何が、あるいはどこまで措定されるのが。例えば、精神分析に対する批判の一つの論点は、措定されるのが専ら家族であるということではなかったか――その措定がいったんは認められても、それがまたどこへ結ばれているのかということが問題になる。この分割・閉じ込みのされ方についても検証する必要がある。
  こういったことすべてを、裁定、行刑、それに関わる知、また直接にそれらに関与しないかもしれないが犯罪・刑罰について語られる言説、そしてまた立法の場面、の各々について問うことができるはずである。もう少し具体的に述べよう。
  主体について判断する場としての裁定の場面。行為者を罰するいかなる自体的な根拠も与えられていない。それは一つの規範としてある他なく、その正当性は功利主義によって与えられたとしよう。例えば心神喪失者を罰しないことも、過失犯に対するより緩やかな刑罰もここから導くことができよう。こういった判断もさることながら、それ以外、それ以上の判断、解釈が行われていることに注目すべきである。例えば「情状酌量」とは、個人に固有に帰される部分とそうでない――責任が阻却されるわけではないが――「仕方のない」部分の分割の営為なのだが、それはどのように行われるのか。法に書かれているわけでない部分において判断を下す、その判断はどのようなものなのか。そして、そこでは「動機」もまた問われるのであり、当の者がその行為に至った事情について、解釈がなされる(それは裁定者においてだけでなく、検察においても、また弁護側においても同様である)。また、その行為の「背景」にも言及されよう。何がそこで語られるのか。何が背景であり、何がそうでないとされるのか。
  つぎに犯罪の原因を探り、その対策を目指す営為について。原因として何が指定されるのか。同時に、何が指定されないのか。どのような改善が目指されるのか。例えば行刑、行刑の場に関わる知は、その場に拘束され、その作用が限定されたものとして存在するだろう。それは原因と主体との関係において捉えられる。矯正は主体への原因・の「内在(化)」が存在するとされる所にしか存在しえない。どこまでこの事実が認められるのか。そして、Foucault の言う「非行者」とは、この原因が内在化された存在であるとともに、特殊な原因が措定された存在である。というのは、まず非行性は、性格的な偏奇としてとらえられるとともに、「悪い環境」に「染まった」結果であるとされるからである。違法行為は、こうして「病気」として捉えられる――「医療モデル」。矯正はこの前提のもとにのみ成立する。そればかりか自らを「病者」として自覚するように勧める。こういった知・装置は、意味を屈曲させ、意味などないかもしれないところに意味を作り出す、このことによって、閉じられた因果の外の部分は不問に付される。矯正の試みは成功したり、失敗したりしようが、矯正は、それの存在自体において、この因果の限定を行っている。さらに、政策は単に犯罪者の矯正だけでなく、より広い範囲、犯罪者の環境の改善を意図しよう。だが環境といっても、そこに存在する諸個人が照準されもする。


第5章・註

(1) 「暴力の犯罪から狡猾な犯罪へ」という把握は、E. Ferri  ――後で検討する刑法学における近代学派の初期の代表者の一人である――からのものだが、P. Chaunu が、この主題について研究を行っている。フランスについてChaunu らにそって研究を紹介したものとして志垣嘉夫[1976]。ここで依拠したFoucault も、Chaunu、 E. Le Roy- Ladurieらの研究を用いている(引用内の「」はChaunu の論文)。また、P. Deyon[1975=1982:95-111]を参照。彼は18世紀フランスの犯罪現象の変化を調査し、次のように述べている。
「[…]侮辱、殴打、傷害、故意であるか否かをとわず殺人、これらの件数は、相対的にも、しばしば絶対数においてすら、減少している。この暴力の後退はなぜであろうか、と問うことができる。それはおそらく、都市文明の普及、教育と識字能力の進歩、成人の死亡率の後退、政治的安全保障の強化、それらの結果である。」(Deyon[同:96])
(2) 「[…]新しい特権という地位にもちあげられ、だんだんに各人の地位や尊敬の基準とみなされるようになった所有が、願望の対象となり、だんだんに強まる切望の対象になったとしても、当然である。そしてまた、都市や農村のブロレタリアが、以前ほど容易にはみずからの困窮を耐えられなくなるとしても、これも当然である。
  したがって、この心性と経済的現実とにおける変化は、一発企てようとするはずれ者たちの野心からくる犯罪と、飢餓状態にまで陥った貧窮者による盗みと、同時にこの両者をひきおこす。やがてじきに、憲法制定議会が、神聖にして犯すべからざるものと宣言することになる所有権は、都市の司法官たちと警察の全警戒心をひきつけるのである。」(Deyon[同:97])
(3) ドイツについては吉田道也[1960]、塙浩[1972]、H. Ruping[1981=1984]などを参照。
(4) フランスにおけるcharivari についてR. Bonnain- Moerdyk & D. Moerdyk[1977=19 82]、C. Gauvard &  A. Gakalp[1974=1982]、イギリスにおけるrough music についてE. P. Thompson[1972=1982]を参照。後2者は公権力との衝突についても述べている。
(5)  日本でも、江戸期の「牢屋」は基本的に未決囚のものであった。性別・身分等により分類はなされたが、(多く過密な)雑居制であり、独房はなかった。また外部よりの監視は行きとどいたもの足りえなかった(牢屋については石井良助[1964:94-181]、他に江戸期の犯罪と刑罰については森永種夫[1962][1963]、他)。
  その変化――部分的な変化であるが――は18世紀後半にみられる。1790年、天明の凶荒のあと、江戸に蝟集する無宿、浮浪者対策として、江戸に「人足寄場」が開設される。それは、作業による職業の習得を意図し、賃金の支給を行い、貯蓄を奨励し、出所に際する褒賞を与え、生活費は賃金のうちから払うものとした。1805年には有罪の者を収容するようになり、後に各地に広がる(石井[同:182ff]、平松義郎[1976])。
  さらに遡れば、1755年、熊本藩で日本最初の本格的な徒刑制が施かれる。牢外での作業をさせ、賃金を支払い、その1/3 は官で溜めおき釈放後の生業の資にするものとした。また暇があれば、縄をない、草履を作って市に売ることを許可し貯蓄させるようにした(石井[同:198-199])。石井は次のように述べている。
「この徒刑の制を人足寄場の制と比較すると、人足寄場は元来が無罪の無宿を保護し、手業を錬磨して健全な市民として自活できるようにする趣旨のものであり、のちに有罪者をも収容するようになったのであるから、免囚保護または保安処分を本質とし、これに自由刑的性格が加わったのであり、その加わったあとでも、やはり「人民御教育」の趣旨のものであった。これに対して、熊本藩の徒刑ははじめより自由刑であり、ただそれが単に自由の束縛だけを目的とするものではなく、作業・給養、釈放後の保護についても十分考慮している点において、近代的自由刑の萌芽と称することができるであろう。  ところが、幕末の諸藩における徒罪も徒刑も、幕府の人足寄場の影響を多分に受けて、実はこれと実質において大してかわらないものが少なくなかったと考えられる。」(石井[同:199])
(6)  彼の生涯については、上掲訳書中のH. W. Bellowsの講演(Howard [1784=1972:362-367]、および東邦彦の解説([同:362-367])、またIgnatieff[1978:47-49]、T. Erikson[1976=1980:37-49])を参照。
(7)  Foucault は、アムステルダムの「木挽き場」について述べた後(第4章註15参照)、ガン(あるいはゲント(Gand))の監獄(前述)を「経済上の要請をもとに刑罰本位の労働を組織化した」ものとして、英国の改革をそれに「独居」(及び「学校教育」)が加わったものとして捉え、さらにこのフィラデルフィアの監獄が、この二つをまねるとともにそこでの生活が「絶えまのない監視のもと、まったく厳密な時間割にもとづいて碁盤の目のように区分されている」こと、さらに、「刑罰の非公開の原理」、労働、独房と自己反省、宗教教育、そして行政当局(監獄の査察員)の語りかけによる「個人全体のつくり替え」、こうした規制とつくり替えの条件であり、結果である「個々人についての知の形成」を特色としてあげている([同:126-128])。
(8)  Foucault は、監禁装置が援用する――拘禁からはみ出る余白部分としての――3つの大きな図式として、「個人別の孤立化と階層秩序という政治=道徳的な図式、強制労働に適用される力という経済的モデル、治療と規格化という技術的=医療的モデル」([同:245])――[1]「孤立化」[2]「労働」[3]「刑罰の軽重の調整」――をあげ、その[1]の2つの類型として、オーバン、フィラデルフィア(ペンシルヴァニア)の二つをあげて、前者においては、「孤立化、意志伝達ぬきの[受刑者の]集まり、絶えざる取締りによって保障される法、これらすべての作用が罪人を社会的個人として再規定する」ことを意図するのに対し、後者は、完全な孤立化による「犯罪者個人と彼自身の良心との関係、しかも内面から個人を照らし出しうるものとの関係」を通して犯罪者の再規定を行うと述べ、両者の間で、宗教上、医療上、経済上、建築上および行政上の論争が行われるが、論争を存続可能にした監禁活動の第1目標は「強制権による個人化」にあったのだとしている([同:236-238])。                        また、K. Eriksonは、オーバン制がピューリタンの人間本性の変更不能性の信念のもとで、犯罪者を真に改善されうる者とはみず、規律、沈黙、重労働によって、社会的な従順化、無害化を目指したのに対し、ペンシルヴァニア制では、すべての者が徳を現わすことができるという信念のもとで、独房、聖書朗読に基づく魂の救済を通しての改善が目指されたこと、合衆国においては、オーバン制が主流になり、それが「逸脱者」とレイベリングされた者が矯正されえない者と認識されることと結びついていることを指摘している(K. Erikson[1966:199-205])。
(9) ただ、監禁制度の進展は決して平坦なものではない。英国を例にとっても、1779年の懲治監法の後、各地に監獄が建てられ、改革が行われたが、囚人の増加による過剰拘禁のための独房制の崩壊、囚人の労働の拒否、囚人を監督する有能な職員の不足、によって1790年代には失敗に帰している。そして囚人の矯正を主張する者の中にも苛酷な強制労働、独房拘禁に対する批判者が現われる。また、国家の介入に対する自由主義者の反撥があり、また投獄されたジャコバン主義者による監獄の告発・批判がなされる。こういった中で、1842年にはペントンヴィルの監獄(ペンシルヴァニア制を採用する)が建設され、機能していくその経過についてIgnatieff[1978]が詳細に記述・検討している。
(10)古典学派と近代学派の紹介はあらゆる刑法の概説書に出てくる。内容も――各学派への評価を除けば――さして変わらない。3区分をとっているのは平野龍一[1972/75:1)3-16])であり、「旧派に二つの違ったものがあることは、わが国ではあまり意識されていない」と指摘している([同:12])。また内藤謙[1977]がこの区分に従っている。
(11)犯罪学の始まりは、19世紀後半のC. Rombroso(1836-1909)、E. Ferry(1856-1928)らの生物学主義的な「イタリア犯罪学派」にあるとされるのが普通だが、藤本哲也は、19世紀初期・中期におけるヨーロッパ各地の、犯罪統計を収集・分析することに力を注いだ犯罪学者達の存在を強調している([1984a:9-20])。一口に犯罪学と言っても様々であり、特に近年は従来の犯罪学を批判する犯罪学が現われてきているようだ。本来ならそれらも検討した上でこの章が書かれるべきであったのだが、(次節で少し「新しい動向」にふれるものの)その作業は今後に持ちこされることになる。
(12) 刑法における責任概念の推移については、十分に調べることができず、今後の課題とするが、1959年、ストラスブール大学での刑法における責任を主題としたコロック(セミナー)での報告論文を編集した論文集(La responsabilite penale、Annales de la faculte de droit et des sciences politiques et economiques de Strasbourg,1961)を小野清一郎[1964]が紹介しているので、この論文集の第1部「過去」についての要約の一部を引用しておく。
「[…]その要旨は、原始社会ないし古代社会では、刑事責任は客観的な侵害に対する本能的で、集団的な反動であったのであるが、それが歴史的過程において主観化され、精神的・個人的な責任となったのもので、自由意思論と結びついた責任観念などはむしろ新しいものであるということに帰着する。大体の歴史的過程としてそういうことがいえることは、夙にドイツにおいてスタインメッツやマカレウィッツなどによって説かれていたことであるが、最近の文化人類学的および歴史的研究によって再確認されているわけである。ことに原始社会においては責任は全く集団的であり、神秘的であって、個人の犯意というようなものは問題とされない(レヴィ・ブリュール)。古代社会としてはエジプト人、ヘブライ人などの間に比較的古く個人的な責任の観念が現われ、ギリシャ、ローマにおいて、徐々に、犯意および過失の概念が刑事責任の要素と認められるようになった。しかし、それを無視する伝統がそれに拮抗して存続したのである(ゴートメ)。
  中世の教会法は古典的ローマ法の影響を受けて発達したが、それは近世の刑法に大きな影響を及ぼした。教会法学者によって宗教的な罪(peche)と刑事責任の原因としての罪(delit)とが区別され、その概念が限定された。しかも後者において物質的要素のほかに精神的要素の必要であることが指摘された。犯罪行為における意思の重要性を強調したのは、十二世紀のカノニストたちである(メッツ)。中世の神学を代表するトマスは、その宗教的・道徳的立場から、罪の原因について論じている。罪の原因として、何よりも個人の意思に重きをおいてはいるが、同時に習慣、無知、欲望、そして外部的な原因があることを認めている。それは道義的な責任論といえるが、しかし、刑事責任は地上的、暫定的なものであって、究極的な正義は神の審判に委ねなければならない、とすることによって刑罰の相対的な意味を認めている。その考え方は現実的で、人間の行為における決定された部分と自由意思を調和させようとしている(ヴィレー)。」(小野[1964:12-13])
  1.刑罰における個人の責任の観念の不在については、第1章第3節で少し紹介した。
  2.古代ギリシャにおいて既に、刑事責任と決定論の問題等が議論されていたことについては森村真[1984-85]が論述している。
  3.第2章で、キリスト教における外面と内面の繋がり等について論じたが、改めてエジプト、ヘブライを問題にせねばならないようだ(cf. 第1章註1)。
  4.ローマ法については検討することができなかった。小野の紹介を引用しておく。

「[…]古代ローマ法は、モムゼンによれば、責任能力を行為能力として捉え、事実問題として処理したということである。十二表法では責任能力は性的成熟および民法上の婚姻能力と一致するものとされ、その後の法もそれに従ったという。[…]精神病者もまた行為能力がないものとされた。酩酊、激情等によって行為能力が無くなるということは、ローマ法では認められなかった。しかし、おそらく道義的な責任の観念から、刑を軽減することはあったようである。」(小野[1967:92])

  5.古代ゲルマンにおいて、個人の責任の観念が不在であるとするAchterの見解を第1章第3節で紹介したが、その変化についての彼の見解を塙が要約したもの――第1章の註10に続く部分である――を以下に引用する。

「[…]この状態(ゲルマン古来の刑罰観念――引用者記)は、アラビア科学、ギリシャ哲学・マニ教、さらにはローマ法学などを受けいれていわゆる「一二世紀ルネッサンス」を、東スペイン諸地方と一体となって、開花しえた南フランスでは、とくに一二世紀後半以後大きく変化し、個人の覚醒・合理精神の台頭・マギの退化とそれからの法および倫理の解放とがおこる。このときはまた、封建大諸侯らが国家的諸高権を奪回しはじめ、大諸侯領内で国家権力が集中しはじめる時代でもある[…]、古きものすなわち良きもの[…]、新しきもの[…]すなわち悪しきもの[…]との従来の法観念は変化し、いまや、「古さ」の権威は人間の思考・合理性の権威にとって代られ、諸侯や都市機関[…]が自らの「意志」・「力」・「思考」とをもって改変・造出(・立法)した新しきもの[…]もまた法となって、「古き法」は姿をひそめる。ここでは、もはや以前のように、外観的な行為の形のみが中心となるのではなくて、その行為は「悪しきもの(malitia)」「不当なるもの(inquitas)」として倫理的に評価されると同時に、まずもって、その行為をなした者、すなわち、行為者が「悪しき人」として倫理的非難の対象となる。そして、彼のこの悪しき行為の結着は、もはや、マギ的な硬直したルールに乗って反射的・即自的・自動的に定まった結果(一定額の贖罪金、ブーゼ)を招来するのではなくて、いまや、「古き法」の形式性から解放された裁判官が「良識(bona fides,bona conscientia))」と「衡平(aequitas)」以外の何ものにも拘束されることなく、自らの「力(poestas)」・「意思(voluntas)」において、行為を個別的に・倫理的に・合理的に「審理し[…]」て、その制裁の決定する。そして、これらの一連の新しい法の諸概念の中に、従来は使われることまれであった「罰する(punire)」の語も新しく登場する。」([1960:447-448])

ここで刑事裁判と民事裁判が区別され始め、罰は、施体刑もしくは贖罪金ではない罰金刑となり、さらに同一事件において不法行為と刑罰とが区別されるようになり、ここにいわゆる「刑罰」が誕生する。と同時に訴訟手続き、古い形式主義からの脱却と「合理化」が生ずる。このような変化は南フランスからまもなく北フランスに波及するが、この基礎となる精神的変化は、遠くクリュウニー修道院の教会改革運動に根ざすものである。なお「古き法」は13世紀にも残存する。([同:448-449])
  また小野は次のように述べている。

「ゲルマン法において、"Schuld"という概念と"Haftung"という概念のあったことは一般に知られているが、その・Schuld"は主に民事的な債務の意味に用いられた。・Haftung" は・Schuld"に随伴する場合もあるが、それと関係ない場合もあって、客観的な責任の意味をもっていた。刑法は大体において、結果責任(Erfolgshaftung)であったのである。・Schuld"が道義的な責任の意味において考慮されるようになったのは、中世後期以後のことで、ローマ法およびカノン法の影響によるものである。ローマ法の過失責任の観念のほか、キリスト教の「罪」又は「負い目」の観念が影響したとおもう。」(小野[1967:92])

  自生的な集団の並立から、その解体、統合を通しての、より広域に及ぶ、中心を持った権力圏の成立――むろん中世においてはそれは極めて不完全なものにとどまったのだが――と個人の責任、倫理が問われ出す時期がほぼ一致していると指摘されていることは興味深い。自生的な空間表象(秩序・秩序の損壊・そしてその回復)にとってかわる、とってかわろうとする観念として、個人の責任・倫理が存在すると――そのために存在するということはできないとしても、そういった効果を与える方向に作用するものとして存在すると――いいうる。
  このことに、キリスト教の「罪」「負い目」の観念が影響したと「おもう」と小野は述べている。確かめることが今のところできないが、もし妥当とすれば、この論文のこれまでの記述を補強することになる(この時期、1215年にラテラノ公会議の教令により「告解」が義務づけられていることについては、第2章第2節で述べた)。"Schuld"の民事的――というよりそもそも民事と刑事の区別が定かでなかったのだが――な「債務」という意味から道義的な責任への移行という問題も、重要な考察対象となろう(cf. Nietzsche[1887=1964])。カトリックの刑罰観について青柳文雄[1957→1972]、Thomas の刑罰思想について金澤文雄[1958]がある――先の小野の記述に特につけ加えるべき点はない。  自由意志による帰責の観念が中世神学に存在していたことについては第2章第2節で述べた。それの近代への継承、あるいは近代との差異については検討することができなかった。小野はPufendorfを評価しているが(小野[1967:92-93])、例えば第4章第1節にみたPufendorfとKant との差異をここでも見出すことができよう。
  なお前記古典学派の論者の多くは決定論の立場をとる、あるいは自由意志・帰責の観念を刑法領域においてとらない。Feuerbachについて、山口邦夫[1965→1979]、そこではFeuerbachがKant の影響をうけつつ、法と道徳を峻別し、法領域より自由を排除したとされる。他に内藤[1984:301-302]、また同じくドイツの学者K. F. Hommel については中山研一[1965-66]。
  またヘーゲル学派については、C. R. Kostlin(1813-56)とA. F. Berner について山口邦夫[1973→1979]を参照。
(13)日本での論争は戦前から存在する(各論者の見解について斉藤金作[1949])。戦後の論争の出発点となったのは、「やわらかい決定論」を主張する平野龍一[1963b →1966]、自由意志肯定論をとる団藤重光[1963b](いずれも後述)とされる。紹介、批判として小野[1964]、福田平[1965]、中山研一[1965]、平野が上掲団藤[1963b]、小野[1964]、福田[1965]、中山[1965]に答えたものとして平野[1965a →1966]。中山が平野[1965a →1966]等に答えたものとして中山[1968]、(また平野[1966]の書評として中山[1967]。その他中山[1965]、井上茂[1963]、久保田益喜[1965]、大谷實[1965-66][1966-67]、大野平吉[1977]、J. Llompart [1981]、この論文での大野の論文への言及に答えたものとして大野[1982]、Llompart に対し松村格[1982]、この2者に対しLlompart [1982]。また最近の石原他(編)[1984]中の西原春夫[1984]、澤登俊雄[1984]、中[1984]、金澤[1984]もこの問題に関説している。ほかにも多くの論文、著書で主題的、あるいは(例えば責任についての議論の中で)部分的に自由意志の問題が論じられている。
  外国における動向も上記文献中に紹介されているが、ここでは責任についてのH. L. A. Hart の見解を(も)紹介した大谷[1967]、小林[1983]をあげておく。
(14)団藤は、主体的・実践的なものが「素質、環境によって決定されつくしているという証明はないのである。そこには自由だとも決定されているともどちらとも証明されていないものが残されている。これをどう見るかは訴訟用語を借用すれば挙証責任の問題である。そうして実践的、主体的なものとして人間像を考えるかぎり、その挙証責任は決定論者の側にある」([1963b:224])と述べているが、これは肯首できない(cf.平野[1965a →1966:70])。なお団藤は、一貫して「自由意志」「主体性」の立場をとっている(団藤[1975][1979]etc.)。
(15)cf.平野[1966]
(16)言うまでもなく、主観的に自由であると感じていることは自由意志の存在を肯定することにならない(cf.平野[1966])。
(17)自由意志の「存在証明」は放棄しつつ、自由意志・帰責の構制を支持する主張がある。例えば、自由意志の虚構性を認めつつ、その「人権維持的」な機能を重視して、この構制を支持するもの(中山[1968]etc.)、また一般的に、自由の観念が承認されているとみることができるがゆえに、それを刑法においても取り入れることを認めようとするもの(小林公[1983]etc.)などがある。
(18)これはむろん古典学派における責任の観念とは別のものである(cf.福田[1965]、中山[1868])。
(19)一般予防は、行為の前の判断の時点に照準するから、この問題からは離れてある。だが、犯罪をなそううとする時に、課されるかもしれない刑罰を考慮したりするだろうか。そこには過度に合理的な人間観の表明がなされていないだろうか、というのは、一般予防の観念に対する古典的な疑念である。確かに、その疑念は、しばしばもっともなところがある。けれども、この想定を、完全に、それに基づく刑罰を否定するほど十分に、否定するのは困難であるように思われる。
(20)人々が犯罪とみなすものが犯罪である、といった――極端な道徳実在論者にとってはともかく――あたり前の言明、また、人は他者から何者かであるとみなされることによって何者かであると認識するに至る、といった――極端な観念生得論者にとってはともかく――難なく受け入れられるだろう言明、以上のことを逸脱について語ろうとすれば、このことを分析・記述しなければならないだろう。レイベリング理論は、他者の「みなし」に注目し、微細な権力作用を記述しようとした点で、重要な意味を持つけれども、「みなし」の質については――もっとも、わずかの文献にあたった限りでであるが、またレイベリング理論と呼ばれるものの外延がはっきりしない以上、一般的に論じるのはあまり意味がないともいえようが――さほど考慮していないように思える。その一つの要因は、その理論が歴史、そして個々の社会の違いにさほど注意を向けないことにあるのではないか。M. Rotenberg[1978]はこのことを指摘し、プロテスタンティズムの宿命論のレイベリングに対する影響を分析している。またK. Erikson[1966]も同様の記述を行っている所がある(cf.註8)。レイベリング理論についてはH. Becker [1963=1978]、T. J. Scheff [1966=1979]、大村英昭・宝月誠[1979]、大村[1980]、また吉岡一男[1982-]――非常に多くの文献の内容を紹介している、などを参照。この他、E. Goffman[1961=1984][1963=1970]の記述・分析が重要なものである。
(21)犯行の時に、その行為をなした者に「自由意志」があったのかということをどうして判断できるのか、それができないとすれば――もちろんできないだろう――、いかなる精神状態、精神能力をどのような基準によってどのように測るのか。そして誰がそれを判断するのか――医者か、裁判官か。この、判断基準を巡る、そこでの主導権を巡る論争を、そしてそれよりも「鑑定」がいかになされてきたか、いかになされているかを調べる必要があるはずだ。例えば、当の行為者の言説はどのように聞きとられるのか。また法廷、法廷に接続する場所での、責任能力の判断だけでなく、より広く行為者について語られる言説、とその波及、そこにおける精神医や犯罪学者や社会学者の位置についても検討するべきだろう。(Foucault(ed.)[1973=1975]は、1835年にフランスで起きた殺人事件について、殺人者P. Riviereの手記、法医学的鑑定書、裁判記録などを収録し、それにFoucault 他の論評が付されている)。
(22)刑事責任が認められないから、刑罰を課すわけにはいかず、しかも、その者の「危険性」によって何らかの処置が要請される場合、その処置は例えば「治療処分」と呼ばれることになる。(ただこれは「二元主義」をとる場合であって、責任を、「社会的危険性」より規定し、刑をその危険性の除去にもとめる「一元主義」をとれば、両者の区分はなくなる。)日本においては「改正」刑法に組み入れられようとしている「治療処分」についての肯否の論議の詳細について紹介することはここではできないが、いくつかの点を指摘することができる。1.この処分を受ける者はどれほどかの再犯の危険性を有するものとされるわけだが、それはどのように測定されるのか。2.閉鎖空間の内で何が行われ、何がその中に入れられる人々にもたらされうるのか。閉鎖空間といえば、少なくとも日本では、精神病院の多くの部分が、閉鎖病棟であり、また、精神衛生法に規定される措置入院(本人の同意を必要としない入院)が実質的には保安処分的な機能を果たしているのだが、それは現実にどういう状態にあり、収容される人々に対してどのような作用をおよぼしているのか。それが、例えば施設へのある種の適応を生み出すだけで、治療にならない、その可能性とともに、この閉域、関係(保安目的の治療ということが一つの関係である)が、治療として何をもたらすことになるのか。3.またこの処分が、ある種の精神障害者が危険であるという判断に基づいているとするなら、それは妥当か、仮に妥当として、その妥当であることは、危険であるとされることと危険であることの一つの円環の中に存在する事実であり、そして現にある監禁・収容は、むしろ、その円環の一部を構成してしまうのではないか。(保安処分について、その是非についての文献は数多く、ここにその一部をあげてもさして意味はないが、例えば加藤久雄[1984:87-107、220ff]に、――その紹介の仕方には問題があるが――いくつかのものが紹介されている。)
(23)保護観察(probation)、仮釈放(parole)他の社会内処遇の実際について、加藤[1984]、藤本[1984a]の該当箇所を参照――多くの文献があげられている(特に加藤[1984:12-13])。またその歴史的な始まりについてはT. Erikson[1976=1980:185ff])。
(24)Diversion。「刑事手続や刑事執行に伴うスティグマを回避するため処分を非公式な社会的コントロール組織にゆだねる」こと、とされる(加藤[1984:82])。この頁及び藤本[1984a:181]に文献が紹介されている。
(25)藤本は13人の犯罪学者による犯罪学の分類(2分類・4分類)をあげ、そのうち、E. M. Schurの「個別処遇モデル」「リベラルな改善主義モデル」「ラディカルな不介入モデル」という非行に対する典型的反応様式に従った分類,R. J. Michalowskiの「コンセンサス・モデル」「多元論的モデル」「コンフリクト・モデル」というパースペクティブの観点からの分類、「実証主義パラダイム」「相互作用主義のパラダイム」「社会主義パラダイム」というバラダイム(パースペクティブよりひき出される、普遍的に承認された科学的成果の一群)の観点からの分類について紹介している(藤本[1984a:106-139])。
(26)M. Fitzgerald[1977=1979]が、主に1972年5月にイギリスで結成された囚人組合PROP(Preservation of the Rights of Prisoners 「囚人たちの権利保存」)の運動について紹介、分析している。また訳者長谷川健三郎が日本における運動について短い紹介を行っている。


UP:20050727 REV:0728, 20131011
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