「「医療モデル」は医学モデル、病人モデル、治療モデル、処遇モデル、改善モデル、社会復帰モデルとも呼ばれているが、これは犯罪者の処遇を病人の治療とパラレルに考えるものであり、犯罪者の取り扱いのプロセスを説明するために、医療分野における専門用語やその概念を用いて説明を試みるものである。従って、まず医療モデルの思考のフレームワークの中では、犯罪者はその人格構造や社会化の過程でなんらかの欠陥により犯罪を犯すという意味で「病人」であると考えられる。刑務所の手続は診断と分類により始まるが、この「診断」(diagnosis)と「分類」(classification)という言葉も、もちろん医学用語から借用したものである。診断をする際には、犯罪が個人的な不適応や欠陥の徴候であり、犯罪者は身体的・精神的・社会的にみて、いわば病気にかかっているのであるから、彼の犯した犯罪はその病気の現われであるとみなされるのである。従って、犯罪を防止しかつ犯罪者の改善更生をはかるためには、犯罪者を処罰するよりも、犯罪の原因を科学的に探求し、原因を除去するための適切な治療をほどこすことが必要であるということになる。
こうした考え方に立てば、犯罪原因の早期発見のための科学的技術の採用や正確な犯罪者の分類のための判決前調査制度が重要な意味をもつことになるし、受刑者の収容期間(刑期)は、治療するまでの期間という意味では不定期刑が有用であるということになろう。そしてまた、治癒したかどうか、更に入院治療を続ける必要があるかどうか、外来患者として通院すればよいのかどうか等の判断をするためには、一時、様子を見るために仮退院(仮釈放)を試みることも必要であろうし、退院者や仮退院者にはアフター・ケアとしての環境調査、援護、監督(保護観察)を試みることも必要となるであろう。
このような医療モデルは、現在のアメリカの行刑制度のそのほとんどのものを生み出す母体となったものであり、その初期の段階においては、犯罪者を治療することが可能であるという信念とまたそれを実現可能とする行動科学的知見に対する信頼とによって大きく支えられていたのである。」(藤本[1984a:264-265])
矯正一般とこの医療モデルとを区別することができるとすれば、それは後者がより「科学的」な、というよりはより「個人」に注目した矯正装置だということである。合衆国に限られるわけではない、この「処遇」の具体的な形態について、とりわけ、様々の試みとしてあるだろう「診断」や「治療」の内実について、概観してみることはここではできないが、例えば20世紀初頭に既に犯罪者処遇への取り入れが開始されたという精神分析的な治療法には、――それは精神分析的な治療一般にということだが――「主体化」、かつては、修道院での生活やプロテスタントの生活との類比において、独房の孤独のもとでなされると信じられた「主体化」の作用、権力の行使、ただし今度は、告解との類似においても捉えられよう、発話者と聞き手、助言者の間でなされる饒舌な「主体化」の作用、権力の行使を認めることはできないか。
1929年、フロイト派の犯罪原因の見解が示されたF. AlexanderとH. Staubの『犯罪者者と裁判官』(Der Verbrecher und seine Richter)がウィーンで出版される。また、ほぼ同時期、1918年から1922年の間に、ウィーンで、A. Aichhor ら訓練された精神分析家 による施設収容非行少年の研究、処遇実験が開始され、その処遇法は『手に負えぬ子どもたち』(Ver-wahrloste Jugend、1925)の内に記された。この書物は数か国語に翻訳され、その後の犯罪者処遇に強い影響を及ぼした。英国ではクェーカー教徒たちが資金を調達して治療的実践を行った。
これらは個人療法の原理に基づいているが、治療家の数、費用の問題により、精神分析療法を何人かの者に同時に行う集団療法への移行がなされる。合衆国では、1907年にJ. H. Pratt がこの主題について、医学会誌に論文を発表しているが、集団療法が大規模に用いられるようになったのは第二次大戦以後である。戦争の苛酷な条件に適応出来ない将兵、抗命や訓練不足によって戦友たちを危機に曝すような将兵がケンタッキー州ホートノックスの更生センターに送られ、医師と心理学者のチームにより処遇を受けた。その心理学者の一人L. W. Mckorkle の最初の訓練は社会学に基礎を置いていた(Erikson[1976=1980:273-274])。
ニュージャージー州の矯正局長となった社会学者のF. L. BixbyはMckorkle を招き、1950年、ハイフィールズに建てられた刑務所で集団療法が実施される。そこで「指導された集団相互作用(guided group interaction)」と呼ばれたプログラムは、心理学者、社会学者によって担当され、彼らが自ら働きかけるのを留保して、グループを自己の管理下に置きつつ、できるだけ直接に手を下さない、といった方針のものだったが、1950年代の終わりに、大多数の受刑者に集団療法を受けさせる決定を下したカリフォルニア州において、カリフォルニア矯正局の心理学者N. Fenton は、臨床的訓練を受けたことのないリーダーによって方向づけられた集団カウンセリングを導入する。これらの試みの内容については、Eriksonの記述([同:274-283])――これに基づきここまでの紹介を行っている――に詳しいが、ここではFenton が集団カウンセリングの目標として要約している7つの点の4番目のものを引用しておく。
「収容者が強盗、住居侵入、文書偽造、その他のさまざまな犯罪の底にある情緒的葛藤の重要な意味を、悟るように援助してやること。以前には自己の犯行の持つ情緒的問題に無関心で、犯行原因となった自分の感情を認めたがらなかった収容者も、集団内で他の受刑者を観察することによって、自己洞察を得るようになる。また、彼らは自分が刑務所に入れられるに至ったいいわけの一つとして、両親や雇主や法執行官のような権威層に対し抱いていた障害的な抑圧感情を、正しく評価できるようになる。そうした自分自身の情緒障害や他人とのかかわりを吟味することが、犯行のより一層の理解へと導くことになろう。収容者は自分自身を、感情に大きな障害を受けた人間として受け入れねばならない。集団カウンセリングを何週間か続けていくうちに、彼らは自己の内面的感情を集団内で打ち明けて吟味することが、これから先うまくやって、社会で幸せになるのに役立つかも知れないという上述した信念に向って、少なくとも心を開くようになる。」(Fenton,・An Introduction to Group Counseling in State Correctional Service" 1957、引用はErikson[同:279])
■ 「社会内処遇」
「犯罪者の処遇ニーズに応じて、処遇領域が閉鎖された施設内から解放された社会内へ拡大されていくとともに「中間処遇(Intermediate Treatment)」、「社会内処遇(Com- munity Treatment)」、「地域内処遇(Community Treatment)」などという新しい「処遇」形態が生じてきた。
「中間処遇」とは、閉鎖施設から徐々に戒護状態や行動の自由の制限などが緩和された施設で社会内処遇の準備をする段階における取り扱いを意味する。たとえば、解放施設における処遇や外部通勤者のための特別施設における処遇、或いは、帰休制なとによる特別な処遇などがある。
「社会内処遇」とは、犯罪者を一般社会の中で、通常の社会生活をさせながら、行動の自由に一定の制限を加える遵守事項を課し、定期的なコントロールを加え、犯罪を起こさない生活を導くものである。従って、「社会内処遇」を「保護的処遇」と称することもある。[…]保護観察は、仮釈放者、仮出所者、仮退院者などの仮に矯正処遇・治療を終了した者だけではなく、執行猶予や宣告猶予[…]に際して言い渡されるものや独立処分として言い渡されるもの(少年法第24条第1項1号)等司法的決定後、直ちに実施されるものもある(23)。また、最近、イギリスや西ドイツなどで実施されている「社会奉仕命令(Community Service Order)」なども、新しい社会内処遇の一形態である。
「地域社会内処遇」とは「一定の地域社会内(これは、地理的には通勤・通学できる範囲であり、社会機関との交流が可能であり、一般市民との社会的接触が容易にできる範囲を言う)にあって、犯罪者に直接向けられたプログラムであり、その者が順法的な市民となるように援助するすべての活動を含む」ものである、と定義される。これには、アメリカ合衆国で1960年以後、「社会への再統合モデル」の具体的プログラムとして、実施されている連邦社会内処遇センター(Federal Community Treatment Center)などの例がある。」(加藤[1984:8-9])
上述の行刑上の諸装置は、矯正を目的とする点で一致する。またそこに介在する科学もそれに指針を与えるものとしてある。だが、主要には1960年代より、科学に対する批判、そして矯正の理念に対する批判、矯正のための刑罰からの撤退の主張が現われる。
まず犯罪学の変化、あるいは犯罪学批判について。19世紀に始まった(実証的)犯罪学は――ここでも1世紀半あまりの推移を省略することになるが――生得的・環境的な犯罪の原因を見つけ出し、(それを個人の内に内在化されたものとみなし)、行刑との関係においては、今までみてきたような、個人の矯正を誘導するものとしてある。
これと異なった、これと対立的な動向が、主要には1960年代より現われる。それらは、従来の犯罪学と合わせ、様々な分類、位置づけがなされているようだが(25)、ひとまず、マルクス主義的な方向と、レイベリング理論の方向――これらが対立して存在するというわけではないが――と、まとめることができよう。
マルクス主義的と呼べる、資本制社会における刑罰機構の把握、その批判は、言うまでもなくそれほど新しいものではない。それが新しいと言えるとすれば、例えば合衆国においてそうであったということである。このアプローチを紹介した、私が読むことのできた文章(藤本[1984a][1984b])から、もっとも簡潔な要約を取り出すなら、「急進的犯罪学のマルクス主義的パースペクティブよりすれば、資本主義的経済は、搾取を本質とし、刑事司法の諸制度は、この搾取の維持に貢献し、研究分野としての刑事司法学は、これら抑圧制度に対して、テクノクラティックな知識を供給すると考えるのである」(藤本[1984b:17])という部分である。
まず確認できるのは、このアプローチが全体社会における機能要件から導かれる刑罰の正当化という理路を批判していることである。ただし、この全体社会の分割・解体は、(経済的に)搾取する側と搾取されている側という分割以外にもありうる。どのような水準において「搾取の維持に貢献する」と主張するのか、二つの部分への分割のうちに見失われているものはないのか、また、刑事司法学・犯罪学に対する批判がどのような形でなされているのか――私達はこういった科学を単に「テクノクラティックな知識を供給する」ものとだけとらえるべきではないと考えるのだが――等々のことを検討する必要がある。 レイベリング理論は、この章ではほとんど唯一社会学においてある程度の了解の得られている理論であるから、詳しい説明は不要である。1つだけ確認しておくなら、この理論は、犯罪を、少なくとも「非行歴」の初期になされた犯罪を、生得的あるいは環境的な要因が個人に内在化された結果なされたものとはみず、むしろ偶然的なものと考える。そして、それが「常習化」するとすれば、他者によるレイベリングによるのであり、施設収容は、その内において、また施設に収容されたというそのことによって、むしろそれを促進する場合さえあると考える。また、性格の改善という意味での矯正は積極的な評価を受けないことになる。ここまでのそしてこれからの記述は、この理論、というよりは視角に捉えられていようことと重なる部分があるはずだ。犯罪・刑罰の場面を具体的にどのように分析するのか、レイベリングの「質」がどのように論定されるのが。先に、かなり一般的な水準で(のみ)捉えているのではないかと指摘した(注20)が、より詳細には今後検討せねばならない。
そしてこういった動向(とりわけレイベリング理論)は、従来の犯罪学・行刑理論にも一定の影響を与えているようだが、それがどのような形で吸収されていくのかについても確かめる必要がある。
こういった理論面での批判とともに、1960年代後半から1970年代の初めにかけて、各国で囚人による監獄の告発、「囚人暴動」が起こった。(26)これらの運動が何を主張したのかについても、ここでは紹介できず、今後の課題としなければならない。
そして1960年代、とりわけ1970年代に入ってから、欧米、スカンディナビア諸国――これらの国は「医療モデル」の「先進国」であったわけだが――において、刑罰・刑罰理念の転換、すなわち「医療モデル」から「公正モデル(Justice Model)」への転換が志向されていると言われる。それは「転換」と言えるものなのか、また上述の批判・告発とはどのような関係にあるのか。
まず、正義モデル、法治モデル、応報モデル、刑罰モデルとも訳される、公正モデルとはどのようなものなのか。その主唱者とされるD. Fogelは、1975年に・We are Living Proof ・:The Justice Model for Correctionsと題する著書を出版し、「犯罪者は法的にかつ公平に扱われるべきだと[…]すなわち、[…]犯罪者を改善させるためには、彼らを法律で定められた適性な手段に基づいて処遇することが必要であり、そのためには、実質的な刑の量刑が司法機関にではなく行刑機関にある現行の不定期刑やパロール制度をまず廃止すべきであると主張した」と、藤本は述べ([1984a:273-274,引用は274])、次のように続ける。