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刑罰・知・主体 1

犯罪/刑罰

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last update: 20160526


 * 以下は立岩真也が1985年頃に作成した文書の一部です。

  「それら(宗教的制裁・引用者記)はある個人がある種の行為をすることによって、宗教的状態の中で望ましい(よい)方向か、あるいは望ましくない(悪い)方向に向う、一つの変化を生み出すという形をとる。ある行為は神々や精霊を喜ばせるものとして、また、それらとの間に好ましい関係を打立てるものとして考えられている一方、別の行為は神や精霊を不快にさせ、あるいは何らかの点で、好ましい調和的な関係を破壊するのである。」(A. R. Radcliff-Brown[1952=1981:285])
  「近代西欧文明では、通常罪は必らず任意的な行為、もしくは意図であると考えられているのであるが、おおくの単純社会では任意的でない行為も、罪として定められた規定の中に入ることもありうる。病気――たとえばヘブライ人の間における癩病など――は、しばしば儀礼的あるいは宗教的汚れと類似のものと考えられており、それ故に贖罪あるいは儀礼的浄化が必要であるとみなされている。儀礼的あるいは宗教的不浄は、一般的な規則ではその個人にとって直接的な、危険もしくは危険の根源の一つとして考えられている。そこで、その人は浄化されることができない限り、病気になり、多分死ぬであろうと信ぜられているかもしれない。ある宗教では、宗教的制裁はこの人生において罪を犯したものは、後生において何らかの形の報いを受けるだろうという信仰の形をとっている。多くの事例は、儀礼的に不浄である人は、その人個人にとってのみならず、彼と接触する人々やコミュニティの社会生活へ参与することから除外されるかもしれない。それ故に必ずしも常ではないにしても、しばしば浄化という過程をとり行うことを必要とするという一つの義務が、その罪ある人、すなわち不浄な人に課せられている。」 (Radcliff-Brown[1952=1981:286-287]、同様の記述として[同:293L17-294L3])
  「ここ(北米のユロク(Yurok)族における損害賠償・引用者記)ではただ損害という事実とその程度だけが考慮され、意図、犯意、過失、あるいは偶発性というようなことは問題にならない。一度傷害に対する損害賠償が受理されたあとでは、被害者がそれ以上の遺恨を心に抱くことは正当ではない。」(Radcliff-Brown[1952=1981:298])

  (犯罪学者G. Vold[1958=1970]は、以上に述べてきた犯罪に対する説明を「鬼神論的」な説明と呼び、「科学的」な説明と対置させる。しかし――犯罪学の文脈においてそう言えたとしても――実は「人間」がまず次の説明項になる。)

・日本古代

「[…]古代犯罪には、農耕妨害、インセスト・タブー、獣姦、人間や動物の生体の破壊や剥皮、自然災害、黒呪術、特殊な疾病や変死が混合している。[…]これらはすべて神の忌みきらうところであり、その神聖を害し、その怒りをまねくところであった。
 したがって、ツミに対しては、神の怒りをなだめ、その違反によってひきつづき到来するであろう神の制裁をふせぐため、汚穢をはらうところのハラヘがもっとも必要とされた。」(岩井弘融[1973:84])(8)
(8) 石尾芳久は、国津罪――『延喜式』の大祓詞では、農耕に関する妨害が天津罪、他が国津罪である――に含まれる病気、災害には罪と同時に罪の報い=刑の結果(神の制裁)が既に含まれていると述べている(石尾[1960:11])。

・日本中世については、笠松宏至が次のように言っている。

「中世人にとって「盗賊」は「やまひ」や「うゑ」と同じく悪しき神のたたりである「わざわひ」の一つであった。呪言によってしか除くことのできない「不浄=つみ」という性質をなお保持していた。だからこそ、盗人の逃隠れした御陵は、付近の樹木を一町余にわたって切払って、その「つみけがれ」を祓わなければならなかったのである。」(笠松[1983:81-82])(9)

・また、V. Achter は中世ヨーロッパの刑罰について次のように述べている。

(中世盛期に至るまで)「法は秩序ordoの再生を、傷ついた秩序Un-Ordung の是正を目ざすものであった。だからこそ犯人がどのような動機で行動したのかはどうでもよいことであった。同様に犯人の行為を倫理的な基準で評価することも意味のないことであったに違いない。犯人ではなく犯行が法の中心にあったからである。」(Achter、Geburt der Strufe、1951.S4,阿部謹也[1978:397]より引用)(10)
(10)「一二世紀の前半までは、ゲルマン古来の法観念が持続している。ここでは、法は、恒常不変の「古き法」として、人間の意志を越えた、硬直的な存在であって、呪術と一体をなしている。そして人間の行為はこの神聖なマギ的調和の一部である。いまもしこの調和が、ある行為によって乱されるときは、反射的にその修復がなされることになると意識されている。従ってここでは、「犯行」という・マギ的調和秩序の一部を乱す外観が出発点であって、これにたいして、その犯行の主体である・「犯人」という個性的なものは表面に現れてこず、考察されることはない。そして、この犯行の結果、すなわち犯行にたいする制裁は、もっぱら、乱されたマギ的秩序の修復として、即自的・反射的・自動的に招来されるものであって、決して倫理的観点から合理的・反省的・個別的に衡量してなされているのではない。一一五○年以前の資料には、裁判手続の具体的側面について何らふれるところがないのは、すべてが古来の、化石化した状態にあって、とくにこれらについていうを要しないからである。」(塙[1960:44])


◆Vold, George Bryan 1958 Theoretical Criminology, Oxford Univ. Press=1970 西村克彦訳, 『犯罪学――理論的考察』,東京大学出版会

◆小田 晋 19800310 『狂気・信仰・犯罪』 弘文堂,376p.  本郷V55-234


UP:20050730 REV: 20160526
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