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「死刑執行人」――フランス


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last update: 20160526


■誰が「死刑執行人」となるか?
 専門の死刑執行人がいた。死刑執行方法はギロチンによる斬首。1981年10月10日死刑廃止。

◆関連言及・引用(年代順)

◇安達 正勝 20031222 『死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男』,集英社新書,253p.

「当時にあっては、処刑人一族は、不吉な影に包まれた呪われた一族であり、世間から隔離された状態で暮らしていた。パリア、不可触賤民の扱いだった」(p8)

「初代 シャルル・サンソン・ド・ロンヴァル(一六三五―一七〇七)
 二代目 シャルル・サンソン(一六八一―一七二六)
 三代目 シャルル‐ジャン‐バチスト・サンソン(一七一九―一七七八)
 四代目 シャルル‐アンリ・サンソン(一七三九―一八〇六)(担当者注:本書も主人公)
 五代目 アンリ・サンソン(一七六七―一八四〇)
 六代目 アンリ‐レマン・サンソン(一七九九―一八八九)」(p10)

「国王の子は国王になる。それと同じように、処刑人の子は処刑人になる。どちらの場合も厳格な世襲制が踏襲される」(p11)

「こうした事情のため、処刑人の一族は事実上、ほかの職業につくことができないのだが、処刑人自身が息子たちがほかの職業につくことを嫌っていた。もし、万が一、息子がほかの職業につくようなことになれば、息子はかならず処刑人である父親を恥じることになる、と思うからである」(p12)

「もはやシャルル(担当者注:初代サンソン)には、愛を貫くには自分自身も処刑人になるほかはなかった。
 こうしてシャルル・サンソンは養父の跡を継いで処刑人になったのだが、知り合いの多い地元で処刑人の仕事をつづけるのは非常につらいことだった。かつての友人・知人たちでさえ、恐怖の表情を浮かべてシャルルを避け、背をこごめて歩くその後ろ姿を見送りながら何やらひそひそとささやき合うのだった。運命の女性、マルグリットとの結婚も、六年しかつづかなかった。マルグリットが男の子を産んで死亡したのである。産後の肥立ちが悪かったためだが、精神的な面の影響のほうがむしろ大きかったようだ。処刑人になったことで思い悩む夫の姿を見>19>て、自責の念にさいなまれつづけたのだろう」(pp.19-20)

「世間から蔑まれ、除け者にされていたとはいえ、三代目のジャン‐バチストの頃までは、サンソン家は経済的にはかなり裕福だった。
 一七二一年までは死刑執行人には給料というものはなく、市場で食料や日用品を売る商人たちから一定量の品物を税金として現物徴収する権利が与えられていたが、これが年に三万から>21>6万リーヴルの収入をサンソン家にもたらしていた。当時の男子工場労働者の年収が四百リーヴル程度だったから、これはかなりの高収入である」(pp.21-22)

「そして貴族と同じように、死刑執行人には免税特権も与えられていた」(p22)

「また、サンソン家では代々医業を副職にしてきた。つまり、人を死に至らしめることを職業としている人間が、もう一方では、人の命を長らえさせることもしていたのであった」(p22)

「公務とはいえ、そして、世の中のためだと自分自身をなんとか納得させようと努めていたとはいえ、人を殺すことに内心の嫌悪感を禁じ得なかったサンソン家の人々にとって、医業で人の命を救うのは何にも代えがたい慰めになっていたのである」(p24)

「死刑執行人が差別される最大の理由は、処刑台の上で冷静に人を殺し、目をそむけたくなるような残虐な刑を平然と実施する人非人と思われるからだが、差別されるもう一つの理由に、極悪人と直接的接触を持つということがある」(p25)

「もちろん七歳の子供(担当者注:三代目ジャン‐バチスト)に死刑執行は無理なので、息子はただ処刑台の上に立っているだけで、ほかの大人が代理で刑を執行するという形を取った。そして、七歳の子供の感受性を考慮して、最初は晒し刑、笞打ち、焼き鏝の刑からはじめ、それから徐々に絞首刑、斬首刑に立ち会わせるという配慮がなされた。マルト(引用者注:二代目の妻)がいつも現場で幼い息子を見守り、励ましつづけたのは言うまでもない。
 まるでコルネイユの劇にでも登場するような、意志強固、毅然とした母親の教育よろしきを得て、三代目のジャン‐バチストは初代サンソンほどは自分の職業に悩まずにすんだ。とはいっても、死刑を執行した後はいたたまれずに馬に飛び乗り、郊外を疾走することで気を静めるのが常ではあったが」(p35)

「絞首刑の執行も、斬首刑ほどではないにしても、初めての人間にとってはけっこう難しいものだった。何度も何度も失敗し、やっと五、六回目で刑の執行に成功した」(p36)

「X侯爵夫人はシャルル‐アンリの男ぶりに惹かれ、自分のテーブルに招いた。──中略──>48>
 食事相手が処刑人だったと知らされて、侯爵夫人は気を失って倒れんばかりだった。しばらくは何も言えずにいたが、やがて忌まわしさが込み上げてきて、悔し涙を流した。処刑人に手をゆだねることまでもしてしまったとは! 血にまみれた手に触れたのかと思うと、侯爵夫人は居ても立ってもいられない気持ちになった。すぐに水を持ってこさせ、手を洗った。
──中略──
 パリに帰ると、X侯爵夫人はサンソンを高等法院に訴え出た。サンソンが首に綱を巻いた状態で(首に綱を巻くのは悔恨の印)、自分に与えた侮辱について謝罪すること、また、公共の安全のため、死刑執行人はだれにでもすぐにそれとわかる印を衣服および馬車につけること、を求めた」(pp.38-39)

「シャルル‐アンリの自己弁論
 ──中略──
 私の仕事と判事の皆様の仕事は密接につながっており、もし皆様が私の仕事を糾弾するならば、皆様はご自身の仕事をも糾弾せざるを得ません。私は判事の皆様の命令に従って行動しているにすぎず、もし私の職務に何らかの非難されるべき点があるとすれば、それは皆様方の責任に帰せられるべきものでありましょう。──中略──
 皆様が犯罪人を罰する判決を出しても、それを執行する者がいないというのでは、皆様の出す判決は嘲弄の的になるだけであります」(p41)

「シャルル‐アンリがみずから行った弁論は、死刑執行人という自分たちの職業の正当性についての堂々たる主張であった。このような主張をしたのは、まず第一に、自分の存在を守るためであった。絶えず自分の職業の正当性を自分に納得させるのでなければ、とてもやっていけるものではない。そして第二には、先祖と一族の名誉を守るためであった。自分たちが世間から差別され、除け者にされてきたのはまったく不当なことだというのは、シャルル‐アンリの心からの叫びであった。>45>
 ──中略──
 そして、シャルル‐アンリにはわかっていたのである。人間の自然の感情に対しては論理の力は無力であるということを。敵を殺した兵士は称えられ、相手を殺した決闘者は許されるけれども、処刑台で人を殺す死刑執行人は恥辱でおおわれ、忌み嫌われるのがこの世の習いなのだということを」(pp.45-46)

「親殺しの罪人の場合、科される刑は死刑と決まっていたが、普通は死刑執行に先立って手首切断の刑がともなう。まずは直接悪事を働いた体の部位を罰するのである。ジャン−ルイ‐ルシャールに対する判決ではこの刑には言及されておらず、サンソンはここに刑罰の人道主義化の兆候を感じた。やはり、世の中は進歩しているのだ、と。この三ヵ月前、一七八八年五月八日には、ルイ十六世によってあらゆる拷問が全面的に廃止されていた。サンソンは、囚人に無>64>益な苦痛を与える拷問に前々から反感を感じていたので、これを喜んでいた。また、サンソンが受け取った命令書には「車裂きの刑にかかる前に死刑囚をひそかに絞殺することを許可する」旨の特記事項がつけ加えられていた。死刑囚になんらかの情状酌量の余地があるときは、死刑囚の苦痛を軽減するために裁判所はこのような特記事項を付加する。命令書になくとも、サンソンが独断でこれを実施することもあった」(pp.64-65)

「ギロチンがなぜ《自由と平等》の思想と関係があるのかというと、革命前は、同じ罪を犯して死刑の判決を受けても、貴族なら斬首、一般庶民なら絞首というふうに、身分によって処刑の仕方が違っていたからである。それは平等の原則に反する、人間の平等が宣言された以上は身分の如何を問わず処刑方法は同一でなければならないという議論が、ギロチンが誕生するきっかけになった」(p93)

「「刑罰は平等でなければならない」→「野蛮で暗黒な時代と違って、人権が重んじられるこれからの新しい時代には、処刑方法は人道的なものでなければならない」→「首を切断するのが、もっとも苦痛少なくして迅速に死に至らしめる人道的な処刑方法である」→「しかし剣による斬首に失敗はつきもので、一太刀で首を刎ねないと死刑囚はもがき苦しむことになる」→>93>「ゆえに、機械で確実に首を切断せねばならない」→ギロチンが考案される」(p93-94)

「拷問を行うのは、拷問専門の役人たちであり、死刑執行人は、拷問に立会うことはあっても、拷問にタッチすることはけっしてなかった」(p98)

「処刑台に連行される途中、死刑囚は教会の前で罪を悔いる告白をするように強制されるのが普通だった。この行為は「アマンド・オノラーブル」(公然告白の刑)と呼ばれていたが、ダミアンの場合はノートルダム寺院の前に連れていかれた」(p99)

「まず、ダミアンの右腕が鉄の棒に固定された。ガブリエル・サンソンが焜炉の火を近づけ、ダミアンの右腕を焼きにかかった。神のごとき国王陛下を傷つけるという大それた罪を犯した右腕をまず罰するのである。──中略──
 次にガブリエルの助手が鉄製のやっとこでダミアンの体の数ヵ所を引きちぎり、それぞれの傷口に順々に、沸騰した油、燃える松ヤニ、ドロドロになった硫黄、溶けた鉛を注ぎ込んだ。これらの儀式は八つ裂きの刑に付随するもので、判決文にもいちいちこと細かく指示されていた。
 このあと、ダミアンは処刑台から降ろされ、処刑台近くの地面に水平に据えられたX字型の>100>十字架に縛りつけられた。ここからが本番なのであった。
 ダミアンの両手両足がそれぞれ四頭の馬の馬具に結びつけられた。それから馬に笞が当てられ、馬はそれぞれの方向に突進した。四頭の馬は蹄を滑らせるほどに力を込めていたが、人間の体というのは意外と頑丈なもので、三度繰り返しても手足はちぎれず、ただ途方もなくだらりと伸びきっただけだった。ダミアンはまだ生きており、激しい息をしていた。
 手足がちぎれそうもないので、死刑執行人たちはどうしていいかわからず、途方にくれていた。それを見て、立ち会いの医師がすぐ正面のパリ市庁舎に走った。医師は市庁舎に詰めていた判事たちに事情を説明し、太い筋を刃物で断ち切る許可を求め、同意を得た。
 ──中略──
 ダミアンのばらばらの遺骸は傍らの火の中に投げ込まれたが、このとき、処刑場に着いたときは褐色だったダミアンの髪の毛が真っ白になっているのに死刑執行人たちは気がついた。──中略──>101>
 この処刑を指揮したガブリエル・サンソン自身が刑のあまりの残酷さにショックを受けて死刑執行人の仕事をつづけることができなくなり、これを最後に死刑執行人を辞職したほどである。このダミアンの処刑がフランスで最後の八つ裂きの刑になった」(pp.100-102)

「国家の側が処刑を公開していたのは、見せしめのためだった。「罪を犯すと、こういうことになる。だから秩序を乱すようなことはするな」という教訓を人々に与えたかったのである。
 しかし、一般の人々は、国家のこのような願望をほとんど意に介していなかった。人々にと>102>っては、処刑を見物することは、スポーツ観戦や観劇と同じように、一種の気晴らしでしかなかった」(p102-103)

「革命期の人々は、斬首が苦痛少なくして迅速に人を死に至らしめる人道的な処刑方法だと考えたのだが、剣で人間の首を斬るというのは、とてつもなく難しいことなのである。
 まず、剣の道を極めていなければならない。しかし、どんなに剣の道に熟達していても、それだけで斬首刑を執行できるものではない。死刑によって犯罪人を死に至らしめることが正義にかない、社会のためになるという確信がなければ、死刑囚の首を斬れるものではない。死刑執行人は、自分の行為の正当性を繰り返し繰り返し自分に言い聞かせ、自分を納得させなければならなかった」(p104)

「一七八九年十月十日、ギヨタンという国会議員が、同一の犯罪は同一の刑で処罰されるべき旨の意見書を国会に提出した。これまでは同じ死刑の判決を受けても、貴族と一般庶民とでは処刑の仕方が違っていた。これは人間の平等の原則に反する、というのがギヨタンの趣旨だった。「法の前の平等」の主張の一環である。ギヨタンは高名な医師で、五十一歳だった。
次いで、十二月一日、ギヨタンは国会の演壇に登り、これまでの処刑方法は非常に残酷なものであって、とうてい容認できるものではない、人権が尊重されるこれからの世の中では、処>118>刑は人道主義的なものでなければならない、と演説した。人道主義的処刑とは、死刑囚に無益な苦痛を与えることなく、迅速、かつ、確実に死に至らしめる処刑である。それには、機械によって首を切断するのが最良の方法である、とギヨタンはつづけた」(pp.117-118)

「ロベスピエールは、一七九一年五月三十日、国会で「フランス人の法体系から血の法律を消し去ること」を求め、死刑制度の廃止を提案した。
 ロベスピエールは言っている。

 私は次の二点について証明したい。@死刑は本質的に正義に反するA死刑は犯罪抑止効果がいちばん高い刑罰ではなく、犯罪を抑止するよりも犯罪を増大させる効果のほうがず>120>っと大きい。(中略)社会が断罪する被告人は、社会にとってせいぜいのところ、打ち負かされた無力な敵でしかない。被告人は、大人を前にした子供以上に、社会に対して弱い存在である。それゆえに、真実と正義の目には、社会が大がかりな装置を使って命じる死の光景は卑怯な殺人でしかないし、個人によってではなく、国民全体によって合法的な装いのもとに犯される重々しい犯罪でしかない

ロベスピエール以外にも死刑制度の廃止を訴えた議員はいた。しかし、ロベスピエールの雄弁に心を動かされた議員はあまり多くはなく、死刑廃止の法案は否決された」(pp.120-121)

「巷で話題を集めていたギロチンのお披露目とあって、グレーヴ広場にはものすごい数の群衆が詰めかけた。──中略──
 観衆はどちらかというと、失望した様子だった。何が何やらよくわからないうちに、あまりにも早く、あっけなく、簡単に終わってしまったという不満の声が多く聞かれた。一瞬にして人間の首を断ち切る機械に驚いた人もいた。人道的処刑とはいうが、大量の血を見ることによって、かえって人々の気持ちが残酷嗜好に傾くのではないかと危惧した人もいた。
 剣による斬首の場合は、そこに死刑執行人の人格が関わってくる。技倆、性格、気力がものを言い、処刑台の上で、処刑される者と処刑する者との間に束の間の、この世で最後の人間関係が成立する。失敗した場合は、死刑執行人はその全責任を一人で負わなければならない。ギロチンによる処刑には、そのようなものはいっさいない。機械のメカニズムで処刑が遂行され、死刑執行人は単なる「スイッチの入れ屋」でしかなくなる」(p135)

「ギロチンによる処刑は、鉄の刃を落下させるだけなのだから、だれにでもできるように見える。しかし、実際には、ギロチンの操作にも熟練を要する。まず、手順を覚えなければならないが、それだけで処刑ができるものではない。タイミングを計る技術も必要なのである。──中略──>143>
 こうした技術的な問題がないとしても、素人にはとうていギロチンを操作できるものではない。人を処刑するというのは、ただ人を殺すのとはぜんぜんわけが違う。大勢の観衆が見守り、重苦しい儀式的雰囲気が辺りを圧する中、処刑台にあがった段階で、すでに非常に強度の緊張を強いられる」(pp.143-144)

「もし、素人がギロチンを操作すると、どうなるか?
 その実例がアンリ‐クレマン・サンソンの『サンソン家回想録』に語られているので、少し詳しく見てみよう。
 一七九二年八月十九日、コローという男が紙幣偽造の罪により、死刑の判決を受けた。
 ──中略──>145>
 コローにとって不運だったのは、王政が倒されたばかりで、内外の反革命集団に対する人々の憎しみが高まっている時期に行き当たった、ということである。グレーヴ広場に詰めかけていた人々は、コローがこれまでと同じ場所で処刑されることに不満だった。フランスが外国軍>146>の侵入にも脅かされているという、この重大な時期に紙幣偽造をするということは、祖国に対する裏切り行為、王政に味方する政治的犯罪、許しがたい反革命的行為だ、とみなされたのであった。
 「カルーゼル広場へ!」
──中略──>147>
 サンソンの助手たちが処刑台の解体にとりかかったのを見て、群衆の間から「万歳!」という大歓声が沸き起こった。と同時に、処刑台のすぐ近くに陣取っていた者たちが柵を乗り越えて処刑台に群がり集まってきた。なんと、解体作業の手伝いをしよう、というのだった。
 以前は処刑用具に手を触れることさえ嫌がっていた人たちなのに、とサンソンは不思議な気がした。自分たちと間接的な接触を持つことさえ嫌がったものだった。──中略──>148>
 王政が倒れて《自由と平等》の思想が現実化してきたことや人々の革命に対する熱意ももちろん差別を和らげていたのだが、処刑方法がギロチンに一本化されたことも、死刑執行人を一般の人々に近付けていた。
──中略──>149>
 死を待つ時間をあまりにも長びかせると、死刑囚の神経がそれに耐えられなくなってしまうのである。しかも、周りの群衆は死刑囚を肴にしてお祭り騒ぎだ。実際にワインの瓶が回し飲みされていた。これでは、死刑囚はますます苛立つばかりだった。
──中略──>150>
 その怒号の中、一人の若い男が群衆を割って進み出てきた。
「あんたは国民の敵を助けたいというのかい。それなら、あんたは裏切り者だ。俺たちがあんたの鼻をギロチン台の首穴からのぞかせてやろうじゃないか」
 さすがのサンソンもむっとしたが、問題点をふたたび説明し直してやった。
「なに、あんたの助手たちが酔っぱらって仕事にならないだって? 助手なんか、あんたの周りにいる人たちの中からいくらだって見つかるさ。貴族どもの血が国民の幸福を固めるセメントにならなきゃならん。その血を流させるのを誇りに思わない愛国者なんぞ、一人だっていないよ。なぁ、みんな?」
 と、若い男は処刑台のすぐ近くにいる者たちに問いかけた。
 みんなが異口同音に「そうともよ!」と答えたが、その返事とは裏腹に、処刑台を取り囲んでいた人々がすうっと後ろに身を引いたため、処刑台と群衆との間に少し空間ができた。とくに処刑台の近くにいた者ほど、よけい後ずさりしていた。>151>
 サンソンは群衆の言葉が実体をともなっていないことを見抜いた。
 ──中略──
 「それじゃぁ、手伝ってもらおうか」とサンソンは若者に言った。
 ──中略──>152>
 助っ人を買って出た若者は表面上は平静さをよそおっていたが、顔面蒼白で、額に汗を浮かべていた。暴れまくった死刑囚の様子に気が動転し、必死になって自分の気持ちと闘っているのがサンソンには見て取れた。
「君はすばらしい愛国心の証しをみせてくれたね。いちばん大事な役を譲るから、最後を飾ってみないかね」
 そう言ってサンソンは、ギロチンの刃につながる紐を若者に手渡した。
 サンソンの合図で、若者は紐をゆるめ、ギロチンの刃を落下させた。ギロチンの刃の衝撃音とともに、ずうっとわめきつづけていた死刑囚の声が止み、首が籠の中に転がり落ちた。
「最後に首をつかみ上げてみんなに見せることになっているんだ。ほら、みんなが首を見せろと言ってるだろう。でも、無理しなくていい。嫌なら、助手にやらせるから」
 サンソンがそう言うと、若者は憤慨して「最後まで自分でやる」と言い放った。本当はやりたくなかったのだろうが、若者も意地になり、引っ込みがつかなくなっていた。
 若者が髪をつかんで籠から首を取り上げ、処刑台の中央に歩み寄り、まさに首を持ち上げて>153>群衆に示そうとしたそのとき、若者は突然、後ろにもんどり打って倒れた。
 気絶したのだろうと思ってみなが駆け寄ってみると、若者は死んでいた。
 この若者は、あまりにも無理をしすぎたのである。能力を超える極度の緊張状態にさらされつづけたため、肉体がそれに耐えきれず、ついに脳卒中を起こしてしまったのであった。
 人が処刑台の上に立つということは、もうそれだけで非日常的空間に身を置くことである。──中略──普段からの修養・覚悟・心構えがない素人は、処刑台の上で人を処刑するという強度の重圧に耐えることができない。──中略──
 逆に言えば、死刑執行人は普通の人間には耐えきれないような重荷を背負って職務を遂行し>154>てきたということ、人を処刑台の上で、処刑するのはそれほど重い責務なのであって、命がけなのだ、ということである」(pp.145-155)

「自分たち死刑執行人は、一般の人たちにとっては、平気で人を殺す者でしかない。人々は自分たちを蔑み、かつ、恐れる。無理もなかろう。自分だって、一人眠れぬ夜をすごすとき、死者の影に取り囲まれているのを感じて、自分で自分が怖くなることもあるのだから。
 言ってみれば、死刑執行人の職というのは、けっして許されることがないのだ。
 しかし、この世の正義の最後の段階をになっているはずの自分たち死刑執行人が忌むべき存在として世間から除け者にされるのは、人を死に至らしめることによって社会秩序を保とうとする、その正義の体系そのものが忌むべきものだからではないのか? もし、死刑制度が正義>235>にかなう絶対的に善きものであるならば、自分たち死刑執行人は感謝されこそすれ、忌み嫌われ、蔑まれるはずがない」(pp.235-236)

「死刑制度は間違っている!――処刑を実行する人間を必要とし、その人間に法と正義の名において殺人という罪を犯させるものだから。そして、処刑人一族という呪われた一族を産み出すものだから」(p238)

*作成・担当者:櫻井 悟史 追加者:
UP:20080911 REV: 20160526
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