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「死刑執行人」――日本(江戸時代)
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last update: 20160526
■誰が「死刑執行人」となるか?
江戸時代後期:町奉行同心の内当番方若同心(士族)、山田浅右衛門(浪人)、「非人」
(注:地方によって異なる)
◆関連言及・引用(年代順)
◇石井 良助 19640225
『江戸の刑罰』
,中央公論社,202p.
「本書は江戸時代、ことに幕府の刑罰、牢屋および人足寄場について叙述したものである。
ここで注意しておかなければならないことは、江戸時代の刑罰と牢屋との関係は現代のそれとは異なることである。現代では、裁判によってある犯罪人に対する刑が確定し、その刑が懲役または禁錮の場合に、刑の執行が刑務所でなされることになっている。すなわち、刑務所は刑の執行の場であるから、牢屋のことを刑罰の一部として述べることは適当である。
ところが、江戸時代の牢屋は未決拘禁置所であって、原則として刑の執行場ではない。刑罰が宣告されるまえの被疑者を収容する所である。
したがって、江戸時代に関しては、刑罰の名の下に牢屋を含ませることは、理論的には適当とはいえないが、現代の読者は刑罰といえば当然、牢屋のことをおもいうかべるだろうから、簡明を欲して、本書の題名は『江戸の刑罰』とした。
(中略)
本書はこのように、江戸時代の刑罰ないし行刑を一般予防より特別予防(懲戒より懲役へ)への発展という過程においてとらえつつ、同時代の刑罰、牢屋および人足寄場について述べたものである」(pp.@-B)
「
"牢屋"のはたらき
現代では、刑法に規定された主刑、懲役、禁錮、罰金、拘留および科料のうち、もっとも主要なものは、刑務所にとじこめる懲役と禁錮であろう。死刑もあるが、殺人に対しても、よほどの兇悪犯でないと科せられない。罰金は数においてもっとも多いに違いないが、交通犯などに見られるように、刑罰としての意識はそれほど強くないように思われる。
これに対して、江戸幕府法における主要な刑罰は、死刑(ことに死罪、下手人)と追放刑であったといえよう。このほか、敲と入墨も広く行なわれたが、これらは盗みおよび博奕に対する特別>19>とも称すべきものであった。
しかし、牢屋にとじこめることを内容とする懲役や禁錮にあたるものはなかった。全然なかったわけではなく、後に触れるように、永牢、過怠牢という刑罰もあったが、刑罰体系の上からいえば例外的なもので、『御定書』下巻第三条の「御仕置仕形之事」にも、両刑罰は載っていない。
それでは、江戸時代の牢屋は何のためにあったかといえば、それは未決拘禁所であって、刑罰として入牢させるのではなかった。ある者がある犯罪の嫌疑者として逮捕されたとき、奉行所では簡単な取調べをして、有罪の嫌疑があれば、まずこれを入牢させて、それから「吟味」に取りかかったのである。もっとも、未決の者をすべて入牢させたわけではない。軽罪の者は、宿預、町村預などにするが、比較的罪の重い者は入牢させた。したがって、江戸時代の牢屋は重罪未決監とも呼ぶべきであろうか」(pp.19-20)
「しかし、近代的自由刑的なものを江戸の牢屋に求めることはできない。近代的自由刑は、犯人の自由を奪うとともに、一定の労役を科することによって、出獄後生業につく準備をさせ、これを改善しようとするものであるが、江戸の牢屋にはまったくこういう制度はなかったのである。
近代的自由刑の制にあたるものは、寛政年間に、老中松平定信によって江戸の石川島に設けられた人足寄場であろう。しかし、眼を幕府以外に転ずれば、諸藩では、すでにこれ以前に、近代的自由刑にあたる徒刑の制を設けているところが少なくない。その比較的早いものといわれる熊本藩の徒刑場のごときは、すでに宝暦五年(一七五五)に設けられている。『公事方御定書』制定のわずか十三年あとである」(p21)
「以上に述べたところを総括すると、江戸時代の刑罰ないし刑罰思想は、寛保二年(一七四二)、『公事方御定書』の制定を境として大きく変化していることがわかる。
第一に、この前後において、刑罰の残酷さにおいて程度の差がある。この前までは厳しく、この後では緩和されている。第二に、この以前では、刑罰はもっぱら犯罪の事実を問題にして、見懲を主たる目的として科せられたが、この以後は、犯人の罪意というものを問題にするようになり、犯人を改悛させることに主眼がおかれるようになった。第三に、罪人を牢にとじこめるとともに、これを改善し、労役をお科して、出牢後生業に資せしめようとする徒刑の制が発達した。この第三の思想は第二の思想の上においてのみ生まれることができたのである」(p22)
「死刑としては鋸挽がもっとも重く、右の順で軽くなり、下手人が一番軽いことになる。しかし、鋸で挽くことは形式だけで、実際はあとで磔になるのだから、鋸挽は磔の附加刑とも見られる。獄門も死罪になった者の首を晒すものであるから、晒首自体は死罪の附加刑とも見られる。死罪と下手人との別も、下手人に家屋敷、家財の没収(および様斬)が附加刑として加わったものが死罪である、と見られないわけではない。こういう風に考えると、江戸時代の庶民の死刑はつぎのように整理できるであろう。
基本形 磔 火罪 下手人
↓ ↓
変形 鋸挽 死罪
↓
獄門
もっとも、江戸時代では、鋸挽、獄門、死罪は、ふつうそれぞれ独立の刑罰として考えられていたのである」(p29)
「首切り役は町同心の持役である。揚屋に入れられている者はどうしても町同心が切らなければならないが、平素切りなれていないので、ことのほかへただったという。科人が苦痛に堪えかねて、身体をそらすことがある。手伝人足もこまって、こういう時は科人の両足をひき、打ち伏せて首を挽き切った。
しかし巧みな者もいた。後藤某という同心は打首の妙手であって、強雨の節などは片手で傘を携え、直立のまま、"小刀一下頭は前に飛び"衣服の刀も雨に濡れないで、三、四人の首を瞬時にして切ってしまったという。
首切朝右衛門(浅右衛門とも書く)として有名な山田朝右衛門は、刀の御様の御用をするのが本職であって、罪人の首斬役ではないが、首斬役を勤めることもある。しかし、これは町同心よりとくに頼んだ場合である。弘化二年(一八四五)、町奉行跡部能登守から、加役方(火附盗賊改)への回答に、
死罪其外御仕置者首打役ハ組同心相勤候義に有之、山田朝右衛門等ハ、御様御用にて罷出候義にて、右>39>御用無之節も罷出、死刑之者有之候ハゞ、其場に出居り、同心代り相勤候義も有之云々。
とある。
首打役は刀砥ぎ代として金二分を奉行所よりもらう。もし朝右衛門に首を斬らせるときは、同人から若干の礼を受ける。これは、朝右衛門は頼まれた新刀で首を討って刀剣の試に供するので、頼み手から謝礼をもらうからである」(pp.39-40)
「切腹については、『御定書』には規定していないが、やはり士分以上の刑である。赤穂義士の場合には御預けの大名の屋敷で行われたが、牢屋内で行われたこともある。いずれも検使を派して監視させた。
庭中に砂をしき、その上に縁なしの畳二畳をしいて処刑場とする。牢内では揚座敷の前の庭を用いる。本介錯人一人、添介錯人二人はいずれも町方同心である。本介錯人がその姓名を述べて一礼し、刀を抜いて科人の背後にいる。添介錯人が科人を助けて衣をぬがせ、合図の咳をすると、牢屋同心が木刀を載せた三方を持ってきて、科人の席より三尺ほど離れたところにおき、添介錯人が科人にこれを戴くように申し渡す。科人が手を伸ばして取ろうとするときに、本介錯人が背後から首を刎ねる。
添介錯人は首を掲げて、右の手でたぶさを取り、左の手を下に添えて、右の膝をついて検使の>43>方に横顔を向ける。検使(目付)何の守が見届けた旨を御徒目付がいう。そこで、首を死体に添える。下男が死骸に薄縁をかけて、かたわらに寄せる。検使以下は退席し、評定所に赴き、無事すんだ旨を報告するのである。
以上は牢内での切腹の場合であるが、浅野内匠頭が田村邸で切腹した場合には、大名であるから大目付が検使に行き、御徒目付が介錯している」(pp.43-44)
「本書で牢役人というのは、牢屋監理のためにおかれた幕府の役人のことである。このほか、各監房には、名主その他の囚人の自治的な役人がおかれているが、かれらは、当時牢内役人とか役人囚人とか呼ばれている。
小伝馬町の牢屋は町奉行の支配に属したが、町奉行の下にあって牢屋を管理するのは、囚獄と称する役人である。囚獄は俗に牢屋奉行とも呼ばれ、石出氏が代々世襲して石出帯刀の名を継いでいた。牢屋敷内の拝領屋敷に住み、牢屋敷のことを一さい管理するが、浅草、品川の両溜は管理しない。囚獄は与力の格式で、町奉行の支配に属し、役高は三百俵である。不祥の役人として登城も許されず、他の旗本と交際もしない。その縁組も武士に求めがたく、代々村名主などと結んだという。
囚獄の下には同心と下男がいた。同心の数は古く四〇人であったが、揚げ座敷ができたときに五十人となり、百姓牢新設のとき八人増員し、慶応元年(一八六五)揚屋増設の際、七十六人に増員された。同心はその勤務によって、鍵役、小頭、世話役、打役、物書所詰、数役、平番、物書役、賄役、勘定役、牢番などに分かれている。鍵役は二人で、四〇俵四人扶持であるが、その他の同心は二十俵二人扶持もらっているのが多い。一俵は米三斗五升で、一人扶持は米を一日に五合>105>の割で給せられる。
鍵役は鍵番ともいう。諸口の鍵を保管し、囚人の出入りに関する一さいの事務を扱う。小頭は惣牢の番人の小頭で二人いる。小頭はそのほか、囚人の護送、警固の任にあたる。打役は牢問、敲の打役をするほか、遠島、入墨、死刑の執行などを掌る。数役は敲の数を数える役であるが、打役の中より勤めることもある。平番は牢内では平当番と呼ばれ囚人の呼出しのときの護送、警固を勤め、小頭、世話役とともに下当番所(惣牢の当番所)に詰める。
(中略)
下男は牢内の張番、門番、炊事、運搬その他の雑務に従事し、給料はふつう一両二分、一人扶持で、そのほか一日四文の味噌代が給せられる。人数ははじめ三十人で、安永四年、百姓牢ができたときに三十八人、慶応元年、揚屋建増のときに四十八人となった。抱入の御家人であるから、職を離れると御家人の身分を失う」(pp.105-106)
「江戸時代の刑法史の基本的なものは、
『日本近世行刑史稿』上 日本刑務協会(昭和十八年)
である。第十六章「敲」以下、「入墨」「遠島」「過怠牢」「永牢」「死刑」の各章がこれにあてられている。江戸幕府の刑を中心としているが、すべての刑種を網羅しているわけではない。しかし、史料が掲載してあって、有益である」(p200)
◇正木 亮 19680720
『現代の恥辱――わたくしの死刑廃止論』
,矯正協会,385p.
「昔徳川家康は首斬浅右衛門の制度を設けた。首斬浅右衛門は、家康からその子々孫々に至るまで罪人の首斬りをその世襲職業として認められた。しかし、家康は浅右衛門を武士として認めることはなかった。格式一万石に相当するといわれた浅右衛門になぜ家康が武士たるの資格与えなかったかということがいろいろに想像されるけれども、結局はその職業が武士という幕府の一役人の職業にふさわしくからぬという理念の上に立ったものと思われる」(p35)
→(補足:
櫻井悟史
)事実誤認である。初代山田浅右衛門、山田貞武は1657年生まれで、このときすでに家康は没している(氏家1999:217)。また、山田浅右衛門の本職は様斬り(ためしぎり)であり、首斬りではない。
「かように、戦争を放棄してしまい、国家が人間を戦争死に追いやることをやめてしまったことは、結局、その国家が国民の生命の重さを認めたことであるから、国民自らもまた自己の生命を尊重しなければならないことになったのである。自分の命も他人の命もみな大切にしなければいけない。人殺しはおろか、自殺も犯罪であるという倫理を昂揚していく国民教育の大地が作り上げられたわけである。
ところが、この新しい国民倫理思想の上に取りのこされ未解決のままである問題がある。それがすなわち死刑である。死刑は極悪犯人を膺懲する唯一の手段であると大昔から考えられ、その考えがしみこんでいるから容易に解決のできないことは当然であるが、しかし、死刑の実体は、>70>国家が権力をもって人殺しをすることである。死刑を執行する矯正官はその犯人から個人的な被害をうけているものではない。その矯正官はただ国家の命令に基いて殺人をするのであるが、命令によって人を殺すことにおいては、戦争と何ら異なるところがないのである。国家は一面において戦争を放棄しながら、他面において権力殺を認める矛盾を犯すと同時に、また一面、国民の生命の尊さを教育しながら自らは法律殺人を行なうというギャップを敢えて行なっているのである。新しい国家はそんなギャップのある刑罰、いいかえれば、そんな迷信的な刑罰を維持するよりも、もっと有効な合理的な刑罰乃至制裁に移行して犯罪の防波堤とすることが賢明であるという反省が行なわれるようになったのである。(中略)
今日の世界人はかように死刑問題を反省している。矯正官は国家から死刑の執行を無批判に命令され、そして殺人の業に当たっているのである。その矯正官という名前自体が示しているように、矯正官とは本来囚人を矯正しこれを人間に復帰せしめることがその職務であるに拘らず、その教育官が素顔で人間を殺さなければならないということに無反省であり得るならば、矯正官ということは名のみで徳川時代の牢番の地位にあまんじているというそしりを受けてもやむを得まい。徳川時代の死刑は、武士に対する刑の場合を除いては非人谷の者が穢多頭弾左衛門の指揮に>71>よって行なったものであるが、徳川時代でさえ死刑の執行は常人の行なうものに非ずとされていたものを、今日無反省のままそのことに当たることは、全く、矯正官として、立場を省りみないことにもなると思われる。制度のある限り、命令によって執行はしなければならないとしても、深い反省は決して怠るべきではない」(pp.70-72)
(補足:
櫻井悟史
)→徳川時代の下りは、事実誤認である。死罪、下手人は庶民に課せられた死刑であるが、町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門がこれを執行した(財団法人刑務協会編 上1943:660)。
「しかし、徳川時代の死刑と雖も非常に残酷で末期に近づくにつれて、残虐刑は追加されていった。徳川の用いた死刑は次のとおりであった。
1、下手人 被害者のためにする斬刑である。だから被害者に罪人を下附して殺させもする。
2、死罪 斬刑とも吻刑ともいわれる。いよいよ執行するときは出牢証文をもって言渡し、直ち>76>に非人大勢にて取りかこみ死罪切場につれて行って、手伝人足が囚人を押えをるを打役が首を打ち落すのである。この場合の死刑執行人はみな非人である。日本死刑執行人の地位がいかに賤しいものとされていたかがおわかりであろう。
3、獄門 獄門とは、馬の鞍の上に菰一枚かけ死刑囚を乗せ、馬付き非人が左右から縄をとって動かぬように牢獄の裏から出て、先払非人五人、幟持ち捨札持ち手代り共六人の非人、鎗二本、挿道具を持つ者がつき添い、手代わりの者は何れも穢多頭輩下の谷の者八人にてそれぞれ分担、四人の非人が囚人につき添い、宰領は穢多頭弾左衛門輩下、谷の者二人、宰領小屋頭非人二人にて行列を作り定められたる道筋を引廻し獄に帰り獄内で打首にする。
4、磔 罪木に十文字にくくりつけて、左右両端より槍数三〇筋つきさし、最後に左右より咽喉にとどめをさして殺す。この執行をする者も多頭非人弾左衛門の指揮により非人数名で行なう。
5、逆磔 罪人をさかさまに罪木にくくりつけて殺す方法。
6、水磔 これは寛永年間吉利支丹征伐のために用いた磔刑で、寛永一七年品川の水打際で七〇余人を逆磔とし、満潮のたび毎に一時的に窒息死させ、八日間にて殺した刑罰。執行人は非人・
7、火罪 これは小塚原、鈴が森または犯罪地で行なった刑で、罪人を馬で町中ひき廻し、縛をとかないでそのまま罪木にくくりつけ、茅、薪を四面に積み重ねその上にたばねざる茅を散らし火をつけて殺す。所要薪二一〇把、茅七〇〇把、大縄二把、中縄二把、柵佐野薪七〇把用いる。執行人は非人。
8、鋸挽 罪人を土中にうづめ、首を出し、罪人の両肩を切り、その血を竹鋸にぬりつけ、道行く人にて望むものあれば挽くことをゆるす死刑方法。執行人は非人。
このように、武家時代の死刑は残虐極まりのないものであったが、これらの執行を武士にやら>77>さなかったこと、そして、その執行人が非人、谷の者という特殊の階級者があてられたというところに、武士そのものですら死刑の執行をさけたということを考証することができるのである。わたくしは、この徳川時代の死刑に関する執行人の問題が、今日の行政制度上少しも考慮に入れられていないのではなかろうかとの疑を持つのである。そして、わたくしは、そういう歴史的な刑罰執行上の地位を、今日の矯正官が少しも反省することなく受けついで、しかも、死刑がなければ国家社会に犯罪の波が高まるであろうと考える者があるとすれば、わが国の刑罰思想は、徳川時代以上のものではないし、行刑の文化などということは一場の夢に過ぎないと思う」(pp.76-78)
(補足:
櫻井悟史
)→多くの事実誤認がある。下手人、死罪の執行したのは、町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門である。死罪が、「斬刑とも吻刑ともいわれる」と書かれているが、斬刑(正しくは斬罪)は「御家人以上の者にして火付、盗賊、人殺等武士道にあるまじき重罪を犯せるもの又は國事犯の如きを處し」(財団法人刑務協会編 上:746)とあるとおり、士族に課された死罪であり、明確に使い分けられていた。また、斬罪方法の箇所には「此の時既に首討町同心は罪囚の左側に在つて首を打つ。非人は直ちに之を拾ひ洗ひ檢使及徒目付に示す」(財団法人刑務協会編 上:746)とあり、非人が「死刑執行人」ではないことも見てとれる。獄門も「檢使與力等の出役より斬首に至るまでの手續は略ぼ死罪の場合と同様であつた」(財団法人刑務協会編 上:686)とあるので、「死刑執行人」は町奉行同心の内当番若同心、あるいは浪人山田浅右衛門であると考える。鋸挽は、「道行く人にて望むものあれば挽くことをゆるす」と正木自身が書いている通り、「死刑執行人」になるよう望まれたのは、町人である。以上のことから、「このように、武家時代の死刑は残虐極まりのないものであったが、これらの執行を武士にやらさなかったこと、そして、その執行人が非人、谷の者という特殊の階級者があてられたというところに、武士そのものですら死刑の執行をさけたということを考証することができるのである」という下りは、考証できていないといえる。
「矯正官は牢番ではない。矯正官は教育者である。教育者たるために死刑制度の反省を……」(p84)
◇森川 哲郎 1970
『日本死刑史――生埋め・火あぶり・磔・獄門・絞首刑…』
,日本文芸社,237p.
「こうして、寛保二年(一七四二)『公事方御定書』が登場する。各藩も当然この刑罰体系にならうようになっていった。死刑制度も、その種類もそれまでは無数のものが入り乱れて、統一がなかったが、これによって次の八種類に整理された。>120>
一、死罪=庶民に対する斬首刑である。これには付加刑として、闕所及び引き回し刑が加えられる。また、その屍体は試し斬りに供されることもあった。闕所とは財産を没収し、所払いとする刑である。
ニ、下手人=やはり庶民に対する斬首刑だが、付加刑も試し斬りも加えられていない。
三、斬罪=武士に対する斬首刑である。もちろんこの場合死体の試し斬りはなかった。
四、切腹=武士に対する死刑で、斬罪よりは罪一等軽いものとした。武士の面目たもって死ねる罪としたのである。
五、獄門
六、磔
七、火罪=火あぶり
八、鋸挽き
鎌倉、室町期の法定の死刑よりは数が多い。しかし、戦国、安土、桃山期における、ありとあらゆる残忍な刑の混乱ぶりを、このような形で一応整理したものと考えてよいだろう。
だが実際には、この法定通りの死刑が守られたわけではなく、各藩とも前時代からの伝統をつぎ、それぞれにかなりひどい惨刑を行っていた。
また、幕府も、謀反人やみずからの体制に好もしくない囚人を処刑する時は、この八種類に決>121>してこだわらなかったようである」(pp.120-122)
「死刑の種類は八種類であったが、また、徳川律法の死刑七種ともいった。下手人・死罪・斬・火罪・梟示・磔・鋸挽の七種である。これは切腹を別にしている。切腹は一段高いところにおいて考えたのであろう。
このうち、斬は、浅草もしくは、品川の刑場において首を斬った。死罪と下手人は老屋敷で斬った」(p123)
「首斬り役は専門職
首斬り役は、町同心、それも比較的若い人間の持役であった。といっても平常その訓練をしているわけではなく、腕の立つ者は、余りいなかったらしい。
そのため囚人が、首をちぢめたりすると、手もとが狂って、処置に困ることが、しばしばあっ>125>たといわれている。
が、中には腕の立つ者もいた。首斬り役人として、その妙手を後世までうたわれた後藤某という同心などは、強雨の日に、左手に傘をさし、直立のまま片手で刀をふるい、一時に三、四人の首を瞬時に落とした。しかも刀も衣服も雨のしずくひとつかけなかったという。
首斬り役は(正しくは首打役と呼んだ)、このたびごとに、刀の砥代として、奉行所から金二分を下げ渡された。
大名屋敷などで切腹する武士を斬る時は、その藩の腕の立つ者が選りすぐられたようだ。また本人の希望する介錯人をつける場合もあった。したがって失敗が少ない。それでも赤穂浪士の武林唯七の切腹のときのように、仕損じている場合もある。(中略)>126>
首を斬るというのは、当然のことながら非常に難しい作業といわれている。外国でも失敗が多いために、いろいろとくふうしたあげく考案されたのが、ギロチン(断頭台)である」(pp.125-127)
「死刑執行者の私生活
江戸時代の斬首刑の話になると、必ず登場するのが首斬り浅右衛門という人物だ。この山田浅右衛門は根っからの首斬役人ではない。彼の職業は、刀の御試御用である。つまり、試し斬りを引き受ける役である。それだけに腕が立った。(中略)>127>図>128>
このように、浅右衛門の仕事は、試し斬りが本業であった。だが、ときには、罪人の首斬り役を勤めることもあった。これは町同心から頼まれた場合に限った。もちろん頼み手から浅右衛門に礼金が渡る」(pp.127-129)
◇綱淵 謙錠 197210 『斬』,河出書房新社,330p.→19751125(文庫版)
『斬』
,文春文庫,414p.
「浅右衛門のばあい、最も人道的な斬首の方法とはどういうことか。いうまでもなく、被刑者になんらの苦痛もあたえず、一瞬のうちに正確にその首を打ち落とすことである。被刑者の苦痛を最小限にとどめるためにギロチンが採用されたように、浅右衛門に要求されることは自分が精密な機械になることであった。もちろん人間が機械になることは人間であることを否定する行為である。至難の業といってよい、それをあえて家職として担ったところに、山田家なる存在の不可思議さ、ユニークさがある。
また人間が単なる機械によって斬首されることは、おそらく当時の武士の美学として絶対に許容できないところであったはずだ。したがって自分が無限に機械に接近しつつも決して機械とはなりおおせないところに、浅右衛門のプライドと救いがあったであろう。こういう厳しい倫理をつねに自己に強制しつづけざるをえない職業をもって世襲とし、連綿七代もつづいたという事例が、はたして人間の歴史に、山田家以外、存在するのであろうか」(p14)
「現在、山田家の系譜についてはほぼ二説あり、一つは浪人説、もう一つはいわゆる〈賎民〉説であるが、この碑文の説はいうまでもなく山田家浪人説に立っている。『明治百話』の吉亮の回顧談その他を援用してもう少し敷衍するならば――
山田家はもと六孫王(清和天皇第六皇子貞純親王の王子の意である)源経基の子孫で、はじめて浅右衛門を名乗ったのは貞武である。貞武ははじめ徳川家御腰物奉行支配・山野加衛門尉永久について居合術を学び、その妙を極めた。吉亮の回顧談によれば、貞武は「武道の大熱心家で、とりわけ据物試斬りの名人であり」、「徳川家の御佩刀御試御用役をつとめて、かの赤穂義士不破数右衛門正種、堀部安兵衛武庸なぞとは武道の親友」だったが、「その頃、奉行所に『首斬同心』というものがあり」、「山田が死屍を試すなら、いっそ斬り手もやってもらいたいというような話が出て、ついに兼務のようなかたちになってしまったのが、そもそも首斬りの始め」であるという。
不破数右衛門とか堀部安兵衛と親交があったかどうか、真偽のほどは確かめえないが、篠田鉱>55>造が七世吉利と後妻素伝との間に生れた娘いさから聴取したと推定される聞書によると、吉利は堀部安兵衛の剣道を継いでいたので、安兵衛の作った煙草入れが遺っていたと言い、さらに吉利は泉岳寺には毎月お詣りして安兵衛の墓に香華を絶やさなかったと述べているのをみると、山田家の家伝としてそういう関係が代々言い継がれていたのかもしれない。
また吉亮の言では、徳川家御佩刀御試御用役をつとめ、かたわら首斬同心の代役を兼ねたのは初代貞武の時となっており、祥雲寺の碑文によれば二世吉時の代となっているが、これは後者が正しいようである。
なお、この碑文にある〈髻塚〉というのは、六世吉昌がわが手にかけた死罪人の菩提を弔うため、彼らの髻(もとどり・たぶさ)を切ってその台石のなかに納めた供養塔をいい(毛塚ともいう)、はじめ浄福寺にあったが、浄福寺が廃寺となったため、その親寺である祥雲寺に移されたものである。そのさい祥雲寺には台石の背後にある蓋を取って、そこから穴に投げ入れるようになっていたという。参考までに碑銘を掲げておく。(中略)>56>
正面〈南無阿弥陀仏〉の下の文章は〈ぼさつしょうりょうのつきはひっきょうくうにあそび/しゅじょうのこころみずきよければぼだいのかげはなかにげんず〉、左側面は「銘に曰く、生死海中無頼の客、流れに漂い浪に通って幾沈淪せば又靡心出でん、十界の依正は塵を着めず、と」でも読むのであろうか。(中略)
次に山田家〈賎民〉説の基礎となっているのは「弾左衛門由緒書」とか「弾左衛門書上」といった長吏(穢多頭)弾左衛門から江戸町奉行書に提出された報告書である。これらの報告書中に、弾左衛門家の「組頭(一書に与頭)」とか「手代」の一人として〈浅右衛門〉なる人物が出てくる。この〈浅右衛門〉こそ山田浅右衛門だ、というのである。とすると、浅右衛門は弾左衛門と同じく〈社会外の社会〉の人間、つまり〈賎民〉であったとも考えられるのである。
〈社会外の社会〉の人間を〈穢多非人〉という呼称でいわれもなく賎民視したのは、不条理きわまるものではあるが江戸時代までのわが国の政治的・社会的現実であった。とくに徳川幕府はこれらの〈賎民〉を封建支配における身分的分割統治の道具として、懐柔と弾圧の使い分けによって十二分に利用した。
徳川家康は江戸に入るにあたり、鎌倉幕府開設のさい、関東長吏の首領として配下二十八坐(長吏・座頭・舞々。猿楽・陰陽師・壁塗・土偶作〈土鍋師と書いたものもある〉・鋳物師・辻目暗・猿曳・鉢叩・弦差〈餌指ともあり〉・石切・土器師・放下師・笠縫・渡守・山守・青屋・坪立・筆結・墨師・関守・鉦打・獅子舞・蓑作〈蓑作ともあり〉・傀儡師・傾城屋)を統一し、天下の丐頭(乞食の棟梁)たることを頼朝から命ぜられたと自称する旧家・弾左衛門に江戸の穢多頭を任命した。その後、幕府は〈賎民〉にたいしては穢多頭のもとにいわゆる穢多仕置法を認めて或る程度自治を行わしめるとともに、御尋者御用・牢屋番・斃馬取片付・棒突人足・御仕置人御改・囚人用諸色買上などの行刑制度の末端的役割をになわせた。「弾左衛門由緒書」に「御仕置もの御役は晒もの磔火罪獄門鋸挽文字彫耳鼻そぎ切支丹釣し問等御座候」とあり、慶安の乱で丸橋忠弥が品川(鈴ヶ守)で磔にされたとき刑場の監督をしたのは弾左衛門である。
山田家をこの弾左衛門の支配化にある〈賎民〉の出であると考えることは十分理のあるところである。たとえば大阪落城ののち、家康は豊臣秀頼の幼児国松を京都・六条河原で処刑したが、そのとき斬罪役を命ぜられたのは〈青屋〉と呼ばれる穢多であり、これは中世末以来、穢多非人の職種の一つに皮剥・死穢の処理、あるいは牢屋敷・刑場の管理といった仕事があったからである。したがって浅右衛門は穢多頭・弾左衛門支配下の組頭あるいは手代として斬罪役の責任者の地位を保ち、奉行所への出仕には羽織と帯刀を認められていたとも考えられるのである。
以上、二説について略述したが、前者の浪人説については、これらのほとんどが山田家側の発言に基いたものであり、客観性に乏しいことは認めざるをえない。しかし、後者の〈賎民〉説も>58>まだ十分に説得性を持ちえないうらみがある。なぜならば、そもそも首斬役というのは徳川幕府の行刑制度上の公けの役職であり、町奉行所および火付盗賊改の同心が行う仕事であって(これを〈首斬同心〉という)、山田浅右衛門の正業ではない。むしろ八丁堀与力および同心こそ、かつては〈賎民〉扱いさるべき集団の出身であり、たまたま徳川幕府の行刑制度を執行する地位に立ったゆえに表面的には社会的蔑視を受けずにすんだのではあるまいか。〈不浄役人〉という言葉はそういう文脈で考えるべきものではあるまいか。
『明治百話』所収の「首斬り朝右衛門」のなかで、吉亮が「山田家は家業が家業でしたから世間の誤解が多い」とか、徳川家の御佩刀御試御用役が本業で首斬りは「兼務」だと力説している主意は、自分の家が弾左衛門のような〈賎民〉ではないことを社会的に認めてほしいという願望のあらわれであろう。
前述した幕末の吟味方与力・佐久間長敬の『江戸町奉行事蹟問答』には「山田浅右衛門は麹町に住して町奉行支配浪人なり。徳川家刀剣類御様御用相勤候職分にて、罪人の首打役には無之候」とあり、吉亮の言を裏書きしている。
山田家の系譜関係の資料で最も確実なものの一つは、旧麹町区役所除籍簿第五十八号にあった山田家の戸籍であろう。これは明治五年三月八日に全国一斉に実施されたいわゆる壬申戸籍から始まったものである。ただし、この除籍簿そのものは第二次世界大戦で戦災に遭い、現在の千代田区役所には存在しない。
この戸籍によれば、戸籍頭筆頭人の「東京府囚獄掛斬役 山田吉豊」の身分は「平民」となって>59>いる。この〈平民〉という身分は、壬申戸籍作製の前年、明治四年八月二十八日、太政官布告をもって〈穢多非人〉の称を廃し、これら〈賎民〉を新たに〈平民〉に加えた結果としての〈平民〉ではなく(もっとも幕府瓦解の直前、慶応四年一月に幕府は〈賎民〉懐柔策として弾左衛門の身分を平人に引上げ、翌二月、さらに弾左衛門直属の手下六十五人にも身分還元を認めてはいるが)、明治二年十二月二日の禄制による身分制度の再編成の結果による〈平民〉であると考えられる。
明治二年、旧大名や公卿は華族、旧藩士の平侍以上は士族と呼ぶことになり、奉行所与力は士族に属し、同心は農工商の平民と士族との中間にあたる卒族に入れられたが、山田家は旧幕時代から身分は浪人だったので、帯刀はしていたが〈平民〉に入れられたのであろう。
さらに同戸籍によると、戸主・吉豊の妻かつは深津県士族の出身であり、「父隠居山田和水」(七世吉利)の妻で吉豊の「継母そで」が旧幕臣の出身となっている事実は重大である。なぜならば、当時の〈賎民〉には〈通婚同火の禁〉という堅いタブーがあったのであるから、もし山田家が〈賎民〉であったとするなら、こんな結婚は不可能だったはずである。そうすれば、山田家〈賎民〉説はそのまま肯定するわけにはゆかず、浪人説を取らざるをえないこととなる」(pp.55-60)
「いうまでもないことだが、家職を試刀業としているのは、試斬りによる刀剣の鑑定料がその報酬として入ることを予定しているのである。初代貞武の師であった山野加右衛門永久の時代で一口につき十両ぐらいとっていたという。当時の米価をだいたい一石ニ両と考えると、鑑定料が相当の高額であったことがわかる。これを現代の通貨に換算することは専門的にはいろいろとむずかしい問題があるであろうが、かりに米価を一升三百円としてみると、一石ニ両から一両一万五千円とはじき出される。しかし米価と他の物価、あるいは生活感覚との比較も考慮しなければならぬとすれば、だいたい一両の生活感覚における重みは現在の二万円くらいに相当するであろう>175>か。学者によっては一両三万円と概算する人もある。
徳川初期でこうであるが、、末期になって小判の価値が下落したとしても、七代にわたって〈将軍家御佩刀御試御用〉をつとめた〈山田浅右衛門〉の鑑定書のランクはおそらく山野加右衛門のそれとは較べものにならなかったであろうから、〈浅右衛門〉の鑑定料は一口三十万円以上の相場はあったのではないかと考えられる」(pp.175-176)
「吉亮たちは、きょうここにわざわざ呼び出されたのが、この〈絞柱〉の実験を参観するためだときいて、唖然とした。ついで憤然とした。
「われわれが〈首吊り〉を見てどんな御利益があるというのか」
と在吉が憤慨すると、
「われわれの修行を嘲笑するつもりなのか」
と吉亮も怒鳴った。
少くともこれは〈斬〉にくらべて、表面はいかにも文明開化の産物にみえるが、はたしてどうか。実はかえって囚人を苦しめるものではないのか。〈斬首〉という処刑法は、昔は知らず、現在の西洋では、フランスのギロチンのように、たとえその制度を採用していても、それは機械にさせていて、人間の手を濡らしているところはない、だからそれを見倣わねば西洋に立ち遅れる>207>というが、結局それは日本人ほどの斬首の技術に長じた人間がいないからではないのか。またもしこの絞柱の実験が成功したとすれば、政府は将来、われわれが生涯をかけて錬磨してきた〈斬〉という死刑法を廃止にもちこむ下心があるのかもしれない。もしそうだとすれば、われわれを呼びつけてこれを見せるというのは、侮辱も甚だしい」(pp.207-208)
「いよいよ〈絞柱〉の実験が始められた。
一人の柔術家らしい、身体のがっしりした、総髪髭面の男が稽古着をつけて、門弟を四、五名引連れて現れた。吉亮が傍を通った顔見知りの牢番にきくと、神田お玉ヶ池に道場を開いている磯又衛門という柔術の先生で、天神真揚流の達人とのことであった。
磯先生は門弟たちとエイッ、エイッと気合をかけながら準備体操をしたのち、「それでは」と>210>いって自ら絞柱の前の蹈板に登った。そして輪繩を咽喉下にかけると、牢番が柱の背面にある絞繩の端の鉄環に大懸錘をひっかけた。ぐっと重みを感じたらしい磯先生は、首をニ、三度振って位置を正してから、大きく息を一つ吸込み、
「よし」
と叫んだ。足もとで待っていた牢番が蹈板をさっと外すと、先の牢番がこんどは小懸錘の鉤をひっかけた。
磯先生の身体が宙に浮いた。顔面が紅潮し、先生は両手を咽喉のところへ持って行こうとしたが、それは半ばでとまって、やがてダラリとぶら下がった。肩の力が脱けて、全身がぐったりとした。すると門弟たちがわっと寄って、先生の足を持ち上げ、首から輪繩をはずした。
地面に横たえられた磯先生は鼻をフガフガ鳴らしながら全身を顫わせていた。門弟の一人が上半身を起し、膝を背中に当てて活を入れた。先生の痙攣がとまって正気づいた。瞬時ぼんやりとあたりを見廻していた先生は、ふとわれにかえって、
「フーム、これなら大丈夫だ、どんな者でも生きかえりはしない」
と、絞柱を見上げながら言った
吉亮はあやうく笑い出すところであった。吉豊たちも苦笑いを浮べていた。磯先生の生真面目さを嘲笑する気持はなかった。だが、とにかく滑稽な感じだった。
柱の背面で懸錘をかけていた牢番が、なにか製作者の大工にささやいた。すると大工が磯先生となにか打合せ、やがて磯先生がもう一度絞柱に近づいて行った。ふたたび実験を試みるらしか>210>った。十五貫目の大懸錘では重すぎて取扱いに不便なので、十三貫目のものに変えてみてはどうかということらしかった。
吉豊ら一行は全部見ずに囚獄を出た。
「馬鹿馬鹿しい」
と在吉が地面に唾を吐いた。皆が噴き上げるように笑った。
「ほんとうに、新年早々とんだ眼福をえたというもんだ」
と吉亮がいうと、また皆で高く笑った。
家路をたどりながら、はじめのうちはだれかが一言しゃべると皆で大笑いをしていたが、そのうちにだんだん皆の顔に不機嫌な表情が浮かんできた。そして沈黙の支配する時間が多くなった。在吉だけが、やたらに路上に唾を吐いていた。
「あんな玩具みたいな器械とおれたちの修行とを秤にかけられるなんて。おれはもう斬役という仕事がいやになった」
と、吉豊がぽつりと言ったが、だれももうそれに応じる者はなかった」(pp.209-211)
「当時の司法省は「絞架ハ英国ノ刑具ヲ現ニ模造シ其絞柱ニ優ル所以ハ器械ノ施用極テ簡便、殊ニ罪人の断命速疾ニシテ最モ苦悩少ク実験上其效不少」と自負している。
この司法省の自負こそ山田家にとっては最大の致命傷ともなるべきものであった。簡便な器械で囚人の苦痛を最も少くし、確実に絶命させられうるなら、斬首という執行法の存続については一考>237>を要するとなることは、自然の帰趨であろう。この〈絞架〉の出現はやがて山田家からその家業を奪うこととなる」(p238)
◇原 胤昭・尾佐竹 猛 解題 19820301
『江戸時代――犯罪・刑罰事例集』
,柏書房,516p+508p.
刑罪詳説(佐久間長敬)
「右了れば、控え居る繩取、非人大勢にて取圍み、打役附添ひ牢前を通り、刑場に到る。之れを切場といふ。檢使其外役々は、埋門より出で直ちに刑場に臨む。(目付立會のものは、徒目付、小人目付、出役あり。)
刑人牢前を通行する時、各牢内名主代、戸前口に立ち、名残と稱して、哀別の語を云ふ。一種の>97>習慣あり。(囚獄の部に云べし)
切場入口にて、囚人の目隠しをなさしめ、(半紙二ツ折、細きわら繩にて、頭の後にて結ぶ)打役四人(白衣、羽織、脱劍)先行し、囚人は非人三人(白衣)繩のまゝに引かれ出づる。鎰役、(羽織、袴、脇差)囚人の名を問ひ、答を得て、直ちに切場に据え、筵の上に着坐せしめ、手傳人足、>98>所持の小刀にて、切繩の背結目より、襟の方へ上り、咽繩を切り捨て着服を引下げ、兩肩を袒にし、手をそへ、首を前に延べ出させ、首討役(町奉行同心)之れを討つ。右切場は、地面を凹め、上に筵を敷く、此の内へ首を切りて、死骸は、手傳人足、兩足を引き、血を凹内に落すなり。首討役は町奉行同心の内、當番若同心なり。(羽織、白衣、帯刀)討ち終れば、添役手桶の水を刀に注ぎ、血を洗ひ、紙にて拭ひ(紙は半紙二ツ折を手桶に掛けある)鞘におさむるなり。
因に曰く、首討役同心と相対にて、御樣御用を勤る、麹町平河町の浪人、山田朝右衛門、之れを爲すことあるは、檢使其外役々も、黙許せしなり。
首打役へは、刀砥代として金二分、缺所金の内(缺所金とは欠所公賣せし、金子の奉行所に保管せしもの)にて、奉行より之れを給す。若し朝右衛門に討たしむる時は、同人より金若干の禮を、却て受くるなり。其の所以は、朝右衛門、御樣御用を勤る故に、所々より、頼まれたる新刀を以て、該首を討ち、刀劍の試に供するが故なり。世俗之を知らず。首斬朝右衛門とまで、綽名すれども、實際を知らざる者の談なり」(pp.97-99)
◇布施 弥平治 19830820
『修訂 日本死刑史』
,巌南堂書店,730p.+5p.
「江戸幕府は、東照神君以来の祖法変ズべからずとすることを以て、古例旧格としてかたくなまでに墨守してきたが、時勢の推移に対応したことはまた当然である。これを刑罰関係に見ても或は改め、或は追加するなどのことが、しばしば行なわれたのである。戦国の余風が消えやらない幕初と元和偃武をうたう時代の顕著な相異は、自ら罪の様相を変え、罰も次第に戦国の残虐刑は姿を消すことになった。
(中略)
裁判には、将軍御直裁判、五手掛、四手掛、三手掛、手切裁判の別があり、法廷も江戸城大広間、評定所、役宅、私宅などさまざまである」(p329)
「江戸幕府に於て執行する死刑は、幕初に於ける残虐極まるものは、次第に廃されたといっても磔、火罪、獄門、死罪、下手人、斬罪、切腹の七つがあり、その中でも、鋸挽、晒、引廻しなどが附加するものと然らざるものがあり、実に一三等の多きに達するのである。
江戸時代には士、農、工、商の身分階級制度は厳しく、武士に対する死刑と、農、工、商即ち庶民に対する刑罰とは、自ら差があり武士にも御目見以上と以下、陪臣、浪人がある。大まかに言えば斬罪と切腹は武士に加える死刑であるが、厳密に言えばこれは御目見以上の武士に加える死刑であり、間々これに則らない例もあり、武士でも庶民の刑である死罪に処せられることさえあった。これは評定所の裁決によるもので定式がないのである。僧侶も寺持のものと所化僧の別があったが、刑罰上は庶民の取り扱いを受けていた。火罪は放火犯に対する死刑であるが、江戸幕府>366>の始め頃は必ずしも放火犯に限ったものではなかった。例えばキリスト教徒に加えた、火あぶりもある。火罪は放火犯に執行されるようになったのは何時頃からかは明らかでないが、慶長十四(一六〇九)年に駿府本丸の女房局に放火した下女二人が、火あぶりになって殺され(慶長日記)たとあるところから、応報として放火したので火焙りという観念が古くから存在していたのであろう。これが火罪は放火犯に限定されるようになったものであろう」(pp.366-367)
「次に死刑には公示の上処刑するものと、然らざるものがある。例えば磔や火罪や斬罪は前者であって切腹、死罪、下手人は後者である。獄門は被刑者の処刑後、梟首して公衆に示すものである」(p367)
「次に磔と火罪は被刑者が下賎の者の手によって落命するのであるが、斬罪、死罪、下手人などは下級武士の同心又は山田浅右衛門によって刎首されるのである。
即ち直接何人によって刎首されるかは死刑の軽重に作用するのである。
切腹に際して介錯人の名を問うことがあるのは、名のある武士に刎首されることが、名誉であるということからである」(p367)
「もともと斬罪は御目見以上の武士に加えるものであることは>369>
斬罪ハ御目見以上御預ヶ之上、先ハ切腹之所切腹○重く揚り座敷ものにて、其以下ニ而候得ハ死罪可被仰付程之悪事有之、御目見以上重御方ニ而も切腹ハ難被仰付罪有之節如此被仰付候事ニ候、御評定所ニ而、三御奉行大目付御目付御立合、御老中御差図之趣、御懸り御申渡相済候上、品川浅草両所之御士置場へ連行、切腹之時ニ准し麻上下着為致、磔火罪見物之通り人之見候所ニ而御徒目付御検使之上、町組同心首討可被申哉之事(百箇条調書、内々篇)
とあることによって明らかである。なお御定書百箇条、御仕置仕形之事に
従前々之例
一斬罪
於浅草品川両所之内、町奉行同心斬之、検視御徒目付、町与力
但欠所右同断
とあり、斬罪に処せられらものの田畑、家、屋敷、家罪を没収すべきことを定めている。また刑罪大秘録にも
一於評定所申渡、上下之儘羽がひ○に致し駕籠ニ乗せ直ニ浅草御仕置場所江召連れ、目隠無之、染繩ニ而縛り候、羽がひ○の儘、町方同心首を討
但検使御徒目付、町方与力並ニ同心、御小人目付も罷越候事
とある。斬罪の執行法は江戸時代を通じて変化はなく、罪囚は評定所に於て斬罪に処せらるべき旨の言渡を上下姿で受けるや、直に羽がひじめに縛られて、評定所より品川か浅草の何れかの刑場まで駕籠に乗せて送られ、そこで衆人環視のうちに、奉行所の同心に斬首されるのである。目付というのは平素は旗本御家人の非違を糾弾する役で、評定所の定式日には立会うことは、三奉行と同じであるが、公事吟味を傍聴するだけであり、評決に加わるものではな>370>い。なお大目付は大名を糾弾するものであるが、この大目付と目付とは独立した機関であった。目付の下に小人目付、徒士目付があるが、一人の目付が徒士目付を何人まで使えるかは規定していない。小人目付は目付の指揮に従って姿を換えて探索する所謂隠密の仕事をするものである。また目付の非違については互弾とするのである」(p369-371)
→(補足:
櫻井悟史
)欠所とは、闕所のことである。闕所とは、本刑の軽重により動産、不動産を没収することを定めた刑罰である。
「死刑の一つとしての切腹は武士に対するものであり、死刑囚としての武士に、自ら屠腹を命ずるものであり、刑吏の手によって落命する斬罪よりも軽いものとされている。その目的は武士としての面目を保たしめることにあり、律令制度下における五位以上の有位者に対しては、自尽を行わせるものと規を一にするものである」(p371)
「江戸時代、幕府の執行する庶民の死刑のうちで最も重いものは磔である。軽い身分の者の手によって死に至らしむるの外、公衆監視の裡に死刑を執行するのである。獄門、死罪、下手人は何れも首切同心か朝右衛門(浅右衛門)の手によって牢内に於て死刑を執行するものである。この中の獄門は切った囚人の首を公衆の面前に梟すのであって磔に次ぐものとされ、死罪は様しものに供せられることがあるので、下手人よりも重いものである。下手人(解死人)は死刑のうちで最も軽いもので、様物に供されることなく没収という附加刑もない」(p377)
「獄門は牢屋敷に於て首を刎ね、その首を俵に入れて二人で担いで梟し場に運び、獄門台に梟すものである。その梟す場所は、御定書百箇条、御仕置方之部に
従前々之例
一獄門>385>
於浅草品川に獄門に掛る、在方ハ悪事致候所江差遺候儀も有之、引廻捨札番人右同断
但牢内におゐて首を刎欠所右同断
とあり、江戸に於ては浅草小塚原と品川鈴ヶ守のニ個所であった。また地方では夫々の場所に梟すものである。寛文十(一六七〇)年二月三日に上総国青木村の百姓、孫衛門、善太郎、三十郎の三人が芝浦で鴨を獲った罪により、佃島に梟首、また享保五年五月二十九日には、品川表と中川尻で鳥を獲った罪により、清兵衛は盤井町三丁目に住んでいたのであるが、本所三ツ目横堀に梟首されたことが、何れも御仕置裁記帳に見えている。このように江戸近辺のものであっても犯行近くのところに獄門に掛けることがあったのである」(pp.385-386)
「獄門ハ磔ニつゞき候御仕置にて磔同様之御取計ニ可有之哉、尤江戸中引廻しハ牢屋裏門○出、小船町、小田原河岸、日本橋四日市江戸橋へ出、牢屋へ帰り死罪ニ可相成哉之事
但浅草品川両所之内ニ而獄門台ニ首計を掛ヶ置、捨札を立、番人被附置候御仕置故、牢屋ニ而死罪ニいたし首計を両所へ遺候事ニ可有之哉尤欠所之儀右同断(百箇条調書)
とあるように獄門は磔に次ぐ死刑で、その手続は>386>
一死罪御仕置之通、首打役首討候得バ、非人直ニ首引揚、手桶之水ニ而洗ひ、兼而手当致置候俵ニ入、獄門検使、町方年寄同心双方弐人出居、右首請取、先江幟捨札持道具、其跡首入候俵を非人両人ニ而差荷ひ、右○使同心差添、浅草品川御仕置場江罷越、獄門ニ掛之
但引廻し無之候得バ幟無之(刑罪大秘録)
とある」(pp.386-387)
「死罪は町人百姓に加える斬首の刑で、下手人よりも一等重いものである。これには引廻しの附加するものと然らざるものとあり、引廻しの附加するものは、同じ死罪でも重い死刑である。また被刑者の所有する田畑、家、屋敷、家財は凡て没収され、死骸は様し物に供されるのである。御定書百箇条、御仕置仕方之事に
同従前之例
一死罪
首を刎、死骸取捨様しものに申付る
但欠所右同断
と定めている。様し物については>390>
死罪ハ申渡候上牢屋敷ニおゐて両御町組同心首を刎、死骸ハ取捨に相成、右死罪に可相成科人之内、からだに入墨、出来物之跡も無之きれい成もの有之節ハ町奉行所○御申上、御刀御脇差、御長刀等御様御用被仰付候得は右御品御腰物奉行○出諸御役人罷出右御品ハ御長持人ニ而同心附添諸人を払ひ牢屋敷へ罷越粧町藁谷ニ居候浪人浅右衛門御腰物奉行へ御引渡、麻上下ニ而罷出、牢屋敷御仕置場ニ而首討落し相済候上、御様もの場へ罷出浅右衛門様役相勤可申哉之事(百箇条調書、内々篇)
とある。これによれば、首を斬るのが同心で浅右衛門は将軍の刀剣の切れ味を試すことのように述べてあるが、後に至って同心に代って浅右衛門が斬首し、一般武士の依>391>頼によって刀剣の切れ味を試したようである。死骸に癩病とか腫物があるような場合には神聖な刀を以て斬ることを避けることは当然であり、入墨を施された前科者の死骸を、ためし物に供しないことは刀の穢れであるとの考え方からであろう。これは将軍の刀を試す時だけのものか、一般武士の刀を試すときも同じであったのかは明らかでない。なお様し物にならないものにこの外、揚り屋入のものと下手人に処せられたものと女囚がある。
なお浅右衛門について、横瀬夜雨は
麹町区紀尾井町六番地の裏長>392>屋、永井喜一方の二階六畳の間を借受け住むでいる母子四人の一家族がある。母は山田おかつ(七十二才)其子を浅右衛門(五十三才)又次郎(四十七才)、元三郎(四十一才)といふ。
首斬浅右衛門と唄われた御試御用山田浅右衛門九代の主人である。山田家の祖先といふは、白覇組六方組などゝ称して侠名を売った旗本奴の居合の師匠であった。居合に妙を得た処から幕府の刀剣お試し御用を仰付けられ、後に首斬同心といふ罪囚斬首役人の頭になった。七代目は鼠小僧次郎吉を斬った。八代目は橋本左内、頼三樹三郎らの勤王家を斬った。毒婦高橋お伝もまたこの八代目の手にかゝった。浅右衛門の家は麹町平河町にあった。土蔵の三棟もある立派な邸に住んでゐた(太政官時代)。
と伝えている。浅右衛門は罪囚の首を斬り、或は将軍の刀を試せば手当が出るし、新刀だめしの依頼人からも手数料が得られるので、自然と豊かになり豪奢な暮しができたようである。それが九代目に至って零落したということである」(pp.390-393)
「下手人は解死人とも書き、被刑者の首を斬ることについては死罪と同じであるが、死罪に行われる様しものに供されることなく、死骸は小塚原回向院寮に埋める(刑罪大秘録)のであり、死罪よりも軽い死刑とされていた。
(中略)
百箇条調書に
下手人ハ町人百姓等互格之ものを殺候節之御仕置にて都而人を殺候もの遺恨を以之儀與喧嘩口論等ニ而腹立之儘>395>打殺自害可致と思ひ候而も死に後レ候與何レニも人を殺候上ハ其身も可相果下賤之者杯死後レ全其可死期を不死付従公儀殺被遺候筋にて可有之哉ニ付欠所ニも不及牢屋にて首を被取捨ニ相成迄御定故死骸を貰葬度与願候を殺し下賎之もの之身として上たる人を殺候儀ハ其趣意ニより切捨死罪ニ可相成儀ニ可有之哉之事
但不届なから、公儀江対し候而之事ニハ無之全人を殺其身存命故之下手人故御様ものニも不破仰付哉之事
とある。
なお様しものにならないことは、御定書百箇条、御仕置仕方之事の中に
従前々之例
一下手人 首を刎死骸取捨
但様しものには不申付
と明記されている所のものである」(pp.395-396)
「
諸藩の死刑
江戸時代には全国三千万石のうち四分の三は三百諸侯と称せられた大名が支配していた。下は一万石から上は百万石まで領地は広狭様々であるが、幕府はこれに或程度の自治を許した。これは経費節約の見地からであることは主目的であるけれども、完全自治を許したものではなく、老中、大目付などによる監督の下に、中央集権化をはかる施策も施されていた。大綱は幕府の政策に準ずるものとする為に武家諸法度を守らせ、領地没収の手段を採り幕府の統制の強化を図った。幕初から慶安の事件〔慶安四(一六五一)年〕までの約五十年の間には夥しい除封が行われたことは周知の通りであるが、その後、除封は激減するが大名にとって除封は一大脅威であったのである。従って幕府の方針に著しい差違ある政策をとることができなかった。
藩領内にも同じような犯罪は行われるので、大小いかなる藩といえども藩内の治罰は必要欠くべからざるものがある。従って藩自身に於て刑罰を加え、これを自分仕置と称した。従って各藩に刑事判例のようなものがあり、幕府の方針である、東照神君以来の祖法変ずべからずとすることを旨とし、前例に従うことをどこの藩でも重視したのである。前例に従うことは事にあたる吏員の批難を浴びることは少ないので、調法なものである。この点から見ても、例>483>集のような記録がどの藩にもあったものであろう。また幕府に於て、公事方御定書を編纂して、成文法典ができて以来いくつかの藩に於ても成文刑典が編まれた。それには御定書百箇条に準じたもの、明律を規範としたもの、或はこの両者を斟酌したものなどの別があるが、秘密法主義を採った、いくつかの成文刑典があらわれた。しかしこのような成文刑典と判例集などは明治まで残されたものは極めて少ない。
司法省布達(明治)八年一月七日達第一号各府県
従前各藩被立置候節徳川氏刑法ノ外其藩祖ヨリ用来リ候習慣ノ法律或ハ法律に類シタル罰則并ニ罰例存在シ居候分ハ本年三月迄ニ其府県於テ取調一本ツゝ当省へ差出シ可申候条此旨相達候事(法規分類大全、第一編、刑法門)
という布達を司法省から各府県に出しているが、或はこれは刑法制定の参考にする意図のものであったかも知れないが、果してこの布達に応えた府県がどれだけあったであろうか。現存する藩の成文法典と判例集が残っているのは殆ど三百年近くの江戸幕府時代に終始して同一地方に藩を保ったのが殆どであり、転封に転封を重ねた藩には殆ど例外なく佚失している。また明治維新の混乱の中にあって佚失したものも多いものと思われる。
ここに諸藩に於ける死刑を明らかになし得ないものがある。藩治中どれだけの人が様々な死刑を加えられたか、計えることは全く不可能である。
近時に至り幸にも地方史の刊行が盛んになり、古文献古文書の発掘も数多くなった。しかしそれでもまだ諸藩の死刑についての闡明は期すべくもなく、本書などは九牛の一毛にすら達しないことを残念に思うものである。
各藩にはその大小を問わず誇を持ち伝統を誇示し、他藩を外国視する傾向を有し、殊に徳川氏よりも古くから勢力のあった戦国大名の流れを汲む藩、また織田豊臣時代に徳川氏と肩を並べていた外様大名などは、内心徳川幕府の下風に立つを潔よしとせず大藩意識を持ち、外面問題を惹起しない程度の施策を幕府のそれと異にして無言の抵抗を試>484>みた藩もないわけではない。ここに藩によっては幕府の刑罰と異なった刑罰を用いているものもある。それが諸藩の死刑を考える上に複雑さを増すものである」(pp.483-485)
◇大久保 治男 19850501
『大江戸刑事録』
,六法出版社,290p.
「江戸の刑罰は死刑(生命刑)にも量的差を設けて下手人・死罪・磔・火罪・鋸挽と六種類にした。処刑方法が残虐なほど重刑としたのである。見懲らし的・威嚇的・一般予防的効果が刑事政策的にも重視されたのであろうか。
下手人
『下手人』とは斬首刑のことである。手を下して人を殺す意で「解死人」ともいう。
死罪の刑場を「切場」という。処刑の打首は、下手人が昼間、死罪は夜間行われる。囚人を牢屋から呼び出し、牢屋改番所え、掛り諸役人が並び、本人であることを確認・検使が宣告文を読み聞かせてから斬首場へと引き出す。
入り口で目隠しをする。半紙二つ折りを細い藁縄で頭の後に結ぶ。
打役四人が先行し、囚人は縄のまま、非人三人に押えつけられて引かれる。囚人は切場の前の筵の上に膝をまくって座らされる。非人が囚人の肩に掛けてある縄を切り(鵜の首を切るという)首を下げて肌をぬがせ両肩をあらわにして、顔に手をあげて首を伸ばさせる。この手を引くのを合図に首打役は「まだ間があるぞ」と言いながら一気に首を斬り落す。非人はもう首のない死体を抱え込>74>んで、それをもみながら早く血を切場の前の血溜りに流し出そうとする。
首打役は当番の同心が当る。様斬りの御用を勤める山田浅右衛門は首切りの名人。何か話をしているうちに、囚人は苦痛なく首の皮一枚残して斬られた。人々は「人斬り浅右衛門」と言った。下手な同心に斬られると刀が肩や頭に当ったり一気に斬られず囚人も暴れ廻るほどの苦痛であった」(pp.74-75)
◇菊田 幸一 19880915
『死刑――その虚構と不条理』
,三一書房,260p.
「わが国でも武家時代の死刑の執行は武士にやらせないで非人谷の者という、特殊の階級層があてられていた」(p102)
→(補足:
櫻井悟史
)事実誤認である。少なくとも、江戸時代の公事方御定書では、士族が下手人、死罪、獄門、切腹、斬罪の執行を担うよう定められており、「非人」は磔、火罪の執行だけ担っていた。
(参考)
布施弥平治, 1983, 『修訂 日本死刑史』, 巌南堂書店
財団法人刑務協会編, [1943]1974, 『日本近世行刑史稿 上・下』, 矯正協会
◇氏家 幹人 19990921
『大江戸死体考――人斬り浅右衛門の時代』
,平凡社新書,227p.
「現代の感覚では残酷そのものに思える試し斬りですが、すくなくとも江戸初期までの武士の世界では、それは至極まっとうな行為とみなされていました。>68>
いいえ、「まっとうな」どころか、試し斬りは多くの見物人(見学者と言ったほうが妥当かもしれません)を集め、人々の喝采を浴びることさえ珍しくありませんでした。たとえば随筆『異説まちまち』には、本多大内記という武士の、こんなエピソードが紹介されています」(pp.68-69)
「好んで試し斬りを行った武士の中には、それが半ば専業のようになった人もいました。『甲陽軍艦』に登場する今福浄閑もその一人。浄閑は若い頃から試し斬りめの名人え、ために武田の侍衆は、試し斬りの必要があると誰もが彼に頼んだということです」(p77)
「次第に高まる忌避の感情
戦国から江戸初期にかけて、武芸の錬磨と刀剣の品質検査のため、大名たちですら自ら行っていた試し斬り。それが次第に特定の「芸者」の手で行われるように変化した背景には、武芸の個別専門化という傾向もさることながら、やはり試し斬りに対する忌避の感情の深まりを指摘しなければならないでしょう」(p80)
「そもそも山田浅右衛門だけが将軍家の試し斬り(御様御用)を一手に引き受けるようになったのはなぜか。山田浅右衛門における特権獲得の道をふり返るとき、それは多くの競争相手を蹴落として得た栄光というより、ライバルたちが次第に姿を消していった結果に過ぎなかったことがわかります。浅右衛門は、勝ち残ったのではなく、生き残ったのです」(p96)
「類い稀な試し斬りの名手。山野勘十郎同様、鵜飼は試し斬りを兼ねて罪人の処刑役も果たしていたようで、元禄五年に御様御用を拝命してから九年間に実に千五百人の罪人を試し斬りしたとか」(p101)
「そして浅右衛門だけが残った
その後は、やはり山野流を学んだ根津河三郎兵衛、松本長太夫、倉持安左衛門そして山田浅右衛門が御様御用を努めています。(中略)>102>
享保五年五月二日の御用で切り手を務めたのは、戸田山城守(忠真。宇都宮城主)の家来(つまり陪臣)の倉持安左衛門と、浪人山田浅右衛門の二人。場所は伝馬町の牢屋敷で、同じ年、山田・倉持のコンビは六月二日と七月二十五日にも御様御用の切り手を務めています」(pp.102-103)
「元文元年(一七三六)九月二十七日、倉持安左衛門の死が幕府に届けられ、とうとう御様御用の切り手は山田浅右衛門だけになってしまいました。“そして一人になった”というわけです。同年十月十日、浅右衛門は、今の状態では自分が病気になった折に御用に差し支えるので、伜の源蔵にも御様御用の経験を積ませたいと伺い出、山田浅右衛門が“家の芸”として将軍家御様御用を独占する体制が確立したのです」(p104)
「死亡や老衰、そして試し斬りという仕事そのものに対する罪悪感(宗教的な負い目のようなもの)に促され強力なライバルが一人また一人と舞台を去っていった結果成立した人斬り(首斬り)浅右衛門の家――。だからこそ、この家に対するさまざまな怪談が編み出され、浅右衛門は穢多頭」弾左衛門の手下であるといった誤解も生まれたのでしょう。
もちろん代々の浅右衛門たちも、罪人の首を斬ったり処刑後の屍を切り刻むような家業にある種の“穢れ”を感じないではいられませんでした。
宝永元年(一七〇四)四月、神君家康公の命日に執り行われる日光祭礼に当たって、幕府はあらかじめ忌み慎むべき“穢れ”の数々を挙げていますが(『文露叢』)、そこでも「ためし候刀脇差」(試し斬りをした刀や脇差)は三十日を経なければ“穢れ”が付着しているので神事の場には携帯できないと明記されていました。試し斬りした刀剣に対してすらこうなのですから、ましてや職業的な切り手ともなれば、その“穢れ”も少なからず忌まれたはず。
多くの人の処刑を手掛け、死体を試し斬りした負い目を払拭するべく、浅右衛門も、山野勘十郎や鵜飼十郎右衛門同様、死人の供養や慈悲を心掛けました」(p.105)
「試し斬り、人斬りという拭いがたい穢れの印象とは裏腹に、浅右衛門は刀剣界におけるゆるぎない名士として、刀剣を愛する多くの人々に尊重されていたのでした。
穢れと誉れ――。山田浅右衛門にまつわるこの二律背反性が、武士道という言葉で飾られたとはいえ、権力がつまるところ人殺しを本領とする武士によって掌握されていた時代に由来にしていたことは、いうまでもありません」(p115)
「「浪人」という曖昧な身分で将軍家の御様御用を代々務めるのみならず、依頼があれば大名家にも人斬りの人材派遣をしていた山田浅(朝)右衛門、しかも彼の弟子たちは、それぞれ異なる藩に所属していたのです」(p211)
◇大越 義久 20080530
『刑罰論序説』
,有斐閣,184p.
「武家法時代後期
江戸時代の刑罰は、「武士に対する刑罰」と「庶民に対する刑罰」の2本立てであった。
武士に対する刑罰
武士に対する刑罰は、主君と家臣の関係に基づく懲戒であった。
「厳重注意」としては叱があり、「停職+謹慎」としては、遠慮>38>(門を閉じて家にこもること、役についている者が一時役所出所を差し止められること)、押込(一定期間閉居させ出入りをさせないこと)、逼塞(門を閉ざして白昼の出入りを許さないこと。30日か50日)、閉門(100日位門を閉じて召使いの出入りさえも許さなかったもの)、蟄居(一室に閉じこめて謹慎させるもの。閉門より重い。終身蟄居させることを永蟄居という)があり、「懲戒免職+財産刑」としては、高召上、扶助召放(家禄を召し上げること)、改易(家禄を没収し、平民としたこと)があり、「追放刑」としては、追放、永預(無期他家に禁錮すること)、遠島があり、「生命刑」としては、切腹、斬罪があった。
これらは、江戸時代を通じて、本質的な変化はなかった。
庶民に対する刑罰
徳川吉宗(1684〜1751。享保元〔1716〕年に8代将軍になる)は、武士に対する刑罰体系を修正・補充し、庶民に対する刑罰体系を作り上げた。寛保2(1742)年の御定書百箇条が、それである。「よらしむべし、しらしむべからず」との統治の理念から、公表は禁じられていた。全国の領主の下で、土地に定住させられ生産に携わっている庶民を対象とし、刑罰によって庶民が失われることを防止しようとしたのである。
正刑は、「生命刑」、「追放刑」、「敲刑」であり、入墨刑は属刑の1つであった。
@「生命刑」としては、鋸挽(竹鋸で首を挽いた後に磔殺する。主殺に対して)、磔(磔にして槍殺する。古主殺、親殺、師匠殺、主人傷害などに対して)、獄門(斬首した後にその首を晒す。追剥、主人の妻と密通した男、毒薬売、関所をよけて山越えした者、贋秤、枡の製造者などに対して)、火罪(焼き殺す。火付けに対して)、死罪(斬首+家・家財の没収〔+引廻〕。10両以上の盗み、他人の妻との密通〔男女とも〕、利欲にかかわる殺人などに対して)、下手人(斬首。喧嘩口論による殺人などにい対し>39>て。下手人とは、元来、手を下して殺した者という意味であるが、手を下して殺した者は死刑に処せられる定めだったので、自然と死刑の意味に用いられるようになったとされている〔石井『江戸の刑罰』30頁〕)が、存在した。
A「追放刑」としては、遠島(女犯の寺持僧、過って人を殺した者、不受不施派類の法をすすめる者などに対して。江戸は伊豆七島、京都・大阪・西国・中国は壱岐・隠岐・天草・薩摩五島。士庶の別なく、動産不動産共に没収する)、重追放(関所を忍び通った者、女の得心がないのに押して不義した者などに対して)、中追放(主人の娘と密通した者、口留番所を女を連れて忍び通った者などに対して)、軽追放(縁談の決まった女と不義した男、帯刀した百姓・町人などに対して)、江戸払(酒狂で人に手傷を負わせた武家の家来、追放者を隠した者などに対して)、追院(寺院の品の売渡証文で借金をした僧などに対して)があった。
B「敲刑」は、耳切り、鼻そぎの肉刑を不可として、それに代わるべき刑として創られたものである。男子のみの刑であり、軽重があった。敲は笞50(軽い盗み、湯屋での衣類着替え、盗物と知りながら預かることなどに対して)、重敲は笞100.
C属刑としては、入墨(いったん敲になった上での軽い盗みなどに対して)、晒(本刑前1日引廻し、刑後3日刑場に晒す。僧侶の場合には、市上に拘縛し、3日衆に晒す)、非人手下(身分を非人に切り替えられる。三笠附の句拾い〔賭博の一種〕、取抜無尽〔富くじに似たもの〕の札売り、下女と相対死して生き残った主人などに対して)、闕所(動産、不動産の没収)があった。
D閏刑としては、手鎖(両手に手錠をかける。30日、50日、100日。寺社附の品を書き入れた俗人、夫のない女と密通して誘い出した者などに>40>対して)、過料(銭3貫以上5貫以下、銭10貫、財産相応。田畑を永代売した者、拾い物して訴え出ない者などに対して)、閉戸(門戸を鎖し営業を停止させる。20日、30日、100日)が、存在した」(pp.38-41)
「
江戸時代の牢屋
江戸時代に牢屋は存在したが、現在の刑務所とは異なるものであった。たとえば、小伝馬町牢屋敷は、「牢屋敷」(2677坪余り、表口52間余り、奥行50間)であり、囚獄(牢屋奉行)石出帯刀(徳川三台将軍の抜擢を得て牢屋奉行の役を承り、>42>小伝馬町牢屋敷の平面図(注)『古事類苑』より。(省略)>43>17代に及ぶ。与力の格式で町奉行の支配下にあり、役高は300俵である)の「役宅」、牢役人(同心。定員は58名)の「執務室」、「獄舎」、「刑場」から成っていた。
獄舎には、「揚座敷」、「揚屋」、「大牢」、「二間牢」、「百姓牢」が設けられていた。大名や500石以上の直参は牢屋敷には収容されないが、武士や僧侶は格式により、揚座敷か揚屋に収容される。庶民は、狭義の牢である、大牢、二間牢、百姓牢に収容される。女性は分隔するが、雑居拘禁であり、作業を科せられることはなかった(図U‐2)。そこでは、公のものではないが、役付囚人(12人)と平囚人から成る牢名主制が敷かれていた(牢が混んでくると、「作を造る」という私刑が行なわれていた)。
牢屋の機能には、以下の4つがあった。
@刑事裁判で取調中の者を収容する未決拘留の場所として用いられた。拷問も、ここで行われた。もっとも、全ての者が拷問にかけられたわけではない。拷問にかけられたのは、犯行の証拠があるにも関わらず自白しない者、ならびに共犯者は自白しているにも関わらず自白しない者である。拷問の方法としては、笞打、石抱、海老責、釣責の4つが有名である。さらに、拷問にかけることができる犯罪は、限定されていた。享保7(1722)年に、人殺し、火付け、盗賊と定まり、元文5(1741)年に、関所破り、謀書(文書偽造罪のこと)、謀判(印章偽造罪のこと)が加えられた。それ以外の者を拷問にかける場合には、奉行衆評議の上、申上しなければならなかった。
A有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場所として使用された。
B永牢(無期禁錮刑。旧主に仇を為した者、女犯の僧などに科せられ>44>た、過怠牢(30日か50日の禁錮刑。敲刑の換刑としての入牢)という刑罰を執行する場所として使われた。しかし、これは例外的な使用方法であった。
C刑場(私刑、入墨刑の執行)でもあった。敲刑は牢屋の門前で執行された。なお、私刑の刑場を「切場」という(俗に「土壇場」ともいう。ニッチモ、サッチモいかなくなったことを「土壇場」とうのは、ここからきている)。首切り役は町同心の持役であるが、町同心が頼んだ場合には、刀のおためし御用が本職であった山田朝右衛門(首切朝右衛門)が、首切り役を勤めた」(pp.42-45)
*作成・担当者:
櫻井 悟史
追加者:
UP:20080918 REV:20080922, 0923, 0925, 20160526
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犯罪/刑罰
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「死刑執行人」
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