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死刑関連ニュース1989年 朝日新聞(10月)



1989年10月2日 朝刊 東京
◆郷土の兵士の戦死状況を本に 元校長が戦歴調査 東大和市


 旧大和村(東大和市)で生まれ育った元校長先生が、村の戦死者の一人ひとりがどのような状況の中で死んでいったかの記録作りに取り組んでいる。小平市学園東町1丁目、野沢茂さん(62)。村当時から残された記録をもとに、戦記などと照らしあわせて、戦歴も含めて調べてきた。「一緒に遊んでくれた先輩などが犠牲になっている。紙切れ1枚の死亡通知では気の毒でしょう」といい、来年中には1冊の本にまとめたい考えだ。
     
 野沢さんは東大和、保谷、国分寺などの小学校で40年間教え、東大和市立第4小校長を昭和62年3月に退職した。歴史、特に戦争に興味があり、昭和30年ごろから少しずつ戦記などを読んでいた。退職を機に、まだだれも作っていない東大和市内の戦死者246人の記録を作ろうと思い立った。この246人は、当時の大和村から出征して死亡した時に、村に連絡が入る一方、遺族にも連絡があった戦死者数で、村当時から残された記録が東大和市に引き継がれていた。
 野沢さんは「戦場に行くというので、大きなハト小屋を『あげる』とくれた先輩など、そう、そのうち80人ぐらいは顔を知っていました」と話す。
 戦死や戦病死の場所は中国、フィリピンの島々、ソロモン諸島、ソ連、それに硫黄島、沖縄などさまざま。中には、東大和市内にあった「隼」のエンジンを製造していた日立航空機工場への空襲で犠牲になった人もいた。
 こうした犠牲者のかなりの人が、白木の箱に入った遺骨もなにもない一片の死亡告知書だけで死を知らされた。「右、昭和19年12月5日比島レイテ湾方面の戦闘に於いて戦死せられる候」。告知書には、そんなふうに記されていた。
 野沢さんは告知書に書かれた場所、戦死の日付、部隊名などから、どのような状態の中で死んだかを調べている。週3回、市が好意で貸してくれている奈良橋市民センターの一室に朝から夕方までこもり、自分で集めた数百冊に及ぶ戦記などを読む。戦友が話してくれたケースもあった。
 分からない地名などは防衛庁の戦史研究室に問い合わせる。今までに約170人の戦歴が分かり遺族に知らせた。「戦後、戦争犯罪人として死刑になった軍曹が、無実であることを調べて遺族に喜ばれたこともあります」。大岡昇平氏の「レイテ戦記」に名前が載っている人もいた。昭和天皇が亡くなり、資料となる本が次々に出されたことで調査もやりやすくなった、という。
 野沢さんが気になるのは、日本が行った戦争について、知らないし、興味を示さない人が増えていることだ。遺族の内でも、戦死者の年老いた妻は調査に関心を示すが、若い人は比較的素っ気ないという。
 このため、このような人にも理解してもらおうと、まず「戦争の動きと大和村」と題した85ページの冊子をまとめた。日清、日露の犠牲者も7人いるため、日清戦争から太平洋戦争までを分かりやすくたどった。戦場の地図を入れ、用語の説明も付けた。
 「まだ戦死の場所さえも分からない人も10人ちかくいるが、何とか来年中に全員の戦歴などをまとめ既に作った冊子と一緒にきちんとした1冊の本にまとめたい」。野沢さんは、そう話している。



1989年10月3日 夕刊 1総
◆家永教科書における「草莽隊」の記述


 「朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを『偽官軍』として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった」という家永氏の記述に対し、文部省側が、80年度検定で「朝廷は年貢半減など約束していない。これでは、あたかも朝廷自ら約束しながら実行しなかったように読める」として、従わないと不合格になる修正意見で書き換えを求めた。
 この記述は72年度検定で合格になって以来、80年度検定までは、問題になっていなかった。
 80年度検定では、草莽隊の1つである相楽総三らのひきいる赤報隊は年貢半減の方針を示したが、処刑されたことを書いたうえで、「年貢半減は実行されず」と、「主語」をぼかす記述になった。法廷では、家永氏側、国側それぞれが大学教授を証人に立て、「歴史論争」をした。



1989年10月3日 夕刊 1総
◆家永氏側が一部勝訴、検定は合憲 第3次教科書訴訟で東京地裁判決


 外交問題にまで発展した1980−83年度の教科書検定で、「侵略」という用語や「南京大虐殺」などの記述について、文部省から高校生用の日本史教科書原稿の書き換えを求められた家永三郎・元東京教育大教授(76)が「検定制度は、憲法が保障する表現の自由や学問の自由に反し、違憲・違法だ」として、国に200万円の損害賠償を求めていた「第3次教科書訴訟」の判決が3日午前、東京地裁民事38部で言い渡された。加藤和夫裁判長は、検定制度や適用の仕方は合憲としたうえ、原稿の記述に対する学界の状況や、根拠など「当然考慮すべき事項」を考慮しなかった場合は裁量権の乱用になると判断。今回、争点となった8カ所の記述のうち、「朝廷の軍が年貢半減を掲げながら実行しなかった」との幕末の草莽隊(そうもうたい)=赤報隊=の記述について、文部省の調査官が個人的見解に基づいて修正意見をつけたのは社会通念上著しく妥当性を欠き違法、として国に10万円の損害賠償を支払うよう命じた。焦点になった「南京大虐殺」など5カ所の記述については、国の処分に疑問を示したものの、結論においては文相の権限を広く認めて、原告の請求を退けた。また、「侵略」など2カ所は強制力をもたない「改善意見」だったことなどから判断の対象からはずした。この判決について家永氏側は「裁量権の範囲について一定の歯止めをかけた点は評価するが、結論としては、事前に予想した中では最も小さい勝訴であり、国内外から寄せられた期待にそむく判決だ」と話し、控訴することを明らかにした。
       
 判決で加藤裁判長は、まず、「教育の自由」に関して判断。国家の教育内容への介入を、「必要かつ相当の範囲内」であれば認められる、とした最高裁の「旭川学力テスト事件」大法廷判決(76年)に沿う形で「検定は、教科書について、教育内容における一定の水準を維持し、正確性及び立場の中立・公正を確保するとともに、子どもの発達段階に応じた内容の選択及び組織的配列を行うなど教育的配慮を図ることによって、子どもの学習する権利の充足に寄与するという、まさに許容される目的をもってなされるもの」とした。その上で、検定の制度や適用は、この範囲内の合憲・合法なものだとした。
 続いて、個々の記述に対する、具体的な処分の適否について検討した。加藤裁判長は、文相の裁量権の範囲について、処分のもとになった判断が、「学界の状況などに誤認があるといった事実の基礎を欠く場合や、学界の一般的状況や原稿記述の有する根拠など、当然考慮すべき事項を考慮せず、考慮すべきでない事項を考慮している場合」などは、許される権利の範囲を超える違法なものになる、とした。その上で、今回の具体的な争点の場合は、「幕末の草莽隊と朝廷との関係」における記述についてのみ、この「許されない処分」になる、とした。
 焦点になった「戦争」をめぐる記述について、加藤裁判長は、法廷での「歴史論争」を通じ、南京大虐殺については、「家永氏の記述には、相当の理由があり、このような記述に修正意見を付けることは、妥当性について批判の余地がある」とした。また、「731部隊」については、「修正意見を付することが果たして当を得たものといえるかは、問題とする余地のあるところ」とした。さらに、「沖縄戦」についても、国側の「集団自決による犠牲者が最も多い」との論に対して、「このように断定することは問題があろう」と指摘した。
 しかしながら、判決は、学界に反対説があることをとらえ、これらの記述に対する文部省の処分は、「直ちに合理的根拠を欠き、社会通念上著しく不当なものであったとはいえない」とし、結局、文相の裁量権を広く認めて、「合法的」との結論を導き出した。
 行政処分に関する裁量権の範囲については、「判断が、社会通念に照らして著しく妥当性を欠く場合に限って違法」とした最高裁大法廷判決(78年、「マクリーン事件」)がある。また、教科書訴訟でも、1次の控訴審判決は、「処分に相応の根拠のある限り、裁量権乱用とはいえない」との判断を示していた。この日の判決は、こうした判例の流れに沿ったうえで、文相の裁量権に、「学界の状況」などで「歯止め」をかけるものになった。しかし、「草莽隊」以外の記述に対する処分については、この「基準」に照らしてもなお、違法といえない、などとした。
 第3次訴訟で家永氏側は、三段構えの主張を展開した。主張の柱は(1)検定は、制度自体が、表現や学問の自由を侵し、違憲(2)制度が合憲・合法だとしても、記述内容まで審査するのは適用面で違憲(3)制度・適用が合憲・合法だとしても、なお、「相応の根拠」に基づいて書かれている記述の変更を求める各処分は、文部大臣の裁量権を逸脱しており、違法、という内容。根底には、教育は公権力の介入から自由であるべきだ、との考えがある。
 3次訴訟では、とくに、3番目の裁量権乱用の主張に力点がおかれた。
                                    
      
 ●国も自己批判を
 原告の家永三郎・元東京教育大教授の話 行政寄りの判決で、控訴せざるを得ない。しかし、1カ所にすぎなくても、判決が検定に行き過ぎがあったことを認めた点を文部省は自己批判してほしい。裁判所全体の判例傾向が後退しているのを心配している。
                                    
      
 ○家永教科書訴訟の経過
 1次、2次訴訟は60年代の検定をめぐって起こされた。不合格処分の取り消しを求めた2次は、1審で家永氏側が全面勝訴したが、上告審で、提訴後の学習指導要領の改正を理由に差し戻され、東京高裁は今年6月、「訴えの利益がない」として請求を却下、確定した。提訴から24年たつ1次訴訟は、現在、最高裁で係属中。3次は84年に起こされ、歴史学者や作家ら計31人の証人が出廷。昨年2月には沖縄で出張尋問が行われた。
                                    
      
 ○家永教科書における「草莽隊」の記述
 「朝廷の軍は年貢半減などの方針を示して人民の支持を求め、人民のなかからも草莽隊といわれる義勇軍が徳川征討に進んで参加したが、のちに朝廷方は草莽隊の相楽総三らを『偽官軍』として死刑に処し、年貢半減を実行しなかった」という家永氏の記述に対し、文部省側が、80年度検定で「朝廷は年貢半減など約束していない。これでは、あたかも朝廷自ら約束しながら実行しなかったように読める」として、従わないと不合格になる修正意見で書き換えを求めた。
 この記述は72年度検定で合格になって以来、80年度検定までは、問題になっていなかった。
 80年度検定では、草莽隊の1つである相楽総三らのひきいる赤報隊は年貢半減の方針を示したが、処刑されたことを書いたうえで、「年貢半減は実行されず」と、「主語」をぼかす記述になった。法廷では、家永氏側、国側それぞれが大学教授を証人に立て、「歴史論争」をした。



1989年10月3日 夕刊 1社
◆殺人事件、無罪か 山中事件、霜上被告の保釈許可 名高裁【名古屋】


 1、2審で死刑判決を受けながら、最高裁が審理のやり直しを命じ、差し戻し控訴審が12月12日に開かれる「山中事件」で、名古屋高裁刑事1部(山本卓裁判長)は3日までに、霜上則男被告(43)=金沢刑務所拘置監に在監=の保釈申請に対し、殺人、死体遺棄罪については保釈を認めた。別件の強盗致死未遂罪については却下したため、結局霜上被告は拘置されたままになるが、殺人罪などの重大事件で保釈が認められたのはきわめて異例。最高裁は、有罪の決め手とされる共犯者の自白の信用性について疑問を指摘したが、さらに名古屋高裁が今回、保釈を許可したことで、霜上被告が本件の殺人事件について無罪となる公算が大きいものとみられる。
 霜上被告の弁護団は8月、「最高裁の判決により霜上被告は事実上、無罪である」として同高裁に保釈を申請していた。
 1、2審判決によると、霜上被告は遊ぶ金欲しさに犯行を計画。共犯者のA元被告(41)に金融業者から30万円を借金させたうえで、47年5月11日夜、A元被告と2人で、借金の保証人だった石川県加賀市山代温泉幸町、元タクシー運転手出嶋武夫さん(当時24)を乗用車で山中町の林道に連れ出した。霜上被告は後部座席で出嶋さんの左わき腹を小刀で刺したあと、外に引きずり出してヨキで頭を殴るなどして殺害した、とされる。
 6月に言い渡された最高裁の判決は、有罪の決め手とした共犯者の自白の信用性について、数多くの疑問を指摘したうえで、「これまで法廷に提出された証拠だけでは霜上被告の有罪とは認められない」とした。
 名古屋高裁は、この本件について保釈を認めた。しかし、本件発生後に、霜上被告がA元被告の所持金を奪おうとして小刀で腹部を刺し、けがをさせたとする強盗致死未遂罪の別件について保釈を却下した。
 これまでに再審無罪となった死刑事件の免田(熊本)、財田川(香川)、松山(宮城)、島田(静岡)の各事件は、再審判決が出されるまで身柄を拘置されたままだった。



1989年10月3日 夕刊 1社
◆3人殺害の宮脇に死刑を求刑 岐阜 【名古屋】


 今年2月、岐阜市椿洞で別れた妻の両親と妹を刺し身包丁で刺し殺し、殺人、銃刀法違反の罪に問われている住所不定、無職宮脇喬(46)に対する論告求刑公判が3日、岐阜地裁(橋本達彦裁判長)で開かれ、検察側は「計画的な残虐極まりない犯行で、社会的影響も大きい」として死刑を求刑した。
 起訴状によると、宮脇は2月14日午前3時半ごろ、刺し身包丁を持ち、別れた妻の父の岐阜市椿洞、中島春雄さん(当時67)宅に侵入し、2階にいた元の妻の妹、智子さん(当時32)、春雄さん、母のよし子さん(当時57)の胸や腹を次々と包丁で数回突き刺し、失血死させた。



1989年10月3日 朝刊 2外
◆嫁買い 貧しく独り者多い農村(国際事件簿・中国)


 「路頭に迷っている女たちがかわいそうだったから、落ち着き先を見つけてやっただけだ」
 中国中西部の四川省で、一昨年夏から2年間で、精神病者22人を含む24人の女性を誘拐し、嫁の欲しい農家に売り払っていたグループが摘発されたが、主犯の程建文は法廷で最後までそう言い張った。判決は死刑だったが、中国の農村では今も「嫁買い」の風習が根強く残っている。
   *  *
 事件を報じた中国婦女報によると、程の妻が一昨年夏に精神病にかかり、家出をしてしまった。妻を捜しに出た程は、各地に同じ病気の女性がいることに気付き、「こうした女を田舎の村で売ればひともうけできる」と考えた。
 程は兄弟や兄嫁らを誘って、人さらい稼業を始めた。初めの1年で18人の精神病の女性を売りさばいた。言うことを聞かない女性には暴行を加え、うち1人が死亡した。
 中国の農村では、特に貧しい内陸部を中心に嫁不足が深刻だ。働き手になる男の子を欲しがる傾向が強いため、女の子は間引かれることもある。すでに一部では男女の比率が大きく崩れ始めており、貧しくて結納金が払えず嫁がもらえない独身男性が多い“独り者村”もあるほどだ。
   *  *
 四川省の省都・成都市では今春、ダンスホールに遊びに来ていた少女13人が次々に誘拐され、1200キロも離れた山西省の農村に売り飛ばされた事件があった。14歳から17歳の少女で、うち5人は中学生だった。
 彼女たちはダンスホールで「北京に荷物を取りに行くのを手伝って」とか、「友達と一緒に旅行しよう」などと誘われて、そのままついて行ったという。幸い5人は保護されたが、まだ自宅に戻れない。家に帰ったことがバレると報復される恐れがあるからだ。
 警察の捜査の手もこんな人身売買にはなかなか及ばない。だから家族自らが娘を救い出すことが多い。その場合、逆に買い手から数千元(1元は約38円)の“代金”を返すよう要求されることもある。成都市役所には、「市人身売買撲滅弁公室」なる部門があるくらいで、いかに被害が多いかを物語っている。
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 一方、成人した女性より安く嫁を手に入れようという「童養ソク^」(トンヤンシー=将来の嫁にするために買い、下女として使いながら育てる女の子)の風習もある。安徽省のある村では、村の440世帯のうち3分の2が「童養ソク」を抱えている。
 湖に近いこの村は10年のうち9年は水害に見舞われ、まだ電気も通じず、95%以上の家がわらぶきという貧乏村。数千元から数万元の借金はざらだ。このため、嫁をもらえない男が多く、25歳以上の適齢者の半数以上が独り者だ。
 となると、必然的に人買いや人さらいが介在してくる。村の50歳すぎの人買いばあさんは8人の幼女を売りさばいたという。“一人っ子”政策からはみ出した女の子も、こうした人買いルートに乗る。男の子が欲しくて何人も子供を産む夫婦と、嫁がいない農家にとっては共に利益になる一石二鳥の方法だ。
 人さらいも「童養ソク」も、農村のやむにやまれぬ事情が背景にあるのだ。
 (北京=田村特派員、写真も)



1989年10月4日 朝刊 1家
◆自白 逃げ道ない異常空間(少年たちの迷宮:下)


 「綾瀬母子強盗殺人事件で、少年3人を強盗殺人の疑いで逮捕」−−4月26日の朝刊に、容疑者の1人とされたB君の父親は言葉を失った。綾瀬警察署に電話した。「なぜ、逮捕のことを親に言わなかったのか」。警察の答えは、「身内の人だと、証拠隠滅の恐れがある」だった。
     
 ○親には連絡がなく
 B君が勤務先の栃木県内の工場から、任意で綾瀬署に連れていかれたのは、前日の朝8時過ぎ。工場から父親に連絡があり、「警察が親に連絡すると言っていた」という。しかし、正午になっても連絡はない。父親は正午過ぎ、綾瀬署に行った。「未成年なのに、なぜ、親に連絡がないのか」と言うと、「聞きたいことがあるので」という答えだった。
 午後6時になり、父親は電話で訴えた。「もう、10時間になる。子どもなのに。帰してくれ。聞くのは、明日にしてくれ」。しかし、「もう少し、聞きたいから」と断られた。午後8時、「もう12時間じゃないか。子どもは参っているだろう」と、父親。が、「まだ、聞きたいことがある」の一点張り。午後10時に初めて、警察は「今晩は帰せない」と答えた。「どういうわけだ」と聞いても「いまは何も言えません」。父親が息子のことを知ったのは、翌日の新聞だった。逮捕状の執行は午後10時50分である。
 A君、C君の場合は24日朝から呼ばれ、A君は午後11時、C君は25日午前2時まで調べられた。警察はA君、C君の親には何も連絡していない。さらに、25日の朝、また任意で連れていかれた。
 少年事件について、国家公安委員会規則の「犯罪捜査規範」では「少年の被疑者の呼び出し、取り調べを行うに当たっては、少年の保護者、またはこれに代わるべきものに連絡するものとする」とされる。親に連絡しないのは、これに違反する。取り調べについても、3人の少年の親たちは「任意の取り調べなのに強制と同じ」と、警察の強引さを指摘する。
 また、警察が少年を逮捕したとき、事件と少年たちを直接、結びつける目撃証人や指紋、物的な証拠など客観的な事実は、何もなかった。その後、さらに20日間、少年たちの取り調べ。その結果が、「少年らと本件犯行を結び付ける客観的証拠は、見いだすことができない」という東京家裁の不処分決定だった。
 警察留置場から鑑別所に移された3人の少年のうちA君が、5月26日に面会にきた両親に「僕はやっていない」と泣いて訴えた。少年たちの親は「少年3人を1人で担当していた弁護士が、犯罪事実を争うことに積極的でない」と判断して、昨年3月、日弁連の少年法「改正」対策本部で活動する弁護士が中心になって結成した「子どもの人権弁護団」メンバーの1人に連絡した。
     
 ○「代用監獄に弊害」
 翌27日朝、「子ども人権弁護団」の中心メンバー、吉峰康博弁護士の東京・銀座の事務所を訪れたA君とB君の母親2人が事情を話した。すぐに吉峰弁護士が人権弁護団のメンバーに電話で呼びかけ、その日のうちに少年1人につき3人ずつ計9人の弁護士を付添人として弁護団が組まれた。
 弁護団は、C君にアリバイが成立すること、A君の容疑の物証とされたブローチが犯罪とは無関係なこと、などを確定、有罪の根拠を次々と崩していった。3人の少年は、6月12日まで鑑別所で観護措置とされていたが、3回目の審判で、家裁は9日から在宅観護にした。「殺人の容疑がかけられている人間を、在宅にすることは、異例のことだった」と、弁護団はいう。
 全国の学者、弁護士、施設職員や教師などでつくる学際的な「子どもの人権」研究会が、9月30日−10月1日、名古屋市で開いた今年の大会でも、この事件は中心的な論議の1つとなった。1日午前中、東京・綾瀬の事件の弁護団の1人、森野嘉郎弁護士が報告。「客観的な証拠を軽視して、自白だけに頼る日本の一般的な捜査のあり方が問題」とした上で、「大人に比べて精神的に弱い少年事件の場合は、特に物証による裏付けが必要なのに、それが分かっていない」と、少年への配慮がないことを批判した。
 自白強要の背景として、吉峰弁護士は冤罪の温床といわれる代用監獄の弊害を指摘する。「欧米ではこう留は、身柄を確保する機関と取り調べをする機関とで、分けられている。ところが、日本は警察が被疑者を警察留置場(代用監獄)にこう留して、同時に取調室も持っているというのが一般的で、少年事件も同じ。それが、長時間の調べと自白強要につながっている」
     
 ○怒鳴られビンタも
 例えば、A君は警察でも当初否認し、検察官や裁判官の前で自白をひるがえして罪を否認したために、捜査員から綾瀬署で「何でやっていないというんだ」「うそをつくな」と怒鳴られ、ビンタを受けた。逮捕後、4日目の夜、東京・千住署の警察留置場で、ズボンのファスナーの金具で自分の左手首を削って、自殺を図った。警察署の調書では、A君は「どうせ死刑になるならば、自分で死のう。僕が死ねば、天国にいる(被害者の)○○君にも謝ることができると考えた」と言ったことになっている。しかし、審判の中で、A君は「死んでしまえば綾瀬(署)に行かなくても済むと考えた」と答えた。
 それほど、切羽詰まった、逃げ道のない状態だった。横溝正史の推理小説のファンというB君。が、出口もわからない迷宮から、ようやく逃れ出て、その感想は、「もっと、科学的な捜査をしてほしい」。冷めて語らざるを得ないほど、異常な空間にいたわけだ。警察は、「少年」を追い込み、自らも迷い込んでいったカラクリに、気づいているのだろうか。



1989年10月4日 朝刊 2社
◆もう一つの極東裁判から40年、「細菌戦法廷」残る ハバロフスク


 ソ連ハバロフスク市の軍事法廷で、敗戦時の関東軍総司令官山田乙三陸軍大将(故人)ら12人が裁かれた、もう一つの極東裁判から今年は満40年。当時、同裁判記録を撮影した映写技師コンスタンチン・グリゴールイさん(76)と9月下旬に同市で会い、現在は将校会館の劇場に使われているかつての軍事法廷で、回想を聞くことができた。山田大将らは関東軍第731部隊(石井四郎部隊長)などによる細菌戦計画と実験の責任を問われた、という。軍事法廷の記録映画は、同市に保管されていることも明らかになった。グリゴールイさんは「日本人への説明は初めて。今度来る時は映写を準備する」と語った。(坂本龍彦記者)
                                    
      
 昭和24年12月末、1週間にわたって行われた細菌戦裁判の模様を、カメラを通してグリゴールイさんはよく記憶している。裁判は公開で市民の関心が集まり、招待券を出して混雑を整理した、という。400人入る傍聴席はいつも満員だった。
 「他の日本軍人の名は忘れたが、総司令官のヤマダオトゾーのことはとてもよく覚えています。中背の人で、公判まで予備審問が続いたせいか、とてもやつれていた」。「個人的な印象だけれど、将軍としての威厳は感じなかった。ヤマダが何を証言したかは、当時の新聞がくわしく記録していますよ」と、グリゴールイさんは語る。
 山田元大将らの証言を当時の日本側報道も、モスクワ放送によればとして(1)細菌戦は中ソ、モンゴルに対して行う予定で関東軍は細菌兵器特別研究委を設けた(2)細菌実験の犠牲者は裁判にもかけず死刑を宣告した捕虜たちで、石井四郎軍医中将(故人)は「細菌戦には空爆が最も効果的」と主張していた。しかし、実行には至らなかった−−などと伝えている。
 この裁判で24年末、山田元大将、梶塚隆二元陸軍軍医中将、川島清元陸軍軍医少将らの将官は25年の労役禁固刑を受けた。
 「戦犯と証人は1人ずつ裁判長の前に呼び出され、対決する形で裁判は進みました。市民は冷静に見守っていました」と、グリゴールイさんはいう。
 このハバロフスク裁判での審理を終えたソ連側は「天皇が細菌戦準備を命令した」として国際法廷設置を求める覚書を連合国各政府に送った。米ソ冷戦時代だった。米国務省は「ソ連領内の日本兵捕虜抑留から目を他にそらさせようとする意図が明白だ」として、細菌戦裁判拒否の声明書を出している。
 歴史的な裁判の場となったハバロフスク法廷は、今、同会館の劇場になっている。グリゴールイさんが案内してくれたこの日も「子ども劇場」が催され、若い母親に連れられた幼児たちが、陽気にはしゃいでいた。裁判の立役者だった山田元大将は病身となり、昭和31年6月、釈放されて帰国した。74歳だった。
 細菌戦裁判については何も語らないまま山田元大将は死去した。しかし、同元大将らがハバロフスク法廷で陳述したという「捕虜を対象とした細菌戦実験」は、戦後、中国や日本でも問題となり、中国では今も事実の究明が続けられている。



1989年10月5日 夕刊 1社
◆「山中事件」被告の拘置続行(ニュース三面鏡) 【名古屋】


 えん罪の疑いが持たれている石川県の「山中事件」で、名古屋高裁刑事1部(山本卓裁判長)が霜上則男被告(43)の拘置の続行を決めたことに対し、弁護団や事件に詳しい刑事法学者から批判の声があがっている。一方、検察側も本件の殺人事件について、保釈が認められたことに不満を表明。近く双方が同高裁に異議の申し立てを行う方針で、波紋が広がりそうだ。
 霜上被告が元タクシー運転手殺しの主犯として逮捕されたのは、事件が発生した昭和47年。以来、身柄を拘束されて17年たった。最高裁がこの6月に死刑判決を破棄し、同高裁に差し戻したのを受け、弁護団は「事実上、無罪判決だ」として保釈を申請した。
 これに対し、同高裁は本件の殺人事件について保釈を許可しながら、別件の強盗殺人未遂事件で却下した。認めなかった理由は「保釈するのが不相当だから」と素っ気ないものだった。
 結局は拘置続行の決定に、弁護団は猛反発。「霜上被告は殺人事件の完全犯罪をもくろんで、共犯者を殺害しようと強盗殺人未遂事件を起こしたとされてきた。しかし、最高裁でその構図は崩れた。別件は友人関係にある共犯者の間に起きたけんかで、傷害事件にすぎない。この程度で保釈を許可しないのは不当だ」と主張する。
 山中事件に詳しい静岡大学人文学部の大出良知助教授(刑事法)は「最高裁のお墨つきがあるのだから、本件で保釈を認めるのは、当たり前のこと。別件についても、17年間の拘置で十分制裁を受けている。保釈しない理由が分からない」と、拘置の続行に疑問を投げかける。
 「えん罪は明らか」と指摘する白取祐司・北海道大学法学部助教授(同)は「罪のない人に対し、こんなに長く裁判を引き延ばしたことを裁判所が反省しているなら、ただちに釈放すべきだ」という。
 この決定に不服なのは、検察側も同じ。名古屋高検幹部は「霜上被告が真犯人であることは間違いない。最高裁の判決は指摘した疑問点を解決できれば、有罪にできるといっているにすぎない。それなのに本件で保釈を認めたのは軽率だ」と批判する。
 12月に始まる差し戻し控訴審を前に、検察側と弁護側の攻防は早くも熱い火花を散らしている。



1989年10月6日 朝刊 1社
◆山中事件の被告「保釈」決定で異議申し立て 名古屋高検 【名古屋】


 最高裁が死刑判決に疑問を指摘して審理のやり直しを命じた「山中事件」で、名古屋高裁刑事1部(山本卓裁判長)が本件の殺人事件について、霜上則男被告(43)=金沢刑務所在監=の保釈を認めたことに対し、名古屋高検は5日、この決定を不服として、同高裁に異議を申し立てた。
 別件の強盗殺人未遂事件の保釈が認められなかったため、霜上被告の拘置は続行されているが、異議申し立ての理由について、同高検は「死刑の判決を受けた被告の保釈は許されるべきではない」としている。



1989年10月7日 夕刊 ワイド文化
◆心揺れる12人の陪審員(NEXT・WEEK)


 容疑者の少年は死刑か無罪かの評決をめぐって、12人の陪審員がスリリングな討論をくりひろげるレジナルド・ローズの名作劇「12人の怒れる男たち」が、俳優座劇場のプロデュース、熊井宏之演出で再演される。
 シドニー・ルメット監督、ヘンリー・フォンダ主演の映画でもおなじみの作品。俳優座劇場は昨年5月に上演したが、今回は初演の峰岸徹が新克利に代わるなど、新しい配役を組んでいる。ほかに村松克己、勝部演之、西本裕行、小田豊、林秀樹、塚本信夫ら。
 ▼9−15日、東京・六本木、俳優座劇場。4000円。9、10日はハーフチケット・デーで2000円(劇場前売りのみ)。03−470−2880



1989年10月10日 朝刊 解説
◆児童の権利条約を国連で採択へ 不十分な日本の国内法


 子どもの人権を国際的に保障するための国連子どもの権利条約が、児童の権利宣言30周年記念日の11月20日、国連総会で採択される見通しとなった。国際人権規約子ども版ともいえるこの条約は、子どもを保護の対象より権利の主体と見る、生存権さえ奪われている第三世界の子どもたちを国際協力で守る、などが重要な柱。日本でも、子どもの教育や福祉にかかわってきた人々が、政府に対し、採択後、早期に批准すべきだとして、運動を始めた。(松井やより記者)
     
 日本では学校のいじめや体罰、家庭での幼児虐待、幼女への性暴力など、第三世界では飢えや不就学、児童労働や人身売買など、子どもの人権侵害は世界的に深刻化している。
 子どもの権利条約は、ポーランドが1979年の国際児童年に採択するようその前年に草案を提案したが、以来10年も、国連人権委員会で審議していた。国連児童の権利宣言を条約にして各国政府に対して法的強制力を持たせるのがもともとのねらいだったが、80年代に人権思想が高まる中で、児童の権利宣言にある、子どもは保護されるべきものという見方から、子どもを権利行使の主体と見るように変わった。さらに、開発途上国の子どもの必要にこたえる国際協力の視点が加わった。
 今年3月の人権委でやっとまとまり、今秋の国連総会で採択されることになった条約最終草案は前文と54条から成っている。その内容は、まず第1に子どもの自己決定権を認めていることだ。子どもの意見表明権(12条)、表現、思想、宗教の自由や、プライバシー、マスメディアへのアクセスなどの市民的権利(13−17条)を保障して子ども自身の参加を重視している。
         
 ○管理はならぬ                         
      
 これらの条項によれば、子どもを保護の名目で管理してはならないわけで、生徒の服装やヘアスタイルまで制限する校則や体罰など、日本の学校教育のあり方が問われよう。日の丸、君が代の強制も子どもの意見表明権や思想の自由を侵すことになりかねない。「法改正も必要だが、子どもをただコントロールすればよいというような教師の意識変革も迫られている」と、3年前から条約批准運動をしてきた子どもの人権保障をすすめる各界連絡協議会の谷口公事務局長(日教組教育文化運動部長)はいう。
 「子どもたちから大人は特権にのっかっていると突き上げられるのだから、痛みなしにすまない。政府に批准させる前に大人としての責任を考えるべきだ」と、同協議会が先月末、東京で開いた子どもの権利条約を考えるシンポジウムで太田尭・子どもを守る会会長(日本教育学会会長)も親や教師に問うた。
          
 ○福祉協に小委
 また、教育面だけでなく、児童相談所の措置や家庭裁判所の審判などにも、子どもは自分でまたは代理人を通じて意見を表明する権利があるわけだが、「日本の法律は子どもを当事者として位置づける視点に欠け、子どもに代わる目と質を持つ福祉職員も少なく、福祉施設での子どもの人権侵害が起こるので、関係法の改正が必要だ」と、福田垂穂明治学院大学教授は全国社会福祉協議会内にこのほど、国連子どもの権利条約小委員会を発足させた。
 第2の特色は、子の養育の直接の責任は親や家族にあるとし、国家の役割はそれを援助することとされた点だ(18条)。
 一方、国家は特別な事情の下にある子どもたちの人権を保護する義務があるとしている。親による虐待、放任、搾取からの保護(19条)、家庭環境を奪われた子どもの擁護(20条)、国内、国際養子縁組(21条)、難民の子どもの保護、援助(22条)、障害児の権利(23条)、少数者・先住民の子どもの権利(30条)、性的搾取からの保護(34条)、子どもの誘拐、人身売買禁止(35条)、拷問・死刑の禁止(37条)などだ。
         
 ○難民の子らも
 この中には、日本の国内法が不十分で、改正が必要になりそうなものも少なくない。性的搾取の禁止条項は少女買春や児童ポルノ防止措置を求め、人身売買禁止条項は性産業で働く東南アジア出身の女性にあてはまり、いずれも、現行の児童福祉法や売春防止法では対応できない。少数者・先住民の子どもの独自の文化、言葉の権利は在日韓国・朝鮮人やアイヌにどう保障するかの問題があるし、難民の子どもの保護や家族再会の権利は出入国管理法と矛盾する。



1989年10月10日 朝刊 2社
◆「山中事件」被告の母、名古屋で無実訴え 【名古屋】


 「どうぞ息子を助けて下さい」−。最高裁が死刑判決に疑問を指摘した「山中事件」の差し戻し審が12月に名古屋高裁で始まるのを前に、石川県江沼郡山中町東町1丁目、蒔(まき)絵師霜上則男被告(43)の母美弥子さん(68)が9日、名古屋を訪れ、息子の無実を市民に訴えた。
 「山中事件」は無罪の公算が大きいが、名古屋ではなじみが薄かった。
 美弥子さんは「最高裁の判決で息子はすっかり元気になり、家庭にも笑顔が戻りました。無罪判決を勝ち取るまで頑張ります」とあいさつした。



1989年10月11日 夕刊 1社
◆社長ら殺害の山野静二郎被告、控訴審も死刑 【大阪】


 取引会社の社長と取締役を昭和57年3月、相次いで金属バットで殴り殺して5100万円を奪い、遺体を大阪府豊能郡の山中などに埋めたとして、強盗殺人、死体遺棄罪に問われ1審で死刑判決を受けた箕面市箕面5丁目、元不動産会社社長山野静二郎被告(51)に対する控訴審の判決公判が11日午前、大阪高裁であり、西村清治裁判長は、「死刑には慎重の上にも慎重でなければならないが、本件の場合、犯行は重大で死刑の選択はやむを得ない」と述べ、1審判決を支持し、被告側の控訴を棄却した。
 判決によると、山野被告は、取引先だった不動産業ダイケン企業の芋野守社長(当時39)を殺害して金を奪おうと計画。57年3月21日午後零時すぎ、豊中市内の自分の会社事務所に誘い出し、金属バットで芋野社長の後頭部を殴り、麻縄で首を絞めて窒息死させ、同社長が手付金として持ってきた額面3000万円の小切手1通を奪った。遺体は豊能郡豊能町川尻の山林に運んで埋めた。
 さらに山野被告は、ダイケン企業の高雄慶郎総務部長(当時56)に頼んで小切手を現金化してもらい、同じように金属バットで数回殴って殺し、手付金として持ってきた2100万円を奪い、別荘地内に遺体を埋めた。



1989年10月12日 朝刊 1家
◆アムネスティ・インタナショナルがクリスマスカード販売(ポケット)


 政治囚への公正な裁判や、拷問、死刑の廃止を求める活動などをしている国際的な市民運動組織「アムネスティ・インタナショナル日本支部」が、今年も活動を支えるクリスマスカードを販売する。1984年から毎年カード制作に協力してきた安野光雅さんの作品のほか、今年は故谷内六郎さんのほのぼのとした作品も、遺族の好意で加わった。
 カードは2枚入りセットで400円。安野さんのカードは、日本の冬景色などを描いた作品(Aセット)、サンタクロースや聖夜をデザインしたオリジナルの切り絵(Bセット)など5種類。谷内さんのカードは「お祭りセット」と「お正月セット」の2種類。申し込みは、〒169 東京都新宿区西早稲田2ノ3ノ22、第3山武ビル2階の同支部(電話03−203−1050、水曜は休み)に、まずカタログを請求すること。



1989年10月13日 夕刊 2社
◆身代金の受け渡し指示が映画の手口そっくり 豊橋の少女誘拐


 小林美幸子ちゃんを誘拐して殺害した今回の事件の身代金の受け渡し方法は、列車の窓から目印のピンクの傘に向けて投下させようとするなど、黒沢明監督による映画「天国と地獄」によく似ていた。実際にこの手口をまねた誘拐事件も、昭和40年に新潟市で起きている。
 「天国と地獄」はエド・マクベインの原作を黒沢監督が38年に映画化。走る列車の窓から目印に向けて身代金を投下させる、という意表を突いた方法が話題になった。
 新潟での事件は、新潟市内に住む洋服デザイナー折戸紀代子さん(当時24)が40年1月13日、警察からだという電話で誘い出されて行方不明になり、約1時間後、700万円を要求する電話が自宅にかかった。翌日、男は新潟駅に両親を呼び出し、案内所の電話で柏崎行きの列車に乗るよう指示。「右側の窓をのぞいていろ。窓の外に赤い旗が立っているから、金の包みを落とせ」と要求した。
 発車後まもなく旗が立っていたが、両親は10万円しか持っていなかったため、ためらっているうちに通り過ぎて、受け渡しには失敗した。数時間後、折戸さんの絞殺死体が市内で発見された。警察は、両親が駅に呼び出された段階でこうした手口を全く予想していなかったため、沿線に警官を配備することもできず、一緒に乗車した警官も旗を見逃すという不手際が重なった。
 8日後に逮捕された犯人は被害者の中学生時代の同級生。2年前に見た映画「天国と地獄」をまねた犯行だと自供した。死刑判決が確定したが、52年、独房で自殺している。


1989年10月14日 朝刊 1外
◆ポーランド検事総長、ソ連に捜査要請 カチンの森軍将校大量殺害事件


 【ウィーン13日=大阿久特派員】ポーランドのジタ検事総長は12日、ソ連の検察当局に対し、さきの大戦初期にカチンの森(ソ連・スモレンスク市近郊)でポーランド軍将校が大量に殺害された事件で、関係者の刑事責任を問う捜査を開始するよう求めた。同総長はまた、1945年6月にモスクワで死刑判決を受けたポーランド共産党の幹部9人らの名誉を回復する裁判の開始を要請した。国営PAP通信によると、検事総長の要請は外交ルートを通じて伝達された。
 要請によると、ポーランド軍将校約1万5000人が1939年秋、ナチスドイツとの密約でポーランド東部に侵入したソ連軍によって、現ソ連領コジエルスクなど3カ所に収容された。うち4000余人の遺体が後にカチンの森で発見された。
 真相究明のためソ連、ポーランド合同の調査委員会が出来ているが、あまり進展していない。ポーランド側はすでに、将校殺害がソ連の秘密警察によって行われたことを示す赤十字の証拠文書などを公表。ソ連側の対応の遅さにポーランド国民の不満が高まっていた。今回の検事総長の要請は、ソ連に具体的な行動を促す狙いがある。
 それと同時に、西独のコール首相が来月、ポーランドを訪れることとの関連も指摘されている。ポーランド側はこの機会に、大戦中、ドイツの工場などに動員された人たち(約100万人が生存)への補償などを求める構えだ。西独側は原則的に補償に応じる姿勢だが、ナチスドイツだけでなく、スターリン指導下のソ連にも、ポーランドに対する戦争犯罪の事実があったことを明確にするよう求めているといわれる。



1989年10月14日 朝刊 1社
◆3人殺人の藤井被告、最高裁で死刑確定


 貸金取り立てのもつれなどから暴力団組員らを使って3人を殺したとして殺人などの罪に問われた東京都練馬区旭町2丁目、無職藤井政安(旧姓関口)被告(47)に対する上告審の判決が13日午後、最高裁第3小法廷であった。貞家克己裁判長は死刑を言い渡した1、2審判決を支持して被告側の上告を棄却した。これにより、藤井被告の死刑が確定する。
 藤井被告は昭和61年10月、獄中から文通で知り合った無職の女性(59)と結婚し、改姓していた。



1989年10月15日 朝刊 読書
◆少年犯罪シンドローム 小笠原和彦著(よみもの)


 少年「犯罪」シンドローム 小笠原和彦著
    
 昨年起こった名古屋市のアベック襲撃事件、東京都目黒区の両親、祖母殺害事件、同豊島区のマンション「置き去り」事件のルポ。つっぱりで荒れた中学校では「問題にならなかった子」だった名古屋の事件の主犯格の少年(19)=1審死刑=、「成り行きまかせの母親」に4人の弟妹の世話をまかされていた長男(14)の優しさを問い直す。
 (現代書館・1,650円)



1989年10月16日 朝刊 東京
◆アムネスティが「死刑イヤダ」ウォーカソンを開く 百人が参加 東京


 思想、宗教、人種を理由に不当に捕らわれた「良心の囚人」の釈放、拷問や死刑廃止を訴えているアムネスティ・インタナショナル(本部・ロンドン)日本支部が15日、全国11カ所で「死刑はイヤダ」ウォーカソンを開いた。東京では支部長のイーデス・ハンソンさんを先頭に、都内に住む米国人も加わって100人が隅田川から荒川沿いの7キロを歩いた。
    
 ウォーカソンはウォーク(歩く)とマラソンの合成語。歩きながら活動資金を集め、人権意識の交流を目指すヨーロッパスタイルの運動で今年で6回目になる。
 台東区・隅田公園に集まった会員たちは、「東京ウォーカソン」と書いたゼッケンをつけた。何人かは、6カ国語で「死刑のない世界を」と書いたプラカードも首からぶらさげた。欧米の囚人服のシマ模様のつなぎを着た人もいる。
 今回のウォーカソンに在日外国人7人も初めて参加した。その1人、立教中教諭サム・シールズさん(31)は「大勢の人と知りあえ、参加してよかった」。
 荒川土手で弁当を食べてから「アムネスティ青空塾」を開いた。それぞれが死刑廃止に対する考えを語り合うことで、運動の方向を確かめようという狙い。「どんな形でも人殺しはイヤだ」「犯人を死刑にするより反省の機会を与え、とむらうために生きさせることの方が被害者も浮かばれる」などの意見が出た。
 ゴールの葛飾区・小菅西公園で、参加者たちは米国、ソ連、中国など問題ある死刑囚を拘禁している6カ国へ減刑を求めるはがきをつけたゴム風船を放った。拾った人に「投函(とうかん)してください」というメッセージつきだ。
 ハンソンさんは「一人ひとりの信頼関係が出来たし、新しい外人グループも入ってくれた。一石なん鳥かの1日」と満足そうだった。



1989年10月16日 朝刊 2社
◆素顔の交流(シベリア抑留 40年目の巡礼:6)


 屋台の小店が並ぶ自由市場を抜けて、イルクーツクの裏通りを歩く。佐藤佐曽治(66)は青空市場でブリヤート人から袋いっぱい、松カサを買った。捕虜時代、中の実を食べたことがある。西井安治郎(64)は「女房用だ」と、毛糸のセーターを買い込んだ。
 日曜日。大きなハカリを前に置いて、おばさんが真剣な顔つきで体重測定をしていた。順番待ちの行列に佐藤が並んだ。同行の紅一点、医療担当の中之内優子の観察だと、「アベックの男性の方が女性にはかれ、はかれといっている」。
 「はかり料は3カペイカ(約7円)だよ。シベリアにきて増えた」と佐藤がはしゃぐ。元抑留兵士たちの行動はいかにものびのびしていてはばからない。そんな日本人たちを、ロシア人の笑顔が包んでいる。
                   
 ○互いに飢えていた
 「捕虜時代も確かに民族的差別はなかった」と元抑留兵士たちはいう。「ロシア人は一度こちらを信用すると、とことん信じてしまう」というのが佐藤の実感だ。収容所の黒パンを焼いていた時は、2本ぐらいをわざと落として不良品にし、それを日本兵捕虜に分けた。「毎日やっても疑われなかった」
 「あのころはロシア人も飢えていた」と思う。独ソ戦の戦場になったソ連の傷も深かった。捕虜になって入ソした時、貨物列車の中で戦友が死んだ。目の前に広がったバイカル湖のほとりに埋めた。なけなしの乾パン1袋を供えた。見守っていたロシアの子供たちが、さっと持ち逃げしていった。
 村を回って食糧集めをし、収容所の倉庫へトラックで運ぶ仕事もした。袋に小さな穴を開けて吸い出す、という盗みにしばしば泣かされた。駅近くに止まると、飢えたロシアの流刑囚が窓を破って奪いに来た。
 「ピンハネもあり、1日の規定配給量にはいつも足りなくなった」という。1日黒パン350グラム、雑穀450グラム、野菜800グラムなどの規定通りに配給できれば、飢えはしなかった。食糧集めで泊まった民家の食事も、捕虜たちと変わらなかった。
         
 ○レンガ積みピタリ
 西井の大隊は、帰国集結地のナホトカで「軍隊の階級組織をそのまま温存していて反動的すぎる」と日本人民主グループに批判され、また北方へ追い戻された。コルホーズ(集団農場)の農場や、住宅建築現場で働かされた。山に自生しているコケをフトン代わりにした。栄養失調で次々と死者が出た。
 それでもここで、ロシア人と接触できたのは楽しかった、と語る。「民家に招かれて行ったことがあるが、ボロ家でも小ぎれいに生活しとった。それに、どこの家でも室内禁煙や。火事を出したら死刑になるといってたわ」
 家造りのレンガ積みがうまくいかない。西井が新しい積み方でやったらピタリ決まった。「お前は偉い」とロシア人監督は狂喜した。「もう労働はせずとも指示してればいい」と毎日、たばこを2箱くれた。林隆(71)も、人が10回運ぶ建築石材の運搬を13回やってのけた。
        
 ○忍苦が生きるバネ
 元抑留兵士の話はやはりノルマになる。1日に果たす仕事の基準量だ。スターリン時代の戦災復興計画を達成するために、日本兵捕虜は戦力であり、先兵だったことになる。だから、労働英雄の佐藤は月給200ルーブルをもらって、厚遇された。
 辛酸の一語で表現されるにしても、シベリアでの体験は、各人各様だった。「一面では、60万人の国際交流だった」と、一夜、林と話し合ったことがある。シベリアでの忍苦は、その後の生きるバネになった。同時に、素顔のロシア人を知ることにもなった−−と。
 (敬称略)
 (坂本竜彦記者)



1989年10月17日 朝刊 1社
◆牟礼事件で無実訴え続けている佐藤死刑囚が重体


 昭和25年、土地などを売りに出した女性が東京都三鷹市の牟礼(むれ)で白骨死体となって見つかった「牟礼事件」で、犯人として死刑が確定した後も、無実を叫び続けている佐藤誠死刑囚(81)は16日午前、在監中の仙台拘置支所で突然倒れ、仙台市内の病院に転送されたが、くも膜下出血で意識不明の重体となった。
 佐藤死刑囚は昭和33年に死刑が確定した後も、再審請求を繰り返し、現在も東京高裁に第8次請求をしている。身柄拘束は37年に及んでいる。



1989年10月18日 朝刊 群馬
◆群馬県文学賞に山崎さんら6人 4部門、女性が占める


 1989年度の県文学賞(県文学会議、県教育文化事業団、県教委主催)の受賞者6人が17日の最終選考委員会(関俊治委員長)で決まった。この1年間、県内で特に優れた文学活動(7部門)をした人に贈られるもので、今年度で27回目。評論部門は該当作がなかった。授賞式は11月10日、県庁で行われる。
 受賞者と作品は次のとおり。
 ▼短歌 関口みさ子さん(59)=桐生市広沢町2丁目、主婦=の「100号の画布」▼俳句 塚越秋琴さん(47)=高崎市八千代町2丁目、本名千絵、着付け講師=の「絵そらごと」▼詩 川島完さん(54)=邑楽郡大泉町上小泉、教員=の「トポス」ほか4編▼小説 五月史さん(64)=高崎市双葉町、本名有賀ふさ子、主婦=の「禁断の実」▼随筆(ノンフィクション) 山崎百合子さん(56)=前橋市国領町2丁目、無職=の「死刑囚からの恋歌」▼児童文学 栗原章二さん(40)=伊勢崎市大手町、会社役員=の「菜の花の島」
 選考委員会によると、「100号の画布」は日常生活の中の心の動きを淡々とした叙情でうたいあげた。「絵そらごと」は女の情念の世界を小説風のタッチで描いた。「トポス」は多彩な詩語とイメージで洗練された叙情詩。豊かな詩の表現を楽しませる。「禁断の実」は麻薬中毒の医師の生と死、見守る妻の悲惨な心情をリアルに描いた。「死刑囚からの恋歌」は死刑囚と俳人の交流を、死刑囚の書簡をもとにして書かれたノンフィクション。「菜の花の島」は江戸末期、漂流中に外国船に拾われた青年が、やがて故郷ににしきを飾る一代記。



1989年10月21日 朝刊 2外
◆売春根絶へ死刑含む厳罰 北京市条例案


 【北京20日=斧特派員】中国の首都、北京市でも、いよいよ売春禁止条例がつくられることになった。同市の人民代表大会常務委員会、いわば市議会常任委に条例草案が提出され、19日に審議を始めたばかりだが、売春根絶のために死刑を含む厳罰で対処しようというもので、このごろの空気を反映して、ほぼ草案通りの条例が制定されることになろう。北京で、こうした売春禁止を目的とした法規づくりが話題になるのは、建国以来はじめて。
 条例案には、北京で売春にかかわった外国人の処罰のほか、性病をうつしたり、うつされたりした外国人を強制国外退去とする規定も盛り込まれている。



1989年10月21日 朝刊 2社
◆罪と罰 「異常さ」どう見るか(検証・宮崎事件・起訴:下)


 被告には異常な行動が多々あり、正式な精神鑑定を請求することになろう、とする弁護側。「異常な行動をした、という供述は詐病(偽りの病気)にすぎない」と検察側。宮崎勤被告(27)の「前例のない犯罪」をめぐる法廷での争点は、早くも「異常さ」をどう見るかに絞られつつある。
           
 ○精神状態も視点に
 刑法39条は、心神喪失者の行為は罰せず、心神耗弱者の行為は刑を軽減する、と定めている。「宮崎事件」では、幼女4人の誘拐・殺害についての物証は豊富だと見られる。だが、犯行時の宮崎が、罪を問えない、あるいは罰を軽減せねばならない精神状態だったとしたら……。
 捜査員に対し、宮崎は次のように語ったとされる。
 「ボクの手が不自由なことを、特に女性はバカにしている。小さい女の子もやがてはそういう性悪な女に成長するんだ」
 「田舎から都会の高校に行ったのでいじめられ、わざと試験で零点を取った。そのころからビデオにのめり込んだ」
 そして、昨年6月に彼をかわいがってくれた祖父が死んだ。その時の大きなショックが、今回の事件の背後にあったとも語っている。
 宮崎は祖父の死後、犬をいじめたり、鳥を殺して羽をむしったりしたという。「祖父の霊を呼び戻したいという衝動にかられ」、幼女を殺害した後に、祖父の霊との対話を試みる儀式をやったこともある、とも。
           
 ○「計画的」と検察側
 こうした「異様な行動」について、検察側は「手の不自由さや祖父の死を強調するのも、罪を軽くするための理由付け」とみて、犯行の動機について次のように説明する。
 宮崎は、大人の女性と親しい関係を持ちたいという衝動があったが、それが自分の力ではできないので、幼い女の子をねらった。かわいい子を見つけるとしつこくチャンスをうかがって誘いだし、突然襲って殺した。そして、いたずらし、ビデオで撮るなどの方法で「保存」し、ばれないように隠した。極めて計画的で、犯行の基盤には強い性衝動がある。幼女を性的欲求の対象にするなど性格異常的なところはあるが、責任能力を否定する理由も材料もない……。
 刑事事件における責任能力をめぐって、精神科医の間では論争がある。精神分裂病や内因性うつ病については能力なしとされるが、症状が初期のものや治りかけているものを含めるかどうか、あるいは犯行の動機によって、能力の有無の判断が分かれている。
 検察側は「分裂病や内因性うつ病の論争以前のレベル」とし、宮崎は心身喪失、耗弱ではない、と主張。弁護側が請求すると予想される鑑定医師が「責任能力なし」とした場合は、鑑定人尋問と別の医師の鑑定を請求して対応する構えだ。
 ある検察幹部は「本人が刑罰を科せられて、ペナルティーを感じることができる以上、責任能力があるといえる。最後は常識的判断だ」という。
          
 ○死刑の求刑必至
 こうした判断に立って、検察側は裁判の最終段階で宮崎に死刑を求刑することは必至、と見られている。それだけに、弁護側も国選ながら、同事件を特別案件として複数の弁護士が付くことになりそうだ。
 弁護団の代表には、「連続企業爆破事件」などを手がけた鈴木淳二弁護士(第2東京弁護士会)がなる見込みで、宮崎の責任能力を問うとともに、このような事件を生んだ社会的責任まで掘りさげる方針のようだ。
 東京地検は来月中にも、宮崎の供述調書などの証拠開示を行う予定だが、弁護側の準備もあり、初公判は来年になりそうだ。



1989年10月23日 夕刊 1社
◆パンダの毛皮取引で農民を処刑 中国


 【北京23日=田村特派員】珍獣パンダの毛皮を売った罪を問われ、中国・福建省の農民1人がこのほど、広州市で処刑された。仲間の2人も死刑を宣告されて執行猶予となったり15年の懲役刑の判決を受けた。
 21日付の法制日報によると、処刑されたのは福建省東山県の農民、何桂武被告。何は仲間の四川や広東の農民と共に、86年12月から翌年7月までに、パンダの生息地の四川省で6枚の毛皮を買いつけ、広東や福建などで売りさばいた。このうち何は自分で4枚を売り、5万6000元(1元は約38円)をかせぎ、死刑執行猶予の農民は2枚で2万元、懲役刑の農民は紹介料として5000元を入手した。労働者の月給が200元足らずの下では大変な暴利だ。



1989年10月24日 夕刊 1総
◆八海事件、最高裁で無罪判決 英の詩人チョーサ没(あすは)


 映画『真昼の暗黒』は、死刑の判決を受けた無実の被告の悲痛な叫びを残して終わる。「おかあさーん……、最高裁がまだあるんだ」と。その訴え通り、昭和43年10月25日、死刑の原判決が最高裁で無罪になった初の裁判、山口・八海事件の判決。裁判は都合7回、17年ぶりの無罪確定。当日の夕刊に「3度目の正直という。7度目は何というか」。▼「英詩の父」と呼ばれる詩人、『カンタベリー物語』のチョーサー、1400年この日没。



1989年10月24日 夕刊 1社
◆鳥栖の隣家3人殺しの大石、2審も死刑 福岡高裁 【西部】


 隣家の親子3人を次々と包丁で刺し殺したとして、1審で死刑判決を受けた佐賀県鳥栖市水屋町、元会社員大石国勝被告(44)の控訴に対する判決公判が24日、福岡高裁刑事1部(丸山明裁判長)で開かれた。判決は「被告は軽度の精神障害者で、衝動的な犯行だが、心神喪失や心神耗弱状態だったとは認められず、3人の人命を次々と奪った責任の重大性を考えると極刑も誠にやむを得ない」と、1審の死刑判決を支持し、被告の控訴を棄却した。被告弁護側は上告を検討している。
 判決によると、大石被告は自宅の水道金具を盗まれたと思い込み、会社を休んで2日間にわたり犯人を探し回り、1983年5月16日夕、向かいの会社員高輪清治さん(当時38)宅を訪ね、長男の賢規(まさのり)君(同13)が、なくなった水道金具を知らないかどうか確認するよう清治さんに求めた。賢規君が否定し、清治さんと口論になったため、自宅から包丁を持ち出して再訪。もみ合いになって清治さんを刺し殺した。止めに入った清治さんの妻ヒロ子さん(同36)も同様に殺し、賢規君を屋外まで追いかけ、刺し殺した。
 高裁判決は被告の精神状態について、「池田鑑定は妄想、体感異常などの典型症状について一般よりも拡張解釈しており採用できない。被告は軽度の精神障害者に匹敵する是非弁別能力を持っていた」と指摘。自白調書の任意性、信用性を認めたうえで「被告には改悛(かいしゅん)の情もなく刑事責任は大きい。死刑の重大性を考えても、1審判決が極刑に処したのはやむを得ない」などと判断した。



1989年10月25日 夕刊 2総
◆「国家による殺人」は数万人 アムネスティの89年次報告


 【ロンドン25日=竹内(敬)特派員】国際人権擁護組織のアムネスティ・インタナショナル(本部・ロンドン)は25日、世界で発生している人権抑圧の実態をまとめた1989年の年次報告を発表した。正式な裁判によらない殺人を「国家による殺人」として焦点をあて「数万人が国家の権力の代行者によって不法に殺されている」と強く告発している。
 報告は「大量殺人、暗殺など違法殺人は、少なくとも20以上の国で行われ、囚人に対する拷問や劣悪な待遇は世界の半数以上、囚人の合法的な死刑は35カ国で執行された」と指摘した。



1989年10月25日 朝刊 1外
◆警官死亡事件で学生に無期 韓国


 【ソウル24日=波佐場特派員】韓国・釜山の東義大で5月3日、学生と警官隊が衝突、学生の放火で警官6人が死亡した事件の判決公判が24日、釜山地裁であり、学生会の幹部1人に無期懲役、3人に懲役15年が言い渡された。検察は幹部学生3人に死刑を求刑していた。



1989年10月26日 夕刊 文化
◆ノーベル文学賞(視点89)


 難題抱えたまま“お祭り”化 政治・言語・客観的評価が壁
      
 本年度のノーベル文学賞が決まった。日本人作家は今回も受賞しなかった。いま、ノーベル文学賞は様々な難題を抱えている。この機会に外国文学研究者の意見を聞いてみた。
 難題とは3点にまとめられる。第1は「政治と文学」の問題。第2は「言語の問題」。第3は「文学の評価」の問題である。
 「政治と文学」の問題−−。ロシア文学者江川卓氏は東側(ソ連、東欧)の場合の受賞には「政治的配慮」が強いと見る。反政府・反体制的な作家の受賞が多い。もちろん、文学としては優れているが……と江川氏。87年のソ連の亡命詩人ブロツキー氏、84年チェコ反体制詩人サイフェルト氏。木村浩氏はノーベル文学賞は“反ソ的”といわれるが、パステルナーク、ソルジェニーツィンの受賞は「文学的価値」からみて正当だという。だが1901年文学賞が出来て、生存中のトルストイもチェーホフも受賞せず、ソ連で最初の受賞者が1933年のブーニンという評価は不思議だともいう。
 その時の国際情勢に文学賞は左右されやすく、地域別、国別でバランスをとるように毎年振り分けているとフランス文学者の巌谷国士氏も菅野昭正氏も指摘している。今年のスペイン人作家受賞は、92年のEC統合にむけてヨーロッパ周辺部の結束のためのメッセージだとの深読みも出来ると巌谷氏はいう。
 アメリカ文学者佐伯彰一氏は本年の争点は、ホメイニから死刑宣告を受けた「悪魔の詩」の作家・ラシュディ氏だったのではないか、彼が受賞すると思っていたという。選考委員会のスウェーデン王立アカデミーがイラン政府に言論弾圧で抗議するかどうかの問題で内部が分裂した。
 80年代になって西欧偏向の受賞を是正し、アラブ初のマフフーズ氏(エジプト)、アフリカ初のショインカ氏(ナイジェリア)受賞にも国際的文学賞としての政治的配慮が働いていた。だが、アジアはまだ2人(タゴール、川端康成)というのは、選考委員たちのアジア文学への関心の薄さの表れか。
 第2の「言語の問題」−−。評論家加藤周一氏は、スウェーデン語はもちろん、英、独、仏語の翻訳がない場合は決定的に不利と見る。アジア、アフリカ、アラブの場合も、英語で書くか、良い翻訳があった方が有利。加藤氏は、西欧中心の賞でまだ世界文学賞にはなってないともいう。とくに詩歌の場合は西欧中心はやむを得ず、アジアや日本の短歌、俳句は無理だと木村浩氏も見る。
 第3は「文学の評価」−−。ドイツ文学者池内紀氏は、世界で現在生存している作家を評価し賞を与えるのは滑稽(こっけい)だという。文学はその作家の生きる過程と結びついている。だから価値判断は、国によっても個人によっても尺度がちがうから評価は無理と池内氏。菅野氏もノーベル文学賞は人類の平和への貢献などといった「健全な文学」が好まれ、デカダンスは嫌われるのではないかと指摘する。フランスのクロード・シモン氏(85年)は、ヌーボーロマンという前衛だったが、その文学の根底にヒューマニズムがあったからロブグリエなどよりも好まれたのではないかという。
 「文学の評価」には当然に選考委員の“好み”が入る。英文学者小野寺健氏は、英国の大作家グレアム・グリーンが受賞できないのは選考委員の中にグリーン嫌いがいるためだという。シモン氏の受賞は委員の中に熱烈なファンがいたからだと菅野氏。評論家川本三郎氏はトルーマン・カポーティがその「対話」で「ノーベル賞はジョークにすぎない。E・M・フォースター、プルースト、ディネーセンみなノーベル賞を欲しがっていたのに、パールバックやゴールディングが受賞したのは今世紀の最大のジョークだ」といっている例をひき、現代文学評価の難しさを指摘している。
 以上のような難題は、国内の文学賞にもいくつかはあてはまる。だが国際的文学賞がほとんどない現在、マスコミの発達も伴って“お祭り”イベントとしてノーベル文学賞が大騒ぎになってきたのは当然と小野寺氏は見る。佐伯氏も、ノーベル文学賞に難くせをつけるより、お祭りとして楽しむことだという。日本であまり知られない外国人の作家(例えばカネッティ)が受賞によって脚光をあびるという利点もある。ただ、敗戦後の自信喪失の時期、物理学者湯川秀樹のノーベル賞受賞が強烈であった後遺症のためか、日本人は受賞作家を“神格化”する傾向がある点を批判する声もあった。
 (西島建男記者)



1989年10月26日 朝刊 1社
◆飯田の無期が確定 3人殺害、藤井の共犯


 13日の最高裁判決で1、2審の死刑が維持され、確定する無職藤井(旧姓関口)政安被告の共犯として殺人などの罪に問われた東京都葛飾区高砂4丁目、無職飯田博久被告(42)に対する上告審で、最高裁第3小法廷(貞家克己裁判長)は25日までに、1審の死刑を減刑して無期懲役とした2審判決を支持し、飯田被告の上告を棄却する決定をした。これで刑が確定する。
 1、2審判決によると、飯田被告は藤井被告に頼まれ、暴力団員らとともに昭和46年から48年にかけて、会社社長ら3人を殺した。



1989年10月27日 夕刊 1社会
◆牟礼事件の佐藤誠死刑囚が病死 拘束37年、8回の再審請求


 昭和25年4月、土地や家屋を売りに出した女性が行方不明になり、東京都三鷹市の牟礼(むれ)で白骨死体となって見つかった「牟礼事件」の死刑確定囚佐藤誠(81)は在監中の仙台拘置支所で突然倒れ、仙台市内の仙台市立病院に入院していたが、くも膜下出血のため27日午前8時8分死亡した。佐藤は昭和27年の逮捕以来、昭和33年に死刑が確定しても、一貫して無実を訴え続け、東京高裁に第8次再審を請求中だった。死刑囚の獄中死は昭和62年5月、95歳で死亡した「帝銀事件」の平沢貞通に続いて2人目。
 
 宮城刑務所などの話では、佐藤は、高血圧や狭心症などで心臓が弱っていた。16日、朝から「気分がすぐれない」などとして、朝食も取らず横になって休んでいたが、午前11時過ぎ、用を足そうとして立ち上がった途端、仰向けに倒れ、同支所の医師に見せたところ、すでに意識はなかった。脳卒中の疑いがあったため、同日午後1時すぎ、仙台市立病院に入院。くも膜下出血と診断され集中的な治療を受けていた。
 牟礼事件では、佐藤と知人のA被告の2人が、強盗殺人などの罪に問われた。佐藤は被害者の不動産売却を手伝ったことは認めたものの、殺害については捜査、公判を通じて一貫して犯行を否認した。1審東京地裁は、昭和29年10月、佐藤を主犯として死刑、Aには懲役10年の判決を言い渡した。佐藤だけが控訴したが、東京高裁は控訴を棄却。上告審の最高裁も昭和33年8月の判決で佐藤の上告を棄却し、死刑が確定した。
 確定判決によると、佐藤は知人のAと共謀し、昭和25年4月13日、渋谷区に住んでいた元デパート店員祝田玉恵さん(当時21)を「買った家の代金を払う」といって三鷹市牟礼町(当時)の神社付近におびき出して絞め殺し、祝田さんの土地建物の権利書を奪った。
 死刑確定後、佐藤と弁護団は「冤罪」を主張して35年2月、東京地裁に最初の再審請求を行った。以来、再審請求を繰り返し、現在、第8次の再審請求中だった。
 弁護側は(1)被害者の頭がい骨に大きな傷がある(2)ブラジャーに血痕らしいものが付いている、の2点を指摘。有罪の決め手となった「被害者を手で絞め殺した」とするAの自供と食い違うので、Aの供述は信用出来ない、と主張している。昨年4月、東京地裁は「無罪を言い渡すべき明らかな証拠がない」などとして請求を棄却する決定をした。これに対して佐藤側が東京高裁に即時抗告していた。
 今年5月、佐藤は周囲に説得され、いったん宮城刑務所長あてに特赦(有罪判決を無効にする)と、特別減刑の恩赦願を提出したが、7月までに「無罪判決を信じて最後まで闘いたい」と取り下げた。今月で、逮捕からの身柄拘束はすでに37年に及んでいた。
 歌人としても知られ、短歌誌「スズラン」を主宰。今年7月には福島県相馬市の特別養護老人ホーム「相馬ホーム」で療養している短歌誌同人の滝田アキノさん(82)と獄中結婚した。
 
 
 ○意識回復せず息ひきとる
 宮城刑務所では27日午前10時55分から、内海弘利総務部長と前田孝良仙台拘置支所長が「これは会見ではなく、情報提供です」と前置きをして、報道陣に佐藤の様子などについて話した。
 それによると、27日午前2時ごろから血圧が下がりはじめ、亡くなったときは、医師がみとり、遺族は立ち会わなかった。16日に拘置支所内で倒れてから亡くなるまで、1度も意識は回復しなかった。息をひきとる際も、苦しんでいる様子はなかったという。
 27日午前9時に遺体が着いた刑務所では、監獄法令に基づいて検視をした。佐藤死刑囚は、遺骨の形で遺族のもとへ帰ることになるという。
 
 
 ○「無実の訴え私が」 妻アキノさん連絡うけ決意
 佐藤と今年7月26日に獄中結婚し、福島県相馬市の特別養護老人ホーム「相馬ホーム」で療養中のアキノさんは、27日午前9時5分ごろ、仙台拘置支所長から直接電話で、「佐藤さんは今朝8時8分に亡くなりました」と連絡を受けた。
 自室のベッドで休んでいたアキノさんは「悲しんではいられない。自分がしっかりして、無実を訴えるために闘わなくては」と、考えたという。入院前は、佐藤からひんぱんに手紙が届いており、9月29日に受け取った分には「目が痛くて文字が書けない。食欲もなく、10日間で体重が5キロも減った」と走り書きされていた。
 アキノさんは、佐藤が入院した翌日の17日、仙台市立病院に見舞ったのが、佐藤との最後だった。「告別式には出たい」と希望しているが、外出前には血圧測定などの手続きが必要なため、病院側の付き添いで仙台に来るのは明日以降という。
 また、アキノさんは佐藤と話し合い、再審請求を受け継いでくれる人との養子縁組を希望していたが、養女になる人は東京に住む主婦とほぼ決まっており、近いうちに正式に手続きするという。
 
 ●再審になって当然
 牟礼事件の裁判に詳しい大出良知・静岡大助教授(刑事訴訟法)の話 佐藤さんのケースは再審開始になってしかるべきだった。被告人に有利になる可能性があった証拠を裁判所が処分してしまったなどの経過から、死刑の確定判決には重大な疑問が残っていたからだ。最高裁が白鳥決定で再審の要件を緩和したにもかかわらず、実際の運用面で生かされなかったことを示したといえる。
 
 ●署名続けたのに…
 宮城県牟礼事件佐藤誠さんを守る会会長、東北学院大助教授、川端純四郎さん(55)の話 元気なうちに再審請求を実現させようと、街頭で署名運動を続けて来たのだが。無実を証明できなくて残念です。



1989年10月28日 朝刊 5面
◆東高教の死刑罰廃止決議に拍手(声・VOICE)


 スイス グループ12(アムネスティ・インタナショナル)
 人権擁護と非人間的な死刑制度の廃止を訴えるアムネスティ・インタナショナルのスイス支部は、東京都高等学校教職員組合(東高教)が6月の第59回定期大会で、日本における死刑罰の廃止要求を6割を超える多数決で決議したことを知り、大変、喜んでいます。
 決議文には「……死刑は人間を人間として扱わない差別の究極の形です。私たちは教育労働者として、死刑廃止をめざし、すべての人が人間としてお互いに尊重し合える社会の実現に向けて……」とあり、私たちも全く同感です。
 この決議が、日本における死刑廃止を支援する他の関係者や団体を勇気づけてくれるよう願っています。



1989年10月29日 朝刊 1外
◆英の新外相に就任したダクラス・ハード氏(ニュースの顔)


 ヒース人脈 柔軟路線派
         
 今では保守党内少数派になった柔軟路線派「ソフト」の1人。毛並みはいい。祖父から3代下院議員を続ける政治家の家系で、イートン校、ケンブリッジ大学と進んだ。外交官の道を選び、北京、国連、ローマ大使館など日の当たるポストを歩いた後、1968年、政界に転じた。
 当時保守党指導者だったヒース元首相の政治秘書になり、ヒース氏が首相就任後は側近として外交政策に深く関与した。74年に下院議員当選、保守党外交政策のスポークスマンを務め、84年に北アイルランド担当相に就任。85年から内相、移民問題などに取り組んできた。
 ベテラン政治家の部類に入るが、サッチャー政権下では重用されなかった。サッチャー批判を公然と続けるヒース氏につながる人脈、とみられてきたからだ。にもかかわらず今回外相に据えられたのは、外交政策に通じたキャリアが買われ、軽量化が指摘される内閣にある程度の重しが必要だったこと、総選挙に向けソフトムードの政治スタイルが必要になっているため、などと受けとめられている。
 サッチャー首相との肌合いのちがいが心配されている。死刑廃止論者、人権尊重を強調するリベラリストの側面を持つ。外相と首相との政治哲学のちがいが閣内に不協和音を起こすことが、一方で懸念され、他陣営からは「期待」されている。
 外相としての当面の課題は香港問題。中国との関係正常化に国際通としての蓄積を生かすことが期待されている。
 政務のかたわら、小説も書く。ジュディ夫人とは再婚。前妻との子を含め4歳の女の子を末に4男1女の父親。59歳。(ロンドン=山田特派員)