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死刑関連ニュース1989年 朝日新聞(9月)



1989年9月1日 朝刊 2外
◆イランでも“麻薬戦争” 7カ月で約900人処刑


 【テヘラン31日=村上特派員】南米コロンビアをはじめ、麻薬業者退治や麻薬常習者対策が世界各国で問題になっているが、密輸ルートとなり常用者も多いイランでは、麻薬取引業者らを、この7カ月で約900人処刑するという厳しさで臨んでいる。最近では常習者も犯罪者とみなして逮捕している。
 イランでは、アフガニスタン、パキスタンと国境を接する地帯を、麻薬の産地として世界的に有名なミャンマー(ビルマ)、タイなどの国境地域になぞらえて「黄金の三角地帯」と呼ぶ。イランは、ここから流入する麻薬がトルコ経由で欧州へ運ばれるルートになるだけではなく、大量の消費地にもなっている。革命委員会によると、麻薬常用者は約100万人と見られ、大きな社会問題として今年から取り締まりが強化された。
 1月21日に発効した法律は、アヘン5キロ以上、ヘロインなど毒性の強い麻薬なら30グラム以上を製造、密輸または不法所持していれば死刑、というもの。
 キューバでは将軍が麻薬取引の容疑で処刑され、マレーシアではヘロイン所持の英国人が英女王の嘆願にもかかわらず処刑されて話題になったが、イランでは多い日は70人あるいは50人と処刑する激しさだ。
 大量処刑に対し、国際アムネスティや西欧諸国から非難の声がわき、政治犯をいっしょに処刑しているとか、裁判なしに執行しているとかの批判が出た。
 これに対し取締本部のカランタリ本部長はこのほど記者会見し、「処刑者の全ファイルがあり、政治犯がいないことは証明できるし、もちろん裁判もやっている。それに、麻薬業者は革命委の取締官の家族を殺したりしている」と反論。新聞も、「死の商人」は非難しないでその処刑を批判する西側の論調を「偽善だ」と攻撃し当局を応援している。
 革命委は重症中毒患者も犯罪者だとし、この1カ月余りで1万7000人を逮捕、労働キャンプやリハビリ施設に送った。そこでは花の栽培やじゅうたん織りなどをさせており、麻薬業者に対するほど激しくはないようだ。



1989年9月1日 朝刊 2社
◆国境なき病(子どもが狙われている 幼女連続誘拐殺人:4)


 「捕まえてくれて、ありがとう。自分では、もう止められなかったんだ」−−死刑執行の直前、男は、テープレコーダーにこう言い残した。
 昨年6月、米国ユタ州に住む経理マン、アーサー・ビショップ(37)は、自宅近くの4歳から13歳までの5人の男の子を誘拐して殺した罪で、処刑された。
 「小さい子供のそばによると、体が震えてきて、そして勝手に自分が動いてしまうんだ」
 キャンディーやカネで誘っては子供たちを自宅に連れ込んだ。裸にして写真も撮った。アーサーは死刑判決の後、地元で開かれたポルノに関する学会に、メッセージを送っている。
 「ポルノこそが、私を破滅させた。もしポルノがなければ、私の性的な行動はこんなにもひどくならなかった」
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 おなじユタ州の大学で法律を学んだテッド・バーニー(42)は、12歳の子供を含む20人の女性殺害を自白して、今年1月に電気イスに送られた。
 彼も死の直前「すべては、ポルノに駆り立てられた夢のような世界の出来事だった」と告白している。
 8月14日に少年誘拐で逮捕されたディーン・アンベイ(34)は、パソコン通信で知り合った28歳の男と子供を誘拐して、実際に殺害する場面も含む「スナッフ(死の)フィルム」作りを計画した。
 「殺しのフィルムを作りたいんだ。子供の首を絞めて、つるしてやりたいんだ。こりゃ面白いぞ」。わいせつ情報を交換しているパソコン通信ネットの異常な内容に捜査員の1人が気付いたのがきっかけで、子供を1万2000ドル(約170万円)で買おうとしたところを、おとり捜査で捕まった。
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 子供の受難はヨーロッパでも深刻だ。フランスでは、今年2月に3歳の女の子が西ドイツに近いメッス市でいたずらされた上、のどをかき切られて殺された。犯人はまだ分からない。
 子供を対象とした売春組織も問題となっている。子供は、貧民街の出身者などが多いが、最近ではラテンアメリカなどからも連れてこられるという。国会でも大きな問題になり、政府は「子供の売春組織は存在しない」と公式には否定しているが、大衆紙は最近再び、関係者の証言をもとに組織の存在を報じた。
 子供たちをどう守るかは、先進各国で緊急の課題になりつつある。
 10年ほど前から社会問題化してきた米国では、1984年に「児童保護法」が制定され、子供が登場するポルノ作品の販売が禁止された。国会には「チャイルド・ポルノと小児性愛に関する調査委員会」が設けられ、次々と報告書を出している。厚生省には「子供の虐待と放任に関するナショナルセンター」が置かれて、全米規模での徹底した調査活動が繰り返されている。
 多くの殺人、強かんなどの犯人自らが、かつての性的虐待の被害者だったとする調査結果も出された。それをもとに、最近では被害にあった子供たちに対するアフタケアの重要性が指摘され、自治体レベルでカウンセリングが進められている。
 一方、フランスでは毎年100人以上の子供が殺され、5万人の児童が虐待されているという実態に、去年から政府が9月に「子供を性的暴力から守る日」を定めて、テレビなどを通じてキャンペーンを始めた。それを契機に、死刑復活論議まで巻き起こっている。
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 小児性愛は、時代を超えて存在してきた。それが不可解とも言うべき暴力、残虐さと結びついたところに、現代の「文明の病」がのぞく。ビデオに彩られた「宮崎勤の犯罪」は、欧米社会が直面する困難な状況が、海の向こうの問題ではないことを教えているようだ。



1989年9月2日 朝刊 解説
◆埼玉・東京の幼女連続誘拐殺人 記者座談会


 幼女連続誘拐殺人事件の容疑者、宮崎勤(27)は2日、まず東京都江東区の野本綾子ちゃん事件で起訴される。その後、埼玉県入間市の今野真理ちゃん事件で再逮捕され、飯能市の吉沢正美ちゃん事件、川越市の難波絵梨香ちゃん事件と、埼玉県内の3事件について埼玉県警の追及を受ける見通しだ。幼女を殺して遺体を「所有物」のように扱い、その様子を写真やビデオにおさめた宮崎の行動は、事実が明らかになるにつれて、世の親たち、同世代の若者、さらにベテラン捜査員たちにまで大きな衝撃を与え続けた。捜査上は全面解決までに、残された課題がまだ多い。また、事件の特異性から、取材、報道の過程でマスコミと捜査機関、事件関係者の間に溝も生じた。事件現場の取材に当たった記者たちが「中間報告」の形で話し合った。
    
 ●宮崎という男 乏しい犯罪の自覚 虚実をない交ぜて供述
 −−警視庁が綾子ちゃん誘拐殺人事件で宮崎を逮捕して、20日間が過ぎたわけだが、犯罪史上、極めてまれな事件を起こした宮崎という男は、プロの捜査員たちにはどんな人間に映っているのだろう。
 E 逮捕前は遺留品の捜査などから、高度なOA機器を容易に扱いこなせる犯人像が浮かんでいた。宮崎逮捕の知らせを聞いたある捜査幹部は「こんな単純なわいせつ男が犯人だとは」と、ぼうぜんとした表情だった。
 B 逮捕から10日たったころ、ある幹部がもらしたひと言が忘れられない。「宮崎はいま、彼の人生で最良の時を過ごしているはずだ」というんだ。取調官は何時間でも話に耳を傾けてくれる。世間は自分に注目している。「彼は10年分を一気にしゃべる調子で供述してるよ」ともいっていた。
 D 宮崎の方も、この20日間余り、毎朝6時に起きて30分間も体操で体をほぐし、朝食の食パン4枚を食べてから取調室に向かった。夜も、うなされることなく、熟睡していたという。
 A ただ、彼のおしゃべりな供述には、現実とビデオで見た虚構の世界が、かなり入り交じっていたというね。「マスコミが知ったら、びっくりして大騒ぎするような供述もした」と捜査員がいうくらいだ。虚実ないまぜの話から、事実の部分だけ拾い出すのが苦労のようだ。
 C それと、案外なしたたかさ。宮崎は細かな部分で供述をクルクル変えながら「手が不自由なことを綾子ちゃんが笑ったので、カッとなって殺した」というくだりだけは、かなりの間主張し続けた。障害を動機に結びつけることで、わずかでも自分の行為を正当化しよう、という打算を捜査側は感じた、というね。
 D 東京地検の幹部の1人は、宮崎の身柄の送検を受けたあと「ふつう、殺人にはそれなりに納得できる理由があるものだが、この事件では見当たらない」と、あきれていた。
 F 異常性格者が女性を監禁する映画の「コレクター」を思い出す、という人もいた。
 A 最も奇妙なのは、おぞましい罪をおかしたという自覚に乏しいことだろう。一般に、殺人事件の被疑者は犯行を認める時は取り乱すものだ。殺害の様子を尋問すると、半狂乱になることが多い。それなのに、宮崎は4件を自供する時に、ちょっと青ざめた程度だという。
 B 8月21日、たまたま右翼団体が拘置場所の深川署へ押しかけてきて「死刑だ」と拡声機で叫んだ時も、宮崎は昼休みで留置場で横になっていたが、何の反応も見せなかったという。感情の起伏があまりにも少ないので、ベテラン捜査員も驚いていたくらいだ。
 C 簡易鑑定の結果は、責任能力はあり、起訴できるというものだった。取り調べをした係官は、ちゃんと否定する所は否定するし、受け答えもちゃんとする、精神的に異常さは感じさせない、といっているらしい。
 A それに、自分の家族のことは「あの狭い町で……」と心配しているらしい。ところが、自分が手にかけた女の子たちの家族のことはあまり気にしていないという。取調官も「精神的に異常ではないだろうが、何かバランスがとれていない」と感じているようだ。            
     
                         
 ●交運な逮捕 大きかった市民の協力 保たれた捜査陣の威信
 −−宮崎が八王子市郊外で一般人に捕まったのは幸運だったが、あの時点で逮捕されていなくても宮崎はいずれ捕まったのだろうか。
 E 埼玉県警の捜査幹部は「宮崎は捜査の大きな網の中にはおり、いずれ近いうちにたどりつけた」と言っていた。犯行声明などから割り出したコピー機の顧客名簿や印刷業者名簿に宮崎方が含まれていたからだ。捜査の大まかな方向づけは間違っていなかったようだ。
 F その一方で「宮崎を捕まえた少女の父親が仏心でも出して見逃していたら、未解決のまま終わっていたかもしれない」といった幹部もいる。
 E 宮崎が綾子ちゃん殺害を自供した日、埼玉県警の捜査幹部は「あーあ」とため息をついて、机に上半身を投げ出した。「自分たちの手であげたかった」という悔しさがにじみ出ていた。埼玉県警としては、4件の事件のうち3件をかかえていただけに、警視庁管内で宮崎が逮捕されたことに複雑な思いがあっただろう。
 F 別の捜査当局幹部は「ひょうたんからコマみたいな解決だね」と言いながらも、ホッとした様子だった。捕まるまでは「おれの顔を見ろ。いいことあった顔かよ」と、ぶっきらぼうだったのに。
 B 捜査当局は、宮崎を取り押さえてくれた八王子市の会社員に心の底から感謝している。綾子ちゃん事件については手掛かりがまったくない状態だったからね。「もし、宮崎が遺体を埋めてしまい、犯行声明も出さなければ永久に解決しなかったかもしれん」とさえ述懐する捜査幹部もいた。
 A 宮崎が逮捕される前は、グリコ・森永事件や朝日新聞社襲撃事件などの重要事件が未解決のままとなり、各地で警察官の不祥事も相次いで、警察への不信感が高まっていた。宮崎逮捕で、ひとまず警察の威信は保たれた感がある。しかし、最初に宮崎を捕まえたのは市民だから、「ちょっと面はゆい」というのが本音だろう。
 D 宮崎を逮捕してみて、警視庁がびっくりしたのは、あれほど大掛かりな聞き込み捜査をしたのに、宮崎に直結する目撃情報がまるでなかったことだ。宮崎は堂々と公園のベンチで幼女を物色していたのにね。
 B 調べた数はものすごかった。団地の住民と転出者の計1036世帯、住民と近所の事務所などの車2608台、犯行日に貸し出されたレンタカー1万6771台、モテルを利用した車503台、犯行後5日間の全交通事故3647件……。こんなに調べても、宮崎本人やラングレーの目撃情報はなかった。
 C 綾子ちゃん事件が起こるまで、警視庁は埼玉県警の依頼で、目撃証言によるホンダ・プレリュード捜査をしていた。しかし、車種が違った。脱輪現場の目撃証言に基づくトヨタ・カローラ2捜査は埼玉県警が極秘で進めたが、これも外れ。「目撃証言を吟味するのは難しいものだな」というのが、多くの捜査員の実感だ。車種が増え、モデルチェンジもひんぱんになって、車両捜査はますます困難になっている。この事件の反省点の1つだね。
 A 結局、「性衝動による犯罪は必ず繰り返される」と読んで全署に出した「幼女対象の事件は報告せよ」の警視庁刑事部長通達が奏功したと言えるだろう。
 C 金沢昭雄警察庁長官は8月17日、国家公安委員会に検挙報告をした後の記者会見で「(埼玉県警や警視庁が)これまでやってきた捜査の延長で宮崎に行きついたとしても、(その間の)時間的なことを考え合わせると本当によかった。その間にまた事件を起こされたりしたら大変なことだ。国民の協力と捜査の成果ですよ」と、ほめちぎった。
                                    
      
 ●捜査と報道 改める点多い遺族への取材
 −−犯罪史上まれにみる大事件だっただけに、取材、報道合戦も相当激しかったようだ。
 C 単に衝撃的だというだけでなく、いまのゆがんだ世相を投影し、社会的な広がりが大きかったから、相当な量の記事と扱いは必要だった。
 −−一部には「過熱」という指摘もあったが。
 B 安易に「過熱」という言葉は使ってほしくない。どこまでが「平熱」でどこからが「過熱」か、その言い方自体がムード的だろう。
 F しかし、やらずもがなの遺家族に対する取材合戦や、捜査当局を仰天させた「上申書騒ぎ」などは、やはり「過熱」と言わざるをえないのではないか。
 E 埼玉では犯人の動きがあるたびに遺族に感想を求めてきたが、ある時「何も言わなくても、私たちの今の気持ちは分かるはずでしょう」と静かに言われ、言葉がなかった。話を聞く時は、各新聞社で集まって1日1回だけにするなど、取材が過度にならないよう心がけてきたつもりだが、遺族の心情を逆なでするような取材は今後、改めていかなければ、と思う。
 F 母親に「あなた方が私たちに二重、三重の苦しみを与えている、どうかそっとしておいてほしい」と涙声で訴えられた時はつらかった。
 A 宮崎の家族のことには極力触れないようにした。綾子ちゃんの遺族に対しても、迷惑をかけないように、深川署担当の記者クラブが窓口になり、代表取材や共同取材のルールづくりをした。それでも、午前2時半ごろに訪問した記者がいたり、代表取材の約束を破って葬儀の会場内をドタドタと走り回った民放テレビ局があった。
 C 捜査当局とのあつれきで尾を引いたのは、宮崎の上申書3通が紙面に載ったことだ。内容の大筋は捜査本部から正式に発表されていたが、東京新聞がまず綾子ちゃん事件の上申書を写真入りで掲載し、次いで時事通信社が真理ちゃん、絵梨香ちゃん事件の上申書を写真入りで配信し、ほとんどの新聞、テレビが掲載したり放映した。
 D 地検は「上申書」では苦い経験がある。東京・綾瀬の母子殺し事件で、犯人として家裁に送った少年3人に、審判が始まってからアリバイや供述と矛盾する証拠が出てきた。この事件でも犯行を認める上申書があった。今回はさらに、裏付けが取れる前に流出したから、地検幹部はカンカンだ。「だれが漏らしたか、特捜部に捜査させる」と息まく首脳もいる。
 A 警視庁は東京地検から「地方公務員法(守秘義務)違反で捜査せよ」とまでいわれ、身内を調べねばならなくなった。「大事な捜査のさなかに仲間を疑わねばならないつらさが、お前たちにわかるか」と、捜査幹部も声を荒らげていた。捜査員に尾行をつけるという話まで出たね。
 B 取材競争が激しくなった一因は、捜査本部の発表が必ずしも事実通りではなかったことがあげられる。宮崎は8月9日夜に綾子ちゃんへの犯行を自供した時、実は真理ちゃんと絵梨香ちゃんの犯行も認めていたのに、「13日夜に自供した」と発表された。それは上申書を書かせた日付にすぎなかったのだが、捜査本部は9日夜に宮崎が認めたことは否定し続けた。同じように、吉沢正美ちゃんについても、ほどなく「殺した」と供述したのに、捜査本部は表向き否定し続けた。
 C 捜査本部にしてみれば、綾子ちゃんへの誘拐、殺害容疑で身柄を取っているのだから、他の事件で調べるのは違法捜査だと批判される、と心配したのだろう。
 B 報道の勇み足では、読売新聞の「宮崎のアジト発見 3幼女殺害の物証、多数押収」という誤報があった。捜査当局でさえ「マスコミが先に見つけたのか」と一時は疑心暗鬼だったが、小屋そのものさえないことが判明し、おわびが出た。捜査員とのひそかなやりとりを重ねて取材し、二重三重にチェックして記事をつくるわけだが、時間を限られた取材の難しさを痛感させられる出来事だった。
                                    
      
 ●成果と課題 不十分な動機の解明 正美ちゃんの遺体が焦点
 −−綾子ちゃん事件の捜査は十分といえるのだろうか。
 A 自供に基づいて綾子ちゃんの頭部が発見されたが、物証がこれしかなかった時は、捜査本部も「公判で宮崎が否認に転じたら大変だ」と心配していた。押収したビデオテープから綾子ちゃんの遺体の映像が見つかり、自供によって物置の屋根裏から綾子ちゃんらの写真が発見され、ようやく公判維持の自信を深めた。今後も、遺体を切断したノコギリやナイフも捜索はするが、「見つからなくても仕方がない」といい始めた。
 D 綾子ちゃん事件については、東京地検も公判にかなり自信を持っているね。
 F 8月10日に警視庁が、宮崎の供述から綾子ちゃんの頭の骨を発見したことを発表したあと、宮崎の自宅を捜索するまで何時間か間があった。この間にマスコミが宮崎宅を訪れ、あのビデオでいっぱいの部屋に入るわけだが、捜査の手順が狂った形だ。
 B 5800本もの押収ビデオを全部見るというのも、前代未聞の捜査だった。60台のビデオデッキを1日中動かしても2週間かかった。朝から晩までブラウン管を見つめる捜査員のために目薬を用意したほどだ。
 −−今後の捜査の焦点は。
 D 綾子ちゃん事件で起訴されてから、埼玉県警が真理ちゃん事件で再逮捕する。東京高検でも、真理ちゃん事件の起訴までは可能とみているようだ。絵梨香ちゃんも写真が出てきたから見通しが出てきた。しかし、まだ遺体も発見されていない正美ちゃんはどうか。なまじ、自供があるだけに、検察当局も対応に苦しむだろう。
 E 埼玉移送後の最大のポイントは正美ちゃんの遺体発見だ。正美ちゃん殺害についていかに全面自供に持ち込むかが、一連の事件の全面解決へのカギになる。
 C この種の猟奇犯罪では動機の解明がきわめて重要だが、その点はまだ不十分だろう。初めから殺して遺体にいたずらすることが目的だったと供述しているというが、この動機がどのようにして、いつ形成されたかを解明するには、昨年8月の今野真理ちゃん事件、あるいはそれ以前にあったとみられる類似犯行や未遂事件にさかのぼって、もう一度追及する必要があるという。
 D 裁判をどこでやるかだが、東京地裁関係者によると、起訴状が東京地裁と浦和地裁に分かれて出た場合、どこで公判を開くかは、すでに強制わいせつで起訴されている東京地裁八王子支部とあわせ、3つの裁判所の話し合いになる。どちらにせよ、公判が始まるのは来年になりそうだ。
 B 遺体があり、ビデオや告白文など物証が豊富な綾子ちゃん事件と真理ちゃん事件は、弁護側も事実関係を争うのは難しいだろう。量刑もかなり厳しいものになりそうだ。



1989年9月2日 朝刊 1外
◆民主化運動の暴徒ら11人に死刑判決 ミャンマー軍事法廷


 【ヤンゴン(旧ラングーン)1日=時事】ミャンマー(旧ビルマ)軍事法廷は8月31日、昨年高まりをみせた民主化要求運動の際に4人の警官を殺害した罪で、11人に対し死刑判決を下した。
 判決は同国北西部のスウェボの軍事法廷で言い渡された。判決文によれば、暴徒たちは昨年9月13日、北部のサジング地区の警察署を襲撃、放火し、武器を奪って警官を人質に取るとともに、その中の4人を殴打して死亡させたという。
 軍事法廷はこれまで14人に死刑判決を下している。



1989年9月3日 朝刊 神奈川
◆最後の仕事(残暑お見舞い 記者たちの夏:12) 神奈川


 湘南支局 有吉薫記者
      
 先日、横浜市栄区の「ふるさと白書」を紙面で紹介しました。仕事で帰りが遅く地域を知る暇もない父親に、生活の中で見聞きした体験や疑問点を家族が置き手紙し、行政側がコメントする、という設定です。家にいることの少ない新聞記者も足元を知らないことでは同じです。知ったとしても、その地域を受け持つ記者のプライドを思うと、記事にするのを、ついためらってしまいます。
 ならば、生活者即取材者の立場で記事を書こう、と居住地の戸塚で20数年ぶりに一線復帰したのが6年前の夏でした。街に埋もれた情報を住民の目の高さで、と意気込んではみたものの、待っていたのでは仕事になりません。バスと電車と自分の足で、草の根をかき分けて進むような取材は、思った以上に楽ではありませんでした。
 だが、峠を越えると展望は開けるものです。歩くほどにシンパが増え、情報提供も相次ぎました。「野に遺賢なし」という中国のことわざがありますが、それは当たっていません。街には、素晴らしい人がこんなにもいるのか、と目を見張る思いでした。
 80歳のお年寄りは古文書の解読法を学び、名主家に残された御用留集から黒船到来期の裏面史を見事に解き明かしました。ぼう大な裁判記録を読破、現地調査までして死刑囚の無罪を予告する本を書いた公民館長や、「遊びこそ造形教育の原点」と幼稚園教育に打ち込む元大学教授にも会いました。
 そのほか、クラス全員で手縫いのオシメを先生の赤ちゃんに贈った高校生、舌を使ってワープロを打ち、5冊も詩集を出した車いすの障害者、寝たきりの重障児の口にスプーンを運びながら、こぼしても汚しても食べ終わるまで笑顔を絶やさなかったボランティアの主婦……。スクラップブックを開くと、あの時のあの顔、あの言葉、あの風景が鮮やかによみがえります。
 「終生の念願」を果たそうとする人の顔は輝いて見えました。初老の産婦人科医は、反対する家族や患者を説得して繁盛する病院をたたみ、医者のいない伊勢の離島に旅立ちました。「国公立の学校にばかり世話になったので、社会へ恩返しするのが夢でした」と少年のような、さわやかな笑顔で話してくれたのを思い出します。
 故郷沖縄のわらべ歌を通して平和の貴さを訴えようと、68歳の老婦人は「100回コンサート」を計画、すでに20回を終えました。1人っきりで、補聴器を使いながらのボランティア活動を、戦争を知らない主婦たちが支えています。ミニスーパーの経営者は私財5000万円で、夢だった郷土資料館を建てました。同館を基地にいま、お仕着せではない、手づくりのふるさと創生運動を展開中です。
 ふり返ると、紙面を飾った記事のほとんどは、知り合った人たちからの情報がきっかけでした。
 中には、毎月のようにいい話を持ってきてくれるご婦人がいました。紙面に載るたびにうれしくなって半年ほどたったころ、横浜支局長に頼んで朝日新聞社の図書券を贈ってもらいました。以後、ぱったりと情報提供は途絶えました。久しぶりに会って聞くと「探してはいるんですが……」と、美しいまゆを曇らせました。せっかくの無償の行為を、お礼などして台無しにしてしまったのではないかと、今でも後悔しています。
 思い返せばきりがありませんが、任期が終わって、今月限りで朝日新聞を退社することになりました。何かお返しできるような仕事が見つかれば、と願っています。残暑はまだ続くようです。どうかご健康に留意下さいますように。
 (おわり)



1989年9月4日 夕刊 1総
◆枯れた枝(窓・論説委員室から)


 明治40年に制定された現行の刑法典は、木に例えれば、相当な老木である。
 文語調、カタカナ交じりの古めかしい姿かたちながら、古い枝を切り落としたり、接ぎ木をしたりして命脈を保ってきた。
 全面改正という「植え替え」の話もかなり前からあるが、新しい木をめぐる論議は果てしない。まだ当分は、老骨にむち打ってもらわなければならないようだ。
 中に1本、枯れた枝がある。みかけは他の条文と同様だが、生きてはいない。
 自己又ハ配偶者ノ直系尊属ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期懲役ニ処ス−−200条の「尊属殺」規定である。
 16年前、最高裁大法廷が「法の下の平等を定めた憲法14条に反する」と違憲判断を下し、この規定の効力にストップをかけた。
 以来、親殺しの事件はすべて、警察段階から199条の普通殺人罪(死刑、無期、もしくは3年以上の懲役)として扱われ、起訴も判決もこれで処理されてきた。
 ところが、「無効」とされたこの規定が、いまだに削除されないまま六法全書に残っている。
 封建的な道徳を法で強制するもの、と全面削除を主張する野党側と、「尊属殺人を普通殺人より重く処罰する規定は残せ」と、一部改正を求める自民党の対立が激しく、国会での論議がにっちもさっちもいかなくなったからだ。
 法務省は、当初は「枯れた枝を切り落とす」全面削除の方針をとり、政府は判決の後、その旨を閣議決定している。しかし、「孝の道がすたる」といった感情的な議論も加わった自民党の攻勢の前にズルズルと後退。
 最近では、「4年以上の懲役」などと普通殺人よりも重い有期刑を加えた「接ぎ木」を政府案として提出する意向をみせている。
 いずれにせよ、最高裁が無効宣言をした法律を16年間もそのままにしておくのは、怠慢といわざるをえない。
 国会は、過去のいきがかりを捨て、すみやかにこの問題に決着をつけるべきだろう。〈丙〉



1989年9月4日 朝刊 1外
◆厳戒下、表情複雑な市民 コロンビア“麻薬の本拠”メデジン


 【メデジン(コロンビア)2日=小里特派員】コロンビア政府と麻薬組織の全面戦争に突入して10日目の2日、世界最大のコカイン密輸組織「メデジン・カルテル」の本拠地メデジンに入った。8月末に続発した爆弾テロで銀行や大手塗料会社工場などは破壊された姿を残している。約5000人の軍兵士、警官が自動小銃などを手に市内を頻繁にパトロールする厳戒態勢で、市民の日常生活はかろうじて保たれている。夜間の外出禁止はなお続いている。しかし、130万市民の約3割が“麻薬組織関連産業”に直接、間接にかかわっている特異な状況のもとで、市民の声には複雑な色合いが込められていた。
      
 この国第2の都市では、山の斜面に貧しい人々がへばりついて生きている。東部高台の一角に、年収30億ドル、同カルテル幹部のナンバーワンの名を冠した「パブロ・エスコバル地区」がある。マリア・アビガエルさん(60)の家で話を聞いた。
 「5年以上前、火事で14、5軒が全焼、被災者は住むところがなくなった。役所は何もしてくれず、それを知ったセニョール(エスコバルのこと)が、この一帯に417軒建ててプレゼントしてくれた」。レンガ造りの平屋、2寝室、台所、居間で計60平方メートルほどか。「彼はサッカー場もあちこちにつくってくれた。尊敬している」
 陸軍第4歩兵大隊の指揮官室でフッケル少佐は「完全にメデジンをコントロールしている」という。銃を手にした約5000人の警戒態勢で、先月末に続発した市内のテロは今月に入り、たしかに静まった。「エスコバルはここにはいないだろう。我々の仕事は、さあ1000人いるだろうか、彼らの殺し屋を捕まえて刑務所に送り込むことだ」
 カルテルをつぶせるかどうかは「難しい」という。コカを栽培しているペルー、ボリビア、コカイン密輸の中継点の中米カリブ、消費国の米国などの国際的なからみがあるからだ。
 大手塗料会社の工場などマフィアが車爆弾やダイナマイトで破壊した建物は10前後ある。爆風で扉を壊された電気修理店で、ボニファシオ・エルナンデスさん(33)は「やつらは極刑に処されるべきだが、優秀な武器を持っており、経済力もある。実際、軍がどこまでやれるか」と首をかしげた。
 彼らが所有するディスコ、レストランなどの従業員を含め、メデジン市民の約30%は直接、間接に“マフィア関連産業”につながりがある、とフッケル少佐は語った。
 ボリバル公園(広場)は第1土曜恒例の民芸市でにぎわっていた。ブローチ売りのカストロひげの青年は「静か? まさか。軍がパトロールしているじゃないか」。
 そばにいた通信省の職員は「麻薬問題は社会、政治の問題……」と話し出したが、急に英語に切り替えた。「後ろで兵士が聞き耳を立てている。これ以上は言えない」
 通りがかりの元銀行員ミゲル・サンタさん(67)に聞いた。「双方が話し合うのも1つの手だ。一般市民は直接脅威を感じるわけではないから」
 メデジンのゴメス市長は8月18日にガラン上院議員が暗殺された直後から、政府とマフィアの対話を提案してきた。が、政府は「犯罪者とは話し合わない」と一しゅうした。最近のある世論調査では、6割が麻薬犯罪者を死刑にするため刑法を改正すべきだと答えた。半面、政治家を含め対話論者がいることは、この問題がコロンビアにとって単なる麻薬問題でないことを示している。



1989年9月8日 朝刊 東京
◆奪われた叫び(最後の手紙 遺書・遺言状の周辺:6) 東京


 「井上先生、刑に服するの心境
 (略)いよいよ最期の日が参りました。(略)ただ確かなことはまだ生きていたいということです。(略)覚悟はできている心づもりでありましたが、今になってみますと、覚悟などというもの、そんなものはなかったと気がつきました」
 「いま7時、あと3時間。ああ、と溜(た)め息。地球が急に速くまわりだしたみたいに時間がはやい。朝食を運んでくれた。手紙は一晩中寝られないままに書いたものが5通。夜中2時ごろまでかかって書いた」
 10年以上前、1人の僧りょが国際交流の船の中で、若い信者に死刑囚たちの遺書を読んで聞かせた。東京・深川、玉泉院の井上日宏住職(61)。長く東京拘置所で教誨師(きょうかいし)を務め、刑場に向かう囚人の手紙をノートに書き写していた。
 しかし住職の最近の説教に、彼らの手紙が引用されることはない。「昔は死刑の話をすればみんな神妙になったが、今の若い人はドライなせいか、何とも感じない。それに死刑囚が、もう遺書を書けないんだよ」
 死刑執行は法務大臣の命令から5日以内に行う、と刑事訴訟法は定めている。この間に拘置所長から、本人に執行が伝えられる。東京拘置所では以前、激しい動揺が予想される一部の囚人を除いて、執行の前日か前々日に宣告があった。囚人は家族と最後の面会をしたり、遺書を書いて残りの時間を過ごした。
 しかしこの10年、執行日の朝まで本人に知らされなくなったため、物理的にも精神的にも手紙を書く余裕はないという。法務省は「通知の時期は各施設長の裁量に任せている」と話すが、死刑囚の救援組織は「執行前に家族を通じて外に伝わると、支援者が反対のデモをしたりして面倒だから、直前に通知して執行するんですよ」と推測する。
 「その日では間に合わないから事前に書いておくといい、と看守の人に勧められて手紙を書いていました。その日まで看守の人に預かってもらって、宣告の時に所長に手渡して、投かんしてもらうつもりでした」
 35年間執行の恐怖にさらされ、今年再審無罪を勝ち取った島田事件の赤堀政夫さん(60)は、配達されなかった遺書を振り返る。赤堀さんがいた宮城刑務所仙台拘置支所では、以前から当日宣告の方式だった。「仙台に移ってすぐのころ書き始めました。家族、弁護士さん、全国の支援者あてに、全部で20通ありました」
 長い拘置所生活の間、折にふれて何度も書き直した。看守が転勤すると、遺書は新任の看守に引き継がれて保管された。
 「内容も書き直した回数も覚えていないけれど、あの赤鉛筆は忘れられません」。検閲で、無実を訴えたくだりがすべて赤鉛筆で囲まれ、削除を命じられたのだ。
 最後に遺書を書き直したのは再審開始決定のあとだった。世間が「間違いなく無罪」と予想していた時、赤堀さんはまだ執行におびえていた。「隣の舎房の人と間違えられて、処刑場に連行されかかったこともあるんです。処刑場のある仙台を離れる時まで、息がつけませんでした」
 87年8月、赤堀さんは再審公判に備えて、仙台拘置支所から静岡刑務所に移送された。出発の前、看守がひもでくくった茶封筒の束を示して言った。「必ず無罪になるから。これはもう処分していいね」。赤堀さんはうなずき、死の足音と決別した。
 今、赤堀さんは居間の家具調こたつの上で毎日、手紙を書いている。無罪判決の日に真っ白だった髪は随分黒くなった。色とりどりの封筒に入った赤堀さんの生の言葉が、全国の友人たちに届けられる。
     
 <メモ>
 都監察医の越永重四郎氏の統計によると、88年に23区で自殺した人は1280人で、遺書を残したのは365人。遺書を残す割合は、28.5%で、85年の34.3%から、毎年減少している。特に若い自殺者に遺書を書かない傾向があるという。
 内容にも変化がある。昔の若者の遺書によく見られた、星などロマンチックな言葉や有名な哲学者、詩人の名が登場することがなくなった。一方、録音テープを使ったニューウエーブが出て来た。越永氏は「遺書の世界にも視聴覚文化の影響があるようです」と分析する。



1989年9月12日 夕刊 2総
◆東京・綾瀬の母子殺人の決定理由<要旨>


 12日午前、東京家裁で言い渡された東京・綾瀬の母子強盗殺人事件の容疑者とされた少年3人に対する不処分(無罪)決定の理由要旨は次の通り。(敬称略)
       
 1、本件送致事実の要旨(略)
 2、少年Cのアリバイ
 犯行時に見張りをしたとされる少年Cにはアリバイが成立する疑いが濃い。本件犯行があったのは、少年らの自白以外の証拠によれば、昭和63年11月16日午後2時ごろから午後3時ごろまでの間と認定できる。
 しかし、雇い主とその妻、現場責任者の各作成した手帳やノートの記載、同人ら及び一緒に働いた同僚の供述や証言は、少年Cがその時刻には船橋市内の塗装作業現場で塗装の仕事の手伝いをしていたことの認定、すなわち、アリバイ成立の認定に役立つ内容である。手帳などは、給料計算の資料となるものであり、これに基づく雇い主夫妻、現場責任者の供述及び同旨の同僚の供述は、おおむね信用できる。
 これらと相入れない点を含む証拠もあるが、これが雇い主らの手帳などや同人らの供述より強い信用性があるとは言い難い。したがって、少年Cは、本件犯行に加わらなかった疑いが濃厚である。
 3、少年らと犯行を結び付ける客観的証拠
 少年の一部の自宅から出たバッグが被害者の持ち物であったかのような証拠があり、そうであれば、少なくとも当該少年と本件犯行を結び付ける客観的証拠となり得るのであるけれども、結局そのように断定することまではできない。
 その他少年らと本件犯行を結び付ける客観的証拠は、これを見いだすことができない。犯行時刻ごろに犯行場所のマンション近くに年少者たちがいたようだとの供述は、その者たちが少年らであるとまでは言えず、客観的証拠になり得ない。
 4、少年らの自白の信用性
 少年らと本件犯行を結び付ける証拠は、相互に少年3名の各自白のみであるが、多くの点を検討した結果、少年らの自白は、必ずしも十分な信用性があるとは言えないとの判断に達した。
 (1)少年Cにアリバイが成立する疑いがあるのに、どの少年の自白でも、少年Cが当日の犯行時に見張りをしたとなっていて、基本的な矛盾がある(同じ理由で、自白にある事前共謀の日時にも少年Cにアリバイがある疑いがある)。
 (2)少年らの自白の内容に、犯人のみが知り得た事実で、その暴露の供述の後に初めて捜査官が知って真実と確認された客観的事実が含まれていると言えない(そのように主張される事実もあるが、それに当たらないと言わざるを得ない)。
 (3)自白には、共謀した日時と内容、被害者方侵入の方法、殺害場所、殺害の方法手順、盗取金員の額・分配・使途その他の重要な点について変遷がある。
 (4)母親の倒れたという場所に血液反応がないことなど、自白と客観的証拠と一致しない点がある。
 (5)顔見知りの被害者との対面を予測したと言いつつ、覆面などの用意なしに犯行に及び、見張りの実効性のない1階で見張りをしたとなっているなど、自白内容に不自然や不合理な点が多い。
 5、少年らが自白をするに至った経緯
 では、なぜ少年らがいずれも法定刑が死刑と無期懲役しかない程の重大犯罪について自白をするに至ったのかをも考えると、その程度はともかく、少年らがこもごも訴える取調警察官のやや無理な取り調べ状況がなかったとまでは言えない。
 それによる畏怖(いふ)心に加えて、少年らが年少者であるうえ、いずれもいわゆるいじめられっ子の委縮し易い弱い性格を持っていて、強い者や権威ある者に迎合し、一時逃れにその場限りの供述をし易い傾向にある。また、互いに特に大切に思う他の少年がすでに自白したとの偽りの取り調べを受けそうならば仕方がないとのあきらめの気持ちもあって、自白してしまったということも想像できないではない。
 当初、家裁裁判官などにまで自白したことを考慮しても、少年らの自白のみで、少年らと本件犯行の結び付きを肯定することはできない。
 6、結論
 送致事実の犯行と各少年を結びつけるとされる証拠が信用できず、各少年がその罪を犯したとの送致事実の証明が十分でないから、少年法23条2項前段により各少年を保護処分に付さないこととする。



1989年9月12日 朝刊 解説
◆制裁オプション(追跡天安門流血事件:7)


 ブッシュ米大統領は6月5日午前7時、ホワイトハウスの執務室で側近の報告を聞いた。スコウクロフト補佐官(国家安全保障問題担当)、ウェブスター中央情報局(CIA)長官らが、天安門広場で前日に起きた戒厳部隊と市民との衝突を報告する。しかし情報が断片的で具体的な状況がつかめない。大統領は報告を受けながら、机の上の電話が中国首脳とつながるのをいらいらしながら待った。
           
 ○電話つながらず
 初代の米国・北京連絡事務所長(実質的な大使)時代に培った、トウ^小平・中央軍事委主席、楊尚昆・国家主席、李鵬首相らとの個人的な親交の深さには自信があった。ブッシュ大統領にしてみれば、こんな時こそ旧知の間柄を生かして、中国首脳と直接電話で話し合おうと意気込んだのだ。
 しかし、「結局、つながらなかった」(ホワイトハウス)。あくる日も、その翌日も。
 北京が混乱していたとはいえ、中国の国際電話回線がマヒしていたわけではない。流血事件をはさんだ前後の約2週間、ボストンを中心とする中国人留学生が北京大学の学生運動家らと、ファクスで自由に交信していたことから見て、米中間の通信は機能していた。中国首脳が米大統領からの電話に出なかっただけのことらしい。
 大統領は仕方なく、リリー駐中国大使に中国側要人との接触を要請する。しかし、そのリリー大使も中国外務省幹部をつかまえるのがやっと。それも事件から4日たった8日になってからだった。
 この間、米国内ではトウ^氏の重体説、はては死亡のうわさまで流れた。中国の反体制物理学者、方励之夫妻が北京の米大使館に逃げ込み、身柄保護を求めるという事件も重なった。正確な情報が不足する中で、米テレビは天安門広場の惨事を画面に流し続け、米市民の中国当局に対する反感はいやが上にも高まった。
           
 ○断交までも想定
 米国は6月5日、中国への武器禁輸と軍関係者の交流中止を発表する。「野蛮な武力行使」への抗議と、米市民の怒りを代弁するため、取りあえずブッシュ政権が中国にくり出したジャブだった。だがこの制裁策はいかにも中途半端で、形式的と多くの米市民に映った。
 共和党タカ派のヘルムズ上院議員や、下院外交委アジア太平洋小委員長のソラーズ議員(民主)らが、大統領の「及び腰」を厳しく批判。フォーリー下院議長(民主)は方励之氏問題にからんで、中国側が米大使館に実力行使すれば米国は対中断交すべきである、と息まいた。
 ブッシュ大統領はその間、一貫して「中国への強力な制裁措置はとらない」といい続けたが、実際は断交までを想定した幅広い「対中オプション(政策選択案)」を国務省につくらせていた。
 同オプションは中国の情勢を混乱の度合いで段階的に分類し、状況に応じて全面的な経済封鎖や大使召還、断交などの措置を選ぶなど、機動的な政策運営を提示している。
 6月20日に発表された第2弾の制裁策は、このオプションが発動された初めてのケースではなかったか、というのが当地の外交筋の観測だ。この中でブッシュ大統領は全政府高官の対中接触禁止と、国際金融機関による中国への新規借款を延期するよう求めた。中国当局が「暴乱分子」の死刑判決を急いでいることに対し、台本に従って抗議の意思を示したというわけだ。
 だが議会側は、この時ももう少し強力な制裁オプションを期待していた。休暇明けの9月以降、議会はあらためて大統領により強い制裁策の実施を迫る構えだ。
        
 ○巻き返す擁護論
 議会側のそんな思惑とは裏腹に、対中制裁を始めて3カ月余りが過ぎたいま、ブッシュ大統領は対中関係の修復に情熱を傾けているように見える。トウ^氏が中国の経済開放政策の旗頭であり、米中友好のきずなであるとの強い認識に支えられているからだ。米政府高官は天安門の惨劇を、「民主化途上で一度は味わう産みの苦しみ」と理解を示す。キッシンジャー元国務長官のように、「中国は米国とアジア全体の安全保障に欠かせない重要な国。一時的な感情論で米中関係を危うくすべきでない」という中国擁護論も、徐々に息を吹き返している。
 しかし、その一方で「問題はむしろトウ^氏の死後にある」(スカラピーノ・カリフォルニア大学教授)といった厳しい認識も米国内では広く定着しつつある。米東部名門大学に留学する中国人留学生は、上海に残した家族を気づかいながらも「この身をかけてトウ^、楊両人の殺人責任を追及し続ける」と、静かだが厳しい口調で打ち明けた。米中関係は底流では依然、波乱含みといってよい。(ワシントン=島田数之特派員)



1989年9月14日 朝刊 2外
◆ディンキンズ氏、温和な苦労人で白人にも人気 NY市長選


 【ニューヨーク13日=金丸特派員】「あなた方の希望に投票を」−−12日行われたニューヨーク市長選の予備選挙で民主党の指名候補に選ばれたディンキンズ氏は、こんなスローガンを掲げて党員有権者の心をつかんだ。ハーレム育ちで、弁護士から政界入りし、マンハッタン区長に。その誠実な人柄と、弱者の側に立とうとする政策に対して、犯罪や麻薬、エイズ、人種対立といった深刻な問題に悩むニューヨーク市民が「希望」を託した。
 ディンキンズ氏は62歳。孫もいるおじいさんであり、温和な物腰と誠実さが黒人をはじめとする少数派はもちろん、白人の間でも人気を呼んだ。反対派からは「迫力に欠ける」との評もあったが、選挙戦を通じてたくましさを増したといわれる。
 苦労人だ。靴みがきや皿洗い、工員、ウエーターなど、あらゆる仕事をし、他人への思いやりを学んだという。ブルックリン法律大学院を卒業して、30歳で弁護士に。38歳で州議会議員に当選し、政界入りした。以後、党やニューヨーク市の公職などを次々に歴任。86年からはマンハッタン区長に選ばれて、特に黒人社会の期待を集めていた。
 リベラル色が濃い。低所得者用の低家賃住宅の大量建設、ホームレスへの住居確保、麻薬患者への医療充実や反麻薬教育の普及。死刑復活に反対し、堕胎問題は婦人の選択にまかせよと主張する。人種問題では、多様な人種、民族から成る“モザイク模様”の和解、共存を訴えるが、基本的には少数派の立場を尊重する。
 民主党の中でもリベラル色が強い土地柄に加え、少数派がふえると同時に政治意識を高めてきた時代状況を背景に、市民のだれもが頭を痛める多くの問題が表面化してきた今だからこそ支持を集めることができた、ともいえよう。
 まとめ役に適した人格と視点を下げた政策とは、市長に当選した場合、当面は清新に映ろう。だが、らつ腕で鳴るコッチ現市長でさえ克服し切れなかった問題を解決するには、並々ならぬ力量と政策遂行のための強力な布陣を求められることだけは間違いなかろう。


1989年9月14日 朝刊 2社
◆12月12日に初公判決定 山中事件差し戻し審 【名古屋】


 石川県・山中温泉で昭和47年、元タクシー運転手を殺害した主犯として、殺人、死体遺棄などの罪に問われ、1、2審で死刑判決を受けた同県江沼郡山中町東町1丁目、蒔(まき)絵師霜上則男被告(43)が一貫して無実を訴え、最高裁が審理のやり直しを命じた「山中事件」で、名古屋高裁刑事1部(山本卓裁判長)は13日、差し戻し控訴審の初公判を12月12日に開くことを決めた。



1989年9月15日 朝刊 1総
◆最高裁、「陪審制」研究を本格化 判事、米に長期派遣


 国民が司法に参加する「陪審制」復活への機運が、法曹界に急速に高まってきた。昨年から陪審制の研究に着手した最高裁は、このほど米国への裁判官長期派遣を決定し、研究を本格化する構え。一方の在野法曹の側でも、大阪弁護士会が今夏、陪審制導入へ向けた調査報告をまとめたのに続き、14日には法学者や弁護士らでつくる自由人権協会が初の新陪審法試案を発表した。近く最高裁へも送る。実際に実を結ぶまでには相当の年数がかかると見られるが、最高裁と在野法曹の足並みがそろってきたことで、「国民の司法」へ向けた議論が活発化していくことが予想される。
            
 最高裁はこれまでも陪審・参審制について、刑事局が中心となって文献や資料面での調査をしていたが、昨年、初めて裁判官を米国に派遣、陪審制の運用実態を視察させた。しかしこれは2カ月間の短期視察。今年度はさらに裁判官1人を1年半にわたって米国に派遣するほか、米法制の「母国」にあたる英国にも裁判官1人を派遣し、さらに突っ込んだ研究を進めることにした。「国民に開かれた司法」への意欲を示している矢口洪一・最高裁長官の意向に沿ったものと見られる。
 米国への派遣裁判官は、すでに山室恵・東京地裁判事に決まっている。同判事は、米国の著名な法学者R・M・リード氏らと共著で「アメリカの刑事手続」も著している米国法制通で、長期研究の成果が期待されている。近く出発する予定だ。
 一方、大阪弁護士会は今年7月、「陪審制度 その可能性を考える」と題する大著を第一法規から出版した。同会司法問題対策委員会の司法制度改革部会が3年ほど前から検討を開始。昨年5月の訪米調査などの成果も盛り込んでまとめたものだ。豊川正明部会長は「陪審制ができれば、官僚裁判官で固められた今の裁判に、国民自身の監視を強めていく効果が期待できると思う。国民的議論がいま何より必要だろう。最高裁も積極的な姿勢を見せていることは評価する。われわれと力を合わせられればとも思う」と話している。
 学者、弁護士、市民らでつくる人権団体「自由人権協会」(伊藤和夫代表理事)は「刑事裁判での誤判を減らし、国民の司法参加を促す」面から陪審制度の復活を検討していたが、14日、試案として新陪審法案をまとめた。民間団体が陪審制度について具体的な試案をまとめたのは初めてという。
 陪審法は、大正12年に成立し、昭和3年から施行されたが、太平洋戦争のさ中の昭和18年に停止されたままになっている。同協会は、陪審法では陪審事件の適用範囲がかなり限定されていたなどの欠陥から「失敗」の評価もあるとして、陪審法を改正する形で、95条から成る新陪審法案をまとめた。
 それによると、死刑、無期または1年以上の懲役、禁固にあたる事件は陪審の評議に付す。それ以外の事件については、罰金以下の事件を除いて被告人の請求があった場合のみ陪審の評議に付す。上訴裁判所では陪審はしない、としている。
 陪審は12人の陪審員で構成する。陪審員は各市町村の選挙管理委員会がつくった候補者名簿から各裁判所長が抽選で36人を選び、裁判ごとにそのうち12人が担当する。
 同協会は一昨年から、内部の小委員会で検討を重ねてきた。陪審制の利点としては(1)誤判の減少(2)法廷での証言が重視されることになるため、捜査段階での自白の強制が改まる(3)一部の裁判官の強引な訴訟指揮が減る(4)国民の健全な法意識が裁判に反映され、刑事裁判への関心も高まる、などを挙げている。
 同協会も「最終案ではなく、国民の間に論議を起こすたたき台になることが狙い」と語っている。
                                    
      
 <陪審制度> 公平に選ばれた一定数の市民が陪審を構成。起訴時点や裁判の中で、与えられた問題について証拠に基づき評決を下す制度。英国で生まれたといわれ、米国に伝わり、英米法系の裁判制度の基本となっている。
 一方、参審制度は、現在の「職業裁判官」制度と、市民による陪審制の中間に位置するもので、職業裁判官としろうとの参審員とが合議する制度。法曹界には「第1段階として参審制を導入してはどうか」との意見もある。



1989年9月20日 夕刊 文化
◆「悪魔の詩」の出版続く 支持声明を背景に仏でも(水曜ノート)


 故ホメイニ師の「死刑宣告」で物議をかもしたサルマン・ラシュディの『悪魔の詩』の仏訳が、他の主だった国に遅れて7月にようやく出版された。フランスは旧植民地アルジェリア、モロッコからのイスラム教徒移民を多く抱えており、この本の出版の是非をめぐっては本家のイギリスに劣らず大きな論議が引き起こされた。
 実際しばしばテロに悩まされるフランスで、一時は出版も危ぶまれたが、そこは「人権宣言」の国、折しも革命200周年とあって、翻訳権をもつクリスチャン・ブルゴワ社はいくつかの出版社の支持声明に支えられながら、テロの標的となるのを覚悟で遅ればせながら出版に踏み切った。もっとも、パリのイスラム教団はこの本を冒涜(ぼうとく)の書として非難しながらも、ホメイニ師の「死刑宣告」をも批判して教徒たちに合法的な対応を呼び掛けており、買い占めのために1万部相当の資金を用意したとも伝えられている。発行部数の方は話題性をあてこんでか6万部だという。
 小説自体はインドのイスラム文化圏とイギリス文化の間で複雑にもつれあうアイデンティティーをモチーフにしたものだが、それとは別の次元でこの本は、西欧的な表現の自由とイスラムの宗教的原理との社会的対立の争点になってしまった。とうぜん大きな話題にはなるが、しかしそれは必ずしもこの本が小説として実際に読まれることを意味しない。
 いささか緊張したムードの中で出版され、万一の騒ぎをきらって店頭に置かない書店も少なくないが、幸い今のところテロが起きたという話は聞かない。だが、テロの不発とともに社会的役割を終えて忘れられるとしたら、それこそがこの本の真の受難といえるのかもしれない。
 一方、かつてイスラム教徒に征服された経験のあるスペインでは一足早く5月に、バルセロナのセイクス・バラルなど18の出版社の共同出版の形で翻訳出版された。その直後のマドリードのブックフェアではベストセラーになったが、セビリアのイスラム教徒のコミュニティーからは作品の押収などを求める訴えが当局に出されたという。
 その中とびらには、18の出版社名が陽光のように丸く連記され、その下には《文化省はスペイン憲法第20条(表現の自由)によりこの作品の出版、配布をモラルの上で支持する》と記されている。
 メキシコの作家カルロス・フエンテスが今春アルゼンチンの新聞「ラ・ナシオン」に「サルマン・ラシュディと文学の擁護」の一文を寄せ、ソ連におけるミハイル・バフチンの立場から説きおこして、「ラシュディは文学の本質を理解し擁護するために我々みんなに最良の理由を教えてくれた」と記しているのも印象に残る。(谷)



1989年9月26日 朝刊 1外
◆上海で10人の死刑を執行 治安維持へ「見せしめ」


 【上海25日=堀江特派員】殺人、強盗、傷害罪などに問われた上海市の中国人10人が25日午前、死刑を執行された。中国での死刑判決は日本など西側諸国に比べ、極めて多いが、1度に10人もの死刑執行はめずらしく、建国40年にあたる10月1日の国慶節を前に、治安維持への決意を示す見せしめ的要素が強い。



1989年9月28日 朝刊 1外
◆広州市で16人を処刑 中国


 【北京支局27日】当地で27日明らかになったところでは、中国広東省の広州市で23日に「重大刑事犯判決処分大会」が開かれ、16人に死刑を執行したほか、残り70人に死刑(執行2年延期)、無期を含む懲役刑が言い渡された。
 また貴州省貴陽市では21日に1000人近い市民が集まって公判大会を開き、殺人、強盗などで12人が死刑判決を受けた。
 中国の地方都市はこのところ治安の悪化が伝えられており、10月1日の建国40周年を前にして取り締まりの強化と見せしめ処刑がふえている。



1989年9月29日 夕刊 1社
◆妻殺害の久世被告、控訴審も無期 大阪高裁判決 【大阪】


 妻を殺して山中に捨て、さらに知り合いのスナック経営者を殺して現金などを奪ったとして強盗殺人、死体遺棄などの罪に問われた三重県生まれ、住所不定、無職久世修被告(55)に対する控訴審の判決公判が29日午前、大阪高裁で開かれた。重富純和判長は「冷酷、残虐な犯行で結果は重大だが、死刑は究極の刑で慎重に行うべきだ」と無期懲役とした大阪地裁の1審判決を支持し、死刑を求刑した検察側の控訴を棄却した。
 判決によると、久世は昭和60年8月3日午前10時ごろ、当時住んでいた大阪市西区北堀江3丁目のマンションで、妻美恵さん(当時39)と口論し、首を絞めて殺して旅行かばんに詰め、翌朝、奈良県吉野郡上北山村の大台ケ原の山中に捨てた。また、62年6月1日、金に困って強盗殺人を計画、大阪市中央区三津寺のスナック店内で、知り合いだった経営者の北山美子さん(当時65)を金づちで殴って殺し、現金88万円などを奪った。



1989年9月29日 朝刊 1外
◆釜山の東義大で起きた警官死亡事件で死刑を求刑 韓国


 【ソウル28日=波佐場特派員】韓国・釜山の東義大で5月3日、学生と警官隊が衝突、学生の放火で警官6人が死亡した事件で、殺人や放火致死罪で起訴された学生会の幹部学生らに対する求刑公判が28日、釜山地裁であり、検察は3人に死刑を求刑した。