朝鮮人戦犯者(外国の刑務所で死刑執行された23人を除く125人)は、1957年までに、刑期満了や仮釈放によって全員が出所した。しかし、釈放証明書と被服日用品、都内から出られる程度の旅費しか与えられなかった。
サンフランシスコ講和条約によって日本国籍を離脱した、とされた朝鮮人戦犯は、旧軍人軍属への援護関係法をほとんど適用されなかった。日本人と同等の刑を受けたのに、補償面では日本人と差別された。
日本政府との国家補償交渉を進める組織として、1955年に「韓国出身戦犯者同進会」が作られた。しかし、1965年に日韓条約が発効してからは、「財産や請求権に関する問題は解決した」とされ、補償交渉は実を結んでいない。
同会は現在、「同進会」と名称を改め、在日2世も含めた親ぼく団体の色彩が濃くなっている。元戦犯の会員は始め約60人いたが、帰国や死亡などで、現在約25人という。
1989年8月17日 朝刊 千葉
◆ある朝鮮人BC級戦犯の話(続・失われた戦後) 千葉
戦争犯罪人として、連合国の軍事裁判で裁かれた朝鮮人たちがいた。日本の軍部が、捕虜収容所の監視を肩代わりさせるために、朝鮮全土から徴用し、南方に派遣した青年たちだ。その中に、インドネシアで服役中に精神を病み、刑期が終わったいまも、千葉市の国立下総療養所に入院したままの元BC級戦犯がいる。「内鮮一体」「皇民化」などのかけ声の下、日本の植民地政策は、多くの朝鮮の人たちの人生をほんろうし、ズタズタにした。自分の生きる場所を自分では選べなかった彼が、故郷を離れてから、47年が過ぎた。(佐藤雄二記者)
○閉鎖病棟 心病み、療養所に38年
千葉市辺田町、国立下総療養所。
西はじに、重症患者を収容する閉鎖病棟がある。窓に格子がはまった病室と、食堂を兼ねた休憩室、そして、磨き抜かれた廊下。この限られた場所から外をながめて、彼の1日が終わる。
元BC級戦争犯罪人、李慶生さん(75)=仮名=が、療養所に入ったのは、1951年(昭和26年)の秋だった。
インドネシアの刑務所から、GHQ(連合軍総司令部)が管轄していたスガモ・プリズンに送還されて1年足らず、病気のために仮釈放された。巣鴨まで迎えに出たかつての仲間が連れ添って、その日のうちに療養所へ。
当時も、いまも、作業療法には出ようとしない。他の患者とも、ほとんど話さない。年に2、3回、同じように戦犯として服役していた同胞たちが、見舞いにやって来る。外との交流は、それぐらいだ。
担当の医師によると、李さんの病状は良くない。
「食事、入浴、用便、ひげそり。最低限度のことはできるが、周りの人や身のまわりの整理整とんには無関心だ。妄想に近い独自の世界に閉じこもることが多い。いまのところ治療の効果は見られない。将来も、良くなる見通しはない」
戦争が終わったことは知っている。それでも、「艦砲射撃の音が聞こえる」と訴えることがあるという。
診察には日本語で答える。しかし、1人つぶやく言葉は、李さんの母国の言葉だ。
○軍犬以下
1914年(大正3年)、朝鮮半島の中部、京畿道の小村に生まれた。父親は肉屋だった。李さんが7つのときに死んだ母親は、10人の子供を産んだ。李さんは4男だった。
成人してからもしばらくは家業を手伝った。結婚してからは、中国との国境に近い平安北道の鉱山で働いていた。どういう職種だったかはわからない。
1942年(昭和17年)5月。日本の陸軍省は、マニラ、シンガポール、バンコクなどの捕虜収容所の監視要員として、朝鮮人3000人を動員することにした。2年後には、朝鮮にも徴兵制を敷くことが決まっていた。
「2年たったら戻れる。食事、被服、住居の心配はない。給料も払う」という話だった。「銃を握らずに済みそうだ。兵隊に行くよりはましだ」と考えた青年もいた。
応募者は少なかった。軍は、南部の道ごとに数を割り当て、郡事務所や警察を使って予定数をそろえさせた。
軍人と同じ部隊編成で訓練を受けた。言葉遣いから始まり、夜間戦闘の訓練もした。とにかく、訳もなく殴られる。列で向かい合い、仲間同士で殴り合ったりもする。日本人の上官は、「自分らは皇軍である」と、ことあるごとに、まくし立てた。しかし青年らは、軍属の中で最も地位が低い傭人(ようにん)。軍犬、軍のハトより軽んじられる立場だった。
1カ月の間に、約300人が逃げ出した。今度は、北部から補充徴用した。
その中に、李さんがいた。すでに28歳になっていた李さんは、女の子2人の父親で、もうすぐ、3人目が生まれる予定だった。
全員が「志願」したことになっているが、実態は強制徴用だった。ある町では、一度に200人も集められた。
「志願」するか、日本に強制連行されるか、徴兵されるのを待つか。どれもいやなら、中国に逃げるしかなかった。
8月中旬、貨物船を改造した大きな船で、釜山を出発した。
○元戦犯の声 結局は「使い捨て」 高齢で厳しい経済状態
「敵が上陸して来たときは、反乱の恐れがあるから、まず朝鮮人を殺せ。さんざん協力を強制しておきながら、実は、そんな命令が出されていた。私たちは、使い捨てだった」
横浜市で喫茶店を経営する金秀雄さん(67)=仮名=も、元BC級戦犯の1人だ。
ジャワの捕虜収容所や、一般人を収容した抑留所を何カ所か移った。マレー語が話せたので、雇い入れたインドネシア人らに命令を伝えることが多かった。それが、裁判で、指揮者と誤解される原因になった。
「作業中には何度か殴ったことはある。が、収容所では暴力は振るわなかった」。日本軍では、殴ることは日常茶飯事。しかし、欧米軍にとっては虐待でしかない。
容疑は最初から全部否認したが、判決は求刑通り10年。李さんと同じチピナン刑務所に服役し、移送されたスガモから釈放されたのは1951年8月8日。少しは生活に余裕が出てきた今、「毎年、その日が来ると、1人でビールを一杯やるんです」という。
「あの戦争では、多くの韓国人が死んだ。なのに、日本人の身代わりをした私たちを含めて、日本の政府は真剣に考えようとはしていない」
日本に住み続けている仲間の経済状態は、かなり厳しいという。昔なら日雇い仕事で日銭を稼ぐこともできたが、みんな年をとり、きつい仕事は無理になっている。
「親に不幸をかけ、国にも尽くせなかった。韓国でも、結局は、日本への協力者と見られてしまっている」。金さんの声は、小さく、切なげだった。
○10年の刑 捕虜虐待の責問われ
李さんの最初の配属は、スマトラ島北部のメダンにあったマレー捕虜収容所第1分所。戦局が悪化した43年から44年にかけて、島南部のパレンバンに捕虜を連れて移動し、人海戦術で飛行場を造った。
湿度が高い炎天で、木を切り倒し、根を掘り起こす。食糧も医療も不十分だった。捕虜たちは、歩いていても肛門(こうもん)が見えるほど尻(しり)の肉がそげ落ち、栄養失調のために次々死んだ。
1947年(昭和22年)。李さんは、パレンバンでの捕虜の扱いが悪かったとされて、オランダの裁判を受けた。10年の刑を宣告され、ジャカルタのチピナン刑務所に送り込まれた。
毎日、ブリキでバケツや食器を作っていた。翌年4月のある日、李さんは、作業を突然やめて監房に戻ってしまう。班長が様子を見に行くと、コンクリートの床の上で頭を抱え込んでいる。何を話しかけても、黙っているだけ。
「そのころから、彼の時間は止まったままなのです」。李さんといっしょにバケツを作っていた仲間は、そう考えている。
○肉親捜し
裁判のために拘置された1945年(昭和20年)から、李さんは、壁の内側でしか生活していない。
仲間たちが、かつて、帰国を誘ったとき、李さんは「私がいなくなったらこの病院をだれが経営するのか」といって拒んだという。
「このまま一生が終わるのでは、忍びない。一度でいいから故郷に帰らせてやりたい。もしかしたら、失った記憶のいくらかでも、取り戻せるのでは」
釈放後も、日本に住むことを余儀なくされた元戦犯たちが、これまでに何度か、韓国で肉親捜しを試みた。しかし、生きていたはずの父親は、行方不明になっている。妻と、3人になっているはずの子供たちの消息も、まったくわからない。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の方は、国交がないため、まだ捜せていない。
*
「本人の拒絶」(療養所)を理由に、李さんには会えなかったため、彼を直接に知っている人たちの証言を総合した。「俘(ふ)虜」は「捕虜」に表記を統一した。
《BC級戦犯》 朝鮮人が148人
東京裁判では、侵略戦争の共同謀議など「平和に対する罪」を問われたA級戦犯の容疑者約90人のうち、25人が有罪(絞首刑7人)になった。このほか、「一般民衆への拷問、非人道的な状態での一般民衆の抑留、捕虜の虐待」などを問われ、2万5000人以上がBC級戦犯の容疑者として連合国に逮捕された。
裁判は、米、英、豪、比、仏、蘭、中華民国が、アジアの49カ所で開いた。命令をした上官が部下に責任を押しつけたり、人違いで有罪になったりした裁判もあった。
有罪になった5700人(死刑判決984人)には、朝鮮人148人、台湾人173人が含まれていたが、そのほとんどは、軍人ではなく、1942年に「募集」の形をとって徴用された捕虜収容所監視要員だった。
『朝鮮人BC級戦犯の記録』(内海愛子・著)には「収容所に送られて来た機密文書に、捕虜を虐待しているのは日本人ではなく朝鮮人部隊である、と海外放送をしたことが書かれてあった」という収容所監視員の証言が紹介されている。
《同進会》 補償面で差別
朝鮮人戦犯者(外国の刑務所で死刑執行された23人を除く125人)は、1957年までに、刑期満了や仮釈放によって全員が出所した。しかし、釈放証明書と被服日用品、都内から出られる程度の旅費しか与えられなかった。
サンフランシスコ講和条約によって日本国籍を離脱した、とされた朝鮮人戦犯は、旧軍人軍属への援護関係法をほとんど適用されなかった。日本人と同等の刑を受けたのに、補償面では日本人と差別された。
日本政府との国家補償交渉を進める組織として、1955年に「韓国出身戦犯者同進会」が作られた。しかし、1965年に日韓条約が発効してからは、「財産や請求権に関する問題は解決した」とされ、補償交渉は実を結んでいない。
同会は現在、「同進会」と名称を改め、在日2世も含めた親ぼく団体の色彩が濃くなっている。元戦犯の会員は始め約60人いたが、帰国や死亡などで、現在約25人という。
《「捕虜監視員」》 韓国でTVに
韓国のテレビ局MBC(韓国文化放送)は、独立記念日の光復節(8月15日)に合わせ、16、17日の2日連続で、記録映画「捕虜監視員」を放映。
オランダ、イギリス、タイ、インドネシア、そして日本にも取材を広げ、監視していた側と監視されていた側からの証言を集めた。インドネシア共和国独立の英雄になった朝鮮人軍属梁7星の妻や、彼と一緒に独立運動に身を投じ、そのまま同国に帰化した元収容所要員のインタビュー。朝鮮人監視要員ら10人が、いまだにタイに残留していた事実なども拾い集め、全部で90分にまとめた。
韓国では、BC級戦犯らについては、まだ十分に報道されていない。ともすると「我々を支配した日本軍の協力者」と見られる。事実、戦犯になるのを免れた朝鮮人軍属の中には、有罪が決まった同胞らに非難を浴びせて帰国して行った者もいる、という。
制作を監修した日本人ジャーナリストによると、「捕虜収容所監視要員やBC級戦犯の問題を、正面から取りあげるのは韓国では初めて」という。
1989年8月21日 朝刊 1外
◆街抑える戒厳軍兵士 政情混迷のミャンマーを見る
【バンコク20日=清田特派員】ミャンマー(ビルマ)最大の反政府勢力、全国民主連盟(NLD)の指導者アウン・サン・スー・チー女史らが向こう1年間におよぶ自宅軟禁下に置かれてから、20日で丸1カ月。記者はこのほど、同女史らの軟禁措置後、西側記者として初めて同国に入った。首都ヤンゴン(ラングーン)は町の要所要所を戒厳軍兵士によって固めつくされ、表向き力による制圧は功を奏しているかにみえる。だが国民の反軍政感情は極めて根強い。コメの暴騰をはじめとする破産寸前の国家経済の行方とも絡み、政情は、なお深い混迷が続こう。
ヤンゴンのインヤレーク湖畔にあるスー・チー女史、ティン・ウNLD議長(元国防相)宅の周囲は、いずれも着剣したライフルを手にした兵士たちによって完全に封鎖されている。戒厳軍は反体制、民主勢力の拠点である大学、高校やNLDをはじめとする政党事務所はむろん、仏教国・ミャンマーの象徴であるシュエダゴンパゴダ内や市場など市民が集会を開きそうな場所には残らず配置されていた。
ヤンゴンの消息筋によると、2人の自宅軟禁以降、NLDの活動家、学生、青年労働者を中心に逮捕、拘束者は1000人近くに達し、新たに全国11カ所に設けられた軍事法廷で死刑をはじめとする厳刑が次々と言い渡されている。首都北郊のインセイン刑務所は、特赦の一般囚と入れ替わりに、これら政治犯で膨れ上がっている、という。
軍政当局は、来年5月の総選挙の日程に変わりはないと強調する一方、今月5日、同女史の周囲に非合法の共産勢力が浸透し、今春以降、軍政、「ネ・ウィン院政」批判を強めていた同女史に影響力を行使していた、との詳細な報告書を公表。国民に根強い反共アレルギーに訴え、反体制、民主勢力にくさびを打ち込む狙いとみられ、事実、NLDとの連携関係にある百余りの友好政党の多くが今日に至るまで同女史らの軟禁解除の要求を手控えるなど、足並みの乱れも生じている。
これと歩調を合わせて、長期の一党独裁を続けてきたビルマ社会主義計画党(BSPP)の後身、国民統一党(NUP)も、次期総選挙で定数の3分の1強を与えられる少数民族の政党50余りに急接近するなど、本格的な多数派工作に乗り出した。しかし、民衆の多くは、昨夏の「血の弾圧」により、軍政に対する抜き差しならない不信、憎悪を抱いている。公務員でさえ、一歩家庭に入ると、独立の英雄アウン・サン将軍の遺児でもあるスー・チー女史の自宅軟禁に対する強い反発を口にする姿がみられる。
さらに、主食のコメは、今年早々から極端な品不足に陥り、小売価格で現在2.1キロ当たり平均20チャッド(420円)と今年1月の2倍にはね上がっている。魚や肉、野菜なども軒並みの値上がりだ。
このため、軍政当局もチーク材と並ぶ外貨獲得源の輸出用米を7月末から急きょ、協同組合店を通じて放出、当面のコメ危機を乗り切るのに懸命だ。しかし、同国ではすでに深刻な外貨不足のため、発電所や主力工場さえ補修部品や原材料が調達出来ず、操業率が5割前後に落ち込んでいる。輸出米の放出はこうした外貨事情をさらに悪化させるのは必至である。
ヤンゴンの西側外交筋は「綱渡り的な経済運営を一歩でも誤れば、再び民衆の不満、憤りが一気に表面化する恐れが強い」との見方でほぼ一致している。さらに、軍政当局が内外の批判に抗して、スー・チー女史らの軟禁をいつまで続けられるのか。同女史という「切り札」を失ったNLDの再建は可能なのか。今年9月の軍政1周年、来年5月の総選挙に向けて、事態はなお、極めて流動的である。
1989年8月21日 朝刊 1外
◆北朝鮮訪問の林秀卿さんを逮捕 国家保安法を適用 韓国安企部
【ソウル20日=小田川特派員】韓国国家安全企画部は20日夜、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問、板門店経由で帰国した韓国外国語大生、林秀卿さん(20)を国家保安法違反の疑いで逮捕した。適用されたのは、反国家団体(北朝鮮)からの指令遂行を目的とする「特殊潜入及び脱出」など5項目で、国家保安法で最高刑の死刑も含む重い容疑だ。
安企部はまた、全国大学生代表者協議会(全大協)の幹部3人が林さんに訪朝の指令を与えたとし、3人の行方を追っている。
1989年8月22日 夕刊 2社
◆霜上被告の保釈を申請 「山中事件」弁護団 【名古屋】
石川県・山中温泉で昭和47年に起きた「山中事件」で殺人罪などに問われ、1、2審で死刑判決を受けながら一貫して無実を訴え、ことし6月の最高裁で破棄、審理のやり直し判決を言い渡された同県江沼郡山中町東町1丁目、蒔絵師(まきえし)霜上則男被告(43)の弁護団は21日までに、霜上被告の保釈を名古屋高裁刑事1部(山本卓裁判長)に申請した。同弁護団は「最高裁判決により霜上被告は事実上無罪である」としている。同高裁は検察側の意見を聞いたうえで、近く結論を出す。
1989年8月23日 朝刊 解説
◆韓国の国家保安法(ことば)
この法律の第1条はその目的について「国家の安全を危うくする反国家活動を規制、国家の安全と国民の生存、自由を確保する」と述べている。
規制の対象となる「反国家団体」については「政府を自称したり、国家を変乱することを目的とする国内外の結社または集団」とし、現在では事実上、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とその関連団体に限られている。
反国家団体の構成、同団体の指令目的の遂行、潜入・脱出、称賛、鼓舞、金品収授などの罪を定め、最高刑は死刑。
盧泰愚大統領は88年7月の南北統一問題についての特別宣言で、南北の交流を訴え、これに基づいて国家保安法改正の方針を打ち出した。ところが、与野党の話し合いが手間どっている間に反体制活動家や野党議員、学生らが相次いで北朝鮮を潜かに訪問して同法違反で逮捕される事態になっている。
1989年8月26日 夕刊 2社
◆「絞めて」の言葉どう判断(ニュース三面鏡)【名古屋】
名古屋市中川区でことし6月、がんで苦しむ妻が夫に殺された事件の初公判が25日開かれ、夫は起訴事実を認めた。しかし、被告・弁護側は「妻が首を絞めてもいいと言った」として、通常の殺人よりも罪の軽い承諾殺人を主張、検察側と真っ向から対立している。夫婦2人きりの密室での事件だけに、名古屋地裁の審理が注目される。
殺人罪に問われているのは、同区一色新町3丁目、工員香高昭夫被告(47)。
起訴状などによると、香高被告は6月6日、肺がんに苦しむ妻かねよさん(当時60)を自宅で絞め殺した疑い。
検察側が初公判の冒頭陳述で明らかにした事件の経過によると、かねよさんに異変が起きたのは、昨年3月。突然、発熱し、腰痛を訴えた。病名は分からず、針治療にもすがったが、痛みはひどくなるばかり。ことし1月、肺がんと分かった時には手遅れだった。医師は「せいぜい、あと1年の命」と香高被告に宣告したという。
妻思いの香高被告は胸にしまい、会社を休んで看病した。ところが、5月下旬ごろ、つい口を滑らした。「お前の病気はがんなんだよ」。いつまでも治らない、とかねよさんがぐちったのがきっかけだった。
かねよさんは「やっぱり、がんだったんだね。とても痛みに耐えられないから、私を絞めてもいいよ」と、2度ほど言ったという。そのたびに、香高被告は「そんなことできない。お前の面倒は最期までみるよ」と励ました。
かねよさんは6月に入ってからは「絞めてもいい」とは一切言わなくなった。結局、殺害を承諾しなかったとして、検察側は殺人罪で起訴に踏み切った。
殺人罪は3年以上の懲役、さらには死刑や無期懲役も科されるが、承諾殺人罪は6カ月以上7年以下の懲役または禁固と、かなり刑が軽い。
事件は香高夫婦2人だけの密室で起きた。かねよさんが殺害を承諾したことを積極的に証明するような証人や証拠はなく、香高被告の供述があるだけだ。
初公判で名古屋地裁刑事2部の鈴木之夫裁判長が「承諾したというのはいつか」と尋ねたのに対し、香高被告は「はっきりしない。前のことだと思う」と答えた。
かねよさんは寝ているところを殺されており、状況的にも承諾を得たという時期が犯行直前ではなかったことは明らかなようだ。かねよさんが5月下旬ごろに言ったとされる「言葉」をどう判断するかが、審理の行方を決めることになる。
1989年8月30日 朝刊 1外
◆麻薬犯、米引き渡し焦点 最高裁の判断に注目 コロンビア
【サンパウロ29日=小里特派員】政府と麻薬組織「メデジン・カルテル」との全面戦争に突入した南米コロンビアでは、組織が最も恐れている「身柄の米国引き渡し」など、組織の壊滅に政府がどこまで本腰を入れて取り組むか、いま国民が注視している。コロンビアからの麻薬流入に悩む米国や周辺諸国が支持の声を強める中で、27日には取り締まりの最高責任者デグレイフ法相の辞任説も一時流れるなど、「法を破る者に戦いを挑んだ民主主義のドラマ」(レモス通信相)の先行きを危ぐする声もある。
バルコ政権は、次期大統領の有力候補だったガラン上院議員暗殺事件直後から大統領令を次々公布。戒厳令下、大統領の権限で、犯罪者の米国への引き渡しを認めたほか(1)麻薬犯罪の容疑者を令状なしで7日間拘束できる(2)組織の所有とみられる財産の没収(3)裁判官の身辺保護の強化−−などを定めた。
一連の措置に基づき、軍・警察が麻薬組織メデジン・カルテルをはじめ全国の800カ所以上を捜索し、1万人以上を逮捕、大量の武器、自動車1300台、小型飛行機・ヘリコプター159機を押収、100を超す豪華マンション、大農園を差し押さえた。これらは裁判所が異議申し立てを受けた後、没収分については農業・福祉・軍・警察などの諸機関にゆだねる方針だ。
政府の予期せぬ矢継ぎ早の攻撃に対し、麻薬組織は26日、政府、裁判官、財界人、ジャーナリストら「邪魔者」を標的に「全面戦争」を宣言した。一斉摘発により、同カルテルの金庫番と目されるエドワルド・マルティネスら引き渡し対象となる6人や同カルテルのナンバー2、ゴンサロ・ロドリゲスの息子(18)らが逮捕された。
しかし、脅迫を受けたデグレイフ法相の辞任説が流れたように、国民や在ボゴタの外交筋の間には、政府の強硬な取り締まりが奏功するかどうか、不安を感じている人が少なくない。同国の法律によれば、大統領令は、最高裁による「合憲判断」などを必要とする。最大の焦点、身柄引き渡しについては、最高裁が87年に国内法の不備を理由に違憲と判断したため、以後米国の要請にもかかわらず、政府は身柄送還を停止してきた。
この判決は、同カルテルの脅迫に屈服した結果だとの見方が一般的だ。デグレイフ法相は米国人記者に今回、最高裁が引き渡しについて合憲とする可能性は「50%」だと答えている。ゴメス検事総長は、合憲とするのは「自分自身への死刑判決に署名するようなもの」と、置かれた立場の苦しさを語った。
武装した10人の護衛、2台の防弾車、2台のオートバイに守られて勤務している法相にしても、同様に厳重な警備態勢の検事総長にしても、安全の保証は100%とはいえないからだ。
もし、違憲との判断が下れば、大統領令は失効する。それは政府の敗北を意味する。「法を破る者と戦うのに我々が法を破ることはできない」とレモス通信相はこのほど記者会見で語った。
1989年8月30日 朝刊 2社
◆「判決に誤り」、弁護側が意見書提出 名張毒ブドウ酒事件【名古屋】
名張市で昭和36年、主婦5人が毒入りブドウ酒で殺された名張毒ブドウ酒事件で、昨年12月に第5次再審請求が棄却され、異議を申し立てている奥西勝死刑囚(63)の弁護側は29日、「争点となっているブドウ酒の到着時刻について、確定判決に重大な誤りがある」などとする意見書を名古屋高裁刑事2部(吉田誠吾裁判長)に提出した。
再審請求の「2審」に当たる異議審はこれで本格的に動き出す。弁護側は今後、奥西死刑囚の歯形がついていたとして有力な証拠とされたブドウ酒の王冠について再鑑定を申請し、死刑判決を突き崩したい構えだ。