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死刑関連ニュース1989年 朝日新聞(5月)



1989年5月1日 夕刊 2社
◆弁護人に「任せる」 金賢姫が控訴 大韓航空機事件


 【ソウル1日=波佐場特派員】大韓航空機事件で、ソウル地裁の1審裁判で死刑判決を受けた金賢姫=キム・ヒョンヒ=(27)は1日、ソウル高裁に控訴した。金はこれまで、「1審でどんな判決が出てもそのまま従いたい」との意向を示していた。しかし、判決が出た後の28日、弁護人が金と会い最終的に話し合った結果、「いっさいを任せる」と述べたという。控訴審第1回公判は1、2カ月後に開かれると見られている。



1989年5月2日 朝刊 1家
◆管野スガと石上露子 大谷渡著(本だな)


 社会主義者を弾圧した明治末期の大逆事件で死刑となった12人のうち、ただ1人の女性管野(かんの)スガ。「大阪朝報」の女性記者として女権拡張と廃娼(はいしょう)を唱え、さらにはキリスト教、社会主義へと接近していったが、これまではその男性関係を放縦かつ非道徳的なものとみなして、その見地から思想や行動を理解しようとした傾向が強かった。
 10年以上にわたってスガについて調べてきた著者は、「女テロリスト」として絞首刑に処せられたためにつくられた魔女・妖婦(ようふ)伝説が大きく影響している、と分析している。
 小説家宇田川文海の妾(めかけ)的存在だったという説についても、師弟関係にあっただけで宇田川の思想こそがキリスト教、社会主義に向かわせる導火線となったとしている。
 「これまで描かれていた管野像が、女性解放に力を尽くした女性ジャーナリストとしての彼女の実像とはあまりにもかけはなれている」という。
 スガと同時期に活動した反戦の歌人石上露子とともにその生き方、人物像を紹介している。近代の大阪を形成した人物にスポットをあてる「おおさか人物評伝」の第1巻。
 (東方出版、1900円)



1989年5月3日 朝刊 1外
◆「カンボジア国」、仏教を国教に


 【バンコク2日=アジア総局】プノンペン政府のカンボジア通信(SPK)が1日伝えたところによると、特別国会で「カンボジア人民共和国」から改名された「カンボジア国」は仏教を国教とするほか、死刑を廃止し、外交政策は平和、中立、非同盟を貫くとしている。
 また、国家評議会はカンボジア国の最高機関であり、国家評議会議長は国家元首と国軍最高司令官を兼務する、とし、現在ヘン・サムリン議長が占めているポストを温存している。
 また国旗は従来の赤地に黄色のアンコールワットのデザインから新しく上半分が赤地と下半分が青地の2色とし、中心にアンコールワットを配したものと決められた。



1989年5月6日 夕刊 2総
◆イラン議長、欧米人への「攻撃」呼びかけ 国内強硬派意識の発言か


 【テヘラン5日=村上(宏)特派員】イランのラフサンジャニ国会議長は「エルサレム・デー」の5日、テヘラン大学での金曜礼拝演説で、「シオニスト(イスラエル人)の蛮行」に報復するため、米国人や西欧人を攻撃するようパレスチナ人に呼びかけた。ホメイニ師が小説「悪魔の詩」の著者に死刑を宣告した事件と同様、この「テロの勧め」は米国や西欧諸国の反発を招きそうだが、同議長は「(欧米やイスラエルの)人々は、イランの国会議長が公にテロを呼びかけたと言いはやすだろう。しかし言わせておけばいい。彼らはどうせ、パレスチナ人が降伏するまで、敵をテロリスト呼ばわりするのをやめないのだから」と述べた。
 現実路線派とみられているラフサンジャニ議長が、欧米の反発を承知の上で過激な発言をしたことについて、西側観測筋は、国内の対外強硬派を意識した内向けのものとみる。同議長は今夏の大統領選で当選が有力視され、ポスト・ホメイニ体制へ向けて着々と実力を蓄えているが、現実主義的な姿勢が目立ちすぎて、革命の原則を主張する急進派から攻撃されないよう警戒している。



1989年5月8日 夕刊 文化
◆ルーマニアめぐり活発に審議 国連人権委を傍聴して 阿部浩己


 監視本格化、具体状況報告へ 「死刑廃止条約」にも現実味
        
 スイスのジュネーブにおいてこのほど開かれた第45回国連人権委員会の審議を傍聴する機会を得た。そこで私は人権をめぐる国際的潮流の一端を垣間みた思いがした。
 南部アフリカとイスラエル占領地域における人権状況が審議された会期前半、委員会は極めて単調な様相を呈した。この間、議場では、両地域における人権侵害を非難するほぼ同じ内容の発言がいつ絶えるとも知れず連綿と続いたのである。
 審議に活発なリズムが伴い始めたのは、やや時間浪費的とも思えるこの「南ア・イスラエル非難期間」が過ぎ去ってからのことであった。この段階に至り、ようやく世界の様々な人権問題が提起され始めた。その中にあって、今回私が個人的に特に刮目(かつもく)したのは、ルーマニアの人権問題をめぐる審議模様であった。
        
 ○ハンガリーが非難演説
 殊に印象深かったのは、ルーマニアに関する本格的な審議の端緒が、同じ東欧グループに属するハンガリーによって舌鋒(ぜっぽう)鋭く開かれたということである。それは、人権委員会にゲスト・スピーカーとして招待された同国の外相によってなされた。東欧の一国が人権委員会の場において他の東欧の国を非難するということ、ゲスト・スピーカーが特定国を名指しで厳しく糾弾するということ、ともに私の目には異例としかいいようのない光景であった。
 ハンガリーの外相がスピーチを行っていた間、議場は一見して平静を装っているかのようであった。ゲスト・スピーカーに対して払われるべき敬意ゆえか、私語が目立って増えたわけではなかった。しかし、人権委員会の「人権保護メカニズム」を東欧に対しても十全に作動させようと長年画策してきた人権NGOや西欧グループにとって、ルーマニアの人権侵害を告発するハンガリー外相の発言は、その一言一句がまさに値千金のものであったのではなかろうか。
 ハンガリーによる糾弾を受けたルーマニアは、2週にまたがり反論を展開する。しかし、頼みとするソ連や東ドイツからも積極的支援を得られなかった同国の主張は、結局多数の支持を集めることはできなかった。最終的に人権委員会は、西欧グループの支持を得たハンガリーの提案を容れ、ルーマニアの人権状況について具体的に調査する「特別報告者」の任命を決定するのであった。
 国際政治力学の妙とはいえ、これにより、東欧グループのルーマニアも遂に人権委員会の本格的な監視下におかれることとなった。次回に提出される報告書が大いに注目されるところである。
        
 ○イラクでは「政治選別」
 このルーマニアの場合とは対照的な結果になったが、今回はこのほかイラクをめぐっても議場の内外で議論が沸騰した。アムネスティ・インターナショナルなど有力なNGOによれば、イラクには現在「未曽有(みぞう)の人権侵害状況」が現出しているとされる。
 しかし、こうした指摘にもかかわらず、人権委員会は非公開審議の場において同国には「重大な人権侵害状況は存在しない」との判断にも等しい決議を採択したのであった。事態を憂慮した西欧グループやいくつかのNGOはイラクを何とか公開審議の場で取り上げようと尽力したのであるが、提出された決議案は僅差(きんさ)ながらも葬り去られてしまった。
 イラクをめぐるこの一連の攻防の帰結は、人権委員会に恒常的につきまとう「政治的選別性」という巨大な陰影を露骨に表面化させるものであった。そこでは、大規模人権侵害の有無にかかわらず、自らのグループに属する国を人権委員会の俎上(そじょう)にのせることを嫌う、多数派集団・非同盟諸国の一致した政治的意向が鮮明に反映されたのである。
 人権委員会は、右に述べたような人権状況についての審議以外にも、諸々の重要な活動を行っている。「国際人権基準定立活動」もその1つである。今回もいくつかの国際文書が検討されたが、ここでは「死刑廃止を目的とする市民的及び政治的権利に関する国際規約についての第2選択議定書案」について一言しておきたい。
 国際社会は、第2次大戦後、死刑を科しうる犯罪や処刑可能な年齢などを限定することにより死刑を「例外的な刑罰」とする努力を一貫して行ってきた。その延長線上にあるものとして、近年では欧州において死刑の廃止を求める条約が締結され、米州でも同様の試みが現在進行中である。さらに、国際人権規約委員会も死刑廃止の望ましさを公然と支持する意見を表明するにまで及んでいる。普遍的レベルで死刑廃止をめざす第2選択議定書案は、まさにこのような国際的動向を受けて作成された。
        
 ○積極性欠けた日本代表
 人権委員会は、今回この第2選択議定書案を国連総会に送付することをコンセンサスで決定した。これにより、死刑廃止を企図する国際条約の誕生もにわかに現実味を帯びてきたといえる。日本政府は第2選択議定書案の取り扱いについて極めて慎重な発言を行ったが、内外の死刑廃止論者にとって、今回の人権委員会の決定は願ってもない援護射撃といえるであろう。
 残念ながら、人権委員会における日本政府代表の行動態様は私の目には決して積極的なものには映らなかった。外務省に「人権難民課」が設置されて5年。日本が人権委員会のメンバーになって7年。そろそろ、日本も人権分野において明確かつ具体的な方向性を打ち出してよい時期にさしかかっているのではないだろうか。
        
 あべ・こうき 神奈川大講師。国際法。1958年生まれ。早大、同大学院を経て米・バージニア大ロースクール卒。論文に「アジアにおける人権保障機構の構想」(共作)、翻訳に「民主主義、人権、そして連帯」など。



1989年5月9日 朝刊 1外
◆「内政は担当せず」 カンボジアのシアヌーク殿下、新政権構想語る


 【ジャカルタ8日=磯松特派員】民主カンボジア3派連合政府大統領のシアヌーク殿下に極めて近い外交筋が朝日新聞に明らかにしたところによると、このほどジャカルタで開かれた殿下とヘン・サムリン政権のフン・セン首相との会談で、殿下は(1)同首相が複数政党制を認める憲法改正を行ったならば、4派による暫定政権が実現しなくとも祖国に復帰する(2)新生カンボジアはヘン・サムリン政権が提案している「最高評議会=議長、シアヌーク殿下」を母体とした組織のもとに発足する可能性が大−−との見通しを語った。
 同筋によると、会談では新政権での権力分掌も話題になった。殿下は「外交と文化を担当したい。内政にはタッチしない」と発言したという。このような殿下のヘン・サムリン政権への接近にポル・ポト派側からの反発は必至だ。シアヌーク殿下の思惑が実現できるかどうかについて、同筋は今後、殿下がポル・ポト派と同派を支援している中国を、どう説得するかにかかっているという。
 殿下はジャカルタ滞在中に当地の米、仏、英、日、豪、スイスの各大使と懇談したが、外交筋によるとヘン・サムリン政権が国名、国旗を変更し、死刑廃止、私有財産を認めた自由経済を導入するなどを「私の持論で、けっこうなこと」と評価した。さらに複数政党制への憲法改正要求をフン・セン首相が「検討する」と約束したことを高く評価して、憲法が改正されたら、他の条件が満たされなくても帰国せざるを得ない状況になるだろうとの見解を示唆したという。



1989年5月11日 朝刊 2外
◆「悪魔の詩」死刑宣告めぐり、ノーベル賞作家マフフーズ氏に聞く


 【カイロ10日=佐藤特派員】「悪魔の詩」の著者サルマン・ルシュディ氏に対するイランの最高指導者ホメイニ師の“死刑宣告”の問題は、エジプトにも波紋を広げている。昨年12月、アラブ人作家として初のノーベル文学賞を受賞したナギブ・マフフーズ氏(77)に対し、イスラム教スンニ派の過激派組織指導者が殺害命令を出したとされ、治安当局は同氏の身辺警戒に乗り出した。こんな中で同氏は4日、仕事場であるカイロの新聞アル・アハラムの一室で、「自分自身を監獄に閉じ込めたくない」といって警官の護衛を断っていることを明らかにした。
                                    
      
 同氏は耳が不自由で、またアラビア語と英語を交えた質問への答えは簡潔なものだったが、カイロの下町を舞台に長年、神や人間の問題を考え続けた老作家の信条は十分にうかがえた。
 −−ホメイニ師によるルシュディ氏への「死刑宣告」を現段階でどう考えるか。
 「世界の法、人権、それにイスラム諸法に反している」
 −−現在のイランの政治では神の方が、民主主義や人権よりも大切であるようにみえるが。
 「いかなる世界でも神が最初である。しかしいまわれわれが当面しているのは、この小説家が冒涜(ぼうとく)的作品を書いたこと。シャリア(イスラム法)によれば、彼に法廷の前で自分の思うところを陳述させなければならない」
 −−イスラム教世界では予言者を小説の中でやゆしたりできないのか。
 「聖なる人たちをやゆしてよいという宗教はどこにもない」
 −−小説が冒涜的であるとして、その著者を殺さなければならないほど、イスラム教は傷つきやすい宗教なのか。
 「イスラム教は1冊の小説で揺さぶられるようなものではない」
                                    
      
 同氏は、これまで33作の小説と13作の短編をアラビア語で書いた。1934年カイロ大学哲学科卒業。エジプトの王制と英国による統治などを背景にした氏の作品は庶民を主人公にし、その怒りや笑いを通して、社会的不正義と圧制に批判を向けている。
 59年からアル・アハラム紙にマホメットやキリスト、モーゼなど予言者を題材にした小説「ガバラウィ・サンズ」(英訳、アラビア語の原題はアウラット・ハラティナ)の連載を開始、エジプトで最も権威あるアズハル・モスクの神学者たちが当時のナセル大統領に対し、内容が神への冒涜であると抗議した。現在はレバノンで印刷され、カイロでも読まれている。が、著者のノーベル賞受賞や「悪魔の詩」問題を契機にイスラム教原理主義者は再び、「ガバラウィ・サンズ」を攻撃している。
     
 −−あなたの代表作「ガバラウィ・サンズ」が当地のイスラム教過激派の怒りを買っているが。
 「誤解に基づくものだと思う。そもそも間違っているのは、宗教人が小説を読まないことだ。アル・アハラム紙に掲載され始めた時も、彼ら(原理主義者たち)は、『神や予言者を題材にしている。冒涜である』という怒りの手紙を寄せてきた」
 −−西欧社会では、小説は芸術だが、イスラム教社会ではそれでは通らないのか。
 「芸術を芸術として考えるのはインテリだけである。ふつうの人にとっては、小説は現実の社会の出来事や体験の反映であり、芸術とは映らない。だから、小説家が宗教を扱うと、一般大衆はまるで新聞を読むように議論してしまう」
                                    
      
 マフフーズ氏は79年、サダト大統領(当時)が結んだ対イスラエル平和条約を支持し、この面からも原理主義者たちから反感を買いやすい立場にいる。エジプト治安当局によると、スンニ派の原理主義組織「イスラミック・ジハド」(レバノンの同名の組織とは別で81年にサダト大統領暗殺にかかわったグループと関係が強い)が3月、マフフーズ氏の殺害命令を出したという。
     
 −−あなたは警官の保護を断っているといわれるが、なぜか。
 「自分を監獄の中に入れるのを拒否しているのだ。私の年齢を考えれば、もし日曜日に私を殺し損なったとしても、木曜日には死ぬかもしれない。タンタウィ師(カイロのイスラム教指導者)も“殺害命令”をナンセンスだといっている」
 −−「ガバラウィ・サンズ」はアズハル・モスクの学者たちからいまでも発禁処分を受けているのか。
 「そうだ。だがこれは“殺害命令”とは違う。彼らは発禁にするよう政府に要求できるが、発禁処分の権限を持っているわけではない」
 −−あなたのノーベル文学賞受賞にはユダヤ人の手が働いたともいう人がいるが。
 「ノーベル賞委員会とシオニズムにどんな関係があるか知らない。シオニズムはどんな得をするのだろう」
 −−「イスラム復興」がいわれているが、いつか将来、西欧文明を圧倒しようとしているのだろうか。
 「イスラム復興は帝国主義のあとに来た運動で、正常なものだ。過激主義とは何の関係もない。イスラムは自由、労働、科学を尊重しており、人権の面でもパイオニアだ。したがって本当のイスラム教徒は西欧文明と何の矛盾も感じていない。しかし過激派は西欧文化を敵視している」
 −−いまの日本について一言。
 「発展が早すぎる。もう少し節度をもってやってほしい。(笑い)」



1989年5月11日 朝刊 3社
◆動機なき少年犯罪 セントラルパーク事件にみる(記写縦横)


 少年犯罪が、より凶暴に、陰惨になっている。東京で女子高生の監禁殺人事件が議論を呼んだころ、ニューヨークでも、ある婦女暴行事件をきっかけに「ウルフ・パック」と呼ばれる10代の暴力集団が社会問題化した。大人たちをおびえさせているのは、こうした犯罪にはっきりした動機が見当たらないことだ。ただ「楽しみ」のために、とめどのない暴力に走る子どもたち。国境を越えた大都会共通の病理なのだろうか。(ニューヨーク=横井正彦特派員、写真(略)はフォトジャーナリスト本田理氏)
    
 ○うろたえるNY市民
 その女性は、日課のジョギングで夜のセントラルパークを走っていた。深い木立の間から、少年の一団が飛び出した。「そばに来ないで」との叫びを残し、60メートルほど離れたくぼ地に引きずりこまれた。パイプとレンガで頭を殴られ、ナイフで衣服と肌を切り裂かれた。仲間が体を押さえつけている間に、少なくとも4人が暴行した。
 4月19日の午後10時半ごろである。3時間後に発見されたとき意識はなく、はだかの下半身はぬかるみの中に埋まっていた。頭の骨が5カ所にわたって陥没。奇跡的に一命はとりとめたが、現在も重体の状態が続いている。被害者は28歳の白人女性だった。エール大の大学院を出て大手証券会社につとめるエリートで、公園東側の高級住宅街に住んでいた。
 間もなく8人の少年が逮捕された。すべて黒人とヒスパニックで、14歳と15歳が3人ずつ、16歳と17歳が各1人。公園北側のハーレムに住むグループだった。
 加害者と被害者の異質性、手口の残虐さなどから、地元紙は連日、一面で報道した。そして捜査が進むにつれ、事件の不気味さが浮かび上がってくる。
    
 ○「感情が欠如」
 逮捕された夜、少年たちは留置場で婦人警官に口笛を吹き、事件についての冗談を飛ばして笑いころげていたという。そして拍子を取りながら声を合わせて歌い始めた。ラップと呼ばれる、語りとも歌ともつかない音楽である。
 この歌詞にあった「wilding(発音はウィリング)」という言葉が、事件の代名詞となった。スラム特有のスラングで、集団で悪さ、ひと暴れをするというほどの意味らしい。この夜、だれかが「ウィリングに行こうぜ」と声を上げて、事件は始まったという。
 動機が性のはけ口を求めただけとは考えにくい。この夜、事件の前に、少年たちは男性のジョガー、ホームレスの男、自転車のカップルなど、手当たり次第に襲ったことが分かっている。凶悪犯罪について回る麻薬、アルコールも、今回は無関係だった。金でもない。
 逮捕された1人、ユセフ(15)は「ちょっと楽しもうと」被害者の頭を鉛のパイプで殴った、と自供した。留置場での歌を聞いた捜査員は「感情の完全な欠如が恐ろしい」といった。
                                    
      
 ○背景には何が
 ニューヨークでこうした少年犯罪が激増したのはここ2年ほどの間だ。昨年、殺人で逮捕された15歳以下の少年は50人、婦女暴行141人、強盗3127人。
 そして30人から50人ほどの少年が店に押し寄せ、商品を略奪していく事件が続発している。事件が下校時に集中しているのは、学校に通う「普通の子」たちによる犯罪だからだろう。今回の暴行事件でも、8人のうち非行歴があったのは1人だけで、あとは中流家庭の「クラス1、2の優等生」「全校のアイドル」たちだった。
 ウィリングに動機はない。学者たちはその背景を探ろうとした。テレビの暴力場面。10代の、とくに黒人の失業率の高さ……。だが、コッチ市長は定例記者会見で、事件の背景に社会問題があるのでは、との質問に血相を変えて怒った。「これはギャングのレイプ事件だ。それを正当化する社会問題があるのなら、いってみろ」
 事件の後、大富豪のトランプ氏はニューヨーク州では廃止されている「死刑の復活」を求める全面広告を地元の4紙に出した。共和党議員らは少年犯罪の厳罰化を求める法案の準備を始めた。一方で、公民権運動グループ、黒人活動家たちは「少年たちの名前、写真ばかりが報道されるのは人種差別だ」として、秋の市長選をにらみながら、この事件の「社会性」を世論に訴えようとしている。
 理解を拒絶する子どもたちにうろたえる大人たちの姿も、どこか日本と似ている。



1989年5月11日 朝刊 2社
◆帝銀事件、第19次の再審請求


 帝銀事件の故平沢貞通・元死刑囚の養子の武彦さん(30)は3回忌の10日、平沢元死刑囚の無罪を訴えて第19次の再審(死後再審)請求を東京高裁に提出した。
 今回の再審請求では、警視庁の故甲斐文助警部が記録していた、帝銀事件についての12冊に及ぶ「捜査手記」を新証拠として提出。「犯行に使われた毒物を確定判決は『青酸カリ』としたが、この手記に書かれた捜査内容や、事件状況、解剖結果を総合すれば、毒物は『青酸ニトリル』だったとみられる。一介の画家だった平沢元死刑囚が、特殊な青酸ニトリルを入手できたはずはない」などと主張している。



1989年5月14日 朝刊 1社
◆無残…だれが、どこから 急斜面、黒い袋点々 長野バラバラ死体


 だれが殺し、どこから運び、何のために死体をバラバラにして捨てたのか−−13日、長野県東筑摩郡本城村の青木峠近くで、幼児の死体と、母親らしい女性のバラバラ死体が見つかった事件は、新緑の美しい静かな山あいの斜面を、せい惨な雰囲気と多くのナゾに包み込んだ。長野県警は松本署に捜査本部を置き、2人の身元確認や、現場近くにあった買い物袋と事件との関連調べなどを急いでいる。
         
 母子らしい2人の死体は、13日午後10時過ぎから、捜査員15人によって沢伝いに歩いて引き揚げられ、遺留品と共に松本署に運ばれた。
 死体が発見された急傾斜の雑木林は、1カ月前に伐採されたばかりで、国道を通る車からは、かなり遠くまで谷底を見通せる。斜面のこう配は3、40度で、人が立つのも困難なほど急だ。
 その斜面の半ばから下にかけて、まず2、3歳の男の子の死体。さらに、ナタのようなもので切断されたと見られる女性の右足、右腕、黒ビニール袋入りの頭などが散らばっていた。
 現場を見て引き揚げてきた片岡陽・松本署長は、「子どもの顔はむくんで、何歳かも判断できない。女性はバラバラで、ビニール袋からは長い髪や手足の一部が飛び出していた」と、無残な様子を説明。女性の死体は、切断後にビニール袋に詰めて捨てられたが、袋は捨てた時のショックなどで破れたらしい。
 男の子は2、3歳と推定され、標準の発育なら歯が生えそろい、言葉もしゃべり出す、かわいい盛りだ。また女性は小柄で、きゃしゃな体つきを思わせる。
 死体の散乱状況からみて、犯人は、女性を他の場所で殺害、切断した後、男の子と一緒に車で運び、国道から斜面に向けて投げ落としたとみられる。
 捜査本部は、男の子の着ていた「PEM」の文字入りの黄色いトレーナー上下と、現場にあったチェーン店「SPAR」の白いビニール製買い物袋が、身元確認の手がかりになる可能性もあるとみている。ただし「SPAR」は全国的なネットワークをもつスーパーで、長野県内だけでも194の店舗があり、袋は大量に出回っている。
 青木峠の付近は、国道とはいえ、定期バスも走らない寂しい場所。143号に並行する別の国道にトンネルが開通してから車は減り、山菜採りやキノコ採りの人が通る程度の「抜け道」になっていた。
 しかし、去年8月、中央自動車道が松本市の北の豊科町まで延びた。豊科インタまでは、東京、名古屋のいずれからも約2時間40分。インタから現場までは30キロで、大都市圏からの時間距離が短いだけに、捜査の網が広がる可能性もある。
 3日前に車で現場を往復したばかり、という本城村西条の建設会社員関川亨介さん(58)は、「143号沿いには、ほかにいくらでも深い雑木林があるのに、伐採済みの人目につきやすい所に捨てた理由がわからない。残虐さと大胆さが感じられて、恐ろしい」と話す。
 現場に近い修那羅峠では、昭和55年に女性の死体が見つかる事件が起きている。当時、警察の聞き込みを受けた同村の住民らは、「いやな事件が繰り返し起きる」とマユをひそめた。
                                    
      
 ●最近のバラバラ事件
 昭和56年1月 甲府市で、切断された女性の首と両手首、胴体が見つかる。被害者は市内のサロンホステス(当時37)。5日後、暴力団元組員が逮捕される。
 58年4月 東京都江東区の新夢の島で、両手足がひじ、ひざ部分で切断された死体が見つかる。被害者は神奈川県藤沢市の男性(当時21)で、同9月、元雇い主の中古車セールスマンが逮捕された。
 同6月 東京都練馬区の会社員(当時45)宅で、1歳の幼児を含む一家5人が惨殺され、浴槽に押し込まれているのが見つかる。1人は、手足、首などがバラバラに切り刻まれ、他の1人も手足の一部を切断されていた。犯人は杉並区内の不動産業者。被害者宅を競売で落札したものの、明け渡し交渉がうまくいかなかったための犯行。60年、東京地裁で死刑判決。
 60年11月 埼玉県川口市の荒川左岸で、切断された女性の右足が見つかる。2週間後、東京都北区の隅田川で同一人物の腰部を発見。
 62年2月 藤沢市のアパートで、バンドマン(当時32)が妻と、不動産業の男性の2人に切り刻まれ殺される。3人は、新興宗教の信者で、被害者にとりついた悪魔を追い払う儀式が殺人にまで発展した。
 62年12月 JR東京駅のコインロッカーの期限切れ荷物の中から、黒いビニール袋6個に入った頭部や胸部のない、中年男性のバラバラ死体が見つかる。約1カ月後、埼玉県のJR大宮駅のコインロッカーから、同一男性のものと見られる胸部が見つかった。現在まで被害者の身元もわかっていない。
 63年8月 詐欺容疑で逮捕された大阪市の金融業者が、「約2年前、愛人とともに上司を撲殺して切断し、京都、大阪府の山中や海中に捨てた」と自供。白骨化した遺体の一部を発見。
 同9月 東京都江戸川区の都下水道局のポンプ所で、汚水の水槽から、切断された若い女性の上半身が見つかる。マンホールなどから下水道に投げ込まれ、流れついたと見られる。



1989年5月16日 夕刊 1社
◆「スキ見せるな」 愛知県警が緊急通達 練馬の警官殺害 【名古屋】


 東京・練馬の派出所の警官2人が殺害された事件に関連して、愛知県警は16日午前、注意を呼びかける緊急通達を県内各署に出した。また、三重県警も同様な措置を取る予定で、東海地方にも波紋を広げている。
 愛知県内で、派出所勤務中の警察官が狙われた事件は、昭和57年10月、名古屋市千種区の覚王山日泰寺参道をパトロール中の千種署田代北派出所勤務の巡査が連続殺人犯勝田清孝被告(40)=死刑判決を受け、上告中=に鉄棒で襲われ、大けがをしたうえ、短銃が奪われたケースなどがある。
 1人勤務の派出所だったことからこの事件のあと、愛知県警は対策を立てたが、現在でも県内368カ所の派出所のうち、3人以上が勤務している派出所は2割程度しかないという。3分の2は2人勤務で、1人が仮眠をとるため事実上は1人勤務に等しいという。
 同県警では、16日午前、警務部、警ら部合同で、(1)見知らぬ来訪者との応対では相手にすきを見せない(2)精神異常者、泥酔者が刃物を持っている可能性があるので、職務質問では適当な間合いをとるなど、5項目の緊急通達を県内各署に出した。



1989年5月16日 朝刊 千葉
◆「島田事件」の赤堀さん招き、拘禁2法を考える 千葉県弁護士会


 「島田事件」再審公判で今年1月、静岡地裁で無罪判決を勝ちとった赤堀政夫さんを招き、19日午後6時半から、千葉市民会館小ホールで「拘禁2法を考える夕べ」が開かれる。刑事施設法案、留置施設法案のいわゆる「拘禁2法案」に反対を続けている、県弁護士会(桜井勇会長)の主催。戦後4番目の死刑囚再審無罪事件となった島田事件を通して、代用監獄制度の恒久化などを盛り込んだ法案の危険性を議論しようとの試みだ。
 「夕べ」ではまず、赤堀さんが体験談などを話し、続いて島田事件主任弁護人の大蔵敏彦弁護士、東京弁護士会の小池振一郎弁護士が講演する。小池弁護士は、代用監獄が国連など国際世論からも批判があることを取り上げる。入場無料。
 えん罪事件のたびに、日本の刑事捜査の「自白偏重」体質の弊が指摘されてきた。特に代用監獄、つまり警察の留置場がウソの自白を誘発しやすいともいわれている。拘禁2法案は、留置場制度を恒久化し、弁護士接見を制限するなど、被拘禁者の人権をいっそう制限するとの非難を受けていた。
 県弁護士会は、最初に法案が国会へ提出された57年から一貫して反対の声を上げ、講演会などを企画してきた。法案はいったん廃案となったが、一昨年、再提出された。同会拘禁2法対策本部長の高橋勲弁護士は「現在、実質的な審議が進んでおり、緊迫した情勢」としており、危機感の中での「夕べ」になる。



1989年5月17日 朝刊 2社
◆はい社会部です・17日 【大阪】


 ●電車内かぜ流行?                
 奈良から大阪・桜宮まで通勤にJRを乗り継いでいますが、今ごろの季節になると、車内の冷房でかぜをひくんです。込み具合は私鉄ほどではないし、涼しかった15、6日などは、冷房は不要でした。早めに入れるのがサービスと心得ておられるのでしょうか。車掌の判断でスイッチの切り替えをしているようですが、カンではなく、一定の温度で自動的に調整するようにしてほしい。
 −−奈良市 会社員 黒田寿一(43)
    ×
 JR西日本広報室「ご迷惑をおかけしました。車内冷房は26度ほどになるよう機器を調整し、車掌が車内の温度計を見、外気温や車内の状態に応じてスイッチの切り替えをしていますが、季節の変わりめには特にきめ細かな調整をするよう指導します。あわせて、弱冷房車を設けていますので、ご利用下さい」。
     
 ●踏まれる神の使者
 近鉄大阪線鶴橋駅のプラットホームが最近、改修されたのは大変結構ですが、どうしたことか、奈良のシカ、鳥羽の夫婦岩、名古屋のシャチホコの絵が、まるで踏み絵のようにホームの床にはめ込まれたのです。いずれも神の使いとか、神の宿るものとして庶民に敬愛されており、決して土足の下に描くものではありません。近鉄さんは単なる観光資源としか考えていないのでしょうか。他の絵に変えるなりしていただきたい。
 −−生駒市 会社員(45)
     ×
 近鉄広報室「絵をはめ込んだ所はJR環状線の駅の下で、一帯を明るくするために直径3メートルのカラータイルを張りました。タイルだけでは殺風景なので、楽しい雰囲気にするため当社の鉄道が結んでいる大阪、名古屋、奈良、伊勢のイメージを図案化しました。初めてお聞きするご意見ですので、よく検討させていただきます」。
 春日大社「鎌倉時代から伝わる当社の由緒に奈良の都の守護神がシカに乗ってこられたとあり、室町時代まではシカを殺した者は死刑になったそうです。でも、時代が変わって、今は奈良公園のアイドル。絵のシカに神さまが乗っておられれば問題ですが、単にイラストのようなものなら、特にいうことはありません」。



1989年5月18日 朝刊 1外
◆西独、ハマディに終身刑 1985年の米航空機乗っ取り事件


 【ボン17日=雪山特派員】1985年6月の米トランスワールド(TWA)航空機乗っ取り事件の犯人の1人モハマド・ハマディ(24)に対し、西独フランクフルト地裁は17日、終身刑判決をいい渡した。西独は死刑がないため終身刑が最高刑。



1989年5月21日 朝刊 2社
◆牟礼事件の死刑囚、大喪恩赦の出願へ 再審請求は取り下げず


 昭和25年、女性が行方不明になり、東京都三鷹市牟礼で白骨死体で見つかった「牟礼事件」の死刑囚、佐藤誠(81)=仙台拘置支所在監=が22日、恩赦を出願する。佐藤は現在、無実を主張して第8次再審請求中だが、この請求は取り下げない、としている。
 佐藤は33年8月に最高裁で死刑が確定した後も再審請求を繰り返し、刑を執行されないまま、死刑囚として31年間の獄中生活を送っている。



1989年5月22日 朝刊 1社
◆「こんなものいらない 市民フェスティバル」(青鉛筆)


 ▽「生活に不要のものは、この際お引き取り願いたい」。こんな目的でマスコミ関係の労働組合と商店主のグループが21日午後、東京・浅草公会堂で、初の「こんなものいらない 市民フェスティバル」を開いた。
 ▽標的は「消費税」「代用監獄」など。11人のパネリストからは次々に不満の声。税に苦しむ商店の若だんなは「消費税はいらない」に続けて、「店に竹下さんの人形を置いて、お客さんに謝らせたい」。冤罪(えんざい)で、死刑囚から一転無罪になった免田事件の免田栄さんは「死刑はいりません」。
 ▽会場で「いらない」が連発される一方、「浅草には昔のようなにぎわいが必要」と、参加者全員には、主催者側からちゃっかり買い物用の地図が渡された。



1989年5月23日 朝刊 2社
◆牟礼事件で恩赦出願


 昭和25年、土地と家屋を売りに出した女性が行方不明になり、東京都三鷹市の牟礼(むれ)で白骨死体となって見つかった「牟礼事件」の死刑囚佐藤誠(81)=仙台拘置支所在監=は22日、弁護団を通じて宮城刑務所長に対し、特赦(有罪判決を無効にする)と特別減刑の2つの恩赦願書を提出した。



1989年5月24日 朝刊 解説
◆イラン最高指導者の条件 カギ握る宗教的権威


 イランで次期最高指導者とされたモンタゼリ師(67)が失脚し、「ホメイニ後」をにらんだ憲法の修正作業が進んでいる。革命から10年余。宗教と一体化した独特の政治体制は、ホメイニ師(86)の高齢化や病気に伴い、重大な岐路にさしかかっている。(都丸修一記者)
                  
 革命イランの政治は、神権政治である。今は神隠れしているイマム(宗教指導者)が、やがて救世主として復活し、現世に正義と公平の統治をもたらすというイスラム教シーア派12イマム派の信仰にもとづく。隠れた第12代イマムが不在の間、国及び信徒の指導権は「正義感、敬けんさ、時代感覚、指導力及び分別を備え、国民の大多数が最高指導者と認める宗教法学者の手にゆだねる」(憲法5条)。1979年の革命後は、それがホメイニ師である。同師は23日、消化管の出血を抑える手術をした。
 もしホメイニ師が他界した場合、同師のようなカリスマ性を持った“有資格者”はほかに見当たらない。憲法の定めでは、専門家会議を開いて1人の最高指導者を選出するか、3人、または5人の宗教権威者による「最高指導評議会」を設置して集団指導体制をとる。
 モンタゼリ師は、この規定にもとづいて85年11月の専門家会議で次期最高指導者に選出されていたが、体制批判の発言を繰り返し、3月末に失脚した。イランの政界ではラフサンジャニ国会議長(54)やハメネイ大統領(50)らが有名だが、彼らは宗教的には最高指導者や評議会員の資格がない。
 イランのシーア派で「最高の宗教権威者」と呼ばれるのは、通常、「アヤトラ・オズマ」の称号を持つ長老たちで、ホメイニ師やモンタゼリ師を含め5人いる。その下に「アヤトラ」(約100人)、「ホジャトレスラム・バル・モスレミーン」(多数)、「ホジャトレスラム」(多数)と呼ばれる人たちがいる。この4つの称号は、コーランなど4つのイスラム法の解釈を身につけたうえ、その研さんに応じて認められる。ラフサンジャニ議長もハメネイ大統領も、まだホジャトレスラム・バル・モスレミーンである。
 モンタゼリ師の「辞任」を受け入れたホメイニ師は、約1カ月後の4月24日、ハメネイ大統領に(1)最高指導者(の条件)(2)行政機構内の権限の集中(3)国会の議席数など8項目にわたる憲法修正を指示した。国会議員らの要求にこたえた形である。修正案の起草は、ホメイニ師が指名したハメネイ大統領、ラフサンジャニ議長ら20人と国会の中から選ばれた5人による委員会が2カ月以内に作業を終え、国民投票にかける。
 最大の焦点は次期最高指導者または最高指導評議会員選任の宗教的条件を緩めるかどうか、である。
 ホメイニ師に近い復古主義者で、政府による社会、経済の統制強化を主張する強硬派でアヤトラのメシュキニ師らが昇格することも、考えられないことはない。が、国際的に孤立、経済混乱と社会不安が続くイランをまとめるためには、ラフサンジャニ議長ら実務家の手腕が欠かせない。宗教的研さんがまだ足らない実務家たちを、最高指導者または最高指導評議会員にするには、憲法に記された条件を緩和する以外になさそうだ。
 これまで、穏健派、強硬派のバランスを巧みに操ってきたホメイニ師だが、今年2月に小説「悪魔の詩」の作者に対し「死刑宣告」を出して以来、強硬派が全土を席巻(せっけん)している。それは革命政権が追いつめられていることの裏返しといえよう。
 最も注目される現実主義者ラフサンジャニ議長は今年夏の大統領選に名乗りをあげ、強硬派に近づきながら、憲法修正作業で大統領権限の強化を図っている。同議長がどこまでホメイニ師の信頼を得て現実路線の根を張れるのか。強硬派の抵抗は少なくない。ホメイニ体制に対するモンタゼリ師支持者ら穏健派の反発も、じわじわと高まっている。



1989年5月25日 夕刊 2社
◆元ナチ協力者ポール・トゥビエ逮捕 フランス


 【パリ24日=清水特派員】第2次大戦中、リヨンでレジスタンスを弾圧する民兵軍を組織し、「フランスのバルビー」と恐れられた元ナチ協力者ポール・トゥビエ(74)が24日、ニースの大修道院で逮捕された。
 トゥビエは、1945年と47年の2回、欠席裁判で死刑を宣告された。71年に故ポンピドー大統領の恩赦で、一度、自宅に舞い戻ったが、その後、人類に対する犯罪などで再び告発され、姿をくらましていた。84年には死亡説も流れたが、スイス、イタリアとの国境に近い修道院などを転々としていたとみられている。



1989年5月25日 朝刊 群馬
◆貴重な資料・蔵書が続々 県立図書館に寄贈の故住谷悦二蔵書 群馬


 県立図書館に寄贈された元同志社大総長・住谷悦治さん(群馬郡群馬町出身、62年死去)の蔵書の中から、大逆事件の死刑宣告文を写した写真や、マルクス主義経済学者として知られる河上肇から送られた手紙、叔父のキリスト教牧師住谷天来の手帳など住谷悦治研究に欠かせない貴重な資料が多数見つかった。寄贈された図書約1万3500冊、雑誌約5500冊、日記類約200冊、アルバム約170冊など2万点を職員が整理していて分かったもので、同図書館は今年10月の読書週間に「住谷文庫」として一般公開する。
        
 蔵書は同図書館が昨年開いた文化講座に、息子の住谷一彦立大教授が講師として招かれたのがきっかけで、寄贈された。
 同図書館によると、これまでに貴重なものと分かったのは、前橋市出身で国家社会主義の理論家として大正期に活躍した高畠素之の「マルクス全集」(絶版)、国内に原本としては1冊しか残っていないといわれる幸徳秋水の「平民主義」、「火の柱」「霊と肉」などが収められている木下尚江全集14冊(発禁)、大逆事件で12人の社会主義者を処刑した際の社会思想関係の書籍や資料が多い。
 また河上肇、荒畑寒村ら著名人からの手紙、教え子にあたる土井たか子社会党委員長の同志社時代の写真、内村鑑三やノーベル賞を受賞した福井謙一京都工繊大学長からの献本も見つかり、故人の幅広い交流がうかがえる。
 さらに旧制前橋中時代、新渡戸稲造の講演を聞き感銘を受けたことなどを記した日記やライフワークだった住谷天来の伝記(生原稿)のほか、住谷さんが生前愛用していた眼鏡、夏目漱石の「それから」「門」などの初版本も出てきた。
 遺族の1人、住谷馨同志社大文学部教授は「明治期の文献は戦争で焼失してしまったものが多い。これだけの蔵書は今後集まらないのではないか。『住谷文庫』として役立ててもらおうと日記、アルバム、住所録、原稿など父に関するものは一切図書館に贈った」と話している。同志社の創始者新島襄が、安中藩江戸屋敷の生まれで県と深い関係があるだけに、同図書館ではこの文庫が県と同志社の結びつきを強めると期待している。
   ◇   ◇
 住谷さんは明治28年、群馬郡群馬町生まれ。旧制前橋中、旧制2高を経て東大法学部政治学科卒業後、同志社大法学部教授。昭和8年、治安維持法の弾圧を受けて退職した。雑誌社のヨーロッパ特派員、旧制松山高等商業学校教授などを歴任したが、左翼教授の名のもとに辞めさせられた。戦後は京都新聞論説部長などを務め、同24年、同志社に復帰。38年、第14代総長に就任し、3期12年務め、平和、民主主義の旗手として広く活躍した。



1989年5月26日 朝刊 1外
◆黒人乱射の白人元警官に死刑判決 南ア


 【ナイロビ25日=大野特派員】南アフリカの首都プレトリアで昨年11月、白人の元警察官(23)が道を歩いていた黒人に向けて銃を乱射し、7人を撃ち殺した事件で、南ア最高裁プレトリア支部は25日、同元警察官に死刑判決を言い渡した。
 この元警察官は狂信的な「白人至上主義」を掲げる極右団体のメンバーで、事件は一部白人の黒人に対する憎悪の深さを見せつける犯行として内外に衝撃を与えた。その後の調べで犯人は、事件直前にも「ためし撃ち」にと、見知らぬ黒人女性1人を射殺していたことも分かった。



1989年5月28日 朝刊 読書
◆死刑囚からの恋うた 山崎百合子著(よみもの)


 女流俳人である著者が死刑囚との文通の日々をつづったノンフィクション。死の恐怖から逃れたい一心で句作に打ち込む死刑囚が、著者の手ほどきで自分の心情を素直に表現するようになる。やがて自信をもって死に立ち向かう境地に達した死刑囚は、著者への愛を打ち明ける。思いもよらぬ告白に、著者は「あなたに対する気持ちは友情以外の何ものでもありません」と正直に返事を書く。だが、その手紙は受取人不在として戻ってくる……。
 「便りが途絶えたとき、私がこの世から消えたと思ってほしい」といっていた言葉が実感を伴ってかぶさってきた著者は、俳句によって心の自由を得たとはいえ、処刑を前におびえ苦しんだであろう死刑囚に思いをはせ、鎮魂を祈る。
 (草思社・1,262円)



1989年5月28日 朝刊 2社
◆生きて帰れたと叫びたい スパイ容疑の李哲さん帰国 熊本 【西部】


 母国留学中にスパイ容疑などで昭和50年12月に逮捕され昨年10月の仮釈放まで韓国で13年間も獄中にあった熊本県球磨郡錦町出身の在日韓国人、李哲さん(40)が26日夜、福岡空港着の大韓航空機で妻の閔香淑(37)を連れて帰国した。2人は出迎えた実兄の李明さん(42)の車で深夜、同町一武の実家へ。一夜明けた27日、哲さんは「救援活動をした団体や、同級生に一人ひとり会ってお礼を言いたい。朝、目覚めて天井を見たら自分の家だったので初めて実感がわいた」と長期間の投獄生活のやつれを感じさせない笑顔で元気に話した。
 この日は午前10時過ぎ、実家近くの墓地へ兄弟らとともに両親の墓参り。哲さんの安否を気遣いながら逮捕後間もなく父が、その3年後には母が相次いで病死した。哲さんは花を供えながら「生きて帰ってきた、と天に向かって叫びたい心境」と帰国の喜びを両親とわかち合えないもどかしさを、こう表現した。
 李哲さんは在日韓国人スパイ事件に連座したとしてスパイ罪などに問われ韓国大法院(最高裁)で52年3月死刑判決が確定、その後懲役20年に減刑され昨年10月仮釈放された。香淑さんも事件に絡んで3年6カ月の懲役刑を受け服役した。
 李哲夫妻は出産のため9月まで滞在の予定。



1989年5月28日 朝刊 1社
◆増田順司氏死去


 増田 順司氏(ますだ・じゅんじ=俳優、本名吉野順二=よしの・じゅんじ)25日午前7時10分、胃がんのため、東京都杉並区の河北病院で死去、73歳。葬儀・告別式は28日午前10時から杉並区梅里1ノ2ノ27の堀ノ内斎場で。喪主は妻信子(のぶこ)さん。自宅は杉並区宮前4ノ3ノ17。
 文学座などを経て松竹大船撮影所に。1944年「撃滅の歌」、46年「女生徒と教師」などに主演したが、その後は名わき役として評価を高めた。54年、佐野周二や佐田啓二らと映画製作会社を設立し、「花ひらく」などを製作、出演した。フリーになった57年以降は、NHK「あしたの風」やテレビ朝日「死刑台の美女」などのテレビドラマにも出演。



1989年5月29日 朝刊 5面
◆ノモンハン事件の捕虜に救いの手を(声) 


 八王子市 小熊謙二(自営業 63歳)
 10日付本紙に「ノモンハン事件から50年 慰霊の旅実現」の記事がありました。私は、この時、捕虜となって今もソ連にいるであろう人たちのことを考えます。
 当時は、事件そのものが極秘にされていましたが、この戦闘で日本軍は大敗し、多くの日本兵が捕虜となりました。停戦後、捕虜交換の際、圧倒的に日本兵が多数のためか、数百あるいは1000人以上の人たちがソ連側に残された、といわれます。
 天皇自らが敗戦を認めての捕虜とは違い、軍国主義教育を徹底して受けた人たちが、「送還されれば死刑になるかもしれない(事実、将校の多数が自決されたそうです)。またたとえ、殺されずとも恥辱の日々を送り、親兄弟に迷惑をかけ、一生日陰の暮らしをするよりは……」と、残留の道を選んだ場合もあったでしょう。
 1945年の敗戦時、数十万の日本人がソ連領に連行され、多くの体験記録が出ています。その中に、このノモンハン事件の捕虜との出会いが書かれています。故郷と家族を思う切ない願いと、「戦死」として処理された過去を捨てて生きる悲しい姿が、実に哀れです。
 彼らは既に70歳を超えています。当然、生き残っている人もいるはずです。国家への義務として、最後まで勇敢に戦い、不可抗力で捕虜となった名誉ある戦士たちに、私たちは何かしてあげられないものでしょうか。