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死刑関連ニュース1989年 朝日新聞(1月)



◆1989年1月7日 夕刊 特設ニュース面

天皇陛下のお言葉に見る、昭和のあの時


 亡くなられた天皇陛下のご生涯は20世紀の幕開けとともに始まり、激動の日本現代史とともにあった。歴代最長の在位期間の、前半の20年は「神聖不可侵」の元首・統治権の総攬(そうらん)者として、後半の40余年は国政の権能を持たぬ「象徴」として−−終戦を境に、その地位にも大きな変化があった。
 「人間天皇」となられた戦後、国民はいくつかの機会に陛下の生のお言葉を直接耳にすることができた。しかし戦前に関しては、公布された勅語のほかは、わずかに側近者の日記や回想録を通して、何を語られたかを知るのみである。伝えられた陛下の内なるお言葉を拾い集めてみると、同時期に外に表れた勅語との、あまりのへだたりに驚かざるを得ない。激流に身を置かれた陛下の苦悩と、無謀な戦争に突入した政治の矛盾の一端が浮かび上がってくる。
 戦後の折々のお言葉にも、そのことが長い影を引いているように見える。だが後半生は、その立場上、政治について語られることはなかった。かわって、「人間天皇」のいくつかの側面を国民の前に見せられた。亡き陛下の語録は、そのまま昭和史の断面を物語る。
 (日記、回想録などから引用した言葉は原文のまま。ただし途中省略をしたものもある)
         
 ○満州事変と連盟脱退 「軍は命令きかず残念」
 朕(ちん)内ハ則(すなわ)チ教化ヲ醇厚(じゅんこう)ニシ愈(いよいよ)民心ノ和会ヲ致シ益(ますます)国運ノ隆昌(りゅうしょう)ヲ進メムコトヲ念(おも)ヒ外ハ則チ国交ヲ親善ニシ永ク世界ノ平和ヲ保チ普(あまね)ク人類ノ福祉ヲ益サムコトヲ冀(こいねが)フ
  −−3年11月10日 大正15年12月、大正天皇崩御により、摂政裕仁親王が25歳で天皇に。『書経』の「百姓昭明、万邦協和」をとり「昭和」と改元。即位礼が京都御所で行われ、新時代を待望する勅語が出された。
    ◇
 お前の最初に言ったことと違うぢゃないか
 田中総理の言ふことはちっとも判(わか)らぬ。再びきくことは自分は厭(いや)だ
  −−4年6月27日 前年6月、満州(現中国東北地方)で関東軍の一部の謀略によって張作霖爆殺事件が起きた。軍の出先の独走を懸念された天皇は、田中義一首相に関係者の厳重処罰を求められ、同首相もこれを約束したが、陸軍の強い反対で軍法会議を開けず、警備上の責任という軽い行政処分にとどめた。白川義則陸相からこの処分の報告を受けた天皇は、語気強く田中首相を叱責(しっせき)され、さらに退席されたあと、鈴木侍従長に首相への不信感を述べられた。田中首相はこれを聞いて「ご信任を失った」と総辞職する。(原田熊雄述「西園寺公と政局」)
    ◇
 自分は国際信義を重んじ、世界の恒久平和のため努力している。それがわが国運の発展をもたらし、国民に真の幸福を約束するものと信じている。しかるに軍の出先は、自分の命令をきかず、無謀にも事件を拡大し、武力をもって中華民国を圧倒せんとするのは、いかにも残念である。ひいて列国の干渉を招き、国と国民を破滅に陥れることとなってはまことに相済まぬ。9000万の国民と皇祖皇宗から受け継いだ祖国の運命は、今自分の双肩にかかっている。それを思い、これを考えると、夜も眠れない
  −−6年9月 同月18日、関東軍は柳条湖で満鉄爆破事件を起こし、これを中国軍のしわざだとして軍事行動を開始、満州事変が始まった。若槻内閣の不拡大方針にもかかわらず、関東軍は占領地を拡大していく。天皇はこのころ、軍の出先の独断専行を心配し、侍従兼内大臣府御用掛岡本愛祐氏に憂慮の念を示された。(別冊文芸春秋「天皇白書」)
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 満州ニ於(おい)テ事変ノ勃発(ぼっぱつ)スルヤ自衛ノ必要上関東軍ノ将兵ハ……各地ニ蜂起(ほうき)セル匪賊(ひぞく)ヲ掃蕩(そうとう)シ克(よ)ク警備ノ任ヲ完(まっと)ウシ……勇戦力闘以(もっ)テ其(その)禍根ヲ抜キテ皇軍ノ威武ヲ中外ニ宣揚セリ朕深ク其忠烈ヲ嘉(よみ)ス……
  −−7年1月8日 満州事変の翌正月、天皇は関東軍の活躍をたたえ、激励の勅語を出された。
    ◇
 奉天を張学良に還(かえ)してしまへば問題は簡単ではないか。一体陸軍が馬鹿(ばか)なことをするからこんな面倒な結果になったのだ
  −−7年3−5月 同年3月1日、関東軍の武力支配によって満州国建国。日本の行動はアメリカを中心に各国の反発を招いた。天皇は国際世論の動向を気にし、私語された。(「西園寺公と政局」)
    ◇
 首相は人格の立派なるもの/現在の政治の弊を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、1に首相の人格如何(いかん)に依(よ)る……/ファッショに近きものは絶対に不可なり/憲法は擁護せざるべからず。然(しか)らざれば明治天皇に相済まず/外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むること……
  −−7年5月19日 ロンドン軍縮問題・満州事変などをきっかけに、右翼・軍の青年将校らの運動が活発化。この年、海軍青年将校の一団が犬養毅首相を射殺した(5・15事件)。天皇は侍従長を通じて元老西園寺公望に、後継内閣についての具体的な希望を伝えられた。西園寺公は結局、陸軍の反政党内閣論をいれて斎藤実海軍大将を首相に推薦。政党内閣はわずか8年で崩壊し、太平洋戦争後まで復活しなかった。(「西園寺公と政局」)
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 連盟に対して脱退を通告する詔勅の中には、「日本が連盟を脱退することは頗(すこぶ)る遺憾である」との意、「連盟の精神とする世界平和へのあらゆる努力には、日本もまた全く同様の精神を以て協力する」との意、以上の2点は必ず含ませるやうに
  −−8年3月8日 この年2月、国際連盟は日本軍の満州撤兵を勧告する決議を採択。斎藤内閣はこれを機に連盟脱退の方針を決定した。その折、天皇は国際世論を心配し、詔勅の表現について内大臣に指示された。3月、日本は正式に脱退を通告、国際的に孤立化の道を歩む。(「西園寺公と政局」)
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 一旦(いったん)参謀総長が明白に予が条件を承はり置きながら、勝手に之(これ)を無視したる行動を採るは、綱紀上よりするも、統帥上よりするも穏当ならず
  −−8年5月10日 関東軍は、抗日軍掃討のため、この年4月、満州国の領域を越え華北に侵入した。この時は天皇の意向もあって撤退したが、5月に再び華北に侵入。これに対して天皇は強い不満を示された。中国軍との停戦協定で戦闘は収まったが、軍部はその後も華北進出の機会をうかがう。(本庄繁「本庄日記」)
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 可愛想ナ事ヲシタ、何ゼ、斯(かか)ル保護鳥ヲ射殺セシカ。自分ハ食セヌカラ、可然(しかるべく)処分セヨ
  −−9年1月3日 皇太子誕生祝いとして予備役の将軍から1つがいのタンチョウヅルが献上されたが、天皇は喜ばれなかった。(「本庄日記」)
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 克く御勅諭の精神を体して、軍を統率し、再び5・15事件の如(ごと)き不祥事件なからしむる様伝へよ
  −−9年1月23日 日ごろ軍の統率の乱れを気にされていた天皇は、本庄繁侍従武官長を呼び、新任の林銑十郎陸相に伝えるよういわれた。(「本庄日記」)
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 軍部の要求もあることであるから、或(あるい)はその辺で落付けるよりほか仕方があるまい。しかしながらワシントン条約の廃棄は、できるだけ列国を刺激しないやうにしてやってもらひたい。(ロンドン海軍軍縮会議が)決裂するにしても、どうか日本が悪者にならないやうに考へてくれ
  −−9年8月24日 この年10月からロンドン海軍軍縮会議の予備会議が、翌年には本会議が予定されていたが、海軍には米・英・日の主力艦比を5・5・3と定めた大正11年のワシントン条約の廃棄を求める強硬意見があった。天皇は、報告した岡田啓介首相に対して、注意を与えられた。日本はこの年12月にワシントン条約を廃棄、11年1月にはロンドン会議も脱退して軍拡の道を進む。(「西園寺公と政局」)
             
 ○天皇機関説 「機関説でいいではないか」
 天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか
  −−10年春 憲法学者美濃部達吉博士の天皇機関説が「反国体的」だと貴族院で非難され、政治問題に。機関説は、統治権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関、とするものだったが、軍・右翼は天皇が統治権の主体であるとして、機関説を排撃。岡田内閣もこれに押され、「国体明徴」の声明を出した。これを機に、社会主義だけでなく自由主義まで反国体的な思想として否認され出し、一方で天皇の神格化が進む。天皇ご自身は、岡田首相に機関説を是認する感想をもらされていた。(「岡田啓介回顧録」)
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 自分の位は勿論(もちろん)別なりとするも、肉体的には武官長等と何等変る所なき筈(はず)なり、従て機関説を排撃せんが為(た)め自分をして動きの取れないものとする事は精神的にも肉体的にも迷惑の次第なり
  −−10年3月11日 (「本庄日記」)
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 若(も)し思想信念を以て科学を抑圧し去らんとするときは、世界の進歩は遅るべし。進化論の如きも覆へさざるを得ざるが如きことゝなるべし。……結局、思想と科学は平行して進めしむべきものと想(おも)ふ
  −−10年4月25日 (「本庄日記」)
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 君主主権説は、自分からいへば寧(むし)ろそれよりも国家主権の方がよいと思ふが、一体日本のやうな君国同一の国ならばどうでもよいぢゃあないか……美濃部のことをかれこれ言ふけれども、美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。今日、美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか。あゝいふ学者を葬ることは頗る惜しいもんだ
  −−10年5月23日 当時、鈴木貫太郎侍従長は、西園寺公の秘書原田に、天皇が美濃部を擁護されている話をもらした。(「西園寺公と政局」)
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 この頃(ごろ)の天気は無軌道なるが、政治も亦(また)然り
  −−10年9月26日 天皇は、軍部での下克上の風や、軍部にひきずられる政府の態度に不満を抱かれ、側近の前で独り言。(「本庄日記」)
            
 ○2・26事件 「速やかに鎮圧せよ」「朕が首を締むる行為」
 とうとうやったか……まったくわたしの不徳のいたすところだ
  −−11年2月26日 陸軍内の派閥対立もからみ、北一輝の思想的影響を受けた陸軍の青年将校が、約1400人の兵を率いて首相官邸、警視庁などを襲撃、高橋是清蔵相、斎藤実内大臣らを殺害した(2・26事件)。国家改造と軍部内閣をめざすこのクーデターは失敗し、4日間で鎮圧された。しかし、事件後成立した広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備政策など軍の要求をいれることによってかろうじて組閣、以降の各内閣に対する軍部の介入の端緒となった。就寝中だった天皇は、当直侍従の甘露寺受長から、事件の一報を知らされ、沈痛な声で語られたという。(甘露寺受長「天皇さま」)
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 速やかに暴徒を鎮圧せよ
  −−11年2月26日 天皇は事件発生当初から、決起部隊を「反乱軍」「暴徒」ときめつけ、厳しい態度で臨まれた。岡田首相が渦中にあって消息不明のため急に首相臨時代理に任命された後藤内相に対して、早期鎮圧を指示。鎮圧のため自ら陣頭指揮をとる、とまで口にされた。(「木戸幸一日記」)
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 朕ガ股肱(ここう=最も頼みとする部下)ノ老臣ヲ殺戮(さつりく)ス、此(こ)ノ如キ兇暴(きょうぼう)ノ将校等(ら)、其精神ニ於テモ何ノ恕(ゆる)スベキモノアリヤ
                 
 朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉(ことごと)ク倒スハ、真綿ニテ、朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ
  −−11年2月27日 反乱部隊は君国を思う精神に出たもの、と本庄侍従武官長が述べたのに対しても、天皇は容赦されなかった。(「本庄日記」)
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 自殺スルナラバ勝手ニ為(な)スベク、此ノ如キモノニ勅使抔(など)、以テノ外ナリ
  −−11年2月28日 川島義之陸相らは事件収拾策として、天皇の勅使を得たうえ、反乱将校たちが謝罪の自決をする形をとりたい、と申し出たのに対し、天皇はこれをはねつけ、鎮圧をちゅうちょする軍首脳を叱責された。(「本庄日記」)
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 近来、陸軍ニ於テ、屡々(しばしば)不祥ナル事件ヲ繰リ返シ、遂(つい)ニ今回ノ如キ大事ヲ惹(ひ)キ起スニ至リタルハ、実ニ勅諭ニ違背シ、我国ノ歴史ヲ汚スモノニシテ、憂慮ニ堪ヘヌ所デアル。就テハ、深ク之ガ原因ヲ探究シ、此際部内ノ禍根ヲ一掃シ、将士相一致シテ、各々其本務ニ専心シ、再ビ斯ル失態ナキヲ期セヨ
  −−11年3月10日 2・26事件の収拾後、天皇は寺内寿一新陸相に、強く粛軍を指示された。また後継内閣の重要ポストには、軍部に引きずられない人物を、と注文されたのだが……。(「本庄日記」)
                                    
      
 ○日中戦争 勅語「東亜の平和確立せん」
 中華民国深ク帝国ノ真意ヲ解セス濫(みだり)ニ事ヲ構ヘ遂ニ今次ノ事変ヲ見ルニ至ル朕之ヲ憾(うらみ)トス今ヤ朕カ軍人ハ百艱(かん)ヲ排シテ其ノ忠勇ヲ致シツツアリ是(こ)レ一ニ中華民国ノ反省ヲ促シ速(すみやか)ニ東亜ノ平和ヲ確立セムトスルニ外ナラス
  −−12年9月4日 この年7月7日、北京郊外盧溝橋(ろこうきょう)で日中両国軍が衝突。近衛文麿内閣は不拡大方針を声明したが現地軍は軍事行動を拡大、日中戦争が始まる。天皇は、戦争開始後間もない第72帝国議会の開院式で、戦争は中国側の責任、とする勅語を出された。
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 元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝(湖)の場合といひ、今回の事件の最初の盧溝橋のやり方といひ、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきやうな卑劣な方法を用ひるやうなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思ふ……今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん
  −−13年7月21日 この年7月15日、ソ満国境で日ソ両軍が衝突、日本側は張鼓峰を占領した。軍部はさらに対ソ武力行使の許可を求めたが、天皇は反対され、板垣征四郎陸軍大臣を強くたしなめられた。同年8月10日、停戦協定が成立。(「西園寺公と政局」)
                                    
      
 ○対米英開戦 「帝国自衛へ決然」宣戦詔書
 我国は歴史にあるフリードリッヒ大王やナポレオンの様な行動、極端に云(い)へばマキァベリズムの様なことはしたくないね、神代からの御方針である八紘一宇(はっこういちう)の真精神を忘れない様にしたいものだね
  −−15年6月20日 この前年の9月、ドイツがポーランドに宣戦を布告、第2次世界大戦が始まった。そして15年に入り、ドイツがヨーロッパ各地を征服し、6月にパリを占領すると、陸軍を中心に、ドイツと結んで南方に進出しようとの空気が高まってきた。天皇はこれに批判的な感想を、木戸幸一内大臣に語られた。(「木戸幸一日記」)
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 今回の日独軍事協定については、なるほどいろいろ考へてみると、今日の場合已(や)むを得まいと思ふ。アメリカに対して、もう打つ手がないといふならば致し方あるまい。しかしながら、万一アメリカと事を構へる場合には海軍はどうだらうか。よく自分は、海軍大学の図上作戦では、いつも対米戦争は負けるのが常である、といふことをきいたが、大丈夫だらうか……自分はこの時局がまことに心配であるが、万一日本が敗戦国となった時に、一体どうだらうか。かくの如き場合が到来した時には、総理も、自分と労苦を共にしてくれるだらうか
  −−15年9月16日 この日、日独伊3国軍事同盟の締結が閣議で決定された。これを背景に日本は北部仏印進駐を開始する。翌年4月、日ソ中立条約を結び、悪化しつつあった対米関係を調整しようとしたが、3国同盟は日米の対立を一層深刻化させていく。天皇は近衛首相に、対米戦争の不安を述べられた。(「西園寺公と政局」)
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 自分としては主義として相手方の弱りたるに乗じ要求を為すが如き所謂(いわゆる)火事場泥棒式のことは好まないのであるが、今日の世界の大変局に対処する場合、所謂宋じょうの仁^(そうじょうのじん=無用の情け)を為すが如き結果となっても面白くないので、あの案は認めて置いたが、実行については慎重を期する必要があると思ふ
  −−16年2月3日 ヨーロッパにおけるドイツの攻勢で英仏が後退したのを機に、日本は南方進出を企てた。「対仏印及泰国施策要綱」について、天皇は木戸内大臣に感想を述べられた。このあと、6月に大本営政府連絡会議で「南方施策促進」を決め、7月末、南部仏印に進駐。アメリカは対日石油禁輸などで対抗、日米関係は決定的に悪化した。(「木戸幸一日記」)
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 軍部は統帥権の独立ということをいって、勝手なことをいって困る。ことに南部仏印進駐にあたって、自分は各国に及ぼす影響が大きいと思って反対であったから、杉山参謀総長に、国際関係は悪化しないかと聞いたところ、杉山は、なんら各国に影響するところはない、作戦上必要だから進駐致しますというので、仕方なく許可したが、進駐後、英米は資産凍結令を下し、国際関係は杉山の話と反対に、非常に日本に不利になった。陸軍は作戦、作戦とばかりいって、どうもほんとうのことを自分にいわないで困る
  −−16年8月5日 天皇は東久邇宮と話された折、軍部への不満を語られた。(東久邇稔彦「東久邇日記」)
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 汝(なんじ)は支那事変勃発当時の陸相なり。其時陸相として「事変は1ケ月位にて片付く」と申せしことを記憶す。然るに4ケ年の長きにわたり未(いま)だ片付かんではないか。支那の奥地が広いと言ふなら、太平洋はなほ広いではないか。如何なる確信あって3ケ月と申すか
  −−16年9月5日 ABCD(米英中蘭)包囲陣の圧迫の中で、「死中に活を求めるしかない」との主張が日増しに強まった。この前前日の3日、大本営政府連絡会議は、10月上旬までに対米交渉がまとまらない場合には対米英蘭戦に踏み切るという「帝国国策遂行要領」を決定。天皇は翌6日の御前会議を前に陸海軍総長を呼び、「外交を先行させよ」と表明された。「南洋方面は3ケ月ぐらいで片付く」という杉山元・参謀総長に対して、その楽観的な見通しを厳しく批判された。(近衛文麿「失なはれし政治」)
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 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ……わたしは平常この御製を拝誦(はいしょう)して、大帝の平和を念ぜられたご精神に習いたいとおもっている。それにもかかわらず、このような事態に立ちいたったのは、まことに遺憾に堪えない
  −−16年9月6日 「帝国国策遂行要領」を正式決定した御前会議で、天皇は異例の発言をされ、明治天皇の歌に託して気持ちを語られた。一同は粛然と頭を垂れたという。このあと日米交渉は、妥協を見いだせないまま10月上旬を迎えた。なお交渉を継続しようとする近衛首相と、交渉打ち切り・開戦を主張する東条英機陸相が衝突して近衛内閣は総辞職。9月6日の決定の白紙還元を条件に、木戸内大臣の推挙によって東条内閣が成立したが、結論は同じだった。11月末、アメリカはハル・ノートによって、大陸・仏印からの日本軍全面撤兵、3国同盟の死文化などを要求、交渉は絶望的となった。(甘露寺受長「天皇さま」)
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 日米交渉に依る局面打開の途を極力尽すも而(しか)も達し得ずとなれば、日本は止(や)むを得ず米英との開戦を決意しなければならぬのかね……事態謂(い)ふ如くであれば、作戦準備を更に進めるは止むを得なからうが、何とか極力日米交渉の打開を計って貰(もら)ひたい
  −−16年11月2日 大本営政府連絡会議はこの日、「外交による打開のメドを12月初旬とする。決裂のときは直ちに開戦」との方針を決め、天皇に報告した。(東京裁判・東条尋問録)
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 時局収拾ニ「ローマ」法皇ヲ考ヘテ見テハ如何(いかが)カト思フ
  −−16年11月2日 平和解決を求めて、東条首相らにいわれた。(杉山元「杉山メモ」)
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 此ノ様ニナルコトハ已ムヲ得ヌコトダ。ドウカ陸海軍ハヨク協調シテヤレ
  −−16年12月1日 この日、御前会議で開戦を正式決定。天皇は陸海軍両総長に要望された。(「杉山メモ」)
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 米英両国ハ……平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセムトス剰(あまつさ)ヘ与国ヲ誘ヒ帝国ノ周辺ニ於テ武備ヲ増強シテ我ニ挑戦シ……遂ニ経済断交ヲ敢(あえ)テシ帝国ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ……帝国ハ今ヤ自存自衛ノ為(ため)決然起(た)ツテ一切ノ障碍(しょうがい)ヲ破砕スルノ外ナキナリ
  −−16年12月8日 対米英宣戦の詔書が出された。
            
 ○戦局悪化 原爆…「戦争継続は不可能」
 次ぎ次ぎに起った戦況から見て、今度の戦争の前途は決して明るいものとは思はれない。統帥部は陸海軍いづれも必勝の信念を持って戦ひ抜くとは申して居るけれど、ミッドウェイで失った航空勢力を恢復(かいふく)することは果して出来得るや否や、頗る難しいと思はれる。若し制空権を敵方にとられる様になった暁には、彼の広大な地域に展開して居る戦線を維持すると云ふことも難しくなり、随所に破綻(はたん)を生ずることになるのではないかと思はれる
  −−18年3月30日 日本軍はハワイの真珠湾奇襲攻撃に続いて、香港、マニラ、シンガポールを次々と陥れた。戦局はしかし、17年6月のミッドウェー海戦の大敗北を境に転換し始め、同年後半からアメリカの本格的反攻が開始された。そのころ天皇は、木戸内大臣に戦争の悲観的な見通しを述べられている。(「木戸幸一関係文書」)
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 何(いず)レノ方面モ良クナイ。米軍ヲピシャリト叩(たた)ク事ハ出来ナイノカ……ソウヂリヂリ押サレテハ敵ダケデハナイ第三国ニ与ヘル影響モ大キイ。一体何処(いずこ)デシッカリヤルノカ。何処デ決戦ヲヤルノカ
  −−18年8月5日 杉山参謀総長が各方面の戦況を報告したのに対して。(「杉山メモ」)
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 自分が帝都を離るゝ時は臣民殊に都民に対し不安の念を起さしめ、敗戦感を懐(いだ)かしむるの虞(おそれ)ある故、統帥部に於て統帥の必要上、之を考慮するとするも、出来る限り万不得止(ばんやむをえざる)場合に限り、最後迄(まで)帝都に止(とど)まる様に致し度(た)く、時期尚早に実行することは決して好まざるところなり
  −−19年7月26日 戦局の悪化に伴い、天皇の安全と指揮系統維持のため大本営移転の話が出た。小磯国昭首相がこれを相談すると、天皇は反対された。(「木戸幸一日記」)
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 そのようにまでせねばならなかったか、しかしよくやった
  −−19年10月25日 この日、「神風特攻隊」の第1陣として、フィリピン・レイテ沖で海軍の敷島隊が出撃。天皇が海軍軍令部総長に語られたお言葉が、無電で前線各地に伝えられた。
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 鈴木の心境はよく分る。しかし、この重大な時にあたって、もう他に人はいない……頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい
  −−20年4月5日 日本の敗北が必至となって、戦争終結の任務を期待された鈴木貫太郎内閣が成立する。この時、天皇は大命降下の際の慣例を破り、辞退する元侍従長にあくまで組閣を要請された。(藤田尚徳「侍従長の回想」)
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 わたくしは市民といっしょに東京で苦痛を分かちたい
  −−20年5月中旬 東京空襲の激化で、陸軍が長野県松代につくった大本営に天皇を移そうとした。天皇は梅津美治郎参謀総長に反対を表明された。(伊藤正徳「帝国陸軍の最後」)
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 戦争に就きては……支那及び日本内地の作戦準備が不充分であることが明らかとなったから、成るべく速かに之を終結せしむることが得策である。されば甚だ困難なることとは考ふるけれど、成るべく速かに戦争を終結することに取運ぶやう希望する
  −−20年6月20日 イタリアに続き、5月にドイツも無条件降伏。鈴木内閣はソ連を仲介とする和平工作(ソ連は2月のヤルタ会談で対日参戦を米英に密約しており、工作は不首尾となるが)を進めることになった。それを報告した東郷茂徳外相に、天皇は賛成された。(東郷茂徳「時代の一面」)
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 此種武器が使用せらるる以上戦争継続は愈々(いよいよ)不可能になったから、有利な条件を得ようとして戦争終結の時機を逸することはよくないと思ふ、又(また)条件を相談しても纒(まと)まらないではないかと思ふから成るべく早く戦争の終結を見るやうに取運ぶことを希望する
  −−20年8月8日 7月26日、米英中3国の名で日本軍隊の無条件降伏を勧告するポツダム宣言が出された。8月6日、米軍によって広島に原子爆弾が投下された。東郷外相がこの調査結果を天皇に報告、「戦争終結の転機」と述べると、天皇も同意された。同じ8日、ソ連が参戦、9日には長崎にも原爆が投下され、ポツダム宣言受諾へと追い込まれる。(「時代の一面」)
                                    
      
 ○終戦の決断 「堪え難きを堪え…」御前会議でポツダム宣言受諾
 本土決戦本土決戦と云(い)ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又(また)決戦師団の武装すら不充分にて、之(これ)が充実は9月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論(もちろん)、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等(それら)の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而(しか)し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の3国干渉の際の御心持を偲(しの)び奉り、自分は涙をのんで原案に賛成する
  −−20年8月10日 9日夜から10日未明にかけ、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が開かれた。「国体護持」を条件に受諾すべきだとする東郷茂徳外相案と、徹底抗戦論の軍部が対立。鈴木首相に裁断を求められた天皇はためらわず東郷案に賛成し、終戦の決意を述べられた。(「木戸幸一日記」)
   ◇
 それで少しも差支(さしつかえ)ないではないか。仮令(たとい)連合国が天皇統治を認めて来ても人民が離反したのではしようがない。人民の自由意思によって決めて貰(もら)って少しも差支ないと思ふ
  −−20年8月12日 政府は御前会議の決定に基づいて連合国にポツダム宣言の条件付き受諾を通告。これに対する連合国側の回答の中に「日本政府の形態は日本国民の自由意思により決められるべきだ」とのくだりがあった。軍部は抗戦論を再燃させたが、天皇はさして意に介されなかった。(「木戸幸一関係文書」)
   ◇
 外に別段意見の発言がなければ私の考えを述べる。反対論の意見はそれぞれよく聞いたが、私の考えはこの前申したことに変りはない。私は世界の現状と国内の事情とを十分検討した結果、これ以上戦争を継(つづ)けることは無理だと考える。国体問題についていろいろ疑義があるとのことであるが、私はこの回答文の文意を通じて、先方は相当好意を持っているものと解釈する。先方の態度に一抹の不安があるというのも一応はもっともだが、私はそう疑いたくない。要は我が国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の申入れを受諾してよろしいと考える。どうか皆もそう考えて貰いたい。
 さらに陸海軍の将兵にとって武装の解除なり保障占領というようなことはまことに堪え難いことで、その心持は私にはよくわかる。しかし自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。この上戦争を続けては結局我が邦(くに)がまったく焦土となり、万民にこれ以上苦悩を嘗(な)めさせることは私としてじつに忍び難い。祖宗の霊にお応(こた)えできない。和平の手段によるとしても、素より先方の遣(や)り方に全幅の信頼を措(お)き難いのは当然であるが、日本がまったく無くなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすればさらにまた復興という光明も考えられる。
 私は明治大帝が涙をのんで思い切られたる3国干渉当時の御苦衷をしのび、この際耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思う。
 今日まで戦場に在って陣歿(じんぼつ)し、或(あるい)は殉職して非命に斃(たお)れた者、またその遺族を思うときは悲嘆に堪えぬ次第である。また戦傷を負い戦災をこうむり、家業を失いたる者の生活に至りては私の深く心配する所である。この際私としてなすべきことがあれば何でもいとわない。国民に呼びかけることがよければ私はいつでもマイクの前にも立つ。一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから、突然この決定を聞く場合動揺も甚しかろう。陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう。この気持をなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持をよく理解して陸海軍大臣は共に努力し、よく治まるようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない。この際詔書を出す必要もあろうから、政府はさっそくその起案をしてもらいたい。以上は私の考えである
  −−20年8月14日 軍部がポツダム宣言の受諾に最後まで反対したため、この日午前、改めて御前会議が開かれた。阿南惟幾陸相らが終戦反対の意見を述べたあとで、天皇は涙を目にあふれさせ、嗚咽(おえつ)でとぎれとぎれになりながら、最終的に終戦の裁断を下された。(下村海南「終戦秘史」)
  ◇
 阿南、阿南、お前の気持はよくわかっている。しかし、私には国体を護(まも)れる確信がある
  −−20年8月14日 御前会議が終わって慟哭(どうこく)する阿南陸相に、天皇は声をかけられた。阿南陸相は15日未明、割腹自殺した。(藤田尚徳「侍従長の回想」)
   ◇
 朕(ちん)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(かんが)ミ非常ノ措置ヲ以(もっ)テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ここ)ニ忠良ナル爾(なんじ)臣民ニ告ク……惟(おも)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固(もと)ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然(しか)レトモ朕ハ時運ノ趨(おもむ)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
  −−20年8月15日 正午、終戦の詔書が天皇ご自身の声で放送された。(玉音放送)
                                    
      
 ○占領下、マッカーサー元帥と会見 「責任、すべて私に」
 戦争責任者を連合国に引渡すは真に苦痛にして忍び難きところなるが、自分が1人引受けて退位でもして納める訳には行かないだらうか
  −−20年8月29日 木戸幸一内大臣に。(「木戸幸一日記」)
    ◇
 私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした
  −−20年9月27日 敗戦によって日本は連合国軍に占領されることになった。8月末から米軍が各地に進駐、9月にはマッカーサーの率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が東京に移され、間接統治の形で占領政策が進められていく。この日、天皇はマ元帥を米国大使館に訪問。モーニング姿の天皇と開襟のラフな服装の元帥が並んだ写真は、国民の目に「敗戦」を突きつけた。しかし、マ元帥は天皇の真摯(しんし)な態度に感銘を受けたといわれる。元帥は占領政策を遂行するための配慮からも天皇擁護に回る。(「マッカーサー回想記」)
    ◇
 敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等(ら)に責任はない。私の一身は、どうなろうと構わない。私はあなたにお委(まか)せする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい
   −−20年9月27日 当時の藤田尚徳侍従長は、外務省がまとめた天皇とマ元帥との会見内容を天皇に届けた。天皇が述べられた言葉について、彼我の資料がほぼ一致する。ただこの後、天皇が国民の前で「戦争責任」を語られることはなかった。(「侍従長の回想」)
    ◇
 自分が恰(あたか)もファシズムを信奉するが如(ごと)く思はるゝことが、最も堪へ難きところなり、実際余りに立憲的に処置し来りし為(た)めに如斯(かくのごとき)事態となりたりとも云ふべく、戦争の途中に於(おい)て今少し陛下は進んで御命令ありたしとの希望を聞かざるには非(あら)ざりしも、努めて立憲的に運用したる積りなり
  −−20年9月29日 天皇は、木戸内大臣を呼び、「米国側の自分に対する論調が残念だ」と述懐され、自分の真意を新聞記者を通して明らかにするか、あるいはマ元帥に話してみようか、と相談された。木戸内大臣は「弁明するとかえって邪推されるから隠忍された方が」とすすめた。(「木戸幸一日記」)
                                    
      
 ○人間宣言・責任論
   開戦「憲法上、裁可以外に道はない」
   終戦「初めて意見を求められ、所信」
 朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依(よ)リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延(ひい)テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ
  −−21年1月1日 異例の詔書で自ら神格を否定された。「人間宣言」である。GHQは、天皇に対する国民の自由な批判を奨励し、国家と神道の分離を指令していた。
    ◇
 随分と厳しい残酷なものだね、これを、この通り実行したら、いままで国のために忠実に働いてきた官吏その他も生活できなくなるのではないか。藤田に聞くが、これは私にも退位せよというナゾではないだろうか
  −−21年1月4日 GHQが軍国主義指導者に公職追放令。それを聞いて藤田侍従長に。(「侍従長の回想」)
    ◇
 申すまでもないが、戦争はしてはならないものだ。こんどの戦争についても、どうかして戦争を避けようとして、私はおよそ考えられるだけは考え尽した。打てる手はことごとく打ってみた。しかし、私の力の及ぶ限りのあらゆる努力も、ついに効をみず、戦争に突入してしまったことは、実に残念なことであった。
 ところで、戦争に関して、この頃(ごろ)一般で申すそうだが、この戦争は私が止(や)めさせたので終った。それが出来たくらいなら、なぜ開戦を阻止しなかったのかという議論であるが、如何(いか)にも尤(もっと)もと聞える。しかし、それはそうは出来なかった。天皇は憲法の条規によって行動しなければならない。憲法上明記してある国務各大臣の責任の範囲内には、天皇はその意志によって勝手に容喙(ようかい)し干渉し、これを掣肘(せいちゅう)することは許されない。だから内治にしろ外交にしろ、憲法上の責任者が慎重に審議して、ある方策をたて、これを規定に遵(したが)って提出し、裁可を請われた場合には、私はそれが意に満ちても意に満たなくても、よろしいと裁可する以外に執るべき道はない。
 だが、戦争をやめた時のことは、開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分れて対立し、議論が果しもないので、鈴木が最高戦争指導会議で、どちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰(だれ)の責任にも触れず、権限をも侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を、初めて与えられたのだ。だから、私は予(か)ねて考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである。しかし、この事は、私と肝胆相照した鈴木であったからこそ、この事が出来たのだと思っている
  −−21年2月 天皇の戦争責任を追及する議論を耳にし、藤田侍従長に心情を語られた。(「侍従長の回想」)
                                    
      
 ○象徴・戦後巡幸 「住宅や生活に 困ってないか」
 何年位いるか
 住宅等に不便はないか
 生活には困っていないか
  −−21年2月19日 この日の神奈川県を振り出しに、「戦後巡幸」を始められた。皮切りの昭和電工川崎工場で、従業員に短い言葉をかけられ、相手の答えに一つ一つ「あっ、そう」とうなずいて回られた。「戦後巡幸」は以降29年まで、沖縄を除く全都道府県に及んだ。天皇は「直接に国民を慰め、あるいは復興の努力を激励したいと思った」(55年夏の記者会見)と、動機を語られている。
   ◇
 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであって、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によって、確定されたものである……朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ
  −−21年11月3日 主権在民・平和主義・人権尊重の日本国憲法公布。記念式典で天皇は勅語を読まれた。天皇の地位は、「日本国・日本国民統合の象徴」に変わる。
    ◇
 ウドン、スイトン、いもなど種々雑多な代用食を食べている
  −−22年6月3日 皇居内の御養蚕所で、宮内府記者団の質問に。前年5月19日の「食糧メーデー」では、「朕はタラフク食ってるぞ。ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが現れている(プラカード事件)。
    ◇
 広島市民の復興の努力のあとをみて満足に思う。皆の受けた災禍は同情にたえないが、この犠牲を無駄にすることなく世界の平和に貢献しなければならない
  −−22年12月7日 戦後初めて広島入りされた天皇は、市民の前であいさつされた。
    ◇
 国民を今日の災難に追込んだことは申訳なく思っている。退くことも責任を果す1つの方法と思うが、むしろ留位して国民と慰めあい、励ましあって日本再建のためつくすことが、先祖に対し、国民に対し、またポツダム宣言の主旨にそう所以(ゆえん)だと思う
  −−23年11月ごろ この年11月、極東国際軍事裁判でA級戦犯のうち東条英機元首相ら7人に死刑判決。このころ、退位問題が取りざたされたが、天皇は裁判が終わったころ、ご自分の考えをもらされたという。
    ◇
 新聞、ラジオ、映画であなた方が非常に努力され、日米親善につくしてくれたことを知って喜んでいます。どうかこれからも水泳のためますます努力されるよう望みます
  −−24年9月5日 この年8月の全米水泳選手権で数々の世界新記録をつくった古橋広之進選手ら選手団があいさつに訪れたのに対して。
    ◇
 今次の相つぐ戦乱のため、戦陣に死し、職域に殉じ、また非命にたおれたものは、挙げて数うべくもない。衷心その人々を悼み、その遺族を想(おも)うて、常に憂心やくが如きものがある。本日この式に臨み、これを思い彼を想うて、哀傷の念新たなるを覚え、ここに厚く追悼の意を表する
  −−27年5月2日 東京・新宿御苑で行われた初めての「全国戦没者追悼式」で。
    ◇
 ここにわが国が独立国として再び国際社会に加わるを得たことはまことに喜ばしく……特にこの際、既往の推移を深く省み、相共に戒慎し、過ちをふたたびせざることを堅く心に銘すべきであると信じます。……この時に当たり、身寡薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あえて自らを励まして、負荷の重きにたえんことを期し、日夜ただおよばざることを恐れるのみであります。こいねがわくば、共に分を尽くし事に勉(はげ)み、相たずさえて国家再建の志業を大成し、もって永くその慶福を共にせんことを切望してやみません
  −−27年5月3日 この年4月、ソ連などを除いて対日平和条約が発効、日本は沖縄を除き占領状態を解かれて独立した。この日、皇居前広場で記念式典が行われ、天皇はメッセージを発表された。退位説を自ら否定されたものでもあった。
                                    
      
 ○親善・和解・ねぎらい
 「不幸な過去、誠に遺憾 繰り返されてはならない」
 カゴの鳥だった私にとって、あの旅行ははじめて自由な生活ということを体験したものだった。あの体験は、その後の私に非常に役立っていると思う
  −−45年9月16日 那須御用邸での宮内記者会との会見で、皇太子時代のご訪欧(大正10年)の思い出を語られた。
   ◇
 空港に着陸以来、貴国民の心の温かさを身にしみて感じております。それは50年前私に示された豊かな温情とまったく変わりがありません。当時私はジョージ5世からいただいた慈父のようなお言葉を胸中深くおさめた次第です
  −−46年10月5日 天皇はこの年9月から10月にかけて、かつての対戦国を含むヨーロッパ各国を親善訪問された。バッキンガム宮殿で開かれたエリザベス女王主催の晩さん会で。
    ◇
 長い間どんなにか苦労したことだろう。これから十分休養してくれればいいが……
  −−47年2月2日 この年1月24日、グアム島のジャングルで、元日本兵横井庄一さんが「天皇陛下さまからいただいた」小銃を持って発見された。そしてこの日、「恥ずかしながら」と、帰国。テレビでご覧になった天皇は、感想をもらされた。
    ◇
 近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか。
 防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところはまねせず、いいところは取り入れてしっかりやってほしい
  −−48年5月26日 増原防衛庁長官が「当面の防衛問題」について「内奏」した際、天皇からお言葉があったと記者団に紹介。天皇の地位を政府が政治的に利用するものではないか、など、国会で大きな議論になった。田中(角栄)内閣は、皇室への波及を心配し、「国政に関する天皇のご発言はなかった」と“訂正”、増原氏を更迭して事件を処理した。
    ◇
 (真珠湾攻撃について)私が軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定した後に受けていただけなのです。政治的性格の問題や、軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています
 退位については、憲法やその他の法律が認めていない。だから私は、それについては考えたことがありません
  −−50年9月22日 訪米を前に皇居で行われた在京外国人記者団との会見で。
    ◇
 私は多年、貴国訪問を念願にしておりましたが、もしそのことがかなえられた時には、次のことをぜひ貴国民にお伝えしたいと思っておりました。と申しますのは、私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争の直後、貴国が、わが国の再建のために、温かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました。当時を知らない新しい世代が、今日、日米それぞれの社会において過半数を占めようとしております。しかし、たとえ今後、時代は移り変わろうとも、この貴国民の寛容と善意とは、日本国民の間に、長く語り継がれて行くものと信じます
  −−50年10月2日 天皇はこの年9月から10月にかけ約2週間、アメリカをご訪問。ホワイトハウスでのフォード大統領主催晩さん会で、さきの戦争を「私が深く悲しみとする」と表現された。英文テキストでは「I
 deeply deplore」とより強い表現に訳されて波紋を呼んだが、その率直な心情の吐露は米国民の心を打った。
    ◇
 (ホワイトハウスの晩さん会で「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」と述べられたことについて、それは天皇が戦争責任をお認めになったものか−−との質問に)そういう言葉のアヤについては、文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、お答えができかねます
 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、戦争中であることですから、広島市民に対しては気の毒ではあるが、やむをえないことと私は思っています
  −−50年10月31日 訪米後、皇居で行われた記者会見で。この会見では初めてテレビ録画、録音も認められ、一問一答の模様が茶の間に。発言中「原爆やむをえない」のくだりが問題になったが、天皇はあとで側近に「表現が足りなかったせいもあるが、私の真意が誤解されている」と語られたという。
   ◇
 両国の長い歴史の間には、一時、不幸な出来事もあったけれども(トウ^副首相の)お話のように過去のこととしてこれからは長く両国の親善の歴史が進むことを期待しています
   −−53年10月23日 日中平和友好条約の批准書交換のため来日した中国のトウ^小平副首相と会見。トウ^副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの……」と述べたのに対して。
   ◇
 顧みれば、貴国と我が国とは、一衣帯水の隣国であり、その間には、古くより様々の分野において密接な交流が行われて参りました。長い歴史にわたり、両国は、深い隣人関係にあったのであります。このような間柄にもかかわらず、今世紀の一時期において、両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います
   −−59年9月6日 韓国の全斗煥大統領が国賓として初めて来日。宮中晩さん会で天皇が植民地時代の過去にどのように触れられるか注目を集めるスピーチだった。
   ◇
 さきの大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を蒙(こうむ)り、一般住民を含む数多(あまた)の尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も永らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思うとき、深い悲しみと痛みを覚えます。
 ここに、改めて、戦陣に散り、戦禍にたおれた数多くの人々やその遺族に対し、哀悼の意を表するとともに、戦後の復興に尽力した人々の労苦を心からねぎらいたいと思います。……思わぬ病のため今回沖縄訪問を断念しなければならなくなったことは、誠に残念でなりません。健康が回復したら、できるだけ早い機会に訪問したいと思います
  −−62年10月24日 病気のため沖縄訪問を断念された陛下に代って、皇太子殿下が沖縄県糸満市の沖縄平和祈念堂で読まれたお言葉。
                                    
      
 ○ご長寿・回顧 「皇后がいつも支えてくれた」
 あの宣言(昭和21年元日の「人間宣言」)の第1の目的は御誓文でした。神格とかは2の問題でありました。当時、アメリカその他諸外国の勢力が強かったので、国民が圧倒される心配がありました。民主主義を採用されたのは明治大帝のおぼしめしであり、それが5箇条御誓文です。大帝が神に誓われたものであり、民主主義が輸入のものでないことを示す必要が大いにあったと思います。あの詔勅は、日本の誇りを国民が忘れると具合が悪いと思いましたので、誇りを忘れさせないため、明治大帝の立派な考えを示すために発表しました
 現行憲法の第1条(象徴規定)は国体の精神に合ったことであり、法律的にやかましくいうことではなく、あれでいいと思いました
  −−52年8月23日 那須御用邸での会見で。
    ◇
 (この80年間でとくに印象に残る思い出を−−との質問に)戦争のことについては、いうまでもないことであります。皇后と一緒に欧米を訪問したことは忘れることができません。しかし一番楽しかったことは、皇太子時代のヨーロッパ訪問です
  −−55年9月2日 那須御用邸での会見で。
    ◇
 立憲政治を基礎とするという考えに拘泥しすぎて、戦争を防止できなかったのかもしれない
  −−56年4月17日 80歳の誕生日を前に、新聞、放送各社社長との昼食会で、開戦決定のころを振り返られて。「立憲政治を尊重することが私の考え方の基本だったので、自分が本当に決断したのは2度だけ(2・26事件と終戦時)だった」と話されたあとに。
   ◇
 皇后がいつもほがらかで、家庭を明るくしてくれ、私の気持ちを支えてくれたことを感謝している。(最近は)一緒に出かけることが少なくなっているが、これからも、できるだけ、そろって出かける機会を考えていきたい。(新婚当時の思い出は)結婚した年の夏、福島県の翁島で、ひと夏を過ごしたこと。モーターボートに乗り、自分で馬車を御して皇后を乗せ、ゴルフ、テニス、スカル、水泳などを楽しんだ
   −−59年1月26日 ダイヤモンド婚のご感想。
   ◇
 60年の間に、一番つらいことは、何と言っても第2次大戦の関係のことであります。最もうれしく感じましたことは、国民の努力によって、今日の繁栄を築き上げたことであります
  −−61年4月末 在位60年記念式典前の会見で。



◆1989年1月7日 夕刊 特設ニュース面
歩まれた長い道のり 天皇陛下ご逝去<日誌> 


 ◆明治 
 <ご誕生−プリンスとして>
 34・4・29 東京・青山の東宮仮御所で誕生。
 (1901)
   5・5 裕仁(ひろひと)と命名。称号は迪宮(みちのみや)。
   7・7 御養育掛・海軍中将川村純義伯爵邸へ移る。
   12・10 田中正造、明治天皇に足尾鉱毒事件を直訴。
 35・1・30 日英同盟協約、ロンドンで調印。
   6・25 弟の淳宮雍仁(あつのみや・やすひと)親王誕生。
 36・3・6 久邇宮邦彦(くにのみや・くによし)王の長女、良子(ながこ)女王誕生。
   4・13 国定教科書制度成立。
   11・15 幸徳秋水、堺利彦ら平民社結成。社会主義を唱える。
   11・21 第1回早慶対抗野球試合。
 37・2・10 ロシアに宣戦布告、日露戦争始まる。
 38・1・1 旅順のロシア軍降伏。
   1・3 2番目の弟、光宮宣仁(てるのみや・のぶひと)親王誕生。
   1・22 第1次ロシア革命起こる。
   5・27 日本海海戦。
   9・5 日露講和条約(ポーツマス条約)調印。
 39・3・31 鉄道国有法公布。
 40・3・21 小学校の義務教育年限が6年に。
 41・4・11 学習院初等科入学(院長・乃木希典大将)。
 42・10・26 伊藤博文、ハルビン駅で韓国人、安重根に暗殺される。
 43・8・22 韓国併合に関する日韓条約調印。
 44・1・18 大審院、大逆事件の幸徳秋水ら24被告に死刑判決(25日までに、12人の死刑執行、12人は無期懲役に減刑)。
 45・1・1 中華民国成立。孫文、臨時大総統に就任。
   2・12 清国の宣統帝退位、清朝滅亡。
   7・6 第5回ストックホルム・オリンピックに日本選手初参加。
   7・30 明治天皇崩御、59歳。皇太子嘉仁(よしひと)親王即位、裕仁親王は皇太子に。11歳。
                                    
      
 ◆大正
 1・7・30 「大正」と改元。
 (1912)
   9・13 明治天皇大喪、青山葬場殿で挙行。乃木大将夫妻殉死。
   12・19 陸軍増師・閥族政治反対の憲政擁護第1回大会、東京で開かれる。
 2・7・6 宣仁親王、高松宮家を創設。
   11・22 最後の将軍、徳川慶喜死去、76歳。
 3・1・23 シーメンス事件(海軍汚職事件)明るみに。
   4・2 学習院初等科を卒業。
   4・11 昭憲皇太后ご逝去、63歳。
   5・4 東宮御学問所始業式(総裁・東郷平八郎元帥)。
   7・28 オーストリア、セルビアに宣戦布告、第1次世界大戦始まる。
   8・15 パナマ運河開通。
   8・23 日本、ドイツに宣戦布告、第1次世界大戦に参加。
   12・18 東京駅開業。
 4・11・10 大正天皇、京都御所で即位の大礼。
   12・2 末の弟、澄宮崇仁(すみのみや・たかひと)親王誕生。
 5・1・12 大隈首相暗殺未遂事件起こる。
   11・3 立太子礼、15歳。
 6・3・15 ロシア2月革命。ニコライ2世退位し、ロマノフ王朝滅亡。
   9・12 金本位制停止、金輸出禁止。
   11・7 ロシア10月革命。ソビエト政権成立。
 7・1・14 久邇宮良子女王、皇太子妃に内定、14歳。
   8・2 シベリア出兵宣言。
   8・3 富山県に米騒動、全国に波及。
   9・29 原敬内閣成立。
   11・11 第1次世界大戦終わる。
 8・1・18 パリ講和会議開く(〜6・28)。
   3・1 朝鮮各地で独立運動(万歳事件)。
   3・2 モスクワでコミンテルン創立大会。
   5・7 成年式。18歳。
   6・10 良子女王と婚約。
 9・1・10 国際連盟発足。
   5・2 上野公園で日本最初のメーデー。
   10・1 第1回国勢調査。
 10・2・10 宮内、内務両大臣が、良子女王の母方である島津家の色盲遺伝をめぐる「宮中某重大事件」で、皇太子妃内定に変更なし、との談話を発表。宮内大臣・中村雄次郎辞任。
   2・18 東宮御学問所を修了。
   3・3 ヨーロッパ旅行に軍艦香取で出発。英国、フランス、ベルギー、イタリアなど訪問(9・3帰国)。
   7・1 毛沢東ら中国共産党結成。
   11・4 原敬首相、東京駅で刺殺される。
   11・25 摂政に就任、20歳。
 11・2・6 ワシントン海軍軍縮条約調印。
   6・25 雍仁親王、秩父宮家を創設。
   7・15 日本共産党、非合法に結成。
   9・28 納采(のうさい)の儀。
   10・31 イタリア、ムソリーニ内閣成立。
   12・30 ソビエト社会主義共和国連邦成立。
 12・4・12 台湾へ旅行(〜5・1)。
       宮内省、「結婚式は12年11月下旬に内定」と発表。
   6・5 第1次共産党事件。堺利彦ら共産党員が検挙される。
   9・1 関東大震災。東京などに戒厳令、朝鮮人虐殺(〜9・4)。
   9・15 東京市内の災害地を巡視。
   9・19 良子女王との結婚延期を発表。
   12・27 帝国議会開院式へ出席途中、東京・虎ノ門跡付近で難波大助に狙撃されたが、無事(虎ノ門事件)。
 13・1・5 二重橋爆弾事件(朝鮮独立運動「義烈団」の幹部が爆弾を投げたが不発、その場で逮捕)。
   1・20 中国、第1次国共合作成立。
   1・26 良子女王と結婚、22歳。良子女王は20歳。
   6・13 小山内薫ら築地小劇場開場。
 14・1・20 日ソ基本条約調印、日ソ国交樹立。
   4・22 治安維持法公布。
   4・30 赤坂東宮仮御所に生物学御研究室を設置(主任に服部広太郎理博)。
   5・5 普通選挙法公布。25歳以上の男子に選挙権。
   8・5 樺太を訪問(〜8・17)。
   12・6 長女、照宮成子(てるのみや・しげこ)内親王が誕生。
 15・1・15 京大など全国の社研学生検挙。最初の治安維持法適用事件。
   3・25 大審院、朴烈、金子文子に裕仁親王の暗殺を企てたとして大逆罪で死刑宣告。(4・5無期に減刑、7・23金子自殺。検挙は関東大震災の翌々日の12・9・3)。
   7・15 那須御用邸完工。
   12・25 大正天皇崩御、47歳。直ちに践祚(せんそ)、25歳。
                                    
      
 ◆昭和
 <ご即位−つかの間の平和>
 1・12・25 「昭和」と改元。
 (1926)
 2・1・20 先の天皇の追号を「大正天皇」、御陵名を「多摩陵」と決定。
   2・7 新宿御苑葬場殿で大正天皇の大喪。
   3・3 明治節制定の詔書を出す。
   3・15 金融恐慌始まる。
   4・22 緊急勅令で3週間の金銭債務支払猶予令(モラトリアム)。
   9・10 次女、久宮祐子(ひさのみや・さちこ)内親王が誕生(3・3・8病死)。
   11・19 名古屋での陸軍大演習の観兵式で、北原泰作2等兵(全国水平社員)軍隊内の差別について直訴。
 3・2・1 日本共産党、「赤旗」を創刊。
   3・15 共産党員全国的大検挙(3・15事件)。
   6・4 奉天で張作霖爆殺事件。
   6・29 治安維持法が強化され、死刑、無期刑など追加。
   7・3 全国の警察に特別高等課を設置。
   8・27 パリ不戦条約調印。
   9・14 赤坂離宮から宮城(皇居)へ移る。
   9・28 秩父宮、松平勢津子と結婚。
   10・8 蒋介石、中国・国民政府の主席に就任。
   11・10 京都御所で即位の大礼。ひきつづいて大嘗祭(だいじょうさい=11・14〜15)。27歳。
 4・1・27 皇后の父、久邇宮邦彦王死去、55歳。
   7・1 政府、張作霖爆殺事件の責任者処分を発表。首謀者河本大作大佐を停職にとどめたため、天皇は軍の横暴を怒り田中義一首相を叱責(しっせき)。翌日、内閣総辞職。
   8・19 独飛行船ツェッペリン伯号来日。
   9・30 3女、孝宮和子(たかのみや・かずこ)内親王が誕生。
   10・24 ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる。
   11・28 都市美協会、宮城を見おろすとして新築中の警視庁舎望楼の撤去請願。10メートル低くなる(6・10・20落成)。
 5・1・11 金輸出解禁、金本位制に復帰。
   2・4 高松宮、徳川喜久子と結婚。
   11・14 浜口雄幸首相、東京駅で狙撃され重傷。
 6・3・7 4女、順宮厚子(よりのみや・あつこ)内親王が誕生。
       
 <満州事変−太平洋戦争>
 6・9・18 柳条湖事件をきっかけに満州事変起こる。
 (1931)
   12・17 銀行券金兌換(きんだかん)を停止。
 7・1・8 陸軍の観兵式の帰途、警視庁前で朝鮮人李奉昌、天皇の車に手投げ弾を投げたが無事(桜田門事件)。
   1・28 第1次上海事変起こる。
   2・9 井上準之助・前蔵相、血盟団員に射殺される。
   3・1 満州国建国宣言、執政に溥儀。
   5・15 5・15事件。海軍青年将校と陸軍士官学校生徒ら首相官邸などを襲撃、犬養毅首相を射殺。
   8・20 農村の窮状を救うため300万円を贈る。
   12・16 白木屋デパート火事、初の高層建築火災。死者14人、重傷46人。
 8・1・30 ヒトラー、独首相に就任。
   2・20 作家・小林多喜二、検挙され、築地署で虐殺。
   3・27 国際連盟脱退。
   4・1 小学国語読本、俗に言うサクラ読本を採用。
   4・22 鳩山文相、滝川幸辰京大教授の辞職を要求、滝川事件起こる。
   10・14 ドイツ、国際連盟脱退。
   12・23 皇太子、継宮明仁(つぐのみや・あきひと)親王が誕生。
 9・3・1 満州国帝政実施、皇帝溥儀。
   4・18 帝人疑獄事件起こる。
   5・30 東郷平八郎元帥死去、86歳。
   8・19 ヒトラー、ドイツ総統となる。
   9・21 室戸台風。死者不明3036人。
   10・20 正田美智子さんが誕生。
   11・16 陸軍特別大演習で群馬、栃木県などへ。桐生市で誤導事件起こり、先導の警官、自殺を図る。
 10・2・18 貴族院で美濃部達吉・東大教授の憲法学説「天皇機関説」が問題となる。
   8・12 陸軍省軍務局長・永田鉄山少将、皇道派の相沢三郎中佐に刺殺される。
   9・1 第1回芥川賞、直木賞発表。石川達三と川口松太郎。
   11・28 次男、義宮正仁(よしのみや・まさひと)親王が誕生。
   12・2 崇仁親王、三笠宮家を創設。
 11・1・15 ロンドン海軍軍縮会議脱退、無制限建艦競争始まる。
   2・26 2・26事件。皇道派青年将校が1400人余の部隊を率いて斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害。2・27東京市に戒厳令。2・29反乱軍帰順。
   3・24 内務省、メーデー禁止を通達。
   4・18 外務省、国号を「大日本帝国」と統一。
   5・18 軍部大臣現役制が復活。
   8・7 5相会議で「国策の基準」を決定。大陸、南方への進出など決める。
   11・25 日独防共協定調印。
 12・7・7 盧溝橋で日中両軍衝突、日中戦争始まる。
   11・20 宮中に大本営設置。
   12・13 日本軍、南京を占領。
 13・1・11 御前会議「支那事変処理根本方針」を決定。
   1・16 近衛首相、「国民政府(蒋介石)を相手とせず」の声明を発表。
   4・1 国家総動員法公布。
   10・21 日本軍、広東占領。
   10・27 日本軍、武漢3鎮を占領。
   11・3 近衛首相、東亜新秩序建設を声明。
 14・1・15 69連勝の横綱双葉山、安芸ノ海に敗れる。
   3・2 5女、清宮貴子(すがのみや・たかこ)内親王が誕生。
   5・11 ノモンハン事件起こる。
   6・5 宮中月次歌会の勅題に「消費節約」。
   7・8 国民徴用令公布、いわゆる「赤紙(兵役召集令状)」に対し「白紙(しろがみ)」。
   9・1 ドイツがポーランドに侵入。第2次世界大戦始まる(9・3)。
 15・1・26 日米通商航海条約を廃棄。
   3・9 衆議院、聖戦貫徹決議案可決。
   3・30 汪兆銘の国民政府、南京で発足。
   4・8 皇太子、学習院初等科入学。
   7・26 政府「八紘一宇」の基本国策を決定。
   8・15 民政党解散、全政党の解党終わる。
   9・27 日独伊3国同盟調印。
   10・12 大政翼賛会発会式。
   11・10 「紀元2600年」記念式典。
   11・24 最後の元老、西園寺公望死去、91歳。
 16・4・13 日ソ中立条約調印。
   6・22 独ソ戦始まる。
   7・2 御前会議、「南方進出には対英米戦辞せず、対ソ戦準備」などの国策要綱決定。
   8・1 米国、対日航空機ガソリン輸出を禁止。
   9・6 御前会議、「10月下旬を目途に対米英蘭戦争準備を完整」の帝国国策遂行要領を決定。
   10・15 ゾルゲ事件。
   10・18 東条英機内閣成立。
   10・22 三笠宮、高木百合子と結婚。
   11・5 御前会議、「対米交渉最終案と12月初旬武力発動」を決める。
   12・1 御前会議、米英蘭への開戦を決定。
   12・8 ハワイ真珠湾攻撃、太平洋戦争始まる。
   12・25 香港の英軍降伏。
 17・1・2 マニラ占領。
   2・15 シンガポール占領。
   3・9 ジャワのオランダ軍降伏。
   4・18 米機、日本本土初空襲(東京、名古屋、神戸など)。
   4・30 翼賛選挙。
   6・5 ミッドウェー海戦、米軍反攻へ。
   8・7 米軍、ガダルカナル島上陸。
 18・4・18 連合艦隊司令長官山本五十六、戦死。
   5・29 アッツ島の日本軍玉砕。
   7・1 東京都制実施。
   9・8 イタリア無条件降伏。
   10・13 照宮、東久邇宮盛厚王と結婚。
   11・27 米英中「カイロ宣言」。
   12・1 第1回学徒兵入隊(学徒出陣)。
 19・6・6 連合軍、ノルマンジー上陸。
   6・19 マリアナ沖海戦。
   6・30 大都市の学童集団疎開決定(8・4、第1陣上野出発)。
   7・7 サイパン島陥落。
   8・4 国民総武装の決定、竹ヤリ訓練始まる。
   8・10 グアム島日本守備隊壊滅。
   10・24 レイテ沖海戦。海軍神風特攻隊初めて米艦を攻撃(10・25)。
   11・24 B29、東京空襲。
   12・29 皇居吹上御所に防空壕(ごう)完成。
 20・2・4 米英ソ、ヤルタ会談開く。
   2・25 皇居へ初めて焼夷(い)弾落ちる。
   3・9 東京大空襲(〜3・10)。
   3・10 初孫、東久邇宮信彦王防空壕で誕生。
   3・18 東京・下町の戦災地を視察。
   3・25 硫黄島の日本軍壊滅。
   4・1 米軍、沖縄に上陸(6・23日本軍壊滅)。
   5・7 ドイツ無条件降伏。
   5・26 空襲で宮殿全焼。皇宮警察官ら34人が死亡、24日からの空襲で東京都区内の大半焼失。大宮御所、秩父宮、三笠宮邸なども炎上。
   6・8 天皇臨席の最高戦争指導会議、本土決戦方針を採択。
   7・26 米、英、中、ポツダム宣言発表。
   8・6 広島に原爆投下。
   8・8 ソ連、対日宣戦布告。
   8・9 長崎に原爆投下。
                                    
      
 <終戦−神から人へ>
 20・8・10 天皇、御前会議でポツダム宣言の受諾を決意。「終戦の聖断」。
 (1945)
   8・14 御前会議、ポツダム宣言受諾を決定。
   8・15 正午「戦争終結の詔書」を放送(8・14録音)。第2次世界大戦、太平洋戦争終わる。
   8・17 東久邇内閣成立。
   8・28 戦後復興資材として御料林の材木100万石を贈る。
   8・30 連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー、厚木に到着。
   9・2 東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書調印式。
   9・11 連合国軍総司令部(GHQ)、東条英機ら39人の戦争犯罪人の逮捕指令。
   9・25 外人記者と初めて会見。
   9・27 マッカーサー元帥を訪問。
   10・4 GHQ、天皇批判の自由を含む「政治的、市民的、宗教的自由に対する制限撤廃の覚書」を発表。
   10・10 徳田球一ら政治犯釈放。
   10・20 「赤旗」再刊。天皇制打倒を主張。
   10・24 国際連合発足。
   11・6 GHQ、財閥解体を指令。
   11・18 GHQ、皇室財産(GHQ調べで約16億円)凍結を指令。
   11・24 内大臣府廃止。
   12・6 GHQ、近衛文麿、木戸幸一らを戦犯で逮捕を命令。近衛服毒自殺(12・16)。
   12・9 GHQ、農地改革を指令。
   12・22 宮内省記者17人と初めて会見。
 21・1・1 年頭詔書で「人間宣言」。
   1・4 GHQ、軍国主義者の公職追放を指示。
   1・18 名古屋で南朝の子孫と称する熊沢天皇出現。
   2・17 金融緊急措置令で新円に切り替え。
   2・19 初の戦災地視察で川崎、横浜両市へ(〜2・20)、全国戦災地視察(戦後巡幸)始まる。
   4・10 婦人参政権を認めた新選挙法による初の総選挙。
   5・12 「米よこせ」デモ、皇居に入る。
   5・24 食糧危機突破について録音放送。
   10・1 ニュルンベルク国際軍事裁判で判決。
   10・15 皇太子の家庭教師としてバイニング夫人来日。
   11・3 新憲法公布。天皇は「象徴」に。
 22・1・16 新皇室典範、皇室経済法を公布。
   1・31 GHQ、2・1ゼネスト中止を指令。スト中止。
   2・20 宮内省、天皇の財産37億円と発表。
   3・31 衆議院解散、帝国議会終幕。
   4・1 6・3制教育スタート。
   5・3 日本国憲法施行。天皇、皇后と皇居前の新憲法施行記念式典に出席。宮内省は宮内府となる。
   6・3 文部省、「天皇陛下万歳」「宮城遥拝」など取りやめを通達。
   6・14 大阪文楽座で人形浄瑠璃を見物。
   10・5 コミンフォルム結成。
   10・10 極東国際軍事裁判のキーナン検事「天皇に戦争責任なし」と言明。
   10・14 3直宮家を除く賀陽、閑院など11宮家51人の皇籍離脱。
   10・26 改正刑法公布。不敬罪廃止。
   11・27 中国地方視察旅行の際、鳥取駅で歓送迎の混雑で死者1、重軽傷多数。
   12・22 民法改正、家制度廃止。
 23・1・1 皇居一般参賀始まる。
   1・21 松本治一郎参院副議長、国会開会式で天皇への拝謁(はいえつ)を拒否。
   1・29 歌会始の入選者に初めて会う。
   3・29 義宮の学習院初等科卒業式に、父兄として皇后と出席。
   4・1 ベルリン封鎖始まる。
   6・23 昭電疑獄。
   7・1 「宮城」を「皇居」と改称。
   7・20 国民の祝日に関する法律公布。天長節は天皇誕生日に、紀元節廃止。
   8・15 大韓民国独立式典。
   9・9 朝鮮民主主義人民共和国樹立。
   9・18 全日本学生自治会総連合(全学連)結成。
   11・12 極東国際軍事裁判で、25被告に有罪判決。東条英機ら7人は絞首刑(12・23執行)。
   12・10 国連総会「世界人権宣言」を採択。
 24・1・1 GHQ、日の丸の自由使用を許可。
   1・26 銀婚式。
   4・4 西側12カ国、北大西洋条約(NATO)調印。
   4・23 1ドル=360円の単一為替レート決まる。
   5・13 皇居の警備、連合国軍から日本側に戻る。
   6・1 宮内府を廃し、宮内庁を設置。
   7・5 下山事件。
   7・15 三鷹事件。
   8・16 古橋広之進、全米水上選手権大会で1500メートル自由形に世界新記録。「フジヤマのトビウオ」といわれる。
   8・17 松川事件。
   9・7 ドイツ連邦共和国(西独)成立。
   9・25 天皇採集の資料をもとに学者が「相模湾産後鰓類図譜」を初めて出版。
   10・1 中華人民共和国成立宣言。
   10・7 ドイツ民主共和国(東独)成立。
   10・20 戦没学生の遺稿集「きけわだつみのこえ」出版。
   10・30 第4回国体(東京)の開会式に出席。以後、恒例となる。
   11・3 湯川秀樹に日本人で初のノーベル賞(物理学)。
   12・28 小金井の東宮仮御所で火事、皇太子の居間など全焼。
 25・2・1 ソ連、天皇の戦争裁判を米国に要求。(1950) 米は拒否(2・3)。
   3・20 皇居西の丸、局御門内の女官雑仕宿舎(木造)約1000平方メートルを焼失。
   5・20 孝宮、鷹司平通結婚。皇后とともに結婚式に出席。
   6・6 マッカーサー、共産党中央委員24人の公職追放を指令。
   6・25 朝鮮戦争始まる。
   7・2 金閣寺全焼。
   7・11 総評結成。
   7・13 第8回臨時国会開会式で「勅語」に代えて「お言葉」。
 26・2・1 天皇の乗用車にキャデラック購入。
   4・15 帰国するマッカーサー元帥と最後の会見(11回目)。
   4・24 横浜の桜木町駅で国電火災。ドアが開かず乗客106人焼死。
   5・17 皇太后(貞明皇后)ご逝去、66歳。
   6・20 政府、第1次追放解除を発表。
   7・10 朝鮮休戦会談開く(〜8・23)。
                                    
      
 <講和−高度成長の波>
 26・9・8 サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印。
 (1951)
   11・3 歌集「みやまきりしま」出版。
 27・1・19 韓国、「李ライン」宣言。
   1・21 白鳥事件。
   2・28 日米行政協定調印。
   4・9 日航機「もく星」号が三原山に墜落。37人全員死亡。
   4・26 政府、最終の追放解除を発表。
   5・1 皇居前で“血のメーデー”事件。
   5・2 新宿御苑の全国戦没者追悼式に皇后と出席。以後、恒例に。
   5・3 皇居前広場で催された平和条約発効、憲法施行5周年記念式典に出席。退位説を自ら否定。
       宮内庁庁舎裏の煙突に宮内庁職員が赤旗を持ってのぼり「天皇制打倒」のノボリを下げる。
   5・19 ボクシングの白井義男、日本人初の世界チャンピオン(フライ級)に。
   7・4 破壊活動防止法成立。
   7・19 ヘルシンキで開催の第15回オリンピック大会に日本が戦後初参加。
   10・10 順宮、池田隆政と結婚。
   11・1 米国、初の水爆実験。
   11・10 皇太子が立太子礼、成年式。
 28・1・4 秩父宮雍仁親王死去、50歳。
   2・1 NHKがテレビ本放送を開始。
   3・5 スターリン・ソ連首相死去、74歳。
   3・30 皇太子、英女王エリザベス2世の戴冠(たいかん)式出席のため出発。欧米14カ国を訪問(10・12帰国)。
   7・27 朝鮮休戦協定調印。
   11・5 大宮御所で戦後初の園遊会。
   11・15 戦後初の国賓としてニクソン米副大統領夫妻が来日。
   12・25 奄美群島、日本に復帰。
 29・1・2 皇居一般参賀で、二重橋の人波が崩れ16人死亡、重軽傷60余人(二重橋事件)。
   3・1 ビキニ水爆実験で第5福竜丸被災。
   3・8 米国と相互防衛援助協定(MSA協定)調印。
   4・21 造船疑獄で犬養法相、指揮権発動。
   7・1 防衛庁・自衛隊が発足。
   8・6 北海道国体出席を兼ね、皇后と道内視察。戦後の全国戦災地視察(戦後巡幸)終わる。帰路は千歳空港から羽田まで初の空の旅(〜8・23)。
   8・16 京都小御所焼失。
   9・26 青函連絡船洞爺丸、台風のため函館港外で座礁転覆。死者、行方不明1000人を超す。
   11・4 生物研究のため初めて伊豆地方へ私的な旅行(〜11・5)。
 30・2・19 東南アジア条約機構(SEATO)発足。
   5・11 瀬戸内海高松沖で国鉄連絡船「紫雲丸」が貨車航送船と衝突、沈没。修学旅行生ら168人が死亡。
   5・24 蔵前国技館で戦後初めて大相撲を観戦。
   8・6 広島で第1回原水爆禁止世界大会。
   10・13 社会党左右両派統一。
   11・15 保守合同、自由民主党結成。
   11・28 義宮、成年式。
   12・20 帝劇で初のシネラマ映画「シネラマ・ホリデー」を観賞。
 31・3・23 東京・日本橋の高島屋で開かれた「ザ・ファミリー・オブ・マン」写真展へ。長崎原爆被災写真にカーテンがかけられ問題になる。
   4・30 三笠宮「帝王と墓と民衆」を出版。
   7・17 経済白書「もはや戦後ではない」と技術革新による発展を強調。
   9・12 皇后の母、久邇俔子(くに・ちかこ)死去、76歳。
   10・19 日ソ国交回復に関する共同宣言。
   11・19 戦後初の外国元首、エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝来日。
   12・18 国連総会、日本加盟を可決。
 32・1・15 皇太子と小泉信三らとの座談を初めてラジオ放送。
   5・15 英国、クリスマス島で水爆実験。
   10・1 日本、国連安保理事会非常任理事国に当選。
   10・4 ソ連、人工衛星スプートニク1号打ち上げに成功。
 33・2・8 在日米地上軍、撤退完了。
   9・27 狩野川台風。死者、行方不明1000人を超す。
   11・11 三笠宮、東京・学士会館の歴史学者の集まりで紀元節反対の意見を表明。
   11・27 皇室会議、皇太子妃に正田美智子さんを決定。婚約発表。
   12・1 1万円札発行。
   12・23 東京タワー完工。
 34・3・28 東京・千鳥ケ淵の「無名戦士の墓」除幕式に出席。
   4・10 皇太子結婚(宮中祝宴の儀は3日間催された)。
   6・25 後楽園球場で、皇后と初めてプロ野球(巨人−阪神戦ナイター)を観戦。
   9・12 為替自由化、実施。
   9・26 伊勢湾台風。死者、行方不明5000人を超える。
 35・1・19 日米新安保条約と日米行政協定改定、調印。
   1・24 民主社会党結成。
   1・25 三井三池労組無期限ストに入る。
   2・23 皇太子の長男、浩宮徳仁(ひろのみや・なるひと)親王が誕生。
   3・10 清宮、島津久永と結婚。
   4・27 東宮御所落成式。
   6・15 安保改定阻止闘争で全学連、警官隊と衝突。東大生樺美智子死亡。
   6・19 新安保条約、行政協定、自然成立。
   9・22 皇太子夫妻、日米修好100年記念式典に米大統領の招待で訪米(〜10・7)。
   10・12 浅沼稲次郎社会党委員長、右翼少年に刺殺される。
   11・10 天皇家をパロディー化した深沢七郎の小説「風流夢譚」発表(12・1出版元、中央公論社が宮内庁に陳謝)。
   12・27 池田内閣、国民所得倍増計画を決定。
 36・2・1 右翼少年が嶋中中央公論社長宅を襲い、家人ら2人殺傷。
   4・12 ソ連、人間衛星ウォストーク1号(ガガーリン少佐)打ち上げに成功。
   4・29 還暦を迎える(5・7皇后主催のお祝いの会)。
   7・23 長女、東久邇成子死去、35歳。
   11・27 吹上御所完成。
   12・21 中央公論社「天皇制」を特集した「思想の科学」を発売中止。
 37・1・15 宮内庁、歌会始入選歌を盗作の疑いで取り消す。
   4・29 「那須の植物」出版(学者との共著)。
   5・3 常磐線三河島駅で二重衝突。死者160人、重軽傷者325人。
   10・22 ケネディ米大統領、キューバ海上封鎖を声明(キューバ危機)。
   11・9 日中間LT貿易始まる。
 38・3・11 宮内庁、雑誌「平凡」の連載小説、小山いと子作「美智子さま」の掲載中止を申し入れ(5月号で中止)。
   3・31 吉展ちゃん誘拐事件起こる(40・7・3犯人逮捕)。
   7・12 生存者叙勲復活。
   8・5 原水禁運動分裂。
   8・15 政府主催第1回全国戦没者追悼式が日比谷公会堂で。天皇出席。
   9・16 敗血症で入院の池田厚子を皇后と共に岡山に見舞う。
   10・26 島津貴子誘拐未遂事件(11・21までに犯人全員逮捕)。
   11・9 横浜市鶴見区の横須賀線で二重衝突事故。死者161人。
       三池三川鉱で炭じん爆発。死者458人。
   11・22 ケネディ米大統領、テキサス州ダラスで暗殺される。
 39・4・5 マッカーサー元帥死去、84歳。
   4・28 経済協力開発機構(OECD)に加盟。
   6・16 新潟地震。
   9・30 義宮、津軽華子と結婚。常陸宮家を創設。
   10・1 東海道新幹線、営業開始。
                                    
      
 <東京五輪−国際舞台へ>
 39・10・10 第18回オリンピック東京大会開会(〜10・24)。
 名誉総裁として開会を宣言。
 (1964)
   10・15 ソ連、フルシチョフ首相兼第1書記を解任。
   10・16 中国、初の原爆実験。
   11・12 米原子力潜水艦、佐世保に入港。
   11・17 公明党結成。
 40・1・24 チャーチル元英首相死去、90歳。
   2・7 米国、ベトナム戦争で北爆開始。
   2・10 衆院予算委で「三矢研究」問題化。
   3・6 山陽特殊鋼が倒産。
   4・23 赤坂御苑で春の園遊会を主催(この年から秋だけでなく春も開催)。
   4・24 ベ平連、初のデモ行進。
   6・22 日韓基本条約調印。
   10・21 朝永振一郎にノーベル物理学賞。
   11・10 中国で文化大革命始まる(上海の「文匯報」が姚文元の論文を掲載、ブルジョア思想を批判)。
   11・19 戦後初の赤字国債発行を閣議決定。
   11・30 皇太子の次男、礼宮文仁(あやのみや・ふみひと)親王誕生。
 41・1・27 鷹司平通、ガス中毒死、42歳。
   2・4 羽田沖で全日空機墜落。133人全員死亡。
   2・23 皇后の還暦記念ホール「桃華楽堂」、東御苑に完成。
   3・4 カナダ航空機、羽田で墜落。死者64人。
   3・5 BOAC機、富士山付近で墜落。124人全員死亡。
   10・7 東京海上火災、地上30階の高層ビル建築を申請、皇居前の美観論争起こる。
   12・18 三笠宮やす子内親王^、近衛忠てる^と結婚。
   12・27 衆議院「黒い霧」解散。
 42・1・29 第31回総選挙、自民党の得票率初めて50%割る。
   2・11 初の建国記念の日。
   2・15 初の著書「カゴメウミヒドラ科のヒドロ虫類の検討」出版。
   3・6 皇后、自作の日本画集「桃苑画集」を限定出版。
   4・15 東京都に美濃部亮吉革新知事。
   5・22 皇居本丸庭園完成。
   7・1 ヨーロッパ共同体(EC)発足。
   8・3 公害対策基本法公布。
   10・8 佐藤首相の東南アジア訪問をめぐる第1次羽田事件、学生1人死亡。
   10・20 吉田茂元首相死去、89歳(10・31国葬)。
   11・12 佐藤首相の訪米抗議で第2次羽田事件。
 43・1・19 米原子力空母エンタープライズ、佐世保入港。
   3・16 南ベトナムの米軍、ソンミの大虐殺。
   5・16 十勝沖地震。
   6・26 小笠原諸島、日本に復帰。
   8・8 札幌医大で日本初の心臓移植手術。手術後83日目に死亡。
   9・26 政府、水俣病と阿賀野川水銀中毒を公害病に正式認定。
   10・1 皇居東御苑を一般公開。
   10・17 ノーベル文学賞に川端康成。
   10・21 国際反戦デーで新宿騒乱事件。
   10・23 日本武道館で、明治100年記念式典。
   11・10 沖縄初の主席公選で屋良朝苗当選。
   11・14 皇居新宮殿落成式。
   12・10 東京・府中市で3億円事件起こる。
 44・1・2 新宮殿で初の一般参賀。パチンコ玉事件、発煙筒事件起こる。
   1・19 警視庁、東大紛争で安田講堂を占拠した過激派を排除。
   2・1 東久邇盛厚死去、52歳。
   4・18 皇太子の長女、紀宮清子(のりのみや・さやこ)内親王誕生。
   6・10 経済企画庁、43年度の国民総所得は世界2位と発表。
   6・12 日本初の原子力船「むつ」進水。
   7・20 米国の宇宙船アポロ11号、月の「静かの海」に着陸。
   9・29 農政審議会が米の生産抑制(減反)など答申。
   11・3 皇后の画集「錦芳集」出版。
   11・4 アポロ11号宇宙飛行士3人来日、皇居で会見。
   11・20 沼津御用邸廃止。
 45・3・14 日本万国博、大阪で開く。皇后と万国博見学(7・13〜17、8・16〜19にも)。
   3・31 日本赤軍、日航機「よど」をハイジャック。
       八幡、富士両製鉄会社が合併、新日本製鉄発足。
   6・23 日米安保条約、自動延長。
   7・14 閣議、日本の呼称を「ニッポン」に統一。
   7・18 光化学スモッグ騒ぎ。東京・杉並の高校で女生徒倒れる。
   11・25 作家三島由紀夫、陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺。
 46・1・27 葉山御用邸本邸全焼。
   4・16 広島の原爆慰霊碑に初めて参拝。
   4・29 古希(5・9皇后主催のお祝い会)。
   5・13 英国王立協会会員に選ばれる。
   7・30 岩手県雫石上空で全日空機に自衛隊機衝突。全日空機の乗員、乗客162人全員死亡。
   8・28 1ドル=360円の固定相場制終わる。
   9・16 成田空港予定地の強制代執行をめぐり、警官3人死亡。
   9・25 沖縄青年委員会の4人、「天皇の訪欧反対」を叫んで皇居坂下門乱入。
   9・27 ヨーロッパ訪問。ベルギー、英国、西ドイツなど7カ国に立ち寄り、アンカレジでニクソン米大統領と会見(10・14帰国)。
   10・23 下田市に新しい須崎御用邸完成。
   10・25 中国の国連復帰決定。
 47・1・24 グアム島で元日本兵横井庄一発見。
   2・3 冬季オリンピック札幌大会開会。名誉総裁として開会を宣言。
   2・19 連合赤軍の5人、軽井沢の浅間山荘にたてこもる(2・28逮捕)。
   2・21 ニクソン米大統領訪中、毛沢東主席らと会談。
   3・21 奈良県・高松塚古墳発掘、極彩色の壁画発見。
   4・16 川端康成自殺。
   5・13 大阪・ミナミの千日前デパートビル火災。118人死亡。
        
 <沖縄返還−ご長寿の日々>
 47・5・15 沖縄施政権の返還。沖縄県に。
 (1972)
   5・30 日本人ゲリラによるテルアビブ空港事件。
   6・14 ニューデリーで日航機墜落。死者86人。
   6・24 在位1万6619日となり、明治天皇の在位日数を超え新記録。
   9・29 田中首相訪中、北京で日中共同声明調印。国交回復。
   11・29 モスクワで日航機墜落。死者62人。
 48・1・27 ベトナム和平協定調印。
   3・20 水俣病訴訟でチッソ側全面敗訴。
   4・3 初の曽孫(そうそん)、東久邇征彦ロンドンで誕生。
   4・27 春闘史上、初の交通ゼネスト。
   5・29 増原恵吉防衛庁長官、防衛問題ご進講についての発言に責任を取り辞任。
   7・20 パレスチナゲリラ、日航機を乗っ取りベンガジ空港で爆破(7・24)。
   8・8 金大中事件起こる。
   10・23 江崎玲於奈にノーベル物理学賞。
       第1次石油危機始まる。石油の値上げ、供給規制の通告があい次ぐ。
   11・29 熊本市の大洋デパート火災。104人死亡。
 49・1・26 金婚式。
   3・12 ルバング島から元日本兵小野田寛郎帰国。
   4・23 旧赤坂離宮を改修した迎賓館落成式。
   4・30 両陛下の歌集「あけぼの集」出版。
   8・8 ニクソン米大統領、ウォーターゲート事件で辞任。
   8・30 三菱重工ビル爆破事件。死者8人、重軽傷376人(50・5・19、東アジア反日武装戦線の8人逮捕)。
   10・8 佐藤栄作前首相にノーベル平和賞。
   11・18 フォード米大統領来日(〜11・22。11・19戦後最大の宮中晩さん会)。
   12・9 金脈問題をめぐる疑惑で田中角栄首相退陣。
 50・3・10 新幹線、博多まで開通。
   4・5 蒋介石死去、87歳。
   4・30 ベトナム戦争終結。
   5・7 エリザベス英女王、フィリップ殿下夫妻来日(〜5・12)。
   6・10 経企庁、49年度の国民総生産(GNP)は戦後初のマイナス成長と発表。
   7・17 米ソ宇宙船、初のドッキング。
      沖縄訪問中の皇太子夫妻、ひめゆりの塔で火炎瓶を投げつけられる。
   7・19 沖縄海洋博開く。
   8・4 日本赤軍5人、クアラルンプールの米、スウェーデン両大使館を占拠、過激派の釈放を要求。政府、要求をのみ、5人を釈放。
   9・22 在京外国人記者団と会見。
   9・30 アメリカ訪問に出発。ワシントン、ハワイなど各地を訪ねる(〜10・14)。
   10・31 日本記者クラブと初の公式記者会見。「米国の原爆投下はやむを得ない」と発言、問題になる。
   11・15 仏ランブイエで第1回主要先進国首脳会議(サミット)開催。
 51・1・31 鹿児島で5つ子誕生。
   2・4 ロッキード事件明るみに。
   5・30 外務省、占領下の外交機密文書を初公開。
   7・27 ロッキード事件で田中前首相逮捕。受託収賄罪などで起訴(8・16)。
   9・9 毛沢東中国共産党主席死去、82歳。
   11・10 天皇在位50年記念式典、日本武道館で開かれる。
 52・3・1 米ソが200カイリ漁業専管水域を実施。
   4・6 元内大臣木戸幸一死去、87歳。
   7・17 那須御用邸で皇后が腰痛に。
   8・23 那須御用邸での記者会見で「人間宣言」の秘話を述べる。
 53・4・8 浩宮、学習院大文学部史学科に入学。
   4・29 喜寿。
   5・20 新東京国際空港(成田)開港。
   8・12 日中平和友好条約調印。
   10・23 トウ^小平中国副首相と皇居で会見。新中国指導者とは初めて。
 54・1・13 国公立大学で初の共通1次学力試験実施。
   6・12 元号法施行。
   6・28 第5回主要先進国首脳会議(東京サミット)。皇居で参加各国首脳を招き晩さん会。
   10・26 朴正煕韓国大統領、射殺される。
   12・27 アフガニスタンでクーデター、ソ連軍が介入。
 55・2・23 浩宮、成年式。
   5・27 華国鋒中国首相と会見。
   6・12 大平正芳首相急死。
   6・22 衆参ダブル選挙で自民大勝、両院で「安定多数」を獲得。
   7・19 モスクワ・オリンピック開幕。日、米、中、西独など不参加。
   9・22 イラン・イラク紛争、全面戦争へ。
   11・7 三笠宮寛仁親王、麻生信子と結婚。
 56・2・24 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世と皇居で初めての会見。
   3・2 厚生省の招待で中国残留孤児47人初の正式来日。
   4・29 歴代天皇の中で初めて、在位中に満80歳の誕生日。
   5・11 朝日新聞東京本社(築地)を視察。
   7・29 皇太子夫妻、英チャールズ皇太子の結婚式に参列。
   9・26 在位日数2万日に。
   10・19 福井謙一にノーベル化学賞。
 57・3・27 京都・桂離宮の「昭和の大修理」が6年ぶりに完成。
   4・8 浩宮、学習院大大学院に進学。
   4・15 ミッテラン仏大統領が来日。
   6・23 東北新幹線、営業開始。
   11・15 上越新幹線、営業開始。
 58・3・6 皇后、80歳に。
   6・20 浩宮、英国オックスフォード大マートン・カレッジ留学に出発。
   10・14 三笠宮容子内親王、千政之と結婚。
 59・1・26 結婚60年のダイヤモンド婚。
   7・28 ロサンゼルス・オリンピック開幕。ソ連圏諸国は不参加。
   9・6 全斗煥韓国大統領が来日。
   12・6 三笠宮憲仁親王、鳥取久子と結婚。高円宮家を創設。
 60・3・16 科学万博、茨城県筑波で開会(〜9・16)。期間中、2回見学。
   7・13 後水尾天皇の長寿記録(3万756日)を破り歴代最長寿天皇に。
   8・12 日航ジャンボ機、群馬県山中に墜落。520人死亡。
   10・31 浩宮、英国留学から帰国。
   11・30 礼宮、成年式。
 61・2・25 フィリピンのマルコス政権崩壊、アキノ政権樹立。
   4・29 天皇在位60年記念式典。
   11・15 三井物産マニラ支店長誘拐される。
   11・21 大島の三原山大噴火。
 62・2・3 高松宮宣仁親王死去、82歳。
   4・1 国鉄、分割・民営化でJRに。
   9・22 腸の通過障害を除くため宮内庁病院で開腹手術。病名は「慢性すい炎」と発表。国事行為の臨時代行を置く。
   9・28 「陛下の沖縄訪問中止」を発表。
   10・3 皇太子夫妻、米国訪問(〜10)。
   10・7 退院。吹上御所で療養。
   10・12 利根川進にノーベル医学生理学賞。
   11・6 竹下内閣成立。
   12・9 中距離核戦力(INF)全廃条約に米ソ両首脳が調印。
 63・6・18 リクルート疑惑の発端となった川崎市助役の未公開株取得発覚。
   8・20 イラン・イラク戦争停戦。
   9・17 ソウル・オリンピック開幕(〜10・2)。
   9・19 点滴中、大量吐血。再び病床に。
 64・1・7 崩御。
     *   *    *
 この年表は歴史の記録としてとらえ、原則として敬称は略しました



◆1989年1月9日 夕刊 文化
戦争と平和、転変見すえて 日記で振り返る「昭和」


 「昭和」が終わった。永井荷風の「断腸亭日乗」をはじめ、「昭和」に生きた多くの文学者、文化人が、さまざまな日記をつづってきた。戦前の軍部台頭への怒りあるいは支援、戦中の飢餓の苦しみ、敗戦の無念さ、戦後の混乱、高度経済成長……。記述に現れた世相、個々の感慨は時とともに変化していく。膨大な日記から、ごく一部だが抜粋、あらためて「昭和」という時代を考える材料としたい。(敬称略。出典は既刊の各全集、著作集、日録などによる)
                                    
      
 ○改元から暗い谷間へ
 大正15年 (昭和元年)
 12月24日 きのふより又号外に驚くやうなりぬ、彼の鈴の音も胸をとどろかす、此夜だけで暁ちかく更に号外を齎す。(三田村鳶魚)
 12月25日 終に御崩御、今暁一時廿5分なりしとぞ、1日をただ慎みて送る(若山牧水)
 ●昭和となった。自分いろいろに年号の換るのがいやだ。1926年でやってゆく方簡単でよろしい。然し字の感じ大正よりはよし。(宮本百合子)
                                    
      
 昭和2年
 1月1日 諒闇中年賀の郵便物少きは最喜ぶべし。終日門巷蕭条として追羽子の響も聞えず日は早く暮れたり。(永井荷風)
 2月4日 あめつちもひびきてなげけ大王のつひの行幸のけふとなりつる(斎藤茂吉)
 2月7日 御大葬、参列を辞し、夜ラジオで葬列のラッパや軍楽を聞いた。(寺田寅彦)
       
 4年
 1月9日 日本人は実際ヘンな人種だ。朝鮮に入り込んでそこを何んにも研究しようとも理解しようともしない。たゞしぼれるだけそこの富をしぼればよいと云ふ態度らしい。今日の反日思想を生じさせた原因は故ある哉とおもはれる。(野上弥生子)
                                    
      
 5年
 11月14日 朝8時58分発、広島大演習に向かわんとせる浜口首相、東京駅プラトフォームにてピストルにて狙撃され、下腹部に命中、重態に陥る。(略)電車の中で労働者が掌中の白銅数個を見せながら「4時まで働いてこれじゃ食って行かれねえ」とどなっていた。(寺田)
            
 6年
 10月1日 日本からのたよりに日本は不況で食つてゆけないといふ。外国で女子でも見て歩くのはまだしも好いといふ。ある友人はまた日本へ帰らないが好いといふ。(竹久夢二、アメリカ滞在中)
                                    
      
 8年
 2月25日 小林多喜二2月20日(余の誕生日)に捕へられ死す、警官に殺されたるらし、実に不愉快、一度きり会はぬが自分は小林よりよき印象をうけ好きなり、アンタンたる気持になる
 (志賀直哉)
          
 10年
 4月6日 今日は満州皇帝の日本訪問の日で、市街には満州国旗のいろなる赤と黄と紫の幕を張り廻したり、黄いろい提灯をかけつらねたりしてゐる。こんな大げさな泥棒のセレモニーといふものもめづらしい。(野上)
                                    
      
 ○2・26から日中戦争へ
 11年
 2月26日 4時半頃義兄が来て、青年将校が今朝岡田首相、斎藤内府、高橋蔵相、牧野伯、渡辺教育総監、鈴木侍従長、東京朝日新聞社を襲撃したといふ大事件を知らせてくれる。夕刊も出ない。8時20分ラヂオ・ニュースにより一部の内容が陸軍省から発表された。政治区域には戦時警備が布かれた。
 (三木清)
 3月12日 今度の事件は政権即ち武力といふ関係を従前よりももつと露骨に、もつと直接的にすることが「時勢」の要求となつて来たために起つたものと思はれる。(河上肇)
           
 12年
 8月24日 余この頃東京市民の生活を見るに、彼らはその生活について相応に満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり。(荷風)
          
 15年
 9月19日 早昼食にして芋麦飯数碗、おいしい〜、ありがたい〜。高度国防国家の完成と最低生活の保証とは相即不離であることを痛感する。足ぶみしても詮なき場合もあるが、(個人でも国家でも、)断じてあともどりしてはならない。(種田山頭火)
                                    
      
 ○太平洋戦争の日々
 16年
 12月8日 丸ビルのラヂオで東条首相の宣戦詔勅を拝してと云ふ演説をきく。きき終りて、群集万歳をとなふ。東京日々等の前にはニユースが次々とはりつけられ、上海に於てすでに英艦1隻を撃沈、米艦1隻を捕獲の記事あり。人ら幸さきよきを喜ぶ。(津村信夫)
 ●昨日、日曜ヨリ帝国ハ米英2国ニタイシテ戦闘ヲ開始シタ。老生ノ紅血躍動!(茂吉)
 ●郵便局へ抜ける道の空地で防空壕を女たちが作っている。それでやっとはじめて戦争来の感がする。人々があまり明るく当り前なので、変に思われる。(伊藤整)
 12月12日 12月8日の暁方は風のない清純なる月明であつた。(略)ラヂオは終日ニュースの間に軍歌を奏しつづけた。まるでお祭気分で戦争にはいつていつた。(新美南吉)
         
 17年
 6月11日 6月10日の時の記念日に大府第1国民校では、正確な時計を生徒らが持つて歩き、町の家を1軒づつのぞいて、時刻をあはせていつたさうである。一方では麦刈奉仕。また金属回収の応援。
 (新美)
        
 18年
 6月25日 歴史ありて以来時として種々野蛮なる国家の存在せしことありしかど、現代日本の如き低劣滑稽なる政治の行はれしことはいまだかつて1たびもその例なかりしなり。(荷風)
 9月1日 日婦(大日本婦人会)の「名流婦人」が銀座に乗り出して、長袖を切りましょうというビラを和服をきた人々につきつけている。派手な洋服は大威張りで歩いていて、日本の着物が非難される。バカバカしい話ではないか。(高見順)
       
 19年
 11月27日 正午少し過ぎに警戒警報鳴り、外へ出るのを見合はせてゐると一時空襲警報となり、どすん、どすんと云ふ地響きが幾度も聞こえた。今日は非常にこはかつた。(内田百けん^)
 12月3日 綿の供出足らぬため追加を出せと。敷布団から抜く外なし。また薯の配給のため八百屋に行く。(平林たい子)
 12月18日 日本人の戦争観は多分に感傷的なり。戦争の現実的なる冷厳知らざるが如し。科学機械戦に不利を招く因をなせるか。悲劇を和ぐ難有き民族性なれども。(川端康成)
                                    
      
 20年
 3月7日 もうだん〜野菜もなくなる、野草にても食ふ外ない(西田幾多郎)
 4月6日 小磯数日前ガダルカナルまで取り返すと自信ありと云ひ、舌根乾かざるに辞職、国民を欺くもの甚し。(西田)
 7月3日 新聞などで、この戦争必ず勝つ、きっと勝つと毎日のように繰り返しているが、そんなに勝つ勝つと念を押さねばならぬようでは心細いではないか。(徳川夢声)
 8月6日 急にあたりの気配の異様なるを感じ眼をやれば外の面に白光たちこめ2階より見ゆる畑や家並みの其処其処より音なく火焔閃めき白煙の斜めに立昇るが瞬間眼に映りぬ。(略)三々五々、全身ズルズルに剥けたる火傷者の裸体にて逃れ来るあり、タン架にて運ばれ来るあり。(峠三吉)
 8月13日 平和、自分は限りなく平和を愛する、だが侮辱されて生きてゆくのは嫌ひである、日本人を軽蔑するものを自分は軽蔑する。(武者小路実篤)
                                    
      
 ○敗戦の衝撃と占領
 20年
 8月15日 6時半頃警戒の半鐘鳴る、午後より敵機来らず、今夜燈火煌々たり。(三田村)
 ●正午、天皇陛下ノ聖勅御放送、ハジメニ1億玉砕ノ決心ヲ心ニ据ヱ、羽織ヲ著テ拝聴シ奉リタルニ、大東亜戦争終結ノ御聖勅デアツタ。噫、シカレドモ吾等臣民ハ七生奉公トシテコノ怨ミ、コノ辱シメヲ挽回セムコトヲ誓ヒタテマツツタノデアツタ(茂吉)
 ●遂に敗けたのだ。戦いにやぶれたのだ。夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。(高見)
 ●日本は一切を失つて一切を得たり、世界に冠絶する宗教国家、芸術国家として再生すべし、勇気を以て直ちに出発すべきなり。(亀井勝一郎)
 ●何という清らかな御声であるか。有難さが毛筋の果てまで滲み透る。再び「君が代」である。足元の畳に、大きな音をたてて、私の涙が落ちて行った。(夢声)
 ●天皇陛下の御声は録音であつたが戦争終結の詔書なり。熱涙滂沱として止まず。どう云ふ涙かと云ふ事を自分で考へる事が出来ない。
 (百けん^)
 ●あり得ぬことに非ずと心に用意はあれど、あっと驚く。戸外の油絵の如き炎熱の中を、供出の草を山の如く背負って行く人あり。ああついに終った。終った。戦争も、何も彼も、終ったのだ。終ったのだ。(平林)
 ●あなうれしとにもかくにも生きのびて戦やめるけふの日にあふ(河上)
 ●ここまでことが決定するまでには、徹夜の閣議や御前会議がくり返されたことも報じられた。いづれにしても、これで5年間の大バクチはすつからかんの負けで終つたわけである。(野上)
 ●あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。(荷風)
 8月16日 我も人も狐のはなれたるが如し、かねて覚悟の上なれ共、昨日は読書出来ず、今日は釣竿持ちて歩行する人あり(三田村)
 8月18日 新聞にはもう呑気な風をし、安心してパラソルをさして歩いてゐる女なぞあることを非難的にかいてゐる、映画館も超満員ださうである。(実篤)
 9月9日 新聞紙上米兵の日本婦女を弄ぶものありとの記事を載す。果して真実ならばかつて日本軍の支那占領地においてなせし処の仕返しなり。己れに出でておのれにかへるものまた如何ともすべからず。畢竟戦争の犠牲となるものは平和をよろこぶ良民のみ。(荷風)
 9月30日 戦いに負け占領軍が入って来たので、自由が束縛されたというのならわかるが、逆に自由を保障されたのである。なんという恥しいことだろう。(高見)
                                    
      
 ○新憲法・講和・安保
 21年
 3月8日 軍備を廃し永久に戦争を抛棄するの誓言については未来の日本国民はいかに思うか知らねども、我らは、特に親兄弟を原子爆弾の一閃に失いし我らは(永き欠乏と戦火の涯に)熱き涙をもて賛意の拍手を送るであろう。(峠)
 8月22日 皇室の存置に損傷なきはせめてもの慰めなれども「象徴」とは何ぞや、「象徴」の法律的、現実政治的意義は何ぞや、日本の「象徴」は日本の現実政治に対して如何なる権利と義務とありやの明確なる定義を下さゞる限り結局せうことなしの胡魔化しに過ぎず(阿部次郎)
        
 22年
 5月3日 米人の作りし日本新憲法今日より実施の由。笑ふべし。(荷風)
           
 23年
 11月12日 東条以下27氏の判決をラヂオで聞く。絞死刑7名、終身刑等、この人達にばかり責任があるわけではない、天皇にもある。天皇はこともなく今宵を過すだらうか、自ら責を負ふための日本古来の形式をとらないであらうか、人としての諸君が今宵の思ひに、自分は無関心でゐられない
 (室生犀星)
                                    
      
 26年
 2月13日 日本の文学が近頃四等国文学に安住して来た時、少しでも一流のものを書残して置かなければ、これから出るものの目標がなくなる。(志賀)
 9月10日 講和条約調印済んだ新聞記事を読み吉田全権の態度その他気持よく、一ト言礼を云ひたいやうなショー動を感じ手紙を出す(志賀)
                                    
      
 30年
 7月19日 われわれは「知的」な、概観的な時代に生きている。これはほとんど巨人時代で、世界像がこんなにひろがりを失ったことはなく、航空の発達、通信の迅速は、太平洋もひとまたぎと思わせる。もしその上、われわれが巨人の感受性にめぐまれていたら、水素爆弾の実験も線香花火のごときものであろう。(三島由紀夫)
                                    
      
 35年
 6月15日 本日のデモは人数も多く緊張。あと、国会と警視庁前を見て帰る。夜、テレビ、ラジオをきき暁方まで睡れず。統一行動ストとひるのデモは平穏。暴力団の突入を境にして警察の暴力化と学生の突入はじまり、学者らも多数負傷。女子学生1名死亡。6.15事件。
 (竹内好)
                                    
      
 ○経済的繁栄の中で
 39年
 10月24日 オリンピックの閉会式のあと、花火が上る。外へ出ると、外苑の上に花火の乱れ咲き。犬が吠え、ヘリコプターが舞う。(小林信彦)
                                    
      
 40年
 4月14日 天皇制の最大の犠牲者はやはり天皇だ。(略)陛下には「臣」があるだけで、「友」がない。一杯やる友人がない。実に気の毒だ。(高見)
                                    
      
 45年
 11月25日 三島由紀夫が市ケ谷の陸上自衛隊総監部でクーデターを呼びかけ、割腹自殺をする。介錯役が首をはねたのには驚いた。一連の行動を演技だと思っていたが、本気だったのだ。(略)太宰治の死と正反対に見えて、コインの裏おもてだとも思う。(小林)
 11月28日 三島由紀夫の自殺。芥川龍之介の引き写し。その点について思い違いをすることがどうしてできようか。……彼の言う「超国家主義」などに惑わされてはならない。これも三島由紀夫一流の作り話なのだ。同じ問題、相も変らず同じ問題なのである……。(森有正、二宮正之訳)
                                    
      
 51年
 4月6日 あいかわらず郵便物が多い。事務書簡、ファンからの封書が5分の1、あとは雑誌類である。情報の洪水だ。これはただごとではない。この大量の情報は、まさに世界の不安をあらわしておる。(筒井康隆)
 7月29日 田中角栄は拘置所で麦飯と一汁一菜の朝飯で元気にしているとテレビでいった。田中角栄はとても丈夫なのだ。(武田百合子)
                                    
      
 60年
 8月14日 TBS6時半、政府、靖国審議会答申を無視し、合憲といい切る。昇殿する、しかしお祓いを受けず、榊ではなく花を供えるから宗教儀式ではない、しかし花代3万円は公費出費する。それでも「合憲」と称す。前日になってのこの居直りは自民党のお家芸なるも、戦後40年、かかるインチキまかり通る世の中になりたるを銘記すべし。(大岡昇平)
                                    
      
 *風俗
 10年
 3月9日 新宿ノムーランルージユヲ見ル。コレハマタコレデ興味更ニ深シ。若キ美少女ヲ客看スルノハ深遠ナル学術講演ヲキクニ等シ。(斎藤茂吉)
         
 12年
 7月3日 省線に乗つたら、気狂のやうな人間がゐてしきりに喋つてゐる。ひとり演説句調で喋つてゐる。聞いてゐると、喋ることは気狂でなく、全く道理のあることだ。(略)狂人の真似をしなければ、正しいことが云へない時世かも知れない。(三木清)
                                    
      
 18年
 1月6日 一般に燃料甚しく不足せるため、京都にても銭湯の休日は最近に至り殆どみな隔日となり、ために湯場の混雑未曽有にて、夕食後秀の行く頃は、衣服を脱ぐ籠の空くを待つに10分、既に浴場に入りたる後も湯槽超満員にて4、5分は裸のまま待ち居ねばならぬ由なり。(河上肇)
 5月4日 妻、魚屋に行きユーウツになって帰ってくる。魚は沢山あるそうだが、魚屋はろくに返事もせず、売ってくれないという。闇でうれるかねての顧客の方に、みんな流して、新しい客や、貧しい客には売らないのである。(この事実、後世の人、忘るべからず、国をあげて戦っているときのこの商人の心情!)(高見順)
                                    
      
 27年
 4月17日 けふはみそらひばりといふ少女のうたがきける、この少女のうたには早くも頽廃のきざしと、投げやりなやけくそのやうなところがあつて、それが面白くきけるのである。(室生犀星)
                                    
      
 30年
 7月16日 午前中久々の雨。やや涼しくなる。午後3時より東和映画試写室にて、「悪魔のような女」を見る。6時、第一生命ホールへゆく。芝居がはねてから、文学座の5人と共に、すぐ隣りの日活ファミリイ・クラブの、トア・エ・モア巴里祭パーティーへゆくに、上着とネクタイを着用していないので、入場を拒否される。私はアロハを着ていたのである。やむなく6人で田村町銀馬車へゆき、呑みかつ踊る。となりの卓に力道山が来ている。(三島由紀夫)
                                    
      
 <執筆者一覧>
 阿部次郎 (1883〜1959)哲学者・評論家
 伊藤整  (1905〜1969)小説家・評論家
 内田百けん^ (1889〜1971)小説家・随筆家
 大岡昇平 (1909〜1988)小説家
 亀井勝一郎(1907〜1966)評論家
 河上肇  (1879〜1946)経済学者・社会思想家
 川端康成 (1899〜1972)小説家
 小林信彦 (1932〜)    小説家
 斎藤茂吉 (1882〜1953)歌人
 志賀直哉 (1883〜1971)小説家
 高見順  (1907〜1965)小説家・詩人・評論家
 竹内好  (1910〜1977)中国文学者・評論家
 武田百合子(1925〜)    随筆家
 竹久夢二 (1884〜1934)詩人・画家
 種田山頭火(1882〜1940)俳人
 筒井康隆 (1934〜)    小説家
 津村信夫 (1909〜1944)詩人
 寺田寅彦 (1878〜1935)物理学者・随筆家
 峠三吉  (1917〜1953)詩人
 徳川夢声 (1894〜1971)タレント、随筆家
 永井荷風 (1879〜1959)小説家
 新美南吉 (1913〜1943)童話作家
 西田幾多郎(1870〜1945)哲学者
 野上弥生子(1885〜1985)小説家
 平林たい子(1905〜1972)小説家
 三木清  (1897〜1945)哲学者
 三島由紀夫(1925〜1970)小説家
 三田村鳶魚(1870〜1952)江戸研究者
 宮本百合子(1899〜1951)小説家
 武者小路実篤(1885〜1976)小説家
 室生犀星 (1889〜1962)詩人・小説家
 森有正  (1911〜1976)フランス文学者・哲学者
 若山牧水 (1885〜1928)歌人



1989年1月13日 朝刊 解説
◆2・26事件(入江侍従長日記 昭和天皇との日々:2)


 陛下万歳と刑死 夏のその日、ゴルフお控えに
        
 11年2月27日(木)晴寒
 7時に起きたら洗面所は一杯。うがひは後にしてフロックを着て常侍官候所に行く。7時過、後藤首相代理拝謁。徳大寺さんは高橋蔵相邸にお尋ねの御使。高橋さんも遂に駄目だった。斎藤さんには機関銃を108発放って中三十数発命中との事。高橋さんはピストルで撃ち、更に日本刀で身体を切ってあったとの事。何たる侮辱だ。武士らしくない殺し方は憤慨に堪へない。
 岡田さんは今以て分からない。或は首相官邸の何処かにかくれてゐるといふ説もある。戒厳令が敷かれても、暴徒は依然前日と同様の所に立こもって立去らないとの事。或いは場合によっては市街戦にならぬとも限らぬとの事。4時自働車で平河門から退出。7時のニュースで、岡田首相も遂に駄目だったとの事。困った事になったものだ。昨日の疲れでねむくて仕様がない。牛鍋をおいしく食べ、入浴、すぐ入床、間もなく寝る。
 (注 後藤首相代理=文夫・内相)
       
 事件の2日目で「暴徒」という言葉を使い、天皇周辺の空気を表している。陸軍では「蹶起部隊」「行動軍」などと呼んでいた。
         
 2月28日(金)雪
 依然一進一退との事。今日は雪も降るしもう発砲騒ぎは今日は無いだらうとの事。皆ヂリヂリして早くやればよいにと気をもんでゐる。今日も拝謁が続く続く。夕方岡田首相の拝謁。驚いた。死んだと思った岡田さんが出て来たのだから。でもよかった。嬉しかった。侍従、武官全部当直。
       
 岡田啓介首相も官邸を襲われたが、人違いで義弟が殺された。本人は女中部屋の押し入れに隠れ、27日、「弔問者」にまぎれて脱出した。
          
 2月29日(土)薄曇寒
 いよいよ今日は攻撃といふので昨夜来の緊迫した気持ちが続く。第1師団は8時半、近衛は9時から行動開始との事。飛行機でビラをまき、戒厳司令官の逆賊となるなといふ告示を白軍に知らせてゐる。所がこちらが行動を開始するや、白軍の下士以下の投降帰順多く漸次鎮定され、午后には残る将校も総て衛戍(えいじゅ)監獄に入れられたとの事。夕方又首相、宮相の拝謁。今日はお上にも無理に早く御休を願ふ。それでも10時頃になった。
 (衛戍監獄=陸軍の監獄)
       
 岡田首相は、回想録で書いている。「2・26事件というものは、陸軍の政治干与を押さえる最大のチャンスではなかったか」「ごくいい潮時だったと思うが、軍にさからうとまた血を見るという恐怖の方が強くなって、ますます思いどおりのことをされるようになってしまった」
       
 3月4日(水)晴寒
 近衛公の拝謁。大命は近衛公に下ったらしい。ところがその後又近衛公の拝謁があって公は拝辞した。西園寺公も最後の切札を出したのだが、結局物にならなかった。併し結局近衛さんは出ない方がよかったらう。貴族院のつまらない連中を引張って来ることもあるまいが、公は又いつでも出る幕はあるだらう。併しこの頓挫で又一抹の憂色を加へる。
        
 事件直後に岡田啓介内閣は総辞職した。3月4日、近衛文麿に組閣の命が下ったが、「健康も思わしくないし、又この重大時局を担当する力もないから」と断った。
         
 4月6日(月)晴暖
 今日も実にあたたかい。本当に春になった。鈴木侍従長が来て居られる。耳の後ろに大きな傷がある。今日始めての外出とのこと。両陛下に拝謁がある。さすがに余程衰へられた。
        
 7月12日(日)晴暑
 今日はいい天気である。今朝7時より8時半迄の間に2・26事件の関係者、香田清貞以下15名が処刑された。穴を掘り坐らせ手を縛り目かくしをして、1人に1人づつ鉄砲を据ゑて打った由。天皇陛下の萬歳を唱へて彼等の態度は終始立派であった由。午前中ゴルフでもおありになるかと思ったが、この事の為に遊ばさない。国民にこの御気持ちを知らせたいものだが。
             
 事件を裁く軍法会議の判決は7月5日。反乱将校ら17人に死刑が言い渡された。処刑は、今は代々木公園になっている陸軍衛戍刑務所で行われた。このころ天皇はゴルフをよくされ、吹上御苑に9ホールのコースがあった。 



1989年1月13日 朝刊 解説
◆白鳥決定<用語>


 昭和27年1月、札幌市内で警官が射殺されたのが「白鳥事件」。この事件をめぐる再審請求に対し、最高裁は50年5月、請求人の特別抗告を棄却する決定を下したが、決定理由の中で再審請求についても、新証拠などによって確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。この決定を契機に、死刑が確定していた免田、財田川、松山事件の再審が開かれ、いずれも無罪となった。



1989年1月13日 朝刊 解説
◆「不惑」迎えた刑事訴訟法 「生みの親」の団藤重光さんに聞く


 刑事訴訟法が、今月1日で施行40周年を迎えた。わが国の法体系は、新憲法の制定によって刷新されたが、最も大きな影響を受けたのは、捜査、公判などの刑事手続きを定めた刑訴法だったといわれる。「不惑」を迎えた新刑訴法は、深く根をおろした、といえるだろうか。また、その後の社会の変化に対応しきれているのだろうか。刑事法学者の立場から立案に参画し、後には最高裁判事として実務に携わった団藤重光・東大名誉教授に、刑訴法の生い立ちから行く末までを聞いた。(聞き手:外岡秀俊、沖浩記者)
        
 ●定着 自白偏重、なお問題残す
 −−旧刑訴法と新刑訴法の違いはどこにあると考えますか。
 「両者の違いは結局、旧憲法と新憲法との違いに帰着するといえるでしょう。具体的には旧刑訴法は裁判所が職権で審理を進める職権主義であったのに対して、新刑訴法では両当事者の攻撃、防御によって審理を進める当事者主義で、英米法、とくにアメリカ法の影響が強いですね。戦前は法廷の高い壇上に裁判官と検察官が同列に並んでいましたが、新刑訴法になると検察官は下に降りて弁護人と向かい合うことになったんです。新旧の相違は、この点にも象徴的に現れていますね」
 「私は昭和20年暮れ、司法省の嘱託となり、新刑訴法の立案を委嘱されました。当時、私は30歳代前半で、東大の助教授から教授になるかならないか、というころでした。GHQに行き、よく議論をしたものです。そのころは実務家はもちろん、われわれ学者もアメリカ法にうとくて、苦労しました。実務家と一緒に作業したのに結局、新刑訴法は、机上でつくった法律という感じが強かったですね」
 −−捜査の上での新旧刑訴法の違いは?
 「旧刑訴法では、検事は自分で勾(こう)引状を出し、被疑者を引っ張ってくることができたんです。しかし新刑訴法では、令状はすべて裁判官の権限となりました。憲法33条(逮捕の要件)、35条(捜索、押収の令状主義)の『司法官憲が発する令状』という言葉がありますが、憲法制定当時は『司法官憲は検察官も含む』というのが政府の解釈だったんですよ。今では、まったく想像できないことですね」
 −−新刑訴法は定着した、と思いますか?
 「改めるべき点は残っていますが、全体として定着したと思います。裁判所も、捜査機関も今ではもちろん、完全に新刑訴法の頭になっています。しかし、自白偏重の考え方はまだまだ尾を引いていますし、捜査段階での人権侵害も完全には後を絶っていないようです。どこの国も同じですが、根絶することはなかなか難しいですね」
        
 ●誤判 必ず救済する道を
 −−いわゆる拘禁2法案(注<1>)について、どう考えますか。
 「留置場は本来、代用監獄として認められるべきではないと思いますね。私自身は、さしあたり2つの案を持っています。1つは、すぐにやめろといっても無理でしょうから、時限立法にして、期限を切ってできるところから順次切り替えていくようなやり方です。もう1つは、ほとんど可能性はないかもしれませんが、場所は今の留置場のままでも管理を法務省系統に移すやり方です。しかし、根本は場所や管理者の問題ではなくて、捜査機関の心がまえの問題です」
 「弁護人と被疑者との接見の問題も大きいですね。今でも捜査の都合で接見が制限される傾向が強いようです。私が最高裁にいた昭和53年に、国家賠償請求事件で、捜査の必要で接見を制限するにしても、なるべく早い時期に制限を解かなければ違法になる、という判決を出しました。接見するということは、すべての弁護活動の出発点ですから、捜査のやり方にかなり絞りをかけたわけです」
 −−新刑訴法は誤判を防ぐためにどのような特徴を持っていますか。
 「新刑訴法は、1審重点主義をとって、1審でとことんまで審理を尽くさせ、ことに事実認定には全力を入れさせることにしました。ただ、1審も間違えることがあり得るから、上訴審が間違いの見直しをするんです」
 「私も最高裁に入ってみて、上告審でもいかに事実認定が大切かということを、痛切に感じました。上告理由は憲法違反、判例違反に限られていますが、重大な事実誤認や著しい量刑不当があると、最高裁は職権で破棄できることになっています。問題があれば、最高裁でも裁判官が記録にあたって十分に検討します。事実認定や刑の量定というのは刑事裁判の根底にある問題ですが、このような形で運用によって十分に目的を達していると思います」
 −−再審について、どのようにお考えですか。
 「私は裁判はやはり、一の矢で勝負をつける、という心構えで臨むべきものだと思います。再審を初めからあてにして、審理がおろそかになってはいけないからです。その意味では、再審事由は絞らなくてはいけない。しかし、裁判が人間の判断である以上、誤判というのは避けることができない。そこで、誤判の可能性が高いことが分かれば、必ずこれを救済する道がなければいけません」
 「誤りを認めることは司法の自浄作用であり、究極的に裁判所は信頼できる、という国民の信用を取り戻すことが大切です」
 「旧刑訴法以来、再審は非常に窮屈でした。その方針の転換点になったのが『白鳥決定』(注<2>)でした。あの決定によって道は開けました」
 「緩めすぎても、制限しすぎてもいけない。その限界が難しいので、再審事由の関係では、判例の積み重ねで対処していく、ということで、私は良かったと思います。ただ、手続きの面で問題はまだまだ残っている。再審が始まれば、もともとの被告人と同じ立場になるのですから、保釈というようなことも考えるべきでしょう」
 −−最近、また再審の道が狭まった、という声がありますが。
 「免田、財田川などの再審事件が相次いだのは、冤罪(えんざい)事件そのものが戦後の混乱期を背景に起きた、ということがあるでしょう。あの時期はまだ新刑訴法が根をおろしておらず、捜査機関も十分整っていなかった。しかし昭和30年代以降にも冤罪事件が出てきていることは、極めて重大です。司法、検察、警察の方面において、今後とも真剣な反省が必要だと思います。ことに最近、再審の道が狭まったという声が聞かれるそうですが、これは由々しいことだと思います」
       
 ●対応 国民の司法参加念頭に
 −−施行から40年を経て、立法当時には予想できなかった問題はありますか。
 「40年間を通じて、手続き構造にもかかわる大きな問題とされたのは、証拠開示でしょう。立法当時は、当事者主義をとる以上、相手方の手の内をみることができないのはやむを得ないという考えだったのですが検察官の手元にある証拠の中には、被告人側にとって極めて重要なものが含まれている可能性があるのです。それを見ることができないのは、弁護側にとっては致命的なことなのです。これについては、新法施行後20年もたった昭和44年になってようやく最高裁の判例によって、ある程度解決しました」
 「これからの新しい問題としては、たとえばビデオといった新たな形態の証拠をどう扱うか。コンピューターも、ディスクから問題の部分だけを押収できるか、一緒に入っている他のプライバシーを侵害しないか、といった難しい問題が、次々に出てくると思います。また、国際化の中で国際的司法共助の問題が、ますます重要性を増してくると思います」
 −−最高裁が、陪審・参審制について本格的な研究に着手しましたが。
 「私は国民の司法参加というのは絶えず念頭に置かねばならないと思います。司法というものが、国民のなまなましい感覚からズレてしまってはならないからです」
 「陪審違憲論というのもありますが、私は、憲法全体の精神からいうと、むしろ陪審的なものはあっていいと思う。ただ陪審にも、さまざまな欠点はあります。陪審はもともと、裁判官に対する不信から出発しているが、素人はエモーショナルなものに動かされやすい面があるので、その関与が本当に被告人の権利の保障につながるかどうかは即断できない」
 「各国のやり方では、職業裁判官に素人が加わって評決する参審制が主流ですが、この参審制も含め、国民の司法参加はどうかと聞かれたら、前向きに取り組むべきだ、という意見です。しかし、陪審に賛成かどうかということになると、検討しなければ、なかなか結論は出せません。最高裁が検討するということは、1つの姿勢の表れでしょう。それは支持したい」
     ×    ×    ×
 大正2年、山口市生まれ。昭和22年東大教授、38年法学部長、定年退官後、慶大教授を経て49年から58年まで最高裁判事を務めた。同年から東宮職参与。日本学士院会員、文化功労者。日本エッセイストクラブ賞を受賞している。
 刑法、刑訴法理論に画期的業績を示し、戦後は司法省嘱託として、新刑訴法などの立案に参画。最高裁時代には、白鳥決定を推進したほか、名古屋中郵判決、大阪空港騒音訴訟などで反対意見、衆院、参院各定数訴訟では違憲論を展開した。
     ×    ×    ×
 【注】<1>拘禁2法案 国会に提出されている「刑事施設法案」「留置施設法案」を指す。法務省提出の前者は、80年前に作られた「監獄法」を全面改正するねらい、警察庁提出の後者は被疑者の処遇や留置場設置の根拠などを法律で明確化する目的がある、とされる。日本弁護士連合会などは、2法案は、留置場を拘置所替わりに使う「代用監獄」を恒久化し、被疑者と弁護人の面会を制限するものだとして正面から反対している。
 <2>白鳥決定 昭和27年1月、札幌市内で警官が射殺されたのが「白鳥事件」。この事件をめぐる再審請求に対し、最高裁は50年5月、請求人の特別抗告を棄却する決定を下したが、決定理由の中で再審請求についても、新証拠などによって確定判決の事実認定に合理的な疑いが生じた場合、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則が適用される、との判断を示した。この決定を契機に、死刑が確定していた免田、財田川、松山事件の再審が開かれ、いずれも無罪となった。



1989年1月14日 朝刊 1社
◆保険金3億円別府殺人事件 荒木虎美被告が病死


 大分県別府市で49年11月、妻とその娘にかけた3億1000万円の保険金目当てに乗用車ごと海に転落し、同乗の妻子3人を水死させた、として殺人罪に問われ1、2審で死刑判決を受け、無実を訴えて上告していた「別府3億円保険金殺人事件」の荒木虎美(あらき・とらみ)被告(61)が、13日午後3時33分、悪液質がん性腹膜炎のため、拘置先の八王子医療刑務所(東京都八王子市)で死亡した。



1989年1月17日 朝刊 特集
◆「半旗」の10日間 批判派の目 天皇陛下ご逝去


 昭和の天皇が亡くなり、新しい天皇があとを継がれて10日たった。この間の儀式、政府の対応、一般の人々の動き、さらにはマスコミの報道などに対して、数は決して多くはないが、強い批判の態度を表した人々があった。哀悼、追慕、新しい時代への期待などの波のなかであえて上げられた批判の声を、幾つかの分野で追ってみた。
     
 ●大衆団体 戦争責任追及の姿勢 全国的にデモ集会 
 7日以降、さまざまな大衆団体による、天皇制の賛美や皇室の宗教行事を国事行為化することなどに反対する動きが続いている。それは、2月24日の「大喪の礼」まで、場合によっては新天皇の「即位の礼」ごろまでも続きそうな気配である。
 なかでも積極的な動きを見せているのは、無党派の市民団体、市民グループだ。
 反天皇制運動を進める団体、個人の連絡・情報交換の場として設立された「天皇代替りに関する情報センター」(東京・西早稲田の日本キリスト教会館内)によると、7日から15日までに、全国の90数カ所で緊急行動があった。それは集会、デモ、講演会、街頭宣伝、ビラまき、座り込み、自治体や教育委員会への申し入れ、声明発表などといった形をとっているが、中心となっているのは30代から40代の女性で、他には40代の男性、60以上のお年寄りが目立つという。
 比較的多数の参加者を集めた緊急行動としては、「天皇制の賛美・強化に反対する共同声明運動」が7日夜、東京・西早稲田の早稲田奉仕園スコットホールで開いた緊急集会が目立ち、約600人が集まった。主催者は初め、別の会場を考えていたのだが、開会前から参加者が詰めかけ、急きょ会場を移した。それでも、会場から人があふれた。また同夜、京都の部落解放センターで開かれた「『昭和』と天皇制を問う緊急集会」には800人が集まった。
 天皇ご逝去後、最初のデモとなったのは、反戦・反核・反安保を掲げる市民団体「日本はこれでいいのか市民連合」が7日午後、東京・渋谷で行った「天皇が死んでも侵略の歴史は消せない」と題するデモである。約150人が参加したが、同連合が10日夜、再び同じところで行ったデモには約300人が加わり、デモの広がりを印象づけた。
 こうした市民団体、市民グループの主張は多岐にわたる。これを4項目に整理、集約して全国的規模で賛同署名を集めているのが「天皇制の賛美・強化に反対する共同声明運動」である。亡き天皇のご病状にからんで各界で自粛の動きが目立つようになった昨年10月に始まった運動で、評論家の天野恵一、菅孝行、数学者の福富節男、わだつみ会理事長の中村克郎、日本キリスト教協議会靖国神社問題特別委員会委員長の大島孝一、婦人民主クラブ委員長の近藤悠子の各氏ら文学者、学者、宗教者、市民運動家ら71人が発起人に名を連ねた。
 4項目は(1)民主主義の原則に反する天皇の特別扱いに反対する(2)侵略戦争の最高責任者「昭和天皇」を賛美し、「昭和史」をねつ造することに反対する(3)天皇の「葬儀」や「即位」に伴う神道儀式の国家行事化に反対する(4)天皇の死去−新天皇の即位に伴うさまざまな儀式・行事への民衆の動員に反対する−−など。
 もちろん市民団体、市民グループの間には「国民はみな平等で、主権在民なのだから、天皇制そのものが廃止されるべきだ」との主張もある。が、共同声明の項目には、こうした主張を加えていない。「憲法の規定をきちんと踏まえた象徴天皇制ならいい」という人たちをも幅広く運動に迎え入れようとの配慮だ。発起人の1人は、これを「人民の記帳」運動と名付ける。
 発起人によると、13日までに1万7000人の賛同署名が寄せられた。2月半ばに中間的な集約を予定しているという。
 このほか、原水協、平和委員会などの平和団体、日本キリスト教婦人矯風会、日本婦人団体連合会などの婦人団体、平和遺族会全国連絡会、平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会などの遺族団体、全国大学院生協議会、東大学生自治会中央委などの学生団体や、日本被団協、国民救援会中央本部、東大職員組合、科学者会議などが、それぞれ組織としての声明や談話、あるいはそれぞれの代表のそれを発表した。共通しているのは、やはり亡き天皇の戦争責任を追及する姿勢と、天皇を美化したり、天皇を元首化したり、あるいは皇室の宗教行事を国事行為化することは憲法に反するから、とうてい認めがたいという主張である。「新しい元号を使わない」と表明している団体もある。また、一連のマスコミ報道を批判する声明や申し入れをした団体も幾つかあった。(岩垂弘編集委員)
                                    
      
 ●歴史学会 史実わい曲化を警戒 4学会が見解表明 
 昭和の天皇ご逝去から7日目の13日午後2時。東京・西神田のビルの狭い6階の部屋で、歴史4学会の記者会見が開かれた。
 地味な学会の記者会見にテレビ取材が加わりライトがまぶしい。「天皇死去と新天皇即位に際しての見解表明」という内容だからだろう。
 歴史4学会とは、歴史学研究会(1932年創立、会員約2800人)、日本史研究会(46年、約2800人)、歴史教育者協議会(49年、約4000人)、歴史科学協議会(67年、約2000人)をいう。
 歴史学研究会委員長の中村平治東京外語大教授、歴史科学協議会代表の佐々木潤之介一橋大教授ら4人の代表メンバーが並ぶ。佐々木教授が顔を赤くして「見解」を読みあげた。
 「1月7日の天皇裕仁死去以降の政治的社会的動向、とくに朝見の儀における天皇の言葉と首相竹下登の奉答文とは、憲法の定める象徴天皇の枠をこえた現代的天皇制の構築を、いっそうおしすすめつつあることを示すものと考えざるをえない」
 4学会がいう「現代的天皇制」の特徴とは、歴史のゆがめられた理解と、憲法の拡大解釈によって、戦争責任をはじめとする天皇と天皇制の「歴史に対する責任」を逃れる状況を意味している。
 歴史学の研究者たちには、戦後一貫して天皇と天皇制に対する警戒があった。天皇制の特徴がその持続性にあるとすれば、過去が現在であり、現在が過去でもある。天皇制はその性格上、過去の記憶から逃れられない運命をもつ。だから、戦前の津田左右吉史学をはじめ歴史学と天皇制の葛藤(かっとう)は当然、生まれることになる。
 歴史学研究会は十数年前、元号法制化反対臨時大会を開き、右翼のなぐり込みを受けた。毎年2月11日には4学会の加入する「紀元節問題連絡会議」が、建国記念日不承認の集会を開く。
 1986年の「天皇在位60年記念式典」には、東京と京都で歴史家の集いも開いた。だから歴研の取り組みは早かった。87、88年の大会テーマで天皇制を取り上げている。今年5月、東大で開く予定の大会でも天皇制のテーマを継続する。また85年から3年間続けて市民向けの「歴研アカデミー」で「民衆文化と天皇」など天皇問題を講義のテーマにしている。
 天皇のご病状悪化からご逝去まで、声明が3つ出た。昨年9月30日の「天皇病状報道とわれわれの立場」。10月29日の「皇位継承の儀式と改元に関する声明」。それと1月7日の「天皇死去と新天皇の即位に際しての声明」。その底を流れる論点は次の3点だろう。
 まず、朝鮮、中国、東南アジア、太平洋諸国に対する「戦争責任」は、天皇の死をもってしても解消されないという考え方である。
 第2は、新元号、新天皇の強調と昭和の天皇の美化を中心とする「昭和史」キャンペーンに対して、歴史の事実によって批判を加え、正しい「昭和史」像を歴史学者として作るという立場である。
 第3は、新天皇即位礼や大嘗祭(だいじょうさい)などの儀礼は、日本の伝統の継承だという見方が強いが、歴史学者からみると歴史的根拠は薄弱だという事実を今後、提示していくという考え方である。1月7日の声明では「国の宗教的活動を禁じた憲法20条との関係から、明白な宗教儀礼である大嘗祭は、法的根拠を喪失した」と断じている。
 戦前は「皇国史観」で痛めつけられ、現在は日本文化論の一翼を形成する「日本文化的伝統としての天皇論」(4学会編「Xデー問題と天皇制」から)が強調されるなかで、歴史学はその成果を問われている。そうした危機意識が、歴史4学会にうかがえた。(西島建男編集委員)
                                    
      
 ●宗教界 “神道の国教化”懸念 大半は哀悼の意 
 宗教界には、昭和初頭から第2次大戦中にかけて、弾圧を受けた教団がいくつかある。治安維持法違反や不敬罪などに問われたものだ。これらの教団は、こんどどんな反応を示したか。
 たとえば大本(京都府亀岡市)では出口直日教主が哀悼の意を表明した。「……大本は昭和10年、国家による弾圧を受け、無罪の判決を得るまで、長く国賊とさえ呼ばれた過去がございます。しかしその間も、父出口王仁三郎も母すみ子も、国体を重んじる気持ちを変えませんでした。ですから昭和35年の観桜御会に私がお招きいただきました折は、ありがたく参内させていただきました」
 PL教団(大阪府富田林市=もと「ひとのみち教団」)は教主名による談話などの発表はなかったが、「戦争中、不敬罪の弾圧を受けたものの、戦後、皇太子結婚式には宗教団体を代表する形で教主が出席し、不敬の汚名が晴れている。弾圧は天皇によるものでなく、当時の軍部による弾圧であったという認識だ」と広報担当者は語った。
 いま教団を動かしている人々は弾圧体験からは遠い。
 まして、そうした経験のない宗教界の大半は、積極的に亡き天皇に哀悼の意を表しているといっていい。仏教のうち天台宗、真言宗など、古くから天皇とのかかわりを持つ宗派では、座主や管長が「奉悼」の辞を述べ、末寺に対して追悼法要を営むよう通知した。創価学会や立正佼成会などの新宗教教団でもトップの名で哀悼表明があった。
 こうした中でキリスト教界、とくにプロテスタントの一部では、自身の信仰と過去の反省に立つ厳しい態度が見られる。「天皇の死去に伴い、今後行われる神道行事に対して、政教分離の原則が順守され、国家機関の参与がないよう求めます」(日本キリスト教協議会議長談話)「私たちは……神社は宗教ではない、という当局の奇弁に乗って、自分の信仰的な節操を破ったばかりか、神社参拝を拒否したキリスト者が弾圧を受けるのを見殺しにした」(日本キリスト教協議会靖国神社問題特別委委員長談話)といったものだ。そこには、“神道の国教化”といった方向への警戒感も強く働いているようだ。
 もちろん、キリスト教の一般信者の中には、こうした厳しさにはついていけないという声も多い。
 比較的穏健といわれるカトリックの日本司教団談話は「心から哀悼の意を表します」と記したあと、「これから行われる葬儀・即位の諸行事、それをめぐっての政治、社会の動きのなかで、人間を神格化したり、特殊な民族主義を普遍化したりすることがないよう……」と、やはり政教分離・信教の自由への訴えがうかがえる。
 日本の宗教に関心を抱くフィリピン出身のカトリック司祭ルベン・アビト氏(上智大助教授)は「プロテスタントの人たちの行動は、アジアの人々を苦しめたという自分自身の戦争責任の表明であり、信仰告白でもある。そこから天皇の責任を問い続けているのだと思う。侵略を受けた側からすると、そういう人たちが日本にいることに救われる思いがする」と語る。
 最近の一連の動きを見て、宗教学者の村上重良氏(慶大講師)は「天皇の問題が権力・政治機構の問題としてでなく『天皇教』といった宗教上の問題としてとらえられている動きが出ていることを注目したい」と言う。つまり、信仰上のぶつかり合いなど、かなり変わった様相が展開するのではないか、という指摘だ。
 また、ある宗教団体連合会の中堅職員は言う。「正直いってこれからの大喪の礼や大嘗祭などの諸行事が、どこまでが宗教的なものなのか、分からないところが多い。キリスト教のように厳しく考えて、声高に叫ぶことが、いいのかどうか。もちろん、政教分離の面で、懸念されるような局面にはきちんと訴えていかないといけないが」
 「天皇」をめぐる対応には、少数の宗教者にしろ複雑な思いがないまぜになっている。(外村民彦編集委員)
                                    
      
 ●在日アジア人 過去の謝罪求める声 日本人の対応注目 
 「雪崩をうつようで恐ろしい」。昨年9月以来の皇居へのお見舞い、弔問の記帳の人波や自粛現象について何人かの「在日」の人々が期せずして同じ表現をした。日本政府の対韓政策や日本での差別の激烈な糾弾者として知られる在日韓国人、鄭敬謨氏(シアレヒム社主宰)でさえ「天皇制賛美の津波の中で、めったなことをいえばやられる、竹やりの前に立たされた感じだ」と声をひそめた。
 関東大震災での朝鮮人虐殺から最近の朝鮮人高校生への暴力事件−−天皇をめぐる日本人の動きに在日外国人は強い恐怖感を抱いている。
 「何かいえば、たたきのめされそうだ」−−皇軍の兵士として戦地に送られ、BC級戦犯で死刑の宣告を受けたある韓国人の口は重かった。「シンガポールのチャンギ刑務所で『天皇陛下万歳』と叫んで処刑された同胞の叫びが、今も耳に残っている。天皇の戦争責任はないなどと、テレビでしゃべっているのを聞くと、この国では外国人だから何もいえないのがつらい」と言う。
 母国に帰る留学生たちの場合、恐怖感は二重になる。川崎に住むインドネシアの女子留学生(28)は話す。「私の国では、国民は戦争を忘れていない。私も日本軍のことを聞いて育った。パレス(皇居)に人々が押しかけるのを見て怖くなった。天皇は普通の人間なのに半分、神様みたいにあがめている。でも私は何もいいたくない。経済のことで私の国の政府は親日的だから、日本批判はできないんです」−−かつてアジアを支配した日本と経済力をふるう今の日本、その日本と結びつく自国政府、というアジアの構造が彼女に沈黙を強いる。
 滞日十数年のマレーシア人ジャーナリスト、陸培春氏は「圧力を感じるが、今何もいわないと人間としての責任を感じる」と、最近、米誌「ニューズウイーク」で、天皇について発言した。「祖父を日本軍に殺された。すまなかったといわれれば許すが、天皇騒ぎを見ていると、日本人に謝罪の気持ちがあるのだろうか」と問う。シンガポールの新聞に日本人の戦争責任への無関心ぶりについても書いた。
 「天皇をめぐってこれだけ国中が動かされるのを見ていると、人々の心や感情や思想の領域まで支配する見えない力があるのを実感して不気味だ」と恐れながら「中国人として天皇を追悼する気にはなれない」と断言するのは神戸在住の在日中国人2世林伯耀氏(中日民衆交流史研究家)。「天皇の軍隊の名において南京大虐殺など中国への侵略が行われたからだ。天皇はアジアの人々に謝罪すべきだった」という。
 林さんは、日本政府は中国に対して戦争の賠償をすべきだと、在米中国人とも連携して要求している。「天皇の死によっても、罪科は消えない。新天皇の下で、戦争責任が隠ぺいされるのを恐れる」と手きびしい。
 「日本国民の象徴の死だから哀悼するが、彼の代に犠牲になった日本人300万人、アジア人2000万人以上も合わせて悼むべきだ」と強調するのは、川崎の李仁夏牧師(民族差別と闘う連絡協議会代表)。指紋押捺(おうなつ)や就職差別などの問題に取り組む中で「在日の人々への差別も、天皇とそれを支えた日本国民が戦争責任をきちんと処理していない結果だ。レーガン米大統領が日系米国人に謝罪したように、日本の為政者もわれわれに謝罪すべきだ」という。新しい時代に差別を継続すべきではない、と李氏は、定住外国人の権利を守る立法運動に一層意欲を燃やす。
 そんな中で池明観東京女子大教授は「ほっとしたのは、天皇の死に対して、一般の日本人が意外に冷静にふるまったことだ。天皇を頂点として一枚岩にまとまる家族国家が崩れ、多様な考え方を認める民主主義が日本にも根づき始めたのだと見たい」−−民主化運動にかかわって故国韓国を追われ、70年代から日本に住む思想家、歴史家として、日本の天皇制には深い関心を持ってきた。「今後、天皇制が本当の平和のシンボルになるか、戦争責任さえ認めない権力に利用されるか、日本人の対応を見守りたい」(松井やより編集委員)
                                    
      
 ●政党 共産だけ徹底 社党内は意見が様々 
 弱い抵抗感に反省も  
 国会に議席を持つ政党のうち、亡き天皇、新天皇、天皇制、そして一連の儀式のすべてについて徹底的な批判を加えたのは共産党だけだった。
 同党機関紙「赤旗」が10日付の本紙と15日付の日曜版に載せた宮本議長へのインタビュー記事「天皇裕仁の死去と日本共産党の立場」は、それらの批判の総まとめと言えるものだ。宮本氏はそのなかで、「天皇死去の知らせをきかれた瞬間、どんな思い、感慨をもたれたか」との編集部の質問に答えて「日本歴史上最大の惨禍を日本国民にあたえた人物が、支配勢力のいわば最大の礼賛、哀悼のなかで世を終わるということの矛盾ですね」と言った。
 宮本氏の批判は、天皇、政府などと同時に、マスコミを次のように強い調子で非難しているのが1つの特徴だ。
 「……マスコミにしても『崩御』という言葉をつかったり、ほんとうに明治の日に返ったのではないかと思うような紙面です。支配勢力というのは、そういうことをやるんです。……巨大な世論操作です」
 「……侵略戦争へ一路むかった根本には、民意をまったくふみにじり、弾圧と牢獄(ろうごく)をもって大衆をかりたてた天皇制の専制支配があったのです。そこを、日本のマスコミは、象徴天皇制を残した関係で『菊タブー』にしています。このタブーが今日どのようなものかということは連日のテレビ、新聞が最大限に証明しています」
 「……原理的な反省をくわえないで、新天皇についてただよかれよかれというようなことでは、マスコミは批判的精神を欠いていると思うんです」
 その共産党から「『朕(ちん)深ク記帳ヲ嘉(よみ)ス』おたか殿」(「赤旗」日曜版88年11月13日付)とからかわれた社会党は、新しい天皇が9日の「即位後朝見の儀」で「皆さんとともに日本国憲法を守り……」と述べられたことを評価する見解を出した。お言葉が昔の「皇祖皇宗」や「万世一系」などの用語を使っていないのもよかったというのが山口書記長の見方だ。
 しかし、全部に手放しで賛成しているわけではない。「御在位60有余年、ひたすら世界の平和と国民の幸福を祈念され……」とある部分については疑問があるとし、天皇の国事行為として行われた朝見の儀自体についても、旧憲法時代の儀式の呼び名を残したことは問題だという態度をとっている。
 社会党の場合は、朝見の儀に国会役員として招かれた同党議員のうち出席した人と欠席した人とがあったように、党内がすべて同じ意見というわけではない。衆院議員の1人は、この10日間の「天皇と政治」の動きについて「一つ一つは、形の上では憲法違反とならないよう、すれすれの配慮がされている。しかし、全体として見ると、明治期につくりあげられた天皇崇拝を取り戻そうとする方向があらわだ。社会党もそれに対する抵抗感が強いとは言えないのが残念だ」と語っていた。(石川真澄編集委員)



1989年1月18日 朝刊 千葉
◆予防拘禁<用語>


 治安維持法は大正14年、普通選挙法と同時に制定された。天皇制や私有財産制などに反対する行為を罰する法律で、共産主義や労働運動への弾圧が強まった。
 最初に適用されたのは社会科学研究グループの学生らが検挙された京大事件。昭和3年には3・15事件が起き、共産党員らが全国で一斉に検挙、数百人が起訴された。同年、治安維持法の最高刑が「懲役10年以下」から「死刑」に引き上げられる。
 16年の全面改正では、過去に同法違反で処罰され、再犯の恐れがあるとされた人の拘禁、収容などを認めた予防拘禁の規定も盛り込まれ、予防拘禁所が東京・豊多摩刑務所の一角などに設けられた。治安維持法は占領まで続いた。
 県内でも、県警が特別高等課を置いて思想取り締まりを強化。治安維持法違反による検挙者は6年に20人、8年には102人と増えた。特に千葉医大生の左翼運動には6年から2回の弾圧が加えられ、12年には雑誌『房総文学』グループの検挙もあった。



1989年1月18日 朝刊 千葉
◆治安維持法 理由告げず逮捕、拷問(証言 私の昭和:5)千葉


 部屋の奥から、うっすらとほこりをかぶった本を取り出してきた。『レーニン選集第1巻』。奥付に「昭和6年11月15日発行、非売品」とある。
 「××によって呼び起された経済的及び政治的××を、民衆の政治的意識を覚醒させ、資本家階級の××の××を×めるために××すべく……」
 神田の古本屋で手に入れ、数回の家宅捜索でも見つからずにすんだ1冊。豊田一夫さん(79)は茶色になったページを開き、目で追いながら言った。「全部、想像しながら読んだ。考えてみると、ひどい時代だったよ」
     *    *
 明治42年、山武郡福岡村(今の東金市)の農家に生まれた。旧制中学を卒業して上京。昭和5年、弁護士になろうと、日大専門部法律科に入る。
 大正デモクラシーの名残もあって、街のあちらこちらで演説会が開かれていた。働きながら大学に通う友人が「8時間労働の実現」や「賃金値上げ」を訴えるのを聞いた。小林多喜二らのプロレタリア文学を乱読し、築地小劇場に通った。
 社会運動をして検挙された人たちの援助団体「日本赤色救援会」にかかわるようになった。公判の傍聴や刑務所への差し入れ。家族の面倒をみることもあった。
 大学の勉強はそっちのけで、運動にのめり込んでいった。
     *    *
 初めての逮捕は、帰宅途中に、警官の職務質問から。たまたま、労働組合が出した「非公然」の文書を持っていたので、とっさに駆け出したら捕まった。
 いすにしばりつけられ、短く切ったベルトでたたかれた。ももが黒くはれ上がる。これからどうなるのかと少し心細くなった。それでも、なんとかのらりくらりとかわしていたら、3カ月で釈放された。
 大学を卒業後、消費組合の手伝いをしていて、再び捕まった。さらに活動家を訪ね、一緒に動き出そうとしたところを3度目の逮捕。今度は治安維持法違反で起訴され、市ケ谷刑務所に入れられた。
 きつい取り調べと栄養失調で、すっかり体をこわしてしまった。鉄格子の中で吐血。寝ていたら、のどの奥から急に生温かいものがわいてきた。
 昭和11年、厳しく冷え込んだ2・26事件の夜。窓の外が白かった。
 春になって、病気を理由に保釈された。実家で静養している間、週に1度は、特高(特別高等警察)の刑事が様子を見にやってきた。
 2年ほどで体がほぼ元通りになり、千葉市の軍需工場で働き始めた。
 組合活動や労働運動は、もうできなかった。工場に憲兵がいて、従業員の動きに目を光らせていた。日記も証拠になるから、つけなかった。
     *     *
 16年12月8日。
 まだ薄暗いうちに、4、5人の特高にたたき起こされた。「聞きたいことがあるから、ちょっと来てくれ」。千葉警察署に連行され、理由も告げられずに逮捕された。
 太平洋戦争が始まったことも、共産党関係者が全国で一斉に捕まったことも、知らないままだった。
 朝から晩まで特高の拷問が続いた。
 高げたの歯の上に正座させ、ひざに水の入った大きなバケツを乗せる。「時勢を批判しただろう」「共産主義を捨てろ」。足や背中を竹刀で殴る。
 体中がはれ上がった。頭がぼうっとしてくる。このまま死ぬのではないか……。意地で持ちこたえた。
 懲役3年の実刑判決を受け、千葉刑務所へ。所内でこっそり新聞をつくり、「この戦争は負ける」と書いた。見つかって、天井から裸でつり下げられた。
 釈放されたのは、19年の暮れだった。
 やっと自由になれた、と思った。
 1週間後に赤紙が来た。
 まさか召集されることはないと思っていた。軍需工場にいたころ、プレス機で右手の人さし指と中指を第一関節から切断している。
 戦地へ連れていかれたら、逃げよう。そう考えた。
 終戦は広島で迎えた。
     *    *
 実家に戻って農業を継いだ。
 共産党に入り、農民組合をつくったり、党地区組織の再建に取り組んだりした。
 妻(73)にはずいぶん苦労をかけた。
 「いいんですよ、もう」
 そのひと言が、わずかながら救いになっている。
 ふたりだけの静かな暮らしの中で、ふと落ち着かない気持ちになることがある。世の中がどこか、昔に近づいているような気がする。
       
 <予防拘禁>
 治安維持法は大正14年、普通選挙法と同時に制定された。天皇制や私有財産制などに反対する行為を罰する法律で、共産主義や労働運動への弾圧が強まった。
 最初に適用されたのは社会科学研究グループの学生らが検挙された京大事件。昭和3年には3・15事件が起き、共産党員らが全国で一斉に検挙、数百人が起訴された。同年、治安維持法の最高刑が「懲役10年以下」から「死刑」に引き上げられる。
 16年の全面改正では、過去に同法違反で処罰され、再犯の恐れがあるとされた人の拘禁、収容などを認めた予防拘禁の規定も盛り込まれ、予防拘禁所が東京・豊多摩刑務所の一角などに設けられた。治安維持法は占領まで続いた。
 県内でも、県警が特別高等課を置いて思想取り締まりを強化。治安維持法違反による検挙者は6年に20人、8年には102人と増えた。特に千葉医大生の左翼運動には6年から2回の弾圧が加えられ、12年には雑誌『房総文学』グループの検挙もあった。



1989年1月18日 朝刊 1社
◆新潟のひき逃げ、最高裁が弁論決定 有罪見直しか


 新潟県東蒲原郡津川町で昭和50年、建設作業員がひき逃げされ死亡した事故で、業務上過失致死罪に問われ1、2審で有罪判決を受けた宮城県松山町千石松山、運転手遠藤祐一被告(33)に対する上告審で、最高裁第2小法廷(島谷六郎裁判長)は17日までに、3月17日午後1時半から弁論を開くことを決め、関係者に通知した。小法廷が死刑事件以外の一般刑事事件で弁論を開くのは、2審判決破棄などの場合に限られており、起訴以来12年をかけた長期裁判は、有罪判決が見直しになる公算が大きくなった。
 事故が起きたのは、昭和50年12月20日午後9時半ごろ。津川町の国道49号で、酔って寝ていた建設作業員(当時40)がひき逃げされて死亡し、事故当時、長距離トラックで現場を通りかかった遠藤被告がその2日後に任意調べを受け、52年2月に起訴された。



1989年1月20日 夕刊 2総
◆チベット・ラサ暴動で死刑含む判決 ラサ地方裁判所


 【上海20日=伴野特派員】20日の上海各紙によると、昨年3月チベット自治区のラサで起こった暴動事件で、ラサ地方裁判所は19日、ラマ僧を含む24人のチベット人被告に死刑を含む有罪判決を言い渡した。解放後の民族暴動事件で死刑判決が出たのは初めて。



1989年1月23日 朝刊 読書
◆神はナイルに死す ナワル・エル・サーダウィ著(書評)


 知識えて諦めを葬る
      
 ひとりの貧しい農婦が村長を殺害した。
 手錠をかけられ連行されるその時も、房の中においても、彼女は時折り呟いた。
 「私はそれが誰だか知っている。今、私は誰だか知っている」
 「貧困と無知と不幸によって逃げ場のない暗黒」(著者序文より)を生きていた彼女が、絶対的な権力者である村長をなぜ殺害しようと思いいたったのか。そして、それを実行に移したのか。彼女は何を知り、何に気づいてしまったのか。著者は次のように記している。「……このような女性が人を殺すというのは、知識を獲得したからなのです。そしてその知識は、突然に湧いてくるものではありません。……1滴ずつ、毎日毎日の蓄積によってです」
 何が起きても諦(あきら)めること。それが、今日を明日につないでいく上での、やむを得ない対応の仕方、と諦めて飼い慣らされる日々を送ってきたひとりの女が「知識を獲得」したその時……。自らの権力を拡大するために宗教を利用する村長の存在、そして「神」それ自体の夫権性は、葬り去らなければならない抑圧と搾取の凝縮した「形」であったに違いない。
 自らが6歳の時に受けた女子割礼の体験が活動の原点であるという著者、ナワル・エル・サーダウィは、アラブ世界ではじめて女子の割礼を公然と告発、非難した神経科医であり、作家である。その結果、彼女は保健省局長と雑誌の編集主任を辞めさせられ、また1981年には、サダト政権下で反政府派として逮捕されたこともある。
 本書で、「知識を獲得した」その結果、村長を殺害した農婦の呟きは、2年前に翻訳されている彼女のもう1冊の小説『0度の女』(同訳者、同出版社)に登場する、女性死刑囚フィルダスの呟きとも重なる。恩赦を拒絶し、絞首刑を自ら望んだフィルダスは言う。
 「もしもう一度、私があなたたちのものであるこの世に生まれたとしても、私は殺人をやめることはないでしょう。……私はあなたたちが犯した犯罪のために死ぬよりも、自分が犯した犯罪のために死にたいと思います」(傍点=略=筆者)
 サーダウィの著作には他に、アラブ世界の女たちの過去と今を克明に描いた評論集『イヴの隠れた顔』(村上真弓訳・未来社)がある。彼女は主張する。欧米の女たちは外科的割礼こそ受けないかもしれないが、文化的、心理的なクリトリデクトノミーの犠牲者である、と。さて、私たちの今は?
 女性の状況について、地理的個人的差異を切り棄て共通性だけを拡大することがセンチメンタルであるなら、個々の差異にすべてを帰結させ、共通性から目を逸すことも同様にセンチメンタルであるだろう。そんなことを考えながら読んだ1冊だ。
 =落合恵子=
 (鳥居千代香訳、三一書房・199ページ・1,300円)



1989年1月24日 夕刊 らうんじ
◆島田事件の赤堀被告、再審判決まであと1週間 


 静岡県島田市で昭和29年3月、佐野久子ちゃん(当時6つ)が連れ去られ、殺された「島田事件」で、殺人、婦女暴行傷害罪でいったんは死刑が確定した赤堀政夫・再審被告(59)=静岡刑務所拘置監に在監中=のやり直し裁判の判決が31日午前10時から、静岡地裁刑事1部(尾崎俊信裁判長)で言い渡される。死刑囚に対する再審は、いずれも無罪を勝ち取った免田、財田川、松山各事件に次いで4件目。再審公判の経過から無罪判決が予想されるが、33年5月の1審死刑判決から1万1200余日もの間、死刑台と隣り合わせで生きて来た赤堀さんは、今も「死刑」におびえているという。(静岡支局=江木慎吾・中村尚徳記者)
        
 「こんなことを聞くと、また弁護士さんに怒られるかもしれませんが、本当に死刑判決がでることはないんですか」。今月6日、赤堀さんは静岡刑務所の面会室で、河村正史弁護士(41)の顔をガラス越しに見つめた。「心配ないって」。河村弁護士は、18歳年上の赤堀さんをなだめた。
 死刑への不安は、昨年暮れに支援団体の島田事件対策協議会の森源事務局長(77)のもとへ届いた手紙にもつづられている。
 「ムザイハンケツヲカチトッテ下サイ。カナラズオネガイヲ、ミナサンニシマス。共ニチカラヲアワセテ処刑シッコウヲゼッタイニクイ止メテクダサイ。処刑シッコウヲクイトメテクダサイ。オ願イシマス」
 赤堀さんが絞首台のある宮城刑務所の拘置場(現仙台拘置支所)に送られたのは、昭和38年。そこでの生活は、再審公判のため静岡刑務所に移される62年8月まで続いた。
 かつて死刑囚として仙台拘置支所に収監された再審「松山事件」の斎藤幸夫さん(57)の話では、収監当時、同拘置支所には40人近い死刑囚がいて、毎月のように死刑執行があった。
 「朝、看守がドカドカとやって来て足音が止まる。ざわめきが消えてシーンと静まりかえった」。運動の時間に赤堀さんと「今日はだれだったんだ」と話し合ったこともある。
 赤堀さんが仙台にいるころから支援活動をしている静岡市南沼上、大野萌子さん(53)によると、赤堀さんも死刑について話したことがある。
 「その日はね、朝の体操がないんだよ。翌日、体操の時間に、人数を数えるんだよ。1人足りないんだよね。いなくなったんだよね」。大野さんは、「処刑された」とは言わずに、「いなくなった」と話す赤堀さんに、外からはうかがい知れぬ苦しみをみる。
 仙台拘置支所の死刑囚たちの暮らしを記録した『そして、死刑は執行された』『続 そして、死刑は執行された』の著者・合田士郎さん(47)にとって、赤堀さんは印象深い死刑囚の1人だった。無期懲役囚だった合田さんは、40年代後半から50年ごろにかけ、死刑囚たちの身の回りの世話をした。
 死刑囚の数少ない楽しみの1つに日曜、祝日の管区巡回映画上映があった。「寅さんシリーズ」「トラック野郎」などで、上映後、赤堀さんが「映画に出て来たあの気の毒な人にあげて下さい」と支所内の袋張り作業でためたお金を出そうとしたことがあった。「地震で被災者」のニュースを知って、見舞金を差し出したこともある。
 赤堀さんはリューマチ、不眠症などに悩み、50年には兄の一雄さん(61)に、「牢屋(ろうや)に入っているのがいやだ。死にたい」と手紙を書いたことがある。もしや、と島田市から仙台市にかけつけた一雄さんにさとされ、ようやく平静を取り戻したこともあった。
 61年5月30日、静岡地裁は再審開始を決め、死刑執行を停止した。決定を知らせた支援者によると、当時の赤堀さんの髪の毛は真っ白、歯もすっかり抜けてしまっていた。静岡刑務所に移ってから、赤堀さんの髪は少しずつだが、再び黒みを帯びてきたという。
       
 ◆島田事件年表(昭和)
 29・ 3・10 事件発生
     3・13 佐野久子ちゃんの遺体発見
     5・28 赤堀被告、別件逮捕
     5・30 久子ちゃん殺し自供
     6・17 殺人、婦女暴行傷害罪で起訴
     7・ 2 初公判、犯行を否認
 33・ 5・23 静岡地裁が死刑判決
 35・12・26 死刑判決確定
 37・ 2・28 第1次再審請求棄却
 41・ 2・ 8 第2次再審請求棄却
     6・ 8 第3次再審請求棄却
 44・ 5・ 9 第4次再審請求
 52・ 3・11 静岡地裁が請求棄却
     3・14 即時抗告申し立て
 58・ 5・23 東京高裁が差し戻し決定
 61・ 5・30 再審開始決定
 62・ 3・26 東京高裁が検察側即時抗告を棄却
 62・10・19 再審初公判
 63・ 8・ 8 検察側、再び死刑求刑
     8・ 9 最終弁論で結審
         
 ◆戦後の死刑囚再審事件
 事件名     発生       逮捕から無罪まで
 (請求人)   罪名  
     
 免田     昭23・12 
 (免田栄)  強盗殺人      34年6カ月
 財田川    昭25・2
 (谷口繁義) 強盗殺人      33年8カ月
 松山     昭30・10
 (斎藤幸夫) 強盗殺人・放火   28年7カ月
 島田     昭29・3
 (赤堀政夫) 婦女暴行傷害・殺人 34年8カ月
                                    
      
 ●事件の経過と争点
 昭和29年3月13日、3日前から行方不明になっていた久子ちゃんの絞殺体が島田市内を流れる大井川対岸の雑木林で見つかった。乱暴され、胸にも傷があった。当時の国警静岡県本部と島田市署は捜査本部を設け、約350人を容疑者として洗い出したが、決め手がなく捜査は難航した。
 同年5月24日、事件発生前から自宅を出たままだった赤堀さんが、放浪先の岐阜県から島田市署に連行された。いったんは「シロ」とされ釈放されたが、同28日、別件の窃盗容疑で再逮捕され、30日になって久子ちゃん殺しを「自供」した。
 静岡地裁の第1審公判での捜査員の証言によると、赤堀さんの逮捕前に、有力容疑者として3、4人が逮捕された。そのうちの1人は、犯行を自白までしたという。また、静岡県警の部内資料によると、強制捜査に踏み切った容疑者は十数人、赤堀さんは「12番目に浮かんだ男」と報告されている。
 赤堀さんは公判に入ってから、アリバイを主張するなど犯行を否認したが、昭和35年暮れ、最高裁で死刑が確定。赤堀さんは再審を請求した。
 再審請求審から再審公判まで、常に自白の任意性、信用性が争われ、争点は(1)胸の傷ができたのは生前か死後か(2)凶器とされる石で胸の傷はできるか、の2点に絞られている。
                                    
      
 ◆島田事件の主な争点
 ★犯行順序
 ◎確定判決
 暴行後に石で胸を数回殴打し、両手で首を絞めて窒息死させた。久子ちゃんが死亡する前に、胸を石で殴ったという自白は、古畑鑑定と一致する
 ◎再審開始決定
 陰部、胸部の傷には生活反応である組織間出血が認められないことなどから、暴行、胸部殴打は首を絞めた後ではないか、との合理的な疑いが生じた
 ◎検察側主張
 暴行→胸部殴打→絞殺。肺の出血は、外力による生活反応。胸の傷に皮下出血が見られないのは、暴行によるショックなどで著しく血圧が低下していたため
 ◎弁護側主張
 絞殺→暴行・胸部殴打。陰部、胸部の傷に組織間出血がない以上、生前にできたものとはいえず、自白内容は真実と反している
          
 ★胸の傷の凶器
 ◎確定判決
 胸の傷は、犯行現場付近にあったこぶし大の変形三角形の石で殴られてできた
 ◎再審開始決定
 石が凶器なら、傷の程度からみてろっ骨に異常がないのはおかしい。凶器とされる石で2、3回殴ったという自白は、信用性に疑いがある
 ◎検察側主張
 石の形と、胸の傷の位置、形状が合っている。ろっ骨に骨折などの異常がなかったのは、幼児のろっ骨が弾力性に富むため
 ◎弁護側主張
 石が凶器であることを裏付ける証拠はない。また、石の形状からして、ろっ骨に異常がないのはおかしい
       
 ★石の発見経過
 ◎確定判決
 死体解剖医の鑑定では、胸の傷の凶器を判定できず、捜査員も推定できなかった。自白によって初めて石が凶器だとわかり、現場から発見された
 ◎再審開始決定
 凶器とされる石と胸の傷が適合しない疑いが出てきたうえ、石に血液、体液などが付着していたなどの客観的裏付けがなく、「秘密の暴露」とはいえない
 ◎検察側主張
 胸の傷が石で出来る、ということが法医学的に証明された。体液の付着が確認されない限り「秘密の暴露」にあたらないという指摘は妥当でない
 ◎再審開始決定
 石の発見、押収に被告人を立ち会わせず、血液、体液などの付着の有無を鑑定していないのは不自然。石を「秘密の暴露」とするのは、捜査側のトリックだ



1989年1月25日 夕刊 らうんじ
◆アガペーの像:1 戦犯慰霊に観音像(昭和にんげん史)


 愛馬の賞金投じる
     
 終戦から1年余。東京の街にはバラックが点在し、トタン屋根があちこちで光っていた。昭和21年11月2日。33歳の中村正行(なかむら・まさゆき)は、千葉県市川市の自宅から、車で府中の東京競馬場へ向かっていた。近くに住む韓国人のMが、正行と父の勝五郎(かつごろう)を乗せてくれたのである。
 *    *    *
 小松川橋を渡り、両国、神田を経て、九段坂にさしかかると、Mは車を止め、靖国神社に最敬礼した。「Mさん、あなたは韓国の方なのに、なぜ……」。正行は思わず尋ねた。
 「どこの国の人でも、戦争で亡くなった方に頭を下げるのは当然じゃありませんか」
 正行は、胸につかえていたモヤモヤが、一度に吹っ飛ぶような気がした。この年の1月7日、元陸軍大尉、由利敬に対する死刑判決をラジオで聞いた。アナウンサーは「戦犯、由利は……」と、はき捨てるような冷たい調子だった。まるで破廉恥罪を犯した犯人のように呼び捨てられる。家族はどんな思いでいられるのだろう。気になって仕方がなかった。
 「お父さん、きょうコトブキが勝ったら、賞金は僕に下さい。やらなければならないことがあるんです」。よほど思いつめた顔をしていたのだろう。父は気押されたようにうなずいた。
 中村家は、千葉でも屈指の素封家で、当主は勝五郎を名乗る。祖父の代から馬主で、戦後第1回の東京競馬4日目のこの日も3頭を出走させていた。コトブキだけは正行の持ち馬である。
 *    *    *
 当時は、まだ競走馬が少なく、コトブキの走る第5レースも3頭立てだった。コトブキは一番人気薄で、単勝馬券も、吉川英治の持ち馬タマと、中沢忠一のキンキの3分の1しか売れていなかった。
 「万歳館という馬主の部屋で、吉川さんと一緒に見ていました。はじめはキンキが先頭で、タマが半馬身差で追い、コトブキは大きく離されていました。直線でタマがキンキをとらえたところで、大外からコトブキが一気に追い込んできたんです」
 万歳館という名称は、持ち馬が勝ったとき、バンザイをすることからついたらしいが、正行は、この日思い切り勝ちどきをあげた。「コトブキはその後、故障して引退しました。あれが一世一代の走りだったんです」。賞金は1万円。いまの約100万円に当たる。
 帰途、正行は1人で目黒に住む彫刻家、横江嘉純を訪ねた。「処刑された戦犯のために、ブロンズの観音像をつくって下さい。遺族は遺骨さえ引き渡してもらえない。代わりに観音像を贈って、慰めてあげたいのです」
 横江は快諾した。しかも制作費はいらない、鋳物代と箱代だけでいい、という。
 元首相の東条英機らA級戦犯28人を裁く東京裁判は、半年前から始まっていた。すでにマニラで、山下奉文大将、本間雅晴中将らが処刑されており、東京裁判も厳しい判決が予想されていた。
 「23年11月12日の判決の日に、石こう型をとり、死刑執行の日に鋳物屋に回すことにしました。12月23日、東京駅八重洲口で死刑執行の号外を見て、それを知らせに横江さんの家に飛んでいったのを覚えています。あの日が今度、天皇誕生日になるんですねえ」
 翌春、高さ約15センチの観音像は、巣鴨プリズンの教戒師、花山信勝を通じて、A級7戦犯の遺族に手渡された。
 後に3代目勝五郎となった正行は、東京駅前の「アガペー(愛)の像」建立に尽力している。作者の名は、あえて刻んでいないが、これも横江嘉純の作だ。=敬称略
 (遠山彰編集委員)



1989年1月28日 朝刊 1外
◆最後のナチス戦犯釈放決定 オランダ


 【ブリュッセル27日=友清特派員】オランダ議会は27日、同国に収監されている最後のナチス戦犯2人の釈放に多数決で同意した。
 釈放が決まったのはフランツ・フィッシャー(87)とフェルディナンド・アウスデアフーテン(76)。2人はともに第2次大戦中、ドイツ軍占領下のオランダでユダヤ人の強制収容所送りを担当した将校だった。ドイツ降伏で逮捕され死刑判決を受けたが、終身刑に減刑され、約44年間を獄中で過ごした。
 2人の釈放に対しては、戦争中のレジスタンス運動参加者らが強く反発、各政党とも統一見解を出せず、議員の自由投票となった。その結果、85対61で釈放が決まった。
 これにより女王が恩赦を決める。アルテス法相は「釈放後は西ドイツに追放する」と表明している。



1989年1月30日 朝刊 2社
◆再審「島田事件」あす判決 「無罪」言い渡しへ


 昭和29年3月、静岡県島田市で幼女が連れ去られ、殺された「島田事件」の犯人として、いったんは殺人、婦女暴行傷害の罪で死刑が確定したものの、無実を訴え続けた赤堀政夫・再審被告(59)=静岡刑務所拘置監に在監中=に対するやり直し裁判の判決公判が31日午前10時から、静岡地裁刑事1部(尾崎俊信裁判長)で開かれる。過去の死刑囚に対する再審、免田(熊本)、財田川(香川)、松山(宮城)の各事件はいずれも無罪が確定しており、これまでの審理などから、島田事件についても無罪が言い渡されるものとみられる。また、尾崎裁判長は直ちに拘置の執行停止を決定するとみられており、赤堀被告は別件逮捕されてから34年8カ月ぶりに自由の身となる見通しだ。
 赤堀被告は事件発生から約2カ月後の29年5月、別件の窃盗容疑で逮捕された。犯行を直接結びつける証拠は自白しかなかったが、35年12月、死刑が確定した。赤堀被告は無実を訴え、36年から再審請求した。確定判決を支えたのは(1)「暴行→胸部殴打→絞殺」という自白の犯行順序が、故古畑種基・東大名誉教授の鑑定と一致する(2)胸の傷の凶器は、自白によって石だとわかり、発見されたもので、「秘密の暴露」に当たる、の2点だった。
 しかし、61年5月の第4次再審請求差し戻し審で、静岡地裁は(1)胸の傷には生活反応がなく、絞殺のあとにできた(2)石が凶器ならろっ骨に何らかの異常があるはずなどとする弁護側提出の法医鑑定を評価。自白全体の信用性に疑いが生じた、として再審開始を決定した。



1989年1月31日 夕刊 1総
◆島田事件死刑囚赤堀さん、34年ぶり無罪 静岡地裁再審判決


 「自白、信用性薄い」 「凶器は石」なお疑問
     
 昭和29年3月、静岡県島田市で幼女を連れ去り、殺害したとして、殺人罪などに問われ、公判で一貫して無罪を主張したが最高裁で死刑が確定した「島田事件」の赤堀政夫・再審被告(59)に対するやり直し裁判の判決公判が、31日午前10時21分から、静岡地裁刑事1部(尾崎俊信裁判長、高梨雅夫、桜林正己両陪席裁判官)で開かれた。尾崎裁判長は被害者の胸の傷の成傷時期については、検察側の主張を全面的に認めたが、「自白に基づいて発見した石を凶器とするには幾多の疑問が残り、結局自白の信用性は乏しい」と無罪判決を言い渡した。赤堀さんは同日午後零時20分、釈放され、逮捕以来34年8カ月ぶりに死の恐怖から解放され、自由の身となった。50年5月、最高裁が白鳥決定で「疑わしきは被告人の利益にという刑事裁判の鉄則は再審にも適用される」と再審の門を緩やかにして以来、免田事件(熊本)、財田川事件(香川)、松山事件(宮城)と死刑囚の再審が相次いだが、いずれも無罪が確定している。赤堀さんについても検察側は控訴を断念し、無罪が確定する公算が大きい。
 赤堀さんは釈放されて9分後に、大蔵敏彦主任弁護人に付き添われて、裁判所の正面玄関に姿を現し、何度も頭を下げ、支援者に向かって右のこぶしを高く上げた。
 この事件で赤堀さんと犯行を直接結びつける証拠は、「暴行したあと石で胸を殴り、首を絞めて殺した」とする捜査段階の赤堀さんの自白しかなかった。確定判決は(1)犯行がこの順序で行われたことは、故古畑種基・東大名誉教授の法医鑑定で、裏付けられた(2)自白に基づいて凶器の石が押収されており、胸の傷に適合することが同教授の鑑定でわかった、として有罪判決を下した。
 これに対し、弁護側は再審請求審で「胸の傷は生活反応が認められず、死後のもの」「凶器とされる石で胸を殴れば、ろっ骨などに傷がつくはずなのに、これがないのは不自然」などとする新鑑定を提出、「自白は強制、誘導されたもので信用できない」とした。これが再審開始の決め手になった。
 再審公判で検察側は勝又義直・名古屋大教授と石山いく夫^(いくお)東大教授の2人を鑑定人に立て、(1)胸の傷に生活反応がみられないのは、暴行による外傷性ショック、あるいは殴られたことで生じた心臓振とう症で被害者の血圧が著しく低下していたと考えれば説明がつく(2)幼児のろっ骨は弾力性に富み、骨や骨膜に異常がなくても矛盾はないと反論。弁護側は「単にそういう可能性もあることを示したに過ぎない」と批判した。
 この日の判決はまず、再審開始の最大の決め手になった胸の傷ができた時期について、「損傷自体からは明確に判断できないが、損傷の下の左肺に生前の外傷とみられる出血膨大部があるところから、被害者の左胸部と左肺の損傷は生前に一連の鈍的外力で生じたと認めるのが相当」と検察側主張を支持した。
 だが、凶器とされた石については、「石で胸部損傷が生ずるかどうかは、明確には判断できない」と指摘。「石を凶器とするには、なお、幾多の疑問が残る。自白に基づいて石が発見されたとしても、自白の信用性を高め得る『秘密の暴露』があるとみることはできない」として、検察側の主張を退けた。さらに凶器は石ではなく、もう少し軟らかいものだったのではないかとの疑問もあると述べた。
 また、石で胸を殴った時の自白が極めて迫真性に富む、という検察側主張に対しては、被害者がショック状態にあったとする検察側主張の臨床症状と、「もがき泣いて暴れた」との自白が符合せず、「自白は虚偽の疑いが強い」、と判断した。
 最後に弁護側のアリバイの主張については、1日に60キロも歩いて移動したとするなど無理があり、目撃証言とも反していることから信用できない、とした。こうした点も踏まえ、「自白調書は信用性に乏しく、自白調書以外に犯行と被告を直接結びつけるに足る証拠はない」として無罪を言い渡した。
     
 藤永幸治・最高検刑事部長の話 本日の判決については、地検及び高検から協議があれば適切に対処したい。
                                    
      
 ●判決ただちに確定を 弁護団が声明
 判決後、島田弁護団は次のような声明を発表した。
 死刑台の恐怖におののく毎日を送った35年の歳月は、あまりにも重い。検察当局は、そこに思いをいたし、この無罪判決をただちに確定させなくてはならない。
 島田事件の誤判と再審手続きについて残した教訓を、わが国の裁判と人権にかかわる者は、深刻にうけとめ、今後再びかかる過ちをおかしてはならない。
 われわれは、いまでもなお冤罪(えんざい)に泣く人々がいると認識している。
 島田事件弁護団は、免田・財田川・松山3事件につづく本事件の成果のうえにたって、代用監獄の廃止をはじめとして、日本の刑事手続きが速やかに改められ、真に国民のための司法となるよう、これからも力を尽くす所存である。
                                    
      
 ●判決の骨子
 <自白調書の証拠能力> 被告が本件取り調べを受けた際、違法不当とすべき肉体的心理的強制はもとより、それに準ずるような誘導はなかったと認められる。
 <損傷の時期など> 胸部損傷の時期は、損傷自体からは明確に判断できないが、生前に一連の鈍的外力により生じたと認めるのが相当である。凶器について、石で胸部損傷を生ぜしめ得るか否かについては明確に判断できない。陰部損傷の時期は生前かつ絞扼(やく)前と認めるのが相当である。
 <自白調書の信用性> 他に自白の信用性を裏づける確実な事情が認められない限り、被告の自白が虚偽ではないかとの疑いをぬぐいきれず、被告の自白は信用性に乏しい。
 <その他> 被告の自白の信用性は低い。被告の供述するアリバイも信用できない。
 <結論> 自白調書は信用性に乏しく、自白調書以外に犯行と被告を直接結びつけるに足る証拠がなく、本件公訴事実についてその証明がないことに帰着するから、無罪の言い渡しをする。
      
 ●島田事件 昭和29年3月10日、静岡県島田市幸町の幼稚園から、青果商佐野輝男さんの長女久子ちゃん(当時6つ)が男に連れ去られ、3日後に大井川岸の雑木林から絞殺体で見つかった。当時の国警静岡県本部と島田市署は同年5月28日、当時25歳で放浪中だった赤堀政夫・再審被告(59)を別件の窃盗容疑で逮捕。赤堀被告は久子ちゃん殺しを自供した。
 公判で赤堀被告は犯行を否認したが、静岡地裁は死刑を言い渡し、35年12月、最高裁で死刑が確定した。赤堀被告は無実を訴え、36年から4次にわたって再審を請求した。
 第4次再審請求審は静岡地裁がいったん棄却したが、東京高裁は58年5月、地裁に審理のやり直しを命じ、地裁は61年5月、再審開始を決定。高裁が検察側の即時抗告を退け、再審開始が決定。再審公判は62年10月に始まり、検察側は再び死刑を求刑、12回の公判を経て、昨年8月結審した。



1989年1月31日 夕刊 1総
◆島田事件<用語>


 昭和29年3月10日、静岡県島田市幸町の幼稚園から、青果商佐野輝男さんの長女久子ちゃん(当時6つ)が男に連れ去られ、3日後に大井川岸の雑木林から絞殺体で見つかった。当時の国警静岡県本部と島田市署は同年5月28日、当時25歳で放浪中だった赤堀政夫・再審被告(59)を別件の窃盗容疑で逮捕。赤堀被告は久子ちゃん殺しを自供した。
 公判で赤堀被告は犯行を否認したが、静岡地裁は死刑を言い渡し、35年12月、最高裁で死刑が確定した。赤堀被告は無実を訴え、36年から4次にわたって再審を請求した。
 第4次再審請求審は静岡地裁がいったん棄却したが、東京高裁は58年5月、地裁に審理のやり直しを命じ、地裁は61年5月、再審開始を決定。高裁が検察側の即時抗告を退け、再審開始が決定。再審公判は62年10月に始まり、検察側は再び死刑を求刑、12回の公判を経て、昨年8月結審した。



1989年1月31日 夕刊 1総
◆素粒子・31日


 もしも、罪のない自分が死刑囚にされちまったら、と想像してみるのは、おかしいことか。
   ×
 もしも、人間の判断に絶対なしの自覚あったなら、と想像してみるのは、おかしいことか。
   ×
 国家が合法的に犯す過ちの中で、えん罪は最も恐ろしい。その構造、可能性は今も健在だ。
   ×
 各地で巨大ドームのブーム。炭酸ガス、フロンで、地球全体のドーム化も進む、と気象庁。
   ×
 自衛隊がいつの間にか「真空地帯」? 反戦を理由に暴行を受けた、と自衛官が日弁連に。



1989年1月31日 夕刊 特設ニュース面
◆えん罪事件根絶を 島田事件再審無罪<解説>


 なお強い「自白偏重」 裁判の原則、確認の必要
      
 免田、財田川、松山事件に次いで島田事件も、31日静岡地裁で、死刑という極刑が誤判だと断定された。戦後の捜査、裁判制度の変革期から間もない時期に起きた事件とはいえ、確定死刑判決が4度も無罪とされた事実の持つ意味は重い。捜査、裁判所関係者は、単に「過去の誤り」とすることなく、この事実を謙虚に受け止め、えん罪の根絶に取り組む必要がある。
 島田事件の場合も、(1)見込み捜査・別件逮捕(2)自白の偏重(3)鑑定人の権威への盲従、という他のえん罪事件との共通点がみられた。裁判では、「暴行→殴打→絞殺」の順序と、凶器が石だったという赤堀被告の捜査段階での自白の信用性が最大の争点だった。この日の判決は、犯行順序については検察側の主張をほぼ認めたものの、凶器の石については「もう少し柔らかいものだったのではないか、との疑問もある」として、全体的にみて自白の信用性は乏しい、とした。
 1審の静岡地裁は「被害者の傷は生前に出来たもので、石でも可能。自白と矛盾しない」との故古畑種基・東大名誉教授の鑑定をよりどころに死刑を言い渡した。法医学の権威だった古畑氏の鑑定は、再審裁判で無罪となった財田川、松山、弘前大教授夫人殺人事件などでも、有罪判決を支えた。
 赤堀さんは34年半という気の遠くなるような年月の間拘束され、死と直面させられた。昭和36年の第1次再審請求から27年半。今回の無罪判決のきっかけとなった第4次再審請求からでも20年たっている。「無辜(むこ)の救済」は実現したが、赤堀さんの犠牲は大きすぎた。
 再審請求審のスピードアップはもとより、再審公判での審理の進め方や再審被告の身柄の釈放問題などについて法の不備が指摘されている。また、島田事件で弁護側は当時の捜査日誌と、赤堀被告とは別に犯行を自白した人物の自白調書の証拠開示を求めたが、検察側は拒んだ。真実追求の立場からすれば、開示すべきだった。
 新刑事訴訟法施行から40年。日本の検察、警察は世界でもっとも優秀といわれるが、まだまだ「自白偏重」は根強い。また、裁判所も被告の言い分より、「優秀な捜査陣」をうのみにする体質が残っている。
 「白鳥決定」で開かれた再審の扉が再び狭まってきた、との見方もある。島田事件の教訓は、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の原則の意味を、もう一度確認することではないか。



1989年1月31日 夕刊 特設ニュース面
◆戦後の主な再審事件年表(89年1月31日)


 昭和
 23・12・29 免田事件発生
 24・ 1・1  現行刑事訴訟法施行
     8・6  弘前事件発生
 25・ 2・28 財田川事件発生
    10・10 梅田事件発生
 28・11・5  徳島ラジオ商殺し事件発生
 29・ 3・10 島田事件発生
 30・ 5・12 丸正事件発生
    10・18 松山事件発生
 33・ 5・23 島田事件、1審の静岡地裁で死刑判決
 36・ 3・28 名張毒ぶどう酒事件発生
 41・ 6・30 袴田事件発生
 50・ 5・20 最高裁が白鳥決定
 51・ 7・13 弘前事件で仙台高裁が再審開始決定
 52・ 2・15 弘前事件で再審無罪判決
 54・ 6・7  財田川事件で高松地裁が再審開始決定
     9・27 免田事件で福岡高裁が再審開始決定
    12・6  松山事件で仙台地裁が再審開始決定
 55・12・13 徳島ラジオ商殺し事件で徳島地裁が再審開始決定
 58・ 5・23 島田事件第4次再審請求で、東京高裁の差し戻し決
          定
     7・15 免田事件で再審無罪判決
 59・ 3・12 財田川事件で再審無罪判決
     7・11 松山事件で再審無罪判決
 60・ 7・9  徳島ラジオ商殺し事件で再審無罪判決
 61・ 5・30 島田事件で再審開始決定
     8・27 梅田事件で再審無罪判決
 62・ 3・26 島田事件で東京高裁が抗告棄却決定
    10・19 島田事件、再審初公判
 平成
 元・  1・31 島田事件、再審無罪判決



1989年1月31日 夕刊 2社
◆獄中の叫び支えた情熱 兄の一雄さんら 島田事件の再審判決


 死と向かい合わせの日々を強いられた赤堀さんを支えて来たのは兄の一雄さん(61)と地元の支援グループ島田事件対策協議会だ。同協議会の森源・事務局長(77)は終始、その先頭に立ってきた。
 法廷で「無罪」の判決を聞いた一雄さんは「待ちに待った無罪判決。弟はよく頑張った。皆様ありがとうございました」との談話を出した。
 「兄さん、おれはやっちゃいない。信心者(祈とう師)に見てもらってくれ」。29年、静岡拘置所の金網越しに訴える弟の言葉に一雄さんは無実を確信した。
 容疑を晴らすため、一雄さんは弟のアリバイ捜しを始めた。弟の話をもとに、事件前後、弟が放浪していたという東京や神奈川を調べ歩いた。そして、その年の9月、事件発生から2日目に弟が現場から遠い神奈川県平塚市内の神社でボヤ騒ぎを起こし、大磯署に留置されていたことを突きとめた。自供に食い違いが生じたが、1審判決は「死刑」。そして、35年に最高裁が上告を棄却し死刑が確定した。
 しかし、赤堀さんの無実の訴えに次第に支援の輪が広がり始めた。「死にたい」という弟を、「おまえが死んだら、えん罪は晴れない」と励ましたこともあった。
 家族にも世間の目は冷たかったが、一雄さんは島田に踏み止どまった。
 一方、森さんは、事件発生から10年後の昭和39年、赤堀さんの無実を確信して仲間とともに同協議会を結成した。松川事件に関心を持ち、警察の捜査や裁判のやり方に疑問を抱くようになった。そんなとき、地元で起きた事件で1人の青年が無実を訴えていることを知った。「えん罪は、赤堀君が捕まったとき、報道を疑わず、犯人だと思った私たちにも責任がある」。そんな思いを抱きながら、25年間、再審請求活動を進め、獄中の赤堀さんを励まして来た。
 40年4月、初めて仙台拘置所の赤堀さんに面会した森さんは、手紙を書きたいという赤堀さんに紙とボールペンを差し入れした。「ありがとうございます」と頭を下げた赤堀さんの短く刈った黒い髪の毛は、いまは真っ白だ。「赤堀君にとって、なんというむだな年月だったことか」
 島田市議をしていた48年秋、脳こうそくで倒れた。「赤堀君を救うまで生きて行かなければと思った」。不自由な体にツエをつき、静岡地裁に駆け付けた。「お互い生きていてよかったな」。森さんは、無言で被告席の赤堀さんに語りかけた。



1989年1月31日 夕刊 2社会
◆島田事件の再審無罪判決に思う 関係者に聞く


 島田事件の再審無罪判決について再審問題に詳しい識者、当時の捜査員、死刑囚再審の「先輩」たちの声を聞いた。
 
 ●何より十全な誤判の防止を
 大出良知・静岡大助教授(刑訴法) これで死刑確定囚が4人も無罪になった。いずれもその救済に30年前後という時間が必要だったとは到底思えない明白な無罪である。この事実は、死刑の誤判がこれにとどまらないことを推測させるに十分である。もっと速やかな救済の実現と、何よりも十全な誤判の防止を期さなければならない。
 ●人権無視した構造を改革せよ
 小田中聰樹・東北大教授(刑訴法) 無罪判決は当然だ。誤判の原因は、わが国の刑事裁判が人権無視の捜査に無批判的に依存していることにある。このゆがんだ構造を改革しなければ誤判を防ぐことはできない。別件逮捕禁止、代用監獄廃止、取り調べ規制、捜査書類開示などが必要だ。
 ●当時の警察は欠陥いっぱい
 事件当時、国警静岡県本部刑事部長だった金子儀平さん(82) 当時の警察は、欠陥だらけだった。足取りの裏付け捜査にしても、東海道を歩いてつぶす経費、人員が足りなかった。捜査能力、鑑識技術も不十分で、反省すべき点がいくつもある。被告も気の毒だと思う。
 ●誤り認めずに判決逃げてる
 免田栄さん(64)=免田事件で無罪確定 赤堀さんには心からおめでとうと言いたい。今後はゆっくりと、落ち着いた生活を取り戻してもらいたい。判決要旨を読んだ限りでは、捜査の誤りや過去の裁判について突き詰めておらず、逃げているのが寂しい。初めは自分1人と思っていた再審の無罪判決が繰り返されると、改めて裁判は信用できないと実感する。人を裁くのは完全でない。確定判決について再審の門を広げるべきだ。
 ●いかに事実が強いかを体験
 谷口繁義さん(58)=財田川事件で無罪確定 真実がいかに強いかということを身を持って体験したと思います。おめでとうございます。社会に出られて、まず自分を大事に、人も大切にしてもらいたい。あいさつを一番に。これが一番大切だと思います。
 ●はやく社会に慣れて下さい
 斎藤幸夫さん(57)=松山事件で無罪確定 本当によかったです。これから社会に出るわけですけど、34年のハンデがあるんで大変でしょう。弁護士、支援者の意見を聞いて早く社会に慣れて下さい。立派な社会人になって下さい。私もまだ独り身で、半人前ですけど。



1989年1月31日 夕刊 1社
◆長い死の恐怖、いま生還 島田事件の赤堀さん再審無罪


 無罪、そして釈放。30余年前、赤堀政夫さん(59)に「死」を言い渡した同じ静岡地裁で31日、「生」の判決が下った。身柄拘束からは1万2668日。昭和という時代の半分を超える歳月は、25歳の青年を還暦直前の初老に変えた。「ナガイナガイ クルシイマイニチデアリマシタ」。絞首台と隣り合わせになりながら無実を訴え続けた日々を振り返る赤堀さん。白い髪、抜け落ちた歯。「外に出てうれしい」と自由の第一声。裁かれるのは「司法」そのものともいわれる再審の法廷の内と外に、熱い拍手が広がった。
                                    
      
 午後零時29分、釈放された赤堀さんが静岡地裁前に姿を現した。弁護団が支えるように寄り添う。「赤堀さん、おめでとう」「おめでとう、赤堀さん」。支援者の歓声に、右手を高々と挙げてこたえた。白いトックリセーターに紺のブレザー、グレーのズボン。新品の革靴が光っている。すべて、兄一雄さん(61)が前日に差し入れた「晴れ着」だ。
 ゆっくり、落ち着いた足取りで、約20メートル離れた同地裁構内の静岡県弁護士会館前で待つ一雄さん、裁判の支援を続けた島田事件対策協議会事務局長の森源さん、同会長の田中金太郎さん(78)のもとへ。仙台拘置支所で、共に死におびえる死刑囚として生活したことがある松山事件の斎藤幸夫さん(57)もやって来た。
 一雄さんらを前にした赤堀さんの第一声は「外に出れてうれしい」だった。
 午前10時21分、静岡地裁3号法廷。赤堀さんは尾崎俊信裁判長にうながされ、前に進み出た。ゆっくりおじぎし、低くこもった大きな声で「はい」と答えた後、身動きせず、じっと裁判官を見つめた。
 「主文。被告人は無罪。釈放手続きは閉廷後、別室で行う」。白髪のまじった赤堀さんの頭が、揺れた。裁判長に向かって、体を折るようにしてゆっくりとおじぎした。弁護人席にも。「長くなるので、いすにかけて聞いていて下さい」と言った裁判長に「はい。はい。どうもありがとう。はい」と答え、そっと腰を下ろした。まばたきしながら、傍聴席で何回もうなずく一雄さん。
 支援者で埋まった傍聴人席から拍手が巻き起こり、次々と喜びの声が上がった。島田事件対策協議会事務局長の森源さん(77)は何も言わず、食い入るように見つめるだけ。
 静かになるのを待って、尾崎裁判長が判決理由を読み始めた。淡々と、よどみなく朗読が続いた。向かって右の席には、21人の弁護団、左側は3人の検事。第1審から弁護した大蔵敏彦さんは、目を大きく見開き、赤堀さんを見つめた。
 午後零時13分、尾崎裁判長が閉廷を告げようとすると、被告席に座っていた赤堀さんは待ち切れなかったように立ち上がり、尾崎裁判長に向かって「裁判長さん、ありがとうございました」と大きな声で言い、頭を下げた。
 さらに弁護人席にも「ありがとうございました」と言うと、大蔵弁護士のそばに歩みより、固く握手を交わした。刑務官に促され、退廷する間際には傍聴席の支援者に手を振るなど、喜びを隠し切れない様子だった。
                                    
      
 ●今も犯人と思っている、被害者の両親 島田事件無罪判決
 「無罪判決」−−午前10時25分、静岡県島田市役所近くに住む、事件の被害者佐野久子ちゃん(当時6つ)方の玄関は閉め切ったまま。父親の輝男さん(72)がガラス戸越しに応対、「憤りを感じる。いまも犯人と思っている。母親は親類のところに行っていていないが、これでは久子が浮かばれないだろう」と言葉少なに話した。



1989年1月31日 朝刊 2社
◆19歳犯行に死刑求刑 名古屋のアベック殺し主犯格


 昨年2月、名古屋市緑区の大高緑地公園でアベックを襲ったあと殺し、三重県の山中に埋めたとして殺人、死体遺棄、強盗致傷などに問われた名古屋市中村区本陣通5丁目、暴力団員高志健一被告(21)と犯行時、19歳から17歳の少年少女だった5被告に対する論告求刑公判が30日午後、名古屋地裁刑事4部(小島裕史裁判長)で開かれた。検察側は「長時間にわたり、なぶり殺しにした残忍な犯行」と厳しい論告を行い、主犯格で、犯行時19歳だった名古屋市港区、とび職A(20)に対し、死刑を求刑。17歳だった少年も「死刑相当」とし、少年法の規定から「無期懲役」の判決を求めた。少年被告事件としては異例ともいえる厳しい求刑になった。