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逸脱の社会学/犯罪社会学



■社会学

●本

◆Becker, Haward S. 1963 Outsiders: Studies in the Sociology of Deviance Free Press=19781016 村上直之訳,『アウトサイダーズ――ラベリング理論とは何か』,新泉社,289+iip. 1600 千葉社1738
◆Schur, Edwin M. 1965 Crimes without Victims: Deviant Behavior amd Public Policy: Abortion, Homosexuality and Drug, Prentice Hall=1981 畠山宗一・畠山郁子訳, 『被害者なき犯罪――堕胎・同性愛・麻薬の社会学』,新泉社
◆Cohen, Albert Kircidel 1968 =宮沢洋子訳,『逸脱と統制』 至誠堂,現代社会学入門 7,213p." 730 
◆Philipson, Michael 1971 Sociological Aspects of Crime and Deliquency "Routeledge & Kegan Paul →1974 Understanding Crime and Deliquency: A Socoilogical Introduction ,Aldine=1984 藤田弘人訳,『犯罪と非行の社会学』,文化書房博文社

◆那須 宗一・橋本重三郎 1968 『犯罪社会学』,川島書店  千葉教養E075
◆那須 宗一 編 1976 『犯罪統制の近代化』 ぎょうせい
◆那須 宗一 他 編 197802 『家族病理と逸脱行動』 誠信書房,家族病理学講座 第3巻,235p. 2800
◆那須 宗一 他 編 197903 『家族集団の病理』 誠信書房,家族病理学講座 第2巻,237p. 2800
大村 英昭宝月 誠 197904 『逸脱の社会学――烙印の構図とアノミー』 新曜社,313+3p. 2800 ※/千葉社2376
宝月 誠 198001 『暴力の社会学』 世界思想社,世界思想セミナー,203+3p. 1300 千葉社2104
大村 英昭 19800420 『非行の社会学』,世界思想社,世界思想ゼミナール,202p. 1300 千葉社0714/東大社会IV8739
◆那須 宗一・上子 武次 編 198006 『家族病理の社会学』 培風館,222p. 3600
◆那須 宗一 他 編 198009 『家族病理学』 誠信書房,家族病理学講座 第1巻,227p. 3000
◆那須 宗一 他 編 198101 『家族病理と家族福祉』 誠信書房,家族病理学講座第4巻,294p. 3800
◆星野 周弘 198102 『犯罪社会学原論――犯罪・非行の発生過程と一般予防』 立花書房,692p. 7500 千葉社2122/2239
◆佐藤 郁哉 19841015 『暴走族のエスノグラフィー――モードの叛乱と文化の呪縛』 新曜社,317p. 1854 千葉社5023
宝月 誠 他  198610 『社会病理』 東京大学出版会,リーディングス日本の社会学 13,313p. ISBN:4130550632 2500 千葉社3652-13
大村 英昭 1989 『新版 非行の社会学』 世界思想社 1850 千葉社3740/4086
◆仲村 祥一 編 19890228 『犯罪とメディア文化――逸脱イメージはつくられる』 有斐閣,有斐閣選書,274p. 1545 千葉社5113
宝月 誠 199004 『逸脱論の研究――レイベリング論から社会的相互作用論へ』 恒星社厚生閣,社会学叢書 ,329+4p. ISBN:4769906757 3800 [boople][amazon]
◆清永 賢二・岩永 雅也 編 19930320 『逸脱の社会学』 放送大学教育振興会,167p. 1650 千葉社5177
宝月 誠・森田 洋司 編 20041010 『逸脱研究入門――逸脱研究の理論と技法』,文化書房博文社,社会学研究シリーズ−理論と技法15,338p. ISBN:4-8301-0882-7 2940 [amazon] ※
□内容説明[bk1]
逸脱・犯罪を主題にして、それらを実証的に研究する際に活用できる技法をわかりやすく解説。これまで逸脱・犯罪の研究に携わってきた者たちの豊富な経験に基づいて、研究方法の基本的な視点の解説と技法の「つぼ」を披瀝する。
◆佐藤 郁哉  『ヤンキー・暴走族・社会人――逸脱的ライフスタイルの自然史』 新曜社 千葉社3165

●論文等

大村 英昭 197711 「今日のアノミー――レイヴリング理論とデュルケム再評価に寄せて」 "『ソシオロジ』22-2(  ):1-32" ※COPY→F
大村 英昭 1980 「逸脱行動論」,安田三郎・塩原勉・富永健一・吉田民人 (編) 『社会的行為』 (基礎社会学 T):139-166,東洋経済新報社
石川 准 1985 「逸脱の政治――スティグマを貼られた人々のアイデンティティ管理」,『思想』736:107-126  ※COPY
大村 英昭 19850401 「劇場犯罪の出現――グリコ・森永事件にみる多層なリアリティ」,『中央公論』100-04(1191):76-87
◆永井 良和 198601 「都市の「匿名性」と逸脱行動――隠蔽と発見の可能性」 "『ソシオロジ』30-3(  ):077-096 "  ※抜刷
◆大庭 絵里 19940501 「単純ではなくなった<売買春>の論議」,『法学セミナー』39-05(473):042-045 ※COPY
◆大庭 絵里 19990831 「少年とマス・メディア」 後藤弘子編『少年非行と子どもたち』:245-264 ※
◆大庭 絵理・岡本 吉生・矢島 正見 199212 「メディア文化と非行――ポルノ文化と性非行を中心に」,『犯罪心理学研究』30-特別号:160-163(日本犯罪心理学会第30回大会発表論文集――ラウンド・テ−ブル・ディスカッション)
◆佐藤 恵 20011124 「被害者の社会学に向けて――犯罪被害者家族における支え合いの困難とその支援」,第74回日本社会学会報告 ※


 
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■レイベリング(labeling)

◆レイベリング(labeling)ラベリングとも言う。「レッテル(ラベル)を貼ること。…逸脱に関する社会学的研究においては、ある人の行動やその人に対して、規則に違反していたり、あるいは標準から非常にかけ離れているという属性が、他者、周囲の者、社会的統制機関、あるいは自らによって付与されることをいう。…」(鮎川潤『福祉社会事典』p.1009、1999年、弘文堂)
 http://koubundou.co.jp/

◆立岩 1985

(20)人々が犯罪とみなすものが犯罪である、といった――極端な道徳実在論者にとってはともかく――あたり前の言明、また、人は他者から何者かであるとみなされることによって何者かであると認識するに至る、といった――極端な観念生得論者にとってはともかく――難なく受け入れられるだろう言明、以上のことを逸脱について語ろうとすれば、このことを分析・記述しなければならないだろう。レイベリング理論は、他者の「みなし」に注目し、微細な権力作用を記述しようとした点で、重要な意味を持つけれども、「みなし」の質については――もっとも、わずかの文献にあたった限りでであるが、またレイベリング理論と呼ばれるものの外延がはっきりしない以上、一般的に論じるのはあまり意味がないともいえようが――さほど考慮していないように思える。その一つの要因は、その理論が歴史、そして個々の社会の違いにさほど注意を向けないことにあるのではないか。M. Rotenberg[1978]はこのことを指摘し、プロテスタンティズムの宿命論のレイベリングに対する影響を分析している。またK. Erikson[1966]も同様の記述を行っている所がある(cf.註8)。レイベリング理論についてはH. Becker [1963=1978]、T. J. Scheff [1966=1979]、大村英昭・宝月誠[1979]、大村[1980]、また吉岡一男[1982-]――非常に多くの文献の内容を紹介している、などを参照。この他、E. Goffman[1961=1984][1963=1970]の記述・分析が重要なものである。


 

◆立岩 真也 2004/12/31 「社会的――言葉の誤用について」
 『社会学評論』55-3(219):331-347

  「2−2 何が相対化されようとしたのか」「(1)「無害化」の限界」「(2)因果としての社会性について」よりBR>   「「社会性」はまずAについて(のBの事実認識について)言われる。人に付与される性格は間違っている、虚像、作られた物語だとされる。例えば、ある人たちが危険な人間だと括り出されてきたと言われる。また、例えば虐待という事態が注目されるようになったことによって、その実数が増えているかに見えることが指摘される。
  その指摘はその通りで、多くの人々がそうは思っていないのだからもっと言えばよい。しかし考えておくべきことは、まず、実際に危険でなく無害であるなら排除されるのはなぜかである。いくつかの感染症は実際には感染力が弱い。にもかかわらず隔離されたのはなぜか。
  もう一つは、間違いではない場合にはどう考えるか、例えば実際に危険だったらどうなのかである。むろん間違って思いこんでいる人に事実を言う必要はある。しかし、まず社会学者の本なども一応読んでいる人たちにとっては、構築主義的に語られることは既に織り込み済みということがある。あるいは外部から指摘されなくとも、実際には増えていないが注目されてきた過程を、外からの観察者以上に知っている。暗数になっていた部分が表に出てきていることを実感しつつ、事態は実在するから、それに対応することを期待されており、何かせざるをえないと思っている。それに対して何を言えるかである。というより、もっと単純に、少なくとも確率的に、間違いではない場合がある。相対的に役に立たない人の集合は、有用/無用という基準で人を括ってしまえば、当然存在する。確率的に危険な人たちもいるかもしれない。その時に何が言えるかである。ここで、括ることによって初めてその範疇が存在するようになるのだという物言いは、事実の記述としては正しいとしても、事態を批判しようとしてそう言うのであれば、弱い。別のこと、例えば確率によって人に対する対応を決めてはならないことを、そう言うのは難しいことなのだが、どうにかして言うべきなのではないか。
  (2)因果としての社会性について
  次にやはりA、人に帰せられるものの由来、因果の問題として社会性が言われることがある。ある事態が実在することを認め、その描写・記述についても認めた上で、その起源の構築、因果の社会性を言う。その一つが、第二の社会性の主張であり、それは、人の性質や性能について、その要因として社会的環境があると言う。
  一つに、それは社会(他人)によって与えられたものであってその人のものではない。だから受け入れなくてよいという文脈で言われる。例えば女性に付与される性格は社会的に構築されている。したがってそれを肯定する必要はなく、それに束縛される必要はないと言う。
  もう一つ、それは社会を改善すればよいという実践につながる。社会科学は社会的実践のための学でもあってきたから、社会的要因によって現実が規定されているなら、その社会的要因を変更・修正することによって現実をよくすればよい。他方、そうした営為に効果がないとなれば、社会科学はすることがなくなる。だから、因果としての社会性の指摘と社会科学とは親和性がある(cf.(立岩,1997:chap.7))。
  第一の問題は、事実としてどこまで社会的規定性を言えるかである。その論争の帰結はときに明らかだが、ときに決し難いことがある。また、ときには生まれながらに決まっているとしか言いようのないこともある。どうにも頭が働かない、そんなことはやはりある。
  第二の問題は、ここでの社会性の用法が妥当なものかである。少なくとも多くのものは社会的要因に規定されている、その意味で社会的に構築されていると言えようが、そのこと自体はよいともわるいとも言えない。何がよく何がよくないのかは、これといったん別のこととして考えなければならない。このことも先に述べた。
  さらに、これも考えてみれば当然のことだが、社会的要因によって規定されているがゆえに、社会的環境を変更するべきであるとは言えない。構築の語を用いながら説かれる近年の社会学にはそうした性格は強くないにしても、社会政策に連接する言説においては、ときに無自覚なこの連結がしばしば見出される。私たちはむしろ、ここで自覚的に距離をとり、この連結が、自身の力能による取得という図式を維持したままで平等に近づこうとするリベラルの路線にとって、またこの社会の流れにとって都合のよい(が実際には明らかな限界がある)ものであることを見ておく必要があるはずである。同時に生理的要因に規定されているがゆえに、生理的・物理的介入が正当化されるわけでもない。この水準への介入、例えば優生学の実践を批判しようとして、社会的規定性を強調することがあるのだが、これもずれている。またこの図式に乗って社会性を強調すると、事実によって有効に反撃されてしまい、かえって主張を弱くしてしまうこともある。例えば性的嗜好に対応する遺伝子が発見されたとして、それでかまわないと言い、その上で言うべきことを言うべきなのである。また、社会的介入がなされるか、そして/あるいは個人に帰責されるかという図式の下では、社会的に決定されているのではなく、自分のあり方は先天的に生理的・物理的に決まってしまっているとされる方がまだよいことがあること、実際そのことが語られることがあることも知っておくべきである。((立岩,2005)でいくつかこうした言説を拾った。)


UP:20050730 REV:
犯罪・刑罰  ◇社会学 

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