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バリアフリー上映
2007 2008



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〔参考〕バリアフリー上映が必要なわけ
(2007年2月12日 「子ぎつねヘレン」バリアフリー上映会に際しての青木挨拶より全文掲載)

 青木と申します。本日は「子ぎつねヘレン」のバリアフリー上映会ということで、映画のバリアフリーについて、簡単にお話をさせていただきたいと思います。そのついでにバリアフリー社会について、少し触れてみたいと思います。

 私は視覚に障害があります。弱視で、ほとんど見えておりません。映画を見ていて、どういうところが分かりにくいかを具体的に申し上げますと、たとえば、二人の人が向かい合っているという場面で、見つめ合っているのか睨み合っているのかといった、登場人物の表情が分かりません。また、場面の移り変わりについていけず、内容が理解できないことがよくあります。そんな時、これらを補ってくれる副音声があると、非常に分かりやすいのです。本日これから映画をご覧いただき、その副音声の分かりやすさをみなさんも実際に感じ取っていただけたらと思います。

 バリアフリー上映というのは、まだまだ少なく、見たいときに見たい映画を映画館で見るという、障害のない人なら普通にできるようなことが、私たちにはできないという現状があります。
 上映会に限らず、バリアフリーという言葉がキーワードのように語られることが多くなってきていますが、ここでバリア、すなわち障壁や障害が、どこにあるのか、ということを考えてみたいと思います。よろしければ、本日ご来場の皆様もおつきあいください。
 私たちが社会で不便な思いをしているのは、目が見えないからなのでしょうか? 一見、そのようにも思えてしまうわけですが、見えないことと不便なことがどうしてつながってしまうのか? このつながりは、当然のものなのでしょうか? このあたりを、疑ってみても良いのではないかと、私は思います。いかがでしょう?
 私の意見を申し上げますと、私たちが見えないから不便な思いをしている原因は、この社会が見えないより見える方が便利なようにできているからなのではないか、というものです。
 少しでも見えるようになるように治療するという考え方もあります。もちろんこれは間違いではありませんが、見えないでも不便でない社会にしていこう、社会を変えていこうとする動きがあっても良い。そしてこれは、まさにバリアフリーの考え方にもつながるというわけです。
 バリアがどこにあるのかという問いかけを行いましたが、バリアが最初からあるのではなく、見えないより見える方が便利な、まさにこの社会が作り出した産物なのです。
 さて、これを映画にあてはめて考えてみますと、私たちにとって映画が分かりにくかったり、十分楽しめなかったりするのは、映画が、見えないより見える方が分かりやすいようにつくられているから、なのではないでしょうか? それゆえに、見えない、あるいは見えにくい私たちは、映画を楽しむことができなかったわけです。そこにある障壁、バリアを取り除き、見えない人も、聞こえない人も、みんなが楽しめる映画にしていくことが重要であると思います。そしてそのためには、副音声、字幕といったものが必要になってくるわけです。
 映画をはじめとする芸術・文化は、決して一部の人のものではなく、また、一部の人を排除するものでもなく、みんなの共有財産であると私は思います。映画をみんなが平等に楽しめるためには、副音声や字幕といったものが必要なのですが、そのためには、映画を作っている方、映画館の方、そして何より、映画を見に来られる皆様方のご理解とご協力が必要です。
 今後、バリアフリー上映を増やし、広めていくため、皆様からのご理解とご協力を、どうぞよろしくお願いいたします。
 もうぼちぼち、早く映画を見せろと怒られそうなので、しゃべるのをやめます。ご静聴、ありがとうございました。


UP:20080101
・ファイル制作:青木慎太朗
バリアフリー/ユニバーサルデザイン/アクセス/まちづくり  ◇京都リップル 

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