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乳房|breast


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last update:20200408


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■紹介

◆『歴史学事典【第2巻 からだとくらし】』弘文堂、1994年。
乳房 ちぶさ [英] breast [仏] sein [独] Brust 461-462頁

 人間は哺乳類の一員として、母親の乳房から子に乳をやって育てるという生物学的事実がある。そこから、乳房をめぐる多様なイメージが作りだされてきた。
 まず乳房は、母性、豊饒・多産の象徴であった。巨大な乳房や多数の乳房をもつ女神像が造形されたのは、そのためである。世界各地で、後期旧石器時代から青銅器時代にかけて、「地母神」「ヴィーナス」と呼ばれる小さな石や土製の女性像が作られたが、それらは臀部とともに乳房がひどく強調されている。また、古代アナトリア地方や古代エフェソスの女神(ディアナ、アルテミス)は、幾列もの乳房がその胸部・腹部を覆っているし、わが国で母性の象徴といえ語りつがれている鬼子母神やその娘たる吉祥天が豊かな乳房をもつ女神として造形されているのも、同じ考えにもとづこう。
 乳の出のよしあしは、子供の命にかかわり、ひいては子孫繁栄をも決定するので、人工栄養のない時代には、乳の出をよくするために、人々は必死になった。たとえば、ポリネシアでは、樹液のしたたり落ちる葡萄の蔓を乳房に巻き付けて祈る習俗があったし、母乳の出をどうしたらよくすることができるかという迷信的な言い伝えは、世界各地に数多く残っている。日本には、乳の出をよくするのに霊験あらたかなお寺・お宮が数多くあり、そこに乳房の絵馬を奉納して乳の出のよくなるよう祈られた。ヨーロッパでも、巡礼地の聖堂に、しばしば奉納物として乳房を象ったものが捧げられたのは、同趣旨の目的からであろう。
 母親が赤子に乳房から乳を与えるのは、栄養補給というだけでなく、授乳時の母の肌の匂いや温もり、優しい言葉とまなざし、愛撫を運び、子供にかけがえのない安心感を与えて、母子間の愛のきづなを強める効果がある。ところが、ヨーロッパでは、禁欲的なキリスト教の影響であろうか、長いあいだ自分の子に哺乳すること、とくに子供が泣くたびに頻繁に授乳するのは、母親の肉欲を刺激するとして忌避された。聖書のなかの『ホセア書』第2章第4節にある「彼女の顔から淫行を、乳房の間から姦淫を取り除かせよ」や『エゼキエル書』第23章33-35節にある「恐れと滅びの杯、お前の姉サマリアの杯、おまえはそれを飲み干して、杯のかけらまでかまねばならない。そして自分の乳房をかき裂く。わたしがこれを語ったからだと、主なる神が言われる。それゆえ、主なる神はこう言われる。お前はわたしを忘れ、わたしを後ろに投げ捨てたのだから、不貞と淫行の責めを自分で負わねばならぬ」とあるのも、その典拠となったであろうか。
 伝説には、自ら乳房を切りとったという女性が登場する。それは、たとえばアマゾン族(アマゾネス)であり、彼女らは、武勇すぐれた女性だけの部族で、弓を引く邪魔にならぬよう右の乳房を切りとったという。また、フリュギアとシリアの女神キュベレに仕える女官たちも、乳房を切って女神に捧げたと伝えられる。
 女性の乳房は、子供に栄養と愛情を伝える器官というにとどまらず、人間においては、原始的性信号を発する性的器官でもある。人間が二足歩行するようになって、身体の前面に膨らむ乳房は、いやでも目立つようになり、男性の目に触れて性欲を刺激し、特別の意味を獲得した。それゆえ、女性は慣習的に乳房を覆い隠すようになったのだという。かくて、豊満な乳房は、母としてだけでなく、男性を惹きつける性的な側面からも歓迎された。かつてのドイツでは、乳房を膨らませるために、聖水をかけることがあったというし、またオーストリアでは、胸の小ささに悩む娘は、満月の夜、窓辺により添って胸をはだけ、「お月様、どうぞわたしの胸を煌々と照らして大きくしてください」と歌い願ったという。
 乳房は知恵や分別をも意味した。たとえばエジプトにおける「神の子」であるホルスは、母イシスの乳房から知恵を授けられたというし、中世の図像においえては、思慮分別 prudentia の寓意像たる女性は、ヴェールをかぶり、胸をはだけ、竜の首を締めているのである。
 乳房にかかわる仕種として注目すべきものを挙げれば、古代ギリシャ=ローマにおいて、女性は自分の乳房を叩いたり、きつく抱き締めることで、弔意などの深い悲しみを表した。これらの仕種は儀式化されていたようで、当時の墳墓からは、埋葬者の死を悲しんで両手で自分の乳房を固く抱いた女性像が多く出土する。中世においても、胸を叩きながら号泣する女性の姿が図像に描かれている。
(池上 俊一)


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■関連ウェブサイト

◆乳房文化研究会(株式会社ワコール主催)
 [外部サイト]https://www.wacoal.jp/nyubou-bunka/

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■文献

◆Romi. 1965 Mythologie du sein, J.-J. Pauvert, 243p. ASIN: B0015TFL7C = 高遠 弘美 訳 199712 『乳房の神話学』,青土社,476p. ISBN-10: 4791755928 ISBN-13: 978-4791755929 [amazon][kinokuniya]
◆千葉敦子 198212 『わたしの乳房再建』,朝日新聞社,222p. ASIN: B000J7J168[amazon][kinokuniya]
◆Schiebinger, Londa L. 19931101 Nature's Body: Gender in the Making of Modern Science, Beacon Press, 289p. ISBN-13: 978-0807089002 =小川 真理子、財部 香枝 訳 19961020 『女性を弄ぶ博物学―リンネはなぜ乳房にこだわったのか? 』,工作舎,276p. 3200+ ISBN-10: 4875022719 ISBN-13: 978-4875022718[amazon][kinokuniya]
◆Yalom, Marilyn 19970201 A History of the Breast, Knopf, 331p. ISBN-10: 0679434593 ISBN-13: 978-0679434597 [amazon][kinokuniya] = 平石 律子 訳 『乳房論 : 乳房をめぐる欲望の社会史 』,トレヴィル,350,41p. ISBN-13: 978-4845711672 欠品(ちくま学芸文庫版 200501 →ISBN-10: 4480088938 ISBN-13: 978-4480088932 [amazon][kinokuniya]
◆中村 哲子 「乳癌を病むドゥラクール子爵夫人、そして女の欲望――マライア・エッジワースの『ベリンダ』(一八〇一年)をめぐって」石塚 久郎、鈴木 晃仁 編 20020520 『身体医文化論――感覚と欲望』,慶應義塾大学,477p. ISBN-10: 4766409248 ISBN-13: 978-4766409246 \5040 [amazon]/[kinokuniya] ,189-214
◆Huber, Joan 20070503 On the Origins of Gender Inequality,Routledge,184p. ISBN-10: 1594513619 ISBN-13: 978-1594513619[amazon][kinokuniya] = 古牧 徳生 訳 20110201 『ジェンダー不平等起源論――母乳育が女性の地位に与えた影響』,晃洋書房,223p. 2600+ ISBN-10: 477102183X ISBN-13: 978-4771021839[amazon][kinokuniya]
◆Miles, Margaret R. 20080107 A Complex Delight: The Secularization of the Breast, 1350-1750, University of California Press, 177p. ISBN-10: 0520253485 ISBN-13: 978-0520253483[amazon][kinokuniya]
◆篠原 敦子 20081001 『その夏、乳房を切る――めぐり逢った死生観』,創栄出版,208p. ISBN-10: 4434123661 ISBN-13: 978-4434123665[amazon][kinokuniya]
◆木村 朗子 20090206 『乳房はだれのものか―日本中世物語にみる性と権力』,新曜社, 368p. 3600+ ISBN-10: 478851141X ISBN-13: 978-4788511415[amazon][kinokuniya]
◆川野 すみれ、土井 卓子 200906 『ただいま乳房再建中――乳がん治療のもう一つの選択肢』,学習研究社,120p. 1800+ ISBN-10: 4051530213 ISBN-13: 978-4051530211[amazon][kinokuniya]
◆Palmer, Gabrielle 20090715 The politics of breastfeeding : when breasts are bad for business, Pinter & Martin, 423p. ISBN-10: 190517716X ISBN-13: 978-1905177165[amazon][kinokuniya] = 本郷 寛子,瀬尾 智子 訳『母乳育児のポリティクス : おっぱいとビジネスとの不都合な関係』,メディカ出版,512p. 3600+ ISBN-10: 4840450080 ISBN-13: 978-4840450089[amazon][kinokuniya]
◆荒木 経惟、STPプロジェクト 20111110 『いのちの乳房』,赤々舍,108p. 2500+ ISBN-10: 4903545636 ISBN-13: 978-4903545639[amazon][kinokuniya]
◆安藤 郁 201101 『女医が乳がんを乗り越えた時――「乳がんです。乳房全摘です」』,メタモル出版,153p. ISBN-10: 4895957764 ISBN-13: 978-4895957762 欠品
◆山崎 明子・池川 玲子・新保 淳乃・千葉 慶・黒田 加奈子 20110820 『ひとはなぜ乳房を求めるのか――危機の時代のジェンダー表象(青弓社ライブラリー70)』,青弓社,213p. ISBN-10: 4787233289 ISBN-13: 978-4787233288 1600+ [amazon][kinokuniya]
◆篠原 敦子 20130301『懐かしい月を抱いて――私の乳房再建』,上毛新聞社事業局出版部,194p. ISBN-10: 4863520794 ISBN-13: 978-4863520790[amazon][kinokuniya]
◆乳房文化研究会 編 20141119 『乳房の文化論』,淡交社,328p. 1900+ ISBN-10: 4473039803 ISBN-13: 978-4473039804[amazon][kinokuniya]
◆シェリーカトウ 20160317 『乳がんになったけど私もおっぱいも元気です』,ぴあ,112p. 980+ ISBN-10: 4835628810 ISBN-13: 978-4835628813[amazon][kinokuniya]
◆生稲 晃子 20160427 『右胸にありがとう そして さようなら――5度の手術と乳房再建1800日』,光文社,207p. 1300+ ISBN-10: 4334978657 ISBN-13: 978-4334978655[amazon][kinokuniya]
◆沢山 美果子 20170101 『江戸の乳と子ども――いのちをつなぐ(歴史文化ライブラリー441)』,吉川弘文館,232p. 1700+ ISBN-10: 4642058419 ISBN-13: 978-4642058414[amazon][kinokuniya]
◆浦島 匡 ,並木 美砂子, 福田 健二 20170125 『おっぱいの進化史 (生物ミステリー)』,技術評論社,216p. 1880+ ISBN-10: 4774186791 ISBN-13: 978-4774186795[amazon][kinokuniya]
◆澤野 美智子 20170210 『乳がんと共に生きる女性と家族の医療人類学――韓国の「オモニ」の民族誌』,明石書店,500p. 6800+ ISBN-10: 4750344702 ISBN-13: 978-4750344706[amazon][kinokuniya]
◆乳房文化研究会 編 20170620 『乳房の科学 ─―女性のからだとこころの問題に向きあう』,朝倉書店,196p. 2400+ ISBN-10: 4254102798 ISBN-13: 978-4254102796[amazon][kinokuniya]
◆渡辺 直樹 20170720 『外科医による一次一期乳房再建 Direct-to-Implantの手法』,現代図書,178p. 8000+ ISBN-10: 4862990282 ISBN-13: 978-4862990280[amazon][kinokuniya]
◆安田 理央 20171118 『巨乳の誕生――大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』,太田出版,288p. 1600+ ISBN-10: 4778316053 ISBN-13: 978-4778316051[amazon][kinokuniya]
◆武田 雅哉 編 20180505 『ゆれるおっぱい、ふくらむおっぱい――乳房の図像と記憶』,岩波書店,240p. 2800+ ISBN-10: 4000254286 ISBN-13: 978-4000254281[amazon][kinokuniya]
◆中田元子 20190130 『乳母の文化史――一九世紀イギリス社会に関する一考察』,人文書院,286p. 2800+ ISBN-10: 4409140671 ISBN-13: 978-4409140673[amazon][kinokuniya]

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*作成:塩野 麻子
UP:20200203 REV:20200408
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