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ALS・〜1995

ALS

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last update: 20160301


◆1869    フランスの神経学者シャルコーにより初めて独立した神経疾患として記載される
◆1874    シャルコー:その症候群を筋萎縮性側索硬化症(ALS)と命名

◆1901    三浦謹之助が日本で最初に報告
◆1920年代  和歌山県の牟□(ろう)群に多いことが指摘される

◆1950年代
 「陰圧式人工呼吸は1950年代の小児麻痺の患者を救った鉄の肺から始っています。タンクの空気を周期的に抜いたり入れたりすることによって人の周囲に陰圧を作り、肺が膨らむようにします。」(The ALS Association[1997=1997:122])
 「人工呼吸器を用いて換気を行なう方法は麻酔の分野以外に他の面にも広がって来た。/この大きなきっかけとなったのは1952年におけるコペンハーゲンにおけるポリオの流行である。この時呼吸麻痺に対する治療としては気管切開をした後、気管カニョーレを介して手でバッグをおして人工呼吸を行ったのであるが、バッグをおす人があまりにも多く必要だったので、デンマークの医科大学の殆んどの学生を必要とする程であった。/このためポリオによる死亡率は80%から25%までに低下したが、これが契機となってヨーロッパ各地では人に代る人工呼吸器の開発に迫られたのである。/かくしてこの目的のためにデンマークではBang(1953)、スウェーデンでは…」(山村[1991:7])

◆1960年代
 1951年以降の麻酔科学の文献の書誌事項を収録した松木編[2000]には、「人工呼吸」の項目があり、1955年以降50年代の文献が2点、60年代になると点数が増え、むろんこの領域におけるということになろうが、「長期人工呼吸」の語を含む論文も1967年以降見られるようになる。

◆1970年代
 米国について。「1900年代初頭に鼻から栄養を補給するためのチューブが開発されたが、長期にわたる使用は1950年代まで行われず、特にALS患者には1970年代まで長期の使用が行われなかった。1930年代に初の人工呼吸器が開発されるが、1970年代まで外来患者にはその使用が認められなかった。ALS患者に至っては、1980年代後期まで人工呼吸器の使用はなされていなかった。」(Boynton[1999])

◆1972    東京都神経科学総合研究所発足
◆1973    東京都神経科学総合研究所社会研究部門開設
◆1973    厚生省に運動ニューロン疾患の研究班が作られる(椿班長)
◆1975頃   「日本でALS治療に多岐にわたる薬剤が試みられたことが…厚生省研究班の報告にあります。副腎皮質ホルモン、タンパク同化ホルモン、グルカゴンATP+ニコチン酸、L−DOPA、ペニシリン、グアニジン、CDP−コリン、抗コリンエステレース酸、成長ホルモン、膵エキス、高圧酸素、抗結核薬、塩酸メクロフェキセート、金属キレー(p.7)ト剤などです。/しかし、いずれも少数の患者さんを対象とし治療経験例の報告で、ALSの進行を抑制したり、長期予後を改善させたりできるものではありませんでした。」(pp.7-8)
 中野 亮一・辻 省次 20001001 「気の遠くなるような治療研究の積み重ね」,『難病と在宅ケア』06-07(2000-10):07-10
◆1975/03/  川合 亮三『筋肉はどこへ行った』,刊々堂出版
◆1976    TBSテレビ「平眠──ある難病老人の願い」
 cf.鈴木千秋[1978]
◆1978/06/20 鈴木 千秋 19780620 『平眠──わが母の願った「安楽死」』
 新潮社,261p. 850円 cf.安楽死
◆1978    川村 佐和子 他『難病患者の在宅ケア』,医学書院

◆1980/04/22 菅原和子人工呼吸器を装着

◆1983/03/15 NHKの地方放送で「ある難病患者の闘病日記」放映
       川口武久『続しんぼう』pp.111-112
◆1983/03/22 NHK地方ニュースで川口武久とりあげられる
       川口武久『続しんぼう』pp.113-114
◆1983/07/24 川口武久『しんぼう――死を見つめて生きる』,静山社,270p. 1300
◆1983?   長岡紘司人工呼吸器を装着(↓)

◆1984/07/  塚田宏の家族にALSの告知
 当時の状況(↓)

◆1985/05/15 川口武久『続しんぼう──生きて生かされ歩む』,静山社,278p. 1200 *
◆1985    塚田宏人工呼吸器をつける

◆1986/04   日本ALS協会結成
 会長:川口武久
◆1986    山端ハナ『話したい!歩きたいの!』
◆1986/12/20 折笠 智津子『妻のぬくもり 蘭の紅』
 主婦の友社,226p.,1200 ※

◆1987/02/21 佐藤 力子『この両手に力をください』
 「この両手に力をください」刊行委員会,233p. 1300 ※
◆1987/04/  松本茂、日本ALS協会会長に就任
◆1987/04/15 日本ALS協会編『いのち燃やさん』,静山社,278p. 1200
◆1987/09/  来田治郎人工呼吸器を装着(↓)
◆1987/09/  日本ALS協会新潟県支部設立(2番目)
◆1987/10/05 川合 亮三『新訂版 筋肉はどこへ行った』,静山社,201p.,1000 ※

◆1988?   長岡紘司人工呼吸器で外出(↓)
◆1988/10/29〜31 国際ALS会議
 「私も患者として唯一人発表する機会が与えられて「告知の受容」を代読してもらった。」(川口武久[1989:131] 発表は川口武久[1989:131]に再録)

◆1989/01/20 松本茂人工呼吸器を装着
◆1989/01/20 土屋 敏昭・NHK取材班『生きる証に──目で綴った闘病記』
 日本放送出版協会,234p.,1500円+税 ※
◆1989/04/01 菅原和子『忘れな草──ある難病患者の記録』,静山社,157p. 1030
◆1989/06/10 折笠 美秋『死出の衣は』,
 富士見書房,229p.,1650 ※
◆1989/09/10 川口 武久『ひとり居て一人で思う独り言──筋萎縮性側索硬化症と闘う』
 一粒社,307p. 1301円+税 ※

◆1990/04/29 日本ALS協会岡山県支部設立
◆1990/05/-- 篠原 糸美 199005 『翔べ、自由に──神経難病と共に』,206p.,静山社,\1,165,ISBN:4-915512-23-1
◆1990/08/-- ベン・コーエン氏(人工呼吸器を付けて在宅療養を送っていたALS患者)を支援した「ベンさんと冷子さんを支える会」が母体となり、福井支部設立準備会発足
◆1990/09/20 佐藤 力子『翼をください──病室からとどけ!母の愛』
 発行:照林社,発売:小学館,253p.,1262 ※
◆1990/10/27 日本ALS協会高知県支部・設立大会
 (松本茂[1995:162-168])
◆1990/11/11 日本ALS協会福井県支部(6番目)発足

◆Oliver, Judy, ed. 1986 In Sunshine and in Shadow: Personal Portraits of ALS
 =199105 日本ALS協会訳,『照る日かげる日――ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者たちの記録』,サイマル出版会,212p. ISBN-10: 4377408933 ISBN-13: 9784377408935 1359 [amazon]
◆1991/04/21 日本ALS協会平成三年度総会
 『JALSA』022(1991/07/08):04-14
◆1991/12/25 『ALS(筋萎縮性側索硬化症)ケアブック』
 編集・発行 日本ALS協会

◆1992/04/-- 診療報酬改訂
 <情報トピックス>診療報酬が改定される
 『JALSA』024号(1992/04/02):30-31
◆1992年度〜 東京都・千葉県 在宅療養患者を対象に人工呼吸器の貸し出し事業始まる。病院が在宅療養患者に人工呼吸器を購入するさい、その費用を補助するというもの。台数はそれぞれ年間2台。
◆1992/07〜  兵庫県でも貸し出し事業始まる
 『JALSA』025号(1992/09/22):35
◆1992/11/-- 国際ALS/MND協会同盟結成 14か国から20団体、35名が参加
 「国際ALS/MND協会同盟結成される」
 『JALSA』027号(1993/05/10):04-05

◆1993/01/11 土屋とおる『生きている 生きねばならぬ 生きられる』,静山社,198p. 1300
◆1993/01/18 NHKプログラムテン「命燃やす日々」
 01/27 「命燃やす日々」NHK会長特別賞
◆1993/05/28 知本 茂治『九階東病棟にて──ねたきりおじさんのパソコン日記』
 メディカ出版,340p. 1800 ※
◆1993/06/15 マオ アキラ『命燃やす日々』
 文溪堂,189p. 1165円+税 ※ →川口 武久
◆1993/09/13 「ALS死22人 「呼吸器つけても生きてるだけ」──”医の倫理”患者の望み断つ 不十分な医療体制も拍車」
 『毎日新聞』1993/09/13
◆1993/--/-- NHK教育TV「明日の福祉・人工呼吸器装着者はいま」
◆1993/10/17 川口 武久『菊化石──筋萎縮性側索硬化症との日々』,創風社,255p. 1456円+税 ※
◆1993/11/27 鈴木 康之『愛はいつまでも絶ゆることなし──筋萎縮性側索硬化症と闘った妻の記録』
 講談社出版サービスセンター,440p. 2913 ※

◆1994/--/-- 日本ALS協会ALS基金を創設
◆1994/05/15 ベンさんの事例に学ぶ会編『最高のQOLへの挑戦──難病患者ベンさんの事例に学ぶ』,医学書院
◆1994/09/16 「人は死を選択できるか」NHK「海外ドキュメンタリー」)
 CBC 1994年 カナダ
 cf.スー・ロドリゲス(Sue Rodriguez)事件
◇1994/11/-- NHK海外ドキュメンタリーでスウェーデンの初老の男性ALS患者の安楽死を扱った場面が放映される(杉山[1998:139]の石川勇の文章)
 (↓のこと?)
◆1994/11/16 TBS「スペースJ」でオランダのドキュメンタリー番組「依頼された死」放映
 cf.
 ◇1995/02/02 『朝日新聞』に番組の内容に対する異議掲載
 ◇加賀乙彦「オランダ安楽死ドキュメンタリーへの疑問」
  『婦人公論』1995-02:214-217
 ◇星野 一正 19950228 「テレビ放映されたオランダ安楽死に対する異議を質す」(民主化の法理=医療の場合)
 『時の法令』1492:55-60(全文↓)
 http://cellbank.nihs.go.jp/information/ethics/refhoshino/hoshino0018.htm
◆1995/09/01 松本茂『悪妻とのたたかい』,静山社,318p. 1800
◆1995/10/20 野本芳昭『生と死を視つめた三年間』,近代文藝社,206p. 1165円+税 ※
◆1995/11/05 宮城県ALS患者家族の会設立
◆1995/11/26 日本ALS協会大分県支部発足 結成大会
 於:大分県立病院講堂
◆1995/秋/  日本ALS協会調査(↓)

 
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◆1976 (立岩→)

鈴木 千秋 19780620
『平眠──わが母の願った「安楽死」』
新潮社,261p. 850円

という本があって、この本によると
著者の母親はALSで1976年に79歳でなくなったのですが
(77歳のときに自覚症状)
「日本安楽死協会」
http://ehrlich.shinshu-u.ac.jp/tateiwa/d/et-nak.htm
の会員第1号で、
積極的安楽死を望み
実行した(とその息子である筆者は思ったのだが、
実際にはそうではなかったという書き方になっています)
人であるということになっています。
その方についての番組が1976年にTBSテレビで
「平眠──ある難病老人の願い」というタイトルで
放映されたこともあったようです。

 
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◆1983/01/27

 「アミトロの会を結成したいと思い立って、はや一か月がたつ。未だに何も進んでいない。県庁に、大学病院に、そして同病の友にも、主旨を説明して情報の提供をお願いしてあるが、どこからも返事が届かない。じれったい。この体さえ自由がきけば、どこへでも乗りこんで行くのだがと、自分を呪う。」(川口[1985:95])*

川口 武久 19850515 『続しんぼう──生きて生かされ歩む』,
 静山社,278p. 1200 *

◆1983/03/15 NHKの地方放送で「ある難病患者の闘病日記」放映
       川口武久『続しんぼう』pp.111-112
◆1983/03/22 NHK地方ニュースで川口武久とりあげられる
       川口武久『続しんぼう』pp.113-114
◆1983/03/29
 全国放送で川口のことがとりあげられる。

◆1983/03/29
 「ラジオを聴いたといって、東京から便りが届く。…
 地元からはなんの音沙汰もない。まるで息を殺して、時間がたつのを待っているかのようだ。宇和島でも、いろいろな方が「テレビを見た」と励ましてくれたが、肝心の患者、家族からの反応がない。
 いったい、どこで、どうしておられるのか。一人で重荷を背負わず、出て来てほしい。」(川口[1985:118])

◆1983/04/03
 「県会議員の方から、同じ病気に入院している県内の患者八名の入院先が知らされる。各病院に、私の主旨を患者に伝えてほしいと頼んであるとのことで、さっそく、一人、名乗り出てくれた。周囲の人が臆病でありすぎる。本人は、同じ病いの人の消息を求めている。ともに力を合わせて闘いたいと願っているのだ。
 固い扉がようやく開かれようとしている。一人、また一人と、声が届く。会は決定できる。必ずつくってみせる。」(川口[1985:121])

◆1983/07/04
 「同病の人たちから、いろいろな情報が寄せられる。灸をすえて息苦しさが消えたこと、食べ物の工夫、使っている薬の種類も大いに参考になる。これらのことをまとめて、皆に知らせてあげたい。
 病院二か所から返答が来る。一つは、該当者がいないという返事。もう一つは、同病の方が三人いるが、本人にも家族にも病名を告げておらず、直接連絡をとるのはむずかしい、というもの。一日も早く治療法が確立され、本人に笑って病名を告げられ、安心して受け止められるようになってほしい。そのためにも、隠さず、進んで語り合う必要があるのではないか。
 全国難病団体連絡協議会にも、問い合わせてみることにする。また、同病の方が唯一加入している、京都の「あけび会」にも連絡をとろう。」
(川口[1985:151])

◆1983/07/15
 「県下の、同じ病いの人の所在がいまだにわからない。この状態では、愛媛県で会を結成するのはほとんど絶望だろうが、中央に働きかけて、なんとしても結成したい。」
(川口[1985:153])

◆1983/12/30
 「今年の目標であったアミトロの会の結成は、残念ながら実現するに至らなかったが、それなりの成果をあげることができた。初めは同病の方がたの所在が皆目わからなかったものが、テレビで取り上げられたおかげで、一人、二人と名乗りをあげてくれた。また、本の出版も自費出版から市販へと思わぬ展開をみせ、大きな反響をいただいた。それに伴い、三十名を越す方がたから便りが寄せられた。
 おかげで、会の結成に向け、明るい希望が見えてきた。来年からはガリ版刷りでもよい、会報を出し、皆の声を反映していきたい。正式の会の発足までには、まだまだ時間がかかるだろうが、一歩一歩、進んでゆけばよい。」
(川口[1985:222])

◆1984/02/16
 「会報第一号が出来上がる。…
 …タイトルは私が、「アミトロの仲間」という意味あいをこめて名付けた。
 ワラ半紙大の、たった一枚の”会報”だが、ここには同じ病いと闘う人たちの声が集められている。入院十二年目を迎えた岡山のIさん。「育ち盛りの子供三人を抱え、パートに、主人の病院にと忙しくしています」という埼玉のKさん。同じく埼玉のSさんは体調をくずされ、再入院されたという。福島のYさんはお母さんの看病の合い間をぬって、便りを寄せられた。一人ではない。同じ病いと闘っている”仲間”が全国にいることを、このささやかな会報が伝えてくれるだろう。そして、二十人、三十人と”仲間”が増えてゆくのを期待したい。
 午後、ヘルパーとポランティアの人たちが発送作業をすすめてくれる。…百通ほどの郵便物ができあがる。
 皆の期待をこめて、第一号が飛び立って行った。」
(川口[1985:247])

◆「『しんぼう』の出版にさいして、川口さんが密かに期待し、願っていることがありました。それは、同じ病いと闘っている人たちがこの本を読まれ、名乗り出てくださることでした。
 実はこの数年、川口さんは、同じ病いに苦しむ人たちが共に慰め、励ましあえればと、消息をたずね求めてきました。しかし、問い合せた病院や福祉事務所からは色良い返事をもらえ(p.272)ず、全国に二千名とも、それ以上ともいわれる患者さんの所在は、霧に包まれたままでした。『しんぼう』の刊行が、同病の方たちの消息を知る手がかりになってくれれば、と川口さんは祈るのでした。
 その願いがかなえられました。同じ病いの方はもちろん、その家族、遺族の方からも続々と便りが寄せられたのです。」
(岩井代三「「あとがき」にかえて」,川口[1985:272-273])

 
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◆1984

 塚田 宏 20001001
 「医療を越えた私の活性剤」
 『難病と在宅ケア』06-07(2000-10):11-15

 「塚田さんの発病は昭和59年、家族のみにALSの告知がなされたのはその年の7月だった。……最初の病院では、原因は不明との診断、「少しお疲れでしょう」ということで帰された。次に訪れた横浜の港湾病院で「進行性筋萎縮症」の診断を受けた。
 その後、知り合いの医師から三鷹市に「難病検診がある」という話を聞いた。とにかく病気についてのどんな情報も手に入れたかった塚田さんは、そこでの診断で都立神経病院に即日、検査入院をするようにいわれた(1カ月間)。検査の結果、ALSの告知を受け、さらに「余命2年」と知らされた。
 18年前の時点では、ALSという病気はまったく日の当たらない世界にあった。塚田さんと家族は実際の病気を知るためにも、ALS患者に会わせてほしいと医師に希望したが、答えは「NO」。その理由は、患者側(またはその家族)が、それを拒むということからだった。これが、18年前の難病患者の閉ざされた現実であった。
 どうしてもというなら、と主治医は奥さんの公子さんと息子の学さんを伴い、病棟階へ上がった。「廊下の一番端をさりげなく歩いて、立ち止まらずに通り過ぎて下さい」という条件で、家族は初めてALSという病気を目の当たりにした。」(p.11)

 
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◆1988年? 外出

 長岡 明美(神奈川県・海老名市ALS患者家族) 20010601
 「キカイで生きるということ」
 『難病と在宅ケア』07-03(2001-06):29-30
 夫=長岡紘司さん

 「夫はALSを発症して24年になります。人工呼吸器を装着して18年になり、10カ月入院生活をしていて、在宅療養は17年目を迎えました。」(p.29)
 「在宅療養4年目に、初めてストレッチャーに乗ってすぐ近くの小学校にお花見に外出しました。
 ……
 人工呼吸器患者が外出したのは初めてで、新聞に報道され、その後テレビにも放映されました。
 それを観たドクター達が、呼吸器をつけて外に出られるのだと部屋から一歩も出たことのない入院患者を病院の庭へ散歩させてくださるようになりました。」(p.29)

 
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◆来田(らいた) 治郎/来田 みや子(大阪府堺市・ALS患者/家族) 20010501
 「在宅患者の一時入院について」
 『難病と在宅ケア』07-02(2001-05):54-57

 「私は現在57歳です。1977年に右上肢の麻痺からALSを発症しました。33歳のときです。現在、発病から23年経過し、人工呼吸器を装着して14年目になります。
 ……
 発病から9年後、家内は私の様子を「肩で息をする」状態と見ていましたが、私自身はうつ病になったと思いました。上田先生から、血液検査の結果から呼吸不全状態であること、人工呼吸器を装着するについてのメリット、デメリットの説明を受けました。それを聞いて、私は3つの希望を出しました。
@人工呼吸器をつけても話ができること
A移動(外出)できること
B自宅で暮らせること
 それが不可能なら自然なままにさせてほしい、と言いました。1987年9月のことです。」
(p.54)


◇天羽 敬祐 編 1991 『機械的人工呼吸』,真興交易医書出版部
◇松木 明知 編 20000701 『日本麻酔科学史資料14──日本麻酔科学文献集(9)』,克誠堂出版,269p.,3000
◇山村 秀夫 1991 「人工呼吸器の歴史」,天羽編[1991:3-10]

◇The ALS Association 1997 "Living with ALS : What's It All About ?", The ALS Association=1997 遠藤明訳,『ALSマニュアル──ALSと共に生きる』,日本メディカルセンター
◇Boynton De Sepulveda, L. I.  199911 「ケアモデル及びケアの包括的方針」http://www.als.gr.jp/public/pub07/sympo_9.html,第10回ALS/MND国際シンポジウムhttp://www.als.gr.jp/public/pub07/main.html


*このファイルは文部科学省科学研究費補助金を受けてなされている研究のための資料の一部でもあります(基盤(C)・課題番号12610172:〜2004.3)。
作成:立岩 真也 
更新:… 20011117,1128,1210,1221,20020117,0612,24,1005,11,1204,20030206,08,0306,20070824, 20160301
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