HOME > ALS >

ALS・資料

(作成:立岩)


 *『現代思想』(青土社)に掲載されている「生存の争い──医療の現代史のために」の第4回から、ALSについて書いています。
 以下はその一部です。その文献リストもあります。
 まだリンクの作業がすんでいない部分が多々あります。おいおいつなげていくつもりです。

 第1〜3回については以下をご覧ください。
 「生存の争い──医療の現代史のために」
 また第10回(2003年1月号)も別の主題について書いています。

 『現代思想』は一般書店で買える本です。青土社のホームページはhttp://www.seidosha.co.jp/です。

 →『ALS 不動の身体と息する機械』という本になりました。

  ◎目次◎

■ALSについて、に転ずるにあたり

 ■転ずるにあたり [略]
 ■この病気の概要 [略]

「予後」について(↓)

 ■予後について言われたこと
 ■予後について書かれていたこと
 ■予定通りにならなかった人たち
 ■なぜ、と思えてしまう [略]

わかること(↓)

 ■医師がわかる/わからないこと  ※以上第4回:『現代思想』2002年8月号
 ■医師から伝えられる/伝えられないこと [一部略]
 ■書類・カルテから知る
 ■医療の方からでなく知る
 ■ほかにどのような        ※以上第5回:『現代思想』2002年9月号
 ■家族が知らされる
 ■わかってしまうこと
 ■わかりたいこと         ※以上第6回:『現代思想』2002年10月号

呼吸器のこと(↓)
 ■選択、とされること
 ■事態の到来
 ■家族が尋ねられる        ※以上第7回:『現代思想』2002年11月号
 ■本人が決める
 ■変化              ※以上第8回:『現代思想』2002年12月号
 ■まず起こること
 ■伝わって変わる
 ■拒否されているという現実の浮上 ※以上第10回:『現代思想』2003年3月号

■川口武久のこと
 ■略歴
 ■「人工的」について
 ■意識の存在・意思の表出
 ■苦痛の位置
 ■引き留めたもの         ※以上第11回:『現代思想』2003年4月号

■ALSという経験
 ■危険
 ■無為
 ■遮断
 ■言葉              ※以上第12回:『現代思想』2003年6月号

■死の決定について
 ■『平眠』(一九七八年)
 ■『依頼された死』(一九九四年)
 ■変位
 ■外すこと
 ■ロックトイン          ※以上第13回:『現代思想』2003年8月号


■(最終回)
 ■ひとまずの終わりに
 ■9回分の引用について
 ■死に寄せられることと引き返すこと
 ■事態の変換と持続
 ■中立の不可能性
 ■外すこととつけないこと
 ■補足・自由と苦痛の強度

 

 *以下、立岩真也 20020801 「生存の争い──医療の現代史のために・4」
  『現代思想』より一部引用

■ALSについて、に転ずるにあたり

 ■転ずるにあたり [略]

 ■この病気の概要 [略]

 
「予後」について

 ■予後について言われたこと

 それからどうなっていくのかを「予後」と言う。ALSはよく「予後不良」と言われ、進行が速く、早くに亡くなると言われてきた。だが、ALSは依然として不治の病ではあり、そしてたしかに速く進行する場合もあり、早くに亡くなってしまう人も多くいるのだが、しかし他方では、かなり長生きの人、何十年と生きる人もいる。少なくともつねには、すぐに亡くなる病気ではない。

 だが多くの場合、そのようには知らされてこなかった。例えば次のように医師から知らされた、すくなくともそう聞いたと言う★05。

 [3]一九七五年・「人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。」(息子に。鈴木[
1978:57])

 [4]一九七七年・「あと二〜三年の命です。」(妻に。長岡[1991:10])

 [5]一九七九年・「係の人から「この病気は五年以上生きることは難しい」と言われた。」(岩手県の難病検診で本人に。菅原[1989:17-18])夫は、それ以前、岩手県立病院で「三〜四年の命」と告げられる(菅原[1989:155])。

 [6]一九八〇年・「発病後三、四年の命しか望めません」(日本医科歯科大学附属病院で、中林基の妻に。豊浦[1996:182])

 [7]一九八〇年・「長くて五年」(兵庫医科大学附属病院で、熊谷寿美の夫に。豊浦[1996:142])

 [8]一九八二年・「「早ければ一年ほどで……」という先生のお話」(北里大学病院で、妻に。折笠[1986:12])

 [9]一九八四年・「検査の結果、ALSの告知を受け、さらに「余命二年」と知らされた。」(東京都立神経病院で、家族に。塚田[2000:11])

 [10]一九八八年・「三年から五年の命でしょう。」(夫に。秦・秦[1998])

 [11]一九八八年・「妻が九州大学病院の先生から説明された診断内容を聞いた。私の病気は急激に年をとる病気で、中には五年から十年も生きる人もいるが、ほとんどの人は三年以内に死ぬ、と言われたそうだ。」(杉山[1998:15])

 [12]一九九〇年・「「筋委縮性側索硬化症ですね」[…]「何ですか、それは」/「一年後には車いすを使わねばなりません」と、畳み掛けるように医師は話す。同席していた医学生らしい若者が隣で辞書をくった。/「それからは」/「まひが進んで、寝たきりの状態になるでしょう」/「それから」/「人工呼吸器も必要になります」/「それから」/「あと二、三年の命です」」(徳島大学医学部付属病院で、長尾義明に。『徳島新聞』[2000])

 [13]一九九一年・「「発病から三年〜五年ぐらいで絶命する」とも言われている。」(自治医科大学病院で、夫に、野本[1995:24])

 [14]一九九二年・「良くて二年悪くて半年位が、一定の期間であると思ってください、死を免れない病気であると聞かされました。」(夫に、加藤・加藤[1998:5-6])

 [15]一九九二年・「ALSです。予後は五年。全身の筋肉がだめになり、死に至ります」(東京女子医科大学で、西尾健弥の妻に、『読売新聞』北陸版1999-06-26)

 [16]一九九二年・「三年〜五年の寿命と告知」(本人に、和中[1999-])

 [17]一九九三年・「三年ほどで動けなくなり、長くても、あと五年……」(仙台市・広南病院で、妻に。鎌田[199?])

 [18]一九九六年・「ALSと診断されその説明を聞いたところ「神経が侵され三年で死にます」と言った有名大学病院の医者は特別としても、患者の願いを蹴散らす会話がなんとたくさん、かわされているだろう。」(佐々木[2000])



 ■予後について書かれていたこと

 またALSの人、またその家族が読んだ本には次のように書かれてあったと記されている。

 [19]一九七八年・「「変性神経疾患で進行性、原因は不明、治療方法は全く無く予後は不良、発病から三、四年の命である」と記してあり」(「医学書」、川口[1989:133])

 [20]一九七九年・「予後不良で数年以内で死亡する疾患」(夫と一緒に書店で買った「家庭医学書」、菅原[1989:133])

 [21]十九八一年・「筋肉がだんだん衰え、最後は呼吸困難に陥り、やがて死に至る、と書いてあった。またそれには、現代の医学では原因も治療法もわかっていない、とあった。そしてこの病気は、発病して普通四、五年で死亡するとも書いてあった。[…]家の百科事典は十年くらい前のものだからと思って、本屋に行き最新の家庭医学書を読んでみた。結果はどの医学書も同じようなことしか書いてなかった。」(土屋・NHK取材班[1989:23-24])

 [22]一九八二年・「筋肉を動かす神経系統が侵され、指、腕の脱力、さらに足に及んで歩行も不能になり末期には舌の萎縮、嚥下(飲み下し)困難などを起こし、多くは発病後数年以内に死亡――と説明されていました。」(「家庭医学の本」、折笠[1986:12])

 [23]一九八三年・「「ALSは難病中の難病、二〜三年で死ぬ」とありました。」(「書棚の医学全書」、松本[1995:289])

 [24]一九八四年・「原因わからず、治療法なし、二、三年の命」(「医学書」、小林[1991:34])

 [25]一九八六年・「予後は悪く五、六年で死亡」(湯島図書館にあった「家庭医学書」、橋本[1997])

 [26]一九八六年・「この病気は進行性で発病して五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる」(『家庭の医学』、東御建田[1998:19])

 [27]一九八八年・「数年で結局は死に至る。」(「医学書」、高田[1999:80])

 [28]一九八八年・「「予後不良、治療方法がないため国の難病に指定されていて、申請をすれば医療費がただになる」とだけ書かれている。/<予後不良>だけではどういうことか分からない。もう一冊本を出してもらって調べるが、やはり同じことしか書いてない。」(「医学書」、杉山[1998:22-23])

 [29]一九九五年・「多くは人生の最盛期である中年以降に発症し、たちまちにして人生を荒廃させ、生命を奪っていく。」(「新聞広告で知り、書店へ行き買い求め」た小長谷[1995]の記述、鎌田[199?])★05


 ■予定通りにならなかった人たち

 けれど、そのように医師から聞いた、あるいは本を読んだ人たちに、次のような人たちもいる。

 [30]これからも何度もその文章を引用する日本ALS協会(JALSA)の最初の会長だった川口武久[18]は一九七三年十一月に発症し、比較的症状の進行の遅い人ではあったのだが、九四年九月に亡くなった。発病して約二一年を生きた。

 [31]杉本孝子(奈良県)は一九七七年に発症している。三年ほどは進行が早かったが、その後はゆっくりになる。呼吸器は使っていない。十九年後の記録として豊浦[1996:172-179]、二三年後に書かれた文章に杉本[2000]。

 [32]一九七七年に妻が「あと二〜三年の命です」[4]と言われた長岡紘司(神奈川県)。「夫はALSを発症して二四年になります。人工呼吸器を装着して十八年になり、一〇カ月入院生活をしていて、在宅療養は十七年目を迎えました。」(長岡[2001:29])。

 [33]熊谷寿美(兵庫県)は一九七七年、二七歳のときに発症。夫が「長くて五年」と宣告されたのは八〇年[7]。九一年に人工呼吸器を装着。現在日本ALS協会近畿ブロック代表。二〇〇〇年十二月、デンマークでのALS/MND(運動神経疾患)国際同盟第八回国際会議で報告。(豊浦[1996:142-150]、一九九九年に出演したテレビ番組の概要はhttp://www.nhk.or.jp/kira/04program/04_004.html)

 [34]「先生が私の様に二五才の若さで発病して、二四年も生存している患者はめずらしく、現在も、病気がほとんど進行していないそうです。」(中島[2001])

 [35]来田治郎(大阪府)「私は現在五七歳です。一九七七年に右上肢の麻痺からALSを発症しました。三三歳のときです。現在、発病から二三年経過し、人工呼吸器を装着して十四年目になります。」(来田・来田[2001])

 [36]菅原和子(岩手県)[5][20]は一九七九年五月に発症、一九八〇年人工呼吸器を装着、一九八七年五月逝去。

 [37]一九七九年に発症した知本茂治(鹿児島県)が鹿児島大学医学部付属病院を退院、在宅での療養生活に入り、病院のことを書いた本が出版されたのは一九九三年(知本[1993])。

 [38]中林基(大阪府)の発症は一九八〇年、その年、妻が「発病後三、四年の命」と告げられる[6]。その後刊行した画文集として中林[1987][1990]、一九九二年には公益信託「「生命の彩」ALS研究助成基金 」を発足させる。発病十六年後の記録として豊浦[1996:180-192]。

 [39]比嘉栄達(沖縄県)は一九八二年に発症、一九九二年、五〇歳で亡くなった(比嘉[2001])

 [40]松本茂(秋田県)[23]は一九八三年に発症。現在も日本ALS協会の会長を務める。二〇〇二年には十九年ということになる。

 [41]塚田宏(東京都)は一九八四年に発症、この年「余命二年」と知らされた[9]。現在は日本ALS協会東京都支部長。二〇〇〇年に米国へ(塚田[2001])──塚田、熊谷[33]、橋本[42]、山口[48]らが外国に行くのは、「先進国」の事情を勉強するため、ではなく、はじめにあげた「安楽死」のことにも関わるのだが、このことについては後述。

 [42]一九八五年に発症、八六年に「予後は悪く五、六年で死亡」と書かれた医学書[25]を読んだ橋本みさお(東京都)は、九二年九月に気管切開、九三年一月に呼吸器装着。二〇〇二年に発症から十七年になる。(さくら会[1999-]、最近の文章として橋本[2002])

 [43]一九八五年に発症、八六年に「五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる」[26]と書かれた本を読んだ東御建田郁夫(大阪府)は、九八年に東御建田[1998]を出版する。

 [44]杉山進(静岡県)は一九八八年に症状を自覚、妻は「ほとんどの人は三年以内に死ぬ」と言われる[11]、一九九八年に闘病記(杉山[1998])を出版、二〇〇〇年度も日本ALS協会静岡県支部の運営委員をつとめ、二〇〇〇年十一月に逝去(杉山[2001])。

 [45]二〇〇二年に六三歳の三牧紀直(福岡県、ホームページに三牧[2000-])は発病が四八歳の時だから、一九八七年ころから一五年ほどがたったことになる。

 [46]一九八八年、三八歳で発病し、「夫を通じてお医者さんから[…]「三年から五年の命でしょう」」と言われた[10]秦茂子(福岡県)は、九八年に「今年は十一年目になります」(秦・秦[1998])、二〇〇〇年に「今年で十三年目に入りました」(秦[2000])と話し始める。

 [47]一九八八年に症状を自覚、医師からの告知はなかったが、医学書でALSと知り、そこに「数年で結局は死に至る」と書かれてあったのを読んだ[26]高田俊昭(京都府、著書に高田[1999]、他に豊浦[1996:151-159])は、二〇〇二年にそれから一四年になる。

 [48]山口衛(山梨県)の発症は一九九〇年(山口[2000:7])。二〇〇二年に十二年になった。

 [49]一九九九年からMCTOSと呼ばれる脳波による意志伝達装置を使っている和川次男(宮城県、著書に和川[2001])の発症は一九九〇年。やはり十二年が経った。

 [50]一九九〇年に発症し「余命は三年」と告げられた長尾義明(徳島県)[12]は、その三年後の一九九三年、人工呼吸器をつける。九五年に安楽死が合法化されたら自分が一番先に志願すると日本ALS協会近畿ブロックの会報に投稿。二〇〇〇年六月日本ALS協会徳島県支部設立、支部長をつとめる。

 [51]一九九〇年に症状を自覚、九一年九月に「急激な脊髄の老化」と説明され、診断書に「運動ニューロン疾患」とあったのを見た和中勝三(和歌山県)は、九二年十月にALSと告知され、三〜五年の寿命と知る[16]。九十六年、気管切開、人工呼吸器装着(和中[2001])、在宅での生活を続けている(和中[1999-])。

 [52]西尾健弥(石川県)は一九九〇年十月に発症、九二年暮れに妻が「予後は五年」と知らされる[15]。九四年十二月人工呼吸器装着、九六年八月在宅療養に移行、九八年胆管がんを発病、九九年三月逝去(西尾[-1999]他)。

 [53]吉田雅志(北海道、ホームページとして吉田[1996-])の発症は一九九一年。

 [54]鎌田竹司(宮城県)は、一九九二年に発症、一九九三年に妻が「三年ほどで動けなくなり、長くても、あと五年……」と聞かされ[16]、二〇〇二年に一〇年になる。

 [55]西尾等(兵庫県、ホームページとして西尾[1999-])の発症は一九九三年。

 [56]後藤忠治(宮城県、ホームページとして後藤[1999-])の発症は一九九五年。



 ■なぜ、と思えてしまう [略]



わかること

 ■医師がわかる/わからないこと

 この病には症状の自覚がある。例えば力が入らなくなる。それでこれはなんだろうと思う。これからどうなるか心配だし、もとどおりになりたいと思う。いったいどういうことなのか、本人もまわりの人も知りたい。それで病院に行くことになる。これに医療側はどのように対応する、対応してしまうのだろうか。まず、医師はその人がALSであることがわかるのだろうか。

 [60]「神経内科の専門医であれば、患者さんが来られまして、お話をして診察をハンマーですれば、殆ど診断はついてしまいます。あとは色々な検査を加えて[…]他の病気で非常に似た症状を出すことがありますので、そういったことを除外して行く。要するに他の病気であって欲しい、治療可能な他の病気を見つけたいということが私たちの願いですので、いろんな検査をやられることがあると思いますし、実際に患者さんや現在ご遺族になられた方は、患者さんの始まりの頃に病院に行って、いろんな検査を受けたという記憶があるかと思いますが。その中で大切なのは頚椎症で、手が痩せてくる。感覚も障害されたり手に痛みが出たりするのですが、たまにですが筋肉だけ痩せてくるタイプがあるんですね。ですからそういう時なんかはこの病気(ALS)と最初から診断されて、「あなたはALSです」と云う宣告を受けてしまうことも中にはあるかも知れません。でもこれはキチッと検査をして診察すれば証明できますし命にかかる病気ではありません。」(田代[1997]、講演者は北海道大学医学部神経内科教授)★06

 [61]「疑いとした場合、これを確実にする検査法など存在しない現在では、あとは経過を観察する以外に方法はない。多くの医師はこの時期、自分の診断を信じつつも誤診である新しい証拠になる現象が出現すればどんなに患者に喜んでもらえることかと祈りつつ、複雑、不安な心境にある。また自分より優れた医師により決断を得たい心境にもなる。患者が藁をもつかむ心境であちこちの病院を走りまわる気持ちに、まったく同感できる。/しかしALSの進行は確実で具体的であって[…]診断は確診となり、この間に告知の重荷が患者、家族と医師の間に重くのしかかる。」(永松[1998:214-215]、筆者は大分県立病院院長)

 [62]「典型的なALSの診断[…]自体はそれほど難しくない。/この場合、重要なのは[…]除外診断(鑑別診断)である。[…]鑑別が十分になされないと、たとえば、脊髄の病気とみなして手術をしてしまい、術後にALSと分かって、後悔しなければならなくなるケースもある。逆に、はじめはALSと診断されていたが、脊椎の病気と分かり、手術して喜ばれた……というケースも私は経験している。」(畑中[1999:31-32]、筆者は国立療養所高松病院の院長)

 第一に、この病気の場合には診断はそう難しくはないと言われる。ただ他に類似の病気がなくはなく、また時間とともにはっきりしていくから、初期には確定できない。あるいはそのように思い、疑うことができる。そのことにも関わって、第二に、ALSは深刻な病気であるから、ALSと判断し、さらにそれを伝えるのはためらわれる、できれば伝えたくないと思う。この両方があり、ときに混じる。

 第一点から。それですぐに診断がつく場合もある。

 [63]「八五年手に異常を感じ、八月下旬、総合市民病院整形外科に行きましたが、すぐ神経科に廻されました。外来検査だけで、数日後には病名がはっきりわかりました。」(
井上[1991:20]、総合市民病院は横浜市総合市民病院)

 ただわかる人にはわりあい簡単にわかるとして、そんな医師ばかりではない。医師の側が診断できない、すくなくともすぐには診断できないことがあるようだ。ALSの人の数は多くなく、普通の医師はそうALSの人を見たことはない。この病が存在することは知っていても、現実にALSを疑うこと、その人がALSだと想定することはなかなか難しいのかもしれない。診断が間違っていたと言えるかどうかの判断は置くとして、様々に診断され、手術等されたりされそうになる。また多くの人はいくつかの、いくつもの病院を経、ただわからないと言われ次に回されることもあれば、間違われることもあれば、結局わからないこともある。

 そして第二の要因が絡む。ほぼわかってはいるが確実ではないからなのか、ある程度または確実に見当はついているのだが自分から言うのはためらわれるということなのか、ときにその境界は微妙ではあるにせよ、やはり次にまわされることになる(専門家の方が説明に慣れていて、上手だと思う、あるいは思うことにするという事情が加わるかもしれない)。確定は慎重に専門家にしてもらう、ついでに(あるいはむしろ主な事情としては)告げる仕事をそこに委ねる。[67]──「運動ニューロン疾患」という説明の仕方については後にふれる──はただたんに後者であるように患者当人には思われた。[70]についても、最後から二番目の医師はわかってはいるようだ──『JALSA』は日本ALS協会の機関誌。

 [64]一九七三年・「神経痛、椎間板ヘルニア等の診断をされたのですが、一向に回復する気配は見えず精密検査を受けました。検査の結果は「脊髄の手術をする必要がある」と言われ「これで治る、早く治したい」との一念だけであったように思います。ところが、最後の造影剤撮影において何処にも異常が見当らず、手術は中止になり、つけられた病名は「脊髄痙性麻痺」でした。/その日から、病院を転々と彷徨する日々に変わって行きました。何処に行っても頭を抱え首をかしげるばかりで、本当のことは教えてもらえませんでした。」(川口[1989:132])

 [65]一九八二年・「お正月休みに、ある大学病院に行きましたが、四十肩・五十肩という診断でした。/でも、悪くなるばかりで、首も回らないほどになりました。やはりおかしいと、五月、北里大学病院に精密検査のため入院したところ、「筋萎縮性側索硬化症」とのことでした。」(折笠[1986:12])一九八一年に発症、妻が告げられ医学書[22]を読み、医師の説明を聞く。北里大学病院に入院した本人の書に折笠[1989]。

 [66]一九八七年・大川達(和歌山県)は健康診断で握力が落ちているのを知る、さらに状態が進み、翌八八年「六月[…]初めて病院へ──。しかし、検査するだけで、結果は知らせてもらえなかった。/[…]十月に[…]本格的な病院通いを始めた。徐々に四肢の筋力が低下。十三か所の病院をまわっても、病名は知らせてもらえなかった。ほとんどの病院でいやがられているように感じ、いっそう強い恐怖心を抱いた。[…]/数多くの病院を渡り歩くうちに大川さんは、医学書で自分の病名はALSだと知った。」(豊浦[1986:41])

 [67]一九九三年・「十二月、T医大神経内科を紹介され受診。頭や頚椎のMRI(核磁気共鳴診断装置)を撮っても異常がなかった。筋電図の結果、運動ニューロン疾患と告げられる。不安になり、いろいろ質問すると、医師はめんどうくさがり、答えるかわりに、S病院やK病院など神経内科のある民間病院の名前を挙げて、「紹介します」と逃げる。/翌九十四年三月、S病院に検査入院。ALSと病名を告げられた。本人には病名告知のみで、病状の説明や予後は知らされないまま五月に退院。」(大阪府の六六歳の男性、豊浦[1996:67-68])

 [68]一九九五年・「病院通いが始まる。接骨院、整形外科(二ヶ所)、総合病院数カ所を回りある整形外科医で、「ひじの骨が神経を圧迫している」とのこと。この骨を削り取れば簡単に治ると言う。紹介状をもらい総合病院へ。ところがMRI、筋電図などの検査の結果東北大学付属病院・神経内科へ検査入院。」(後藤[1999-])

 [69]一九九五年・「十二月、脳神経外科、内科の医院を受診しました。頭、首のMRI、レントゲン、心電図、神経電動速度の検査を行いましたが、はっきりしないということで、別の病院を(神経内科)紹介されました。/平成八年一月、ここでも同じ検査。もう一つ検査したいのだが、設備がないし、大学の教授とも相談したいので、福島県立医大まで来てくれとのこと[…]/二月、福島医大へ。その結果、「神経の変性による運動神経疾患」[…]咳止めの薬の中に、この病気に有効な成分が含まれているという報告があるので、これでしばらくは様子をみましょう、とのことだったが…[…]/四月、先生が代わり、こんどは東北大学の先生が担当となり、大学病院に入院して検査することとなった。[…]五月二三日、大学病院に入院。今までと同じ検査を繰り返し、六月四日に「筋萎縮性側索硬化症」と、診断された。」(小野寺[1996:63-64])

 [70]一九九七年・指の異変を自覚、ある総合病院の整形外科で「右腕尺骨神経の異常」と診断、翌九八年一月に手術することになったが、「会社の責任者から「神経系統の手術は後遺症の心配があるから別の病院で検査してもらったら」とのアドバイスがあり」手術を中止、川越市武蔵野総合病院で「血流をよくする治療」を四月から十日間、「変化がないから尺骨神経ではない。埼玉医科大学で再検査した方が良い」。五月一日埼玉医科大学整形外科で診断、「これは大変に難しい病気です」、「この病気に詳しい先生がいるから大宮自治医大に行きなさい」とJALSA四〇号を出して「病気の勉強をしなさい」」と言われる。五月二七日、自治医科大学でALSと診断される。(鈴木[1999:20-21])

 [71]一九九九年・四月、疲労感、喉の異常、九月、かかりつけ医が甲状腺機能障害診断、筋力低下、声が出難い。「十一月:甲状腺機能障害治療薬効果無、病院巡り、耳鼻科、脳外科、総合病院、整形外科、内科…原因不明そして神経内科、とたらい回し/十二月:総合病院の神経内科にて運動ニューロン病、確定診断の為、国療徳島病院へ転院、二〇〇〇年一月:勤務先へ休職願い/徳島病院へ検査入院/二月:ALS告知」(大岩[2001])

 ただ、次のような場合には、誤診というより偽っている。そしてその行ないは、他方では、本当のところを(別の人に)伝えることによって、たんに間違っている、あるいは偽っていることから免れる、と伝える人には思われているのだろう。

 [72]一九八九年・「脳梗塞の軽いもので、治るにしろ悪くなるにしろ、進行の程度は年単位とのこと。勤めを続けながら通院するようにと診断された。/その後、念のために妻へも話しておきたいから呼んでほしい、と言われる。」(杉山[1998:15]、一九八八年六月に自覚症状、翌年一月の診断)

 病気のことを知らせることを「告知」といい、病名を告げることを「病名告知」という。ALSの場合、病名の告知はどのように、誰になされ、病気のことがどのように知らされたか。その人はどのように知ることになったか。次回はそれを見ていく。

 *以下、立岩 真也 20020801 「生存の争い──医療の現代史のために・4」
  『現代思想』より一部引用

■医師から伝えられる/伝えられないこと
 [略]

 医師から比較的あっさりと告げられることもないではない。

 [73]一九九一年、順天堂大学病院で。「週一回の回診の日がきた。[…]教授が最後に来て私の前に腰掛けて二、三、話をしてから私の病名を話してくれた。教授は、「筋萎縮性……何たらかんたら」と言う。筋萎縮性側索硬化症――一度では、とても覚えきれないような長い病名であった。」(宮下[1996:30])

 ALSはまったく一般的な病気ではないから、病名が告知されただけではそれがどんなものだかわからない。そこでしばらく止まってしまうこともある。宮下健一(長野県)はそうだった。

 [74]「それを聞いて私は教授に、その病気がどんな病気で、どうなって行くのか聞きもしなかった。私が、そうですかと答えただけだったので、教授もあっけにとられたようだった。/私は、この病気はたいしたことがなく、きっと治ると思っているので、自分でいろいろ心配するより、専門家である先生方にまかせておけばいいと考えている。ただ私のやることは、先生の指示の通りやればいいと思っているのだ。」(宮下[1996:30-31])

 もっと切羽詰まってとにかく医師から聞き出す人もいる。金沢(大分県)は一九九〇年に聞き出す。聞き出さなくてはならなかった事情は後述する。

 [75]「県立病院のN先生の所へ行き、強く迫りました。「本当の病名を教えてほしい」と。農業を続けてゆく上でどうしても知っておきたい、悪い病気なら、それなりの覚悟をしなければならないからと嘆願し、初めて、「筋萎縮性側索硬化症」という大変な病気であることを知りました。」(金沢[1991]、その前のことについては[80])

 他に本人に説明がなされた場合については後で見ることになるが[117][118][119]、その例は少ない。ALSかと聞かれて黙ってしまった医師もいる。

 [76]一九八九年七月「妻と東京大学病院へ行く。叔母も紹介状を持って、同行してくれた。/簡単な診察を受けた後、私の方から、私の病気は筋萎縮性側策硬化症ではないのですか、と尋ねた。先生は無言。さらに、医学書には治療方法がないと書いてありましたが、優秀な先生たちが研究をしているでしょうから治療方法がまったくないとは思えません。まだ公式に認知されていない方法でもいいですから試してください、とも頼んでみた。しかし、先生の返答は、「この病気には、そんな展望はまったくありません。治療を求めて病院を探し回るのは無駄ですから、やめた方がいいですよ」というものだった。」(杉山[1998:23])

 本人に病名がそのまま知らされることは少ない。とはいえたいていは医師も何も言わないわけにもいかないから、何かは言う。

 杉山進(静岡県)[44]は、一九八八年六月に症状を自覚し、医師に尋ねたが答のなかった八九年七月[76]の前、八九年一月には次のように──前回の最後[72]にも引用した──言われているのだが、同時に妻には別のことが伝えられる[11]。

 [77]「脳梗塞の軽いもので、治るにしろ悪くなるにしろ、進行の程度は年単位とのこと。勤めを続けながら通院するようにと診断された。/その後、念のために妻へも話しておきたいから呼んでほしい、と言われる。[…]/私が自分の病気についてほとんど知った後になって、妻が九州大学病院の先生から説明された診断内容を聞いた。私の病気は急激に年をとる病気で、中には五年から十年も生きる人もいるが、ほとんどの人は三年以内に死ぬ、と言われたそうだ。」(杉山[1998:15])

 もちろん彼は脳梗塞ではない。ただ妻への説明を見れば、「急激に年をとる病気」という言い方をしているが、医師はALSと診断している。本人には言わず、家族にはALSと病名を告げることは多い。そのときその診断は誤診ではないことにもなる。それにしても脳梗塞という言い方は他ではみなかった。筋肉、神経、運動神経の病気だと言われることは、それはそうに違いないのではあるが、多い[78][79][101]。また「急激に年をとる病気」「老化が速くなる病気」「急激な脊髄の老化」「運動神経の老化」「筋肉の老化が速い病気」「老人性硬化症」といった言われ方もよくなされる[77][80][82][83][84][119]。

 [78]「担当の女医さんが来たので、私は病気について相談した。[…]先生は、私の運動神経に問題がおきていると言う。神経だけに目に見えず困ったものだ。」(宮下[1996:29]、一九九一年、順天堂大学病院で、別の医師に病名を知らされる[73]前に)

 [79]一九九一年「一月から岸和田市民病院で受診するようになったのですが、先生は直接病名は言われず、筋肉の神経がおかしいようだとだけ聞かされました。しかし、その時点で既に家内には病名とどういう病気かは告げられていたようで、この時には家内は相当悩み苦しんだと思います。」(奥村[1995])

 [80]後にN先生から病名を聞き出す[75]金沢は、一九八八年「春、ろれつがまわりにくく、食事がうまく摂とれなくなりました。一週間入院して検査し「老人性硬化症」という診断を受けました。どうも腑に落ちないので、ある時、県立病院のN先生に診ていただきました。二週間の入院検査の結果、妻にはALSと病名をはっきり告げられたようですが、私には教えてくれませんでした。」八九年「どうにも納得がゆかず、九大で診察を受けましたが、ここでも「老人性硬化症」という診断で、普通の人より一〇年早く年をとるのだという。だから、心の準備をするように、とのことでした。」(金沢[1991:24])

 また「運動ニューロン疾患」「運動ニューロン病」[81][82][83][84][85][86][91][98][114]、「筋萎縮症」[87][88]「神経性の筋萎縮」[89]「神経原性筋萎縮症」[90][93]といった説明の仕方があり、「脊髄性進行性筋萎縮症」[88]「脊髄性筋萎縮症」[91]といった言葉もみられる。それらは間違いではない。運動ニューロン疾患という語のある家庭医学書等はある★04。その記述の仕方にいくらかの幅はあるが、例えば、運動ニューロン疾患の中にALS=筋萎縮性側索硬化症と進行性球麻痺、脊髄性進行性筋萎縮症が列挙され、三番目のものがより症状の進行の遅いものと解説される、また後二者はALSの部分症状とされる。そうした記述がある場合には、ALSと運動ニューロン疾患とのつながり、同一性がわかることがある[81][110]。

 [81]「ALSと確信したのは、小長谷正明著『神経内科――頭痛からパーキンソン病まで』(岩波書店)を新聞広告で知り、書店へ行き買い求めました。『神経内科』の十三ある章の中から、最も疑わしい「筋萎縮性側索硬化症」の章を読みました。/「[…]ブラック・ホールの理論的発見者で、車椅子の天文学者として有名なホーキング博士もかかっているといわれている。ただし、ホーキング博士は二〇歳ころの発症であり、発症してから二〇年以上になっても指でコンピューターの操作ができて、人工呼吸器を使っていないなど、ALSとしては早期発症でかつ進行が遅い。特殊なタイプのALS、あるいはべつの運動ニューロン病のようにも見受けられる」/運動ニューロン病! 告知された運動ニューロン病と、筋萎縮性側索硬化症とが、実は同一だったのだと確信せざるをえなかった。あらゆる記述が、自分の身に起きていることと、同じでこの時ALSと確信しました。」(鎌田[199?]、略した部分の一部は[29]に引用)

 けれども、運動ニューロン疾患という言われ方のためにわからないこともある。小長谷の本を読んでわかった鎌田竹司(宮城県)[17][54]も、それ以前はわからなかった。

 [82]一九九二年七月「あまりにも階段の上り下りがきついので平成五年一〇月一五日から一カ月間、古川市立病院に検査入院。階段を上るのがきつくなったのは、筋肉炎ではないかとの診断でした。専門的な検査を受けるため十二月五日仙台市の神経内科専門の広南病院へ転院、十二日後十二月十七日に結果が出ました。/私と妻を前に医師は、「運動ニューロン病に間違いないでしょう。」運動神経の老化が普通よりずっと激しい病気です。難病の一つですから医療費の負担はありません」脳や脊髄の断層写真などを見せられながら、病気の説明を受けた。/医師は最後にいった。「医療費免除などの説明をしますから、奥さんだけ残ってください」医師は妻に別室で「三年ほどで動けなくなり、長くても、あと五年……」と告げられて平静を装って病室へ戻って来たと後から聞きました。」/その後、総回診のとき、ピクピクと筋肉が跳ねているのを指して「間違いないですねえ」と小声で頷きあっているのが私にも聞こえ、運動ニューロン病とは、そういうものなのかとただ聞いていました。/「運動ニューロン病」を知りたく病院近くの書店に行き、分厚い医学書を開いて「難病」のページを見たが「運動ニューロン病」は、その医学書のどこにも載っていませんでした。」(鎌田[199?])

 [83]亀山晴美(岡山県)。一九八一年は「忘れることのできないあらたな運命の始まりだった。この年九月に入院、検査の繰り返しであった日々もCTスキャナーで終わりとなり、病名判明、即退院と決まった。翌日、迎えに来た夫と一緒に、不安と期待を込めて主治医の説明を聞く。/「病名は運動ニューロン症、投薬を続けながら様子を見、月一度の診察をします。残念ながら原因がわからず、はっきりした治療法が確立されていませんが、今わからなくても、研究が進んでいるので必ず判明します。気を落とさないでください。当分は仕事を続けてもいいが、無理をしないで、次の日に疲れを残さない程度にしなさい。身体の機能も体力も老人のように衰えていきますので……。頑張ってください」/と、あたたかい励ましを受けた。」(亀山[1987:24]、その後について[107]→[91]→[97])

 [84]和中勝三(和歌山県)[51]は一九九一年「九月に最初の告知を受けました。/私には、急激な脊髄の老化と説明を受けましたが、診断書を見ると運動ニューロン疾患と書いていました。何も知識が無かった私は難病欄を見て、運動ニューロン疾患て書いていないか探しましたが、書いていなかったのでラッキーと喜び、治る見込みがあると信じて、他の病院を転々と診察に回りました。/何処の病院へ検査に行っても先生に質問してもはっきりと答えてくれずに、困ったような顔をしてうなずくばかりで、かえって迷惑そうに感じました。/病院を転々と回っていると、自分でも治らない病気ではないかと感じ始めてきました。/平成四年十月に「筋萎縮性側索硬化症」と告知を受けました。」(和中[1999?])

 [85]一九九五年に発症し入院した後藤忠治(宮城県)[56]は「医師からALSと告知された記憶は無い。検査入院の時、「運動ニューロン病」と告知されただけです。治療方法が無いと言うだけで具体的な説明はありません。ただこの病気が命にかかわる重大な病気だと感じました。妻は退院の日に告知されたそうで、ずっと後に成ってから話してくれました。どんな気持ちで何処まで説明受けたのか。今も聞いていません。今となっては聞いてもしょうがありません。/しかし、今思うと私はこれで良かったと思っている。」(後藤[2000?]、その後書類からALSと知る[96])

 [86]大岩日出夫(徳島県)も運動ニューロン病と言われ、後に別の病院でALSと告げられた。「九九年四月:公私共に超多忙、疲労感、喉の異常。九月:かかり付け医にて甲状腺機能障害診断、筋力低下、声が出難い。/十一月:甲状腺機能障害治療薬効果無、病院巡り、耳鼻科、脳外科、総合病院、整形外科、内科・・原因不明そして神経内科、とたらい回し/十二月:総合病院の神経内科にて運動ニューロン病、確定診断の為、国療徳島病院へ転院/〇〇年一月:勤務先へ休職願い、徳島病院へ検査入院/二月:ALS告知」(大岩[2001])

 こうした言い方がALSであることをそのままに伝えない伝え方であることは伝える側にも意識されている。

 [87]一九七九年、菅原和子(岩手県)[36]は、脊髄の病気のようだと言われ神経内科を紹介され、その日書店で買った家庭医学書の脊髄の病気にALSを見つけ[20]、翌日紹介された岩手県立病院を訪れる。「先生、私は筋萎縮性側策硬化症ではないでしょうか」/先生は少し驚いたようだったが、「いや、違いますよ」と細い目で笑って言った。/「筋萎縮性側索硬化症というのは、アミトロ、ALSとも言いましてね、脊髄のほかに延髄も侵され、物が飲み込めなくなってむせたり、言葉がもつれてくる病気です。あなたは舌の萎縮もありませんし、ちゃんと喋れるでしょ。アミトロではありませんよ。/でも、たしかに筋肉がやせているので、一応筋萎縮症≠ニいっていいでしょう。これにはいろいろなタイプがあって、まだ一回の診察で断定的なことは言えませんが、あまり心配しないでしばらく通ってみて下さい」(菅原[1989:13-14])

 [88]菅原を担当した鈴木孝輝(岩手県立中央病院第一内科)。「菅原さんの病気の進行は急速で、四肢の筋萎縮、線維性収縮(筋肉のピクピクした痙攣)が明らかで、運動神経疾患であることは、臨床所見だけで十分診断できました。/しかし、嚥下障害、構音障害、舌萎縮といった球麻痺症状はみられず、腱反射も低下していましたので、ALSの仮性多発性神経炎型かSPMA(脊髄性進行性筋萎縮症)が考えられました。SPMAはALSより予後が良好ですが、運動神経疾患として包括されます。私はALSの患者さんには、初診の時は直接病名を告げず、包括的な意味で筋萎縮症と言うようにしています。また経過にはかなり個人差があることをお話し、ALSの予備知識を持った患者さんが落胆しないように心がけています。事実、ALSであっても、一〇年以上頑張ってる患者さんが全国には何人もおられます。」(菅原[1989:14-15])

 [89]土屋融(山梨県)は一九九一年二月に発症、三月山梨県立病院、八国立王子病院、八月十六日山梨県立中央病院神経内科で診察・入院。二二日「昨日の筋電図検査の結果、神経性の筋萎縮ということ」(土屋[1993:174])、九月二五日「昨日は、病気のこととこれからのことについて主治医の先生と話す。大変な難病とのこと、現代の医学をもってしても適切な治療はないとか。愕然として昨夜は一睡もできず。今日も身体が重い。」(土屋[1993:176])

 [90]土屋融を担当した石原修(山梨県立中央病院神経内科)。「ご自身は病名を知っておられます。入院当初よりカルテの上ではこの診断がついていましたが、主治医からは病名は告げられていませんでした。/私どもの病院に転院後、一カ月のお付合いの中で、土屋さんが何事にも挫けず、どんな状況でも堅い意志をもって生きていくことのできる方だということがよくわかりましたので、ご本人に疾患の説明をすることにいたしました。/まだ原因のわからない疾患で、決定的な治療法がないことをお話ししましたが、病名はそのままは伝えず、神経原性筋萎縮症として説明させていだだきました。「筋萎縮性側索硬化症」は患者さんと家族にとって、それだけ重い荷物となる病気です。ご家族には病名を告げ、姉上がALS(筋萎縮性側索硬化症)協会に入会され、姉上より送られた協会の出版物などを通して、この病名は本人の知るところとなりました。」(石原[1993:4-5])

 [91]一九八一年、運動ニューロン症と医師に言われる[83]が、一年後、人から「脊髄性筋萎縮症」と人に聞いて[107]、亀山は再び病院に行く。「病院で主治医にうかがう。が、あくまでもニューロン(神経)症であり、似ているのは、同じような症状を引き起こしているからだ、難病には違いないので、医療費免除の手続きをする、というご返事だった。/頭の上に馬鹿がつくほどお人好しの私も、さすがにこの解答は鵜呑みできなかった。しばらくして」(書類の申請のとき病名を知ることになる[92]。亀山[1987:25])

■書類・カルテから知る

 他に、書類の記載から、またカルテの記載から知ることがある。後でもふれるが、ALSは特定疾患に呼ばれるものの一つで、申請して認められると「特定疾患受給証」が交付され、医療費の本人負担分がなくなる。その申請・受給に際して病名が記され、それを知ることがある。そこから、また他の書類から、病名、ときにはその予後が知られることがある。

 [92]一九八二年、「保健所から送られてきた特定疾患医療受給者票には[…]筋萎縮性側索硬化症という、聞いたことのない病名のゴム印が押されていた。すぐさまこの病名をさぐってみると、なんのことはない、田舎の本屋の医学書にも載っていた。/そこには、死に至るまでの経過が赤裸々に解説してあった。その一字一句が、言い表せないほど胸に刺さった。」(亀山[1987:25])

 [93]一九八九年、「市立図書館に行き、係員に医学書を出してもらう。九州大学病院に入院する時に書いてもらった診断書の病名と、生命保険会社に入院手当金を請求する時に書いてもらった証明書の病名を頼りに、目次を調べた。診断書の病名は「神経原性筋萎縮症疑」、証明書の病名は「運動ニューロン疾患」である。」(杉山[1998:22])

 [94]「検査の結果自体も先生からはっきりした説明もなく、医療費が無料になるので、特定疾患と身体障害者手帳の申請をするようにと言われ、申請することになったのです。そして特定疾患受給証が来た時に、家内にしてみれば病名は私には隠していたために、どうしようかと思い悩んだものの、いつまでも特定疾患受給証を見せない訳にもいかず、その時に私は正式な病名を知ることになったのです。そしてその特定疾患の病名欄には、筋萎縮性側索硬化症と書かれてあり、「ああ、やはりそうだったのか」と思いました」(奥村[1995])

 [95]妻はこのことを次のように言う。「特定疾患医療受給者証の申請ということから主人に病名を知らせざるを得ず、悩んだのですが仕方ありませんでした。もちろん受給者証を見せただけで私は何も知らないふりをしていました。でも主人は自分なりに調べて病気のことは知っていたようで、その時も特に驚くようなこともなくいつもと変わりなかったのです。私が先生から病名を告げられていることを話したのは最近で、在宅療養に移るにあたっていろいろな方とお話をするようになってからのことです。」(奥村[1995]。奥村は一九九〇年に発症、一九九一年にこうして病名を知る。九三年に人工呼吸器を装着、九九年に逝去。)

 [96]「平成七年春発病してはじめて、自分が筋萎縮性側索硬化症と知ったのは平成八年十二月に届いた特定疾患医療受給者証からでした。」(後藤[2000?]、[85]に続く文章)

 [97]塩崎清江(新潟県)は、一九八四年「休職のための診断書で、初めて本当の病名を確認した。当初より自分では認識していたつもりだったのに……。愕然とし、目の前が真っ暗になった。」(塩崎[1987:52])

 [98]一九八六年頃、「実は、まだこの時点で私にはALSのことは知らされていなかった。障害者手帳には「運動ニューロン病」と記され、正確な病名がわからないようにしてあったり、特定疾患認定証は妻が持っていて、私の目には触れないように気を配っていたからである。」(東御建田[1998:23]、[43])

 [99]平山真喜男(宮崎県)も、一九九〇年六月に埼玉医科大学附属病院神経内科で家族がALSの病名告知を受けているが、本人は、その二年半後、一九九三年年一月宮崎県立宮崎病院神経内科を受診したとき、保健所に提出する診断書でALSと知った(平山[2002])。

 病名だけでなく、書類からこの病の行方を知ることになる場合もある。

 [100]医師にALSかと聞いて答のなかった[76]杉山は翌月、一九八九年八月「とりあえず難病の申請だけはしておこうと、保健所へ行く。担当者に病名を告げ、申請用紙をもらいたい旨を伝える。……/車の運転席に戻ってから、申請書類を見て驚いた。/「構語障害」「嚥下障害」/「呼吸障害」/など、予想もしていなかった症状の項目がずらりと並んでいる。即座に、死が近いことを覚悟した。その瞬間、頭に浮かんだのは、「親はなくても子は育つ」という言葉だった。/その後は、胸につかえていたモヤモヤが落ちてすっきりした気分になり、東京大学病院で受けたようなショックはなかった。」(杉山[1998:24-25])

 そして、カルテから情報が漏れることがある。

 [101]川合亮三(長野県)は一九七一年に症状を自覚し、「軽い脳軟化症」(N病院)「小脳の機能不全症」(T大学付属病院神経内科)と言われる。再度T大学付属病院を訪れた時にはそれは否定され「運動神経の病気」だと言われ、K大学付属病院に検査入院し、「運動神経が冒されてゆくために、筋肉が萎縮する結果、言語障害や手足の運動機能がそこなわれるものである」(川合[1987:43])と説明される。「本当の病名は、患者の耳には入ってこない。しかし、今まで診療をしてくれた数多くの医師の目の色から、不治の病と悟っている。/カルテをちらっと眺めたとき、筋萎縮×××硬化症と読めた。×××のところがメモ用紙に邪魔されて、全部は読めなかった。」(川合[1987:6])

 [102]中島貴祐は一九七七年に発病。「私は病名を告知していただけませんでした。私が病名を知ったのは、発病して四年目に入院の診察の時に、カルテの表紙にALSと書いてあったのを見たからです。/それから、テレビでこの病気のドキュメンタリーやドラマを見て、病気の進行が分かりました。/ 私は病気のことが徐々に分かり、とてもとてもショックでした。自殺の方法を考えたりしていました。/患者には病名を知る権利があります。どうか、患者が希望したら告知して下さい。お願いします。」(中島[2001])

 [103]小林富美子(新潟県)が知ったのは一九八四年頃。「偶然カルテから病名を知り医学書を見ました。原因わからず、治療法なし、二、三年の命と書かれており、あまりのむごさに、三日間床に伏し、枕をぬらし、涙が枯れるまで泣きました。」(小林[1991:34])

 [104]鈴木淳(宮城県)は一九九四年「三月主治医の斉藤助教授にALS(筋萎縮性側索硬化症)であることを告げられる。/そんなことは二年前からカルテを盗み見てすでに分かってることだ、治らぬ病気と知りこの二年間必死で生きて来た、今更告知されても私は驚きはしなかった。」(鈴木[1997])

 そして、こんなこともあるらしい。

 [105]川口武久[19][30][64]は一九七八年頃、「発病から五年目、遂に病名を知ることができたのです。そこは、難病専門の病院に変わろうとする診療所でした。主治医は私に「治る」と言われ、暗示をかけて一時的に回復に向かった時期を経て、私の目の前にカルテを置いて行かれたのです。気が咎めましたが、恐る恐る見せてもらったのです。そのカルテには「運動ニューロン疾患ALS」と記入されていました。初耳の病名です。聞くに聞けず、こっそりと医学書を調べて見ました。/「変性神経疾患で進行性、原因は不明、治療方法は全く無く予後は不良、発病から三、四年の命である」と記してあり難しい解説は分かりませんでしたが、まさかこれほどの難病だとは思いもせず、身体が深く沈んで行くようでした。いくら早期に発見しても成す術も無く、ただ死を待つだけの病気に思えたのです。これでは簡単に病名を教えてくれないはずです。/このように直接では有りませんでしたが、家族よりも早く知るところとなり、余りの残酷な宣告に家族には黙っていることにしました。」(川口[1988→1989:133])

■医療の方からでなく知る

 結局病院では病名がわからないこともある。また病名は医師から直接、あるいは間接に聞いたとして、それだけで何がわかるというものでもない。正確なあるいは不正確な病名を手掛かりにして、あるいは医療側からの情報の提供のないまま、自力の部分を足してより具体的なことを知ることになる。様々な経路を通って、紆余曲折を経て、だんだんと、あるいは突然──少しずつ勘づきながら、しかし衝撃的なのは一度ということも多い──病気のことを知ることになる。

 自分で調べてわかることもある。いまならインターネットで検索すれば様々な情報が出てくる。実際インターネットで知った人もいる。

 [106]「小出喜一さん(五二歳)は四年前に、ALSを発病した。病名不明のまま、自身で自覚症状などから世界中のHPで検索などしながら、自力でALSだと知る。」(小出[2001:4])

 それはこれからもっと増えるはずだ。私が書いているこの文章や、それと連動させて作り公開しているホームページのファイルも使われることがあるだろう──そのためにも書いているし、それを意識せざるをえずに書いてもいる。

 そしてもっと直接に、人から聞くことがある。

 [107]亀山は医師からは運動ニューロン症と言われた[83]。「自宅に戻った私は、入院の疲れをいやす間もなく、普段の生活に追われ、先生の言葉も深く考えずに聞き流してしまって、わが身を返り見る余裕もなくすごした。/フッと気がついた時、階段をはって昇っていた。退院後一年、病魔は確実に身体を蝕んでいたのである。[…]/打ち消しても浮かんでくる不安から、近くに来ていた健康器具の試用会に行ってみた。意外にも、販売員から病気の内容と行く末を聞かされるとは……。/「これは治らん、早くて一年そこそこ、二〜三年で死亡と書いてある。奥さん若んで何とかせんと大変だ」/家事と育児に専念しつつも、どこか心は別のところにいた。先行きに対する不安は、いつか私を泥沼の中へ引きずりこんでいた。ぎりぎりの状態の中で何かをつかもうと専門書をあさる。ウソであって欲しいと。運動ニューロン症で調べたから出ていないので、脊髄性筋萎縮症が病名だったのだ。症状もピッタリ一致する。難病に侵されていたとは……。先生にはっきり問いたださなくてはならない。」(亀山[1987:24-25])医師からはふたたび同じことを言われる[91]。

 [108]宮下はALSと医師から告げられたのだが[73]、それがどんな病気であるかを聞かなかった[74]からわからなかった。どうやら大変な病気らしいと思ったのは人から聞いてのことだった。「あるところで見知らぬおばさんに、妻といっしょにいたところを声をかけられた。そのおばさんによると、私の歩く姿を見て、おばさんの親戚にちょうど私と同じような病気の人がいて、その人はいつも何かを引っぱったりして、部屋の中で一生懸命に運動していたそうだ。ちょうど今の私の状況と同じようだ。私は、それからどうしているかとたずねたら、その人は、いとも簡単にずいぶん前に死んだと答えた。/それを聞いた私は、後頭部をいきなり何かでなぐられたような衝撃を受けた。」(宮下[1996:50-51])

 「ある人に、また言われた。その人の親戚にちょうど私と同じような症状の人がいて、よくにていると言う。そこで私はよせばいいのに、その人はどうしているかと尋ねたら、いとも簡単に死んだというではないか。そこで私は、ガーンとした衝撃を受けてガク然とした。これで二度目になる。なぜか私の心にポッカリと大きな穴があいたようで、しばらく埋まりそうもない穴になってしまった。/私の頭から死という言葉が離れない。このままだとこびりついてしまう。」(宮下[1996:56-57])

 そしてさらに多くの人は本を読むことになる。手元にある本を調べたり、書店で本を買ったり、立ち読みしたり、図書館で調べたりする。自分の身に生じている状態から、また部分的な知識に基づいて知ろうとする。そこに書かれていることは様々であり、変わってきてもいるが、おおむね悲観的であることを前回に見た。

 [109]東御建田[43]は、一九八六年、病院の神経科を紹介されたので、「帰宅してから『家庭の医学』を取り出して調べてみた。神経系の病気を順にあたっていと、たくさんある病名のなかで、たった一つだけ該当するものがあった。/「この病気は進行性で発病して五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる……」、ここまで読んで愕然とさせられた。/「そんなアホな!」──スミからスミまで何度も読み返してみたが、他に該当する病名は見当たらない。当然のことながら心理的な拒絶反応が働き、否定するための材料を必死で探している自分がいた。」(東御建田[1998:19 ]、この本の記述は[26]でも引用。医師は病名を知らせず、書類にALSと記載されるが妻は目にふれないようにする[98]。)

 運動ニューロン疾患という語がALSとつながることもある[81]──次にみる杉山の場合には「予後不良」という素気ない表現はそのままには伝わらなかったのではあるが。

 [110]脳梗塞だと言われたこともある[77]杉山は、医師から聞いたのでなく、証明書に「運動ニューロン疾患」という語を見つけ出し[93]、一九八九年に本を読む。「”運動ニューロン疾患”という項目が、私の目に飛びこんでくる。夢中でそのページを開くと……、あった。病名は「筋萎縮性側索硬化症」で、症状はそれまでの私の症状とまったく同じ。自分がこの病気であることを、確信した瞬間だった。/だが、これまでの私の症状と同じことしか書いていない。後は、「予後不良、治療方法がないため国の難病に指定されていて、申請をすれば医療費がただになる」とだけ書かれている。/<予後不良>だけではどういうことか分からない。もう一冊本を出してもらって調べるが、やはり同じことしか書いてない。/これ以上何冊調べても同じだと思い、そのページをコピーしてもらって、家に帰った。/結局病名だけは分かったものの、こんなに恐ろしい病気だとはまだ気づかなかった。治療方法がないと書いてあっても、現在の医学の急速な進歩に、医学書が追いつかないということは十分考えられる。」(杉山[1998:22-23])

 またALSという病名を、多くの場合は家族経由で知った後、本を読む。

 [111]「発病一年半経過した頃、次第に左手が鷲手状になった(妻が主治医の先生から病名を告げられる)。/盛岡市内の書店で二冊の医学書(神経疾患・神経筋疾患ハンドブック)を買い求め、自分の病気の概略を知る。」(佐藤勉[1991:19])

 [112]橋本みさお[42]が本を読んだのはすぐにではなかった。彼女は当時の住まいに近かった東京大学附属病院に通うのだが、結局わからずじまいで、次にやはり近かった順天堂大学病院にかかった。そこにたまたまいた医師がALSの研究者だった。「精密検査は、三週間ほど。結局、外科的な要因は、見つからず、専門医の帰国を待って、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の、診断を受けた。末期ガンの告知と同じだからと、主治医は、夫に口止めしたらしいが、五分もたたない地下の食堂で、「先生はなんて?」の問いに、「筋萎縮性側索硬化症という筋肉の動きが、悪くなる病気らしい」と教えてくれた。「ふぅーん」と、答えた私は、退院の嬉しさと、病名がわかった安心感で、病気に対する興味は、失せていて、頭中、娘だらけの生活に戻ったのです。/[…]病名は知らされたものの[…]雑事に追われ、週3回の注射の時以外、忘れていたのですが、十日ほど過ぎたある日、いつもの注射の後、幼稚園のお迎えには、少し時間があったので、自宅と病院の、ほぼ中間にあった湯島図書館で、時間を過ごすことにしました。まさかそこで、人生最大のショックを、受けることも知らずに。」(橋本[1997])こうして彼女は、「予後は悪く五、六年で死亡」と書かれた医学書[25]を読むことになる。

 医師が雑誌や本を渡すこともある(他に雑誌により病名が知られた例として[90])。

 [113]鈴木将義[70]の続き。埼玉医大整形外科の都築医師が「JALSA四〇号を出して「病気の勉強をしなさい」と本をくれました。裏表紙に「日本ALS協会筋萎縮性側索硬化症と共に闘い、歩む会」とあり、初めて病名をしりました。/図書館での事前知識はあったので「やっぱり…そうか」とショックは受けませんでしたが、本によって患者自らにより、病名を知るという「先生のやさしい思いやり」に心から感謝しています。」(鈴木[1999:20]、『JALSA』は日本ALS協会の機関誌)

 [114]「Hさんは初診の病院ではなにも言ってもらえず、その後受診した大学病院で一ヵ月の検査入院後「原因がわからない。要は運動ニューロン疾患。変性疾患」と言われた。Hさんは、運動ニューロン疾患や変性疾患という言葉の意味がわからず、その説明を求めたが答えてもらえなかった。とにかくその場で「特定疾患の申請をしてください」と言われた。その後通院するなかで徐々にどんな病気かということがわかりかけてきたとき、医師からALS協会のケアブックを取り寄せるように言われる。医師は「リハビリの項目だけ、筋肉の訓練だけやってください」と言った。しかし、そこにはALSについて「ずっと説明が書いてある」。気になって、それについて尋ねても、医師は「Hさん、そんなに重症じゃないから。そっちは参考にされなくていいですよ」と説明した。その時、Hさんは「そしたらわたしは治る病気かな」と感じたという。」(清水他[2001]、文中の「ALS協会のケアブック」は日本ALS協会編[1991]、その改訂新版が[2000])

■ほかにどのような

 医師が言わない、少なくともはっきり言わないのを見てきた。逃げている、もっときちんと伝えたらよい、もっと上手であってほしいと多くの人が思う。それは、(実際にはひどく困難な病であると判断していることを隠しながら)その深刻さ(が伝わることにつながる情報)を伝えないそのあり方に対してだけでない。

 [115]土居喜久子が症状を自覚したのは一九九〇年二月。五月十四日大分県立病院神経内科で十万人に一人のたいへん難しい病気ですという診断を受け、夫の巍には筋萎縮性側索硬化症という病名が告げられた(土居・土居[1998:220-221])「大分で一番権威ある神経内科の先生を紹介されて、診察を受けたのが平成二年五月十四日でした。/一人で行ったので詳しくは話されませんでしたが、「お気の毒ですが、宝くじに当たったと思ってがんばるように」と言われ、何が何だ分からないまま、ただ事ではないと直観しました。/後日、主人が呼び出されてお話ありました。」(土居・土居[1998:112])

 [116]関正一(東京都)「私の発症診断は、Mという病院です。悔しくて、涙が止まらなかった。やっとの思いで家に帰った。担当の先生から、もう治らないと言われ、「あとは般若心経でも唱えていなさい」と言われた。悔しかった。これで先生と私の信頼関係がなくなった。」(関[2001:44])

 少なくともこのように聞こえたのは事実だ。医師はもっと上手になればよいということだろうか。そのようにも受け止められようし、あるいはその見込みがないことを示しているようにも受け取れる。本を渡して読むようにというのは、自らの仕事を他に委ねてしまっているように思えるが、しかしかえってその方がよいのかもしれないと考える人もいて不思議でないようにも思える。

 本人がはっきりと説明することを求め、医師がそれに応じた(応じざるをえなかった)少ない例として、ベン・コーエンの場合がある。彼は一九四五年にシカゴに生まれ、七四年に来日、七八年に福井県に移り住み陶芸家となる。

 [117]「ベンさんが左上肢の脱力を自覚したのは一九八九年三月頃でした。その後、その程度は徐々に進行し、下肢の方にも筋力低下がみられるようになりました。四か月後の七月十五日、福井県立病院を受診し、筋萎縮性側索硬化症と診断されました。この時、ベンさんは診察にあたった宮地医師に告知を強く求めました。/病名を知らされた時、同伴していた婦人もろとも転倒するほどのショックを受けました。/その後しばらくは呆然自失の日々が続きました。当時の夫妻を知っている友人の窪瀬さんは、「もうそれ以上二人で持ちこたえられるような状態ではなかった」と言っています。告知された直後の気持ちをベンさんは日記に次のように書いています。

 七月十六日/昨日は不安になるような出来事が引き続いて起こった。身辺の整理をすることが大仕事のように思えた。死を迎えるということの現実的な局面に対処しなければならない。/不思議なことだが、健康で長生きできる人たちを羨む気持ちはない。昨日は英語を習いに来る生徒が美しく見えた。彼女たちの顔を覗きも込みたくなるほどだった。教えることに集中するのが難しかった。しかし再び恐怖感に襲われた。」(ベンさんの事例に学ぶ会編[1994:13-14])

 自分のことは自分で知らなくてはならない。彼はそのように思っていたようだし、医師の側も、西洋の人はそのような人たちであるらしいことを知っていたから、伝えたのかもしれない。彼がその後のことをどのように考えて九二年までを生きたのかについてはまた後でふれる。

 最近になると次のような告知のされ方もなされているところがある。

 [118]佐々木公一(東京都)は一九九六年春症状を自覚、府中神経病院で「十一月、筋萎縮性側索硬化症との告知をうける。神経病院十階、小さな会議室。主治医、看護婦、看護婦長、ソーシャルワーカー、リハビリ担当者、それに妻と私。この時点では、事前に医学書などを読んでいたこと、とはいえALSの進行性をリアルには思い描けなかったこと、学生運動の中でだが、「死に直面」というような経験があったこと、などの理由から、あまり大きな動揺はなかった しかしその直後の主治医と担当看護婦のやさしい言葉には、つい泣けてしまった。車やバイクで走っている時、長男とジョギングもキャッチボールもしてやれなくなるのか、と思った時、涙が止まらなくてこまったことが何回もあった。」(佐々木[2000])

 今までずっと見てきたのは、(同じ病院であっても)個々の医師によって異なる、とともに類型的な、そして同時にその場しのぎの対応だった。その中で本人はさまざまに右往左往しながら、わかっていく、しかも前回見たところでは実際より悲観的な予想を得ていく。知らされる内容や情報源や経路や順序を分けていけば、ずいぶんな数になってしまう。それをなんとか整理しようとしたが、個々の人に即しては番号を辿り記述を前後しながら見てもらうしかない。そして、こうした混乱の中で、なにがしかの予感、感触を得ながらどこかでそれが決定的になることがある。たとえば次は、さんざん各所を回ったのち、病名を告げられ一定の説明を受けたらしいのだが、しかしいよいよのことと受け止めるのはそのさらに一つ後だったという例だ。

 [119]松本茂[40]は一九八四年「四月四日、東大医学部整形外科を経て、同神経内科へ。井原先生から、はじめてこの病気の疑いがある旨、告知を受けた。発病以来一〇か月目にして、やっと病気の正体がおぼろげながらつかめたのである。その間、たずね歩いた病院や整骨院は、実に一六か所にものぼっている。/井原先生は、久しぶりに旧友にでも会うような笑顔で迎えてくださり、「この病気はぼくの専門分野だ、筋肉の老化だから治りませんよ」と言われた。先生のお顔が余りにも明るく、その時は、こんなひどい病気だとは思わなかった。/ただ、治らないことだけはわかった。それでも足がちょっと突っぱる程度で、こんなに元気だから、これで本当に死ぬのかと疑問に思った。そして井原先生から秋田中通病院の滝田先生を紹介され、精密検査の結果、はっきりと病名が確定した。それ以来、自分に残された短い人生をどう生きるかを考えるようになった。」(松本[1987:34-35])

 「私は昭和五八年に発病し、転々と多くの病院をたづね、東大の井原先生から、とてもにこやかに「この病気は別名老人病とも言われ、治りません」と告知された。/私はこんな残酷な病気があることを、全く知らなかった。信じられなかった。再検査を受けた。やがて私は早々と、人生の整理をすることができた。今思えば如何に告知が大事なことであったかと、感謝している。」(松本[1991:12])

 「段階的告知」という言葉が業界にはある。これは結果としてそういうことなのだろうか、とか、つまりは伝え方ということになるのだろうか、とか、しかしそれでよいのだろうかとも思えもする。次回、本人たちが告知をどう受け止めたのか、どう考えているのかを記そうと思う。そしてその前に、今回ふれなかったもう一つの契機、別の人には、つまりは家族には別に伝えるというあり方とは何なのかを見ることにする。



★01 前回から引用・紹介に通し番号をふっている。第一回は[72]まで。「[…]」がこの文章の著者による省略を、「/」が原文における改行を示すのも前回と同じ。またホームページ(http://www.arsvi.com)に文献表他を掲載してある。そこから文献表にあるホームページや人名別・組織別等の関連ファイルにリンクされている。

★02 告知について私が今まで記したのは、立岩[1997:167-168](第4章・注9)、[2000:181-183](「生命の科学・技術と社会:覚え書き」)だけ。

★03 例外があるとすれば、それは子どもに対する場合である。大人たちが本当のことを言わないことを子どもは知らないことがある。ただそれにしても、知らされない中で何か不思議なことが起こっていることを感づいてはいる。小児病棟に起こっていることを記述・分析した論文に田代[2002]がある。

★04 これまで十一種類の家庭医学書等を見た(ホームページで紹介・引用している)。「筋萎縮性側索硬化症(運動ニューロン疾患)」、「運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症)」、「運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症・脊髄性筋萎縮症)」と記されているものもある。

□cf.医学書などでの記述
 この部分には『現代思想』の連載には記載されていません。

 [◆]一九八二年・「筋萎縮性側索硬化症[…]本症の病型として、上記の定型的なもののほかに、球麻痺症状を主徴とする進行性球麻痺、上位運動ニューロン障害の臨床徴候を欠く脊髄性進行性筋萎縮症、主として下肢末梢をおかし、下位運動ニューロン障害が顕著な偽多発神経炎型を分類することもあるが、今日これらは本質的な差異ではないと考えられている。[…]予後は不良である[…](豊倉康夫)」(『医科医学大事典』、講談社、第十一巻、二三六頁)

 [◆]一九八五年・「筋萎縮性側索硬化症(運動ニューロン疾患)[…]ついには舌の筋も萎縮して、嚥下困難、発語困難となり、さらに進むと呼吸筋もマヒして死亡する。[…]経過は平均4〜5年であるが、症例によりまちまちで球マヒから始まるものは進行が速く、平均約1年7カ月といわれている。ときには経過の非常にゆっくりしたものもあり、数十年に徐々に進行するものがある。これは別の病気で、[…]」(『最新現代家庭医学百科』、主婦の友社、一九七四年初版、一九八五年最新版、三九五頁)

 [◆]一九九三年(19930410=新版(第2版)発行、初版=19691020):索引に「運動ニューロン疾患」。「神経内科でよくみられる病気」に「比較的ゆっくりおこって、運動障害をきたす病気としては、変性疾患とよばれるものがあります。その代表的な病気は、痴呆をきたす疾患やパーキンソン病、脊髄性小脳変性症、運動ニューロン疾患なとがあげられます。」とあり、運動ニューロン疾患のところに「*」がついていて、「*運動ニューロン疾患/筋肉を動かす運動をつかさどっている神経(運動ニューロン)が変性して、運動機能が失われていく病気です。」とある(p.1131)「運動ニューロン」という項目もあり、この語は「筋萎縮性側索硬化症」の解説中にあり、注で解説されている。  「筋萎縮性側索硬化症
 〇脳の信号を筋肉まで運ぶ神経が変性する
 筋肉を収縮させる信号を運ぶ神経である、運動ニューロン(運動神経細胞)の病気のひとつです。
 脳から脊髄と脊髄から筋肉までの運動がつぎつぎと変性、消失していくため、筋肉の収縮力がおちて、その結果として筋肉の萎縮が進行していきます。
 原因は不明ですが、代表的な難病としてさかんに研究が行なわれています。
 中年過ぎに症状があらわれてきます。多くの場合、手指の筋肉の収縮からはじまり、指先の力がなくなってきます。ときには舌の萎縮が先におこってくることもあります。やがて四肢の筋肉がぴくつき(筋繊維の攣縮)、手の筋肉がおちて骨ばってきます(ワシ手とよばれる独特の手指の形)。症状が進行すると筋肉の萎縮はだんだんとひろかり、ことばも不自由になり、物が飲みこみにくく、呼吸するのもつらくなってきます。
 この筋萎縮性側索硬化症とは別に、脊(p.1161)髄から筋肉までの運動神経細胞が減っていく病気がり、これは脊髄性進行性筋萎縮症といわれています。進行は筋萎縮性側索硬化症よりずっとゆるやかなことが多いといえます。遺伝性の場合、ウェルドニッヒ・ホフマン病、クーゲルベルグ・ウェランダー病などもあります。
 〇対症療法で苦痛をやわらげる
 原因が不明ですから、はっきりした治療法もありません。病気の進行をとめることはできませんが、患者さんの苦痛をすこしでもやわらげるために、あらわれた症状を抑える、対症療法が行われます。
 〇家庭でできること
 病気が進行する途中で、嚥下障害は必ずおこってきますので、飲みこみやすく、むせにくい食べ物で栄養をとるよう気を配ります。患者さんとよく相談して、たとえば、つるつるした物(豆腐、里芋、プリンなど)を献立に多くするなどして、きめ細かく工夫することが大切です。病気がすすんで運動機能が失われるようになると、患者さんの運命は家族の支え方の度合いに左右されます。また、患者さんとどのように意思の疎通をはかるかも重大な問題となります。まだ患者さんが会話力のあるうちによく話しあって、コミュニケーションのとり方を決めておくことも必要と思います。
 (木下真男)(p.1162)」(『新版 新赤本 家庭の医学』、保健同人社)
 「運動ニューロン」
 [◆]一九九四年・「筋萎縮性側索硬化症[…]この病気はつねに進行性で、呼吸筋の麻痺や肺炎などで三〜四年で死亡することが多いが、一〇年以上生存する例もある。球麻痺症状で始まる場合は、とくに予後が悪い。特別な治療法はまだない。<海老原進一郎>」(『日本大百科全書』、小学館、一九八六年、第2版一九九四年、第7巻、一九三頁)

 [◆]一九九五年・「アメリカでゲーリッグ病と呼ばれている病気がある。1930年代の大リーグでニューヨーク・ヤンキースの4番バッター、ルー・ゲーリッグは14年間に493本のホームランと3割4分の打率を残したが、1938年になって成績ががた落ちとなった。翌年に引退してから、みるみるうちに手足の筋肉がやせて寝たきりとなり、子供たちの英雄はやせ細って消耗しきって三七歳で亡くなった。[中略]多くは人生の最盛期である中年以降に発症し、たちまちにして人生を荒廃させ、生命を奪っていく。
 ブラック・ホールの理論的発見者で、車椅子の天文学者として有名なホーキング博士もかかっているといわれている。ただし、ホーキング博士は二〇歳ころの発症であり、発症してから20年以上になっても指でコンピューターの操作ができて、人工呼吸器を使っていないなど、ALSとしては早期発症でかつ進行が遅い。特殊なタイプのALS、あるいはべつの運動ニューロン病のようにも見受けられる」(小長谷[1995]の記述、鎌田[199?]に引用)

 [◆]一九九五年・「運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症・脊髄性筋萎縮症)[…]筋萎縮性側索硬化症[…]どこの症状が最も目立つかによって、普通型、脊髄性筋萎縮症、進行性球まひなどの病型に分類されますが、本質的には同一の病気です。[…]一般に予後は不良で、約八〇%は発症から五年以内に、嚥下障害と呼吸筋まひに起因する誤嚥、窒息、嚥下性肺炎、呼吸不全で死亡します。しかし、五年以上生存者もふえており、一〇〜二〇年の長期生存者もいます。」(『百科家庭の医学』、尾形悦郎・小林登監修、主婦と生活社、一九九五年、三〇五頁)

 [◆]一九九六年・『改訂新版 家庭医学大百科』(法研)「運動ニューロン疾患(筋萎縮性側索硬化症)[…]病気の種類や個人差もあり、その速度はさまざまですが、病気は基本的には次第に進行していきます。[…]似たような病気がたくさんありますし、運動ニューロン病のなかでも病気の種類によって進み方が非常にまちまちです。[…]p.585)患者の会(日本ALS協会 Tel03−3267−6942)に相談するのもよいでしょう。」(五八五−五八六頁)

 [◆]一九九九年・「運動ニューロン疾患とは[…]どの範囲に変性がおこったかによって、筋萎縮性側索硬化症、進行性球まひ、脊髄性進行性筋萎縮症の三つに分けられていますが、あとの二つは、筋萎縮性側索硬化症の部分症状とする考え方が最近の主流になっています。[…]筋萎縮性側索硬化症(ALS、アミトロ)[…]多くは、発病から五年以内に呼吸器の合併症をおこし、死亡します。/進行性球まひ/[…]会話と食事ができないために心理的な負担が大きく、栄養障害と衰弱をきたしやすいものです。/進行も早く、発病から三年程度で肺炎などにより死亡します。/脊髄性進行性筋萎縮症/筋萎縮性側索硬化症に比べて経過が長く、とくに非進行性の時期もみられます。発病から五年以上、しばしば一〇年以上も生命を維持できることがあります。」(『家庭医学館』、小学館、一九九九年、九八一−九八二頁)

 [◆]一九九九年(19991015)・「筋萎縮性側索硬化症/運動神経のみが選択的に変性していく原因不明の疾患です。三〇〜五〇歳に好発し、手足の筋力の低下と筋萎縮がじょじょに進行し、ついには呼吸筋などをもおかすようになります。知覚や知能の障害はありません。/現在のところ有効な治療法はなく、予後不良です。厚生省の難病疾患に指定されています。」(新星出版社編『ハンディ版家庭医学事典』、新星出版社、三六五頁、「脊髄の病気」の項に)

 [◆]二〇〇〇年(20000315)・「運動ニューロン疾患/運動ニューロンは、大脳の運動中枢細胞から始まって、脊髄を経由して抹消の運動器に至るまでの運動神経の経路を指します。脊髄の側索路を通って前角に至るまでを一次ニューロン、前角で中継点を通って筋肉に至るまでが二次ニューロンです。この運動ニューロンだけを選択的におかす疾患が筋萎縮性側索硬化症で、二次ニューロンの障害によって筋肉が萎縮します。このタイプを神経原性筋萎縮といい、筋自体に病気があって起こる筋原性筋萎縮と区別します。/筋萎縮性側索硬化症の症状は、神経原性筋萎縮が壮年期から起こります。筋萎縮は手から始まることが多く、肩、胸にも及び、呼吸筋や下筋に起こって、呼吸困難や嚥下不能になることがもっともおそれられています。/初めに筋肉がピクピク動いて、自分でおかしいと気づくこともありますが、筋肉がピクピクする病気はほかにいくつもあり、そのことだけで心配することはありません。しかし、筋肉のやせや脱力も併存する場合は、専門医の診療を受けるようにします。/治療 世界中で研究されていますが有効な治療法は見いだされていません。リハビリテーション、生活のしかたなどの指導を受けることが大切です。」(『三五歳からの家庭医学百科』、時事通信社、一四六頁)

 [◆]二〇〇〇年(20001015)・「筋萎縮性側索硬化症」の項目があり、その中に「運動ニューロン(運動神経細胞)」の語があり、注で説明されている。「筋肉を収縮させる信号を運ぶ神経である、運動ニューロン(運動神経細胞)の病気の一つです。/[…](p.824)/この筋萎縮性側索硬化症とは別に、脊髄から筋肉までの運動神経細胞が減っていく病気があり、これは脊髄性進行性筋萎縮性症といわれています。進行は筋萎縮性側索硬化症よりずっとゆるやかなことが多いといえます。」(『新版 ハンディ新赤本 家庭の医学』、保健同人社、八二四−八二五頁)

 [◆]二〇〇一年(20011106)・「運動ニューロン病」として「筋萎縮性側索硬化症/脊髄性進行性筋萎縮症/進行性球麻痺」があげられ、説明がある。「筋萎縮性側索硬化症[…]呼吸不能の状態になると、人工呼吸法が必要になります。特定疾患(難病)に指定されています。」(『大安心──健康の医学大事典』、講談社)

 [◇]『世界大百科事典』(平凡社、19810420):なし。「筋肉」の項の「筋肉の病気」にもなし。

 [◇]『広辞苑 第二版』:なし。

 *以下 立岩 真也 20021001 「生存の争い──医療の現代史のために・6」   『現代思想』より一部引用

■家族が知らされる

 これまで入手できた単行書としてもっとも古い本には次のようにある。

 [120]著者の母親は一九七四年、七七歳のときに自覚症状が現われ、一九七六年の春、七九歳で亡くなった。著者は一九七五年にALSと知らされる。「この日、私ははじめて母の病名を知らされた。筋萎縮性側索硬化症――通称アミトロ。B大小林医師に一度挨拶をと、ご自宅を訪れたところ、家族にだけという前提で診断を明かされたのだ。[…]口、手足から体全体が動かなくなるのを待つばかりだが、頭と眼の機能だけは残るから、壁に大きな文字を貼って視線で追えば意思伝達は可能である。人工的に食事、呼吸を施せば二、三年は命を長引かせ得る。」(鈴木千秋[1978:57]、一部を[3]に引用)

    <略>

 [121]一九八一年、土屋敏昭は山形大学附属病院に入院する。「一週間もすると検査が始まった。心電図、脳波、筋電図、血液検査と、ありとあらゆる検査をしたのち、検査は「家族を呼べ」であった。「それでは家内を呼びます」と言ったところ、「誰か男の人はいないか」と言われ、「これはただごとでない。きっと命にかかわる病気に違いない」と思うと、その夜は一睡もできなかった。」(土屋他[1989:21])

    <略>

 [122]一九八六年、東御建田郁夫[43]は某国立病院(大阪府)で「この次には、会社の上司を伴って来院するように告げられた。[…]数日後、医師の要請通り上司と妻に伴われて再度国立病院を訪れた。すると驚いたことに診察室に呼び込まれたのは妻と上司のみ。私は独り待合室に残され、ますます悪い予感が胸をよぎった。」(東御建田[1998:20]、[…]の間に『家庭の医学』[26]を読む。)

    <略>

 [123]長岡紘司[32]は一九七七年頃に妻が知らされる。「「あと二〜三年の命です。芝居をしてでもご主人には知られないように。」ALSの告知を受けた妻の頭の中が真白になり、帰りの道すじも覚えていない程絶望の中、自宅に戻ったといいます。」(長岡[1991:10])

 [124]一九九二年、加藤誠司は妻の加藤郁子がALSだと医師から告げられる。「この病気は、難病中の難病と言われるほどの、不治の病であると言うことも、初めて知りました。/この病気の告知を、当時の担当主治医の先生から聞かされ、説明を受けた時には、病気そのものが進行性である為、年齢的にも三十五歳と言う若い年齢と言うこともあり、良くて二年悪くて半年位が、一定の期間であると思ってください、死を免れない病気であると聞かされました。/私は頭の中が真っ白になり、その闇の中へ放り出されたような状態になった事を、今でも鮮烈に思い出します。」(加藤・加藤[1998:5-6]、その後については[130])

    <略>

 [125]「帰宅した夫に「本当に五、六年なの?」と聞けば、「そんなところだ」と言う。「何故教えたの?」と責めれば、「隠し通せると思わなかったから」と答える。当時は、何とも思わなかったけれど、後々、落ち着いて考えたら、二、三ヶ月は、悶々と悩むのも、夫の基本ではないのかなぁ。」(橋本[1997a]、その前後は[153]に引用)

    <略>

 [126]鎌田竹司[54][81]に「医師は最後にいった。「医療費免除などの説明をしますから、奥さんだけ残ってください。」医師は妻に別室で「三年ほどで動けなくなり、長くても、あと五年……」と告げられて平静を装って病室へ戻って来たと後から聞きました。」(鎌田[199?]、[82]でも引用)

 [127]鈴木康之は妻がALSであることを一九八九年三月、関東逓信病院で知らされる。「まさに青天の霹靂だ。脳天を金槌で叩かれたようなショック、これから一体どうなるのだろう。今より悪化した時のことは想像もできない、又、したくもない。/これからどのように生活をしていくか、頭の中は真っ白けになる。/鞆にはいつ、この症状のことを告知するのか、自然に解かるまで放っておくか、いや、今日、それを告知して、療養に専念させた方がよいのか、全く判断がつかない。/夜は、全く寝ることが出来なかった。」(鈴木康之[1993:43-44])その後、九一年十二月に呼吸が止まり亡くなるまで、病名を知らせることはなかった。八九年七月、順天堂大学病院の「水野教授との会話の中で「元のように治るのは無理でしょう」という一言にすごいショックを受けたのか、鞆は涙が止めどもなく出て泣きじゃくってしまう。可哀想で、可哀想で……。私は、いたたまれなくなってしまう。」(鈴木[1993:92-93])同月、「私が水野教授にお願いしたとおり、丁寧に鞆の「症状」について話をされた。この時も教授は鞆の病名である「筋萎縮性側索硬化症」の疑いがあるとか、外国名の略称の「ALS」という言葉の使用は避けてくれた。」(鈴木[1993:100])九〇年五月、「鞆も「筋萎縮性側索硬化症」であることはうすうす知っていると思うが、医学書を読んでいるわけではないので、予後が芳しくないということは、多分知らないと思う。」(鈴木[1993:194])

 [128]一九九一年、奥村敏[79][94]の妻は岸和田市民病院でALSと告げられる。「告知により希望をなくした私は、主人や子供のことを考えると悲しくなるばかりで、こんな事なら一層のこと三人で車に乗っている時に何かの事故にでも巻き込まれてしまえばいいのにとさえ思ってしまいました。今思えばとんでもないことを考えたものだと反省していますが、その頃の私は二〜三年で主人が死んでしまうかも知れないという不安ばかりで、前向きに考える余裕さえなかったのです。でもいろいろと考えているうちに主人に本当のことを言って、これからどのようにすれば良いかを相談してみようかとも思ったのですが、それは私自身の苦しみを二人で分けて半分にすること、つまりその半分を主人に押しつけることになり、それで自分の気持ちを楽にするのはずるいことだし、逃げてはいけないと思ったのです。だから絶対に言わずにおこうと心に決めました。」(奥村[1995]、この後の記述は[95]、本人の告知についての考えは[161])

    <略>

 [129]東御建田[122]は「数日後、医師の要請通り上司と妻に伴われて再度国立病院を訪れた。すると驚いたことに診察室に呼び込まれたのは妻と上司のみ。私は独り待合室に残され、ますます悪い予感が胸をよぎった。/ややあって診察室から出てきた妻の目は真っ赤に充血していた。もうそれだけでどんな話があったのかは容易に想像がついた。」(東御建田[1998:20])

 一九九二年に夫が病名を告知された[124]加藤郁子は九七年に亡くなるのだが、夫は最期まで妻に病気のことを言わない。このことについては次のように書かれる。

 [130]「妻の病気は、癌のような病気と違って、数パーセントの生存の可能性もない、決定的に死を宣告する病名ということもあり、本人には知らせずに希望を持たせる対応にしたのでした。/私は正直言って、妻に病名を宣告して、早くから生命維持装置を付けても、最終的には心臓だけが動いている状態となり、身体は植物状態で意識は変わらずと言う苛酷な生存となってしまうことも考慮しました。/最終的には、本人の苦痛等は全て相手に意思伝達することも出来ない状況で、過ごすしかないと言う事例を、いくつか見聞きしましたので、大変悩みました。」(加藤・加藤[1998:184-185])

 そして妻は知らなかったと書いている。ただ次のような箇所もある。

 [131]一九九五年九月一六日「夕方のニュースで、車椅子の天才結婚すると報道されたのは、宇宙物理学者のホーキング博士だった。私と同じ病気だけど、病気になりはじめ、外で遊べないので、子供のときから本読んだり勉強して、アインシュタインからホーキングまでと言われる程の博士になったという。[…](私はこのときに、郁子の病気は少し違うんだよ、と言いました。数パーセントでも希望を持たせたかった。多少安心した様でした。[…])」(加藤・加藤[1998:88]、加藤郁子の文章の後の( )内は夫の加藤誠司の文章)

 [132]加藤を診た医師(横須賀中央診療所所長)は次のように言う。「加藤郁子さんのところへ行くたびに、病名や病気の今後についてお話ししなくてはという思いにかられました。筋萎縮性側索硬化症という、進行性で死は避けられない病気ですが、それを先に延ばしながら生きることができます。現に、手足が動かせず、声も出せず、ものも食べられず管から流動食を注入しつつ、呼吸も機械の力を借りながら、わずかに残された額の動きでパソコンをあやつり、ものを書いたり、多くの仲間と通信したりしている人もあります。/郁子さんには、原因不明の難病であり、現代の医学では治療法がないことが初めに告げられただけでした。後は、病名やこの先どうなるかという質問もありません。手足が動かせず、ものも食べられなくなり、病気がどんどん進んでいるのは、いやというほどわかっているはずです。いまさら、病名を聞こうが聞くまいが関係ないと思われていたのでしょうか。/それより、その日その日を楽しく過ごすことを大切にされていたようでした。」(春日[1998:19-20])

 [133]加藤宅を訪れていた訪問看護婦の記述。「ご家族の希望で病名は告げられていませんでしたので、ピリピリとした緊張の中で訪問看護を開始しました。/当初は郁子さんの本当の気持ちはどうなんだろうかと悩みました。いろいろな関わりの中でも病気についての質問はありませんでした。今までの経過の中、徐々に動けなくなっていく状況から多分ご自身の病気を察していらっしゃったのではないかと思います。」(松浦[1998:21])

    <略>

 [134]金沢(大分県)は一九八八年「長男が大学に進学して学費が要り、長女も進学の準備ということで、葉タバコの作付けを拡大して収入を上げなければ、それには機械も新しく買い換えてと思いましたが、妻は何かと反対する。妻は病名を知っていて、私は知らない。だから口論が絶えませんでした。」(金沢[1991:24])それで彼はまた病院に行き、ようやく聞き出す[75]。

    <略>

 [135]「病気がすすんで運動機能が失われるようになると、患者さんの運命は家族の支え方の度合いに左右されます。」(木下[1993:1162])

 [136]「ある高齢のALSのご婦人Aさんは、家族の強い希望によって、病名を告知されることなく、人工呼吸器もつけることなく亡くなっていかれました。/主治医の市原医師は、最後の最後まで、人工呼吸器をつけてはどうかと、ご家族に説得しましたが、それは受諾されませんでした。[…]/今でも、あの時ご家族の反対を押し切って、Aさんに「あなたの気持ちは…」と話していたら…もっとよい結果がでていたのではないか…と、考え込んでしまうことがあります。」(中村[1999:185-187])

    <略>

■わかってしまうこと

 [137]菅原和子[36]は本の中にALSの記述を見つける。「息もつかずに読み終えたとき、一瞬、目の前が真っ暗になった。夫が何か言ったのも耳に入らず、「予後不良で数年の命」「治療法はない」といった言葉が頭の中を駆けめぐり、しばし茫然としていた。が、やがて気を取り直し、自分に言い聞かせた。いや、そんな筈はない。こんな恐ろしい病気に、今まで何の病気もしたことのない自分がなる筈がない。私は物を飲み込むのは普通だし、喋ることも異常がない。違うにきまっている。こんなことを考えるなんて疲れているせいだ、と。――しかし、どんなに打ち消しても心の不安はぬぐえず、悶々として夜を明かした。/翌八月二十三日、私は書いていただいた紹介状を持って、県立中央病院を訪ねた。」(菅原[1989:12-13]、この前後について[87])

 [138]東御建田郁夫[43]は妻と上司を連れてくるように言われた[122]後、三人で病院を訪れる[129]前、『家庭の医学』を読む。「この病気は進行性で発病して五〜十年で呼吸困難に陥り、やがて死にいたる……」、ここまで読んで愕然とさせられた。/「そんなアホな!」──スミからスミまで何度も読み返してみたが、他に該当する病名は見当たらない。当然のことながら心理的な拒絶反応が働き、否定するための材料を必死で探している自分がいた。」(東御建田[1998:19]、本の内容の部分は[26]でも引用)

 [139]長尾義明[50]は、一九九〇年に徳島大学医学部付属病院で本人が告知された[12]。「「この手足がそのうち動かなくなる。三年で死んでしまうって…」。医師の言葉を頭の中で繰り返すが、どうしても実感がわかない。大学からの帰り道、自宅を通り越し、見慣れたスーパーの前でようやくわれに返った。「誤診だ」。そう思い込めば、少しだけ気持ちが落ち着いた。」(『徳島新聞』[2000])その後長尾は民間療法に大金を注ぎ込むことになる。それが彼に限ったことではないことは後にみることになるだろう。

 それでも結局、民間療法であれなんであれ、治す術が見出されていないALSという病にかかったことはたしかなことになる。それはすでに多くの引用にあったように、衝撃である。もっとも短いのは次のような表現。

・[140]「医学全書で調べたら、とんでもない病気で愕然とする。」(小島[2001-])小島勝(北海道)は一九九九年八月に症状を自覚、十月、市立病院でALSの疑いがあると言われるがなんのことかわからない。十二月、「検査入院を勧められるが、仕事があるので断る。「何か薬はないのか」と聞くと、この症状の進行を抑える薬は有るが、非常に高価なので、難病の特定疾患の申請をしたほうがよいと言われ、申請書を書いてもらう。そこに書いてあった病名が「筋萎縮性側索硬化症」だった。」それで医学全書を読んだ。

 そして死や、身体や、家族のことをめぐって生起した、衝撃、重苦しさ、恐怖、不安が振り返られる。

 [141]秦茂子[46]は「告知は医者からではなく、夫から間接的に受けました。この病気の治療法はなく、あと三年から五年の命でしょう、と言われたそうです。ショックでした。いきなり大きい漬物石が頭上に覆いかぶさってきたようで、重苦しく不快でした。それまで大した苦労もせず、のほほんと暮らしていた身にはこたえました。」(秦[2000])

 [142]土屋敏昭は、自分には知らせてもらえないから[121]百科事典を読んだ[21]。「うすうす命にかかわる病気だとは感じていたが、いざ現実に知った時のショックは、味わったことのない人には理解できないだろう。それを知った時、いろいろなことが頭の中をかけ巡った。まず最初に浮かんだのは、家族のことであった。親は昔からいるからしかたがないとしても、こんなことになるなら結婚などしないで独身だったら、どんなに気が楽だったかしれない、とも思ったりした。[…]働けなくなったら、家族五人どうやって生活していったらいいのだろう。/いろいろなことを考えて、しばらく眠れない夜が続いた。」(土屋他[1989:24-25])家にあるのは古いものだからと思って新しい医学書を見たが、同じだった[21]。「さあ、これは大変なことになった。俺の人生もこれまでか」と思うと、目の前が真っ暗になり、今まできずきあげてきたものが足元から音を立ててくずれてゆくような感じがした。」(土屋他[1989:25])

 [143]宮下健一は見知らぬおばさんに自分と似た人がいてその人は死んだと聞いた[108]。「それを聞いた私は、後頭部をいきなり何かでなぐられたような衝撃を受けた。なぜなら、病気になってから死ということを考えたことがなかったからだ。今、初めて死ということもありうるんだと思い知らされた。あまりに突然で予期しなかった言葉にただボウ然とするばかりで、妻を見て、自分はそんなことないとばかりに言いたげにニガ笑いして見せるのが精一杯で、他に何かを考えたり、言うことができなかった。それほど、その人の言った言葉は私にとってあまりにも強烈であり、死というものに正面から向かわされたようなものだった。私には、このことを解決したり、耐えることができない。いずれにしても今は、無理だ。」(宮下[1996:50-51])

 [144]松本茂[40]は一九八四年にALSと知る[119]。「二〜三年の命だと診断され、整理を急がねばと思うのだが、いっこうに実感がわかない。とても死ぬなどと思えない。遠いことのように思えるし、死が迫れば、何か予感のようなものがある筈。それなのに、私は生来呑気者なのか、迫り来る死を実感しないのだ。/ましてや、自ら命を断つなどと一度も考えたことがない。先々、手足が動かなくなり声も出なくなったらどうしようと、そのことを考えるだけで身震いするほど恐怖心に襲われたが、さりとて自殺するほどの勇気はない。」(松本[1995:98])

 前々回からここまで、いくつかの記述から断片を取り出し並べてきた。実際には、一つ一つがもっとものようにも不思議と思えば不思議とも思える様々な要素がかなり短い時間の中に押し込まれる、家族も巻き込まれた、連続的な過程がある。

 [145]横山勇夫(新潟県)は一九九四年十一月に症状を自覚し、神経内科での診断結果が一九九五年五月に出る。「家族が呼ばれ父と私が告知を受けましたが、信じられるはずがなく何かの間違いとしか思えませんでした。/大学病院で受診して詳しく検査をして貰いたいと先生にお願いし、紹介状を書いて頂きました。[…]/六月、新潟大学病院に受診しましたが診断の結果は同じで、この時点で夫に病名が告げられ『少し老化が早まる病気』という程度の説明がありました。/その後、似たような病気が色々あるということで、八月に検査入院することになりました。二〇日間入院して検査をした結果はやはりALSの確定診断でした。私にこれから夫はどういう経過をたどるのか詳しく説明があり、寝たきりになるまで一年くらいと考えるようにと言われましたが、頭の中は何がなんだか解らなくなりパニック状態となりました。/病室に戻り、ALSに間違いないと先生に言われたことを夫に話し、二人で泣きました。今後のことについて、本人に話をしておく必要があると先生に言われましたが、夫が声を殺して泣く男泣きを初めて見た私は、これからどうなるかということはとても伝えることは出来ませんでした。まもなく、夫は医学書で自分の病の正体を知り、覚悟したように私に話して聞かせました。それでも何かの間違いではないかという思いはつきまとい、西洋医学でダメなら東洋医学に望みをかけ[…]」(横山[2000])

■わかりたいこと

 日本ALS協会(JALSA)の最初の会長だった川口武久[30][64]からその職を継いだ松本茂[40]が病名を知り、後に「私は早々と、人生の整理をすることができた。今思えば如何に告知が大事なことであったかと、感謝している。」(松本[1991:12]、[119]で引用)と記した一九八四年の前年、川口は次のように書いている。

 [146]「香川県から、同じ病いの父親を持つ娘さんが訪ねて来る。病気のむごさを考えると、とても本人に告げる勇気がなく、家族としてどう対処すればいいか、相談に乗ってほしいという。この病いで悩むのは、本人だけではない。家族もまた途方に暮れ、煉獄の苦しみを味わう。/涙ながらに訴える娘さんを前に、私には慰める術がなく、とまどうばかり。お父さんが自然に気付くまで、あえて知らせる必要はないのではないか、その分、家族が方がしっかり担ってあげてほしい、逃げないで皆で頑張ってほしい、と意見を述べる。」(一九八三年四月、川口[1985:122])

 だから本人に対する告知に賛成する意見があるだけではない。知らされることの重さを思えば、そうだろうとも思える。ただ、いま自らの意見を公表している患者の多くは告知に賛成している。それは、すでに自らがALSであることを知りその上でなんとかやっている人たちの意見なのだから当然のことと言えるかもしれず、だから公平な取り上げ方ではないとも言われるかもしれない。しかし、結局、はっきりとはわからないがぼんやりとは知っているという曖昧な状態も含めて、人は知っているか知らないか特定の場にしか立てず、知らない人に知らないことについて尋ねることもできない。かつて知らずいまは知っている人が、かつての自分を含め自分のことや他の人たちのことを思ったときにどのように考えるか、それは聞いた方がよい。
 一つに、知ることになったとして、それはどのようであればよいのだろうと思う。後で取り上げるつもりだが、医療者の側から「段階的告知」という戦略が示される。最初に全部言ってしまうのでなく、その人の状況、段階に応じて徐々に、というのだ。言われるとそれもよいのかもしれないと思う。どうだろうか。

 [147]菅原和子[36]は、本を読み[137]、病院で病気のことを尋ねた[87]後、「予後」についてはっきりしたことを言われた時の衝撃を書いている。「ある日、県の難病検診が行われると聞き、出かけてみた。一通りの診察を受けた後、係の人から「この病気は五年以上生きることは難しい」と言われた。今まで、どの医師からも、治りにくいとは言われたが、はっきり後何年と言われたことはない。あまりのショックに食事も喉を通らず、悲嘆にくれる日々が続いた。」(菅原[1989:17-18]、[5]でも引用)

 しかしこれは、今から考えれば、あるいはその当時既に疑わしい「予後」が、それだけが、そしてつまりはあと何年という数字だけが知らされている──このことは他の多くの人たちにとっても同様であることを記してきた──ということだとも解せる。ただ、一度に伝えられなかったのがよかったかもしれないという記述は他にもある。

 [148]後藤忠治[56]ははっきりと告知されたことがなく[85]、病名を知ったのは特定疾患医療受給者証の記載からだった[96]。「「進行が止まる事は無いですか?」・(ありません)/「薬はいつ頃できますか?」・(今のとこ特効薬はありません)/「このまま進行するとどうなりますか?」・(車椅子の生活になりますね)/「最後はどうなりますか?」・(人工呼吸器をつけるようになりますね。決めるのは本人です)/これは月一度の外来時の主治医との会話です。私にとってこれが告知と思っている。毎回少しずつ聞き、ALSと言う病名に関係無く、自分の病気を半ばあきらめがおで自然に受け入れられたと思っている。これらの事を一度に告知された場合、果たして平常心でいられたか自信が無い。」(後藤[2000?])

 けれど、徐々にわかることがよりつらくないことだとも言えない。

 [149]中島貴祐[102]は告知はされなかった。「私が病名を知ったのは、発病して四年目に入院の診察の時に、カルテの表紙にALSと書いてあったのを見たからです。/それから、テレビでこの病気のドキュメンタリーやドラマを見て、病気の進行が分かりました。/ 私は病気のことが徐々に分かり、とてもとてもショックでした。自殺の方法を考えたりしていました。」(中島[2001]、[102]と同じ文)

 [150]後藤の[148]の直後は次のように続く。「もちろん告知の受け止め方は人それぞれみな違うと思う。本人の性格、家族構成等によっても違うし医師の説明の仕方によっても大きく変わってくると思う。何を聞いても動じない人もいるかもしれないし告知されたとたんに生きる気力を失う人もいると思う。だからストレートに告知する事が皆が皆いいとは思わない。もちろん本人が希望するなら出来るだけ早い時期に告知をされた方が精神的にも物理的にも準備がそれだけ早くできる。ただ家族には予後の事を含めありのまま伝えて欲しい。家族も心の準備が欲しいから。」(後藤[2000?])

 [151]中島の[149]の直後は次のように続く。「患者には病名を知る権利があります。どうか、患者が希望したら告知して下さい。お願いします。」(中島[2001]、[102]の末尾と同文)

 一度にまとめて知らされる場合であっても、また徐々に知らされるのであってもそのそれぞれのあるいはどこかの機会で、十分に衝撃的なことは知らされることになる。そんなとき、どういうわけだが──それもそれなりに説明しようとすればできなくはないのだろうが──開き直れてしまう瞬間が、もちろんそれは恐怖や不安を消し去ってしまうことはないのだが、訪れることもある。

 [152]杉山進[44]は一九八九年、東京大学附属病院で病名は知らせてもらえなかったが、治療法のない病気だと言われる[76]。「この病気の本当の恐ろしさはまだ分からなかったが、さすがにショックを受け、病院から東京駅に向かうタクシーの中で、涙がこぼれたのを記憶している。」(杉山[1998:24])その後、保健所で渡された申請書類を読む[100]。「予想もしていなかった症状の項目がずらりと並んでいる。即座に、死が近いことを覚悟した。その瞬間、頭に浮かんだのは、「親はなくても子は育つ」という言葉だった。/その後は、胸につかえていたモヤモヤが落ちてすっきりした気分になり、東京大学病院で受けたようなショックはなかった。」(杉山[1998:25])

 [153]橋本みさお[42]は夫から病名を聞くが、ALSのことを本で読むのは十日ほどたった後だった[112]。「「筋萎縮性側索硬化症」は、すぐに見つけられて、病気の説明、病状の経過と、読み進むうち、予後の項目になって、文字通り「頭の中が真っ白」。何も考えていないのに、涙が、ボタボタ落ちる。出産以上の試練を知らず、嫌なことは避けて生きていた私に、「予後は悪く五、六年で死亡」の文節は、思考の許容範囲をはるかに越えて、考えるより先に、涙が落ちた呆然としたまま 幼稚園に向かえば、涙、涙、空を見て涙、赤信号で涙、涙が一人歩きして、このまま、止まらないんじゃないかと、思ったほど。異変に気づいた友人達は、娘を迎えに行ってくれると、一人でいないように、夫の帰宅まで付き添ってくれた。病名を知らせたとき、すぐに調べた彼女達は、私よりずっと早く泣いていて、結局、知らなかったのは本人だけという、何とも呆れたお話し。[…]/さすがに、ことの重大さに気づいて、自分で確認しようと、父を伴いドクターに面会するも、高齢の父を気遣って、当たり障りのないことしか言えないドクターの様子に不思議と、すうーっと力が抜けて、それを境に開き直ってしまったのです。父のショックは相当なもので、同行した義妹によると、帰りの車中父は泣いていたとのこと。不覚にも父の老いを忘れていた。それから父は「娘より後に、死にたくない」と言い初め、三年後に母、四年後には、父も亡くなり、十一年後、詐欺のように私だけ生きている。」(橋本[1997a]、[…]の部分は[125]に引用)

 [154]「死ぬほど泣ける告知。これは、結構ポイントが高いのです。[…]実際私は、自分が筋萎縮性側索硬化症と知った時、筋萎縮性側索硬化症が何たるかを知った時から、生活しながら泣いていましたし、本当に理由も無く涙が溢れました。信号待ちで涙、ビルの壁を見て涙、そのうち涙も減って(一生分泣いてしまったらしい)、泣いている時間が無駄に思えてきたのでしょう。」(橋本[2001])

 だからどうであればよいのか、それはまだわからない。あるいは、一人は一通りの生き方しかできないのであれば、結局わからないところは残るだろう。比較には想像による部分があってしまう。だがそれでも本人への告知が支持される。

 [155]和中勝三[51][83]は、一九九二年十月「に「筋萎縮性側索硬化症」と告知を受けました。/難病と覚悟はしていましたが、本当の事を知るとショックで落ち込むし、イライラして家族にあたる時もありました。/三年〜五年の寿命と告知された時が一番辛いし、将来の事を考え落ち込むと思います。一時期は、悩み苦しみますが、ALSから逃れる事が出来ないと判ると、闘うか死ぬかで悩んだ末に気持が開き直ります。気持が開き直れば前向きに考えるようになり、気持が明るくなりました。/私は、告知を受けるのは早い方が良いと思います。/私の場合は、約一年で告知受けたので、考える時間が長く冷静に判断できたと思います。家族と将来の事を十分話し合って、心残りの無いように気持の整理がつくように家族皆で隠さず話し合うことが一番大事なことです。そうすれば家族の結束がより強くなります。/[…]妻が、告知を受けて一年間、私に言う事ができなくて辛かったと言います。私は、何処の病院へ診察に行っても納得できない答えばかり返って来た時は、先生に不信感を持ちましたし、自分の心の中で先生が信用できなくなりました。/告知される先生も、患者と同じように辛いと思いますが、告知を希望する患者さんには早く告知をされる方がいいと思います。」(和中[1999?])

 [156]安川幸夫(千葉県)は一九九九年に症状を自覚。「私は、ALSの告知は病名が判ったなるべく早い時期にするべきだと思っています。患者はそれを知る権利を有していると思います。確かに告知されたときは大きなショックを受けるでしょう。人生設計、将来の希望、夢、家族への愛、等……全てが崩壊するのですから。そしてすぐ訪れるであろう経済的不安も。迷い、悩み、戸惑い、怒り・なぜ自分に、……病気を知った心の葛藤が始まります。今後訪れるであろう逃げることの出来ない現実に対し、一時逃避する人もいるでしょう。しかし、いずれは皆受容するしかないのです。受容することにより自分を客観的にみれるようになり、日々進行していく運動機能の変化に対し、どう生きるか、生きたいか、……そして生きがいを見つけられるようになっていくと思います。/再度お願いいたします。告知は早いほどいい、まだ体が動く元気なうちに、告知に対するショックを跳ね返すパワーを持ってるうちに、そして受容できる心の余裕と体力を持ってるうちに。/過ぎ去った時は取り戻せません、自分で選んだその時、その時を一生懸命生き、悔いの無い人生を送るために。/もし告知がされなかった場合、なにも知らず確実に日々変化していく自分の体に不安を抱きながら過ごしていくことになります。でも、死ぬまで病名を知らされないということはないでしょう。たぶん体が動かなくなった時点、又は、胃ろうや器官切開の手術のときには病名を知らされる筈です。しかし、この時では遅いのです。過ぎ去った日々はもう取り戻せません。まだ元気だった頃であれば出来たであろうやり残したことは、その時では出来なくなっています。ALSに懸かってしまったことは悔いても悔やまれきれませんが、残された自分の人生を自分で決める権利は有していると思います。その為には、早い時期での告知と適切な助言が必要と考えます。」(安川[2002])

 知らせるべきか。この問い自体がおかしいのかもしれない。どうしてそれを医師が決めることができるだろう。その人はたまたまあるいは仕事の上で知る立場にいるだけなのだ。それは医療者の側の権利ではありえない。ただ、そうではあっても、告知をすることがつねによいのかどうかわからない。つらいことを知らされるのはつらいことだ。あと一月で死んでしまうと、そんなことを考えてもいなかったときに知らされるのはどうだろう。わからない。強く本人への告知を主張する橋本みさおの文章に、あらゆる場合の告知を肯定しているのではなく、むしろ、知らせれば、あるいは知ればそれだけうまくいくという、よくできた予定調和的な末期の送り方を疑っている、そのように受け取れる一節がある。

 [157]「告知」について語られるとき、余命を、有意義に過ごしたいからとか、為すべきことがあるからと、人は言います。ほんの一握りの履病者だけが、「死」に向かって「生」を計画的に重ねることは、フェアなやり方とは、思えないのに。大方の人は、「死」を現実のものとは、実感せずに過ごしているように見えます。「死」に至る病の告知は、ひどく傲慢なことの様に思うのは、私だけなのだろうか。」(橋本[1997b])

 しかし少なくともALSの場合、知らせてほしい事情があるという。それはじつは先に引用したいくつかの文章にも述べられている。早い方がよい、とそれらには書かれていた。もっと生真面目に西尾等[55]が次のように言う。

 [158]「ALS筋萎縮性側索硬化症は様々な症状を呈し、また進行速度もその人によりかなり異なりますが、重要なことは病気についてきちんと自分なりに理解し、自分の将来を直視し決して甘えたり、逃避したりしないことです。/私達ALS患者にとり一分は一時間であり、一日は一年です。/より前向きに人間らしく生きれるか、まだ少しでも動けるうちに決意し準備しなければなりません。時間は想像以上に少ないのです。」(西尾[1999])

 [159]「ALSの経過(死に至るまでの)を見てこられた方ならば、この病気において告知がどれ程重要なことか、おわかりでしょう。/[…]患者も家族も、様々な進行に対処していかなければなりません。それならば少しでも楽に生きられるように、適切な助言お願いしたいのです。」(橋本[1997c])

 [160]「末期癌の告知と同じようなものだから、告知しないと言うあなた、それは間違いかも知れません。確かにどの医学書を見ても「予後は悪く十年以内に死亡」と書いてあります。一度は死ぬものと分かっていても「死ぬぞ」と言われると、宇宙の不安を一身に集めたような焦燥感に捕われるのは、私だけではないでしょう。それでも尚ALSには、正確な告知が必要なのです。/末期ガンは、あっと言う間に死ねます。運が良ければ、愛する人の手を握り「ありがとう」なんて、言えるかも知れない。でもALSにはできません。「ありがとう」はおろか、手を握ることさえも。近年、突然声を失くしてパニクッてる患者さんの事例を、多く耳にします。中には、告知もされていない例もあり、介護者も途方に暮れるのです。/ALSには、上手に生きる方法を告知してください。発病したことが、十分に不幸なのです。それ以上の絶望を与えないで。」(橋本[1997b])

    <略>

 [161]「告知については大変難しい問題だと思います。もちろん患者さん本人の性格と考え方により、告知するかしないかが一番になるとは思いますが、告知する側の医師の前向きな考え方と家族の大きな協力があれば、私は告知する方が本人にとっても家族にとっても、有意義な闘病生活を送るのには良いのではないかと思います。 そして、私は告知をされるうえで患者本人にとっては、ALS協会、会報の存在は非常に大きく意義のあるものであるし、これからもそうであって欲しいと思います。[…]会報を読んで私は大変驚かされました。その内容が一般の医学書や医師の言われるような患者にとっては冷たく希望のない言葉ではなく、この病気は大変な病気ではあるが、こういうふうにやれば今残された機能を最大限使ってこんなこともやれるし、精一杯頑張って生きていけるんだという、患者さん本人の生の声を聞くことができたし、病気自体のことや現在研究されていることも詳しく知ることができたことにより、どんなにはげまされたことか分かりません。そしてそういうことの知識があるのとないのとでは、告知や闘病生活を送るうえでどんなに大きな違いが生まれてくるか計り知れないと思うのです。/[…]/告知を受けたら、まず自分が今おかれている現実を家族共々しっかりと受け止めてください。そしてその現実から逃げずに、自分の病気のことを良く知って下さい。それをすることでそこから初めて次の段階に進むことができ、闘病生活を送るうえでの前向きな姿勢が生まれてくるのではないかと思うのです。」(奥村[1995])

 [162]「人工呼吸器の装着を拒まれる患者が意外に多い現実に目を向けなければなりません。責任感の強い方に割合多いように見受けますが、彼等彼女等は社会的にも有能な人物です。彼等や彼女等は、家族や社会に迷惑が及ぶ事を恐れて死を選択するのでしょうが、「生きる」事の大切さを理解させるのが、「告知」のもう一つの大切な側面である事を、告知する医師はよく意識して告知をして欲しいと考えています。」(本田[1999])

 [163]「告知の時に、患者さんに今後のケアの事や情報の入手方法をサポートしてほしいと思います。/[…]告知される先生方に、絶望的な説明をしないで、生きる希望を持てるような告知をお願いしたいです。」(和中[1999?]、[155]の続き)

 [164]鈴木淳は、カルテを見てすでに病名はわかっていたのだが[104]、一九九四年に医師から知らされた。「常日頃冗談も飛び出す優しい先生でもあったが、この日ばかりは真剣な眼差しで私を見つめ、「あらゆる機械を使ってでも生きなさい」 と言われた。/このままいずれは死ぬのだと思っていた私は大いに驚いた。その機械とは人工呼吸器であると云うことを知ったのはしばらく後になってからことである。斉藤先生は私に告知して直に国立西多賀療養所の副院長として移られた。」(鈴木[1997])



呼吸器のこと

 *以下 立岩 真也 20021101 「生存の争い──医療の現代史のために・7」
  
『現代思想』2002年11月号 より一部引用。
 *▽△で囲ってある部分は、雑誌では省略してあります。

 ■選択、とされること

 [165]「ALSは発病後、徐々に筋肉が萎え、全身が麻痺して、平均三年ぐらい後に呼吸が出来なくなる病気です。/この時点で患者は、/@呼吸器を装着する。/A人生をまっとうする。/のどちらかを選択しています。これがALSの超ミニ概略です。/さて皆さん@とAどちらの選択数が多いと思われますか?  実はAです。/▽理由は様々ですが、一つ挙げるとするならば、諸多の事情により在宅にての介護を受けられない場合、呼吸器を着けた患者の長期受け入れ施設の絶対数が不足している為、呼吸器を装着して力強く生きてゆく事を選択しにくい為です。/これは一例ですが、この問題をもクリアして、逞しく人生を謳歌なさってるかたもいらっしゃるでしょう。△」(舩後[2002])

    <略>

 ■事態の到来

    <略>

 [166]鈴木淳は一九九〇年に発症、九四年三月に告知される[104][164]。同年八月、「今日は朝から息苦しい、夕方の五時頃であろうか、しだいに意識がもうろうとしてくる。意識が覚めると今度は息が苦しい、何回となくその繰り返しが波のように襲ってくる。/段々とその波の間隔が短くなってくる。/これは由々しき事態だ。極めて危険な状態であることが私にもわかる。/肉体が生きたいと叫んでいる、苦しい、おそらく死とはこのようにやってくるに違いない。」(鈴木[1997])呼吸器装着の前後については後でも紹介する。

    <略>

 [167]長岡紘司は、妻が一九七七年に告知される[32][123]。八三年「二月十五日、食事の後、またも息苦しさに襲われた。長いすに横になったが、いつもと違い、なかなか回復しない。深呼吸ができない。ますます息苦しくなり、身体をよじり、足をばたつかせる。息をするのが精一杯で、声を出すこともできない。/そのうち、視野が狭くなってきた。電灯がついているのに、やけに暗い。耳が変だ。まるで洞穴で声を聞いているようだ。思考力が落ちた。聞こえる声が誰の声か判断がつかない。針の穴から息を吸うような息苦しさが続いた。/担架に乗せられ、渋谷のT医大へ」(長岡[1987:57-58])

 [168]折笠智津子による夫・美昭[65]の一九八二年の入院の前後についての記述。「おしぼりを持って、すぐに部屋に戻ってみますと、声をかけても返事がありません。顔が真っ青です。白目を出して、咽喉から奇妙な音が洩れています。「呼吸が出来ないのだ」と思いました。/アキは次第に胸の筋肉を侵され、いつか呼吸困難になることを予測しておりましたから、その時に備えて彼は、長男冬航と人工呼吸の練習をしていました。/咄嗟に、そのことを思い出し、「お兄ちゃん、起きて!パパがおかしいのよ」。/冬航が口移しの人工呼吸を続け、その間に一一九番し[…]/到着した救急車の人は、一目見て切迫した容態とわかったようで、「北里へお願いします」という私の頼みに、「とても北里までは無理です。もちませんよ!」。酸素吸入をほどこしながら、途中の休日診療所で紹介状を受け取り、至近の昭和大学病院へ急行しました。/そこで二時間ほど救急処置を受けました。酸素を送り込む呼吸器が口に取り付けられ、点滴などもして[…]相模原市の北里大学病院に転送、ICU(集中治療室)に入りました。」(折笠[1986:10-13])「危篤状態で緊急入院したアキは、「何とも言えません。ここ一両日がヤマです」という先生のお話でしたが、手術可能なまで意識も体力も取り戻し、入院六日目、気管切開して、口から差し込んでいた人工呼吸器の管を、直接咽喉に取り付けました。」(折笠[1986:170])

    <略>

 [169]塚田宏[41]は、一九八四年に発病、「八五年には肩で息をするようになった。呼吸筋が侵され始めたのである。この頃、都立神経病院に二度目の検査入院をすることになっていたが、あまりの苦しさに、それを待たずに病院に行くことにした。着替えをすませたその時、公子さんの腕の中で塚田さんの呼吸が停止した。/幸い、家の目の前がホームドクターだったので大至急蘇生を行い、救急車で杏林大学病院に運ばれた。そこで、塚田さんは挿管を行った。」(塚田[2000:11-12])

 [170]奥村敏[128]は一九九一年にALSと診断される。九三年「十一月四日の夜には息苦しさもひどくなってきたので、家内と相談して明日入院して調べてもらおうと決めたのですが、それからも息苦しさはひどくなったり少し楽になったりの繰り返しとなり、五日の明け方にはその息苦しさは普通ではなくなり、人工呼吸をしてほしいと家内に頼んだのですが、家内も人工呼吸などやったことがなかったので慌てるばかりでした。家内もこれは普通ではないということで救急車を呼んでくれたのですが、そうこうしているとまったくの呼吸困難になってしまい、救急隊の人が来た時には意識もなくなり、その後はまったく覚えていません。/そして気がついた時には、病院のベッドの上で口には気管内挿管され、頭の方ではシューシューという人工呼吸器の音がしているし、点滴の針が肩口に縫い付けられているし、鼻には経管チューブが入り、心電図のモニターがつながれ、自動血圧計もつながれ、尿の管までつながれていました。まるでベッドにつながれているサイボーグのようでした。/後で家内に聞いた話ですが、救急隊の方の処置が悪く、血圧は測れないくらい下がるし、酸素マスクを当てるだけで人工呼吸はしてくれず、病院に運ぶのも相当手間取ったため、かなり危ない状態だったらしいです。」(奥村[1995])


    <略>

 [171]知本茂治[37]は一九七九年頃発症、八二年入院、八三年再入院。「▽その日は朝からちょっとばかり呼吸がスムーズでなくておかしかったのですが、夕方、ポータブル便器に腰かけてきばっていると△急に息苦しくなり▽出すべきものも出さずあわててベッドに移してもらったものの、▽呼吸困難はひどくなり、かみさんの目の前でチアノーゼによって私の全身は青黒くなっていったのだそうです。/その変色ぶりをみるべくもなく、私は意識を失ったのですが、不思議なことに意(p.168)識をなくす直前、息のできぬ苦しさから開放された心地よさがあったような気がしています。▽これは、私がくたばるときのリハーサルだったのかもしれないのです。だから、死にたいとか、死にたくないとかは別問題として、死そのものに対する恐怖心は、今のところありません。/さて、青黒くなっていく私をみて、かみさんはまるでゲーテみたいに「もっと酸素を」と言い、そこに通りかかった城ノ園先生は「こりゃあ、いかん。ソーカンの用意」と大声で叫び、まだ帰らずに病棟に残っていた先生や看護婦さんたちは集まり、帰るために廊下を歩いていた副婦長の小山さんはとって返して処置するための病室を準備し、婦長の網屋さんは私に人工呼吸を施したのだそうです。筋書きに書かれたように、ほとんど同時に行われたらしいこれらのことを、私はまったく覚えていないのです。△/私がどれほどの時間、気を失っていたかわかりませんが、気がついたとき、昔テレビでやっていた「ベンケーシー」のタイトルバックのシーンのように、廊下を別室に向かって移動中でした。▽小山さんが準備した病室に入ると、梅原先生が鶴の嘴に似たものを私の右の穴から入れようとしますが入りません。以前からそう(p.169)なのですが、ヘソマガリ男は鼻も穴まで曲がっているとみえて、右からはマーゲンチューブでさえ通りづらいのです。そこで九階東のベンケーシーは、私の口をこじあけ、鶴の嘴をつっこんだのです。おそらく気管に達するように口の中に刺し込まれた鶴の嘴が<ソーカン>というものだったのでしょう。口の中に収まった<挿管>に、△すばやく人工呼吸器が接続されると呼吸が楽になり、文字通り生き返ったような気がしました。」(知本[1993:168-170]、チアノーゼは血液中の酸素不足によって皮膚が青黒くなること)

    <略>

 [172]菅原和子[36]は一九七九年に発症、一九八〇年四月二二日「呼吸困難のため、県立中央病院第一内科に二度めの入院をした。/入院時、胸のレントゲン写真を撮られたところまでは覚えているが、その後のことははっきりしない。母の話によると、二二日夜、急に痰がつまって苦しがり、全身チアノーゼをきたしたため、夜勤の看護婦さんが大急ぎで吸引し、すぐに先生に連絡、主治医の鈴木先生と麻酔科の先生が駆けつけ、私を眠らせて鼻から管を入れ、人工呼吸器を取り付けたという。▽あまりのものものしさに、家族は、私がもうダメではないかと思ったそうだ。△」(菅原[1989:22]、この時の経験を記した別の文章として菅原[1987:83])

    <略>

 [173]土屋融[89]は一九九一年二月発症、八月山梨県立中央病院神経内科診察・入院。十月十五日「このところ呼吸が苦しく、肩で息をするようになった。」、二九日「数日前から呼吸が十分出来ないと困るので、人工呼吸器をつけなければという話は聞かされていた。」(p.177)十一月一日「昨晩も電気が赤く見え、様子が変だった。▽夜の九時過ぎに汗をびっしょりかいて困っていたところ、看護婦さんが来てきれいに拭いてくれた。それまでの不快感が吹っ飛んでしまい、その後すぐ△眠ってしまった。/そして二十四時間意識を失っていた。その間のことを、後に家族から聞いた様子が次のとおり。/午前六時頃、妻が様子が変なのに気が付き、「看護婦さんにすぐ来てもらい、緊急の人工呼吸をしてもらった。[…]十時過ぎ、どうやら鼻に呼吸器をつけることができた。しかし、血圧が極端に下がってしまい、危篤の状態になった。」(p.178)八日「呼吸器を鼻からつけていたのを気管へつなげるため、緊急に切開手術をし、カニョーレ(管)を入れる。」(土屋[1993:176-179])「少し早めに人工呼吸器を装着したほうがいいからと、主治医の石原先生が、一般に考えられる進行速度よりずっと早目に準備してくださっていた人工呼吸器を、十一月一日の午前九時につけようとしていたのに、その日の早朝に、自発呼吸が止まってしまうという、考えられぬスピードで病状は進行した。」(土屋[1993:190]、姉の深尾恭子の述懐)

    <略>

 ■家族が尋ねられる

    <略>

 [174]室谷恭子(長野県)は母のことについて尋ねられた。「呼吸器については、かなり状態が悪化してから主治医の説明があったので、様子を見ながらゆっくり考えるということができませんでした。しかし、たとえどんなに期間があったにせよ、私の答は変わらなかったと思っております。/[…]/このまま母が呼吸器を使用し療養していくとなると、当然その期間は長くなりその母を置いて私が家を出るというのは少し無理、というより自分自身そんな思いをしてまで結婚はできないという気持ちでした。/やはり家族や主治医の先生にしてみると、そこまでしなくてもということがあったのかも知れません。でも、私のためにせっかく助かる命をそのまま終わらせることはどう考えてみても納得がいかず、そうかといって本人にどうするか聞くのも憚かられ、はっきりとした答えの出ぬまま”その日”を迎えることになったのです。/意識を無くした母を前にして最終的な選択をせざるを得なかったわけですが、動転している父や弟に比べ、私は不思議と冷静でした。「呼吸器をつければ助かるのだ」──もうそれしか頭になかったのです。」(室谷[1991:33])

 [175]土居巍は一九九一年、妻の土居喜久子のことについて主治医から話を聞いている。五月十五日「の何日か前、巍さんとお話ししています。この先、そう遠くない将来、呼吸がとまる可能性があります、と。巍さんは何とか助けてやってほしいとおっしゃいました。」(山本[1998:225]、当時大分協和病院医長)

  <略>

 [176]一九九一年「五月十五日、私は妻の呼吸停止に気づかず、一大事を迎えることになりました。[…]ただちに口に酸素吸入器が入れられ、集中治療室(ICU)に移されました。…ほっとしたのもつかの間、…酸素吸入の器具をいつまでも口にくわえているわけにはいきません。妻も苦しそうで、四六時口を開けていますので唾液は流れっぱなしになり、顎もはずれそうでした。妻は、/「もう限界だから、死んでもいいからはずしてほしい」/と必死で訴えてきます。山本先生は気管切開の説明をしてくださいました。/気管切開をすると、呼吸ははるかに楽になるが、口からは食べられなくなり、声も出なくなる。手術はさほどむずかしいものではなく、心配は要らない。同時に胃ろうの手術もしたほうがいい。先生のお話はおよそそういうものでした。/生きるか死ぬかの境い目にいる妻を前に、手術をするかいなか、承諾をえたのかどうかの記憶ははっきりしません。けれども、妻が少しでも生きていく手立てを考えたら、手術をするしかないと私は思いました。あとは成功を心から祈るのみです。」(土居・土居[1998:40])

  <略>

 [177]小林富美子[103]は、自分では呼吸器をつけないつもりだった。そのことがどれほど家族に知られていたかはわからない。苦しく意識が朦朧とした状態のもとで救急に同意したらしく、本人の意識のない状態で子どもたちが呼吸器の装着を決めた。「自分で死を選べないなら、せめて食事が細くなり、体力がなくなれば、自然と静かな眠りにつけると思い、ひそかに頑張ってきたつもりです。/でも息苦しくなり、手足が冷たくなって、意識がもうろうとしてきました。あれほどこい願っていた死がすぐそこまでやってきたというのに、苦しさには耐えられず、救急車で病院へ……。▽最後に耳にした声は、先生と看護婦さんのかすかな言葉でした。/△[…]先生は、このままの状態にしておくか、それとも気管切開するかと、息子の章浩にたずねられたそうです。のどに穴をあけて、直接レスピレーター(人工呼吸器)につなげば、あと何年かは生きられる。声は出なくなるけれど、飲んだり食べたりすることもできる、と。/子どもたちは父を失ったばかりで、私にはどんな状態でも生きていてほしいと思い、即座に手術をお願いしたそうです。▽(p.106)/目を覚ました時、私はのどに管を差し込まれ、二本のホースで横の器械につながれ、呼吸をしていました。傍には子どもたちの顔がありました。その顔にホッと安堵の色が浮かぶのを見た時、私は、生き返ったのだ、と思いました。その間、どれだけ空白の時があったのか、何一つ覚えていません。/生きてしまった……。自分に問いつめる。これで良かったのかと……。答えは?……/やはり、生きていてよかった。私の”宝”であり、希望である子どもたちと一緒に生きていられる素晴らしさを、何倍にも強く感じています。/私は本当に幸せです。でも、子どもたちはどうでしょう? 聞いてみたいけど、聞けません。」(小林[1987:106-107])
 別の文章では次のように書かれる。「自分はもう時間の問題だと思っていました。/飲み込みもできず、夜も眠れない日が三日続いた翌日、意識もうろうとしてきて、望んだ死が目前にきたときでした。/子供の声がかすかに、病院へ? 救急車? 苦しまぎれにうなずいたのでしょう。その後は何もわからず。/七日後意識をとりもどした時は、器械につながれて生きていました。レスピレーターがあることさえ、だれも知らず。先生の説明を聞き、たいへんさを承知で子供が私の命の選択をしたそうです。▽/[…]死だけ考えた私もレスピレーターを装着して、もう七年になります。/今では、生きていてほんとによかった。一つしかない命を粗末にせずよかった。子供達に救ってもらった命大切にしたい。ただ生きていてはすまない。病気に負け、病人になりたくない。身体はだめでも、母として生きたい。△」(小林[1991:34])

 [178]長尾義明[50][139]は、一九九三年十二月七日、「自宅で呼吸困難になり、徳島市内の病院に入院してから二カ月余。▽一九九三(平成五)年十二月七日夕[…]長尾義明[…]の△呼吸は再び止まった。全身がけいれんし、付き添う妻の美津子(五三)らが手足を押さえる。「みんな、こうして死んでいくのか」。小指の先ほどの便が出たような気もする。やがて意識が薄れた。▽/義明が入院した当初、美津子は病院の看護婦に「救急車の中で息を引き取ってくれていたら…。お父さんのためにも、その方が良かったのでは…」ともらしたことがある。「余命は三年」と徳大付属病院の医師に告げられてから、すでに三年がたっていた。△/[…]/どうせ長く生きられないのなら(手術で)切ったりはったりして無理に延命させるより、きれいな体のままいかせてあげたい」と美津子は思い、義明自身もそう望んでいた。/しかし、いざ義明が危篤状態になると、そんな考えは吹き飛んだ。「どうにかして」と叫び、義明の足にしがみ付いた。[…]それからのことは美津子の記憶にない。/[…]/一時的に救命できたものの呼吸機能の低下は明らかで、人工呼吸器を付けないと生きるのが難しい状況になった。同十日、気管を切開し呼吸器を装着。」(『徳島新聞』[2000])

  <略>

 ■本人が決める

 [179]杉山進[44]、一九八八年に発症、九一年九月、「一日に数時間、呼吸苦が襲うようになってきた。食べ物も飲み物も、まったく飲みこめない。」十月三日「妻が病院に行ってみたら、と勧める。特別な車でないと移動できなくなっていたので、電話で車の都合を聞くと、たまたま次の日が空いていたので予約をした。」四日「順天堂病院に着くと、それまで耐えていたものが一度に崩れ去る。中島先生が自分の喉に人さし指を置き、「やるか」と聞く。私は何のためらいもなくうなずいた。」五日「気管切開をすると同時に、人工呼吸器を着ける。」(杉山[1998:36-37])

 [180]橋本みさお[153][160]。「ALSの病状が進むと、気管切開の選択を迫られます。(例外的に、選択肢さえ提示されない場合があります)/私は一九九二年十月に気管切開して、翌年一月に呼吸器をつけましたが、ほかの患者さんのようなドラマチックな選択ではありませんし、なにより生きることだけ考えていましたので、迷いなどはありませんでした。」(橋本[1998?])
 [181]奥村敏[170]、一九九三年。「気管切開については、声を奪われ、楽しみの一つでもある家族とのコミュニケーションが取れなくなると言うことが、私にとっては耐えられないくらい嫌だったために呼吸困難になるまではしないつもりでした。命にかかわってくればもちろん気管切開し人工呼吸器を装着してでも、残された命を精一杯家族と一緒に頑張るつもりだったので、覚悟もしていたのでまったくショックはなかったとは言いませんが、別に自分自身そんなに動揺することはありませんでした。」(奥村[1995])

 [182]平間愛(北海道)、一九九五年、二〇歳。「▽自分で呼吸するのがかなり困難で、右足を常に激しく動かさないと呼吸をする事が難しく、私の命がかかった大事な右足でしたが疲労がつのり、△まさに究極の選択をする事になりました。/生と死、あなたはどちらを選びますか?/十二月八日、私は呼吸器をつけました。」(平間[1997?])
 「▽夜は、バイパップという呼吸補助の機械を使いました。頭から帽子のようなものを被り口にマスクをつけて寝る、それが苦しくて嫌でたまらない、でも付けないで寝ると朝目覚めた瞬間から酸素不足で頭痛がひどく体もストライキを起こしてしまう。/ALSを嫌というほど感じる時でした。/ある日、私は、とうとう意識を失いましたが幸いなことにすぐ意識は戻りました。/[…]/それでもまだ呼吸器を付けずに生活できる状態をかろうじて保ち、バイパップとともに期限付の退院をすることもできました。/でも△呼吸器をつけていない私は、いつなにがおきてもおかしくない状態でした。/難病ですから、どこで療養しても同じこと、ならば家族の中で暮らしたいと思いましたが、安心して在宅生活を送るためには呼吸器を付け、命には、影響のない身体にならなくてはならなかったのです。▽/ここからがながーい入院生活のスタート。/△自発呼吸もかなり弱くなった私は、勝手にあーこりゃもう死ぬな、死ぬにはまだ若い……そうだ呼吸器をつけよう!と思い呼吸器をつけることになったのです。▽/呼吸器をつけるに当たって、色々な説明を受けました。看護婦さんからは、「たいていは慣れるまで苦しいこともあるよ」と言われるし、主治医の先生からは本を渡され色々な現実を知ることに。きわめつけは、「外科の先生が切開しやすい喉だと言ってたよ。声は失うけど大丈夫!」と麻酔科の先生。/全身麻酔をかけられ目覚めたときは呼吸器がついていました。地獄から抜け出たまさに天国、毎日のように味わっていたあの苦しみから解放されたんです。呼吸器を付けたことに喜びを感じました。私は、これで命には何も影響のない体になったわけです!こうなりゃたかがALS!呼吸器をつけた事によって身体も楽で命も元気を取り戻しました。そのかわり声を失い、食べることも無理になりました。△」(平間[1998?])

  <略>

 [183]関口和子(新潟県)は一九九七年一月に症状を自覚、七月に夫に告知、九九年七月、「A先生が私の到着を待っていたかのように病室に来て病状について話す。そのあと担当のA看護婦さんが改めて和子に呼吸機を使用するかどうかの意思確認。F副婦長も後半同席。/「痛い目にあってつらかったから、気道の手術はしたくない」という答え。」(関口[2001:179])九月七日「和子が朝ボードを使って「呼吸機は使わない。その訳は、頭も器具の当たりによっては痛くなるし、首も左右に動かしてもらわないと痛いし、肩甲骨も当たり具合で痛い。お尻も腰も当たり具合で痛い。脚も膝を曲げてばかりいると苦しい。伸ばしてばかりいるとかかとが痛い。こんな状態なので、機械の力を借りてまでベッドで生活を続けたくない」と訴える。[…]私としては言う言葉もない。」(関口[2001:193-194])「主治医の先生や看護婦さんたちが何回聞いても、呼吸機を使うことを和子は最後まで拒否し続けた。私が濡らした脱脂綿で二回口を拭いたあと、和子が固く口を結んだためそれ以上口を拭けなくなったことには、和子の強い意志があったのではなかったのか。」(関口[2001:341-342])その理由は痛みだけだったのかと夫の関口和夫は考える。後でまた引用するだろう。

 ■変化

  <略>

 [184]和中勝三[155][163]は、一九九二年十月に天理よろづ相談所を「退院する時に主治医の先生から、日本ALS協会近畿ブロックの存在と、近畿ブロック会報を教えて頂きました。/退院後すぐに協会にはがきを出して会報を送ってもらいましたが、少し開いて見て写真を見ると、皆さん呼吸器を着けている姿ばかりで、私も呼吸器を着けるのかと思うと、早く死ぬ方がましだと思い呼吸器を着けるのは嫌だと拒否しました。」(和中[1999?])
 ALSという状況を共有する人たちの集まりのもつ積極的な意味をこれから何度も見ることになるが、同時に、その深刻さが受け止められ、近い将来の自分が予想され、気持ちを萎えさせることもある。病の人たちの組織の可能性と困難を考えるとき、このことを想起することになるだろう。
 九四年「十二月に気管支炎になり[…]診察を受けました。[…]私は、この時に初めて呼吸の苦しさを体験しました。この時から、呼吸に危機感を感じるようになり呼吸器を着けるか、着けないかで悩み苦しみました。私は、まだ呼吸器を着ける自信がなくて拒否していました。自分でも病気の進行が手に取るように分かり、自分の最後の時が見えてきたような気がして、最後は、呼吸困難に襲われ、のたうちまわって苦しんで死ぬのかと思うと、死ぬのが怖くなってきました。/[…]/肺活量二五〇〇mlに低下、常に息苦しさを感じるようになってきました。/妻と子供達に介護のお願いをして呼吸器を付ける決心する。」(和中[1999?])
 「呼吸が苦しくなってくると、一時は格好よく死にたいと思った事がありましたが、だんだんと息苦しさが増してくると、死ぬのが恐くなり、生きたいとの思いが強くなりました。」「気管切開する時は、本当に情けなく思い涙が出ました。呼吸器装着すると、今まで、苦しかったのがウソのようになり、もっと早く呼吸器装着すればよかったと後悔しました。」(和中[1999?])

 [185]大川達[66]の一九九二年の文章。「胸を押している時(人工呼吸のこと)、眠ったり、呼吸が止まったらそのまま起こすな。(六月十八日)/この頃新幹線に乗っているようで進行も早い。皆にも会ったし有り難い。これ以上進行すると、ノド切開して延命の方法もあるが、自分は切開しないからよろしく頼む。/家族もよく頑張ってくれたがこの山の峠は遠すぎた。自分だけ引き返し、家族に別の峠を越してもらう。何かと世話になった。一杯のビールを飲みたかったな。頑張るよ。自分で何もできん。(六月十九日)/古江(故郷)の墓に入る。早く行きたいわ。さようなら。(六月二十日)/気管切開は呼吸器をつけることか?部屋を冷たくして、水分を十分に取れば少しは楽になる。(六月二十五日)/切開しても、あとしれているからやめた。苦しいのは二分や、仕方ない。先生らに大変お世話になり有り難い。おれの命だから、おまえらがあまり命乞いするなよ。胸押すようになってから一か月の命や、頑張ってくれ。(六月二十六日)/おまえたちのことをかんがえて、あまりにもなげやりになっていた つかれもでたからこれからむりだとおもう いみがちがう のどきってがんばるか なるべくじたくかいごお願いします。(六月二十七日)」(豊浦[1996:45])二七日に呼吸困難で緊急入院、即気管切開、二九日に人工呼吸器を装着。

  <略>

 [186]「先々、手足が動かなくなり声も出なくなったらどうしようと、そのことを考えるだけで身震いするほど恐怖心に襲われたが、さりとて自殺するほどの勇気はない」(松本[1995:98])と記した[144]松本茂は一九八八年に気管切開。「廣田先生が血液を摂って調べる。「気管切開をしましょう」とのこと。/これには勇気がいる。いろんなことが頭の中を駆け巡る。/気管切開しなければ、命はない。死ぬのはいやだ。世間では「人工呼吸器を付けてまで生きなくても」という声もあるが、足の悪い人は車いすを使うし、他人の心臓ももらって生きようとする人もいるではないか。[…]/しかし一歩翻って患者の心理に戻ると、複雑な思いに駆られる。手も足も動かず、話すことも食べることもできず、この上さらに人工呼吸器につながれれば、もう何の役にも立たない人間になってしまうのではないか。存在価値がなく、家族に介護で迷惑ばかりかけるのなら、死ぬべきではないのか。それが家族への思いやりではないか、と考える。/でも死んだらすべて終わりだ。生きたい。この世に居りたい。/[…]/「人工呼吸器を付けたら、最低五年は生きるよ」と妻にも相談する。妻は「当然なこと、死なせてなるものか」と力む。ありがたくて目頭が熱くなる。/[…]/「では、意志の伝達ができなくなったら、呼吸器をはずしてくれ」とパソコンで伝え、気管切開に踏み切る。」(松本[1995:48-50])
 「松本さんが唯一弱気を見せたことがあった。昭和六二年夏、気管切開をするか否か迷っていた頃であった。「人間には尊厳死の権利があるはずだ。自然にこのまま死なせてほしい」と主張された。その時奥さんのるいさんは納得せず、「まだまだ生きられるのにもったいない、たった一つの人生でしょう。頑張らにゃあ」と励まされた。その一言で、松本さんは本気でALSとたたかう決意を固められたのである。」(廣田[1995:2]、当時秋田赤十字病院神経内科部長)
 「「切れば五年と生きる、これ以上お前に難儀させたくない」と夫から相談がありましたが、呼吸器で生きてゆける時代、現に生きている人もいる時代、当然、生きられる限り生きてほしいと、私は気管切開を強く勧めました。」(松本るい[1995:297])

 [187]定金信子(岡山県)は一九八五年五月に人工呼吸器装着。「彼に、これ以上負担をかけるのかと思うと、たまりませんでした。私は言いました。/「呼吸器つけるの、断って」/彼はとても悲しい顔をして、「どうして?」とたずねます。私はとっさに、/「自分の最後ぐらい自分で決めたいもの」/と答えていました。/「人間誰も、みな死ぬんだよ。いつかわからんけど。ぼくだって明日はどうなっているかわからん。つらかろうが、最後まで生きてくれ。子どもたちも、お前が頑張ってくれていることが励みなんだ」/[…]/子どもたちのことを思うと、胸が張り裂ける思いです。ひねくれた考えにとらわれていた自分を恥ずかしく思いました。そして、もう一度生きてみようと思いました。」(定金[1987:99-100])

  <略>

 [188]鈴木淳[166]、一九九四年六月。「望月先生が私に/「生きていくためにはぎりぎりの肺活量ですね」/「しばらくすると気管切開をして呼吸器を付けなければならなくなりますよ」 と言う、ここで初めて気管切開と呼吸器の話がでてくる。/そう云うことなのか、これから私が生きるということは呼吸器に繋がれて病院で一生を暮らすことなのだ、呼吸器に繋がれた自分を想像してみる。今まで自由に暮らして来た人間が突然自由を奪われ植物状態になる、それでも治るならまだよい。/治らぬ病気を抱えて一生を軟禁状態で暮らすのは耐えられない。死んだほうがましだ。死のうか生きようか何度か思ってはまた繰り返す。何度繰り返しても同じ事だ。終いにはどうにでもなれと云う気持ちになる。/この頃には会話らしい会話は全くできなくなる。話をすると胸が苦しい。アーとか、ハイとか返事だけにする。一日中横になったまま体力を消耗するのを抑え天井を見て暮らした。/妻が佐々木和義君へ呼吸器のことで電話をする。今より元気になるから是非付けろと云う御託宣だ。俺の気持ちも知らないで簡単に言ってくれるよ。/しかし和義君のその一言が後に呼吸器を付けるひとつのきっかけにもなる。」(佐々木は友人の医師)
 七月二十日「検査のために入院をする。おそらく医師の考えでは、そのまま気管切開をするつもりでいたのだ。/主治医が志賀先生へと変わる。この先生は何事にも慎重で優しく囁くように話をする医師で、多分に私の元気さにほんろうされることになるが、今までの医師の中で最も信頼しうる医師に変わりはない。再度ALSの症状や将来の事まで、こと細やかに説明する。/最後に、/「呼吸器をぜひ付けて下さい」/と懇願する。/私は驚いた。このように医師に丁寧に今までお願いされたことはない。付ける付けないはそれだけ重要なことなのだ、患者生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている。呼吸器を付けることを拒否し毎年全国で数百名の患者が自ら命を断つと言われている。私はコックリと首を縦に振る。先生は安心したのか、緊張の顔に笑みがこぼれる。」(鈴木[1996])

  <略>

 さらに、家族は呼吸器をつけて生きていくことを望んでいるが本人は拒否しており、そこに医療者がより積極的に介入した例がある。同じ本からの最初の引用は一九九〇年にALSであることを知らされた国方正昭の文章、次は同じ年に国方が入院した国立療養所高松病院の畑中良夫院長の文章、そして副院長の藤井正吾の文章。
 [189]一九九二年、「私が生きていることでの家族のメリットとデメリットを考えて達した結論が三月十二日の尊厳死宣言/だが、一カ月後に痰が詰まって呼吸困難に陥ったとき、「まだ末期ではない」と聞き入れてもらえず寝たきりに。何分か何十分かわからないが、完全に意識はなくなっていた。喉を切開して人工呼吸器の世話になる決心をするまでの二日間の心の葛藤は何年間にも相当するすさまじいものだった。/急に襲ってきた寝たきりに、心の準備ができておらず、精神的に落ち込みは激しく、しばらくは何をする気も起きなかった。」(国方[1993→1999:41-42])
 「四月、国方さんはたんがつまって呼吸困難に陥った。人工呼吸器を装着しないと死んでしまう。主治医の出口医師が、国方さんにそのことを説明した。同意が得られない。私も説明した。やはり同意が得られない。血圧が下がり、呼吸器機能は最悪となり、顔色は蒼白になってきた。手記で、国方さんが「意識がなくなった」と書いているのは、脳内動脈の炭酸ガスが最高まで上がり、意識が朦朧状態になっていたからである。すると出口医師が、/「人工呼吸器を装着して助けられるリミットは、あと五分しかありません」/と悲痛な様相で知らせてくれた。私は、もう一度同意を求めてみよう、それでも同意が得られないならば、院長である私の責任で、人工呼吸器装着を強行する腹を決めた。/そのとき出口医師が、「院長、同意してくれました。うなずいてくれました。奥さんも喜んでいます」と告げにきてくれた。国方さんの手記によると、本人と同意したのではなく、無意識にうなずいていたそうである。/このように、なかば強引に人工呼吸器を装着された形の国方さんだったが[…]」(畑中[1999:46-47])
 「看護スタッフへの不信から、この患者さんは尊厳死を望んでいた。だから呼吸困難に陥った時にも、気管切開を拒み続けたのだ。しかし、この患者さんは、なかば強引に院長に説得されて、人工呼吸器生活に入ることになった。」(藤井[1999:144])

  <略>

 [190]後藤忠治[148]、一九九八年。「この先どんな事が起こるか、家族の負担に不安を抱きながら在宅が始まる。いつ呼吸困難になるのか。その時呼吸器を付けるのか、付けないのか。呼吸器の管理が家族で出来るものなのか。/ALSは発病五年で半数の患者が亡くなると言う。それは病気が進行して亡くなるのか、それとも呼吸器を付けるのを拒んで亡くなるのだろうか。いずれにしてもその時が必ずやって来る。/その時自分はどうするのか。こんな自問自答の毎日です。」
 九九年四月に後藤は花見に行った。「患者仲間から花見の誘いを受ける。[…]小野寺さん、鈴木さん、和川さん。皆さんは呼吸器装着です。[…]皆さんに会えた事で生きる喜びを知り、そして呼吸器を付ける勇気をもらいました。/[…]/十月十三日。あんなに悩んでいたのに苦しさに耐えきれずあっさり呼吸器装着。」(後藤[1999])

 [191]柚木美恵子(岡山県)は一九八五年・二五歳で発病、七年後、「入院してまもなく、主治医の先生から、将来的に呼吸状態が極めて悪くなった時、人工呼吸器を装着する意思があるかどうかの確認がなされました。数日間、いろいろと考え悩みましたが、人工呼吸器を装着しながらも、なお人間らしく前向きに生きている先輩の人達の情報を踏まえ、「まだ、死にたくない。もっと生きていたい。」という思いから、器械を装着する意思のあることを伝えました。/この人工呼吸器装着の選択については、ALS患者は大いに悩み迷います。器械装着を希望する患者がいる一方で、「もうこれ以上、家族に迷惑をかけたくない」とか「人工呼吸器をつけてまで生きたくはない」など、いろいろな理由で、器械装着を拒否する患者もいるのです。これまでに、呼吸状態が悪くなり、苦しみあえぎながら亡くなっていかれた病友を何人見送ってきたことでしょう。やりきれない思いが、胸をしめつけます。/私が、人工呼吸器装着希望の意思を伝えてから、二ヶ月ほどして、私は睡眠中に呼吸困難となり、ただちに気管切開手術がなされ、夜は安全のために呼吸器をつけ、昼はできるだけはずして自発呼吸で頑張る、という生活が始まりました。」(柚木[2001])

  <略>

 [192]一九九四年十二月、国立療養所石川病院の診察室で、西尾知子は「主治医から人工呼吸器に夫の命を預けるかどうかの選択を迫られた。夫の健弥は[…]呼吸困難が続き、一刻の猶予もなかった。/[…]/知子は健弥に病名はもちろん、治る見込みのないことなどを初めてここで告げた。呼吸器の問題も話し合った。健弥の二人の娘はすでに独立し、知子と二人暮らし。介護の負担を気遣って遠慮してはいけないと、知子は健弥に「私のために着けてくれ」と頼む。健弥も死を目前にして、初めて心底、生きたいとの渇望がわき起こる。が、その一方で、「迷惑をかけるだけで、何の役にも立たない者に生きる価値があるのか。それはエゴで、生に執着している哀れな姿ではないか」と、悩む。/そんな折、見舞いに来た日本ALS協会事務局長の松岡幸雄(故人)の言葉が二人に決断を促した。」(『読売新聞』[1999])
 西尾健弥[52]の文章では、その一に妻、二に孫、三に会社の人や友人や親戚のことを記した後、それが次のように書かれる。「決定付けたのは、日本ALS協会の事務長でした。事務長はわざわざ東京から入院先の病院まで訪ねてこられ、死と生きることについて説かれました。春の桜、夏の海、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景色が楽しめるではないですか。それと生きていれば、どんな素晴らしいことに出会うかもしれない。と生きている喜びを強調されたのです。」(西尾[1997])


*作成:立岩真也
UP:20020718 REV:20020804,0813,14,20020917,0930,1002,04,06,08,09,10,15,20030106,0311 20050620, 20100918
ALS
TOP HOME (http://www.arsvi.com)