HOME >

事前指示



◆後期高齢者終末期相談支援料→安楽死・尊厳死 2008

◆長岡 茂夫 2006 「事前指示」,伊勢田・樫編[2006:121-142]*
*伊勢田 哲治・樫 則章 20060515 『生命倫理学と功利主義』,ナカニシヤ出版,276p. ASIN: 477950032X 2520 [amazon][boople] ※, be


 
>TOP

■立岩

◆立岩 真也 20041115 『ALS――不動の身体と息する機械』,医学書院,449p. ISBN:4260333771 2940 [amazon][kinokuniya] ※ als.

「彼はよくALSのこと、ALSに関わることを知っていた。自分が「延命」をためらう理由もわかっていた。だから、川口の場合には知らないことが問題なのではなく、彼に何かを言うとしたらそれは知らせることではない。また、身体の不調や衰弱から来る鬱屈、気弱さはあったにせよ、意識ははっきりしていた。だから、彼に何かするとして、それは本人が理性を失っていることを理由にすることもできない。
 つまり、彼にとっては、また彼ほどでないにしても理性的な多くの人にとっては、「インフォームド・コンセント」などど言われるときの「情報」の不足が問題なのではない。また、ただ情報を提供する以上の行いを正当化しようとして、「パターナリズム」★05が許容される条件として意識や判断能力の低下をもってくることもできない。となると、どんな時、彼は自らの「事前指示(事前指定、advanced directives)」を翻すだろう。  彼は同じALSの人に呼吸器が付けられなかったことに憤っている。」

 「前もって決めて文書に記しておいた方がよいとして、「事前指示(事前指定、advanced directives)」が実施され(荻野[2004]、北里大学東病院)、またそれを支持する見解が表明される(伊藤博明[2004])。
 ALSの人たちも自分で知りたいし、決めたくはある。医師に勝手に判断されて困っていたのは患者自身で、その人たちは自分に情報が欲しいと言ってきた。知らないままでは予期しない身体の急な変化にうろたえてしまうことになる。この病気のことを知ることはうれしいことではないが、変化に対応しなければならないから必要である[207]〜[210]。こうしてこの間の事態の変容に必然はある。それはALSの人たちが望んできたことも受けて作られてきたものでもある。
 そして本人たちの考え方も一つではない。
 本人が死について書くなら、生きている時に書くしかない。だから死ぬことを決めることは、自分に即するなら、結局はなされなかった過去のことして、あるいは未来の願望として書かれることになる。そしていわゆる積極的安楽死は認められないとされるから、なされたとしても公表されることはない。それでも、意見として、一般論としては語ることができる。また外国での出来事をどう受け止めるかという議論としてなされることがある。その例を第11章1節で見た。また自分の死の場合と他人についての場合とでは、言えると思うことが同じとも限らない。このことは川口武久の文章に書かれていた。
 こうして、本人であっても、死について考える場面は一様でなく、死について言うこともその人が置かれている場によって変わってくる。ただ、様々あった上で呼吸器を付けることになり、そして今、生きている自らの場からは、そして社会に向けて言おうとする時には、死のうと思ったこと、思っただけでなく言ったこともあったが、今はそう思わない、生きていてよかったと語られることが多いだろう。
 ただそれでも、そのような人ばかりでない。自分自身について、自ら死を決めることに賛成する人、その意志を、少なくとも一度は、表明した人もいる。ALS協会といった組織の中にも様々な意見の人がいる。さらにその組織はALSの人たちだけの組織でなく、関係者すべての団体であり、その人たちが思うことも様々であり、ゆえにそれほどはっきりしたことは言えないということにもなる。ALS協会の会長を長くつとめた松本茂は「大いに反対」と言ったが[483]、今の会長は次のように書いたことがある。
【502】 《帰路、ALS患者にも死ぬ権利があるのではないかなどと、まるで健常者のような考えが頭をよぎりましたが、我が身に置き換えてみると、「余計なお世話よ、私は生きて見せる」と闘志、闘志。/でも、死にたい人は死んでくださいね。ただし家族のために死ぬとか、死にたくないのに死ぬとかは言わないことです。》(橋本[1997g]。[517]に続く部分)
 「死ぬ権利」を肯定していないようだが、すると「死にたい人は死んでくださいね」と辻褄が合うのだろうか、一人の人においても考えは分かれている、と思う人もいるだろう。とすれば、やはり、「選んでもらえばよい」。ここが、ものごとが落着する場所なのだろうか。
 そうではないと私は思う。これまで記してきた、ALSの人たちが言ってきたこと、行なってきたことを見るなら、この落ち着かせ場所はずれている。価値観をさしはさまない情報の提供という言い方はおかしい。このことをこの章では再度確認する。
 ただ、これまでの変化、達成が、選んでもらえばよいという現在の路線を簡単に否定しにくくもしているように見える。つまり、呼吸器を使うことによって長く生きられるようになってはきており、しかしそのことによって、生がさらに厳しいものになるのなら、やはり生を終わらせることを選べた方がよいではないか。あるいはいよいよ厳しくなった時に死を選べるのであれば、それ以前に死を選ぶ必要もないではないか。具体的にはいったん付けた呼吸器を外すという選択はないのか、あってよいのではないか。そんなことも論じられるようになる。」


UP:2008 REV:
生命倫理[学]
TOP HOME (http://www.arsvi.com)