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老い・1960年代

老い


◆1961

◇森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p. ISBN-10:476426904X ISBN-13: 978-4764269040 1575 [amazon][kinokuniya] ※ b a06
 「一九六一年(昭和三十六年)、寿命学研究会(二〇〇七年解散)の会長・渡邊定(ルビ:わたなべさだむ)先生(一八九<83<二―没年?)はアメリカからM.ダッショ博士(ニューヨーク大学医学部助教授)を招き、全国主要都市を回って、老人リハビリテーションの講演会を持った。まだ誰も老人リハビリテーションなどと言わなかったころのことである。老人問題の黎明期に啓蒙学者として、また、老年社会科学会の初代理事長として、先生の働きは大きかった。
 同年、厚生省内に「リハビリテーション研究会」という有志のグループができた。翌年、研究会は報告書を纏(ルビ:まと)めて解散したが、「老人のリハビリテーションについては身体障害のためハンディキャップを持っている老人の問題はこれを検討事項に含めたが、一般的には老人の福祉問題として取扱うことが適当であるとし特に触れなかった。……」(同研究会報告書。四-五ページ)と、呼べるに止まり、理学的リハビリテーションの範囲を出なかった。研究会の一員として、老人のリハビリテーションは広く「生活のアクティヴェーション化」まで含めなければならないと発言してきた私にとっては、いささか不本意な報告書であった。
 それから、五十年近く、今や、アクティベーションの考え方は当然のこととなり、ついには生活不活発病(学術的には廃用症候群)などという言葉さえ出てきた。」(森[2007:84])

◆1961 有料老人ホーム(「軽費老人ホーム」)に対する設備費及び事務費の国庫補助開始

◇森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p. ISBN-10:476426904X ISBN-13: 978-4764269040 1575 [amazon][kinokuniya] ※ b a06
 「一九六二年(昭和三十七年)に厚生省(二〇〇〇一年、労働省と合併、厚生労働省となる)が行なった調査によると(11)、生活保護法の養老施設の時代、入居者の健康状況は、健康六四%、病弱二七%、臥伏中九%と報告されている。つまり、養老施設は生活保護階層に属する老人の住宅事情、家庭事情又は健康・疾病状況等に応じて、それぞれ住宅、老人ホーム又は病<24<院として機能していたのである。
 一方、養老施設とは別に有料老人ホームの流れがあった。一九五九年(昭和三十四年)の時点で、その数は二十二ヵ所と報告されている(12)。有料老人ホームは、毎月の利用料の他、入居時に相当額の前払い金を支払わなければならなかったが、個室制であったこともあってか、そのニーズは高く、一九六三年(昭和三十八年)には四十二カ所に増え、四年の間にほぼ倍増している。
 これに応えて、一九六一年度(昭和三十六年度)から、有料老人ホームに対する設備費及び事務費の国庫補助が始まり、名称も「軽費老人ホーム」と称されることとなった。軽費老人ホームは有料であるが、従来までの有料老人ホームと違って、前払い金を支払う必要もなく、社会福祉事業法の社会福祉事業であった。また、養老施設とも違って、個室制であり、入居者自身が食費や事務費の一部を支払うものであったから、社会の見る眼は有料老人ホームとも養老施施設とも一線を画していた。
 一九六三年、老人福祉法が制定されると、養老施設は養護老人ホームと名称を改め、また、特別養護老人ホームの制度が創設された。これらに軽費老人ホームを加えた三つの老人ホームは老人福祉施設として(当初・第一四条。現行法・第五条の三)、また、従来からあった有料老人ホームは届出施設としてそれぞれ規定された(第二十九条)。<25<
 このうち前二者への「収容」(当初法。後に「入所」と改正)については国家事務(機関委任事務)とされ、施設整備費及び入所者措置費(施設事務費及び老人生活費等)は政府予算に計上された。一方、軽費老人ホームは潜在していた一部のニーズに応えることにはなったが、居室面積は六畳一室であったから(制度発足時は三畳一室)、より高い居住水準を欲する階層の老人ホーム・ニーズは依然として充足されなかった。」(森 2007:24-26)

◆1961年12月〜岩手県沢内村で「老人医療費無料化」開始
◇菊地 武雄 19680120 『自分たちで生命を守った村』,岩波書店,岩波新書,210p. ISBN-10: 4004150108 ISBN-13: 978-4004150107  [amazon] ※ b a06
◇今井 澄 20020405 『理想の医療を語れますか――患者のための制度改革を』,東洋経済新報社,275p. ISBN-10: 4492700811 ISBN-13: 978-4492700815
「老人医療費無料化は、一九六一年一二月、岩手県の沢内村で始められました。その様子は、岩波新書『自分たちで生命を守った村』に書いてありますので、ぜひお読みください。
 その後、東北地方を中心に全国に広がった無料化は、一九六九年に東京都が、七〇歳以上の老齢福祉年金受給者の自己負担を無料化したことをきっかけに、国の制度となりました。
 老人医療費無料化前の一九七〇年と、無料化後の一九七五年の、年齢別の受療率は、(以下略)
 しかし、先に述べたようにいろいろな問題が生じ、その後遺症で今苦しむことになりました。いわゆる「モラルハザード」、つまり、倫理的に危険な落とし穴ができてしまったのです。医師側にも、患者側にも、負担を考えない無責任な無駄遣いが起こってしまいました。」(今井 2002:114)

◆1962

◇森 幹郎 19720225 『日本人の老後――“豊かな老後”はいつの日か』,日本経済新聞社,日経新書,201p. ASIN: B000J9NRRA [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
 「やがて施設保護に対する再度の反省が起こってくる。それは二つの理由からである。第一は、施設保護に内在している財政の硬直化ということである。昔、救貧院時代、人々はただ貧乏で生活できないというだけの理由で施設に入れられ、保護を受けていたが、その中には元気でピンピンしている老人も少なくなかった。
 たとえば、わが国の例をみると、老人福祉法の制定される前年の昭和三十七年、養老院の収容<114<者について健康調査が行なわれているが、その結果、老人の三分の二(六四.一%)」はピンピン老人であり、一割(九.二%)が寝たきり老人であると報告されている。ピンピン老人が、なぜ、三食つき、寮母さんつきの養老施設にはいってこなければならなかったのか。それは、住宅もなく、仕事もなく、年金もなかったからにほかならない。まさに三無斎である。もし、それらの対策が整備されていたら、なにも養老施設にはいらないでもよかった人たちが、養老施設の収容者の三分の二を占めていたのである。
 これは、なにもわが国だけのことではない。社会福祉が進んだヨーロッパの国でも、つい最近まではそうだったのである。英語の文献を見ると、初期のものにBoarding Home, Residential Home, Old People's Homeなどという言葉が出てくるが、これらはいずれも「老人下宿」といった感じの言葉である。
 しかし、そのうちに、ただ貧乏で生活できないというだけの理由で施設に入れていたのでは、金がかかって仕方がないということが知られてくる。たとえば、スウェーデンはカナダ、ニュージーランドなどとともに、世界で最も年金制度の進んだ国として知られているが、そのスウェーデンでさえも、老人ホームのコストは老齢年金の額の二倍にも上るのである。また、イギリスでは三倍にも上っている。」(森[1972:114-115])

◆1962年11月9日 長谷川保、老人の自殺について国会質問

 第041回国会 予算委員会 第5号,昭和三十七年十一月九日(金曜日) 午前十一時三十九分開議
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/041/0514/04111090514005c.html

「○長谷川(保)委員 時間の関係上、厚生、文教行政の点を二、三伺ってみたいと思います。
 まず厚生関係を伺ってみたいと思います。
 最近、御承知のように、日本人の平均寿命というものが非常に伸びまして、男六十六才、女七十一才というようなことになりまして、大へんけっこうなことでございますけれども、このけっこうなことの裏に、実に痛ましい問題を見るのであります。最近政府でお出しになりました印刷物によりましても、老人の自殺率は世界一だということになっております。人口十万単位六十才以上の老人の自殺数は三十五年で四千六百四十四人。ことに、高年令層になりますと、その自殺率が著しく多いのでありまして、人口十万単位で見まして、六十才から六十四才で自殺率が四二、六十五才から六十九才で五三・七、七十才から七十四才で六三、七十五才から七十九才で八三・五、八十才以上になると八九・一という。この自殺の人口十万単位の全体が三十五年が二二・七ということを見ますと、高年令層では実に四倍というような驚くべき数になっております。これは西欧諸国の二、三倍というようなことでありまして、これに対する十分な対策は、だれが見ても、もはや早急にしなければならぬことは明らかであります。これらに対して厚生省は一体どういうお考えを持っておるか、伺いたい。
○渡海説明員 増加して参りますわが国人口の中に占めます老人層に対しまして深い御認識を持たれました御見識、全く同感でございます。今自殺の問題を取り上げまして老人のことを申されましたが、御指摘の通りでございます。私もその統計をながめまして驚いたような次第でございますが、この老人の人口は逐次増加を続けるのが今後の趨勢であろうと思います。先進国の統計を見ましても、わが国はまだ昭和四十三年度に総人口の一割ということになっておりますが、イギリスあたりではもうすでに三十年ほど前にその数を突破して、現在では一八%になっておると聞いております。わが国も先進国並みに増加させなければならないし、増加して参ると思います。このような趨勢に対しまして、老人対策に抜本的に取り組まなければならないという考えより、政府といたしましても十分の対策を立てるべく鋭意努力中でございまして、厚生省といたしましても、来年度の予算におきましては、特に老人対策に対しましては重点を置きまして、あらゆる新規の事業も加え予算を要求しておるような次第でございますが、なお、根本には、わが国におきまして老人がいかなる地位にあるべきかということを基本とする老人福祉法の制定も、ぜひとも次の通常国会で成案を得て御審議を仰ぐという段階に持っていきまして、老人対策の万全を期したい、かように考えておる次第であります。
○長谷川(保)委員 大蔵大臣も今お聞きの通り、これは実に痛ましい限りの数字が出ておるのであります。今度の来年度予算の概算要求について厚生省の分をちょっと見たのでありますが、老人対策費を六十九億円ほど要求していらっしゃる。これは三十七年度の約二倍に当たる額でありますけれども、ただいまも大蔵大臣のお聞きのように、実に老人の自殺が驚くべき数であるというような事態をお考えになりますならば、私として大蔵大臣に特に注文しておきたいのは、この際やはりこの対策として厚生省の要求は十分満たされまして、――私は厚生省の要求でも実際においては足らぬと思う。この点は十分大蔵大臣は留意されて、このような六十才以上の老人で一年間で四千六百四十四人も自殺をするというような事態をなくしていただきたい。日本の社会保障制度というものについて、これから池田内閣は一生懸命でやって、池田内閣がいつまで続くか知りませんけれども、十年間に西欧諸国の現在の社会保障の下の段階までこぎつけたいというように言っていらっしゃいますけれども、ことに、こういうような老人の自殺をして参ります原因というもの、これは、日本の社会保障制度の非常な足らなさ、そういう点が何といっても大きな原因であろうと思うのであります。そういう点で、この老人対策に対して特別な配慮をしてもらいたいと思うが、大蔵大臣はその点どんなふうにお考えになっておりますか。
○田中国務大臣 お答えいたします。
 老人の自殺による死亡率というものについて、今私は御発言で承知をいたしたわけでありますが、いずれにしても、日本における自殺率は世界の何番目というように非常に高いようであります。老人に対しては、特に老人福祉の面に対して重点的な施策を行なわなければならぬことはもう当然であります。大蔵省といたしましても十分これが対策を考えておるわけでございます。
 なお、来年度の厚生省の老人対策予算としまして、看護ホームというもので三億六千万円でありますか要求しておりますが、三十六年度の老人ホームの利用率は九七・四%というようで、実際まだ一〇〇%まで使われておらない。これは、厚生省の言い方としては、二月、三月ごろ時期の悪いときに死亡率が非常に多いとか、また、自分の居住地に近いホームに入りたいというようなことでありますので、郡部にあるものは利用度が少ないとか、また、居住地の市郡内でつくろうとすれば土地が入れないとか、いろいろな問題がありますが、いずれにしても、お説のように、老人対策については国会においても老人福祉法が制定せられるような気運にありますし、これらの問題に対して真剣に考え、対処していくべきだという考えでございます。
○長谷川(保)委員 今お話しの、老人ホームに一〇〇%定員だけ入っておらないということ、この問題に非常に大きな問題がある。これは、一般の老人ホームでは現在確かに空床がある。どうして空床があるかというと、これは、政府の昭和三十五年度の高齢者の調査によると、六十五才以上の老人の二〇%が病弱または臥床しておる。ところが、こういう方たちは、一般の老人ホームのやり方では、事務費あるいは措置費が少ないために、この人たちを入れたのではやれないのです。経済的に成り立たないのです。ここに大きな問題がある。経済的に経営が成り立たないようになっておる。そこで、この病気を持っておる老人、あるいは臥床しておる人はもちろんでありますけれども、これは一般老人ホームは断わってしまう。入れないのです。そこに空床のできる大きな原因がある。でありますから、今度は、わずかにまだ日本で二つしかありませんけれども、看護老人ホームの方に行ってみますと、入りたいという希望者が殺到しておる。こういう事態をわれわれはよく見なければいかぬと思う。それで、この看護老人ホームの問題を初めて厚生省が今度取り上げまして、正規に予算の要求をなさっておる。あるいは老人保養所も同じようなものでありますけれども、これの予算の新規要求をなさる。これも非常にいい。ただ、問題は、この概算要求を見ましても、老人保養所と看護老人ホーム合わせて三億八千万です、施設補助が。保護費がわずか五千万です。こればかりのものではどうにもならぬ。先ほど申しましたように、やがて一千万にもなろうという人々、その老人たちのうちの二〇%くらいが病気を持っておる人です。でありますから、こんな対策ではどうにもならぬのであります。これは初めて芽を出したことでありますからこういうことでございましょうけれども、こんなことではどうにもならぬ。
 それから、いま一つ考えておかなければならぬことは、なぜ老人が自殺するかということです。これは、スエーデン、デンマークの老人ホームを見ましても、そこで自殺する人が相当ある。それは何かというと、かしこにおいては、あまり社会保障が発達し過ぎたために、肉親の者がもう老人ホームに見舞いにも行かない、こういうことで、肉親に対する愛情に飢えて死ぬわけです。ところが、日本では、社会保障もだめならば、同時に、家族制度が崩壊をして、そこに全く愛情に飢えた老人たちが生きがいを感じなくなった。人間というものはやはり愛の中で、生きがいを感ずるものだと思うのです、若くても年とっても。それが愛情を感じない。この点は一般の老人ホームの経営の点でも考えなければならぬ点だと思うのです。だから、単にりっぱな設備をつくっただけでは老人は満足しない。そこにやはり深い愛情がある施設になりませんと、あたたかい施設になりませんと老人は自殺するという形になってくる。こういう点で、厚生省も大蔵省もともに、措置費、保護費、事務費等を十分にもっと見なければいかぬ、つまり、ほんとうにあたたかいものができていくだけの経済的な裏づけというものをちゃんとしてあげなければいかぬということを思うのです。また、老人ホームをつくっていくときに、そういう愛情のあるもをつくっていかなければならぬ。従って、職員等も、単に役人の古手が回っていけばいいなんという安易な考え方でなくて、もっと真剣に考えてもらいたい。わずか一年間に六十才以上の者が四千六百四十四人も自殺する、こういうようなことが絶対あってはならぬと思います。
 看護老人ホームや老人保養所をつくっていこうという考え方を今お出しになったことについては、私は非常に賛成であります。非常にいいことだと思うのでありますけれども、ただ、問題は、それを経営して参りますのに、聞くところによりますと、たとえば看護老人ホームの看護婦の配置の数、これを、病院ではいわゆる基準看護に一類、二類、三類とあるわけですけれども、これよりも低いものになさるようであります。これは非常な間違いであります。どうして間違いかと申しますと、この看護老人ホームに入るような老人の中には、要するに老耄の人が非常にあるのであります。老耄のために一日じゅううんこを方々になすりつけるというような老人がたくさんあります。あるいは、一日じゅう、夜も昼も大きな声で叫んでおるというような老人があります。私はこの実態をよく見ておるのでありますけれども、その実態を見ていきますと、病院の看護婦ではとてもできない。もっと徹底した老人専門の看護婦でなければこの扱いはできないということをしみじみと思うのであります。そういうような、ふいてやってもまたすぐうんこをなすりつけるというようなことをしている年寄りを見ますし、また、おむつで取らなければならぬという者が非常にたくさんございます。看護老人ホームのおそらく半分はそういう人になると思います。そうなりますと、これは容易なことではありませんで、今厚生省が考えているような一類あるいは二類、三類以下の看護をやろうというようなことでは、ほんとうに長い間日本のために社会のために働いてくれて、その生涯を終わるときに至って、今申しましたような親切な、ほんとうにあたたかい愛情をかけた看護をする、みとりをしてあげるというようなことはとてもできないのであります。そうなりますと、やはりさびしくなって死ぬという形になっていくと思います。でありますから、今初めてこの看護老人ホームあるいは老人保養所というものをつくっていくとしますと、これについて、十分な人員の配置、また、この保護費等を考えてあげる必要がある。厚生省が今考えておるのを私が聞いたところによりますと、そんなことではほんとうのものはできない、こういうことを思うのであります。
 どうか、こういう点は一つ、時間がありませんからこれ以上申しませんけれども十分に考えてこの計画を進めてもらいたい。大蔵大臣にも、ぜひこの点は十分考えてやってもらいたいということをお願いいたしておきたいと思います。
 それから、生活保護のことをちょっと一言だけ伺っておきたいのでありますが、聞くととろによりますと、米価を一二%一月からアップするということでありますが、それと関連して、生活保護の保護費、低所得階層全般にわたることでもありますけれども、要保護の人々と、またその他の低所得階層に対する対策、これについて厚生省はどう考えておるのか。一月から米の値段を上げるということをもしなさるとするならば、当然保護基準の引き上げということも考えなければいかぬと思うのでありますけれども、これは補正予算で出すのか出さないのか、この点を伺っておきたい。あるいは来年度予算ではこれをどう考えておるのか、伺っておきたいと思います。」

◇中川 晶輝 19840425 『ここに問題が――老人の医療と福祉』,同時代社,206p. ASIN: B000J727AU 1890 [amazon] ※ b a06
 「このような強制された「悲惨な生」、身体精神両面の「不自然な生」からの脱出を求めて老人の「安楽死願望」が生じてくるのもまた当然でありましょう。それは、現在の「悲惨な生」よりもまだ「死」の方が「安<72<楽」であろうと思うが故であります。つまり老人に、とくに特養老人に、「安楽死願望」、「ぽっくり死志向」が統計上多いといわれているのは、まさに「悪しき生」からの「脱出願望」が強いということに他ならないのでありましょう。ということは、かれらがほんとうに求めているのは「死」ではなく、「悲惨でない生」であるということです。「安楽死願望」は「安楽生願望」の裏返しであることに留意すべきであります。
 しかもこの「悲惨な生」の多くの部分が、人間の、社会のつくり出した一種の「人災」である以上、私たちが老人に対して用意すべきものは「安楽死」ではなく「安楽生」、つまり「社会環境条件の整備」でありましょう。そのためには、人間が「物」に奉仕する「生産第一主義」的価値観を、私たち自身の中で払拭し、自己変革を断行せねばなりません。これは他人事ではない、私たちひとりひとりの将来に関わる重大な事柄であります。
三 「安楽死」に関して
 最後に「安楽死」について一言申しのべて終りたいと思います。
 「安楽死」という発想の原点ともいうべきものは、一九世紀頃、一部の良心的な医師たちが、瀕死の苦痛にのたうちまわる患者を目前にして、何とかして楽にさせてやりたいと思いつめたところにあるようです。つまり発想ぱあくまで「苦痛の除去」であり、目的は「安楽」にあるのであって、断じて「死」ではないということです。近代医学の目ざましい発達は、はたして人類にとってプラスとなったか、マイナスとなったか? いた<73<ずらな「延命効果」には、今日多くの批判があるようです。ただ、もしなんらかのプラスがあったとすれば、それは麻酔学の発達によって、病気の苦痛をわずかでも緩和する方策が見い出だされたことではないでしょうか。
(中略)
 昭和三十七年に名古屋高裁で、安楽死が認められるための「六要件」が提示されました。太田典礼氏はこれを「四要件」に集約しておられます。即ち@不治で死期切迫が確実であること、A生きているのが死にまさる苦痛であること、B本人の希望であること、C苦痛の少ない方法が選ばれること。ところで@の判定ははたして可能か。誰がどのような資格で断定するのか。Aの判定も同様であり、「死」の経験をもたぬ人間に「死と<74<生の苦痛の比較」などできるはずがない。B「本人の希望」も何を根拠とするか。Cはいまさら要件とするまでもなく当然であろう。−といった問題点が残ります。ことにBに関しては、「安楽死」が問題とされるのは、「本人の希望」が表明できない時点であり、元気な時にいったことばや書いたものにそのような「希望」があったとしても、死を目前にした危機的状況の中でもまったく同じ「希望」をもちつづけているとは、誰も確言できません。もしも元気な時の「遺言状」を根拠として「安楽死」の執行を許すとすれば、それは法律の冷酷な非人間性の暴露という他はありますまい。
 「医療辞退連盟」の人たちぱ、「基本的人権」の問題として、「人問には医療を受ける権利があると同時に、受けない権利も保障されねばならぬ」と主張します。だが、かれらがこの後者の権利を主張するとき、前者の権利の保障を当然の前提としています。しかし、かれらにとって当然のこととされている「医療を受ける権利」を奪われているのが老人たちです。その意味で「医辞連」の人たちは、老人だちから見れば、ぜいたくな要求をもったエリートであります。
 いまひとつ、問題なのは、「死ぬ権利」を主張する人たちの「価値観」です。米国での有名な「カレン裁判」では、「尊厳なる死」を根拠として、安楽死を法的に保障しました。つまりカレンさんの植物人間のような生には、人間としての尊厳が存在しない。だからその尊厳性を保つために、彼女に備えつけられた人工蘇生器を外して死を与えることは法的に処罰の対象にならぬ、という判決です。もしこの法律が今日の日本の現場に適用されるならば、特養にいる「たれ流しの恍惚老人」は、その生が「不尊厳」なるが故に「尊厳なる死」を与えるべし、という議論になりかねません。これは恐るべきことです。若く美しい、また健康で生産力のある<75<生は尊厳であり、その反対の生は不尊厳であり、生きる資格なし、とのきめつけにつながります。私たちはここでもう一度、「人間の尊厳」という問題について、考えなおしてみる必要があると思います。
 いま一つ、「安楽死肯定」派の中に、これを「老齢人口増加」の実態と結びつけた、いかにも説得力のある、それだけにきわめて危険な議論をなす者がいます。つまり、年ねん老人が増えていくことにより、生産人口と非生産人ロとが接近し、人類全体の生存に危機が迫ってくる。したがって、「生き残る」ためには、適者生存、弱肉強食の「自然の理」に従って、弱者の「安楽死」を承認、否奨励しよう、という発想です。これは、「役立たずは殺せ」というナチズムにつながります。もともと動物界に見る自然淘汰の原理を、そのまま人類生存の原理に適用するのはあやまりであります。「弱肉強食」によってではなく「相互扶助」によって生きつづけてきた歴史を人類はもっています。それが「万物の霊長」たる「人間の知恵」ではないでしょうか。このかけがえのない「人間の知恵」を今後も保ちつづけ、「相互扶助」によって「共に生きつづける」ことは不可能でしょうか。もし万一、将来の滅亡がさけられないものであるならば、弱者を押しのけ、踏みつけて、たまさかに生きのびるよりも(それでも早晩滅亡は免れ得ません)、むしろ、「皆でいっしょに、仲良く手をつないで」・u梛、に滅びようではないか。有能者も無能者も、平等に生き、平等に滅びることこそ、人類最大の知恵であり、真のヒューマニズムではないでしょうか。」(中川 1984:72-76)
 →安楽死・尊厳死

◆1963 老人福祉法

◇森 幹郎 198909 『老いとは何か――老い観の再発見』,ミネルヴア書房,OP叢書 241p. ISBN: 4623019454 1427 [amazon][boople] ※ b a06
 「昔、養老院(一九三一―一九四七)、養老施設(一九四七−一九六三)に収容されていた老人は、たとえ病気になっても、そう簡単に医師の治療を受けることはできなかった。(中略)<171<<172<
 一九六〇年代に入って、医療費保障の制度が軌道に乗ってくると、事情は一変した。病<173<人のケアは福祉行政から一転して医療行政に移ることになったからである。一九六三年老人福祉法が制定されたが、特別養護老人ホームは「身体上又は精神上著しい欠陥があるために常時の介護を必要と」する(老人福祉法第一一条)老人を対象とするもので、「欠陥」という用語の解釈上「病人」を対象とするものではなかったから、特別養護老人ホームは競って保険診療機関を併設することとなった。」(森 1989:171-174)

◇森 幹郎 19720225 『日本人の老後――“豊かな老後”はいつの日か』,日本経済新聞社,日経新書,201p. ASIN: B000J9NRRA [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
 「わが国で昭和三十八年に老人福祉法の制定とともに創設された特別養護老人ホームには一面、いわゆるナーシング・ホーム的な性格を持つものであった。それは、法制定の前年に行なわれた養老施設収容者の健康調査に現れている九.二%の寝たきり老人をそのおもな対象として生まれたものであったからである。
 なお、ついでに、特別養護老人ホームのもう一面の性格について見ておきたい。それは、第二<116<病院という性格である。疾病を持った老人をどのような施設に収容するかは、サービスの面から考えても、政策的にもきわめてむずかしい問題であるが、ヨーロッパの実情から、それは二つの考え方に分かれる。一つは病院に入院させることであり、もう一つはナーシング・ホームに入所させることである。これに対して、私は、わが国における病院建設およびスタッフ充足の両面での医療供給から考えて、少なくとも慢性疾患を持った老人については、ナーシング・ホームに入所させて、保健・福祉の両面からサービスをするのが適切と思う。つまり、ナーシング・ホームの第二病院化といえよう。
 施設保護に対する反省の第二は、老人の人間性尊重ということである。これは後に述べるリハビリテーションの考え方の普及と表裏一体をなすものであるが、オーバー・サービスは老化を促進する以外の何ものでもないという反省である。人間というものは、本来、安易を浴するナマケモノで、いくらでも容易さに妥協していく。それは同時に、人間性を堕落させるものでもあり、一個の主体的な人間としての尊厳性を傷つけるものでもある。
 先に述べたナフィールド財団の報告をはじめ、世界の精神神経学者は一致して、老人は集団生活をすることによって、生活が消極的、受身的になり、精神の老化が促進されるものであるから、できるだけ施設に入れないで保護したほうがいいと主張している。したがって、施設保護を必要とする高齢、病弱な老人の場合はともかく、居宅で生活できるうちは、居宅で生活させた<117<ほうがいいという考え方である。」(森[1972:116-118])

◇森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p. ISBN-10:476426904X ISBN-13: 978-4764269040 1575 [amazon][kinokuniya] ※ b a06
 「これらの変化を一言で言えば、死の社会化ということである。やがて、老人の死のケアのあり方に二度目の変化が現れてきた。それは医療レベルから福祉レベルへの、病院死から老人ホーム死への転換である。財源について見るなら、税金から保険料への、そして、医療保険財政から介護保険財政への転換である。このことについてはすでに第一章第二節で述べておいた。
 老人ホーム死と関連して、老人福祉法の立案の過程で、特別養護老人ホームの法的な性格について論争のあったことに触れておきたい。それは、特別養護老人ホームを慢性疾患を持った老人のケアの場にしたいと考えていた老人福祉部局に対する、医療関係者の強い反対であった。反対の理由は慢性疾患を持った老人は病人なのだから、家庭で介護ができないのなら、病院に入院させるべきであって、老人ホームのような福祉施設に入れるべきでない、ということであった。医療行政部局もこれに賛同したため、老人福祉法の八月制定(一九六三年)より早く、その年の三月に成立していた新年度予算の費目上の名称「看護老人ホーム」の構想は実現しなかった。(中略)<126<
 しかし、私は特別養護老人ホームは慢性疾患を持った老人を対象としたナーシング・ホームとして専門化していくべきであり、終焉の地になるべきであると思っていたから、その後も私見を繰り返し主張した。老人福祉法の制定から八年経った、一九七一年(昭和四十六年)、私の主張に反対する浴風会病院院長・関増爾(ルビ:せきますじ)先生(一九一八―一九九三)と私の往復書簡が浴風会(四九ページ)の広報誌に連載されたこともあった。」(森[2007:126-127])

◆1963年5月30日 第043回国会 社会労働委員会 第36号 昭和三十八年五月三十日(木曜日) 午前十時四十二分開議 社会労働委員会での田邊誠による発言
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0188/04305300188036c.html

○田邊(誠)委員 将来の展望に対しても御理解をいただいてけっこうだと思うのでありますが、いまの養老施設の問題については、設備の問題、基準の問題についていろいろお話がありました。二畳に一人というような劣悪な状態であってはならない。いろいろな周囲の生活水準というものが上がってきている現状でありますから、この基準そのものも、急いで改めていかなければならない時代に来たというようにわれわれは考えておるわけでありまして、現在の基準や水準を高めていく、こういうことと見合って将来のことを展望されることが必要であろうと思うのであります。やや不明確な点もありますけれども、考え方としては大体わかりました。
○大山(正)政府委員 調査いたしまして、資料にして差し上げるようにいたします。
○田邊(誠)委員 福祉主事の重要性に対してさらにこれを認識されまして、充実した活動ができるように配慮するということを、私どもは大いに期待したいところであります。
 次に、順を追うていきますると健康審査の問題になるわけでございますが、ちょっと飛ばしまして、施設の問題について若干本日のところお聞きをしておきたいと思います。
 いろいろと問題が多いのでありますけれども、今回、従前の養護施設の名前を変えまして養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、軽費老人ホーム等に変えたわけでございます。私は、これは名前が変わっただけで内容が変わらぬということであっては困るわけでございまして、当然名前が近代的になったと同時に、その施設の内容等も近代的になっていくべきであると考えておるわけであります。ひとつまとめてお伺いをいたしますから、なるべくスピードを上げる意味で漏れなくお答えをいただきたいと思います。
 先ほどの御答弁の中で、大体養護老人ホームに該当する者が現在のところ四万三千人ばかり入所をいたしておる、さらに四万人ぐらいの収容が必要だというお話がございました。これは現在収容を必要とするところの人数だろうと思うのでありまして、昨日来のお話でわかったように、この被保護人員というのがだんだん増加をしていく、しかも人口も増加をしていく、こういう老人層の将来の事態の中で、この収容人員というものの必要性も、また現状よりも多くなると思うのでありますけれども、一応現在収容を必要とするところの人たちに対して、一体何年ぐらいの計画で入所を希望する人たちを入れることができる、こういう状態になるか。明確な年次計画でなくてもよろしゅうございますけれども、お持ちでございましたならば、ひとつお聞かせをいただきたいと思います。
 それから先ほどの御答弁にもありましたように、現在の養老院というのは、たとえば人員の基準にいたしましても二畳で一人の割合という形になっており、大体六畳で三人、八畳で四人、こういうのが多い現状でありますけれども、私はこれはだんだんにその基準を変えていかなければならぬじゃないかと思うのでございまして、相当期間において変更のない現行基準というものに対して、これをだんだんに変更をしていくという御用意がありますかどうか。
 それから、県や市町村立の養護施設の場合は、その従事しているところの職員の給与は、地方公務員でありますのでそれにならうという形になるわけでございますけれども、社会福祉法人その他の施設の場合は、きわめて劣悪な給与の状態であることは毎々の国会で申し上げておるとおりであります。これに対して、やはり事務費等の面で改定をいたしてきておりますけれども、いまだ十分とは言いがたいのであります。これらの拡充計画なり整備計画と並んで、この給与改定に対してさらに熱意を示されるところのお気持ちがあるかどうか。その中で、私は特に、いままで実は漏らしてきたのでありますけれども、たとえば医師の給与というのがございます。これはまことにもって不合理というよりも、非現実的な状態であります。五十人までの基準の養老院でありますと、医師の給与は大体五千円ですね。百人くらいの基準の施設の場合は月に一万円、こういうように大体基準が示されております。これはもう私が言わずもがな、お話にならぬですね。医者でなくたって、もちろんこんな給与で人は集まりっこないでありますけれども、まして技術を持った医師の場合、一体こういう基準を・u梹ヲされることが現実的にどう当てはまるのか、私は実は非常に疑問に思っておるのであります。たとえば、その収容施設の土地に大学病院等があって、インターンのお医者さんがいる、そういった場合に片手間というか、時間外にめんどうを見てもらう、こういうことでもって、五千円でも一万円でも、研究の対象になるからというので、そういう意味で来てくれる人は場所によってはあります。しかし、もしその施設でもって、まあひとつ専門の医師として老人の罹病率――私はあとでお聞きしますけれども、病気のかかる率の多い老人のめんどうを見よう、少なくとも百人から百五十人くらいの施設になれば、医者が一人専門でかかることが当然必要になってくるのではないか、そういうときに、これは一万や一万二、三千円の給与でもって医者を配置しようということは、当然できない話であります。これは一体どういうことになりましょうか、ひとつこれを現実に即応した状態に引き戻すということは、あくまでも必要だろうと思うのであります。ただ単に名目だけで置いておいて、ときどき来てもらえればいいという無責任な態度でいこうというなら別でありますけれども一、こういった・u桙アとに対して、やはり重大な関心を払わなければならないことではないか、こw)ういうふうに思うのであります。一般的に健康診断等をするということについては承知をいたしておりますけれども、いま施設の問題に限ってみましても、私は手短にそういったことに対して、ひとつ現実に即応した態勢をつくってもらうということを待望する者として、これに対するお考え方をお伺いしたいのであります。
 もう一つ、四つ目になりましょうか、同じようなことで、看護婦は百人に対し一人という配置状態であります。これはもうたいへんな話であります。あとで特別養護老人ホームのときにさらにその配置状態をお聞きしたいのでありますが、これでは実は十分な看護体制というのができないのは、御存じのとおりでございます。こういった実はきわめてあたたかい施策をやると言いながらも、現在の非常に冷酷な状態に置かれているこの実情というのは、一体どうやって内容を改善していくか、施設をよけいつくったりするということも必要でありますけれども、現在の施設に対してさらに内容を改善して、ひとり立ちができるような状態をつくることも必要だと思うのであります。こういったことに対してどういうお考え方があるか、とりあえず四つばかりお伺いをいたします。
○大山(正)政府委員 施設の問題につきまして、まず養護老人ホームの今後の拡充計画でありますが、大体現在推定いたしまして、なお四万人くらい収容力の増加が必要ではないかというふうに考えまして、毎年これによって予算要求等をいたしておりますが、なかなか私ども考えるように予算が十分でありませんので、計画を立てましても、なかなかその実現がむずかしいというのが実情でございます。しかし、そのままにしておくということは適当でございませんので、私どもといたしましては、できれば昭和四十五年度くらいまでに一つのめどを置いて年次計画をつくってやってまいりたいということで、目下お話しのような人口、特に老齢人口の伸び等をにらみ合わせて、どの程度にこれを計画するのがいいかということをただいまいろいろな面から作業をいたしておる最中でございまして、ただいま直ちにここで、何年計画でどれだけにするということを的確に申し上げる段階に至っておりませんが、昭和四十五年度くらいを一つの区切りにして、それまでにどのくらいつくりたいということの計画を立ててまいりたい、かように考えております。
 それから一人当たりの畳数と申しますか、坪数につきましては、御指摘がありましたように、現在の養護老人ホームでは、大体八畳で四人というようなのが標準になっておるわけでございます。理想としては一人一部屋というところまで将来持っていきたいのでございますが、何ぶんにも現在の施設あるいは今後ふやさなければならない施設のことを考えますと、直ちにそれを現実の問題として取り上げるというところまでには、なかなかいきかねるかと思います。理想目標はそういうところに置いて今後ひとつ検討していきたい、かように考えます。
 それから施設に働きます職員の給与につきましては、これも御承知のように逐年上げて、措置費あるいは事務費等を組んでまいったわけでございまして、本年度も前年度にさらに八%ということで引き上げることにいたしておるわけでございますが、さらに今回の給与改定実施後の状況をただいま調査いたしておりますので、現実の給与がどのようになっているかということの実態を見まして、さらに今後、地方公務員等とあまり差がないような線にぜひ持っていくように努力したい、このように考えております。その中でも医師の給与について特に御指摘があったわけでございますが、現在百人収容の老人ホームにおきましては、医師は嘱託ということで、お話にもありました病院等に働いておられる医師の方、あるいは開業医の方を嘱託としてお願いする、そのために計上してあります費用も非常に低いというような形になっております。特に今後、特別養護老人ホームというように常時看護を要するような老人ホームをつくりました場合には、ひとつ専任の医師を置きたい。その場合には、もちろん医師としての待遇に欠けることのないような給与の水準にしたいと考えております。
 それから看護婦につきましても、百人収容の場合には一人ということでございまして、寮母を合わせて四人、直接処遇の職員としては二十五人に一人というようなことになっておるわけでありまして、この点は、確かに看護婦をふやすか寮母をふやすか、いずれにしてもこれをふやすように努力しなければならないと考えております。従来いずれかというと、現にいる人たちの給与の改善というものに力をそそぎましたために、人員をふやすというほうが若干おくれておったきらいがありますが、この点は今後人員の増加等によって、施設に働く職員が過労にならないようにということでやっていきたいと思います。それから特別養護老人ホームにつきましては、当然看護婦あるいは寮母の人数をふやさなければならないのでありまして、一般の老人ホームでは二十五人に一人でございますが、特別養護老人ホームにありましては、七人に一人くらいの割合にしたい、かように考えております。
○田邊(誠)委員 そこで今回、特別養護老人ホームなるものを別につくった意味合いというのは、私は非常に重要だろうと思います。半身不随やあるいは長い病気をしておる人たちを、一般のやや健康な老人と同居させるということは非常に適当でない面、やりづらい面が多いのでありますから、そういった面で、数少ないけれども、この新しい部面に進出をするということは必要であろうと思うのでありますが、いままでの養護老人ホームの基準と、いま若干お話がありましたけれども、いろいろな面で違う面が多いのではないかと思うのです。特に人員の配置の問題、それから収容者一人当たりの坪数の問題、老人何人に対して一体人をどういうふうに配置するか、その中の事務職員、医師、看護婦あるいは看護人、栄養士、寮母その他の職員の配置等について、これはただいまこう並べて一つ一つお聞きすると時間をだいぶ食いましょうから、これをひとつ次回の当委員会までにその一覧表をおつくりいただいて、御配付をいただければ審議の促進になると思いますけれども、いかがでありましょうか。

◆196606 第7回国際老年学会

田中 多聞 196909 『新老人福祉論』,社会保険出版社,326p. ASIN: B000J9OYJU.[amazon] b a06
 「筆者は、スクラップを繰ってみた。
 一九六六年(昭和四十一年)九月十五日(老人の日)の毎日新聞夕刊によると、「昭和四十年一年間の六十歳以上の自殺は、四、四九三人、六十歳代で人ロ一〇万につき四〇人、七十歳代で六〇人、八十歳代で八七人が自殺している。老人福祉法第三条の〈老人は、健全で安らかな生活を保障される〉との精神からはほど遠いとしても、せめて老人を自殺に追いやることが<76<ないような対策が、早急に立てられなければならない」と書いてある。
 また同日の朔日新聞朝刊は、東京巣鴨のアパートに一人暮らしの七十八歳の老女が、ながながお世話になりましたと書置きして六月末に家出をし、ゆくえ不明のまま、やっと十四日に宇都宮の山中で、自殺死体として発見された、と報じている。」(田中 1969:76-77)

 「第七回国際老年学会(一九六六年六月末ウィーン)で、悠生園のリハビリテーションは一躍国際学会の檜舞台に上がった。とくに、三十分間の記録映画は好評を博すことが出来た。
 この学会は、三年に一度開催されるが、筆者はこの第七回に悠生園の真価を問うべく、前年の秋から取り組んだ。」(田中 1969:282)

◆1968 国民生活審議会調査部会老人問題小委員会 1968 『深刻化するこれからの老人問題――国民生活審議会調査部会老人問題小委員会報告』,経済企画庁国民生活局,73p. ASIN: B000JA41TW [amazon] a06

◆1968 全国社会福祉協議会「居宅ねたきり老人実態調査」

◇森 幹郎 20070915 『老いと死を考える』,教文館,253p. ISBN-10:476426904X ISBN-13: 978-4764269040 1575 [amazon][kinokuniya] ※ b a06
 「一九六八(昭和四十三年)、民生委員制度発足五十周年を記念して行なわれた、全国社会福祉協議会のねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)状態実態調査の結果報告によると、六十五歳以上のねたきり老人の数は四十万人と発表された。その惨状は広く報道されたが、介護する家族の負担がひときわ目を引いた。
 老人福祉の仕事をしながらも、私は私や妻がねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になることなど考えてもいなかったので、調査の結果を知って、ねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になったときのことなども含め、老後設計のプランニングを持っていることが必要だと考えるようになった。
 当時、認知症のことはまだ問題になっていなかったが、そのとき、まず第一に考えたのは、私たちの介護のため、子供が自分の時間をさいたり、ましてや家庭崩壊の危機に曝されたりするようなことがあってはな<10<らないということであった。これが全てのことの大前提であった。
 当時、ねたきり(ねたきりに傍点/引用者補足)になれば、入院するのが一般的であったが、私は入院には否定的であった。病院には「治療」はあっても、「生活」がなかったからである。また、今後、在宅福祉がいくら進んでも、増加してくる老人数の絶対的な増加のなかで、とても十分なケアは望めないだろうと思ったからである。また、特別養護老人ホームの待機者数が多く、とても「措置入所」してもらえないだろうということも分かっていた。そこで、夫婦で話し合い、入居時前払い金の目途さえつけば、有料老人ホームに入ろうという結論になった。誰にでも与えられている選択肢とは言えないだろうが、私たちの場合、幸いにも願い通りの道を選択することができた。」(森[2007:10-11])

◆1968 中央社会福祉審議会「老人ホーム老人向住宅の整備拡充に関する意見」具申

森 幹郎 1968 『老人福祉の方向』,社会保険出版社,221p. ASIN: B000J9OA3A [amazon] b a06

◆1969 東京都 70歳以上老齢福祉年金受給老人の医療費自己負担分の無料化実施

田中 多聞 196909 『新老人福祉論』,社会保険出版社,326p. ASIN: B000J9OYJU.[amazon] b a06

 「こんなことを考えていたある日、機縁があって、悠生園を訪れることができた。田中多聞先生はとは以前から面識があったし、テレビを通して、悠生園のPTのきびしい訓練ぶりや音楽療法のこともある程度知ってはいた。実をいうと、田中先生は大変こわい人のように思えて、私のように浴風園での老人のリハビリを期間ばかりながいくせに大変不徹底にやっていて、一方大学病院でのリハビリに首を突っ込んだりしている中途半端な人間は、純粋な先生の眼から見たら、不純分子としてどなりつけられるのではないかと、おっかなびっくりであった。」(上田 1969「悠生園での老人の『復権』をみて」)(田中 1969)

 「悠生園について語りたいことは多い。その建物にも、日課にも、リハビリテーションの精神はすみずみまで浸透していた。私はここでアメリカ以来はじめて、日中は全員がベッドから離れて空っぽになっている病室を見た。それこそがリハビリテーションの病室なのである。が、日本の多くのリハビリ病院の病室はそうでないのである。また田中先生の音楽療法へのアプローチは、IQ、失行症、失語症のテストを含め、非常に科学的なものであった。<<
 しかし、何にもまして、私が価値あるものと思うのは、老人の人間としての『復権』のためには「どうせ………なのだから」という投げてかかるアプローチそのものを否定して、老人の、そして大部分が農民で教育も高くない老人さえもの、胸の底のどこかにひそんでいる人間としての誇り、尊厳、より高いものを求める心に、直接に訴えかけていくことが必要だということを、悠生園の経験がはっきりと示してくれたことである。私はここに老人のリハビリテーションの基本精神が、いや、あらゆるリハビリテーションの、さらにはあらゆる福祉事業というものの基本精神があるように思われてならない。
 私には、いまも限に浮かぶようなのだが、運命交響曲に取り組んで緊張して指揮者を見つめていた老人たちの活気のある眼、それはふつうの福祉患者の家畜のような従順な限ではなく、まさに人間の、『復権』された人間のまなざしであったと思うのである。`
 昭和四十四年五月」(上田 1969 「悠生園での老人の『復権』をみて」)(田中 1969)

 「いちばん病気の多い子どもや老人層に、医療保険が百パーセント給付でないというところに、日本の医療保険の大きな矛盾がある。」(田中 1969:31)

 「県内の老人ホームを、あまねく回ってしまったのは、三十九年十月も終わりに近かった。
 入園希望者はあとを絶たなかった。先着順に入れることにしたものの、ほとんど同時に申し込みがあるので、私が考えたのは、家庭からの入園、老人ホームからの入園、病院からの入園を、それぞれ二対二対一の比率とした。とくに気を使ったのは精神異常者で、他の患者に迷惑をかける人たちである。脳細胞の変性による、いわゆる老年痴呆の高度のもの、また凶暴性のある分裂病など、精神病院に入院させるのが適当だと認められる者はその旨、関係先に連絡した。
 福祉事務所を経由して入園してくるわけであるが、事務所で医師のチェックがなされてくるわけでもなく、社会的条件として必要だといってきても、医学的に見て不適当だと考えた場合<41<はことわった。
 その理由は明白である。ナーシング・ホームは、病院ではないのである。医師も一名、看護婦の定員も一名に過ぎない。あとはしろうとの寮母である。それこそ、老人福祉法でうたっているように、介助を要する老人なのである。治療とか看護とかは領域外だという。
 某日、私は看護と介護の区別を質したことがある。東京での会議であったが……。看護という字句は、用いないという。なるほど社会局では、医療は所管外であろう。だとすれば、私たちがあずかる老人は、患者であってはならない。看護も医療も枠外であるからおしめかえや食事、入浴の世話でこと足りるはずである。それですめば結構である。しかし、私の予想では絶対にそうでなく、むしろ病院でも手を焼いて困る患者をもってくるものだと、かたく信じていた。
 九年間、いや大学の医局生活を入れれば十三年間にわたる私の経験では、大学病院や国立、県立、また日赤病院などが、手を焼く老人病患者を喜んで受け入れるはずがないことは、十二分にわかっていた。
 第一に、大学病院は、生活保護の患者は扱わない。特別室は、主に財界人や有力者のために用立てられているし、また偉い先生方の特別診察も、そのような人に重点が置かれているからだ。もっとも積極的な指導を要する社会の底辺の仕事をしている人たちには、目もかけてもらえな<42<いのが実状なのだ。国立、公立病院の場合でも、貧困者で慢性疾患を持つ老人は、きらわれる。医局ではよいとしても、看護婦の反対をくってしまう。そうでなくても看護婦が足りないのに、やっかいな患者はおことわりだ、というわけだ。
 その証拠に、日本の国立大学で老人科を持っているのは、東大と京大だけである。それも昭和三十七年以降の開講である。いわんや、地方の大学にあろうはずがない。また地方の病院にしても、老人科の設置を考えている病院を私は知らない。日本の医学教育の矛盾がここにある。一方、治療医学の進歩は、見るべきものがあっても、もう一歩進んで、第三の医学といわれるリハビリテーションはどうであろうか。労災病院などのそれは高い水準であるが、老年者を専門的にやっているところはきわめて少ない。」(田中 1969:41-43)

 「社会保障を語るには、まず北欧が頭に浮かんでくる。英国もそうであろう。(中略)<163<
 筆者が老人福祉国家の代表としてデンマークを選んだのは、その国柄もさることながら、コペンハーゲンの「老人の町」での研究がおもな魅力となっていた。「老人の町」院長、トルベン・ガイル博士は国際老年学会での重鎮であることはむろんだが、すぐれた老年病学者として筆者が尊敬していた方だった。博士は筆者の泊り込み研究を快諾され、一九〇一年に出来た世界でも古い本格的な老人病院の一室を提供してくださった。万事結購づくめの待遇を何の肩書も持だない私にくださったのである。外人観光客は、よくこの「老人の町」を訪れる。ゲートにそれらのゲストたちのために案内人がいて、広々とした花園に浮かぶ老人天国を案内している。」(田中 1969:163-164)

 「有病老人のための老人ホームとして、昭和三十八年施行された老人福祉法により、特別養護老人ホームが誕生した。俗に特養とか特老とか呼ばれているものである。からだの不自由な老人たちや、精神的にいちじるしい障害を持つ老人を収容し、介護する施設といわれている。厚生省の施設課でこの法案が練られ、国会を通過したのである。サンプルはもちろん、北欧のナーシング・ホームである。
 看護ホームでいくか、老人病院でいくか、議論の多かったところらしいが、結局いずれもだめになり、中途半端なものになってしまった。
 老人病院がだめになったことは後に回して、なぜナーシング・ホームがだめになったかについて述べてみよう。
 看護というと、医療が伴うという理由が有力だったらしい。医療となると医務局の管轄になる。社会局がやる以上、医療行為は伴わぬものでないといけない。したがって、看護という字句を用いずに介護を用いている。だから、収容者は、患者でなくて老人である。どうも妙なこじつけの感が強い。
 身体保障が老人の場合、とくにみじめだ。保険給付を見ればわかる。身体福祉が伴わぬところに老人福祉があり得ないことは、たびたび述べてきた。<223<
 老人は病気にかかりやすい。予防医学、治療医学、そして第三の医学であるリハビリテーション医学が一体とならなければ、老人の健康維持はむずかしい。
 収容老人(これがお役所で定められた言葉であるから使わしてもらう)が、患者でなければ介護で十分であろう。単に年をとって、ヨボヨボしている老人(いわゆる老衰)の世話をし、面倒だけをみるとしても、医師一名、看護婦一名というメディカル・スタッフでどうしてメディカル・ケヤーが行なわれるであろうか。
 老人の世話をする職員は寮母と呼ばれている。医学的には、全くのしろうとばかり。老人ホームと違う点はどこかというと、寮母の定員が多いし、収容者が自分で自分の身の回りの始末が出来ない老人が多い点である。平たくいえば、老人ホームの静養室の集りである。医師が一名専従となっていても、安い給料で医師が働くはずがないし、医療機関でないから検査も十分やれないし、月に五百円の保健衛生費などでは、ロクな治療も出来ない。みすみす老人を見殺しにすることになる。死亡診断書を書くだけの仕事じゃないかといわれても仕方があるまい。
 筆者の場合も、ずいぷんと反対された。何でそんな仕事をするのかと……。自分の病院をやっていればいいじやないかと。目本の医学でもっとも欠けている社会医学を志してやるんだといっても、鼻先で笑う人たちが多かった。
 セラピーも出来ないのは医者の仕事じゃないという思想が、根強くはびこっているのであ<224<る。とにかく医療はほとんど加えられないばかりか、看護さえも認められない。
 介護、介助だけだ。入浴、排泄の処理、食事を食べさせてあげる……。それだけが目的の特養なんてあり得ないはずだと、筆者は初めから確信していた。毎日の業務が、前三者で明け暮れるようでは、老人の余命も長くはなかろうし、また第一寮母が窒息してしまう。どんどんやめてしまうにちがいない。よほどの篤志家でない限り、長続きするはずがない。医者はもちろんのこと、看護婦も嫌う。
 いい例が、大学病院、国立病院、公立病院にしろ、大病院になればなるほど手のかかる老人患者は嫌う。
 老人福祉法でいう身体、精神上いちじるしい障害を有する老人という限界線は、どこで引けばいいのだろうか。障害を認定する人はだれか。それは、福祉事務所のケース・ワーカーである。医学的に全くのしろうとが、書類だけで措置を決めてしまう。医師の診断書が添付してある場合もあるが、そこの病院で手をやいた老人を送り込んでくることだって、大いにあり得るのである。」(田中 1969:223-225)

 「昭和初期になって、東大の高木憲次博士らによって肢体不自由者療護協会が創立され、ついで肢体不自由者を対象にした整肢療護院が誕生し、現在に及んでいる。」(田中 1969:138)

 「悠生園を例にとると、PT・OT・STの他にMT(音楽療法士)がいる。
 資格をとやかくいっても、日本では始まらない。労災病院や数少ない病院や国立、大学病院でも、PT・OTが小人数いるに過ぎない。悠生園で力を注いでいる理学療法、作業療法と音楽療法は、いまや老人にとって欠かせないものとなっている。
 対象はもちろん、卒中老人や運動器の障害を持つ老人と、精神機能障害老人である。音楽療法は一九六五年(昭和四十年)十月から開始した。当初は打楽器だけの簡単な鼓笛隊だった<257<が、いまではベートーベンの五番(運命)の演奏に取り組んでいる。
 音楽療法で署名なイギリスのジュリエット・アルビン夫人が来日され、精薄児にチェロを聴かせ、その反応を見るいわゆる聴かせる音楽療法を、直接筆者は見聞したことがある。その際、夫人に悠生園の音楽演奏療法を、テープと写真で披露した。夫人は、老人、しかも有病老人が演奏しながらからだと心の回復をはかっていることに注目され、ぜひライブラリーとして協会(ロンドン)に保存したいから資料などを送ってほしいと述べられた。そして音楽療法がどしどし積極的に、セラピーとして取り上げられるようにがんばってほしい、と激励されたものである。
 現在、音楽療法のほかに言語療法がある。卒中などの場合、言語障害が伴う場合があり、言語療法は単に言葉がいえるようにするだけでなく、精神機能を改善させるとともに、機能検査を行なうことにも重要な役割を果たすのである。くどいようだが、人間の欲望を満たすことこそ福祉本来の目的なのである。少しでも動きたい。話したい。どうにもならないんだというあきらめ、そして眼前に大きく迫る死亡の恐怖から老人を、いかに解放するかが筆者らの責務と考える。」(田中 1969:257-258)

 「養護老人ホームを二、三ヵ所回っただけで、驚いてしまった。というのは、静養室という名の部屋(ホームの定員の約一割がはいっている)がある。静養のための部屋ではなく、大変<264<な病人の収容室である。一歩踏み込んだだけで、大・小便の不潔臭が充満している。多くは板張りの床の上に直接ふとんを敷き、しかも垂れ流しのためだろう、ゴム布を大きく敷いたふとんの上に寝ている。枕もとは、まるでゴミためである。菓子袋が口を開き、空カンが散乱したり、タバコが散らかっている。患者のひげはぼうぼう、手足はやせ衰え骨と皮だけで、あかが鱗みたいである。これでは皮膚呼吸も十分にできまい。」(田中 1969:264-265)

 「これで明らかなとおり「馬を池には連れてゆけても、水は飲せることが出来ない」のである。わずか三七・二%しかリハビリテーションを受けてくれなかった。その結果は明白であった。やれば必ずよみがえるのである。それとは逆に、よみがえらざる不幸な老入たちについて調査したのを発表しよう。
 全死亡者中、一ヵ月以内の死亡が二〇・三%、三ヵ月以内一六・五%、六ヵ月以内が二二・六%、合わせて半年以内に五四・丸%が死亡している。入園後一ヵ月以内の死亡二〇・三%というのは、対象者の選択の誤りを物語っている。当然、病院に入れるべき重症者を、誤ってナーシング・ホームに強引に連れ込んだ結果といえよう。
 また、入園前所在から見た死亡を考えてみよう。
 老人ホームからの全入園者九七例中、死亡は四六例(四七・四%)。病院からは六四例中一九例(二九・一%)。家庭から二二七例入園し、六八例が死亡(三〇%)している。老人ホームからの入園者の死亡率が高いことは、何を意味するのだろうか。
 メディカル・ケヤーとリハビリテーションの欠如である。その理論的裏づけは、悠生園の三年三ヵ月のデータが証明している。
 よみがえる老人と、よみがえらざる老人。生と死の別れ道は紙一重である。やるか、やらな<288<いか。やらせるか、やらせないか。「老人は保護さえすればよい」とか、「老い先短い命だ。そうしなくとも」……。これらの考えが、日本の老人福祉関係者たちの間に、強くしみついているのを拭い去るに、非常な勇気と叡智を要する。
 筆者は、猛烈な外からの抵抗にあい、足を引っ張られた。それもしろうとと関係者の双方からである。しかしながら筆者の信念は、いささかもくじけなかった。そして、その実績が見事に証明されたのである。」(田中 1969:288-289)

◆196909 第11回国際リハビリテーション会議

◇森 幹郎 19720225 『日本人の老後――“豊かな老後”はいつの日か』,日本経済新聞社,日経新書,201p. ASIN: B000J9NRRA [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
 「一九六九年(昭和四十四年)の九月、アイルランドの首都ダブリンで開かれた第十一回国際リハビリテーション会議は、やがてあと数ヶ月で迎えようとしている一九七〇年代を前にして、「リハビリテーションの時代きたる」と宣言、世界にその重要性を強調した。そして、リハビリテーションを行なう理由を、それによって、その人が社会になんらかの貢献をするからではなく、たとえ社会になんの役に立たなくても、人それぞれに残された能力を埋もれさせておくのは人間尊重の精神に反するからであるからであることを確認した。[…]」(森[1972:159])
 「だが、それは身体障害者のリハビリテーションにとどまり、老人のリハビリテーションについてはまだまだひろく一般の市民はおろか、リハビリテーション関係者の理解さえも得ることが容易ではなかった。たとえば、昭和三十六年、厚生省有志が個人の資格で参加してつくったリハビリテーション省内研究会は、年余にわたる討論の後、「医学的リハビリテーションに関する現状と対策」と題して報告した。しかし、それは、ほとんど身体障害者の医学的リハビリテーションに関するもので、老人については、わずかに数行が記録されたに過ぎない。」(森[1972:161])

◆森 幹郎 19700715 「戦後老人対策のあゆみ」,佐口・森・三浦[1970]
*佐口 卓・森 幹郎・三浦 文夫 19700715 『老人はどこで死ぬか――老人福祉の課題』,至誠堂,184p. ASIN: B000J9P7M8 420 [amazon] ※ b a02 a06

「2 一九六〇年代(昭和三五〜四四年)
a 老人福祉法
 一九六〇年代をかえりみて、老人対策の上で特筆すべきことは、一九六三年(昭、三八)の老人福祉法の制定であろう。
 その源流は、先きにものべた一九五三年(昭、二八)の潮谷・杉村両氏による老人福祉法試案にまでさかのぽることができるが、翌年の全国社会福祉事業大会において、「養老年金制度を中心とする老人福祉法の制定」が決議されて以来、老人福祉法の制定は関係者のあいだの悲願となってきた。
 一九六一年(昭、三六)、右の試案は若干改正されて、九州社会福祉協議会の試案として採択された。また、同年、民社党は政策審議会の案として老人福祉法案要綱を発表した。つづいて自民党も老人福祉法要綱の紅露試案を発表した。
 このような老人福祉法の制定に対する世論を反映し<147<て、一九六三年(昭、三八)、老人福祉法の制定をみるにいたったのであるが、これによって老人対策が新しい考え方に立ったことはいうまでもない。すなわち、「この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もって老人の福祉を図ることを目的とする」(第一条)ものであり、さらに、「国及び地方公共団体は、老人の福祉を増進する責務を有する」(第四条第一項)と規定されたからである。従来、民間または地方公共団体が自由に進めてきた老人福祉の増進が、いまや国および地方公共団体の責務であると宣言されたのである。
 先きに国民皆年金、国民皆保険の体制がしかれ、いままたここに老人福祉法の制定をみ、憲法第二五条に規定する「社会福祉、社会保障の向上及び増進に努める」ための体制は一応立法上その形をととのえるにいたったのである。
 一方、これより先き、政府は、ようやく顕在化してきた老人問題の重要性を痛感し、一九六一年(昭、三六)六月、厚生省組織令の一部を改正して新時代に即応する組織をととのえていた。
 すなわち、従来、生活保護法に基づく養老施設に関することは祉会局施設化課の所管で、その所掌事務は「養老施設の設備及び題言に関する指導及び助成を行なうこと」と規定されていたのであるが、新しく、「老人福祉事業の指導及び助成に関すること」がその所掌事務に加えられたからである。法令用語として「老人福祉事業」という言葉が用いられたのはこれが最初である。
 さらに、老人福祉法の制定された翌年四月、厚生省社会局には老人福祉課が設置され、またその翌年一九六五年(昭、四〇)には、東京都も民生局内に老人福祉課を設置した。現在、地方公共団体の民生局に老人福祉課を設置するものは、二(東京都、大阪市)、老人福祉係を設置するものは二八に及んでいる。
 なおまた、老人福祉法の付則において社会福祉事業法の一部改正が行なわれ、厚生省の付属機関である中<148<央社会福祉審議会のなかには、既設の生活保護専門分科会とともに老人福祉専門分科会が設置された。以来、中央社会福祉審議会は、数次にわたって、老人福祉施策の推進に関する答申・意見具申を行なってきた。
b 老人福祉対策
(1)経費老人ホーム
 最初の有料老人ホームが生まれて一〇年後、一九六一年(昭、三六)にはモの数は二六に達していた。これを設置主体別にみると、公立一(神奈川県)、社会福祉法人立六、宗教法人立二、学校法人立一、財団法人立五、社団法人立二、私人立九となっている。
 また、ますます高まってくる有料老人ホームの需要にこたえて、厚生年金保険の老齢年金受給者を対象とする厚生年金老人ホームの設置が計画され、一丸六二年(昭、三七)、はじめて熱海(静岡県)に設置された。これより先き、簡易保険・郵便年金の加入者を対象とする老人ホームが、一九五五年(昭、三〇)熱海に、つづいて、一九五八(昭、三三)、別府(大分県)に、翌年小樽(北海道)にと相い次いで設置されている。
 これらの有料老人ホームは、公私を問わず、いずれも入所申込者が殺到し、多数の申込者が待機して老人の要望を満たしきれないことは明らかであった。
 しかし、当時、私人の設置・経営するものの多くは、毎月の利用料のほか入所に当たって利用者から相当額の保証金、寄付金、権利金等を徴収していた。それらの多くは施設建設費の一部に当てられることが多かったので、老人が退所を申し出ても保証金を返済できない、というような例も出てきた。また、毎月の利用料は徴収せず、入所時に終身利用料として多額の一時金を徴収している例もあったが、ようやく慢性化してきたインフレのために、終身利用料として徴収したはずの一時金が年々その貨幣価値を失い、経営者側ではすでにそのすべてを使いきってしまっているという例もあった。このことに関して、有料老人ホームのなかには、老人と老人ホームとのあいだに紛争が起こり、社会問題となっているものもあった。
 こうした背景のなかで、社会福祉関係者のあいだに<149<は、早くから、無料の養老施設のほかに、社会福祉事業として有料の老人ホームを設置・経営することを希望する声があがっていた。いま、各種の大会等における古い記録を繰ってみると、一九五三年(昭、二八)度の全国養老事業協議会の大会で、すでに有料老人ホームの設置・促進について関係方面に陳情することを決議している。
 それから一〇年近く、ほとんど毎年の大会で社会福祉事業としての有料老人ホームの設置促進が決議されている。一方、高まる需要にこたえてこれを設置するものもふえてきたので、政府も、ようやく有料老人ホームについては実験的な段階を終わったものと判断し、一九六一年(昭、三六)度からその施設整備費に対して国庫補助を行ない、その設置を助成するとともに、あわせてモの運営を指導監督することとなった。そして、その法的根拠を明らかにするため、先きにものべたとおり、同年厚生省組織令の一部改正を行なうにいたったものである。
 そして、当時施設課の所掌事務の一つに加えられた「老人福祉事業」が具体的に意味したものは、「経費老人ホームを設置・経営する事業」であり、これは、社会福祉事業法に規定する「生計困難者を無料又は低額な料金で収容して生活の扶助を行うことを目的とする施設」(第二条第二項第一号)に該当するものとされた。
 そして、経費老人ホームは、毎月の利用料のほかは保証金・寄付金などいかなる名目にもかかわらずこれを徴収してはならないこととし、毎月の利用料も養老施設の措置委託費(生活費と事務費との合算額)と同額とされた。「経費」という言葉はこの時新しくつくり出されたもので、「低額の利用料」というほどの意昧である。
 要するに、従来から行なわれてきた養老施設の施設整備費に対する国庫補助にとどまらず、さらに広く低所得階層に属する老人を対象とする経費老人ホームの施設整備費に対しても国庫補助することによって、老人対策は救貧という考え方から老人福祉という考え方ヘ一歩前進したのである。
(2)老人家庭奉仕事業
 一九六二年(昭、三七)に入ると、老人福祉対策は<150<きらに展開する。
 すなわち、同年から、新しく、老人家庭奉仕事業と老人福祉センターの設置に対してそれぞれ国庫補助が行なわれることとなったからである。これらはいずれも養老施設や軽費老人ホームのように施設に老人を収容してその福祉を増進しようというものとはちがって、居宅老人の福祉を増進することを目的とするものであった。それは、人は老若男女を問わずその家庭において豊かな生活を送るのがもっとも好ましく、施設に収容し、保護するのはやむをえない場合における次善の策である、という社会福祉の基本原理を老人福祉行政に応用したものであった。
 先きにもみたとおり、一九五八年(昭、三三)にはじめて大阪市が臨時家政婦制度をはじめて以来、神戸市、名古屋市等の大都市や、長野県下の各市町村、布施市、秩父市、行田市等では、相い次いで同様の制度を採用し、その成果にはみるべきものが少なくなかった。
 ここに、政府は、老人家庭奉仕事業についてもすでに実験的な段階は終わったものと判断し、積極的にこれに国庫補助していくことになったものである。
 しかし、初年度、国庫補助の対象とされた老人家庭奉仕員の数はわずか二五〇人で、六大都市に配置されたに過ぎなかった。そして、派遣の対象も「要保護老人世帯」とされ、「そのなかに占める被保護老人世帯の割合はおおむね五〇パーセント以上とされ」だ。このことは、低所得階層から順々にサービスを供給していかなくてはならないわが国の現状からして、やむをえないことであったというべきであろう。一九六五年(昭、四〇)、その対象はやや緩和されて「低所得の家庭」にまで拡げられた。
(3)老人福祉センター
 養老施設・軽費老人ホームはいずれも施設対策であり、老人家庭奉仕事業は居宅対策ではあるが、「老衰等のため、独力で生活を営むことの困難な老人の属する要保護老人世帯」に対する対策であって、これらのサービスを受けるには、いずれもそれぞれ経済的な条件と身体的な条件とが必要とされた。つまり、それらのサービスは、すべての老人に対して開放されてはおらず、一定の条件に該当しない場合にはこれらのサービスを受けることができなかったのである。<151<
 これに対して、一九六二年(昭、三七)からその整備費に対して国庫補助が行なわれることになった老人福祉センターは、広く一般の老人を対象とするものであった。
 老人福祉センターの実験は当時まだ行なわれておらず、むしろ行政サイドの方が先行したといえる。その点、数年間の実験の後に国庫補助の対象とされた軽費老人ホームや家庭奉仕事業とはまったく異なっている。その後の老人福祉センターの発展の姿が、政府によって定められた老人福祉センター設置運営要綱とかならずしも同一ではないのは、こうしたところにも一つの理由があるといえよう。
 当時、世人クラブの数はすでに一四、六五四にも上っていたが(一九六二・四・一)、老人福祉センターの設置によって、老人クラブの活動がさらに大きな刺戟と活路を与えられたことはいなめない。
 すなわち、当時、老人クラブ活動の上でもっとも大きな隘路となっていたものは、活動の拠点となるべき会場が確保しにくいということであった。しかし、老人福祉センターーの設置された市町村にあっては、水を得た魚のように老人クラブ活動が活発になり、また、このことを伝え聞いた他の市町村の老人ククラブでは、老人福祉センターの誘致に狂奔することとなったからである。
 こうした要請にこたえて、国民年金特別融資、厚生年金保険積立金還元融資による地方公共団体の地方債の対象として、一九六一年(昭、三六)から、「老人クラブ」という名称のもとに老人クラブ会館が加えられた。そして、これは町村部に多く建てられ、老人福祉センターとともに老人クラブ活動の拠点となった。なお、「老人クラブ」は一九六五年(昭、四〇)度から「老大憩の家」とその名称を改められた。
 また、同じく一九六五年(昭、四〇)から、老人休養ホームも地方債の対象とされるにいたったが、これは従来から広く国民に利用されてきた国民宿舎の老人版ともいうべきもので、宿泊の便宜があったから、老人クラブの会員などにも広く愛用された。
 老人福祉センター、老人憩の家、老人休養ホームはいずれも、ひとり若い層だけではなく、老人のあいだにもようやく多くなってきた余暇時間をすごす「場」<152<として大きな意義があった。
(4)特別養護老人ホーム
 先きにものべたように、養老施設は「老衰のため独立して日常生活を営むことのできない」老人を収容することを目的としていたが、また一方、戦後の住宅事情を強く反映して老人住宅の性格ももっていた。すなわち、老人福祉法の制定される前年の一九六二年(昭、三七)に厚生省が行なった調査によると、収容されている老人の健康状況の分布は次ページのとおり、三分の二近くまでが健康で、養老室背がナーシング・ホームNursing Home であるよりも、住宅Housing であることを示している。しかし、また
一方、行体や精神に障害があったり、慢性疾患を持つ病弱者の割合も三分の一を越え、さらに、全休の一割近くベッドについていることも知られるのである。
 したがって、「これらの者がが常に同一の居室で起臥寝食をともにすることは、悪平等に堕するのみならず、施設内の保健衛生を維持するのに障害となり、又は静養を要する者の疾病を増悪させる等処遇を適正に行う上に望ましくないことも考えられるので、特にこれらの者を別に収容して、静養、回復させる設備を要することは当然である」(保護施設取扱指針)という考え方のもとに、養老施設は「静養室を設備しなければならない」ものとされた。そして、静養室の収容力は、施設の定員のおおむね一五パーセントに相当する人員を収容するに足る広さを標準とすることとされた。
 しかし、人はみなとしをとり、また、高齢になるにつれて病弱化化していくものである。したがって、歴史の古い施設にあっては、「脆弱、疾病に罹り静養を要する者」の割合が多くなってくるのは当然のことであり、先きに示された一五パーセントの割合をはるかに越えて、三〇パーセント、四〇パーセントという施設も少なくなかった。
 こうしたなかにあって、これらの老人だけを対象とする養老施設が生まれた。それは一九六一年(昭、三六)に設置された十字の園(静岡県当初、定員三〇人)である。これはドイツのディーコニス・ウォルフらが提唱して Nursing
Home を念頭におきながら設立されたものである。<153<

(図)養護施設収容者の健康状況
総数    一〇〇・〇
健康     六四・一
病弱     三五・九
 臥伏している   九・二
  身体障害者   一・四
  慢性睨患者   五・八
  そ の 他   二・〇
 臥伏していない 二六・七
  身体障害者   七・五
  精神障害者   四・八
  そ の 他  一四・四
(資料)1962(昭.37).5.15.厚生省施設課調べ

 老人福祉法の制定に当たって、健康な老人のための住宅対策は制度化されず、養護老人ホーム(従来の養老施設)には、依然として、「環境上の理由」(家族又は家族以外の同居者との同居の継続が老人の心身を著しく害すると認められる場合、住居がないか又は住居があってもそれが狭あいである等環境が劣悪な状態にあるため、老人の心身を著しく害すると認められる場合――社会局長通知――)によるものも収容して、養護老人ホームは救貧院的残滓を残すこととなった。しかし、これは、当時の国民の生活水準・居住水準等から判断してやむをえなかったものと容認しなければならないであろう。しかし、一方、常時臥床している老人を対象として特別養護老人ホームが創設されたことは、老人施設の専門分化の一歩前進として正しく評価すべきであろう。
 特別養護老人ホームははじめ老人病院として計画されたが、福祉立法のなかに医療機関である病院を包含するのは奸ましくないという意見などもあって、この計画は後退した。これに代わって、看護老人ホームとすべきだという意見が強くなった。一九六三年(昭、三八)三月に成立した翌年度の国の予算では、老人ホームの種類として、「老人ホーム」 (従来からの生活保護法の養老施設の移し替え)と「軽費老人ホーム」のほかに、あらたに「看護老人ホーム」が加えられ、<154<三木立てとなっているが、この「看護老人ホーム」が、その年の七月に制定された老人福祉法のなかで「特別養護老人ホーム」と規定されたものである。同年度予算は成立していたが、同法の審議の過程で、看護老人ホームという名称も適当ではないという理由から特別養護老人ホームと改められたものである。
 特別養護老人ホームについては、老人施設の専門化されたものということの外に、もう一つ大きな前進があったことを認めなければならない。それは、養護老人ホームの入所に当たっては、養老施設よりは、少しく緩和されたとはいえ、依然として経済的制限が課されていた。これに対して、特別養護老人ホームは、その対象を経済的に制限することなく、一応収容の必要なすべての老人とし、その属する経済的階層に応じてそれぞれ応分の費用を徴収するという制度を導入したからである。特別養護老人ホームの創設は、救貧的な老入保護の思想から脱却して、老人福祉の思想に立ったものといえよう。
(5)健康診査
 老人福祉法においてあらたに制度化された施策の多くは、身体的、精神的または経済的にハンディキャップを有する特定の老人を対象とするものであったが、広くすべての老人を対象とする施策の一つに老人健康診査がある。
 これは国の事務と考えられ、市町村長に委任されるものとされたが、私の知るかぎりでは、老人の健康診査を国の事務としている例は世界にもないように思われる。
 老人福祉法において健康診査が制度化されたのは次ぎのような事由による。すなわち、いかなる疾病の治療も早期発見、早期治療がもっとも望ましいものであり、そのためには平素から健康診査を受けて健康管理を行なっていることが必要であるのはいうまでもない。とくに老人に多くみられる脳卒中・ガン・心臓病は三人成人病といわれ中年期以降に比較的多い病気であるが、早期治療の効果に著しいもののあることが知られている。このため、最近、職場等においては成人病の健訴訟査が活発に行なわれている。
 一方、現行の医療保険制度のもとでは健康診査は保険の給付の対象とされていないから、被保険者は健康診査を受けようと思っても、その費用をすべて自己負<155<但しなければならない。しかし、老人は、多くの場合、その費用を負担することができないから、積極的に健康診査を受けようとしないのがふつうである。他の年齢階層の者にくらべて、老人は、有病率の高い割  合に受療率が低いのはこうした事情によるものと思われる。
 これらのことを考え、老人の健康を守るという立場から健康診査を積極的に行なうことが必要とされ、老人福祉法の制定に当たって制度化されるにいったのである。
 その結果は、当初の予想どおり、受診者の約半数については療養を必要とするものと診断された。しかし、療養費の給付については国民皆保険の体制のしかれた今日、医療保険各法または生活保護法(医療扶助)において行なわれるべきものである。医療保険の給付率は、健康保険の本人が一〇割給付であるほかは、その家族に対する五割給付、または国民健康保険の被保険者に対する七割結付となっており、その残りの三割または五割についてはそれぞれ自己負担しなければならない。しかし、老人は多くの場合その自己負担には耐ええないものであるから、療養を必要とすると診断されながらも治療の継続を期待できないというのが実情である。
 このような実情に対処して、政府では、医療制度の抜本対策についてかねてからいろいろと検討中であるが、その改善のなされるよりも早く、地方公共団体においてはすでに具体的にこれにこたえる対策を進めてきた。すなわち、給付率の引き上げがこれである。
 老人に対する給付率の引き上げをはじめて行なったのは岩手県沢内村であり、それは一九六〇年(昭、三五)のことであっだ。その後各市町村においてもこれにならうものがあらわれ、現在、東京都、秋田県のほか一〇七市町村(一九六九・一〇)がこれを行なっている。具体的にそのやり方をみると、一〇七市町村のうち、ハ○歳以上の老人に一〇割給付して全額無料としているのが五四市町村で、半数を占め、このほか、八〇歳以上の老人に九割給付が一六市町村、七五歳以上の老人に一〇割給付が二一市町村となっている。また、給付率の引き上げを行なっている市町村の大半が東北地方にあるのも特徴的である。<156<
(4)老人クラブ
 このほか、老人福祉法の制定に伴って新しくはじめられたものに老人クラブに対する助成がある。老人クラブは、先きにものべたように、老人の持つ心理的な要求に巧みにこたえたものとして、雨後の笥のようにモの数を加えていった。しかし、一九六〇年代(昭、三五)に入って、その転換期を迎えるにいたったといえよう。
 すなわち、初期の老人クラブは老人の避難所であり、老人がフラストレーションを発散させる場として大いに役に立っていたことを認めなければならない。しかし、その後の10年に近い歳月の流れのなかで、一部の老人クラブは、避難所型からレクリエーション型への移行を示しつつあったが、全休としては、やや停滞の気味がみられはじめていた。
 こうした時期に、新しく老人クラブに対する公費助成の途がとられたのである。これは、ややもすればレクリエーションレ中心になりがちであった老人クラブの活動に、教養の向上という教育的要素の加わることを期待したものであり、また、ややもすれば自己中心的になりがちであった老人クラブの活動に、地域社会との交流という遠心性の加わることを期待したものであった。と同時にまた、まだ老人クラブの結成されていない地域においては、新たに老人クラブの結成される刺戟となったことはいうまでもない。
 しかし、老人クラブに対する助成費については、はじめから好ましいものではないとする意見もあったし、また、ほとんど全国の各地に老人クラブの結成された今日、もはや助成の目的は達したから、今後は単位クラブに対する助成はやめ、指導者の養成等に重点をおくべきであるという意見もある。
(7)老人住宅
 われわれが広く社会福祉というときには、住宅政策まで包含していわれることのあるのは前にものべたとおりであるが、わが国の住宅政策は、ヨーロッパの先進諸国、とくに北欧のそれほど福祉性を有していなかった。むしろ、先きに養老施設の対象者の健康分布をみたときに指摘しておいたように、養老施設の収容者のなかには健康な老人が三分の二を占め、社会福祉施設とはいっても、職員つき、三食つきの住宅という性<157<格を持っていた。これは、第二次世界大戦の戦禍による住宅事情の深刻化と「いえ」の制度の崩壊に伴う世帯分離・核家族化の傾向とを背景にしながら、住宅供給が労働力の再生産ということに重点をおいて推進されなければならなかったことによるものであることはすでにのべたとおりである。すなわち、戦後の住宅行政が当面目標としなければならなかったのは、勤労者の住宅であり、労働力の再生産にプラスしない福祉住宅ではなかったからである。
 しかし、養老施設が老人住宅の代替的役割を演じていることが明らかにされ、片や老人ホームにも収容されないでいるねたきり老人の数が相当数に上ることが明らかにされると、ナーシング・ホームはナーシング・ホームとして、住宅は住宅として機能分化することの重要性がようやく認識されるようになってきた。
 すなわち、老人福祉法制定の翌年、公営住宅法による第二種公営住宅のなかの特定目的住宅の一つとして老人世帯向公営住宅が加えられた。
 しかし、現行の公営住宅法の規定においては単身者は入居できず、また、第一種公営住宅が対象とするほどの経済階層の老人のあいだにも入居の希望者は少なくなかったから、これらの点についてはさらに改善の余地が残されている。
(8)高齢者学級
 一九六五年(昭、四〇)から、文部省では、社会教育の一環として、市町村の行なう高齢者学級に対して委託費を出してきた。すでに早くから、社会教育の一環として、青年学級・婦人学級等が広く開講されており、従来からも多数の老人がこれに参加していたが、高齢者学級の開設により老人の学習機会はさらにふえることとなった。このことと関連して、熊本女子大学が、大学開放講座の一環として老人のための講座を持っていることもとくに記しておきたい。
 老人が社会から疎外されることなく生きていくためには、常に新しい時代の知識を吸収し世代間のギャップを埋めていくことがきわめて重要であるが、この点で、高齢者学級の果たしている役割には少なからぬものがあるといえよう。
(9)社会活動参加促進事業
 わが国の定年制は世界にも類をみない人事管理制度<158<であるが、その発祥は早く明治時代にまでさかのぼることができる。しかし、とくにこれが広く行なわれるようになったのは、第二次世界大戦の後の労働力市場における需給の不均衡に由来するものであった。そして、今日もなお、依然として根強い労働慣行として残っている。しかし、五五歳定年は最近では少しく延長されて五七、八歳になっているようであるが、これは一つには労働力市場における需給基調の転換によるものであろう。
 一方、今日、六〇歳に入ってもなお労働の意志と能力とを持っているものは少なくなく、また、制度的には国民皆年金の体制がしかれたとはいっても、いまだその成熟期にはいたっていないため、老人人口のうち老齢年金の受給者の割合はきわめて微々たるものである。したがって、定年制のゆえに従来の職場を退かなければならないとしても、働くのかやめれば多くの場合生きていくことをも否定しなければならないことになる。何としても新しい職場を探さなければならないというのが実情である。
 しかし、労働力市場が従来老人労働力をかならずしも必要としてこなかったのはいまものべたとおりである。
 こうした情況のなかで、すでに、東京都社会福祉協議会では、一九六二年(昭、三七)から、福祉行政の観点に立って老人の職業紹介事業を行なってきた。さらに、名古屋市社会福祉協議会も一九六五年(昭、四〇)からこの事業を進めており、その後も、この事業に対する国庫補助の要望はきわめて強く、かつ、その成果の著しく高いことも認められたので、一九六八年(昭、四三)から国庫補助の対象とされることになった。
(10)ねたきり老人対策
 一九五八年(昭、三三)、民生委員制度発足四〇周年を記念して大阪市に臨時家政婦制度の生まれたことはすでにのべたところであるが、一九六八年(昭、四三)には、同じく同制度の発足五〇周年を記念して、全国社会福祉協議会は全国の七〇歳以上の老人についてねたきりの実態調査を行なった。
 そして、その数は二〇万人と推計されたのであるが、これらの実態が広くマスコミをとおして喧伝されたこともあり、翌一九六九年(昭、四四)には、これ<159<らの老人を対象として、特別養護老人ホームの増設、家庭奉仕員の増員、訪問健康診査の実施のほか、あらたに特殊ベッドの貸与、専用病室増改築資金の貸付等の対策がはじめられることとなった。
 本来ならば行政当局の調査によって把握されるべきねたきり老人の実態が、全国二八万人の民生委員の調査査によって浮彫にされ、モれが行政に反映したということは、情報化社会の特性を物語るものではあるけれども、一面また、老人問題が一段と社会的な深刻さを深めてきたことを示すものでもあろう。
 なお、ねたきり老人に対する対策としては、すでに一九六八年(昭、四三)から税制上優遇の措置がとられていることもあげておかなければならない。従来、社会福祉行政は各種のサービスを供与することにあると考えられてきたが、近年は各種の減税も福祉対策と同じような効果をもたらすものとして見直されてきている。モの一つとして、一九六八年(昭、四三)から、ねたきり老人を扶養する者についてはこれを所得税・市町村民現における所得控除のうちの身体障害者控除の対象とされることになった。所得税法施行令第一〇条第一項第五号にいう「常に臥床を要し、複雑な介護を要する者」がこれである。
 一九七〇年(昭、四五)からはさらにその対象が拡大され、「精神又は身体に障害のある年齢六十五歳以上の者で、モの障害の程度が第一号又は第二号に掲げる者に準ずるものとして福祉事務所の長の認定を受けている者」についても同じく所得控除の対象されることとなった。
(注)右の第一号というのは「心神喪失の常況にある者又は……精神薄弱者とされた者」、第二号というのは身体障害者手帳に身体上の障害がある者として記載されている者である。
 これは、ねたきり老人に対する直接的な対策ではないが、これを扶養する者に対する減税であり、間接的な福祉対策として評価すべきであろう。
(11)白内障の手術
 国民皆保険の時代となっても、医療費の自己負担額が少額でない場合には老人はその負担に耐えることができないため、医療を中断することになる例の少なくないことも先きにのべたが、その対策の一つとして、<160<一九七〇年(昭、四五)から白内障の手術に対する自己負担分を公費で負担することになった。これは一つには白内障の手術の成功率が高いことによるものでもあるが、また、先きにものべたとおり、東京都はじめ相当数の地方公共団体が保険の給付率を引き上げていることともあわせて、社会保険に対する社会福祉からの接近として注目すべきことであろう。
c 敬老の目
 先きに「としよりの日」の運動が一九五一年(昭、二六)から国民的行事としてとりあけられていることをのべたが、一方、同年の全国社会福祉事業大会において、東京都および兵庫県からそれぞれ「としよりの日を国の祝日にすること」について議案が提出されている。しかし、この大会においては、なお時期尚として今後の検討に委ねられることとされた。
 翌年の全国養老事業大会においても同様の提案がなされ、今回は大会の決議として採択された。さらに翌一九五三年(昭、ニハ)の全国養老事業協議会でも同様の決議が行なわれている。
 以後、老人関係の各種大会・会議においては、かならずといってもいいほどに「としよりの日」を国の祝日に加えるよう決議されている。そして、老人福祉法の制定に当たって、従来の「としよりの日」が「老人の日」と名を改めて同法第五条に規定されるや、その後は、「老人の日」を国の祝日に加える運動として激しさを加えていった。
 このような世論に対して、一九六五年(昭、四〇)の春、国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律案が提案されたが、審議未了とされ、翌年再度同法案が提案され、成立をみるにいたったものである。
 すなわち、同法の成立によって、九月十五日の「敬老の日」は、二月十一日の「建国記念の日」、十月十目の「体育の日」とともに国民の祝日の一つに加えられ、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」と規定された。

3 戦後二五年のまとめ
 一九四五年(昭、二〇)に第二次世界大戦が終わっ<161<て、以来二五年、四分の一世紀が過ぎた。ベビー・ブームの時に生まれた子供たちも、モの多くはすでに社会に出て人の子の親となっている。わが国の老人問題は、人口構造の変化という点でも、家族制度の変貌という点でも、生活様式の近代化という点でも、ヨーロッパの近代国家が一世紀のあいだに徐々に休験していったことを、戦後二五年のあいだに好むと好まざるとにかかわらず休験しなければならなかった。それらの変化は、国家にとっても、個人にとっても、何の準備もできていない時に突如として起こってきたものである。
 一方、わが国は、壊滅に瀕した戦禍の国土を復興しなければならないという敗戦国の宿命も味わなければならなかった。
 ここに、経済復興と社会福祉の二者択一の問題が起こってくる。そして、すべてが無に帰したわが国が、この時、経済復興の途をえらんだとしても、それはむしろ当然のことであったというべきであろう。
 この意味で、一九五〇年代の中頃、わが国戦後史が転換期を迎える頃までは、わが国の老人対策が公的扶助(生活保護法)による生活困窮者の救済以外に見るべきものがなかったとしても、それをとがめることはできないであろう。
 そして、一九五九年(昭、三四)、国民年金法が制定されて国民皆年金の体制がしかれ、また、前年、国民健康保険法が制定されて国民皆保険の体制がしかれ、一九六〇年代の「保険時代」に入ることになるのである(ここでいう「保険」とは、年金と医療とを保険理論の上に立って給付していくという意味で、単に医療保険だけをいうものではない)。
 わが国は、保険時代としての体制を確立して一九六〇年代を迎えることとなったが、幾つかの問題点を持っていることがすでに指摘されている。それは、理念型としては、年金制度についても、医療制度についても、いずれも一本化することによって、社会的に弱者である階層に厚く給付していくべきであるという考え方である。それぞれの制度が長い歴史と伝統とを持っていることであるから、その一本化はいうべくして行なうことのむつかしいことであろう。
 とくに年金保険については、さらに困難なもう一つ<162<の問題がある。すなわち、それは、医療保険が短期給付であるのに対し、年金給付はそれが長期給付であるということから生ずる制約である。言葉をかえていえば、年金の給付が十分に行なわれるためには一定の歳月がかかるということである。年金保険制度が確立されて、労働者は明日の老後を約束されることになった。しかし、そのことは、そのまま、今日の老人に今日の生活を保障するということにはならなかったからである。年金制度が成熟期に達するのは一九九〇年代以降といわれる所以である。
 かつて一九五〇年代の中頃、地万公共団体のなかに独自に敬老金を支給するものがあらわれ、これが慰老年金法案の国会提出となり、ひいては国長年金法の制定となったことはすでにのべたとおりであるが、成熟期の到来を待っていることのできない老人の所得ニードにこたえて、地方公共団体のなかには独白に老人年金を支給しているものも少なくない。一九六九牛(昭、四四)の調査によると、現在、老人年金を支給している地方公共団体の数は一五二にのぼっている。
 一方、老人問題の重大性・深刻化にともない、一九六〇年代に入ると、老人対策は、一九五〇年代にくらべ、質的な変化・発展を示していることは先きにみたとおりである。いま、これらを要約すると、
a 生活保護法による生活困窮者対策から全般的に低所得階層対策へと脱皮し、なかには、特別養護老人ホームのように、経済階層のいかんを問わず収容措置し、また、健康診査のように全老人を対象とする施策も具体化してきたこと
b 施設対策(養老施設)にとどまらず、各種の居宅対策も進められてきたこと
c ひとり厚生行政にとどまらず、住宅行政・労働行政・社会教育・税制などの面でも老人対策がとりあげられるようになったこと等があげられる。
 しかし、それらがいずれもいまだ十分なものでないことは率直に認めなければならないところであり、今後さらに一層の努力が必要とされなければならない。」(森[1970:-163])


*作成:-2007:天田城介立岩真也 2008-:老い研究会
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