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老い・1950年代

老い

last update:20101104
◆1953 東大病理学緒方知三郎が老人病研究所、老人病研究会を設立

◆1953〜 日本寿命科学協会(ウェル・エージング・アソシエーション・オブ・ジャパン)発足
吉田 寿三郎 19810120 『高齢化社会』,講談社,講談社現代新書,212p. ISBN-10:4061456040 ISBN-13: 978-4061456044 [amazon] [kinokuniya] ※ b a06
 「そんな願いも込めて、一九五三年、私たち同じ思いを持つ者が集まって「日本寿命科学協会」(ウェル・エージング・アソシエーション・オブ・ジャパン)を発足させた。」(吉田 1981:62)
【関連情報】
■日本ウエルエージング協会(元・日本壽齢科学協会)
http://www.wellaging.ne.jp/

◆1954〜 寿命学研究会
 1956〜 『寿命学研究会年報』1−3回(昭31−33)/復刊No1−9(昭54−62) 12冊
 http://www.kosho.or.jp/list/049/01815232.html

【簡略年表(以下に関連する情報+αのみ)】
1953年 東大病理学緒方知三郎が老人病研究所、老人病研究会を設立
1954年 東大外科学塩田広重が寿命学研究会を設立
1955年 阪大内科学今村荒男が老年科学研究会を設立
1956年12月 第1回日本ジェロントロジー学会が東京にて開催。会長:塩田広重、老年医学部会長:緒方知三郎、文化科学部会長:寺尾琢磨。
1957年11月 第2回日本ジェロントロジー学会が大阪にて開催。会長:今村荒男、老年医学部会長:吉田常雄、文化科学部会長:橘覚勝。
1958年11月 第3回日本ジェロントロジー学会が名古屋にて開催。会長:勝沼精蔵、老年医学部会長:山田弘三、文化科学部会長:橘覚勝。
     総会において名称の改称が決定され、日本ジェロントロジー学会は日本老年学会、老年医学部会は日本老年医学会、文化科学部会は老年文化科学会となった。
1959年5月 老年文化科学会の幹事会において、老年文化科学会の名称を日本老年社会科学会と改称した。
1959年11月 第1回日本老年学会(第4回日本ジェロントロジー学会に相当する)が東京にて開催。会長:塩田広重、日本老年医学会会長:緒方知三郎、日本老年社会科学会会長:渡辺定。
     この総会にて日本老年学会が発足し、その分科会として日本老年医学会および日本老年社会科学会が発足した。
     両分科会は隔年毎に同時、同地区において日本老年学会として開催し、他の隔年毎は単独に行う方針が承認された。
1960年11月 第2回日本老年医学会が京都にて開催。会長:井上硬。
1961年11月 第2回日本老年学会が東京にて開催。会長:尼子富士郎、第3回日本老年医学会会長:冲中重雄、第3回日本老年社会科学会会長:渡辺定。

※このあたりの時期については以下も参照。
 http://www.jpn-geriat-soc.or.jp/about/ayumi.html

◇緒方知三郎
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%92%E6%96%B9%E7%9F%A5%E4%B8%89%E9%83%8E
緒方知三郎(おがたともざぶろう、1883年1月31日 - 1973年8月25日)は、病理学者。東京生まれ。
幕末の蘭学者・緒方洪庵の次男・緒方惟準の四男。緒方富雄は甥。東京帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)卒。山極勝三郎に師事。脚気や結核、腫瘍の発生、「唾液腺内分泌に関する研究」等を研究。東京帝国大学医学部教授を経て東京医科大学初代学長になる。1957年文化勲章受章。

◇塩田広重
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E7%94%B0%E5%BA%83%E9%87%8D
塩田 広重(しおた ひろしげ、1873年 - 1965年5月11日)は、外科医学者。京都府生まれ。胃腸手術の権威として知られ、1930年東京駅で狙撃された濱口雄幸の治療をした。輸血手技・イレウスの研究をし、成人病研究を提唱。また老人学の草分けとして、寿命学研究会を創設。1954年文化功労者。主著は「メスと鋏」。

◇勝沼精蔵
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B2%BC%E7%B2%BE%E8%94%B5
勝沼 精蔵(かつぬま せいぞう、1886年8月28日 - 1963年11月9日)は、兵庫県生まれの医学者。専門は血液学。名古屋帝国大学医学部教授、第三代目名古屋大学総長を務めた。医学博士。
一高、東京帝大医科大学卒業。献体団体である不老会の設立を助言したのも彼である。1954年11月3日に文化勲章を受章。没後の1963年11月10日勲一等旭日大綬章を追贈され、従二位に叙された。

◇今村荒男
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E8%8D%92%E7%94%B7
今村 荒男(いまむら あらお、1887年10月13日 - 1967年6月13日)は、内科医学者。奈良県生まれ。東京帝国大学卒業。伝染病研究所を経て、大阪帝国大学教授に就任。日本で初めてBCGワクチンの人体接種を行い、結核予防と治療に尽力した。1960年文化功労者。

◇尼子富士郎
 http://www.jamas.or.jp/fujirou.htm
尼子富士郎(1893:明治26年〜1972:昭和47年)。山口県下松市において、父尼子四郎、母とよこの長男として生まれる。1918年東京帝国大学医学部卒業。医学部副手として稲田内科(現東大第三内科)に勤務。1926年その前年に設立された財団法人浴風会(現社会福祉法人浴風会)の医長に就任。それ以後は老年医学の研究と「医学中央雑誌」の刊行に力を注ぎ、これらの功績に対して、その存命中に数々の賞を受けた。

【関連情報】
◇社団法人老人病研究会
 http://www.nms.ac.jp/gochojunet/

◇日本医科大学 老人病研究所
 http://www.ig.nms.ac.jp/
「昭和29年(1954)2月 東京都千代田区神田淡路町、同和病院内に社団法人「老人病研究会」の付属機関として「老人病研究所」を設立。緒方知三郎氏を所長とし、唾液腺ホルモンやビタミンEと老化について研究。」

◇財団法人不老会
 http://furo-kai.or.jp/

◆1955 精神学会『老年の精神医学』シンポジウム
 「新福 (中略)もうひとつは精神学会が、『老年の精神医学』のシンポジウムを持ったことです。それに大阪大学の金子仁郎教授、横浜私立大学の猪瀬正教授、そして私の三人が演者になった。一九五五年ですが、これが日本の老年精神医学の研究にも、私どもの研究にも大きな弾みになりました。」(新福 2004:194[新福監修 2004:194])
 新福尚武2004「大正・昭和・平成の時代を生きて」,新福監修[2004]*
◇新福 尚武 監修 20040521 『老いと死を生きる――老人病院医師へのインタビュー』,老人病院情報センター ,223p. ISBN-10: 4990198301 ISBN-13: 978-4990198305 2100 [amazon][kinokuniya] b a06

◆1958 大阪市で臨時家政婦派遣制度発足

◇森 幹郎 19720225 『日本人の老後――“豊かな老後”はいつの日か』,日本経済新聞社,日経新書,201p. ASIN: B000J9NRRA [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
 「各地の居住福祉のうち、最も中心的な役割を果たすものは、各国ともホームヘルプ・サービスである。ホームヘルプ・サービスは一八八〇年(明治一三年)、スイスに始まり、今世紀にはいって急速に各国に普及した。その名称も初めは国によっていろいろ異なっていたが、一九五二年(昭和二十七年)の国際会議でホームヘルプという名称に統一された。ただし、アメリカでは初めからホームメーカーという名称を用いていたが、一九七一年(昭和四十六年)、ヘルスエイド(保健助手)と改められた。
 欧米のホームヘルプ・サービスは、初め多子家庭や妊産婦家庭を対象とする児童福祉対策、労働政策で、いわば防救的な性格をもつものであった。しかしその後、老人や身体障害者を対象と<134<する救貧的な性格のサービスも行なわれるようになった。
 (中略)
 わが国では、昭和三十五年から労働省(婦人少年局)の指導の下に事業内ホームヘルプ制度が始<135<められた。これは、企業に勤務する労働者の家庭で、たとえばその妻の病気、子どもの事故などのため労働者が欠勤しなければならないような場合、企業が雇用しているホームヘルパーをその家庭に派遣し、労働者家族福祉の推進をはかろうとするものである。四十七年一月末現在、三百三十二の企業が単独または協同してこの制度を持っている。
 一方、これよりも早く昭和三十三年、大阪市は独自にホームヘルプ・サービスを始めたが、これは老人家庭を対象とする福祉サービスであった。その後、老人福祉法の制定に伴い、ホームヘルプ・サービスは国庫補助事業として積極的に推進されることとなった。」(森[1972:135-136])
 〔天田補足〕
 日本では、1956年、長野県で家庭養護婦派遣事業が始まり、その後、1958年、大阪市で臨時家政婦派遣制度が発足する。その後、1962年度から国庫補助事業として制度化されたのちに、1963年の老人福祉法において老人家庭奉仕員事業として規定されたものである。その後、1990年の老人福祉法改正で老人居宅介護事業として位置づけられた。

◇森 幹郎 19720225 『日本人の老後――“豊かな老後”はいつの日か』,日本経済新聞社,日経新書,201p. ASIN: B000J9NRRA [amazon][kinokuniya] ※ b a02 a06
 「たとえば、最近、とみに人々の関心をひくようになった「寝たきり老人」は、昨日や今日突然に発生したものではない。昭和二十八年に行なわれた内閣総理府と郵政省の共同調査でも、その後の数次にわたる厚生省の各種調査でも、つねにその存在は明らかにされていたものである。そ<163<の推移は表29のとおりで、毎回、わが国お六十歳以上の人口の数パーセントは半年以上床につきっきりであることが推計されていたのである。
 ピーター・タウンゼントらによる『工業化された三国の老人問題』によると、老人人口の中に占める「寝たきり老人」の割合は、イギリス三%、アメリカ二%、デンマーク二%となっているから、わが国の割合のほうが高いことが知られる。
 わが国の寝たきり老人について、その原因をみると、さきの昭和二十八年の調査でも、三十八年の調査でも、その四〇%は脳卒中の後遺症によるものと推計されている。しかし、近年におけるリハビリテーション医学の教えるところによれば、脳卒中を発病した場合、二人に一人が生き残り、生き残った人については、その九五%までが自分で自分のことぐらいはできる程度に回復するばかりか、さらに少なからぬ割合の人が職場にも復帰するという。とすると、三十数万人に及ぶ「寝たきり老人」の半数近くは、「安静にしていなさい」という医師の言葉を忠実に守ってきたがための犠牲者ではないだろうか。老人でなくても、1ヶ月も絶対安静にしていれば、手足や身体の各所が衰えてくるからである。」(森[1972:163-164])
 〔天田補足〕表29「寝たきり老人の割合(日本)(60歳以上に人口につき)」では、各調査年次ごとの「寝たきり老人」の割合を示している(単位:%)。昭和28年(1953年)の「老後の生活についての世論調査」(郵政省・総理府)では5%、昭和35年(1960年)の「高齢者調査」(厚生省)では男性4.5%、女性4.0%。昭和38年(1963年)の「高齢者実態調査」(厚生省)では男性6.0%、女性5.3%、昭和43年(1968年)の「高年者実態調査」(厚生省)では3.5%、昭和45年(1970年)の「老人実態調査」(厚生省)では3.2%となっている。

◆森 幹郎 19700715 「戦後老人対策のあゆみ」,佐口・森・三浦[1970]
*佐口 卓・森 幹郎・三浦 文夫 19700715 『老人はどこで死ぬか――老人福祉の課題』,至誠堂,184p. ASIN: B000J9P7M8 420 [amazon] ※ b a02 a06

 「一九五〇年代(昭和二五〜三四年)
a 養老施設の時代
 一九五〇年(昭、二五)といえば朝鮮戦争の起こった年であるが、この年現行の生活保護法が制定された。
 これより先き一九四五年(昭、二〇)に第二次世界大戦が終わり、翌年、生活保護法の旧法が制定されている。これは日本を占領した連合国総司令部の指導のもとに制定された、いねば応急的な立法であったから、わが国における近代的な意味での公的扶助の制度は、一九五〇年(昭、二五)の新生活保護法の制定によってその第一歩をふみ出したといってよい。
 一九四六年(昭、二一)に制定された日本国憲法は、その第二五条に、
 @すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 A国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
と規定しているが、生活保護法は、この理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行ない、その最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とするものである(生活保護法 第一条、この法律の目的)。
 生活保護の方法としては、生活扶助、住宅扶助、医療扶助等があり、その中心をなすものは生活扶助であるが、これは「被保護者の居宅において行う」ことを原則としている。そして、居宅において保護を行なうことができないとき、保護の目的を達しがたいとき、または被保護者が希望したときは、それそれ保護施設に収容して保護を行なうこととなっている(第三十条、生活扶助の方法)。
 老人を収容する保護施設を養老施設といい、「老衰のため独立して日常生活を営むことのできない要保護者を収容して、生活扶助を行うことを目的とする」(第三十八条、保護施設の種類)と規定されていたが、これは古くから、いわゆる養老院といわれてきた<140<ところのものである。
 すなわち、当時の老人対策は、老人が生活に困窮した場合その最低限度の生活を保障するものであって、このかぎりにおいては消極的な意味しか持たなかったといえよう。
b 老人福祉の夜明け
(1)有料老人ホーム
 第二次世界大戦は、わが国の各方面にはかりしれない大きな影響をのこしたが、「いえ」の制度の崩壊もその一つである。すなわち、戦後、従来の拡大家族の制度はくずれ、新しい「家族」が生まれた。その影響かまともに受けることになったのが老人である。
 その場合、老人が生活に困窮するときには、生活保語を行なうことによって問題の解決を図ることができた。しかし、生活に困窮しない中間階層、上流階層に属する老人のあいだにあっても、こども夫婦との心理的葛藤があらわになってくるなど問題があった。このような葛藤は戦前からもしばらしばあったはずであるが、当時は「いえ」の体面を汚してはならないという慮から潜在化していたものと思われる。それが、一九四七年(昭、二二)、民法の大変革等の影響もあって、社会の表面に出てきたものといえよう。
 また、今次大戦の戦禍によって住宅困窮はその極に達していた。
 こうした社会的な背景のもとに生まれたのが有料老人ホームである。すなわち、それは、物心両面において崩壊した「としよりの座」に安住していることのできなくなった老人たちの別居欲求にこたえることとなったのである。
 一九五一年(昭、二六)頃から、全国養老事業大会の議題の一つに有料老人ホームの設置促進がとりあげられるようになったが、一九五一年(昭、二六)、最初の有料老人ホームが東京都内に設置された。つづいて毎年数ヵ所ずつ設置され、一九五〇年代の終わり(昭、三四)までにその数は全国で二一ヵ所を数えるにいたった(全国養老事業協会調べ)。
 一九五〇年代における有料老人ホームの続出は、老人問題が生活困窮以外の要因からも生まれてきたことを示すもので、これらの問題は、いずれの社会におい<141<ても、都市化、近代化の過程においては容認しなければならないものであろう。有料老人ホームは、このような過程において住宅対策の遅れを補完していたものである。
(2)としよりの日
 これより先き一九五〇年(昭、二五)、兵庫県は九月一五日を「としよりの日」とし、全県あげて敬老の事業を行なったが、翌年、全国社会福祉協議会は、この着想をとりあげて「としよりの日」を全国的な日とし、各種の国民的行事を行なった。
 従来、老人対策といえば、人はすべて養老院を連想し、しかも、老人問題は市民から隠蔽される傾向がみられた。このような時、としよりの日の運動が国民運動として全国的にとりあげられたのは、老人問題が社会の表面に押し出されてきたからであり・、そしてまた、生活困窮階層の問題から全国民的な視野にまで拡がってきたからである。このことはすなわち、戦後、わが国の老人問題が一変したことを示すものである。
(3)老人福祉法試案
 一九四七年(昭、二二)には児童福祉法が、つづいて一九五一年(昭、二六)には児童憲章が、また、一九四九年(昭、二四)には身体障害者福祉法がそれぞれ制定され、児童問題、身体障害者問題がようやく軌道に乗ると、次ぎには老人問題が大きな社会問題となり、老人福祉法の制定に対する要望が各種の大会で決議されるようになった。
 こうした空気にこたえて、一九五三年(昭、二八)、熊本市の潮谷総一郎、杉村春三両氏じゃ老人福祉法の試案を発表した。
(4)老人クラブ
 今日、老人クラブはその数およそ八万を数えるが、そのうちもっとも初期に結成されたものの一つに一九五〇年(昭、二五)大阪市内で結成された二つのクラブがある。同市の老人クラブは翌年七ヵ所にふえ、一九五四年(昭、二九)には四七を数えるにいたった。一方、同年のとしよりの日には全国的に老人クラブを結成する気運が促進されたこともあって、全国社会福祉協議会が同年調査したところによれば、その数は一二一にのぼっている。
 全国一一二の老人クラブのうち半数に近い四七が大<142<阪市内にあるのは、当時、老人クラプ活動が大阪市においてとくに活発であったことを示すもので、市当局が意欲的にその結成をすすめていたことが知られる。東京都においても、一九五三年(昭、二八)度から、老人クラプ(新宿生活館)が実験的にはじめられている。
 呱々の声をあげて二〇年、老人クラブは幾つかの発展段階を経て今日にいたった。発足当初の老人クラブは、私が「避難所型」と呼ぶところのもので、従来の養老施設や有料老人ホームなどの施設対策ではどうにも解決することのできなかった新しい必要性にこたえて生まれたものである。
 すなわち、家庭のなかに「としよりの座」のなくなった老人たちは、老人クラブにやってきて、嫁に頭の上がらない息子をののしり、靴下よりも強くなった嫁の悪口をいい、戦前の古き良き時代を回想してはフラストレーションを解消していたのである。蘇軾の詩に事をしのぶは腹くるるがごとしとあるが、初期の老人クラブはフラストレーションを解消するという役割を果たしていたのであり、その面での効果には大きなものがあったといえよう。
 「いえ」の制度の崩壊が、大都市においてより早く、より強く起こったことを知れば、老人クラブが、まず大阪、東京のような大都市で発足したことも容易に理解できよう。また、それらは、自然発生的に生まれたというより、当時その衝にあったすぐれた行政官の知恵と意欲とから生まれたものといえよう。
 その後、老人クラブは次ぎの発展段階に入るが、これはさらに後のことに属する。
(5)敬老年金
 戦後における拡大家族制度の崩壊が老人に与えたもっとも大きな影響の一つは、老後の生活をこどもに期待できなくなったということである。従来から、老親の扶養は家督の相続と表裏一体のものであったから、相続すべき「いえ」の制度の崩壊した戦後、こどの側に老親扶養の意識が弱まったとしても、それもまたやむを得ないものであったかもしれない。
 老後の生活が私的扶養から公的扶養に移り変わっていくは、社会の近代化の過程において広くヨーロッパの諸国がすでに経験してきたところであり、ひとりわが国だけが否定することのできるものではないであ<<ろう。
 憲法にも明示されているように、老人の生活保障は国の責務であるが、それが具体化されるには若干の年月を要する。それを待っていられない市民の声にこたえて、地方公共団体のなかには独自に敬老年金の制度をはじめるものもでてきた。
 すなわち、一九五六年(昭、三一)四月から、大分県、久慈市(岩手県)、蕨町(埼玉県)、若宮町(福岡県)の四地方公共団体は敬老年金の制度をはじめ、いささかなりとも、老人の生活を支えようとしたのである。以後、引きつづいて同年中に一二地方公共団体がこれにならい、翌年四月にはあらたに一八五地方公共団体がこの制度を開始した。
 大分県敬老年金条例の制定に当たって、厚生部長通知が管下の市長あてに出されているが、この通知には敬老年金の趣旨がよく説明されているので、やや長いが全文を引用しておこう。
 「戦後における医学の進歩と社会保障制度の充実等客観諸情勢の安定により、日本人の平均余命は著しく延長され、この結果人口の老齢化が顕著となり、老人福祉の問題も消極的な保護や研究では済まされ なくなってきており、また従来、高齢者の生活保障のため、種々欠陥はあったにせよ家族制度が大きな役割を果してき、現在もなお若干の機能を営みつつあるが、しかしながら、今日においては、旧時の家族制度の復活を望むことは到底不可能であるのみならず、現状維持すら至難であると云わねばならない。このことは、家族制度を守り高齢者の扶養義務を果そうと努めても、家族員の経済力の弱化のために実際にこれを果し得ない場合が多いのである。この故に、徐々にではあるが確実に増加する高齢者の生活保障制度の確立は重要かつ切実な問題となりつつある現状の然らしむる時代の要請により、高齢者の福祉問題対策の一環として制定したものである。従って、この条例は、その制定の発意からしても極めて道義的性格を強く有するものであるといえるのである。」
 以上のとおりであるが、支給の対象とされたのは、県内に引きつづき五年以上居住し、かつ年齢九〇歳以上の者であったから、年金とはいっても社会保障的な<144<ものではなく、敬老の精神に基づく倫理的な性格のものであった。
 また、蕨町の敬老年金制度もほとんど同様で、「蕨町居住の高齢者に対し、敬老と長寿を祝福し、その家庭の平和と住民福祉の向上に寄与する」ことを目的とするものであった。ただし、蕨町の場合、支給の対象とされたのは、当初は満八八歳以上であったが、翌年度からは満七七歳以上のものとされた。
 すなわち、これらの敬老年金の制度は、まさに長寿を祝福する敬老の精神から出たもので、老人の所得保障を意図しようとするものではなかった。
 なお一九五六年(昭、三二)春の国会には社会党から慰老年金法案が提出されている。同法案は、満六五歳以上の老人に対して年金を支給しようとするものであるが、一定所得以上のものに対しては支給しないという所得制限のあること、全額国庫負担による無拠出制であることなど、「年金」とはいいながら、公的扶助の性格を有するものであった。
 結局同法案は成立しなかったが、年金制度に対する国民の関心を高める上で大きな影響を与えた。すなわち、その三年後、一九五九年(昭、三四)、国民年金法が制定され、一九五四年(昭、二九)に制定された厚生年金保険法などとあわせて、国民皆年金の体制がしかれることとなったからである。
(6)老人家庭奉仕事業
 一九五八年(昭、三三)、大阪市では、民生委員制度開設四〇周年を記念して臨時家政婦制度をはじめたが、これは「生活に困窮する独居の老人が、老衰その他の理由により、日常生活に支障をきたしている場合に、家庭奉仕員を派遣して身の廻りの世話その他必要なサービスを行ない、日常生活上の便宜を供与することを目的とする」もので、のちに、その名称を家庭奉仕員派遣制度と改めた。
 家庭奉仕員は、老人の家庭に派遣されて、洗濯、掃除、縫物等身の回りの世話を行なうほか、必要に応じて看護などのサービスも行なったが、老人はこれによって居宅での生活を継続することができたのである先きにのべた老人クラブに対する育成指導といい、この家庭奉仕員派遣制度の創設といい、大阪市当局の老人福祉の推進に対する積極的な姿勢は、その後のわ<145<が国の老人福祉行政の推進に対してきわめて貴重な実験を栢み重ねることとなった。
c 養老事業から老人福祉へ
 社会事業という言葉はすでに早くから使われていたが、社会福祉という言葉が法律用語となったのは第二次世界大戦後のことである。すなわち、憲法第二五条に規定されたのがはじめである。
 しかし憲法もそれ以上にはふれていない。その後、一九四七年(昭、二二)に児童福祉法、一九四九年(昭、二四)に身体障害者福祉法がそれぞれ相い次いで制定され、戦前の社会事業という言葉は社会福祉という言葉に変わっていった。そして、その具体的な内容は、一九五一年(昭、二六)に制定された社会福祉事業法の次ぎの規定に盛られたものとみてよい。
 「社会福祉事業は、援護、育成又は更生の措置を要する者に対し、その独立心をそこなうことなく、正常な社会人として生活することができるように援助することを趣旨として経営されなければならない。」(第三条)。
 社会福祉の内容は、狭義に用いられる場合には、かつて社会事業の意味したところのものとほとんど同じとみて差支えないが、社会福祉と訳された原語Social Welfareは、もう少し広く、社会政策、社会保
障、そして住宅、公衆衛生、環境衛生、教育等にまで及ぶ場合も少なくない。
 ウェブスター大辞典第三版は、Social Welfareについて次ぎのように説明している。
 organized public or private social services for the assistance of disadvantaged classes or groups.
 こうした新しい考え方は、老人を対象とする社会事業の分野にも影響を及ぼし、従来の養老事業という言葉がだんだん使われなくなってきた。これに代わって、使われるようになったのが老人福祉という言葉である。
 この言葉がいつ頃から使われるようになったのか、確かめるのは今日容易なことではないが、すでに一九五〇年代の中頃には相当広く使われていたものとみてよいであろう。<146<
 全国の養老施設を加盟会員とする全国養老事業協会は、一九三三年(昭、八)、その機関誌「養老事業だより」を創刊したが、戦後、一九五六年(昭、三一)には、「誌名を老人福祉と改め、養老事業を中心とし、一般老人福祉の面にまで範囲を拡張することとした。」(第一八号、編集後記)として、誌名を「老人福祉」と改題した。この後記にも、養老事業から老人福祉への脱皮、質的な転換がみとめられるであろう。
 また、従来「全国養老事業大会」という名称のもとに開催されてきた養老施設関係者の会議も、一九五九年(昭、三四)、「全国老人福祉事業関係者会議」と改められ、のもさらに「全国老人福祉会議」と改められて、従来の養老施設の関係者のほか、有料老人ホームの関係者、老人クラブの今日なども多数参加するようになった。養老事業時代から老人福祉時代への転換は、すなわち、老人問題が転換期を迎えたことを意味するものであった。」


作成:-2007:天田城介立岩真也 2008-:老い研究会
UP:20040828 REV:2021 20060428,1213 20070319,24,1220(ファイル分離),25 20080105,08,09,11,16(ファイル分離), 20101104
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