HOME >

能力主義・業績原理/属性原理

abelism, ascription / achievement


On Private Property, English Version
Tateiwa, Shinya (立岩 真也) 2016/09/21
 On Private Property, English Version
 Kyoto Books
◆立岩『私的所有論』p.19(第1章注2)より

「◆02 年齢、性、人種・民族、家柄等の個人の能力や努力によって変えられない出自・属性に基づく生得的地位(ascribed status)と、個人の能力と努力、その結果である業績に基づいて配分される獲得的地位(achived status)とを区別したのはLinton[1936]。パーソンズはこれを敷延し、行為の準拠枠として、出自や属性を基準とするアスクリプションと業績と能力を基準として評価し処遇するアチーブメントを区別した(Parsons ; Shilseds.[1951=1960])。それぞれ属性主義(帰属原理)、業績主義(業績原理)とも言われる。近代化は前者から後者への移行とまず捉えられるが、実際はどうか。どのようにして人の地位は決まっていくか。社会学で社会移動の研究が行われ、その中で教育という要因も問題にされる(岩本健良[1991b]、藤田英典[1995]等)。梶田孝道[1980]、山口節郎[1990]等が右記の二つの原理に関わる議論を展開しているが、それでも前者自体が問題にされるのではない。雑誌(の特集)(『解放社会学研究』、『現代社会学』12-2(1986)、『仏教』15(1991)、『思想の科学』148(1992))、講座(井上俊他編[1996b])でも同様(立岩[1991a][1994a][1996g]は編集者の意図と(多分)異なったことが書かれてしまった文章である)。第7章1節、第8章で検討する。」

藤田 英典  1995 「階層・階級」,宮島編[1995:70-93]
岩本 健良  1991b 「教育と社会的不平等」,小林・木村編[1991:253-264] <19>
梶田 孝道  1980 「業績主義・属性主義と社会問題群」,現代社会問題研究会編[1980:1-23] <19>
Linton, Ralf 1936 The Study of Man, Appleton-Century Crofts
Parsons, T. ; Shils, E. A. eds. 1951 Toward a General Theory of Action, Harvard University Press=1960 永井道雄・作田啓一・橋本真訳,『行為の総合理論をめざして』,日本評論社



学歴主義|diplomaism/学力

◆立岩 真也 2001/06/01 「どうしたら楽でいられるか、考えよう」
 『子どものしあわせ』2001-6臨時増刊号,
 べんきょうっておもしろい?!――学力問題を考える,草土文化
立岩 真也 2001/06/25「停滞する資本主義のために――の準備」
 栗原彬・佐藤学・小森陽一・吉見俊哉編『文化の市場:交通する』
 (越境する知・5),東京大学出版会 pp.99-124 60枚 【了:19990216】
◆立岩 真也 2001/07/31 「どうしたら楽でいられるか、考えよう」
 岩川直樹・汐見稔幸編『「学力」を問う――だれにとってのだれが語る「学力」か』
 草土文化,223p. 1800円 :110-121
◆立岩 真也 2002/05/01 「学力ってどのくらい必要なの?――社会学者・立岩真也さんに聞く」
 『おそい・はやい・ひくい・たかい』15(ジャパン・マシニスト社)


>TOP

■能力主義

◆立岩 真也 1991 「どのように障害者差別に抗するか」
◆立岩 真也 1994 「能力主義とどうつきあうか」
◆立岩 真也 1996 「能力主義を肯定する能力主義の否定の存在可能性について」
 『差別と共生の社会学』(岩波講座 現代社会学15)pp.75-91 30枚
◆立岩 真也 2000/05/10「「能力主義」という差別」
 『仏教』50 特集:差別の構造,法藏舘

 1990年7月,合衆国で「アメリカ障害者法」(The Americans with Disabilities Act=ADA,直訳すれば「障害を持つアメリカ人法」が成立した。この法律には,「資格のあるqualified障害者を障害ゆえに差別してはならな い」とある。「ここで資格…」とは,「職務に伴う本質的な機能を遂行できる障害者を意味する」とある(第一章・第一〇一項・八)。これに対して,重度障害 者,特に知能において重度の障害を持つ者の切捨てであるという批判がある。

 「こと雇用に関しては,「本来の業務」と限定した上にしろ,一般企業の雇用水準が認めた者,だけに対象を絞り込んでいるのだ。企業経営主にした雇用の本 質からすれば当然のことなのだが,一定の能力を認められた者を排除してはならない,はいいのだが,あまりにそれだけを強調されると,つい,それ以外の人は どうしてくれるのだ,どうなってもいいと言うのか,なんて反発したくもなってしまうし,そこに一種の能力主義的なものを感じずにはすまなくなるのだ。……
 ブッシュ大統領に署名を促したリーダーの一人は,「この法律を実際に活かすには,かなり膨大な金額が必要になるだろう。だが,それによって働ける障害者 が増えれば,今まで扶助的な支出を要していたマイナス分が減る一方で,逆に納税者にとってプラスするのだから,立派にペイできる筈だ」と説得したとい う……
 方便にしても,ペイできるからという説得を,得々として吹聴しているあたりが,どうも気になるのである。
 ……脳性マヒなどの重度障害者は,よほど特異な才能にでも恵まれないかぎり,間接的に社会に寄与できる分をプラスしたとしても、ペイできるなどと言える 状態になれる筈は、あり得ようもないのだ。消費者としての意味と価値、などと苦し紛れに理論づけたって多寡が知れている。
 経済効率に価値感を置く限り,重度障害者はまさに救いようがないのだ。
 戦後の重度障害者運動は,まさにそうした経済的稼働能力オンリーの価値感の枷(かせ)から,どう解放され,どう超克して行くかの闘いでもあったのだ。
 糸賀一雄氏の名著『福祉の思想』が説く価値感の転換も,「青い芝」などの激しい運動のエネルギーも,その原点はそこにあった,とも言えるであろう。
 今になって,ペイが採れるから…,などという論理を輸入されたのでは,「青い芝」の運動などを,最初からまた組みなおさねばならなくなる。
 戦後の歳月は一体何であったか。」(花田[1991→1991:128-130])

 「無限の可能性を信奉するアメリカの障碍者運動は,「障碍者は機会が与えられれば働ける」と主張し,福祉の「受給者」から「納税者」になることで,社会に貢献するという価値観を堅持する。しかし,「機会の平等」は,即「結果の平等」にはつながらない。確かに,仕事を遂行する能力がありながら,障碍のゆえに差別され,就労の機会が奪われている障碍者は、日本にもアメリカにもたくさんいる。これが,ADAでいう"qualified individual with disabiity",すなわち有資格の障碍者(「有資格の障碍者」がゴシック)である。
 しかし一方で,企業の要求する職務内容を遂行する能力に欠ける障碍者も多くいることは,厳然たる事実である。そして脳性マヒ者の多くは,そのような存在である。「障碍の原因が脳性マヒであるかどうかは問題ではない」とするアメリカの自立生活運動は,まさに差別を排除することによって,脳性マヒ者を落ちこぼしてきたといえないことはない。一方日本の脳性マヒ者運動は,稼得能力がないことを自覚することから出発し,独自の道を切り開いてきた。」(寺田[1991:117])

花田 春兆  1991 「ADA やぶにらみ」,『リハビリテーション』331(1991-02):22-26→八代・冨安編[1991:122-130]
寺田 純一  1991 「落ちこぼれからみたADA」,八代・冨安編[1991:108-121]
八代 英太・冨安 芳和 編 1991 『ADA(障害をもつアメリカ人法)の衝撃』,学宛社


REV:...20160531
差別 

TOP(http://www.arsvi.com/0e/as~ac.htm) HOME (http://www.arsvi.com)