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京都と大阪における地下鉄にエレベーターを設置させる運動年表

作成:廣野 俊輔 2019/01/17

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■京都と大阪における地下鉄にエレベーターを設置させる運動年表

1968年4月 京都市「交通対策協議会」を設置 (森田1981:5)
1968年11月 「将来の本市交通体系の基本構想及びこれに伴う近代的輸送機関の建設計画について」で地下鉄の建設を提案 (森田1981:5)
1969年4月 京都市、まちづくり構想を策定
1971年12月 運輸大臣の諮問機関都市交通審議会が北山-竹田間、六地蔵・山科―長岡・六地蔵間の45キロメートルの地下鉄の建設を認める答申 (森田1981:6) ※その後、計画を大幅に縮小。最初は北大路〜京都間の6.6キロメートルとなった。
1972年 大阪ボランティア協会の中にサロン・ボランティアが生まれる
しばらくして車いすの利用者が参加⇒障害者に関する活動のきっかけ (牧里1981:153)
1972年2月 京都市会で地下鉄の建設と運営を可決 (森田1981:6)
1972年 夏 誰でも乗れる地下鉄にする運動協議会」が結成 この運動の初期において、その中核となったのは、京都府下園部町にある身体障害者療護施設こひつじの苑の建設やその後の運営を支援したキリスト者達を主とするボランティア・グループ「子羊会」(伊達よしえ会長・故・伊吹功一郎事務局)と長橋栄一氏らを中心とする車いす常用者たちのグループであった(森田1981:6)。
1972年8月1日 「障害者のための街づくり推進懇談会」設置 そのようなこともあって京都市で街づくりを進めるため、委員会を結成、関係障害者団体・機関・施設の責任者や学識経験者を委員俊私が委員長となった。「障害者のためのモデル街づくり推進懇談会」(昭和47年略称「まちこん」という名称であった。昭和47年11月身障者の代表とともに、京都市内の官公庁、文化施設、交通施設などをまわり、障害者が日常生活で感じている不便や要望を調査した。調査は京都市役所、某区総合庁舎、京都会館などで、階段、エレベーター、トイレなどを中心に、車いすを使えるかどうかの調査、また国鉄京都駅、京阪電鉄三条駅、それらの前の横断陸橋等の状況をみた。市長に対し、「歩道のスロープ化」、「市役所」、「京都会館」、「某区総合庁舎」に関する四意見書を提出した(大塚1998:91)。
1972年10月1日 工事のための事業免許を得る
1972年12月22日 「地下鉄駅にエレベーターの設置等について」12月市議会に請願
1972年12月1日 京都市議会に請願、署名およびカンパ活動の開始・第一回陳情活 動(各部局、各政党)
1973年3月22日 請願が正式受理される(交通水道委員会に付託)
1973年1月7日 誰でも乗れる地下鉄にする運動協議会代表協議会代表者会議で連絡係として長橋栄一、伊吹功一郎
1973年1月12日 第二回陳情行動(岡本助役、石堂民生局長、竿枝技術部長、船橋市長病欠)「昭和48年の1月には3回にわたり陳情行動を実施、京都市の考え方を探ろうとしました」(中井1983:19)
1973年1月13日 京都新聞が陳情を報道「車いすに乗って参加した協議会の人達は「企業ベースでない人間優先の考え方で地下鉄をつくってほしい」「改札や出札の無人化は盲人が困るのでやめて欲しい」「地上からホームまで身体障害者がスムーズに行ける施設を設けて」-など切実な要求を訴えた。これに対して岡本助役は「来年度予算は老人福祉と身障者の住みよいまちづくりが重点施策となっており、地下鉄建設についても技術的に可能な分については交通局に、みなさんの要求を検討させる」とこたえた(京都新聞1973年1月13日)。
1973年1月18日 市交通局、大橋俊有局長へ陳情(長橋1981:81)
1973年3月 「誰でも乗れる地下鉄にする運動協議会」結成(長橋「社会福祉研究」80)
1973年3月21日 第二回運営委員会。街頭署名・カンパ活動を行うことを決定
1973年3月24日 四条河原町の高島屋の前で本格的な署名活動を開始(20万署名が目標)以後、休日返上で活動、更に本格的な署名活動は事務局総掛りで、昭和48年3月24日から四条河原町の高島屋で開始され、20万署名を目標に休日・祝祭日を返上し一回2時間の署名活動となった。その折に配ったチラシは毎回3000枚、活動が終了した街角に、チラシが一枚も捨てられていないのが大変うれしく自慢であった。あおのころ、車いす使用者にとって、外出は困難な時代増して街頭署名活動の経験などあるはずもない。初めの間は座っているだけ、ビラ配りもへたで署名を願う声は悲しくも震えた(長橋1981:81)。
当時は障害者が街頭に車イスを並べて、署名活動等の運動をやるということはなかった時代だったんですが、毎日曜日を返上して一年間街頭に立って理解・協力を訴えました。これには京都の婦人会や老人クラブも協力してくれ、街頭では約7万、計20万名分ほどの署名を集めました(長橋1986:22)
1973年3月29日 常任事務局会議 嶋田啓一郎同志社大学教授 会長に決定
1973年3月30日  市会の水道・交通委員長を経由し第一分署名21,301名分提出
1973年4月 京都市が国から福祉モデル都市の指定をうける
1973年5月2日 船橋市長に対する直接請願、二次署名8700名分を提出
1973年5月10日 「障害者のための街づくり推進懇談会」が「市営地下鉄建設に関する意見書」を市長に提出
1973年5月20日 第三回運営委員会開催。市民決起集会を決定。ポスターは長橋さんがつくる
1973年7月8日 市民決起集会:平安女学院旧講堂 午後1時から午後3時まで。その後デモ行進へ。 「この集会は、京都平安女子大学講堂に受付通過者498人その他を入れると約800名の車いすの方、老人団体、婦人団体、労働組合等が集まり、改めて「地下鉄にエレベーターを」「誰でも乗れる地下鉄」を要求していくことを確認し、より強力に運動して行くことを決意しました。この集会の後京都市役所前までデモ行進を行いました。車いすのデモは今までになく94名の車いすの方が車道を大きな声で「地下鉄にエレベーターを」、「誰でも乗れる地下鉄を」と叫び、道行く市民に呼びかけビラを手渡しておられました(中井1983:20)こうした決起集会の熱気は日本で最初の車いす使用者94名参加(総勢364名)の市内デモ行進となった。昨夜作ったゼッケンやプラカードを持ってシュプレヒコールも生まれて初めての車いすのデモが京都御所の前をゆっくりと進む,道行く人は拍手で迎えた。取材の記者は「なぜデモが楽しいのか?」と不思議がる。当時の障害者にとって、大勢で大声を出しデモることは、自由を楽しむ素敵なことであった(長橋1981:81)。また当時としては画期的な車イスでのデモ行進もおこないました。最初は前例もなく、危険であるということからなかなか許可が出なかったんですが、強く働きかけ、京都で初めて百台近い車いすが並んだデモ行進が実現しました。私たちは行政に要求を突き付けていくというより、むしろ市民啓発が重要だと考えていたわけです。そういう意味ではイデオロギーを超え、対行政という運動だけではなく、社会に対する意識変革の構えというのはその時に明確にできました(長橋1986:22)。集会を呼びかけるビラがある(日本自立生活センター所蔵)
1973年9月20日〜22日 仙台市で車いす市民集会が開催される
1973年10月18日 京都市身体障害者福祉会館での交渉で主要四駅にエレベータの設置を運動側に回答
1973年11月 福祉の風土づくり推進協議会が結成される(会長:奥田東)
1973年12月4日 京都市地域婦人会連絡協議会からも請願があり同じく交通水道委員会に付託
1974年5月19日 京都民報が京都の観光ガイドブックづくりを報道
1974年9月5日 高速鉄道建設推進委員会が1年半の議論を経て、地下鉄にエレベーターを設置することが望ましい旨、交通水道委員会に回答。 「本市地下鉄にはエレベーターの設置等を(市会として)希望する意味で、本請願を採択することが望ましいと思料する」(森田1981:7)
1974年9月26日 京都市会いい見解の見解をふまえ、請願を採択
1974年11月17日 京都障害児福祉協会、朝日新聞厚生文化事業団が京都市役所で電動車いす試乗会
1974年11月19日 京都市大橋交通局長が京都市の地下鉄は、エレベーターや点字ブロックを整える」(京都新聞?1974/11/20)
1974年11月29日 烏丸線起工式
1974年12月6日 定例市会本会議 大橋俊有交通局長 いくつかの駅にエレベーターを設置することを明言 「他都市より建設の遅れた地下鉄の特徴として、身体障害者やお年寄りに利用して頂きやすいよう、いくつかの駅についてはエレベーターを設置する計画であり、そのためはじめ駅を相対式で設計していたのを急遽島式に変更した(森田1981:7)
1975年3月15日 新幹線で結ぶ車いす集会※近藤秀夫さんたち京都へ(京都新聞)
1975年3月16日 新幹線の旅報告会(京都新聞)
1975年9月26日〜28日 京都市で車いす市民集会が開催される
1976年5月 大阪ボランティア協会を拠点に誰でも乗れる地下鉄の運動が始まる。(亀田1988:37)
1976年9月 誰でも乗れる地下鉄をつくる会」(大阪)が結成される(牧口1997:89)30年ほど前には車イスで街を散策していると,誰が通報したのかパトカーがやって来て,「どこから逃げてきたのか」と詰問された(86)。
1970年代に街に出ようとする障害者が増える。その根っこにはパラリンピックからの刺激があった。 
電車に乗ろうとすれば,ほとんどの場合,改札口で駅員とトラブった。「なぜ電車に乗せない」「危険です」「自分の身体は自分で守る」「車いすで,他の乗客がケガでもされたら責任とってくれるんですか」・・・・・・といったやり取りが頻繁に起こった(87-88)。
というのは,そのころ京都では地下鉄建設計画が出て,活性化する車いすに乗る障害者の社会進出と重なり,障害者を中心に「誰もが乗れる地下鉄をつくる会」が発足し、運動を展開していた。大阪からの(京都での車いす市民集会への―廣野補足)参加者は彼らから「京都の駅にエレベーターが設置されても大阪の駅で降りられない」という,わかりやすい提起を受けたのである。
       これが大阪で「誰でも乗れる地下鉄をつくる会」を発足させる動機になった。大阪ではすでに地下鉄が市内を縦横に走っており,運動を起こすきっかけにこまったが,たまたま新駅の延長工事計画を知り,それをチャンスに運動を始めた。1976年9月のことである(89)。
1977年1月25日 大阪市交通局に駅にエレベーターをとつくる会が申し入れ (大阪ボランティア協会編19898:36)
1977年2月20日 車いす地下鉄試乗会を実施 マスメディアに注目されるようになる。(大阪ボランティア協会編19898:36)
1977年11月9日 大阪市交通局誰でも乗れる地下鉄をつくる会にエレベーターの設置を回答 (大阪ボランティア協会編1988:36)
1979年2月11日 おおさか行動する障害者応援センター発足(大阪ボランティア協会編1988:36)
1980年9月1日 市交通局と会合。野村局長は「北大路、今出川、四条、京都、にとどまるが近い将来、全駅に設置する」と発言。
1980年9月2日 朝日新聞が報道 「京の地下鉄は福祉型」 京の地下鉄は福祉型 駅前部にエレベーター(朝日新聞1980/9/2)
来年春、京都市に初めて開通する市営地下鉄烏丸線(6,9キロ)の八駅すべてに、車いすで地下鉄に乗り込めるエレベーターを設置する方針を一日、京都市交通局が明らかにした。開通時にまず四駅に設置、残りの四駅にも用地が確保でき次第、取り付け工事をしたい、としている。京都市の「福祉駅」計画は来年の国際障害者年を前に高まっている「障害者のためのまちづくりに」に波紋を広げそうだ。
1980年11月17日 京都駅地下街ポルタ開業
1980年11月27日 大阪市営地下鉄谷町線喜連瓜破駅にエレベーターが設置される
1981年1月14日 ポルタについて回答を求めて船橋市長と面談
1981年5月20日 障害者のためのもでる街づくり推進懇談会・誰でも乗れる地下鉄 にする運動協議会 地下鉄試乗会試乗する長橋さんの写真あり(日本自立生活センター所蔵)
試乗の日程表あり(日本自立生活センター所蔵)
1981年5月21日 京都市営地下鉄烏丸線が開業

■文献表
森田久男(1981)「障害者運動と福祉政策 京都市地下鉄をめぐって」『佛教大学学報』31号,4-10頁。
長橋栄一(1981)「誰でも乗れる地下鉄建設運動」『社会福祉研究』第29号,79-81頁。
長橋栄一(1986)「第1章障害者とまちづくり 第1節私と『福祉の風土づくり』」京都市社会福祉協議会・京都市民生委員連盟編『京のまちづくりと障害者』法律文化社,15-28.
大塚達雄(1998)『福祉と心の出会い―社会福祉実践の歩みから』ミネルヴァ書房.
大阪ボランティア協会(1988)『なにわに拓く―大阪ボランティア協会20年史』大阪ボランティア協会.
亀田裕久(1988)「地下鉄活動はV協会から」大阪ボランティア協会『なにわに拓く―大阪ボランティア協会20年史』大阪ボランティア協会,37.
牧口一二(1997)「障害者問題とのかかわり」巡静一・早瀬昇『第5章 ボランティアの理論と実際』中央法規,80-97.
牧里毎治(1981)「第4章 アクション型ボランティア活動の実際」大阪ボランティア協会編『ボランティア参加する福祉』ミネルヴァ書房,147-186


UP: 20190117 REV:20190118
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