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現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって

Alternative Thoughts and Practices on Childbearing and Parenting in Contemporary Japan: Especially Concerning Something 'Mother'

立命館大学産業社会学部2018年度後期科目「比較家族論(S)」
"Comparative Analysis of the Family (S)" [The Second Semester of the 2018 academic year]
at College of Social Sciences, Ritsumeikan University.
授業期間[Class Term]:2018/09/28 - 2019/01/18(全15回[Total 15 lectures])
担当教員[Lecturer]:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi

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last update: 20190502


【Index】
授業日程 ■授業の概要と方法 ■受講生の到達目標 ■講義内容 ●第1回 ●第2回 ●第3回 ●第4回 ●第5回 ●第6回 ●第7回 ●第8回 ●第9回 ●第10回 ●第11回 ●第12回 ●第13回 ●第14回 ●第15回 ■参考 ●対象候補とした(が取り上げられなかった)もの ●関連する情報

■追記/参考
◆滋賀県立大学人間文化学部2019年度前期科目《家族論》(担当:村上潔)
 「産むこと、“母[はは]する”ことをつかみ直す――資本主義と性/愛/家族、その先の地平」

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■授業日程

@2018年9月28日 A10月5日 B10月12日 C10月19日 D10月26日 E11月2日 F11月9日 G11月16日 H11月23日 I11月30日 J12月7日 K12月14日 L12月21日 M2019年1月11日 N1月18日

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■授業の概要と方法

2018年度の本授業は、「現代日本におけるオルタナティヴな「子産み・子育て」の思想と実践――「母」なるものをめぐって」をテーマとして、講義を展開する。現在ある「少子化対策」・「子育て支援」といった「政策課題/社会問題」への「対策」とは根本的に異なる、かつてあった、母当事者とそれを取り巻く人々の自律的な「子産み・子育て」に関する思索・模索・共同実践の成果を確認することで、「出産」・「育児(保育)」・「再生産」・「母性」の意味をラディカルに問い直す視座を獲得することを目指す。題材としては、日本の1970年代〜1990年代の思想と実践を中心に検討するが、それらの理解を補強するため、その前後の時代状況と、現在展開されている論考・提起も積極的に参照する。
【追記(2018/09/28):赤字部分を追記/修正】

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■受講生の到達目標

◇政策課題・社会問題として出産・育児を捉えるのではなく、「子産み・子育て」そのものがもつ意味と、それをめぐる様々な共同性のありかたについて、当事者性をふまえたかたちで理解する。
◇講義で提示されたラディカルな思想と実践が、いかに歴史的/現在的にアクチュアルな意義をもっているのか、それらの何が引き継がれ、何が断絶しているのかを的確に把握する。
◇子産み・子育てをめぐる様々な思考(理念)と実践が、どのように関係しあい/ずれていて、その様態が現実的にどのような可能性と課題を引き出しているのかを的確に把握する。
◇「母性」・「女性性」といった、ジェンダー論的には危うさを携えた概念を、身体性を軸にして丁寧に捉え直し、本質主義と引き離しつつ「内側から」認識し、寄り添わせていく過程を経験する。
◇オルタナティヴな「家族」概念やその模索・可能性に関する知を得るのにとどまらず、自身がいまもっている「労働」・「生活」・「ジェンダー」に関するイメージ・価値観・展望を批判的に検証し、自身とそのコミュニティに何らかの「変革」をもたらす実践について構想する。
【追記(2018/09/28):赤字部分を追記/修正】


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■講義内容

第1回:「授業の進めかたについて」[2018/09/28]

【はじめに】
◇評価のつけかたについて
◇シラバス(の修正点)の確認
◇授業用Webページ(=本ページ)について
◇この授業で扱うこと/扱わないこと
◇講義の展開について
━━━
【コンセプト】
◇「多様な/自由な家族のカタチ」――という、たいていの人が肯定する、口当たりのよいフレーズを遡行した先にある思想と運動を探る。
‐ 多様性のイメージの消費にとどまらない
‐ 「母性」/共同保育/自然
━━━
【枠組み】
◇[女性−母性]という(社会的)つながり
‐ 抑圧・強制装置
‐ 近代社会・国家・男性企業社会――近代家族
‐ 構築主義
‐ ジェンダー論・社会学
‐ ケア労働をめぐる問題/議論
◇その理解の先・奥にあるものへ
‐ 本質主義/構築主義のあいだを抜けていく
‐ その手立て:当事者性をもったテクスト(概念の戯れに終始しない)
━━━
【特徴】
◇母なるものの身体・精神――そのつながりと歴史
‐ 本質主義でも相対化/構築主義でもなく
‐ 身体的経験の有無を超えた理解へ(「当事者性」の拡張可能性)
‐ 生々しさ/禍々[まがまが]しさ(/おぞましさ)

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第2回:「いま「家族」について学ぶにあたって必要な視角(1)」[2018/10/05]

【はじめに】
◇前回の補足
‐ 「当事者性をもったテクスト」――にとどまらず、「コンテクスト」(文脈・背景)に同様に対象とする(ことの重要性を意識する)。
‐ 言葉にできない/ならない感情を示すもの(沈黙・呻き・叫び・嘆息・涙・目線)――を感知する
◇全体的な授業進行について
 @最新の提言→A歴史的過程→B1970年代以降の具体例
━━━
◇生殖/医療/教育/家族――の
‐ 「正解」から外れることへの「不安」
‐ 「異端」を見る「目」への「恐怖」
◇「母」/「母となるべき」人への抑圧
◇絶えず(明確な基準・答えのない)「正統」・「正解」からの距離を測る――抑圧・葛藤から逃れられない
‐ 顕著な例:「不妊(治療)」・「障害児の母」
━━━
◆竹田恵子 20181001 『不妊、当事者の経験――日本におけるその変化20年』洛北出版,589p.

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第3回:「いま「家族」について学ぶにあたって必要な視角(2)」[2018/10/12]

◆山田真 20180725 『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい 120]子育て。ありのまま生きてやろうじゃないか。』ジャパンマシニスト社,192p.
━━━
◇「若いお母さん」を無知で・無力で・愚かな存在にし(ておき)たいメディア/世論(世間の目)
‐ 嘲笑・バッシング
‐ 萎縮・抑鬱・不安
◇医師・教師の役割/実態
‐ 伴走/サポート
‐ 指導・強制/責任回避
◇「当事者」(=母)に求められるもの
‐ 「開き直り」
‐ 要求・行動
━━━
◆立岩真也×山田真 20040420 「明るくないけど、変えることは不可能じゃない――「弱く」あることのススメ」,chio編集委員+読者[延150万人代表]編集委員企画・編[2004:62-67]*→立岩[2018:355-370]**
*chio編集委員+読者[延150万人代表]編集委員企画・編 20040420 『[ちいさい・おおきい・よわい・つよい]子育て未来視点【ルビ:さきのみとおし】BOOK(上巻)――育てるということ』ジャパンマシニスト社
**立岩真也 20180505 『人間の条件――そんなものない 増補新版』新曜社
山田 障害児を普通学校へというと、「障害児だと認めたくなくて見栄で行かせてる」という人もいるけど、見栄で、あんな苦労はできない。▽△
 でもね、養護学校って整然としていて、まわりは全部障害者で、世間とはちがう世界です。たとえば授業をさぼるなんてことはありえない。親だってふつうはある程度、権利を主張できるけれど、養護学校では反論なんてできない。「障害児の親」らしい生き方みたいなものがあって、障害児の母親が仕事をもつなんてダメということになる。
立岩 ごくごく原則的なことになるけど、子どもに対する責任は子どもの親が負うべきなのかと。子どもに対する大人の責任はある。けれども、その責任は親と親でない人と、基本的には、同じです。もちろん、実際には特定の大人、多くの場合親が関わることになる。けれどその他の多くの人も経済的な支援や、いろんな関わり方ができる。そしてそれは、もし親に義務があると言うなら、それと同じだけは、親でない人にとっても義務だということです。
 こういう負担とか義務とかいう部分については、すくなくとも「建て前」としては、はっきりしたことを言えるようになってきたかな、とも思うんです。(立岩[2018:365-366])
━━━
◆立岩真也(聞き手:社納葉子) [2001] 20180505 「「できる」ことは人間の価値ではない」,立岩[2018:327-349]
━━━
◇社会的な「責任」(=母にかかる重圧)の相対化
◇そのうえで残る(選択・決定の)責任の「分けられなさ」
‐ 「どう育てるか」以前に、「産むのか」・「どう産むのか」――産む(女性)身体そのものが問われるとき。

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第4回:「“産む/産まない”ד障害”」[2018/10/19]

◆20180911 「産まない産めない――優生保護法と戦後(中)女性と障害者、せめぎ合った権利」『西日本新聞』朝刊
優生 2018(日本)
優生学・優生思想
優生保護法
SOSHIREN 女(わたし)のからだから
青い芝の会
横田 弘
中山 善人
安積 遊歩
◆20180904 「産まない産めない――優生保護法と戦後(上)母体を守り「劣悪者」を否定」『西日本新聞』朝刊
◆20180918 「産まない産めない――優生保護法と戦後(下)内なる優生思想は今も」『西日本新聞』朝刊
━━━
米津知子大橋由香子 20170501 「女[わたし]のからだから――SOSHIRENと障害者運動がつないできたもの」『現代思想』45-8(2017-5): 150-165(特集=障害者――思想と実践)
cf. ◆荒井裕樹・九龍ジョー 20181013 「声を上げはじめた女性たち――障害者運動とフェミニズム」([連載]「「青い芝」の戦い」第4回)cakes[ケイクス]
━━━
◇「当事者」の「選択」がもつ意味の諸側面
‐ 権利/障害者排除
‐ 選択できる/そもそも選択肢がない
‐ 選択における葛藤/原則的批判
◇医療技術の進化→活用の一般化→社会的規範とされていく――ことへの対抗
‐ 技術そのもの+技術を使わせる側の問題を問う
◇女性身体への(国家・医療による)介入の意味(政治性/暴力性)をつねに意識すること
‐ 「運動」(「共闘」)の生起・展開の可能性

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第5回:「「産む/産める」(社会的/身体的)状況と「母性」をどう位置づけるか」[2018/10/26]

【導入】
◆岩城あすか 20181023 「相模原障碍者大虐殺事件 劇団態変の闘い(前編)」WEBRONZA
◆岩城あすか 20181024 「優生思想と訣別を 劇団態変の闘い(後編)」WEBRONZA
劇団態変
◆20161001 『現代思想』44-19(2016-10)(緊急特集=相模原障害者殺傷事件)
◆立岩真也・杉田俊介 20170105 『相模原障碍者殺傷事件――優生思想とヘイトクライム』青土社
7.26障害者殺傷事件
◇内なる優生思想
障害学生存学
━━━
堤愛子・堀内万紀子・大橋由香子・定塚才恵子・丹羽雅代 20071130 「[座談会]障害者運動と女性運動――30年の交差:新しい優生思想に立ち向かうために」『女たちの21世紀』52: 4-12
 70年代の優生保護法反対運動は脳性マヒ者団体「青い芝の会」抜きには語れない。「胎児に障害があれば中絶してOK」という「胎児条項」は障害者差別だと、すごく反対運動をした。「青い芝」は、1970年頃に障害をもつ子を親が殺す心中事件がクローズアップされたとき、「福祉が整っていないのだからやむを得ない」と減刑嘆願運動が起きて殺した親が無罪になるケースが相次いでいたことに対して、「(親の気持ちはわからなくはないけど、)障害者として生まれてくる子の人権はどうなるのか、無罪にはしないでほしい」と減刑嘆願反対運動をやったんです。それがTVにもとりあげられて世論を喚起した。
大橋 「母よ!殺すな」というのが障害者の側の主張。それに対してウーマンリブは、なぜ「母」だけに非難の対象がくるのかを問題化した。
 結局、直接向き合う相手は母になっちゃう。「殺す側」も母。女性が経済条項の削除に反対したのに対して、「中絶を認めろとは、胎児が障害者だったら手を下す権利も含めて認めるのか」と。たしか女性運動は、最初に掲げてたスローガンをおろして、「産める社会を、産みたい社会を」に変えたんだよね。
大橋 70年代もそこはいろいろあったと思う。「産む産まないは女の自由」と言い続けた女性グループもあった。一方では、障害者から「あなたは胎児が障害者だったら生むのか」と糾弾されて、「障害があっても私は生みます!」と模範的に決意表明する人もいたり。障害者からの問いかけもあって、「女の自由だ」という「自由」の中には、障害者を抹殺する自由も入っているんじゃないかという認識がうまれてきた。本当に選んだと言えるほどの自由なのか。高らかに権利と言うよりは、産みたくても中絶せざるをえない状態や、避妊の普及ではなく中絶によって日本の経済活動を支えてきた歴史といった、中▽△絶に対する疑問や躊躇は、70年代のリブにもあったと思う。[…]障害のある女性は最初からセックスするチャンスが奪われている。生む・生まないで悩むことすらできない障害者がいる現状をじゅうぶん意識できていなかった。
 でも80年代のときには、「産む産まないは女が決める」というスローガンは絶対下ろさない、という確信みたいなものが女性運動の中にあった。それは「自由」とか「権利」ではない、でも決めるんだという思いを込めていた。それに、70年代の「青い芝」がガンガンに男の運動だったとすれば、80年代には子どもを生む重度の障害者女性がちらほら出てきていた。79年の車いす集会にも、[…]子どもを生み育て始めた人たちが集まってきてた。女性障害者たちが、子どもを生む立場の女性として優生保護法をどう考えるかという議論に入ってきたのが、かなり違うと思うんです。
大橋 同時に、健常と言われる女性にも産まない人もいるわけだから、女/健常/障害で、母になる/ならないは単純に分けられない。
 生めと言われる女性と、生むなと言われる女性との区別は厳然とあるけどね。
大橋 82年の優生保護法改悪の時は、改悪したい側が経済条項を外そうとしただけで、胎児条項は法案には入れなかった。でも堤さんは、経済的理由で中絶ができなくなると、結果として胎児の障害を理由とした中絶を進めることになると言ってましたよね。
 女たちの方から、せめて胎児が障害児だった時くらい中絶させてくれという声が出てくるのではないかと。[…]
大橋 70年代に「青い芝」の障害者運動があり、一方でウーマンリブの運きがあって両者が触れ合っていった。そこにまた80年代の改悪の動きがあって、もう一度出会う。70年代を知らない私のような者も含めて、出会った場を大事にしようという意識があった。阻止連〔注〕は82年の優生保護法改悪上程がなくなった後も、母子保健法〔注〕をひとつの共通課題として、「ここは違うな」と違和感は抱えつつ、障害者グループと一緒に活動する場を、お互い、意識的に持った。それが96年の「不良な子孫の出生を防止する」という優生条項の削除につながった面もある。むこうは分断させようとするわけだから。でも中絶を原則禁止して例外規定で認めて人口を調節する仕組みは変わってないし、どういう強制的な不妊手術や人権侵害があったのか、検証や謝罪はされてない。その後の共闘の場のひとつに「優生手術に対する謝罪を求める会」があったと思います。(pp.5-6)
━━━
▼cf.
人工妊娠中絶/優生保護法/母体保護法
年表:優生保護法・母子保健法・他
年表:優生保護法→母体保護法
荻野美穂 20140320 『女のからだ――フェミニズム以後』岩波書店(岩波新書新赤版1476),248p.
━━━
◇「自由」な「選択」を迫るもの(状況)
◇「産まない」自由を→「産む/産める」自由を――そのあいだ(過程)にある意味/それでも残る(立場・利害の)断絶
◇(多様な立場の当事者からの)「母性」のリアリティ

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第6回:「女の運動の「主体性」――「からだ」・「日常」・「生活」から」[2018/11/02]

【導入】
◆古本湖美(首都圏放送センター) 20181030 「19のいのち「あすへの一歩」“障害を芸術に”ある劇団の思い」NHK:@首都圏:首都圏ネットワーク
堤愛子・堀内万紀子・大橋由香子・定塚才恵子・丹羽雅代 20071130 「[座談会]障害者運動と女性運動――30年の交差:新しい優生思想に立ち向かうために」『女たちの21世紀』52: 4-12
定塚 私はけっこう希望を持ってます。障害者の運動も女の運動も、虐げられた中から自分たちが何を獲得したいのかを見据えてきた。女性障害者たちがピアでやっているセクシュアリティのプログラムはすごく面白い。自分の体がどんなにステキか、徹底してやっている。セクシュアリティを奪われてるからこそ、自分をエンパワーする方法論を駆使してるんだなと。健常者もほんとは同じだけど、そこまでお互いにやれてない。障害を持った人たちの知恵をもっと議論しながら。たとえば、胎児に障害があるとわかって中絶しようと思うのは、障害を持った人が生きづらい社会だからでしょ? なぜ中絶するのか、といったことを女たちがもっと本音で話し合っていきたい。老いることや、障害を持つことに対してみんなが漠然とした不安を抱えてるけど、身体は動かなくても当たり前に暮らしている人と接したことで、「生きていくことが怖くなくなった」と書いていた介助者がいた。「漠然とした不安」が一番の曲者だと私は思っているんだけれど、「そんなの不安じゃないじゃん」と1つずつつぶしていきたい。分断を超えていう経験はこの何十年間、女の人も障害者も積んできたのだから、「不安じゃない」と手をつないでやっていけたらいいなと思う。
大橋 とても共感しながら、敢えて言うんだけど、漠然とした不安をなくす一方で、生むか生▽△まないかは当事者が決めるしかないという感覚を強調したい。障害があっても病気があっても大丈夫な社会であれば、定塚さんがいうように生めるかもしれない。それでも、やっぱり生めないことを選ぶときが誰でもある。パートナーと話し合ったり、周りの協力、制度の充実も関係するけど、最後はその人が決めるしかない。その根っこのところが、今すごく脅かされてると思う。少子化の影響もあるし、世界的にも中絶が罪悪視され非合法化されるなかで、中絶という道は確保されないといけないと感じます。でも同時に、現実としては、優生思想のもとで障害のある子を生むことが否定されてるし、自己責任論に絡めとられる危険もある。妊娠そのものは望んでいて胎児の状態を見て中絶するという「選別的中絶」は、「女の権利」「女の選択」とは違うと私たちは言ってきたけど、かといって法律で障害を理由とした「選別的中絶」を禁止するのもおかしい〔注〕。錯綜しているんだけど、要するに、当事者に悩ませてくれと言いたいんです。
 30年前の障害者運動も、選択する権利をどう獲得していくかという運動で、それがずっと続いてきた。CIL運動はまさしく自己選択、自己決定。自分が決めるということに関して、あの時代よりはずっと共感して進めることができると思う。障害者の子生み子育ては広がってきているし、中絶をせざるを得ない人たちも現実にいる。連帯できる素地はできたんじゃないか。(pp.11-12)
◇障害の「社会モデル」
◇自己責任論
当事者主権(「当事者に悩ませてくれ」)
◇「連帯できる素地」:複合的な当事者の存在/運動の架橋性
━━━
◆三枝三七子 20130817 『よかたい先生――水俣から世界を見続けた医師 原田正純』,学研教育出版,135p.
原田正純:医者からのまなざし――(怒り・)逡巡・葛藤・敬意
━━━
米津知子大橋由香子 20170501 「女[わたし]のからだから――SOSHIRENと障害者運動がつないできたもの」『現代思想』45-8(2017-5): 150-165(特集=障害者――思想と実践)
大橋 私は、七〇年代のリブ新宿センターの様子を聞いたりビラを読んだりして、運動との場と生活の場が分かれていない状況がうらやましいと思った時期がありました。かといって、そういう暮らし方に飛び込めない自分もいるし、例えば帰ってくる家を壊しつつ周辺の地域から変えていく試みもいろいろあるかもしれません。
米津 自分の中に傷のようなものがあって、それを救いたい動機があって、それを活動という形で表していると、運動の場と生活の場が別にあっても、国の政策などに働きかけることも自分や自分の生活にも及んでくる。七〇年代ほどの激しい変え方ではないにしても、現在でも、していることは活動の場だけで終わってしまうことはなくて、自分自身や生活の場にも響いてきます。
大橋 そうですね。女の運動のテーマは、暮らしや日常とかけ離れてはできない。まさに個人的なことは政治的なことだということです。自分の生活が否応なく問われてしまうので、それが難儀でもあり面白くもあり。私の場合、子どものいる生活のなかで、日々わきだす問題に、どう対応するか、どう人間関係を作っていくか、運動的な行動ができない場合でも、こんな考えの人がいることを周囲に知らせる、歩く広告塔になることも大事じゃないか、と思いながら暮らしていた時期があります。ちょっと抽象的ですが。(p.160)
・「リブは、抽象ではなく生身のからだを生きる存在としての「女」に徹底してこだわることによって、一見、私的で些末な問題にすぎないと思われがちな避妊や中絶、セックス、出産や育児、あるいは子殺し等々が、じつはきわめて政治的・権力的な問題にほかならないことを、赤裸々に暴いてみせた。政治や権力の問題は、公的な場にだけ存在するのではない。女の性とからだは、まさにそれを通して国家や資本の論理と女自身の意思や欲望とがぶつかり合い、支配権をめぐって攻防をくり返す、日常のなかの「戦場」にほかならないことを、リブの女たちは明らかにしようとしたのである。」(荻野 2014: 138)
━━━
◇女性の身体/労働/生活に対する国家・資本の侵襲・介入・規定
◇「日常」/「生活」/「私的」な領域を政治化する
◇「個人的なことは政治的なこと」
━━━
◇ベビーカー締め出し反対運動(1973〜1974)
‐ 〈ベビーカー乗り入れ禁止に抗議する会〉(〈東京こむうぬ〉+〈リブ新宿センター〉)
‐ 武田美由紀(→第8回)
━━━
cf.
◆立岩真也 20100906 「障害者運動/学於日本・9――女性たち」
◆立岩真也 20171025 「近代は続く、そして障害は近代だから正当なものとして存在する差別であり、同時に近代を保つ部品である、が」

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第7回:「言語化・社会化・政治化しえない「私」の領域/親の「エゴ」」[2018/11/09]

【導入】
◆Zambreno, Kate, 2012, Heroines, Los Angeles: Semiotext(e).=ケイト・ザンブレノ(西山敦子訳) 20180704 『ヒロインズ』,C.I.P. Books,425p.
◆中村佑子 20181106 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第6回]」『すばる』40-12(2018-12): 192-209
◇「個人的なことは政治的なこと」への(信頼・重視とともにある)疑念・距離
◇言語化できない曖昧な領域――を言語化・可視化しないこと
◇「私」の中に抱え・醸成し・自らの責任/管理で整理していくこと
◇「自由な選択/(自己)決定」なるもののの限定性/厄介さ
◇出産・育児の「社会的」側面だけでは語れない(/語るべきでない)こと――「究極的には、子どもとは親のエゴではないか」
◇私的領域と「親のエゴ」――一致と不一致:その意味

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第8回:「タケとスガ――武田美由紀と山田すが子」[2018/11/16]

◆原一男(監督・撮影)『極私的エロス・恋歌1974』(1974年/98分/16ミリ)
◆2016/04/29 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」(於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール)
 cf. ◆岡本晃明 20160701 「【研究の現場】対峙――70年代の運動とドキュメンタリー/原一男監督を囲んで」立命館大学生存学研究センター
◆村上潔 20160429 「[報告]ウーマンリブと「性」――産む自由の追求(との距離)」
◆村上潔 20160430 「『極私的エロス・恋歌1974』とリブについてのメモ」
◆西村光子 20061101 『女たちの共同体――70年代ウーマンリブを再読する』社会評論社
━━━
◇タケとスガ――武田美由紀と山田すが子
 ▼東京こむうぬ(文・武田美由紀) 197109 「ひらけひらこう・ひらけごま!――ガキ持ち女がひらく扉はこれだ!」(→20090528 天野正子ほか編『[新編 日本のフェミニズム 1]リブとフェミニズム』岩波書店,108-110.)
‐ 「「産まないがエゴなら、産むのだってエゴさ! 勝手に産む私と勝手に産まされるおまえがあるだけだ」|そこから出発する私の産む行為、妊娠中のハラボテ所有感と産むという確実な痛みにおいて、その、たしかさのぶんだけ、ガキと生きてみようと思った。」
‐ 「「かわいそう」やとか「可愛いい」なんて言葉は他人の無責任さ以外の何ものでもない。私がたしかに産んで、私がたしかに今、ガキ持ちと称して生きてるんや!」
‐ 「勝手に産まされたてめえにかけて、私の存在に迫ってきたらええ! 「育てる」ちゅう感覚とは違うんや!|ここにガキと私が、ぶざまにも“生きてる”ちゅう事や! ガキ持ちのてめえをどこまでも、どんな場所でも引き連れていく事が、今、必要なんだ。[…]ガキかかえた子宮にかけて、つっぱしらなあかん、つっぱしらなあかん!|ガキ背おってオートバイに跨がらなあかん!」
 ▼スガ 19711020 「土食離津宣言」
‐ 「そうさ、正真正銘の私生児を生んでやらあね! 1人で勝手に生み落とし、1人で育てていくわね。」
‐ 「子供の共有化……とは、易く言ってくれるな、何が他人のおまえさんにゃ解るものかね。」
 ▼東京こむうぬ 1973xxxx 「*」
‐ 「私は、たまたま子供を産みたくて産んで、私の子供を育ててみたいと思っただけ」/「「たまたま産んだ」のたまたまに立ち返らせないと、子供と無理心中したり、子供とてめえのかかわりに、特別、何かがあるような思い込みをしてみたりするだけ」(タケ)
◇「産む」ことの脱神話化・脱神聖化:ファンタジー(母性幻想/母の無償の愛)を排する
 cf. ◇母性(関連文献)
◇生殖という行為の(個別の)身体性:そのリアルさを基軸に自身と子の存在そのものを規定する
◇親の「エゴ」=身体的実感・経験に即す――がゆえの母・子の引き離しへ

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第9回:「東京こむうぬ」[2018/11/23]

【導入】
◆堅田香緒里 20181120 「フェミニズムとベーシックインカム――「ゆる・ふぇみカフェ」の実践から」エノ・シュミット/山森亮/堅田香緒里/山口純『お金のために働く必要がなくなったら、何をしますか?』光文社(光文社新書976),163-198
‐ 「女性「活躍」「活用」政策において注意すべきは、家事労働/再生産労働の領域までを視野に含めた性別役割分業に関する取り組みに乏しく、実質的な男女平等の達成にはほど遠いということです。家族――より正確には、妻や嫁などの家族のなかの女――を福祉の「含み資産」と考える姿勢、女のシャドウ・ワークに依存する姿勢は、相変わらず維持されているのです。だから、一連の女性活躍政策が意味するのは、政府にとって女性は、いまや単に「子産み・子育て要員」であるだけではなく、「労働力」としても重要な資源・人的資本とみなされるようになり、「成長戦略」の要として位置づけられるようになった、ということです。決して「子産み・子育て要員」として期待される度▽△合いが減ったわけではなく、これまでと同様「母親」として少子化の解消に貢献することと【傍点:同時に】、さらに働いて労働力不足の解消にも貢献することが求められているのです。もともと存在していた女性の「二重負担」が維持・強化されつつある、と言ってもよいかもしれません。残念ながら、一連の政策が一義的に目指しているのは、やはりあくまでも「成長戦略」の一環としての女性の「活用」であり、女性の「支援」ではない、ということでしょう。|こうして、女の身体、生=労働はますます侵略され、骨の髄まで「活用」されようとしているのです。」(pp.173-174)
cf. ◇女性の労働・家事労働・性別分業
◇東京こむうぬ:概略
‐ 1972/08 三組の母子が世田谷区祖師谷に〈オレンジハウス〉を開設
 →自らの共同体を〈東京こむうぬ〉と命名:「子産み+コミューン」
‐ 1973/06 杉並区高井戸に移る
‐ 1973/07 共同保育所をオープン
‐ 1975/06 〈東京こむうぬ〉解体/メンバーが無認可保育所〈あのね保育所〉をオープン
◇コミューン/コレクティブ――共同体/共同生活/生活の協同
 cf. ◇共同体運動・コミューン運動
◇助産所機能・共同保育・「産める状況づくり」
◇産む・育てるの分離
‐ 「常時6〜7人の子供のいる東京こむうぬで「自分の産んだ子」になお執着している自分があるが、そこにこだわって何が産まれるのか、否、の実感は隠せない。その実感から産めば育てるのが当然の価値観のウソを自分の中で確かめていきたい。[…]産むことと育てることの分離を云い切っていきたいのだ」(東京こむうぬ/1973)
◇「母」の相対化
‐ 「東京こむうぬとは何ぞや」:「たまたま子供を産んだ私にこだわり、子供と直結しない自己を、子供の生とは別につくっていくところです」(東京こむうぬ/1973)
‐ 「何よりも産んだ子供を誰かれとなく、女達がめんどうみあうことを共同生活の中で、とりもどす作業」(タケ/1975)
‐ 「「複数の母」ならぬ女や男が、加わった子育ては、「何も母親だけが子供をめんどうみなくていい」とした考え通りでした。だが、子供には母が必要だということも考え直さなければなりません。子供には母が絶対必要で、必ずしも母親がめんどうみなくてもいいということ。矛盾ではないのです。産んだ女が母ではないということ、産まなくても子供を育てられるということ、育てる女が、子供に、物事の基準をつくってあげること、それが母です。母ということを、私達こそ、産んだ女、産まない女に規定しすぎていたのではないでしょうか。」(タケ/1975)
◇母親の私有欲を否定/家族制度を否定
‐ 子どもたちに「ママ」/「おかあさん」と呼ばせない
‐ 親子関係そのものの否定ではない
‐ 「複数の母」
◇複数のおとなが関わる24時間保育
‐ 住人+外から週に1-2回来る人(各々の都合で来訪)
‐ 総勢20〜30名:24時間のローテーション
‐ 食事づくり・洗濯・子どもをお風呂に入れる
◇困難さ
‐ 外から来る人との/たちのコミュニケーション
‐ 「外部」=地域との関係性
‐ 「共同保育なんて言って、共同で子育てしようといったけれど、結局、子供の将来まで考えて、責任をもとうと本気で考えていたのは母親だけだったのです」/「共同で責任をもつなんていうことは、ありえなくて、一人一人が一人一人の子供に対して責任をもつ愛情をもつことなんだ」(ヤッコ/1975)
‐ 「母というのは自立した女のことを言うのです。それを思えば、ズイブン、ガキの集団だった。」(タケ/1975)
◆東京こむうぬ 197507 「「東京こむうぬ」解散をむすんで」
━━━
◆田中美津 [1972] 20010720 『[新装版]いのちの女たちへ――とり乱しウーマン・リブ論』パンドラ
▼「コレクティブの今日・明日」
‐ 「間借りしていたところの障子をコレクティブ唯一の男であった十ヵ月の零[れい]が破いてしまうと、誰も貼り手がでてこない。母親の武ちゃんは、まず一番に、あたしゃ知らんよという顔で横を向くし、他の女たちは、心のどこかに子供の後始末は母親がやるもの的な気持をもっているから、障子の破れさえ目につかぬ。あたしは年の功で、障子の破れ位は目に入るが、とにかくおカァちゃん役はゴメンだとの想いがあるから、見て見ぬ振りで放っておく。三者三様の思いに、大家の怒りが加わって、いつまでも貼られない障子を中に四つどもえの無言劇が演じられる――。破れた障子は、あたしたちの関係性の質を明示する。肯定も否定もなく、そこにあたしたちの「現在」がまぎれもなく映し出されているのだ。子供は社会の子、などというなめらかなことばは、あたしたちとは無縁であった。たてまえがたてまえでしかないことを知ること――いつもそこから出発するコレクティブであれば、絶望も挫折もなく、あるのはただ「現実」だけ。」(pp.289-290)
◇関係性の明示――実践そのものがもった(普遍的な)意義
◇可視化・感受すること――理念を超えた母子関係の捉え直しへ

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第10回:「リブと/の共同保育」[2018/11/30]

【導入】
◆鴻巣友季子 20181118 「[書評]『ヒロインズ』(C.I.P.Books)――「陰の歴史」を多様に浮き彫りに」『毎日新聞』東京朝刊
◆浦田千紘(人文書院) 20181128 「[書評・本屋と一冊 京都文芸同盟]書くことは生きること――「ヒロインズ」ケイト・ザンブレノ著」『京都新聞』
◇「妻」・「母」なる存在の「女」に対して――
 「メランコリー」/「ノイローゼ」/「ヒステリー」:抑鬱/狂気
 ――男性社会からの名指し・規定:理解しえないもの/得体のしれないものとして
◇「母」と「性」の提起――武田美由紀と共闘した田中美津
◆NHK 戦争証言アーカイブス 戦後日本のあゆみ > 証言 > 田中 美津さん
 https://cgi2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/postwar/shogen/movie.cgi?das_id=D0012100332_00000(2015年6月19日)
 *チャプター:[3]痛烈なメッセージ
◆田中美津 197008 「便所からの解放」
 →20090528 天野正子ほか編『[新編 日本のフェミニズム 1]リブとフェミニズム』岩波書店,55-72.  →20180810 栗原康編『狂い咲け、フリーダム――アナキズム・アンソロジー』筑摩書房(ちくま文庫),295-316.
 cf. ◆栗原康 20180810 「田中美津(1943〜)――とりみだした生をいきてゆきたい」栗原康編[2018:290-294]
◇リブの共同保育
‐ 戦後の共同保育:日雇い労働に従事する母たちが助け合う「青空保育」から――女性労働運動のなかで/(よき/あるべき)母としてのアイデンティティから
 cf. 公益財団法人東海ジェンダー研究所編 20161210 『資料集 名古屋における共同保育所運動――1960年代〜1970年代を中心に』,日本評論社,1043p.
‐ 「保育所」問題:保育所不足/保育士の労働問題/保育の「消費/サービス産業」化
 cf. 杉の子保育園 編 19910930 『保育園とフェミニズム――性(エロス)の中の子育て』,ユック舎,286p.
・「現代子育て考」編集委員会編 1975 『現代子育て考 そのT』現代書館
・橋本宏子 2006 『戦後保育所づくり運動史――「ポストの数ほど保育所を」の時代』ひとなる書房
・吉瀬孝子 2010 『働くことも子育ても――枚方の保育運動私史』せせらぎ出版
‐ リブ:家制度・母役割を否定する実践としての共同保育
◇リブの共同保育:事例
‐ 京都・百万遍:〈門前小僧〉:小堀恵美子 [cf.]
‐ 川崎:〈たつのこ共同保育所〉(1977〜2017/03/31)
たつのこ共同保育所が創立したのは1977年。当時の趣意書にはこう書いてあります。

一、 子どもの気持ちをのびのびと受け入れながら子どもの持っている力を引き出していくことを保育理念とします。
二、 私たちは預ける側と預かる側の分業、対立の止揚に努力し、全ての会員が保育に参加する体制をめざします。
三、 私たちは子育てをとりまく状況を変えていくための地域運動の拠点づくりをめざします。
四、 私たちは共同で、自分たちの生活、労働を点検し、変革していく力をもつ集団づくりをします。

以来、約40年に渡り、その思いを繋げてきました。

「共同保育所」の特徴は、親と保育者との共同運営であること。親、保育者、一人一人が経営者であるので、責任は全員にあります。最高決定機関は、月に一度の運営会議。行事のこと、保育のこと、お金のこと……運営に関するすべてをみんなで共有し、ひとつひとつの問題を話し合って決めていきます。それはもう大変なことばかりですが、そのぶん絆は深く、大人も子どもも居心地のいい、大家族のような保育所でした。この、大切な自分たちの居場所を守るため、長い間ずっとみんなでふんばってきましたが、“保育者不足と財政難”という問題が、「共同保育所」に立ちはだかる大きな壁でした。

子どもをとりまく環境を温かいものにしたい。自分の子だけをみるのではなく、みんなでみんなの子どもを育てたい。共同保育所という形でなくても、親や保育者がみんなで協力し合う気持ちを持つことで、家族のような温かい関係を築くことはできる。そう信じています。
[http://tatsunoko-hoiku.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/post-f15f.html]
◇制度化・事業化へ、という流れ。
◇その逆に/裏で:地域における草の根のミクロな実践

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第11回:「共同保育を“オルタナティブ”と称揚する前に――「母」の身体性・日常性に立ち返る」[2018/12/07]

【導入】
◆保科龍朗 20120609 「[逆風満帆]映画監督・原一男(中)――取材対象と「土俵」で対決」『朝日新聞』朝刊9(週末be・b09)面
◆高重治香 20161026 「[時代のしるし]自分をどう生きる、続く問い――田中美津さん「いのちの女たちへ とり乱しウーマン・リブ論」」『朝日新聞』夕刊3(文化芸能)面
◇共同保育の実践を捉える際に――
 当事者一人一人の「身体性・日常性」
 ――を基点に置くこと
‐ 断片的な、言語化・理論化されない状況と感覚。
‐ とりとめのない感情
‐ 「(マジョリティ)社会」には必然的にわかってもらえない(→わかってもらうための表現において失われるものはなにか……)
‐ いかにその本質を損なわずに自律的に可視化/顕在化しえるか
‐ 注目される実践例(モデル)[→下記◎]を称揚=「消費」するのではなく
◇「日常性」がぶつかりあう局面→露呈するポリティクス――対立/一時的共同性/差異・断絶
‐ ラッシュアワーの電車:通勤客(会社員)×ベビーカー(子連れのお母さん)――排除(攻撃)
‐ ベビーカー(お母さん)≒車いす(障害者)――一時的共同性
‐ 多目的トイレ:ベビーカー乗り入れ・おむつ替え(子連れのお母さん)×車いす利用者(障害者)――差異・断絶
◇「母」として成人健常者男性中心(企業)社会に侵襲するということ
‐ 対峙/拮抗
‐ 対抗?
◇「母」たちの関係性
‐ 共感+断絶
 =つながり+孤独感:両義性
‐ (制度が変わっても/変質しながら)時代を越えて続く差別・抑圧
━━━
◎注目されている共同保育の実践例(モデル)
@沈没家族(1995-2002)
『沈没家族』(青山シアター)
◆20170927 「[青く、老いたい:第226回]「沈没家族」の母と子」『中日新聞』
◆佐々木ののか 20180627 「「沈没家族」で僕は育った。“普通”じゃない家族で育つ子供は、不幸せなのか。――24年後、息子は映画を撮った。」The Huffington Post Japan
◆20180827 「共同子育て 多様化する“育児のかたち”」NHK
 【解説文引用】「周りに頼れず孤立することも多い子育て。そうした中、他人の協力を得ながら自分の子どもを育てる“共同子育て”が注目されています。」
 *映画『沈没家族』と加納土監督が紹介されている
◆加納穂子・沈没家族 19970501 「保育に人がやってくる――「沈没家族」共同保育の試み」『現代思想』25-5(1997-05): 195-207〔特集=ストリート・カルチャー〕
◆19990724 「お隣以上家族未満 新しい支え合い求めて:1――快適な距離求め」『朝日新聞』朝刊19面
A櫨畑敦子
◆櫨畑敦子 20180710 『ふつうの非婚出産――シングルマザー、新しい「かぞく」を生きる』イースト・プレス
◆佐々木ののか 20180616 「産みたい。でも結婚はしない。彼女が「非婚出産」した理由――櫨畑敦子さんは、選択的シングルマザーを「選んだ」わけではない。」The Huffington Post Japan
◆薗部雄一 20180718 「24時間365日「お母さん」でいようとしなくていいんです【chihiRo×櫨畑敦子】」DRESS
◆kimottamamama 20180930 「Bいざとなったら、、、」肝っ玉オカン道

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第12回:「リブの子育てに関する運動がもっていた広がりの意味――いまに連なる影響力/普遍性」[2018/12/14]

【導入】
◆長島有里枝 20181206 「[こんな大人になりました:81]定期親睦会を開催し、カップルとしての士気を高める」『すばる』41-1(2019-01): 249
◆反橋希美 20151228 「[たのもー!フェミ女道場:9]中野冬美さん――24時間共同保育で分かったことは?」『毎日新聞』大阪朝刊
◇同時性/全国性:共通性
◆澁谷知美 20121001 「子供を産んですみませんと思わせる社会」WEBRONZA
 「子供を産んですみません……の世の中、視たり」
 今から約40年前、子育てグループ「東京こむうぬ」がミニコミ誌に掲げた見出しである。1973年にも「ベビーカー論争」はあった。同年、国鉄・私鉄・地下鉄がベビーカーの車内への乗り入れを禁止したのである。理由は、ベビーカーが危険で、ほかの乗客の迷惑になるから。啓発用のポスターが貼りめぐらされ、「ベビーカーは電車に乗っちゃいけないんだよ」と小学生の男の子たちがいう状況にまでなった。
 子連れで電車に乗る母親たちの肩身の狭い思いは、読んでいるこちらが苦しくなるほどだ。[…]
◇提起の不変(普遍)性――結果的として証明される先進性
米津知子大橋由香子 20170501 「女[わたし]のからだから――SOSHIRENと障害者運動がつないできたもの」『現代思想』45-8(2017-5): 150-165(特集=障害者――思想と実践)
◇時代の連続性
‐ 〈保護者団〉(京都市左京区)
 cf. ◆サイエンスママふみ 20110130 「保護者団&子守会議」サイエンス・ママ・クラブ
‐ 〈沈没家族〉との連続性
‐ 2010年代にリブの系譜(〈SOSHIREN〉)と接続
━━━
◆村上潔 20181110 「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第6回]」を読んで」
◇第2波・第3波の(断絶以上の)連続性
◇身体性のリアリティから出発する認識の普遍性
━━━
◆長島有里枝(聞き手:野中モモ) 20180106 「(インタビュー)時代に並走する表現と創作」『すばる』40-2(2018-02): 248-263
野中 子育てをしながら文筆活動も始めたんですよね。
長島 うーん、それは本当に、子供を持つことがあんなにも大変だとは思っていなくて。自分のことだけでも大変なのにもう一人分の世話、しかも、自分の世話よりずっと時間がかかるような、自力ではほぼ何もできない人が目の前にいるわけですよね。外からは、「〔木村〕伊兵衛賞を取ったんだから、これからもっと頑張れ」みたいなことを言われている状況なんだけれど、一体どうしたらいいんだろうと。頑張りたいから赤ちゃんを預かってもらおうと思っても、まるまる代わってくれる人なんていなくて。保育園は第三次選考も落ちて、市役所に電話をして理由を訊いたら、「働いていることを証明する書類がない。自営業は措置度が低いんです」と言われました。私は世帯主だったのですが、それも「あまり前例がな▽△い」ということで、向こうが用意した用紙などもすんなりと書けない。ほんとにこの国ってダメだなぁ、と思いました。そこから徐々に、フェミニズムってやっぱり必要なんだ、と実感していくことになったわけです。
野中 過去のインタビューで、社会から期待される母親としての役割の大きさに打ちのめされたとおっしゃっていましたね。
長島 そう。子供を預けることに関しても、意外と家族が「子供がかわいそう」なんて言ったりするんです。家事や育児も、「完璧にやらなくていいんだよ」とかって励まされたりするんですが、「いやいや、完璧にやってなくても十分大変なんだってば」と言いたい感じ。
野中 そういう時期に書きはじめたのが『背中の記憶』。
長島 カメラの機材を持って、子供も連れて、では撮影ができないんです。小さいうちは可愛くて、子供とできるだけ一緒にいたいという気持ちもあったから、必然的に受けられる仕事は減りました。でも、生きていくには働かなければならない。そんなジレンマを抱えていた時期にちょうど、子育てを通じて自分が小さかった頃の記憶がありありと思い出されるという、不思議な経験をしました。たまたま、角田光代さんと取材で沖縄へ行く仕事があり、旅先で飲んでいたとき、ご自身の担当編集者に「有里枝ちゃんは絶対に文章書けるから、読んであげて」というようなことを言ってくださったんです。私も「今、書きたいことがあるんです」と言って、子供の頃の記憶に基づく物語を一年かかって、子供が寝ついた後、ちょっとずつ夜なべして書きました。それをしばらく続けて、三年ほどかかって書き溜め……ただもう、自分のできることしかできないと思ってやったことです。┃(pp.254-255)
◇「頑張れ」×「頑張れない」制約
◇「預ける」・「働く」際のジレンマ
◇子育てによる「母−子」の継承(連続)性の発見――身体を介した記憶/経験として
◇社会/政治的問題+「私」的領域:並存――両方を当事者として捉える

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第13回:「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読む(1)」[2018/12/21]

◆中村佑子 20180106 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第1回]」『すばる』40-2(2018-02): 218-232
‐ ◆村上潔 20181002 「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第1回]」を読んで」
◇産む身体:未知なる領域――蠢くエネルギー/広さ/秘密
◇水:物質性=身体性:感覚――共振/あふれだす
◇身体の内−外(輪郭/境界):曖昧さ(閉じない)
◇不安定な主体:社会的周縁に追いやられる:虚無/息苦しさ
◇女性身体:理性を凌駕する(超越的な)ノイズの力+無音状態
◇社会システムの「言葉」:母体を形容できない→記録されない
◇産:連綿と受け継がれる営み:死んだ女性たちとのつながり

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第14回:「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読む(2)」[2019/01/11]

【導入】
◆寺尾紗穂「(書評)『不妊、当事者の経験 日本におけるその変化20年』 竹田恵子〈著〉」
 2018年12月15日『朝日新聞』東京朝刊29面〔読書3〕
◆竹田恵子「感情との闘いと社会――竹田恵子著『不妊、当事者の経験 日本におけるその変化20年』」
 2018年12月17日『東京新聞』朝刊14面〔文化娯楽〕
◆中村佑子 20190106 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第7回]」『すばる』41-2(2019-02): 350-366
*第13回の続き
━━━
◇当事者性――始点
‐ 単位:「個」

◇共鳴/共同→協同――に至る可能性
‐ 断絶/葛藤を内包
………
○社会的な課題(統計・調査・分析可能なもの):可視化された領域
 [例]「少子化問題」・「待機児童問題」・「子育て支援」
×
●「自然」としての現象/課題:不可視/非言語の領域:身体・感覚・精神・感情・記憶にもとづく:「社会化」されない/「社会的」とみなされない:価値づけられない/捨象される/忌避される
 [例]孕む・身ごもる・産み落とす/子との一体感/社会からの疎外感/外の世界に対する恐怖感

@どこまで集めても不十分な当事者の言葉をひたすら集積する
A自らの当事者性を重ね合わせる→立体化する→像を浮かび上がらせる
B複数の他者がその像に向き合い反応を示す→変質(の蓄積)【サイクル】
………
◇「自然」の「言葉」を必要としない/排する社会
‐ 「自然」の「言葉」(=言語化されない領域):わからない/おぞましい/禍々しいもの:価値のないもの/排斥すべきもの→生み出す営みの挫折/記録されないまま
◇「言葉」として表し・共有しようとすること:結果として(必然的に)いまある「社会」(近代産業文明/成人男性中心)に(オルタナティブとして機能するのにとどまらず)「対抗」する(=アンチテーゼとしての)意味をもつ(もたざるをえない)

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第15回:「中村佑子「私たちはここにいる――現代の母なる場所」を読む(3)」[2019/01/18]

【導入】
PFFアワード2017受賞作「沈没家族」劇場公開、音楽をMONO NO AWAREが担当
 (2019年1月16日 映画ナタリー)
◆Donath, Orna, 2017, "Women Who Regret Motherhood Share Their Stories", BUST October/November 2017.
*第13・14回からの続き
◇出産の経験:(母:子)一対一の所有関係を超える観点
◇連綿と続く生命の再生産の「時間」:超越的・普遍的
◇「分娩台」という近代医療を象徴するような場所(モノの上)で近代秩序を超えた体験をする/認識を得る――逆説的(であり必然体)な現象
◆中村佑子 20180306 「私たちはここにいる――現代の母なる場所[第2回]」『すばる』40-4(2018-04): 306-325
◇母子の空間:マイホーム/部屋
◇密室=閉鎖性/(精神性・身体性にもとづく)濃密な関係性
◇過剰な理想化と病理化――同時に付与される価値づけ
◇神話的時間:「異質」な時間――「反転」させる/による可能性
◇反復的・複層的という特徴――を認識・共有すること
◇近代の・合理的な・産業社会のシステムの外部(裏側/不可視の地層)に存在するオルタナティブな(/対抗的な)時間・空間を設定する――その潜在力に可能性を見出す
◇社会における母子の関係/母子と社会を取り巻く関係の両方を揺さぶり・相対化し・組み換えること――リブや共同保育の実践と共通する根幹


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■参考

対象候補とした(が取り上げられなかった)もの

石牟礼道子 [19650507] 20180420 「性愛について」『現代思想』46-7(2018-05臨時増刊): 13-16(総特集=石牟礼道子)
「つまり男も性愛も接続詞なのです。私自身が女たちの原理であることの科学方程式のための飛び飛びの符号なんです。その原理は歴史を濾過して原始層へ沈潜してゆく地層なんですから、男は四季おりおりに肩先に生やしてながめる樹のようなものなんです。自分の髪のようにぴったりした親和感はもてない。ですから自己性愛の如きものを風になびかせて鏡にうつす美学をつい身につけてしまうと感じ、寝返って歴史と体をあわせているとおもう悲哀の深さが性感として湧いてくる。歴代の不毛さを今追体験しているんだと。|それで今は全情況に対して生理ひとつでむきあっているんです。[…]それは性からとび出している。[…]女たちの生理の個々の孤立はそれほど膠着し、▽△重なりしずみこみあらわれる時は互いの類型をひっかむって苔のような生殖膜をにじませる。その奥で互いを握りあっている。」(pp.13-14)
「個別的な性愛の意味。わたしたち夫婦族の中では大部分の性愛についていえば、帰巣すべき自然を失いつつある今、定型へのインスタント化なのです。擬制の快楽のそのまた擬制化というべきでしょうか。それは小きざみにゆったりとしている全状況によくみあっている。」(p.14)
「なんと人間、いや生物のいとほしいことでしょうか。そう考えると私は自分の中にある生命の細胞体が花ひらくように自浄運動を起すのを覚えます。▽|△まだ発展途上にある人類史の中に、さらに、ひとすじにのぼりつめてみえなくなる性の陰谿[ママ]のほとりをゆきつもどりつしながら声をあげたくなる。化石の中にあるエロスへの親愛さへむけて。|くるめくような性の無名性の歴史をそうして超える。そしてはじめて、あの連合軍、そこから逃げて来た兵士のような男たち一般へのなつかしさがじわりと湧く。やっぱり男は女たちの半身なのでしょうね。性の無名性に対して。そしてこんな風に母権の復権へ感情移入するんだなと思いながら。そして孤独です。いや、充足というべきでしょうか。」(pp.14-15)
◆石牟礼道子 196709 「高群逸枝との対話のために――まだ覚え書の「最後の人・ノート」から:1」『無名通信』3→20121030 『最後の人――詩人 高群逸枝』藤原書店,pp.424-428
「一九六三年冬、私は三十七歳でした。|ようやくひとつの象徴化を遂げ終えようとしていました。|象徴化、というのは、――なんと、わたしこそはひとつの混沌体である――という認識に達したのでした。いまや私を産みおとした“世界”は痕跡そのものであり、かかる幽愁をみごもっている私のおなかこそは地球の深遠というべきでした。|私には帰ってゆくべきところがありませんでした。帰らねばならない。どこへ、発祥へ。はるかな私のなかへ。もういちどそこで産まねばならない、私自身を。それが私の出発点でした。|そのころある文化サークルの男性がいうには、|「女は三十歳で定年ですよ、男にとって青春は永遠です」[…]わたくしは、よぼど女たちの性はその深みで多様化しつつあるなと思うのでした。男たちは女たちの性がみせる表面上の等質性をちょっとひとなでしたにすぎません。そのようなとき女たちは全情況に対して生理ひとつでむきあって、閉じて▽△いるのです。それはじつにながいあいだそうでした。そういう女たちの“自然”を男たちは見失ってひさしいのです。ひたすら擬制の快楽の、そのまた擬制化へ、図式化へ、インスタント化へと男たちは空転してゆきます。|私の擬制上の生涯はとっくに終り、三十七歳という年はその形骸化の表示であったことを思い出します。とはいえ、いちども生きたことなく拡散している生命に魂を入れねばならない、と私は考えていました。しんと寝返っていると、まだ意識化されない女たちの性の歴史がそこに横たわっており、男たちの歴史から剥離してくるその音もない深みでわたしたちのエロスはうごかぬ淵となってゆくのでした。私は女たちの深淵をかきいだいてねむりました。女たちの性は私のふところで多様化し、分化し、孤立し、その孤立の連帯でもって男たちをはじき出していました。女たちはあぶくのような声を立ちのぼらせています。女が全体をもっている、などということは男たちにとっては思いもよらないことなのです。|いましがた革命について考えていた男といえども女たちの方にむきなおるときは体制そのものとなってむきなおります。男たちの言葉は権力語となって、発せられるとたんに死滅して、私の目の前にこぼれおちます。それはみるにたえない光景でした。|いまだ発せられたことのない女の言葉でもってこれにこたえられないものかと私は思っていました。いまだあらわされたことのない女たちの歴史のすべてでもって――。しかし私には女たちの歴史もことばも埋没してゆくばかりでした。男たちとの間にとりかわすべき言葉がひとかけら▽△もみつかりません。なにかいおうとすれば、たちまち男の思想でしゃべることになる。|このように完ぺきに支配されていれば、女は三十歳で定年どころか、定年として生まれてくるも同然です。」(pp.425-427)
━━━
◆杉の子保育園 編 19910930 『保育園とフェミニズム――性(エロス)の中の子育て』,ユック舎,286p.
━━━
荻野美穂 20140320 『女のからだ――フェミニズム以後』岩波書店(岩波新書新赤版1476),248p.
 「米津〔知子〕がのちに大橋由香子との対談(『現代思想』一九九八年二月号)で述べているように、リブの「母性」重視には次のような側面もあった。|「当時は公害や薬害が噴出していた時代で、科学技術への根底的な批判も出てきて〈反近代〉が一つの理念になっていた。その〈反近代〉の拠り所として、月経のある女のからだ、子宮や産むからだを肯定するためには、ある意味で母性的な感覚を大事にしていた」。」(p.121)
━━━
◆反橋希美 20161024 「[たのもー!フェミ女道場]私たちもやってます DPI女性障害者ネットワーク――当事者抜きで決めないで」『毎日新聞』大阪朝刊
━━━
米津知子大橋由香子 20170501 「女[わたし]のからだから――SOSHIRENと障害者運動がつないできたもの」『現代思想』45-8(2017-5): 150-165(特集=障害者――思想と実践)
━━━
◆Donath, Orna, 2017, "Women Who Regret Motherhood Share Their Stories", BUST October/November 2017.
━━━
◆岩永直子 20171104 「主語は「私」 産んでも産まなくてもこれで良かったと思えるように――『産まないことは「逃げ」ですか?』を出版した吉田潮さんインタビュー」BuzzFeed News
━━━
◆姉歯暁 20180830 『農家女性の戦後史――日本農業新聞「女の階段」の五十年』こぶし書房,280p.
━━━
◆岩永直子 20181201 「なぜ政治家が差別発言をしてはいけないのか? 「障害は皮膚の内側ではなく、外側にある」」BuzzFeed News


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◆arsvi.com:立命館大学生存学研究センター
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女性の労働・家事労働・性別分業
フェミニズム (feminism)/家族/性…
『ちいさい・おおきい・よわい・つよい』(『ち・お』/Chio)
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◆清水晶子 20170420 「Where We Are Right Now――多義的に進化するフェミニズムの現在地」『Harper's BAZAAR(ハーパーズ・バザー)』2017年6月号《わたしたちのフェミニズム》
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アレクサンダー・クルーゲ小特集――メディアを横断する映像的思考
 2018/10/13(土)〜10/19(金)
 於:出町座[上京区]
 cf. 村上潔 20180302+03+04 「メモ:アレクサンダー・クルーゲ監督『定めなき女の日々』・『昨日からの別れ』」
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連続市民講座「少子化社会の妊娠・出産・子育てを考える――第3回:障害と出生・出産」
 2018/10/28(日)14:00-17:00
 於:NPO法人SEAN 生きがい工房[高槻]
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◆桝郷春美 20181102 「障害を芸術に昇華する「劇団態変」、追求するのは「未踏の美」」『AERA』2018年11月5日号
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『ヒロインズ』読書会
 2018/11/11(日)13:30〜
 於:徳正寺[京都市下京区]
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◇立命館土曜講座:2018年12月開催の講座:
 《特集=医療をめぐる法と倫理》(企画:立命館大学人文科学研究所)
‐ 日程:12月1日(第3260回)
‐ 講座テーマ:「優生保護法問題からみる医療の倫理」
‐ 講師:松原洋子(立命館大学先端総合学術研究科教授)
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◆渡邉琢 20181211 『障害者の傷、介助者の痛み』青土社
“相模原障害者殺傷事件以前/以後をつなぐ、現場から組み上げたケア論の到達点。
介助するとはそもそもどういった経験か。「介助で食べていく」とはどういうことか。介助する人/される人が培ってきた〈つながり〉の技法とはいかなるものか。介助者として長年暮らしてきた著者が誘う、障害者と健常者がともに地域で暮らし続けるための必読書。”
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はじはたあつこさんとかぞくってなんだろう?について話そう
 2018年12月15日(土)10:00〜12:30
 於:京都上高野 くらしごと
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連続市民講座「少子化社会の妊娠・出産・子育てを考える――第4回:へき地のお産」
 2019/02/10(日)14:00-17:00
 於:NPO法人SEAN 生きがい工房[高槻]



*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20180928 REV: 20180929, 1002, 04, 05, 07, 11, 15, 17, 18, 19, 20, 21, 26, 27, 28, 29, 1102, 03, 10, 23, 25, 29, 1205, 09, 14, 20, 23, 24, 26, 20190106, 12, 16, 18, 0502
事項
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