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【2017年度】立命館大学産業社会学部「質的調査論(SB)」

"Qualitative Research Methods (SB)" [The 2017 academic year]
College of Social Sciences, Ritsumeikan University.


授業期間[Class Term]:2017/09/26 - 2018/01/19(全15回[Total 15 lectures])
担当教員[Lecturer]:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi

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last update: 20180227


【Index】
■講義内容 ●第1回 ●第2回 ●第3回 ●第4回 ●第5回 ●第6回 ●第7回 ●第8回 ●第9回 ●第10・11回 ●第12回 ●第13回 ●第14回 ●第15回 ■参考 ●対象候補とした(が取り上げられなかった)もの ●関連する情報 ●立岩真也による言及

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■講義内容

第1回:「授業の進めかたについて」[2017/09/26]

◇担当教員紹介
◇シラバス変更について
◇評価のつけかたについて
◇社会調査を志すということ
◇質的調査を学ぶうえでの心構え

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第2回:「質的調査とは――特に意識しておくべきこと」[2017/10/03]

◇質的調査のエッセンス
◇質的調査の醍醐味と困難
◇「調査者」になること
◇フィールド/フィールドワーク
◇参与観察

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第3回:「生活史のエッセンス」[2017/10/10]

◇民俗学
◇生業
◇聞き取り/掘り起こし
◇パーソナルなものの価値/「小さな物語」
◇アウトロー的なるものへの想像力
cf. ◆宮本常一 1960 『忘れられた日本人』未来社→1984 岩波書店

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第4回:「社会調査“の”倫理」[2017/10/17]

◆宮本常一・安渓遊地 2008 『調査されるという迷惑――フィールドに出る前に読んでおく本』みずのわ出版
◆小泉義之 2012 「国家の眼としての貧困調査」,天田城介・村上潔・山本崇記編『差異の繋争点――現代の差別を読み解く』ハーベスト社,pp.241-265
◇調査地被害
◇調査者/被調査者の非対称性――大学・国家・企業
◇調査によって「地方」を搾取する「中央」
◇調査者の一面的介入がコミュニティに及ぼす影響
 cf.「まちおこし/まちづくり」・「支援」・「協働」
◇調査者自身の「淫らな」眼(可視化/包摂の欲望)

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第5回:「最新研究成果(1)」[2017/10/24]

◆渡辺拓也 2017 『飯場へ――暮らしと仕事を記録する』洛北出版
◇「飯場や建設労働の実態を明らかにすることに加えて、この本では、排除という観点から飯場労働者たちの日常的実践を読み解くことを課題とした。」(p.441)
◇一人称(「僕」)で記述すること
◇感受性に基づく描写
◇労働/生活/身体「感覚」
◇現場の「合理性」の摘出
◇共同性の多面的な把握
cf. 歴史・構造・空間・移動・階級・搾取・暴力・抵抗・暴動――のメカニズム
  ……◆原口剛 2016 『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』洛北出版
cf. 「週刊文春」編集部 20171119 「ボロボロのプレハブの「飯場」暮しを体験 一番きつかったこととは?――著者は語る 『飯場へ:暮らしと仕事を記録する』(渡辺拓也 著)」『週刊文春』2017年11月23日号
「私は研究者なので、自分の感情を入れ込んだエピソードを出してよいのか迷いがあり、調査者自身の内面や立場も明かすべきだと思い切るのにだいぶ時間がかかりました。飯場での仕事で一番きつかったのは、第八章で詳述しているコンクリ打ちの作業でしたが、そこでの仲間との意思疎通の難しさなどを示す際には、ノートから感情的な記述を意図的に抽出したりもしています」

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第6回:「最新研究成果(2)」[2017/10/31]

◆有薗真代 2017 『ハンセン病療養所を生きる――隔離壁を砦に』世界思想社
ハンセン病
◇「支援者」として/「調査者」として/「生身の人間」として
◇調査者が期待する「被害」の「物語」
◇「被害/加害」「差別/被差別」という二項対立的な枠組みからはみえてこない領野
◇当事者を無力化(「敗北者」化)する力学
◇「自由/不自由」の問題設定の難しさ
◇集団的実践の諸相(政治的活動・文化的活動・生活実践)を動態的に把握する
◇運動の両義性(「閉じる」=「開く」/「守る」=「攻める」)を描き出す

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第7回:「最新研究成果(3)」[2017/11/07]

◆上間陽子 2017 『裸足で逃げる――沖縄の夜の街の少女たち』太田出版
◇「本書では大文字の概念枠組みで彼女たちの人生を分析するということではなく、彼女たちの見てきた景色や時間に寄り添いながら、彼女たちの人生をできるだけまとまった「生活史」の形式で記すことを目指しました。」(p.256)
◇「投げやりな言動の背後には、深い孤独感や無念さがある」(pp.7-8)
◇「これまでは、彼女たちからもちこまれた深刻な相談に深く踏み込んで、一緒に行動することはなかった。だが今回の調査では、必要があると思ったときには直接の支援や介入を行うことにした。」(p.17)
◇当事者にどういう立場で接するか/どこまで踏み込むか/その関わりかたをどう描くか
◇「調査者」か「支援者」か――どちらかに特定できない割り切れない立場性/そうであることの必然性
◇当事者との共同作業(トランスクリプトの読み合わせ→意見・感想)
◇「物語」=「調査の記録」(p.19)
◇「起きてしまったことがらがどんなにしんどいものであったとしても、本人がそれをだれかに語り、生きのびてきた自己の物語として了解することに、私は一筋の希望を見出している」(p.255)
◇「物語」として確認され、共有されることの可能性と、消費される危険性。

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第8回:「[時評/応答]『現代思想』11月号・エスノグラフィ特集と『すばる』12月号・保坂和志作品」[2017/11/14]

『現代思想』2017年11月号(特集=エスノグラフィ――質的調査の現在)
▼有薗真代「この島の土になる――解毒剤としての質的調査」(pp.180-193)
「社会学、とくに質的調査の知見は、当事者がわけもわからず踏みつけにされている状態から一歩抜け出し、現実を理解するためのヒントを与えてくれることがある。虐げられてきた人々が自らに刺された「毒」を抜き、その「毒」を、差別と排除を際限なく再生産する装置そのものの解体へと向きかえるための、手助けをしてくれるのだ。」(p.181)
「ファノンのいう「解毒剤」としての「暴力」はかつて、支配的暴力へのたんなる対抗暴力として位置づけられていた。しかしこれは、植民地主義的暴力に抗う力であると同時に、社会的排除や暴力によって受け続けた傷の「癒し(healing)」となるような、治療的な効果を持つ力とみる解釈も可能である。本稿の「解毒剤」としての社会調査という論点は、こうした近年のファノンの解釈をさらに変奏したものである。」(p.192)
「痛みや苦しみを伴う経験と、社会や歴史との関係性を把握しようとすることは、状況を客観的に理解し、わけもわからず踏みつけにされている状況から一歩抜け出すための、大切な手段となる。さらに、それぞれの現場で社会的矛盾と闘うために、あるいはこれを飼いならすために培われてきた知恵と実践群は、質的調査を通じてことばに変換されることによって、ある特定の人々の技法や文化であることを超えて、さまざまな痛みを持つ人々と共有できる解毒剤になるのだ。」(p.191)
◎村上による批判
◇誰にとっての「解毒」か/研究者に「解毒」の資格はあるか/「社会防衛」と同じフィールドに立つ危険性
◇「毒」の「力」を認めること/記録・表現すること/表出させること――こそが「介入」する者の役割ではないか
━━━
◆保坂和志「読書実録〔スラム篇〕」『すばる』39-12(2017-12): 10-36
「スラムはスラムに暮らす人が内側からスラムについて語った言葉がない、どの言葉もスラムに生きていない人が外側からの論理や価値観や美意識で語ったものばかりだ、【傍点:かつてスラムに暮らした】という人は今はもうスラムに戻ろうと思ってはいないのだからやっぱりスラムの外からの視点でしかない、スラムは内側から語られることはおそらく【傍点:決してない】。|スラムをみんながみんな生きにくい、スラムから出たいのに出られないと思っているわけではなく、外の世界のことは知らないがスラムはけっこういいところだ、自分はスラムから出たいとは思わないという人がいたとしても、きっとその人はスラムについて語らない――と僕は考えるようになったんです。|内側から語る言葉、過去形としてでなく現在そのものとして語る言葉、そういう言葉を持たないということでは、小説家も演奏家も画家もダンサーもみんなそうだ」(p.11)
「スラムは、貧困であり、非衛生であり、無秩序であり、人々は無計画であり、暴力が日常的であり、さまざまな原因によって短命であり……と規定するのは政治や社会の立場だ。スラムに暮らす人たちの内面がスラムの外の言葉では語れないものだとしたらどうか?|無秩序と見えているものが〈秩序―無秩序〉の二分法とは別の動的な均衡状態なのかもしれない。[…]【傍点:不安】とか【傍点:居心地がいい】は社会にそれに適した言葉・概念がないからその人たちは間に合わせで同じ言葉を使っている。|スラムと聞いてすぐに社会や政治の立場で語るのはそれ自体が政治的で社会的である説得性を持つ」(pp.18-19)
「政治的に正しい立場は通用しやすい、しかし私は【傍点:正しい】というところが変だ、怪しい。というかやっぱり正しいことはいいことではない、というか気に入らない」(p.19)
「でもここで注のようにわかることはどうなんだろう、わかることで逆に事態は遠くなっていないか」(p.23)
「ジュネも若松孝二もヨルダンによる攻撃を糾弾したいわけじゃない、関心の中心はそこにない、糾弾はジャーナリストの仕事だ、だいいち今さらそれは遅い、ジャーナリストは悲惨さを強調するだろう、ジュネも若松孝二も悲惨だと書かない」(p.24)
「ジュネは、「むしろ私にしてみれば、すべてを非現実に変えてしまうあなたがた(マスコミ)のことを強調しておきたい。」と答える、「あなたがたがそうするのは、そのほうが受け入れやすくなるからだ。[…]」|この【傍点:非現実】という言葉は、フィクションと読み換える方がわかりやすい、テレビや新聞の報道は現実を伝えるのではなく現実をフィクションに変える、[…]「わかる」「わかった」と思った途端に現実はフィクションになる、あるいは伝えるという行為が現実をフィクションに変える」(p.26)
「ジュネも若松孝二も藤井貞和も【傍点:明るさ】、【傍点:陽気さ】を強調している、もともと私は『通天閣』で酒井隆史が書いたスラムの明るさから話をはじめたのだった、[…]こうして言葉を書き写していくだけでワクワクしてくる」(p.28)
「まったく、あらためて書き写してみると小島信夫という作家は、いったい見たのか聞いたのか、音は(声は)出てたのか出てなかったのか、遊びはそこにあったのかそこにはなかったのか、どっちか決められないことばかりだ、【傍点:文章を書く】というのはもっと意識的なことなのでこんなしゃべり言葉のような書き方ができるのは小島信夫だけだ、と思っていたら山下澄人が同じようなことをできている。」(p.31)
「「ここは大事です。」と私は言った。「スラムに生きる人のメンタリティが書いてあります。」」(p.34)
「彼はひとり、山分け&貯えゼロ経済の外に出た、彼は貨幣によって貯えることを知り、貯えることを介して未来とか計画とかという時間の概念を知った、――というようなナレーションが流れたそのときに映った彼の横顔の目つきの暗さ!|その日ぐらしの村の人たちはみんなそろって明るく笑ってるのに未来に向かって計画をはじめた彼だけが暗い目になっていた、意図的な演出か、偶然か、そこは断定しようがない、しかし作り手全体としての意図、そうでなくても村の観察から得た感触はそこにある。この目の暗さはドキュメンタリーだから演出か? 偶然か? となるがフィクションならそのままOKだ」(p.35)
「もともと小説家の書くことなんか信用されませんからね。それにこっちも下手に信用されたら困るぐらいに思って【傍点:うさんくさく】書いてるわけですから。|でもあの目は印象的だったね。|演出だったとしたらたいしたものだね。」(p.35)
「こういう書き方をこともなげにできるのは小島信夫のすごいところの一つだ、月並みな言い方だが光景が目に浮かぶようだ、といってどういう光景か具体的に思い浮かべているわけではないのだ。」(p.35)
「「何と言いましたっけ?」小島さんは言った。「報道写真家の集団、……マグナムでしたか、マグナムの写真展で見たら、このバケツの水をかぶるのも、ゴムの栽培を思いついた男の目も、どっちもホントということになりますよね。」|ゴム栽培の男はあの一瞬こそ暗い目になったかもしれないが、その夜ひとりになれば家の中でしめしめと思ってほくそ笑んでいることだろうと小島さんはさらにつづけて言った、そしてさらに、|「しめしめとほくそ笑むことが暗くないことにはならないよね。」|というのだった、村の他のその日ぐらしのみんなはしめしめと思ったり、ほくそ笑んだりしないに違いない。」(p.36)
◎「ホント」のメンタリティ・情動を「伝える」ための「書き方」とは……→第10・11回へ
◇エートス/潜勢力/野生
◇良識的・規範的な記述を食い破る

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第9回:「現代ノンフィクション:井田真木子」[2017/11/21]

『プロレス少女伝説』(かのう書房/1990→文藝春秋/1993→『井田真木子著作撰集』〔里山社/2014〕: 9-180)
「その実体については無知同然の女子プロレスについて記事を書こうと思った動機は、その当時、観客席で繰り広げられていた、ひとつのダイナミックな変化にある。私の女子プロレスへの最初の興味は、試合にではなく、むしろ観客のほうにあった。」(p.10)
「私はこの観客の交代劇に刺激され、この少女たちを魅きつけている、女子レスラーの実体を知りたいと思った。」(p.11)
「私は、自分が、次第に、レスラーと観客双方の閉鎖的な世界から逃げ出したくなっていることに気がついた。当初、興味をひかれた観客の少女の熱狂が、一転して、苦痛に近いものに変わっていったのだ。」(p.13)
「彼女たち〔天田麗文(孫麗雰)・メデューサ〕は、女子プロレスと深く関わりながら、異質なまま通過していく人たちだ。その点で、二人は、ほかの選手の誰とも、また観客とも違っていた。女子プロレスの世界が、観客と選手の息苦しい一体感だけで成立しているというのは思い込みにすぎないと、麗雰やメデューサと話したあと、私は反省した。|そして、彼女たち二人に、以前から取材を続けていた神取しのぶの“異質”を重ねあわせた。」(p.14)
「私は、この三人に、あらためて、女子プロレスと彼女たちの人生の関わりを聞くことにした。」(p.15)
「今度は、自分が彼女に、通過者としての彼女たちに、深く関わる番だ。」(p.15)
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◇井田真木子「あとがき」『井田真木子著作撰集』: 179-180
「女子プロレスを合理的に説明するのは難しい。[…]|一方、女子プロレスラーも、合理的な理解になじまない。[…]|だが、それでもなお、私は、女子プロレスを一般社会と遊離した現象だとは思わない。[…]|彼女たちのような“異邦人”が、女子プロレスという小さな因習の世界にとびこんだことは、それ自体が今日的な事件ではないのか。私はそう考える。彼女たちは、自分の責任ではなく、不合理な生を生きることを余儀なくされた。その内面の不合理が、女子プロレスのより大きな不合理と響きあい、結果、彼女たちを渦中へ引き寄せたと考えられなくもない。|いずれにしても、彼女たちは、それと闘争することを選んだのだ。」(pp.179-180)
◇井田真木子「〜大宅壮一ノンフィクション賞受賞によせて〜 社会の死角をつれだす」『井田真木子著作撰集』: 181
「女子プロレスラーは見えない人々である。彼女たちの、図抜けて大きな肉体と力は、庶民の目を長く楽しませてきた。だが、レスラーが自分自身を、女子プロレスという芸を、さらに、今の社会に占める彼女たちの居場所について物語ることを、誰も期待しない。彼女たちは、ただ芸を見せればよいのだ。女子プロレスラーが肉声を持った存在であることを思い出す人は、まれだった。|声のない存在を実感するのは、難しい。|自分について何ごとも語らない女子プロレスラーは、リングの上でしか見えない存在となった。そして、それが、プロレスの魅力と表裏一体の関係にある、一種のいかがわしさと合体したとき、女子プロレスに対する一般的な、そして根深い拒絶感も、また生まれた。|リングを降りたあとの彼女たちに、語るべき何かがあるのではないかと考えて以来、私は、この拒絶感とも向かい合うことになった。それは頑強、広範で、深い根を持つ拒絶だった。|だから、私は本を書こうと思った。|見えない彼女たちを、何ミリ分かでも、社会の死角からつれだそうと考えた。」(p.181)
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◇神取忍「[インタビュー]もしも大宅賞がとれたら、賞金で一緒にオーロラ見に行こうって話してた」『井田真木子著作撰集』付録: 2-6
「当時、右も左もわからない新人にとって井田さんはいちばんの理解者だった。「心が折れる」って言葉があるじゃんか。井田さんのインタビューの中で出た言葉だからね。そういう意味でも、井田さんはいろんなもの引き出してくれたよね。」(p.2)
「時間がかかるの。「もうわかんないよ!」ってなるじゃん。井田さんはそこを聞き出すのがうまかったんだろうね。「答えが出るまでダメ!」って(笑)。」(p.2)
「私が捕まんないから家においでって言われて。もうほとんど監禁状態だった(笑)。「話を聞くまで外に出しません!」みたいな。」(pp.2-3)
「――そして長与千種さんと対戦をしたい、でも団体が違うからできないという話になったとき、お二人の間を井田さんが繋ぐような働きをします。
 […]井田さんは「インタビューで選手の活動を見せていったほうがいいよね」という配慮もあった。あと性格的に、私がめんどくさくなると「ああ、もういいよ!」ってケツまくっていなくなっちゃうっていうのを知ってたから、インタビューで話をさせて食い止めておこうっていう考えもあったんだと思う。[…]井田さんも「全日本女子プロレス」っていう王道的な団体がある中で、女子プロレス界で新しいことを実現させたいっていう想いは重なってたのかもしれないね。」(pp.4-5)
「――でもそれは一方で、井田さんの「本を書く」という行為が、神取さんの日常に食い込んで取材をすることで神取さんの状況を変えることでもあります。取材をされて嫌だったことや、本を読んで違和感を感じたりはしませんでしたか?
 それは全然なかったね。[…]そもそも井田さんが信用できるから話せるっていうのが根本にあるからね。利害関係抜きにして付き合ってくれてるなっていうのはわかったよね。」(p.5)
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◇関川夏央「[寄稿]彗星の光芒――井田真木子の思い出」『井田真木子著作撰集』付録: 7-13
「「物語をつくりだせる人をまず見つけること」|本を書くための条件を井田さんはそう語っている。[…]|彼女はいう。「見つかるまで、書くための取材は絶対にはじめない。見つかったら、まあ、いろんなやり方で火をつけてしまう」|あなたの方法は「状況介入」的ですね、と編集者にいわれ、井田さんは肯定する。そして、さらにつぎのようにいう。|「(膠着した場合)状況のほうを変えてしまおうとする。すると、また対象のほうが動きはじめます」|彼女は取材対象に密着するというより、取材対象に「介入」して事態を動かす。そして、ときに意図して「追い込む」。または「支配」してしまう。そんなふうにとれる。|「私はそういう同情に値しない人間でして。本を作るためなら身を売る[…]ような人間ですので。あるいは人も平気で裏切る」」(p.10)
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◇柳田邦男「弔辞」『井田真木子著作撰集』付録: 14-16
「取材対象の人物の生活に自分をまるごとかかわらせることによって、片隅に生きる現代の若者たちの“詩と真実”のディテールを、丁寧に紡ぎ出していく表現法がそこにあった。つまり異色の生き方や境遇の人物を等身大で描くことによって、個々の人間に投影される時代の特質という普遍的な問題を炙り出していく井田さんの作風あるいは流儀は、『プロレス少女伝説』でほぼ出来上がったと言えると思うのです。」(pp.14-15)
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◇清田麻衣子(里山社):『井田真木子著作撰集』: 574
「おそらく、井田真木子と取材対象者との間には、本質的な「魂の契約」とでも言うべきものが交わされていたのではないかと思う。|ではなぜそんなことが可能だったのか。それは、井田にとって「書くこと」が、「生きること」に他ならなかったからだ。彼らがそれぞれの人生を生きるように、井田真木子が彼らの本を書くということは、とても切実な行為であり、生きることそのものだった。だから彼らは、ともに生きる「同志」のように、井田の取材に応じたのではないだろうか。」(p.574)
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◎異邦/異端であること、つまり異質性(レスラーたちの人生/女子プロレスそのもの)を重ね合わせることから、「一般社会」(日本社会の構造)の本質をあぶり出す。異質性の先に普遍性を見出す試み。
◎歴史性の重視(女相撲に関する調査)
◎レスラー自身の内側にある表現を引きずり出す
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cf. ◆『井田真木子著作撰集 第2集』(里山社/2015)
cf. ◆『井田真木子と女子プロレスの時代』(イースト・プレス/2015)

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第10回・11回:「歴史性・同時代性をともなったアプローチ――調査の前に/あとで(絶えず)必要となるリテラシー」[11/28・12/5]

▼前回までの補足
◇上間の実践する「介入」と有薗の提唱する「解毒」との違い
◇現実に重い被害・抑圧を受けた当事者に対して、調査者が・調査者として・社会調査という行為のなかで/を通してなしうることはどのような・いかほどのことか――その範囲を冷静に見極める。また、なしうる範囲外のことにはどの立場で・どう向き合うべきなのか、を自らの資質・経験・状況に即して考える。
▼次回以降への導入
◇表象不可能性への挑戦――「内側を/から語ることば」をもちえない、ではどうするか?
[1]徹底的な資料の集積
[2]歴史感覚・同時代感覚
cf. 酒井隆史 2011 『通天閣――新・日本資本主義発達史』青土社
◇異質性とその歴史性の追究
生業・芸能・漂泊――その世界に分け入る
◇歴史感覚を養う
[1]観る――歌舞伎・文楽・大衆演劇
[2]聴く――口承芸能・民俗芸能・「語り物」の記録
cf. 小沢昭一『ドキュメント「日本の放浪芸」』
cf. 「古典芸能アーカイブス」(NHK)
+評伝
cf. 藤城かおる 2017 『唖蝉坊伝――演歌と社会主義のはざまに』えにし書房 *栗原康による書評:『図書新聞』3329号(2017年12月02日)
[3]踊る――己の身体でグルーヴと感覚(・情動)をつかむ
cf. 河内音頭・江州音頭・盆踊り
[4]劇映画で――文化・風俗・現象だけでなく人の立ち居振る舞い・発話・行動様式をつかむ
cf. 寅さん・健さん(高倉健)・座頭市(勝新)・(市川)雷蔵・萬屋錦之介・田中絹代……
[5]古典(新訳)を読む cf. 河出書房新社日本文学全集全30巻〔池澤夏樹個人編集〕
◇同時代感覚を養う
[1]雑誌(『暮しの手帖』『ぴあ』『宝島』『Olive』『STUDIO VOICE』……)
cf. 立岩真也 2017/10/25 「[何がおもしろうて読むか書くか 連載B]どういうふうに喧嘩をするのか、その方法論もあったほうがよい」『Chio通信』03: 10-11
cf. 中村佑子 Yuko Nakamura(@yukonakamura108)「いまはいろんな時代のいろんな思想が、時代背景なしに再評価されたり称揚されたりして、思考の流れがグチャグチャという感覚が強いです。それは大きな地図を描く批評的言説が、iPhoneの手元の言葉たちに埋もれ、例えば『ぴあ』レベルでも俯瞰できる媒体の少なさが主因だと思う。」(2017年11月29日11:41 https://twitter.com/yukonakamura108/status/935700117004283904)
[2]ミニコミ・機関紙[誌]・生活記録
[3]音楽(ジャズ・ロック・歌謡曲〔阿久悠・松本隆・阿木燿子……〕)・小説(開高健・深沢七郎・野坂昭如……)
[4]ドラマ(山田太一・倉本聰・久世光彦……)
[5]評論(花田清輝・竹中労・平岡正明……)
[6]古本屋・名画座・中古レコード屋
cf. 「京都現存最古の映画館閉館へ みなみ会館、移転再開目指す」(2017年12月1日『京都新聞』)
[7]空間の経験――喫茶店(ジャズ喫茶)・路上(ストリート)・路地・街歩き
cf. [引用]「ジャズ喫茶でジャズを聴いて、それをひとつの思想体験としたり、当時の演劇人なんかも劇場に入る前はジャズ喫茶でフリージャズ聴いてたとか。でもフュージョンやロックの時代になって、そうした思想的な愉しみでジャズを聴く人が減ってきたんだと思いますよ。」(「評論家 瀬川昌久さんが語る――東京ジャズ地図の変遷」株式会社都恋堂編『東京ジャズ地図』〔交通新聞社/2016〕p.142)
cf. 植草甚一・片岡義男
cf. 鉛筆と原稿用紙
◇生活感覚(長く持続してきた・不可視の・認識されがたいもの)
[1]名前のない家事――といったものの存在を認識する
主婦/母の「再生産=労働=生活」
cf. 「ある日、勇気を出していまのパートナーに、炊事とか洗濯とかの“名前ある家事”は全部あなたの担当ね、と言ったことがあって。当然、反発を買いました。でも、名前すらない家の仕事のほうがずっと量が多いんですよ。」(「写真家・長島有里枝――“女性”という役割について考え、表現することで社会とゆるやかにつながっていく」〔『雛形』2016/07/24〕)
[2]書かれなかった言葉(書くことを期待されず・書く余裕もない立場の人たちの言葉)を「読む」
cf. 西山敦子 2016/04/06 「震える指先」『すばる』2016-05: 80-81
 →村上潔 2016/04/24 「西山敦子「震える指先」に寄せて」
cf. 村上潔 2014/01/26 「対談にあたって」,《第76回西荻ブックマーク》「女子と作文×主婦と労働」(出演:近代ナリコ・村上潔|会場:今野スタジオマーレ)
◇ジェンダー感覚
「男の人は単純に上を、一番を目指していればよくて、でも女の世界はもっと複雑です。男性を追い抜かさない程度に有能であれとか、競争心がないと見せかけつつ他の女性には勝て、みたいな要求がいっぱいあるでしょう。喋らなさすぎても喋りすぎてもダメ、知っていることを知らないフリ、できることをできないフリしたほうが上手くいく場面が多いとか、褒められたら同性からのやっかみを恐れて、即座に謙遜しなきゃいけないとか。特にこの最後の気持ちは、男性には思いもよらないみたいですよ。女性ならみんな、深く頷く話なのに。」
「男性社会からすれば「できない」ように見えることは、単に彼らとわたしのやり方が違うだけだと思っています。仕事だけに集中していられないことは「悪い」ことじゃない。それなのに常に罪悪感、仕事においても家庭においても「ちゃんとできていない」という気持ちに、女性は苛まれがちです。そういう人には、「そんなことないんだよ」と言ってあげたい。」(「写真家・長島有里枝――“女性”という役割について考え、表現することで社会とゆるやかにつながっていく」〔『雛形』2016/07/24〕)
◇風土・自然とその時間の流れをつかみ・語ること
・石牟礼道子
・梨木香歩
「私はなぜ憑かれるようにしてフェンズに通ったのか。そこには書かれるべき「物語」があったのだ。紡がれるべき言葉が。泥の中に水棲の生物のように埋まっていたのだ。土地全体が、物語を渇望していた。その信号が母鳥を呼ぶ雛の声のように、発せられていて、私はそれをキャッチしただけだった。」(梨木香歩『水辺にて on the water / off the water』筑摩書房〔2010*初版2006〕p.33)
「信号を発信したのは「湖面」で、受信したのは「私」だったのか。|どうも、違うような気がする。おどろおどろしさを発信したのは、「私」の側ではなかったか。それを受信した湖面を見て、私はおののくような思いを抱いたのではないか。そう考え出すと、だんだん、発信も受信も、よく分からなくなる。やがて相互のリフレクションだけがぼんやり浮かび上がってくるような気すらしてくる。」(pp.53-54)
「宇宙のあらゆる場所で、人を含むあらゆる生物(もしくは鉱物、浮遊物とかも)が、それぞれの孤独を抱え、確実な受信の当てもなく、発信を続けている。そして何もそれは、悲壮感漂うことではない。|そう考えると、さあっと風が通ってゆくようだ。」(p.55)
「森の音。|本当に、森は水の生まれてくるところ。ここからスタートし、そしてまたここへ帰る。|森は様々な匂いを集めて、風が川筋に寄っていくように、水もまた、人の想像の及ばない時間をかけて、様々な場所を留まることなく走り抜け、その履歴を背負っていつか海に向かう。川の水を迎える海は、魚は、生物たちは、その物語をどう読み解くのだろう。|その微妙に違う物語を、読み込む力が人に備わっていないにしても、そのことに思いを巡らせ、感官を開こうとすることは、今、この瞬間にも、できることなのだと信じている。そしてその開かれてあろうとする姿勢こそが、また、人の世のファシズム的な偏狭を崩してゆく、静かな戦いそのものになることも。」(pp.158-159)
「本当に、水の中の世界の方がよほどリアルに明るく見える。けれどその明るさは、何かの反射ではなく、底の方から圧倒的な存在感でやってくるものなのだ。」(p.163)
「灰色で無表情な川の流れが何とも読み取りにくく(川にももちろん表情がある。多少生活排水に疲れていても生き生きとしている川、工場排水や鉛毒などで不機嫌な川、何だか嬉しくって、というように小さく飛び跳ねているような川、等々)、上流がどんな具合なのか、両岸との関係はどんなだったのか、対話が出来ないものか試みたりしていた。」(p.175)
「これは個人の、内的な歴史の一部。|[…]|それはその土地の、人間と関わる歴史の一部。」(pp.176-177)
「個人の意識の底に沈んでいた、思い出から醸された夢、そして生まれる前からあらかじめ仕込まれていた太古の夢が、絡み合い響き合って繰り返し繰り返し、不思議な旋律を伴って深い水底から訪れる。|水辺にある、ということはそういうことなのだろう。」(pp.181-182)
「現代のほとんど全ての問題が、時間を掛けてゆっくり熟成させることを軽んじてきた、そのことが社会に、もう手遅れかも知れない、という絶望的なほどの危機感を募らせている……。|それは本当に本当に「危機」なのだ。けれど、水辺でゆったりと、自分自身を自然の中にチューニングするかのように浮かんでいると、それでも、どこかに光があるような気がしてくるのが不思議だ。生命は儚い、けれどしたたかだ。[…]|何をあんなに焦っていたのだろう。|この循環の一部になりきればいいことなのに。」(pp.203-204)
「口に出して何人かに意識された瞬間、動いてしまう、魔的なもの。皮膚一枚ぎりぎりで保つ彼我の境。」(p.220)
「こういう「境にあるもの」の魔力に「やられる感じ」には覚えがある。」(p.223)
「目を閉じて体と意識の位相を少しずらして、漂っている気配を呼び込む。」(p.227)
「私の皮膚は呼吸をし、木々の葉は蒸散作用を行い、土も水蒸気をぼやぼやと出し、雲をつくり雨を呼び、風を呼び、皮膚が細かな水の粒子を受ける。重なり合い影響を受け循環を助ける数限りない諸々の作用、それを感じる主体であることの歓び。」(p.228)
「部分が全体を繋ぐこと。自分の生きている世界を、部分を、注意深く見つめること。自分がやがて還ってゆく世界を慈しむこと。|この、自分がそういう循環の一部であることをどれだけ心の深いレベルで納得できるか、ということがここしばらくの最大関心事の一つだった。循環してゆく森羅万象に、この意識も、還元されてゆくときがいつかくる。頭では分かることと、それが存在全体で納得できることは、大きな違いがある。何も怖れることはないのだ。それは諦めと同時に限りない安らぎになる。解放になる。必ず、そうなる。そういうことが理屈ではなく感得できる瞬間が、晴天から落ちてくる一片の雪びらのように、私を訪れるようになった。」(pp.228-229)
「主体の移動速度が増せば増すほど、その主体にとっての世界は厚みを失う。ときにその場に立ち止まり、じっと五感をめぐらし、そのめぐらした関係性の構造のようなものがグジャグジャにならないよう、ゆっくりした動きでその場から歩を進める。」(「文庫版あとがき」p.242)
――人と、人ならざるものとが長い時間をかけて創出してきた「智」(wisdom)。それを感じ取り、把握し、自らの/「自然の」言葉で表すこと(人と自然との相互作用・共同作業)。
◇「物語」を「降ろす」――梨木香歩の作法を参考に
[1]自然の声を聴く
[2]自然と人との関わりの痕跡・記録・記憶からその実態を蘇らせる
A:場所に立つ
|自然(の痕跡)に身を置く
|調べられることを調べる:
| 地形・歴史・生業・統計
| 記憶の聞き取り

B:物語を降ろす
 感覚と思考をあわせる
 開発前の人々の生活を「再現」する
◇「確実なものの気配」/「内側の世界」
「水辺は、限りない「無」を感じさせる(「ウォーターランド タフネスについて1」)。梨木さんにとって、真実は一つじゃなく、幾つも幾つもあり(『裏庭』)、確実なものなんて存在しない。けれど、確実なものの気配は、その向こうに、確かに感じられる。それは、「感じられる」ものであって、必ずしもことばを必要としない(『ぐるりのこと』)。水面は雲や空、木々など外界のすべてのものを映すし、反射で映すことも拒む。水面には不思議な魔力があって…、陽炎が一番立ちやすい場所であり…、幻だって出すことがある(『裏庭』)。」(酒井秀夫「解説 気配を感じること」『水辺にて』p.245)
「梨木さんは夜を恐れる。明るいうちに宿に着こうとする。学生のときにロッホ・ローモンドを訪ね、湖面を目指して歩いていくと夕暮れが迫り、崖の上のマナーハウスで夜会が行われていた。数十年後、再訪したが、その石造りの建物が見つからない。スコットランドは妖精の宝庫、妖精たちは旅人たちにときとして芝居がかったいたずらをする。妖精の世界の「内側の人」になりたいという心の蔵にある憧れを来る前から知っていた妖精たちに、梨木さん、歓待されたのだ。内側の人にはなり得なくても、内側の世界の饗宴を垣間見せてくれた(「ウォーターランド タフネスについて2」)。」(前掲「解説」p.246)
◇地球内外の自然環境全体を捉える視座
南方熊楠(博物学・生物学・民俗学……)
cf. 《南方熊楠生誕150周年記念企画展:南方熊楠――100年早かった智の人》(2017年12月19日〜2018年3月4日|於:国立科学博物館〔東京・上野公園〕日本館1階企画展示室)
cf. 佐藤春夫 2017 『南方熊楠――近代神仙譚』河出書房新社(*初版1952)
◇(古典の)詩(の〔文学者による〕翻訳)を読む
ことばと精神の合致
美しさ・よろこび・おそれ・苦しみ・おぞましさ――の(内側からの)表現
cf. 永井荷風訳 1938 『珊瑚集――仏蘭西近代抒情詩選』岩波書店

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第12回:「古典(1)山代巴」[2017/12/12]

◆山代巴編 1965 『この世界の片隅で』岩波書店
「この本は、「広島研究の会」の最初の果実でありますが、「広島研究の会」はあとで述べる故川手健の方法と不可分に結びついているものであります。会への発端は、東京にいる川手の友人たちが、彼の五年忌の集りを持った時にあったと思います。同じころ広島でも彼の大学時代の友人の間で、現在の被爆者組織の分裂とはかかわりなく、被爆からの二十年の歴史を明らかにしようという動きがあって、両グループの共同研究が始まりました。」(山代巴「まえがき」p.ii)
「振りかえってみると、今では「原爆を売りものにする」とさえいわれている広島の被爆者たちの訴えも、地表に出るまでには、無視され抑圧された長い努力の時期を経過しています。」(p.ii)
「原爆被害者の手記編纂委員会編の『原爆に生きて』(三一書房)が出版されたのは一九五三年六月でしたが、この手記の企ては一九四八年の八月、大村英幸によって提案されたものでした。しかし被爆以来、生活に追われている、一般被爆者の手記を集めるこの仕事は、『原爆の子』や『原子雲の下より』を実らせた力だけでは完成しなかったのです。当時原爆の被害に対する訴えは、占領政策への批判とみなされ、講演したり書いたりすると、沖縄へ送られ重労働の徒役になるという噂も広まるほど、占領政策は原爆に対する市民の声を封じていたのです。『原爆の子』『原爆詩集』が、あいついで出版され、講和条約の調印によりプレスコードがとかれても、大人たちの手記は容易に集らなかった。[…]川手健は、一般被爆者の手記を集めるためには、被爆者の組織が必要であるといい出しました。しかし組織するためには、まだ立ち上れずにいる被爆者の家を、一軒一軒訪問して、彼らのところにある要求や訴えを聞かなければなりません。『原子雲の下より』を編集した仲間たちは、その夏からこぞって被爆者の家を訪問することになりました。そして一人一人のまだ立ち上れない苦しみを聞き、要求や訴えを手記にする手伝いをはじめました。これは詩人や作家にとっても、被爆者にとっても、全く新しい道でありました。[…]そしてこのいとなみを通して、被爆者組織の礎となり、進んで原爆禁止の戦列へ加わって行く人々が続出しました。この事実から考える時、被爆者の手記集『原爆に生きて』は、今日の被爆者組織の礎石であったといえましょう。」(pp.v-vi)
「現在では、『原爆詩集』で有名になった峠三吉をのぞく、他の先駆的な人々の名は忘れられ、彼らが発見し積み重ねて来た努力や方法は、受けつがれていません。」(p.vi)
「被爆者の組織化の発端において、お互いの発見したあの方法が、捨て去られようとすることへの悲しみ」(pp.vi-vii)
「相生通りのことを旅のルポライターは至極簡単に、原爆被害者の吹きだまりなどと書いていますが、広島最大のこのスラム街がもしそうであるなら、私どもはせめてその実態だけでもつかんでおきたかったし、できれば被爆者どうし集って話し合えるような場もつくりたいと思った。そこでこの街の中ほどに部屋を借り、文沢隆一が住むことになりました。」(p.vii)
「相生通りでは被爆者であるということが、なんら特殊なことではありません。ここに住む人たちはすべてが政治のひずみのしわ寄せを受けており、ここに追いこまれざるを得なかったのです。ある人には戦争そのものが原因であり、ある人には経済的不況や家庭の悲劇が原因でした。朝鮮人や引揚者は日本の植民地時代の傷痕をそのまま受けついでいます。」(p.vii)
「要するに相生通りとは、棄民政策が作りだした花のようなもので、被爆者もその花びらの一つのように住んでいるのでした。」(p.viii)
「原爆の破壊力によって、古い日本人の思想はどのように破壊されたのか、または破壊されなかったのか、私どもはさまざまに論争した末、日本人の最大の癌とも思われる部落差別の問題を取り上げ、部落の二十年の変り方を探ることになりました。」(p.viii)
「私はここに住んでみて、ここから見える風景は、どのひとこまも、闘いの成果であるか、闘いの対象であるか、闘いを離れては何一つ存在しないことを、ひしひしと感じました。」(p.x)
「〔多地映一の発言:〕部落差別をなくそうという闘いが、そっくり被爆者の平和運動に直結していることは、原爆禁止を闘う上の、大きな示唆となるように思えました」(p.xi)
「胎内被爆児の問題は早くから私どもの研究課題となっていましたが、[…]IN UTERO(胎内被爆児)についての、医学的研究資料を集めることになりました。」(p.xi)
「まず、広島大学医学部の資料の中から、九名の小頭児の氏名が[…]まるでパズルのような形で発表されているものを手に入れ、これを一人ずつ追究して行かねばならなかったのです。[…]文字通り足で探すという探偵じみた行動を通じて、風早は九名の小頭児をつきとめました。」(pp.xi-xii)
「小頭児の親たちは、一人一人が孤立して、これが被爆によるものであることを証明される機会もなく、悪戦苦闘を続けて来ました。|私どもは、この事実を見のがしにはできません。本書の仕事がきっかけとなって、「胎内被爆の小頭児に終身保障を」という運動が、全国にひろがることを願い、小頭児の親たちを何度もたずねました。そして、その子供たちの将来について話しあっているうちに、九人の親がそろって集りをもち、ひろく全国の親たちに訴えようとするまでになりました。」(p.xii)
「原爆症に対する正確な認識をもつことなく、被爆の問題にとりくむことほど危険なことはありません。このような考えから、病理学者の杉原芳夫氏に、原爆症とともに歩いた彼の二十年の手記を通して、原爆症の医学的問題の現状を明らかにしていただきました。」(p.xiii)
「長年原爆孤児の世話をして、彼らが成人してゆく姿を見守って来た山口勇子は、孤児たちの歩みを大体つぎの四つの型に分けています。|[…]|この四つの型になって行くのは、原爆孤児に限らず一般にもいえることで、原爆の問題は決して他の多くの社会問題と切り離して存在する別個のものではない。彼女はこのことを孤児たちの保護者として、ある時は勤評問題にぶつかり、ある時は未解放部落の問題にぶつかるなかで発見した。ここから彼女は、自分自身の前進をはばむ壁や、その壁につらなるさまざまな問題は、それのよって起る根本のところを変革しなければ、解決できないと思うようになって来ました。」(p.xiii)
「大牟田稔は、[…]日本人でありながら沖縄の被爆者が二十年間全く放置された状態にあったことに怒りを感じ、日本人としての自分自身を反省することになりました。|彼はさらに、沖縄が米国の支配下にあるという条件を考慮に入れても、このこと(沖縄の被爆者が放置されている)は、“本土”の日本人全体、ひいては国家の免れ得ない責任であると考えた。日本政府は何らかの圧力が加わるまで、救済しようという意志を全く放棄していたのではないか。日本人の連帯意識とは一体どんなものなのか。沖縄を忘れ去っていたとさえ思えるこの事実は、何を意味するのか。」(p.xiv)
「私どもの会は、沖縄の被爆者問題を本土なみにする道(原爆医療法の適用)はまだ遠いと考えます。しかしこれを要求しつづけていくことが、沖縄の日本復帰の突破口にもなるという希望を持って、今後ますます沖縄の被爆者と緊密な連帯をはかることにしました。」(p.xv)
「この本の名を、『この世界の片隅で』ときめました。それは福島町の人々の、長年にわたる片隅での闘いの積み重ねや、被爆者たちの間でひそやかに培われている同じような闘いの芽生えが、この小篇をまとめさせてくれたという感動によるものであります。現地の片隅での闘いが私どもを変化させた力は大きく、「広島研究の会」は、どこまでの現地に密着して、中断することのない研究を進めなければならないと思われます。」(pp.xvi)
━━━
◇共同研究(文化サークル cf. サークル文化運動) cf. 『思想の科学』(思想の科学研究会)
 ――生活綴方運動/生活記録運動/詩集編纂/手記編纂
 cf. ◆山代巴『荷車の歌』(筑摩書房/1956)……民話/生活記録
◇多様な在野の調査者――作家・詩人・報道記者・孤児養護
◇当該地域に部屋を借りて住み込む
◇忘れられた/棄て置かれた被爆者たちを“発見”しその声を記録し状況を動かす――当事者同士をつなぐ/運動体の形成を促す
◇「被爆者」の多様性――一面的・平面的な被爆者イメージを批判的に相対化する
◇複合的・重層的な差別構造――その差異と共通項――を明るみに出す
◇医療・制度・政策の問題
◇生存・生活とコミュニティのリアリティ
◇「闘い」と調査・研究の相互作用

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第13回:「スラムを「内側から」描くということ――映画『月夜釜合戦』を題材に」[2018/01/09]

映画『月夜釜合戦』(監督:佐藤零郎/『月夜釜合戦』製作委員会/2017)
「喜劇映画 大阪・釜ケ崎舞台に――笑いで再開発の矛盾突く」(2017/12/28『毎日新聞』)
「このドキュメンタリーの撮影で出会った男性が芝居に参加するうち「フィクションだったら本音を言える」と話したことが心に残っていた。加えて「強制代執行に、芝居という創造的な行為で対抗することにも可能性を感じた」と語る。こうしたことが今回の作品につながった。佐藤監督は「釜ケ崎を撮るなら、劇やなという直感があった」と振り返る。」
「撮影は16ミリフィルムを選んだ。「デジタルでなく、16ミリのざらっとした映像なら、釜ケ崎の街のにおいを記録できるんじゃないか」と考えたためだ。予算の制約から撮り直しは最小限に抑えることとなり、撮影に緊張感が生まれたという。」
▽「大阪・釜ヶ崎舞台の映画「月夜釜合戦」――再開発の波“排除”に抵抗:あすから神戸で上映 街の空気16ミリに映す」(2018/01/05『神戸新聞』)
「デジタル全盛の時代に、16ミリで撮影したのは「フィルムの質感なら、臭いを撮ることができるはず」との思いから。」
「面白おかしい語り口の裏には、釜ヶ崎を巡る歴史へのまなざしがある。」
「単なるロケ地ではなく「街自体をダイレクトに感じるものに」という思いが画面ににじむ。」
▽「釜ヶ崎が舞台の劇映画が公開――政治的なメッセージを超える動き、蠢きをする登場人物ができあがった:鼎談 映画『月夜釜合戦』をめぐって――佐藤零郎監督×上野昂志氏×藤井仁子氏」(2018/01/01『図書新聞』3333: 8)
「藤井 […]私が試写に足を運ぶ気になったのは釜ヶ崎を一六ミリフィルムで、しかも劇映画として撮ったという点に惹かれたからです。正直、ビデオドキュメンタリーだったら観なかったかもしれません。[…]釜ヶ崎まで行ってビデオを回せばドキュメンタリーなんて誰にでも撮れるんです。」
「佐藤 […]フィクショナルなことではあるわけですが、劇自体が現実を変革するような力を持ちうるのではないかと、『月夜釜合戦』を撮る前から思っていました。」
「佐藤 […]一番の理由は、釜ヶ崎の「匂い」です。本作の撮影監督の小田切瑞穂が初めて釜ヶ崎に来たときに、「この町は匂いがええなあ」と言ったのです。釜ヶ崎に初めて入っていくと、やはり匂いが強烈にある。この匂いを撮りたいと思ったのですが、一六ミリの質感だったらそういったものが映るのではないか、いや映るはずだ、と思いました。」
「藤井 撮影のためとはいえ、あの規模のデモを実際に路上でやればそれはもうデモですよね。だから、まず現実があって次にそれを虚構化するというような区別は無効になっている映画だと思います。」
「佐藤 自分たちの意図としても、映画のなかにそうしたものがどんどん入り込む余地があるように、自分たちがつくり出した世界でガチガチに固めるのではなくて、現実の出来事が映画に入ってくる、そういったものを捉えたいという思いはありました。」
「佐藤 ぼくらは釜ヶ崎で活動していて、野宿している人たちに訴えかけますが、やはり自分たちの政治的アピールは届かないんですね。自分たちの言葉が野宿や日雇いの実感から遠いからですかね。しかし、『男はつらいよ』は届く。森ア東監督も届くでしょう。だから、届くものはきちんとあるんですね。同じ地平に立っているからですかね。そういうレベルに行きたい。」
▽原口剛「新しい主体が立ち現れる、その瞬間を目撃せよ――映画『月夜釜合戦』をめぐって」(2018/01/01『図書新聞』3333: 9)
「きっと、私たちは画期的な出来事を目撃することになるだろう。この物語に、活力に満ちた寄せ場の労働者が姿を現わすことはない。この映画が光をあてるのは、労働者こそが主体であった時代に脇に追いやられ、忘れさられてきた者たちだ。つまり、私娼であり、泥棒であり、孤児であり、野宿者であり、ヤクザ者であり、旅芸人であり、寄せ場の主人であり、あん摩屋である。かくも雑多な諸主体が、映画のなかでうごめきをはじめ、やがて抗いの物語を担っていく。その根源にあるのは、かれらの生きざまを肯定する力である。その力が、このとんでもない喜劇を生み出したのだ。」
▽酒井隆史「『月夜釜合戦』についてのラフなノート」(2017/12/21『批評新聞 CALDRONS』1: 6-8)
「釜ヶ崎を舞台にして、釜ヶ崎で実際にロケをしている劇映画は、おそらく存在しない([…])。[…]『月釜』のように、釜ヶ崎に舞台を設定してなおかつ相当の部分を釜ヶ崎で敢行しているもの、さらに、その空間性を自覚的に撮影しているものはないといっていい。」(p.7)
「この作品が、「釜ヶ崎らしさ」を素材にしたというこれまでの劇映画とは一線を画すものであること。この作品は、おそらく劇映画としてはじめて、釜ヶ崎の現在そのもの、釜ヶ崎という場そのものを、直接に、内在的にとらえようとした映画である。その意味では、「ネイティヴ」映画である。」(p.7)
「釜ヶ崎は一見ドキュメンタリーにふさわしい。それは「リアル」なようであり、「社会問題を集約した」空間として、ヒューマンな、とりわけ「参加型」の意欲、「意識の高さ」を注目させる。最近でも、ここを舞台にしたドキュメンタリーが話題を呼び、アートが参加すれば話題を巻き起こし、そして研究者は「社会問題」としての釜ヶ崎を語りつづけている。[…]ところがそこで、フィクションが選択された。しかも、それは、社会問題を直接にめぐるものではなく、たとえば、貧困の問題、福祉の問題、差別の問題に直接にふれてはいない。先ほど「ネイティヴ」映画といったが、そういう「高い意識」の視点からすれば、どこがネイティヴだ、ということにもなるだろう。[…]バカバカしく、またベタベタの[…]喜劇である。しかし、ここには、そうでなくてはならなかった必然がある。|なぜだろうか? ひとことでいえば、そこでめざされているのが、釜ヶ崎を「場」としてトータルにえがこうとしたからである。危機意識の深さ、という言い方をしたが、危機意識の深さがむしろ、フィクションというアプローチを必然のものとした。「かわいそうなひとたち」がいるからでも、矛盾が集約しているからでも、考えねばならぬ問題がそこにあるから釜ヶ崎ではない。ひとつには、この作品が、ひとの動きをもってつねに「場」としての、器としての空間を浮上させようとしていることに注意しなければならない。この作品は、おそらく、未来の世代にとって、釜ヶ崎ないし「ディープサウス」の歴史の最後の一局面、その蓄積された風景と空気を、どんなドキュメンタリーよりも巧みに切り取った資料として貴重なものとなるはずだ。そして、この映画が内容としては「現実離れ」していながら、釜ヶ崎という場がひめているであろう、虚構と現実のすれすれの感じをなによりもつかんでいる、ということだ。[…]ここには、よそものがよそものとしてゴツゴツしたまま土地の人間になるという、おそらく、釜ヶ崎のような場のもつダイナミズムそのものが表現されているようにおもわれる。」(pp.7-8)
━━━
◇釜ヶ崎におけるカメラ(外側の目)の氾濫
 ――どう(批判的に)差違化するか
 cf. 劇中での社会調査(大学の授業でのフィールドワーク)の表象
◇におい(匂い/臭い)
 [=身体的・感覚的・内在的]
 ――を記録すること・表現すること
◇場/街そのもの
 [=空間性・動態(蠢き)・ダイナミズム]
 ――をトータルに・ダイレクトに捉え・描くこと
◇落語・前時代映画
 「芸能」のもつ普遍的な力[=歴史性]
◇おんな・こども・アウトサイダー
 [=周縁性]
 ――から本質に迫る/「中心」を撃つ
◇失われたもの/失われつつある状況/奪われることの力学(政治性)
 ――を物語上で明示する試み
◇描写(何を映すか・映さないか/なぜ・どう映すか)・設定(配役)・台詞(引用)に課される(歴史的・地理的)必然性
 ――それを読み解き・批判していく「受け手」のリテラシー/姿勢の必要性
━━━
cf. 村上潔による鑑賞コメント/レポート:(1)(2)
cf. 「薄れつつある釜ヶ崎のにおいを撮ろうと16ミリで奮闘!大阪発・人情喜劇映画『月夜釜合戦』佐藤零郎監督トークショー&ミニインタビュー」(2018/01/07『CINEMATOPICS』)
cf. 《イベントレポート》(元町映画館)
cf. 酒井隆史 2011 『通天閣――新・日本資本主義発達史』青土社
cf. 原口剛 2016 『叫びの都市――寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』洛北出版
cf. 《『月夜釜合戦』ブックフェア》(於:MARUZEN&ジュンク堂書店梅田店5階芸術書売り場)

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第14回:「古典(2)上野英信」[2018/01/16]

◇記録文学
◇日本資本主義との対峙
◇「下放」
〈筑豊文庫〉 cf. 藤山圭「筑豊文庫の資料、直方市へ寄贈 上野英信さん遺族」(2017年1月18日3時00分|朝日新聞デジタル)
◇〈サークル村〉 cf. 新木安利 2011 『サークル村の磁場――上野英信・谷川雁・森崎和江』海鳥社
石牟礼道子森崎和江谷川雁山本作兵衛林えいだい等とのつながり
━━━
『追われゆく坑夫たち』(岩波書店/1960)
「筑豊――それはまことに近代日本の「地下王国」であった。そしてこの獰猛ないぶきにみちあふれた地下王国をささえてきたものは、日本の資本主義化と軍国主義化のいけにえとなった民衆の、飢餓と絶望であった。土地を追われ、職をうばわれ、地上で生きる権利と希望のいっさいをはぎとられた農漁民、労働者、部落民、囚人、朝鮮人、俘虜、海外からの引揚者や復員兵士、やけだされた戦災市民、……それぞれの時代と社会の十字架をせおった者たちが、たえるまもなくこの筑豊になだれおちてきた。[…]そしていま、地上から追いはらわれた者たちの飢餓と絶望によってひらかれた筑豊は、ふたたび地底から追いはらわれてゆく者たちの飢餓と絶望によってとじられようとしている。日本資本主義の火の床は、日に日に数をます失業者たちの冷えきった死の床と化しつつある。|とはいえ、――、炭鉱の合理化問題や失業問題について論じることが私の目的ではない。さまざまな人々がそれぞれの角度からそれらの問題について論じてきた。そしてまた、さまざまに興味ある集団的な調査報告が重ねられつつある。今におよんで私がなにを書きくわえる要があろう。にもかかわらず、あえて私をして語らしめようとするもの、それはむなしく朽ちはててゆく坑夫たちの歯をくいしばった沈黙であり、あえて私をして筆をとらしめようとするもの、それは組織されずにたおれてゆく坑夫たちのにぎりしめた拳である。|危機の波にのって石炭産業は退いてゆく。しかし、坑夫たちはその無限の深みの底にいる。そこへもぐり、彼らの眼をもたぬ魚のような魂のなかに入ってゆかなければならぬ。」(序文)
「そうだ、私にとって問題であるもの、それは「この世の地獄」ではなくて、「人間そのものとしての地獄」であり「地獄そのものとしての人間」である。」(序文)
「このような地獄へと労働者をつき落としてゆくものは、彼らの胃袋をしめあげる絶対的な飢餓と貧困であることに間違いはない。そしてまた、彼らがこの地獄から這いあがることを不可能にしているものは、その絶対的な飢餓と貧困に対応して張りめぐらされた、肩入金その他の、十重二十重の鎖であることも間違いない。しかし、この地底の生地獄を生地獄として完成するための、もうひとつの、最も直接的な力を見落とすことはできない。それは外でもない、文字どおり最も直接的な力の表現としての暴力である。|表面的にみれば、派手な暴力事件は徐々に減少しつつある。[…]大小無数の血なまぐさい事件は、たしかに減ってゆきつつある。しかし、そのことは決して暴力支配そのものの衰退を示すものでもなければ、まして中小炭鉱経営の「近代化」を物語るものではない。それは、ただ、暴力がもはや直接的な暴力行使を必要としないほど強められていることを示すものであり、そのなかで労働者が全く抵抗を奪われてしまっていることを端的に物語るものである。」(pp.65-66)
「僅かな米を受けるために、いつ断ちきられるかもしれない行列をつくって待っている主婦たち……、またその僅かな米を受けたがために、いつ生命を断ちきられるかもしれない地底へもぐってゆく坑夫たち……、そこに中小炭鉱の現実がある。|しかし、にもかかわらず、中小炭鉱の特殊的本質は、その恐るべき飢餓賃金のなかにあるのでもなければ、眼を覆わしめる飢餓生活のなかにあるのでもない。それは、依然として、一にかかって労働の質にある。その「奴隷性」」にある。労働の過酷さも、生活の悲惨さも、闇にとざされたこの「奴隷労働」の一側面にすぎないのだ。またある意味からいえば、このような飢餓賃金・飢餓生活は、哀れな地下労働者たちの逃亡を防ぎ、使えるかぎり奴隷としてつなぎとめておくための、もっとも効果的な足枷でもあるのだ。私はそのような「奴隷労働」の実態をこの眼でみとどけたいと思う。」(pp.74/76)
「いずれにもせよ、おのれをみずから「下罪人」「亡者」と規定することによってしか堪えきれない苛酷な労働と圧制と搾取のなかから生まれた呻きであり、呪いであり、しかもその「囚人労働」「奴隷労働」に抵抗することもできず、するすべも知らぬおのれに対する冷やかな自嘲であり、自虐であることだけは間違いない。そして同時に、暗黒な歴史の波動をこめたそれらの言葉が「業苦」そのもののかたまりのような老坑夫たちの姿とともに、炭鉱労働者の意識のなかから全く消え去ってゆきつつあったことも確かである。」(p.79)
「彼ら老坑夫の姿こそ、資本主義の生産した罪悪の否定すべくもない象徴そのものであろう。彼らは生ける屍のごとくに黙して語ろうともしない。しかし彼らは、その石のような沈黙によって、炭鉱労働者が「下罪人」以外のなにものでもなく、「亡者」以外のなにものでもなかったことを、いかなる雄弁にもまして雄弁に証言している。……」(p.80)
「古洞ヤマ。[…]全くそれは坑道などと呼べる代物ではなかった。腐爛死体の腸であった。[…]「墓堀人」のヤマなのだ。」(pp.80/82)
「意を決して私は彼に言葉をかけた。|「だいぶん年のごとありますばってん、一体なんぼにならっしゃるですか」|沈黙したまま老坑夫はゆっくりとボタを重ねつづけた。まるで自分の年を数えなおしてでもいるかのように。それからやっと顔をあげてつぶやいた。|「この世のもんじゃなか……」|それが私の問いに対する彼の答えのすべてであった。[…]一切の質問に対しても彼はやはりおなじ言葉を繰り返すだけで、ひとことの補足も与えてはくれなかった。」(p.84)
「私が炭鉱労働者としての第一歩をふみだした十幾年前のその冬の日のことを、私はかつて次のように書いたことがある。|「――文学のしごとは、ぼくにとっては、はたらくなかまたちに対する、つきることのない感謝と献身のちかい以外のなにものでもありません。もしあなたがたがなければ、ぼくもなく、文学のしごともありはしなかったのです。」(p.155)
「そこでぼくのプチブル性の皮がはがれ、個人主義のくさったほねがけずりとられてゆくのでした。人間の美しさをみることのできるほんとうの目が、海の底のくらやみの坑道でひらかれてゆくのでした。」(pp.157-158)
「……ぼくの血と体が、だれのちからによってでもない、ただはたらくなかまたちの手によってまもられ、その血の一滴も体の肉のひとつぶの細胞までもなかまたちの汗とあぶらによってやしなわれ、つくりかえられていきました。」(p.159)
「中小炭鉱失業者の生活がどれほど悲惨なものであるとしても、おそらくそれは当然すぎるほど当然な結末であって、なんら不思議なことではあるまい。失業によって彼らは悲惨になったのではない。言語を絶するほどの貧困と飢餓は、決して失業を境としてある日突然に生まれてきたのではない。それは既に遠く彼らが、あるいは彼らの父母が、中小炭鉱の労働者とならざるをえない宿命的な必然性のなかに胚胎し、彼らが中小炭鉱労働者として働きはじめたその日から[…]生誕し成長してきたものなのだ。したがって、逆説的にいえば、中小炭鉱がこの悲惨さを生んだというよりも、特殊日本的な労働者・農民の悲惨さが中小炭鉱を生んだのであり、むしろ中小炭鉱はこのような悲惨さをカムフラージュする巧妙な偽装網であり、その恐るべき悲惨さを社会の眼から防ぐための牆壁であったともいえるであろう。」(pp.181-182)
「ほとんど大多数の失業者が完全に、といっても過言ではないほど彼らの労働意欲の喪失状態は甚だしい。いや、彼らが労働意欲を失っているという表現も正確ではない。失っているのではなくて、奪い去られているのだ。破壊されつくしているのだ。人間であればこそここまで持ちこたえてこれたのであって、牛や馬ならとっくの昔に尻を据えてしまっているであろう。いや、そういういい方もまた決して適切ではない。[…]人間は牛や馬になることができればこそ、辛うじて今日まで持ちこたえてくることができたのだ、というべきであろう。|労働意欲だけではない。およそ「意欲」だとか「欲望」だとかという名をもって呼ばれるものの一切が、それこそ粉微塵に破壊されつくしているのだ。苛烈きわまりない地底の「奴隷労働」は彼らのもてるかぎりの財産と健康と生活を収奪し去ったばかりではなく、彼らの人間としての微かな欲望のすべてを残酷無慙にたたきつぶしてしまったのだ。」(p.184)
「おしなべて彼らは未だかつて労働と生活のなかに微塵の楽しみを味わった経験をもたない。もっているのはただ、不断におしつけられる苦痛に黙々として耐える習慣――能力といってもよい――だけである。圧制が彼らの父であり、飢餓が彼らの母であり、忍苦が彼らの寝床である。歯をくいしばって苦痛を甘受すること、それだけがみじめな彼らの精いっぱいの自衛であり、唯一の抵抗であるのかもしれない。もし爪の垢ほどの欲望でも抱いたが最後、この苛酷な奴隷労働と飢餓生活には一刻といえども耐えられないことを、彼らはだれよりも深く知っており、だれよりも強く恐れている。[…]ある意味からいえば中小炭鉱の生産の原動力は彼らのこの自虐的な禁欲主義であり、彼らの得ている唯一の報酬はその痛ましい陶酔であるともいえるであろうほどに。」(p.185)
「大手炭鉱の長屋街にあの明るい解放的な親和感の影すらもここにはなかった。あるのはただ病的なまでに強い疎外感覚に包まれた氷のような孤独と、泥のような無気力と、もはや救いがたく高じた被害妄想的な恐怖心ばかりであった。しかし、搾られるかぎり搾りつくされ、虐げられるかぎり虐げつくされ、人間的な欲望のすべてを破壊しつくされた人々のこのみじめな末期の姿を、いったいだれが隣笑する資格を持とう……。」(pp.188-189)
「追われゆく坑夫たち。もはや彼らのまえに明日はないことを彼らは知っている。誰がなんといおうと、明日が今日にもまして虚妄にすぎないことを、彼らは知っている。そのゆえに彼らは絶望も持たなければ希望も持たない。絶望を持たない――そこに絶望があり、希望をもたない――そこに希望がある、といえばいえるかもしれない。しかし、そんないいかたも所詮は虚妄であろう。|はっきりしていることは、ただ、夜がますます深まっているということだけだ。この真っ黒な夜の底で、われわれは彼らの屍をたべなければならぬ。明後日の朝をきりひらきたいと欲している汚辱にまみれた飢餓を、より一層たえがたいものとするために。」(pp.229-230)
◎「飢餓と絶望」/「筑豊になだれおちてきた」/「失業者たちの冷えきった死の床」/「地獄」/「無限の深みの底」へ「もぐ」る=「彼らの眼をもたぬ魚のような魂のなかに入ってゆ」く
◎「地獄」/「暴力」/「圧制」/「奴隷性」/「業苦」
◎「下罪人」/「亡者」/「生ける屍」/「ミイラ」
◎「圧制が彼らの父であり、飢餓が彼らの母であり、忍苦が彼らの寝床である。」
◎労働・失業・生活・貧困・暴力・搾取・疎外・無気力・自嘲・沈黙……を全体のものとして捉える
◎上野のどこまでも「降(下)りて」いく――坑夫たちとともに・同じ地平にあろうとする/絶望を見定め続ける――志向性
cf. 「【九州の100冊】『追われゆく坑夫たち』 上野英信 刻まれた地底からの語り」(2016年8月10日18時19分『西日本新聞』)
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『地の底の笑い話』(岩波書店/1967)
「地の底で働くひとびとの笑い話をともしびとして、日本の労働者の深い暗い意識の坑道をさぐってみたいというのが、このささやかな仕事にこめた、わたしのおこがましい願望である。」(p.iv)
「わが国の石炭産業の労働者が、いわゆるエネルギー革命によってどのように壊滅的な打撃を受け、いかに悲惨な状態に追いこめられているかということについては、いまさら説明の必要もないだろう。幼いころから筑豊炭田のあらあらしい脉動をききながら育ち、敗戦後は幾つかのヤマで働き、生涯を炭鉱労働者とともに生きたいと願ってきた人間の一人として、これほどたえがたい痛恨はない。なにかをしなければならぬ。だが、いったいなにをすればよいのか。一介の非力な文学の徒にすぎないわたしにできる、なにがあるのだろうか。そんな絶望的な焦燥にかられているとき、ふっとわたしの心によみがえったのが笑い話であった。ボタ山のふもとの納屋生活のあけくれ、あるいはまた、一秒後の生命の保証もない坑内労働のあいまあいま、おりにふれて老坑夫たちの語ってくれた、古い、なつかしい笑い話であった。」(p.v)
「わたしはその一つ一つに耳をかたむけながら、労働者にとって、労働とは何であるか、職場とは何であるのか、愛とは何であるのか、死とは、性とは、夫婦とは、仲間とは、いったい何であるのか、あらためて根本から考えなおさずにはいられなかった。なによりも、わたし自身その一員として働いてきながら、労働者の歴史について、思想について、人間そのものについて、じつはなに一つ知らなかったのだということを、いやというほど思い知らされたのである。」(p.vi)
「それらの笑い話の集録と紹介が、かならずしもこの稿の目的ではない。」(p.vi)
「ただ、こんなものでもなにかの捨て石になって、さらに広く深く現代の日本の底から笑い話が掘り起こされるようになれば、もっとも愚かしいものにわたしを賭けようとした目的の半ばは達せられたことになろう。わが国の労働者階級の歴史や思想については、すでにさまざまの角度から照明があてられている。しかしまだまだ多くの暗黒の部分が残されており、それを明らかにするためにも、笑い話の掘り起こしは欠くことのできない仕事であろう。もとより一部の専門家や好事家にまかせておけばそれですむというような性質のものではない。なによりもまず、それぞれの産業のなかで、そこに働く労働者自身の手によって積極的に仕事がすすめられることこそ肝要である。それを突きあわせ重ねあわせることによって、はじめて日本の労働者の人間像なり思想像なりは、いまのようなひからびたものでなく、いきいきとして豊かな真実の生命を回復し、獲得するにちがいない。」(p.vii)
「「嫁盗み」の婚姻形式が、[…]なぜひとり地下労働者の世界にのみ異常な繁栄をしたのか。これはやはり炭鉱社会のかなり特殊な成立と無関係ではありえない。さまざまな土地から、さまざまな歴史や伝統、知恵や因襲、差別や不信の尾をひきずって不断に流れこみ、また不断に流れさってゆく、この無限の奈落。その混沌たる光と闇の渦まきのまっただなかで、それだけが誰をも侵さず侵されない、もっとも確実で安全な方法であったのである。ただそれだけが、男女のめぐりあいというもっとも偶然的なものを、もっとも必然的なものとするための、不可欠の運動であり、神聖なる儀式でもあったのである。「あたしゃ、盗まれたと!」昂然としてみずから主張し、恋愛結婚などということばを断固としてよせつけようとしないのも、盗み盗まれた関係を無常の誇りとするからである。地底の若い生命の熱い美しい愛が決意にみちた冒険と協力によってかちとられた、勝利の歌がここにある。」(p.56)
「私たちは、炭鉱の「嫁盗み」に共通する、ある一つの重要な特長を見逃すことはできない。それは一般の「嫁盗み」のように単に盗みだせば終りというのではなくて、かならず手をとって一つのヤマへおもむき、共に一つのキリハで働くことによって、はじめて手続きが成立し完了することになるという点である。たとえ形式的であるにせよ、とにかくその形式をふまなければ、「嫁盗み」という形式そのものが成立したことにならないということである。そしてこれは、愛と労働とが不可分のものであり、その二つを同時に生きようとする者だけが夫婦でありうるという、その昔の地下労働者たちの強烈かつ深刻な観念を反映するものであろう。愛の真実の深さを具体的に立証できる唯一のもの――それは労働の共有だけであった。[…]あらゆる偶然性を排除し拒絶した極限的な愛の確認である。」(pp.65-66)
「炭鉱で働く人間にとって、地上と地底とは単に居住と職場というような平面のずれではなくて、まったく異質の世界であった。永遠に拮抗して相容れることのない二つの世界であり、外なる世界と内なる世界であった。[…]彼らはただ追いこまれ追いつめられた地底の暗黒の秩序以外に、いっさい地上の秩序をみとめることはできなかったのである。そしてこれこそが地下労働者の屈辱と栄光のすべてをこめたキリハの思想である。」(p.87)
「脱走者に対する部落民の協力は意味深いといわなければならぬ。笑い話にみられるごとく、たとえそれがきわめて個別的なものであり、多分に報恩的なものであったとしても、なおかつ、絶望的な逃亡に追いつめられた者たちの生命と安全を守りぬいたのは、じつは彼ら〔同じ境遇で働いていながら部落民を差別する、部落出身でない炭鉱労働者たち〕を「ぶち殺してくれようかと思う」までに激しい憎悪に「はらわたの煮えくり返るげな気色」に駆られる人々だけであったのだ。憎しみと愛と運命的な連帯の感覚は、互いにゆずらず三つ巴に拮抗しつつ、ケツワリの一点へとしぼられてゆく。ここには共同闘争と呼ばれるもののもっとも本質的な形があり、その可能性と限界が示されている。そしてもともと共闘者の資格は、万一もし失敗したらその場で刺しちがえて死ぬる覚悟で「後は俺にまかせろ」といいきることのできる者にのみ与えられる権利だ。」(p.131)
「失敗をも含めて、数々のケツワリの体験を語る老人たちの表情ほど、明るくいきいきとしたものはない。しかもなおかつ、あるいらだちの苦痛が彼らの眉間のあたりを走るのを、私は見逃すことはできない。それはもはや思い出としてしか語ることのできない苦痛でなくてなんであろう。かつてその一つ一つは、過ぎ去った昔話でもなければ思い出話でもなく、今この瞬間に生きている、そして是非とも生かさねばならぬ経験であり、情報であり、教訓であったのだ。」(p148)
「すべてが相互の今日と明日の運命と直接に関り合うところで、ケツワリ話はもっともいきいきとした迫真性を獲得しえたのだ。そしてこの関連を失ったとき、その荒々しい具体性も老婆の歯のごとく欠落し、痩せて摩耗した歯茎だけが残る。」(pp.148-149)
「わたしは自分の炭鉱生活が、古い、見棄てられたような中小炭鉱から始まったことを、なによりしあわせであったと思う。」(p.183)
「大炭鉱の労働と生活の中[…]ではとうてい学ぶことのできないものを、わたしはまず最初に中小炭鉱で学んだ。それは[…]「プロレタリヤ以下」の存在としての「日本の母親」の屈辱であり、痛苦であり、黒い呪われた血の呻きである。」|日本の火を堀りつづけてきた母たちが、いま、風化したボタ山に散らばる石炭のかけらを拾い集めて、かろうじてみずからの冷えた血を温めているように、わたしが笑い話の残片を拾い集めてまわったのも、ただただわたし自身の冷えきった血を温めたいがためにほかならない。[…]ふり向きもせず通り過ぎていってくれる人々の多からんことこそ、わたしの願いである。ただ、乞い願わくは靴底で踏み砕かれざらんことを。わたしにとっては、かけがえのない人々の骨片であるがゆえに。」(pp.183-184)
◎歴史・慣行・証言・経験則から、坑夫たちの世界の秩序・メンタリティを浮かび上がらせ、規定する。
◎「愛(情)」の位置づけ――労働形態・共同性の関係から
◎失われてゆく集合記憶を当事者たちの情動ごと記憶する。
◎弔いでもあり、闘いでもあり、上野自身の人生を支える意味をもつ取り組み。
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◎高度な文学的表現が修辞的でなくむしろシビアな描写を補完すること
◎圧倒的な記述の強度/凄み
cf. 福岡市文学館企画展《上野英信――闇の声をきざむ》(2017年11月10日〜12月17日|於:福岡市総合図書館1階ギャラリー/福岡市文学館)
cf. 「父・上野英信が筑豊で見た夢――長男・朱さん 福岡の企画展で語る」(2017年12月2日『朝日新聞』福岡版朝刊2〔地方〕面)

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第15回:「古典(3)石牟礼道子」[2018/01/19]

『苦海浄土』(全三部:1969-2004|*初出:1960〜)
▼石牟礼道子『[新装版]苦海浄土――わが水俣病』(講談社/2004)
「三十四年五月下旬、まことにおくればせに、はじめてわたくしが水俣病患者を一市民として見舞ったのは、坂上ゆき([…])と彼女の看護者であり夫である坂上茂平のいる病室であった。窓の外には見渡すかぎり幾重にもくるめいて、かげろうが立っていた。濃い精気を吐き放っている新緑の山々や、やわらかくくねって流れる水俣川や、磧[かわら]や、熟れるまぎわの麦畑やまだ頭頂に花をつけている青いそら豆畑や、そのような景色を見渡せるここの二階の病棟の窓という窓からいっせいにかげろうがもえたち、五月の水俣は芳香の中の季節だった。」(pp.140-141)
「彼の病室の半開きになった扉の前を通りかかろうとして、わたくしはなにか【傍点:かぐろい】、生きものの息のようなものを、ふわーっと足元一面に吹きつけられたような気がして、思わず立ちすくんだのである。」(p.143)
「安らかにねむって下さい、などという言葉は、しばしば、生者たちの欺瞞のために使われる。|このとき釜鶴松の死につつあったまなざしは、まさに魂魄[こんぱく]この世にとどまり、決して安らかになど往生しきれぬまなざしであったのである。|そのときまでわたくしは水俣川の下流のほとりに住みついているただの貧しい一主婦であり、安南、ジャワや唐[から]、天竺をおもう詩を天にむけてつぶやき、同じ天にむけて泡を吹いてあそぶちいさな蟹たちを相手に、不知火海の干潟を眺め暮らしていれば、いささか気が重いが、この国の女性年齢に従い七、八十年の生涯を終わることができるであろうと考えていた。|この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ。」(p.147)
「ここではすべてが揺れていた。ベッドも天井も床も扉も、窓も、揺れる窓にはかげろうがくるめき、彼女、坂上ゆきが意識をとり戻してから彼女自身の全身痙攣のために揺れつづけていた。あの昼も夜もわからない痙攣が起きてから、彼女を起点に親しくつながっていた森羅万象、魚たちも人間も空も窓も彼女の視点と身体からはなれ去り、それでいて切なく小刻みに近寄ったりする。」(p.148)
「海の上はよかった。ほんに海の上はよかった。」(p.150)
「海の上はほんによかった。じいちゃんが艫櫓[ともろ]ば漕いで、うちが脇櫓ば漕いで。」(p.152)
「不知火海はのどかであるが、気まぐれに波がうねりを立てても、ゆきの櫓にかかれば波はなだめられ、海は舟をゆったりあつかうのであった。」(p.152)
「海とゆきは一緒になって舟をあやし、茂平やんは不思議なおさな心になるのである。」(p.153)
「舟の上はほんによかった。」(p.154)
「わが食う魚[いお]にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。」(p.155)
「うちは海に行こうごたると。」(p.155)
「晩にいちばん想うことは、やっぱり海の上のことじゃった。海の上はいちばんよかった。」(p.167)
「春から夏になれば海の中にもいろいろ花の咲く。うちたちの海はどんなにきれいかりよかったな。|海の中にも名所のあっとばい。「茶碗が鼻」に「はだか瀬」に「くろの瀬戸」「ししの島」。|ぐるっとまわればうちたちのなれた鼻でも、夏に入りかけの海は磯の香りのむんむんする。会社の臭いとはちがうばい。|海の水も流れよる。ふじ壺じゃの、いそぎんちゃくじゃの、海松じゃの、水のそろそろと流れてゆく先ざきに、いっぱい花をつけてゆれよるるよ。|わけても魚どんがうつくしか。いそぎんちゃくは菊の花の満開のごたる。海松は海の中の崖のとっかかりに、枝ぶりのよかとの段々をつくっとる。|ひじきは雪やなぎの花の枝のごとしとる。藻は竹の林のごたる。|海の底の景色も陸[おか]の上とおんなじに、春も秋も夏も冬もあっとばい。うちゃ、きっと海の底には龍宮のあるとおもうとる。夢んごてうつくしかもね。海に飽くちゅうこた、決してなかりよった。」(pp.167-168)
「うちゃもういっぺん、じいちゃんと舟で海にゆこうごたる。」(p.185)
「うちゃ【傍点:ぼんのう】の深かけんもう一ぺんきっと人間に生まれ替わってくる。」(p.186)
「漁師ちゅうもんはこの上なか仕事でござすばい。」(p.218)
「そら海の上はよかもね。|海の上におればわがひとりの天下じゃもね。」(p.219)
「あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。|これより上の栄華がどこにゆけばあろうかい。」(p.221)
「潮の回路の中にあらわれるように、わたくしの日常の中に、死につつあるひとびとや死んでしまったひとびとが浮き沈みする。[…]自分が深い深いほら穴に閉じこもっていることをわたくしは感じ出す。」(p.289-290)
「わたくしの死者たちは、終わらない死へむけてどんどん老いてゆく。そして、木の葉とともに舞い落ちてくる。それは全部わたくしのものである。」(p.290)
「小冊子「現代の記録」を出す。あの蓬[よもぎ]氏たちと。水俣はじまっていらいのチッソの長期ストライキ、その記録である。天草のおじいさんからきいた西南役と水俣病の話を入れる。続刊したかったが雑誌づくりというものは、えらく金のかかることを知り、一冊きりで大借金をかかえる。「水俣病」は宙に迷う。わが魂の、ゆく先のわからぬおなごじゃと、わたくしは自分のことをおもう。|すこしもこなれない日本資本主義とやらをなんとなくのみくだす。わが下層細民たちの、心の底にある唄をのみくだす。それから、故郷を。|それらはごつごつ咽喉にひっかかる。それから、足尾鉱毒事件について調べだす。谷中村農民のひとり、ひとりの最期について思いをめぐらせる。それらをいっしょくたにして更に丸ごとのみこみ、それから……。|茫々として、わたくし自身が年月と化す。突如としてわたくしははじめて脱け出す。日本列島のよくみえるところへ。|しかしよく見えるはずはなかった。そこはさらに混迷の重なりあう東京だったから。“森の家”という森にいたのだ。女性史を樹立した高群逸枝さんの森の家に。」(p.299-300)
「そのようなことどもをおぼろげにきいて帰る。わたくしの抽象世界であるところの水俣へ、とんとん村へ。抽象の極点である主婦の座へ。ここはミクロの世界であるなどとおもい、首をかしげてぼうとして坐る。」(p.301)
「わたくしはわたくしの年月をぶった切る。その切り口につながねばならぬ。」(p.305)
「社会的な自他の存在の“脱落”、自分の倫理の“消失”、加速度的年月の“荒廃”の中に晒される。それらを、つないでみねばならない――。」(p.305)
「自分のゆき女、自分のゆり、自分の杢太郎、自分のじいさまをかたわらにおき、ひとりの〈黒子〉になって、市民会議の発足にわたくしはたずさわる。」(p.318)
▼「あとがき」(『[新装版]苦海浄土――わが水俣病』〔講談社/2004〕pp.355-361)
「水俣病患者たちがしばしばいう「――水俣病患者のわたしたちがモノいえば、国家のため、県のため、市のためになりまっせん……」という言葉は、[…]〔足尾銅山鉱毒事件の〕七十数年後の水俣病事件では、日本資本主義がさらなる苛酷度をもって繁栄の名のもとに食い尽くすものは、もはや直接個人のいのちそのものであることを、わたくしたちは知る。谷中村の怨念は幽暗の水俣によみがえった。|ここに登場する人びとはその意味のみならず、この国の農漁民の、つまりわたくしたちの、祖像であり、ひとびとの魂には、わたくしたち自身のはるかな原思想が韻々と宿されているのである。このようにして、ほろぼされるものたちになりかわり、生まれでるものたちの祖像を、わたくしは新潟水俣病患者たちの姿の中にみいだす。」(p.357)
「極限状況を超えて光芒を放つ人間の美しさと、企業の論理とやらに寄生する者との、あざやかな対比をわたくしたちはみることができるのである。」(p.359)
「――意識の故郷であれ、実在の故郷であれ、今日この国の棄民政策の刻印をうけて潜在スクラップ化している部分を持たない都市、農漁村があるであろうか。このような意識のネガを風土の水に漬けながら、心情の出郷を遂げざるを得なかった者たちにとって、故郷とは、もはやあの、出奔[しゅっぽん]した切ない未来である。|地方に出てゆく者と、居ながらにして出郷を遂げざるを得ないものとの等距離に身を置きあうことができれば、わたくしたちは故郷を再び媒体にして、民衆の心情とともに、おぼろげな抽象世界である未来を、共有できそうにおもう。その密度の中に彼らの唄があり、私たちの詩[ポエム]もあろうというものだ。そこで私たちの作業を記録主義とよぶことにする……と私は現代の記録〔1963年創刊〕を出すについて書いている。未完のこの書の経緯を、いくばくかはそれで伝えているようにおもう。」(pp.359-360)
▼石牟礼道子「私は何を描こうとしたか――『苦海浄土 全三部』刊行」(『機』〔藤原書店〕293(2016-08): 4-6)
「拙いこの三部作は、我が民族が受けた希有の受難史を少しばかり綴った書と受け止められるかも知れない。間違いではないが、私が描きたかったのは、海浜の民の生き方の純度と馥郁[ふくいく]たる魂の香りである。生き残りのごく少数の人達と、今でもおつき合いをさせていただいている。まるで上古の牧歌の中に生きていた人々と出会うような感じである。」(p.5)
「緒方正人さんはいう。|「チッソの人の心も救われん限り、我々も救われん」|そこまで言うには、のたうち這いずり回る夜が幾万夜あったことか。このような人々を供犠として私たちの近代は、道義なき世界に突入してしまった。|本編に登場するおおかたの人達は、今はこの世にない。思い起こせば、かの人々のえも言えぬ優しい眼差しに慰撫されて、立ち上がれない膝を立て、不自由な指を伸ばして書き継いできたと思う。」(p.6)
▼渡辺京二「石牟礼道子の世界」(『[新装版]苦海浄土――わが水俣病』〔講談社/2004〕pp.364-386)
「本書が講談社から発行されると、世評はにわかに高く、その年のうちに第一回大宅壮一賞の対象となった。彼女はそれを固辞したが、そのことがまたジャーナリズムの派手な話題となった。しかも、時は折から公害論議の花ざかりである。『苦海浄土』はたちまち、公害企業告発とか、環境汚染反対とか、住民運動とかいう社会的な流行語と結びつけられ、あれよあれよという間に彼女は水俣病について社会的な発言を行なう名士のひとりに仕立てられてしまった。」(pp.366-367)
「彼女は、自分でもどうにもならぬ義務感から、本書の第七章にあるように、昭和四十三年はじめに水俣病対策市民会議を結成し、その後運動が拡がるにつれ、彼女なりの責任を果たそうとして来た。」(p.367)
「石牟礼氏はこのような事態の展開に、つとめてよくつき合って来たといってよい。それは彼女の責任であったわけではあるが、そういう経過の中で、彼女にある運動のイメージがまとわりつき、彼女の著作自体、公害告発とか被害者の怨念とかいう観念で色づけして受けとられるようになったのは、やむをえない結果であった。|しかし、それは著者にとってもこの本にとっても不幸なことであった。そういう社会的風潮や運動とたまたま時期的に合致したために、このすぐれた作品は、粗忽な人びとから公害の悲惨を描破したルポルタージュであるとか、患者を代弁して企業を告発した怨念の書であるとか、見当ちがいな賞讃を受けるようになった。」(p.367-368)
「本書が文庫という形で新しい読者に接するこの機会に、私は、本書がまず何よりも作品として、粗雑な観念で要約されることを拒む自律的な文学作品として読まれるべきであることを強調しておきたい。」(p.368)
「実をいえば『苦海浄土』は聞き書なぞではないし、ルポルタージュですらない。ジャンルのことをいっているのではない。作品成立の本質的な内因をいっているのであって、それでは何かといえば、石牟礼道子の私小説である。」(p.368)
「私のたしかめたところでは、石牟礼氏はこの作品を書くために、患者の家にしげしげと通うことなどしていない。これが聞き書だと信じこんでいる人にはおどろくべきことかも知れないが、彼女は一度か二度しかそれぞれの家を訪ねなかったそうである。「そんなに行けるものじゃありません」と彼女はいう。むろん、ノートとかテープレコーダーなぞは持って行くわけがない。[…]彼女は「あねさん」として、彼らと接しているのである。これは何も取材のテクニックの話ではない。存在としての彼女がそういうものであって、そういうふれあいの中で、書くべきものがおのずと彼女の中にふくらんで来たことをいうのである。」(p.369)
「彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……。」すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだもの」。」(pp.370-371)
「私は、それが一般に考えられているように、患者たちが実際に語ったことをもとにして、それに文飾なりアクセントなりをほどこして文章化するという、いわゆる聞き書の手法で書かれた作品ではないということを、はっきりさせておきたいのにすぎない。本書発刊の直後、彼女は「みんな私の本のことを聞き書だと思ってるのね」と笑っていた」(p.371)
「患者の言い表わしていない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかも知れないが、それはどこから生れるのであろう。」(p.371)
「この文をそういうふうに読むかぎり、つまり悲惨な患者の絶望を忘れ去ることはできないという良心の発動と読むかぎり、『苦海浄土』の世界を理解する途はひらけない。そうではなくて、彼女はこの時釜鶴松に文字どおり乗り移られたのである。彼女は釜鶴松になったのである。」(p.372)
「彼女は自分が釜鶴松とおなじ世界の住人であり、この世の森羅万象に対してかつてひらかれていた感覚は、彼のものも自分のものも同質だということを知っている。ここに彼女が彼から乗り移られる根拠がある。」(p.372)
「山には山の精が、野には野の精がいるような自然世界である。この世界は誰の目にもおなじように見えているはずだというのは、平均化されて異質なものへの触知感を失ってしまった近代人の錯覚で、ここに露われているような自然の感覚へは、近代の日本の作家や詩人たちがもうもつことができなくなった種類に属する。」(p.373)
「こういう表現はおそらく日本の近代文学の上にはじめて現れた性質のものである。というのは、[…]ここでとらえられているようなある存在感は、近代的な文学的感性では触知できないものであり、ひたすら近代への上昇をめざして来た知識人の所産であるわが近代文学が、うち捨ててかえりみなかったものだという意味である。この数行はもちろん石牟礼氏の個的な才能と感受性が産んだものにはちがいないけれども、その彼女の個的な感性にはあるたしかな共同的な基礎があって、そのような共同的な基礎はこれまでわが国の文学の歴史でほとんど詩的表現をあたえられることもなかったし、さらには、近代市民社会の諸個人、すなわちわれわれにはとっくに忘れ去られていた。」(p.374)
「その世界は生きとし生けるものが照応し交感していた世界であって、そこでは人間は他の生命といりまじったひとつの存在にすぎなった。」(p.374)
「このような世界、いわば近代以前の自然と意識が統一された世界は、石牟礼氏が作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身生れた時から属している世界、いいかえれば彼女の存在そのものであった。釜鶴松が彼女の中に移り住むことができたのは、彼女が彼とこういう存在感と官能とを共有していたからである。」(p.375)
「「あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんだ」という彼女の、一見不逞ともみえる確信の根はここにある。彼女は対象を何度もよく観察し、それになじんでいるからこういえるのではない。それが自分のなかから充ちあふれてくるものであるから、そういえるのである。彼女は彼らに成り変ることができる。なぜならばそこにはたしかな共同的な感性の根があるからだ。」(pp.375-376)
「彼女は[…]一詩人として、いつかはこのような人間の官能の共同的なありかたと、そのような官能でとらえられた未分化な世界とを描いてみたいという野心を持っていたにちがいない。ところが、彼女がそれを描くときは、それが、チッソ資本が不知火海に排出した有機水銀によって、徹底的に破壊されつくされ〔ママ〕る、まさにその時に当っていた。いや、この破壊がなければ、彼女の詩人の魂は内部からはじけなかったのかも知れない。」(p.376)
「生きとし生けるもののあいだに交感が存在する美しい世界は、また同時にそのような魑魅魍魎[ちみもうりょう]の跋扈[ばっこ]する世界ででも〔ママ〕ある。そのことを石牟礼氏は誰よりもよく知っている。それなのに、彼女の描く前近代的な世界は、なぜかくも美しいのか。それは、彼女が記録作家ではなく、一個の幻想的詩人だからである。」(p.377-378)
「石牟礼氏が『苦海浄土』で、崩壊し引き裂かれる患者とその家族たちの意識を、忠実な聞き書などによらずとも、自分の想像力の射程内にとらえることができるという方補論を示しえたのは、その分裂と崩壊が彼女の幼時に体験したそれとまったく相似であったからである。」(p.380)
「この一瞬は彼女に何かを思い出させる。その何かとは、この世の生成以前の姿といってもよく、そういう一種の非存在、存在以前の存在への幻視は、いうまでもなく自分の存在がどこかで欠損しているという感覚の裏返しなのである。」(p.381)
「彼女の眼には、そこでは一切の分裂がありえない原初的な世界がかすかに見えているのにちがいない。」(p.381)
「『苦海浄土』は、そのような彼女の生得の欲求が見出した、ひとつの極限的な世界である。彼女は患者とその家族たちに自分の同族を発見したのである。なぜなら、水俣病患者とその家族たちは、たんに病苦や経済的没落だけではなく、人と人とのつながりを切り落とされることの苦痛によって苦しんだ人びとだったからである。彼女はこれらの同族をうたうことによって自己表現の手がかりをつかんだのであって、私が『苦海浄土』を彼女の不幸な意識が生んだ一篇の私小説だというのもそのためにほかならぬ。」(p.382)
「「ゆき女聞き書」や「天の魚」で描かれる自然や海上生活があまりに美しいのは、そのためである。この世の苦悩と分裂の深さは、彼らに幻視者の眼をあたえる。苦海が浄土なる逆説はそこに成立する。おそらく彼女はこのふたつの章において、彼らの眼に映る自然がどのように美しくありえ、彼らがいとなむ海上生活がどのような至福でありうるかということ以外、一切描くまいとしているのだ。|このような選択が絶望の上にのみ成り立つことができることをいう必要があるだろうか。」(p.383)
「『苦海浄土』を統一する視点は[…]分裂を知らぬ「ユマニスト」のそれではなく、この世界からどうしても意識が反りかえってしまう幻視者の眼であり、そこでは独特な方法でわが国の下層民を見舞う意識の内的崩壊が語られており[…]」(pp.384-385)
「石牟礼氏が患者とその家族たちとともに立っている場所は、この世の生存の構造とどうしても適合することのできなくなった人間、いわば人外の境に追放された人間の領域であり、一度そういう位相に置かれた人間は幻想の小島にむけてあてどない船出を試みるしか、ほかにすることもないといってよい。」(p.385)
「このような美しさは、けっして現実そのものの美しさではなく、現実から拒まれた人間が必然的に幻想せざるをえぬ美しさにほかならない。」(p.385)
「『苦海浄土』一篇を支配しているのは、この世から追放されたものの、破滅と滅亡へ向って落下して行く、めくるめくような墜落の感覚といってよい。」(p.385)
「彼女の文章家としての才能が十二分に発揮されているのは、いうまでもなくあの絶妙な語りの部分においてであり、そこでは現実の水俣弁は詩的洗練をへて「道子弁」ともいうべき一種の表現に到達している。」(p.386)
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「水俣病」と「水俣」――のあいだ
◇近代「批判」/「告発」――にとどまらないスケール
◇海/生物/自然
◇幻視の水俣=始原の海
◇前近代
◇時空
◇空間(海・大地・空気)の記憶
◇天/神
◇魂/鎮魂
◇死者(死にゆく者)たちとの交感/一体化
◇「精神の秘境」
◇語り≠物語≒幻想(抽象世界)
◇ことば/語り物的なリズム
◇記録≠(私)小説≒詩
◇虚実の線の先に開ける光の道筋
◇医療の世界への影響 cf. 原田正純
◇「社会調査」に及ぼした役割
 cf. 森下直紀 2010 「水俣病史における「不知火海総合学術調査団」の位置――人文・社会科学研究の「共同行為」について」,山本崇記・高橋慎一編『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』生存学研究センター報告14,pp.319-348
◇世代を越えて/遠く離れた京都で受け継がれ……:西陣〈カライモブックス〉
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cf. 関連映像作品:土本典昭《水俣シリーズ》/木村栄文『苦海浄土』(1970)
cf. ◆米本浩二「[連載]不知火のほとりで:石牟礼道子の世界」(『毎日新聞』)
cf. ◆米本浩二 2017/03/30 『評伝 石牟礼道子――渚に立つひと』,新潮社,361p.【第69回読売文学賞受賞】 cf. ◆米本浩二「石牟礼さん死去――水俣病の受難に感応 絶対的な孤独描く」(2018年2月10日『毎日新聞』)
cf. ◆岡本晃明「石牟礼さん死去 京都でも惜しむ声――「心描くこと教えられた」(2018年2月11日『京都新聞』朝刊26面)


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■参考

対象候補とした(が取り上げられなかった)もの

●第4回:「社会調査“の”倫理」
◆山本崇記 2010 「社会調査の方法と実践――「研究者」であることの範域をめぐって」,山本崇記・高橋慎一編『「異なり」の力学――マイノリティをめぐる研究と方法の実践的課題』生存学研究センター報告14,pp.294-318
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●第**回:「現代ノンフィクション(2)ブレイディみかこ」
『子どもたちの階級闘争』(みすず書房/2017)
 cf. ◆『花の命はノー・フューチャー――DELUXE EDITION』(筑摩書房/2017)
 cf. ◆『労働者階級の反乱――地べたから見た英国EU離脱』(光文社新書/2017)
◇「地べたのポリティクス」
◇生きる「場」
◇「よそもの」でありつつコミュニティの一員であること
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●第**回:「現代ノンフィクション(3)寺尾紗穂」
『あのころのパラオをさがして――日本統治下の南洋を生きた人々』(集英社/2017)
 cf. 書評「歴史の破片を拾い集める」(佐久間文子)『すばる』39-10(2017-10): 316-317
 cf. ◆『南洋と私』(リトルモアブックス/2015)
◇“ノンフィクション・エッセイ”
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●第**回:「現代ノンフィクション(*)春日太一」
春日太一(映画史・時代劇研究家)
◆『あかんやつら――東映京都撮影所血風録』(文藝春秋/2013→2016 文春文庫)
 cf. 書評:(1)(2)(3)(4)(5)[対談]
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●第**回:「ドキュメンタリー」
【1】小川紳介(小川プロ)
◇闘争の記録
◇移住/定点観測
◇生きものの観察
◇歴史の古層
cf. 『青年の海――四人の通信教育生たち』(1966年/56分)*第1回監督作品
cf. ・「小川紳介と小川プロダクション」全作品上映とレクチャー(映画美学校/2015)
 ・小川プロダクション全作品特集上映(pandora/2014)
 ・小川紳介監督全作品上映(神戸映画資料館/2008)
【2】原一男
◇撮る側×撮られる側/撮るという暴力
◇自らを巻き込んだ表現
cf. 「原一男監督と考える 70年代の生の軌跡――障害・リブ・沖縄 〜初期ドキュメンタリー作品上映とトーク〜」(2016年4月29日/於:立命館大学朱雀キャンパス5F大ホール)
cf. ◆岡本晃明 20160701 「【研究の現場】対峙――70年代の運動とドキュメンタリー/原一男監督を囲んで」立命館大学生存学研究センター
【3】木村栄文
◇『まっくら』(原作:森崎和江)・『苦海浄土』(原作:石牟礼道子)
◇フィクションとの越境性
◇「ドキュメンタリーは創作である」
cf. ◆渡辺考『もういちどつくりたい――テレビドキュメンタリスト・木村栄文』(講談社/2013)
cf. 「制作者研究〈テレビ・ドキュメンタリーを創った人々〉【第6回】木村栄文(RKB毎日放送)〜ドキュメンタリーは創作である〜」(NHK放送文化研究所)


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関連する情報

◆立命館大学生存学研究センター編 2016 『生存学の企て――障老病異と共に暮らす世界へ』生活書院
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企画展示《「1968年」――無数の問いの噴出の時代》
 2017年10月11日〜12月10日 於:国立歴史民俗博物館 [インターネットミュージアム:取材レポート]
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ドキュメンタリー映画『抗い――記録作家・林えいだい』公式ホームページ
【上映】京都みなみ会館(2017年10月21日〜10月27日)/元町映画館(2017年10月21日〜10月27日)
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《シアターを巡って〜ファスビンダーとシュレーター》
2017/10/31(火)16:00開場/16:30『シアター・イン・トランス』/18:15『舞台リハーサル』
於:同志社大学寒梅館クローバーホール
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長島有里枝 インタビュー 1/3 「フェミニズムと工夫」(2017/11/16|i-D Japan)
長島有里枝 インタビュー 2/3 「作り続けること」(2017/11/17|i-D Japan)
長島有里枝 インタビュー 3/3 「写真とテキストの関係」(2017/11/18|i-D Japan)
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生誕100年 ユージン・スミス写真展
2017年11月25日〜2018年1月28日 於:東京都写真美術館地下1階展示室
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『ドキュメンタリー映画術』(論創社)刊行記念:金子遊×森達也トークイベント レポート(2017/11/29|週刊読書人ウェブ)*2017年11月24日『週刊読書人』掲載(第3216号)
◆金子遊 2017/09/07 『ドキュメンタリー映画術』論創社
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森栄喜・長島有里枝トークイベント載録:森栄喜『Family Regained』をめぐって(2017/11/29|週刊読書人ウェブ)*2017年11月24日『週刊読書人』掲載(第3216号)
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16mm劇映画『月夜釜合戦』
【上映】シネ・ヌーヴォ(大阪):2017年12月23日〜2017年12月29日
 元町映画館(神戸):2018年1月6日〜2018年1月12日
 京都みなみ会館:2018年2月3日〜2018年2月9日
 神戸映画資料館:2018年3月23日〜2018年3月27日
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◆長島有里枝(聞き手:野中モモ)「(インタビュー)時代に並走する表現と創作」『すばる』40-2(2018-02): 248-263
「とにかく、カルチャーが違えば写真の読まれ方も違います。まずは、自分がどこから来た人で、どういう社会に属していたからこういうことをしているのだ、ということを説明できないと、アートは成立しないのだと痛感しました。みなさん、割と安易に写真やビジュアル表現は世界共通言語なんだ、なんて言ったりするけれど、そんなこと絶対ないと思うのは、カルアーツで嫌というほど思い知らされたからですね。」(p.254)
「今でも、写真という表現方法に限界を感じるのなら、別の方法でやればいいと思っています。『背中の記憶』は文章ですが、最初は同じことを、子供時代の思い出の場所に行って写真を撮ったりすることでやろうとしました。でも、思うようにいかなかった。自分の記憶の中にある豊かな世界みたいなものがちっとも写せないと思って。でも、頭の中に浮かぶ情景を観察して、それを言葉で書き起こしていったら、とても写真的な文章だと言われ、面白いものだなと思いました。」(p.256)
「一つ言っておきたいのですが、写真やエッセイは、「本当のこと」が写っていたり、書かれていると思われていることが多いんだけれど、自分はそういう解釈の仕方にずっと抗ってきたということです。わかりやすく言えば、写真をスタジオでセットアップして撮影すればそれは、その写真のために生まれた行為の記録という意味ではドキュメンタリーだと解釈できるように、ドキュメンタリーやスナップショットも、自分が見せたいものを作品として選んでいる時点で、フィクションだと思います。なぜ、世の中にそういう区分けが存在するのか、という点から考え直したいぐらいなのですが、なんであれ表現というものはすべて作者が編んだストーリーに基づく創作だし、「テント日記」もそうやって書いています。|作り手からすれば、物語や写真が真実かどうかということに、それほどの重要性はない気がします。『背中の記憶』も、エッセイだとは思っていなくて、敢えていえば私小説のようなものなんじゃないかと思っています。「テント日記」も、記憶に私の編集が多分に加えられたものです。そもそも日記とはそういうもので、人に言えないことを自分のために書くわけです。今、ネットで多くの人がやっているようなブログは、私にとっては日記じゃない気がします。」(p.260)
「記憶というものは何度も繰り返し思い出すことによってある部分が強調されたり、省略されたりするという点で、出来事の起こった瞬間から客観的な側面をどんどん失っていきます。記憶の中でなら、すでに解決した問題を思い出して、終わったことなのに再び感情的になることもできる。」(pp.260-261)
「だけどなかなかそうは受け取れないようで、「テント日記」を読んで「よくこんなに赤裸々に書きますね」という言う人はいるけれど、それはほとんど、家族とのヌードポートレートのときと同じ反応です。[…]それは一種の防御本能のようなものでしょうけれど。私だけ特別扱いして「他者化」することで、自分の価値観や生活は揺らがない。そこに提示されたものが、自分の問題でもあると思うことに耐えられない人は、そうやって見るしかないんだと思う。」(p.261)
「やっぱり、私が書いたような話を「恥ずかしい」とか、「そんなこと無かった」と権力を持つ側が言うことへの強い嫌悪感はあります。出来事の存在そのものを否定することで、隠蔽された問題が繰り返し、弱いものの間で世代を超えて受け継がれていくということ。そういう悲しい事はいつか絶対なくならなければいけないと思ったら、きれいな物語をつくらないっていうか、インスタ的な方向に走らない表現を続けるということを目指してしまうんです。」(p.262)


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立岩真也(http://www.arsvi.com/ts/0.htm)による言及

◆立岩真也 2008/01/30 「学者は後衛に付く」『京都新聞』2008-01-30夕刊:2(現代のことば)
結果、多くのことについて、いま最もよくものごとを知っているのは役人でも学者でもなく、民間でたいがいは儲からない活動をしている人たちということになる。その人たちが持っている知識やノウハウの方が、なにか気のきいたことを言おうとして実際にはたいしたことを言えていない研究者の論文に書いてあることより、よほど価値のあることが多い。
 ただ、その人たちは忙しい。前に進む、あるいは後退を食い止める、その日々の仕事で手いっぱいのことが多い。これまでの経緯を振り返ったり、全体をまとめたり、そんなことをしている暇がない。だから、一つにはその人たちがもっと余裕をもてるようになるとよいのだが、その他に、研究者や研究者になろうとする人たちが後にくっついて、調べるものを調べ、まとめるものをまとめる仕事をするというやり方がある。また、その人たちといっしょに仕事をするというやり方がある。
◆立岩真也 2008/04/03 「社会人院生」『京都新聞』2008-04-03夕刊:2(現代のことば)
 では、大学院にはどんな人が適しているか。一つに、とくに「社会科学系」の場合、「手持ち」がある人ということになる。いろんな場にいて、なにかをしてきたり、見知ってたりしてきて、それはたぶん大切なことだと思うのだが、そのままにしておけば、自分の記憶の中にとどまってしまう。そこでなにか書いて残すこともある。近頃は「自分史」の書き方を教えてくれるところもあるらしい。ただそれですむようにも思えない。新たに調べたいこともあるし、そこから何か言えることを言いたい。そんな思いをもつ人がいる。
 「オリジナリティ」を求められるのが学問だとされる。「研究者」になろうという人には、自分の思いつきがじつはもう言われていることであることを知って、困ってしまう人がいる。だが、じつはこの世には、人が調べたことのない領域、書いたことのない事実がたくさんある。どの辺りに「空き」があるか、それなら私たち研究者はある程度わかるから、伝えることができる。
◆立岩真也 2012/07/25 「『精神』――社会学をやっていることになっている者から」萩野亮・フィルムアート社編集部編『ソーシャル・ドキュメンタリー――現代日本を記録する映像たち』フィルムアート社,190-197.
 私は社会学をやっているのだが、まともな調査をしてものを書いた社会学者とドキュメンタリー作家はすこし似たところがある。(ついでに、卑下しているわけではないが、後者の仕事の方がたいがいよかったりする。)調査をもとにした書きものでどこまでのことを書くか。個人が特定できるように(できないように)書くのか、書かないのか。私はその何か(例えば医療)を仕事にしている人については、特定できるように書いた方がよいことが多いと思っている。了承をとっているか。私はたいがいとっていない。引用は自由だ。人が書いているもの――そこに病院の名前や名前が出てくる――を引用するというずるいやり方をとったりしている。そしてそんな搦手でなくて、じかに話して、いったん了承を得たとして――普通は匿名化するのだが、それでも――結局論文に出してもらえるか。米国では契約書を交わして、ということになっているのだそうで、そういうやり方がこちらの学界でも標準化されつつあるのだが、それが最善と思わないし、そうした書面を取り交わしても結局だめな時もある。原稿ができて最終段階になって掲載を断られたり、そんなことが起こらないか(まあそう起こらないのだが)、論文の書き手である大学院生は気をもんだりする。私自身はもう長いことそんな調査をしていないけれど、他人(たち)のことを「結局は自分が」切り取り、示すことを巡る様々には、共通するところがある。
[…]
この映画はこれでまったくよいのだ。たしかになにか解説しようとしたら、どう工夫しても半端になってしまうだろう。ただそれとともに、別に、言葉は言葉として、これまでいろんな場があり、様々がなされなされなかったことを、きちんとした量をもって、さっぱりしていないものをさっぱりまとめないように、しかし人がやってきたことにはなにかの因縁というものがあるはずなのだから、それを辿って追う仕事はしておいてよいと思っている。当たり前といえば当たり前のことでしかないが、それぞれの取り出し方、表出の仕方がいるのだと思う。水俣病についても、土本典昭の映画があり、石牟礼道子のような文章があり、原田正純らの報告・文章があった。各々が違う。そして自分ができることをすればよい。その総和がすなわち全体でもないのだが、それぞれがすることがある。
 文字にする仕事(のすくなくともいくらか)は「研究」を仕事にしている私たちの仕事だと思っている。しかし実際には、なさけないことに、精神障害・精神医療についてまとまったものはほとんどない。で、しかたなくぼつぼつ調べ始めている。そんなに古いことではないのにわからないことが多く、そう簡単には進まない。[…]「解放」を求めて「過激」な――と言われた――運動を展開した「本人」たちへのインタビュー+αといったものが最初に出るものになりそうだ。するとそれは、ドキュメンタリー映画の方がよいように思える。ただ私は言葉を記録し(記録してもらい)、文字にすることしかできないから、そちらをすることになるのだろう。
◆立岩真也 2013/09/30 「たんに、もっとすればよいのに、と」『社会と調査』11:148
 現地に出かけて直接人の話を伺うという類の調査をしたのは、博士課程に入った1985年からの数年だけのことだ。それは『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』という共著書になって、1990年に初版、95年に第2版、そして2012年に第3版を文庫版で出してもらった。ずいぶん長い期間・時間、話をうかがった。実はそこで得られた話は、そのままの「引用」のかたちではほとんど私が担当した章には使われていない。「聞き取り」で論文を構成するといったスタイルがなかったわけではない。そのころからそれはわりあいよくあるかたちになりつつあった。たんに私の担当した章はそのように書く必要がなかったということだ。けれどそうして聞いた話は、その本のすべての「もと」になったし、そしてその後、私が「机上の空論」を延々と続けていく時の「もと」にもなった。まず「調査」とはそういうものではないかと思う。あたりまえだけれど、言いたいことの一つがそのこと。
 そして、もう一つ思うのは、信じられないほど調査されてよいことが調査されていないということ。社会学者だけでもこんなにたくさんいるのになんで、と思うことがある。私たちのさきの本になった調査については理由があった。(当時の、と言っておくが)社会福祉(学)の「主流」にとって快くないものだったからだ。そして今でも、様々な事情・力学のもとに調べられるべきが調べられないことが多々ある。そこをどういう手練手管を使って調べるか。ときには「調査倫理」的にぎりきりの(しかし妥当な)線を狙う必要もある。そこが工夫のしどころなのに不要に無駄に慎重になってしまっていることがあると思う。そしてそんな「きな臭い」ことと関係なく、本当にまったく単純な意味で調査されていない領域が広大に残されている。
◆立岩真也 2015/10/30 「時事について書くこと(今般の認知症業界政治と先日までの社会防衛・3)」(「身体の現代」計画補足・81)
今回は学者も本来はまじめに仕事してきちんとしたジャーナリズムの仕事ぐらいのことをしなければならないのだということを一つ、もう一つ、「裏」の動きをどう見出すかというのは時にたしかにやっかいだが偶々はっきりわかることもある、やってやれないとは限らないという話をしている。
◆立岩真也 2017/01/27 「「学的」な書きもの/そうでないもの」(「身体の現代」計画補足・303)
 書きものには研究者によるものがあり、ジャーナリストによるものがあり、本人や家族によるものがあり、医師など供給側ときに加えて研究側にいる人によるものがある。ちかごろは学者の書いたものの方が高等であるといったことを言う人は少ない。優劣でないにしても差異があると見るか、見ないか。差異はあり、あるから、紹介する場合にはそれぞれに分けて紹介した方がよいとはまず言える。
 それにしてもどんな差があるか。それを本格的に言うのは別の機会にするが、一方に「地」の語り・記述があり、他方に、それを分析するものがあるという分け方がなされる。また、一般に人は同じ物語を、人と同じ話を幾度も語ってならないことはない。だが「学術論文」では、何か新しいことを言わねばならないとされる。
[…]
 学術的とされるものが、査読があるからまた虚偽を記した場合に制裁があるから、格段に確実であるとは言えない。例えば「闘病記」に虚偽を記そうという利害はそうはない。そして、何かが語られたこと自体は事実であり、発せられた言明は事実存在する。どんな媒体に載ったものにせよ、そこに載っていること自体は事実である。簡単なやり方としてはそのことを明示すればそれでかまわない。ただそれはときに言い訳ということになるだろう。まずは、このように記述されているという事実の水準を確保しておいて、さらに確実性を可能な範囲で求めるという当たり前の手続きを取ることになる。
◆立岩真也 2017/11/20 「多くの大勢による仕事が要るし、既にいくらかはある:樋澤本に・6」(「身体の現代」計画補足・440)
 このごろずっと私は、「ただ知ること(→書くこと)が大切だ」といったことを言っている。それが必要な部分・領域がやまほどある、と思っている。
 なにかをてきとうに調べて、そして解釈して、なにか展望を示す。ほんとに短い学会報告や論文でそれをセットにして話したり書いたりしてしまう人がいる。いるというだけでなく、それが普通だというのか、とくに「支援関係の学」の大勢のようだ。もちろん、簡単に、短く言えるのならば、それはよいことだろう。だが世の中はそう簡単にいかない。だから、適当でなくまず調べる必要がある。そしてそれを私たちはほっとかないで、引き継ぐ。そのために買って、読む。一人、一つの本で全部やる、なんていう無理な、たいがいは半端に終わることをしなくてもよい。誰かが考えることを引き継ぐために、実際にあったこと(なかったこと)を書いて、本にして売って買って、読まれる。それに意味があるのだと思う。


*作成:村上 潔MURAKAMI Kiyoshi
UP: 20171002 REV: 20171003, 04, 06, 10, 11, 14, 16, 17, 23, 24, 31, 1104, 05, 07, 09, 14, 15, 18, 20, 21, 28, 29, 30, 1201, 02, 08, 09, 10, 23, 20180109, 12, 14, 16, 17, 18, 19, 25, 0202, 11, 12, 14, 27
事項
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