結果、多くのことについて、いま最もよくものごとを知っているのは役人でも学者でもなく、民間でたいがいは儲からない活動をしている人たちということになる。その人たちが持っている知識やノウハウの方が、なにか気のきいたことを言おうとして実際にはたいしたことを言えていない研究者の論文に書いてあることより、よほど価値のあることが多い。◆立岩真也 2008/04/03 「社会人院生」『京都新聞』2008-04-03夕刊:2(現代のことば)
ただ、その人たちは忙しい。前に進む、あるいは後退を食い止める、その日々の仕事で手いっぱいのことが多い。これまでの経緯を振り返ったり、全体をまとめたり、そんなことをしている暇がない。だから、一つにはその人たちがもっと余裕をもてるようになるとよいのだが、その他に、研究者や研究者になろうとする人たちが後にくっついて、調べるものを調べ、まとめるものをまとめる仕事をするというやり方がある。また、その人たちといっしょに仕事をするというやり方がある。
では、大学院にはどんな人が適しているか。一つに、とくに「社会科学系」の場合、「手持ち」がある人ということになる。いろんな場にいて、なにかをしてきたり、見知ってたりしてきて、それはたぶん大切なことだと思うのだが、そのままにしておけば、自分の記憶の中にとどまってしまう。そこでなにか書いて残すこともある。近頃は「自分史」の書き方を教えてくれるところもあるらしい。ただそれですむようにも思えない。新たに調べたいこともあるし、そこから何か言えることを言いたい。そんな思いをもつ人がいる。◆立岩真也 2012/07/25 「『精神』――社会学をやっていることになっている者から」萩野亮・フィルムアート社編集部編『ソーシャル・ドキュメンタリー――現代日本を記録する映像たち』フィルムアート社,190-197.
「オリジナリティ」を求められるのが学問だとされる。「研究者」になろうという人には、自分の思いつきがじつはもう言われていることであることを知って、困ってしまう人がいる。だが、じつはこの世には、人が調べたことのない領域、書いたことのない事実がたくさんある。どの辺りに「空き」があるか、それなら私たち研究者はある程度わかるから、伝えることができる。
私は社会学をやっているのだが、まともな調査をしてものを書いた社会学者とドキュメンタリー作家はすこし似たところがある。(ついでに、卑下しているわけではないが、後者の仕事の方がたいがいよかったりする。)調査をもとにした書きものでどこまでのことを書くか。個人が特定できるように(できないように)書くのか、書かないのか。私はその何か(例えば医療)を仕事にしている人については、特定できるように書いた方がよいことが多いと思っている。了承をとっているか。私はたいがいとっていない。引用は自由だ。人が書いているもの――そこに病院の名前や名前が出てくる――を引用するというずるいやり方をとったりしている。そしてそんな搦手でなくて、じかに話して、いったん了承を得たとして――普通は匿名化するのだが、それでも――結局論文に出してもらえるか。米国では契約書を交わして、ということになっているのだそうで、そういうやり方がこちらの学界でも標準化されつつあるのだが、それが最善と思わないし、そうした書面を取り交わしても結局だめな時もある。原稿ができて最終段階になって掲載を断られたり、そんなことが起こらないか(まあそう起こらないのだが)、論文の書き手である大学院生は気をもんだりする。私自身はもう長いことそんな調査をしていないけれど、他人(たち)のことを「結局は自分が」切り取り、示すことを巡る様々には、共通するところがある。◆立岩真也 2013/09/30 「たんに、もっとすればよいのに、と」『社会と調査』11:148
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この映画はこれでまったくよいのだ。たしかになにか解説しようとしたら、どう工夫しても半端になってしまうだろう。ただそれとともに、別に、言葉は言葉として、これまでいろんな場があり、様々がなされなされなかったことを、きちんとした量をもって、さっぱりしていないものをさっぱりまとめないように、しかし人がやってきたことにはなにかの因縁というものがあるはずなのだから、それを辿って追う仕事はしておいてよいと思っている。当たり前といえば当たり前のことでしかないが、それぞれの取り出し方、表出の仕方がいるのだと思う。水俣病についても、土本典昭の映画があり、石牟礼道子のような文章があり、原田正純らの報告・文章があった。各々が違う。そして自分ができることをすればよい。その総和がすなわち全体でもないのだが、それぞれがすることがある。
文字にする仕事(のすくなくともいくらか)は「研究」を仕事にしている私たちの仕事だと思っている。しかし実際には、なさけないことに、精神障害・精神医療についてまとまったものはほとんどない。で、しかたなくぼつぼつ調べ始めている。そんなに古いことではないのにわからないことが多く、そう簡単には進まない。[…]「解放」を求めて「過激」な――と言われた――運動を展開した「本人」たちへのインタビュー+αといったものが最初に出るものになりそうだ。するとそれは、ドキュメンタリー映画の方がよいように思える。ただ私は言葉を記録し(記録してもらい)、文字にすることしかできないから、そちらをすることになるのだろう。
現地に出かけて直接人の話を伺うという類の調査をしたのは、博士課程に入った1985年からの数年だけのことだ。それは『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』という共著書になって、1990年に初版、95年に第2版、そして2012年に第3版を文庫版で出してもらった。ずいぶん長い期間・時間、話をうかがった。実はそこで得られた話は、そのままの「引用」のかたちではほとんど私が担当した章には使われていない。「聞き取り」で論文を構成するといったスタイルがなかったわけではない。そのころからそれはわりあいよくあるかたちになりつつあった。たんに私の担当した章はそのように書く必要がなかったということだ。けれどそうして聞いた話は、その本のすべての「もと」になったし、そしてその後、私が「机上の空論」を延々と続けていく時の「もと」にもなった。まず「調査」とはそういうものではないかと思う。あたりまえだけれど、言いたいことの一つがそのこと。◆立岩真也 2015/10/30 「時事について書くこと(今般の認知症業界政治と先日までの社会防衛・3)」(「身体の現代」計画補足・81)
そして、もう一つ思うのは、信じられないほど調査されてよいことが調査されていないということ。社会学者だけでもこんなにたくさんいるのになんで、と思うことがある。私たちのさきの本になった調査については理由があった。(当時の、と言っておくが)社会福祉(学)の「主流」にとって快くないものだったからだ。そして今でも、様々な事情・力学のもとに調べられるべきが調べられないことが多々ある。そこをどういう手練手管を使って調べるか。ときには「調査倫理」的にぎりきりの(しかし妥当な)線を狙う必要もある。そこが工夫のしどころなのに不要に無駄に慎重になってしまっていることがあると思う。そしてそんな「きな臭い」ことと関係なく、本当にまったく単純な意味で調査されていない領域が広大に残されている。
今回は学者も本来はまじめに仕事してきちんとしたジャーナリズムの仕事ぐらいのことをしなければならないのだということを一つ、もう一つ、「裏」の動きをどう見出すかというのは時にたしかにやっかいだが偶々はっきりわかることもある、やってやれないとは限らないという話をしている。◆立岩真也 2017/01/27 「「学的」な書きもの/そうでないもの」(「身体の現代」計画補足・303)
書きものには研究者によるものがあり、ジャーナリストによるものがあり、本人や家族によるものがあり、医師など供給側ときに加えて研究側にいる人によるものがある。ちかごろは学者の書いたものの方が高等であるといったことを言う人は少ない。優劣でないにしても差異があると見るか、見ないか。差異はあり、あるから、紹介する場合にはそれぞれに分けて紹介した方がよいとはまず言える。◆立岩真也 2017/11/20 「多くの大勢による仕事が要るし、既にいくらかはある:樋澤本に・6」(「身体の現代」計画補足・440)
それにしてもどんな差があるか。それを本格的に言うのは別の機会にするが、一方に「地」の語り・記述があり、他方に、それを分析するものがあるという分け方がなされる。また、一般に人は同じ物語を、人と同じ話を幾度も語ってならないことはない。だが「学術論文」では、何か新しいことを言わねばならないとされる。
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学術的とされるものが、査読があるからまた虚偽を記した場合に制裁があるから、格段に確実であるとは言えない。例えば「闘病記」に虚偽を記そうという利害はそうはない。そして、何かが語られたこと自体は事実であり、発せられた言明は事実存在する。どんな媒体に載ったものにせよ、そこに載っていること自体は事実である。簡単なやり方としてはそのことを明示すればそれでかまわない。ただそれはときに言い訳ということになるだろう。まずは、このように記述されているという事実の水準を確保しておいて、さらに確実性を可能な範囲で求めるという当たり前の手続きを取ることになる。
このごろずっと私は、「ただ知ること(→書くこと)が大切だ」といったことを言っている。それが必要な部分・領域がやまほどある、と思っている。
なにかをてきとうに調べて、そして解釈して、なにか展望を示す。ほんとに短い学会報告や論文でそれをセットにして話したり書いたりしてしまう人がいる。いるというだけでなく、それが普通だというのか、とくに「支援関係の学」の大勢のようだ。もちろん、簡単に、短く言えるのならば、それはよいことだろう。だが世の中はそう簡単にいかない。だから、適当でなくまず調べる必要がある。そしてそれを私たちはほっとかないで、引き継ぐ。そのために買って、読む。一人、一つの本で全部やる、なんていう無理な、たいがいは半端に終わることをしなくてもよい。誰かが考えることを引き継ぐために、実際にあったこと(なかったこと)を書いて、本にして売って買って、読まれる。それに意味があるのだと思う。