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事件と言説:若者・教育・労働… 1971-1990

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)


1971年
    ニクソン・ショック
    1893年から続いてきたアメリカの貿易黒字が赤字に転ずる
    サンフランシスコ郊外の産業集積地が「シリコン・バレー」と呼ばれるようになる

    梅村又次『労働力の構造と雇用問題』岩波書店

    マクドナルド第1号店銀座にオープン
    「たとえば、誰でも知っている「マクドナルド」というファストフードショップがあります。一九七一年に銀座の松屋前に一号店ができ、二号店がたし か国立にできました。その後、郊外に進出していくわけですが、七〇年代末には、マクドナルドに毎日出入りをする客が大体一〇〇〇人に達します。つまり一つ マックのお店ができると、そこに毎日一〇〇〇人ぐらいが出入りする状態ができるのですね。現在では、コンビニもほぼ同じです。八〇年代にコンビニが伸びて きますが、お店が一店できるとそこに九〇〇人から一〇〇〇人出入りするのが、平均的な姿です。七〇年代には、千葉の流山市、八千代市、埼玉の入間市、狭山 市、春日部市など、人口の激増していく近郊都市が出現しました。そういうところにも次々とファストフードショップが出店していく。八王子や相模原、町田 は、七〇年代から八〇年代にかけて、県庁所在地に匹敵する人口規模の都市に成長しました。それら郊外ターミナル都市では、ファストフードショップも七つ八 つと出店する。七つのファストフードショップがある駅の周辺にできると、そこに出入りする人たちは七〜八〇〇〇人になります。渋谷、新宿ではどうかといい ますと、数万人の一〇代・二〇代の若者が、毎日ファストフードショップやコンビニに出入りする。膨大な人の移動、集まる空間ができるわけです。学校だけが 毎日必ず多数の子どもが集まってくる社会的な空間であった状況から、そことは独立して、自律的に毎日新宿や渋谷などのターミナルでは数万人の若者が集まる ようになったのです。
 そういう巨大な文化装置が、私たちがそうとは気付かない間に七〇年代に形成されてきた。(…)」(中西新太郎『若者たちに何が起こっているのか』 p.22-23)

    中教審(第八期・第九期)最終答申「今後における学校教育の総合的な拡充整備のための基本的施策について」(七一答申)、教育費の「受益者負担」 論(個人 的教育投資論)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/710601.htm
    
    「1 初等・中等教育は,人間の一生を通じての成長と発達の基礎づくりとして,国民の教育として不可欠なものを共通に修得させるとともに,豊かな個性を伸ばすこ とを重視しなければならない。そのためには,人間の発達過程に応じた学校体系において,精選された教育内容を人間の発達段階に応じ,また,個人の特性に応 じた教育方法によって,指導できるように改善されなければならない。」

    「私立学校は,幼稚園および高等学校の教育については大きな比重を占めており,小・中学校においても独自の特色をもつものが少なくない。しかし, 全般的にはおもに経営上の理由から,教育条件が不満足な状態になったり,父兄の経済的な負担が過重になったりする傾向がみられる。本来,私立学校は公立学 校とともに公教育の重要な役割を分担するものであり,そのような状態を放置することは,一定地域内にしか実際上修学の機会を確保できない地域住民に対して は,いちじるしく教育の機会を不均等にするものである。このような事情を考慮し,希望しないものを除き,私立学校に対しては,公立学校に準ずる財政援助を 与えるとともに,教育条件の確保と地方教育計画上の調整について必要な行政指導を行うことを検討すべきである。」

    「(5) 教員のうち,高度の専門性をもつ者に対し,特別の地位と給与を与える制度を創設すること。そのための一つの方法として,教育に関する高度の研究と現職の教 員研修を目的とする高等教育機関(「高等教育の改革に関する基本構想」第2―1の第4種(「大学院」)に属する。)を設けること。」

    「教育費は,社会的には一種の投資であるとみることができるので,その投資の経済的効果のうち当事者個人に帰属するものと社会全体に還元されるも のとが区別できれば,それを考慮して受益者負担の割合を決めるのが合理的だという考え方もある。しかし実際には,そのような区別を立てることが困難なばか りでなく,教育投資の効果は経済的な利益だけでないことも明らかであって,経済効果だけから受益者負担額を決めることは適当でない。
したがって,受益者負担の実際額は,教育政策の立場から,その経費の調達が大部分の国民にとっていちじるしく困難でなく,個人経済的には有利な投資とみな しうる限度内で適当な金額とすべきであろう。その場合,専攻分野によって教育費が異なるとしても,それがそのまま受益者負担額の格差につながることは,専 攻分野別の人材配分に問題を生じるおそれがある。
これらのことは,本来,学校の設置形態とかかわりのない共通の原則であって,国の財政援助は,このような原則が実現できるようにすることを終極の目標とす べきであろう。同時に,一般的な原則による財政援助だけではなお修学が困難な者のあることや特定の分野に人材を誘致するための方策が必要なことも考慮し, 学校に対する財政援助や受益者負担の実情と均衡のとれた奨学制度を確立することが不可欠であり,このこともあわせて検討すべきである。」

    「戦後しばらくは教育改革論議に出てこなかった「個性」は、一九七一(昭和四六)年の中教審答申で再浮上してきた。「初等・中等教育は……国民の 教育として不可欠なものを共通に修得させるとともに,豊かな個性を伸ばすことを重視しなければならない」という答申の文章は、学校体系の複線化・多様化の 方向を志向するものであった。しかしながら、当時はいわゆる進歩的勢力からの強い社会的反発も存在したし、国民の間には学歴主義的な一元的価値観での進学 志向が広がっていたために、広い合意を取りつけるには至らなかった。ところが、どういう進路を取っても豊かな消費水準がある程度達成されるようになり、学 歴神話が次第にリアリティを失うようになってくると、多元的な進路選択の基準を採用することが可能になってくる――「人々の意識は個性化・多様化するとと もに、選択の自由への要請が大きくなっている」(臨教審最終答申、一九八七年)のは、そうした社会的豊かさと余裕の結果なのかもしれない。
 このことは、「個性」の語が果たす社会的機能を大きく変えたといえる。教師や専門家のような第三者が、生徒本人の幸福―不幸を先取りし、それを社会的な 受け皿(労働市場)と重ね合わせる、計画―調整の正当化のためのマジック・ワードとして用いられた昭和初年―戦時期とは異なり、本人の選択にもとづく市場 メカニズムによる個人と社会の関係調整のための語となったわけであるから。
 しかしながら、同時に、昭和初年の「個性」と近年のそれとが、共通する点を持っていることも指摘しておかねばならない。「個性」という語が用いられるこ とによって、個人差を生み出す社会的な諸要因が無視されがちであるという点は、近年の議論でも同様に観察できる。昭和初年の「個性」が階層差や地域差を含 んだ個人差を、あたかも個人に内在する生得的な差に還元してしまう効果を持ったように、臨教審以降の教育改革をめぐる議論の中でも、個人差を生み出すマク ロな社会構造的要因にあまり注意が払われていないように思われるのである。」(広田照幸『教育言説の歴史社会学』p.120-121)

    モーテル乱立

1972年
    田中角栄『日本列島改造論』。そのタイトルは同郷の北一輝の著書『国家改造案原理大綱』にヒントを得たといわれる
    「つまり日本列島の歪みは、大都市圏に工場や人口が集中しているために過密と過疎が起きているのではなく、大都市圏に情報と権力が集中しているか 起きていたのである。構想はあくまでも国土を水平的なネットワークで結ぶものであり、具体的に名前があげられる都市群も、場所の個性を生かされたわけでは なく、結節点としてピックアップされたにすぎない。そこを是正することなく、中央から地方に構想と施設をばら撒いても、事態は基本的に変わらない。
(…)
 列島改造構想は、地方を豊かにするという狙いをもってはいたが、結果的には地方都市の中央への従属を強めた。大都市一極集中は進み、工業化の掛け声のな かで農林業は競争力を落とし、田舎は都市に売り渡された。」(鈴木博之『都市へ』p.382)

    川端康成自殺

    山本耀司、株式会社ワイズを設立(1977年、東京コレクションにデビュー。1981年、パリ・プレタポルテコレクションにデビュー)

    金子功によるブランド、ピンクハウス誕生
    「金子は、ピンクハウスの最大の魅力であるリボンがシャネルやディオールからの引用であることを全く否定しない。しかし同時に何度もコピーをし微 修正を繰り返すことで「私のオリジナル」に行きついた、と主張する。
 この、コピーを続けることで生じるオリジナリティなり美というのはひどく説明しにくい。例えば金子と同じ「コピーであることのオリジナリティ」につい て、実は三島由紀夫が「文化防衛論」その他で語っていることは注意してもいいかもしれない。金子のこの発言は、三島との同時代的な意識の発露としてむしろ あったとさえ思う。(…)こういったコピーの果てに現われるある種の洗練は吉本ばななにも見られる事態だが、この閉じ方こそが八〇年代のサブカルチャーの 一つの特徴であり、可能性である。
 金子功のピンクハウスが達成したのはこの過度の記号性である。」(大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』p.145)

    富山事件
   「このうち最大の暴動事件は、四十七年六月十七日(土)から十八日(日)の早朝にかけて起こった、富山市駅前大通りにおけるいわゆる「富山事件」で ある。このときは、一〇〇名以上のサーキット族が衝突事故をきっかけにして三〇〇〇名近くの群集をまきこんで暴動を起こした。サーキット族と群集は、車両 や付近の商店を破壊し、規制しようとする警察に、カンシャク玉や爆竹、投石などで抵抗し、この事件に関連する検挙件数は、刑法犯等一六件、交通違反九八八 件にのぼる。
 サーキット族の活動の主体は、勤労青少年であり、彼らは、主に夏期の土曜夜から日曜の朝にかけて、特定の道路を「サーキット」として「サーキット遊び」 あ るいは「レース遊び」を行った。カミナリ族時代も、サーキット族時代も、モーターサイクルギャング・グループの凝集性はそれほど高いものではなく、「集 団」というよりは、多くは群衆に近い集団であった。」(佐藤郁哉『暴走族のエスノグラフィー』p.9)

    「ぴあ」創刊

   Jensen, A. R. Genetics and Education, Associated Book (岩井勇児・松下淑訳、1978、『IQの遺伝と教育』、黎明書房)

    ボウルズ=ギンタス「アメリカ階級構造におけるIQ」
    「本論文は、IQ(知能指数)は経済的成功にとって基本的に重要である、という一般的信念にたいして統計的な反駁を加えている。そして、地位獲 得、もしくは地位伝達は、むしろ家庭生活と学校教育とによって生み出される非認識的人格特性パターンにもとづいて行われ、IQは、かかる階層化メカニズム の副産物であり、その機能は、ヒエラルキー的生産システムの正統化にあることが論ぜられる。」(青木昌彦編著『ラディカル・エコノミックス』p.220)

1973年
    第一次オイルショック、「狂乱物価」
    「1971年のイギリスの産業構造は、産業別従事者数でみると、約760万人、全体の約30%の人が製造業に従事していた。しかし、オイルショッ ク、大量失業を経験する中で、1996年には製造業従事者約430万人、全体に占める割合が約16%まで低下した。このように1971年から1996年ま での25年間に製造業に従事する人々は約330万人減少し、全体に占める割合もほぼ半減するに至った。この製造業従事者の減少に変わって拡大したのが、金 融業なども含むサービス業従事者である。
 この製造業の衰退は、比較的賃金水準もよく、安定的な雇用先の衰退を意味しており、一方で、サービス業種の拡大は、高学歴・高技能・高賃金を特徴とした 金融業や低学歴・低賃金・不安定雇用を特徴とした業種の拡大を意味していた。このようにイギリス労働市場は、オイルショックを契機として、フルタイム雇用 で比較的賃金水準も高く、安定した雇用を提供していた製造業種が解体され、金融業などに代表される高技能・高学歴・高賃金を特徴とした業種と、低技能・低 学歴・低賃金、そして不安定雇用を特徴とした業種への二極化が進行したのである。」(伊藤大一「ブレア政権による若年雇用政策の展開」)

    高卒の求人倍率が3.94倍

    鎌田慧『自動車絶望工場──ある季節工の日記』、現代社出版会
    「コンベアはゆっくり回っているように見えたが、とんでもない錯覚だった。実際、自分でやってみなければわかるものではない。たちまちのうちに汗 まみれ。手順はどうにか覚えたのだが、とても間に合わない。軍手をしているので、小さなボルトを、それも使う数だけ掴み取るだけでも何秒もかかる。うまく いって三台に一台やるのが精一杯。違った種類のミッションが来ると、それは難しくてお手上げ。カバーをはめるのにコツがいるので新米ではできないのだ。喉 はカラカラ。煙草どころか、水も飲めない。トイレなどとてもじゃない。誰がこんな作業システムを考えたのか。息つく暇のないようにギリギリに考えられてい るのだ。」(p.33)
   cf.鎌田慧:http://www.arsvi.com/0w1/kmtsts.htm

    中上健次「十九歳の地図」が『文芸』に掲載
    「玄関の戸と戸の隙間に新聞をさしこみながら、不意にぼくは、この家の中では人間があたたかいふとんの中で眠っているのだというあたりまえのこと に気づ き、その当たり前が自分にはずっと縁のないものだったのを知った。午前五時半をもうすぎたろう。夜はまだあけない。空は薄暗くところどころまっ黒に塗りつ ぶされたままある。雨がぼくの顔面をたたいた。それが心地よくぼくはひとつ鼻でおおきく息をすった。そして神の啓示のようにとつぜん、二十歳までなにごと かやる、そうして死ぬ、と思った。それはぼくにとって重大な発見だった。なんとかその年齢まで生きてやろう、しかしその後は知らない。松島悟太郎、この家 は無印だが、発見した場所を記念して、一家全員死刑、どのような方法で執行するかは、あとで決定することにする。右翼に涙はいらない、この街をかけめぐる 犬の精神に、感傷はいらない。」(中上健次『十九歳の地図』p.119)

    通産省、インテリア産業振興対策委員会を発足

    川久保玲、コム・デ・ギャルソンを設立。1981年からパリコレクションに参加
    キャロル「ファンキー・モンキー・ベイビー」発売(デビューは72年)

    Herrnstein, R. J. I.Q. in the meritocracy, Little, Browm (岩井勇二訳、1975、『IQと競争社会』、黎明書房)

    「電子掲示板」(BBS)開発

1974年
    戦後初のマイナス成長

    雇用保険法成立(1975年施行)
    「元来労働政策は広く社会政策ともよばれ、個々の労働者や個別企業の労働条件よりも労資それぞれが定める賃金・労働条件を労働者全般の「保護」に 向け、集団的契約によって調整・誘導する手段を講じることであったことは繰り返し述べた。また労働政策のための行政組織の設置目的にのこの視点は明記され ている。しかし、1970年代初頭に生じた石油危機とその後に行なわれた「雇用調整」が生じる事態に直面して、労働政策は大きな転換を始めた。政策転換の 基本的構想はマクロ的にいえば、以下の点に集約できる。すなわち@「雇用調整」を産業・地域・年齢など全体で行うこと、要するに、過剰雇用を抱える産業・ 地域から労働力不足の産業・地域に流すインセンティブ(刺激)政策の導入、A多元的な「雇用調整」実行のため、個別企業レベルでのインセンティブ政策の確 実な効果を得るため、調整金、助成金の行政組織をからめた制度的体制をととのえること、Bこれらの「雇用調整」に要する費用を従来の労資折半の負担ではな く、企業負担による新財源を設けて、従来の労資折半の「失業保険」から労資および資本間の保険料負担を求める「雇用保険」とする。これらが、戦後制度化さ れた「失業保険」制度が廃止され、1975年に導入された「雇用保険」制度などによって労働行政が企業の労務管理機能に直接的連関を確立するに至った新体 制であった。
 すなわち、雇用保険制度はたんに「雇用調整」のための企業間保険制度を創設しただけではない。そのひとつは不況や産業構造変化による影響を受けた企業が 行う一時帰休などに際し、労働者に支給する賃金(ただし、賃金カットを含む)支払い等に要する雇用調整費用の助成、不況業種などから解雇された労働者を雇 用する企業に対する助成、中・高年齢労働者など労働市場のなかで過剰化され、就労機会の少ない労働者を雇用する企業への助成、さらにはこれら中・高年齢労 働者の雇用を継続することを意味する定年延長・再雇用などに対する助成、構造的不況地域における雇用拡大などに取り組む企業への新規雇用への助成、職業転 換が必要な労働者の職業転換に要する費用への助成等々である。
 これらはいずれも直接的に企業の賃金コストの軽減に重点をおき、賃金コスト負担軽減の「保険」ないし「企業間共済」型保険の設立が失業保険制度の雇用保 険への転換の焦点であった。
 この転換が、労働政策の行政組織に与えた作用は大きかった。特に雇用保険業務を取り扱う職業安定所においては従来の業務である失業保険に関する業務と新 規に加わった雇用保険業務とが重なり、職業安定所組織の業務負担に大きな変化をもたらした。すなわち、元来企業の業務コスト削減をインセンティブにした雇 用保険は、たんなる「保険」ではなく企業のコスト削減を職業安定所における事務処理経費増加で企業コストの肩替りにも連なる事務負担が付け加わっている。 この結果、職業安定所においては求職者のための職業相談業務への人員削減、雇用保険業務への増員が必要になった。職業安定行政におけるサービス方法の変更 によって労働政策は企業の労務管理業務への直接的組込みが開始された。」(田代洋一・萩原伸次郎・金澤史男編『現代の経済政策』p.227-228)

    高等進学率が90%を超える

    高卒就職率は48%、大学・短大進学率は32%
    「ちなみに、七四年から七六年にかけて、高卒就職者数は約八・三万人減少するが、この数は同期間における大企業採用者の減少八・五万人にほぼ等し い。それではこの八万人あまりはどこに移動したか。この二年間で高卒者総数は一・一万人ほど減少したが、のこりは大学・短大進学者の一・九万人増と、「無 業者」「教育訓練期間入学等」をあわせた五・二万人増へと吸収されることとなる。ちなみにこの二年間での大学・短大志願者数の増は四・一万人である。結 局、この二年間の変動は、大企業の採用減に連動するかたちで就職者が減少し、そのかなりの部分が進学志望者増にまわったものの、大学入学定員の抑制により 大学・短大進学者はさほど増えず、その大部分が「無業者」および「教育訓練機関等入学者」へと滞留することになったもの、といってよかろう。
 こうした状況は、一九六六年の例から見ても、大学入試競争への圧力を高めるのには、十分な条件であったといえる。しかしさらに、大量の配転、出向、一時 休業、希望退職者募集といった雇用調整索の広がりは新規学卒労働市場への直接影響のあらわれ以上に、社会的な不安意識を生み、競争意識をかりたてることと なった。とくに企業の雇用調整の対象が中高年に向けられ、中高年の雇用不安が広がったことは、自らが中高年にさしかかりつつあった中・高校生の親世代を大 きく刺激した。つまり中高年に近づく親たちの企業内での「生き残り競争」と、その子どもたちの「受験競争」という、二つの「能力主義競争」の激化の同時進 行が、この時期に生じたわけである。はじめに見たような一般マスコミの七四〜七六年頃の「受験フィーバー」状況には、このような社会的背景があった。」 (乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.236-237)

    日教組の委嘱を受けた教育制度検討委員会の最終報告「日本の教育改革を求めて」(七四報告)

    OECDのCERI(教育研究革新センター)と文部省が「カリキュラム開発に関する国際セミナー」でSBCD(学校に基礎をおくカリキュラム開 発)を提唱
    「カリキュラムをたんに学習指導要領や教科書と考えずに、学習者に与えられる学習経験の総体ととらえ、カリキュラムがそこで形成され、開発さ れ、評価され、修正されていく場として、学校と教師の役割を重視するものでした。いわゆる「ゆとり」「生きる力」のスローガンで知られる一九九八年教育課 程審議会答申が、「総合的な学習の時間」を創設したのもその考え方にもとづく具体策である、といわれます。」(岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 p.47〜48)

     小坂明子「あなた」大ヒット

     サンリオ、「ハローキティ」を開発
     「部屋の一隅には、とくにこれもまたお伽の国の家のように区切られたスペースがあって、そこでは専任デザイナーの手で日々キティに新しいデザイ ンが加えられていっている。
 いわばこの部屋が、サンリオのキャラクター商品を生み出す魔法の箱だ。若い魔法使いたちは誰からも強制されず、好きなときにお茶を飲みに出かけたりしな がら、優雅にデザインする。
 その反面、いったんデザインにとりつかれると、夜遅くまでスケッチブックに向かうのをやめない。この芸術家工房的で自由な雰囲気が、つぎつぎに新しい人 気キャラクターがつくり出される要因のひとつになっているといえる。
 ただ、労働基準監督局はまったく別の見方をしていて、若い女性をあまり遅くまで働かせすぎると、と二度この工房は注意を受けたことがある。」(上前淳一 郎『サンリオの奇跡 夢を追う男たち』p.7)

    「コンピューターを使って末端の小売店と商品倉庫とをこのようなかたちで直結させている企業は、おそらく日本にサンリオのほか一つもない。同社が 独自に開 発したご自慢のシステムだが、その利点はつぎのように数えることができる。  第一に、いま全国でどんな商品がどの程度売れているかを本社がいち早く把握でき、それに基づいて下請への発注量を決めることができる。
 (…)
 こうした利点をまとめて一口でいえば、本来キーパンチャーがいなければコンピューター相手にできない作業を、誰にでもできるように、しかもきわめて安い コストで標準化した、というふうに表現することができる。
 (…)
 これを同社ではTDE(テレホン・データ・エントリー)システムと呼んでいるが、同社がわずか七百七十人の従業員で年間三百五十億円を売り上げるという 驚異を実現しえているのは、このシステムによって、日々伝票処理に明け暮れるような事務員を追放してしまった結果にほかならない。」(p.11)

    「菓子ケースをつくりながら、なんとか付加価値の高いデザインを自分たちの手で生み出せないか、と考えるようになる。あるとき、下請業者のひとり が小物に つけていた小さなイチゴを見て、あっ、かわいいな、と思った。
 この、あっ、かわいいな、というのは、五十歳になったいまも辻が失っていない一種の少女的感覚で、ふつうのまともな大人なら気にもとめず見過ごしてしま うものに、少年少女なら必ず気持を奪われるに違いないことを発見する独特の嗅覚を彼はもっている。」(p.37)

    Lenoir, R. "Les Exclus: un Francais sur dix"(Paris: Le Seuil).(ルノワール『排除された人々:フランス人の10人中に1人』)
    「ルノワールは、「社会的排除」という言葉を使用した先駆者とみなされている。『排除された人々:フランス人の10人中の1人〈Les Exclus: un Francais sur dix〉』において、彼は、排除された人びと――すなわち、経済成長の果実を手に入れる術をもたない人びと――にスティグマを生じさせるような見方を説い た[Lenoir, 1974]。実際、社会的に排除された者とは、精神障がい者または身体障がい者、自殺する人びと、高齢者や病人、麻薬乱用者、非行に走る者、社会に溶けこ めない人びとなどであった。これらのさまざまな人びとに共通することは、彼らが工業社会によって設けられた規範に適合していなかったということであった。 つまり、彼らは社会的に不利な立場の集団であった。しかしながら、「社会的排除」という言葉はこの時期には限定された意味しかもたず、社会的な受容の範囲 も限られていた。というのは、社会的排除は社会全体に影響をあたえることのない周辺的な現象にかかわるものであったからである。」(アジット・S・バラ、 フレデリック・ラペール『グローバル化と社会的排除』p.3)

1975年
    私学振興助成法成立
    「振興助成法は、付則で私立大学法を改正し(五条一項一号改正)、学科の設置廃止と学生の収容定員の変更を文部大臣の認可事項とした。これで、私 立大学の拡充はすべて文部大臣の認可を要することになった。さらに、五年間は特に必要があると認めるもの以外は、私立大学の拡充は一切認可しない旨の規定 が、私立大学法の付則に付け加えられた(付則一三項)。私学法制定以来、協議制撤廃以来のレッセ・フェール的システムからの一八〇度の転換である。」(大 埼仁『大学改革1945〜1999』p.287)

    「七五年に成立した私学振興助成法は私学助成とひきかえに私立大学の水増し入学を厳しく抑制した。さらにその後の大都市部での新・増設抑制などの 結果、そ れまで一貫して上昇をつづけていた大学・短大入学者数は、七五年以降の一〇年間にわたって、六〇万名弱で停滞する。八〇年代後半は一八歳人口急増対策とし て臨時定員増などの措置がとられ、入学者数は増加するものの進学率そのものは停滞する。」(乾彰夫「企業社会の再編と教育の競争構造」p.330)

    女性の労働力率の底 オイルショック後の「減量経営」による所定外労働時間の増加とパートタイム労働者の増加で労働時間構造の二極分化が進む
    「(…)「減量経営」を強いられたのは、製造業の大経営だったのである。
 減量のためには、労働関係費用をできる限り節約する必要がある。そこで、男子から女子へ、しかも低賃金の主婦層パート・タイマーへの切り替えが進行し た。労働省の「雇用動向調査」によれば、パート・タイム労働者数は、1975年の70万人から80年146万人、85年230万人、91年467万人と急 増し、労働者中の比率は2.9%から5.8、8.6、12.6%と高まってきている。産業別にみれば、製造業では、2.7、5.3、8.5、10.4%で あったが、とくに比率の高い商業では、5.6、11.2、14.6、25.5%に達している。また、企業別労働組合の協力をえて、春闘におけるベース・ アップ率を消費者物価指数の上昇率をわずかに上回る水準におさえたことも、減量のかなめのひとつであった。春闘の賃上げ率は、1974年の33%から、 75年の13%に大きく落ち込んだあと、76、77年8.8%、70年代末には6%程度、80年代初頭の第2次石油危機のさいに7%台、80年代半ばから は4%前後に落ち着いて、労働関係費用の伸びは安定したのである。産業界は、雇用量を抑制し、支払賃金総額を切りつめることは成功したといっていい。」 (中村隆英『日本経済――その成長と構造〔第3版〕』p.230-231)

    「高度成長期の産業・就業構造の基調は、製造業を中心とした民間大企業の雇用拡大とそこへの大量の新規学卒労働力の吸収だった。オイルショックを 契機とした転換はまず七〇年代後半にこうした大企業での新規採用のいちじるしい減少となってあらわれた。ついで七〇年代末以降の景気の一定の回復から八〇 年代半ばの「円高不況」をはさんで八〇年代末の「バブル経済」期にかけては、製造業大企業では労働集約的で付加価値性の低い直接生産部門を海外および下請 けに押し出しながらME化や研究・開発部門の拡大が進められる一方、金融・サービスなどの第三次産業が拡大した。さらに「フロー型労働市場」の拡大をもた らした。その結果として生じた七五年から九〇年までの就業構造のおもな変化は以下のとおりである(『国勢調査』)。
 まず就業人口総数ではこの一五年間に約八六〇万人ほど増加したが、産業別構成では農林漁業が大幅に減少(約三〇〇万人減、一三.九%→七.一%)すると ともに、製造業も割合ではマイナスとなった(二五.〇%→二三.六%)。これにたいし、サービス業、卸小売・飲食店、金融・保険業、建設業では割合・絶対 数とも増加となった。なかでもサービス業は対事務所サービスを中心に大幅に伸びた(五一〇万人増、一六.五%→二二.五%)。職業別構成でも、農林漁業が 大幅に減少し、技能・採掘・製造・建設の割合が低下(三一.九%→三〇.一%、ただし一八〇万人増)した一方、専門・技術(三四〇万人増、七.六%→一 二.〇%)、事務(三一五万人増、一六.七%→一九.四%)では大幅な増加が生じた。
 この変化はとりわけ若年層に大きかった。産業別変化を若年層(二九歳以下)に見てみると、七五年時点で第一位だった製造業(二六.三%)は第三位(二 三.五%)に後退し、かわって九〇年にはサービス業(一八.六%→二六.八%)が第一位になった。また職業別構成では、専門・技術が九・七%から一六・一 %へと大きく増加し、男子では数・割合とも倍以上になった。女子では事務が大幅に増加し五割にせまっている。その一方で技能・製造・建設の減少、とりわけ 女子での大幅減がめだつ。こうして「サービス化」「ホワイトカラー化」といわれる変化の一面が若年層に顕著にあらわれた。」(乾彰夫「企業社会の再編と教 育の競争構造」p.281-282)

    「一九七五年の世界同時不況以後の問題を理解するためには、さらにもうひとつ、新しい生産力基盤としてのME化の、日本における独特の導入方法に ついて考えてみる必要があるだろう。ME化は、本来的には生産(FA)、流通、管理(OA)のあらゆる部面における労働時間短縮、無人化、省力化をもたら すものとして、労働現場における人間の苦痛を緩和させ、かつ肉体労働と先進労働の分離をもふたたび統一できるものとして、いわば「普遍的労働」ないしは 「一般的労働」への萌芽として位置づけられるものである。しかし、日本ではこれが導入される場合、従来の生産至上主義の延長として、長時間高密度労働を加 速させ、機械と競争し、それに代替するものとして、いわば軽薄短小への転換の、「合理化」の最大の武器として使われている。
 (…)
 かくして、わが国におけるME化の進展は、それが兼業メーカーによる標準メモリーチップの低コスト、高品質、大量生産として広範に展開されるため、それ は新鋭、在来の重化学工業を問わず、さらには軽工業までを含む全産業をエレクトロニクスで精緻化し、自動化・省力化したため、日本産業全体の底上げと競争 力強化をもたらすことになった。その意味では、わが国のME化の進展は全産業貫通効果をもったといえよう。その結果、以前にもました輸出拡大となって現れ ることになる。」(関下稔『日米経済摩擦の新展開』p.234-235)

    「このショック(オイルショック:引用者)の影響が大卒の就職難に及んだのは、75年度の卒業生からである。この年、大卒者の就職率は、 70.7%にとどまり、1949年度の63.8%に次ぐ低い記録として話題になった。とりわけ大都市大手企業の採用手控えが著しかった。そのため、大企業 から中企業へ、さらに小企業や新規産業へと就業分野の裾野を拡大させ、都市から地方へ、民間企業から公務員へと、彼らの就職先は大きく変わった。
 先にみたリクルートの上場企業就職調べによれば、75年度の就職者数19万人のうち、上場企業就職者数は3.3万人で、その率は18%だった。前年の 74%になっているから、石油ショックの厳しさがよくわかる。このときの就職難のほうが、今年度(96年度:引用者)の予想よりも厳しかったといえる。入 学時から就職の心配する学生が増え、就職相談や就職指導が活発になりだしたのはこの頃からである。」(矢野眞和『高等教育の経済分析と政策』p.171)

    スト権奪還ストライキ。公労協、国労・動労・全逓・全電通など三公社五現業の全てが参加。国鉄192時間運休

    大森一樹『暗くなるまで待てない!』

    マイクロソフト社設立
    「ポール・アレンとの非公式な合名会社は、もともと対等なものだったが、ビル・ゲイツはそれを変えたいと思った。合名会社は六対四の基本に構成し なおされた。MITS社の有給常勤職員であることをポール・アレンに思いおこさせて、ビル・ゲイツが彼より多くの分け前を求めたためである。彼らの最初の 投資額は、それぞれ九一〇ドルと六〇六ドルだった。それが正確にいつだったか、そしてどんな綴りを用いたのかはいまでもはっきりしないが、彼らは自分たち の会社にマイクロソフトという名前をつけた。」(スティーヴン・メインズ、ポール・アンドルーズ共著・鈴木主税訳『帝王ビル・ゲイツの誕生』p.202)

1976年
    ロッキード事件発覚

    高等教育懇談会報告「高等教育の計画的整備について」
    「昭和五一年(一九七六)年三月に出された昭和五〇年度高等教育懇談会報告「高等教育の計画的整備について」は、私立学校振興助成法の制定により 計画実現の制度的基盤を得て、初めて「高等教育計画」の名に値するものとなった。
 報告は、昭和六一(一九八六)年度を目標年次とし、一八歳人口が安定的に推移する五一年度から五五年度までを前期、一八歳人口が増加に転ずる五六年度以 降を後期として、前期においては、今後の発展の基盤整備のための質的整備充実に重点を置く方針を鮮明にした。」(大埼仁『大学改革1945〜1999』 p.287)

    日本青少年研究所『学歴社会調査』
    高校卒と大学卒、しかも大学卒を一般大学卒と有名大学卒にわけて、人事担当者に評価を求めた調査(対象企業は約500社)。
    「こうした評価は、あくまでも主観的なものであり、額面通りに受けとれないことはいうまでもない。しかし、企業が大学卒に期待し、高卒よりも大学 卒を優先的に採用する際に判断の基準としているのが、大学での授業を通して獲得される知識や技術よりも、おそらくは四年間の学生生活のなかで、たくまざる 形で身についてくる人間的な能力や特性のほうであることは、どうやら間違いなさそうである。(…)
 それにしても、企業が大学に期待するのが知識や技術だけではなく、いわば人材の(入学試験による)ふるい分け(スクリーニング)の機能であり、その上で の、学生生活を通しての人間形成機能だけだとしたら、いったい大学教育とは、なんなのだろうか。それはちょうどウィスキーの原酒が、樽につめられて、熟成 の期間を待つように、人間としての「熟成」を待つだけの四年間に過ぎないのだろうか。」(天野郁夫『試験と学歴』p.211-212)

    「こうした大学での教育の内容そのものが、採用にあたって軽視される傾向は実はアメリカでも広がりつつある。
 この問題をはじめて取り上げたのは、おそらく経済学者のアイバー・バーグである。かれは教育と職業との関連を問題にした著書(Education and Jobs, 1971)に、「大いなる訓練泥棒」(the great training robbery)という副題をつけた。それが意味しているのは、教育と職業との間に対応関係があるというのは、神話にすぎず、大学教育に費やされているカ ネの大半はむだづかい、浪費にすぎないということである。(…)大学を卒業しているということは、その人間が中流階級的な価値を持ち、勤勉で、真面目で、 それなりの生活スタイルやマナーを身につけていることのあかしである。」(p.212)

    文部省による業者テストに関する実態調査

    専修学校発足
    「それでは、予備校をのぞく専修・各種学校入学者はどのような性格をおびた存在だろうか。ここではまだ、その内部分析を行うだけの準備がないの で、縁辺的 推定にすぎないが、それは多分に半失業的性格をおびていると推定してまちがいなかろう。(…)
 また、専修・各種学校進学者が多数をしめる高校を、高校タイプ別に見たとき、その多くが普通科のいわゆる「底辺校」であるということからも、半失業状態 という性格は推定できる。普通科「底辺校」は、学力的に大学・短大への進学が困難な生徒が多くをしめているにもかかわらず、就職市場においては、職業科よ りはるかに不利な立場におかれている学校が多い。そのため、定員抑制のつづく大学・短大進学からも、また悪化をたどる労働市場からも締め出された普通科 「底辺校」の生徒たちの多くが、とりあえずの居場所を求めるかたちで、専修・各種学校へと進学するケースは多い。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』 p.239-240)

    「暴走族対策会議」新設が閣議決定される
    和田慎二『スケバン刑事』、『花とゆめ』で連載開始(1982年まで)

    「ワンルーム」マンションが作られる
    「一九七六年に東京のアパート管理専門会社「マルコー」が新しいタイプのマンションをつくった。一室の平均一五−一六平米と狭いがバス・トイレと コンパク トなキチネットつき「ワンルーム」のマンションである。一室ごとに個人投資家に売り、それを別の個人に貸して維持、管理、家賃の徴収はすべて会社が請け負 うという新しい方式であった。家賃は当時、月額四万円で高かったが、人気が出て、以後、都市にふえつづけ、若者の生活様式を変えたといわれる。」(西川祐 子「日本近代家族と住いの変遷」、西川長夫・松宮秀治編著『幕末・明治期の国民国家形成と文化変容』p.217)

    村上龍「限りなく透明に近いブルー」で群像新人賞受賞
    「カリヤとオオヤマは立川市の職業安定所の場所を知らなかったし、電話番号も持っていなかった。暑くて、湿度も高く、たぶん腹も減っていたのだろ う、立川駅の構内で二人はケンカを始めそうになった。私が間に入って止めて、駅員に聞きに行った。
「ちくしょう、なんで職安がこんなに駅から遠いんだ」
 バスを降りて炎天下の道路を歩きながらカリヤが言った。仕事を本当に捜す気があるかどうかこうやって試してるんじゃないですかね、と私が汗を拭きながら 言うと、オオヤマが笑った。(…)受け付けにたどりついた者は希望する職種や条件を言った上で整理券のようなものを貰い、また別の場所で面接を受けるシス テムになっているらしかった。順番待ちの列は遅々として進まなかった。並んでいるのは男ばかりで、ほとんどが年配者で文庫本や雑誌やスポーツ新聞や漫画を 読んでいる。何もすることがなく汗臭い年寄りの間に立って並んでいてオオヤマが言ったことを思い出した。……自分までみすぼらしくなってしまうような気が したんだよ、あんたとオレは別の違う人間だってことをきちんと伝えるためにはああするしかしようがなかったんだ……汗とカビと安物の煙草の匂い、カビの匂 いは男達の背広やワイシャツやズボンから漂ってきた。押し入れや箪笥に長く仕舞っていた古いものを久し振りに着てきたのだろう。胃液のような酸っぱい匂い も誰かの吐く息に合わせて湿った空気の中を流れてきた。こういう人間達と自分は違うということを示すためには殴ったり殺したりする他にどういう方法がある のだろうと私は自分の順番が来るまで考え続けたが答えは見つからなかった。」(村上龍『村上龍映画小説集』p.148-150)

    Silverstein, S. "The Missing Piece",Ursula Nordstrom Book (倉橋由美子訳、1979、『ぼくを探しに』、講談社)

    Bowles, S. & Gintis, H. Shooling in Capitalist America : Educational Reform and the Contradictions of Economic Life, Basic Books (宇沢弘文訳、1986、『アメリカ資本主義と学校教育 T』、岩波現代選書、宇沢弘文訳、1987、『アメリカ資本主義と学校教育 U』、岩波現代選書)
    「『アメリカ資本主義と学校教育』において確立した対応理論は、たしかに「機能主義的」な性格を免れないものであった。したがって、この点に対応 理論に対する批判が集中した。この点に関しては、ボールズとギンティス自身認めざるを得なかった。事実、彼らは「教育理論における矛盾と再生産」 (1980年)において、われわれの本の弱点……は、発達した資本主義の体系的な矛盾の不適切な取扱いに起因している」と自己批判している。」(小内透著 『再生産論を読む』p.144)

1977年
    国立大学共通一次試験のため大学入試センターがスタート
    「実際、六〇年代に高校入試に登場した「偏差値」は各都道府県ごとにその県の大多数の中学校・中学三年生を組織する「模擬試験」を実施している独 占的なテ スト業者によって提供されるが、共通一次の実施は数校の大手予備校がそれぞれ数十万名単位の受験生の「自己採点票」を集計して、それをもとに算定した全国 の大学を網羅した正確な「偏差値表」の出現を可能にした。」(乾彰夫「企業社会の再編と教育の競争構造」p.279)

    第三次全国総合開発計画(三全総)策定、「地方の時代」がキャッチフレーズ
    公団住宅の分譲住宅建設数が賃貸住宅建設数を上回る

    山田太一「岸辺のアルバム」放送
    「謙作「お前には働くということが、どういう事か分かっていない」
繁「すぐそうやって勿体つけるんだ。働くなんて、どうって事ないじゃないか」
謙作「お前は働いていない」
繁「だから働くっていってるんだろ。自分ひとりで働いてるみたいにいって、さも大変で難しくて神聖みたいにいいたがるけど」
謙作「そんなことはいわん」
繁「働くなんて、たいしたことないじゃないか。女を輸入しなきゃ食って行けないってもんじゃないだろう!」
謙作「――」
繁「人をバカにしてみりゃあいいさ。立派にひとりで食べて行くから見てりゃあいいさ」
謙作「お母さんの事を聞こう」
繁「本人に聞けよ」
謙作「律子の事もだ」
繁「だから本人に聞けよ!本人がいるのに、何故、僕に聞くんだ!本人に聞けよ!(と二階へ)」
謙作「――」」(『岸辺のアルバム』p.269)

    「謙作「他になにがある?この家の他になにがあるんだ」
則子「なにがって――」
謙作「律子は、あんな男と一緒になるという。繁は出て行った。お前は、なにをした!」
則子「お父さん――(反論ではなく、なだめようとしていう)」
謙作「会社は倒産同然だという。その上この家はやられてたまるか。この家だけだ。この家だけが、俺が働いて来た成果だ。この家しかないじゃないか!」」 (p.329)

    小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』

    Willis, P. E. LEARNING TO LABOUR How working class kids get working class jobs, Aldershot (熊沢誠, 山田潤訳、1996、『ハマータウンの野郎ども』、筑摩書房)
    「精神労働にたいするある種の異和感をつくり出し、手労働への親近感を築きあげるのは、ほかでもない学校教育である。少なくとも手労働の世界は学 校的な価値体系の支配圏外にある。そして、手労働そのものからくる特徴ではないけれども、手労働の世界にはほんとうのおとなの社会の味わいがある。逆に、 精神労働は貪欲にひとの能力を食いつくそうとする。精神労働は、まさに学校がそうであるように、ひとのこころの侵されたくない内奥へ、ますますいとおしく 思われる私的な領分へ、遠慮なく入りこんでくる。精神労働に特有の組織機構は、自由であるべき自我の内面を他人の支配にゆだねるようにつくられており、そ れが不公平な「等価交換」の組織であることを〈野郎ども〉はとうに知りつくしている。そういう精神労働に従事することは、屈服と体制順応への言いようのな い奇妙な圧力にさらされつづけることを意味する。逆に精神労働への抵抗が権威への抵抗と結びつくことは、少年たちが学校的な価値に反撥する過程で学びとっ たことなのである。現代の資本制社会では階級対立と学校制度とは独特の出会いかたを見せ、そこでは、教育は管理に姿を変え、労働階級の抵抗は教育の拒否と なって現われ、人格の個人差は階級帰属の差に転移されてしまう。「机でペンを動かす仕事とほんとうに力まかせにやる仕事とのちがい、まったくその差なんだ よ」、ビルは自分の将来と〈耳穴っ子〉の将来とのちがいをこう表現したが、ここには社会が階級に分立している事態への洞察がある。それは学校で学び知った ことであり、学校生活のたまものなのだが、その意味の広がりは学校を超えて社会全体に向っている」(p.254-255)

    The Damned、1stアルバム『Damned, Damned, Damned』発表
    「NEAT NEAT NEAT

     BE A MAN ,CAN A MYSTERY MAN,
     BE A DOLL,BE A BABY DOLL,
     IT CAN'T BE FUN NOT ANY WAY,
     THERE CAN BE FOUND NO WAY AT ALL
     A DISTANT MAN CAN'T SYMPATHISE,
     CAN'T UPHOLD HIS DISTANT LAWS,
     DUE TO FORM ON THAT TODAY,
     I GOT A FEELING THEN I HEAR THAT CALL,I SAID

     (CHORUS)

     NEAT NEAT NEAT,SHE CAN'T AFFORD A CANNON,
     NEAT NEAT NEAT,SHE CAN'T AFFORD A GUN AT ALL,
     NEAT NEAT NEAT,SHE CAN'T AFFORD A CANNON,
     NEAT NEAT NEAT,SHE CAN'T AFFORD A GUN AT ALL,
     NEAT NEAT NEAT

     NO CRIME IF THERE AINT NO LAW,
     NO MORE COPS LEFT TO MESS YOU AROUND,
     NO MORE DREAMS OF MYSTERY CHORDS,
     NO MORE SIGHT TO BRING YOU DOWN,

     I GOT A CRAZY,GOT A THOUGHT IN MY MIND,
     MY MIND'S ON WHEN SHE FALLS ASLEEP,
     FEELIN' FINE IN HER RESTLESS TIME,
     THEN THESE WORDS UPON ME CREEP,I SAID」

    THE CLASH、1stアルバム『白い暴動』発表
    「1977
     IT'S THE 1977, I HOPE I GO TO HEAVEN
     I'M TOO LONG ON THE DOPE AND I CAN'T WORK AT ALL

     DANGER DANGER, YOU BETTER FIND YOUR PLACE
     NO ELVIS, BEATLES OR ROLLING STONES

     IN 1977 GUYS WHO WORK 'TIL ELEVEN
     AIN'T SO LUCKY TO BE RICH
     STAY UNDER THE BRIDGE

     IN 1977 YOU'RE ON THE NEVER-NEVER
     YOU THINK IT CAN'T GO ON FOREVER
     BUT THE PAPERS SAY IT'S BETTER

     I DON'T CARE, IT'S NOW OR NEVER
     THE WORLD'S PEOPLE ARE BEHIND THE EIGHT BALL

     IN 1977 THERE'S NOTHING TO BELIEVE
     IN 1978, IN 1979, IN 1980
     IN 1981 THE TOILET DON'T WORK, IN 1982
     IN 1983 HERE COME THE POLICE
     IN 1984」(『CLASH ON BROADWAY / クラッシュ・オン・ブロードウェイ』収録)

1978年
    OECD「より高い経済成長を維持するために必要な構造的調整を促進する政策の一般方針」を採択
    「(積極的調整政策)
 70年代,とくに第1次石油危機後の経済的困難に対処するためには,先進国経済は構造面での根本的な改革を必要としていたにもがかわらず,現実にはその 後の回復過程においても構造面の改革は不十分にしか行われず,むしろ対外的な保護措置や非効率部門の温存等が行われることが多かった。OECDではこうし た事態を改善するため,「積極的調整政策(Positive Adjustment Policies以下PAPと略す)」について検討を進め,78年6月の第17回閣僚理事会において「より高い経済成長を維持するために必要な構造的調整 を促進する政策の一般方針」を採択した。
 OECDの提唱しているPAPは,需要構造,技術変化,相対価格,比較優位等の変化に対して補助金や保護主義的措置により既存の雇用構造,産業構造の維 持・温存を図る消極的で防禦的な政策と異なり,これらの条件変化に対して市場メカニズムを最大限活かしつつ,積極的に資源配分の変動を促進していこうとす るものである。その際,競争の促進,労働・資本の流動性の向上等によって市場機構の力を高めてこれを行い,政策面での補完はできるだけ一時的かつ前向きの ものに限定することとしている。資源配分の転換を促進するためには,その過程で生ずる社会的副作用を最小化しなければならないが,調整コストの負担もでき るだけ効率性を阻害しない方法で行なうべきものとされている。
 産業調整政策は,個別政策としては,産業政策,雇用政策,農業政策,地域政策等を包含する。
 産業政策においては,個別企業,個別産業の救済,保護は調整コストが短期的に極めて高くなる場合のみに限ることを原則とし,その場合の救済策について は,時限性,コストの明確化等を行なう必要があるとしている。また将来のニ-ズを市場が反映しない分野である研究開発についてはインセンティブの提供等が 必要であり,また,新技術の市場化に必要なベンチャー・キャピタル(収益が確保されるかどうか不確実な冒険的事業等に投下される資本)の確保も必要として いる。
 雇用・労働力政策については,雇用維持が非効率部門の保護に陥らぬよう留意することとされ,職業訓練等による労働の流動性の向上が重視されている。また 転職への補助,賃金構造の改善等により労働市場の硬直性を改善すること,失業保険給付が労働意欲低下へ結びつかないための配慮等が必要であるとしている。 (…)」(経済企画庁「年次世界経済報告 石油危機への対応と1980年代の課題」昭和55年12月9日 http://wp.cao.go.jp/zenbun/sekai/wp-we80/wp-we80-00403.html)

    「特定不況産業安定臨時措置法(特安法)」制定
    「石油危機以後の製造業は、輸入原料価格の騰貴、世界不況の影響などによって、かつての成長部門が一転して不況にあえぐことになった。高度成長期 から停滞的だった繊維産業などはもちろん、成長期の主力産業だった鉄鋼、非鉄金属、造船などの各部門が、長期の不況に陥ったのである。そのために、通産 省、運輸省、労働省を中心に、不況産業と地域とを対象として、1978年5月、いわゆる「構造不況業種」対策が決定された。その骨子は、「特定不況業種安 定臨時措置法(特安法)」によって、「構造不況業種」を指定し、過剰設備の共同廃棄、政府による設備処理計画の作成と共同処理の指定、設備処理のための共 同基金の設立などを定めている。雇用問題や地域対策のためには、「特定不況業種離職者臨時措置法(特離法(業種))」、「特定不況地域離職者臨時措置法 (特離法(地域))」、「特定不況地域中小企業対策臨時措置法(企業城下町法)」が制定された。」(中村隆英『日本経済――その成長と構造〔第3版〕』 p.236-237)

    「7%成長目標」、ボン・サミットで、公共投資の積み増し等により成長率を予定よりも1.5%高めることを明言、以後、公債依存度高まる

    円高不況、大学生の大企業志向が強まる
    「1977年年初には290円であった円レートは、じりじりと上昇を続けて1978年10月には176円になった。この間の上昇率は65%に達す る。円高の進行は輸出を停滞させ、円高不況が懸念された。しかしJカーブ効果によって国際収支の黒字は当初むしろ増大した。一方、輸入価格の低下は国内物 価を安定させた。」(鈴木多加史『日本経済分析(改訂版)』p.29)

    大卒ブルーカラー論、潮木守一『学歴社会の転換』
    「最近テレビの番組でさまざまな職業についた大卒者を追跡しているレポートを見た。そのなかで大学では哲学を勉強し、現在はタクシーの運転手とし て働いている青年の話がでてきた。印象的だったのは、インタービューアーが「あなたにとって大学とは何だったのですか。大学で勉強したことと現在の職業と はどういう関係にあるのですか」という質問に対して、その青年が「学職分離」ということばを使ったことであった。つまり大学で勉強したことは、それはそれ でためになったが、それが現在の職業に直接役立つということは全くない。それでいて大学生活が無駄だったというわけではないし、また現在の自分の職業が自 分にとって不満だというわけでもない。(…)自分が大学出であるといった肩をはった意識ももっていないから、就職する場合でも、どんな職業でもこだわらな い。四年間の学園生活を十分に楽しんだのだから、これからの職業生活も大いに楽しみましょうというのが彼らの価値観なのである。」(p.134-135)

    日本アニメーション協会設立(初代会長は手塚治虫)
    「月刊アニメージュ」創刊

    「ブティック・竹の子」オープン

1979年
    ソ連・アフガニスタン侵攻

    イラン革命
    「これは、文字どおりの意味では革命ではない。あれは、立ち上がり、再び立ち向かうやり方なのだ、と。これは、我々皆に、ただしとりわけ彼らに、 あの精油所の労働者、諸帝国の果ての国の住人にのしかかっている恐るべき重み、全世界の重みを取り除けたいと思う、素手の人々の蜂起なのだ。
 これはおそらく、惑星規模の諸体系に対してなされたはじめての大蜂起であり、反抗の最も近代的な、また最も狂った形式だろう。」(M・フーコー「反抗の 神話的指導者」『思考集成VII』所収、フーコーの提案していた題は「イランの狂気」(La folie de l'Iran)だった。)

    第二次オイルショック
    大手メーカーが採用を復活するなど「採用大手」以外の求人増加
    
    共通第一次学力試験制度始まる
    『3年B組金八先生』第1シリーズ開始(1979年10月26日〜1980年3月28日)

    村上春樹『風の歌を聴け』
    富野由悠季『機動戦士ガンダム』アニメ放送開始(79・4〜80・1)
    Vogel, E. F., Japan as number one : lessons for America, Harvard University Press (広中和歌子,木本彰子訳、1980、『ジャパンアズナンバーワン : アメリカへの教訓』 、TBSブリタニカ)

    ソニー・ウォークマン発売
    NEC・PC-8001発売

    サッチャー政権誕生(〜90年)
    「サッチャー首相は、八〇年一二月四日、下院で野党労働党のマイケル・フット党首から、企業倒産が記録的なふえ方になっていることについて、責任 を追求されたのに対し、日本を引き合いに出して、こう答弁しています。
「もし、イギリスの多くの企業が、競争相手である日本の企業のように、賃金の上昇と生産性の向上をうまく調和させていたら、こんな事態にならなかったはず だ。
 CBI(イギリス産業連盟)のパンフレットにも出ているとおり、日本では、賃金上昇率が生産性の伸びに、ぴったりと見合っているが、イギリスでは、生産 性があがっていないのに、賃金だけ上がって、両者の間に、大きなギャップができている。
 イギリスの産業界が日本の例に習ってやっていたら、今よりはるかに良い状態になっていただろう。
 それなのに、こうした日本経済の効率のよさに対抗する手段が、保護主義的で、輸入規制を求めるというのでは、"悲劇的"としか言いようがない」
 サッチャー首相の答弁では、日本経済は、まるで優等生そのものです。」(浜野崇好『イギリス経済事情』p.199-200)

1980年
    産業構造審議会、「八〇年代の通商産業政策のあり方」を答申
    大平研究会、二一世紀への提言

    ロボット元年(ファナック本社工場山梨県忍野に完成)
    「トヨタ自動車は、一九八〇年春に、その時のロボット保有台数二〇〇台を、八二年までに九〇〇台にすると発表して注目を浴びた。しかし、日産自動 車は、その時すでにロボット化では一歩先をいっており、座間工場(神奈川)の第三車体工場のスポット溶接(点溶接。二枚の薄い鉄板を重ねて点状に溶け合わ せる)作業の九七%をロボット化していた。」(森清『ハイテク社会と労働 何が起きているか』p.23-24)

    雇用者世帯の専業主婦が1093万人でピーク
    「とらばーゆ」創刊
    川崎市で浪人中の予備校生が両親を金属バットで撲殺

    竹の子族流行
    「なめ猫」デビュー(1982年に爆発的なブーム)。「なめんなよ」
    「基本的な成長様式が、学校と家庭・地域との間を振り子のように往復して成長していくかたちから、消費文化というもう一つの軸ができることによっ て、トライアングル型に変わっていきます。学校や家庭と並んで消費文化的な世界がもう一つ軸として自立する、これが七〇年代半ば以降の変化です。この意味 は大きいと思います。少年少女が同じ文化・同じ意識を持って行動する世界が、七〇年代半ばから生じて八〇年代にははっきり目に映るようになるわけです。そ の結果、家庭や学校が持っている成長過程に関与する力は総体的に低下せざるを得ない。その頃から知識の内容やかたちに大きな変貌が起きます。中高生は従来 の思春期に加えて、消費文化世界を生きるという意味で二重の思春期を生きざるを得ない。その中で成長し、その中で認められるという新しい課題が付け加えら れていきます。」(中西新太郎『若者に何が起こっているのか』p.194)

    韓国・光州事件

1981年
    臨時行政調査会(臨調)発足。「増税なき財政再建」。会長・土光敏夫(経団連名誉会長)
    「臨時行政調査会の活動は、大学にも大きな影響を及ぼした。
 臨調は、発足後間もない七月に、早くも第一次(緊急)答申を行った。昭和五七年度の予算編成に臨調の考えを反映させるためである。その答申において、大 学に関しては、私立大学助成費総額の前年度以下への抑制、国立大学・学部等の新増設の原則見送りと施設設備費の縮減など厳しい方針が示され、それが実行に 移された。それまで伸び続けてきた私立大学等の経常費助成も、五七年度、初めて伸び率ゼロとなった。
 臨時行政調査会の方向は、基本答申である昭和五七年七月の第三次答申に示されている。「量的拡大よりは質的充実を進めるとともに、その費用負担につい て、教育を受ける意思と能力を持つ個人の役割を重視し、国としては必要に応じてそのような個人の努力を助長していくことが重要である。
 (…)
 臨時行政調査会による行政改革は、とりわけ国立大学を直撃し、大学をめぐる空気を一変させた。新構想の模索や実験は影を潜め、行政改革の波をいかに凌ぐ かという防衛的姿勢か、新しいことをやろうとしても無駄だという退嬰的姿勢が支配的になっていった。大学紛争を契機とする改革の時代は終わり、大学は冬の 時代を迎えたのである。」(大埼仁『大学改革1945〜1999』p.296-298)

    レーガン大統領誕生(〜89年)
    「一九八〇年代のアメリカ経済を特徴づけるものは、「空洞化」・軍事化・寄生化であるが、とりわけ寄生的な性格が強まってきている。パクス・アメ リ カーナの支柱である軍事とドルそれ自体の維持と展開に、同盟国、とりわけ日本の助力を必要とし、それにもたれかかろうとすることもさることながら、アメリ カ国内の「空洞化」の穴埋めを日本企業の対米進出によってはたさせ、なおかつみずからは生産基盤を海外に移しつつ、全体としては金融的「錬金術」に傾斜し がちである。これは明らかにアメリカ経済の衰退であるが、巨大独占体・金融資本はこのなかでますます多くの超過利潤と「あぶく銭」を獲得し、金融資産を増 大させている。アメリカ経済の「空洞化」とアメリカ多国籍企業の世界的な拡大とが両立すること、またアメリカ国内の生産停滞と金融的膨張とが両立するこ と、あるいは表裏一体的にしかすすまないこと、そしてそれはいずれは爆発してもおかしくないような不安定な基盤のもとでの「繁栄」にすぎないものであるこ と、これこそが現在の局面を特徴づけているものである。」(関下稔『日米経済摩擦の新展開』p.245)

    井筒和幸『ガキ帝国』
    横浜銀蠅(正式名称「ザ・クレージーライダー横浜銀蝿ローリングスペシャル」)「ツッパリHigh School Rock'n' Roll(登校編)/I Love 横浜」発売(デビューは80年)

    田中康夫『何となくクリスタル』〈クリスタル族〉
    「淳一と私は、なにも悩みなんてなく暮らしている。
 なんとなく気分のよいものを、買ったり、着たり、食べたりする。そして、なんとなく気分のよい音楽を聴いて、なんとなく気分のよいところへ散歩しに行っ たり、遊びに行ったりする。
 二人が一緒になると、なんとなく気分のいい、クリスタルな生き方ができそうだった。
 だから、これから十年たった時にも、私は淳一と一緒でありたかった。」(p.210-211)

   「田中の小説に江藤がみた「批評精神」とは、実はアメリカなしにやっていけないという、この小説の基底におかれた「弱さ」の自覚なのではないか。  この「弱さ」の自覚、アメリカなしにやっていけず、アメリカにたいして独立してやっていくことも叶わないという不可能性の自覚こそが、江藤のいう「批評 精神」であり、実をいえば江藤をつつみ、同様に田中を呑みこんでいる「ニヒリズム」の顔なのではないか。」 (加藤典洋『アメリカの影 戦後再見』p.28)

   「日本の文壇は日本が韓国と同じだ、とふいに出来の悪い子に本当のことをいわれたので腹をたてたのだが、江藤は、日本と韓国が同じだ、という基本的 認識をもつからこそ、ヤンキー・ゴウ・ホーム!という村上のメッセージに思わず腹をたてるのである。」(同・p.42)

    ルイ・ヴィトン ジャパン株式会社設立。「直営一号」銀座並木通り店オープン。
    アズディン・アライア(Azzedine Alaia)が「ボディ・コンシャス=(女性としての)体型を意識する」というスタイルをミラノコレクションで発表

1982年
    中曽根政権誕生(〜87年)
    経済審議会長期展望委員会、『二〇〇〇年の日本』発表

    「From A」創刊
    全国六三七校の中・高校卒業式に校内暴力懸念のため警察官が立ち入り警戒
    BOØWY、1stアルバム「MORAL」発売

    IBM産業スパイ事件
    IBMおよびAT&Tとの同意判決、巨大企業を独禁法の拘束から開放

1983年
    東京ディズニーランド開園
    任天堂(株)ファミリーコンピューター発売
    セブンイレブン、POSを全1643店に設置
    「おたく」という語を中森明夫が現在の意味で初めて用いる
    文化と教育に関する懇談会(戦後教育の見直し)

    尾崎豊、1stシングル「15の夜」、1stアルバム「十七歳の地図」発売
    森田芳光『家族ゲーム』
    きうちかずひろ『BE‐BOP‐HIGHSCHOOL』、『週刊ヤングマガジン』で連載開始(2003年から無期限休載中)

    浅田彰『構造と力』
    「超コード化の段階においては媒介者というのは絶対のかなたにあるわけで、それを模倣し追いつこうということ自体ナンセンスなんですね。絶対に追 いつけないからこそ絶対他者なのだと。ところが今や脱コード化によって基本的には位置のうえでの差異がなくなっているわけですから、媒介者というのは自分 よりも先に出発した人であるというだけで、努力さえすれば追いつける、そしてまた追いこすことも夢ではない。このことを最も典型的に示すのがいわゆるエ ディプス三角形の家族なんです。ボクはパパの介入によってママとの直接的合一を断念しなきゃならない。だけど、パパだって神様じゃないんで、ボクより先に いたというだけなんだと。だから、ボクだって、パパをモデルかつ障害物として追いつけ追いこしさえすればいいわけです。こうして、パパ−ママ−ボクのおぞ ましい三角関係が、欲望の流れを《追いつけ追いこせ》の回路へと誘導していく。彼らの議論をはなれて言うと、これを引きつぐのは学校ですね。エディプス的 家族+学校、これが、質的な位置の体系の不在という条件のもとで、量的な流れの運動へと欲望を駆り立てていく。
 こうした誘導はやがて内面化にまで行きつくわけです。こうなると、各人は自分自身に負債を負い、それをうめるべく走りつづけるという悲惨な状況になる。 これこそが近代的な《主体》の姿なんですね。フーコーはそれを《経験的−超越的二重体》と呼んだわけだけれども、実際、その中にはオブジェクト・レベルと メタ・レベルがくりこまれていて、その落差が《主体》をひとりでに走らせ続けるわけです。」(浅田彰『逃走論 スキゾ・キッズの冒険』p.84-85)

    アメリカの「教育の卓越に関する国家委員会」が『危機に立つ国家』:A Nation at Risk を報告・発表
    Hochschild, A. R., The managed heart: commercialization of human feeling, University of California Press (石川准, 室伏亜希訳、2000、『管理される心 : 感情が商品になるとき』、世界思想社)
    cf.http://www.arsvi.com/b1900/8300ha.htm
    Monden, Y., Toyota production system : an integrated approach to just-in-time, Industrial Engineering and Management Press (Institute of Industrial Engineers) (1985、『トヨタシステム:トヨタ式生産管理システム』、講談社)

    島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』
    「バージニヤは、いや一般的に女の子は何かうっとりさせるようなもの、何か眠りに似ているもの、かすかに色のついた空気のようなものが好きらし い。
(この赤い市民運動にも、女をうっとりさせるような何かが必要だ。雑誌づくりや集会も結構だが、今一つ、冴えない。おそらく、ファッション性に欠けるの だ。スタイルを洗練しなければならないのだ)
そのためにはどうすればいいのかという問題は、今の彼には胸やけを起こさせた。そんなことより、もっと身近な問題から処理していった方が都合がよいのだっ た。先ず、バージニヤをものにすること。」(p.113-114)

    「「普通、反抗期といわれてる時期には僕はおとなしいもんだったじゃないか。何一つ心配かけなかった。このまま一生、反抗しなかったらやっぱりま ずいと思 うんだ」クルシマは舌打ちを混ぜた笑いを浮かべながら自室に引籠もった。「やっぱりまずいと思うんだ」
 彼は天井の蛍光灯を見つめていた。赤ん坊の泣き声がマンションの中庭に鋭く反響していた。部屋の白い壁、レースのカーテン、窓のアルミ格子、ベッド。ま るで病院だ。
 クルシマは一流企業という最終到着地点を目前にしながら、パックツアーから脱け出そうともがいているのだった。国家殿が用意した子宮から這い出ようとし ていた。(僕は生まれてやる。自分の意志で子宮から……へその緒をひきちぎって……)」(p.209-210)

1984年
    グリコ・森永事件

    臨時教育審議会(〜87年)
    「一九八四年(昭和五十九)に首相の諮問機関として設置された臨時教育審議会は、第一次答申(一九八五年)で「自由化」と「個性重視」の原則のも とに「後期中等教育の構造の柔軟化」を提起し、続く第二次答申(一九八六年)は二一世紀に向けての「生涯職業能力開発の総合的推進」を課題とし、その一環 として中等教育および中等後教育における職業能力開発の機会拡充を提起した(…)。そして第三次答申(一九八七年)では、第二次答申とあいまって「生涯学 習体系への移行」や「国際化・情報化への対応」など、産業構造再編・労働市場再編を見通した総合的な教育改革への筋道を打ち出した。」(渡辺治編『高度成 長と企業社会』p.188)

    米国でのトヨタ・GM 合弁会社(NUMMI )生産開始

    日本のエンゲル係数が30%を切る
    健康保険法改正公布(本格的な医療費削減策を導入)
    厚生省(現・厚生労働省)、脳死に関する研究班が発足

    麻布十番に「マハラジャ」オープン
    電電公社民営化
    国産OS「TORON」計画発案

    「無業者率」から「自宅浪人」を除いた「純粋無業者率」が80年代の最高の4.8%(岩木 1999)

    「就職ノート カネよりヒト 中小の求人も高学歴化」(朝日新聞1984年10月23日)
    「商工組合中央金庫が九月にまとめた「中小企業の昭和六十年度新卒採用計画アンケート調査」によると、中小企業の新卒採用計画人数は全体で前年実 績比9% 増となり、大卒については53.8%の高い伸び率だった。短大・高専卒、高卒、中卒の採用計画人数はいずれも前年実績を下回っているので、中小企業の求人 にも、高学歴化への流れがはっきりと読みとれる。」

    「就職ノート 揺れる協定 優秀な学生求め争奪戦」(朝日新聞1984年10月2日)
    「来春卒業予定の大学生の会社訪問が一日、解禁された。採用試験は十一月一日から始まるが、最近はペーパーテストよりも面接が重視される傾向が強 いので、 就職活動のスケジュールの中で会社訪問の持つ意味は大きい。
 企業の大卒採用には、「自由公募」と「学校からの推薦」という二つの方法がある。大ざっぱにいって、事務系が自由公募、技術系では推薦方式が主流だ。自 由公募方式をとっている企業を学生が回り、採用担当者と“お見合い”をするのが会社訪問である。水面下の接触ですでに内定の感触を得ている学生にとって は、会社訪問は入社への意思をはっきりさせる場になるだろう。
 企業の採用活動は、低成長時代に入ってから「量より質」を重視している。採用の方式も、いろいろな層の担当者が学生と面談を重ね、人物本位に採否を決め るやり方が定着してきた。一握りの優秀な学生をめぐる争奪戦は激化し、他社より一歩でも先んじるために、協定破りは絶えなくなった。」

1985年
    プラザ合意

    男女雇用機会均等法成立
    労働者派遣法成立

    ソ連、ペレストロイカ

    大都市圏整備局「首都改造計画」

    米、産業競争力委員会によるヤングレポート(「新技術の創造・実用化・保護(イノベーションによる技術優位)」「資本コストの低減(税制・資本流 動効率化による生産資本の供給増大)」「人的資源開発(技能・順応性・意欲の向上と教育改善)」「通商政策の重視(輸出拡大が国家の最優先政策)」)

    吉本・埴谷コム・デ・ギャルソン論争
    加藤典洋『「アメリカ」の影』

    宗田理『ぼくらの七日間戦争』
    都内に第一号のブルセラショップ開店

    小沢雅子『新「階層消費」の時代』
    「人々が農村から都市に出てきてサラリーマンになるのは、サラリーマンになった方が高い所得を得ることができると判断したからであった。一九六〇 年代中頃までは、図表Pに見るとおり、農家や公務員よりも民間企業のサラリーマンの方が所得が高く、この判断は正しかったといえる。ところが、六〇年代後 半以降、この関係は逆転している。」(p.164-165)
    「所得格差、賃金格差が拡大した原因は、一九七〇年代後半になって経済成長率が低下して、労働需要が減少したことである。高度成長期には、労働需 要が労働供給を上回っていたので、労働市場は、慢性的に人手不足な状態であった。それゆえ、必要な労働力を確保するためには、中小企業であろうと大企業な みの賃金を支払わねばならなくなった。こうして、新しい勤労者だけでなく、すでに働いている勤労者もまた、「転職」を武器にすることによって、高い賃金を 要求することができるようになり、二重構造と言われたもろもろの賃金格差は縮小傾向にあった。
 ところが、低成長期には労働需要よりも労働供給の方が多く、勤労者に不利な状態になったため、再び賃金格差が発生した。そして、賃金の格差が発生して も、労働供給の方が多い状態では、勤労者は転職を武器にすることができないので、賃金格差は拡大していった。賃金は、労使の交渉によって決まるが、労働供 給の方が労働需要より多い状態では、中小企業の勤労者や女性労働者のように、交渉力の弱い勤労者の賃金は、相対的に切り下げされる。しかし、彼らは、労働 移動によってそれを平準化することができないでいる。
 このように、勤労者のなかでも、産業別、企業規模別、男女別、職種別に賃金格差は拡大している。一九七〇年代に入ってジニ係数の低下現象が止まり、横ば いあるいは微増傾向を示しているのは、七五年以降の上記の格差拡大の結果といえよう。」(p.170-171)

    「85就職ノート高卒の求人 好転したが地域格差も」(朝日新聞1985年7月2日)
    「高学歴化の流れの中で、高卒の就職は大卒、短大卒に押され、かつて中卒の職場だったところに高卒が配置されることが多くなった。金融機関などの 高卒への 求人が大幅に減ったため、先輩と同じところへ行けず、「志望の変更が必要になるケース」が増えている。特に高卒女子の場合、オフィスオートメーション (OA)と、女子の勤続年数が長くなっていることの影響が大きい。」

    「85就職ノート 青田買いの弊害 内定取り消しに泣く」(朝日新聞1985年11月6日)
    「就職シーズンはいよいよ終盤。マスコミ志望者や地元志向の強い地方大学生の就職活動、求人難に悩む中小企業の採用選考などはまだ続いている。だ が、ほと んどの大企業は面接で事実上の採用を決めており、1日から解禁された採用試験を入社後の配属のための参考資料などに使っているところが多い。この秋の就職 戦線は、全体としてヤマ場を越えた。
 今年の最大の特徴は、「学生側の売り手市場」との予測から企業側の採用活動が昨年以上に早期化し、一部有名校の学生を対象にした青田買いが続出したこ と。有名校の学生の多くは、就職協定による会社訪問解禁日である10月1日より前に内定したが、それ以外の学生が早い時期に会社訪問をすると、「協定通 り、10月1日から受け付ける」と断られる場合が多かった。就職の機会均等を目的としているはずの協定が、有名校とその他の大学の学生の差別に使われた、 と大学関係者が指摘している。
 秋が深まるとともに、青田買いの弊害が目立ってきた。「内定したあとで、どうしようか、と迷っている学生が少なくない」と、早大の多熊一郎就職課長はい う。自分の将来について、はっきりした方針が固まらないうちに、就職先が決まってしまうためだ。都市銀行に内定した学生が「自分は銀行には向いていないの では……」と悩み、あとでメーカーを回ったりするケースもあった。
 複数の会社から内定をもらった学生による「内定辞退」の動きが絶えない半面、採用予定枠以上に学生を採りすぎた企業の内定取り消しもボツボツ出てきた。 就職協定の建前から、企業は11月にならないと、内定の通知を学生に出すわけにはいかない。青田買いは水面下の動きなので、内定取り消しといっても、口約 束の場合には学生と会社との間で「(内定と)言った」「言わない」の水かけ論になりがち。一方、内定したはずの学生に逃げられ、再募集に動いている会社も ある。青田買いの後遺症は、学生、企業の双方に、なおしばらく残りそうだ。
 しかし、こうした動きは、主として有名校の男子学生と大企業の間で起きている現象だ。女子学生の就職戦線も、男子に引きずられる形で全般に早期化してい るが、男子に比べれば、やはり厳しい。(…)」

1986年
    前川レポート(内需拡大、所得減税、労働時間短縮など)
    「日本の特質が量産型の製造工業における多品種大量生産にもとづく薄利多売にある以上、どんなに生産を海外にシフトしても、国内での生産基盤を すっかり失えば、たちまちのうちに敗北と没落が待ちうけていることは目に見えている。アメリカの場合は、国内経済基盤を失って「空洞化」しても、寄生的な 国家として「旦那商売」・パトロン生活をつづけることができる。それは、資本主義世界の政治的・軍事的・金融的指揮権を握っているからである。しかし日本 にはそれがない。とすると、国内における生産基盤を残しながら、できるところから徐々に海外へ生産の一部をシフトする道を選ばざるをえない。だから、日本 経済がアメリカのようには全面的に「空洞化」(しないのではなく)できないのは、日本資本主義の限界=制約性として私には映るのである。そして、そこに全 知全霊を傾けなければならないとしたら、日本の前途はきわめて危ういタイトロープを渡るような、危険に満ちたものであろう。」(関下稔『日米貿易摩擦の新 展開』p.240)

    日米半導体交渉、最終合意

    「86就職ノート サービス経済化 新卒採用、高い伸び」(朝日新聞1986年11月11日)
    「(…)今年の就職戦線の大きな特色は、経済のサービス化、ソフト化の流れが、企業の採用活動の面からもはっきりと読みとれることだ。労働省は、 来春の新 規学校卒業者について、事務系、技術(技能)系、販売・サービス系の職種ごとに、前年に比べた採用計画の伸び率を学歴別にまとめている。それによると、高 専、中学を除く各学歴とも、販売・サービス系の伸び率が最も高い。大学の場合、事務系1.9%、技術系7.7%に対し、販売・サービス系は15.3%の高 い伸びを示した。
 大卒に対する採用意欲が強い業界は、電算機のソフトウエア関係と金融機関、さらに流通、住宅などの内需関連産業だ。大学生の場合、輸出企業を中心とする 製造業の求人の落ち込みを、非製造業の求人増が補ったと見られる。
 一方、60万人を上回る高校生の就職戦線は厳しい。急激な円高の影響で、高校生に対する製造業の求人が大幅に減っているうえ、百貨店などの非製造業で も、高校生の採用を大学、短大に切り替える動きが続いているためだ。高卒への求人の長期低落傾向には、なかなか歯止めがかからないようだ。」

    フィリピン、マルコス亡命。アキノ大統領へ
    台湾、民主進歩党の結成が非合法に宣言される

    チェルノブイリ事故

1987年
    東京都の地価平均上昇率が過去最高(53.9%、国土庁の地価公示)

    JR各社開業、国鉄の分割民営化
    NTT、携帯電話の提供開始
    国立大学設置法施行規制改正。国立大学などに寄附講座・寄附研究部門開設の途を開く

    「フリーアルバイター」という語が、リクルート・フロムエー『若者しごとデータマガジン』で使われる

    「87就職ノート 崩れた協定 違反の追随相次ぐ」(朝日新聞1987年9月1日)
    「(…)
 今年の協定の新しい試みは、企業と学生が個別接触をしない形の企業説明会の開催である。そんな説明会が8月20日から全国各地で開かれる一方で、有名校 の先輩が後輩を呼び込むなど、大企業の個別面談も進められているのが実情だ。このような人材争奪戦は、男子大学生だけでも20万人を上回る就職希望者の中 では限られた現象だが、不公平感を抱く学生は多いだろう。(…)」

    「87就職ノート 売り手市場 金融中心に明るさ」(朝日新聞1987年10月20日)
    「今年の就職戦線は終幕に近い。地方の大学生や女子学生などの中には、なお就職活動を続けている人も少なくないが、ここで今年の状況を振り返り、 来年への 問題点を考えてみよう。
 今年の大きな特色は、景気の回復基調を背景に雇用情勢が夏ごろから好転し、大卒の就職戦線にも明るさが広がったこと。大卒男子の場合には、全体として売 り手市場としての色彩が昨年以上に濃くなり、企業側は焦り気味。証券会社の大幅な採用増をはじめ、金融関連企業の採用意欲がとくに強く、人材争奪戦は激し かった。銀行、証券など非製造業が理科系への求人を増やしたことから、理科系学生の間にも非製造業への関心が強まってき た。全般に大企業の採用攻勢のあおりで、中小企業は苦戦を強いられた。(…)」

    労働省、過労死に関する新しい労災認定基準を通達(87.10.27基発620号)

    ブルーハーツ「人にやさしく」でデビュー

1988年
    リクルート事件

    大阪過労死問題連絡会が「過労死一一〇番」始める
    NTT、ISDNの営業開始

    サッチャー英首相による「教育改革法」、「全国共通カリキュラム」の導入
    「人間資本論の終焉といわれ、教育計画への関心も急速に衰えた。しかしながら、その後に起きた経済問題は、けっして教育と無関係ではなかった。欧 米諸国に共通した70年代後半の大きな労働問題は、若年層の失業だった。この問題が深刻になるにつれて、若者の低い学力水準および職業訓練不足が、失業の 大きな理由として取り上げられるようになる。
 80年代に入って、この時代の雰囲気に強い刺激を与えたのが「トヨタショック」である。若者の失業および情報化という産業構造の転換に苦慮していた欧米 諸国は、日本の経済力にショックを受けた。そして、この経済の秘密を解く鍵として、日本の教育が注目された。しかし、そこでの関心は、初等・中等教育で あって、けっして高等教育ではなかった。
 60年代は、教育計画への楽観的期待の時代。そして、70年代は教育に懐疑的な時代へと反転したが、80年代は、再び教育への期待が回復した時代にな る。ところが、スプートニクショックとトヨタショックの違いに象徴されるように、この20年の間に、ハイタレント・マンパワー重視の時代から基礎学力重視 の教育観に大きく変わったのである。こうした教育計画の枠組みの推移は、新しい産業分野を部分的にリードする時代から、産業構造の全体を根本的に転換する 時代に変わったという経済変動が大いに関係している。典型的には、情報化を考えてみればよい。情報化は部分的な新規産業の生成ではなく、既存の産業に影響 する全体的な構造問題であり、この転換を担うためには、すべての労働力の質を改善する必要があるからである。」(矢野眞和『高等教育の経済分析と政策』 p.26-27)

    「88就職ノート 女子の戦略 経済ソフト化に乗る」(朝日新聞1988年7月19日)
    「(…)経済のサービス化、ソフト化が進むにつれて、女性の雇用が増え、大卒女子の活躍する場は広がっている。最近はとくにソフト技術者の不足に 悩む情報 処理業界で、女性の進出が目立つ。大手のCSKは来春、大卒女子を100人採る計画だ。東京都の多摩ニュータウンに教育研修設備が6月に完成、女子採用の ための受け入れ体制が整ってきたことが理由とされている。
 (…)
 男女雇用機会均等法が施行されて3年目。好況を追い風に、かつては狭き門だった大卒女子の就職戦線にも明るさが見える。
 オフィス・オートメーション(OA)の影響で事務職の採用は減少傾向が続いているが、女性の感性を商品開発に生かすなど、全般に女子の戦力を営業面など に活用する企業が増えた。幹部候補としての女子総合職の採用は、まだ数が少ないため、男子以上の能力を要求される傾向もみられるが、その門戸は徐々に広が る方向にある。」

    国際決済銀行(BIS)、国際業務を行う銀行の自己資本比率規制を採択
    「一九八八年一二月二二日、大蔵省は「自己資本比率規制・国際統一基準の国内適用通達」を出し、国際業務を営む邦銀に対して一九九三年三月末前ま での五年間を経過期間と定め、当初三年間は具体的な目標比率を定めず、あとの二年で中間目標七.二五%以上を設定し、一九九三年三月期には最終目標比率八 %以上を設定するとした。」(森佳子『米国通貨戦略の破綻』p.129)

1989年
    日米構造協議(〜90年)
    「協議の結果だが、アメリカは「率基準」の採用こそ勝ち取れなかったものの、日本に以後一〇年間(一九九一年〜二〇〇〇年)の公共投資「総額」を 明示させることに成功した。米側要求額五〇〇兆円、日本側の回答素案四一五兆円からスタートし、激しいもみあいの経て最終的に合意されたのが四三〇兆円 (別枠のJRなど旧三公社分を加えると四五五兆円)であった。生活関連分野への重点配分も、最終報告案に明記された。」(坂井昭夫『日米経済摩擦と政策協 調』p.193)

    男子大学生の平均内定社数が2.26社
    「新学力観」のカリキュラム施行

    昭和天皇死去
    消費税導入
    天安門事件
    ベルリンの壁崩壊
    マルタ会談
    総評解散

    盛田昭夫・石原慎太郎『「NO」と言える日本』

    「89就職ノート 協定110番 上位都銀がフライング」(朝日新聞1989年7月18日付朝刊)
「「就職協定110番」が日経連に設置されたのは4月17日。日経連は、今年の採用活動が求人増を背景に前倒しになることを警戒し、協定違反を監視するた めの110番の開設を昨年(7月1日)より2カ月半近く早めて、学生からの電話を受け付けた。
 (…)
 「深夜の1時や2時に銀行からの電話がかかり、寝ていられない」「銀行からの呼び出しで国家公務員試験の勉強ができない」などの苦情、不満が目立つ。都 銀上位行の呼び出しが金融志望ではない学生にまで及んだことが、110番情報が急増した一因とみられる。さらに、「信州に連れて行かれた」など、拘束の情 報も、11日までの累計で24件ほどあった。(…)」

    ブッシュ米大統領、全米の州知事を招いて「教育サミット」を開催し「全国共通教育目標」を設定
    技術教育の国際標準を定めるための国際協定「ワシントン・アコード」締結

1990年
    大学設置基準の大綱化
    産業構造審議会九〇年代政策部会

    「90就職ノート 協定順守は第2関門に」(朝日新聞1990年7月10日)
「大学の就職部などでまとめている「先輩の体験記」を読むと、「就職活動は情報戦争」といった感想を述べたものがしばしば出てくる。友人のネットワークを 通じて、企業の採用活動について生の情報を集めることが重要だ、という趣旨のことが書かれている。
 採用活動のピーク時に乗り遅れたら大変、と学生同士が情報交換をしている。企業側は、学生を通じて同業他社の動きを探る。さまざまなウワサが飛び回る。 「先頭を切って批判されたくはないが、同業他社に遅れるわけにはいかない」というのが採用担当者の本音で、企業同士のにらみ合いの状態になってきた。
(…)」

    イラク、クウェート侵攻
    東西ドイツ統合

    カリフォルニア州ペリカンベイ刑務所に関するロサンゼルス・タイムズ紙による報告
    「(…)ペリカンベイ刑務所は、二〇世紀末までに住民の一〇〇〇人に八人が囚人になることを計画しているのだ。一九九〇年五月一日付けのロサンゼ ルス・タイムズで報道された熱意ある報告によると、ペリカンベイ刑務所は、「完全に自動化されていて、収容者が看守たちや他の収容者たちと直接接触しなく てすむようにデザインされている」。収容者たちは大部分の時間を「堅固なコンクリート・ブロックとステンレスでできた窓のない独房」で過ごし、「彼らが刑 務所内で働くことはない。彼らはレクリエーションの機会を持たず、他の収容者たちと一緒になることもない」。看守でさえ「ガラスばりのコントロール・ブー スのなかにいて、囚人たちとはスピーカー・システムを通じて連絡をとる」。それゆえ、看守が囚人たちと出会うことはめったにない。看守たちに残された唯一 の仕事は、囚人たちが独房の中にいることを確認することである。囚人たちは、見ることも見られることもなく、他と連絡を断たれて独房に入れられているの だ。食事をとり排便することを除けば、その独房はまるで棺おけである。」(ジグムント・バウマン/福本圭介訳「法と秩序の社会的効用」『現代思想』 2001年6月号 p.88-89)

    「(…)ペリカンベイ刑務所は、規律訓練の工場や訓練された労働者を生産する工場として設計されたのではない。それは、排除の工場、つまり排除さ れているという状態に慣れた人々を生産する工場として設計されたのだ。時/空間が圧縮された時代における排除された人々の特徴は、強いられた移動不可能性 (immobility)である。ペリカンベイ刑務所が完成に近づけたもの、それは移動不可能性の技術にほかならない。」(p.92)


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