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事件と言説:若者・教育・労働… 1951-1970

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970  1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)


1951年
    サンフランシスコ条約、日米安全保障条約調印

    トヨタ、フォードの工場を見学後、「生産設備近代化五ヶ年計画」実施(〜55年)、「創意工夫提案制度」「TWI(Training Within Industry)」を導入
     「大野耐一によれば、ジャストインタイムの思想は戦前の豊田喜一郎にまでさかのぼるが、社内でのかんばん方式の導入は一九五〇年代後半のことで ある。要するに後工程が前工程に必要な部品を取りに行き、前工程はその分だけ補充する方式である。「かんばん」はその手段として、部品箱について前工程と 後工程を行き来する、一種の循環伝票である。」(藤本隆宏『能力構築競争 日本の自動車産業はなぜ強いのか』p.157)

     産業教育振興法、高等学校の産業教育の充実
     大学入学資格検定開始

     公営住宅法、住宅金融公庫法制定
     「都市では、低所得者層の福祉住宅的意味合いを込めた厚生省の住宅政策が出されていたが、これに対し、社会政策的ソフトの面を弱めた建設省の意 向がより強く出た住宅政策として、1951年に公営住宅法が制定された。
 大都市において公営住宅は、1割以上の住宅市場を占め、入居の際の収入制限は、その低所得者住宅としての位置付けを明確にしていた。(…)
 他方、公営住宅法と同時に制定された住宅金融公庫法は、持ち家取得のための金融を政府が供与することで、自立的な個人に住宅建設を委ねるものであった。 これは、郊外の持ち家一戸建てがゴールという住宅神話をかきたて、営利的不動産ディベロッパーに主導される都市空間編成を導いた。」(水岡不二雄編『経 済・社会の地理学』p.236-237)

    C・ライト・ミルズ『ホワイト・カラー』
    「市場原理に支配される雇傭労働者の社会には、必然的にパースナリティーの市場が形成される。なぜなら、主要な労働形態がかつての手工業的な熟練 労働から人扱いの方法や販売や他人に対するサービスに変化するにつれて、そこに雇われて働く者の個人的な性向、あるいは本質的な特色までもが商的取引行為 の対象となった、つまり端的に言えば人間のパースナリティーが労働市場における商品になってしまったからである。ある人の個人的性向に対する統制権が、一 定の価格によって人から人の手に売り渡されるとき、つまり、他人に与える印象に影響を及ぼすような性向が取引の対象になるとき、そこには必ずパースナリ ティーの市場が形成される」(p.166)

    「雇傭主は人を選ぶに当たってそのパースナリティーを規準とすることをくり返し要求している。ある大学が実施した雇傭に関する調査でも、「大学卒 業生で実業界に雇われる可能性がもっとも多いのはよいパースナリティーをもった者である。それどころでなく、技術か科学を使う領域以外ではどんな種類の仕 事に対しても性格ということは成績の良し悪しよりは重要視される」という結果が示されている。履歴書においてもっとも重要と考えられる性向は、「多くの人 と協調していっしょに働いてゆける能力、人と気やすく会ったり話したりできる能力、外観的な魅力」といった項目なのである。」(p.170-171)

    「労働市場が教育を必要とする間のみ、教育は成功の手段として役立つ。しかし現在では、そのような要請がいつまでも続くことはありえないと思われ るので、大部分の青年には一般教養とそれぞれの能力に適合する少しばかりの専門教育を与え、一方では少数の者だけに十分な特殊教育をほどこして、将来指導 者たらしめる準備をしてやり、こうして知識階級に関する一面的な職業観を打破し修正しようという考えが新しく起こっている。なおそれに加えて、「進歩的」 教育論者は、学生に早くから検査や各種能力の測定や職業指導を行なえば、教育を続けることによって、高い職業的地位にまで上ってゆける能力のある者と、比 較的低い段階で教育を打ち切って、職業的にもそれほど高くない地位に甘んずるべき者とをより分けることができるであろうと説いている。」(p.254)

1952年
    中央教育審議会設置
    「こうしたなかで、一連の事態を象徴したのが、文部大臣の諮問機関として教育刷新審議会を引き継いだ中央教育審議会の設置(第一期、一九五二年 〈昭和二十七〉六月)であった。とりわけその委員構成の発表(一九五三年一月)は、教育界に大きな衝撃を与えた。委員一五名のうち経済界の代表が四名を占 め(日経連・経団連・大企業社長)、さらに反共・再軍備推進論者が多数を占める委員構成に対して、日教組をはじめとする民間の教育界は「文部省は日経連教 育局になった」、あるいは「再軍備委員会」「日教組封じ込め作戦」といった批判を浴びせたのであった(「生まれ出た中央教育審議会めざすはなにか?」)。 いずれにしても、これ以後、財界・産業界は、その教育要求を中央教育審議会や経済審議会の審議・答申に反映させることによって、教育政策への発言力を強大 なものにしていくことになる。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.163)

    就職協定始まる
 「就職協定の起源は,昭和27(1952)年に遡ることができる.その歴史をひもとくと,「採用選考開始日」の設定には,卒業以前にあまりに早期に就職 が決まってしまうことが,中学や高校の教育に悪影響をおよぼすという教育的な判断が当初からあったことが明らかとなる.
 昭和27年6月11日に労働省事務次官,文部省事務次官の共同通達として登場したこの制度は,雇用主への依頼状というかたちをとって発表された. (…)」(苅谷剛彦『学校・職業・選抜の社会学』p.172)

    チャーリー・ウィルソン、「ジェネラル・モーターズにとって良いことは合衆国にとって良いことだ」と発言

1953年
    池田・ロバートソン会談
    「(ハ)本会議参加者は,日本国民が自己の防衛に関しより多くの責任を感ずるような気分を国内につくることが最も重要であると意見一致した。愛国 心と自己防衛の自発的精神が日本において成長する如き気分を啓蒙と啓発によつて発展することが日本政府の責任である。」(外交資料館所蔵外交記録)

    サンヨーが日本初の「噴流式洗濯機」SW-53を発売。値段は28,500円と、それまでの丸型攪拌式洗濯機の半値近く。
    朝鮮戦争、休戦協定の調印

1954年
    「集団就職列車」開始、金の卵
    「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する法律」と「教育公務員特例法の一部を改正する法律」の、いわゆる「教育二法」公布

    IBM、最初の量産コンピューターといわれる小型のモデル六五〇で民間市場に参入

    Maslow, A. H. "Motivation And Personality(First Edition)", Harper & Row, Publishers, Inc.
    「究極的に自己実現的人間とそうでない人々との間の最も深遠な差異を導き出したのは、このような発見であった。最も深遠な差異とはすなわち、自己 実現的人間の動機づけられた生活は、普通の人々のそれとは量的のみならず質的にも異なっているということである。我々は自己実現者のためには、普通のとは まったく異なる動機づけの心理学、たとえば欠乏動機に関するものというよりむしろメタ動機、成長動機に関する心理学を構築しなければならないように思え る。おそらく、生きていることと「生きる準備をしている」こととを区別することは有用なことであろう。おそらく、動機づけという概念は非自己実現者にのみ 適用されるべきであろう。我々の被験者は、もはや普通の意味での努力をしているのではなくて、むしろ発展しているのである。彼らは完全を目ざして成長しよ うとしているのであり、自分自身のやり方でよりいっそう完全に発展しようとしている。普通の人の場合、動機づけとは自分たちに欠けている基本的欲求を満足 させるために努力することである。しかし、自己実現的人間の場合には、実際のところ基本的欲求の満足については何ら欠けるところはないのだが、それでもな おかつ彼らには衝動があるのである。普通の意味でではないのだが、彼らは働き、試み、そして野心的である。彼らにとって動機づけとはまさに人格の成長であ り、性格の表現であり、成熟であり、発展である。すなわち、一言で言えば自己実現なのである。これらの自己実現者が、これ以上に人間的で、これ以上に人類 の根源的性質を顕現し、またこれ以上に分類学的な意味での人類の典型に近づくということがありえようか?それとも生物学的な意味での人類は、不具にされ、 ゆがめられ、部分的にしか発達していない標本として、あるいは飼い慣らされすぎて、檻に入れられ訓練されてきた見本によって判断されるべきなのであろう か?」(小口忠彦訳『[改訂新版]人間性の心理学』p.237-238)

1955年
    「神武景気」高度成長始まる
    鳩山内閣、総合経済6ヶ年計画を発表。最初の政府の経済計画
    春闘始まる
    一ドル・ブラウス事件
    東京電力、電産型生活給にかえて職務給制度を導入
    「経済自立5ヵ年計画」
    保守合同、自由民主党成立

    日本生産性本部ができる。技術革新をテコにした生産性向上運動が展開され始める。
    「昭和二〇年代の戦後復興期におけるアメリカ型経営管理の導入は、部分的な導入が一般的であり、本格的導入は一九五五年(昭和三〇)に発足した日 本生産性 本部が、各種の視察団をアメリカに派遣して以後のことであった。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.169)

    「日本における生産性運動は、日本生産性本部の主導の下に官民一体の国民的運動として展開されることになったが、とくに生産性向上のためには、労 働者およ び労働組合の協力を不可欠の要素としていた。生産性運動は労働者の解雇につながるとして反対の強かった組合側の理解を得る意味もあって、日本生産性本部 は、生産性運動の基本的な考え方として、雇用の安定、公正な成果の配分、および労使の協議にあるとする三原則を発表した。(…)
 これらの点で、生産性向上運動は、日経連によれば戦前の企業(産業)合理化運動とは異なっている。企業合理化運動は、消極的な不況対策にすぎず、合理化 運動の中心であった科学的管理や能率増進の方法は、生産作業中心の部分的なものでしかなかった。また、資本家中心の運動で、合理化による失業者への配慮も 十分ではなかった。これに対し、生産性運動は、より幅広い運動で、国民生活の水準を引き上げて国民経済の繁栄をもたらし、経済全体と結びついた経営の管理 面と技術面の全体にわたった総合的なものであった。そして、経営者、労働者、および社会全般が参加する運動で、利益の分配も失業対策も、万全の体制を考え ていて、全国民が結集して行なう運動と位置づけられていた。」(p.171)

    日本住宅公団設立
    「だが、1955年の日本住宅公団創設は、公営住宅法が措定していた収入階層より上層の持ち家期待層も含み込み、かつユニット住宅の大量生産を通 じて、白 亜のアパートが並ぶニュータウン建設という未来への期待感を込めた心象を人々の間に作り出した。これは、都市空間レベルで、国家がフォーディズム的都市空 間編成に関わった数少ない事例であった。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.236)

    アメリカのディズニーランド開園

1956年
    『経済白書』
    「今や経済の回復による浮揚力はほぼ使い尽くされた。なるほど、貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高 いかもしれないが、戦後の一時期にくらべれば、その欲望の熾烈さは明らかに減少した。もはや戦後ではない。われわれはいまや異なった事態に当面しようとし ている。回復を通じての成長は終った。今後の成長は近代化によって支えられる。」

    地方教育行政法。教育委員会の公選制を廃し、知事の任命制にする
    「地教行法体制とは、地方教育行政をめぐる首長・一般行政部局と教育委員会部局の主導権争い=確執が厳しい地方政治の対立によって潜在化した結 果、文部省(その背景には政権党)のサポートをえて組合への対応を色濃く有した教育委員会の学校管理施策が顕在化したものであったこと(地教行法の「特 例」的規定はそれを担保する行政手段であったし、当時から近年までの文部省における教育助成局地方課の重要な位置づけを想起のこと)、そうした厳しい政治 対立に対応したハードな文部省と教育委員会の権限関係を軸に、高度成長による国の財政拡大に支えられた負担金・補助金の叢生による漸進主義的な行政手法が 文部省と教育委員会の関連事業担当部局を直接結びつけ、かつ、その周囲に文部省と専門領域的な関係をもつさまざまな全国レベルの専門的職能団体の凝集と ネットワークを形成するものであった。」(小川正人「分権改革と地方教育行政」p.10)

    中卒無業者率が10%以上
    日経連「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」

    石原慎太郎『太陽の季節』〈太陽族〉
    「彼は真直ぐ学校のジムに行った。時間が早い所為か二三人の部員がいるだけで中はがらんとしている。彼は黙って着換えると練習場に出て行った。
 シャドウを終え、パンチングバッグを打ちながら竜哉はふと英子の言葉を思い出した。
 “――何故貴方は、もっと素直に愛することが出来ないの”
 その瞬間、跳ね廻るパンチングバッグの後ろに竜哉の幻覚は英子の笑顔を見た。彼は夢中でそれを殴りつけた。」(p.67)

    「抵抗だ、責任だ、モラルだと、他の奴等は勝手な御託を言うけれども、俺はそんなことは知っちゃいない。本当に自分のやりたいことをやるだけで精 一杯 だ。」(「処刑の部屋」のエピグラフ、『太陽の季節』p.134)

    「氏の独創は、おそらくさういふ生の青春を文壇に提供したことであらう。われわれは文学的に料理された青春しか知らないし、自分の青春もその真似 をして、のつけから料理してかかつてゐたのである。
 (…)
 しかし今のところ、氏は本当に走つてゐるというふよりは、半ばすべつてゐるのである。すべることは走るより楽だし、疲労も軽い。しかし自分がどこへ飛ん で行つてしまふかわからぬ危険もある。やつぱり着実に走つて、自分の脚が着実に感ずる疲労だけが、信頼するに足るものだといふことを、スポーツマンの氏は いづれ気づくにちがひない。」(「石原慎太郎氏」『決定版 三島由紀夫全集29』p.203、〈初出〉1956年)

    「石原氏はすべて知的なものに対する侮蔑の時代にひらいた。日本ではこれは来るべくして、一度も来なかつた時代である。戦前の軍部独裁時代は、知 的ならざる勢力が、知的なものを侮蔑した時代である。しかし石原氏のひらいた時代はこれとはちがつてゐる。それは知性の内乱ともいふべきもので、文学上の 自殺行為だが、これは文学が蘇るために、一度は経なければならない内乱であつて、不幸にして日本の近代文学は、かうした内乱の経験を持たなかつた。日本の 自然主義文学は、反理知主義といふよりは、肉慾の観念そのものが、輸入された知的観念であつて、自然主義文学は本質的に知的な点で、一種の啓蒙主義に類し てゐた。」(「石原慎太郎氏の諸作品」『決定版 三島由紀夫全集31』p.437、〈初出〉1960年)

    「ひたすら「張って行く肉体」に対する克己の信仰には、自ら行動の無意味を要請するものがあつて、この「本当に自分のやりたいことをや」らうとす る青年 は、自ら本当にやりたいことが何であるかを知らない状況に自分を置きつづけるから、最後に彼が縛られてあらゆる行動を剥奪される成行は、いかにも象徴的に 思はれるが、作者の書きたかつたことはおそらくその先にあつて、抵抗も責任もモラルも持たない行為が、肉体の苦痛の強烈な内的感覚に還元されるところに、 一篇の主題がこもつてゐる。なぜなら、肉体の苦痛の究極は、(彼が克己であつてもなくても)、知性の介入を厳然と拒むからである。そこまで主人公を持つて 行つた作者に私は興味を抱く。
 苦痛は厳密に肉体的なものである。克己が今まで求めて来た本当の「無意味」がここにあつて、どんな野放図な行動にも平然と無意味を見てゐた主人公が、自 分の置かれた究極の無意味の中に、意味を見出さうとするところでこの作品は終る。だからこの死苦は、彼自身の必然的帰結であり、彼が自ら求めたものなの だ。
 克己の言ひたいことは、肉体にはかうした自己放棄が可能であるのに、知性にはそれが不可能ではないか、といふ嘲笑的思想であろう。(…)かくてあらゆる 行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にもかかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗し うる力の根拠であり、又同時に行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。石原氏の共感が、いつも挫折する肉体的力、私刑される学 生、敗北する拳闘家へ向ふのは偶然ではない。」(p.443)

    Whyte, W. H., The organization man,Garden City, N.Y : Doubleday (岡部慶三[ほか]訳、1959、『組織のなかの人間 : オーガニゼーション・マン』、東京創元社)
    スターリン批判

    ハンガリー事件
    「一九五六年二月、ソ連共産党第二〇回大会において、後に共産党第一書記・首相(一九五八−六四年)に就任することになるニキータ・フルシチョフ は、いわ ゆる『フルシチョフ秘密報告』と呼ばれるスターリンへの批判をおこなった。それは、「スターリンという一人格に対する崇拝がいかに、やむことなく成長して きたかという問題」から出発し、その個人崇拝が「党の原則や党内民主主義や党内法秩序をきわめていちじるしくかつ乱暴にねじまげる一連の原因となったか」 (志水速雄訳)を暴露した。スターリン批判は「秘密報告」としてなされたにもかかわらず、その数ヵ月後、アメリカ国務省の手で全世界に公表される。「労働 者の祖国」としてユートピア視されていたソ連邦の輝ける指導者が、その後継者によって徹底的に批判されたのだから、その衝撃は非常なものであった。これ は、よく知られた世界史的な事実である。一九五三年のスターリンの死後、ソ連邦=フルシチョフは、世界資本主義のヘゲモニー国家・アメリカ合衆国に対する スターリン以来の冷戦戦略に代えて、「雪どけ」=「平和共存」路線を提唱していた。スターリン批判はその総決算でもあったと言える。
 しかし、このスターリン批判はフルシチョフ自身によって裏切られたと見なされる事件が、ただちに勃発する。スターリン批判がおこなわれたその年の六月、 ポーランドの工業都市ボズナンでの「騒乱」を皮切りに、一〇月にはいわゆる「ハンガリー事件」が勃発した。ポーランドの反乱はとにもかくにも一国内で収束 されたが、党(ハンガリー勤労者党)のスターリン主義的独裁に対する反乱と言いうるハンガリーの「民衆蜂起」に対して、ソ連は翌五七年までの二次にわたる 軍事介入をもって鎮圧した。フルシチョフのスターリン批判が全く内実を欠いたものであることが、かくも短い期間に白日のもとに暴露されてしまったのであ る。」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」試論』p.15-16)

    スパーク報告がベニス六カ国外相会議で採択される

1957年
    「新長期経済計画」

    キヤノン、「推進区制工程管理」を推薦対象項目の1つとして大河内生産記念賞を受賞。同じ月に、統計的品質管理研修を実施。
    「一九五〇年代後半以降、アメリカから導入された生産管理技術が日本の製造業に急速に普及していった。(…)
 このアメリカの生産管理技術の普及と並行して、わが国の生産技術者が戦時期の生産方式の「総仕上げ」と自負していた推進区制方式は急速に忘れ去られて いった。しかし、この推進区制方式が戦時期から戦争直後にかけて日本の生産技術者が、輸入知識に頼らず自前で形作った生産方式であり、この意味で日本の科 学的管理法運動の大きな成果であったということは、評価しておく必要がある。(…)後にTQCの名の下で品質管理運動が日本企業で展開されていったとき に、現場での小単位ごとにQCサークルを形成したことや工程での品質のつくり込みなどのアイデアが、それほど抵抗にもあわず普及していったことなどは、戦 時期から現場で作業区、機械区などと呼ばれる小規模の管理単位を配置してきたことと整合的だったとも考えられるのである。戦後の一時期、推進区制が多くの 製造企業で採用されたことは、わが国における工程管理技術の成果を製造企業が吸収する点で大きな意義があったのである。」(山崎広明ほか『「日本的」経営 の連続と断絶』p.149-150)

    教師の勤務評定の実施(十月、愛媛県が発端)、勤評闘争のはじまり
    スプートニク・ショック
    東京の城南中学校が偏差値を進路指導に利用
    ロバート・ノイスを中心にフェアチャイルド・セミコンダクタ社設立

1958年
    学習指導要領の復活、「進路指導」という概念の登場。教科書検定の強化
    「そしてこの時期に教育界に少なからぬインパクトを与えたのが、一九五八年の小・中学校学習指導要領の全面的改訂であった。この改訂は、小・中学 校の教育課程への「道徳」の特設や、それまで「試案」として示されていたものが、「文部省告示」として『官報』によって告示されたことなど、戦後の教育行 政・政策史において一つの大きな転機をなすものであったが、それにも増して、一九五〇年代後半以来の、「技術革新」および「科学技術教育振興」という財 界・産業界の教育要求を大幅に反映したものであった点を見逃すことはできない。なかでも、中学校の教育課程において、従来の「職業・家庭科」を「技術・家 庭科」に再編した改訂は、その直接の現れであった。また、この改訂は、日経連「科学技術教育振興に関する意見」(一九五七年十二月)以来の、「生徒の進 路・特性に応ずる教育」という観点を強く打ち出したものでもあった。具体的には、中学三年次の選択教科(外国語、数学、職業に関する教科、音楽・美術)の 編成について、結果的に「進学組」と「就職組」のコース分けを促進・助長する指示を与え、さらに従来の「職業指導」を「進路指導」と改称したうえで、その 活動領域を「特別教育活動」のなかの「学級活動」に位置付け、時間配分の基準をも明示した。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.164-165)

    職業訓練法
    安定局内に職業訓練部できる

    「団地族」という言葉を「週刊朝日」が初めて使う

    ドル危機の顕在化、アメリカと西欧・日本との間の生産性格差の縮小
    アメリカ、国防教育法
    モータウン=レコード設立

1959年
    三池闘争(〜60年)

1960年
    安保闘争
    経済審議会答申「国民所得倍増計画」

    日経連「賃金白書」
    「このように、職務給化への以降に際しては、従来の年功的体系・秩序との間の折り合いをどうつけるかが、大きな問題となった。そうした中で職能給 制度が、 一九六〇年前後より、まずは、年功給体系から職務給体系への「移行形態の一つ*」として注目されはじめる。職務給がアメリカをモデルとしたものであったの に対して、職能給はほかにモデルがなく、「日本特有のもの」といわれている。
 *日経連は一九六〇年賃金白書において、職務給への漸進的移行形態として六つのモデルを示している。そのうちの四つは「仕事中心に職務の分析評価を行な うもの」すなわち職務給形態で、その中になんらかのかたちで年功的原理を組み込んだものであるが、残りの二つは「職務遂行能力中心に能力考課を行なうも の」すなわち職能給形態であった。なおそれ以前の日経連モデルには、職能給形態は含まれておらず、職能給形態が移行モデルとして登場したのはこの年が初め てである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.101)

    企業の採用活動の早期化が社会問題化
    大学新聞広告社(現:リクルート)創業 「大学ニュース」創刊
    高校学習指導要領改訂、学習指導要領の法的拘束性うたう
    高校進学率 58%
    サンリオ、ソーシャル・コミュニケーション・ビジネスの確立をめざし設立(当時:株式会社山梨シルクセンター)

    社会党委員長・浅沼稲次郎、元大日本愛国党員・山口二矢(おとや)に刺殺される
    「やがて二矢の暗い苛立ちは「反共」の装いをもつに至る。それは、昭和三十年代前半という、日本全体が一種の「政治の季節」の到来に浮き足立つよ うになっていたことと無関係ではなかった。
 中学時代のことだ。社会科の教師があまりソ連を礼賛するので、
「ソ連には自由がなく、反対する人は殺されることがあるらしい」
と二矢が反駁すると、教師は、
「いや、ソ連にも自由はある」
と強圧的にいった。
 そこで激しい言い合いになったが、ついに、「あるといったら、あるんだ!」と怒鳴ることで、その教師は論議を終わらせようとした。
 (…)
 彼には「強いもの、流行するもの」に対する反撥心が強かった。彼にとっては左翼こそが強者であり、流行に便乗するもの、と映っていく。」(沢木耕太郎 『テロルの決算』p.53-54)

1961年
    中学二・三年生全員を対象にした「全国一斉学力テスト」始まる。都市出身の「新興中間層」に「教育ママ」が出現(1920年から30年出生 コーホート)
「このように八幡製鉄の場合、五〇年代前半の不況による採用停止時期をはさんで、五〇年代後半の高度成長と技術革新の同時進行の中で、ブルーカラー労働者 の採用が高卒に切り替えられることとはほぼ並行して新規学卒定期採用方式が成立していった。そして六〇年代前半の労働力需給の逼迫が、とにかく新卒時(四 月一日)に「取りあえず優秀な人材を大量に確保する」というかたちでその傾向を促進し、六〇年代後半には田中の定式化したような新規学卒定期採用方式が確 立・定着したといえる。
 その際注目すべきことは、ブルーカラー労働者採用の中卒か高卒への切り替えは、全体的には六〇年代半ばといわれている中で、八幡製鉄(技術的条件から いってこれは八幡だけでなく日本の鉄鋼産業全体であろうが)が五〇年代半ばすぎにはすでに切り替えを行っていたこと、そして、新規学卒採用の方式が、それ とほぼ同時に始まっていることである。「日本的雇用」の中での新規学卒定期採用慣行は、いうまでもなく終身雇用制を前提とした採用方式である。しかし、六 〇年代を通して中卒者の職場への定着率は非常に低下している。この期間、高卒者の離職率はもちろん上昇しているが、中卒者のそれは高卒者を数倍も上回るも のであった。そのことを考えれば、ブルーカラー労働者をも含めた終身雇用制を前提とした新規学卒定期採用方式が確立・定着することと、採用対象をある程度 の職場定着の見込まれる高卒者以上に切り替えることとは、少なからぬ関係があったと思われる。
 さらに、そこで個別具体的な職業資格・能力を重視しないということが、その反面で一般的学力重視という形態を生み出すこととなったことも、重要なポイン トであろう。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.160-161)

    高等専門学校制度が設けられる
    配偶者控除制度はじまる、核家族の増加
    農業基本法制定、農業構造改善事業はじまる

    トヨタ、TQC(全社的品質管理)導入
     「(…)戦後、日本企業はアメリカのSQC(統計的品質管理:引用者注)を吸収したが、その後、独自にTQCを発達させてきた。TQCの特徴 は、品質管理専門部署のみならず全階層の社員および全部門の参加を指向する「全社的活動」であること、および、現状維持より継続的改善のプロセスを重視す ることだ。このほか、「QCサークル活動」(品質管理・改善のための小集団活動)、「方針管理」(トップダウン的な目標・施策の展開)、定型的な統計手法 (QC七つ道具)や問題解決手順(QCストーリー)の現場での活用、教育・訓練の重視、企業横断的なTQC普及組織(日本科学技術連盟など)、「デミング 賞」を頂点とする表彰制度などが挙げられる。いずれも、「全員参加・改善指向」というTQCの基本に深く結びついた仕かけである。」(藤本隆宏『能力構築 競争 日本の自動車産業はなぜ強いのか』p.301〜302)

    「デミングはその生涯を通じて、アメリカではほとんど知られることなく、自分の国では名誉なき予言者にとどまった。しかしその一方で、彼は第二次 産業革命、すなわち西洋に対する東アジアの挑戦においては、最も重要な人物の一人となったのである。彼は日本人に対し、日本の最も優れた資源、すなわち人 的資本を、最大限に活用できるシステムを授けたということで、他のだれより大きな貢献を果たした、品質を管理するために彼が教えたのは、数学的思考から割 り出した一連の実務訓練で、日本人の気風、伝統に合った集団参加という方法がとられた。要は生産ラインにのって作られる製品を、数学を利用して、できるだ け製品ムラをなくすよう品質管理することなのである。
 デミングと、もう一人のアメリカ人の品質管理の権威者だったジョセフ・ジュランが、日本人に言っていたことは、品質というものは、最下級にいる労働者を 一〜二回の授業に出したり、数人の監視員を配置するくらいで、簡単に達成できるわけではないということだった。本当の品質向上には、経営トップに始まる組 織全体の参加が必要不可欠だった。もし、トップマネジメントが品質問題に関与していたら、そして管理職への昇進も品質に結びついていたなら、自分の仕事と してまず何を優先すべきなのかが、中間管理職から初級管理職にいたるまで浸透していき、ひいては労働者レベルまでその考え方が必然的に伝わるはずである。 (…)」(デイビッド・ハルバースタム『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史』p.528)

    「日本的な品質管理論の代表的な人物は、東京大学にいた石川馨氏やトヨタの大野耐一氏などですが、彼らの書いているものを丹念に読んでみますと、 結局こういうことになる。
 連合軍がやってきて、アメリカの最新の品質管理手法を教えてくれたが、それは役に立たなかった。アメリカの品質管理手法は統計的管理手法(SQC)で、 管理図を書いたり、抜き取り検査を行なったりが手法の主な内容です。それは、製造が終わった段階での製品についての品質検査が中心で、それを行うのは専門 的な検査部門の要員です。しかし、こうした品質管理の体制はコストがかかるうえ、品質が製造工程から抜本的に改善されるインパクトは弱い。そこで、資本力 の弱い日本の場合、コストの徹底的な削減という観点から、品質管理の手法を変えざるをえなくなった。つまり、最終製品の検査そのものを不用にするやりかた です。生産現場の労働者にQC責任を担わせ、製造工程のレベルで不良品が発生しない仕組みをつくっていく体制です。そして、さらに特定の部門だけに任せず に、製品の設計、開発、製造、販売まで全社的な品質管理を行なう体制がめざされます。」(基礎経済研究所編『日本型企業社会の構造』p.240-241)

    前年の浅沼稲次郎刺殺を受け、大江健三郎「セブンティーン」、文学界1月号、2月号に発表
    「おれだって、少し煩いくらいおれの問題に介入してきてもらいたいと感じることがあるのだ、今のようなのはアメリカ風か自由主義流かしらないが、 父親でな くて他人みたいなものなのだ。おれの父親は学歴がなくてずいぶん多くの職業につき苦労して独学した、そして検定試験に合格してから今の位置につけたのだ、 そのためにできるだけ他人とかかずりあわずに今の地位をまもってゆこうとしているのだ。他人からあやうくされたり他人のマキゾエをくったりして、また苦し い下積生活をおくるのが怖いのだ。その護身本能の鎧を息子の前でも脱がない、裸になって威厳をそこねないように、感情を表にださないでいつも無責任で冷た い批評ばかりしているのだ。今もその父親のアメリカ風の自由主義の最も代表的な態度をとっているつもりなのだろう……」(新潮日本文学64『大江健三郎 集』p.392)

    「おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは強烈なオルガスムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、お お、天皇 陛下!燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお!やがてヒステリー質の視覚異常から回復したおれの眼は、娘の頬に涙のようにおれの精液がとび散って光っ ているのを見た、おれは自涜後の失望感どころか昂然とした喜びにひたり、再び皇道派の制服を着るまでこの奴隷娘に一言も話しかけなかった。それは正しい態 度だった。この夜のおれの得た教訓は三つだ、《右》少年おれが完全に他人どもの眼を克服したこと、《右》少年おれが弱い他人どもにたいしていかなる残虐の 権利をも持つこと、そして《右》少年おれが天皇陛下の子であることだ。」(p.419)

1962年
    高校全員入学問題全国協議会結成。総評、日教組、母親大会、日本子どもを守る会など17団体が参加
    「運動は制度理念として「高校三原則」(小学区制・男女共学・総合制)をかかげ、文部省の「適格者主義」による進学抑制と「多様化政策」に対抗し た。そのなかでとくに教育課程分化にかかわっては、理念的には「総合制」が提起されたが、むしろ実際に各地で要求としてかかげられたのは、普通高校の増設 だった。運動は、教育運動史上かつてない父母と世論の支持を背景に、各地で多くの普通高校を増設させるとともに、さらに職業化の普通科転換が追求された。 その結果、多様化の進行は押しとどめられ、六〇年代末以降は、生徒数に占める普通科の割合ではさらに増加に転じていった。」(乾彰夫「進路選択とアイデン ティティの形成」p.217-218)

    暉峻康隆「女子学生亡国論」
    文部省『教育白書 日本の成長と教育』

    全国総合開発計画制定
    「1962年に制定された全国総合開発計画(全総)は、このような開発=成長戦略を、拠点開発という形でいっそう強く貫徹したものである。空間的 にみると、成長の極(growth pole)として全国に新産業都市(新産都市)を建設し、集中的に資源配分を行って、そこからの波及効果で周辺の経済を発展させることが唱えられた。諸資 源の適切な空間的配分によって、都市の過大化防止と国土の経済的不均等縮小を図ることが主張された。
(…)
 こうした工業化は、同時に大都市圏の都市化も著しく進めた。とくに池田勇人内閣期における、フォーディズム的な大量生産・大量消費の実現を通じ、都市圏 レ ベルの空間スケールにおいて、官民双方によるニュータウンの建設、大量の集合住宅の供給、市街地改造が行われ、都市化は一挙に戦前レベルを越え、かつての 規模をはるかに凌駕する形で実現されていった。」(水岡不二雄『経済・社会の地理学』p.235-236)

    サラ金(サラリーマン金融)が浜田武雄(レイク元会長)によって始められる
    「「当時、公団住宅の団地に入れるというのは一定のレベル以上の階層で、その意味では公団がしっかりと資格審査をしてくれているわけでしてね。そ れに団地 に入るのは大変な倍率だったから、よほどのことがない限り出ていかない。だから取りっぱぐれがない。担保を取らなくったって意外に大丈夫なのですよ」
 つまり“団地に入っている”ということ自体が担保になったわけだ。ところが、浜田は一九六二年に大阪で、今度は一般サラリーマン相手の融資、つまりサラ 金を始めているのである。“団地”という担保もなしで、なぜ融資に踏み切れたのか。
「実は、担保はあるんですよ。“恥”という担保、そして“人生”という担保です」
 浜田は微笑していった。
「たとえば大学を卒業するまでに、当時でも百万円以上のカネがかかっている。しかもちゃんとした会社に入って、順風満帆の出発をしたサラリーマンが簡単に 人生を棒に振るわけがない。逆にいえば、人生を棒に振りたくないという金額しか貸さない。ここが金融業の一番大事なところでして……。私たちは、“人生” のもっと手前、『サラ金に借りたカネを返さなくて催促されると会社の周りの連中に恥ずかしい、そんな思いをするより返したほうがいい』という“恥”を担保 にスタートしたのですよ」」(田原総一郎『「円」を操った男たち』p.168-169)

    ケネディ大統領、インフレの主要な原因として、恒例となっていた鉄鋼価格の値上げ発表を撤回させる

1963年
    経済審議会答申「経済発展における人的能力開発の課題と対策」(六三答申)
    「六〇年代当初、労働力をめぐっては次のような諸問題がよこたわっていた。
 まず第一に量的な問題である。たとえば「国民所得倍増計画」は、計画期間中の非第一次産業雇用者の需要増を一九六九万人と見込み、新規学卒者による充足 だけでは二六六万人の不足が生ずるとした。さらに、戦後ベビーブーム世代による新規学卒増がピークをこす六五年以降は全般的な若年労働力不足に見舞われる であろうと予測した。この点、たとえば一九五七年の「新長期経済計画」が、農村に滞留する多数の潜在的失業人口の問題を背景に、計画策定の第一の意義の 「生産年齢人口の高い増加率に対応した雇用機会の増加をはかること」としていた状況認識からは大きく変化している。
 第二には質的問題である。一九五〇年代後半以降の技術革新の流れは、それ以前の経験的熟練に頼った生産方式を一変させ、機械化オートメーション化に対応 する技術労働・半熟練労働への需要を大きく生みだした。その結果、企業内部では、新しい技術・技能に柔軟に対応できる若年層を中心とした労働力需要を著し く増大させつつ、他方で旧技能労働力(中高年層)が過剰になるという労働力構成の質的アンバランス問題を抱えることとなった。さらに、このような労働力構 成の質的転換をはかるための養成訓練については、新しい技術そのものが輸入技術であることや、戦前以来技能養成・訓練の体系的制度が社会的に未確立であっ たことなどから、明確な見通しを欠いていた。
 さらに第三に、労務管理秩序・経営秩序の問題である。技術革新にともなう労働力構成の質的転換は、経験的熟練という生産技術・技能やこれまた経験にもと づく作業管理能力という生産方面での役割を土台に形成・維持されてきた年功的職場秩序や、これを基礎につくられていた企業の労務管理秩序・経営秩序を、大 きく脅かす可能性を秘めていた。したがって、技術革新にともなって、労務管理秩序・経営秩序をどのように再編するかは、各企業にとっては、一・二に劣らず 重大な問題だった。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.41-42)

    「さて、以上のような二つの論理をもって、人的能力開発政策が描こうとしたのは、どのような社会像だったのだろうか。それは結局、ヨーロッパ・ア メリカ型 の近代社会をモデルとした、多元的能力主義社会だったといえる。(…)
 具体的には、労働力について、その活用、養成、移動、生活といった各機能・場面ごとに、企業の労務・人事管理(活用)、学校および社会的養成訓練制度 (養成)、労働市場(移動)、公共・福祉(生活)等がそれらに対応する各制度として構想された。そしてまず活用面での企業の経営秩序としては、労働者は職 務ごとにその職務に必要な具体的労働能力やそれを社会的客観的に証明する資格を持つものが雇用・配置され、職務ごと一律に決定された賃金が支払われるとと もに、職場の人的秩序は、職務ごとの重要度・困難度などをもとにつくられた職務序列、すなわちそこで発揮されるべき能力秩序にしたがって秩序づけられるも のとされた。次に労働力移動面では、職種別の横断的労働市場の形成が目標とされ、それを通して各労働力は、職種ごと・水準(資格・経験等)ごとに社会的に 標準化された価格評価を受けるとともに、近代化された企業からの職種別・水準別の労働力需要に対応するものとされた。そしてそのことによって企業間・産業 間の労働力移動は円滑化すると考えられた。さらに養成面については、労働力養成機能の主たる部分は、職種ごとの横断的労働市場と結びつきながら、その需要 に応じて具体的な――つまりここの職業技能・技術ごとの――労働力養成を行うものとされた。そして後期中等教育が、この個別的な職業技能養成制度の一環に 位置づけられたのである。」(p.70-71)

    教科書無償法
    三菱樹脂事件
    「カギっ子」「三ちゃん農業」が流行語
    中学校の職業・家庭科が廃止され、女子が家庭科、男子が技術科となる
    「OL」という言葉が登場。それまでの「BG」が売春婦にとられるということで『女性自身』が代案を募集した。

    新住宅市街地開発法
    「郊外化は、この大衆消費社会独特の男女の性別役割(ジェンダー)をさらに強化する。なぜなら、郊外化は、仕事は都心、家庭は郊外という形で職住 を分離する。そしてその分離がそのまま男女の役割意識と結びつき、男は都心で仕事に従事し、女は郊外で家事・育児・消費を担当するというライフスタイルを 完成させるからである。地図(132・133ページ)で見るように、郊外ほど専業主婦率は高いのである。」(三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史 郊外の 夢と現実』p.130-131)

    「日本のニュータウンは、職住を近接させて都市の人口を分散させるものであるより、大都市圏へ通勤するひとびとのための巨大住宅地であり、建設当 初は交通網の整備が不完全だったため通勤に困難が生じ、交通網が完成すると都心への通勤ラッシュを激化させる方向に進んだ。彼らは、故郷をもたず、彼らの 住む新しい町を故郷にしようとも思わない、きわめて不安定な住民の集団として出発した。戦後日本に建設されていった多くの新都市は、多かれ少なかれ故郷喪 失風のデザインと住民たちによって満たされてきたのである。」(鈴木博之『都市へ』p.369-370)

    ケネディ暗殺

    Myrdal, G., 1962, 1963 “Challenge to affluence”, Pantheon Bks.(=G・ミュルダール/小原敬士・池田豊訳19640630『豊かさへの挑戦』竹内書店)
    「いちばん由々しいことは、いまや目にみえて失業が増える傾向にあることである。現在の平均水準は、四〇年代や五〇年代の初期よりもずっと高い。 このような失業の上昇傾向とともに、失業者の失職期間がますますながくなる傾向がおこる。ますます多くの青年がどうしても職にありつけず、ますます多くの 老齢労働者が失業したり、職探しを止めたりしている。最近の「小景気」中の失業者数の動きと、この傾向の背後にある因果機構の研究とは、両方ともつぎに論 ずるような抜本的施策が講ぜられないかぎり、その傾向がつづく可能性があることを示している。
 公然たる失業者のほかに「就職不可能者」と、さらにいっそう多数の「不完全雇用者」、すなわちその生産性と賃金が異常に低い状態のままにおかれている労 働者を追加しなければならない。このなかには、術語的な意味では失業していなくても、貧困であるすべてのひとがふくまれている。われわれは、このような いっそうひろい問題を、つぎの章でとりあげるであろうが、そこでは、相対的な経済停滞や高率失業の社会的影響や、またとくにいっそう永久的な失業者、就職 不可能者および不完全雇用者などの「下積み階級」(under-class)によってつくりだされたアメリカの階級構造の硬直化が問題とされる。本章で は、われわれはさらにせまい意味の失業によって提起される経済問題だけにとどめるつもりである。」(p.29)

    「一般的にいって、技術的変革が雇用に及ぼすもっとも重大な影響は、それは労働需要の方向転換を意味するということである。不熟練労働はますます 需要が減る。かつては、割合に安定していて給料が高い雇用とそれに相応する社会的地位が保証していたある種の技能でも古臭いものになりつつある。このこと は、経験を積んだ労働者の失業統計が、なぜ失業総数よりもいちじるしく低い成長率を示さないかという理由を説明している。農業労働者は生産的労働の機会が とくにはげしく減少することを覚悟しなければならない。 一般に、労働需要は、ますます教育と訓練をうけたひとびと、ことに都会で働いている高度の教育と訓練をうけたひとびとに向けられる。このような効果は、新 規の労働者を採用するばあいの手続きを形式化することによっても達成される。とくに大企業では、学歴、試問、知能検査点数、面接の好印象といったようなも のが、通常の意味の職業上の技能よりもずっと大きくものをいう。したがって、失業の発生率は、社会的経済的理由や、住居の位置の関係から、あまり教育や訓 練をうけていないひととか、あるいはまた、家族農業をやっているひとのようにますます労働がいらなくなっている産業にしがみついているひとのあいだでもっ とも高くなる傾向がある。
 労働需要と労働供給とのあいだの構造的な隔差が、このようにしてつくりだされる。それは、多くの失業と同時に、多くの残業がおこなわれているという事実 によって証明される。残業は教育や訓練をうけたものに集中し、失業はあまり教育や訓練をうけていないか、あるいはまたその技能がもはや不必要になったひと びとに集中する。」(p.30-31)

1964年
    学校教育法改正、短期大学制度の恒久化
    IMF八条国への移行
    ILO「雇用政策に関する条約と勧告」
    OECD「積極的雇用政策の勧告」

    東京オリンピック
    「一九六四年の東京オリンピックで、全競技データのオンライン・リアルタイム処理をIBMのコンピューターで行うことになり、そのためにプログラ ムが組まれることとなった。そのプログラムは、それまでにない大きなものになることが分かっており、しかもオリンピックの開催時期は決まっていて、残る日 数はいくらもない。そこでそのプログラム作成をこれまでのソフトウェア業界の慣習に任せて、「職人的」あるいは「手作り」で作っていたのでは対応できない と判断した管理側は、IBM本社の指導を得て工場生産方式を取り入れ、プログラミングの管理体制を強化することにした。これが日本におけるソフトウェア工 業化の最初の大規模実施例である。
 その方法は、大勢の人間によって同時並行してプログラムを作るという手段であった。(…)
 こうしてソフトウェア生産は、工場での生産形態と同じように流れ作業式になっていった。こうなると、コンベアライン労働でしばしば問題となった、ひとり の労働者が自己の労働の意義を勤労の中で見いだしにくいという労働疎外の問題が、ソフトウェア開発技術者の間にも発生することとなる。一九七〇年代後半か ら一九八〇年代にかけて、ことに中堅ソフトウェア開発会社の低い職階の技術者たちにその訴えが多かった。」(森清『ハイテク社会と労働 何が起きている か』p.158-159)

    新幹線・首都高速道路開通
    「また、一九六四年(昭和39)十月に開通した東海道新幹線も、海軍の航空技術を活用して完成させたものであった。この超特急列車の開通までの経 緯をみておこう。「弾丸列車計画」は、日中戦争が始まってから、大陸への輸送力増強のために東京―下関間を九時間で結ぶという計画としてスタートしてい た。この計画は、太平洋戦争の進展で立ち消えとなったが、昭和三十年代に入って東海道本線の輸送が行きづまるようになり、再び浮上する。当時は鉄道斜陽が ささやかれ始めていたが、戦前から「弾丸列車計画」に深く携わってきた十川信二国鉄総裁、島秀雄国鉄技師長が中心となって、この計画は再び実現へ向けて推 し進められるようになった。(…)」(猪木武徳『学校と工場』p.101-102)

    通産省企業局「労働力不足の影響と対策」
    国連貿易開発会議
    トンキン湾事件、ベトナム戦争勃発

1965年
    日韓国交正常化
    高校進学率が70%を超える

    戦後ベビーブーム世代による新規学卒増のピーク
    「教師や教育学者たちの目から見れば、文部省の教員統制や受験競争の激化により、教師の自由な教育実践が不可能になり、高校受験への対応に終われ るように なった60年代は、中学校教育が差別・選別教育へと再編成されていっていると映ったかもしれない。しかし、教育を受ける側からすれば、貧しく停滞した旧来 の生き方とは別の可能性が、進学によって開けてくるという意味で、この変化は、新たな人生への可能性の広がりを意味していた。受験勉強はたとえ苦しくと も、明るく希望に満ちあふれたものであった。
 (…)
 学校が果たしたのは、進学のための学力をつけさせることだけではなかった。進学先の選定や就職の世話のような面でも、親たちには担えない役割を教師は子 供たちに対して果たすことになった。進学の相談にのってやり、学校に来る求人を紹介してやり、高校や会社をまわって卒業する教え子を売り込んでいく。ま た、就職のために集団で上京する子供たちには付き添って行ってやる――。
 (…)
 解体しつつある地域共同体、急激な社会変化にとまどう「遅れた」家族、親世代とは異なる生き方を余儀なくされる子供たち――それらを相手にしながら学 校・教師がやるべきことは山ほどあった。新しい社会の中でうまくやっていく機会と知識や技術とを子供たちに提供することで、学校は親からも子供たちからも 信頼と支持を得ることができた。いうなれば〈学校の黄金期〉であった。」(広田照幸『日本人のしつけは衰退したか 「教育する家族」のゆくえ』p.108 -110)

    日経連、一時的景気後退に対して「日本的レイオフ制度」を提案
    「たとえば中高年層の流動化と若年層の定着化という点では、六五年の一時的景気後退期に、日経連などは「日本的レイオフ制度」の提案を行なうが、 その際こ れが「日本的」と名づけられたことの意味は、アメリカの制度が先任権制にもとづき若年者から解雇を始めるのに対して、相対的低賃金でかつ適応力の高い若年 層は残し中高年層から先に解雇できるような制度を、ということであった。これは総資本的立場からの提案であるが、ここでも、中高年層と若年層との関係につ いての配慮が強く働いていたことがわかる。
 しかも問題は、流動化政策を推進したとき、そのような動きが実際にまず始まったのは、企業の期待する中高年層からではなく、若年層からであった。これは 当 然の結果といえる。年功的秩序になれ親しんだうえ、生活を抱え、しかも求人状況も悪い中高年にとって、容易に流動化を受け入れることはできない。逆に、需 要も大きく、しかも身軽な若年層にとっては、会社が気に食わなければほとんどリスクを負うことなく転職することができた。そのため新卒採用者の定着率は六 〇年代を通して、ほぼ一貫して急速に低下していった*。
 *たとえば労働省労働市場センターの中卒者調査では、一九六五年三月卒業者の卒業後三年間の離職率は合計五二・二五パーセントである。 したがって、各企業の態度が流動化に傾くか、それとも定着化に傾くかは、中高年層の輩出と若年層の定着確保との、どちらの圧力が高くなるかで、容易に逆転 する状況にあったといえる。そして六〇年代半ば頃にはすでに、定着化を必要とする現場の圧力は相当に高まっていた。
(…)
 また、新入社員の職場定着化のため、採用後一定期間、公私にわたりマンツーマンで世話・指導する職場指導員制度や世話係制度などが、各企業に普及した。 た とえば、住友金属和歌山製鉄所の世話係制度は次のようになっていた。世話係に任命されるのは、二五〜三〇歳程度の現場の先輩格で、任命されるとまず、現場 教育に必要な安全知識から政治、経済までの分野の特別教育を二週間ほど受ける。その後教育課での五〜八日程度の入門教育を受けた新入社員を引き継ぎ、三か 月間にわたり、マンツーマンで指導をおこなう。そして指導機関終了後に指導報告を担当上司に提出する。この制度の目的は、@新入社員の気持ちを安定させ、 A職業意欲を持たせ、B正しい企業イメージを与えて、C将来への基礎をつくることとされている。(…)そしてこの制度の効果として、@会社、仕事に早くな れる、A職場での連帯感が強まる、B企業意識が強くなり、責任感がわいて労働意欲が向上する、などがあげられている。
(…)
 こうして、定着化が労務管理の切迫した要求となったとき、勤続年数の長さそれ自体を評価する処遇制度である年功制・終身雇用制的システムの再評価が起 こっ てくるのも必然であった。職能給制度が、職務給化への過渡的形態という位置づけを離れて、独自の原理として承認されるに至った有力な物質的根拠がここに あったといってよい。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.116-119)

    「大東によれば,1960年代に入ると「労働力不足」の意識が中小企業の間で強まり,それは65年の不況を境に大企業にも波及していった.ところ で,所要の労働力の調達が困難となった場合,経営を縮小するという方途をとらないとすれば、企業が行いうる方策は必要労働量を削減するか,新たな労働力の 供給源を開発するかのいずれしかない.60年代,とくにその後半にはこの両面からあらゆる対策が動員され,機械による労働の代替,管理体制の強化,そして 採用基準の緩和が一斉に進展した.そのため,「意識された需給のギャップは事後的にほどなく均衡していた」という.要するに,労働省が強い懸念を表明して いた労働力不足の問題は,これを深刻にうけとめた企業の自律的な行動を介して,市場メカニズムの原則にもとづいて比較的短期間に克服されたのである.」 (苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.234)

    「これらの叙述からは「景気変動の調整弁」,「景気後退時のバッファー」としての臨時工はもはや存在しえなくなり,事実上(あるいは名目でも)試 用工に変質していること,そのため雇用のフレクシビリティを確保する新たな手だてとして,質の低下を覚悟のうえでパートタイマーや季節工の活用が急速に高 まっていることを読み取ることができよう.先に参照した大東の議論を援用するならば,65年の不況を境に「採用基準の緩和」が一斉に進展したのである.そ れだけではない.こうした臨時工からパートタイマーへという流れは,――電気産業や自動車産業の項に叙述されているように――同時に定期採用の比重の拡大 をともなっていたことが重要である.ところで,この時期の定期採用については,既述のように中卒から高卒へという注目すべき変化が生じていた.」(苅谷ほ か『学校・職安と労働市場』p.249)

    「QCの森を探索していると、この「自主管理活動」が克服しようとする労働者像というものがくっきりと浮かび上がってくる。
 克服すべき労働者像のひとつの側面は、要するに消極的な労働観である。労働そのものには生きがいを求めず、仕事を単に収入を得る手段とみなし、その遂行 においてはできるだけ精神的、肉体的エネルギーの支出を抑制しようとする、いわゆる手段主義(Instrumentalism)が挑戦の対象である。QC 活動は、「やる気」になって工夫しさえすれば、仕事はどんな種類のものでも楽しい営みになるはずだと鼓吹する。
 克服すべき労働者像のいまひとつの側面、それは「職場のなかまのことを気にしない」「個人主義」である。分業と協業の生産システムの下では、一人の労働 者の働きぶりの成否が職場のなかまの労苦に直接的な影響をあたえる。仕事のしやすさは、それゆえ、職場の人間関係のありように大きく左右されるだろう。と くにひとつの職場に定着しようとすれば協同のなかまへの義理立てというものが不可欠でさえあることを、労働者は実感せざるをえない。QC活動はこの意味で の「集団主義」の意義を労働者に再確認させて、職場を一人ひとりで生計費を稼ぐための便宜の場とみる考えかたを克服しようとするのである。
 一九六〇年代半ば以降には、日本の企業社会にも、この二つの側面のいずれかまたはいずれも備えた「否定的労働者像」が、一定の規模で台頭していた。推進 されてきた設備革新による労働の変化の結果である。端的にいえば、職務構造はより上薄下厚のかたちになった。すなわち知識や経験を必要とする「やりがいの ある」仕事が相対的に少なくなり、それらを必要としない「おもしろくない」仕事が相対的に多くなった。また多くの労働が、なかまの汗のにおう協同作業か ら、一人ひとりが巨大な装置に孤独に向きあうような営みに変わった。このような生産点の状況に、職務構造の「下厚」の部分を担う膨大なマンパワーをともか くも必要とせざるをえない経営規模拡大の局面が加われば、ここに「否定的労働者像」が台頭するのは当然であろう。具体的には、仕事には後向きで家庭の幸福 のために企業内保障だけを求める中高年齢労働者、どの仕事にもどの職場にもふかく自己を没入することを避ける青年労働者、あるいはさまざまの意味で企業に 部分的にのみかかわる主婦パートタイマーなどが層としてあらわれたのである。」(熊沢誠『新編 日本の労働者像』p.167-169)

    高卒者の中には自宅待機も

    小島信夫『抱擁家族』
    「花が受精するとき、何か歓喜があるのだろうか。男と女がしっかりと抱き合うような感覚があるのだろうか。きっとあるだろう、と俊介は嫉妬をかん じながら、思った。
 いや、土くれや石にも、何か充実した歓喜があるにちがいない。それならば、さっき寝返りをうったあの時子と自分とは、いったい何ものだろう。この自分は 何ものだろう。  カメの中に水があった。水がなぜ気にかかるのだろう。なぜカメの中の、とるにたらぬ水が、そこに在る、そこに在ると思えるのだろう。」

    「俊介はこのとき自分の中に変化がおこっていることに気がついた。
 彼の視線は時子の首筋あたりと、それから組んだ脚に注がれていた。彼は静かな口調でそういったが、落着いているわけではなかった。好奇心をそそる首筋も 脚も、その若者の入念な愛撫をうけたのだ、ほんとに計画的だったのかもしれない、と俊介は思った。しかしそれを憤るよりも、そこにひとりの女がいるという ことのまぶしさに圧倒されていた。
 この女は彼がいま感じている眩しさを、自分でも認めたいと思い、ひとにも認められたいと長い間思ってきたのだろうか。彼はそれを拒否してきた。眩しいと 思わず滑稽だと思ったのだろうか。だから、顔をそむけてきたのだろうか。なぜ滑稽と思わねばならなかったのだろうか。いや、俊介が滑稽だと思うときに、実 は彼は時子を眩しいと思って、愛着をかんじていたのだろうか。
 俊介は時子の血管の中の血の流れから、それが皮膚にもたせるつやから、しぼんだり開いたりするマツ毛の動きから、首筋から肩へ流れる骨組から、ゼイ肉を 適度につけて二つか三つのヒダを作っている下腹部から心持ち大きさの違う二つの乳房から、しっかりした足をもった比較的長い脚などを造物主のような気持で 眺め、自分の手を離れて独り立ちした人間の重さにおどろいた。この状態から早く逃れたいと俊介は思った。
(家の中をたてなおさなければならない)」

1966年
    いざなぎ景気(〜70年)
    東京都による学校群制度の導入

    中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」
    「期待される人間像」(別記)
    http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chuuou/toushin/661001.htm#3

    「現在わが国の教育は,世界に注目されるほどの発展をみるにいたっているが,他面,上述のような要請にこたえて後期中等教育の拡充整備を推進する ためには,わが国の教育界と一般社会とにしばしば見受けられるかたよった考え方を改める努力が必要である。すなわち,学校中心の教育観にとらわれて,社会 の諸領域における一生を通じての教育という観点を見失ったり,学歴という形式的な資格を偏重したりすることをやめなければならない。職業に対して偏見をも ち,人間の知的能力ばかりを重視して,技能的な職業を低く見たり,そのための教育訓練を軽視したりする傾向を改めなければならない。また,上級学校への進 学をめざす教育を重視するあまり,個人の適性・能力の自由な発現を妨げて教育の画一化をまねくことは,民主主義の理念に反するばかりでなく,個人にとって も社会にとっても大きな不幸であることを,深く反省しなければならない。」

    「期待される人間像
     ま え が き
 この「期待される人間像」は,「第1部 当面する日本人の課題」と「第2部 日本人にとくに期待されるもの」から成っている。
 この「期待される人間像」は,「第1 後期中等教育の理念」の「2 人間形成の目標としての期待される人間像」において述べたとおり,後期中等教育の理念を明らかにするため,主体としての人間のあり方について,どのような 理想像を描くことができるかを検討したものである。
 以下に述べるところのものは,すべての日本人,とくに教育者その他人間形成の任に携わる人々の参考とするためのものである。
 それについて注意しておきたい二つのことがある。
 (1) ここに示された諸徳性のうち,どれをとって青少年の教育の目標とするか,またその表現をどのようにするか,それはそれぞれの教育者あるいは教育機関の主体 的な決定に任せられていることである。しかし,日本の教育の現状をみるとき,日本人としての自覚をもった国民であること,職業の尊さを知り,勤労の徳を身 につけた社会人であること,強い意志をもった自主独立の個人であることなどは,教育の目標として,じゅうぶんに留意されるべきものと思われる。ここに示し たのは人間性のうちにおける諸徳性の分布地図である。その意味において,これは一つの参考になるであろう。
 (2) 古来,徳はその根源において一つであるとも考えられてきた。それは良心が一つであるのと同じである。以下に述べられた徳性の数は多いが,重要なことはその 名称を暗記させることではない。むしろその一つでも二つでも,それを自己の身につけようと努力させることである。そうすれば他の徳もそれとともに呼びさま されてくるであろう。」

    「六〇年代教育政策は一般に、「能力主義的多様化政策」と特徴づけられる。これは、この時期の能力主義教育政策の内容上の特徴を、中央教育審議会 六六年答 申「後期中等教育の拡充整備について」に典型的な「後期中等教育の多様化」に代表させるとらえかたである。しかし同時に、多様化は「多様化」と括弧つきで 用いられることが多い。それは、あとでもくわしく述べるように、この「後期中等教育の多様化」政策が結果としてもたらしたものは、高校教育の内容上の多様 化よりはむしろ、「偏差値」に象徴される。学科間の内容上の相違を捨象した高校間の一元的序列化であったからである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』 p.6-7)

    「六三答申は「教育投資論(人的資本論)」と「マンパワー=アプローチ(人材=需要方式)」の観点から、それまでの「中学校の出口」問題に焦点付 けられていた中等教育政策の重点を、本格的に「後期中等教育(高校)の能力主義的多様化」へと転換させ、大学・(工業)高校・職業訓練機関の全面にわたる 「産学協同」の拡充・推進を提起するとともに、「ハイタレント=マンパワー」の養成ともからめながら、「能力主義」に基づく社会と学校制度の大がかりな再 編の必要を提起した。そして、これらの提起の一部は一九六六年十月の中央教育審議会答申「後期中等教育の拡充整備について」に持ち込まれ、一九六〇年代後 半の工業高校を中心とした職業高校の増設と多様化・細分化を進める「後期中等教育の多様化」政策を具体化させることになる。それは、一方で企業内職業訓練 を高校に単位認定する措置(いわゆる「連携法」=学校教育法一部改正、一九六一年)およびその範囲の拡大(一九六七年)や、中堅技術者の確保を目的とした 五年制工業高等専門学校の設置・発足(一九六二年四月)といった大胆な制度改革を伴いつつ、他方で富山県の「三・七体制」(「人材=需要方式」に基づき普 通高校三、職業高校七の割合とする政策)や「四国開発マスタープラン」にみられるように、教育計画が地域産業開発計画の一環として進められる状況を生み出 すことになった。」(渡辺治編『高度成長と企業社会』p.166-167)

    雇用対策法
    「私はそれを代弁するようなかたちになりますが、四十年代前半の日本経済はご承知のように年率一〇%以上の高度成長が続いたわけです。当然のこと ながら雇用需要は増加して量的には完全雇用が達成されました。
 ところが地域、産業間の労働力の流動化、あるいはさっきのお話が出ていましたけれども、技術労働力の確保、向上が必要になりまして、従来の失業救済政策 から積極的な雇用政策を確立しようとして出来たのが昭和四十一年に成立をみました雇用対策法でした。」(「職業安定広報」1987.9.1:p.5-6)

    「もとより,職安行政の観点からすれば,このような「制度」は決して望ましいものではありえなかった.第1に,すでに詳しくみたように,1960 年代後半には中卒から高卒への学歴代替がドラスティックに進展し,高卒労働力のブルーカラー化が進んだ.ところが,企業と高校が直接に結びつくこの制度の もとでは,今や毎年新たに供給される新規労働力の中心となった高卒者に対して,――これまで中卒者に行ってきたように――その流れを政府が計画的にコント ロールする余地はほとんど残されていなかった.1966年の時点で,今後深刻な若年技能労働力の不足が起こることを予想した労働省が,労働力の需給調整の 総合施策をうたった雇用対策法の制定にあわせて,企業の指定校制度に抜本的なメスを入れることをいったんは決意したのも,こうした脈絡から理解することが できよう.
 第2に,労働省は,高校は「的確な労働市場情報とくに現実の求人についての具体的情報」に疎く,その職業指導体制は「弱体」であると認識していた.それ ゆえ,「高校卒業者がホワイトカラー職種へ集中し,技能的生産工程従事労働力の充足が困難になっているとともに,未就職となる者も発生する危険性があ る」.このような高校の職業指導体制についての不信は,実は,戦後の職業安定行政のなかで折りにふれて表明されてきたものであった.その端緒は,そもそも 戦前の中等学校が行う職業指導に対する評価にまで遡ることができる.企業との実績関係にもとづいて就職の斡旋を行う高校の職業指導は,ともすれば「手近 な,就職のしやすい,また縁故のある求人口へ卒業生を向ける傾向」があり,生徒の「個性」を尊重して,観察や各種の心理的テストによって「適職」を客観 的・科学的に把握することを前提に行われる本来の職業指導の名に値しないものとみなされていたのである.71年の通達が,高校の就職希望者全員を対象とし て職業適性検査(GATB第1)を実施することを指示したのも,このような文脈で理解できよう.こうした批判は,大学で教育心理学を専攻してその関係から 行政に携わった官僚の間ではとくに根強かった.このようなキャリアをもつ人たちにとって,企業との結びつきにもとづいて学校が生徒の就職斡旋を行う「制 度」の定着は,正しく科学的な職業指導運動の実践の後退譜を意味していたのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.233)

    釜が崎に対して「あいりん体制」導入

    中国、文化大革命
    英、産業再編成公社法

    アメリカ教育省による「教育機会均等調査」(→1968年、「コールマン報告」)

1967年
    トヨタ、労働力の定着対策として臨時工一年でほぼ自動的に社員登用を行なうようになる
    「ユニークな例外をなすのはトヨタ自動車のケースである.ここでは60年代後半に中卒就職者が急減するなかで,他社の多くが高卒採用に転じたのに 対して戦略として中卒養成工の大量採用を打ち出し,67年に通信制工業高校と連携して卒業後高卒の資格がとれるように改め,さらに70年にはトヨタ工業高 等学園と名称変更を行った.とはいえ,中卒の大量採用はやはり長くは続かず,76年以降は急速に減少している.要するに,中卒養成工の定期採用数は,ほと んどの場合必要労働量の増大に対して非感応的であり,既存の施設や設備によってその上限を画されていたのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』 p.247)

    江藤淳『成熟と喪失』
    「つまりそこには父に対する「恥づかしさ」がかくされている。この「恥づかしさ」を媒介にして母と息子はコタツの下で足に爪を立てるような切迫し た関係に追いこまれるのである。もし彼らが伝統的な農民的・定住者的な感情のなかに安住しているのなら、これほど極端な父を恥じる気持が母と息子のあいだ に生れるわけはない。そういう静的な文化の中では、いわば父親そっくりに子供を育てることが母のつとめであり、そのためにこそ母子の密着した結びつきが生 じるからである。
 羞恥心は自他を比較するところから生じる。より正確にいえば、自他を比較し、自分は他人になれたはずなのにどうして自分のままでいなければならないのだ ろ うと疑うところから生れる。(…)彼女が「獣医」でしかない夫を恥じる心は、そのままそういう男としか結婚できなかった自分を恥じる心に裏返される。その ために彼女は自信を持つことができず、おそらく自分を憎んでいる。しかも彼女は、夫とはちがったものになってほしい息子が、ほかならぬ夫の子でしかないと いう事実のために息子を信じ切ることもできない。さらに息子の出来がよければよいなりに、彼は母親の属する文化を離れて「出世」して行かなければならず、 母親は確実にとり残されることになる。」(p.13-14)

    「女性的な農耕社会全体をまきこんだこの「出発」が、現実の女性にもっとも大きな影響を及ぼしたのも当然である。もし女であり、「母」であるが故 に「置き去りにされる」なら、自己のなかの「自然」=「母」は自らの手で破壊されなければならない。しかも産業化の速度がはやければはやいほど、この女性 の自己破壊は徹底的なものでなければならない。「置き去りにされる」不安が深刻なものであれば、それをのりこえる手段は一歩先んじて自己破壊するところし かないからである。戦後に、特に昭和三十年代に、母性の自己破壊が一般化したのはおそらく以上のような心理メカニズムからである。」(p.113)

    「江藤の弱さは、まずはじめに「アメリカ」なしにはやっていけない日本という「国家」の弱さをつうじて見られた。しかしそのもう少し深いところに は、彼の 内面が「国家」を必要としていることからくるもう一つの弱さが沈んでいる。
 「国家」に統治される「内面」とは何か。
 ぼく達はそれを「治者」と呼んでおくことができる。「治者」という概念は、必ず「自分を越えたなにものか」を、それに支えられるために必要とする。それ はそのなにものかを支えそして支えられる。そのことをつうじて自己の内面を見えるものと化し、そしてそのなにものかに接続する。」(加藤典洋『アメリカの 影 戦後再見』p.116)

    Debord, G., La Societe du spectacle, (Buchet-Chastel, 1967; Champ Libre, 1971; Gallimard, coll. Folio, 1996) =木下誠訳、1993→2003、『スペクタクルの社会』、平凡社
    「1 近代的生産条件が支配的な社会では、生の全体がスペクタクルの膨大な蓄積として現れる。かつて直接に生きられていたものはすべて、表象のう ちに遠ざかってしまった。」(p.14)

    「33 己れの生産物から分離された人間は、自己の世界のあらゆる細部を作り出すことにますます意を注ぎ、その結果、ますます自己の世界から分離 される。いまや、彼の生が彼の生産したものであればあるほど、彼は自分の生から分離されるのである。

34 スペクタクルとは、イメージと化すまでに蓄積の度を増した資本である。」(p.30)

1968年
    日本のGNPが世界第二位に

    パリ五月革命、安田講堂封鎖
    「教員と学生が協同して「真理」へと接近するコミュニティーとしての大学というフィクションが可能となるためには、教員が学生のオイディプス的父 権である という条件が成立していなければならない。教員は学生大衆の先行的なモデルであり、ある場合にはのりこえの対象であるという意味で、父権である。その意味 でも、日本の六八年も「アンチ・オイディプス」でしかありえなかった。「大学解体」とは、そのことを含意しているスローガンにほかならない。
 それはともかく、より平たく言えば、大学というイデオロギー装置は、大学という過程をへれば学生には国民=市民の理念型たる教員と同程度の、アッパーミ ドル・クラスのステイタスが保証されるという「信用」の上に成り立っていたと言える。いうまでもなく、その信用を保証していたのが、アメリカ合衆国におい ては第一次大戦後以来の福祉主義的リベラリズム政策(ウィルソン主義)であり、日本においても、一九四〇年代の戦時経済に端を発し、戦後の占領軍政策が全 面展開した民主主義体制であった。かかる体制が米ソ冷戦という名の戦争における「戦時体制」であることは岩田弘やウォーラーステインが言うとおりだが、そ れが兵站地域たる先進資本主義本国の「平和」を意味してもいることから、その「平和」がイコール「戦時体制」であることは容易に認識されえなかったのであ る。もとより、その等号の隠蔽こそが戦時体制の戦時体制たるゆえんにほかならない。」(絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」試論』 p.230)

    「(注4)(…)フランス五月革命をシニカルに分析したブルデュー『ホモ・アカデミクス』の唯一の意義は、それが失業不安に起因することを明らか にした点 にあるが、日本の六八年革命もまた、潜在的には失業問題ではなかったのか。四半世紀後の六八年の学生たちへのアンケート集『全共闘白書』は、その企図・内 容ともに愚劣この上ない代物といえるが、かつてのアクティヴィストたちの現在の職業・年収の回答からうかがえるのは、六八年の大学が生み出した、国民=市 民から脱落しつつある膨大なジャンク的ロウアークラスの存在である。事実、日本の六八年は塾・予備校教師、校正者、ライター、エディター等の、「日本的雇 用」に包摂されない膨大な「フリーター」を生み出した。たとえ、彼らが八〇年代のバブル期に、つかの間の、資本主義からの剰余利得を得ていたとしても、彼 らがジャンク的ロウアークラスであることには変わりない。」(p.344)

    「つまり日本社会の高度化の結果、大卒者の雇用市場は拡大したといっても、その拡大は年々増加して行く大卒者の六割を吸収するほどにすぎなかっ た、ということになる。それでは残りの四割はいったいどういう形で吸収されたのであろうか。それはもっぱら各職業の学歴水準を高める形で吸収された。その 傾向がとく に強かったのは、販売的職業と、ここでは「その他の職業」と一括してある生産工程従事者を中心とする、いわゆるブルー・カラー的職業である。販売的職業に ついて見ると、この職業は一九六〇年から七〇年までに総数として一六四万人増加したが、この職業のなかに占められる大卒者の比率が一九六〇年の五.九%の ままだとすると、この職業の規模の拡大することによって生じた大卒者の雇用機会は一〇万人ほどの増加にすぎなかったはずである。ところが、現実にはこの職 業に吸収された大卒者は、四三万人も増加しているわけで残りの三三万人はいわばそれまで中卒者、高卒者の占めていたポジションに進出する形で吸収されたこ とになる。それよりも、もっと顕著なのはブルー・カラー的職業の場合で、ここに吸収された大卒者は三三万人も増加したが、そのうち三一万人はそれまで中卒 者・高卒者の占めていたポジションを交替する形で吸収されたことになる。」(潮木守一『学歴社会の転換』p.132)

    「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」(橋本治作・十九回東大駒場祭ポスター)
    「就職ジャーナル」創刊

    日経連による傘下企業を対象とした労務管理諸制度に関する実態調査(1958、1963,1968年の3回実施)
    「以上、三回の日経連労務管理諸制度の結果からは、おおよそ次のことを読みとることができる。
 まず第一に、職工身分制度の消滅に代表されるように、戦前から一九五〇年代初めまで支配的であった労務制度は解体され、能力的資格制度や定期異動・定期 昇進などの諸制度、定型的教育訓練が普及・定着するなど、労務管理諸制度の、ある種の近代化といえるような、大幅な改革・整備が進んでいる。
 しかし第二に、こうした改革・整備は、経済審六三年答申が描いた「経営秩序近代化論」の筋道とは、かなり大きくずれている。その最大の点は職務給制度の 停滞・衰退と職能給制度の普及であるが、これは後に詳しく検討するとして、そのほかの問題をあげれば、たとえば技能者養成訓練では、認定訓練など社会的に 制度化されたものはほとんど普及せず、各企業独自の訓練制度・システムが企業ごとに確立・普及した。技術者教育についても同様であった。採用については、 企業間・産業間の労働力流動化と中途採用の増加という見通しとは裏腹に、六〇年代中盤、各企業の中途採用はかえって減少した。また、企業外の社会的公共的 諸制度によって今後肩代わりされるであろうと見通された福利厚生についても、住宅問題などを含めて企業内福利厚生がそのより多くを受け持つこととなった。 教育訓練や福利厚生等についての経済審六三年答申の方向が、これらの主要な部分を企業外の社会的制度へと開いていく、いわば“社会化”であったとすれば、 現実のとった方向は“企業内化”であったといってよかろう。
 それでは第三に、こうした“企業内化”はなぜ生じたのだろうか。その制度的イデオロギー的側面の検討は次節以下にまかせるとして、報告書の中から直接読 みとれることは、この時期の労働力事情である。たとえば賃金体系のところで「勤続および経験給」が予想に反して伸びている事情や、福利厚生の拡充している 理由について、すでに見たように報告書は、労働力不足問題、とりわけ労働力の定着化のためと説明している。これはどういうことだろうか。この時期、需要の 大幅な増加にともなう労働力不足は、経済審六三年答申の予想どおり、あるいは予想をも越えて進行した。そして答申は、この事態に対応するためにも横断的労 働市場を形成し労働力流動化をはかるべきと提言したわけである。だがむしろ各企業の対応は、不足すればするほど、一度獲得した労働力を長期にわたって定着 させる方向をとった。したがって、労務管理の現実の進行も、定着管理という方向へと向かっていった。それがここから読み取れる点であろう。」(乾彰夫『日 本の学校と企業社会』p.83-84)

    総世帯数を総住宅戸数が上回る(総務庁統計局編 1968年 住宅統計調査報告)
    「都市政策大綱」

    Erikson, E.H., Identity ; Youth and Crisis, Norton (岩瀬庸理訳、1973、『アイデンティティ−青年と危機−』、金沢文庫)

    コールマン報告

1969年
    日経連能力主義管理研究会報告『能力主義管理《その理論と実践》』
    「現在の職務においては顕在化されずとも、過去の職務において証明された能力や、将来発揮されるかもしれない潜在的能力、直接生産過程において業 績として顕在化されずとも労務管理部面で企業に貢献する忠誠心など、具体的限定的には評価しきれないものが、その主要な構成要素に含まれることになる。そ して、「能力」の範囲が不明確であればあるほど、「姿勢態度」や「人柄」「人格」といった、客観的能力以外の価値的主観的なものがそこには入り込むことに なるわけである。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.108)

   「採用については、新規学卒採用を原則とし、そのうえで、「企業内教育の可能性と教育投資との採算」の中で可能な職種については中途採用も導入する とされた。そして、新卒採用の場合も含め、今後はこれまでのような「全人的採用」ではなく、予定する職務をあらかじめ決め適正等を重視することが必要、と した。また、現業職の新規学卒採用については、労働市場の状況からも「高卒中心となろう」と、その見通しを述べている。
(…)
 しかし、年功制・終身雇用制という大枠の維持が基本方向として出された以上、新卒採用をほぼ無条件に原則とする「要約」の表現のほうが、論理的にも整合 的であったし、またその後の事態の推移もこの方向に進んだのは周知のとおりである。
 さらにいえば、「要約」が提起していた「職務採用」も実際にはそれほど進まなかったが、これも終身雇用制の枠による制限のせいであったといってよい。」 (p.127-129)

    職業訓練法改正
    「ここでは、まず公共職業訓練の主な対象を中卒から高卒へと広げ、同時に職業訓練は「労働者の職業生活の全期間を通じて段階的かつ体系的に行われ なければ ならない」として、大企業ですでに取り組まれていた生涯職業訓練の構想を取り入れ、さらに、公共職業訓練と企業内訓練を一貫した体系だての中で整理し、職 業訓練に関する基準の統一をはかった。」(日本労働研究機構編『教育と能力開発 (リーディングス日本の労働; 7)』p.5)

    アニメ「サザエさん」放送開始

    パケット交換技術に基づく分散型システム・ARPANETの実験開始。のちのインターネット
    「前述のように、インターネットの起源は1969年に開発が始まったARPANETである。1972年10月、ARPANETのデモンストレー ションが行われ、このプロジェクトで開発された通信技術が実用化段階に達したことを研究者や産業界に印象付けることができた。ARPANETの開発は国防 総省の研究開発予算によって行われたが、実際の研究開発に従事したのは、大学などでコンピュータ・サイエンスを専攻する研究者だった。やがて、研究開発に あたった研究者は電子メールを使って情報交換を行うためにARPANETを活用するようになった。電子メールによって人間同士が情報交換をするというの は、ARPANETのプロジェクトが開始された当初は意図されていなかった用途であった。電子メールという用途が「発見」されたことによって、コンピュー タ・ネットワークの技術が民生用の情報サービスに応用される可能性が生まれたのである。
 だが、ARPAの任務は先端技術が実用化のめどが立つまでの研究開発である。ARPANETの日常的な運営業務に自分たちが従事する必要はないというの が当時のARPAの立場だった。1972年3月、ARPA局長(Director)のスティーブン・ルカジク(Stephen J. Lukasik)は議会公聴会で1974年会計年度をめどにARPANETの設備を民間企業に払い下げ、その民間企業が政府や民間の顧客に対して情報サー ビスを提供するという方針を表明している。
 (…)
 以上のように、ARPA(DARPA)はARPANETのスピンオフを推進しようとしていたが、引き受け先の企業が見つからなかったために不調に終わっ た。政府が商業化を進めようとしても、企業が商業化に関心を持たなければ、スピンオフは進展しないのである。その後、ARPANETの運営を引き継いだ国 防通信局は非軍事目的で利用できる情報通信網をつくることには関心がなかった。そのため、1970-80年代にはインターネットの商業化は進まなかっ た。」(関下稔・中川涼司編著『ITの国際政治経済学』p.132-133)

1970年
    高校新規学卒就職者のピーク
    「次に,時系列の推移をみると,この間の離職率はかなり目立った低落傾向を示しており,これはとくに高卒で顕著であった.その結果,66年の時点 では高卒の離職率は中卒のそれを上回っていたのが,70年には格差は解消し,翌年になるとこの関係が逆転している.ところで,この時期は,既述のように高 卒者のブルーカラー化が急速に進み,新規高卒の求人倍率がかつてないほどに高まった時期と重なっていた.当時,労働省は,このような環境の変化のもとで高 卒者の早期かつ安易な転職が増えつつあり,今後こうした傾向はますます強まるとみていたが,事実はそれとまったく逆だったのである.」(苅谷ほか『学校・ 職安と労働市場』p.235)
    私立大学に対する補助金制度
    大学生の採用早期化と自由応募による就職が進む
    大阪万国博覧会 富士ゼロックス「モーレツからビューティフルへ」

    平凡出版(現マガジンハウス)、『アンアン』創刊
    「一九七〇年、学園紛争が敗北して時代が翳り出した冬、都内の路上で過激派の女子学生が逮捕された。そのとき彼女は、くるぶしまで届くマキシコー トにひざ 上の超ミニスカート、という流行の最先端を行くファッションで、トンボめがねをかけるという、当時の典型的なキメ方をしていた。ファッショナブルな美人過 激派女子学生、というのは、それだけで十分新聞ダネになる。事実、翌朝の各新聞は、路上逮捕のときの光景を、こぞって写真入りで報道した。その上、話題を 呼んだのは、そのとき彼女が、こわきに『アンアン』をかかえていた、という事実だった。」(上野千鶴子『増補〈私〉探しゲーム 欲望私民社会論』 p.143)
    cf.上野千鶴子:http://www.arsvi.com/0w/uenczk.htm

    三宅一生、「三宅デザイン事務所」設立
    高田賢三、ブティック「ジャングル・ジャップ」(現ケンゾー)をオープン
    ポール・スミス、ノッティンガムにショップをオープン

    三島由紀夫自殺
    「もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めてゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、こ れこそ歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めてゐるものがゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、人間の最も盲目的な行動も行はれない といふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めてゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、も し、世間全部が理性を没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。」(「北一輝論 ――「日本改造法案大綱」を中心として」〈初出〉三田文学・昭和44年7月)


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