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事件と言説:若者・教育・労働… 1931-1950

18世紀 19世紀 1901-1930 1931-1950 1951-1970 1971-1990 1991-

製作:橋口昌治* 2004.09-


 *橋口昌治(はしぐち・しょうじ) 立命館大学大学院先端総合学術研究科(2003.4入学)
  http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/g/hs01.htm

 ※大学院のHPに移す予定ですが、とりあえずここに置きます。
  これから編集などして見やすくします。(立岩)


1931年
    満州事変、柳条湖事件
    3月事件・10月事件。桜会・大川周明ら軍部のクーデターによる宇垣一成内閣樹立を企図、未遂ののち発覚
    重要産業統制法公布。カルテル結成を助成
    松岡洋右、衆議院本会議の代表質問で「満蒙問題は、私は是はわが国の存亡に関わる問題であり、我が国の生命線であると考えている」と発言
    日本民族衛生学会『民族衛生』創刊
    癩予防法制定

    イギリス、金本位制廃止、全世界に信用恐慌が波及

    ポール・ニザン『アデン・アラビア』
    「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。
 一歩足を踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、地位ある人びとの仲間に入ることも。世の中でおのれがど んな役割を果たしているのか知るのは辛いことだ。」(p.8-9)

1932年
    5・15事件
    満州国建国を宣言

1933年
    日本、国際連盟脱退
    京大滝川事件
    小林多喜二、拷問死
    児童虐待防止法公布

    国定教科書の改訂が実施され教科書の軍国主義か進む。
    「サイタ サイタ サクラガ サイタ、ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」

    「受験地獄」流行語
    共産党幹部佐野学、鍋山貞親が獄中で転向声明を発表

    小林秀雄「故郷を失つた文学」
    「私達は生れた國の性格的なものを失ひ個性的なものを失ひ、もうこれ以上何を奪はれる心配があらう。一時代前には前には西洋的なものと東洋的なも のとの争ひが作家制作上重要な關心事となつてゐた、彼らがまだ失ひ損つたものを持つてゐたと思へば、私達はいつそさつぱりしたものではないか。私達が故郷 を失つた文學を抱いた、春を失つた年達である事に間違ひはないが、又私達はかういふ代償を拂つて、今日やつと西洋文學の傅統的性格を歪曲する事なく理 解しはじめたのだ。西洋文學は私達の手によつてはじめて正當に忠實に輸入されはじめたのだ、と言へると思ふ。かういう時に、徒らに、日本精神だとか東洋精 神だとか言つてみても始りはしない。何處を眺めてもそんなものは見附かりはしないであらう、又見附かる樣なものならばはじめから搜す價値もないものだら う。」(『新訂 小林秀雄全集第三巻 私小説論』p.37)

    アドルフ・ヒットラー、首相に就任。その後、ナチスによる一党独裁制に
    「一九三三年に成立したドイツのナチス政権は、先に述べたようにカリフォルニア州の断種の「実績」を参考にし、ナチス断種法を成立させた。そして アメリカ の優生学者の多くは、これを賞賛した。欧米の研究者が非難したのは、ナチスが行ったユダヤ人研究者の大量パージの方であった。
 ナチスは、アメリカの断種法や絶対移民制限法を、自らの政治主張の正しさを世界も認め採用した具体例として、さかんに喧伝した。ナチスの人種政策に確信 犯的に賛同する人間もいた。」(米本昌平ほか『優生学と人間社会』p.44)

    F.D.ルーズベルトがアメリカ大統領に就任。特別議会、ニューディール諸法可決

1934年
    東北地方大凶作。娘の身売り、欠食児童、行き倒れなど悲惨な状況を生み出す
    同潤会江戸川アパート落成。近代的アパートのはしり

    ヒトラー、ドイツ総統に
    毛沢東、大長征
    キーロフ暗殺。スターリンによる粛清始まる

1935年
    美濃部達吉「天皇機関説」批判
    衆議院が満場一致で国体明徴決議
    「非国民」流行語

    中野重治「村の家」
    「そしてどの晩も、「屋敷の手入れなどもお父つぁんは考えている。死んだおじいさんも木が好きじゃったが、お父つぁんはまたいかにも作家の生まれ た屋敷という風にしたいと思てるんじゃ。」といって大声で笑った。勉次は答えるすべもなく、同時に父の精神的衰弱もそこに見えるように思った。そんな言葉 にも父は我と慰めの一つを見だそうとしているらしかった。死んだ兄の耕太が祖父のすすめで生命保険にはいった時、朝鮮にいた孫蔵は反対して止めさしてし まった。祖父が家がぼろぼろになったので小さい家に造り直そうといった時には、いや、小学校のような家を造るべきですといって反対した。しばらく前からそ の父が保険の村代理店をしていた。勉次はまだ中学にいたとき見た父の夢も思い出した。父が植物標本をつくっている夢で、父もそんなことにまぎれを求めてい るのかと思って覚めたが、屋敷の文士仕立は話が現実的なだけ黙るほかなかった。」(『日本現代文学全集70 中野重治・小林多喜二集』p.27)
    デュポン社でナイロンが完成

1936年
    2.26事件
    阿部定事件
    「誰しも自分の胸にあることだ。むしろ純情一途であり、多くの人々は内々共感、同情していた。僕らの身ぺんはみなそうだった。あんな風に扇情的に 書きたてているジャーナリストがむしろ最もお定さんの同情者、共感者というぐあいで、自分の本心と逆に、ただエロ的に煽ってしまう、ジャーナリズムのやり がちな悲しい勇み足であるが、まったく当時は、お定さんの事件でもなければやりきれないような、圧しつぶされたファッショ入門時代であった。お定さんも 亦、ファッショ時代のおかげで反動的に煽情的に騒ぎたてられすぎたギセイ者であったかも知れない。」(「阿部定さんの印象」『坂口安吾全集15』 p.240-241)

    国号を「大日本帝国」に統一。外務省はそれまで「日本国」「大日本国」「日本帝国」「大日本帝国」とまちまちだった国号を「大日本帝国」に統一 し、すでに実施していると発表した
    メーデー禁止。警視庁、赤バイを白バイに変える
    日独防共協定調印

    内鮮協和会設立
    「日本内の朝鮮人は凡て協和会に登録し、それが発行する身分証明書を常時携帯しなくてはならず、就職と渡航〔故国訪問〕に必要な書類は何であれ皆 協和会の管轄下にあった。満州の朝鮮人も同じく、協和会とか、青年保護団とか、愛国勤労隊とかの組織に組みこまれていたが、その目的は労働力を動員し、朝 鮮人に朝鮮人を監視させることであった。(…)
 戦時中朝鮮人は、女性と子供を含め、大量に日本に送りこまれ、1945年になると、全労働力の32%が朝鮮人によって担われていた。1941年の数字を あげれば、総数140万の在日朝鮮人の中で、労働者は770,000であったが、その内訳は工事現場220,000、工場労働者208,000、鉱山労働 94,000。残りは農業、漁業、その他であった。しかも1941年から1945年までの5年間、更に50万以上の朝鮮人が日本に送りこまれ、その半分以 上は炭鉱で働かされた。」(ブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』第1巻p.67)

    「機械工業は、決まったことを、決まった時間に、決まった手順で、しかも一定のペースで正確に成しとげることを要求し、それには規律が必要であ る。これは 農業のサイクルに時間が合わされていて、決まったことを決まったときにきちんとやることが要求されるのは、1年に何回もないという百姓の生活とは基本的に 正反対のものである。人間はそうたやすく自ら進んで、今までのライフ・スタイルを変えるものではない。彼らがそうせざるをえないのは、後ろから突っつか れ、押し出されるからに過ぎない。彼らは先ず土地から引っこ抜かれて移動可能な状態におかれなくてはならない。それから土地との繋がりを完全に切断され、 工業環境の要求する熟練と規律の型の中に流しこまれなくてはならない。朝鮮ではこのプロセスが異民族の強制の下に進められ、しかもそのための時間は10年 そこそこに圧縮されていた。それから、始まりがそうであったように、まったく突然その終わりがやってきて、労働者たちはやめたばかりの農民に、再び逆戻り をせざるをえなかったのだ。」(p.64)

    スペイン内乱
    スターリン憲法
    チャールズ・チャップリン監督作品『モダン・タイムズ』
    ケインズ『雇用、利子および貨幣の一般理論』

    ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品(第二稿)」
    「書籍に関しては数百年にわたり、書き手は少数であるのに対し、読み手はその何千倍もいるという具合になっていた。十九世紀の終わり頃、ある変化 が生じた。新聞がますます普及し、たえず新しい政治的・宗教的・経済的・職業的・地域的機関が読者に提供されるにしたがい、しだいに多くの読者が――はじ めは散発的に――書き手の側に加わっていった。それとともに、日刊紙が読者のために〈投書箱〉を設けることが始まった。そして今日の状況は、労働過程のな かにいるヨーロッパ人のほとんど誰でもが、その労働の経験、苦情、ルポルタージュなどを発表する機会を、原理的にはどこかしらに見つけることができる。こ のことによって、著者と公衆とのあいだの区別は、その原理的な性格を失いつつある。それは機能上の区別、ケースバイケースで違った風に行われる区別にな る。読み手はいつでも書き手になることができる。極端に専門家された労働過程においては誰でも良かれ悪しかれ専門家に――たとえきわめてささいな業務の専 門家にすぎないとしても――ならざるをえないので、そうした専門家として執筆者層の仲間入りをする道が開けるわけである。労働自体が発言する。そして労働 を言葉で表現することは、労働を遂行するのに必要な能力の一部となる。ものを書く資格は、もはや特殊な教育に基づいてではなく、総合技術教育〔旧ソヴィエ ト連邦で、普通学校教育において必須とされていた総合的な自然科学・技術教育〕に基づいて得られるものとなり、したがって万人の共有財になる。」(浅井健 次郎編訳、久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション1 近代の意味』p.612-613)

    「弁証法的に思考する者にとって、今日の戦争の美学は、次のような姿で現れてくる。生産力の自然な利用が、所有の秩序によって妨げられると、技術 手段、テンポ、エネルギー源の増大は、生産力の不自然な利用を強く要求する。この不自然な利用の場は戦争に求められる。そして戦争がもろもろの破壊によっ て証明するのは、社会がいまだ技術を自分の機関として使いこなすまでに成熟していなかったこと、そして技術がいまだ社会の根元的な緒力を制御するまでに成 長していなかったことである。帝国主義戦争のきわめてむごたらしい諸特徴を規定しているものは、巨大な生産手段と、生産過程におけるその不十分な利用との あいだの齟齬(別の言葉で言えば、失業と販路不足)なのである。帝国主義戦争とは、技術の反乱にほかならない。技術の要求に対して、社会が自然の資源を与 えなくなったので、技術はその要求をいまや〈人的資源〉に向けているのだ。」(p.628-629)
   cf.Benjamin,Walter:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/dw/benjamin.htm

1937年
    盧溝橋事件、日中戦争勃発
    南京大虐殺
    ゲルニカ爆撃
    輸出入品等臨時措置法、臨時資金調整法制定。戦時経済統制の開始

    奥むめお主催「働く婦人の家」が結婚相談を行う
    「一九三七年、奥むめお主催の「働く婦人の家」が行った結婚相談には、担当者の予想を大きく上回る数の男性から「求妻申込み」が殺到し、その八割 は、月収五〇円から五五円の三〇歳前後の「サラリーマン」からだった。これに対して「職業婦人」たちからは「せめて六〇円以上の収入がなければ」という理 由で、応じるものがなかったという。物価の高騰や生活水準期待の上昇という状況のなか、多くの男性俸給生活者の収入は、家族を養い、かつ「中流」の生活を 維持するのに十分な水準にはないとみられていた。」(金野美奈子『OLの創造』p.85)

    教育審議会、女子大学について討議
    「ところで、大学令も高等学校令も、男子のみに門戸が開放されていて、法的な高等教育機関としての女子大学と女子高等学校は設置が許されなかっ た。このため、女子の高等教育機関の設置・官立高等教育機関への開放の要求が高まり、一九三七年設置の教育審議会は遂に四〇年一月に女学校を五年制にして 程度を高めて女子の高等学校を認可し、大学令による女子大学を創設することを討議した結果、委員間では女子大学の設置が意見の一致をみたのであるが戦時体 制の強化に伴い、遂に実現しないままに終ったのである。女子で総合大学に入学を志望するものは、右の大学の内で女子に入学を許可している大学へしか進学す る他に道はなかったのである。」(川口浩編『大学の社会経済史』p.36)

1938年
    厚生省設置
    国家総動員法
    学校卒業者使用制限令

    改正職業紹介法
    「1938年1月,職業紹介所の国営化を定めた改正職業紹介法が公布され,同年7月から施行された.この改正は,戦時における日本経済の〈計画 化〉の一環として,生産力拡充計画の遂行を視野に入れて全国的な労働力の動員・再配置を行うための布石であった.ところで,新規学卒者は毎年新たに労働市 場に供給される労働力のうちでも最大の部分を占める.しかも,彼ら・彼女らは,既就業者に比べ職業の経験をもたない無垢な労働力であるだけに可塑性に富 み,扶養家族をもたないことなどから地域間の移動もはるかに容易である.実際,翌年に策定された労務動員計画では,新規小学校卒業者は最大の労働力の供給 源として位置づけられ,質・量ともに生産力拡充計画の遂行を支える,要の労働力と考えられていた.
 1938年10月に新設の厚生省と文部省の連名で出された訓令は,このような重要な意義をもつ新規小学校卒業者の就職を,職業指導の一層の強化・徹底に よって,「国家ノ要望ニ適合セシ」めるよう指示したものであった.要するに,少年職業紹介の目的は,年少者に「個性」の科学的な判定にもとづいて適職を斡 旋することから,「国家の要望」に適合する職業に学卒労働力を配分することへと,大きく転換したのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.74 -75)

    満州移住協会が移住した独身男性のために「大陸の花嫁」募集

    ナチスの組織的ユダヤ人迫害起こる(水晶の夜事件)
    アメリカ、「火星人来襲」のラジオ劇のオーソン・ウエルズの名演技で全米がパニックに
    サルトル『嘔吐』

1939年
    ドイツ、ポーランド侵攻。第二次世界大戦勃発
    ノモンハン事件
    創氏改名に関する法律公布
    独ソ不可侵条約調印

    日本勧業銀行、女性事務職の二八歳定年制を導入
    「若年定年制については、女性は結婚時に退職することが多いという傾向を追認したものだという見方がある。このような見方は同時代にも存在した。 しかし、 ここでの検討が示唆するのはむしろ逆に、このような制度の導入は、女性の勤続年数の長期化傾向に対する、企業側の積極的な対応策としてとらえれるというこ とである。女性たちが、企業が想定する時期にスムーズに退職しているのであれば、わざわざ若年定年を制度化する必要はないはずである。若年定年制は、戦後 高度成長期に女性雇用管理の一大トピックとしてとりあげられることになるが、ここで見たような事例から、その発想は戦前期にすでに見られたことがわかる。 逆に言えば、戦前期の女性たちは、職場から若年定年制という発想を引きださせるほどの存在になりえていたのである。」(金野美奈子『OLの創造』 p.102)

    厚生省が「結婚10訓」を発表
    「厚生省は「結婚10訓」を発表。兵力増強のために「生めよ殖やせよ」など。翌年には、10人以上の子供をもつ親が「優良子宝隊」として表彰され た。」 (現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.215)

    「明治三〇年代のジェンダーが、職場における女性の存在という「問題」を見出したとすれば、戦間期のジェンダーは、職場の女性の「男性化」という 「問題」 を「発見」した。第一時大戦後、「職業婦人」の表象に使われるようになった言葉に、「堅い職業婦人タイプ」、「オールド・ミス」、「オールド・メイド」と いった言葉がある。これらが示唆するように、特に問題とされたのは、女性たちの結婚と出産との関わりであった。「職業婦人の結婚難の問題」が、戦間期を通 して話題になる。「現代の若い女性は『子どもなんか一生欲しくない』と朗らかに公言する。[われわれは]……女性は……自己本位であると非難する前に、何 が彼女らにさうさせるのかといふ社会的原因(=職業経験:引用者注)を考えてみなければならぬ」。」(金野美奈子『OLの創造』p.83-84)

    和歌山高等小学校『職業指導の実際的研究』
    「同書では一九二七〜三九年の時期に、職業指導の実践がいくつかの段階で変化してきたと論じている。二七年前後には、「就職斡旋中心時代」であ り、「個性調査の研究等もよく行はれたがそれが職業指導と結合して実際的効果を発揮するところまで具体的な実践がなれなかつた」。二九〜三〇年頃には、 「適材を適所に就かしめる」ことを目指した「選職指導中心時代」がやってきた。しかしそれも長続きしなかった。というのも、「これがためには一方に児童調 査が完全に行はれて所謂個性環境の周密なる検査に基く綜合的把握が完全になされるとヽもに、一方に各種の職業分析が施行されて作業の心的構造や作業の特異 性などが周到に理解されねばならぬ。ところが実際問題となると現在の教師の能力や勤務時間、労力の範囲では到底其の理想の実現は不可能に近く、強いてなさ んとすれば、却て誤れる児童判定に陥つたり、甚だ見当の違つた職業観察になつたりするやうなことが少くない。又現在の学問なり社会常識に於ても児童調査、 職業調査が甚だ幼稚未熟の域を脱せない」(六〜七頁)からであった。そこで次に、「職業人に必要なる常識、知識、性格、態度、身体等、さういふ一般的基礎 的なる事項に主力を注」ぐ、「基礎的陶冶時代」が来た。ところが、これでは従来の教育と何ら違いがなくなってしまう。そこで、基礎的陶冶にも、選職指導に も、進学指導にも力を入れる「全体的指導時代」に移ってきていると同書は述べている。」(広田照幸『教育言説の歴史社会学』p.125)

    国民徴用令公布
    「昭和一四年(一九三九)年に国家総動員計画の一環の労務動員計画として国民徴用令が公布されてのち、一般的な労働力不足の補填や軍需産業におけ る労働力確保のための政府の統制は幾度もの改訂をへて管理の度を強めていく。太平洋戦争の開戦決定後、労務動員計画は国民動員計画と改められ国民全体を対 象にするようになった。すなわち、これまで国民徴用の対象は国民登録に申告した者にかぎって徴用していたのを、国家総動員上とくに必要あるときは、申告者 以外の者も徴用できることとしたのである。四一年一一月に公布された「国民勤労報告協力令」は、根こそぎ動員といわれるいわゆる「国民皆働」の法的基盤を 用意したもので「原則として、男子は一四年以上四〇年未満の者、女子は一四年以上二五年未満の未婚者が総動員業務に協力する義務を負ふことになる」(『朝 日新聞』一一月二二日朝刊)というものだったが、これは家庭のなかの余剰労働力としての女子労働を軍需産業の生産現場に引き出し動員することでもあった。 これをさらに拡大したものが女子挺身隊であった。四三年一月、首相東条英機は議会で国内体制強化方策に関する演説を行い、以降さらに経済統制・文化統制が 強化され、戦時行政の整備も行われる。労務政策では、六月の「学徒戦時動員体制確立要綱」。七月の「国民徴用令改正」で国民動員はより徹底され、そして九 月二三日に「国内必勝勤労対策」が閣議決定され、「女子勤労挺身隊」が組織されることになったのである。これは、一四歳から二五歳までの未婚女性を、学校 単位、市区町村単位に二〇人から五〇人以内で組織し、出勤期間は一、二年、工場、事業所で勤務、というものであった。しかしここまではまだ自主参加という 建前だったのが、まず翌四四年三月には年齢が一二歳に引き下げられ、八月には「女子挺身勤労令」が公布され、一年間の動員が義務とされることになったので ある。」(姫岡とし子ほか編『労働のジェンダー化』p.226-227)

    ニューヨーク万博
    「一九三九年四月三十日、日曜日の朝に、ニューヨーク世界博覧会の門が開かれた。この博覧会のテーマは“明日の世界”だった。開会式は“平和の 庭”と呼ばれている広大な構内でおこなわれた。巨大な雲のかかった青空の下に集まった何万人もの群衆のなかに、“明日の世界”という二つの言葉が、皮肉に も提出している問題を、じっくりと考えることができた者がいただろうか?」(F・アレン『シンス・イエスタデイ』p.450)

1940年
    日独伊三国同盟締結
    近衛文麿が新体制運動推進の決意表明。基本国策要綱を閣議決定、大東亜新秩序・国防国家の建設。
    経済新体制確立要綱が閣議決定。経済全体、企業体制全体の再編成

    勤労新体制確立要綱原案
    「企画院はこのなかで、「勤労ハ資本増殖、個人生活ノ手段トシテ観念セラルベキモノニ非ズシテ其ノ国家性、人格性、生産性ヲ一体的ニ具現スル国民 ノ奉仕」である、と強調した。勤労は「皇国ニ対スル皇国民ノ責任タルト共ニ栄誉」であり、「全人格ノ発露トシテ創意的自発的」でなければならない(…)。
 ここで戦前の労働運動の指導者が好んで用いた「人格」という言葉が使われていることは、決して偶然ではない。そのレトリックが意味するところは明らかで あ ろう――工員は〈勤労者〉の名において企業、さらには国民生産共同体の正規の構成員として認められたのである。
 (…)要するに、同原案は、企業は国家目的=高度国防国家の建設に貢献する〈生産人〉の協同体であり、その構成員は〈身分〉によってではなく各人が生産 に 寄与する仕方=〈職分〉のみによって区別される、という考え方を鮮明にしたといえよう。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.204)

    大政翼賛会結成
    教育審議会答申で、理工系統の充実が奨励される

    国民優生法制定
    「このように、国民優生法は、もともと純然たる優生断種法になるはずであった。しかし、厚生省で断種法の検討が始まった一九三八年は、人口増強策 が一挙に 推進された時期でもあり、そのため立案過程で「健全なる素質を有する者の増加」の要素が付加されることになったのである。その結果国民優生法では、優生学 的理由によらない一般の不妊手術は、すべて他の医師の意見を求めたうえで事前に届け出ることを義務づけられるようになった。」(米本昌平ほか『優生学と人 間社会』p.181)

    国民体力法制定
    「戦時下にあっては強い兵力、労働力が求められる。前年、厚生省は男子青少年の基礎体力の向上をめざし、体力検定制度を実施。この年、国民体力法 が公布。 体力手帳が交付されるようになる。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.221)

    「贅沢は敵だ」「バスに乗り遅れるな」「一億一心」「パーマネントはやめませう」などのスローガン
    国民服が奨励され、隣組が作られる

    レニ・リーフェンシュタール監督作品『民族の祭典』

1941年
    太平洋戦争勃発
    小学校が「国民学校」に
    大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件

    労務調整令
    「1941年に制定された労務調整令は、こうした強力な統制を一片の通牒によって行うのではなく,これに法的根拠を与えることで,すみずみまで徹 底させることを目的としていた.この法令によって,小学校卒業者(中退者を含む)は、卒業(退学)から2年間は国民職業指導所(職業紹介者を改称)の紹介 による以外,採用=就職することができなくなったのである.国民職業指導所の一技師は,同令の解説のなかで,今後の職業指導は求職児童の「自由意思のみを 根幹とする」従来の考え方を修正して,「身勝手な自己本位のみの立場からする要求に対しては,断固矯正する必要がある」が,しかし,割り当てられた事業場 には「純真なる青少年の職場として寒心に堪えぬものもある」と率直に告白した.このエピソードは,戦時下における少年職業紹介事業が行き着いた先がどのよ うなものであったかをよく物語っているといえよう.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.78-79)

    三菱重工業名古屋航空機製作所、「前進作業方式」導入。一定の時間内に一工程の作業を終え、合図により一斉に次工程に機体を移動させる方式。
    「企業の生産現場に対する意識が大きく変化したのは一九三〇年代半ば以降のことであった。日中戦争以後の戦時体制の進展の中で、兵器や輸送機器が 大量に必要となり、日本の製造企業は生産の拡大を迫られた。そこで企業は生産設備の拡張を行なうとともに、生産現場の全体的なシステムを見直さなければな らなかったのである。その際、彼らが意識したのは、アメリカでフォードが作り上げた大量生産システムであった。ただ、フォード・システムは多数の専用工作 機械を使用する前提で構築されていたが、アメリカと違って当時の日本では生産工程に大量の専用工作機械を投入することは不可能であり、一気に生産工程の機 械化を図れる状況ではなかった。このため、日本の企業はフォードが開発した大量生産システムを意識しつつも、それとは異なった量産化の方策を模索せざるを 得なかった。すなわち、彼らは少なくとも工程全体を流れ作業的に組織することで、効率的に物を生産しようと考えたのである。これが最も顕著に見られたのが 航空機産業であった。」(山崎広明ほか『「日本的」経営の連続と断絶』p.133)

    「三菱重工業名古屋航空機製作所が前進作業方式を導入したのは、「少しでも作業を容易にして生産を挙げる為と、部品を合理的に、又容易に集める 為」であった。そして同所は「部品は組立の方から逆に引張ると云った意味で、先づ組立工場から始めた」。組立工場から始めたのは「入り方として組立から 入った方がやり易い」という動機からであった。これは戦後のトヨタ生産方式の考えと一脈通じる考え方である。」(p.135)

    坂口安吾「文学のふるさと」
    「それならば、生存の孤独とか、我々のふるさとというものは、このようにむごたらしく、救いのないものでありましょうか。私は、いかにも、そのよ うに、むごたらしく、救いのないものだと思います。この暗黒の孤独には、どうしても救いがない。我々の現身は、道に迷えば、救いの家を予期して歩くことが できる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷うだけで、救いの家を予期すらもできない。そうして、最後に、むごたらしいこと、救いがないということ、そ れだけが、唯一の救いなのであります。モラルがないということ自体がモラルであると同じように、救いがないということ自体が救いであります。
 私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。
 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさ とは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……」(『散る日本』p.44)

1942年
    「欲しがりません、勝つまでは」
    日本能率協会設立
    雑誌『文学界』、「近代の超克」を特集

1943年
    「撃ちてし止まむ」
    第一回学徒兵入隊、学徒出陣
    学生の勤労動員が始まる

1944年
    国民学校の集団疎開が始まる。最初は東京都

    海軍航空隊で特攻戦法が採用される
    「対戦の最終段階では、世紀戦闘では米軍に太刀打ちできず、特攻戦法が広範に採用された。一九四四年一〇月に海軍航空隊でこの戦法が採用されたと き、表向きには、現地航空部隊指令の発案と、パイロットたちの志願によったものとされていた。しかし実際には、事前に海軍中央で行われた協議によって、形 式上は現地で発案されたかたちをとり、中央からは何も指令を下さないことが内諾されていた。
 航空機による特攻は、「一機で一艦を屠る」というスローガンのもとで行われた。しかし爆弾を抱いた航空機の衝突は、投下爆弾にくらべ速力と貫通力が劣 り、破壊効果も少ないことが当初から知られていた。米軍の戦闘機と防空弾幕の妨害を、特攻機が潜り抜けられる可能性も少なかった。
 (…)
 現地軍から報告される特攻の戦果は、しばしば大幅に誇張されていた。フィリピン戦線でのある作戦では、二四機の特攻機が、三七隻を撃沈破したと報告され た。そして実施された特攻のなかには、故障などによって生還した者を死なせることを目的としたものも混じっていたといわれる。その理由について、フィリピ ン戦線にいたある陸軍パイロットは、回想記でこう述べている。

  当時の高級参謀たちは、上からの命令になんとか帳尻を合わせることに必死であった。つまり、特攻を出すことによって、架空の戦果をつくり出すわけであ る。
  しかも、いったん特攻に出した人間が生きていることは、彼らにとって、はなはだまずい。せっかくつくりあげた架空の戦果は台なしになるし、特進を申請 したのも嘘になる。これは何が何でも本人に死んでもらわねば面子が立たない。

 このフィリピン戦線では、多くの部下を特攻に送りだした航空軍指令の冨永恭次陸軍中将が、米軍上陸直後に飛行機で台湾に無断脱出した。しかし元陸軍次官 でもあったこの将軍は、予備役に編入されるだけの処分ですんだ。
 (…)
 航空隊の幹部や兵学校出の士官、古参パイロットなどは、部隊の維持に必要であるとされたため、特攻に出ることは少なかった。そのため特攻隊員の多くは、 戦争の後半に動員された学徒出身の予備士官や、予科練出の少年航空兵などから選ばれた。機材面でも、特攻用には、喪失しても惜しくない旧式機や練習機がし ばしば使用された。当時の古参パイロットの一人は、「特攻隊に選ばれた人たちは、はっきり言って、パイロットとしてはCクラスです」と述べている。」(小 熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』p.31-33)

1945年
    大日本帝国、無条件降伏
    日本政府、特殊慰安施設協会(RAA=Recreation and Amusement Assoiation)を設立
    黒塗り教科書
    女子教育刷新要綱、1946年度からの大学・専門学校の男女共学を認める
    労働組合法公布
    第一次農地改革
    財閥解体
    闇市
    夕張炭坑の朝鮮人労働者6000人が待遇改善を要求して一斉ストに突入

1946年
    日本国憲法公布
    教育刷新委員会設置
    500円生活

    日本労働組合総同盟(総同盟)、全日本産業別労働組合会議(産別会議)結成
    「第一期は、産別会議を中心に左派主導の労働運動が展開され、そして急速に衰退していく時期である。一九四六年八月一日に日本労働組合総同盟(総 同盟、八五万人)、八月一九日に全日本産業別労働組合会議(産別会議、一六三万人)が結成された。両組織のうち、左派のナショナル・センターの産別会議が 全体の組合運動をリードした。」(木下武男『格差社会にいどむユニオン』p.251-252)

    「産別10月闘争」、電産型賃金が実現
    「一九四六年一〇月には、東芝、新聞放送、炭鉱、金属機械、鉄鋼、電力などの民間の産業・企業が、産別会議の指導のもとで産業別統一闘争を展開し た。「産別一〇月闘争」と呼ばれるこの闘争のなかで、電気産業における日本電気産業労働組合協議会(電産)の要求によって電産型賃金が実現した。この賃金 体系は、年齢に応じて増額される本人給と、扶養家族数に応じて支払われる家族給とを生活保障給とし、これに能力給を加えて基本給とした。電産型賃金は、産 業別最低生賃金を確立する点で、また賃金決定における経営者の恣意的な決定を排した点で積極的な面があったが、賃金は年齢および家族の人数によるものであ るとする戦時国家が規範とした年功賃金を戦後労働運動が実現させた形となり、その後の年功賃金の確立という上で負の出発点となった。この年功賃金があるべ き賃金体系として普及し、定着していったのである。
 さて、この一〇月闘争によって、民間企業の労働者はかなりの賃金引き上げを実現した。その結果、官公庁の労働者の賃金水準は、民間労働者より下回るよう になり、一〇月闘争の高揚は、官公庁労働者に引き継がれることになった。四六年一一月二六日、官公庁労働者の労働組合は、全官公庁労働者共同闘争委員会 (全官公庁共闘)を結成し、一二月二日、「越年資金の支給」や「最低賃金制の確立」など労働者の生活と権利に関わる一〇項目の共同要求を提出した。一二月 一〇日、政府は「赤字補填金として一時金支給を考慮中」など一定の見解を示したが、官公庁共闘は納得せず、運動は年末から翌年にかけてさらに高揚すること になる。」(木下武男『格差社会にいどむユニオン』p.252-253)

    米、雇用法成立
    アメリカで世界初の電子計算機「ENIAC」が完成

1947年

    4.8 勤労署から公共職業安定所に改称
    9.1 労働省設立(厚生省から分離独立?)
    11.30 職業安定法公布(12.1施行)
    12.1 失業手当法・失業保険法公布・施行
    12.8 失業保険特別会計法公布・施行

    全官公労総罷業(2.1ゼネスト)中止
    「産別会議は四七年の年頭に当たってつぎのような檄を発した。「『確信をもってわれわれは革命の年として一九四七年の幕をひきあげる。……用意は いいか、前進だ、民主主義革命の年一九四七年』。民主主義革命の年になるかどうかともかく、敗戦第三年目は異常な昂まりのうちに明けた」のである(大河 内・松尾『日本労働組合物語 戦後T』一八五頁)。  一方、吉田首相は元旦にラジオをつうじて「年頭の辞」をおくり、そこで組合指導者を「不逞の輩」と決めつけた。新聞報道はこれを批判し、労働運動の側は 激しく反発した。要求をめぐる交渉は、共闘・政府・中央労働委員会のやり取りをへながらも妥結せず、全官公庁共闘は、四七年一月一五日、ゼネスト突入の日 を二月一日とするゼネスト突入宣言を発した。一五日には、全官公庁共闘を支援するために、全官公庁共闘、産別会議、総同盟などが参加して全国労働組合共同 闘争委員会(全闘)もつくられた。  そのなかで、産別会議と総同盟、中立組合の共同闘争の経験を基礎に、全国労働組合連絡協議会(全労連)が一〇月に誕生した。全労連は、当時の組織労働者 の八四%、四四六万人を結集し、労働戦線の統一を目的に掲げた。労働組合の組織率も飛躍的に高まり、一九四八年には五六%という数字を示す。文字通り燎原 の火のように、事態は推移していった。」(木下武男『格差社会にいどむユニオン』p.253)

    教育基本法・学校教育法公布、六・三・三・四制の新学制スタート
    大学基準協会
    全国で給食開始
    臨時石炭鉱業管理法

    勤労署から公共職業安定所に改称
    職業安定法
    「職業選択の自由,サービスとしての行政,そして個人活動の自由と労働者の保護.――職業安定法の骨格を形づくるこれらの一連の理念は,自由な求 人・求職活動の保障を前提とする労働市場の働きへの信頼にもとづいて,政府の介入はそこで生じる弊害の除去に限定する,個人の尊重を基調とした行政を目指 したものと解釈することができる.そこには,労務の動員配置を目的として労働市場の徹底した統制を行った戦時の職業行政に対する,確固として訣別の姿勢が 込められていたのである.
 だが,敗戦直後の荒廃と混乱のさなかに制定されたこの職業安定法は,いま1つこれとは原理を異にする考え方を孕んでいた.それは,同法の第1条の規定の なかに象徴的に示されている.これによれば,職業安定所が労働者に適当な職業の斡旋を行うのは,そのことで「工業その他の産業に必要な労働力を充足し,以 て職業の安定を図るとともに,経済の興隆に寄与することを目的とする」からに他ならない.第4条は,これを受けて,政府の行う事業として,第1に,「国民 の労働力の需要供給の適正な調整を図ること及び国民の労働力を最も有効に発揮させるために必要な計画を樹立すること」をあげていた.公共職業安定所が労働 大臣の直属機関とされ,職業安定局が全国一貫した運営を行うことになったのは,そのためである.ここには,経済再建を最優先して,場合によっては市場への 介入や調整も辞さない,いわば「国家」や産業の側に立った考え方を見いだすことができよう.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.79-80)

    技能者養成規定(労働省令)
    電産型賃金
    労働省発足
    日教組発足
    日経連発足

    外国人登録令
    「1947年の外国人登録令の施行は、外国人の扱いをめぐる戦後処理のまずさを決定的にし、少数民族に関わる都市の空間編成にも特徴を与えた。す なわち、 旧植民地出身の人々が自動的にそして一斉に日本国籍でなくなり、その後長い間、在日外国人は、公共セクターと関わることができなくなった。公営住宅への入 居や、住宅金融公庫使用による住宅購入資金の借入れ、あるいは民族学校、民族学級の非公認の問題などで、都市政策に介入した国家とのつながりはまったく断 たれた。被差別部落の解放運動が、後に同和事業による都市建造環境生産として多額の公的資金を獲得したのと対照的に、在日外国人は、一足早く、新保守主義 にも似た「自助努力」の中に放り込まれたのである。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.349)

    エーリッヒ・フロム『人間における自由』
    「現代においては市場的構えが急速に育ちつつある。それは過去数十年来の現象である新しい市場――パースナリティ市場――の発展に伴うものであ る。この市場には事務員や販売係、実業家や医者、法律家や芸術家など、あらゆる人々が登場する。そういった人々の法律的身分や経済的地位が異なることは事 実である。独立して事業を営み、人を使う立場にある者もいれば、雇われて俸給を貰っている者もいる。しかし彼等の物質的成功はすべて、使用人達から、又は 雇主達から個人的な好感をもたれることにかかっている。
 評価の原理は、パースナリティ市場においても同じことである。即ち、売りに出されるものが、一方ではパースナリティであり、一方では商品なのである。 (…)しかしながら、もしわれわれが成功の条件として技能とパースナリティとどちらが重要か、と問うならば、技能や、他のある種の人間的属性等が、即ち正 直、親切及び誠実等が成功の有力な理由になるようなことは、極めて例外的な場合でしかないことがわかる。成功の不可欠の条件として、一方では技能と人間的 属性、他方では「パースナリティ」という二つのものがはたらくその程度はいろいろ異なるけれども「パースナリティ要因」の方が何時でも決定的役割を演ずる のである。成功は次のようなことにかかっていることが多い。即ち、人が自己自身を如何にうまく市場へ売り出すか、どうしたら自分のパースナリティをうまく 受けさせることができるか、自分は如何にみごとに「包装されて」いるか、自分は「快活」であるか、「健全」であるか、「攻撃的」であるか、「頼もしい」 か、「野心的」であるか、更にどのような家族的背景をもち、どのクラブに属し、伝手になる人々を知っているかどうか、などである。どのようなパースナリ ティの類型がもとめられるかは、ある程度迄その人のはたらく特殊な分野によって決定される。株式仲買人、販売係、秘書、鉄道行政官、大学教授、ホテルの管 理人等々は、それぞれ異なったパーソナリティを提供するが、その相違にも拘らず、それらの全ては一つの条件をみたさなければならない。即ち、需要に応ずる ということである。」(p.89-91)

1948年
    新制高等学校発足、学区制・共学制・総合制の3原則
    文部省内に大学設置委員会設置
    教育勅語失効
    教育委員会法制定。公選による教育委員の選出、教育委員会への教育予算編成権の付与
    優生保護法:http://www.arsvi.com/0z/1948h156.htm
    「アルバイト」「ノルマ」流行語

    ニューヨーク郊外、ロードアイランドに最初のレヴィットタウン完成
    「誰でも自分の家と土地を持てば、共産主義者にはならない」(ウィリアム・レヴィット)
    「レヴィットは伝統的な住宅建設方法を再構成して、新しい建設方法を考案した。それはいわば自動車の組み立てラインの逆であった。すなわち、自動 車の生産ラインでは車が人から人へと動く。ところがレヴィットタウンの建設現場では、働くのは人の方である。作業員がチームを組んで、この家からあの家へ と動きまわり、一つの工程だけ完成させて、次の家でまた同じ工程を繰り返すのである。
 床作業員、タイル作業員、壁作業員、白ペンキ作業員、赤ペンキ作業員といったように分担が決められた。この方法だと熟練工が不要になるので人手不足も解 決できた。しかも重要な部分は現場に運ばれる前にあらかじめ組み立てられ、工具は電動式になっていたので、非熟練工でも簡単に作業ができるようになったの である。
 こうした新しい建設方法の開発によって、レヴィットタウンの生産効率は1日36戸にまで上昇した。戦前においては、典型的な住宅業者の建設する住宅個数 は1年に5戸弱だったというから革命的な生産性の向上だった。」(三浦展『「家族」と「幸福」の戦後史 郊外の夢と現実』p.60-61)

    坂口安吾「戦争論」
    「両親とその子供によってつくられている家の形態は、全世界の生活の地盤として極めて強く根を張っており、それに反逆することは、平和な生活をみ だすものとして、罪悪視され、現に姦通罪の如き実罪をも構成していた。
 私は、然し、家の制度の合理性を疑っているのである。
 家の制度があるために、人間は非常にバカになり、時には蒙昧な動物にすらなり、しかもそれを人倫と称し、本能の美とよんでいる。自分の子供のためには犠 牲になるが、他人の子供のためには犠牲にならない。それを人情と称している。かかる本能や、人情が、果して真実のものであろうか。
 (…)
 家の制度というものが、今日の社会の秩序を保たしめているが、又、そのために、今日の社会の秩序には、多くの不合理があり、蒙昧があり、正しい向上をは ばむものがあるのではないか。私はそれを疑るのだ。家は人間をゆがめていると私は思う。誰の子でもない、人間の子供。その正しさ、ひろさ、あたたかさは、 家の子供にはないものである。
 人間は、家の制度を失うことによって、現在までの秩序は失うけれども、それ以上の秩序を、わがものとすると私は信じているのだ。」(p.196)

    「アプレ・ゲール」流行語
    「フランス語で「戦後」。特に第1次世界大戦後のフランスを中心とした新しい芸術運動を指すが、日本では、第2次大戦後のそれまでの価値観にとら われない 無軌道な戦後世代の呼び名になった。」(現代用語の基礎知識編『20世紀に生まれたことば』p.266)

    米国家安全保障会議文書第13号の2「アメリカの対日政策に関する勧告」(1948年10月7日)
    NSC 13/2,"Recommendations with Respect to United States Policy toward Japan"(10/7/1948)

1949年
    職業安定法改正
    「この制度の特徴は、第一に、一般職業紹介と新規学卒職業紹介とを明確にわけ、後者をすべて事実上学校経由による紹介としたことである。このこと は、学生生徒にとっては、公的職業紹介を受けようとすれば、すべて学校における進路指導を経由しなければならぬこととした。
 第二に、とりわけ職業安定法第二五条三および第三三条二をとる学校においては、学校が個別企業からの求人票を直接受け付けることにより、個々の学校と個 々の企業とを直接結びつけることとなった。したがって、企業は求人にあたって、学校を選定することができ、また、特定の学校から毎年一定数を恒常的に採用 することで事実上の指定校制度的なものを形成することを可能にした。逆に、学生生徒にとっては、提供される求人情報は主としてその学校に直接出された求人 に限定されることとなった。なお、高校についてみれば、一九七〇年時点で、全国五八八一校中二五条三をとる学校が三四六〇校(五八・八パーセント)、三三 条二をとる学校が二二四二校(三八・一パーセント)となっており、この二つの方法が少なくとも高校においては完全に支配的であった。
 しかし、この体制が社会的に普及・定着するのは、戦後ただちにではない。まず第一に、この制度はいうまでもなく自営就業者については適用されない。した がって、農業など自営就業者が就職者の多数をしめた五〇年代半ば頃までの時期は、この制度が実際に適用される対象は、就職者全体の一部にすぎなかった。し かも第二に、この時期までは、自営以外の就職希望者に限ってみても、この制度は十全には機能していなかった。それはまず、この制度を通して紹介される求人 数の絶対的不足である。」(乾彰夫『日本の教育と企業社会』p.151-152)

    「この中島の回想は,1949年の改正が何よりも実態に合わせるという性格のものであったことを明確に示している.したがって,この改正でまず考 えられたのは,学校が無料職業紹介事業を行うことができるとする33条の2の規定をおくことであり,それは事実上戦前からの企業と学校の実績関係にもとづ く就職の斡旋の慣行を追認することを意味していた.中島によれば,大学はすべてこの33条の2とすることですんなり決まったが,高校については「解釈の幅 があった」.というのも,戦前の中等学校はきわめて多様で,卒業生の進路も就職,自営,進学のいずれが主かはそれぞれの学校によって大きく異なり,当然実 績企業の数にも大きな差があったからである.そこで,「自力で出来るところはやる,それから自力でできないところは……安定機関のなかで(新制中学校と) いっしょに処理」するが,「それは学校の選択にもよ」ったという.要するに,33条の2によるか,あるいは25条の2によるかは,結局実績企業の多寡と学 校の方針によって決定されたのである.」(苅谷ほか『学校・職安と労働市場』p.224)

    国立学校設置法公布、新制国立大69校が各都道府県に設置され、駅弁大学と言われた
    工業基準法公布
    ドッジ、経済安定9原則実施について声明
    優生保護法が改正され、経済的理由の妊娠中絶が許可に

    下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)

    GHQが、美観上の問題から東京の露店を全部路上から消すように命令
    「戦災復興事業という都市計画の断行は、エスニシティや貧困の度合いに考慮を払わなかった。駅前の闇市の処理は1946年以降何度も行われたが、 取締りの 対象は、「第三国人」とマスコミなどに書きたてられた。このようなスクォッター・バラックは、復興事業の都市計画街路用などの空間として暫定使用が黙認さ れ、戦後の駅前景観を代表する、マーケット兼居住空間が生まれた。そしてこの駅前バラックは、消し去るべき景観として、後年の都市改造、都市再開発の最大 のターゲットとなった。
 大量の浮浪者、浮浪児は、例えば大阪では、施設収容主義の徹底につながった。1940年代末から50年代初めには、いくつかの施設にこれらの人々が「保 護」という形で収容され、都市の貧困の最も深刻な様相が可視的な形態として隠蔽された。これと並行して、大量の都市の低所得者層に対する失業対策事業も、 貧困を潜在化させることになるが、こちらの制度は、1980年代に打ち切られた。
 この保護収容主義の功罪がはっきり問われるのは、1990年代後半のホームレスの街頭や公園への大量の溢れ出しによるホームレス問題の先鋭化まで待たね ばならない。」(水岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.349-350)

    中華人民共和国成立(10月1日)

1950年
    高校進学率の全国平均42.5%(男子48.0%、女子36.7%、就職進学を含む)
    波多野勤子『少年期』ベストセラー、子育てにおいて心理学者の本や心理学的測定や診断にのめり込む「心理学ママ」が都市部の新中間層に現れる

    日本共産党、「来るべき革命における日本共産党の基本的任務について(50年テーゼ)」(5月1日)

    レッドパージ。6月6日、アメリカ占領軍は徳田球一ほか共産党中央委員24人全員、機関紙「アカハタ」幹部を公職追放、「アカハタ」を停刊処分に した。その後、共産党員とシンパが公職や企業から次々に追放され、1万人を超える人々が失職した。

    朝鮮戦争勃発(6月25日―1953年7月27日停戦)

    警察予備隊発足(7月8日、マッカーサー元帥から吉田首相に指令。8月10日、ポツダム政令として警察予備隊令を公布、施行し、隊員の募集を開 始)

    日本労働組合総評議会(総評)結成
    「レッドパージのさなか、五〇年七月一一、一二日の両日、日本労働組合総評議会(総評)の結成大会が開かれた。正式参加は一七組合、三七七万五〇 〇〇人、オブザーバーは一七組合、六三万五〇〇〇人だった。総評は民同派が主導権をにぎった大企業労組の産業別連合体を中心に、総同盟の一定部分を結集し てつくられた。」(木下武男『格差社会にいどむユニオン』p.256)

    短期大学制度発足
   
      京都で蜷川虎三府知事誕生、革新自治体の走り
    「革新自治体が全国に広がることを通じて、日本の経済・社会体制を社会主義に変革していく展望を、革新自治体を推し進めた当時の人々は心に描い た。
 だが、革新自治体が実際に行った行政の内容は、右肩上がりの地方税収を経済基盤にした、福祉行政の画期的な飛躍にほかならなかった。もともと、日本の地 方政府には、中央からの権益配分にあずかる支配階級同盟がしばしばみられた。この同盟のバランスが、草の根レベルの住民運動の勃興に突き動かされ、多くは 学者出身でありポピュリストとしての人気を博した革新知事、革新市長の誕生により、住民の側に振れたのである。
 それゆえ、この革新自治体の行政のありさまは、フォーディズム的な都市行政そのものだった。「いのちとくらしを守る」という革新新首長の選挙スローガン 通り、人々の生活水準はそれなりに向上したし、厳しい公害規制などにより、都市問題はそれなりに緩和した。だが、これにより貧困や生活困難は都市の前景か ら徐々に退き、経済の高度成長により一億層中産階層化が進行するにつれ、自治体住民の意識は、革新自治体をめざした活動家たちの熱望と裏腹に、次第に保守 化していった。総中産階級化を実現した「繁栄の日本」は、「企業戦士のねぐら」である郊外ベッドタウンと、これを都心に連絡する高速鉄道という、きわめて 均質な現代日本の郊外都市景観を強化した。フォーディズムがいう資本主義のもとへの社会統合が、皮肉にも、革新自治体によって達成されたのである。」(水 岡不二雄編『経済・社会の地理学』p.255-356)

    公職追放解除(10月23日発表。11月8日にA級戦犯の重光葵の仮出所が発表され、続いて10日に公職追放中の旧軍人3250人が追放解除)

    地方公務員と公立学校教員の政治活動が禁止
    
    国土総合開発法


UP:20040907 REV:20050523 20071112
◇労働 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/w001.htm
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